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静岡茶旅2025(4)静岡を散歩する

宿に荷物を置いて、県立図書館へ向かう。ただ既に沼津で調べはほぼ付いており、何となく気の抜けた滞在となってしまった。宿に戻ったが、いつもと同じホテルチェーンに泊ったのに、色々と勝手が違って驚く。あまりチェーンの意味がないようだ。しかも外国人の団体客を受け入れているため、大混雑、大混乱なロビーとなっている。

夕飯もまた町中華に向かう。安くてうまい、という評判を基に行ってみると、古めかしく、確かに安いので常連さんが沢山来ているが、料理の提供がやたらと遅い。しかもカウンターの目の前で年配者が一生懸命鍋を振っているので文句も言えないが、さすがに30分経っても出て来ないのにはびっくりした。隣のおじさんはずっと本を読んでいたが、料理が来ても顔を上げず、明らかに怒っていて怖かった。お姐さんたちも気を使ってくれ、漬物を沢山くれたが、料理の味は覚えていない。多分天津丼には味が無いのだろう。

2月17日(月)静岡で

本当は今日図書館へ行くつもりだったが、また休館日を選んでしまった。もうどうにもならない。取り敢えず外国人を押しのけて朝ご飯を食べる。それから荷物を整理して、外へ出る。天気も良いので散歩することにした。宿の近くを歩いて行くと、府中宿と書かれている。久能山への道もある。華陽院というお寺には、家康の祖母と五女の墓があった。その他家臣の墓もある。

フラフラしていると床屋が見えた。髪は伸びていたが、床屋へ行っていなかったので、興味本位でそこへ入っていく。1780円という金額も魅力的か。だが若い店員の対応はちょっとお粗末だった。きっと気分の悪いことでもあったのだろう。まあ様子を眺めているとそれほど雑でもないので、順番を待つ。

来ているのは老人ばかり。65歳以上は散髪の上、髭剃り、シャンプーも入れて1780円だからであろう。私も久しぶりに髭を当たってもらい、何となく気持ちは良い。ただ年齢を正直に伝えたので2080円だった。ここは有名な全国チェーンだと後で知る。すぐ近所の床屋は60歳以上で散髪のみ1100円と出ていた。これからは地方散髪巡りも面白いかもしれない。

そのまま散歩を続けた。浅間通りという昔ながらの通りを歩くと中間ぐらいのところに、新しい山田長政像が出来ている。なぜここにあるのかは分からない。その向かいには名前だけ知っている、お茶の旅を演出する旅行会社があった。静岡おでんなどの文字も見られ、ちょっとお腹が減ってくる。そのまま駅の方へ歩いて行くと東海道中膝栗毛を書いた十返舎一九の家跡がある。山田も1十返も静岡の生まれなのに、日タイ貿易にも膝栗毛にも茶が出て来ないのはなぜだろうか。

駅を越えて老舗中華店を探した。1963年と書かれている店にはちょっと行列が出来ていたが、サラリーマンたちはすぐに中に吸収されたので、一緒に入ってみた。かなり混んでいたが相席で確保。ついに広東麺を注文する。ここにはちゃんぽん麵もあるが、どうなんだろうか。広東麺は八宝菜をラーメンの上にかけたようなもので、広東にはあるかどうかわからない。

宿で荷物受け取り、今回はJR在来線で帰る。何だか三島で降りて立ち食いそばを食べたかったが、残念ながら腹が一杯で通り過ぎた。小田原でもそばを食べなかった。ちょうどよい時間に最寄り駅で停まるロマンスカーが無かったので、急行で帰る。千歳船橋まで来て、また腹が減り、久しぶりに丸亀製麺に入ってみる。何とうどんが丼ぶりに入ってきたが、汁はサーバーから自分で出すのだと聞き、ちょっと食べる気が失せた。何だか日本がおかしくなった気分であるが、これもまたご時世だろうか。

静岡茶旅2025(3)原宿から島田紅茶フェスへ

2月15日(土)原宿から金谷へ

朝ご飯を食べた後、散歩に出た。沼津城跡へ行き、川沿いを歩き、沼津本陣跡から駅の方まで進んでいった。朝の散歩は本当に気持ちが良かった。途中で行列が出来ているパン屋もあった。既に沼津はもう一度来たい場所リストに追加されていた。10時に予定通りチェックアウトした。

駅のホームへ行く。立ち食いそばの店があると聞いていたので、そこで食べようと考えていたが、何と開いていなかった。そういえば同じ店が三島駅にもあったような気がしたので、JRで逆方向へ行ってみた。ところが何と三島駅のも閉まっていた。潰れてしまったのだろうか。今日は島田へ行くのだが、その電車は30分後だったので、駅の外へ出て、そこにあったそば屋できしめんを食べた。

