《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》桂林、広州、福建—いきなり桂林、ようやく福建

〈8回目の旅−1987年3月桂林、広州、福建省〉
—いきなり桂林、漸く福建

1.上海空港
旧正月のシンガポール、香港旅行の余韻は大きかった。その後半月は日々ボーっとしていた。生活にあまりにギャップがある場合、所謂腑抜けになってしまうことがあるのをこのとき知った。どうにも仕様が無くて、また香港でのアドバイスに従って、何処かへ旅行に行くことにした。留学生仲間からアモイがよいと言われたので、福建省に行くことにした。特に目的は無かったが、何となく行って見たくなる場所だった。台湾に近いからか?

いつものようにチケットを入手し、当日意気揚々と空港へ。ところが着いてみると直ぐにアモイ行きの欠航が決まってしまった。明日朝飛ぶからと言うことだったが、信用できない。人民と一緒に民航が安配する宿に泊まる気にはとてもなれない。調べてみるとこの後何便かが、他の都市に行くことが分かった。同行のCさんと相談して、桂林行きに乗ることにした。

しかし当時チケットの行き先を変えることは容易ではない。意を決して弁公室へ行く。普通のトランスファーカウンターなど無い時代だ。だが案の定誰も相手をしない。相手をすれば自分の仕事が増える上、外国人だから下手な応対も出来ないからだ。なおもこちらが粘っていると一人が面倒くさそうにチケットを見て『ダメ,ダメ、満員』と手を振る。そのやる気の無い素振りに闘志が沸く。私も既に中国流に慣れてきている。『主任(責任者)を出せ』と迫っていると何と偶々その主任が出てきた。私の要請を聞くと『OK』と一言。サッとサインするとさっきまでやる気の無かった係員もサッと動く。これが中国だ。

1時間後搭乗してみるとガラガラ。流石桂林は外国人の行く観光地だけあって機体もかなり綺麗だ。2時間のフライトで桂林に着いてしまった。上海で大学に戻るのと大差ない時間だ。しかし空港に降りた途端、驚いた。あたり一面あの山水画の桂林だ。山、山。少し霞んだ夕暮れの景色。暫し見とれてしまう。

2.桂林
空港を出るとはたと困る。何しろ桂林に来る予定は全く無く何の情報も入手していないのだ。何処に泊まればよいのだろうか?ところが出たところに沢山の客引きが待っている。皆ホテルの従業員のようだ。日本で言えば、温泉町に来たような感じだ。皆口々にうちに泊まれと言う。今ではこの手合いに係わるととんでもないことになるかもしれないが、当時このような風景を見ることも無かったため、そのうちの一人に付いていくことにした。

離江飯店というまあまあのホテルに簡単にチェックインした。これまでの旅がいつも自ら自力でホテルに辿り着き、交渉を重ねてチェックインしたことを思えば、極楽旅行だ。流石観光都市桂林だ。ホテルの部屋からも山並みが見える。養毛剤のコマーシャルで『不老林』というのがあったが、正にあの景色だ。感激。

夕食をホテルのレストランで取る。味もまあまあ。その後散歩に出る。小さな湖の横を歩いていると土産物を売っている店がある。中国の都市は当時夜は暗くて店も早く閉まるのが普通。露店を見るのも久しぶりで、何となく浮き立つ。歩いている我々の横を男が走り去ったのは一瞬だった。どうやら泥棒のようだ。今ではよくある光景だが、その時は驚いた。泥棒を初めて見た。既に桂林は資本主義社会に入りかけていたということか?

