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ある日の台北日記2025その1(7)猫空再び、陳先生から台湾山茶へ

6月20日(金)またも猫空へ

今日は黄さんと会う。待ち合わせ場所は新店。車で迎えに来てもらい、すぐに山道を行く。よく見ると一昨日喘ぎながら上った道ではないか。車だとこんなに速いのか、とボーゼンとなる。張さんの工房も過ぎて行き、かなりの高さで車は止まる。ここは7年前に黄さんに連れてきてもらった茶農家だった。

猫空は基本的に張姓が多いのだが、ここの老板は林さん。でもやはり張家と関連があるらしい。正宗鉄観音は勿論のこと、最近は安渓の黄金桂品種で烏龍茶などを作っているという。黄金桂で鉄観音製法と首をかしげたが、まあ物珍しさにその紅茶版を買ってみる。ある意味で滅茶苦茶だが、面白いからよいか。

鉄観音茶がどんどん軽くなっている実態については、コンテストにおける改良場の審査員の好みによるのだという。勿論好みは誰にでもあるだろうが、私的には改良場がその方向性を打ち出す場がコンテストであり、その入賞茶が台湾茶の方向性を示しているのだと思っていた。果たしてどうだろうか。

山を快適に降りて、木柵へ戻る。ここで美味しいガチョウを頂く。同じ通りに2軒のガチョウ屋が見えたが、何でも離婚した夫婦が別々に店を出しているのだとか。味は基本一緒だろうか。まあとにかくガチョウ肉は美味しい。黄さんに大いにご馳走になってしまったが、何とも贅沢なランチだった。

黄さんの車で宿泊先近くまで送ってもらい、久しぶりに意翔村を訪ねる。陳先生に会うのは6年ぶり。最近は店が開いていない、先生が店にいない、という状態が続いており、今回は知り合いに連絡してもらって店に向かったが、それでも店のシャッターは閉まっていた。帰りかけたところ、ちょうど暑い中先生が歩いてきた。お元気そうで何よりだ。

そこから2時間半、10数種類のお茶を飲みながら、私は茶歴史の質問を繰り返し、先生はどんどん答えていく。なるほど参考になる、という回答をいくつももらい、励みになる。台湾プーアル茶の歴史、何となく面白い。訪ねるべき店をいくつか教えてもらったので、話を聞いてみよう。急に雷雨に見舞われたが、すぐに止み、お暇する。

帰りに近所でようやく牛肉湯肉絲麺にありつく。一番馴染みの店はずっと閉まったまま、また内輪もめが始まったか。隣の店で先日牛肉湯麺を注文し、具がほぼ入っていなくてかなり落胆したので、今日は肉がちゃんと入っているだけで良しとしよう。本当は一押しの店のスープの味が懐かしい。

夜永康街へ行く。実は台湾山茶についてセミナーをやるという話しが突然持ち上がり、その流れで三重のF4紅茶が手に入らないかとYさんに連絡したら、何と台北にいた。そこで急遽お茶会に参加することになる。しかもそこには山茶研究者の汪博士までいて、これは一石三鳥ぐらいの驚きだった。

台湾山茶を飲みながら博士の山茶の歴史談義を聞くのは何とも贅沢だ。眉原山、六亀、そして台湾山茶の定義など、ちょっと参加のつもりがあっという間に3時間ほどお茶を飲み続けた。YさんからF4紅茶の生産予定も聞けたので大満足で帰る。今晩は色々な意味で興奮が重なり、眠れる夜となった。茶縁が取り持つ、いい夜だった。

ある日の台北日記2025その1(6)猫空 茶の香り

建物の中には多くのお客がいた。鉄観音茶の焙煎が行われている建物の横にお客がお茶を飲むスペースがあり、皆が焙煎仕立ての茶を味わっている。ここは現在一般開放していないということで、親族や知人が集結していた。お茶だけではなく、お菓子や焼売などを食べながら話が弾む。特に旬のたけのこを生で食べており、その美味しさは抜群だった。お茶も鉄観音以外に、佛手や水仙などで作られた茶が今までにないほど香っていて驚いた。こんなところでいつまでもお茶を飲んでいたい。

焙煎現場はほんのちょっと見ただけだった。基本的に作業の邪魔になるからだが、私は6年前にじっくり見せてもらっていたので、今回は張さんへの挨拶だけが目的だった。お客さんがお茶を買い、更には新鮮なタケノコを買って帰って行く。私は張さんの計らいで、タケノコ農家の親戚の人に下まで送ってもらい、山で遭難することはなかった。あのタケノコはもう25年も有機栽培されており、朝とれた実に新鮮なものだった。猫空付近の自然環境も素晴らしい。