ホームへ戻ってみると、何とそば屋は開いていた。11時開店だったらしい。何ということだ。仕方なく今回は諦めて、JRで原駅まで行く。原駅で荷物をコインロッカーに入れようと思っていたが、小さな駅なのでロッカーはなく、スーツケースを引っ張ってお寺巡りに出掛けた。

原駅周辺には江戸時代の僧、白隠和尚が生まれ、修行した場所だった。徳源寺から白隠の生誕地へ歩き、松陰寺には白隠の墓がある。長興寺には全国から集まっていた僧たちの宿坊があったという。その付近を白隠の道と呼んで整備もされていた。あまり知られていないが、白隠は大きな影響力を持った僧であり、茶にも関連していたので、一度は歩いてみたかったのだ。

荷物が重かったので、早歩きで駆け抜け、原駅に戻った。そう、ここは元々原宿だった。そこから1時間半ほどJRに揺られると島田駅に着いた。駅から歩いて行くと、島田宿や代官所跡を通り抜けて、今日の宿に荷物を置く。そしてまた歩き出す。日本三大奇祭の1つ、帯祭りがある大井神社は初めて来たが、かなり興味深い場所だった。

島田の街で気が付くのは、とにかく和菓子屋が多いことだろう。あまりに目に付くのでそのうちの一軒に入り、宿で食べる菓子を購入してみる。そしてなぜ島田に和菓子が多いのか聞くと「江戸時代の川止めの際、お殿様たちが菓子を食べたがったから」と言われているらしい。大井川、なるほど。いずれにしても菓子は美味しかった。

夕方ご飯を食べに行く。また町中華だ。住宅街にあるお店。早過ぎてお客はいなかった。名物とネット情報にあったレバーチャーハンと焼売を注文する。土曜日のせいか、お客が来るというより、家で食べる弁当などが出ていく。レバーチャーンは確かに旨い。ただ普通のチャーンでも美味いのではないか。焼売は日本でほとんど食べないのですごく新鮮な感じした。帰りがけに田子重というスーパーで買い物して帰る。

2月16日(日)島田紅茶フェス

朝ご飯を思いっきり食べて出掛けた。宿の横の道に市が立っており、果物から本まで、勿論茶も売られていた。だが私が目指したのは、もう少し先。そこには既に長い行列が出来ていた。島田紅茶フェス、昨年も参加したが、会場はかなり広くなったのに会場入り口付近は人で溢れていた。紅茶人気は凄い。

私はまっすぐ3階へ行き、昨年亡くなった村松二六さんの回顧展を見学し、奥様にもご挨拶した。写真が沢山貼られ、多くの人が来ていた。1階に戻ると、相変わらず大勢の人が試飲や茶葉を買っていた。ブースも沢山出ており、顔見知りもいたが、挨拶するにも近づけない。何とか数人と言葉を交わしていると2時間ぐらい経ってしまった。

時間に限りがあり、ここで退散した、荷物を引いて駅に向かっていると、向こうから声を掛けられた。対馬のOさんだった。いつか行きたいな、対馬。JRで静岡駅まで行く。駅に着くと昼飯を食べに清見そばへ向かう。ここはちびまる子ちゃんにも登場しているらしい。そば屋だがラーメンが有名らしいが、何故かかつ丼を注文。お客は引っ切り無しにやって来た。

静岡茶旅2025(2)沼津散歩

夜ご飯は今年から始めた町中華巡り。沼津に現存する老舗中華で調べたところへ行く。確かに店構えは年季が入っており、なかなかいい雰囲気だ。五目焼きそばには「硬」と「軟」とあり、硬を注文する。ついでにギョウザもお願いする。天津メンという名前にも惹かれたが、今回は断念。豚肉中心で海鮮などはあまり入っていなかったが、正当な感じの焼きそばだった。昭和25年頃、先代が始めたという。

2月14日(金)沼津散歩

今回の宿の空調は難しい。「適温にならなければ電源を切れ」と書かれているが、それなら寒くて寝られないだろう。と思ったが、電源を切ると意外と快適だった。なんじゃ、これは。朝ご飯は宿に付いているのだが、その食堂の人が外国人ですごく一生懸命日本語で応対している。「おはようございます」「ありがとうございます」、彼の声が1日耳から離れない。

今日は港の方に行ってみることにしたところ、港より先に沼津御用邸跡があることが分かり、バスに乗り込んで向かう。30分ほど乗っていると御用邸記念公園に着く。御用邸というと那須のイメージばかりだったが沼津にもあったのか(1969年にその役目を終えたとあるから記憶が無くても当然か)。

