「ラオス」カテゴリーアーカイブ

サクッとビエンチャン旅2020(3)ビエンチャンからバンコックへ

3月14日(土)ビエンチャンからバンコックへ

昨夜は蚊に刺されて眠りが浅かった。バンコックなどの宿では蚊に刺されることも減り、無防備だったのが災いした。朝起きてロビーに行ってみたが、朝食を食べている人はおらず、泊り客はほとんどいないと分かる。ここの朝食は以前はフランス風でいいなと思っていたが、今や簡素なコンチネンタルブレックファーストに思えてしまうのが悲しい。

昨日街を歩いてみても、開いていないホテルがいくつもあった。観光業が主力のビエンチャンに外国人が来ないことは死活問題であろう。今泊まっている宿も、泊り客が来るとは思っておらず、何となく投げやりに運営しているようにしか見えない。次回ここに来た時、どこのホテルが残っているのだろうか。

食べていると、なぜか誰もいないのにわざわざ私の後ろの席に座る夫婦がいた。どうみても中国人だ。こんな時期だから遠く離れた席に着けよ、と思わず言いたくなる。そしてさらにやってきたおじさんも中国人で、現地の華人と何やら商売に話をしている。ラオスは一部の中国人にとってはコロナの避難場所となっているのだろうか。

ちょっと不愉快な気分のまま、外を散歩する。特に見るべきものもなく、ふらふらと歩く。以前は沢山いた観光客の姿は少なく、どこの宿も店も開店休業状態に見えた。バトゥサイ方面を歩いても、地元の人さえ、ほとんどいない。寺でゆっくり休もうかと思ったが、開いていないところもある。いよいよ世界的にコロナが広がりつつある。後一週間経てば、ここに来ることもできなくなるかもしれない。

飛行機までには時間があったが、外も見るところがなく、部屋に帰って涼む。テレビを点けると、バドミントンの全英選手権をやっており、日本選手と台湾選手の試合を放送している。こういう試合、日本ではなかなか見られないよなあ。それにしてももし東京五輪が開催されれば、バドミントンのシングルスは男女とも台湾が金メダルという可能性があるな、と思ってしまう周天成の動きだった。

11時になったので、宿をチェックアウトして、空港へ向かう。相変らずバスは整備されえおらず、トゥクトゥクを探して料金交渉して乗り込む。運ちゃんも苦しい時間を過ごしていると思うので、ハードな交渉はなしだ。まあ観光客も少ないから、トゥクトゥクもあまりいない。

空港まではわずか10分。ここは何度も来たのでよくわかっている。先月行ったパクセーの空港に比べればさすがに大きいが、それでも首都空港としてはかなり小さい方だと思う。ボードを覗くと、中国と韓国へ向かう便は軒並みキャンセルが出ており、バンコックへ向かう白人などがチェックインをしていた。

カウンターでは少し緊張する。係員はバンコックからどこへ行くのか、と聞いてきたので、東京へ帰ると答えると、案の定帰りのチケットを要求してきた。一応これも想定内で準備していたので、難なく通過した。一番恐れていた10万ドルの海外保険提示要請がなかったのは有難い。勿論熱がないことは入り口で測られていた。

2階に上がると、レストランなどもあり、食事ができるようになっていたが、腹も減っていなかったので、そのまま出国審査を通り過ぎた。乗客のほとんどいないガランとしたベンチでPCを開けて、旅日記を書いていた。すると近くで急にけたたましい話声が聞こえてきた。中国語でこんなうるさい会話を聞いたのは2か月ぶりだろうか。若者が10人以上いるのだが、彼らはどうしてここにいるのだろうか。そしてどこへ行くのだろうか。

推測するに、彼らはラオスに働きに来ていたのではないか。そしていよいよ帰国することになったのだ。ラオス人の係員が突然中国語で『広州行きはあっちのゲートだ』と叫ぶと、数十人がぞろぞろ動いて行き、その中に若者たちもいた。非常に減便されている中、貴重な広州行きだったということか。それにしてもいつもうるさいと思って避ける中国人の団体が何とも懐かしく思えるのは、コロナのせいだろうか。

タイスマイルは最低1日2便、今もバンコック-ビエンチャンを飛んでいるようだった。搭乗すると乗客は半分以下。それでも意外と乗っているなと感じる。一応食べ物も出てきたが、あまり食べたいとは思わない。ドリンクだけを飲んで、目をつぶっていく。果たしてバンコックの空港はどうなっているだろうか。万が一トラブルに巻き込まれたらどうなるのだろうか。昨日離れたばかりのバンコック、たった1日でガラッと状況が変わりかねない中、かなり不安な状況が続いていた。

サクッとビエンチャン旅2020(2)観光客の去ったビエンチャンで

ようやく出たバスは、すぐに橋を渡りラオ側に到着する。ラオス入国の際にも何のチェックもなく、ただパスポートにスタンプが押されただけだった。かなりの緩さと言わざるを得ない。自分の中ではかなりの緊張感があったが、それと相反する国境ののどかさ、このギャップの凄さに驚く。イミグレを出ると、タクシーの運転手が声を掛けてきたが、ビエンチャン市内までの料金は一律200バーツだと言って譲らない。ネット情報ではもう少し安いはずだが、最近は客がいないせいか、タクシーも少ないらしく、交渉はまとまらない。

向こうを見るとバスが停まっているので、そこへ行くと市内へ行くようだったので、バスに乗り込んだ。荷物が少ないので何とも身軽だ。タイバーツを車掌に渡すと、30バーツぐらいの料金のようだった。ビエンチャン市内まではそう離れておらず、何よりタイとは川を挟んでいるだけなので、タイのシムで何とか拾えるので、スマホで地図を見ることもできた。

30分ぐらい走っていると、市内へ入り、結局終点で降りた。この付近、何となく見覚えがあるので、そのまま歩きだした。特に予約はしていないが、ネットで調べておいた宿まで歩いて1㎞ちょっと。その間には以前訪れたことがある寺院などもあり、暑いが安心感がある。

ところが中心部のその宿へ行ってみると、隣のワンブロックが大規模工事中で、騒音がかなりするので、避けることにした。そして昔何度か泊まった宿へ向かったが、ここは何ら変わっておらず、お客もいなかったのに、料金も変わっていなかった。ネット予約の料金も全く同じでつまらない。

靴はロビーで脱いで部屋に上がるスタイルだ。昔はいい宿だと思っていたが、部屋ではネットが繋がりにくく、電気ポットがないのでお茶やコーヒーも飲めず、テレビの画像も悪かった。それでもNHKが映ったので、取り敢えず相撲を見てしまう。朝乃山と御嶽海の取り組み、朝乃山は大関になるだろうか。

午後4時になると腹が減る。今日は殆ど物を食べていないことに気が付く。いつもならビエンチャン名物を探すところだが、取り敢えず近所の麵屋で麺を食べてしまう。腹が朽ちたら散歩だ。華人の様子なども知りたいと思い、華人廟などを探して歩いたが、なかなか見つからない。ようやく川沿いに新しく建てられた廟を見つけるのがやっとだった。

実は今回のビエンチャン訪問は、華人調査の一環であり、以前からのお知合いMさんと連絡を取り合っていたのだ。彼の奥さんは客家だというので、色々と面白い話が聞けるのではないかと思い、楽しみにしていたのだが、コロナの影響で、先日日本から戻ったMさん自身が2週間の自宅待機することになり、直前に会えなくなってしまったのだ。勿論こちらも華人調査よりビザ目的なので、今回は致し方ない。

一度宿に戻ったが、のどが渇いたので、また外へ出た。折角なのでメコンの夕陽を眺めようと川へ向かったのだが、以前と違い、河川敷が開発対象となり、近づけなくなっている。その昔は川辺でガイヤーンを食べた記憶があったのだが、今はかなり奥に引っ込んで道沿いに屋台を集中させている。

屋台では、魚など海鮮を中心に、いい匂いをさせて焼かれていた。私はさっき麺を食べてしまったが、ここはどうしてもガイヤーンぐらいは食べようと探す。だが鶏は大きくて、一人ではとても食べきれない。じっとぐるぐる回っている鶏肉を見ていると、おじさんが私を一人とみて、半分でも売るよ、と言ってくれたので、80バーツでガイヤーンを手に入れ、後ろのテーブルでかぶりついた。やっぱりうまい。大満足で食べつくして立ち去る。

ビエンチャンにはタイのようなコンビニは見当たらなかったが、いつの間にかBigCエクスプレスが出来ており、コンビニの役割を果たしていた。中で売られているものも、タイとそうは変わらない。きっとタイから運び込まれているのだろう。ラオスは人口も少なく、自国生産には向かない国だ。こんな国はコロナだから鎖国する、というは簡単ではないだろう。

今日ビエンチャンの街を歩いてみたが、いつもは観光客で溢れるような場所は、軒並み閑古鳥が鳴いている。白人なども僅かに見られるが、中国・韓国系はほぼいないようだった。ただ地元のラオス人でマスクをしている人の率はそれほど高くなく、コロナに対する意識が高いとは言えないようだった。

サクッとビエンチャン旅2020(1)ウドンタニーから

《ビエンチャン旅2020》  2020年3月13日-14日

元々タイには2か月のつもりでやって来ていたが、その2か月は既に過ぎていた。ここ9年、ひたすら旅を続けてきたが、これほどまでに情勢が変わっていくのは、あまり記憶にない。とにかくどこにいるのが自らの旅にとって一番良いのか、安全か、動きやすいか、などと考えなければならないことはかなりの異常事態である。取り敢えず決めたことは、日本の方が危険なのですぐには帰らないということだけだった。

ただ問題はタイ滞在のビザ免除がもう少しすると切れることだ。昨今の情勢下、どこの国に行って戻ってくるのが利巧なのか。いや、事態が急変してもタイが受け入れてくれる国はどこなのか、を考えて、先月同様ラオスを選択した。だが先月のパクセーは多分に旅行であったが、今回はできるだけ早くバンコックに戻ってくるのが目的、という、私の旅としては珍しいものとなる。

3月13日(金)ウドンタニーからビエンチャンへ

一番簡単なのは、バンコック‐ビエンチャンを飛行機で往復することだが、さすがにそれではあまりに芸がない、ということで、ウドンタニーまで飛行機で行き、バスで国境を越えて、ビエンチャンから飛行機で戻る、というルートを選択した。当日戻るのはちょっと、ということで、ビエンチャンに1泊することになる。

