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マレーシア茶旅2024(10)スワナンプーム空港で一夜を過ごす

そうするとまずはトランジットで、入国せずに出国ロビーに移動しなければならい。カウンターまで歩いて行き、搭乗券をもらおうとしたが、明日の5時以降と言われる。それでもWebチェックインは完了しており、QRコードはもらっているので、トランスファーの場所へ行くと、ちゃんと通してくれた。

あっけなく、事態は完了した。これから約15時間、どうやって過ごすか。取り敢えずラウンジが使えたので、そこに荷物を置き、空港内散策を開始した。まずは空港内ホテルを探してみる。もし泊まれれば、それに越したことはない。インフォメーションで聞けば、たった一軒しかないという。しかもそれは一番端にあり、歩いて15分ぐらいかかってしまった。

そこに入って聞いてみると、8時間泊まるのに5000バーツ、4時間でも3000バーツというので、驚いた。市内の結構いいホテル並みの料金だ。確かにビーはきれいそうだが、簡単に泊まれる場所ではない。お客も全く見掛けなかった。仕方なくとぼとぼ戻ると、税金還付窓口が目に入った。これまで一度も使ったことはなかったが、今回初めてユニクロの買い物で手続きをしたのを急に出す。

どうせ暇なので、還付可能か聞いてみることにして列に並ぶ。以前は圧倒的に中国人観光客に占拠されていたこの窓口、今は韓国人はじめ様々な人々が並んでいた。10分で窓口に到達し、書類などを提出すると、係員が何やら慌てている。そしてもう一人の係員が『あなたはどこから来たの?』と聞いてくる。完全に異邦人扱いだ。彼女らのシステム上、私は存在しないというのだ。

確かにそうだ、入国していないのだから。ところが係員とその上司は真剣に協議を始めてしまった。もういいです、と言える雰囲気はない。そして結論として警備員が呼ばれる。これはまずいと思ったが、係員は『警備員に出入国ゲートまで連れて行ってもらい、出入国のスタンプがもらえれば、還付できそう』というのだ。もう流れに任せるしかない。

警備員が来て引き渡され、どこかへ向かう。ところが事情を聴いていた警備員が連れて行ったのは、インフォメーションだった。そしてここで事情を話していると、どこかへ電話を掛けて、受話器を渡される。向こうから日本語が聞こえてくる。そして回答として『あなたは一度マレーシアへ出国してしまったので、還付は出来ない』というごく当たり前のものだった。なぜ還付のカウンターではあんなに議論があったのか。もしやすれば何か方法はあったが、警備員が面倒だからここに連れてきたのか。謎だらけだったが、僅か500円の還付で騒ぎを起こしたことを素直に反省する。

ラウンジに戻り夕飯を食べるとやることがない。そういえばシャワーがあるとか言っていたので行ってみると、掃除のおばさんが『シャワー空いているよ。つかうならバスタオルね』と気さくに準備してくれたので有難く浴びる。気持ちが良い。その後フルートなどを食べながら過ごす。

午後11時過ぎて次々にフライトが飛び立ち、急に寂しくなる。そして何とこのラウンジが午前1₋5時の間は閉まるという驚愕の事実を知る。半泣きで係員を見たら、『大丈夫、向こうの別のエアラインのラウンジは24時間だよ』と優しく教えてくれる。何とも有難い。12時過ぎて、真夜中のひと気のない空港をそちらへ移動する。

こちらにも殆ど人はいなかった。朝食用意は午前3時からと書かれていた。その頃から眠気がマシ、ドラマを見ている間に寝落ちする。ふと気が付いたら午前5時だった。一応搭乗券権をゲットして、朝食をゆっくり食べると搭乗口へ向かった。旧正月直前ということか、かなり込み合っていたが、ここでも映画を見ている内に寝落ちして、機内食は食べなかった。急激に疲れを感じながら、成田空港に午後到着した。本当はラーメン、チャーハンセットが食べたかったが、既に体調は不調になっており、タンメン餃子セットを途中で食べて帰る。

マレーシア茶旅2024(9)KLで歩き疲れてへたり込む

宿まで知り合いの陳さんが来てくれた。ホテル併設のカフェで旧交を温める。10年来の知り合いで、以前は経営者として様々な仕事をしていたが、今やほぼ引退状態となり、自分で車を運転してきた。コロナ禍では手術などもしたようだが、元気そうでよかった。これから世界中の興味ある場所にフラッと行くのが生きがいらしい。日本で一緒に旅しようと言われたが、その機会はあるだろうか。