夕飯は近所の広東系食堂で広州フイ飯を食す。あんかけ炒飯はここからきているのだろうか、という謎には全く迫れないが、思ったより美味しい。この店には広州焼きそばもあるようなので、今度試してみたい。それにしてもやはり炒飯の量はかなり多く、食べ終わると腹が一杯で困る。日本の町中華の、日本的分量は本当に有り難い。

6月19日(木)慈聖宮で排骨湯

朝起きると体が反応してしまい、外へ出た。今日もまた大稲埕に向かっている自分がいる。ある人々が「隙あらばミャンマー街」と言いながらそこに入り浸るように、私も「時間があれば大稲埕」になってきている。MRTを大橋頭駅で降りるとそこは慣れ親しんだフィールドだ。

そして2日前に来たばかりの慈聖宮の屋台街へ向かった。ただ時間が早過ぎて開いている店は多くはない。今日のお目当て排骨湯の店、1軒はお休み、もう一軒も10時開始だというので付近を散歩して待つ。10時に行ってみると既に何人かのお客が来ていたが、店の人が「この人は30分も待っているのよ」と優先してくれ、嬉しい。排骨湯、キャベツ炒め、魯蛋、そして魯肉飯は半分の量でオーダー。何とも優しい味で非常に満足する。特に排骨湯の味が良い。この店は50年以上前から営業しており、老板娘は最初から日々ここに立っているというから驚きだ。

そこからバスで台北駅に出て、週末に行くバスチケットを購入した。バスは台北駅行きと書かれていても停車位置が大きく異なることを知る。結構バスターミナルまでかなり歩いて疲れた。途中地下を通ると、日本食街のような場所があったが、全てがチェー店であり、現在の飲食業が何となくわかる。腹一杯で何も食べずに帰る。

夕方また外へ。久しく食べていなかった弁当屋で夕飯。おかず三品を選び、メインを1つ、スープは自由によそい、今日は90元。毎年10元は上がっているが、近所の弁当屋はやめてしまっており、やっているだけも有り難い。近所の住民も安いのでよく来て食べているが、いつまで営業してくれるのだろう。夜9時には恒例のゴミ出しに初参戦。楽しい。

ある日の台北日記2025その1(5)鉄観音茶の歴史

6月17日(火)鉄観音茶の歴史

朝から暑かったが、何となく腹が減り、朝ご飯を探した。近所に永和豆漿があるのだが、何故か一度も入ったことが無かった。大勢の人が並んでいたが、思い切って覗いてみると何となく席があったので、そこで若者が食べていた小籠包と冷たい豆漿を注文してみる。外は決して涼しくはなかったが、暑さもそれほど感じられず、皮の厚みがある小籠包が意外や美味しく感じられた。偶には昔の店の味を確認してみる必要がある。

部屋に帰るとドジャースの大谷が先発していた。660日のぶりの二刀流復活、これは本当にすごいことだと思うが、それを難なくやり遂げてしまうため、見ている方もそのすごさがイマイチわからない。いきなり160㎞の速球を投げていて、すごみはある。今回は1回のみで終わってしまったが、また見てみたいものだ。

昼過ぎにバスに乗って東門へ。東門市場がどこにあるのか分からなかったが、そこにある米粉湯の有名店に向かう。場所が分かり難い上、何と2軒が並んでいるので、どちらがどちらかは初めてでは分からない。空いている方に取り敢えず座り、米粉湯と大腸、そして油豆腐を注文する。米粉湯だけではさして味はないのだが、大腸にタレを付けて、少し米粉湯の上に乗せると実に美味い。サクッと食べるにはとても良い。お客もパラパラと続いてきている。

永康街の先日行ったお茶屋さんを再訪。今日は老板にじっくりと鉄観音茶の話を聞く。老板は茶業歴約40年とのことで、ちょうどその頃から台湾茶の内需が始まり、鉄観音茶も見直されるようになったらしい。ただ台湾鉄観音茶の基準はあいまいで、使用品種を問わないのは、中国の「鉄観音品種のみを鉄観音茶という」とは大いに異なる。また鉄観音製法についても、焙煎や発酵について、以前とは異なって来ていて、今や何が鉄観音か分からなくなってきているようにも思えたが、どうだろうか。