フライトはタイスマイルを選んだ。先日ミャンマー行の国際線に乗ったが、今回は国内線に乗ってみる。少しでも変化をつけないと、旅が余りに単調になってしまう。タイスマイルは国内線でもスワナンプームから出る。MRTからエアポートリンクと乗り継いで空港へ向かった。さすがに車内は空いている。そして空港もガラガラだった。これはほぼ予想通りだ。

国内線にチェックインするのは何年ぶりだろうか。カウンターで『明日ビエンチャンからバンコックに戻るが、何は要求されるものはないか?保険とか?』と聞いてみたが、皆ポカーンとしている。そして空港インフォメーションで聞いてみたらというので、今度はそちらへ回ったが、『それは各航空会社が要請するものだから航空会社に聞け』と言われ、全く埒が明かない。この辺は如何にもタイ的な対応だった。 荷物検査前にはきちんと検温される。

国内線の搭乗ゲート付近には、意外ときれいなお店が並んでいた。でもタイ国内に行くのに、ここで買い物する人がいるのだろうか。田舎の親戚にお土産でも買うのだろうか。フードコート的な物もあるが、料金は国際線のところとあまり変わらず高い。賃料は国際、国内ともに変わらないのだろうか。

機内に乗り込むとCAはマスクに手袋の重装備だった。乗客は半分ぐらいか。殆どがタイ人のように見えた。知り合い同士は隣に座っているが、一人客などは間を空けた席が指定されている。一応パンなども出たが、飲み物もペットボトルの水だけだった。まあ1時間はあっという間だった。

ウドンタニーには数年前、ビエンチャンからバスで来て、そのまま空港から飛行機に乗ってしまったので、街の印象はない。そして今回もまた、街に寄ることはなく、そのまま国境へ向かう。因みに2週間ほど前にビエンチャン行きを思い立った際に、ウドンタニーに1泊するつもりで、キャンセル可能なホテルを予約していた。

だが予約日は16日であり、今回は泣く泣くキャンセルする。ところがキャンセル無料なのは1週間前までだったことに突如気が付き愕然としたものの、実際キャンセルボタンを押すと、その後全くキャンセル料を取られることはなかった。このご時世、ホテル側も仕方がないこととして扱っているのだろうか。

ラオス国境まではミニバスが出ている。カウンターで200バーツ払うと、バスまで案内された。いつ出るのかと聞くともうすぐとのことで好都合だった。だがその後乗ってきたのは3人だけで、いずれもタイ人。結局4人しかいないのであればと、別のタクシーに詰め込まれ、狭い思いをしながら国境を目指す羽目となる。タイミングは金曜日の午後、いつもなら外国人のビザラン希望者が乗ってくるはずだが、週末はビザ申請もできないので、空いているようだ。いや、元々ビザランする人ももういなくなっているのかもしれない。

車は国道に出た。いい道だ。意外と車が走っている。何となく1時間ほど走っていくと、国境に着く。まず一人がその手前で降り、次に私が国境の入り口付近で降ろされた。ということは、ラオスに向かうのは私だけということだ。タイ側イミグレに繋がる道で、『ビエンチャン行くか』とタクシー運転手に声を掛けられた。500バーツで行くというのだが、無視してタイ国境を歩いて通過した。

出た所で通行税を支払うゲートがあったが、今日は無料開放。バスに乗るには15バーツ。ボロボロのバスには既に結構人が乗っていた。かなりの荷物を持って乗り込んでくるので、ラオス人かな。バスはなかなか出発しないので暑かったが、時間はあるのでゆったりと構える。

奇想天外ビエンチャン2013(2)久しぶりに街歩き

3. ビエンチャン2

ビエンチャンへ戻る

そしてついにビエンチャンへ戻る。全く思いもかけなかったノンカイでの1泊。これはこれで面白い経験だったが、さすがに疲れが出た。帰りは実に呆気なく国境を越えた。ラオスへの入国書類を2日続けて書く、香港から深圳に通っている気分だ。

 

ホテルへ戻ると、スタッフが『帰ってきたか』という顔をした。それはそうだろう、折角チェックインしたのにそのままどこかへ行ってしまい、1日以上戻ってこなかったのだから仕方がいない。

 

部屋は偶々Kさんと2人一部屋にしていた。Kさんはこの部屋に泊まりたかった、と嘆く?実は彼は今晩日本へ帰るのだ。『とにかく1時間でも2時間でも寝れば』ということでベットに潜るとすぐに寝てしまった。私は久しぶりのネットに取り組む。

 

夕方ノイが迎えに来て、Kさんを空港へ送る。その車の中で、今回の目的である支援の打ち合わせが始まる。今回はノイプロジェクトの現状が理解できたこと、実際のイベントを見学できたこと、など、収穫はあった。Kさんのノイへの支援の気持ちは固まったと思う。そして晴れ晴れと空港へ消えていった。

 

ビエンチャンの華人

ノイの車で市内へ戻る。今日は沖縄のNさんに紹介を受けた日本人Mさんに会う予定であった。Mさんはラオスと日本を行き来しているが、実質20年以上ビエンチャンに滞在しているという。実は昨日教えられた電話番号に電話したところ、女性が出て、何と中国語を話した。それが中国系ラオス人であるMさんの奥さんだった。

ノイの車で到着したのは中華学校。ビエンチャンにも中華学校がやはりあった。この付近は華人が多いのだろう。Mさんが迎えに来てくれ、ノイを簡単に紹介したが、暗くて分からなかったようだ。後で『え、あのアイドルのノイだったのか』と残念がっていた。我々は普通に接しているが、何といってもノイは有名人なのである。

Mさんによれば、ビエンチャンも最近開発ラッシュなどがあり、相当変化してきているが、まだゆったりと暮らせるという。実際Mさんの家は居心地がよく、翌日から忙しいと聞いていたにもかかわらず、ダラダラと長い時間話し込んでしまった。

奥さんは華人の2代目だったが、色々な地域の華人の地が混じっいているようだった。他の場所だと『広東系、福建系』などときちんと色分けされているようだが、様々な事情でラオスの華人はベトナム華僑やタイ華僑などとの婚姻もあるようだ。ビエンチャンに住む華人はそれほど多くないが、一定の影響力は持っている。

この辺、夜間にタクシーはないという。するとMさんが近所にタクシーを頼んでくれた。やってきたのは奥さんの弟さん。当然中国語が出来るので、話してみる。『最近の中国からの進出の恩恵はないか』と尋ねると、『私たちはラオス人ですよ、今の中国人とは全然違う。彼らは金儲けしか頭にない』と強調していた。

7月23日(火)

ビエンチャンを歩く

 

 

翌朝は一人でホテルの朝食を食べる。私はこの朝食が好きだ。昨日予約していたのに、この飯が食べられなかったことは残念だった。でっかいフランスパンにオムレツ。今のホテルは基本的にビュッフェスタイルなので、このようにオーダーしてウエーターが運んでくるのが良い。

 

今日は夜まで予定がないので散歩に出る。先ずは直ぐ近くの文化会館の前を通ると何やらイベントが。なぜかパンダの着ぐるみが登場、結婚写真を撮るコーナーがあった。ベトナムやカンボジアを歩くと派手な結婚式に出くわしたが、ラオスも結婚式は派手なのだろう。

 

それからバトゥサイ(凱旋門)を見る。7年ぶりだが、この辺は特に変わった様子はない。ただ中国人観光客が目立っていたが。裏の道をどんどん行くと、立派な建物がいくつかある。役所だったり、ホテルだったり。更にその先はこれから開発される地域のようだった。最近の中国から急激な投資、ビエンチャンを変えていくのだろう。

 

ビエンチャンにも日本の銀行があると聞いていた。それがこのマルハン銀行。日本では考えられないが、パチンコ屋さんのマルハンがカンボジアで銀行を開業、今年ラオスにも進出した。ミャンマーにも出るようだ。

 

中に入るときれいな出来立てのオフィス。きちんと英語ができる女性が対応してくれ、日本語ができるスタッフもやってきて、丁寧に説明してくれた。基本的に口座が開設できるのは労働ビザを持っていることが条件。非居住者の私には無理だと分かったが、金利は米ドルで1年定期、6.25%と言われ、ちょっと心が動く。そういえば3年前にプノンペンで聞いたマルハンのレートは5%程度。開設記念キャンペーンなのだろうか。金融の世界では利益があるところにはリスクもある、ということは認識しておく必要はあるが、日本で預金しても0.1%などという実質0の国から考えると羨ましい。因みにその後見つけた中国工商銀行の支店にも立ち寄ってみたが、こちらは実質個人客お断り、の雰囲気が漂っており、金利もマルハンの半分だった。

 

歩いていると日本のお弁当を売っている店があった。後で聞くと日本人が経営しているという。ビエンチャンも着実に変化してきている。お昼はなぜかベーカリーでハンバーガー。このお店、7年前にもあって懐かしくて、入ってしまった。相変わらず欧米人が多い。

 

お寺にも行ってみようと思ったが、なぜかそこで足が動かなくなり、ホテルに退散。午後は旅行記を書いたりして過ごした。こういう時に快適なホテル空間が実にありがたい。日本人にとってホテルは寝る場所かもしれないが、本当はそこで過ごす場所。私のような者にとってはそこが住い。


 

日本のビジネスホテルはコンパクトで効率的だが、正直長くいるのに適さない。恐らくホテル側も分かってそうしているのだろう。逆に日本人に不可欠なのが風呂。だから日本のビジネスホテルは大浴場を併設するところが増えている。

 

夜は旧知のMさんと食事。何とホテルのすぐ近くに日本人が経営するレストランがあった。日本食レストランのイメージで探すとほぼ見落とすようなおしゃれな造り。ビエンチャン在住8年の日本人夫婦がオーナー。日本の家庭料理を思わせる食事が好評とか。

7月24日(水)

ラオセントラル

今日は朝8時の飛行機でバンコックへ戻る日。朝6時過ぎにホテルを出てタクシーを探したが、何と通りに車の気配がなかった。前日ホテルから『タクシーの予約は』と聞かれていたが、7ドルという料金をケチって予約しなかったことを悔いたが後の祭り。本当に途方に暮れそうになる。

 

