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中国鉄道縦断の旅2015(8)武漢長江大橋を渡るも

1221日(月)
武漢へ

 

翌朝はゆっくり起きて、朝食を食べる。9:15にホテルをチェックアウト。現金をセーブするため、昨晩曲がってしまったATMカードで決済を試み、何とか払えた。これからはカードで支払いができる場所は全てこれで支払うことにする。人などいないと思っていた赤壁駅だが、意外と多い乗客がいた。

 

10時発の武昌行きに乗り込んだが、なぜか満員。後で見ると、2号車以降は空いているので、切符の売り方でそうなってしまったらしい。旅慣れたS氏などはすぐに移動するし、Nさんはカメラマンだから常に動いていて、1号車からは姿が消えていた。さすがだ、これは立派な仕事なのだ、私以外は。

 

途中でという場所を通過した。そこには茶畑があるようだった。初めて聞く地名だが、武漢に近づいても、茶畑があるというのは、この付近が100年以上前に一大茶産地だったことの証ではないだろうか。当然武漢に近い方が輸出、輸送にも便利な訳だから、あたり一面が茶畑になっていたということだろう。今回は見られなかったが、次回は必ず身に来よう。

 

5. 武漢
長江大橋を渡るも

 

11:30に列車は何事もなく武昌に着いた。もう明日のチケットは買われているので、ここでの1泊は決定しており、駅前でホテルを探す。駅横に簡易ホテルがあるのを見つけて飛び込む。2段ベッドが入った3人部屋があり、238元。部屋に入ると、何とドラえもんの絵が貼ってある。ここは若者向けの宿だった。

 

俗に武漢三鎮、武漢には大きく3つの街がある。武昌から漢口へ、地下鉄でも行けそうだったが、なぜか歩き始める。宛は何もない。何となく長江を目指しているようだ。昼時なので名物、熱干麺を食べてみるため、チェーン店に入る。ゴマダレ味で、小麦粉の味がした。11元。横で定食を食べている人のご飯の盛りがすごい。

 

更に歩いて行くと向こうの方に黄鶴楼が見えてくるではないか。道が北京並に広く、歩くのが大変。実は私が武漢に来るのは28年ぶりのこと。その時黄鶴楼には登った記憶があり、懐かしい。だが近づいて見てびっくり。入場料80元は何とも高く、断念。その横の寺を見ただけで去る。中国の観光地の入場料、何とかならないのだろうか。

 

その先には長江大橋があり、徐々に橋に差し掛かっていく。1957年完成、全長1670m、長江に最初に架かった大橋だ。靄がすごい。風も非常に強く感じられる。ロシア、当時のソ連の技術支援を受けて、上が道路、下は鉄道という二層式で作られた。少し歩いて行くとロシア風建築があったので、そこで小休止。

 

S氏はこの建物に興味を持ち、まだ橋の4分の1ぐらいの場所なのに、階段を下りて行ってしまった。下には見学室あり、建設当時の資料や写真が飾られていた。これがどれだけの難工事であったかを物語っており、武漢とソ連の結びつきの強さが感じられる場所だった。 非常にクラシックなエレベーターで下に降りる。2元。

 

川沿いに出ると人だかりがしていた。行ってみると、何とこの寒い中、寒中水泳をしている人々がいた。いずれも老人で、水泳クラブの人たちだ。昼間とはいえ、体感温度は零度以下ではないだろうか。裸の老人をダウンジャケットを着た若者が眺めて、写真を撮っている。何とも不思議な光景だ。壁を見ると、毛沢東の絵が描かれていた。毛沢東は何度も長江で水泳をしており、その名残?だろうか。いずこも老人は元気だ。

 

川から離れると古い街並みがあるかと思いきや、特に目立つものもない。疲れてしまったので漢口側へは行かずに帰ることにした。バスは見付からず小雨が降ってきたのでタクシーに乗る。初乗り10元、赤壁の4.5元はやはり異常に安い。漢口を見ないで万里茶路を語ることはできなかったが、この旅はそのような旅ではないと思い直し、部屋で休んだ。

 

夜は農家料理の店に入る。何となく隙間風が吹き寒いが、鍋の湯気があったかくてよい。いくつか料理を頼んだが、味はまずまず。でも農家料理なのに153元もした。今や中国の大都市では安く飯を食うことは至難の業だ。我々のように美味しいものを食べようという目的がない者にはちょっと辛い。夜は二段ベッドの下で安眠した。

