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静岡・和歌山茶旅2024(7)大垣、名古屋に寄り道

腹が減ったので近くのラーメン屋に入る。日曜日の11時頃、地元のお客が結構いる。店員はベトナム人かな、色々と親切に教えてくれる。和歌山ラーメンを食べてみると旨い。6年ほどまで和歌山に来て食べた時は、ちょっと脂っこいかな、という印象だったが、ここのスープはあっさりしていて美味い。

宿に戻り、荷物を引いて、南海和歌山駅へ行く。ここから特急の無料座席に乗り、新今宮で環状線に乗り換えて、大阪からは新快速で米原、そこから東海道線で大垣までスムーズに進む。正直週末の大阪は人が多過ぎて疲れてしまう。やはり和歌山は良かった、と感じてしまうのはさっき出会った中国人女性と一緒だ。

今回の旅、本当は紀伊田辺から三重方面へ向かい、名古屋まで辿り着く作戦を考えたのだが、やはり残念ながら交通が不便で、思う時間に名古屋に辿り着けないと分かったので、降りたことがない大垣で1泊することに変更して、このようなルートを辿ることとなった。

大垣駅で降りて、駅前の宿に入る。部屋で少し休んでいたが、夕方腹が減り、何故かまたとんかつ屋さんへ向かってしまう。ここでは素直に味噌カツ定食を頂く。名古屋名物、味噌カツ、ここでも美味しい。3日ぐらいならとんかつを食べ続けられる自信は付いた、かな。

6月17日(月)大垣から名古屋へ

今朝は宿で朝食を食べてから出掛ける。何となく大垣城へ。関ケ原の戦いでは、石田三成の本拠地だった場所。その敷地、天守閣をゆっくりと通り過ぎて、反対側の歴史資料館を見学する。ここで大垣の歴史を学ぶ。庭がきれいだった。そこから水路沿いに1㎞以上歩いて行くと『奥の細道 むすびの地』という表示がある。ここは芭蕉の奥の細道旅の終着地だった。至る所に芭蕉の句碑などが建っている。今でも俳句が盛んなのだろうか。

街の中を歩いていると本陣などの文字が沢山出てきた。ここは美濃路の大規模な宿場街だったらしい。今は、何となくゆったり、ひっそりとした佇まいがよい。ちょっと関ヶ原にも行ってみたかったが時間が無く、次回とした。大垣駅から電車に乗ると、30分ほどで名古屋駅に着いてしまう。その近さを実感する。

名古屋駅から乗り換えて千種駅で降りて、目的地まで歩く。茶心居さん、コロナ前まで何度もセミナーなどをさせて頂き、お世話になっていた。コロナ後私はオンラインに切り替えてしまい、こちらに伺う機会も無くなっていた。今回は折角なので連絡を取ると、以前支援して頂いていた方が集まってくれた。

ご飯は店主特製のカオマンガイとサラダ。非常にきれいにできており、本家タイを凌ぐ一品。食後には茶農家Sさんがお茶を淹れてくれ、ベトナム茶の話などで盛り上がる。そして久しぶりのIさんとも色々と話が出来た。世の中、知らない内に色々と変わっているんだな、と分かる。そういえば9年前の龍神村、このIさん、Sさんと一緒に行ったのだ。これもご縁だろうか。

あっという間に4時間以上が過ぎていき、Iさんの車で名古屋駅まで送ってもらった。帰り方を色々と考えていたのだが、ちょっと疲れてしまい、そのまま新幹線に乗ることにした。お昼もたらふく食べたのに、また腹が減りそうで、名古屋満載という名の駅弁を買い込む。天むす、エビフライ、アンスパ、名古屋コーチンの鶏飯という豪華なラインナップ。今回の旅もこの弁当のように盛沢山、色々とあったな、と思いながら噛みしめて食べる。

静岡・和歌山茶旅2024(6)紀伊田辺から和歌山市へ

それからOさんの車で龍神方面に戻る。私はJRに乗って和歌山方面へ行きたいのだが、交通機関はなく、途中の道の駅で降ろしてもらって、紀伊田辺方面に向かうバスを待つことにした。道の駅なのでランチを食べようと入ってみると、牛丼が名物とのことで食べてみると確かに美味しい。隣では韓国人女子が食べている。外は雨だが、雰囲気は良い。道の向こうには熊野古道の文字があり、ヨーロッパ人女性がその道を上がっていく姿が見える。

バスは10分ほど遅れたが、なんとかやってきた。乗車できてホッとする。この車内も外国人が多い。日本人の地元住民はほぼ車移動なのだろう。田舎道を約1時間走って、紀伊田辺駅に到着。QR決済可能と言われていたが、実際には反応せず。こういうのは本当に困る。駅前に武蔵坊弁慶の像がある。南方熊楠の写真もある。この街にとても興味はあったのだが、今回はパスして電車に乗る。

