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極寒の湖南湖北茶旅2016(11)武漢で空港行地下鉄が開通したが

夜はどこか初めてのところで食べようと思い、夜の街をふらついたが、付近にはなかなか手頃なところがなかった。行き着いたのは、香港式の店。たまには味の薄い広東系が食べたかったのでちょうどよかった。白切鶏。店の女性からどこの人かと聞かれ、日本人だと答えると、目が輝いた。今や日本を見る中国の若者の雰囲気に反日などはなく、実に好意的で、好ましい。

 

1227日(火)
武漢散策

 

明日日本へ行くのだが、今日は予備日としており、1日予定はなかった。朝ご飯は初めて回転レストランではなく、1階のKさんの店で食べてみる。ここの和食屋で朝食を出していると知ったのは最近だった。行ってみると、味噌汁や納豆、焼き魚など、和食が並んでいた。これは偶には有り難い。ここで朝ご飯を食べている人は基本的に、日本人のようだ。このホテルには仕事で長期滞在している人もおり、既に名簿が出来ていた。

 

休んでいるのでもよかったのだが、天気が良かったので、外へ出てみることにした。こういう時は博物館を目指せばよい。検索するといくつか出てきたが、取り敢えず一番大きそうな湖北省博物館へ行ってみる。ここは前回訪ねた劉先生の家の近くにあることが分かり、地下鉄で向かう。駅から歩いて10分以上はかかる。この付近は武昌の政府機関、研究機関などが集まっていた。

 

博物館は予想通り大きく立派だった。だが私が欲しかった万里茶路に繋がるような展示は殆どなかった。やはり清末の貿易については、漢口に行かなければならないのだろう。ロシアに関する特別展もあったが、これはというは展示品は見付からない。博物館の屋上から周囲を眺めると、湖が少し見えた。

 

歩いてその湖に行ってみた。東湖、たしかここには30年前に来た記憶がある。勿論今はきれいになっているのだが、その面影は確かにある。天気の良い冬の湖は絵になる。気持ちがよいので、思わずずっと歩いて行く。そしてもう一つの出口から道路に出た。少し行くとバス停があったので、ここからバスに乗る。地下鉄駅まで歩く必要もなく、漢口まで1本で帰れるので有り難い。途中、武漢大学のキャンパスや繁華街を抜け、1時間ほどかかった。

 

漢口駅でバスを降り、腹が減ったので、ショッピングモール内の食堂で食べる。量は多いが味も大味。そこから今度は漢口の博物館へ行く。何だかセキュリティーチェックが厳しい。展示品は想像通り、漢口に貿易関連や、ここから留学に行った人々などがあり、参考となる。そう、ここ武漢から日本へ留学に行った人はかなりの数にのぼったようだ。革命の原動力、ということだろう。

 

地下鉄で宿に戻ると、もうぐったりしてしまう。さすがに博物館を2つ見るとそれなりに疲れものだ。夜までベッドでゴロゴロして休み、最後の夜はいい感じで湯気が出ていた湯包と麺でしめた。昼間は日差しがあり暖かかったが、夜はやはり寒く、温かい食べ物に人気が集まっている。

 

1228日(水)
武漢で空港行地下鉄が開通したが

 

翌朝はゆっくりと起き、回転レストランで最後の朝食を取り、そしてホテルをチェックアウトして、地下鉄駅に向かう。これから空港へ向かうのだが、何と本日、空港までの地下鉄が開通するというのだ。正直、開通初日だから、何かトラブルがあるかもしれないと警戒しつつも、折角だからトライしてみようという気になっている自分がいた。

 

地下鉄は順調に動いており、表示もきちんと出ていたので安心して乗った。だが、乗った電車は空港まで行かず途中駅止まり。仕方なく、そこで降り、空港行を待つが、次が来てもその次が来ても、全てその駅止まりになっており、ホームには人が溜まるばかりで皆の不満が募って来た。どうやら空港まで行く電車は4-5本に1本の割らしい。

 

そこへようやく空港行がやってきたので、大きな荷物を持った人々がドアに殺到し、ただでさえ物騒な武漢の地下鉄が修羅場となってしまった。それでも何とか乗り込む。途中から地上を走り、一応景色も見えた。だが、空港駅に着いてもそれで終わりではなかった。長いエスカレーターに乗り、皆の後ろをついていくと、何とバスが待っていた。ここからシャトルバスで空港まで送ると言われ、えー、と思ってしまった。

 

そのバスがまた滅茶混み。重い荷物を持つ身としては辛い。すぐに発車していくが、皆が慣れていないため混乱する。それに何とか乗り込み、空港に着いた頃には、もうかなりの疲労感があった。確かに料金的には安いのだが、こんなことならタクシーかバスで来るんだった、と後悔する。まずはここで国内線に乗り、北京へ向かう。その機内で亀田のお煎餅が出てきて驚く。そこまでポピュラーになったのか。

 

 

北京に順調に着き、夕暮れの空港から東京へ向かって更に便を乗り継いでいく。今日は北京も快晴で、スモッグは感じられなかった。思えば前年末も北京にいたのだが、その時は黄色注意報が出ていたな。フライトは順調に羽田に着き、私の2016年の旅はようやく終わった。

極寒の湖南湖北茶旅2016(10)南陽市の漢画

1225日(日)
南陽市へ

 

翌朝は早く起きるが寒い。周囲を散策しながら、朝ご飯を探す。油茶と書かれていたので、食べてみる。油茶とは、『熱した鍋に茶油を注ぎ、茶葉を入れて炒め、水を注いで中火にし、数分煮だしたもの』で、トン族、ヤオ族、ミャオ族など少数民族の食べ物と書かれているが中には油条のようなものが入っていた。漢族流なのだろうか。思ったよりあっさりしていて美味しい。この地方で昔から食べられていたのだろうか。ちょっと不思議だ。

 

もう一度会館前で壁を見て、それから昔埠頭があったと言われる場所へ歩いて行ってみる。だが今や影も形もない。往時は水運も使われたが、川の規模からして、道路の発達などで廃れてしまったのだろう。僅かに石段などにその影を見るが、今やそこに住んでいる人でさえ、その歴史は知らないだろう。それから街を少し歩いて見ると、やはり古い建物が多く、歴史は感じられた。

 

 

そして社旗を離れる時が来た。車で南陽市に向かう。そこに李さんの知り合いがいるらしい。市内まではすぐだったが、そこで道に迷い、電話して確認しながら進む。音楽家の知り合いとその奥さんに美味しい地元料理をご馳走になる。羊料理の店と書かれているが、何を食べても美味しい。こんなことを言っては何だが、今や中国では大都市より地方都市、それも小さな店にうまい店が多いように思う。地元の人の案内があるからだろうか。