陳さんと別れて、周囲を歩き出す。10分ほど行くと、大掛かりな観光客向けレストランと屋台が並ぶ場所があった。ここはもう完全に普通話が飛び交う世界だった。ブキビンタンを少し入っていくと、その昔肉骨茶を食べた懐かしいレストランが健在だった。相変わらずの賑わで、何とか席を確保して、肉骨茶を食べる。以前より更に立派になった肉骨茶、値段も随分高くなっているが、客はひっきりなしで大繁盛。ここも中国人観光客が多い。近所には蘭州拉麺の店なども出来ており、観光地として発展している感じだ。夜はアジアカップ、日本対イランを見ていたが、何だかな、という試合だった。

2月4日(日)旅も10日目疲れて

今朝は早めに起きて、宿の朝食を頂く。そして部屋に戻り、オンラインで2時間半ほど話す。まあこれが目的で、ネットがちゃんとつながるアメリカ系ホテルを選んだわけだが、何となく疲れが出る。それでも意を決して外へ出て、またモノレールに乗る。今回はモノレールが大活躍でよい。アブドララーマンという名の通りを目指す。この人名は初代首相からきているのだろうか。

実はこの道、戦前は日本人が多く住んでいたとある本に書かれていたのだが、今回行ってみても、その痕跡は全く見付からなかった。今やSOGOなどが建つ、繁華街という感じだろうか。道幅も相当広いので、古い物は壊して拡張したのかもしれない。ずっと歩いているとマレーストリートというところまで来てしまった。この付近はKL初期の頃のマレー村だったとあるが詳細は分からない。

いつの間にかムルデカ広場付近まで来てしまった。もう1時間も歩いただろうか。バスに乗って帰ろうかと探したらちょうどよいのが無くて、また歩いてしまう。かれこれ2時間近くの散策を終えて宿に戻った時は疲労のピークだった。だが突然腹が減り、隣のマックに駆け込んだ。まあセットで400円ぐらいだから高くはない。

部屋でへたり込むと、そのまま寝てしまう。明日はもうバンコク経由で帰国なので、最後の夜に何を食べようかと考えていたが、結局外へ出ることも出来ずに、今回の旅で残った食糧を食べて、ボーティーを飲んで休むしかなかった。もう歳なのだから、そしてGrabも安いのから、もっと効率的な旅をすべきだと反省する。

2月5日(月)バンコクの空港で一晩を

朝は宿で食べて、ダラダラしていた。時間になったので、モノレールに乗りKLセントラルへ出て、そこからバスに乗って空港へ。これは半年前と同じなのでスムーズにいく。だが疲れていたのだろう。チェックインで20分も列に並んだのに、自分の番が来たら違う航空会社だったことに気づき唖然となる。出国審査も長蛇の列で疲弊度がかなり増す。

何とかマレーシア航空に乗り込むと、ちゃんとご飯出てきて嬉しいが、体調を考慮して大人しく少しだけ食べる。KLからバンコクまではフライト時間が2時間ほど。時差も1時間あるので、午後4時にはスワナンプームに到着していた。さて、ここからどうするのか。実は私の東京行フライトは明日の午前8時なのだ。勿論入国してホテルに入ればよいのだが、また長蛇の列に並ぶのも嫌であり、かつ明日は午前4時ごろ起きて、また出国しなければならいことを考えると、空港で一夜を明かす方が良いのかと思う。

マレーシア茶旅2024(8)KLをフラフラ

少し待つと雨は上がったので、出掛ける。モノレールの駅がすぐ近くにあって有り難い。そこから駅3つほど行くと、何とららぽーとがあった。私の目的地とは反対方向だったので、帰りに寄ることとして、歩き出す。10分ほど行くと林が見え、そこに番号が刻まれた小さな石が多数あった。これが墓石だとはすぐには気が付かなかった。

その向こうに日本人墓地があったが、ここは立派な上に門が固く締められており、墓石を見ることすら叶わなかった。さらに周辺は荒れ果てたところに十字架が見えたり、仏教寺院があったりと、かなり不思議な場所だった。KLの中心街にこんな場所があるとは意外だった。風水の関係だろうか。

ららぽーとまで戻って見学する。グルメストリートと書かれた場所にはレストランやカフェが沢山あったが、まだ時間が早いためか、ほとんど人がいない。建物の中も同じく人は少ない。旧正月が近いのでその飾り付けが眩しい。日本をイメージした場所もあったが、ちょっと違うような気がした。結局何もせずに戻り、KLセントラルでカヤトーストとフレンチトーストを食べる。体調がすぐれない時にはありがたい。部屋に帰っておにぎりの残りを食べて寝る。

2月3日(土)KLで

朝、近所を散策するとヒンズー寺院が3つもあった。周辺はインド系の人々が暮らしていた。そこからずっと歩いて行くとパサールスニに着く。インド人街とチャイナタウンは結構離れていたが、これは比較的最近のことではないだろうか。行こうと思っていた店が閉まっており、ちょっと歩いてまた海南チキンライスにありつく。あまりにリラックスしてしまい、なんとカバンを店に忘れてしまったが、すぐに店の人が追いかけてきてくれた。何とも有難いことだ。

