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《軽井沢旅2020》(3)軽井沢から横川へ

それからKさんが最近住み始めたという高層マンションを見学した。バブル期に建てられたと思われるこの建物、完全な山の中に突然現れるのでかなり驚く。車がなければとても生活できない場所。プールやサウナも完備しており、夏だけここに住む人もいるというが、冬はかなり寂しそうな場所だった。ただ部屋からは雄大な浅間山がくっきりと見え、その眺望は抜群だった。

帰りはワザワザ40分かけて車で送ってもらった。聞けば、軽井沢と北軽井沢は県が違うだけでなく、街のルールや物価もかなり異なるらしい。軽井沢の夜は早いが、北軽井沢は門限?はなく、北軽井沢はガソリン代が安いため、そちらへ行ったついでに給油する人も多いのだそうだ。晩はゆったりと休息する。

11月11日(水)軽井沢から横川へ

今朝も寒い軽井沢。既に昨日多くの宿泊客はチェックアウトしたと見え、今朝の食堂は空いていたので、ゆっくりと食事をとる。出掛けるまでにはかなり時間もあったので、散歩に出てみる。軽井沢駅へ行くと、旧軽井沢駅舎記念館という建物があった。明治43年に建てられた駅舎をそのまま再現して、記念館として使っている。中に入るとストーブの温もりが何とも暖かくてよい。駅の反対側に回り、2階から外を眺めてみると、何とスキー場が見えている。

旧軽井沢の大きな通りも歩いてみたが、こんな朝に人影は殆どない。もう冬支度なのだろう。駅から数分のところに大きなマンションが建設中だった。まさに億ションという感じだが、最近のコロナ禍で、東京から軽井沢に引っ越す動きはかなり出ているというから、販売は順調に違いない。ただ別荘街を歩いてみても枯葉がかなり落ちており、多くの家で退去している様子が見て取れる。億ションの住人になる人は冬を越すのだろうか。

10時前にKさんがやってきて、一緒に六本辻にあるカフェに行った。ここは一昨日の晩に会った後輩のTさんが店長をしており、ちょっと寄ってみた。このカフェはある企業が運営している、今流行りのワーケーション施設に併設されており、何ともおしゃれな造りで、環境もよく、驚いてしまった。お客さんも海外駐在中にコロナで帰国した人や小さな子供を連れた若夫婦など、実に多彩で面白い。Tさん夫妻はお客さんが頻繁に来るので、大忙し。コーヒーを一杯飲んで、あまり話さずに退散した。

Kさんの車で早めのランチを食べに行く。中華料理屋があったので入って見ると、何ともチャーハンが美味しかった。だがそのボリュームは巨大で、午後中ずっと胃がもたれるほどだった。これで今回の軽井沢滞在が終了したのだが、ただ帰るのもつまらないので、軽井沢駅からバスに乗り、横川へ出てみることにした。

バス停に着いたが、乗客は私ともう一人しかいない。しかもこの状態は横川に着くまでずっと変わらなかったので、これまた驚いてしまった。バスはすぐに山道を登り始める。もう少し早い時期なら紅葉がきれいだったろうなと思われる景色だ。途中所々、道路わきを見るとトンネルがあった。これが昔の鉄道路線跡だと分かる。

今碓氷峠を越えている。江戸時代には旧中山道の難所として知られていた峠越えだが、1893年に碓氷線が開業、当初は生糸の運搬が主目的だったらしいが、その後の大別荘地軽井沢の繁栄に貢献したことだろう。だが1997年に廃線となったという。その遺構が各所に残り、鉄道ファンは廃線ウオークなどをしているという。

約50分のバスの旅を終えると、横川駅に到着した。ここから電車に乗るのだが、まだ時間があったので、少しその辺を歩いてみた。どん詰まりの駅なので、車両が数台停まっている。その横をすり抜けると、ちょっとした散歩道がある。碓氷峠の関所の門が見えた。中山道の重要拠点だったのだろう。

駅まで戻ると、峠の釜めしの看板が見えた。そうか、ここは元々横川の釜めしで有名な地だったが、電車が峠を越えなくなり、あまり聞かなくなった(軽井沢駅で売っていたように思う)。折角なので老舗で釜めしを食べてみたいと思ったが、何しろ先ほど食べたチャーハンがずっしりと重く、残念ながら断念した。

小さな駅舎を通り抜けると、鉄道ファンと思われる人が数人、写真を撮りながら発車を待っていた。とても強い日差しがあり、眠気を誘う。『鬼滅の刃』とコラボしているのか、目の前にはアニメがはためいていた。列車が高崎に向かって動き出すと、如何にもこの旅が終わったと強く感じられた。

《軽井沢旅2020》(2)軽井沢から北軽井沢へ

11月10日(火)軽井沢から北軽井沢へ

今朝は零度と寒かった(部屋は快適に暖かったが)。宿の朝食は何とカレー。これが意外とうまくて、完食する。フロントによれば昨晩この宿は満室で、食堂が狭いため、希望時間に朝食が取れない可能性があるとのことだったが、その通り満員だった。そんなにこの寒い軽井沢に人が来るのかと思ったら、『今年最後のバーゲンが昨日までだった』のだとか。今晩はだいぶ少ないらしい。

Kさんが迎えに来てくれたので、朝からなぜか軽井沢霊園に行く。軽井沢の歴史、特に外国人の歴史を知るには墓地が良いとのことだったが、残念ながらここには外国人墓地はなく、開発される前の軽井沢住民の墓などは見られたが、成果はなかった。そのまま歩いて、雲場池を散策する。天気も非常に良かったので、バーゲンを終えた観光客がかなりおり、皆が写真を撮っていた。

そこから車で少し離れた立派なホテルに行った。ランチの時間には少し早かったので、いきなり庭に出る。そこには実に自然な景観が広がっており、とてもホテルの庭を歩いているとは思えない。沢を降りていくように、小川に向かっていく。ここは軽井沢の水源で、中山道を行き交う旅人が飲み、そして明治天皇もこの水を飲んだ、御膳水と説明書きに書かれている。