 

南陽市に来た目的は、漢画館に来るためだった。今から2000年ほど前の漢代に、石に掘られた絵が沢山展示されている。動物を描いたものが多い。人間が踊っている絵もある。一つ一つに意味があるのだろうとは思いながら、余りに展示品が多いので、さらっと見るだけでも2時間はかかった。

 

李さんは一生懸命写真を撮っている。それにしても、よくもこれだけの物が、2000年の時を経て、我々の前に姿を見せたものだ。ちょうど小学生の子供たちが休日に親たちに連れられて見学に来ていたが、郷土の歴史は誇らしいようだ。河南省南陽市、その歴史は恐ろしく古いと言えるが、私はその意味を知る前にこの街を離れてしまった。

 

襄陽へ戻る

李さんの車は襄陽に戻って来た。先に知り合いを下ろして、一度李さんの家に行き、奥さんを下ろした。更には私の明日の武漢行きの切符を買いに行く。手数料5元ですぐに手に入るので有り難い。次に私の宿を考える。安い宿は暖房が効いていない可能性があると言い、彼の知っている特別の宿へ案内してくれた。確かにそこの部屋は非常に暖かかった。暖汽、北京の部屋も暑かったが、何とも懐かしい。

 

外は雨が降っている。もう今晩は一人で適当に軽くご飯を食べようと思ったが、李さんは気を使ってくれ、宿まで迎えに来てくれる。今日はクリスマスだが、中国には関係ないか。奥さんも1泊旅行に一緒だったので許してくれたのだろう。それほどお腹は空いていなかったが、羊鍋を食べた。あまりにうまいので、結局かなり食べてしまい、動きが鈍くなるほどだった。

 

李さんからは、様々な資料を見せてもらった。その中には1910年代に、漢口にあった日本領事館から外務省宛に『襄陽の重要性を調査したい』との公文書も残されていた。その時代は未だ万里茶路が幕を閉じてすぐであり、茶葉貿易以外にもまだまだ物資は動いていただろう。今では想像できないことだが、当時はここの重要性が際立っており、各国も注目していたようだ。日本はここで何かをしようとしただろうか。開発計画という言葉が見えるようだが。

 

1226日(月)
漢口へ

 

翌朝はゆっくり起きて、ゆっくり漢口へ帰ろうと思っていたが、李さんから電話があり、地元の新聞記者が取材したいと言っているというので部屋で待っていた。李さんが私の旅を面白いと思い、記者に売り込んだらしい。やって来たのは女性記者で、1時間ほど万里茶路や私の茶旅について、話をした。私もこういう形で話をする機会はなかったので新鮮だった。相手の質問に答える方が、自ら話すより話しやすいのかもしれない。因みに数日後、これは記事になり、ネットで見ることができた。

 

朝から降っていた雨は殆ど止み、タクシーを拾って駅へ向かった。駅は旧市街から見ると郊外に位置しているようだった。それでも15分位で着いてしまい、時間があったので、駅前で携帯電話の入金を行う。そしてまた一昨日来た道を漢口に向かって帰っていく。もう日本は年末、そろそろ日本へ戻りたいという里心が出てきた。

 

8. 武漢3
休む

 

漢口のホテル、今回は何の問題もなくチェックイン出来た。この1週間で3回目だから流石に大丈夫だった。このホテル、古いが部屋は広く、何より落ち着ける。これでホテルサービスがきちんとしてれば、言うことはないのだが、まあ仕方ない。まずは部屋で昼寝する。それからいつもの腰花麺を食べに行き、飲み物を買い、部屋に戻ってテレビを見ながらゴロゴロする。正直相当に疲れていた。湖南から湖北へ、縦横無尽の移動、これは堪えた。

極寒の湖南湖北茶旅2016(9)圧巻の社旗 瑠璃照壁

そこからまた川沿いに出た。そこには先ほどとは違い、埠頭の跡が立ち並んでいた。全部で30近い数があったという。しっかりした門があるものもあり、名前が明示されている埠頭もある。ここから荷が運ばれたということだろうか。この付近だけが残ったということか。正直よくわかない。

 

この川沿いには高層マンションが立ち並び始めている。李さんによれば、この街の不動産はどんどん高くなっているという。私は襄陽という街がどうしてこんなに発展していくのか理解できなかったが、李さんは『だってここは東風汽車があるからさ』と一言で片づけた。そう、中国三大汽車の一つ、東風汽車の工場がここの郊外にあった。そして日本の日産やホンダとの合弁会社もここにある。意外と外国人も多く住んでいる街なのかもしれず、マンションは自動車関係者の需要に応じているようだが、どうだろうか。因みに当たり前だが街には東風の車が沢山走っている。

 

襄陽城という、城壁がほぼ完全に残っている場所には驚いた。中国各地に行ったが、ここまで城壁に囲まれているのは初めての光景だった。襄陽は三国志の舞台としても有名なところらしい。襄陽の戦いでは呉の孫権の父、孫堅が討ち死にしている。その時代からこの漢江の畔は、重要拠点だったということだろう。それにしても、後世にこの城が残っているのは何とも不思議だ。

 

城内に入ってみると、観光地として、土産物屋などが並んでいる。それはちょっとわざとらしい、中国のどこにでもある風景だが、裏に回ると、ちゃんと人が住んでいる。住人も何代にも渡ってここに住み、この街の繁栄を眺めてきたのだろうか。ここはさすがに再開発にはならいだろうが、立ち退き問題は起こりそうだ。

 

昼ご飯は牛肉麺を食べる。さっき見た回族の肉売りのことが思い出される。襄陽の名物が牛肉麺だとすれば、それはやはり回族の影響だろう。貿易の街らしい名物というものはあるものだ。それにしてもこれは濃厚なスープで美味い。麺もしっかりしている。もうこの辺は米文化ではなく、小麦文化なのだろうか。それにしても、万里茶路を訪ねてきた私としては、襄陽は書面上では重要拠点であるが、それほど保存されたものがない、そして勿論茶畑もない、という結果を見るだけだった。

 

社旗

李さんの車は郊外へ向かう。まずは李さんの奥さんが車に乗り、更に彼の知り合いの男性を乗せて、社旗へ。今日はこのメンバーで社旗に泊まる、1泊旅行に出たわけだ。突然の展開だが、私の旅としては望ましい。車は高速道路を1間ほど走り、それからはローカルな道を1時間ほど行く。ここは既に湖北省ではなく、河南省に入っていた。南陽市とある。