2日目。昨日ホテルに2つのことを頼んだ。1つは本日の河下りのアレンジ。もう1つは明日の広州行きの航空券。ホテルにこんな手配を頼めるのも桂林ならでは。灕江下り、桂林観光のメインイベント。これは今も変わらない。あの山水画の風景が堪能できる旅だ。ところが3月は水量が少なく、全行程は出来ないという。ガッカリしてバスで途中まで行く。1時間ほど行ったところから乗船した。一緒に乗っているのは華僑と思われる観光客が大半だ。シンガポール人などもいた。船が動くと皆上に上がり、写真を取り捲る。歓声が上がる。大騒ぎだ。ところが30分もすると皆下に降り、席に座る。飽きてしまうのだ。いくら凄い景色でもずーっと同じものを見ているのは流石に飽きる。船内で食事も出てきたが、不味くて食えない。河では洗濯している人や野菜を洗っている人が見え、その方が興味をそそられた。

2時間後陽朔に着く。皆ホッとしている。してみると水量の多い夏場にこの船に乗った人々は6時間の辛さを味わうわけだ。3月でよかった。陽朔は船下りの終点であり、土産物屋が待ち構えている場所である。おばちゃんが煩く言ってくる。今では閉口してしまうが、当時は声をかけられることも珍しく、色々と話したりした。でも売っているものはとても買える様な代物ではなかった。帰りは80kmのバスの旅だが、殆ど寝ていた。

3日目。広州行きの航空券は簡単に手配され、夕方出発。その前に桂林市内を観光した。鍾乳洞と動物園のある七星公園、桂林で一番高い独秀峰など。何となく覚えているがあまり印象には残っていない。桂林では何といっても社会主義でない旅行のアレンジが一番の感激であった。

3.広州
夕方桂林空港に行ったが、雷雨となっていた。飛べば僅か1時間のフライトであったが、4時間は遅れた。広州白雲空港に到着したのは夜10時頃だったと思う。当時この時間に見知らぬ空港に着くのは恐怖であった。何故なら空港は町の郊外にあり、市内へのバスなどがあるかどうかも不明であったからだ。更に市内に入っても宿泊できるかどうかは分からない。

広州に関してはこのような不安は全て杞憂に終わった。空港から出ると多くのタクシーが整列して待っていた。直ぐ乗り込んで市内のホテルを頼むと東方賓館に連れて行ってくれた。僅か10分ぐらいだった。何とタクシーにはメーターが付いており、メーターが示す料金が請求された。当たり前のことではあるが、中国では当たり前のことが無かっただけに非常に驚いた。ホテルも直ぐにチェックインできた。他の都市とは全く違っていた。

4日目。先ずは民航オフィスへ。上海に帰るチケットを押さえなければならない。ところが、オフィスは人でごった返していた。上海も酷いが広州は何倍も人が居る。30分ぐらい待ってやっと窓口に辿り着いたが、何と上海行きは半月先しかないと言う。何と言っても梃子でも動かないし、後ろには大勢の人が待っている。思わず『上海付近』と言った。すると明後日のチケットがあると言う。てっきり杭州か南京だと思っていたが、何とこのチケットは『福州行き』だったのだ。

後ろの人が急かすのでとうとうそのチケットを買ってしまった。しかし上海付近が福州とは?上海−福州間は列車で何と22時間もかかっていた。これを付近と言うのだから中国も大きい。我々は元々福建省に行こうとしていたことを思い出し、大いに妥協することにした。(恐らくは付近と言う単語と福建と言う単語を聞き間違えたのではないだろうか?)

それから広州市内を観光した。中山記念堂、越秀公園、広州動物園などを見て回ったが、あまり印象に無い。それより街中でメーターを付けたタクシーを簡単に捕まえられることに有頂天になり、何度も乗ったのを覚えている。広州の友誼商店では、ゼブラの黒のボールペンを買った。当時中国では青のボールペンを使っており、黒は無かった。無いとなると欲しくなるのが人間というもの。探し回っていたが、とうとう見つかった。2ダース買ってお土産にした。

夜は白天鵝賓館に行く。ここに平田と言うに日本料理屋がある。味も良く、嬉しくなって食べる。このホテルは非常に素晴らしいホテルでロビーから吹き抜けで大きな壁画がある。場所も珠江に面しており、ロケーションも良い。(因みにこのホテルもこのレストランも現在も健在)