そこからパサールスニを通り過ぎ、一番端まで来る。そこに建源茶荘がある。ここは半年前にフラッと入った(4年ぶり)時も、『あ、久しぶり』と言いながら温かく迎えてくれるのが良い。今回もサラッと歴史の話などをしながら茶を飲んだ。そこへお父さんが登場したので、最近モヤモヤしている六堡茶の歴史について詳しく聞いてみた。

こちらは福建系のお茶屋さんだから、広東系?の六堡茶とは少し違うような気もするが、それでも長年マレーシアで茶業をやっていれば、色々な話は見聞きしている。やはり六堡茶には、様々な歴史がありそうだ。宿のチェックアウト時間が迫ってきて、全てを聞くことは出来ず、ちょっと残念。

急いで宿に戻り(モノレールでまさか一駅だったとは)、チェックアウトして荷物を持って、またモノレールに乗る。今日から2泊は中心部の少しいいホテルに泊まる。週末でモノレールは意外と混んでいる。ラジャチュンランという駅で降りて、数分歩くと今日の宿があった。12時過ぎに行っても、日本みたいに『チェックインは2時からです』なんて誰も言わない。部屋が掃除されていれば、すぐに入れてもらえるが嬉しい。

そして腹が減ったので外へ出たが、この付近はオフィス街?で簡単に食べる所が見付からない。少し歩いてみたが状況は変わらなかったので、マレー系ファーストフードの店に入ってみた。するとオーダーは全て機械。だが最後に電話番号を入れる必要があり困る。店員も調理に忙しい。ちょうど出てきた店員に話すとすぐに自分の番号を入れてくれ、オーダー完了。スパゲティボンゴレとカレーパフ、ドリンクで20リンギは高いのか、よく分からないが、若者が多く利用している。

マレーシア茶旅2024(7)イポーをフラフラ

そこから線路沿いに駅まで行こうと歩いて行くと、昔のバスターミナルがある。10年前、ここからキャメロンハイランドへ登ったのが懐かしい。ちょっとトイレに入り、その先の駅舎へ辿り着く。この駅には以前はホテルが併設されていたので、その名残が所々に見え、多くの外国人が写真を撮っている。

駅前からふらふら歩いて行くと、4年前取材で行った梁瑞生茶荘があったので、懐かしくて入ってみた。店員に聞くとオーナーは1時間ぐらい後にしか戻ってこないと言われたので、あきらめて外へ出ようとすると彼がちょうど帰ってきた。すぐに思い出してもらえ、おじさんと共にお茶を飲みながら旧交を温めた。六堡茶の歴史については、昨日会った会長が一番詳しいと言われる。コロナ禍で大変だったと思うが、生き残っていて良かった。これも六堡茶ブームの恩恵だろうか。

宿へ帰る前にフードコートを探して、叉焼鶏飯を食べる。味がいい。イポーに来てよかった。ただ徐々に疲れが出てきている。午後は宿で昨日貰った本を読みながら休息に充てた。それでも日が傾く頃には、また外へ出てしまい、イポー名物のもやし鶏肉麺を食べる。これは確かに美味い。もやしはシャキシャキしているし、鶏肉も新鮮だった。

まだ明るい中、帰ろうと歩いていると、何とコインランドリーを発見。ホテルで聞いても、イポー市内にはない、と言われていたので驚いた。すぐに宿へ帰って洗濯物を取り出して、洗濯に向かう。マレーシアといえばコインランドリーと思っていたが、ようやく巡り合えてよかった。これで心身ともにすっきりした。

2月2日(金)KLへ

今日は朝、近所に出掛けてカレー麺を食べる。この店は朝6時から昼頃までしか開いていない。昨日は12時頃行って、既に麺が品切れだった。とにかく混んでいるが、何とか滑り込んだ形だ。勿論汁なし麺だ。これが美味しいと言われていたが、4年前に食べた物の方が美味しかったような気がするがどうだろうか。

更にフラフラしていると飲茶屋が目に入る。見ていると広東語で声が掛かる。サラっと入ってしまい、その後も広東語でオーダーした。30年近く前の香港を思い出して、何とも懐かしい。あの頃から広東語が出来なかったが、飲茶のオーダーだけは出来た。といっても焼売は元々広東語だったりする。何だかいい気分になる。

昼前に宿から駅までGrabを呼んでいく。マレーシアのGrab は本当に安くて便利、素晴らしい。12時前に列車に乗り込み、そこから3時間かかってKLまでやってきた。かなりの時間眠っていたのは、疲れていたからだろうか。KLセントラル駅に着いて、ホームに降りたが、エスカレーターになかなか乗れない。スペースが狭すぎて移動を制限していた。