よく見ると1台のバンが停まっていた。恐らくは客待ちの車だったが、運転手が空港なら行く、と言ってくれた。空港まで行って戻っても十分な時間がったのだろう。料金も6ドルで悪くはなかった。救われた。空港までは僅か15分程度。あっという間に着いてしまった。

 

今日は初めて乗るラオセントラル航空という飛行機。先日バンコックで新しいエアラインと聞いていたのでちょっと緊張していく。料金はLCC並の安さ。チェックインカウンター向かうと、私のパスポートを見た男性が『おはようございます』と流ちょうな日本語で言う。え、日本人、きちんとしたジャケットを着こんだその人はどう見ても日本人。

 

『こちらで働いておられますか?』と声を掛けると、なんとなんと『副社長です』との答え。外資系の航空会社を退職後、最近ここに入社したという。チェックイン後、2階の待合室にいると彼がまたやってきて話す。『とにかく新しい航空会社は安全第一です』という。搭乗時間になり、タラップを登ろうとすると副社長自ら、『行ってらっしゃい』とお見送りする。日本人がこれをすることが評判良いらしい。こんな人がいるんだ、とちょっと面白味を感じる。

 

飛行機は新しくはないが、サービスは悪くなかった。これで行きのバンコックエアーがガラガラだった理由が分かったような気がする。安くてサービスが良ければ客は流れる。この日の乗客はかなりいたことからも分かる。次回のビエンチャン訪問が楽しみになってきた。

 

奇想天外ビエンチャン2013(1)いきなりノンカイへ、忘れえぬ夜

《ビエンチャン散歩2013》  2013年7月21日-24日

昨年11月に訪れたラオスのビエンチャン。そこで見たノイの活動は衝撃的だった。私は何らかの形で彼女の支援をしたと思っていたが、具体的な策はなかった。そこへ大阪のKさんが忽然と現れた。私の話を聞き、『支援したい』と申し出てくれた。だが、実際に現場も見ていない、ノイに会ってもいない人に支援を要請するのはどうだろうか。そういうとKさんは『ビエンチャンに行きましょう』と言い出し、当然のこととして紹介者である私もビエンチャンに飛ぶことになった。

 

7月21日(日)

1. ビエンチャン1

ビエンチャンまで

Kさんはバンコックにやってきて2泊した。費用節約のため、無料で泊まれる場所に2人一部屋で泊まった。これにより、色々な話が出来て、よかった。当日朝タクシーでスワナンプーム空港へ向かった。空港までは順調だったが、空港内が大混雑。バンコックエアーのチェックインカウンターはいつものように長い列が出来ていた。それでも2人で待つとそれほど苦痛ではない。ようやくチェックインしたのは45分後。それからイミグレを通ったが、これまた滅茶苦茶混んでいた。

 

バンコックエアーの特徴の一つに、エコノミークラスでも使える空港ラウンジがある。Kさんにもこの話をしており、興味を持っていたが、何とイミグレを抜けた時は既に出発30分前。搭乗のアナウンスが聞こえてきて、慌てて搭乗口へ。搭乗口には既に人影もない。乗り込むと、なぜか殆ど人がいない。

 

てっきり皆イミグレで手間取っていると思っていると何と飛行機が動き出す。数えてみると乗客はたったの18人。こんな飛行機、初めて見た。バンコックエアーにチェックインする人はあんなにいたのに、ビエンチャンに行く人はこんなに少ないのだろうか?機内食は朝からしっかり出たので食べているとすぐにビエンチャンについてしまった。

ビエンチャンでトランジット

イミグレはスムーズに通過した。空港にはノイが迎えに来ているはずだったが、見当たらない。携帯に電話するともうすぐ着くという。一瞬焦ったが、5分ほどで合流し、ノイの運転で市内へ。先ずはいつも泊まるホテルへチェックイン、荷物だけ置いてすぐに昼ご飯。陽光飯店という中華系のレストラン。ノイの教え子の女性2人も参加する。外国人と一緒に食事をする、それも彼女らへの教育の一つなのだろう。でも彼女らは恥ずかしがってなかなか話さない。食事はラオス式?の鍋。これはこれで美味しいし、面白い。

 

それから車はスラム街へ進んだ。一体何のために?ノイは車を下り、我々には車内で待つようにと告げる。ある家へ入り、女の子を連れて出てきた。彼女はノイの教え子で、このスラムに住む。歌と踊りが上手く、近所の子供たちを集めて歌ったり、踊ったりしているという。若き指導者なのである。

 

『彼女は家庭環境には恵まれていないが、才能はある』という。実は本日はこれからタイのノンカイでショーがあり、ノイ一行と我々はそこへ向かうのだが、彼女は家庭の関係でパスポートを持っておらず、一緒に行くことが出来ない。それが残念だと、わざわざノイは彼女に会いに来て抱きしめた。このような交流、愛情表現が大切なのだと分かる。

 

さて、そろそろノンカイへ向かう時間だが、と思っていると見慣れた家の前に停まる。ノイの実家、家具屋さんだ。ノイが是非お父さんに会ってほしいという。彼女のお父さんは、元教育者で、昔は王家の人にものを教えたこともあるという。だが2年前に脳こうそくで倒れ、現在お話はできるが麻痺が残っている。

 

お父さんは英語が流暢。必ずしもノイの活動に賛同している訳ではないことが分かる。それはそうだろう、ミスラオスでオーストラリア留学にも出し、おまけにトップアイドル。こんな娘が困難な障害児、女性支援をしなければ、優雅な生活が約束されていたはずだ。ラオスは母系社会の末子相続。実はノイが末の女の子であり、結婚して跡を取って欲しかった、との強い願いがあった。

 

それからノイの新しいオフィスへ向かう。昨年11月にあった学校は家主からの立ち退き要請があり、既に閉じていた。集まっていた子供たちも今は10人程度しか収容できない。困っていた。ラオスは本当に難しい国だ。オフィスはお母さんの土地に建てられていた。ここに数百人を収容できる寄宿舎付きの学校を建てることが彼女の目下の課題だ。その夢はいつ実現できるのだろうか?今回の我々の使命はそのための準備。

 

2. ノンカイ

簡単なイミグレ

元々の予定では午後3時頃にノンカイで活動をするとあったが、既に時間は午後4時。これがラオス時間か。だが出発したら、30分ぐらいでタイとの国境に着いてしまう。この近さは何だ。しかしイミグレで誰かを待つ。タイ式のラーメンを食べる。日が西に傾く。

 

今日のショーに出演する女の子たち20名と合流した。彼女らはビエンチャンから1時間ほど離れた場所に住んでおり、このためにやってきたのだ。車が遅れてこの時間となる。20数名のイミグレ手続きは意外と時間がかかる。みな楽しそうに待っている。

 

でもタイとラオスの国境が簡単に越えられることが分かって収穫だ。ラオス人が車でどんどんタイへ入り、買い物などしてまたビエンチャンへ帰る。確かにビエンチャンの日本人も『必要なものはタイで買う』『病気やけがはタイへ行く』という意味がようやく分かった。

 

大宴会へ

そしてイミグレを越え、ノンカイの街に入り、更には住宅街へ。今朝タイから来たのに、また今タイにいる自分に少し驚く。目の前に立派なお屋敷が見える。庭には沢山のテーブルが出され、人々が食事していた。どうやら我々を待っていたようだ。ノイたちはここではプロのパフォーマー。楽屋へ向かい、着替えや化粧を。私とKさんはいきなりファーストテーブルへ案内される。

 

見渡すと、個人の住宅の庭にテーブルが十数個、100人以上が食事をし、酒を飲んでいる。入口にちょうど頭の毛を剃った若者がいた。実は明日彼は一生に一度の出家をする。カオパンサー、雨安吾入り。タイでは大事な行事、ましてや有力者の一族にとっては盛大なお祝いの日なのであった。そんな日であるから、ラオスの有名人、ノイ一行を招いて、舞台を盛り上げようということだろう。

 

舞台では歌手が歌を歌い、テーブルではお客が大量に出された料理を食べる。実は暗くて、何が置いてあるのか、よく見えなかったが。テーブルのおじさん達が、何となく興味津々でこちらを見ている。英語が話せるおじさんがビールを持ってやってくる。田舎の宴会、楽しそうだ。

そしていよいよノイ一行のショーが始まった。ラオスの伝統舞踊、歌が披露される。ノイ自身が中心となり、ショーが展開されるが、弟子の女性たちも日ごろの練習の成果を存分に出していると思われる。このような人前で演じること、それは彼女たちの実戦練習の場であり、同時に支援者との関係を築き、支援を受ける、それがノイの目的なのである。

 

1時間ぐらいショーは続き、観衆は大喝采。その後は会場の人々を次々に舞台に上げ、一緒に歌い、一緒に踊る。何と私とKさんにもお声がかかり、舞台へ。観衆の『日本の歌が聞きたい』とのリクエストに困っていると、ノイが『中島みゆきの時代、歌おう』と言い、歌いだす。酔いも手伝い、ノイの後について、大勢の前で歌を歌ってしまった。上手いかどうかではなく、日本人がわざわざやってきて、日本語の歌を披露したことに聴衆は満足したようで、人々が拍手してくれた。これも一つのノイマジック。人をその気にさせる、それは教育の基本だろう。

 

会がほぼお開きになり、皆が帰っても、歌い、踊りまくっていたタイ人のおばさんがいた。Kさんいわく『まるで大阪のおばちゃんのノリや』『吉本にスカウトしたい』と。確かに疲れしらず、ノリノリで人のことも目に入っていない様子。すごいの一言。

 

気が付くと時刻は夜中の12時。ノイが『イミグレは10時に閉まったから、今日はノンカイに泊まりましょう』という。え、折角ビエンチャンのホテルにチェックインしたのに。慌ててホテルに電話して、今日帰らないことを告げる。でもどこに泊まるの?この家の家主がホテルを手配してくれるという。

 

ところが、今晩は宿が結構埋まっていた。カオパンサーの影響かもしれない。2₋3軒車で訪ね歩き、ようやく1軒見つかる。ところが・・、その部屋には小さなベットが1つだけ。『ここに2人で寝て』と言われて、Kさんと唖然としているうちに、皆行ってしまった。辛うじてお湯が出来るシャワーがあったようでKさんはシャワーへ。既に1時半であり、オジサンの私は、ベットの端で丸くなるとすぐに眠りについてしまった。Kさんと私は1つベットで夜を過ごした。『一生忘れることのできない経験』をした、と後にKさんは語る。