 

1222日(火)
太原へ

 

翌朝は駅前から地下鉄4号線に乗り、高鉄武漢駅へ。武漢には3つの街の駅があり、更には最近できた高速鉄道駅もある。地下鉄で行けるからよいかと思っていたが、4元の切符がなかなか買えない。自動販売機の故障が多いのだ。ちょっとラッシュ時に当たってしまい、すごい人で溢れている。武漢の地下鉄は124号線が既に開通しているが、機能するのはこれからか。

 

武漢駅はすごく大きくて立派だった。余裕を持って着いたので、ここで朝飯を探す。中国の高鉄駅に入っている店はどこも同じチェーン店で面白くない。しかも安くはない。仕方なく、カンシーフーの店に入ってお粥を食べた。店内でトイレを探したが、外だと言われ、行ってみると、本当に外の公園の中の公共トイレであった。こんな立派な駅なのに、どうしてトイレをちゃんと作らなかったのか、こういうのが中国の謎である。

中国鉄道縦断の旅2015(7)羊楼洞散策

羊楼洞散策

この田舎の畑の真ん中で、ロシア人が建てた茶工場を発見した喜びに浸っていた私の耳に、衝撃的な言葉をS氏は発した。『ここでタクシーを返そうよ』、それは私にはありえない言葉でしかなかった。ここでタクシーに乗らないでどうやって街へ帰るんだ、と心の中で思っていると、そこを見透かしたように『人間が住んでいるところでは何とかなるものさ』と突き刺されるような言葉が飛び込んでくる。

 

この言葉をS氏が発するとその重みは格段だった。これまで幾多の試練を乗り越えてきた彼だからこそ言えることなのだ。私は救いを求めるようにNさんを見た。彼もまたちょっと困った顔をしていたので、ここは中国語のできる者同士、結託することにした。運転手に『バスが走っているところまで連れて行ってくれ』と頼み、それでS氏の了解を取ったのだ。

 

車は10分ほど走ると、羊楼洞の古道に着いた。バスはここから出ている訳ではないが、羊楼洞に来たら必ず来るところだと言われた。狭い石畳の道を歩いて見る。そこには清代の茶荘の跡など、羊楼洞の茶の歴史が凝縮された跡が残っていた。中には日本軍の爆撃で壊されたという建物もあった。こんな所まで日本軍が侵攻してきたのか、それほど重要な場所だったのかと分かる。茶葉貿易が如何に儲かる商売なのか、そしてその基本は茶葉を押さえること、そのために山西商人や広東商人、そしてロシアやイギリスなどがここでしのぎを削ったことだろう。往時のにぎわいを想像する。

 

今は観光地化してきれいになっているこの道には土産物屋も並んでいた。だが寒いので観光客は殆どいない。中を覗くと不思議なものがあった。米磚茶と呼ばれる紅茶の粉末をブロック状に固めたお茶だった。機関車のマークがついている。往時ロシアなどに輸出されたものを復刻した物らしい。その時はそれほどほしいと思わなかったが、後になって買っておけばよかったのにと後悔した。古道に住む人々は人柄が穏やかで、にこやかに炭で暖を取っている。この辺には暖房というものがなく、火鉢に当たるなどするしかない。我々にも当たっていけ、と勧めてくれるのが嬉しい。

 

タクシーにまた乗り込む。バスの走っている村へ向かう。大きな工場が見えた。あれは元国営工場、趙李橋に違いない。私はすぐに降りてそこへ行きたかったが、取り敢えずバスを確認することにした。タクシーが止まったところに確かにミニバスが数台止まっていた。運転手に礼を言うと『3人ならこの車に乗って戻っても料金はそんなに変わらないのに』といかにも残念そうだ。それでも紳士の彼は大人しく一人戻っていく。

 

ここはどこなんだろうかと周囲を見るとS氏が『これは廃止された駅じゃないか』という。確かに我々の後ろの建物は既に使われていないが、駅のように見える。近所で聞くと『もう20年以上も前になくなったよ』と寂しそうに言う。旅行作家S氏、そのネタの引きの強さにはこれまで何度も敬服してきたが、今回も又すごい。

 