今日は取り敢えずこの駅の周辺に泊まるつもりだ。目当ては4年位前に泊まった宿。行ってみると、料金は30%程度上がっていたが、フロントも親切で、部屋もそれなり、まあいいか。ところがネットが全然繋がらない。マネージャーが来て治すとすぐに繋がった。原因は全く分からない。

外へ出た瞬間、雨が降り出した。まさにスコール。傘など何の役に立たない程のザーザーぶりだった。仕方なく横にあったセブンイレブンに逃げ込む。ドリンクを買って部屋まで走るつもりだったが、女子高生がおにぎりを買っているのを目にして興味を持つ。『とびこ かに マヨ』とか『スモークサーモン クリームチーズ』など、日本にはないユニークなものが並んでいる。さすがにこれらは置いておいて、普通に『照り焼きチキン』と『サーモン照り焼き』を買って部屋に戻った。

マレーシア茶旅2024(6)イポーで六堡茶の歴史を学ぶ

1月31日(水)イポーで六堡茶の歴史を学ぶ

朝はまた宿で朝食。今日はマレー系のナシレマッを食す。普通に美味い。全部腹に収めてまた湖を散策。ちょうど反対側付近に動物園があった。地元民によれば『夜は真っ暗で何も見えないナイトサファリ』があるそうだ。その先を歩いて行くと、墓地があった。ここは第二次大戦中に亡くなった、マレーシア、オーストラリア、インドなどの兵士の墓が並んでいる。よく見ると年齢は若く、半分ぐらいは氏名不詳だった。戦った相手は日本軍であろう。

この付近は初期のタイピンでイギリス人などが居住した場所のようで、古い建物やクラブなどが残されている。更には教会なども見え、その先には立派な刑務所があった。その向かいにはもっと立派な博物館まである。1883年に作られたという博物館の展示は豊富で見応えがあった。実は刑務所はそれより早い1879年に出来ているというから、ちょっと面白い。

昨日もちょっと寄った嶺南古廟に今日は入ってみた。意外と色々なものがあった。そこから30分ぐらい歩いて戻る途中にフードコートがあり、美味そうな海南チキンライスを見掛けた。思わず座って食べると旨い。店員はマレー系の若い女性で英語が通じない。取り敢えず5リンギ札を渡したら、0.5リンギのお釣りをくれた。まさかと思ったが、僅か日本円130円だった。これなら毎日くるよ。

11時半頃柯さんが迎えに来てくれ、駅まで送ってくれた。何から何までお世話になった。そして鉄道に乗り、イポーを目指した。意外と乗客が多い。イポーまでは僅か40分だが、何となく列車の旅は良い。イポーには過去2回来ており、駅舎はレトロでとても懐かしい。ここに柯さんから連絡してもらった会長が車で迎えに来てくれていた。

彼はマレーシア六堡茶協会の会長だという。協会は昨年できたばかりらしい。やはりここ数年の六堡茶ブームを反映している。まずは昼ごはんとして、麵屋に連れて行ってくれた。イポーも美食の街であり、食べ物は何でもうまい。その後会長の執務室へ向かう。そこで貴重なお茶を飲みながらゆっくりと話した。その話の内容は驚きの連続であり、私の20年以上の茶旅人生で得られたものが、何の役に立つのかをはっきりと明示してくれた。大変有意義な午後だった。おまけに貴重な本を2冊もらい、感謝感激。

車でホテルに送ってもらった。初めは別のホテルを予約しようと思ったのだが、うまくいかず、結局前回泊まったところに落ち着く。だがなぜかネットが繋がらない。結局部屋を替わることで何とか切り抜けた。ホテル自体は落ち着けるいい感じなので、他を探さす必要がなく助かる。

この付近、意外と夕飯を食べる所に困った。昔の記憶で歩いて行くとレストランがあり、なんと夜も飲茶をやっていた。点心を3つほど頼み、お茶も持ってきてもらって、ちょっと変則な夕飯となる。ちゃんとした点心で実は美味しい。何だかゆったりとお茶を飲む。帰りは既に暗くなっており、足早に戻る。

2月1日(木)イポーをフラフラ

朝ご飯は宿で食べた。意外と混んでいる。外へ出て、どんどん郊外の方へ歩いて行く。街中はやはり漢字が目立つ。旨そうな店も途中に何軒か見掛けたので、こちらで食べればよかったと後悔する。橋を渡ると華人地区と思われるいい感じの通りがあった。だがそのすぐ横は何とインド系の店が並ぶ。なかなか複雑だが、その昔はやはり川を中心に貿易などが行われていたのだろう。

鉄道の線路も越えて辿り着いたのは日本人墓地。こちらもペナン同様鍵がかかっていて中には入れない。それでも墓石の文字はいくつか見える。やはり日本人女性の名前のようだ。からゆきさんはここにも来ていた。何といえばよいのだろうか、言葉が無い。向かいには立派なヒンズー寺院もある。

