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ある日の台北日記2018その3(8)昔の台北を思い出す

11月10日(土)
台北ふらふら

台中から戻った翌日、ちょっと疲れはあったが、タイから観光に来た知り合いと会った。場所はトミーの台北拠点。土曜日なのに、トミー姉に開けてもらい、1時間ほどお茶を飲ませてもらった。こういう場所があるととてもありがたいし、台湾茶の基礎を知る上でも大いに役に立つ。

 

そのまま近くのレストランへ飛び込みランチ。昼間に来るのは初めてだったが、既に店内は満員の盛況。だが向かいの姉妹店に何とか席を作ってもらい、ご飯にありつく。土曜日の昼間、家族連れが賑やかにご飯を食べている。観光客はほぼ見られない。名物の蒸し鶏や美味しいチャーハンなど注文し、堪能。幸せな気分に一人浸る。

 

そこからタクシーに乗り、大稲埕へ向かう。今や私の庭?と化した大稲埕。新芳春の博物館をさっと見学してから、有記銘茶へ進む。バンコックでも王有記の店(親戚)を訪ねていていたので、是非行って見ようということで出掛ける。奥の焙煎室も見学し、お茶も買ってご満悦。次に行く厦門にこのお茶を持っていってみようと思う。

 

それから今話題の場所へ行きたいというのでレトロなスターバックスを探して入る。店舗自体は前を通ったことがあったが、かなりごっつい建築。そして実際に喫茶する場所は2階と3階で、その階段はレトロだ。ほぼ満席で席を確保するのに苦労した。こんなところがあるとは全く知らなかった。やはりたまには観光客目線で旅をしないと、知らないことだらけとなってしまう。

 

スタバでゆっくり休んでから、また歩き出す。大稲埕の昔の茶商街である貴徳街に行こうと思っていたが、ちょうど淡水河の夕日が見られそうだったので、河辺に行く。大勢の人がカメラを構えてその瞬間を撮ろうと集まっていた。思ったよりずっときれいな夕暮れの風景がそこに現れ、驚いた。ここも茶葉を出荷する港としてしか見て来なかったが、こんな風景があるなら、これからたまには夕方に来よう。

 

既に暗くなる中、貴徳街を軽く散策。何となく夕飯の時間になったので、近くの四川料理屋でご飯を食べる。いわゆる中華料理に慣れていない2人と一緒なので、かなり基本的なものを頼む。日本にある中華料理はやはり日本の料理であり、同じ名前でも入っている物から味わいまで、かなり異なっていると言える。美味しいものを頼めるようになるといいな、と思う。

 

11月12日(月)
昔を思い出す

今日は先日も会った黄さんからお誘いがあり、現在調べている王添灯氏の娘さんの家にお邪魔した。二二八事件で父親が連行された時、まだ小学生だったという。そしてその後の苦難の人生の一部をお話頂き、大変参考になった。二二八の犠牲者は当人だけではなく、その家族の人生にも重大な影響をもたらしており、今でこそ話も聞けるが数十年の間、皆が封印して生きてきたことを改めて知る。

 

またご主人の張さんは優秀な成績で大学に入りながら、白色テロの犠牲となり、7年間も投獄されていたという。当時の友人と一緒に写っている写真を見せられたが、張さん以外は全員死刑か行方不明だという惨劇。当時の国民党が一体どんなことをしていたのか、大変興味深いお話しを聞くことができた。

 

張さんの日本語は完璧で、英語も流暢。日本企業で長く勤めていたという。最初は出国もままならなかったが、最終的にアメリカに渡り、子供も孫も皆アメリカで暮らしている。2000年代に入り台湾に戻ってきたが、90歳近い今でも、会社を経営しており、その気力、精神力は凄いとしか言いようがない。

 

1990年以前の台湾の緊張感、今や昔のこととなり、その雰囲気は分からなくなってしまっているが、それを思い出せてくれるよい機会となった。確かに80年代でも戒厳令が敷かれていたが、それでも夜中の12時過ぎても皆が外出し、呑み屋は繁盛していた記憶がある。日本語禁止と言いながら、街中に日本語が溢れ、おる年代以上の多く人が日本語を話し、かなり形骸化されていたと思う。

 

だが日本語で昔話をする時に、どうしても周囲を見回してしまう老人、個室に入って2人きりでしか日本統治時代の話をしない企業人など、最初はよく理解できない光景を何度も目にしていた。中には『こんな話をしていると特高が来るんだ』と真顔でいう人もいた。今では笑い話のようだが、当時は光復後に台湾人を襲った横暴、悲劇を皆が抱えており、あまり油断はできない、という雰囲気があったものだった。特に一族が何らかの災難に遭い、目を付けられていると認識していた人はそうだっただろうと今にして思う。

ある日の台北日記2018その3(7)杉林渓へ

台中を出て、竹山方面へ向かった。これは慣れた道、1時間もかからずに竹山に着く。今日は杉林渓に行くのではなかったのか、と思ったが、車は竹山の茶荘に入っていく。何とここに、杉林渓で3番目ぐらいに茶業を始めた人が待っていてくれた。彼から一通り杉林渓の歴史を聞く。

 

やはり杉林渓の高山茶は少し後に始められていた。鹿谷の凍頂烏龍茶が全盛期にわざわざ高山茶を売りだす必要はなかったようだ。だが時は流れて高山茶がブームになると、杉林渓に茶を植えて、製茶は鹿谷で行う人が増えてくる。最初はほんの小さな茶畑が杉林渓と呼ばれたが、今ではかなり広範囲になっているという。

 

奥さんが淹れてくれたお茶を飲みながら話を聞く。実はこの奥さん、茶の世界では有名な方だという。この茶荘も独特で、何だか骨董品屋かと思うほど、色々な茶道具などが置かれている。しかもよく見ると、日本の物が非常に多い。茶道の道具などの収集家のようだ。日本にも何度も行っているという。ふと置かれていたいた建水、その昔爺さんが煙草盆の代わりに使っていた物にとても良く似ていて驚いた。

 