途中一度乗り換えて、16時前に紀伊由良という駅に着く。ここに径山寺味噌、醤油とゆかりのある寺があり、一度訪ねてみたいと思っていた。駅から荷物を引きずり10分ほどで到着。ただ階段が多く難儀する。興国寺という禅寺。法灯国師という名前が見える。なかなか立派なお寺だったが、人気は全くない。径山寺味噌といえば、鎌倉初期の聖一国師を思い出す。近所には醤油を作る工場が見られた。

紀伊由良駅からまたJRに乗り、和歌山駅へ。和歌山は5ね年ぶりだろうか。今日予約した宿はここではなく、南海和歌山駅に近く、バスに乗る。この路線も初めてで分かり難かったが、何とか到着。南海の駅まで歩いて明日の予定を確認し、ついでにそこにあったとんかつ屋で夕飯を食べる。地元で有名なチェーン店らしく、味もサービスも良く、サクサク食べる。帰りに宿の近くで南方熊楠生誕地碑を発見。紀伊田辺の人だと思っていたが、生まれは和歌山市か。

6月16日(日)和歌山から大垣へ

さすがに疲れが出てきた。そして食べ過ぎでもあったので朝ご飯を抜いてゆっくり起動する。今朝は和歌山城の横からバスに乗り、県立図書館へ向かう。残念ながら探していた資料はあまり見付からず、早々に退散する。そのまま歩いて、郭家住宅を見学。といっても改修中で、外からちょっと覗くだけ。

代々紀州藩の御殿医であったという郭家はどうして和歌山へ来たのだろうか。家鳴り民の滅亡と関連があるのだろう。そして明治になり、この偽洋風建築の建物を建て、今は旧郭百甫医院として保存されている。それにしても和歌山だと中国系の人が根を張り、住み続けている感じがフィットしている。現在もご子孫が横に住んでいるようだ。

和歌山城まで戻ってきたので、ちょっとお城を見学しようとしたが、何と入り口で迷う。車の駐車場用入り口前で、入れるのかとみていると、横にいた女性も同じように迷っていた。話かけると中国人で、大阪の親戚の家に遊びに来たが、京都大阪は人が多過ぎるのでここまで一人で来たいという。

彼女と二人で城に入り、上まで登っていく。『最近大阪も特に中国人が増えている。親戚も中国から移住して、商売を始めた』などと中国人事情を説明してくれた。城に登るという彼女と上で別れて、一人で歴史資料館へ向かう。和歌山、紀州藩の歴史、茶道、そして孫文まで登場。松下幸之助と茶という展示もなかなか興味深い。

静岡・和歌山茶旅2024(5)龍神村のいい温泉からなっちゃんの茶畑へ

そこから喫茶店へ行った。ここも9年前に来た記憶がある。龍神茶の歴史が分かる方にお引き合わせいただき、聞いてみたが、やはり龍神茶については分からないことばかりらしい。我々は中国の晒青緑茶との関連を調べているのだが、どうやらこの茶はその昔から伝統的に作られているようで、渡来の茶かどうかは判別しがたい。和歌山には徐福伝説などもあり、何となく渡来だといいな、と思っていた自分がいた。

Mさんの家を通り掛かると天誅倉という文字が見えた。幕末の天誅組との関連が想起される。ここでMさん作成の龍神茶を頂いた。実は9年前はお金を出せばどこかで買えた龍神茶、今では自家用以外殆どないらしく、道の駅でも売っていないそうだ。そういえば9年前に訪ねた茶農家さんもお父さんが亡くなり、今では高齢の奥さんが細々続けていると聞く。

最後にOさんのお店へ行く。すでに閉鎖されている中、豆腐作りの機械などを見せてもらう。話を聞いていると龍神の豆腐の歴史と茶の歴史、重なることが実に多く、その深い意味が少しずつ解けていく。こちらで作られた豆腐を食べさせてもらったが、何とも言えない深みがある。これはOさんの努力の結晶だろうか。

バスを降りた宿まで送ってもらう。部屋に入ると昨日とは別世界。広い部屋に快適な空間。勿論防音もある。すぐに夕飯会場へ行くと、そこには料理がふんだんに盛られており、ビュッフェ形式でいくらでも食べられる。如何にも修行が足りないな、と思いながらも、鮎やローストビーフなどを美味しく頂く。昨日は外国人だらけの中、今日は外国人が一人もいない中、ご飯を食べる不思議な感覚。

その後ゆったりと休んでから大浴場で湯を浴びる。ずっと居たいような感覚に捕らわれるほどいい湯だった。『日本三大美人の湯』は私には関係ないが、なめらかないい湯は何とも有難い。宿坊は修行の場であり、修行のためにお金を払ったが、今日は自分の楽しみのために払った感じ。9年前は龍神温泉別館に素泊まりしたのだが、こちらの宿の方が良い。今晩は昨日眠れなかった分を取り戻すほど熟睡した。