7月22日(月)

カオパンサー

目覚めは爽やか、とはいかなかった。何だか頭が重い。今は何時だろうか。鳥のさえずりが聞こえる。外で声がした。何と既に皆出発の準備が出来ていた。タイ時間ではないな、この速さは。周囲を見渡すと何もない田舎。ここはここで環境が良い。

 

ビエンチャンへ帰るのかと思いきや、昨晩の宴会場へやってきた。そこにはノイチームのメンバーがいて、朝ごはんを食べていた。我々も朝ごはんかと思ったが、なぜかそこを離れる。説明は何もなく着いて行くしかない。

 

朝市へやってきた。市場を見せてくれるのか、と思いきや、誰かを探しているようだ。何と昨晩のメンバーの数人が待っていた。そこで朝ごはんを食べるために。ようは連絡が上手くいっていなかっただけのようだが、これはこれで面白い。カオトーンと呼ばれるお粥が食べたかったが、なぜかなかった。目玉焼きの上にひき肉を散らした食べ物が美味しかった。

 

そしてビエンチャンへ、と・・、いやお寺へ来てしまった。そうか、今日はカオパンサー。その儀式に参加するようだ。これは願ってもないチャンス。Kさんははてなマークを顔に出していたが、従うしかない。

 

そのお寺は結構な敷地がある比較的新しい所だった。恐らくは地元の有力者が寄進したのだろう。真新しい仏像が屋外に設置されている。更に新しい仏像の建造も行われている。タイでは徳を積むことが重要であり、来世へのカギとなる。宗教については色々な意見があると思うが、今の日本を考えると、『来世思考』は必要ではないか、と感じることが多い。

 

儀式が始まった。えらいお坊さんが講話する。今日出家する人々が数人、袈裟を着て頭を剃り、並んで前に座っている。講話はタイ語で意味は分からないが、座って聞いているだけで心地よい。一生に一度の出家、これも両親に対しる功徳だというが、出家する気持ちはどうなのだろうか。

 

その後信者がお坊さんにご飯をサーブする。これも一つの功徳。出家者は一つの細い紐を持ち、食事をしていた。我々にも食事が振る舞われる。麺に汁やおかずを掛けて食べるが、これは美味しい。また食べ過ぎる。信者は偉いお坊さんの周りに集まり、また何か話を聞いている。この気持ちは大切だ。

 

 

ビエンチャンの歌姫に会いに行く2012(4)国際バスでウドンタニへ

11月5日(月)  ホテルの庭でブレックファースト

翌朝はホテルの庭でブレックファースト。このためにこのホテルに泊まった訳だが、予想通り気持ちの良い朝となった。風が吹き抜ける、木々がかすかに揺れる。こういう環境で食事をするのは良いものだ。フランスパンにオムレツ、フルーツ、十分だな、これで。

このホテルにはスペイン人やドイツ人が泊まっていた。彼らは朝から賑やかに食べていた。それもまた良し。日本人と思われるオジサンが一人で新聞を広げている。それもまた良し。皆さん、思い思いの時間を過ごしている。

街に散歩に出た。今回はバトゥサイすら行っていなかった。だが歩き出すと意外と暑い。更には大きな道を歩いていると、先導車両に導かれて、各国代表団の車が続々と続いている。今日はASEMの開幕だ。あんまりウロウロしているのも何かと思い、旧市内の細い街などを歩く。

因みに野田首相は何故かこの小さなビエンチャンという街に3泊もするらしい。一体何をするためだろうか。日本から大勢の報道陣が来ているが、彼らの狙いもASEMではない。野田さんが衆議院を解散するのか、の1点に集中している。折角ビエンチャンまで来て、国内政局とは?一方温家宝総理は、3日後に5年に一度の共産党大会を控えていたが、1泊でやって来てパフォーマンスを繰り返していた。これが今の日中の東南アジア外交であろう。

昼はおしゃれないカフェで頂く。豪勢なランチプレート、ちょっとお金があれば、ビエンチャン生活は優雅かも知れない。コーヒーも美味しい。日本の報道関係者と思われる4人連れが入って来た。何だか少し雰囲気が壊れた。

国際バス

午前中にバスターミナルへ行き、午後2時のウドンタニ行きバスのチケットを買った。午後1時半に行って見ると、既にチケットは完売、午前中に買っておいてよかった。だが一体どこから乗ったらよいのか分からない。人に聞くと「ここだ」というのだが、出発時間近くになってもバスは来ない。不安。今日はASEMで街中、大変。まさかキャンセル?

その時、バスが入って来た。立派なバスだ。考えてみればこれも国際バス。皆が一斉に乗り込む。荷物も積みこまれる。一応指定席である。2時は少し過ぎたが、それほど遅れず出発したのにはホッとした。何しろウドンタニから飛行機でバンコックへ戻るのだから。

バスは田園風景の中を一路国境へ。1時間も掛からずに到着。立派なイミグレだ。次々にバスが到着し、イミグレが込み合う。混んで来たらいきなり別のゲートを開ける。先着順も何もない。まあいつかみんな通れるんだろう。バスに全員が揃うとタイ側国境へ。

タイ側を抜けると、何故かそこにタクシーの運ちゃんたちが待っている。バスより速いらしい。というより、もし空港に直に行きたければ、このタクシーを使うのだろう。良く出来ている。私は飛行機の時間までかなりあったので、そのままバスに乗る。

タイ側では様々な雑貨を売っている。ここで物資を調達して、ラオス側に持ち込むのだろう。と思っているとバスの運転手がある店の前で停まり、店の人が何かをバスに投げ込んだ。これが運ちゃんの小遣い稼ぎか、面白い。こんな役得があって、バスの運ちゃんやってられるのかもしれない。

4.ウドンタニ    街

ウドンタニのバスターミナルに入ったのはビエンチャンを出てから2時間半は過ぎていただろうか。距離にしたら50-60㎞かも知れない。やはり国境で時間が掛かる。先ずは腹が減ったので、その辺の屋台で麺を食べる。美味い。これが一番良い。

目の前にショッピングセンターが見えた。これがビエンチャンで聞いていた「ラオス在住者が買い物に行く場所」らしい。セントラルもバスターミナル近くに作るところ、良く分かっている。結局中へは入らなかったが、恐らくはタイのどこにでもある品揃えなのだろう。

空港へ行く方法が分からない。タクシーなどは走っている雰囲気すらない。トゥクトゥクが沢山列をなして停まっている。いくらか聞くと「100バーツ」だという。そんな高くはないだろうと「60バーツ」と言ってみると、誰一人振り向かなくなる。80バーツが定価のようだ。どうやらルールがあり、60バーツで乗せるとルール違反らしい。この辺、面倒くさい。

空港まではそこそこ遠いのだろうと思って、人のよさそうなオジサンのトゥクに乗ったが、田園風景を15分も行くと到着してしまった。こんなに早く着くのなら、もう少しウドンタニの街を見学しても良かったな。でも何もなさそうだったな、ウドンタニ。

空港で

空港も小さかった。チェックインカウンターも直ぐに見つかった。確か搭乗予定より一本速いフライトがあるはずだ。それに乗せてもらおうと申し出たが・・。何とそのフライトはキャンセルになっていた。エアアジア、なかなかやるな。

これから2時間以上、どうすればよいのか。空港内に無料のWIFIもないようだ。仕方なくレストランで聞いてみたが、「今日は繋がらない」とのつれない答え。どうするんだ。隣のカフェに聞いてみると「繋がるよ」と。本当にどうなっているんだ、ここは。

午後6時に恒例のタイ国家が流れ、全員が起立した。こういう動作は日常的になり過ぎているとはいえ、大切なことだと思う。日本のように日の丸・君が代に反対したり、宗教を教育でお教えない国、それは世界から取り残されていくことだろう。勿論日本人の特殊性を利用して、何かを企む人もいるので仕方がない面もあるが。

午後7時前には何事もなく、搭乗。あっと言う間にドムアン空港に着いた。あのファランポーン駅からノンカイまで16時間も掛かった鉄道の旅はなんだったのだろうか。まあ、それも旅、これも旅か。




ビエンチャンの歌姫に会いに行く2012(3)歌姫ノイに劇的に再会して

3.ノイプロジェクト  大発表会

夜はホテル近くにある文化会館へ行く。日本の某自治体の人々がノイを訪ねる。ところがノイは仕掛けていた。ただの交流ではなく、子供達が舞台に立つ一大イベントに仕上げてしまったのだ。それも訪問者には全く知らせることもなく。前日街を歩いていると、ノイの仕掛けたイベントの宣伝が張られていた。これは単に日本人の為のイベントではない。どうなるんだろうか、何だかワクワクする。

文化会館は実に立派な建物だった。2001年、中国の支援で建造されたとある。こういう所がしっかりと目立つ。中に入ると人が集まり始めている。その中に日本人の一団がいて、合流する。私は全く無関係だと思っていたが、何とその一団は私が通った学校のあった場所から来ていた。中にはその学校の先生だった人のお姉さんまで居た。やはりご縁はある、ということで溶け込む。

会場は広い、1000人以上は入れるだろう。そこに徐々に人が入り、席が埋まって行く。だが定刻が過ぎても始まる気配はない。その内に元大臣の一団が登場し、メイン席に座る。それから大分経って幕が開いたから、中では色々とあったのではないか。

そしていよいよパフォーマンスが始まる。初めはラオスの民謡、そしてお祈りなどもあった。歌って、踊って。それはとても障害を持つ子供達のものとは思えなかった。ノイを中心に、数歳から十数歳までの子達が、一生懸命歌う、踊る。これにはちょっと感動した。こんな大きな舞台で、普通の子でも上手く出来ないことが多いだろうに。いや、この舞台に立ってしまえば、障害も何も関係がない、ということだろう。「音楽と踊りで障害を克服する」、ノイのアイデアは確実に成果を上げていた。

初めは1時間ぐらいかと思っていたが、様々な出し物があり、何と終わったのは10時近かった。最初の予定も大幅にオーバーしていた。それでも子供達は溌剌としていた。ノイの活動が向上していることが十分に分かった。