一通り話しを聞き終え、店を出た。杉林渓については、他の高山茶産地に追加するような歴史はあまり見られないことが分かる。だが何しろ一度もきちんと茶畑を見ていなかったので、1時間かけて山を登ることにした。ただその前に腹ごしらえ。昼ご飯は、トミーの知り合いがやっているレストランで食べることになる。

 

そのレストラン、ちょっとおしゃれ。そして食事の内容が、魚の煮込みや唐揚げなど、かなり和のテイストが入っており驚くほど、ウマい。オーナーは奥さんで、常に料理を研究しており、体に優しく、美味しい物を作り続けているという。台湾ではこんな地方にもこのような店がどんどん増えていると感じる。

 

この日もランチタイムのお店は満員の盛況、今や台北などへ行かなくても、いいものが食べられる時代なのだろう。因みにこの店の横には、茶の包装材などで有名な会社の本社+倉庫が建設中であり、今後はお茶好きの日本人などが立ち寄ることもあるかもしれない。そんな時はここでご飯を食べるのもいいかな、と思う。

 

それから車は山登りを始めた。懐かしい鹿谷を一気に駆け上がり、更に進んでいく。渓頭のホテルには一度来たことがあったが、そこから先は未知の世界。子供たちが干支にちなんだ絵を描いて、それが看板になっているのは面白い。何度カーブを曲がったことだろう。1時間ほどで杉林渓に着いた。

 

かなりの傾斜のある場所に茶樹が植えられている。茶工場もいくつか目に入ってくる。ちょうど天気が曇りとなり、高山の雰囲気が出てきていた。茶摘みをしている人々も、その作業を止め、次々に摘み取った茶葉を渡して、トラックの荷台に収容されていく。茶摘みのために下から上がってきた女性達だ。平均年齢は高そうだった。

 

それにしてもかなりの急斜面。先ほど聞いた話では、茶業が始まった頃、傾斜度30度以上の場所には茶樹を植えてはいけない、というルールがあったと聞いた気がするが、標高約1700m、ここの傾斜はどのくらいなのだろうか。ボーっとそんなことを考えていると、雨が降り出し、すぐに退散となった。

 

車は鹿谷に向けて降りて行く。山から直接竹山に降りる道もあったが、もう一軒寄り道するらしい。街道から離れ、ちょっと分り難い道を行くと、いきなり茶工場が見えてきた。その付近には少しだけ茶畑も残っている。工場には摘まれた茶葉が持ち込まれ、先進的な機械で、室内萎凋が始まっていた。

 

連山というこちらの茶農家では、1960年代から茶作りをしており、ずっと凍頂烏龍茶を作って来たというので、凍頂烏龍茶の歴史をじっくりと聞いていた。天仁などとのかかわりも出てきて面白い。伝統的な凍頂烏龍茶の味を守ってきており、2000年代に入るまで、高山茶には手を出さなかったが、最近は杉林渓高山茶も作るようになっている。

 

実は朝台中で訪ねた茶屋は、ここの娘さんが開業したもので、消費者のニーズなども考慮しているようだ。近年茶農家は減る傾向にあるが、茶畑は増えていくようで、ちょっと危機感がある様子だった。陽が沈む中、茶の香りがしている中、ここを後にして、一路台中に向かう。

 

高鐵台中駅まで送ってもらい、夕飯を一緒に食べようというトミーの誘いを断り、高鐵に乗ろうとしたが、金曜日の退勤後ということか、1時間先まで指定席が取れず、立って帰るのも何なので、丸亀製麺で一人夕飯を食べてから列車に乗る。何となく疲れたなと思ったら台北に着いた。

ある日の台北日記2018その3(6)台中で茶の歴史談議

11月8日(木)
台中で

翌朝は何となく眠いまま、起き上がる。朝食は付いていたのでホテルで食べたが、食欲はそれほどなかった。今日は台中へ移動する。何しろ駅は目の前だから、移動は簡単だった。ここから区間車に乗り込み、台中駅を過ぎ、大慶駅で下車する。約束しているトミーからここを指定されたからだ。台中駅前も車を停めるのは難しいのでこうなったらしい。

 

トミーの車で向かった先は、製茶公会が紹介してくれた張瑞成氏の自宅だった。張氏は光復後長らく農林庁に奉職し、現代台湾茶業に果たした役割は実に大きい。9月のお訪ねしたレジェンド、林復氏の農林庁での部下に当たり、東部開発からコンテスト開催まで、その実行部隊であったという。第1回鹿谷コンテスト(1976年)では、あのレジェンド、呉振鐸氏と並んで審査員をした方でもある。

 

現在86歳だという張氏だが、驚くほどに元気で、何と2時間半もの間、自らお茶を淹れてくれ、こちらの質問に対して話し続けた。しかも記憶がはっきりしており、的確に答えてくれる。これは本当に驚いたし、何とも有り難いことだった。因みにお茶も老茶が多く、歴史的なものだった。

 

張氏の話、勿論お役人から見た歴史ではあるが、実に示唆に富んでいた。やはりお茶の歴史は茶農家や茶商に話しを聞くと同時に、政府側の話、政策や時代背景なども聞き、それを踏まえて、文献などに当たるのがよいと分かる。張氏は話だけではなく、自ら執筆した本も提供してくれたので、これを読めばわかる部分が多いようだ。因みに張氏は現在のコンテスト運営に対しては、かなり異論があるようだった。それはある意味で我々も感じていることで、共感できる部分がある。

 

そういえば、張氏は日本との関係もかなりあったようで、1998年に農林庁を退職した際には、日本輸出茶協会から紀念のプレートが送られており、今も大事に飾られていて、その親しい様子が見えた。台湾煎茶の日本への輸出なども、張氏が関わっていたことは間違いがない。光復後、台湾茶業が荒波に晒される中、『台湾茶の輸出』そして『輸出から内需への転換』と何かと茶業の発展に尽くした張氏の姿が目に浮かぶ。

 