6月15日(土)熊野本宮へ

翌朝も快適に目覚めた。まずは温泉に入る。誰もいな朝風呂は実に心地よい。朝ご飯もビュッフェ。何と茶粥があったので食べてみたが、これは龍神茶ではなく、ほうじ茶を使っていた。この宿でも以前は地元民が持ち込んだ龍神茶を売っていたが、今は持ち込みが殆どなく、龍神茶で茶粥を焚くことも出来ないという。

Oさんが迎えに来てくれ、龍神村とお別れ。今日は熊野本宮を目指す。Oさんが知り合いの茶農家に連れて行ってくれた。実は彼は引っ越し間際でとても忙しい上に、何と隣人が亡くなり、その葬儀の手配などもしていたようで、大変申し訳なかった。1時間ほどで茶畑に到着。

実はここの茶畑には3年前も来ている。当時88歳だったUさんを訪ね、釜炒り番茶を見せて頂いていた。その際『最近若者が隣の茶畑を継いだ』という話が出ていたのだが、それが今日紹介されたなっちゃんだった。まだ20歳代、きゃしゃな雰囲気だが、芯は強そうだ。おじいさんとおばあさんの茶業を引き継ぎ、天日干し釜炒り茶や煎茶、紅茶作りにもチャレンジしている。好奇心が旺盛で、勉強に励んでいるともいう。Oさんなど支援したいと思っている人々が多い。外国人のアシスタントもいる。

茶畑の中でお茶を入れて貰い、ゴクンと飲んだ。決して豪華ではないが、何やら風景が絵になり、お茶も美味しい。もう顧みられなくって久しい天日干し釜炒り茶。龍神村では消えていくしかないが、なっちゃんに継承して残して欲しいとは思う。ただ実収が伴うかどうかだろうな。

静岡・和歌山茶旅2024(4)龍神村へ

6月14日(金)龍神村で

朝は5時過ぎには目覚めた。というか、あまりよく眠れなかった。既に明るくなっていたので、外を眺めてお茶を飲む。6時には朝のお務めが始まる。前日同様、住職の英語が響き、我々はまた後から朝食会場へ向かった。朝ご飯は豆腐の他、海苔や漬物など、昔の日本の朝食だった。それから午前9時のチェックアウトまで、庭を眺めていた。殆どの宿泊客はあっという間にチェックアウトして見えなくなったが、ごく1部は連泊するようで、英語ガイドが迎えに来るなど、熱心だった。

9時過ぎに荷物を引きずり、街へ向かった。バスは9時55分発なので、その辺をぶらぶらしていたが、荷物が邪魔なので、早めにバス停に行った。するとすでにそこには数人の外国人がバスを待っており、日本人のおばちゃんに『ここで待っていれば、熊野本宮へ行けるか』などと聞いている。私と同じバスに乗るのはやはり全て外国人だった。横にいたオランダ人の若い女性は2か月日本を旅しており、仏教に興味があるという。

バスは何とかやってきて、高野山駅から乗っていた数人と合わせて13人が乗り込んだ。中国人カップルの2人以外は皆ヨーロッパ人だった。奥の院を抜けると、一路下りに入る。約1時間で護摩壇山に着くと、もう一台のバスが待っており、熊野方面から来た乗客を入れ替えて出発する。若い車掌と話していると『とにかくコロナ前から外国人が多かったが、コロナ後日本人は殆ど来なくなり、今日もあなた一人ですよ』と寂しそうに話す。そしてなんとか英語を使って乗客を捌いて行く。

聖地巡礼バスは、熊野に向けて再び出発した。そこから35分、私の目的地、龍神村に着いた。と言っても、ここには温泉宿だけがあり、周囲は大自然。そして何とここで40分ほどの休憩が入るというので、私はここで下車して、荷物を宿にチェックイン。再度外へ出ると、さっきのオランダ女性が車掌と話している。聞けば彼女、アクセサリーデザイナーのようで、この周辺の木に関心がある。何でもこの辺はチェーンソーアートが有名だとか。

バスが行ってしまう頃、今回お世話になるOさんが迎えに来てくれ、村の中にあるカフェでランチを頂く。何だかほっこりしたご飯で美味しい。Oさんはお客さんと挨拶しているが、その様子がかなり好ましい。彼は18年前この地に来て伝統的な豆腐作りを始めた人だが、既に完全に地元民になっており、好かれている。ただ近々ここを離れて新たな挑戦をする予定だと聞き、私が急遽やってきたわけだ。

そしてここでもう一人のサポーターにバトンが渡された。Mさんはここに移住してきて長い。今はキャンプ場などを運営されているというが、同時に龍神村の歴史、お茶にも関心が深く、10数年前から龍神ハートというグループで活動されていた。私がここを訪ねた9年前も確か龍神ハートの方に案内されたのをふと思い出す。