夜は旧知のS夫妻と食事。台南系の店なのか、意麺やタウナギなどがある。そしてメインは沙茶鍋。このスープが看板メニューで実に美味い。何杯もお代わりする。しかしこの沙茶鍋は元々どこの食べ物なのだろうか。まあ美味しいのだから固いことは言わずに黙って食べる。途中からMさんも加わり、よく食べて、よく話した。楽しい夜だった。

6月18日(水)猫空を歩く

今日は午前中お休みして、昼から活動を開始。MRTで萬芳を向かう。そこからバスで猫空を目指す。ミニバスの本数は少ないので乗り損ねてはいけないとかなり早くから待っていたが、結局乗客はほぼいなかった。山道を走り、終点までやってくるとちょっと雨の気配がして、焦る。ここから緩やかな上り坂を約20分散歩するとで目的地に着くはずだった。途中にはベトナム系の寺などはあったが、基本的に山路。

ようやく指定された住所まで来たが、訪ねるべき山荘はない。電話してみると、なんと送られてきた住所が間違っており、そこから1㎞先だと言われて歩き出す。ところがその1㎞はかなり急な坂であり、距離も1㎞ではなかった。結局約50分かけて目的地に着いた時はもう汗だくで息が上がっていた。

ある日の台北日記2025その1(4)小楊からミャンマー街、沖縄料理まで

昼をどうしようかと考えていると目の前に餃子屋が出現。何といういいタイミング。速攻入って、速攻カレー餃子を注文する。スープと野菜を加え、立派なランチだ。そこからMRTで東門へ移動する。私にはあまり縁がない永康街を散策する。週末で結構人が多い。日本人の姿も見られる。

茶器やお菓子などを見た後、冶堂というお茶屋さんへ行った。ここはコロナ前に一度連れてきてもらったことがあり、その際に老板に鉄観音茶の歴史を聞きたいと思っていたのだが、先方が忙しくて実現せず、その後店の場所もあやふやになり、そのままになっていた。今日行ってみると、実に静かでよい雰囲気。いつか老板に会いたいと店員さんに告げていたら、ちょうど彼が入って来てご対面。後日詳しく話を聞くことになった。これもご縁か。

そこからMRTを乗り継ぎ、小楊の家に行った。2年ぶりだろうか。毎回入り口が分からない。そして5階まで階段で上がるのもかなりしんどくなってきている。昨日急に思い出した「15年前新店山中に連れて行ってもらい飲んだ四季春茶が香り過ぎていた」話を持ち出したら、その息子が作った今年のお茶を飲ませてくれた。小楊ともそんなに長い付き合いだったんだ、と気づく。

結局夕飯もご馳走になってしまった。白斬鶏が美味しい。中国広東では白切鶏と言っていると思うのだが、台湾の方が鶏に厚みがある。そういえば永康街で昔小楊が日本人に美味い料理をご馳走してくれたことも思い出された。お茶にうるさい人は大抵食べ物にもこだわりがある。今晩も美味しく頂く。

6月15日(日)ミャンマー街へ

台北に来て数日、かなり動き回っており、ちょっと疲れが出てきた。午前中は休息を取り、どうしても食べたかった大腸麺線を食べて、テンションを上げた。そして昨年も通ったミャンマー街へ向かう。そこでAさんと合流して、ミャンマー焼きそばを食べ、ミルクティーを飲み、話が弾む。

まあとにかく暑くて、さほど歩き回りもしなかったが、一部店舗が入れ替わったり、移転していたりと、それなりの変化が見られるミャンマー街。ミャンマー人の流入も増えてきているに違いない。どんなに暑くてもクーラーが効いていない屋外でミルクティーを啜りながら話をしているおじさんたちは強い。

6月16日(月)沖縄料理屋で

何とか週末を乗り切り、自らの台北生活が始まる。ちょっと疲れたので午前中は洗濯して、休息。NHK朝ドラ「あんぱん」は主人公が出征し、何と福州郊外に駐留という設定に。だがそこで話されていた言葉が「閩南語」だとか「台湾語話す人を集めたのか」など、その界隈が騒がしい。私の視点はお茶なので、露店に「水仙」の文字を見て喜んだが、「普洱茶」をみて、「1940年前後に雲南の茶である普洱が、福建の田舎で飲まれていたのか??」となってしまう。