長い時間話しを聞いたのち、失礼した。もう午後1時に近い。取り敢えずトミーの家に向い、そこで弁当をご馳走になる。午後は2階の部屋で半日、台湾紅茶の歴史について話しをした。トミーも台湾紅茶の講座を開いており、知識の補給が必要であろう。私も久しぶりで忘れてしまったこともあったが、これまで台湾でも日本でもあまり取り上げられてこなかった人々の歴史を、トミーを通じて台湾人に知ってもらえるのは嬉しい。日本統治時代の台湾茶業は新井耕吉郎さんだけが行っていた訳ではないのだ。最後の所長に注目するのではあれば、最初の所長にも注目してもらいたい。

 

夜はトミー家の前に軽井沢、という名前の日本料理屋が出来たので行ってみようとしたが、何と満席だと断られてしまい、驚く。日本料理屋はこれほどに繁盛しているのだろうか。どうやら店の外観、そして内装などが斬新で人気を集めているらしい。いつか一度行って見てみよう。夕飯はいつものように、小籠包の店に行き、好きな物を思いっきり食べて満足する。

 

それから台中駅近くに予約してもらっていた宿に送ってもらう。恐らくは古いホテルを改造してきれいにした感じの宿。窓もない、こじんまりした部屋だったが、寝るだけならこれで十分。昨晩の部屋が大き過ぎたのだ。ただ何となく送風が止まらず、涼しいので、シャワーを浴びるのを止め、昨日からの疲れもあり、早々に布団を被って寝てしまった。

 

11月9日(金)
杉林渓へ

翌朝、宿の周囲を散策すると、古風な居酒屋、大衆酒場があった。今や単なる日本の居酒屋ではダメなのだろうか。今日はトミーに加え、ビンセントとチャスターもやってきて、賑やかに山を登る予定となっていた。車が出発してすぐに、電話が入り、台中で寄り道することになる。

 

住宅街の中、と言う感じの場所に、その茶館?はあった。若い女性が3年前に開いたという。初めは場所柄もあり、お客が来なかったようだが、友人たちが集ううちに、徐々に知られるようになり、今は経営も軌道に乗っているらしい。オーナーは鹿谷出身であり、実家から来るお茶などの販売も行っている。非常に気楽にお茶が飲める場所であり、またかなりこだわりも感じられるお店。これからはこんな場所が流行っていくのかもしれない。

ある日の台北日記2018その3(5)豊原の旨い物

11月7日(水)
豊原へ

私は埔里滞在中から、一人でご飯を食べる場合は、一日二食を基本としている。そして午前10時過ぎに食べるブランチ、その多くはクラブサンドイッチにしている。特に意味はないが、好きなのだ。だが、台北に来てから近所にお気に入りの店が見付からない。作りが雑だったり、店員の愛想が悪かったり、とどうも通う気が起こらないのだ。

 

そこで活動範囲を広げてみた。かなり東の方まで歩いていくと、賑やかな繁華街があり、そこには市場もあった。朝から人も大勢歩いており、宿泊先の静かさとは対照的だ。何軒かの朝ご飯屋が存在しており、その中で目を惹くところがあった。炭火鉄板三明治、かなりそそられる。

 

小さなその店、飾りは可愛らしく女性的だが、思い切って入ってみる。店員の女性はかなり愛想がよく、好感が持てる。取り敢えず『当店のお勧め』である招牌サンドを注文してみる。この値段は普通に私が頼む物より、20元は高い。飲み物の紅茶を加えると100元にもなる。だが、やってきたそれは、それだけの価値が十分にあった。パンもちゃんと焼かれており、中にはカツまで挟み込まれている。上質なカツサンドともいえる一品だった。これには驚き、満足して去る。やはり台北は侮れない。ちゃんと探せば、そしてほんの少しコストをかければ、美味しいものはいくらでもありそうだ。

 

午後は台北駅に向かった。今日はこれから豊原に行く。台中なら迷わず高鐵に乗るが、豊原なら自強号かと思い、昨日切符を事前予約しておいた。万が一、満席だと2時間立って行くのは嫌だった。中国ほどではないが、台湾でも駅の窓口でチケットを取らないといけないのは、時間が読めずに困る。案の定、お婆さんが何度も同じことを聞いており、係員も困りながらも親切に対応している。その間、我々はずっと待っていなければならないのだが、まあ仕方がない。想定内だ。

 

何とかチケットをゲットして、自強号に乗り込む。毎回思うことだが、35年前、初めて台北に来て、台中まで自強号に乗ったあの日のことが蘇る。あまりに緊張して車両を間違えて座っていたこと、何時に着くのか一向に分らず、何度も隣の人に聞いた記憶もある。あれば私の初の海外、初の海外電車だった。車両は多少新しくなったかもしれないが、自強号は基本的にあの頃と変らない。豊原に着く時間もほぼ変わらない。

 

ところが豊原駅の方は大きく変わっていた。前から工事はしていたのだが、10か月ぶりに来てみると、新駅舎が完成しており、非常にきれいになっている。駅前も広々としており、これまでの裏口から出てきていたのが、すぐに正面に行ける。ただ駅前には沢山のU-bikeなどがあり、多くの学生がこちらに向かって自転車を漕いできて、その勢いに押される。

 

いつもとは別の路を歩き、いつもの泉芳茶荘に行く。ジョニーはまだ帰っておらず、お母さんにお茶を淹れてもらい、頂く。そして相変わらず、高山茶の歴史確認を行い、途中には当事者でもあるお父さんも登場して、作業が進む。とにかく、この一家と高山茶の繋がりはかなり深い。

 

ジョニーが帰ってきても、話はまだまだ続き、気が付くと8時近くになっている。その間に美味しい肉圓をご馳走になったが、廟東の夜市に行くタイミングを逸していた。さあ、どう切り上げようかと考えていると、突如お母さんが『これ食べて』と言って、カレー味の鴨肉入りパスタを出してくれた。

 

申し訳ないと思いながら食べてみると、これが実にうまい。うまいと言うと、今度はジョニーが『鴨肉がうまいぞ』と言って、煮込んだ鴨肉をご飯にかけて持ってきてくれた。これがまた飛び切り旨い。聞けば市場で鴨を買い、長い時間煮込んだ物だという。この家は普段からいいお茶を飲み、いいものを食べているに違いない。今晩は夜市に行く必要がなくなった。

 