 

街に入ると、そこは時代劇の舞台のような雰囲気があった。街全体が観光地といった様相だ。そこに博物館がある。その横へ行ってビックリした。大型のスクリーン、と言えばよいだろうか。あでやかな壁がそこに存在していた。瑠璃照壁という、高さ15m、幅10mの、見る者を必ず引き付ける、龍や牡丹の図柄が色鮮やかに輝く、まるで黄金の壁とでもいうようなものがあった。これにはしばし声が出なかった。

 

この壁がある場所、それもまた山陝会館だというではないか。襄陽で見た物とは違って、こちらは完全にその形が残っており、今は入場料を取って観光客に見せている。李さんは各地の会館を調べる中、こちらのオーナーとも連携しており、今日もガイドさんをつけて我々を案内してくれた。

 

門を潜ると、裏側にも照壁があり、こちらの方が更にはハッキリしていた。中庭、本殿など全てが揃っており、李さんによれば『これほど完璧に当時の姿が残っている会館は珍しい』という。確かに200年にも渡って、きちんと残されているのは、ここが発展しなかったからだろうか。そしてここへ来て、万里茶路の重要拠点、茶畑の無い世界でも道は存在していたと実感できるものだった。大興奮。

 

会館の周りも、全て古い街並みが残されており、観光客向けの宿や土産物屋、食堂が並んでいる。その中には博物館として物を展示しているところもあり、見学する。特に金融関係の票号など、貿易の街には必須のアイテムはチェックした。河南省から山西省にかけては、農作物が育ちにくい場所もあり、貿易や金融で生きていくしかなかった、ということだろうか。

 

福建会館など、他の会館や商家も多くある。大きな廟もあった。ここで商売繁盛を祈願したのだろうか。これも万里茶路では重要アイテムだ。商人には商売祈願の廟が必須だ。だが、その廟の中へ入ると、本殿の背後に、大きなモスクが見ているのが何とも異様だ。だがそれは回族の活動拠点である証であり。ここでは様々な貿易戦争が起こっていたのではないかと想像できる。

 

夜は山陝会館の女性オーナーを食事した。彼女が連れて行ってくれたのは、やはり回族料理だった。この辺ではポピュラーなのかと思っていたが、何とそのオーナーも回族だった。何とも恐るべし、回族。その夜は何とクリスマスイブ、でもイスラムには関係なかった。会館のすぐ近くにある古めかしい宿屋に投宿した。李さんたちは夜の散策に出掛けたが、私は疲れたので部屋で休んだ。

極寒の湖南湖北茶旅2016(8)万里茶路の重要拠点 襄陽

暗くなってきたので、いよいよ武漢かと思っていると、最後にもう一つ行くところがあるという。何とそこは博物館だと。こんな時間に空いている博物館などないだろうと言ったところ、萬さんは『私設博物館でオーナーは知り合いだから問題ない。むしろ是非見て欲しい』というのだ。そこは高速道路を降りてほど近い、元は学校だった場所らしい。人気はない。

 

中に入って驚いた。ものすごい数の展示品がある。天目茶碗や陶器の破片から近代の蓄音機まで、相当古い歴史的な物から近代の物まで、これは私設というレベルではない。何とそこには萬さんのコレクションも一部置かれているらしい。『置くところがないので、ここに展示している』というから驚きだ。今や中国では、このよう私設博物館が1万以上もあると言われて、さらに驚く。入場料も取らないとのこと。このような収蔵品は確かに歴史を保存するという役目を担っているが、同時に現代生活に飽きた、お金持ちの趣味、とも言え、何とも複雑な思いがした。

 

その夜、漢口に戻り、いつもの宿でチェックインしようとしたが、予約がないと言い出す。昨日の朝チェックアウト時に明日の夜戻ると言ってあったのに、この始末だ。情けないとしか言いようがない。ただ今回のフロントは『次回の予約も含め、きちんと引き継ぐ』と言ってくれたので、まあいいか。疲れたので早々に寝る。

 

1224日(土)
襄陽へ

 

翌朝は5時に起きる。ホテルの食事は6時からだが、残念ながらその前にチェックアウトとなる。今日は漢口駅7時発の列車で襄陽へ向かうことになっていた。私の目的を聞いた萬さんが、特別にアレンジしてくれた。ただ彼自身は行けないので、地元の人に頼んでくれている。

 

地下鉄で漢口駅へ行こうとしたら、何と駅が開いていない。武漢の地下鉄は6時半かららしい。6時からなら、間に合うと思ったのにがっかりだ。仕方なくタクシーを拾って向かう。この駅も以前来ているので、もう慣れているが、それにしても古いのに大きな駅だ。まあ先日の武昌駅も地元の人が迷うほど大きかったが。

 

7時ちょうどの動車に乗り込む。冬の湖北は本当に寂しいところだ。北の方へ向かうというだけで、昨日までとも心持が違う。いや、同行者がいないからだろうか。荒涼とした大地、緑のない土地を列車はひたすら走っていく。途中停まる駅も殆どなく、大きな街も見受けられず、約2時間半で襄陽に到着した。まるで武漢からこの街だけのために鉄道が敷かれているような錯覚を覚えた。

 

7.
万里茶路の跡がない街

 

何故襄陽に来たのか。それは万里茶路の重要拠点だったからと、教えられたからだった。萬さんの紹介で、李さんが迎えに来てくれた。李さんは公務員の傍ら、地元の歴史を発掘し、必要があれば保存する活動をしているという。早々に車で川沿いに連れていかれる。『この辺が、昔水運の起点となった場所だ』と指さされた場所には何も見出せるものはなかった。

 

僅かな痕跡を求めて川辺へ行く。ここが長江最大の支流と言われる漢江が流れる場所、そして更に支流との合流点になっていた。漢口から来た物資はここで仕分けされ、四方に船か馬で運び出されたという。僅かに残る、積まれた古い石に、何となく港を想起させるしかない。

 

それから古い街並みが残る場所へ行く。狭い路地の両脇に家がある。100年以上前の建物もあるという。その一軒に入ると、5代目だという男性が『昔は布などを商って儲かっていたらしいよ』という。その家も含めて、その多くが再開発の対象になっており、李さんのグループはその歴史的価値を見出し、保存運動をしているようだ。周囲を見渡すと、高層マンションが建ち始めている。もう風前の灯火だろうか。この街の歴史的価値、それを見出すうえでも万里茶路の歴史は重要ということだ。