西附属邸に入ってみた。ここは昭和天皇ら親王が使用したところとある。何と昭和天皇の養育係は薩摩出身の海軍大将川村伯爵と書かれており、意外感がある。部屋は沢山あったが、昭和20年の空襲で焼けてしまったらしい。ひな祭りが近いので、お雛様が沢山飾られており、そこだけ昔お嬢様だった方々が歓声を上げていた。

そこから郷土資料館を目指して歩いたが、途中で海の方へ向かってしまい、海を眺める。防風林が何となく懐かしい。史料館は沼津の民間道具などの展示が多かった。更に行くと仕切りがあり、その先は東御用邸の区域になっている。こちらには利休の待庵を模した茶室などがあり、また学習院の遊泳場もあって、昭和天皇はよく利用していたらしい。そこから海べりを歩いて行くと気持ちが良い。

御用邸を離れて、歩いて港方面へ向かう。途中に日緬寺という名前が見えたので、ミャンマー関連かと思ったら、動物のお墓もある寺で、ミャンマーとは無縁のようだった。30分ぐらい歩くと突然観光客が道を歩き、店に列をなしている。沼津は魚が美味しいだろうと思ってきたが、ネットに載っているような有名店はかなり混んでいて驚く。

ちょうど目に入ったのが、いわし専門店。いわしは好きなので入ってみるとなかなか感じのよいお店だった。刺身とフライのセットを注文すると、ちょうどいわしが入ってね、と言われて喜ぶ。確かに旨い。最近は回転すしのイワシもあまり食べる機会が無かったので、ここに来てよかった。

そこから港周辺を見学し、また海沿いに出て気持ちよく歩く。若山牧水の記念館や記念碑などがあり、この付近には文化の香りもする。そして駅の方へ戻っていくと、ちょうど図書館があることが分かり、立ち寄ってみる。昨日調べたかった江原素六について尋ねてみると、係員の人たちが極めて熱心で、様々な資料を探してくれ、予想以上の成果を得て驚いた。江原だけでなく紅茶作りをしていた人についても少し分かってきて面白い。

午前から歩き回り、午後は図書館で頭を使ったせいで、非常に疲れた。そして腹が猛烈に減った。宿の近くにそば屋があったのでそこへ飛び込んだ。カレー南蛮の文字が見えたので、即座に注文した。腹が減っていたこともあり、あっという間に食べてしまった。料金は安かった。急に何で「南蛮」っていうんだろうと思い、店の人に聞いたら、「ネギが入っているから」と言われ、ちょっと驚いた。要調査項目が増えた。

関西散歩2025(6)関ヶ原スタンプラリー

岡山烽火場は高台にあり、登るのは少し辛いが、関ヶ原が良く見える。竹中半兵衛の息子重門も黒田長政と共にここに居た。そこから山道を歩き出す。トレッキングのようになっていく。雪が残る池のそばを抜け、道路の下をくぐると、そこには田畑が広がり、決戦地という碑が建っている。この碑の揮毫は太平洋戦争前の宇垣一成。

その先に島左近陣屋があり、笹尾山を登ると石田陣屋に着く。ここにだけ観光客がいたが、私のように歩きまわっている人間は一人もいない。ここも高台で上るのに苦労する。かなり疲労が溜まってきたので、休みながら周囲を見渡す。更に歩いていくと、あの敵中突破の島津義弘陣があり、薩摩まで帰り着かなかった人々を慰霊している。その脇でなぜかたぬき?を発見した。その先に開戦地の碑が建っており、小西行長陣がある。そこでトイレに入り、また歩き出す。

少し山間に宇喜多秀家陣を見付ける。この武将も悲劇の一人だろう。そこから川を渡り、かなりの坂を上って大谷吉継陣、墓などを見て回る。大谷の墓は福井でも見た記憶がある。ここに顕彰碑があったが、太平洋戦前に建てられており、国策感が強い。まあ、戦前の徳川の位置づけが見て取れる。こうして歩いていると、これまでドラマなどで目にしてきた地名が現れ、リアリティはかなりある。疲れを忘れて更に歩いてしまう。

線路を越えて、これより中山道。少し行くと脇坂安治陣があった。裏切ったのは小早川だけではなく、他に数名いたようだが、この脇坂は元々裏切るつもりで参戦していた。「お主もワルよの」という家康の声が聞こえてきそうだ。この功により脇坂家は江戸時代を全うしている。本当のワルは歴史にも残らないのか。

ついに松尾山のふもとに着いた。雪を頂いた伊吹山が良く見える。ここから徒歩2㎞の表示に思わず歩き出したが、これは悲惨だった。本当に険しい山道、平地とは全く違う。小早川隊はどうやってここを駆け下りて大谷隊に攻めかかったのだろうか。とにかく喘ぎ喘ぎ歩くも足が上がらない。本当に40分かかってとうとう小早川陣まで歩いたが、景色を見る余裕もなく、ただうなだれていた。

上ってきた山路をまた歩いて下る。疲れがピークで足が重い。しかし歩く以外に手がない。何とか下まで降りると、もう意地となって次を目指した。だが道に迷ってしまう。不破関を何とか通り過ぎ、福島、藤堂陣を泳ぐように過ぎていく。最後の本多忠勝陣に辿り着いたのは、歩き始めてからおよそ5時間が経過していた。単なる石碑巡りに5時間、駅のベンチにへたり込む。達成感があるような、ないような?