夜も9時近くなり、宿を決めていないというとジョニーが慌ててホテルに電話してくれた。だがいつも泊まる宿は何と満室だと断られたという。何故だ?台中で今月から世界花博が開催されているとは知っていたが、実はその会場は台中ではなく、ここ豊原などにあったのだ。結局ジョニーが探してくれて、駅前のホテルに空きがあるというので行ってみる。

 

チェックインすると相当広い部屋で、浴室から外が見える、大きなベランダがあるなど、かなり豪華で私には不釣り合いだった。普通の部屋はやはり一杯だったようだ。偶にはこんな部屋に泊まるのも良いか、とは思ったが、広すぎてよく眠れない。いや、先ほど散々お茶を飲んだからだろうか。それともお茶の歴史の興奮が冷めていなかったからか。

ある日の台北日記2018その3(4)ご縁を繋いで

11月6日(火)
ご縁を繋ぐ

昨年から大茶商、王添灯氏について調べており、そのお孫さんである黄さんには何度も大変お世話になっていた。黄さんには王添灯以外にもう一人、父方の祖父がいる。黄鐵という名前のこの方、日本の会社の丁稚から身を興し、日本統治時代に日本の大手メーカーの台湾における販売代理店社長になった人だった。黄さんの家には祖父の遺品が沢山あり、是非その日本企業に見せたいという希望を持っていた。

 

その依頼があった時、私はとても驚いた。というのが、私が会社に就職した最初の職場の最初の上司が、何と黄さんの言った会社の関係者だったのだ。取り敢えずその先輩に連絡し、先輩がその会社に口をきいてくれ、ついにその会社の現在の社員が出張のついでに、黄さん宅を訪問する段取りとなったのだ。

 

当日その社員、Kさんと滞在先のホテルで待ち合わせ、タクシーで黄さん宅に向かった。だが途中で黄さんから電話があり、行き先が少し変更となる。黄さんたちが待っていたのは自宅近くのおしゃれなカフェ。そこに段ボールがいくつか持ち込まれており、広いスペースでゆっくりと拝見することとなった。

 

黄さんの弟さん、ご主人、娘さん(赤ちゃんも)まで同席され、沢山の資料が示され、色々と説明があった。こんなに資料が整っているのは、3年前に台北でこの遺品の展示会を行ったからだ。この展示会を見に来た当時を知る人からまた情報が寄せられたともいう。中には台湾の大企業の経営者もいたというから、興味深い。

 

この展示会のために、娘さんが主に資料をまとめ、ビデオまで作られていて、本当に驚いた。同時に当時の大稲埕付近にあった、自宅や関係する会社など、黄鐵氏ゆかりの場所の地図も作られていた。今度この地図をもって大稲埕を散策してみるのも悪くないと思う。

 

終戦に伴い、日本人が引き上げた後、この商品は日本から入って来なくなってしまう。黄氏は以前よりその製法などを研究しており、台湾で自ら作ることにしたらしい。その会社は途中で一緒に経営していた台湾人が引き継ぎ、今では誰もが知る会社となっているという。同時に黄氏が生きている間は、日本企業との連絡もあったと言い、黄さんは子供の頃に会った日本人のことを語り出す。

 

今回ご縁を繋ぐことが出来たことで、黄さんたちが非常に喜んでくれたことは、素直に嬉しい。このカフェで皆さんとブランチを食べながら、話は色々な方向へ向かい、盛り上がる。先輩に良い報告が出来ることも、何とも有り難い。茶の歴史を学ぶ中、こういう機会が有ると、もう一つのやりがいを見出すような思いだ。

 

Kさんとタクシーに乗り、皆さんと分かれる。すぐに懐かしい道を見つけて降りる。そこは31年前、私が暮らした場所だった。長らく行っていなかったので、当時住んでいたところを訪ねてみることにした。ここは松山空港のすぐ南側であり、飛行機の音が聞こえると特に懐かしい。当時は国内線と軍用の飛行場であった。

 

敦化北路と民生東路の大きな交差点には、今もマクドナルドがあり、それほど大きく変わっているようには見えない。その先を入っていくと、昔は完全な、静かな住宅街だったが、今はおしゃれなカフェやレストランが多くある賑やかなエリアに変身していた。大体の場所に既視感はあったものの、自分がかつて暮らしたアパートを認識することは出来なかった。このアパートでは、何と空き巣に入られ、大変な思いをしたので、印象は強かったはずなのに、最近の急激な忘却は、もう止めることは出来ない。

 

帰りは天気が良かったので、U-bikeに乗っていく。途中懐かしい場所を幾つも通り、U-bikeは勿論、MRTもない時代の外出を懐かしむ。30年経ってもまだ建っているビルは多くあり、1つずつの思い出が頭を過る。私は間違いなく、30年前この街で暮らしていた、生きていたと実感は出来るが、記憶の曖昧さは美しい思い出だけを小出しにしているようにも見える。今私が茶の歴史で話を聞く老人たちも、もしやすると、こんな感じで昔話をしてくれているのかもしれない。

 

夜、腹が減り、近くの屋台街へ向かう。何だか炒飯が食べたくなり、探してみるが見付からない。ようやくあったその店の炒飯は正直それほど美味しくはなかった。何が違うのかは分からなかったが、何かが違うのだ。それは今の台北が、30年前の台北と何かが違うのだ、と感じるのと同類のようにも思えた。

ある日の台北日記2018その3(3)猫空&石門 鉄観音茶の歴史を追う

11月3日(土)
猫空へ

台湾の鉄観音茶の歴史を調べるために、これまで何度か木柵、猫空へは行っている。だが、本当の台湾鉄観音茶の歴史というのはどうもしっくりとは来ていない。前回知り合いの黄さんに相談すると、『それなら何度でも違うところに行って聞いて見るべきではないか』と言われたので、お願いして、黄さんの知り合いの茶農家に連れて行ってもらった。

 

MRT動物園駅で待ち合わせて、黄さんの車で上に上がる。私は高所恐怖症であり、ロープウエーなどに乗るのは好まない。車が着いた場所は、先日訪ねた張乃妙紀念館のすぐ近くであった。やはりこの辺が木柵鉄観音茶の発祥地だからだろうか。中では林さんが待っていてくれた。