11月4日(日)  ホテル移動

興奮冷めやらぬ翌日。今日はノイの学校を訪ねる予定になっていた。だが今日からASEMのデレゲーションがビエンチャン入り。野田首相も温家宝総理もやってくる。ということで、狭いビエンチャンは大騒ぎ。ホテルはどこも満室で、私の泊まっているホテルでも、今晩の宿泊は断られてしまった。そこで、最近ビエンチャンの行った台北のHさん情報で、「きれいな庭で朝ごはんが食べられるプチホテル」に移動することとなった。ここは文化会館を挟んで反対側。歩いて移動する。

確かに庭は素晴らしい。だが部屋はこれまでよりかなり劣った。ASEMメンバーもここまでは来なかったわけだ。明日バンコックに戻る方法を相談したが、何故か要領を得ない。結局分かったことは、「ホテルで頼むと手数料が高いから自分でやった方が良い」ということ。なかなか親切だった。

街に出る。河沿いを歩いていると、先日発見できなかった遼寧餃子館があった。場所を移転していたのだ。店には中国語が出来るウエートレスが一人いた。水餃子と野菜炒めを頼む。中国人観光客も来るようだが、お客は地元の華人が多いとか。バンコックの店の関連などを尋ねたが、オーナーしか分から無いとのことだった。

再び空港への道へ出る。今日は昨日と異なり、30mおきに兵士が銃を持って警備に当たっていた。もうすぐ野田首相がここを通るらしい。何だか北京の警戒態勢を思い出すが、暑いせいか椅子に座っている人もいて、まだまだのんびりしていた。

迷子になる

6年前に訪ねたノイの学校。その時は車で連れて行ってもらったので、うっすらとしか記憶がない。バーンタオ氏からもらった住所を頼りに歩く。ホテルで聞いても、主な目印だけを教えられ、後はそこで聞くしかないと言われていた。

厳戒態勢の大通りから一歩入ると、そこは田舎の風景。のんびりと歩いて行き、その辺の店で聞いてみたが、要領を得ない。また別の道を行く。どうしても思い当たる風景に出合わない。約束時間は2時。かなり余裕を持って出たものの、時間はどんどん過ぎていく。流石に焦りが出る。

1軒の店の女性は英語が出来たので話を聞くと「この村は広いのよ。これだけの情報ではとても行き着けない」と電話してくれたが、何とその電話番号は既に使われていなかった。一体どうなっているんだ。最後の手段として、今回日本からの一団を率いているYさんの携帯に電話するも誰も出なかった。これで完全に道は絶たれた。途方に暮れる、とはこのことだ。

やはり最初からタクシーに乗ってくれば良かった、と思っていると、何故か目の前にタクシーがやって来たので乗り込み、また住所を差し出してみる。運転手も携帯でどこかへ問い合わせてくれたが、首を振り、万策尽きる。取り敢えずホテルへ帰って出直すか、と車が動き出した瞬間、携帯が鳴る。Yさんからだった。後は運転手が場所を聞き、連れていってくれた。私が思っていたのとは全く違う場所だった。何と学校の場所は移転していたのだ。やはりご縁のある時は辿り着くものだ。ただ私の行動は無謀過ぎたかもしれない。

ノイの学校

学校はかなり立派になっていた。3階建てで屋上まである。屋上にはステージまであって、そこに集合した。子供達が現在の生活や学校の状況を説明してくれた。驚いたことに多くの子供達がかなり遠くから、しかも通常の学校が終わってから通ってきていた。ノイは言っていた。「どうしても寄宿舎付きの学校が欲しい」、その通りだと思う。障害のある子が遠くからやってくる、その困難さと必要さが痛感された。

ノイを支えているお坊さんたちも話をしてくれた。このような活動は一人ではできない。支えが必要だ。そこにお坊さんがいる、これも今や日本には既にない。羨ましいほどの信頼関係、フレッシュな若いお坊さんたち、いいな。

1階でお坊さんたちの祈祷があり、セレモニーがあった。昨日の緊張感とは打って変わった晴れやかなパフォーマンスだった。やがてみんなで踊り出す。ゲストも誘われ、踊り出す。面白い。

実はここには日本人以外にもノイの支援者として、シンガポール、マレーシアの実業家、タイのボランティア青年なども来ていた。彼女の活動は他の東南アジアの人々にも受け入れられている。特にタイの青年たちは黙々と裏方を務めていた。実にシャイ。好ましい。私はシンガポール、マレーシアの華人たちと中国語で会話していた。彼らも日本人と中国語を話す機会は少ないようで好奇心を持っていた。

そしてお開きに。実はそれまで私はノイに挨拶していなかった。彼女は忙し過ぎたのだ。最後に挨拶すると「ちょっと待って」と言って、私を彼女の車に押し込んだ。日本人支援者達もミニバスで同じ方向へ向かう。車内で彼女は最近の状況を説明し始める。どうしても200人以上が入る新しい学校が必要だ、と力説した。

そして何と新学校建設予定地に案内された。ここはお母さんの土地だという。私財を投げうち、プロジェクトを進めようとしている。そのパワーはすごい。子供達の機能が向上していく喜び、これは何物にも代えがたいようだ。誰か支援してくれる人を探さなければならない。

インタビュー

そして再度学校に戻った。何と子供達にインタビューする機会を与えてくれた。子供たちは口々に言った。「ここに来られて幸せです」と。有名な歌手であり、ラジオのDJ、そしてミスビエンチャンでもある憧れのノイに会うだけでも幸せなのに、自分たちのことを心配し、一緒に歌ったり踊ったりしてくれる。そして自分達に自信がついてくる。昨晩の大舞台も相当緊張したが、楽しかった、嬉しかったという。ノイに対する感謝を口にする彼ら彼女ら。その声には「自分を理解してくれる人がいる」という喜びがあるようだ。

スタッフにも話を聞いてみた。やはり「子供達の成長が実感できる喜び」が大きいようだ。この学校は決して皆に支持されている訳ではない。誤解している人も多いという。そんな逆風の下でも支援できるのは、子供がそれを必要としているからだろう。生まれ落ち時、決して恵まれていなかった子らが、頑張っている姿は素晴らしいとも言う。

こどもの親はどうだろうか。「昨晩の舞台を見て、一家で泣きました。あの引っ込み思案で何もできないと思っていた子が、あんなに大勢の人の前で堂々と大きな声を出していた。信じられない。喜びで胸が張り裂けそうだった」とあるお母さんが言う。そして「生まれた時に障害があると分かると、誰もこの子を理解できなかった。最初はこの学校に連れて来るのも父親は反対した。諦めていたんです。でも・・・、無理して連れて来てよかった」と。

更には「この学校にはとても感謝しているが、自分達には支援するだけの余裕はありません。何とか寄宿舎を作ってくれれば、自分の子供も楽になるし、他の障害児たちの助けになると思います」と支援への期待を話す。

コラム:   http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5327

既に日が沈んでいた。自分は無力だな、と思いながら、ノイの学校を後にした。






ビエンチャンの歌姫に会いに行く2012(2)中国市場

2.ビエンチャン  居心地の良いホテル

2人は適当な所で降りてしまった。私はトゥクトゥクの運転手に予約したホテルの住所を渡していたが、彼もよく分からないようで、その辺で降ろされる。まあ、まだ昼間だし良いか。すると運転手が、看板を指す。言われた方を曲がるとその路地にプチホテルがあった。

かなりきれいなホテルで驚く。土足厳禁。フロントの対応も実に丁寧。1泊35ドル、朝食付き。これは当たりのホテルだ。2階の部屋も広く、ベッドも大きく、シックな雰囲気。WIFIも繋がる。これは快適だ。夜行の疲れが出て、暫し横になる。

このホテル、実に心地よい何かがある。夜も静かだし、翌朝も鳥の囀りで起き、朝食も美味しかった。ロビーのソファーにボーっと座っていると、完全に時を忘れてしまう。ラオスの時間はこのように流れる。

外に出ると日差しが強かった。取り敢えず腹が減ったので、ランチへ。地図で見ると遼寧餃子館という文字があり、そこへ向かう。このお店、恐らくはバンコックにある餃子屋の支店だろう。中国系であることは間違いなく、ビエンチャンを知る取っ掛かりになると思った。

だが、いくら探してもその店は無かった。ようやく看板を見付けたが、店は移転したらしかった。ところがその文字が読めない。完全に手掛かりを失った。仕方なく、その辺で鶏ご飯を食べた。これも安くて美味かった。6年前にガイドといった店に雰囲気がとても似ていた。

焼き鳥

その後、旧市内を歩き回ったが、6年前と殆ど変化が無かった。アジアの各都市、特に首都はプノンペン、ヤンゴンなどどこも大きな変化を遂げているが、ここビエンチャンは違っていた。これはどうしたことだろうか。欧米人の観光客に混ざり、中国人や韓国人も見られるが、その数も多いとは言い難い。

ホテルに戻り、ベッドの横になると、そのまま寝入ってしまった。夜行列車の疲れはかなりあったのだ。ここは癒しの空間というやつだろうか。すっかり辺りが暗くなるまで熟睡した。

夕飯を食べようと外へ出た。爽やかな風が吹いて気持ちが良い。あまりお腹が空いてはいなかったので、麺を食べる。その辺の食堂に入り、「メン」というと麺が出てくる。これはタイ、カンボジア、ラオスどこでも共通で実に都合がよい。家族経営のようで何となく微笑ましい。

それにしてもビエンチャンの夜は暗い。街を歩いていても、相当昔のアジアのイメージがある。所々にきれいなバー屋カフェが見えるが、欧米人向けだろう。何とも素朴な街だと言える。河沿いも観光客が歩いているが、やはり暗い。

フードコートのような場所があり、店先で鶏を焼いていた。ビエンチャンと言えば、ガイヤーンを思い出し、そうすると何故か無性に食べたくなる。ここにはフランス人のオジサンがおり、欧米人に愛想を振りまく。私はビールも飲まず、ひたすら立派な、そしてジューシーな焼き鳥を頬張る。実に幸せな夜となった。

11月3日(土)  Mさん

翌日ホテルで朝ごはんを食べ、午前中は部屋でネットを触って過ごす。私は常に旅をしているので、旅先と言えども時々メール処理や原稿を書く時間が必要である。その場合、その環境で処理能力が大きく異なる。今回はどんどん処理が進む。嬉しい。