大垣で荷物を取り出し、名古屋まで行く。とにかく昼ごはんすら食べていなかったが、体調的に重たいものは受け付けない。名古屋駅では新幹線ホームに行く前、在来線ホームでいつも食べているきしめん屋に入ってみた。特に違いはなさそうだったが、午後4時でお客は少なく、目の前でイカを揚げてくれ、美味しく頂いた。目の前にお揚げもあったので追加して大満足。

脚ががくがくのまま、新幹線に乗り込む。ところが人身事故とかで到着が遅れるという。まあ急ぐ旅でもない、と心に余裕があると、意外と早く着くものだ。何だかまた腹が減り、新宿でもそば屋に入った。そして何とイカ天そばとお稲荷さんを頼んでしまう。もう頭のボケも相当なものだが、また辛うじて脚は動くことを証明できた。

関西散歩2025(5)カラシソバから関ヶ原合戦へ

我々のお目当ては名物「カラシソバ」。雑誌には『「カラシソバ」は京都の“鳳舞系”の店にしか見られない麺料理だ。鳳舞(ほうまい)系とは、かつて京都にあった広東料理店〈鳳舞〉に縁を持つ弟子たちの店のこと』とある。さっきのおかあさんに「カラシソバ」と頼むと、「中学?高校?」と聞かれてビビる。辛さの程度だと説明されたが、私は小声で「小学生で」と言ってみる。

メニューには「撈麺」の文字はないが、麺は広東系。そしてあんかけであり、スープは啜るとちょっとからしを感じる不思議な麺だった。なるほどこれが京都独特の麺の形。しかも広東系が入っているのは面白い。この流れはどこから来たのか。神戸、大阪、はたまた、関西の華人の歴史をよく知らない。そんなことを考えていると、あっと言う間に完食した。後から来たお客はいきなり「カラシソバ 、中学で」と注文していた。今後京都に来たら、更に深い町中華に挑戦してみよう。

そこから四条烏丸まで歩いて行く。途中橋を渡るとヴォーリス設計の東華会館が見えてくる。ここは北京料理と書かれているが、メニューは様々。今度機会があれば中に入って食べてみよう。地下鉄に乗って京都駅まで戻り、宿で荷物を受け取ろうとしたら、問題が発生した。この宿はQRコードで預け荷物を管理しているのだが、どうやら見付からないらしい。最後は私も荷物置き場に入り、自分の荷物を探す羽目になった。

何とか荷物を発見して、JRで大垣を目指した。もう何度も乗ったことのある路線で米原まで行き、そこから大垣へ。昨年も泊まった大垣にまたやってきたのは、明日の散歩に備えてのことだった。夕方大垣駅に着き、また同じチェーンホテルに入った。そして前回夕飯を食べたとんかつ屋に行くとまさかの休業中。

町中華を2軒巡ってみたが、1軒はやっておらず、もう一軒は常連ばかりでとても入る雰囲気ではない。仕方なくフラフラしていると周囲は暗くなり、途方に暮れる。そんな中、渋い感じの喫茶店があったので、入ってみた。昔の純喫茶という感じで灰皿も置かれていたが、広い割にお客がいなかったので、煙害は免れた。カツカレーを頼んだ。これがボリューム抜群で、しかも意外とおいしい。しばしレトロ感に浸り、良い気分で宿へ戻った。

1月21日(火)関ケ原スタンプラリー

朝はコメダへ行ってみた。本当はあんこが食べたかったのだが、何だかジャムになってしまった。午前9時頃でもお客は意外と多い。そこから関ヶ原駅へ向かって電車に乗る。昨日一度通り過ぎていていたが、今日は更に天気が良く、伊吹山が良く見えた。関ケ原に到着すると、昨日貰っておいたマップを取り出し、関ヶ原合戦スタンプラリーを始めた。25か所を訪ねる旅だったが、全部歩くのは無理そうだったので、2₋3時間散歩する気分で開始した。