昼は旧知のBさんと会う。場所は潮州路からちょっと入った沖縄料理屋。最近Bさんの根城らしい。オーナーは石垣島の人で音楽仲間とか。シェフは沖縄料理の他、日本の中華など作れるということだったが、今回は唐揚げ定食を食す。次回は是非冷やし中華を食べてみたい。

昨年に続いてBさんのラジオ番組へのお誘いがあった。毎週毎週番組を作るのは大変だろうなと思い、お役に立てるのなら、と、またお茶のお話をすることにした。今回は「台湾と三重の繋がり」にしようか。三重には日東紅茶や台湾山茶繋がりの話があり、ちょうどいま勉強中だ。

午後4時ごろまで、Bさんとよもやま話をしていた。それからバスに乗って大稲埕へ向かう。本で紹介されていた店を探していくと慈聖宮に出くわした。ここに並ぶ店の1つだった。午後4時過ぎなのに、お客は引っ切り無しに来ていた。私は名物猪脚麺線を注文して待つ。スープは白くてちょっと予想外。大蒜は効いている。猪脚はそのスープで茹でただけのようで、たれを調合して付けて食べると旨い。ただ脂身が多過ぎたせいか、そこまで美味しさが分からなかった。150元。

ある日の台北日記2025その1(3)頭份から大稲埕

バスターミナルまで歩いて戻る。2時過ぎのバスに乗客はあまりいない。うつらうつらしている間に、高速道路を走り、気が付くと高速を降りていき、予定より10分遅れで頭份のバスターミナルに入った。そこには7年ぶりに会うジャッキーが待っていてくれ、彼の車で店に向かった。その店は3代前からやっている製茶機械の製造販売がメインだった。だが今回聞いてみるとジャッキーはお父さんの機械製造には関わらず、独自の道を歩んでいた。

そして台湾ではなく、イギリス・フランス・日本などのコンテストで入賞し、今では台湾でも有名茶業者となっていた。時々彼のFBは覗いていたが、まさかこんなすごいことになっていると、夢にも思わなかった。まだ自前のお店は持っておらず、実家でお茶を淹れてくれたが、淹れ方にもかなりの工夫が見られ、お客を楽しませている。これから東方美人の生産が始まるということで、ちょうど空いていたタイミングでやってきたが、大正解だった。

あっと言う間に3時間近くが過ぎ、帰りのバスの時間を確認すると、かなり間が開いていた。どこかでご飯でも、と考えているとジャッキーが弁当を手配してくれた。これがまた豪華で美味しい。量が多過ぎて全部食べ切れなかったのは残念だったが、家庭的なご飯がサッと出てくる台湾、やはりすごい。

バスターミナルまで車で送ってもらったが、何と時刻表の時間になってもバスは来ない。おまけにチケットは空席待ちになっており、金曜日の夜だからか、人はどんどん並んでいく。ここ苗栗は客家が多く住んでいるが「客家語を話しましょう」というスローガンが現状を物語っている。30分後、ようやく次のバスと2台一緒にバスが来た。我々は1台目に乗り込み、ホッと一息。1時間ちょっとで台北まで戻った。意外と夜遅くなり、疲れたが、いい旅だった。

6月14日(土)大稲埕で

翌朝は大稲埕でお茶屋に行ってみる。埠頭近くにある王錦珍、コロナ前に息子に高山茶コーヒーを淹れて貰って以来、来ていなかった。入っていくと奥さんが出てきたが、後ろに老板がいるのが見えたので声を掛けると、何となく思い出したようで、色々と話が始まる。老板とは、コロナ前何度かお茶関係の宴席で出会っていたが、ちゃんと話をしたことはあまりなかった。杉林渓茶が香っている。因みに息子は今年からカナダで働いているらしい。

王錦珍のすぐ裏は、錦記ビルになっていて、その横の陳天来故居は改修されている。来年には公開されるらしいが、どんな風になるのか興味津々。それから王瑞珍へ行ってみる。ここは一昨年訪ねている。バンコクの王瑞珍と親せき関係かどうか聞きに来たのだが、何とその後昨年、バンコクの王一家が台北にやってきて、初めて会ったという。私がきっかけで親戚同士が連絡を取り合うようになったのであれば、こんな嬉しいことはない。