ここは昨日赤壁まで乗って来た列車で通ったはずだ。1918年に開通した粤漢線の一部であろう。往時は茶葉をここから広州まで運んでいたのだろうが、最終的に道路の発達で、鉄道の意味合いはすれてしまったのかもしれない。いや茶葉の輸出量に陰りがあったのかも。ただ鉄道は今も走っており、乗客の減少で人が乗れる駅が無くなったということだろう。

 

それにしても寒い。取り敢えず昼も過ぎたので、近くの食堂に入る。店主がテーブルの下に炭を入れて、毛布で覆っており、そこへ足を突っ込んでいた。我々はその席を譲ってもらい、温まる。炭こたつだ。ランチは当然湖南料理。寒い時は辛い物を食べると体が温まって元気が出る。

 

食後、数分歩いて、趙李橋茶業へ向かう。門もデカいが、倉庫が凄く多い。今日は日曜日で誰も出勤しておらず、中に入ることもできないので、外から写真を撮るだけにする。この茶工場の名前は内モンゴルで何度も見た。モンゴル族が常に飲む青磚茶はその多くがここで作られているのだ。前身はロシア人が建てた工場だったようだが、今日は歴史的な経緯などを知ることもできない。ただ道の反対側にはやはり鉄道が敷かれており、ここから茶葉が運ばれ、貨車に載せられていた、いやいるだろうことが想像できた。次回ここに来る機会があれば、是非この工場の歴史を知りたいと思う。

 

ミニバス乗り場へ行くと赤壁行がある。満員になると出る仕組みで3元。市内まで先ほど来た道をとぼとぼ折り返す。40分ぐらいで着く。それにしてもあの畑の中でタクシーを返していたら、この旅はどうなっていたのだろうか。全く違う世界が見られたのではないか。安全地帯に入ると、人はそう思うものである。

 

赤壁の街中でバス降りる。まあそこそこの規模の街なので、少し散歩でもと思ったが、S氏がホテルへ帰ろうというので、駅へ行くバスを探す。皆が細い道を行くので付いていくと、近道でバス停へいけた。道は意外と混んでおり、乗客も多い。途中追突事故を目撃。15分位でホテルへ戻った。夕飯は早めに出て、干鍋を食す。今日はご飯もあった。夜部屋で気が付くと、何と中国のATMカードが大きく曲がっている。これではATMから現金を出せない。私はこれを頼りに中国で旅をしてきたので何とも困る。

中国鉄道縦断の旅2015(6)羊楼洞の茶工場

5. 赤壁
ようやくシャワーを浴びる

駅前には本当に何もなかった。長沙とは大違いの田舎の駅へ降りてしまった。既に暗くなっている。とにかくここで泊まり、何としてもシャワーを浴びたいと思っていた。2日前に瑞麗で温いシャワーを浴びたきりなのだ。必死で目をキョロキョロさせると、城市ホテルという文字が飛び込んできた。

 

『ここなら泊まれますよ』と私は勢い込んで言い、S氏も他に行く当てがなくて、一緒にホテルに入った。実はこのチェーンホテル、私は以前泊まったことがあり会員になっていたのだ。1179元の会員価格、出来たばかりのきれい部屋。幸せだった。3人部屋はなかったので、私は一人になった。部屋が暖かい。何とエアコン暖房が付いているではないか。早々にシャワーを浴びた。実に気持ちがよかった。体が心から温まる。

 

腹が減り、皆で外へ出た。だが飯屋はどこも閉まっていた。この駅は本当に乗客も降りないかのように何もない。ようやく明かりが点いている一軒を探し当てたが、何と『ご飯がない』という。仕方なく、おかずだけを頼み、ご飯なしで食事をした。中国でもこんな経験は初めてだったかもしれない。それでも夜はふっくらしたベッドで休むことができた。人間の幸せとは、こんなことかもしれない。

 

1220日(日)
いざ羊楼洞へ

 

翌朝、まずは恒例の駅へ行き、切符を買う。ここから武昌までは硬座で1時間半。その先の武昌太原の高速鉄道の切符まで買えてしまった。但し駅員が慣れておらず、外国人である我々の名前や番号の打ち込みが異常に遅く、他の客の迷惑になってしまった。赤壁というから外国人観光客も沢山訪れているかと思ったが、鉄道で来る人などいないのだろう。

 