駅前も既に合戦ムードが漂っている。まずは関ケ原古戦橋を渡る。すぐそこには松平忠吉、井伊直政陣屋跡がある。家康四男と徳川四天王の一人がタッグを組んで?先鋒福島隊を出し抜き、先陣を切ったと言われる陣屋。しかし合戦の最後は島津義弘隊追撃中に2人とも負傷、その傷が元で亡くなっている。

田中吉政の碑も見えた。吉政は合戦後、三成を捕らえた人物。その横には家康最後の陣地跡がある。ここは古戦場として広々している。その先、博物館や学習施設は素通りして、細川忠興陣屋を通り、黒田長政陣屋へ向かう。天気がとても良く、歩いていて気持ちが昂る。電信柱に各武将の紹介があるのも如何にも関ケ原らしい。こんなオールキャストが集まるのは珍しい。

関西散歩2025(4)鳥羽伏見の戦い

夕飯は紹介されていた「京都の町中華」の店を訪ねてみることにして、早々地下鉄に乗る。午後5時過ぎにその店に着いたが、何と満員御礼の大盛況。そして町中華と言いながらカウンター席もなく、店員も「満席です」と素っ気なく、待っている場所もなくて追い出される。

気を取り直して地下鉄に乗り、更に15分歩いて別の店に行ってみた。午後6時前だったが、寒さの中、10人以上が行列しており、諦めた。日曜日ということもあるのだろうが、京都の町中華がこんなに人気だなんて、全く知らなかった。無駄なあがきはやめて、宿へ戻ることにした。途中のコンビニでサンドイッチを買おうとしたら、何と「お好み焼きサンド」があったので食べてみる。何だか疲れた1日となる。

1月20日(月)京都の町中華

朝起きるとなぜか急にうどんが食べたくなり、京都駅へ駆け込む。地下にあるうどん屋で朝定食を食べようと出掛けたが、なぜかとりちく天うどんにしてしまう。店内は午前9時頃でもお客が多く、中には朝からビールを飲んでいる輩さえいる。女性も結構来ており、繁盛している。

今日はバスで伏見へ行こうと考えていたが、その目的地の寺田屋が、何と月曜日休館と気づく。さあ、どうしようか。取り敢えず伏見方面のバスを探したら、ちょうど出てしまったばかりだった。仕方なく近鉄に回ってみる。何となく竹田駅まで乗っていくとここが終点の電車だった。駅を出てみると地図があった。ふと見るとすぐ近くに鳥羽天皇陵がある。そうか、この近くで鳥羽伏見の戦いが行われたのかと思い至る。

鳥羽天皇陵は閑静な住宅街にあった。その近くは鳥羽離宮と呼ばれた一帯だったらしい。平安時代の院政全盛時代の遺物だというが、学校で習った記憶は出て来ない。近所には鳥羽天皇の息子である近衛天皇陵もある。崇徳、後白河も息子である。この辺りの人間関係は複雑だが、後白河を巻き込んで、保元の乱に発展する局面で登場していたと思う。

ちょっとテンションが上がり、そのまま城南宮へ向かう。駅から歩いて20分ぐらい経っている。ここは鳥羽伏見の戦いで薩摩の陣営があったところ、そして錦の御旗が登場した場所、と説明書きがある。「鳥羽伏見の戦い開戦の場所」とも書かれているのだが、一方もうちょっと先の鴨川のほとりにも記念碑が建っている。この小枝橋付近で戦闘が始まったらしい。そのすぐ脇には、鳥羽離宮内公園という名前の敷地もある。

かなり疲れたのでゆっくり歩いて竹田駅まで戻った。そこから近鉄で丹波橋へ行き、京阪に乗り換えて祇園四条まで出た。このルートは思っていたより早く到着できた。祇園付近をしばし散策する。やはり外国人観光客が路地まで入り、写真撮影などをしている。和装をしている人も多い。

祇園の飲み屋が並ぶビルの1つ、そこに平安、という店がった。ここが町中華で有名だというので、覗いてみた。12時開店とありながら、準備中の札が出ていた。その内煙が立ち始め、中から女性が出てきて、どうぞ、という。中には既にお客がかなりいて驚く。これが祇園か、と思ってしまう。お客さんは常連ばかりだろう。皆普通に中華の定食を食べていた。店内はスナックのような作りだ。

関西散歩2025(3)大大阪茶会から四天王寺

それからふらふらと歩いて、天満橋まで行く。今回大阪に来た理由、それは大大阪茶会を見学するためだった。会場のビルに入ると意外と広くて、どこでやっているのか探してしまった。会場に辿り着くと、そこには顔見知りの人々がいた。大阪まで来たけれど、茶のお仲間は同じなのだろうか。