 

この地に来て5代目だという林さんだが、元々は野菜などを作っており、茶は副業だったという。しかも1970年代に林さんの父が鉄観音茶を作り始めるまで、その茶は包種茶だったようだ。80年代には猫空の観光地化が始まる。それと共に鉄観音の名声も上がっていき、90年代に最盛期を迎えた。

 

だが2000年以降は観光の方に力が入り、茶の生産は減少傾向だという。木柵から茶畑が減っているおり、同時に摘み手の老齢化が拍車をかけている。茶葉は坪林など他の茶産地から調達しているケースも多い。品評会の評価方式も変わり、伝統的な鉄観音より軽発酵、軽焙煎の物が賞を取るようになり、本来の鉄観音茶は失われつつある。

 

黄さんはこの茶農家に毎年、仲間を募り、自分たちの好みのテイストの鉄観音茶を特別注文して作ってもらっている。本当に飲みたい鉄観音茶はこのようにしなければ、手に入らないというのが現状だ。作り手も、『原料の茶葉も少ない中、確実に売れなければ手間をかけて作ることはない』というのが本音だろう。

 

この日、猫空周辺はどんより雲で覆われていた。土曜日なのに何となく寂しい雰囲気が漂う。話の内容が明るいものではなかったからだろうか。とにかく分かって来たことは、『台湾において鉄観音茶がメジャーな商品になったことは歴史上一度もないし、恐らく今後もないだろう』ということだ。ある意味で、歴史があると思い込んでモヤモヤするより、歴史は殆どない、と考える方が非常にスッキリする。本当の歴史とはそんなものではないだろうか。

 

11月4日(日)
再び石門へ

木柵の翌日、葉さん夫妻に連れて行ってもらい、もう一度石門を訪ねた。葉さん夫妻は早朝、マラソン大会で10㎞走って帰ったばかりだというから、申し訳ない限りだ。台湾も今はマラソンブーム、毎週のようにどこかで大会が開かれている。健康ブームともいえるか。

 

途中、淡水の近くで、一人の若者をピックアップ。MRT駅からかなりの坂を上ったところに住宅街があり、ちょっと驚く。台湾のバブル期、この辺もかなり開発されていったようだ。そう考えると以前訪ねた新店などはもっと前に茶畑は消え、住宅街になっていたのだな、これが台北という街の歴史なのだ、と思い至る。

 

石門の茶農家を訪ねる前に、三芝の街中にある、老地方という名前の食堂に向かう。昼過ぎだが、店の外まで人が溢れ、混みあっていた。入口で豪快に小籠包が蒸され、肉圓が作られ、大根などが煮込まれている。確かに美味そうだ。結局席を確保するまでに30分以上かかってしまう。小さな街にこれほどの人気店があるとはビックリした。客の多くが家族連れ、地元の人々だろう。安くて、ウマい、は共通語だ。

 

石門の茶廠に向かう。草里製茶廠に着き、3月に訪ねた85歳の謝さんに会う。この地の石門鉄観音製造は1980年頃始まった。その時の販売責任者はこの謝さんだった。彼によれば、茶業改良場の指導の下、硬枝紅心という、この地に植えられていた品種で鉄観音を作ったという。そして台湾各地に赴き、販売活動を展開したと言い、顧客ニーズに応えていち早くティーバッグ製造機械を導入したりしている。これらの努力により石門鉄観音の名前は知られるようになった。

 

だがそのセールス活動の資金はどこからねん出されたのか、という疑問があった。実は途中で原子力発電所の脇を通った。確かに台湾にも原発はあり、その一つがこの辺にあることは知ってはいた。そして彼の話を聞いているうちに、原発と石門茶の関連に思い至った。1980年代に、石門鉄観音茶を売りだしたのは、勿論それまでの包種茶や紅茶の需要がなくなったからだろうが、同時に鉄観音売り出しの資金は恐らくは街は入った補償金から出ていたのではないか、それだと合点がいく。

 

この付近は1920年代、台湾茶業の中心の一つであり、この地域一面、茶畑だったらしい。特に輸出用の包種茶、そしてその後の紅茶が有名であった。謝さんは話の半分以上を台湾語で話すので、葉さんの通訳が必要になり、肝心な話をうまく引き出して聞くことは難しかった。

 

ただ祖父の謝泉はこの地の有名人であり、もう一人許里と並んで台湾茶業界にその名を残している。その謝泉は、政府の巡回教師に任命され、台湾北部各地を回り、製茶技術を教えている。政府は1920年代に推奨していたのは包種茶だった。そしてこの家には謝泉が巡回教師として回った地名、そして生徒名が資料として残されているが、その中に台湾包種茶を発明したと言われている南港の魏静時の名前があることに首を傾げてしまう。この点についても謝さんはヒントになるような話を全く聞いていないようで、謎は深まっていく。

 

帰りがけに少し茶畑を見に行ったが、本当に小さかった。その周囲を車で巡ってもらっても、往時の面影を発見することは全くできなかった。車が迷路に入ってしまったように、石門の茶の歴史も話が横道に逸れていく。

ある日の台北日記2018その3(2)入り難い居酒屋の今

11月1日(木)
入り難い酒屋へ

台北での生活は埔里とは違い、刺激に満ちている。その分、資料を読む勉強やそれを文章にまとめる執筆に集中できないという難点もある。それでも出来れば、会いたい人とは会い、食べたい物は食べる、というのが良いように思う。変化がある方が更にモティベーションが上がるというのは本当だろう。

 

昼はいつものBさんとランチの約束をしていた。指定された場所に向かうと小雨が降っており、U-bikeは使えないので、地下鉄に乗り、そして歩く。そのレストランはスマホ地図で見ていたにもかかわらず、なかなか見付からなかった。何とかたどり着くと、実は数年前に来たことがある場所だった。既に午後1時だが、席は埋まっていた。店主が『取り敢えずここに座って待って』という。

 