ここのランチは美味しいパスタだった。リーズナブルでよい。しかもKさんが『天気が良いのでデザートは庭で食べたい』とわがままを言っても、笑顔で聞いてくれ、テーブルを用意してくれた。枯葉が微かに舞い落ちる、柔らかい日差しの中で食べるデザートは格別だった。

そこから車は雄大な浅間山を眼前に見ながら進んだ。浅間山といえば、歴史的には江戸時代に起こった天明の大噴火を思い出すが、今でも何となく白煙が出ているように感じられる。そして車はいつの間にか県境を越え、群馬県に入っていた。そこにも軽井沢があったのに驚く。北軽井沢。

ここに北軽井沢という駅があったらしい。草津との間を結んだ、その軽便鉄道の駅舎が残されており、そこには大学村の説明などもあった。何と大正時代に法政大学の学長がここに、教職員と学生を中心とした理想的な教育と共同生活の場「法政大学村」をつくろうと思い立ったというのだからすごい。初期の村民には岩波書店の創業者である岩波茂雄や安倍能成、谷川徹三、野上弥生子、津田左右吉、小泉信三らがいたというから、話題性のある、本格的な村だったことが分かる。

車はそのまま進んでいき、ハイロン村に入った。カタカナの地名は珍しいなと思っていたら、何と現在の中国黒竜江省海倫のことだった。満蒙開拓団の入植地として知る人ぞ知るこの村、第二次大戦前に群馬県各地から集められた開拓団の人々が終戦後日本に戻り、政府から払い下げられた土地を開拓したという。日本で開拓した場所に満州の地名を付けるのは極めて稀ではないだろうか。

近所に住む80歳を越える元気な女性に話を聞くことができた。『私は7歳で引き揚げた。少し怖い思いをした程度で帰国できたが、ハイロン村の住人は1945年9月11日に匪賊の襲撃に遭い、多くが犠牲になった。今でも毎年この日に村人が集まり慰霊祭をしているが、もう生き残った人も、大方あちらへ行ってしまったよ』と寂しそうに語る。

群馬に戻っての開拓は苦労が多く、生活も大変だったというが、『最初はリンゴなど果樹園をやり、息子の代になると値段の高い白菜など高原野菜に切り替えた』といい、現在も現役で農業をしている。人手不足のため、海外から技能実習生を迎えて、補っている。

『満州で満人に厳しく当たってきた日本人は、終戦後逆にひどい目に遭ったんだよ。うちは比較的優しく接してきたから、返って彼らに助けられ、生き延びた』『だから中国人でもベトナム人でも、うちに働きに来てくれる実習生にはできるだけ優しくしている。孫が沢山増えたと思えば楽しいよ』という言葉が、非常に印象的だった。

実習生も最初の頃は中国人だったが、今ではインドネシア人に代わっている。この寒い北軽井沢で、宗教も異なる彼らの苦労は大変なものがあるが、お祈り部屋まで設けた、その立派な宿舎を見れば、厳しい立場の人にどう接するべきかを身をもって体験した人の温かさが分かる。

最初はコロナ禍を気にしていたが、話している内に打ち解けてきて、最後は村はずれの小高い丘の上、大きな慰霊碑が建っているところまで案内してもらった。浅間山が真正面に見える場所に、周囲には各家の立派なお墓が並んでいるのは圧巻の光景だった。満州の大平原とは違い、山に囲まれた、小高い所にお墓があるのは、やはり満州へ行った人々の、強い故郷への思いではないかと勝手に想像してしまった。

《軽井沢旅2020》(1)軽井沢の夜は早い

《軽井沢旅2020》  2020年11月9日-11日

11月に入り、冬の気配が少し感じられる。コロナの増加が警戒される時期だが、政府はいまだGoToトラベルを続けており、国民に旅行を奨励していたので、私も今のうちは旅を継続しておこうと思った。恐らく冬はまた引き籠り生活を余儀なくされる予感が十分にあったから。

前回軽井沢に行ったのは、もう6年以上も前のことだった。あの時は夏で、実にさわやかな気候だったと思うが、今回はコロナの合間を縫っていく秋の旅となった。お知り合いのKさんに誘われて行く旅はどうなってしまうのだろうか?

11月9日(月)軽井沢まで

よく分からない展開だった。Kさんに『もしお暇があればお目に掛かりたい。軽井沢へ伺うのも可能です』と連絡を入れると、なぜか答えが『では東京でランチを食べてから一緒に軽井沢へ行きましょう』というものだった。まあ普通なら東京で会えるなら軽井沢へ行く必要もないだろう、と考えるところだが、私も旅に飢えていたので、その提案に乗ってしまった。

青山で待ち合わせてランチを食べながら、聞きたいことは聞いてしまった。それから東京駅へ向かい、新幹線の切符を買い、乗り込んだ。昨日東京に泊まったKさんはGoToトラベルクーポンを使いきれずに、コンビニでドリンクやお菓子を買い込んでおり、それを分けてもらいながらの旅となった。ただすぐに寝てしまい、気づくと列車は軽井沢に到着していた。それ程に近い旅だった。

Kさんは駅の横の駐車場に車を停めており、その車に乗って予約していた宿へ向かう。車内は少し油臭いにおいがした。灯油を買ったときこぼしたという。灯油を買う、その言葉がなにやら新鮮だった。その宿は歩いても駅から数分ですぐに着いてしまった。Kさんとはここで別れてわたしはチェックイン、彼は自宅に戻っていく。何とも不可思議な光景だった。

この宿はおしゃれな作りで人気のホテルだった。だがコロナで予約は取りやすく、しかも料金も安かった。GoTo様様だが、これでよいのだろうか。部屋の作りも快適で、ベッドに転がってみると、ちょうどテレビがよく見えた。寒さ対策か、ドアも二重になっている。今日は何もしていないのに疲れてしまい、そのままゴロゴロしていた。こんな旅もまた良い。