会場にはかなりのお客さんがおり、混みあっていた。ブースも沢山あるが、近寄れない所も多い。それでも熊本の生産者さんと話し、日野のほうじ茶に出会い、そして私の声を掛けてくれた方々と面識を持ち、やはり楽しかった。勿論エコ茶会でよく会っていた皆様ともお話しできてウレシイ再会となった。あっと言う間の3時間で、閉会になってしまった。セミナーやミニイベントは全く見ていないので挨拶できなかった人もいた。

それから地下鉄で心斎橋方面へ向かった。駅で降りたが、どうも大阪に土地勘が無く、彷徨う感じで歩いていると、大成閣という中華料理屋の看板が見えてきた。この名前は今朝図書館で見た中にあったので興味を持つ。昭和32年創業。夜も定食をやっているというので入ってみたが、ちょうど新年会など宴会があり、定食は出来ないと言われてしまう。この店も上の階で結婚式などが出来る設備になっている。

折角なのでメニューを眺めてみると、大滷麺(白菜と豚入りとろみそば)というのがあったので頼んでみた。かなりの量がある。しかしこれは美味い。そして思い出すのが、福建で食べた滷麺だった。もしやしてこれは福建系の麺なのだろうか、それとも広東系?他の物を食べる気もなく腹一杯で去る。心斎橋付近には他にも老舗中華があるようなので、また歩いてみたい。

1月19日(日)大阪ら京都へ

今日は元々大大阪茶会の予備日としていた。朝はゆっくり起きて、ゆっくり外出する。途中でカフェに寄り、ブレックファーストを食べる。トースト、サラダ、コーヒーと、シンプルでよい。そこからまた地下鉄に乗り、四天王寺へ向かう。確か行ったことが無いと思う。教科書でしか見ていない名前だった。

四天王寺といえば、聖徳太子ゆかりの寺。以前行った三重にも同名の寺があり、ちょっと興味を持った。脇の方から入っていくと安政地震津波の碑がある。最近話題の南海トラフ、150年以上前にも大きな被害をもたらしていた。中へ進んでいくと親鸞聖人像があり、五重塔もいい天気に映えている。敷地はかなりの広さだ。

山門を出て、天王寺駅方面へ歩いて行く。元々今日の用事は天王寺だったので、四天王寺を思い出して、寄り道したまでだ。天王寺駅も降りた記憶はなく、初めてかもしれない。駅で王さんと待ち合わせて、そのまま駅ビルのカフェへ行く。日曜日ということか、かなりの人が並んでいたが、比較的席に案内された。王さんとは5年ぶりだろうか。お茶の歴史の話しを聞き、参考になった。

昼ご飯を食べていないことに気づき、駅の横にあった都そばに入ってみる。東京にあるとは聞いていたが、入るのは初めて。午後3時でお客はいない。なぜかそば(うどん)ではなく、かつ丼を食べてしまう。そこから宿で預けた荷物を取り出し、京都へ向かった。JR大阪駅から普通電車で京都へゆるゆると向かう。

京都の宿は駅前のチェーンホテル。大阪に比べて京都の方が安いと思ったら、この宿、駅前だけでいくつもあり、オーバーツーリズムならぬオーバーホテル感が強い。大阪より部屋も広く料金も安いので快適だ。しかも大浴場も付いていて嬉しい。交通のアクセスも良いのでほぼ完ぺき。

関西散歩2025(2)牛すじからカレー焼きそばへ

そこから牛筋カレーを食べに行く。ところが今日は5時半から、と貼ってあったので、仕方なく近所を散策したら、スーパーがあったので買い物する。カレー屋に戻ると明かりが点いていてホッとする。「元祖」と書かれていたのでお店の人に聞いてみたが、「私は2代目、前の店長が勝手に付けただけでしょう」を笑っている。カレーはドロッとしていて好みの味。葱を多く入れた牛すじも美味い。

地下鉄で宿まで帰り、ようやくチェックイン。いつも使っているチェーン店だが、何と部屋に入ると、ベッドとテーブルの間が狭すぎて、PCをちゃんと打てないほどだった。こんなのこのチェーンで見たことが無い。何だかシンガポールの激狭部屋を思い出して悲しくなる。ここに2泊するのはちょっとなあとは思ったが、急に宿を変えることも出来ない。

1月18日(土)大大阪茶会

宿には朝食も付いていなので、外で探してみたが、見つからず、なか卯に入ってみた。安い朝食があるとネットで見たが、それは無かった。結局豚汁、目玉焼き定食となり、それなりの額となってしまった。まあ、仕方がないとはいえ、大阪まで来て何をやっているんだろうか。