ここでは玉山の高山茶が美味しかった。更には焙煎によってかなり味が変わること、お茶を飲みながら学んだ。こういう店が必要なのだが、後継者はおらず(娘たちに継がせるには大変過ぎる)、もう何年かで閉店するかもしれないと言われるとかなり寂しい。老板夫妻は二人ともかなり日本語が出来るので、日本とのビジネスも多かったろうが、日本側の購買力の陰りも影響しているだろうか。

ある日の台北日記2025その1(2)ちょこっと大稲埕へ

6月12日(木)日常の台北

朝5時半には目覚めてしまう。クーラーを掛けて寝て、夜中に一度切ったら暑くてまた起きてしまい、結局よく眠れないまま朝になった。東京だって昨年の7月はこんな状態だったが、台北でいきなりこれが来ると辛い。今は梅雨なのだ。さすがに朝はさわやかなので、窓を開けて風を入れると良い。メールチェックなどをして過ごす。

少し腹が減ったが我慢した。中国旅と怠惰な東京生活での食べ過ぎがたたって体重は激増しており、体が重い、疲れやすい感覚に見舞われていたからだ。洗濯でもするかと思ったら途端に雨が降り出す。まさに梅雨だ。お陰で暑さは少し安らいだが、外に出るのも億劫になる。

午前10時頃雨は止んだので外へ出た。まずはいつもの店でいつものクラブサンドイッチにアイスティーの朝食だ。店のおばさんの愛想が何だかよくなっているような気がする。大腸麺線もついでに食べたかったが、これではダイエットにならないときつく心を戒める。その後全聯に行き、生活用品を買う。散歩するのが快適でよい。

午後は明日からの準備に取り掛かる。あっと言う間に半日が過ぎてしまうのは、作業効率低下が著しい証拠だ。夕方下のセブンにゴミ袋を買いに行く。台北でゴミを出す場合、専用の袋に入れないと怒られる。数年ぶりにこれを買うのはちょっと緊張するが、すぐに出てきて良かった。

夕方は風が強く、気持ちよい。いつも行っていた餃子屋が牛肉麺屋に変わっていたのは何とも悲しい。それでもお気に入りの牛雑屋は健在でよかった。しかも昨年初めて打ち解けた老板娘が「あんた、帰ってきたの?」とにっこりしたのには本当に驚いた。この7年で初めての事態にドギマギする。牛肉玉米炒飯は抜群に旨かった。牛雑湯は少しぬるかったが、それでも食べられてよかった。

6月13日(金)頭份へ

朝早く目覚める。今日はランチまで何も食べないぞ、と思っていたが、5時に起きて8時前には我慢できなくなり、朝飯を探しに行く。近所の別の店でまたクラブサンドセットを注文。昨年より10元上がっていたが、それでも美味しいから食べてしまう。近所の子たちが学校に行く前に朝食を食べているのが台湾っぽい。

今日はKさんが早朝便で台湾にやってくる日。順調に到着したとの連絡を受け、出掛ける。まずは台北駅付近のダイソーに行き、耳かきを買う。商品の種類が多過ぎて、探すのに手間取る。雨が降り出し、地下を通り、バスターミナルへ向かう。今日は午後苗栗へ行くので、そのチケットを買った。近距離バスでもチケット買えるんだな、と思う。

小雨の中、金春発で待ち合わせ。ここの牛雑湯が飲みたいと思いやって来た。最近の癖でカレー麺も頼んでしまう。このカレー麺、如何にもカレー味だが、1897年創業を謳うこの店で、一体いつからあるのだろうか、とふと思う。店はどんどん混んできて、相変わらずの盛況ぶりだった。

バスまで少し時間があったので、大稲埕付近を歩いてみる。朝陽茶葉公園に達し、有記に入ってみると、薄暗い雰囲気でお客もいない。お茶の試飲も出来ないというので、早々に退散する。その後迪化街に出て歩いていると、ちょうど王福記が目に入り、そこに吸い込まれた。お父さんが元気に相手をしてくれ、高山茶を飲ませてくれて、一息つく。鉄観音茶を広めたのは誰か、など興味深い話になる。

ある日の台北日記2025その1(1)台北に到着すると

《ある日の台北日記2025その1》  2025年6月11₋20日

1年ぶりに台北にやって来た。そろそろ茶旅のネタも尽きてきたが、今回は一体どうなるだろうか。普通は到着してから各所へ連絡するのだが、今回は滞在を少し短くしたので、事前に連絡したところ、取り敢えず最初の一週間はほぼ予定が出来てしまった。