すっかり暗くなった頃、後輩のTさんが迎えに来てくれた。6年前は彼の家に泊めてもらうなど、すっかりお世話になってしまっていた。既に退職し、悠々自適の生活を送っていたはずのTさんだが、最近のFBを見ていたら、何やらカフェの店長になっているというので、驚いた。それでちょっと訪ねてみることにしたのだ。

今晩はもうカフェは閉まっているので、Tさんお勧めの料理屋さんへ行き、美味しい蕎麦やつまみ(二人とも酒は全く飲まないのだが)を堪能しながら、この6年の出来事を話し合った。何とも言ってもOさんが今年亡くなったことは極めてショックだった。私は彼を訪ねてオーストラリアに行くつもりでいたのだが、それはついに叶わなかった。TさんはOさんの家族とも親しく、最後まで色々と世話をしたらしい。

そんな話を2時間もしていたが、食後にコーヒーでも、と言っても軽井沢の夜は早い。更にはコロナの影響もあってか、普段開いている店も閉まっていた。するとTさんはするすると横道に入り込み、ある別荘の前で車を停めた。知り合いの家に押し掛けるつもりかと思っていると、何とそこはプライベートダイニングだった。

ちょうどお客が帰って店を閉めようとしていたところにやはり押し掛けたのだ。そしてコーヒーを飲みながら更に話した。この店の店主はご主人がフランス人だと言い、今も日本とフランスを行き来しているらしい。そして20年前はフランス系金融機関で働いており、当時のことなども突然思い出してきて、今日に盛り上がってしまった(盛り上がったのは私だけで、彼女は眠かったに違いない)。それにしてもTさんの相変わらずの顔の広さには驚いてしまう。

午後11時過ぎに、ホテルまで送ってもらった。軽井沢の街中を走っていたが、全ての店が閉まっていた。『これが軽井沢のルール』なのだという。あとで調べてみると、戦前軽井沢が開拓された時から、既にルール化されていたようだ。夜遅くまで騒ぐなら他の街でやってくれ、言わんばかり。そこがこの街の魅力なのかもしれない。

サクッとビエンチャン旅2020(3)ビエンチャンからバンコックへ

3月14日(土)ビエンチャンからバンコックへ

昨夜は蚊に刺されて眠りが浅かった。バンコックなどの宿では蚊に刺されることも減り、無防備だったのが災いした。朝起きてロビーに行ってみたが、朝食を食べている人はおらず、泊り客はほとんどいないと分かる。ここの朝食は以前はフランス風でいいなと思っていたが、今や簡素なコンチネンタルブレックファーストに思えてしまうのが悲しい。

昨日街を歩いてみても、開いていないホテルがいくつもあった。観光業が主力のビエンチャンに外国人が来ないことは死活問題であろう。今泊まっている宿も、泊り客が来るとは思っておらず、何となく投げやりに運営しているようにしか見えない。次回ここに来た時、どこのホテルが残っているのだろうか。

食べていると、なぜか誰もいないのにわざわざ私の後ろの席に座る夫婦がいた。どうみても中国人だ。こんな時期だから遠く離れた席に着けよ、と思わず言いたくなる。そしてさらにやってきたおじさんも中国人で、現地の華人と何やら商売に話をしている。ラオスは一部の中国人にとってはコロナの避難場所となっているのだろうか。

ちょっと不愉快な気分のまま、外を散歩する。特に見るべきものもなく、ふらふらと歩く。以前は沢山いた観光客の姿は少なく、どこの宿も店も開店休業状態に見えた。バトゥサイ方面を歩いても、地元の人さえ、ほとんどいない。寺でゆっくり休もうかと思ったが、開いていないところもある。いよいよ世界的にコロナが広がりつつある。後一週間経てば、ここに来ることもできなくなるかもしれない。

飛行機までには時間があったが、外も見るところがなく、部屋に帰って涼む。テレビを点けると、バドミントンの全英選手権をやっており、日本選手と台湾選手の試合を放送している。こういう試合、日本ではなかなか見られないよなあ。それにしてももし東京五輪が開催されれば、バドミントンのシングルスは男女とも台湾が金メダルという可能性があるな、と思ってしまう周天成の動きだった。

11時になったので、宿をチェックアウトして、空港へ向かう。相変らずバスは整備されえおらず、トゥクトゥクを探して料金交渉して乗り込む。運ちゃんも苦しい時間を過ごしていると思うので、ハードな交渉はなしだ。まあ観光客も少ないから、トゥクトゥクもあまりいない。

空港まではわずか10分。ここは何度も来たのでよくわかっている。先月行ったパクセーの空港に比べればさすがに大きいが、それでも首都空港としてはかなり小さい方だと思う。ボードを覗くと、中国と韓国へ向かう便は軒並みキャンセルが出ており、バンコックへ向かう白人などがチェックインをしていた。

カウンターでは少し緊張する。係員はバンコックからどこへ行くのか、と聞いてきたので、東京へ帰ると答えると、案の定帰りのチケットを要求してきた。一応これも想定内で準備していたので、難なく通過した。一番恐れていた10万ドルの海外保険提示要請がなかったのは有難い。勿論熱がないことは入り口で測られていた。

2階に上がると、レストランなどもあり、食事ができるようになっていたが、腹も減っていなかったので、そのまま出国審査を通り過ぎた。乗客のほとんどいないガランとしたベンチでPCを開けて、旅日記を書いていた。すると近くで急にけたたましい話声が聞こえてきた。中国語でこんなうるさい会話を聞いたのは2か月ぶりだろうか。若者が10人以上いるのだが、彼らはどうしてここにいるのだろうか。そしてどこへ行くのだろうか。