それから川沿いを歩き始めた。天気がすごくよくて、それほど寒くもなく、何とも気持ちが良い。歩いていると何だか博多を思い出し、更に歩みを進める。ああ、なんて気持ちが良いんだと、どんどん歩いてしまう。所々に記念碑などが建っており、歴史散歩気分が出る。昨日も見かけた日銀、住友銀行などが出てくる。

ふと見ると中之島図書館という文字が見えた。建物が何とも渋い。100年以上は経っているようだ。中に入ると優雅な階段が見え、カメラを構えて天井の写真を撮っている人がいた。かなりいい雰囲気で、思わず吸い込まれた。3階に上がると、郷土資料コーナーがあり、つい「大阪で一番古い中華料理はどこでしょう?」と聞いてしまった。

すると係の女性が、明治・大正期の電話帳を持ってきてくれた。勿論それ以外の本も何冊も持ってきてくれたのだが、電話帳をめくり出した。大阪の地名が良く分からず、簡単に見つけるのは難しい。何軒かは見付かったが、それが本当に中華なのか、いつ始まったのかを知る術はない。こんなこと一つとっても知るのは難しいことを知る。日本の中国料理の歴史、ちょっと知りたい。

図書館を出るとその横に有名な中之島中央公会堂が建っており、その先でちょうどイベントをやっていた。くまもんがいた。熊本フェアのようで、色々とブースが出ており、賑わっていたが、お茶はなかった。近くに東洋陶磁美術館もあったが、疲れてしまい、一度宿に戻った。

昼にまた宿を出た。ランチは町中華を食べる予定だったが、何とその店の横に適塾の建物があり、驚いた。適塾といえば緒方洪庵、そして福沢諭吉。その建物が復元され、奥には緒方像もある。一緒に行った人は慶応大卒だったが、適塾を全く知らず、こちらが驚いた。この付近には大阪慶応もあったらしい。

横のお店に入る。看板には北京料理の文字。かなり昔風でいい雰囲気ではある。午後1時、お客さんは2₋3人。何を頼もうかと周囲を眺めたが、メニューもなく、壁にも貼られていない。お店の人が「何にしますか?ちゃんぽん、焼き飯、カレー焼きそば」と聞いてくる。何とお昼はこの3つしかメニューはないのだった。カレー焼きそばはどちらかといえばカレーちゃんぽんのようだった。とにかく1つ530円、安いのは間違いない。創業75年。

関西散歩2025(1)大阪城から通天閣へ

《関西散歩2025》  2025年1月17日‐21日

目が少し病んできたので、チェンマイから帰国後、眼科に掛かっており、念のため海外旅をセーブした。そういえば1月は元々日本にいることにしていたので、兼ねてから一度行きたいと思っていた大阪のお茶イベントへ行ってみることにした。

1月17日(金)

通天閣から牛すじカレー

数か月前、大大阪茶会に行きたいな、と思った時、ある方が「大阪へ行くならJALのセールがあるよ」と教えてくれた。調べたら何と羽田‐伊丹が7000円だったので、取り敢えず予約しておいた。新幹線の半額で行けるなら、こんな安いものはない。JAL国内線に乗るのは10年ぶりだろうか。羽田空港のターミナルもいつもと違うのはとても新鮮で、方々歩き回る。機体にはディズニーシーが描かれ、機内もそのコマーシャルで埋まっている。

伊丹空港には一昨年高知から飛んできたことがあったが、夜着いたのでバスで難波に直行し、空港内はよく見ていなかった。モノレールがあるというので、それに乗ろうと歩いたが、かなり離れていた。眺めの良いモノレールはすぐに終わり、何となく懐かしい千里中央で乗り換え、淀屋橋まで行った。

そこから川沿いを歩いて行く。日銀や三井住友銀行など、古びたいい感じの建物が見える。その先にある肥後橋に宿をとっており、そこに荷物を預けて外へ出た。腹が減っていたので、すぐ横のレストランに飛び込んだが、既に昼の営業は終わっていた。仕方なく、地下鉄に乗ったら、ご飯より大阪歴史博物館に行きたくなる。

地下鉄を乗り換えて、谷町四丁目で降りると、大阪城が見えた。その前にNHKと博物館があった。更に広場には「難波宮跡」と書かれており、再現された建屋も存在している。付近を歩いているのは外国人が多い。博物館に入り、チケットを買ってエレベーターで10階へ行く。外を見ると、大阪城も難波宮跡もよく見える。展示を見始めると平城京と難波宮は並立していたことを再認識する。

突然、というか再度ものすごく腹が減り、耐えられなくなる。1階に戻り、再入場可能であることを確認して外へ出た。近所の食堂はなく、少し離れたうどん屋へ滑り込む。肉ごぼてんうどんを思いっきり腹に流し込む。ああ、旨い。周囲で食べているのは外国人ばかり。博物館も外国人が多い。インバウンド需要、オーバーツーリズムは凄い。