Mさんが連れて行ってくれたのは、丹生ノ川という場所。丹生と聞くだけでテンションが上がってしまう。四国愛媛にもあった丹生。確か島根にもあった地名だろうか。水銀と関係があるとも聞いたが、茶との関連を是非追求したい。ここに1本だけ大きな葉の茶の木が残っていた。確かに普通とは違う。後で聞くと、コウロ種ではないかという。このような茶樹はどこから来たのか、中国から渡ってきた可能性はないのか、実に気になる所だ。

静岡・和歌山茶旅2024(3)高野山の宿坊生活は

この寺は奥が深く、しかも私の部屋は一番奥の更に2階の端。入口から一番遠いと言ってよい。スーツケースを廊下で引きずらないように持ちながら行くとシンドイ。そして部屋は一人で使う畳部屋。広さに問題はないが、勿論鍵などはなく、プライバシーはない。しかもトイレは1階にしかないので、夜中は大変だ。ただ中庭はとても美しく、まさにインスタ映えの世界で、外国人もしきりに写真(動画)を撮っている。

実はこのお寺、何故か六文銭が目に付く。何と真田家の菩提寺、との表現もある。その辺を聞いてみると、『裏に真田信之の墓がある』というではないか。真田といえば関ケ原後、昌幸、信繁親子が幽閉された九度山とも近い。寺の建物の脇を入っていくと出口があり、その先は細い路地。そして反対側、向こう側は別のお寺の敷地らしく、注意書きが書かれている。その向こうに墓石が見える。確かに真田信正と信之の名がある。かなり立派な墓だった。ただここから外の道路へ出ることは出来ず、完全に囲まれていて、一般人は参拝できない。この辺は高野山の闇だろうか。

寺の部屋にあったパンフの説明によれば、『関ケ原後、真田昌幸、信繁親子は高野山に蟄居を命じられたが、妻子が居住できないため、寺が九度山に場所を与えた』とあり、『信繁は高野山と九度山を往復、この寺で得度した』のだそうだ。大阪の陣後、兄信之と寺は繋がり、真田家菩提寺、真田坊として六文銭の使用が許されたとある。

夕方5時の瞑想まで時間があるので散歩してみる。まずは明日バスに乗るバス停を確認する。金剛峯寺の脇を通り、比較的賑やかな通り出る。この辺も歩いているのは外国人。日本人はお店の人などが多いように見える。以前泊った時も歩いた道をずっと行く。何となく懐かしい。ビルマ関連の展示がある寺もあった。最後は元に戻り高野山の入り口、女人堂まで歩くと、かなり疲れる。

本堂へ行くと既に数人の年配外国人が椅子に座っていた。後から来た若者たちは、興味津々に前の方の床に座る。住職が流暢な英語で、瞑想の仕方を教え、呼吸法を伝授する。それから約40分、久しぶりに目を瞑ってジッとしていた。住職は早口の英語で法話をされ、『日本人には後で日本語やります』と言い、外国人は先に退出して夕飯に向かう。何と残ったのは、私と女性が一人だけ。

夕飯の場所へ行くと、既に皆が畳に座り、何とか箸を使って精進料理を食べている。高野豆腐やてんぷらなどが中心で品数はある。ご飯は自由にお替りでき、若者たちは恐る恐る御櫃に近づく。宿坊体験をエンジョイしているだろうか。もう一間では、VIP用に住職も交じって会話がされている。こちらに座るには特別料金を支払い、特別室に泊まる必要があるらしい。私の部屋は1泊100ドルちょっとだが、彼らはその3倍は払っているようだ。彼らの部屋には鍵がかかる。

食事が終わるとすぐに風呂に向かった。ここは6時半から入れるので、ちょうど始まった時間に行ったら、なんと住職が一人で浴びていた。ちょっと話し掛けると『外国人の宿泊が多いのは歓迎だが、本当でこれでいいのか』と少し悩んでいる様子が見られた。『宿泊代が日本人価格ではないと言われることも多く』とは、正直私も感じる所だ。風呂は数人が入れるのだが、寺の方から『早めに入った方が良い。外国人は風呂で長話などするので』とアドバイスを受けていた。色々と大変だな、宿坊。

部屋にはWi-Fiが飛んでおり、明日の処理などをしていると消灯時間の9時になる。皆さん、意外と真面目に就寝したようだが、隣のフランス人のいびきと寝言がうるさい。もうドミトリーなどにも泊まらないので、実に久しぶりに人の寝息を感じながら夜を過ごす。夜中に2回ほどトイレに起きたが、その度、誰かを起こしてしまうかも、とひやひやした。

静岡・和歌山茶旅2024(2)静岡から高野山へ

さっき降りたバスがこの先の終点で折り返してきた。これに乗らないと2₋3時間は来ないので、すぐに乗り込んでまた約1時間かけて静岡駅に戻った。しかしまだ午後3時、宿に戻るには早すぎる。そこで今度は尾崎伊兵衛の屋敷があったという小鹿という場所へ行ってみることにして、バスを乗り換える。