推測するに、彼らはラオスに働きに来ていたのではないか。そしていよいよ帰国することになったのだ。ラオス人の係員が突然中国語で『広州行きはあっちのゲートだ』と叫ぶと、数十人がぞろぞろ動いて行き、その中に若者たちもいた。非常に減便されている中、貴重な広州行きだったということか。それにしてもいつもうるさいと思って避ける中国人の団体が何とも懐かしく思えるのは、コロナのせいだろうか。

タイスマイルは最低1日2便、今もバンコック-ビエンチャンを飛んでいるようだった。搭乗すると乗客は半分以下。それでも意外と乗っているなと感じる。一応食べ物も出てきたが、あまり食べたいとは思わない。ドリンクだけを飲んで、目をつぶっていく。果たしてバンコックの空港はどうなっているだろうか。万が一トラブルに巻き込まれたらどうなるのだろうか。昨日離れたばかりのバンコック、たった1日でガラッと状況が変わりかねない中、かなり不安な状況が続いていた。

サクッとビエンチャン旅2020(2)観光客の去ったビエンチャンで

ようやく出たバスは、すぐに橋を渡りラオ側に到着する。ラオス入国の際にも何のチェックもなく、ただパスポートにスタンプが押されただけだった。かなりの緩さと言わざるを得ない。自分の中ではかなりの緊張感があったが、それと相反する国境ののどかさ、このギャップの凄さに驚く。イミグレを出ると、タクシーの運転手が声を掛けてきたが、ビエンチャン市内までの料金は一律200バーツだと言って譲らない。ネット情報ではもう少し安いはずだが、最近は客がいないせいか、タクシーも少ないらしく、交渉はまとまらない。

向こうを見るとバスが停まっているので、そこへ行くと市内へ行くようだったので、バスに乗り込んだ。荷物が少ないので何とも身軽だ。タイバーツを車掌に渡すと、30バーツぐらいの料金のようだった。ビエンチャン市内まではそう離れておらず、何よりタイとは川を挟んでいるだけなので、タイのシムで何とか拾えるので、スマホで地図を見ることもできた。

30分ぐらい走っていると、市内へ入り、結局終点で降りた。この付近、何となく見覚えがあるので、そのまま歩きだした。特に予約はしていないが、ネットで調べておいた宿まで歩いて1㎞ちょっと。その間には以前訪れたことがある寺院などもあり、暑いが安心感がある。

ところが中心部のその宿へ行ってみると、隣のワンブロックが大規模工事中で、騒音がかなりするので、避けることにした。そして昔何度か泊まった宿へ向かったが、ここは何ら変わっておらず、お客もいなかったのに、料金も変わっていなかった。ネット予約の料金も全く同じでつまらない。

靴はロビーで脱いで部屋に上がるスタイルだ。昔はいい宿だと思っていたが、部屋ではネットが繋がりにくく、電気ポットがないのでお茶やコーヒーも飲めず、テレビの画像も悪かった。それでもNHKが映ったので、取り敢えず相撲を見てしまう。朝乃山と御嶽海の取り組み、朝乃山は大関になるだろうか。

午後4時になると腹が減る。今日は殆ど物を食べていないことに気が付く。いつもならビエンチャン名物を探すところだが、取り敢えず近所の麵屋で麺を食べてしまう。腹が朽ちたら散歩だ。華人の様子なども知りたいと思い、華人廟などを探して歩いたが、なかなか見つからない。ようやく川沿いに新しく建てられた廟を見つけるのがやっとだった。

実は今回のビエンチャン訪問は、華人調査の一環であり、以前からのお知合いMさんと連絡を取り合っていたのだ。彼の奥さんは客家だというので、色々と面白い話が聞けるのではないかと思い、楽しみにしていたのだが、コロナの影響で、先日日本から戻ったMさん自身が2週間の自宅待機することになり、直前に会えなくなってしまったのだ。勿論こちらも華人調査よりビザ目的なので、今回は致し方ない。

一度宿に戻ったが、のどが渇いたので、また外へ出た。折角なのでメコンの夕陽を眺めようと川へ向かったのだが、以前と違い、河川敷が開発対象となり、近づけなくなっている。その昔は川辺でガイヤーンを食べた記憶があったのだが、今はかなり奥に引っ込んで道沿いに屋台を集中させている。

屋台では、魚など海鮮を中心に、いい匂いをさせて焼かれていた。私はさっき麺を食べてしまったが、ここはどうしてもガイヤーンぐらいは食べようと探す。だが鶏は大きくて、一人ではとても食べきれない。じっとぐるぐる回っている鶏肉を見ていると、おじさんが私を一人とみて、半分でも売るよ、と言ってくれたので、80バーツでガイヤーンを手に入れ、後ろのテーブルでかぶりついた。やっぱりうまい。大満足で食べつくして立ち去る。

ビエンチャンにはタイのようなコンビニは見当たらなかったが、いつの間にかBigCエクスプレスが出来ており、コンビニの役割を果たしていた。中で売られているものも、タイとそうは変わらない。きっとタイから運び込まれているのだろう。ラオスは人口も少なく、自国生産には向かない国だ。こんな国はコロナだから鎖国する、というは簡単ではないだろう。

今日ビエンチャンの街を歩いてみたが、いつもは観光客で溢れるような場所は、軒並み閑古鳥が鳴いている。白人なども僅かに見られるが、中国・韓国系はほぼいないようだった。ただ地元のラオス人でマスクをしている人の率はそれほど高くなく、コロナに対する意識が高いとは言えないようだった。

サクッとビエンチャン旅2020(1)ウドンタニーから

《ビエンチャン旅2020》  2020年3月13日-14日

元々タイには2か月のつもりでやって来ていたが、その2か月は既に過ぎていた。ここ9年、ひたすら旅を続けてきたが、これほどまでに情勢が変わっていくのは、あまり記憶にない。とにかくどこにいるのが自らの旅にとって一番良いのか、安全か、動きやすいか、などと考えなければならないことはかなりの異常事態である。取り敢えず決めたことは、日本の方が危険なのですぐには帰らないということだけだった。