博物館に戻り、展示をズラッと見ていく。4階にも分かれており、ゆっくり見ていたら、かなりの時間を要した。江戸期の大阪の様子、戦前の大阪の繁栄など、見所満載だった。私が泊る川沿いも、北側には諸藩の米蔵が並んでいた。1つ1つをじっくり歩く、いつかしてみたい気分だ。

そこから先ほど上から見た難波宮跡へ行ってみる。かなり広々とした敷地には、台座など一部が復元されているが、空がとても広い。大阪の中心地にこんな空間があること事態がすごい。そこから何となく通天閣に行ってみる。恐らく高校の修学旅行以来ではないだろうか。地下鉄駅から地上に出て、裏側から通天閣を眺めるとちょっと違って見えた。商店街もそれほど賑わってはいない。

だが反対側に回ると外国人中心に人が溢れ、写真を撮るのに夢中になっている。こちらは観光客向けの店が多く、串カツ、たこ焼き、遊技場などが揃っている。細い路地は両側に渋い店が並び、ちょっといい感じ。ミックスジュース発祥の店、なんていうのにかなり惹かれてしまう。

三重 亀山茶旅2024(3)三重茶業史は重要だ

その近くの茶畑の一角には、べにほまれの畑もあった。ここは奇跡の会が管理しているという。F4は残念ながら、脚光を浴びる品種ではなかったが、べにほまれは品種登録1号として、戦後紅茶の主力品種だった。だが紅茶自由化以降、緑茶への転換が図られ、残念ながらその多くが抜かれてしまった。一部残っていたべにほまれを探しだし、和紅茶ブームの中、亀山の茶農家が復活させたということだ。

昨日会ったNさんが「良かったら茶業研究室に来ませんか」と誘ってくれたので、行ってみた。ここを訪ねるのは4年ぶり、前回は森永紅茶の歴史で大いにお世話になった。敷地内にはお茶室もあり、その一角には資料室もあった。そこには三重茶業にまつわる歴史を示されており、大いに勉強になる。

続いて、茶畑へ行き、静岡から分譲されたF4の後継の畑を見学した。勿論ただ行っても全く分からないので、そこはNさんの説明に感謝しかない。因みに違う時期に導入された台湾山茶も植えられており、試験場というのは、本当に多様な品種を管理していると知る。また三重という場所が一般人の思っている以上に、日本茶業にとって重要だということも分かる。

お昼は街中に戻り、皆で食べる。エビフライ定食がお勧めだということで、頼んでみると、本当に大きなエビフライがやってきて驚く。7人でやってきて皆がエビフライを頼んだので店の人も驚いたかもしれない。ここでまたNさんと少し意見交換して、その後別れた。

午後は茶農家Dさんの家に向かった。Dさんご主人は不在だったが、奥さんが対応してくれた。奥さんは何とブラジルから来ており、ご縁あってDさんと結婚し、今は2人で茶業をしているという。今年の尾張旭の紅茶フェスでグランプリをとったという茶を飲ませてもらい、更にブラジルのお菓子まで驚く。D家は奇跡の会の中心メンバーでもある。

そこからD夫人の車に乗せてもらい、川戸さんの家に行く。4年前に茶業研究室でお会いし、お父様について色々とお話を伺った。お父様、川戸勉氏は戦前台湾で日東紅茶、戦後は三重に戻り、森永紅茶を作った人。恐らく戦後の日本で紅茶作りが一番上手かった人ではなかろうか。

それをコラムに書いて息子の利之さんに送ったことを覚えてくれていて、懐かしい再会となった。Oさんも含めて、森永紅茶の歴史をもう一度振り返った。大変楽しいひと時を過ごした。最後に庭に植えているべにほまれを見せてもらった。お父さんの時代にべにほまれは全て抜いてしまったので、家にも全くなかったが、最近植え直したらしい。

今回の亀山茶旅、全日程を終了して、D夫人の車で最寄り駅まで送ってもらう。実はJRより近鉄の方が便利ということで向かったが、途中で渋滞にはまった。今日が今年の仕事納めという人が多いのだろうか。当初の目的駅より前の平田町で降ろしてもらい、電車に乗る。途中で混雑する電車に乗り換えて、何とか名古屋まで辿り着いた。

そこでちょっと用事があるというOさんと別れ、一人新幹線で品川まで戻った。新幹線に乗ったら急に腹が減り、品川駅で改札を出て食事をしようとしたら、何と山手線内同一運賃の特権がはく奪されるというので?駅ホームでかき揚げそばを食べてから、トロトロと帰宅した。これで2024年の茶旅は全て終了した。疲れた。