何故赤壁で降りたのか。それは赤壁の古戦場へ行く為ではなかった。S氏はあれだけ世界中を歩き回っているが、基本的に観光地には行かないという。北京の万里の長城へ行ったことがないと聞いた時にはひっくり返って驚いた。興味がなければいかない、それはそれでよいと思う。

 

我々の目的地は羊楼洞だった。それは昆明長沙の列車に乗っている時、S氏が『赤壁って、こんなところにあるんだね』と言ったことに始まる。私は以前CCTVの番組で『ロシア人が150年前に建てた茶工場』というのを見ていたが、その場所が確か赤壁の近くにあったような気がする、と言ったのを彼は聞き逃さなかった。それだ、と言い、赤壁駅へ行くことを決めたのだ。

 

慌てたのは私の方だ。何の情報も持っていないのだ。どうやって行くかも、その工場がどこにあるかも全く分かっていない。S氏は駅前でいきなりタクシーを止めて、乗り込んだ。『羊楼洞へ』と私は言った。メーターで4.5元開始だった。いまどきこんな安いタクシーがあるのだろうか。少し行くと赤壁の街があった。駅はやはり街外れの辺鄙なところにあったのだ。 この街の不動産価格は3000元台/㎡、と運転手は言う。

 

『ところで羊楼洞のどこへ行くのかね?』と運転手に聞かれ、口ごもる。『実は150年前のロシア人が建てた・・』と言ってみたが、『そんなの知るわけないよね』と一蹴されてしまった。取り敢えず彼が知っている茶工場へ連れて行ってもらうことで収まったが、前途はどう見ても多難だった。

 

30分後、茶畑が見えた。かなり揃っているきれいな畑だった。羊楼洞茶業の基地と書かれていたが、休みなのか、大きな工場の門は閉まっていた。それでもここに茶畑があったことに、言い出しっぺとしてはホッとした。更には知っていくと、冬の畑が続く中に、その古びた茶工場はあった。

 

 

松峰老知青と門のところに書かれていた。それを見ただけでここが文革下放青年の農場だったと思い当たる。中の建物には古びた写真が展示されており、それを物語っていた。最近文革時代を懐かしみ、ここで労働した人々が戻ってきて飾ったのだろう。それにしてもその古びた様子が、実に絵になっている。カメラマンのNさんは『こんなところに来られて幸せだ』と喜び、盛んにシャッターを切っている。だが我々の目的地はどこにあるのだろうか。

 

人を探したが、よくわからないという。仕方なく門を出て、畑をグルッと見渡した時、ピンと来るものがあった。向こうに見えたがっしりした建物、あれは確かにCCTVに映っていたものではないのか。私は駆け出していた。近づくと確信が高まった。建物の中を覗き込むと、製茶道具がそのまま置かれているではないか。それでもこれだけで断定してよいのか。近所に聞き込みを掛けることにした。

 

近所と言ってもそんなに家があるわけではない。取り敢えず飛び込むと、おばさんは『知らない』と言いながら、老人を呼びに行く。父親だという76歳のお爺さんは『ロシア人とは会ったこともないよ』と笑いながらも、『祖父から向かい側にあるのがロシア人が建てた茶工場の跡だと聞いている』と証言した。後で思い出すと、CCTVの番組に出てきたのもこのお爺さんだったかもしれない。

 

『昔はこのあたり一面、茶畑だったこともあるよ』と懐かしそうに話す。100年前は凄かったんだろうな。それにしてもなぜこんなところで茶作りが行われたのだろうか。今でも茶畑はあるが、全て付近の大手茶工場に茶葉を供給しているそうで、ここでの茶作りは既に終わっていた。今は使っていないという工場に入ることはできなかったが、焙煎設備が見える。

中国鉄道縦断の旅2015(5)長沙の茶葉市場で

茶葉市場で

取り敢えず開いている1軒の店に入った。S氏が心配そうに『中国茶って、意外と高いよね。店に入ったら何か買わなければいけないでしょう』という。私は茶葉市場には慣れているので、そんな言葉を聞き流して、安化黒茶について、あれこれ質問を始める。それが今回のサブテーマである万里茶路に繋がるからである。

 