ただ問題はタイ滞在のビザ免除がもう少しすると切れることだ。昨今の情勢下、どこの国に行って戻ってくるのが利巧なのか。いや、事態が急変してもタイが受け入れてくれる国はどこなのか、を考えて、先月同様ラオスを選択した。だが先月のパクセーは多分に旅行であったが、今回はできるだけ早くバンコックに戻ってくるのが目的、という、私の旅としては珍しいものとなる。

3月13日(金)ウドンタニーからビエンチャンへ

一番簡単なのは、バンコック‐ビエンチャンを飛行機で往復することだが、さすがにそれではあまりに芸がない、ということで、ウドンタニーまで飛行機で行き、バスで国境を越えて、ビエンチャンから飛行機で戻る、というルートを選択した。当日戻るのはちょっと、ということで、ビエンチャンに1泊することになる。

フライトはタイスマイルを選んだ。先日ミャンマー行の国際線に乗ったが、今回は国内線に乗ってみる。少しでも変化をつけないと、旅が余りに単調になってしまう。タイスマイルは国内線でもスワナンプームから出る。MRTからエアポートリンクと乗り継いで空港へ向かった。さすがに車内は空いている。そして空港もガラガラだった。これはほぼ予想通りだ。

国内線にチェックインするのは何年ぶりだろうか。カウンターで『明日ビエンチャンからバンコックに戻るが、何は要求されるものはないか?保険とか?』と聞いてみたが、皆ポカーンとしている。そして空港インフォメーションで聞いてみたらというので、今度はそちらへ回ったが、『それは各航空会社が要請するものだから航空会社に聞け』と言われ、全く埒が明かない。この辺は如何にもタイ的な対応だった。 荷物検査前にはきちんと検温される。

国内線の搭乗ゲート付近には、意外ときれいなお店が並んでいた。でもタイ国内に行くのに、ここで買い物する人がいるのだろうか。田舎の親戚にお土産でも買うのだろうか。フードコート的な物もあるが、料金は国際線のところとあまり変わらず高い。賃料は国際、国内ともに変わらないのだろうか。

機内に乗り込むとCAはマスクに手袋の重装備だった。乗客は半分ぐらいか。殆どがタイ人のように見えた。知り合い同士は隣に座っているが、一人客などは間を空けた席が指定されている。一応パンなども出たが、飲み物もペットボトルの水だけだった。まあ1時間はあっという間だった。

ウドンタニーには数年前、ビエンチャンからバスで来て、そのまま空港から飛行機に乗ってしまったので、街の印象はない。そして今回もまた、街に寄ることはなく、そのまま国境へ向かう。因みに2週間ほど前にビエンチャン行きを思い立った際に、ウドンタニーに1泊するつもりで、キャンセル可能なホテルを予約していた。

だが予約日は16日であり、今回は泣く泣くキャンセルする。ところがキャンセル無料なのは1週間前までだったことに突如気が付き愕然としたものの、実際キャンセルボタンを押すと、その後全くキャンセル料を取られることはなかった。このご時世、ホテル側も仕方がないこととして扱っているのだろうか。

ラオス国境まではミニバスが出ている。カウンターで200バーツ払うと、バスまで案内された。いつ出るのかと聞くともうすぐとのことで好都合だった。だがその後乗ってきたのは3人だけで、いずれもタイ人。結局4人しかいないのであればと、別のタクシーに詰め込まれ、狭い思いをしながら国境を目指す羽目となる。タイミングは金曜日の午後、いつもなら外国人のビザラン希望者が乗ってくるはずだが、週末はビザ申請もできないので、空いているようだ。いや、元々ビザランする人ももういなくなっているのかもしれない。

車は国道に出た。いい道だ。意外と車が走っている。何となく1時間ほど走っていくと、国境に着く。まず一人がその手前で降り、次に私が国境の入り口付近で降ろされた。ということは、ラオスに向かうのは私だけということだ。タイ側イミグレに繋がる道で、『ビエンチャン行くか』とタクシー運転手に声を掛けられた。500バーツで行くというのだが、無視してタイ国境を歩いて通過した。

出た所で通行税を支払うゲートがあったが、今日は無料開放。バスに乗るには15バーツ。ボロボロのバスには既に結構人が乗っていた。かなりの荷物を持って乗り込んでくるので、ラオス人かな。バスはなかなか出発しないので暑かったが、時間はあるのでゆったりと構える。

ちょっと北京散歩2019(3)苦節5年、ついに決着

10月23日(水)
ついに決着

今日は午前中、ティールームで旧知のMさんと会った。Mさんとは今年3月、四川の旅をご一緒し、団体さんが帰った後も、本格茶旅に付き合ってもらった。彼女も北京滞在20年を越える人だから、一応Hさんにも紹介する。Mさんが気功、薬膳の話をすると、サックスを吹いているHさん、呼吸の話に大いに興味を持ったようだ。

 

今や殆ど見られなくなった武夷山の白鶏冠のサンプルをもらい、Mさんが淹れてくれた。驚いたことに、彼女は来月住み慣れた北京を離れ、上海に引っ越すらしい。自分の決断ではないようだが、偶には環境を変えてみたい、ということだろうか。上海に行けば、きっと北京を懐かしむことになるだろう。Hさんは途中で香港に帰って行き、今回の私の任務は全て終了した。

 

昼は隣のビルに勤務する、元同僚の中国人と会う。これまで会う時は、出来るだけ彼の家のある、中関村方面にしていたが、今回はランチしか空いていないというので、珍しく職場付近になった。年度末ということもあり、彼はとても忙しく、食事の途中で職場から電話があり、あっという間に呼び戻されてしまった。やはり職場の近くではゆっくりできない。そして現在中国経済が置かれている状況についても何となく分かる感じがした。

 