6月11日(水)台北到着

ちょうど梅雨入りした東京。昨日から雨が降っていた。今日は空港へ向かうのだが荷物が多いので、雨に降られると運べない。タクシーを呼ぼうかと調べてみたら、羽田空港まで定額8100円となっていたが、別途高速代を負担しなければならず、一人で乗るには正直高過ぎる。ああ、中国の車を呼べればなあ、恐らく1/4の料金で行ってくれるだろう。

天気予報では午前8時半に一時的に雨が止むと出ていた。私はその時間に家を出たかったので、準備して待っていると、本当に止んだ。すごいな、日本の天気予報。急いで荷物を引いて駅まで行く。新宿からは荷物が多いとバスだが、今回はそのまま電車を乗り継いで羽田に至る。外はかなり雨が降っている。

機体は大型機であったが、満席ではなかった。日本人と台湾人がバランスよく乗っている感じ。日本人CA2名が乗っていたが、彼の日本語は分かりづらく、聞き返してしまった。余程華語で言ってもらった方が分かりやすい。今回の食事はイマイチだったが、コージーコーナーのエクレアが付いていた。映画は長澤まさみを見ている内に2度寝落ち。機内で30分無料のWi-Fiがあったので、初めて空の上で繋いでみた。これがあるともう出張者は休息できないな、と余計なことを考える。

何となく3時間が過ぎて松山空港に降りた。通路で「荷物検査免除」のカードを貰う。どうやら中国や韓国から肉類の持ち込みが横行しており、特定フライトの乗客は全て荷物検査があるらしいのだが、日本便の客は有難いことに免除されていた。入国審査も多少列が出来ていたが、殆ど日本人なのでスムーズ。

外へ出るとまずはラッキードローを引く。2023年からこれを引いているが当たったためしがない。だが今回ある人の投稿を見ていると半数の人が当たっているとあったので、かなり意気込んで引いてみたが、やはりハズレた。これで3年連続5回目のハズレ、5000元貰えればデカいのに、なぜ?

空港内でドリンクを買い、時間調整のためいつものデスクに行く。ここは充電が出来て、ネット環境もあるので、毎回使わせてもらっている。大家から連絡があれば、ここからMRT数駅で着けるので実に便利だ。そして何とか宿泊先に入って荷物を取り出していると、突然アラートがあり、地震が始まった。幸い大した揺れもなかったが、昨年は到着翌朝大地震に遭遇し、今回は何と10分後に洗礼を浴びた。まさか私が地震を運んできたとは思いたくないが。

外へ出るとあの露天商のおばちゃんと目が合った。彼らはちょうど帰ろうとしていたが、私を見るとすぐに最後に残ったバナナを持って来た。即購入。昨年台北を離れる際は1週間ほど姿を見なかったので廃業したかと心配していたのだが、良かった。それから牛肉湯肉絲麺を食べに行ったが、いつもの店は閉まっていた。またトラブルでもあったろうか。

隣が開いていたので、何となく牛肉湯麺と言ってしまったら、本当に肉絲はなく、スープに麺が入っているだけの実に寂しいものが出てきた。まあ、これでも十分美味しいのだが、牛肉麺にすればよかったと、かなり後悔の台北滞在1食目。それにしても台北は暑い。蒸し暑いのだ。東京が雨で涼しかっただけにこれは結構堪える。クーラー全開でも眠れない。

チェンマイ滞在記2024その7(7)チェンマイ最後の夜 スマホ止まる

Mさんと昔話をしていたが、記憶力低下が著しく、話がうやむやになってしまう。共通の知り合いの名前も思い出せない。彼女は今朝到着の夜行列車でバンコクから来たのだが、とても元気。年末までチェンマイ滞在を楽しむらしい。日本からも知り合いなどが合流して、にぎやかにやるという。私とは本当にすれ違い寸前での劇的再会だった。

12月7日(土)チェンマイ最後の夜 スマホ止まる

チェンマイ最終日。準備万端。昼前に近所にアメリカンブレックファーストを食べに行く。何で最後がこれなのか。よく分からないが、食べたい物を食べて終わりにしよう。午後宿の人に部屋のチェックをしてもらい、チェックアウト手続きはあっけなく完了した。といっても、この宿では最終的に出ていく時に鍵を部屋に置いていけばよいという有難いシステム(フロント業務は6時終了なので)があり、引き続き部屋は使えた。