 

次に学校へ向かった。普通の学校に見えたが、その門の脇の壁が凄い。200年ぐらい前に建てられた同郷人の会館跡だという。李さんはこちらの研究で本も出しているので、実に詳しい。万里茶路に登場する山西商人と陝西商人、往時は二大勢力だった彼らが、共同で作ったのが山陝会館だった。学校の敷地内に入ると、わずかに舞台と鐘楼が残っており、その壁にはその名が記されていた。

 

商人たちは必ずここへ立ち寄り、商売上の商談や、一般情勢の情報交換などを行っていたという。確かに中国中に同郷者のための会館はあるが、これほど明確なものは少ないと思う。李さんによれば、このような会館が完全に残っているのが社旗にあり、今日はこれからそこへも行ってみるというので、心惹かれた。

 

因みに付近は回族の住民が多いようで、羊や牛の肉を捌くあの帽子を被った人々がいたのは、何かの因縁だろうか。恐らくはここの貿易に携わっていたのは、山陝会館の商人ばかりではなく、回族もいたことだろう。そして彼らは馬を使ってここから物資を西へ運んだのではないだろうか。この回族ルートも興味深い。

極寒の湖南湖北茶旅2016(7)磚茶工場と収蔵家

それから街外れにある永巨茶業という茶工場を見学に行く。この12月の寒空にも工場は稼働しており、茶を大量生産しているではないか。茶葉は以前摘んだものを倉庫に入れているらしい。工場から湯気が上がっている。機械化された茶の型がぐるぐる回っている。型は未だに手で作っているものもある。原料の茶葉は大量に倉庫にストックされているらしい。

 

この会社、万里茶路の湖北ルートが盛んになり始めた1865年創業、恐らくはロシア、モンゴル向けに大量の磚茶を作っていたのだろう。その後抗日戦争時には爆撃で生産停止に追い込まれ、1984年に再建されたとある。ソ連と中国が断絶したことも再建の遅れに影響しているのだろう。

 

商品の展示を見て驚いた。なんとあのモンゴル、シベリアで売っている典型的な茶のパッケージがあるではないか。私は文字が読めなかったが、以前誰かに呼んでもらった際、『湖南省臨湘市産』と書かれていると教わったことが急に蘇ってきた。あの膨大な現代の磚茶はここで作られていたのか。歴史はそのまま残っていたということだろう。突然目の前で点と点が結びつく、こんなことが茶旅の醍醐味だ。

 

それから先ほど行った映画館跡に戻る。今度は大勢の人が既に笛やラッパなど、思い思いに楽器の練習をしていた。我々は実に古めかしい映画館の椅子に座り、それを眺める。平均年齢は高そうだが、趣味でやっている人々。指揮者が大太鼓を叩くと、一斉に音を合わせて演奏が始まる。それは思ったよりはるかにダイナミックであり、まるで映画の一シーンを見るかのように音が流れた。昔はここに毎日映画がかかり、大勢の人が食い入るように見ていたことだろう。今はDVDやダウンロードに取って代わられたが、こんな演奏が流れるとは、驚きだった。

 

ここにも老街という名の古い道があった。清末の建物、100年以上は経つものが多いようだが、最近政府が資金を出して修復した形跡がある。勿論ここに住んでいる人々もいる。建物の向こうには川が流れており、往時は物資が水運で運ばれていたことも分る。大きな倉庫も見える。茶葉もここから積み出されたのだろうか。突き当りには教会まで残っており、往時は栄えた場所だったんだな、と感じさせる。

 

昨日の老人が、自らの博物館?に案内してくれた。そこはこの老街でも一番の立派な建物の中にあった。木造の製茶道具なども展示されている。昔使われた看板なども集められており、その量はかなり多い。建物内の窓の飾りなども凝っており、相当の金持ちが住んでいたことが分かる。老人が岳陽市の政府に勤めていたが、定年で故郷に帰り、地域の歴史発掘に努めている。ただ萬さんによれば『あの老人は相当に目が利く。恐らく誰もいらないものを買い集めて、保存しているが、その価値は買った時の何倍にもなっている』という。

 

実は帰りがけ、街を歩いていて、萬さんが突然立ち止まった。そこには古い看板が置かれており、そこが簡易な骨董屋だと分かった。老人に触発されたのか、その看板を買うといって、代金交渉を始めた。確かに数百元でそれが手に入った。『私が全中国を旅している理由はこういう物を買うためだ』と言われて、初めて萬さんがいわゆる収蔵家と言われる人だと分かった。文化を大切にする傍ら、骨董品を買い集める。今や中国では1つのブームだそうだ。老人と彼は同業者、ということか。

 

武漢までの道のりで

そしてこの地を離れ、一路武漢へ向かって走っている、と思っていたが、どうやらそうでもないようで、大きな池?河?湿地帯にやって来た。黄蓋という名前らしい。向こうの方まで水が広がっている。何をするのかとみていると、船で魚を取っている人がいて、その魚を買うために集まっている人々がいた。

 

それから赤壁市博物館に寄ってみた。ここにも貴重な資料があるとのことだったが、時間が遅かったのか、門は閉ざされており、中に入ることはできなかった。残念。近くの古い井戸を見学しただけで、赤壁を去る。今回も赤壁の戦い、古戦場に行くことはなかった。車は更に武漢の方に近づいていく。

 

渋滞を避けるためか、武漢の手前の街に入る。賀勝橋東駅という高鉄の駅があったが、人は殆どいない。ここに停まる列車は1時間に一本程度。武漢までは20分ぐらいらしい。まさに高鉄景気を当て込んで、駅前だけを開発してしまった例をそこに見る。建物だけは至極立派だが人の気配はなく、実際に使われているものもあまりない。

 

唯一使われていたのは、何と鶏スープ屋だから驚きだ。しかも巨大な建物の中に滅茶苦茶広いスペースを使ったレストラン。それがこの付近に3つはあった。いくら鶏スープがここの名物で、大儲けした地元民がいるとしても、これはやり過ぎだろう。我々はそこで夕食を取ったが、お客はほぼいないので、従業員も我々につきっきりで、無駄話をしながら給仕している。確かに鶏スープは美味しく、何杯も飲んでしまったが、これだけのためにここへ来る人はどれほどいるのだろうか。鶏スープはやはり街道沿いの小さな店で飲んだ方が絵になる。この投資はとても回収できないだろう。