午後はまた西の方へ行く。もう5年以上前に銀行カードを失くしてしまい、そのために現金も引き出せないし、口座の解約もできない状態がずっと続いていた。既に10年前に北京を離れており、5年前に北京を旅した時からこの戦いは始まった。簡単に再発行できるだろうと思っていたら、何と口座開設時に登録したパスポートが更新されており、古いパスポートも持ってこないと手続きできないと言われたことに始まる。

 

その1年後に行っても、『お前の口座は見つからない』とか、『カード再発行には1週間かかる』とか、言い訳をさんざん言われ、どんどん手続きは厳しくなり、ようやく2年前に再発行の手続きをしたが、1年前に取りに行く時、何と間違えて隣の支店に行ってしまい(大手銀行の支店は多すぎる)、らちが明かず。そしてついに今日、全てをそろえて万全の態勢でカードを取りに行った。

 

しかしやはり、2年前に申請したカードをきちんと管理しているほど、中国の銀行は甘くない?ただ彼らも私の事情は十分に分かってくれ、懸命に探しているようだったが、最後は本店に電話を入れて、カードなしで口座を解約して、口座残高を現金で渡してくれた。ああ、苦節5年、中国の銀行とは何と面倒なことか。いや日本でも対応は親切だろうが、手間はかかるだろうな。ただ中国で今から外国人が口座を作るのは大変だとも聞いており、口座を残しておけば、何かに使えるかもしれず、ちょっと残念だった。

 

それから東の方に戻り、昔住んでいた辺りを散歩していると辺りが暗くなる。そのまま歩いてホテルまで帰ることにしたが、今晩は予定もなかったので、その辺で夕飯を軽く食べてから戻ろうと思った。が、オフィス街では一人でサクッと食べられる店は多くはなく、結局ホテル裏のモールで麺を食べた。このモール、夜もレストランは意外と混んでいる。仕事帰りのOLが一人で食事をしている姿も見られた。今やデリバリーフード全盛の中国だが、勿論外で食べる若者もいるのだ。

 

夜は部屋でサッカーACL準決勝、浦和対広州恒大の試合を見た。今季リーグ戦不調の浦和だが、この試合に賭けていたのか、第一線のアドバンテージも生かして何とか競り勝つ。その後NHKでニュースを見ていたが、香港騒動のニュースはきれいにブラックアウトしていた。ウイグルと香港は見られない。

 

10月24日(木)
台北へ

今朝は5時に起きて、6時前にホテルを出た。朝8時半のフライトで台北へ帰るためだ。私はこんな朝早いフライトを選択することはないが、今回はスポンサーが選んでくれたので、仕方がない。そもそも昨日変えるべきところを1日延長してくれたのだから有り難いと思わなければいけない。そしてちゃんと運転手が空港まで送ってくれるのだから尚有り難い。

 

朝の空港は相変わらず混んでいたが、それでも比較的スムーズに通り抜けた。既に9月末より大興空港が開港したとニュースでは聞いているが、まだ殆どのフライトは北京空港を使っているらしい。巨大空港の試運転はいつまで続くか分からない。北京市内からも相当に遠いようで、利用者は大変だ。私は今後も安全なエアチャイナを使うことにしよう。今回は自分の旅ではないので、あっという間に過ぎてしまった。目をつぶっていると台北に着いてしまう。

ちょっと北京散歩2019(2)新旧北京を巡る

そこから王府井に歩いて出た。ここも以前に比べれば歩いている人は多くない。既にかなり疲れてきたので、ここから地下鉄で帰ろうと思ったが、ちょうどそこに北京飯店があり、Hさんの希望で見学することにした。入ってみると、昔の面影はあまりなく、ロビーはすっかりきれいになってしまっていた。

 

コーヒーショップでコーヒーを飲もうと注文すると、ウエートレスがいきなり『今日はシステムに不具合があり、現金は使えませんが、大丈夫でしょうか?』と訳の分からないことをいう。現金しか使えない、の間違いではないのか。私が支付宝を持っているというと、ウエートレスはホッとした顔でコーヒーを提供する。外国人が利用するホテルで一杯63元もすると飲み物の支払いさえも、難しくなってきている。最後にシステムが治り?Hさんが現金で支払って、ご馳走になることが出来たのはよかった。

 

ホテルに戻って休む。夜は知り合いのMさんとKさんに来てもらい、昨日の夜と同じレストランの同じ個室で食事をした。目的は昨今の北京情勢を聞いて、12月のイベントに備えることだった。この二人とはもう10数年の付き合いになるが、こんなフォーマルな席を共にするのは初めてであり、何だか緊張する。オーナーからは高級ワインの差し入れもあり、いつもと様子が違う。それでもHさんが質問を連発して、かなり長い時間を付き合わせてしまった。まあ、偶にはいいか。

 

10月22日(火)
北京散歩2

今朝も天気が良い。朝飯の後、テレビを見る。このホテルではNHKワールドプレミアが映るので、便利ではある。今日日本は祝日、雨の中、新天皇の即位の儀式が行われており、生中継を見ることが出来た。この儀式については賛否あると思うが、色々とものを考える節目にはなる。

 

大戦後、昭和天皇はなぜ退位しなかったのか、とても疑問に思っている。そしてその流れが平成天皇の生前退位となったような気がしてならない。皇后など皇族の服装などに関心が集まるのは、正直ちょっと頂けない。ワイドショーとは、『話を広げる』という意味なのだろうか。

 

快晴の北京で外に出た。茶荘の店長に連れられて、三里屯に行ったのは意外だった。そこには、何と高級車のショールームがあったのだ。我々とは無縁に思われる高級車だが、そこにも高級茶として岩茶が置かれ、スタッフが派遣されて、上客に茶を振る舞っているという。写真を撮ることを遮られた車、聞けば1台日本円で1億円ぐらいするらしい。ショールームと言っても既にほぼ予約済みの車が飾られているようだ。やはり中国経済の勢いは未だ全て止まったわけではない。

 