最後の作業はAISに行くこと。4か月使った契約を解除する。そして今晩1日分のWifiを購入して、引き続き使い続ける。今の世の中、Wifiなし、スマホ無しの環境では車も呼べないし、支払いも出来ない。そのままずっと歩いて行く。30分ぐらい行くと、昨日再会したMさんと待ち合わせたお粥屋があるはずだった。ところが私が思っていた場所は閉まっており、通りの角の2階でMさんは待っていた。

お粥を食べながら、おかずをつまみ、ビールを飲む(酒は飲まなくても良い)というコンセプトの店なのだ。ちょうど料理が出そろい、さあ写真を撮ろうとしたその瞬間、突然の悲劇に見舞われた。私のスマホがフリーズしたのだ。電源を切ることも出来ず、どうにも動かない。その時から、私は食事も喉を通らない状況に陥る。もしスマホが使えなければ宿までどう帰り、空港までどうやって行くのかさえ、分からない。更に北京に着いたら、それこそ何もできない。頭の中だけがグルグル回る、パニックだ。

傍らのMさんが空港までは何とかする、と言ってくれたのが救いだった。次にスマホ修理屋はどこにあるのか考えたが思い出せない。食事もそこそこに、取り敢えずMayaを目指したが、車は渋滞にはまり動かない。時間は刻々過ぎていき、何だか焦ってしまう。何とかMayaに辿り着き、Mさんはトイレに行く。私はまっすぐ携帯ショップを目指したところ、途中に携帯修理屋のブースがあるではないか。

係員の女性にスマホがフリーズしたというと彼女はちょっと見て、ほんのちょっと何かを押すと、あっという間に再起動が始まった。え、と驚いてみていると、スマホを渡され、「問題ある?」という顔をした。彼女はタイ語しか話さないので、一体どこを押したのか分からなかったが、何だかキツネにつままれたような感じだ。Mさんもスマホを見て唖然としている。修理代すら払っていない。感謝の言葉も十分に伝えられない。

全ての悩みは一瞬にして解消された。Mさんはソンテウに乗って帰っていく。私は歩いて宿に帰り、車を呼んで大きな荷物を運び入れ、無事に空港に到着。チェックインももう慣れているので、何事もなかった。最後のバタバタが嘘のように、私のチェンマイ生活4か月はこのようにして、幕を閉じた。果たして来年は何が待っているだろうか。

チェンマイ滞在記2024その7(6)カオスイからイタリアンまで

昼ご飯は結局フードコートで食べた。立派なフードコートだが、料金は普通のフードコートと変わらないのが良い。帽子はユニクロで買おうと思ったが、良いのが無く、1階のブースで100バーツで売っているのを買った。タイというところは立派なデパートでも、1階に雑多な店が並んでいるところもあり、面白い。ここでもクリスマス飾りが盛大に行われている。タイ人にとっての冬という特殊な感覚とクリスマスセールがうまく組み合わされているようだ。

夜は先日出会った旅行業のSさんと食事をした。お互いの家は近いので、その中間付近にある店が指定された。夜出歩かない、酒を飲まない私にとって、未知の領域である。夜7時過ぎ、広々とした吹き抜けの空間、お客はそれほど多くない。お客が増えるのは夜中近くになってかららしい。日本で言えば居酒屋で、料理の品数は多い。

Sさんは実は私の息子世代。我々の世代はある程度敷かれたレールの上を走っていれば安泰だったが、今やそうはいかない。社会システムの変化もあるが、多様性や自分らしさが求められ、そこに過度に嵌ると意外なほど厳しい社会ではなかろうか、と話していて思ってしまった。まあ、私も自分の好きなことをして生きて行こうと決め、それに従って自らレールを外れたので、今の若者でやる気があれば応援したいと思う。

12月5日(木)カオスイを食べる

朝出るのが遅くなり、昼近くなってダンバウを食べに行く。これも今年の食べ納め。腹一杯になったのだが、それから車を呼んで午後1時に、先日同級生夫妻とカオソイを食べに行く。カオソイドムアーンは私が最初にチェンマイでカオソイを食べた場所であり、店の雰囲気も含めて気に入っている。現オーナーのお母さんが始めた店らしい。若き日のお母さんと一緒に記念撮影した。華人経営だ。

車で夫妻の宿泊先近くの寺まで行き、彼らとはそこで別れた。何となく歩きたい気分であったので、堀の中をクルクル歩き、寺々を回り、それから外へ出てまた歩く。帰りに何となくマクドナルドへ寄ってしまったのは、なんだか不思議だ。いつもの安いセットを頬張りながら、チェンマイについて色々と考える。