あっと言う間にお昼になる。外は日差しが強い。ホテルロビーでMさんが待っていた。彼はビエンチャン在住10年の日本人。この街では貴重な日本人だろう。色々とビエンチャン事情を聴く。ビエンチャンも旧市内は保存地区のような状況だが、郊外には新しいビルが建っており、それなりに発展しているようだ。中国からの投資も活発だが、ラオス政府は支援は貰うものの、ベトナム、タイとの関係、更にはアメリカも含めて、上手い外交のかじ取りを迫られている。今回開かれるASEMがその舞台になるだろう(Mさんも日本のマスコミの取材に付き合うため、明日からは忙しいようだ)。

ホテル近くのフランス料理屋でピザなどを食べる。フランスパンが美味しい。ビエンチャンと言えば、安くて美味しいフレンチのイメージもある。緑茶を頼んだが、ティバッグ。かなり薄めの雰囲気がフランス人的には良いようだ。ここに住んでしまうと、バンコックなどガチャガチャした街は落ち着かないだろうなと思う。

茶館

Mさんに教えられた中国茶館へ行って見る。ここは旧市内の外れ、空港から市内への大きな道沿いに面している。看板に漢字もあり、期待が持てる。店内にはお茶道具もあり、本格的な茶館のイメージがある。

だが、基本的にお茶だけを飲みに来る人は稀で、中国料理を食べるレストランであるようだ。茶葉は台湾産などと書かれた物があり、オーナーは台湾人だと聞かされるも、彼女は今ビエンチャンには居ないとのこと。片言の英語しか通じずに(中国語は出来ない)、あまり意味のある会話にはならなかった。

ラオスで一般の人が飲むお茶は、コーヒーを飲む場所でポットに入っている渋めの緑茶(無料)ぐらい。なかなか商売は難しいだろうが、この店は道楽なのだろうか。

中国市場

更に空港の方向に歩いて行く。茶館の北には中国市場という中国製品の市場があるが、空港近くに新たに新中国市場が出来たらしい。歩くと結構あるが、途中には中国料理屋の看板がいくつか見えた。中国人の流入がかなり多いことが分かる。また建材屋などの看板には大きな文字で漢字が書かれている。Mさんによれば、政府はあまり漢字の看板が目立つのを良く思っていないようだが、商売上必要があればやむを得ない。それ程、中国の影響力が強まっているということだろうか。

かなり空港に近い場所に新市場はあった。規模は相当に大きい。だが、人は殆ど歩いていなかった。そして店舗も埋まっていなかった。看板には「昆明、南寧、広州⇔ビエンチャン」という表示があり、バスなどで繋がっていることは分かる。

店舗には中国製の雑貨類が多く置かれていた。傘やビニールなど中国製品はアジアで最も安くて質もまあまあ。ラオスのような国にはドーッと商品が流れ込んでいる。中国の存在感は道路や橋などの経済支援と、このような日用品の両面からなされている。

三江国際商場と書かれた大きな建物もあった。中に入ると驚いたことにラオスの民族衣装から日本人形まで並んでいた。中国は何でも作っているという印象と同時に何故ラオスに持ち込まれているのか、実に不思議であった。

帰りは川沿いを歩いてきた。まだ日が高かったが、西に傾く様子はなかなか良かった。近所の子供達が屈託なく遊んでいた。

 

ビエンチャンの歌姫に会いに行く2012(1) 列車でビエンチャンへ

《ビエンチャン散歩》  2012年11月2-5日

2006年にラオスのビエンチャンへ行ったことがある。あれはバーンタオ氏に「行ってみたい」と行った所、「それじゃあ、ボランティアしてください」と言われ、ノートと鉛筆を担いで行った。あのノイちゃんはどうしているのだろうか。何となく、気にはなっていたが、その後行く機会もなく、ノイプロジェクトの消息も分からなかった。

バンコックに滞在を始めた時、バーンタオ氏より「日本のある自治体の人々がノイに会いに行くらしい」との情報を得て、俄然行って見たくなる。ちょうど中国・日本の旅からバンコックに戻り、スリランカへ行く間がぽっかり空いていた。これは行くしかない、が予定は良く分からない。

11月1日(木)   ビエンチャンへ   タイ国鉄の夜行列車

前回はバンコックから飛行機に乗ったので、今回は列車で行って見ることにした。ただ経験者からは「鉄道は遅れるからやめた方が良い」などと言われる。タイのような国の国鉄がそんなに遅れるわけがない、完全な思い込みである。2日前にファランポーン駅へ出向き、ノンカイ行きチケットを購入。混んでいるとは聞いていたが、案の定、寝台車の下のベッドは売り切れていたので、上段を取る。エアコン付にしたら、688バーツだった。

当日MRTでファランポーン駅へ。駅内で麺を食べて気分を出す。沢木耕太郎はここで7歳ぐらいの少年と出会い、その清々しい姿勢に感動していたと思う。しかしこの駅は改札が無い。ホームへの入場は全く自由だ。40分前に行って見たが、列車は入線していなかった。何だか既に嫌な予感が。それでも20分前には無事入ってきて、乗客も乗り込み、定時近くに出発かと思ったが。やはり・・20分は遅れた。夜のバンコックの街を走るといれば聞こえが良いが、暗闇をあまりにもゆっくりと行く。どうなっているのか、まるで交通状態の様相を呈している。ドムアン空港横の駅まで1時間半ぐらい掛かった。先が思いやられる。

あまりにやることが無いので食堂車を覗く。何人かがビールを飲んでいる。私はちょっとお腹が空いたので、野菜炒めとご飯を貰う。これで100バーツは高い。食堂車の従業員は家族かな。英語も出来て、会話も出来た。でも意外と忙しい。兎に角売り上げを上げないといけないらしい。飲み物のオーダーなどをひっきりなしに取ってては客車に運んでいく。

出発当初は座席となっていた下の段、車掌さんが来て、順次寝る準備に入った。先ずは上の段にシーツを敷き、枕を置く。下の段も椅子をたたみ、ベッドに。実に手際が良い。このスピードがあれば、列車は遅れないはずだが。本当にやることが無くて、寝る。ところが上の段は結構狭い上に、クーラーが効いていてかなり寒い。一応パジャマを持って来たので着込むがそれでも足が冷える。困った。列車の走行音も良い影響を与えず、眠りは凄く浅くなる。この季節はクーラーなしの車両を選択するのがよい。欧米人でもクーラーを嫌って、かつ安い車両に結構人がいた。失敗した。

11月2日(金)

この列車の所要時間はバンコックからタイとラオスの国境であるノンカイまで12時間。夜8時に出て、朝8時に着くはずである。ところが朝6時頃起き上がっても、一向に着く気配がない。というか、車内放送は全てタイ語で全く分からない。私はラオスのガイドブックは持っていたが、タイの物は持っていなかったので、地名が分かっても今どのあたりは分からない。まあ、終点まで行くのだから気にすることはない。

食堂車で朝飯を食う。カオトーン、にんにくの効いたお粥、雑炊?これはどこで食べても美味い。車窓から朝日を眺めながら食うとまた格別である。食堂車ではトーストやサンドイッチとコーヒー、紅茶のデリバリーが忙しい。皆、自分の席で食べているらしい。席に戻ると寝床はきれいに片づけられ、座席になっていた。

朝8時になったが、今どの辺だろうか。東京なら「ただ今3分遅れています。誠に申し訳ありません」などいう放送が流れるが、ここでは釈明も無ければ、勿論謝罪などない。皆、黙々と目的地到着を待っている。斜め向かいの爺さんが時々笑顔を送って来るが、何しろ言葉が通じない。それ以上進展しない。

ノンサット、という駅名が見えた。ノンカイに近いのかと思ったが、まだまだ列車は水田地帯を走る。ようやくウドンタニという駅名が見え、大勢が降りていく。どうやらもうすぐのようだ。最後に座席車両を見学したが、この固い椅子で10数時間はきつそうだった。

ついにノンカイに着いた。時刻は午前11時40分、実に16時間近くが経過していた。遥々来たな、そんな田舎の風景があった。

たった15分の国際列車

乗客は待ちかねたように急いで降りていった。隣の爺さんも笑顔で出て行った。そして殆どの人が駅の外へ足早に出る。そこからトゥクトゥクに乗って国境を越えるらしい。私は周囲を見渡した。そこにはわずか2両の列車が見えた。これだ、私の乗るものは。駅舎の中にチケット売り場があった。2等車30バーツ、3等車20バーツの表示があったが、どう見てもそんな区別はない。20バーツ払う。そしてイミグレを通過。ただの改札を通るような感覚で、タイを出国した。

実は旅行作家のSさんから以前話を聞いていた。「たった15分の国際列車」この列車はバンコックから来る列車の乗客の為だけに運行されている。だから、列車が4時間遅れれば4時間待つ。Sさんは態々別ルートでノンカイに入り、朝から駅のベンチでこの列車を待ったが、その時は6時間遅れだったという。笑えない取材だ。

列車はとても国際列車とは思えない車両。昔の日本の私鉄を思わせる。乗客は大きなバックを背負った欧米人ばかり。この列車の価値を見出す人々である。そして全員のイミグレ通過を待ってようやく発車する。何ともローカルな国際列車。

すぐに川を渡り、国境を越えたことが分かる。タイもラオスも長閑な農業国。線路脇に結構きれいな住居がある。国境貿易で儲けたのか、それともタイからの投資か。ビエンチャンで開かれるASEM歓迎の看板が出ている。こんな所から入る代表団もいないと思うのだが。そんなことを考えていると、もう列車はブレーキを掛けた。何とも呆気ない旅だった。

全員がホームへ降りる。欧米人がビザ申請書を受け取り、書き始める。私も申請用紙を貰おうと思ったが、係官が「お前は日本人か、それならあっちいけ」と素っ気ない。仕方なくあっちに行くと、いきなり入国スタンプを押され、解放される。何と日本人はビザ不要となっていた。そんなことも知らないでやって来てしまっていたのだ。

この何もない駅からビエンチャン市内へはどうやって行くのか、全く分からない。しかし出口に付近にテーブルが出ており、看板にはビエンチャンまで車で400バーツと書かれている。何でそんなに高いのだ、完全に旅人の足元を見ている。何とかしたかったがどうにもならない。とそこへ、若い男女がやって来た。同じように困っていた。そうか3人で借りよう、ということになり、結局一人100バーツでトゥクトゥクをゲット。

ベトナム人の女性とフィリピン人の男性。ラオスでは日本などの他、アセアン諸国にはビザを免除しているらしい。ようするに我々3人だけがアジア人、残りの乗客は欧米人だったことが分かる。何となく愉快な気分になり、風に吹かれながら、旅を楽しむ。ノービザの3人、これはいい出会いだった。




《ビエンチャン散歩2006》(3)

(3)昼食

昼にゴルゴがやってきた。本当は今日も立派なレストランでラオ料理を食べる予定であったが、昨日予定を変更してもらった。麺屋に連れて行け、と頼んだのである。彼はお安い御用と切り替えてくれた。勿論食事代は既に払っている。店がキャンセルできれば彼にはそこそこの収入があるはずだが、細かいことは言わない。私は自分の食べたい物を食べるだけでよい。

連れて行かれた店は少し外れた普通の庶民の店であった。これが良い。12時過ぎるとあっと言う間に満員になった。人気店である。何故か赤いワーゲンで乗り付けてきた若いカップルもいた。

味王と漢字で書かれたエプロンをした店員がきびきびと料理を作っている。ここは美味そうだ。オーナーはおばあさんのようでゴルゴと話し込んでいる。ラーメンに似た麺にチャーシューが載っている。スープが美味い。ゴルゴは自分で醤油を入れたりして味を調えているが、このままで十分ではないのか??