その後早めのランチを食べに行く。店長と運転手は共に北京人だといい、かなり力を入れて?伝統的な北京料理をオーダーしてくれた。この店は最近流行っていると言うだけあって、店内もきれいで、料理の盛り付けなどもインスタ映えする内容だった。私は久しぶりに濃厚な味付けの腰花が食べられて、満足する。Hさんも初めての北京料理に『意外にうまい』と言って手を伸ばしている。

 

一度ホテルに戻り、ホテル裏にあるショッピングモールを見学する。昼時は近所のオフィスビルからOLなどが大量にランチにやってくる場所で、それ以外の時間は閑散としているらしい。もしイベントをするなら、ランチタイムしかないな、と感じる。今北京にはモールが多過ぎて、お客も相当に分散している。

 

午後はHさんの希望で、什刹海へ地下鉄で向かう。ここにジャズクラブがあるので行って見たということだったが、確かに東岸という名前のクラブが存在した。北京にもジャズ好きがいるのだな、と初めて認識する。そしてここに出演している人の中に、日本人もいるのに驚く。活躍の場を中国に求めた人々なのだろうか。いずれにしても昼下がりに演奏はなく、お客もおらず、その雰囲気は掴めないが、建物の古めかしい感じは悪くない。

 

そのまま歩いて南羅鼓巷まで行く。ここは昔大好きな場所だったが、今は新しい土産物屋や食べ物屋が並び、大勢の観光客の波が押し寄せ、完全に浅草のようになってしまっていた。ここが初めてのHさんには、ちょっとした北京下町散歩で良かったようだが、昔を知る者からすればかなり残念な状況だと言わざるを得ない。

 

夜は西側まで地下鉄に乗って行く。旧知のWさんと会うためだ。10号線に乗って行ったが、やはりそれほどの混雑がない。駅を降りてから、大きなモール付近にあるレストランを探すのに苦労した。北京でも珍しい南京料理の店で、美味しい魚をご馳走になった。Wさんは更に精力的に活動しており、頻繁に日本にも行ってようだ。Hさんとも話が合い、楽しい夜を過ごした。

ちょっと北京散歩2019(1)天安門へ

《ちょっと北京散歩2019》  2019年10月20日-24日

昨年12月の香港及び北京、今年4月の香港そして武夷山でお世話になった香港のお茶屋さんのイベントに関して、またお声がかかった。ただ今回は何と12月に北京で行われるビックイベントの下見として、日本人Hさんのお供をするという、ちょっと変わった旅となる。久しぶりの天安門に北京飯店、何となく新鮮で不思議な体験だった。

 

10月20日(日)
北京へ

台北から北京に行く。初めての試みだ。航空会社はエアチャイナ。まずはバスで桃園空港に向かう。中華航空やエバ空港と同じ第2ターミナルから出発する。エアチャイナはエバ航空と同じスターアライアンスグループだが、ラウンジは中華航空の場所を使うらしい。搭乗ゲートが近いからという理由だったが、如何にも中国人のニーズに応えた対応だと思われた。

 

エアチャイナには何度も乗っており、機内はいつもと何ら変わらない。3時間ちょっとで北京に到着する。ところが空港の入国審査、外国人が殺到しており、審査場に入るのが制限されるほどだった。ようやく審査の列に並んだが、長蛇の列でいつ辿り着くのかも分からないほどだ。こんな北京空港、見たこともない。何かあったのだろうか。旅行シーズンということか。

 

列に並びながら、周囲をキョロキョロした。ほぼ同じ時間に香港からやってくるHさんを探してみたのだが、人が多くて見付からない。フライトもちゃんと着いているのか分からない。そんな時、Hさんの姿が目に入り、無事合流できた。そしてダラダラと1時間ほどかかって何とか入国する。ちょうど直前に北大の准教授が中国で拘束される事件もあり、少し緊張したが、何事もなく過ぎた。

 

出口には、迎えの運転手が待っていた。昨年12月と同じ人だった。Hさんは北京が約20年ぶりだと言い、何から何まで見たこともない風景だという。今日は日曜日ではあるが、三環路のホテルに着くまでには、かなりの渋滞があった。空気は以前に比べるとかなり良くなっており、気候も10月の秋の北京で気持ちがよい。

 

ホテルに着くと、香港から来た老板が我々を待っていてくれた。早速レストランの個室で、夕飯が始まる。蒸し魚、茹でエビ、北京ダック、そして極めつけは季節の上海ガニ。それも1杯、300gもある特大の蟹で、これまで食べた中で最大だったと思う。しかも一人3杯も用意されてあり、残念ながら2杯しか食べられなかった。何だか全てが超高級なメインデッシュだけで構成された夕食で、驚いてしまった。Hさんは麻婆豆腐が食べたいと言ったが、結局出てくることはなく、腹は完全に一杯となり、すぐに部屋に戻り休む。シャワーを浴びて寝ようとしたところ、バドミントンの男子シングルス決勝に桃田が出ており、それを見ながらそのまま眠りにつく。これは何とも幸せな夜だった。

 

10月21日(月)
北京散歩

朝は快晴だった。まさに北京秋天。朝ご飯をホテルで食べると外へ出てみた。気持ちがよい。近くのセブンイレブンに行くと、若いサラリーマン、OLが朝ご飯を買っていた。私以外は全員スマホ決済で、現金を出した私を見て、『どこの田舎から来たおじさんか?』といった顔をしているのがよく分かった。

 

午前中は、ちょっと打ち合わせがあり、今回北京に来た目的の一部を早々に果たした。私の役割は、こちらの秘書とHさんの通訳をすることになった。また同時に中国の習慣などをHさんに伝えることも必要となる。このホテルでは今晩、映画の新作発表会があるらしく、その準備が進んでいた。若い二人の主演俳優の写真や映画ポスターなどが展示されており、ファンなのか若者が盛んに写真を撮っていた。

 