小鹿と言っても広いらしい。少しでも高台がありそうなところを探してバスを降りると、何とそこは静岡大学の裏手だった。そこをずっと上っていくと、なんとも涼しくて気持ちがよい。街中とは全く違う風景が出てきて嬉しい。小鹿の森公園まで辿り着いたが、疲れてしまい、そこで休む。茶畑などは全く見られない。

そのまま道を歩いて行くと、西敬寺があり、何とそこには山田長政の菩提寺という碑が建っている。長政が静岡の人だとは知っていたが、この付近の出身だったのか。アユタヤなどタイの長政については活動には関心があったが、彼はどんな境遇でタイに渡り、その死後遺骨はどこに行ったかなどは全く考えたこともなかった。残念ながらここにも何も説明はないので分からない。

静岡駅に戻るバスに乗るには、結局来た道を戻るしかなく、坂道を随分と歩いた。そして何とかバスを見付けて無事に生還した。今回は何も分からず、見つからず、だったが、やはりもっと事前準備をしっかりやりべきだったということか。勉強は地道な一歩からだろう、と思う。

晩御飯はどうするかと検索して、定食屋を見付けたので、また歩く。午後5時半営業開始ということで、35分に行ってみると、ご主人が暖簾を出していたのだが、中には既に数人のお客がいる。カウンターしかない小さなお店、常連さんはプロ野球中継を見ながらビールを飲んで待つ。完全にご主人のワンオペなので、注文してから料理が出て来るまで30分はかかったが、勿論文句などでない。ボリューム満点のかつ煮定食を食す。

6月13日(木)いざ高野山

今日は移動日だった。9時前の新幹線に乗り、高野山へ向かった。高野山は9年ぶりか。今やどうやって行くかも分からず、検索を重ねて移動する。まずは京都まで新幹線に乗る。ふと外を見ると浜名湖がきれいに見えた。途中の名古屋で降りてきしめんを食べるのを忘れた。

1時間半で京都到着。ここから在来線で大阪駅へ。何だか妙なところで新幹線代を浮かせる。いや大阪駅から環状線で新今宮駅へ行くにはこの方が良いということか。ところが何故かフラフラしてしまい、大阪駅ではなく、西梅田駅へ行き、そこから地下鉄で南海なんば駅へ行ってしまう。12時発の橋本行に乗るための時間調整として、ここでうどんを食べる。ああ、ちょっと失敗。

橋本行車内にはバックパックを担いだ外国人が何人も乗っていた。橋本で乗り換え高野山へ。この電車の外国人比率はかなり高くて驚く。こんなに外国人が行くのだろうか、高野山。そしてケーブルカーに乗ったのはほぼ外国人。自分が日本人なのを、ここが日本なのを忘れてしまいそうな勢い。更に高野山駅からバスに乗ると超満員。外国人旅行者もSuica持っていて、混乱はなし。

私は何とかバスから這い出して、今日のお宿へ向かう。門を潜ると、見事な庭がある。お寺の方がにこやかに声を掛けてくれる。チェックインをしていると、周囲は英語ばかりが聞こえてくる。係の方々は私に実に優しい。これまで日本でこんな扱いを受けることは少ないので戸惑う。その理由を推測すると『私が日本人だから』になる。聞けば今日の宿泊者約40名中、日本人はたった3人だった。

静岡・和歌山茶旅2024(1)小沢渡へ行くも

《静岡・和歌山茶旅2024》  2024年6月11‐17日

台北から戻って10日ほどが過ぎた。やはり疲労が出ており、静かに休む。そして満を持して龍神村へ出掛けた。9年ぶりの龍神村、どんなご縁が繋がっていっただろうか。ついでに静岡から高野山、和歌山から大垣、名古屋を転戦した。

6月11日(火)静岡で

まずはちょっと調べ物があり、静岡へ向かった。いつものように渋谷からゆっくりバスで行く。もうこれが一番楽という感じだろうか。静岡駅まで約3時間半、慣れというものは恐ろしい。新幹線の半額に惹かれてしまうのも正直なところだ。いつもは寝てすごしており、足柄SAに泊まってもトイレに行くだけだが、今回はついに思い切って吉野家に入ってみる。

肉だくそばを注文するが、PayPayが機能しないので、現金払いとなる。実は帰国後ずっとシムカードの調子が悪く、Google Mapも開きが悪い。と言っても完全に開かないわけでもないのが厄介だが、この先山道などで検索不能になるのは恐ろしい。吉野家とは、あの牛丼の吉野家がやっている蕎麦屋らしい。よく見ると牛丼などもある。この肉だくそばの肉、牛丼のそれに近い。そして意外にも旨い。次回からこれを食べよう。