極寒の湖南湖北茶旅2016(6)1日に2度、湖南省へ行く

ここに来た時から王さんのお知り合いの政府関係者が同行していた。やはり地方史を研究している公務員だった彼には各地に知己が多いらしい。少し早いがここで昼ご飯を食べていけ、と言われれば、彼らのメンツを立てて、ご飯を頂くことになる。ここの川でとれた魚などが出てくる。万里茶路の水運の起点、新店ではその昔茶商が魚を食べただろうか。

 

 

羊楼洞

それから車で1時間ほど乗り、羊楼洞という表示が見えた。その付近には平地に茶畑が広がっている。政府の実験茶畑のようだ。平地なので茶葉の大量生産が可能であり、それでこの場所がえらばれたのだろう。品質よりも産量が求められていた、そういう時代が長く続いたことだろう。

 

羊楼洞の街へ到着した。前回来ているので、見覚えのある場所がいくつもあったが、車は真っすぐ、趙李橋の工場の前へ行く。ただ今回も中へ入ることはなく、横の販売所で資料探し、説明を受ける。トワイニングが1981年に社創立200周年の記念に作った米せん茶が展示されていた。トワイニングの歴史の中、このブロック型紅茶があるということだろうか。

 

それから付近のお茶屋で、趙李橋のお茶を安く買っている。さすが中国的。趙李橋の茶は内モンゴルでよく飲まれているのだが、これからもずっと飲まれ続けるとは限らない。恐らく方向転換を迫られているだろう。高級路線にちょっと厳しいかな。漢族は飲むだろうか。

 

古街も歩いた。これも前回同様だったが、今回は天気が良かった。天気が良いと同じ風景も随分と違ってみえる。人間の目というのは恐ろしい。いや、恐らく1年前と比べても改修するなど、きれいにしたところが多いのではないだろうか。萬さんはここに何度も来ており、馴染みの店に入ったりする。その店の女性が、来たお客さんには無料でお茶を振る舞っているので、メディアなどにも取り上げられているらしい。

 

私一人ならすぐに歩き終わるこの古街を、皆で回ると1時間以上かかるから面白い。写真家の劉さんは勿論、じっくりカメラを構えており、研究者の王さんは、プレートなどを確認している。どこかに見落としがないか、皆念入りに仕事をしている。私のようなフラフラ旅している訳ではない。

 

古街を突きあたり、もう行くところがないから引き返そうとしたが、萬さんはその先へ進む。そこには万里茶路の起点という石碑があった。最近できたものが一応参考まで写真を撮る。その向こうは公園のように見えたが、その中にも石碑がある。1950年の朝鮮戦争時に建てられた病院があった場所だとある。そしてそこには日本の看護師が100名近くも働いていたとの記述があり驚く。どのような経緯でここまで来たのか、傷病兵も看護師もこんな所まで来るのは如何に大変だったことか。意外なものを見てしまい、胸が騒ぐ。

 

車だと色々なところへ行ける。もう一つのせん茶ブランド、洞荘の工場にも寄ってみた。案内がないと中には入れないが、ここの立派な門を潜って眺めた光景はなかなか良かった。近年の黒茶ブームで、皆息を吹き返しているのだろうか。工場もきれいに感じられた。それにしてもドンドン南下しているようだが、今日はどこに泊まるのだろうか。

 

夕暮れが迫って来た。ちょうど羊楼洞大橋を渡った。ここから先は湖南省だという。今日2度目の湖南だ。こんなことはなかなかないな。そして臨湘市の市という場所に着いた。ここに何があるのだろうか。人がいない役所のようなところで待つと、誰かがやって来た。老人がいる。王さんの古くからの知り合いらしい。研究者のようで、お互いの最近の著作などを交換して、話がはずんでいる。だが私にはその言語は良くは聞き取れなかった。さすがに方言がきつい。

 

真っ暗になった道を行く。今日の宿は道沿いのレストランの上だった。まずは食事をする。夜はかなり寒いので、温かいなべ物などが出て心身ともに温まる。食事をする部屋も狭くて、返って都合がよい。寒い時は皆で丸くなって鍋を囲む、何だか日本を感じさせる。それから上に上がり、部屋に入る。最初は21部屋と言っていたが、結局11部屋になる。お客は省外から出稼ぎに来たと思われる3人の若者のみ。

 

夜はここで持ち込んだお茶を飲みながら話をする。皆さん経験豊富だから色々な話が出るが、専門的だったり、内輪の話過ぎたりでよく分からない。今朝は早起きで疲れていたので、先に休ませてもらう。部屋にはなぜか麻雀卓があり、ここが泊まる場所というより麻雀部屋になっていることが分かる。

 

1223日(金)
茶工場へ

 

翌朝は早く起きたが寒いので部屋にいた。萬さんなどは散歩していたようだ。8時頃になり、皆で麺を食べに行く。中国は朝ご飯に麺がある(粥は無くなりつつある)のが有り難い。その後散歩していると、民族楽器の太鼓を引っ張っている人に出くわした。街の人々で楽団を結成しているという。今日はその練習日だとか。折角なので見学に行く。昔の映画館の建屋にやってきたが、団員がまだ集まっておらず、後でまた来ることに。

極寒の湖南湖北茶旅2016(5)長江への中継地 新店

今日は茶荘へ行くことにした。実は半年間に武漢に来た時、福州の魏さんから紹介されていた場所が2つあったのだが、その時は結局行くことができなかったので、この機会に訪ねてみる。ホテルの最寄り駅ではいつも地下鉄2号線のお世話になっているが、今日は1号線に乗る。どこにあるのかと探してみると、何とモノレールだった。都市の最初は地下鉄ではなく、空中というのは台北などもそうだったかな。

 

ここの切符の自販機、壊れている。行先を押しても反応しないから、代金が分からない。適当に4元を入れると、ちゃんとチップが出てきたのだが、損したのだろうか。1号線から3号線に乗り換える。私は漢口から漢陽に移動しているのだが、地下鉄では全く分からない。初めて降りた駅では、道に迷い、大回りして、茶城に何とかたどり着く。

 

知音という名の茶城、その中の敷地も広く、建物もいくつかあり、戸惑う。何とか探し当てたそこに、平さんがいた。彼は以前茶を求めて全中国を歩き回った経験があるというので、私と近いものを感じた。茶葉を売るというより、茶文化を売るという感じだろうか。物腰も柔らかく30代半ばとは思えない、落ち着いた雰囲気がある。茶壺にも力を入れており、宜興に出向き、提携を計ったりしている。

 