隣が頼んだチャーハンも美味そうなので追加注文。タイ米で作っているが、刻んだチャーシューが入っているところは日本風??全体的にあっさりしていて、生もやしなどを入れて更にあっさり食べる。どう見ても食べ過ぎ。ゴルゴも2つ平らげた人はいないと言う。

ラオには麺とライスを一緒に食べる習慣はないという。ゴルゴは日本流のラーメンライスにアレンジしたのだ。ラオ人はお昼に麺一杯で大丈夫なのか聞く、腹が減ったらおやつを食べるとの答え。

兎に角立派なレストランで食べるより余程よい。高級よりB級を好む自分を発見。ゴルゴのアドバイスは次回から旅行社を通さないこと。旅行社の人間はお客を庶民の店に連れてきては、全然儲からない。

(4)庶民の市場
時間調整のため、庶民の市場へ行く。昨日既に市場には行ったが、あれは観光市場。Aさんからのメールに書かれていた漬物文化も確認したい。入るとやはり先ずは野菜が山積み。キャベツ、きゅうり、なす、トマト、色が極めて原色。

かえる、皮をむかれた鶏など日本の観光客などは目を向けられない物もいくらでもある。市場は昼下がりでお客もなく、市場の女性達は何と昼からビールを飲んでいる。しかもコップを持たずにビンから直接。この光景、何だか私は好きである。

樽に魚の切り身が漬けられている。大量の小魚が漬けられている樽もある。これがAさんから貰ったパーデーク(魚の塩辛)であろう。正直かなりの臭気がある。

【Aさんから貰ったメール】
東南アジアにおける米食、魚醤と野菜の生食
1.概要
(1)東南アジアは、高温多湿であることから米と魚の発酵食品(ナレズシ、塩辛、魚醤)が発達し、麹を使った東アジアの米、大豆の発酵食品(味噌、醤油)とは異なる。
(2)味噌に比べて醤油の歴史は新しい。同様に魚醤の歴史は新しいが、そのもととなった塩辛の歴史は古い。
(3)魚醤発祥の地は、ラオスから東北タイ、あるいは雲南省から貴州にかけての地域である可能性が高い。
(4)東南アジアでは、ウルチ米の嗜好が主流だが、ラオス、東北タイ=イサーン、チェンマイを中心とする北タイでは雲南省西双版納地方と同様にモチ米が好まれ、照葉樹林説との関連性が想起される。

2.内容

(5)ラオスの塩辛の汁、ナムパーデーク
海のない国であるため、これまで見てきたような小エビの塩辛ペースト(カピの類)とベトナムのマムに当たるものは存在しない。が、それ以外は豊富である。
たとえば、パーデーク。塩辛、あるいは塩辛のペーストである。小魚の姿のままのもの、大きな魚の切り身を漬け込んだもの、そして、それらを潰してペースト状にしたものがある。ペーストの場合、頭、内臓を抜いて切り身にしたものを竹籠に入れて重石をし、水分を抜く。それに塩を加えて突き砕き、また重石をして数日置く。さらに塩と少量の米ぬかを加えて搗き、瓶にいれて熟成させる。一般的には、かつての日本の味噌造りのように、家庭で作られる。また、この塩辛作りの副産物である塩辛の汁、ナムパーデーク、そして、工場で生産される魚醤油、ナムパーがある

・・・この国の場合もパーデークやその汁の利用は古いが、ナムパーは比較的新しい、おそらくは100年と経っていないものかと思われる。・・・上記以外にも沢ガニを塩漬けにしたものなどもあり、すり潰して、先のパパイヤのサラダ、タムマックフンなどの味付け(塩味と旨み付け)に用いられたりする。 

(6)魚醤が生れた地?
このあたり(ラオス)の地域がその(水田漁業)のその起源であるという話であるが、石毛氏はその著書『魚醤とナレズシの研究』の中では、断言まではしていない。
可能性としては、こういった条件(水田漁業・自然塩・ナレズシ・塩辛類)に合致する場所ということで、ラオスから東北タイにかけてのあたりが、一番可能性が高いのではないかということである(あるいは、雲南省から貴州にかけての盆地という可能性もあるという)。

もとより、すべての魚醤、ナレズシの類が一ヶ所から生れたと言うわけではなく、ややこしい面はあるのだが、このような食のセットが生まれた地として、考えられるということである。ただし、念のためにいうと、それが、現在のラオ族であるということではない。前述のように、この地域にラオ族がいくつかの小国を形成するようになるのが10世紀の頃である。それよりずっと以前の、可能性としては、扶南国などのモン・クメールであるとされる。それ以前の少数民族のもとで形成された可能性もないではないが、クメールの可能性が高いというのが石毛説である。
(「世界の食文化4」『ベトナム・カンボジア・ラオス・ミャンマー』森枝卓士 著 ) 
驚くべき文化である。東南アジアの食文化は塩辛、魚醤である。香港でも歴史博物館に行けば、魚醤の製造工程などが解説されている。なまじ文明が発達した所には残っていない貴重な文化を見る思いである。

キンマの葉も売られている。ビンロウが横にある。ここでも老人がビンロウを噛んでいるらしい。きのこやたけのこの横にさり気なく置かれたビンロウ。これも東南アジアの伝統文化である。

ドリアンなど独特のフルーツも置かれている。『梨』と書かれた紙に包まれたナシ。日本に輸出しているのだろうか??仏具を売る店が大きく張り出している。仏事用の茶器が売られている。造花が一面に花を咲かせている。

市場を出て車を走らせる。次の約束まで少し時間がある。郊外に向かう大きな道を走る。道の脇に十字架がいくつも見える。墓である。植民地時代のフランス人の墓であろうか??近づいて見ると『公教義堂』と言う漢字も見える。ゴルゴによれば、ベトナム人の墓だそうだ。

ベトナム人キリスト教徒の墓。華僑もいただろうし、西洋人もいたかもしれない。彼らは異国でも他の墓には入ろうとしないし、異教徒はこの墓地に埋葬できない。午後の陽射しの中で、十字架をつけた墓がリンと輝いていた。

 

(5)ノイワールド
1時半、約束の時間がやってきた。今回ビエンチャンを訪れた理由は1つ。バーンタオ氏の紹介でノイに会うことだった。車は指定された学校に向かう。時間に余裕があり、事前に調べていたにも拘らず、見付からない。

ゴルゴも流石に慌てるかと見えたが、やはり悠然としている。2回ほど辺りの人に聞いてようやく到着。そこは商店や民家が並ぶ一角、幼稚園と言うかプレールームと言った感じ。入口を入ると奥から女性が出てきた。それがノイ。周りには5-10歳ぐらいの女の子が数人遊んでいた。

ノイ、5歳頃から父母と共に音楽を始め才能を発揮、国の代表としてロシアに行ったことも。奨学金を得てオーストラリアに留学し、建築学を勉強。アイドル歌手としてデビュー、2002年ミスビエンチャンの才媛。29歳。現在はラオインターTVの英語ニュースキャスター、そして知的障害を持つ子供の為の学校を運営するスーパーウーマンである。

その笑顔は多くの人に愛されているであろう。奥のクーラーの効いた部屋に通される。甘いラオアイスコーヒーが出てきた。ノイは甘過ぎないかと心配したようだが、ゴルゴが昨日のことを説明する。

椅子に座るとノイが流暢な英語で話し出す。今年の6月に東京に子ども達を連れて行き、チャリティーコンサートを開いたこと、障害を持つ子供を飛行機に乗せることが非常に心配だったこと。今月は名古屋、常滑でコンサート、日本の人々には親切にされたという。常滑焼の湯飲み茶碗を見せてくれた。

彼女の話し方はハキハキ、頭のよさが見える。そして実に情熱がある。バーンタオ氏が『ノイはラオのアウンサンスーチーになるかもしれない』と言っていたことを思い出す。いきなり彼女がベトナム琴を取り出して耳掻きの長いの??を使って鳴らし始める。そして『すばる』を日本語で歌いだす。その姿はプロの歌手そのもの。驚いた。

ラオは貧しい。特に田舎は子沢山。一部屋に10人以上で生活している。障害のある子供は働くことも出来ず、邪魔者扱いとなり、生きていけない。現在そういった障害児を63名預かっている。但し政府は宿泊を認めないため、通える子しかいない。田舎は時々訪問して音楽を教えていると言う。

脳に障害のある子供は普通の勉強は難しいが、音楽や美術を習うことは脳に良い刺激を与える。実際言葉を覚え難い子供が歌や踊りは直ぐに覚える。将来政府に許されれば寄宿舎を造り、ラオ全土の障害児に歌や踊りを教えたいと言う。この年齢でこの志、日本では考えられない。

その資金作りのため、コンサートを開き、CDを売る。コンサートは先日トップアイドルであるアレキサンドラとジョイントを開いたばかり。アレキサンドラはお母さんが西洋人のハーフ。昨日見たトヨタがスポンサーをしていたCDの子。

 

ノイは日本で発売したCDを見せてくれる。驚いたのは日本ではレコード会社がOKすればCDが出せるのに、ラオでスポンサーがいないと無理なこと。ラオではCDの値段が1枚2ドル。消費水準が低く、コストをカバーできない。1枚出すのに2500ドルほどのコストが掛るようだ。これを企業に支援してもらう必要がある。