夕食後、ブラブラしていると清平街という市場に出る。ここは正に『食在広州』と言われる場所で、何でも売っている。牛、豚、鳥は勿論、アルマジロ、狸、大蛇、犬、猫なんでもござれ。とても我々が食べられると思えないものが並ぶ。ペットショップと勘違いしそうだ。また人が多い。薄暗い中皆熱心に買い物の品定めをしている。食にかける情熱が伝わる。因みにこの市場は2003年のSARS騒ぎの時、に急に廃止されたと聞く。やはりSARSの原因はゲテモノ食いにあるようだ。

5日目。前日と同じように町をぶらつく。兎に角広州という町は当時中国で最も進んでいたのではないかと思う。今行ってみると北京、上海と比べて、発展の度合いが少ない。ある時発展が止まってしまったのか?憧れの街広州、今では考えられないかもしれないが。

4.福州
6日目。愈々福州へ。今度は飛行機も遅れることなく、出発。2時間ほどで到着。福州の空港は閑散としており、田舎。空港内でCさんが上海行きの切符を求めたところ、今日でも明日でもあると言う。広州ではあれほど手に入らなかったのに、何故なのだろう?

結局Cさんも1泊することになり、市内へ。福州は小さな町であるが、何となく古都の趣がある。取り敢えず華僑大廈にチェックイン。華僑の出身地である福建、広東などで困ったときはこの華僑大廈(ホテル)が便利。安くて確実と聞いてがその通り。ここの料金は中国人、台湾香港同胞、外国人の3種類であるが、我々留学生は同胞料金で泊まれる。確か1泊30元ぐらいだったと思う。町の中心に白塔がある。車は少なく、歩いて散歩しながら見学。広州に比べて肌寒く、特に夜は涼しかったのを覚えている。

7日目。開元寺に行く。ここは空海が訪れた寺で『空海入唐の地』という石碑があった。こんなところに来て、日本を感じられるなんて、やはり日中は深く歴史で結ばれていると感じた。その後上海に帰るCさんと別れて、華僑大廈にもう1泊。これが中国で1人で泊まった初めての晩となる。何となく寂しい感じがして寝付けない。

5.泉州
8日目。折角ここまで来たのだからと、アモイを目指す。バスで約8時間と聞いていたので、かなり緊張する。以前南京から揚州に行くバスに乗り1時間で故障した事実もあり、もし一人で取り残されたらどうしようと不安になる。

案の定外国人は1人だけ。但しバスは古いが豪華バスといった感じで、テレビが付いており、台湾映画を上映していた。やはりここは台湾に近く、かなり影響を受けている気がした。道中の景色も以前行った台湾を思わせる木々があり、長閑で良い雰囲気だった。5時間ぐらい行った所で、バスが停まり昼食となった。何とこのバスは昼食付きなのだ。まあ中国人は食べることを一番重んじる民族であるから、当然かもしれない。但し飯は不味かった。

再び乗車したが、何だかバスに飽きてしまった。どうしても降りたくなった頃に数人が下車しようとしたので、地名を聞いたところ泉州という。これは聞いたことがある地名だと思い、一緒に降りることにした。ところが降りてビックリ。市内ではなく、郊外で下ろされたらしく、周りに何も無い。下車した人々はどんどん何処かへ行ってしまう。また取り残された。車も全く見えない。そこへ自転車の後ろにリヤカーを付けて引いているおじさんがやって来た。町まで乗れという。何だか騙されそうな気がしたが、他に交通手段はないという。

乗って正解だった。確かに市内まで結構離れていたし、何より車が一台も走っていない。市内に行くバスも全く無い。取り敢えず福州と同じ華僑大廈があると言うことで、そこにチェックイン。福州よりみすぼらしい建物だった。確か20元ぐらいでは?町は本当に小さかった。福州と同じ開元寺という名の寺に行った。ここはその当時は孫悟空のモデルになった壁画があると言うことだったが、全く見つからなかった。今のガイドブックにも書いていないのでガセネタだったか?