安化黒茶といってもその種類は多い。黒、花、茯、千両茶など多彩だ。ただ往年の安化、茶畑は多かったが、あくまでも原料の供給基地としての位置づけが強い。完成品を作り始めたのは100年にも満たない。更には長い間、辺境茶を作る場と位置付けられ、漢族が飲む高級茶はなかった。安化紅茶は100年以上前から作られていたが、今は殆ど作られていない。ロシアへ運ぶものが無くなったからだろうか。

 

先方もわざわざ日本から来たのかと言って歓待してくれた。我々の質問にも丁寧に答えてくれ、様々な茶を飲ませてくれた。これは実に有り難い。以前は安い辺境茶のイメージだった黒茶だが、今では湖南省政府の支援もあり、かなり知名度があがり、長沙でも黒茶の店が相当に増えた。そんな試飲を3軒ほど繰り返した。するともう昼になる。

 

昼飯は湖南料理を食べようということになり、店の人が推薦してくれたレストランを目指す。湖南料理は中国で一番辛い。辛くないのを注文したが、それでも十分に辛い。写真をとっても黒っぽくなり、見栄えはイマイチだが、なぜか美味い。満腹になるまで食べてしまう。そしてすぐにトイレに行きたくなる。刺激が強すぎるのだ。

 

午後はもう一つの茶葉市場を目指して歩いたが、何だか高橋服飾市場へ紛れ込んでしまう。すごく大きな市場で驚いてしまう。地方都市だと思っていた長沙だが、規模はかなりデカい。ひたすら歩いて行くと、ついに高橋茶葉市場があった。この市場でも300軒ぐらいはあるだろうか。そんな中でどこの店へ入ればよいのだろうか。

 

午前中は黒茶を攻めたので、午後は紅茶を探してみた。だが意外とない。ようやく1軒の店に雲台大葉と書かれていたので、何気なく入ってみた。紅茶はあるかと聞くと、待っていましたとばかりに喜んで、紅茶を飲ませてくれた。写真も見せてくれたのだが、その中にロシア人が写っていた。これからロシアへ向かう我々にはとても参考になる。そして何とモスクワに住む中国人茶商がいるので紹介するとまで言ってくれた。

 

更には私が3年前に安化を訪ねたことを告げる。女社長に親切にされたと話すと、何と彼女はここのおじさんの親戚だった。確かに苗字は同じ鄧だった。これには双方とも非常に驚いて、茶のご縁を感じてしまう。S氏は何が起こったんだという顔をしていたが、成り行きがよい方向なので笑顔になる。100年前に万博で金賞をとった安化紅茶を商標登録したともいう。安化紅茶と言えば、前回の訪問で持ち帰ったものが日本で大変好評だった。何ともよいご縁が感じられる。

 

赤壁へ

雨が降っている。本当は安化まで行って、茶畑を見たかったのだが、そろそろ列車の時間が迫っているのでタクシーで駅に引き返す。駅は相変わらず、人でごった返している。長沙15:46始発の列車に滑り込んだ。今回は初めての硬座。ここで硬座に乗らないと、もう乗る機会がないというので敢えて選択した。

 

硬座に乗るは15年ぶりぐらいだろうか。さすがに車両はきれいになっているように見えるが、その雰囲気は昔と変わらない。あっという間に席は埋まり、無座切符の人は立っている。我々の席もバラバラ。そんな中、向かいの若い女性は何と荷物が多過ぎてそれを座席に置き、自分は立っている。周囲を気にする様子もない。おじさんが『邪魔だから荷物を上に上げて座れ』と言ってみたが、『すぐに降りるから面倒だ』と言い放ち、友達とおしゃべりしている。

 

そうかと思うと、出発間際に乗って来た老人が、何と3人掛けの席に僅かな隙間を見付けて、割り込んで座ってしまった。割り込まれたおじさんは老人に強くは言えずに席を譲ってしまった。こんな光景、昔もあったなと懐かしい。車内の風景が違うのは、皆がスマホを持って眺めていること。まあとにかく車内は暗い。これは雨のせいばかりではあるまい。

 

1時間後に汨羅に着いた。汨羅といえば、古代屈原が身を投げた場所。粽の故郷とも言えるかもしれない。2時間後には岳陽に着く。ここではかなりの乗客が下車して、席が空く。割り込んだじいさんも、ホッとした様子でスマホを眺めている。岳陽と言えば、数年前に江南三大名楼の1つ、岳陽楼に行ったのを思い出す。

 