マレーシア茶旅2024(5)タイピン散歩 十八丁にも

そこから別の道を歩いてみる。モスクやヒンズー寺院が目に入る。更に行くと福建会館など華人系の建物が見えるが、その先にはまたモスクがあり、かなり混沌とした雰囲気がある。大きな学校もあり、その向こうの教会が立派だ。100年以上前、この街は今より賑やかで、更に混とんとしていたのではないだろうか。

かなりの距離を歩いて疲れたので、宿で休息する。それでも腹は減り、昼にまた外へ出た。一番近いフードコートでミーレブスというマレー系の麺を食べてみる。かなりスパイシーなカレー麺。中国語では吉霊麺と書かれていて、ちょっと神秘的だ。コーラを飲みながら流し込む。

暑いのに何となく散歩する。湖の裏道を通ると、周辺には古い家が並んでいる。昔の別荘のような木造家屋もあるが、今やだれも住まず、手入れもしていないので、荒れ果てていた。何だかもったいないな、私がここに住もうかな、などと思ってしまう。タイピンが思いの外気に入ってしまったと感じる。

午後は柯さんが迎えに来てくれて、彼の店で茶を飲みながら、六堡茶の歴史などについて聞いた。1930年代の六堡茶も残されていると言い、その歴史が予想外に古いことに興味が沸く。すると柯さんが『それならイポーの人を紹介しよう』と繋げてくれた。折角なので、急に茶旅となり、六堡茶を追うことにした。それにしても柯さんも収蔵家であり、相当に色々な茶や茶器を持っていて驚く。

夕方柯さんが『さあ、いこう』と言って車に乗る。どこへ行くのかと思っていると途中でいきなり炭焼き工場に入っていく。何でもここで作られた炭を日本企業が購入して、日本へ運んでいるのだとか。それでわざわざ寄り道してくれたらしい。150年前、森林を開拓して炭坑が掘られたことと関連があるのだろうか。

それから30分ほど行くと、なんと海に出た。クアラセペタ、中国名十八丁というらしい。何とここはミニ観光地になっており、簡単な宿泊施設やレストランがある。週末はここからボートクルーズ(鷹に餌をやる、ホタルを見るなど)などが出ており、結構賑わうらしい。ただいまは平日の夕暮れ時、人影はほぼない。

柯さんの知り合いの店へ行き、名物だという甘い飲み物を飲む。そして店の人にある場所を聞いている。そこは何とマレーシアで最初に鉄道が敷かれた駅。ということは、午前中に見たタイピン駅はここと繋がっていたのだ。炭坑から出た物を鉄道でここへ運び、船で外へ出していたということだ。

今は誰も顧みない駅の名残。そこには『PORT WELD 1885』と刻まれていた。更に近くに媽祖廟があるというので探したが、見つからなかった。近隣の人は皆親切で、色々と教えてくれた。どうやら個人の家の中にあるらしい。これが潮州系華人の証のように思われたが、果たしてどうだろうか。

雨が降り始めたので帰る。途中に古いお寺があり、その横に比較的新しい船の模型が飾られていた。何となく鄭和を祭っているように見える。まさかここまで来たのだろうか。最後にタイピンまで戻り、古廟を一つ拝見して、見学は終了した。今日も日はとっぷりと暮れていた。柯さんがベジタリアンなので気を使って私をフードコートで降ろしてくれた。好きなものを食べて、という配慮だ。

賑やかなフードコートで、カレー麺があったので、注文してみる。思った以上にスパイシーだ。それに食べたいなと思っていたのはスープ麵ではなく、汁なし麺だったのでちょっと残念。また明日以降探そう。他にも色々と食べる物はあったのだが、何となく腹が一杯で、散歩して帰る。

マレーシア茶旅2024(4)ペナンからタイピンへ

それから町中の薬局に立ち寄る。80代のお爺さんが迎えてくれた。元は潮州から船で来たという。薬局ではあるが、六堡茶は商っていたと言い、美味しいお茶を淹れてくれた。急須などの茶道具にも凝っており、面白い。ここ数年、六堡茶がブームになり、中国や香港、台湾から茶商が古い六堡茶を買い付けに来たというが、こういうところに眠っていたのだろうか。

もう一軒、昨日は日曜日でお休みだったペナン一の茶荘、天一銘茶へも行く。老舗らしい建物の中で、オーナーとお茶を飲みながら話していると、この店が1983年開業であり、当初は台湾の天仁銘茶の代理店として烏龍茶を売っていたことなど、興味深い歴史を聞く。向こうの方には白人が数人来ており、彼らは取材だという。オーナー夫人はもっと詳しいらしいので、次回は話を聞いてみよう。