そこにBさんがやってくると、店主が笑顔になる。実は彼女は店主ではなく、ご主人の代わりに仕事の合間に店を手伝っていただけだった。そして出版社に勤めているらしい。このお店、ベジタリアンフードがウリだ。台湾にはベジタリアンが意外と多いので、このような店は重宝される。Bさん夫妻も常連だという。

 

何となく肌寒い台北、キノコの鍋を頼んでみる。味がしみ込んでいる。とても優しい味付けのご飯で、体も暖まった。Bさんとは取り留めのない話をいつもする。それが意外と思考には役に立つ。全く違う世界で生きている人と話すのはためになる。これから北投温泉でのイベントに行くというBさんについて行きたかった。

 

小雨が止まず、どこへも行けないので、一度宿泊先に戻り、休息する。台北は暖かいと思って、長そでのシャツすらあまり持ってこなかった。ズボンも薄いのしかなく、正直寒い。これから1か月、もしこんな天気が続いたら、相当に困ってしまうだろう。まさか天候不順、気候変動の波に襲われるとは思いもよらない。服を買いに行くべきかでかなり迷う。

 

夜はいつものTさんと会うことになっていた。台北のレストランに詳しいTさんに『どこか懐かしい感じのする場所』とリクエストすると、早速3つの場所が送られてきた。さすがだ。その中で、ちょっと変わった店があった。『入り難い居酒屋』と紹介されていたので、行ったことはなかったが、そこに行くことでお願いした。

 

バスで近くまで行き、その居酒屋を探した。指定された付近はなんとなく懐かしい。確か30年ほど前、この辺によく来た記憶がある。そうか、この交差点の近くに、あの鼎泰豊の老店があったはずだ。今や飛ぶ鳥を落とす勢い、すごくきれいでサービスも整っている鼎泰豊だが、あの頃は古びた、学生が行くような店だった。オープンキッチンとな名ばかりの、作っているところが丸見えの1階、狭い階段を上がる2階、欠けた皿、安いが旨い料理、そんな思い出は今の鼎泰豊には不要だろうな。探してみたが、その店はもうないようだった。

 

そしてようやく見付けた入り難い居酒屋。ところがどう見ても入り難くない。むしろきれい過ぎて入り難いレストラン、と言う感じだ。本当にここだろうか、と恐る恐る入っていくと、既に奥の方にTさんが陣取っていた。『この店はすぐに満員になるから』と言って早く来て待っていてくれたようだ。有り難い。

 

『実はこの店、場所が最近移転したんです』というので、ようやく理解した。NHKの番組で取り上げられた時は、まだ古い店だったらしい。この店は元々民進党の人々、支援者が集まる場所としても有名で、それが『入り難い場所』の一つの理由だったともいうが、今はどうなんだろうか。台湾の保守派になったと言われる今の民進党には新しい店舗が相応しいかもしれない。

 

取り敢えず名物を注文してもらったが、料理はかなりうまい。酒飲みにはたまらない食べ物がどんどん出てくる。酒を飲まない私は冷蔵庫からお茶を取り出して飲むが、それでもOKだから有り難い。日本の居酒屋で酒を飲まず、酒の肴だけ食べるのはかなり勇気がいり、もう長い間遠慮しているので、台北のこんな店は有り難い。

 

後からSさんも合流して3人で大いに食べる。店には日本人客も何人も訪れ、これまた名物の『愛想のないおかみさん』と記念撮影などしている。じっと見ていると、おかみさん、確かに愛想がある方ではないが、だからと言って特に怖い訳でもなく、問題もなさそうだ。隣の台湾人グループはかなり盛り上がっていたが、急に一人がこちらを向いて『うるさくして申し訳ない』と謝って来た。何だか日本の居酒屋にいる雰囲気で、なんとも好ましい。

ある日の台北日記2018その3(1)面倒なLCC

《ある日の台北日記2018その3》  2018年10月30日-12月5日

今年最後の台湾滞在。と言っても1か月以上の長丁場であり、さほどの意識がある訳ではない。今回は高山茶及び鉄観音茶の調べが優先であり、その延長で厦門にも行くことにしていた。何か成果がえられるだろうか。

 

10月30日(火)
台北へ

成田発午後1時の便、というのは、意外と厄介だ。2時間前に空港に着くとして、家はその2時間半前に出る。ということは8時台のラッシュとぶつかる。ラッシュ時に大きなスーツケースなど持って電車に乗り込むのは、どうも気が引ける。というか、乗るのが難しい場合もあるので、京王線では各駅停車に乗ることとなる。すると、更に早めに家を出なければならず、そうなるともっと混んでいるという悪循環。どうすればよいのか、いつも迷う。

 

8時半頃の各駅停車はそれほど混んでいないので、まずはこれに乗り、いつもの路線で成田空港に行くと、11時より前には何とか到着した。しかし今度はLCCバニラ航空の超絶残念なサービスに出会う。チェックインは出発の2時間前からなのだ。既に長蛇の列が出来ている。そして既に荷物チェックで激しくクレームする人がいる。ああ、やはり乗らなければよかった、と思ってしまう。

 

私も自分の荷物の重さが気になり始めた。出る直前に幾つもの物を押し込んでいたからだ。秤があるので計ってみると、預け荷物が23㎏近くになっている。これでは重量オーバーで追加料金は必至だ。そこで出来るだけ手荷物に切り替えてみると、ほぼ制限内に双方とも収まり、追加料金を免れる。20㎏の預け荷物で1か月超の滞在は厳しい。

 

チェックインは前よりはスムーズになっており、30分ぐらいで終了する。だがそこから10分間はこの付近にいろ、と言われてしまう。もし荷物に何か禁止の物が入っていたら、呼び出すというのだ。そもそも2時間に並んで30分+10分の時間を使ってチェックイン。それから出国審査と税関検査があるのだから、あっという間に搭乗時間が来てしまい、お土産を買うのも大変だ。

 

何とか搭乗ゲートまで来て待っていると、何だか中国語しか聞こえない。しかもその中国語、どう聞いても台湾人ではなく、北方中国人の言葉なのだ。何故だろうかと思い、搭乗券を見直すと、何とゲートが同じ番号でもBとかCとかあり、私はハルピン行きの前で待っていたのだ。慌てて反対側に行くと既に台北行きの搭乗は始まっており、危うく乗り損なうところだった。これからは何度も確認しよう。そして成田からハルピン行きのLCCがあることも分かり、いつか乗ってみようとも思う。