少し遅れて静岡駅に到着。今回は定宿がまさかの大幅値上げ?で、予算オーバーしたため、最近お気に入りのアパホテルに入る。こちらは朝食もなく浴場もないのだが、まあ利便性はあるか。近所は繁華街なので、コンビニもすぐにあるし。ただいつものルーティン、新静岡駅から電車に乗るために歩く時間が倍になる。

いつものように坂道を上り、県立図書館へ行く。もう慣れているのだが、今回は思ったほど資料が集まらず、ちょっと集中力を欠いた感がある。現在書いている連載に使う歴史だが、なかなかいい物が出て来ない。書きたいものは資料がない。どうするんだろうと思いながら、図書館を後にする。

既に暗くなりかけており、これまたいつものそば屋に入ってかつ丼セットを頼んで、黙々と食べる。まあ日本に居る幸せを感じながら食べるのは何とも良い。部屋に帰るとかなりコンパクトなサイズであり、ベッドに潜ってテレビを見ている内に寝てしまう。

6月12日(水)尾沢渡から小鹿へ

朝、外へ出てみた。近所に朝ご飯を食べるに良い場所は見付からない。10年位前は駅の南側に渋いおにぎり屋さんがあったのが何とも懐かしい。今日はコンビニで我慢する。それから何故か午前中はサッカーなどを見て過ごす。今日の訪問地までちょうどよいバスが無いので時間をつぶす。

11時になってサッカーが終わると早めのランチに出る。近くの食堂を探したところ出てきたのが、JR新幹線食堂。何と新幹線の高架下にある社員食堂のような場所。ほぼ表示もないので、知らなければ絶対に入れない。小鉢などは勝手にとり、主食を頼んでお会計という昔の食堂方式。私は小皿3つとご飯、味噌汁を頼んで510円。お客さんはやはりJRの人々が多く、慣れた感じでカレーやうどんを頼んでいた。ここは朝から来られるので良い。

新静岡駅のバスターミナルへ行き、尾沢渡という場所へいうバスを待つ。一日数本しかないので逃すわけにはいかない。何とか乗り込むと街中を走っていたバスは途中から田舎道へ入る。乗客はどんどん降りていき、ついに私だけになる。50分後、尾沢渡に着いた。このバス停『おさわど』と読むらしい。

私がここに来た理由だが、それは尾崎伊兵衛という人物を調べていて、ここに尾崎家の屋敷があった、と書かれていたからだ。だが残念ながら、屋敷跡と思われる場所はあったが、そこは更地になっている。その向こうには城跡もあるはずだが、こちらからは登れない。その辺を歩いてみたが、茶畑などもないようだ。少し離れた場所に僅かに茶畑はあったが、尾崎家の物かも分からない。唯一あったのは倉庫。そこに尾崎の屋号が入っていたので、ここに半世紀前まで、茶業があったことが何となく知れる。

関西茶旅2024(4)

話に夢中になって、琵琶湖の夕陽を写真に収めることも出来なかった。既に周辺は真っ暗になっている。さっきスコーンなど美味しいものを一杯食べたのだが、また夕飯を食べようとしている。このホテル内にあるイタリアンが美味しいというので、軽くパスタでもとKさんに連れられて行く。いや、このパスタ、実に本格的で、すぐに完食してしまうほど美味しかった。お客さんも多く、皆さんディナーを楽しんでいる。

チェックインして部屋に入る。実にシンプルだが居心地の良い空間があり、寝心地もよさそうだ。屋上にある大浴場に向かった。一日の疲れを癒すのにふさわしいお風呂だった。まさかこんなに盛り沢山の1日になるとは、Kさんには感謝しかない。

3月15日(金)長浜散歩

翌朝は早く目覚めた。窓から琵琶湖に昇る朝日が見える。何とも素晴らしい光景だった。朝ご飯も宿で食べる。こちらの食事、何とも豪勢で驚く。しかも一品一品の精度が高い。これで琵琶湖を眺めながら、ゆったりと食べられるとは何とも贅沢。多くのお客さんはこれを目当てにここに泊まっているのかもしれない。

外に出ると目の前に竹生島行きフェリー乗り場があり、ちょうど出航直前で人が多くいた。もし時間が許せば行ってみたかったが、取り敢えず今回は琵琶湖畔を散歩する。ちょうど目標物として、大仏が見えている。昨日電車からも見えたので行ってみる。良疇寺という鎌倉時代の執権北条時頼とゆかりのてらにそれはあった。高さ28mは大きい。寺の庭もなかなか良い。

そこから街の方へ北国街道を北上する。天満宮に犬塚があるのはなぜだろうか。ずっと行くと旧長浜港跡まで来る。そこに昨日の慶雲館があったが、今日も閉まっていた。向かいの旧長浜駅舎は見学できたので入ってみる。昨日Kさんから渡された観光カードで入れた。古い駅舎の雰囲気も良かったが、何といってもこの鉄道が、日本で有数に早く敷かれたという歴史に興味が沸く。明治初期この地は極めて重要な場所だった。SLなどの展示もあり、かなり楽しめる内容だった。