彼が淹れてくれたお茶を頂く。何となく慌ただしく過ぎていく日常にストップをかけるような、ふとした安らぎを感じた。こういうことは稀な私、やはり平さんの持つ雰囲気のせいだろうか。ここはお店というより、一種の空間であり、空間というのは人が作るものだ、としみじみ思う。

 

昼頃になり、ご飯を食べようと誘われる。彼は湖北省の出身だが、武漢から少し離れた場所らしい。そこの郷土料理が食べられる食堂があるというので行ってみた。正直私は湖北内での味の違いは分からなかったが、かなりのピリ辛。それが寒い日には非常にマッチしていて、ついつい食べ過ぎてしまう。湖北は、冬は寒く夏は暑い土地柄。どちらにしても辛い物を食べるのがよい。

 

午後はまた地下鉄で3号線から4号線に乗り換えて。復興路まで行く。その駅のところに陸羽茶城がある。こちらは昔からある茶市場の雰囲気があり、ちょっと狭いスペースにぎっしりお茶屋が並んでいる。その一軒、ちょっと雰囲気のあるお店が目指すところだった。茶市場とは少し違うような。

 

中に入ると、数人の女性が茶を飲んでいたが、一斉に立ち上がり帰り支度をする。日本人が来ると聞いていたのだろうか。店は一気に静かになった。ここには白茶やプーアル茶など、湖北とは関係のないお茶が並んでいた。店主の戴さんも落ち着いた感じの人で、ゆっくりとお茶を淹れてくれた。魏さんの周りには、このような茶文化を愛する人々が集ってくるらしい。これは歓迎すべきことだ。

 

戴さんたちは、4月に湖北省の恩施というところで緑茶作りをするそうだ。そこは恩施玉露という中国では珍しい蒸し製緑茶を作っていると聞いている。これは日本と同じ製法なのだろうか、そして玉露という名前はどこから来たのだろうか。興味があるので来年の春にお邪魔すると伝えて、茶城を後にした。夜は腹が一体だったのでフルーツだけ食べて寝入る。

 

1222日(木)
羊楼洞へ

 

翌朝は午前7時に王さんがホテルに迎えに来てくれた。王さんは湖北の歴史を研究している人で、著書もあり、詳しい。前回もお世話になった萬さんに依頼したところ、王さんも同行して旅をすることになったのだ。2人で武昌駅へ向かう。萬さんの車で出発する集合場所だった。だが武昌駅も広く、参加者が集まるのに時間が掛かる。最終的に5人で出発する。

 

私の今回の目的は、武漢から北の万里茶路の道を歩くことだったが、無情にも車は南に向かっていく。どこへ行くのかというと、前回も訪れた羊楼洞、あのロシア人が150年前に建てた茶工場があった場所だった。まあ、もう一度行ってみるのもよいかと、流れに任せてみる。

 

6. 羊楼洞
新店

 

車で1時間ぐらい行ったところに新店という小さな町があった。車が停まった場所には新店明清石板街、と書かれている。ここは古くから栄えた物資の中継基地で、近くを流れる川から長江に繋がり、武漢へと輸送していたようだ。石板街と言われる古街は、羊楼洞のそれより、趣がある。また今回のメンバーは歴史研究の専門家や写真家であり、地元民との交流もスムーズで、人の家の中を見学したり、その由来を実際に聴取したりと、大いに勉強になる。

 

川に出て行くと、王さんが『水位が上がるとあそこまで行く』とか、『この古い倉庫は往時の名残だ』とか説明してくれる。更に橋が架かっており、向こうへ行けば湖南省だと言われて、驚く。ここは省境だったのか。湖北側ではこの時期、豚肉などを外で干している。湖南側では豚肉を捌いている。これが湖北と湖南の違いさ、と言われても、こんなに近いのに川一本隔ててどうして違うのだろうか。島育ちの私などには見当もつかない。

極寒の湖南湖北茶旅2016(4)何とも速い長沙から武漢

4. 長沙2
夜は茶会

 

雨上がりの長沙の夜はきれいだった。やはり安化のライトアップが凄いとは言っても、都会の明るさは全く違う。夢の世界に戻ってきたようだ。今晩は一人でゆっくりするつもりが、また集団行動になった。まあそれも中国人の集団における行為を観察するにはとても良い機会なので、黙ってついていく。自分が流れに身を任せる心を持っていれば、何とも面白い世界だ。

 

まずは夕飯。先方が招待してくれる食事はいつも豪華すぎるので、自分たちだけの時は麺などの軽い物を食べるように魏さんはしている。それは実に良いことだ。食べ過ぎはどうみても良くない。また日本のおじさんのようにビールを探すこともない。今晩は近所の麺屋に飛び込む。腹ごしらえが済むと、昨晩と同じ立派な茶芸館に歩いて行く。急な予定変更にも拘らず、昨日来られなかった長沙の茶関係者が来ており、懇談が始まる。

 

正直今日は眠かった。前向きな話というよりは、一方的な押し付けのような議論が多く、そして何より『茶業界も金が全て』のような話に終始したからだ。勿論文化を支えるのは金であり、茶業を伸ばすのも経済の力なのだが、文化を謳う割には、話があけすけ過ぎて、また声の大きな者が勝つ、という時代錯誤的な雰囲気がみなぎり、出来れば早々に退散したかった。

 

12月20日(火)
武漢へ

 

翌朝、魏さんたちが先にホテルを出て行った。急いでいるなら、一緒に行ったのだが、香港から来ていた林さん夫妻の時間に合わせて、10時前にチェックアウトした。林さんはタクシーを拾おうとしたが、雨で空車がなかったので、奥さんが微信でタクシーを呼んでくれた。すぐにタクシーがやってきたので、乗り込んだのだが、発車後運転手に電話があり、我々は違う車両に乗ったことが分かった。

 

でも運転手は『もう客が乗ったから別のを呼んでくれ』と電話を一方的に切る。こういうのはどうなんだろうか、我々は早く進めて助かるのだが。それにやってきたタクシーは、いわゆるタクシーの車体だったから、間違ってしまったのだ。今やタクシーが滴滴タクシーを兼務しているからややこしい。中国はタクシーが簡単に呼べるからすごい、とばかりは言っていられない。乱立はサービス低下を招いている。

 

確か4年前にここに来た時は、タクシーが居なくて困った。困っていると白タクが声を掛けてきて、最終的に仕方なく乗車したことがある。その時運転手の話では、政府はわざとライセンスを出さず、タクシーは利権になっている、そして白タクは失業対策で黙認されている、と言っていたのを思い出す。あれから大量にライセンスが出たのだろうか。白タクと滴滴タクシー、そしてライセンスタクシー、そういう関係になっているのだろう。