ようやく快晴の中、橋を渡り、ペナンを離れた。これからタイピンへ向かうと思っていたが、車はなぜか反対方向へ走る。高速を30㎞以上走ってスンガイパタニという場所に着いた。ここにローカルな茶荘があった。柯さんがここに来たのは、古い急須に出物があるとの情報からだったが、この店には六堡茶など相当古い茶が沢山置かれており、どんどん飲ませてくれた。こんなところに簡単には来られないな、と柯さんに感謝する。

そしていよいよ車はタイピンへ向かう。既に日が暮れかかっている。ケルビンがなぜ柯さんを紹介してくれたのか、その意味が分かる。もしバスでペナンから向かっていたら、10㎞以上街から離れたバス停で降ろされ、そこからまた自力で街へ行かないといけないのだ。タイピンの街に入ると、既に周囲は暗くなっていた。

まずは腹ごしらえ。柯さんは仏教徒でベジタリアンなのだが、なぜか海鮮料理屋へ入っていく。おかしいなと思っていると、店の中が仕切られており、奥にベジレストランが併設されている。ここで美味い豆腐と野菜を食べた。ベジは疲れた体に優しいのでとても良い。勿論オーナーも華人だ。

そのオーナーが経営しているという湖畔の宿へ向かった。タイピンといえば湖、その景色を楽しむリゾート地として、知られている。宿代はそれほど高くなかったので、シンプルな部屋を取って落ち着く。夜のタイピン湖を柯さんと少し散策したが、涼しい風が吹き、今日の疲れが癒える。

周囲にコンビニはあるかと聞くと、街の方へ行けばある、というので、歩き出す。10分もせずに街の真ん中に来たが、コンビニは遠い。フードコートやホテルがある先を行くと、古い町並みが登場した。広東会館などと書かれ建物もある。さすがに華人の街タイピン。今年で街が開かれて150周年だという。

1月30日(火)気持ちの良いタイピンで

翌朝は気持ちよい朝を迎えた。1階で朝食のサンドイッチを食べて、すぐに湖へ出掛けた。徒歩1分で湖周回路へ。多くの人が朝の散歩を楽しんでいる。このゆったり感、何とも言えないリゾート感。道路に大木が倒れ掛かり、その間を抜けて行くのは楽しい。さすが、マレーシアで一番住みたい街に選ばれるだけのことはある。

取り敢えず駅に向かう。この地ではバスは役に立たないと分かったので、次の訪問地、イポーには列車で行くことにした。街中を通ると、漢字が非常に目に付く。古びたいい感じの建物も多い。ちょっと時間が止まったような雰囲気もある。駅に近づくと1915年に建てられた立派な英国式学校もあった。タイピンは1874年に炭坑開発で街が出来、華人が労働者として大量に入植したと聞いた。その先に駅があり、何とここがマレーシア初の鉄道であり、鉄道駅であると書かれていて驚く。駅舎は新しくなっているが、その横に今や食堂となっている旧駅舎が残っている。新駅舎でイポー行きのチケットを手に入れた。

マレーシア茶旅2024(3)ペナンで食べる

宿に戻って休息していると、ケルビンが迎えに来てくれた。今回は茶旅ではないのだが、4年前にお世話になったので、何となく会いたくなって連絡した。彼は車で来たが、おじさんが一人横に乗っていた。取り敢えず郊外の茶荘へ向かう。雰囲気の良いお店で、茶芸を見る。ここのオーナーは1990年頃から台湾茶芸を習って今があるのだと説明される。飲んでいるお茶はやはり黒茶だった。マレーシア茶復活の歴史の一端を見る。生徒は華人が殆どらしい。

それからペナンの美味しい食べ物を食べに行く。日曜日ということもあり、昼下がりの市場は人が多い。焼きそばが特に美味い。こういうものが食べたかった。ケルビン、ありがとう。おじさんと話していると、何と1960年代に台湾の大学に行ったという。当時マレーシアには大学が少なく、簡単に入れる台湾へ行った、というのだが、その頃は反共政策で、東南アジアの若者華人を台湾で教育する、という歴史もあったようだ。これは思わぬところで貴重な話を聞く。

一度宿へ戻り、夕方また外へ出た。宿の裏にはユダヤ人墓地があった。ペナンも色々な人種を受けて入れてきた歴史を持つ。街中を歩くと、本当に様々な顔が見られる。そして様々な建物も建っている。30分ぐらい歩くと、中国人街が見えた。華人の建物も見え、チャイナロードと書かれていたが、その先に踏み込むと何とインド人街だった。

今晩はここにあるカレー屋でJさんと会う約束になっている。前回は確かKLで会った。彼女は色々と動き回っており、ここで再会となった。この店の面白い所は、竹筒に入ったライスが出されて、ルーをつけて食べる。これは意外と旨い。Jさんはもうすぐペナンを離れて、また放浪するらしい。ペナンはかなりいい所だと思うのだが、それでも放浪するのだから、放浪が好きなのだろう。またフラフラと宿に帰る。