フラフラ歩いて行くと、駅前には秀吉と石田三成の像がある。三成もこの付近の出身なのだ。その向こうには秀吉関連の石碑があり、更には加藤清正が建立した豊国神社がある。確かに長浜の歴史は秀吉から始まっているのかもしれない。宿まで歩いて戻る中も、歴史的な場所にいくつも出会い、歴史好きには堪らない長浜であった。

お昼に宿で長浜城学芸員のO先生とお会いした。これもKさんのお計らいで感謝。宿の和食レストランのクオリティーが高く、実に素晴らしい。O先生には長浜とお茶、ということで聞いてみたが、はっきり残るものは少ないようだった。ただ細かくは色々とあり、とても楽しい時間だった。ちょうど再来年の大河ドラマが豊臣小一郎に決まったことで、きっと先生もお忙しくなるだろう。

午後はKさんと長浜城へ。立派なお城だった。琵琶湖畔にもその遺構が残り、秀吉像も建っている。城の中の展示を見ていると、三成だけでなく、脇坂、田中吉政、小堀遠州などの出生地がこの近くであり、秀吉が自らの家臣団をこの地で築き上げた様子が良く分かる。やはり現地で展示を見ることは重要だ。城の上から長浜を眺めると、その地形も良く分かった。

今回はすっかりKさんにお世話になってしまった。最後も駅まで車で送ってもらい、駅横のスーパーで名物『サラダパン』を買った。何とコッペパンの中にたくあんが入っているらしい。これはこの地の発酵文化と何らかの関連があるのだろうか。鮒ずしなどもこの地が有名だ。

長浜に別れを告げて、電車で米原まで行く。そこでこだま号に乗り換えて名古屋まで進む。思ったより乗客が多く、自由席はかなり埋まっていた。そして名古屋のホームでは恒例のきしめんを食べて夕飯とする。今回の旅は長かったが、思わぬ収穫はかなりあった。また再び日本旅に出る日を待とう。

関西茶旅2024(3)初めての長浜でアフタヌーンティー

お茶を運んできた方が突然『もう少ししたらM先生が来られます』と告げた。え、M先生とは地下1階で待ち合わせているのだが?そしてこの人は私が誰か知っている。何と以前大阪でM先生主催のセミナーに参加されており、私の拙いお話を聞いて頂いていたというので、驚いた。お茶界隈では悪いことは出来ない。

M先生が登場し、Kさんと3人でランチの場所へ移動した。そこは地下鉄に乗って何駅か行き、歩いて10分ぐらいのところ。点心工房と書かれており、いわゆる飲茶のお店かなと入ってみると、何と立派な豚バラ肉の豆豉ご飯が出てきてビックリ。点心とスープも美味しいぞ。これはクオリティーの高いランチだった。3人でデザートを頂きながら、台湾茶を飲み、お茶話に耽る。これまた楽しい時間だった。

3月14日(木)初めての長浜で

朝はすっきり目覚めた。天気も良い。地下鉄で梅田へ行き、そこから大阪駅を探す。何とかJRに乗り込んだが、予定していた列車より早いものだとまた気づく。まあ何とか座れたので草津まで行き、次の列車を待つ。本日の目的地、長浜は米原から分かれており、そちらに向かう本数は、東海道線に比べて少ない。

結局予定通りの列車に運ばれ、長浜に着いた。長浜は以前通り過ぎた時に気になっていたが、降りるのは初めて。今回は紅茶界で有名なKさんのお誘いを受けて、訪ねてみた。駅まで迎えに来て頂き、誠に恐縮。奥様の運転する車に荷物を預けて、Kさんと長浜の街を歩き始めた。

まず目に飛び込んできたのは、長浜の迎賓館、慶雲館。だがそこは休館中で拝見できず。その向かいの『日本で一番古い駅舎 旧長浜駅』にも惹かれたが、後で時間があったら行こう、と素通りする。そこからするすると街へ入っていく。古い木造家屋もあり、また蔵を改造した店舗もあり、不思議な洋風建築まであり、何とも楽しい街歩きだ。

北国街道、などという言葉が見えてくると、もう戦国末期の気分になる。長浜で最初の城持ちとなった秀吉、賤ケ岳の戦いで対峙した柴田勝家など、様々な歴史がそこにあり、脳裏に焼き付く記憶が蘇ってくる。いい感じの形のお寺があり、『浅井の小谷城落城後、この地に移された』とある。浅井も重要人物だ。

ランチに連れて行ってもらったのは、ご当地名物のっぺいうどん。あんかけうどんのあんかけはどこから来たのだろうか。何となく中国風な雰囲気もある。椎茸がデカい。鯖寿司なども美味しい。このお店がまた雰囲気がある。常に混んでいるようで、その人気のほどが良く分かる。