 

タクシーで30元、長沙南駅に到着した。既に切符を持っていた林さんたちは深圳に向かった。私はここで切符売り場に並び、何とか席を確保したのは30分後。いつものことながら、パスポートを持つ身は辛い。それから荷物検査を潜り、すぐに乗車となった。何と1時間後には武漢駅に到着した。途中停まる駅はなかった。1年前の普通電車、合計5時間は何だったのだろうか。それにしても早過ぎる。

 

5. 武漢
何も予定のない日

 

武漢駅に到着した。駅を降りると、何と丸亀製麺が店を出していた。ついにここまで進出してきたか。余程食べてみようかとも思ったが、取り敢えず定宿へ向かう。この駅からは50分ぐらいかかるので、結構大変だ。いつもの駅で降りると、かなり雨が降っていた。出口からホテルまではすぐなので、それほど濡れずに着いた。

 

ここでは後輩のKさんが日本料理屋をやっているのだが、なぜかランチはやっていない。儲からないらしい。確かにビジネス街でもないので、お客はこのホテルの客と常連さんだから、朝と夜開いていれば採算は取れるらしい。前回泊まった時よりもさらに安くしてくれた。冬だからだろうか。長沙のホテルより安くて立派な朝食付きだから、有り難い。

 

昼ご飯の時間を過ぎたが、まずは腰花麺を食べる。もうこれも定番になっている。そして周囲を少し散歩する。この付近はなぜか花屋が多い。それからゆっくり部屋で休む。このホテルはNHKも映るので、テレビを見ながらボーっとしている。そんな時間も旅の中では必要なのだ。

 

夜、Kさんのところへ行く。『これがうまいんですよ』と言って、串焼きが出てきた。本格的な日本の味で驚いた。彼とは色々な話をした。やはり中国にいる日本人、日本企業の話になる。ずっと中国内にいる彼には、今の日本の判断の遅さ、駆け引きの下手さなど、信じられないことが多過ぎるらしい。中国で中国人と本気で戦って商売している人から見れば、何とも不思議に見えることだろう。

 

1221日(水)
武漢の茶荘巡り

 

朝はゆっくりと目覚め、最上階のビュッフェへ向かう。食べ物が凄く良い訳ではないが、80年代の香りが残る、その回転レストランにいるだけで、郷愁に浸れる。私はパンとお粥を中心に食べるので、こんな場所があると有り難い。何しろ街中では粥が姿を消しており、美味いパンにあり付くのも難しい。

極寒の湖南湖北茶旅2016(3)本当に茶馬古道はどこに

今日の夜は早く寝るぞと思ったが、やはりそうはいかなかった。魏さんはどこかへ連絡を取り、出掛けるという。ホテルから川はすぐで、そこは映画のセットのように煌びやかだった。なんでこんな田舎に、そんな輝きが必要なのだろうか。橋を渡ると向こう側はひっそりしており、明るさはなかった。傘を差して歩いて行く。

 

そこは小さなお茶屋さんだった。お客が一人、茶を飲んでいた。そこへ若い感じの男性が入って来た。安化茶業協会の会長だという。お客だと思っていたのは、顧問格の人だった。ここでも安化紅茶の歴史については型通りの答えだった。そしてやはりこれからの安化は黒茶で行く、それが政府の方針なのだと説明された。紅茶は元々輸出品であり、産量が多かったと言っても、地元の人間は飲んでいなかったという。黒茶は近年健康に良いと言われており、中国人全般が飲むお茶として志向されている。

 

1219日(月)
紅茶研究所へ

 

翌朝は雨が降っていた。今日は取り敢えず、安化の茶博物館へ行こうと思っていたが、何と月曜日で休館だという。ただここは黒茶の博物館だが、その横に紅茶研究所があり、そこは開いていたので、あさイチからお邪魔した。そこは古民家を改修した作りで、中には予想以上に多くの展示品があった。

 

湖南における紅茶の歴史が時系列に表示され、1915年の万博についても写真などを交えて、詳細に説明されていた。更には湖南から雲南へ紅茶技術が伝播したことなど、色々とためになる情報が飾られており、助かった。また雲台山の大葉種で作られた紅茶、何となく興味が沸くが、今回雲台山に行けなかったのは何とも残念だった。

 

洞市で

 

後は雨の中、観光となった。洞市という場所まで車で1時間ほど移動。かなり強い雨が降っており、山道はちょっと危険。茶馬古道の起点の一つと言われた場所を訪ねたが、そこにあったのは、後から建てられた記念碑だけだった。地元の人に聞くと『茶馬古道の1つの道として茶葉が運ばれたことは事実だが、それほど重要な場所だったとは聞いていない』という。結局は政府が茶馬古道をネタに予算を取り、こんな記念碑を建てて、後のお金はどうしたんだろうか、という話になる。最近このような光景が中国各地で見られる。

 

洞市の小さな街に戻ると、そこには古街があった。茶荘もいくつかあったようだ。ここの方がよほど歴史的には価値がありそうだったが、保存しても金にならなければ政府も手を出さないという。一部では解体工事が行われており、後にはきれいな土産物屋などができるのだろうか。一度壊したものは元には戻らないのだが。

 

雨が降り非常に寒い山の中だった。早々昼ご飯を頂く。山の幸がふんだんに出てきて堪能したのだが、驚いたことがあった。何と地元の男性3人と魏さん、そして香港から来た魏さんの友人はいつの間にか広東語で会話しているのだ。魏さんは香港籍の華僑であるので、話せるのは当然なのだが、この山の中のおじさんたちが普通に広東語を話すとはどういうことだろうか。

 

聞いてみると『俺は深圳に20年居た』とか『珠海で15年出稼ぎしていた』というので納得した。90年代、仕事のなかったこの地域では広東省への出稼ぎが一般的で、それも長期にわたって家を空けていた。向こうで生活するうちに自然に広東語を覚えたという。そして彼らは一様に『故郷へ戻ってきたのはここ数年だ』という。2010年以降の黒茶ブームで、田舎に仕事ができたので、年齢的なことも考慮して戻って来たらしい。茶業が仕事を生み出しつつあった。

 

食後、怡泰福茶荘というところへ行った。この茶荘は、150年以上前からある老舗で、茶貿易が盛んになった頃、出来たとみられる。往時を偲ぶものは古い看板ぐらいだったが、奥には囲炉裏があり、懐かしい雰囲気は満載だった。私は初めからここに来て数日泊ればよかったのだ。そうすれば茶畑を見ることも出来のだが、今日は大雨でとても行くことは叶わない。次回はぜひここを訪ねよう。