 

フライトは順調で、寝入る。食事などは出ないので、邪魔もなくこれはこれで有り難い。風の関係か、フライト時間は4時間もかかり、退屈ではあったが、こういう時間は考え事にも適しているので良い。しかしバニラの座席はLCCの中でも狭く感じるのは何故だろうか。

 

午後4時過ぎに桃園空港に着く。いつもは午後5時着が多いので、1時間早いと混み具合も違う。葉さんはまだ仕事が終わっていないだろうから、直接宿泊先に行くのは止めにして、台北駅にバスで向かう。駅のコインロッカーに荷物を預けるつもりだったが、ちょうど空きがなく、駅2階を散策することにした。

 

昔何度か来たことがあったが、2階は完全に変わっていた。特に日本食がかなり増えており驚く。親子丼からつけ麺まで何でもある感じだ。私は日本から来たので台湾食を探すと、フードコートがあり、そこで食べる。街中より料金は高く、地元の味という訳にも行かないが、便利であることは確かだ。その後宿泊先に無事到着し、日を終える。

 

10月31日(水)
ハローウィン

翌日は昼前に、いつものサンドイッチを食べに行く。ちょうど近くに幼稚園があり、園児が出てきて散歩かと思っていた。すると私が食べている店に皆がやってきて突然何かを叫んだ。店の女性たちがわらわらと出て行き、皆にお菓子を配り始めるではないか。そうか、今日はハローウィンかと分かる。

 

それにしても台北でもハローウィンとは。25年も前、香港に住んでいた頃、ハローウィンの夜に何も知らずにドアを開けると、子供たちが次々とやってきて、お菓子を強請られたのを思い出す。あの頃は何の制限もなく、夜10時過ぎでもやってきて、寝られなくて困った。

30年前に住んだ台北にはハローウィンはおろか、クリスマスもなかったように思う。バレンタインデーにチョコをくれるのは呑み屋さんだけで、普通は男が花をあげていた。だが今では、ハローウィンの夜には若者が騒ぐのだとか。東京もいつの間にか渋谷で問題が起こるようになったが、こういう商業的なイベントは、もう少し考えてやってもらいたい。煩いのは嫌いなので、この日は夜、外に出ずに過ごした。

ある日の台北日記2018その2(8)ベトナム華僑と会う

9月23日(日)
アフタヌーンティーをしながら

流石に朝4時に起きて空港まで行ったので、帰ってくると眠気が凄い。昼までは寝ることにした。起き上がって少しするともう出掛ける時間となった。今日はインドから来ている知り合いのOさんと会うことになっていた。Oさんとは数年前、バンコックのお茶会で知り合ったのだが、その後彼はいつの間にかインド、それもラダックに行く途中にあるマナリー付近に引っ越していて驚いた。しかも発酵関連のワークショップなどをやっており、二重に驚く。

 

ちょうど台北にいることが分かったので、彼の宿泊先に会いに行く。その前に小腹が空いたので、雲吞麺を食べる。偶に食べると美味しい。そして数年ぶりの再会。この宿の付近にはカフェなどもなく、探して歩き出す。今日は日曜なので、人はほとんど歩いていない。曇りで暑くもない。

 

話に夢中になっているといつの間にか南京路に出ていた。そこにちょっとおしゃれなカフェがあったので見てみると、何と紅茶館だったのだ。台北で紅茶専門店は極めて珍しいので入ってみる。このお店、1990年頃からあるようで、かなりの老舗だった。週末の午後ということで、家族連れが豪華なアフタヌーンティーを頼んでいる。男二人はちょっと浮いていたかもしれない。台北も普通にアフタヌーンティーを楽しむ時代が来たようだ。

 

インド紅茶とお菓子のセットを頼んでみたが、お菓子はかなり甘かった。最近の台湾人は甘い物を食べないと思っているが、これは伝統的な部類なのだろうか。Oさんは甘党だと言って食べていたが、私は全部は食べ切れない。紅茶は美味しいので、お菓子もいずれ甘さの調整が入るだろう。

 

Oさんはインドで味噌を作ったりして、発酵の研究をしているのだという。これはとても興味深い。マナリ―という街は是非訪れたいと思っていたので、出来るだけ早く訪問することにした。黒茶など、お茶でも発酵が絡むものもあるので、相互の情報交換は有意義だった。気が付けば4時間近く話し込んでいた。おまけに10日後にバンコックに行く予定だというと、そこでも一緒になることが分かり、ご縁を感じる。

 

9月25日(火)
ベトナム華僑と会う

実は今回台北に来てすぐに茶商公会で総幹事から一人の女性を紹介されていた。その人はベトナム華僑で、一族は茶業をしていたというので、ベトナム茶の歴史が分かるかもしれないと思い、連絡を取ったのだが、ちょうど都合が悪かったのか、その後連絡はなく、そのままになっていた。それが突然『いつ会うの?』というメッセージが飛び込んできて驚く。

 

明日には帰国すると言ったところ、では今日会いましょう、ということになり、急きょセッティングされた。こちらまで来て頂けるというので、取り敢えず大安駅近くの茗心坊で落ち合うことにした。彼女は店に入ってくるなり『いいお店ね』と言ってそのままお茶を飲み始めたので、ここで話を聞くことになってしまう。お店には迷惑な話だっただろう。

 

基本的に彼女、林さんは音楽家で、現在も音楽を教えている。茶業の歴史については殆ど知らないと言い、伯父さんが書いたという1冊の本を見せてくれた。本当はコピーしたかったが、初対面で預かる訳にもいかず、何より明日帰るので、致し方ない。断念した。彼女の家業ビジネスで何となく分かったことは、日本統治時代、福建に本拠があり、台湾から茶葉を東南アジアへ輸出する大手茶行であり、光復後は香港経由でベトナムに茶を輸出、そして解放後はホーチミンに逃れ、そこで彼女が生まれた、ということだった。