食後は素敵なお店の中を見学。更におしゃれなカフェもある。さすが商人の街長浜。よくこんなに残っているものだ。曳山博物館で曳山や長浜の歴史をゆっくり見ていると、何となくこの街に住みたくなる。その後は街から抜け出し、琵琶湖畔にある本日お宿へ向かう。久しぶりの琵琶湖。

午後は何とも優雅なアフタヌーンティーを、Kさんの特別な紅茶で頂く。恐らくKさんの多くのファンに羨ましがられる特別待遇で、恐縮至極。しかもティールームからは琵琶湖の眺めがよく、殊に夕日が美しい。紅茶の様々なお話も実に興味深く、ことのほかオリジナルブレンド紅茶が美味しい。ここにはお茶関係の本も置かれており、ひがなここで読書しているお客さんもいるとか。

夕方もぐさ製造会社の社長が来られ、面白いお話をたくさん聞く。針灸は中国で興ったが、現在もぐさは日本製が一番だとか。社長も北京などに何度も行っており、中国との交流も盛んだというが、中国では日本ほど良質のもぐさは出来ないと聞くと、えー、と思ってしまう。鍼灸の世界も実に奥が深そうだ。そういえば、さっき長浜の街歩きをしていたら、せんねん灸のお店があったことを思い出す。私も東洋医学を信じている。

関西茶旅2024(2)初めての新農生活

ここに来た理由、それはXさんに会うためだった。実は彼女のお父さんと先日天津で会い、娘さんが京都で就職したと聞いたのでちょっと会いに来たのだ。頼まれてはいないが、お父さんも願っていたようだ。彼女とは大学1年生の時東京で1度あっただけだったが、当たり前だが随分と大人になっていた。

何と就職先はお茶関係だという。このミュージアムのカフェも、その会社が手掛けているらしい。お菓子とほうじ茶が美味しく、まったりと話す。日本で働いていてくれること、お茶が好きなことなど、嬉しい話題が続いて行く。どこかで何らかの力になりたいが、その機会はあるだろうか。

彼女と一緒に宇治橋まで戻る。その径はなかなか風情があってよい。橋の袂には紫式部の像があったが、これまた初めて見た。雨は止んでいたので、帰りは京阪を止めてJRにしてみた。京都で乗り換えようとしたら、何だか電車が遅れており、1つ前の電車に乗ってしまった。だがこれは鈍行、途中で快速に抜かれた。それでも山崎などという地名を見ると何となく嬉しい。

新大阪で荷物を拾い、心斎橋まで行き、今日の宿に入った。アパとあまり料金が変わらないのに、あまりにも違う部屋の古さ。ここもルートイン系に吸収されたらしいが、リノベが出来ておらず、残念な感じだった。無理して部屋を動かなければよかったと後悔したが、先に立たず。部屋で相撲を見る。

夕飯を探しに外へ出た。が、意外と良さそうな店がない。オフィス街だからだろうか。地下に潜ると店が結構あり、その中の一つに入って焼き魚を頼んだ。だが、注文したものはなかなか出て来ない。普通のサラリーマンはまずはつまみで一杯やってから、定食を食べるのだろう。その時間をわざと空けているのだろうか。鶏皮を頼んだらすぐ来たのはそのせいか。何だかサックと食べられなかったので消化不良に終わる。

3月13日(水)新農生活でお茶を

何となく朝を食べる気が無く、ブラブラしてから天王寺に向かう。10時少し前に到着すると、近鉄百貨店の地下入り口にお客が開店を待っている。あべのハルカス、名前だけは何度も聞いていたが、初めて来た。大きな施設でちょっと戸惑うが、なんとか10階まで辿り着く。

そこにあるのが新農生活。ここには台湾関連の食品、雑貨などが売られており、台湾まで行かなくても台湾が買える場所になっている。埔里米粉から大同電鍋まで、すごい数の物が並んでいる。勿論お茶も何種類かある。そしてその横には食べ物コーナーもあり、牛肉麺などがメニューにある。1320円、高いのかなと思ったが、今や1台湾元=5円の時代。台湾でもちょっといい牛肉麺は250元ぐらいするから、同じぐらいか(開店前で食べておらず、クオリティーは不明)。

その向かいに台湾茶のお店があった。ここには喫茶コーナーもあるようだったが、開店は11時から。今日はここで烏龍茶の歴史を研究しているKさんと待ち合わせたので、取り敢えず開店まで椅子に座って話を始める。近年彼女の活躍により、国産烏龍茶への認識も高まり、また藤江勝太郎の認知度もかなり上がっている。何とも有難い人だ。

店が開いて、鉄観音茶を飲みながらお茶話に花を咲かせる。私が昔書いた物には、間違いも多く、修正が必要なものばかりだが、彼女は研究者の視点からそれを的確に指摘してくれるので、なんとも勉強になる。ただ文献ありき、根拠の明示が必須の世界には、息苦しさもあるようで、私の活動の自由さは、自分では心地よい。