1月29日(月)ペナンからタイピンへ

今日はペナンを離れることになっており、当初は朝バスに乗るつもりだったが、何とケルビンがタイピン在住の茶商を紹介してくれた。その人は午前中にペナンに来て仕事をこなした後、私をタイピンまで乗せてくるという、何とも有り難い話に乗った。それで午前中が自由時間となる。昨日ちょっと通った日本人街の方へ足を向ける。

日本人墓地にも関連するが、この道は戦前の日本人が多く住んでいた場所らしい。その面影はあまりないが、日本好きのマレーシアらしい感じはある。その付近で朝ご飯を探すと、また麺が目に入る。暑いからだろうか、マレーシアではとにかく汁なし麺が食べたくなる。甘めの味も好みである。更に猪腸粥が目に入ってしまい、そちらの店でも食べてしまう。本当に安くてうまい。

宿に戻り、柯さんの到着を待つ.ちょうど12時、チェックアウト前に柯さんは迎えに来てくれた。何とも有難い。まずはランチに行こうと連れていかれたのが、和食屋さん。メニューを見ると、何と抹茶があり、更にきつねラーメンが目に入る。この意外性が面白くて注文してみる。和といえば抹茶、というのは絵に描いたような日本イメージ。これは世界で繰り広げられている日本文化紹介で、『お茶といえば抹茶』を広げた結果だろう。

きつねラーメンについては日本にも殆どないと思う。ただその中身はラーメンにお揚げを乗せただけかな。実は帰国後近所に一軒あったので、訪ねてみたが、すごく精緻なきつねラーメンで、店主によれば『日本にはほぼないと思う』とのこと。マレー人はうどんが嫌いなのか、店の仕入れの関係でラーメンが良かったのかは分からないが、これが世界に広がっていく和食の一つではないだろうか。

マレーシア茶旅2024(2)ペナンに辿り着く

午後5時半、クアラパリス港に着いた。ネット検索によれば、この付近から午後6時にペナン方面へ行くバスが出ているらしい。一応一番先頭でフェリーを降り、早足にバス停を探すが見付からない。何とかフェリーターミナルを抜け、人に聞いてみると、バスターミナルはその向こうにあることが分かり一安心。

5時40分、バスターミナルのチケット売場で『ペナン』と叫ぶと、今出るところだ、とチケットを渡される。何とかドリンクだけを確保してバスに乗り込むと、あっという間に出発した。もし6時だと思ってゆっくり来ていたら、今日はこの街止まりだったかもしれない。これはもう運が良いとかいう問題はなく、何かに導かれた旅となっている。

バスにはほぼ乗客はいなかった。ゆったりとした気分でいると、すぐにバスは停まり、客を拾い始める。今日は土曜日、その夕方だから、街中は渋滞していて車の動きは悪い。しかも何か所にも停まり、クアラパリスの次の大きな街、アロースターまで何と2時間もかかってしまった。既にとっぷりと日は暮れている。

一体何時にペナンに着くのだろうかと心配し始めた頃、バスは高速道路に乗り、かなりのスピードで走り出した。結局ペナン島の対岸、ペナンセントラルのバスターミナルまで、4時間弱で到着した。思ったほどのロスはなくてよかった。しかしまだペナン島ではない。ここからGrabを呼ぶ手もあったが、折角なので本日三度目のフェリーに乗ることにした。

バスターミナルからフェリーターミナルは繋がっているので、歩いて行く。フェリーはこの時間、1時間に一本だった。何と支払いはKLで使っていたタッチアンドゴーというカードで支払えた。2リンギ。このフェリーの乗客の半分はバイクに乗っていた。対岸が近づくと明かりが見える。香港スターフェリーをちょっと思い出す。

フェリーは僅か10分で対岸に着いた。ついにペナンに入った。サトゥーンの宿で出てから13時間が経過していた。ここでGrabを呼んで、予約した宿へ向かった。ジョージタウンも大きな街ではないので、10分もかからずに宿に着いた。ここは新しいが客はほぼ中国人という感じだった。

部屋も中国的。そこではたと思い出す。腹が減ったと。何と朝から何も食べていなかったが、時刻は夜の11時。外へ出てみたが、多くの店は閉まっていた。ただ向こうの方に明かりが見え、行ってみると24時間営業のインド系の店があった。その店頭でおじちゃんが焼いている物が実に旨そうで、それを注文した。モットバと教えられたので、そのまま発音するとウエイターも了解した。まあ、お好み焼きみたいなものだが、今日一日の大冒険、久しぶりに旅らしい旅をした気分に実に合う食事だった。