 

もう帰る時間になってしまったのだが、折角なので、この街の歴史的な遺産である永賜橋を見ていくことにする。特に期待していなかったのだが、驚くほどに形の良い木造の橋がきれいに架かっていた。きちんとした屋根が付いているので雨でも濡れなかった。往時は馬が茶葉を積んでここを渡ったという。これぞ茶馬古道だろう。絵になる風景だった。

 

安化の日程を終え、長沙に戻る。魏さんたちは今晩のフライトに福州へ戻ることになっており、私は長沙でもう1泊する予定だった。今日はずっと雨、それも時折激しい雨が降る天候で心配されたが、やはり途中、渋滞に嵌ってしまう。一度渋滞になってしまうと、何とも動かない。長沙の近くまでは来ていたが、ついにフライトに間に合わないという事態になってしまった。結局明日の高速鉄道に乗ることに変更して、魏さんたちももう1泊することになった。この辺の変更の素早さに中国人は慣れている。

極寒の湖南湖北茶旅2016(2)安化は黒茶で生きていく

ホテルから歩ける範囲にある、非常に立派な茶芸館へ行く。ここは高級で、長沙では誰もが知っている有名店だそうだ。そこで福州老板、魏さんを囲んで、茶会が開かれ、長沙の茶関係者が集まってきていた。魏さんが茶産業の今後について力説すれば、参加者からも色々な意見や疑問が飛び出し、討論会のようになっていく。気が付けば、時間は10時近くになっていた。

 

さあ帰って寝ようと思っていると、参加者の一人が、宵夜へ行こうと誘う。今や中国人が観光に来ると必ず必要なアイテムとして、宵夜があり、どこの街でも夜遅くまで食べ物屋が店を開いている一角がある。長沙でも結構きれいな夜市が出来ており、人も沢山出ていた。

 

小雨の降る中、食堂の席に着き、ここで酒が出る。食べ物も沢山出てくる。どう見ても体に悪いだろう、ということを中国人はしているように思う。まあ、日本でもバブル期はあったかもしれないが。結局雨が降る中、たらふく食べてしまい、体調の悪い中、タクシーを何とか拾ってホテルに帰ったのは、午前1時だった。まさに連夜の午前様。

 

1218日(日)
長沙散歩

 

翌朝は当然ながらゆっくり起きる。午前9時集合と言っていたが、9時に来る者などいない。私は早めに粥を食い、チェックアウトして下で待っていたが、他のメンバーは『朝食付きでなかった』と言ってやってきたので、私の例を説明してあげると再度食べに行くという始末だった。

 

予約していたコースターに乗り込む。安化へ向かうとばかり思っていたが、時間調整があり、午前中は長沙市内の見学に当てられた。この辺が超中国的アレンジ。日本では考えられない。しかもどこへ行くかも決めておらず、運転手に聞いて出掛けて行くのだからすごい。

 

岳麗山へ行く。私は数年前に来たことがあったが、その時より車が多く、停車できないほどだった。ここは自然が残っており、静かで風景的にもよい。この木々を守るために個人が寄付をして、その名前が木に付けられている。これはよいアイデアだと魏さんが言い、福建も見習うべきだという。

 

この茶旅は、魏さんがスタッフとお客さん、友達を連れてきているのだが、まるで社員旅行のようなところがあり、社長の魏さん自らが、社員の写真を撮り、微信にアップしている。これは社員サービスなのか、それとも微信を使った宣伝なのか、とにかくまめにアップしていてすごい。

 

午前中はあまり時間がなく、見学はすぐに終了した。それから長沙の高鉄駅へ向かう。魏さんの友人の到着を待つためだった。だが1年前に来た時、長沙に高鉄が走っているとは聞いていなかった。走っていても長沙駅から赤壁へ向かっただろうが、今回この後武漢へ向かう私には朗報だった。

 

バスに全員が揃い、安化に向けて出発した。ちょうど昼時だったので、適当な麵屋に入り、米粉を啜る。これが意外とうまい。その後、車は一路安化に向かった。初めは高速道路がありスイスイ、そして一般道をだらだら走って、3時間半ほどかかって安化に着いた。4年前に行った時は、道路工事中ですごく時間が掛かったが、今回はまあ順調な方か。

 

3. 安化
安化の茶工場

 

広い川沿いの道を一路走っていき、夕方5時前に茶工場に駆け込む。先方はずっと待っていてくれたことだろう。安化第一茶廠、1902年に作られたということが、建物を見るだけで分かる歴史的な工場だった。副総経理が応対してくれ、見学した。ちょうど千両茶が干されていた。最近復活して人気の黒茶だった。

 

立ち入り禁止区域内は更に古い感じだった。大きな門は創業時からあるらしい。木造の倉庫が並び、工場は50年代にソ連の設計で作られたとか。1915年の万博で金賞を受賞したという紅茶はこの付近で作られたはずだが、何となく今は黒茶しか見られない。試飲室でお茶を頂いたが、黒茶ばかりが出てきて紅茶はなかった。聞けば最近、大手国有企業の傘下に入り、この工場は黒茶専門に指定されたらしい。

 

紅茶はないのかと聞くと、歴史的なサンプル品の中にはいくつかあったが、最近の物はなかった。缶に入った物が展示されている。最近でもわずかには作っており、飲ませてもらった。『安化は黒茶で勝負する。これから紅茶は自分たちが飲む分だけに作る』という言葉が印象的だった。湖南省では2010年の上海万博で黒茶ブームを仕掛け、ある程度成功していたので、一気に黒茶シフトが起こっていた。安化紅茶は消えていく運命にあるのだろうか。結構美味しいと思ったんだが。

 

もうすっかり暗くなっており、外を歩くと寒かった。夕飯は川沿いのレストランで食べた。あたりは真っ暗で明かりもなかった。部屋は冷えていたが、暖房をつけ、温かい湯気が上がる料理が並んだ。味もそれほど辛くはなく、食べやすかったので、思いっきり食べてしまった。体が温まる。

 

食後、宿へ向かった。有名なチェーンホテルだった。予約はされていたが、私がパスポートを出すと、フロントは困った顔をした。香港人が香港IDを出しても、同じだった。このホテルはチェーン店に入ったが、外国人宿泊のライセンスを持ってはいないようだった。幸い部屋数に合うだけの中国人が居たので、最終的には問題はなかったが、本当に困ったことだ。