昼ご飯は公寓のレストランで特別にスパゲッティーを食べた。こちらも12月にちょっとしたイベントをやる予定で、打ち合わせした。併せて2階のプライベートティールームにて、私の小セミナー開催も決まった。北京でお茶の話、一体何を話せばよいのだろうか。でも日本語でよいというのでかなり気は楽だ。でも誰が聞きに来るのだろうか。

 

午後はHさんの北京散策に付き合った。地下鉄に乗って天安門広場へ行く。地下鉄カードを忘れてきてしまい、一々切符を買うのがとても面倒だったが、いずれにしてもHさんの分は買わなければならなかったから、手間は一緒だ。昔は大混雑だった1号線、車両もきれいで心なしか空いている。

 

天安門東駅で降りると、警備は以前より厳しかった。広場へ向かう道もかなり制限されている。つい20日前に建国70周年の記念式典があったのだから、その名残だろうか。広場に行ってみても以前に比べて観光客が少ない。特に中国の地方から来た人、お上りさんがそれほど多いと感じられない。これだけ天気の良い10月、昔なら観光客で埋まっていたはずだが、何か制限でもあるのだろうか。天安門の下を潜り、門の上に登れるかと思って見てみると、切符売り場はきれいに無くなっていた。

 

ごく一部の人が横からひっそりと登っていくのが見える。どうやらここを登るには事前予約が必要らしい。更には故宮に入るにも、QRコードの読み込みなど、面倒な作業が必要らしい。しかも月曜日は休館日で閉鎖されており、結局入ることは出来なかった。本当に外国人にとっては、不便な国になったと言わざるを得ない。

タイ南部を歩く2019(5)ハジャイへ、そして国境へ

8月13日(水)
ハジャイに戻る

翌朝雨は降っておらず、ホッとする。バスターミナルへの道をどのように行くかが気がかりだったのだ。ホテルで車を頼むと高いだろうと思い、近所でトゥクトゥクを探す。待合場所に車はあったが運転手がいなくて焦ったが、すぐにやってきたので、それに乗ってターミナルへ向かった。これも僅か50バーツで済む。

 

予約したハジャイ行きのバスは10時にきちんと出発する。さすがに乗客は半分ぐらいだろうか。大型バスで座席もゆったりしており、ミニバスより快適に過ごせる。バスは先日スラッタニーから来た道をひたすら逆走する。半島横断のところにはプーケットまで200㎞の表示がある。プーケットから飛行機という手もあったかな、とは思うが、それもまた遠い。

 

このバスはあまり停まらないで、どんどん進んでいく。風景は特に見るべきものもなく、途中から寝入る。半島の反対側に辿り着き、南下を開始する。その頃ようやくトイレ休憩があったが、食事休憩は何と午後3時ごろになっていた。そこで軽く麺をすする。本当にハジャイまでは遠かったのだと実感する。そしてスラッタニーからハジャイまで思い付きで行ったことが嘘のように思える。

 

スラッタニーなどの街には寄らず、国道本線をひた走る。さすがに車内にじっとしているのは退屈になる。途中工事などもあり、車が渋滞していつハジャイに着くのか心配になる。日は傾き、そして落ちていく。列車で北上した場所を南下しているのだろうが、もうどこを走っているのかさえ、分からなくなる。そうして9時間かけて、ついにハジャイの郊外までやってきた。

 

荷物はあったが、大丈夫というのでバイタクを拾って、駅まで行く。意外と距離があるんだな。これも60バーツ。そして事前に下見した駅にあるステーションホテルにチェックインした。かなりたくさん部屋があるようだが、泊っている人は多くはない。部屋は結構広いが特に備品は何もない、殺風景な部屋だった。それでも電気ポットもあるし、Wi-Fiの問題もないので便利である。何より明日列車に乗るのは何とも楽だ。

 

兎に角腹が減ったので、前回行った食堂へ向かう。何と団体客で満員だったが、端っこに座り、海南チキンライスを食べる。この団体、年寄りの華人が多いが、態度がかなり横柄な人がおり、従業員も困っていた。言葉が通じると途端に横柄になる人、日本人にもいるな。

 

8月14日(木)
アロースターヘ

翌朝は列車の音で目覚める。如何にもステーションホテルだ。今日乗る列車は午前7時半に出るので、7時過ぎまでゆっくりしてからチェックアウト。そしてそのまま切符を買い、ホームへ向かえるのが何とも良い。でも、なぜかこの列車、電光掲示板には表示されていなのでちょっと不安になる。

 

だが列車は既にホームにあり、すぐに乗り込めた。マレー系と思われる人々がかなり乗っており、これがマレーシア方面に向かうという雰囲気を出していた。車体は前回乗ったのと同じかな。固い椅子席に座る。定刻には出発して、すぐにのどかな田園風景になる。昨日の疲れもあり、ウトウトしているといくつか駅を過ぎる。

 

パダンブサールという国境の駅に着いたが、殆どおりない。ここはタイ側の駅であり、マレーシアに行く人はマレーシア側のパダンブサールで乗り換えなければならない。この辺は知らないと焦る場面だ。同じ名前の駅が二つあるのは、何ともややこしい。そしてハジャイから40分ちょっとで、マレーシア国境まで辿り着いた。

 

駅を降りると、そのホームから直接、タイ出国審査が受けられるようになっている。更にはそこを越えて少し行くと、今度はマレーシア入国審査まで受けられる。初めての外国人はちょっと戸惑うが、何とも便利である。無事マレーシアに入国すると、2階に上がり、チケットを買いに行く。私はマレーシアリンギを持っており、アロースターまで簡単に買える。

 

多くの乗客はクアラルンプールまでの早い電車に乗るため急いでいるが、私が乗るバターワース行きはさっき行ったばかりで約1時間待ちとなる。KL行きが出てしまえばのどかな駅となる。外に出ることも可能だが、国境以外何もなさそうだったので、待合室で待つ。ようやくやってきた電車はコミューター。確か佐賀県あたりで何回も乗った車両に似ている。ハリラヤ避難のタイ南部の旅は予想外の展開となったがこれで終了した。