1月28日(日)ペナンに遊ぶ

何だか気持ちが高ぶって眠りが浅い。それでも天気が良さそうなので外へ出る。ペナンは散歩に適した街だ。車の量はそれほど多くはなく、そして何より歴史が感じられる。古い建物が並ぶ一角はなかなかいい。寺院や同郷会館も見られる。その先には4年前に訪ねた老舗茶荘、老翁茶の店があった。朝早くてまだ開いていないが、コロナ禍を生き抜いていて嬉しい。

今朝訪ねたのは、日本人共同墓地。ペナンにあると聞き、来てみたが、残念ながら鍵がかかっていて中には入れない。それでも墓石に日本語が見える。からゆきさんの墓が多いようだが、確認はできない。隣にはマレーシアの有名歌手の博物館があったが、こちらも時間的に早くて開いていなかった。帰りに古い建物の1階にあった食堂で汁なしワンタンメンを食べた。いい感じだった。

バスターミナル付近まで歩き、タイピン行きバスを探したが、よく分からなかった。銀行のATMでお金をおろした。ペナンではなぜかATMをあまり見かけず、探すのにかなり苦労した。宿の近くにはパキスタンモスクがあった。ペナンにはパキスタン人が多くいるのだろうか。

マレーシア茶旅2024(1)奇跡のランカウイ脱出劇

《マレーシア茶旅2024》  2024年1月27日₋2月5日

1月27日(土)ランカウイからクアラパリス、そしてペナンへ

タマラン港を出たフェリーは、ずっと陸地を見ながら進んでいく。途中少し波が荒い場所はあったが、順調に航行して、約1時間半でランカウイ島に到着した。ここで入国審査を受けるのだが、乗客が多く、列が長い。私は係のおじさんに『日本人は早く通れないか』と聞いてみたが、首を横に振る。だが彼は親切にも私の問いに答え『ペナンへ行く直行フェリーはない。ネット検索したら、今日のクアラパリス行きフェリーのチケットはすべて売り切れているぞ』と教えてくれた。

この情報は衝撃的だった。何とか入国するとすぐにフェリーチケット売場へ走ったが、既に窓口に『Sold Out』の文字が貼り出されていた。もう一つの半島の街、クアラケダー行きも同様だった。ということは、ペナンはおろか、半島側にも渡れず、ここで一夜を過ごすしかないのだ。思い余って飛行機のフライトを見てみると夕方5時にペナン行きが1便ある。当然チケットは高いが、それに乗るしかないと覚悟を決めた。

なぜそれほどまでにランカウイを嫌うのか。勿論明日ペナンで知り合いと約束があるからだが、もう一つの理由は、20年以上前にこの島に家族旅行に来た時の印象があまりよくなかったこともある。高級リゾートばかりで、つまらなかった、という思いが20年経っても消えていない。人の記憶とは一度刷り込まれると容易に消えない。

すると、背後から声が掛かった。『クアラパリスへ行く別のルートがあるよ』とその男は言う。どう見ても胡散臭いし、人の足元を見ているようでもある。だが彼は『実はここと別の港からカーフェリーが出る。そちらはネット販売もしていないから、チケットは買える』と言い切るのだ。フェリーの出発は午後3時らしい。

今は1時半だと思っていたら、何とマレーシアとタイには時差が1時間あり、既に2時半。ここから別の港まで車で約20分だという。瞬時の決断が必要だった。私はこの男に賭けることにした。タクシー運転手だと名乗っていたが、どうやら元締めのようで、私をタクシー乗り場へ連れていき、一番前に並んでいた若者に私を託した。

ランカウイの道はきれいで、実にスムーズだった。建物も洗練されていて、ここに一泊するのも良かったのではと思うぐらいだった。だが私はリスクを抱えて車に乗っている。20分後タクシーは港に着いた。運転手は私をチケットオフィスに連れていき、無事にチケットが買えた。タクシー代が30リンギで、フェリー代は25リンギだったが、これは仕方がない。

あと10分で出航だったが、何と私の前に税関が立ちはだかった。一人でスーツケースを抱えて慌てている男は怪しく見えたようで、ケースの中を全部開けられ、チェック(主に酒類らしい)された。それでも何とか船に乗り込み、事なきを得た。いや、あの状況から考えて、奇跡が起こったというべきだろう。

船は大型船。席は8割がた埋まっており、マレーシア人の家族連れやカップルが乗っている。一時は拉致されて貨物船にでも乗せられるかと心配した??のだが、全くの杞憂に終わる。彼らは恐らく半島側から遊びに来て、帰るところではないか。車社会のマレーシアで、船を降りても車が必要なはずだ。だが、カーフェリーの速度は遅い。先ほどの港から出るフェリーなら1時間ほどで到着するはずだが、こちらは2時間半もかかってしまった。その間ボッーとしていたが、水分補給が必要となり、売店でドリンクを買おうとしたが、何とミロしか売っていない。ミロ、懐かしい。