12月6日(金)イタリアンで

いよいよ明日はチェンマイを離れるので、部屋にある物を整理して、買ったばかりのスーツケースに詰め込んだ。今回は意外と茶葉の量も少なく、相変わらず書かれた資料は皆無のため、思ったほどの分量にはなっていない。さすがに4か月も住んでいると、何となく離れ難い気分もあるが、一方ちょっとした解放感も漂う。

夕方ソンテウに乗って出かけた。夕飯は何とイタリアンだ。随分以前にヨーガ関係で会ったことがあるMさん。彼女は毎年バンコクとチェンマイで雑貨を仕入れたりしながら1か月ほど滞在しているのをFBで見ていたが、昨年はタイミングが合わず、今回ようやく久しぶりの再会となった。

彼女が指定したのがターペー門近くのイタリアンだった。ここはかなりの老舗で昨年も食べにきた。時間が早かったせいか、お客は殆どいない。暗くなると白人がワインなど飲んでいることだろう。パスタもピザも安定の味で美味しい。今回はこういう物をほぼ食べていないので、何とも有り難い。

チェンマイ滞在記2024その7(5)突然やってきた同級生

11月30日(土)突然やってきた同級生

そろそろチェンマイ撤退準備が始まる。思い残すことが無いように、食べたい物を食べにいく。今朝はターニン市場の牛筋麵に行ってしまった。50バーツで幸せになれる麺。言葉は通じないが、店の人には感謝したい。この市場も少しずつ店が無くなっているのが気がかりだ。チェンマイの食、それはまさにB級グルメ、そしてフルーツが安く食べられることだろう。

昼ごはんにパンをかじっていると突然メッセージを受け取った。大学の同級生からだったが、何と今チェンマイ空港に着いた、というのだ。彼女はアメリカ在住で最近は連絡も取っていなかったので驚いた。夕飯を食べることになったが、「いつも行っているようなカジュアルな店で」と言われたものの、アメリカ人のご主人も一緒だというので、ちょっと困ってしまう。何しろチェンマイ滞在は長いが、一人飯ばかりだから、気の利いた店を全く知らない。来るならもう少し早く言ってよ、と思ったが、自らの旅を考えると人のことは言えない。

取り敢えず先日大勢で行ったニーマンの店に行ってみたが、予約は出来ないという。席はありそうだったので、ここで到着を待つことにした。コロナ中に東京で会って以来の再会だが、Eさんは相変わらず元気だ。相対的にご主人は物静かで、如何にも大学教授だった。日本の民俗やファミリーヒストリーが研究対象らしく、まず聞くことを大切にしている。彼の同僚にあのローバト・ヘリア氏がいるという。

ご主人と私は日本語で、彼女とは英語で話しているのは何となく面白い。日本に長く滞在経験のあるご主人は、アジア系の食べ物も普通に食べられる。今回はビルマカレー?が良かったらしい。そして北タイの山岳民族などへも興味を持っている。今回は完全な休暇で観光しているだけのようだが、Grabの使い方など手慣れたもので、車を呼んで帰っていく。

12月3日(火)シャン料理を訪ねるも

帰国準備を進めているが、今回は4か月にいた割には、収穫が多くなかったと感じてしまう。そう、長くいればそれだけ多くの物が得られる、というのは、正しいとは言えない。北タイの茶業史で分かることは元々かなり限られており、そういう意味では、もうあまり掘り出せるものはないのかもしれない。来年もここに来る意味はあるだろうか、と正直考えてしまう。ただロングステイだと思えば良いか。

偶にはシャン料理が食べたいと思い、新規開拓に出向く。少し早めに行けば席もあるだろうと思い、歩いて行くと、何と11時半で食堂は満席だった。しかも見ればお客の大半が僧侶ではないか。確かに僧侶は午前中しか食事が出来ないから、この時間はかき入れ時。どうやら最近ミャンマー方面から逃れてくる若者が多いと聞いたが、まさかお坊さんになってタイへ来たのだろうか。

ミャンマー軍政府は、兵士不足から若者の徴兵を進めているらしい。その中で僧侶になった者の扱いはどうなっているのだろうか。チェンマイにシャン人が増えている。食堂を諦めて少し行くとそこには大きなミャンマー寺院があり、若い僧侶が歩いている。ここには僧房もあるので、庇護されているということだろうか。