夕方華僑大廈に戻ると中国旅行社の看板があった。何気なく入って聞いてみたら、何とアモイ−上海のチケットが買えると言う。嘘みたいな話だが、当時は広州でもそうだったように現地ですら買えないことが多かった。ましてや違う都市の切符の手配など出来るはずも無かったから、驚いた。騙されるつもりで買ったのを覚えている。

夜はホテルの食堂で食う。一人だから、仕方なくチャーハンを頼む。出てきたチャーハンを見てビックリ。日本のチャーハンとそっくりで、お椀をひっくり返して狐色に焼かれていた。一皿1元。旨い。思わずお替りした。日本のチャーハンのルーツはここにあったと確信した。

6.アモイ
9日目。苦節9日、とうとうアモイに着いた。泉州よりバスで2時間。前日の6時間があるからあっという間に着いた感じ。アモイは泉州に比べて大都会であった。取り敢えずまた華僑大廈を探しチェックイン。本当に便利だ。ホテルを探す手間もないし、何時でもチェックインできる。

ホテルを出て海の方へ歩き出す。フェリーターミナルまで行くと、人が大勢居てごった返している。海を眺めているとなんとも良い風が吹いてくる。極楽、極楽。私が求めていたアモイはこれだよ、といった感じ。そのまま1時間ほど海を眺める。向かい側に大きな島が見える。明日はあそこへ行こう。

時々近づいてくる人が私に向かって、『香港ドル、米ドル、日本円』などと言って来る。どうやら闇両替も盛んなようだ。確かにここは港町。台湾にも近く、外貨は入り易い。両替レートも良いようだ。おじさんが押し付けがましくなく、『家に来ないか?』と言う。普通なら警戒して行かないのだが、興味をそそられ付いて行く。

その家は港に程近く、小さな家が並ぶ長屋風の一軒だった。入り口を入ると薄暗い中にテーブルがあり、奥さんがお茶を出してくれた。それが鉄観音であったかどうかは分からない。中国人民の家に入る機会はあまりないので、中を眺め回すとテレビも冷蔵庫もある。聞くとアモイでは外貨さえあれば、直ぐに手に入ると言う。上海では外貨を持っていても日本製テレビなどは先ず手に入らない。どうやらここは密輸地域であるらしい。おじさんが『洗濯機を買うから両替してくれ』と言う。お茶のお礼に両替するとFECの1.5倍の人民元をくれる。何だか不思議な気分だった。

夜はまたホテルでチャーハンだ。現在香港では福建チャーハンと言えば、海鮮あんかけチャーハンを指すが、アモイでチャーハンと言えば、泉州と同じ日本スタイルのあれだ。シンガポールにシンガポールスリングやシンガポールビーフンと言う名の食べ物が無いように、福建にも福建チャーハンは無いのである。

10日目。対岸のコロンス島(鼓浪嶼)に渡る。フェリーターミナルに行くと大きなフェリーに人が吸い込まれていく。誰もお金を払っている様子がない。行きはただで帰りに払うことを知る。10分ほどで島に到着。島には車も無く、ゆったりとした時間が流れている。

アモイは1842年の南京条約(アヘン戦争)で、開港された5港の内の1つ。その後外国人が洋館を建て始め、コロンス島も洋館が多い。コロニアル風の建物が多くあり、異国情緒が漂う。3月の風は心地よく、今までの色々な出来事を全て忘れさせてくれた。鄭成功、彼の記念館がある。1600年代に台湾を一時占拠し、清朝に盾突いた人物。彼は漢民族にとって英雄なのだ。現在は夜ライトアップがきれいで、対岸から見る景色は名所の1つであるが、当時そのような趣向も無く、夜は暗かったと記憶している。バナナを買って食べる。旨い。バナナはやはり心地よい風に吹かれながら、食べるのが良い。台湾と同じ味がして懐かしかった。

午後南普陀寺に行く。唐代に建造された古いお寺。ここを出て歩いているとアモイ大学の敷地に出た。かなり大きな大学だが、午後人影が無い。非常にゆったりした雰囲気で、一瞬こんなところでのんびり勉強してみたいと思う。

11日目。上海へ。泉州で買ったチケットも無事使える。今回の旅は全く予期せぬ目的地に行く面白さを味わった。

1 thought on “《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》桂林、広州、福建—いきなり桂林、ようやく福建

  1. 懐かしいです。この記事の1年後、泉州、アモイと大学の教授と一緒に歩きました。すごく面白かったです。

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