 

確かに資料にも名前がある茶行であり、興味深い。そして彼女も幼少期、ダラットの紅茶作りなどを見た記憶もあるということで、南ベトナムでのお茶の様子が少しわかった。ただそれもベトナム戦争終結とともに、また逃げ出すことになり、親族の一部はアメリカへ、彼女らは台湾に移住したのだという。勿論ここで茶業は完全に途絶えた。現在ホーチミンに行っても古いお茶屋が殆ど見られないのは、やはり戦争のせいだろう。

 

茗心坊の店主も姓は林であり、しかも同じ客家の出であることなども分り、この二人も突然繋がっていった。林さんは上海で手に入れたという、古い茶を持ち出し、この包装にあるマークはお宅のでしょう、と言ったので、本当に驚いてしまった。お茶と言うのはどこで繋がっているのか分からない。

 

今回台湾滞在もこうして終わった。毎回そうだが、とても実りが多く、また謎もどんどん深まっていき、嬉しいような、辛いような。ただまた11月には再訪するので、更に学びを深めていこう、そう思いながら、翌日成田行きのフライトに静かに乗り込んだ。

ある日の台北日記2018その2(7)和紅茶テースティング会

和紅茶テースティング会In台中

台中のトミー家の2階は講茶学院のスペースにもなっている。そこへ行くと準備は着々と進み、和紅茶も置かれている。まずは昼ごはんということで、スタッフ皆と弁当を食べる。如何にも台湾的ご飯でよい。ここで今回の通訳、エミリーと会う。彼女は神戸に留学経験があり、しかも台北のお茶屋の娘、ということで、通訳にはぴったりの人材だった。製茶公会のフレッダなども手伝いに来ている。

 

金曜日の午後にも拘らず、10数名の参加者を得て、会は始まった。Oさんから和紅茶について、一通りの説明を行い、その後、お茶の説明をしながら、まずは6種類のテースティング。ここに来ている人は、茶農家、茶商、そしてお茶好きばかりだから、質問も非常に細かくなる。テースティング会というのは、単に講師が話すセミナーと違って、皆が立ち上がって自由に動き、実物を飲みながらの話となることから、講師にも質問がしやすいという特徴があり、活発化するのだと知る。

 

前半はべにふうき品種を中心に、後半はそれ以外を6種類、鑑定方式で飲んでみた。途中の休憩時には虎屋の羊羹も出たが、やはり甘いという評価だった(思ったほど甘くなかったという意見もあり)。皆さんの率直な感想は、『日本にこんなに紅茶の種類があるとは思いもよらなかった』という物や『台湾の紅茶に似ているものが美味しかった』など言うことだった。

 

会が終わっても、しばらくは参加者が帰らずに質問したり、記念写真を撮っている。ようやくその波が収まると、近くのレストランに移動して小龍包などを食べる。ここは鼎泰豊にいた人が台中で開いた店ということで、鼎泰豊並みに美味しく、満足できる味。その後、トミーの車で台北へ移動した。何ともハードな日程だが、こればかりは如何ともしがたい。

 

9月22日(土)
和紅茶テースティング会In台北

翌日は朝ゆっくりして、10時にホテルに迎えに行く。そこから大稲埕まで歩いて行けたので、散歩がてら行く。お茶屋や埠頭を覗いていたが、『台北のオーガニック食品事情が知りたい』というので、急遽花博公園までタクシーに乗る。そこに自然食品を扱うお店があり、いくつか購入。

 

また同時に週末マーケットも開かれていたので、台湾各地から来た野菜や果物、お茶やコーヒーなどを見て回る。私もこんなところがあると初めて知る。お昼が近かったので、ついでに、そこのフードコートで麺を食べる。週末で家族連れがかなりたくさん来ており、驚いた。そこからMRTに乗り、今日の会場へ向かう。実はその会場のビルの下にも、Oさんが検索していたオーガニック系食堂があり、ビックリ。台北は急激にオーガニック食品、健康食品市場が拡大しているように見えた。

 

今日は土曜日、そして台北開催ということもあり、参加者は昨日よりさらに増えて30人近くになっていた。こんなに和紅茶に関心がある台湾人が多いとは本当に想像していなかった。これも日頃の講茶学院の活動の賜物だろう。そして昨日よりも、よりマニアックなお茶好きも来られ、また紅茶を輸入している茶業者、台湾紅茶を販売している人などが参加、益々細かい質問が飛び出していた。通訳のエミリーはさぞや大変だったのではないかと思う。

 

またOさんの美味しい和紅茶の淹れ方などにも関心が集まり、使っている茶器にも興味を示す人が多かった。日本の器に対するニーズも高い。食べ物と如何にペアリングするかなどは、台湾紅茶でも考えるべきことであり、単にスイーツと合わせるのではなく、高級和食などとのコラボ、という視点も参加者には刺激を与えたかもしれない。さすがこの道15年以上のOさん、経験豊富だ。

 

昨日同様会が終了しても、質問の輪は解けない。やはり和紅茶への関心は高い。というか、これまであまりにも知られてこなかったから、質問が多くなるということかもしれない。今後は講茶学院などを通じて、もう少し日本茶全般の知識を広めて欲しい。またOさんには来年もまた来て継続的に紹介して行って欲しい。

 

全てが終了して、何もしていない私でも気が抜けた。Oさんは慣れているとはいえ、異国で疲れただろう。今晩は北平料理の店へ行く。台湾では北京を都と認めないので、北平という。メインの北京ダックを久しぶりに食べる!美味しい。昔北京に住んでいた頃は年に何十回も食べていたのに。

 

最後にドリンクスタンドで緑茶飲料を買って飲んでみた。これも重要なマーケッティングだと思う。ただ分量が多くて飲み切れず、しかし台湾のMRTは車内で飲食禁止のため、ずっと持って歩くことになった。Oさんを送り届けて、帰宅の途に就く間に飲み干す。部屋ちょっと寝たが、翌朝はOさんが早朝便で帰国のため、午前5時にホテルに迎えに行き、空港まで送り届けた。トミーはそのまま台中へ、私は台北に戻った。怒涛の3日間は終わった。