彼女の素晴らしい歌声を聞いているとスポンサーは簡単に集まるのではないだろうか??以前は大林やクボタといった日本企業が支援してくれたそうだ。子供達のためにもスポンサーを探したいとのこと。

彼女の母親がやってきた。流暢な英語を話す。昔は歌手だったようだ。現在はノイのマネージャー役であろうか??ノイは母から歌を習った。しっかりした親の元でノイの考え方が発達したのだと思う。

子供達が歌と踊りを披露してくれると言う。ノイが音楽を流し、号令を掛けると一斉に踊り出す。とても障害があるようには見えない。しかも既にコンサートなど大舞台を経験しているだけにどうに行っているカメラを向けるとカメラ目線になる子もいるほど。

モダン音楽に続いて、ラオ伝統音楽に合せて踊る。東京でも踊った曲で、可愛らしい。歌が終わり、持参した色鉛筆とノートを渡す。彼女らは『こんにちは』『ありがとう』などは日本語で言える。本当にこの教育は素晴らしい成果を出している。

ノイが後ろで一緒に踊る。その仕草は実に愛らしい。しかし彼女は真剣そのもの。踊っている子の中に2人色のついたメガネを掛けている子がいる。遊び用かと思ったが、それは障害をカバーするものであった。

踊りが終わるとノイは一人の少女を紹介した。その子は少数民族の出身、重度の障害を持っており、踊ることは難しいらしい。聞いてみると何とノイは彼女を養女にしているという。これには驚いた。ノイがこの事業を生半可な気持ちでやっていないことの証明。

 

ゴルゴも帰りに『こんなラオ人を見たことがない。素晴らしい。可愛い、ファンになった。』と言っていた。実際行く前ゴルゴは『ノイのことはよく知らない』と言っていたのであるが、ドネーションはするし、サインも貰っていた。

時間が来たので立ち上がると少女達は、アカペラで『Top of The World』を歌いだす。素晴らしい英語の発音で。そして2番はラオ語で歌う。才能が感じられる。更に皆で手を繋いで何と中島みゆきの『地上の星』を歌いだす。完璧な日本語である。感動した、素直に感動した。こんなことがあるなんて、たまには人生良いこともある。そして歌が終わると全員で声を揃えて『さようなら』。

これは大変な経験をしてしまった。涙が出そうになった。ここ前来るには物凄い努力があったのだろう。自分の才能を人に伝えるノイの姿勢には改めて脱帽した。家の前で全員が元気よく手を振ってくれた。ゴルゴも感動して手を強く振る。

ノイワールドを見てしまった。今後私は何が出来るのだろうか??

(7)夕飯 
ホテルに帰っても余韻に浸っていた。最近感動することなどなかなかない。気持ちが高ぶっている。これは一体なんだ??また風呂に浸かり、心を静める。

6時半に出発。今日こそはメコンの夕陽を見に行こう。到着すると陽は既に雲の中へ。しかし十分にメコンの夕暮れを堪能できた。雲間から輝く夕陽を微かに浴びるメコン、そしてそれを眺める子供。いい風景だ。

西洋人はそんな風景を眺めながら、ビールを美味そうに飲んでいる。何で日本人はいないのか??ゴルゴに文句を言うと『日本人観光客をこんな所に連れてきて、焼き鳥でも食べさせたら、衛生面でクレームが必ずつく』とのこと。

本当に日本人は楽しみ方を知らない。または楽しいと思わないのだろう。バックパッカーはOK。若者がバックパッカーに憧れたのは、この自由さだったはず。しかし最近は若者が冒険をせず、きれいな世界だけを求めるらしい。嘆かわしいことだ。

落ちた夕陽をいとおしく思う。川面を眺める。静かな流れがある。焼き鳥の甘い匂いが食欲を刺激する。確かこのたれは非常に甘いはずだ。昨日は暗かったので良く分からなかったが、川べりには多くの焼き鳥屋台が出ており、もも肉をぐるぐる回して焼いていた。テーブルがたくさん用意されており、注文した物をそこで食べる。贅沢だ。

夕食はまたもや一人。ゴルゴは中華料理屋に案内した。福満楼と漢字で書かれた立派な門構えの店。中に入ると何とゴルゴは店員と北京語を話し出した。驚いた。彼は一体何ヶ国語を話すのだろう。聞けば北京語よりは広東語の方が更に得意らしい。

 

北京語か通じるならば問題ないと早々にゴルゴを帰して食事を開始。調子に乗って店員に北京語で話し掛けたが、何と誰も通じない。分かるのはオーナー一家のみであった。鶏スープ、くらげの前菜、エビの揚げ物、餃子、イカ野菜炒めが次々に出てきた。その勢いで食べて行ったら、あっと言う間に食べ終わる。味はうーん??

その頃お客が着始めた。どう見ても中華系。宴会があるのか、大物と思われる老人が皆に迎えられてやってきた。ここに来る客は顔なじみが多いらしく、皆挨拶を交わしている。華僑の交流の場になっている模様。

気がつけば店は満員。その中でたった一人食事をしている私は異様に見えたであろう。早々に退散する。

7月22日(金) 
4.ビエンチャンを去る 
(1)朝の散歩 
6時に起床。身体は快調。早速散歩に出る。ホテルの前を道沿いに歩いて行くと5分ほどで市場へ。前日雨が降ったため道はグチャグチャ。パイナップルを大量に積んだトラックが何台もある。今が旬なのであろうか??

市場は掘っ立て小屋といった感じで柱を組んで布を掛けている程度。当然天井も低く、通路も狭い。足元も悪い。しかし買い物客は多い。朝ごはんを買ってこれから家で食べるのであろう。それが本来の生活なのかもしれない。

 

カオチーサイクアンという名前のフランスパンにハムときゅうりを挟んだ美味しそうなサンドイッチがある。香菜がはみ出しているのが魅力的。カオダーイという目玉焼きも売っている。ここで朝ごはんを食べたい誘惑に駆られるが、ホテルの食事を考えて我慢する。(ハエが多く、衛生面は若干心配)

 市場の隣にはバスターミナルがある。近郊向けのバスが停まっている。韓国現代製である。そしてタイとの国境を越えるインターナショナルバスも出ている。これは恐らく友好橋行き、45分ぐらい掛るらしい。

 

 

因みにこの橋、1994年にメコン川に架かる最初の橋としてオーストラリアの無償援助で作られた(事前調査は日本が行っている)。橋の前兆は1174m。バンコックから国際線でビエンチャン入りするより、国内線でウドンタニに行き、バスに乗り1時間でこの橋につく方法もあると言う。

(2)朝食
昨日と違って今日はアラカルト。年代物の扇風機が回る中、散歩後で食欲があった。しかしゆで卵を注文すると何分茹でるかと聞かれた。アジアでそんな質問をされることはないので咄嗟に答えられない。3分と言うと半熟以下で出てきた。食べて大丈夫だろうか??

 

西洋人の老夫婦が楽しそうに食事をしていた。朝から笑顔の夫婦は日本にはなかなかいない。エンジョイ、とはこういうことだろうか??今回のラオ訪問について考える。後で読んだ本『ラオス』(青山利勝著 中公新書)にラオ人の特徴が上手く表現されていた。インドシナ人の定義は『稲を植えるのがベトナム人、育つのを眺めるのがカンボジア人、育つ音を聞くのがラオ人』だそうだ。かなりの酷評であるが、一方『人柄から民族の資質まで中国、ベトナム、タイより優れている』としている。

ラオ人が日本に対してよい印象を持っているのも感じられる。ラオは昔からタイ、ビルマ、ベトナムなどと争い、フランスの植民地化、アメリカの支配を受けた国。異質な国に対する警戒心が薄い。というより異質なものを受容していかなければ生きていけなかったということだろう。そのため外国人がラオに住んでも違和感が少ないらしい。

電気なども停電することがない。水力発電があるからだと聞いたが、資源は豊富でも資金がないため開発は進んでいない。それを『ラオスは鍵のない宝の箱に腰掛けている乞食の子供のような存在』と表現しているのは分かりやすい。人々は穏やかであくせくしていない。潜在力はあるが、分相応の生活を送る。それで幸せなら一番良いのではないか??余計なことを他国民が言うのはどうだろうか??その中でノイの活動が気に掛る。

(3)ノイ再訪
実は前日夜ホテルに戻り、ノイから貰ったCDを開けて見た。プロフィールを見るためであったが、何とCDが入っていなかった。何かの手違いであったと思ったが、名刺を貰ったので思い切って携帯に電話してみた。もう一度会ってみたかったのだ、本音は。ノイは直ぐに電話に出た。事情を話すと分かってくれた。明日朝もう一度オフィスに行くことになったのだ。何だか得した気分。ゴルゴにも電話し、迎えの時間を早めてもらう。

8時30分気にいっていたホテルをチェックアウト。実に名残惜しい。フロントも笑顔で送り出してくれる。しかも初日に預けた松茸もちゃんと渡してくれる。今度来る時もこのホテルにしよう。ノイと再会。彼女は一人で待っていてくれた。昨日よりカジュアルな服装。黒いスカート姿でシックなイメージ。子供たちと接する時と、そうでない時は分けているのかもしれない。相変わらず爽やかな笑顔。しかしフライトまで時間がなかった。

CDを受け取ると直ぐに別れた。残念ではあったが、再会できただけでも良かったと思うべき。手を振る彼女を後ろにそのまま空港へ向かった。

空港には結構人がいた。フライト時間が重なっているのだろう。バンコックとハノイから便が到着するところだ。私が2日前に乗ってきた便である。この2日間も長かった。中身が濃かった。

ゴルゴとはあっさり別れた。と思ったら急いで引き返してきた。名残惜しいのかと思うとそうではなく、旅行社からアンケートを回収するように言われていたのだ。何だかユニークなキャラである。次回は直接Faxで依頼してくれ、と言って去っていった。

2階に上がると土産物屋がある。そこで私はお茶セットを買った。パクソン、バンビエン、ポンデサリーの3種類のお茶がパックになっている。パクソンはラオ緑茶、バンビエンは桑の葉茶、ポンデサリーはスモーク緑茶だそうだ。

次回はお茶見学で是非訪れたい。