この普通列車、狙った訳ではないが、歴史好きが乗っていれば大喜びの地を通っていく。その30分後に臨湘着。何だか茶畑が近づいているように感じる。この先からは湖北省に入る。18:29ついに赤壁の駅に着いた。外はかなりの雨。赤壁と言えば、三国志の名場面、赤壁の戦いを思い出すが、ここはその古戦場なのだろうか。それすら知らずに下車した。

中国鉄道縦断の旅2015(4)中国の発展と貧富の差を感じる

1218日(金)
4. 昆明経由で長沙へ
極寒昆明の朝

 

午前4時の昆明駅は、本当に、本当に寒かった。当然私の旅なら昆明で1泊するのですぐにホテルを探したろうが、この旅はそんなに甘くない。既に大理で昆明長沙間の切符も買われていた。硬臥の切符が買えることがこの旅のポイントなのだ。11時台に出発するのだが、それまで7時間、昆明でどのように過ごすのだろうか。朝が早過ぎてどこかへ行くわけにもいかない。

 

取り敢えず寒いので暖かい物を食べようとお粥屋に入るも、ドアがないオープンな店で寒い。粥を食べている間は暖かいが、食べ終わるとすぐに寒くなり、座っていられない。客の回転は速い。真っ暗だが歩いている方がましではないかと外へ出る。先日も午前2時の昆明駅前を見たが、4時台の昆明駅は既に人が歩いていた。そしてまんとうなどの屋台が出ている。その湯気は何とも温かいが、それを売る人々の寒そうな姿、生活は相当に厳しそうだ。きっと田舎から出てきたのだろう。中国の貧富の格差、というのは、絶望的に大きい。それは日本で分かりえないほど深いように思われる。

 

外を歩いても寒さは柔がない。風も強い。仕方なく、今度はちゃんとドアのあるファーストフード店に入った。店内の暖かさは何とも有り難い。ミルクティもティバッグだが、温かい。朝5時台からオープンしているのが凄い。だが7時を過ぎると客がどんどん入ってきて、お茶一杯では、ここにもいられなくなる。

 

既に外は明るくなり、駅に入ることもできたので、荷物チェックを受けて中に入る。駅の待合室は暖かくはないだろうと思っていると、1階に店がある。Discoというチェーン店だが、空いている。確かにここに入れるのは乗客だけだから、一般の場所よりお客は少ない。ホットチョコレートを12元で注文。これは決して安い額ではないが、これで出発まで安泰だと思うと、眠くなる。

 

実は昆明駅のセキュリティは非常に厳しかった。夜中に駅が開いていなかったのにも理由があった。それはつい最近、この駅で乱射事件があり、死傷者が出ていたのだ。ウイグル人の犯行だったという。その現場はどこだったのだろうか。11時には2階に上がり、水や食料を買い込む。これから20時間の列車旅に出るのである。更には駅構内に設置されている充電器で充電を行う。今や充電ほど必要なものはない。

 

11:38発、北京西行きに乗り込んだ。硬臥中段は先ほどと変わらない。Nカメラマンは上段でかなり狭いようだ。S氏が『これは新型車両だから狭いんだ』と教えてくれた。そして向かいのおじさんのいびきが凄い。硬臥に乗るのは30年ぶりのような気がする。それにしても中国人が如何に豊かになったかを実感する。何しろほとんどのおじさん(おばさんも)が、寝台から肉がはみ出している。昔は皆痩せていて、そんなに太っている人は見なかったな。

 

すぐに昼の時間になり、弁当を売りに来る。30元は結構高いが、ボリュームあり。腹にずっしり収まる。しかし車内は比較的静かだ。昔は暇だったこと、外国人が珍しかったことから、すぐに誰かが話しかけてきて、煩いぐらいだったのだが、今やスマホを見て過ごす人が多く、こちらは暇になってしまう。話し掛けられて面倒だと感じられることもあるが、誰も話し掛けて来ないのもどうだろうか。S氏はしきりに次の目的地を探している。

 

ダラダラしていると夕飯の時分になるが、腹は減らない。動いていないのだから当然だろう。バスで激しく移動するのも疲れるが、何もしないのも意外と疲れる。ビスケットを食べて、昨晩の生茶を飲んで終わりにした。実は結構疲れており、中段のベッドに潜り込むと電気が点いているのに、眠りに就けた。それでも途中の駅で降りるので、ちょくちょく目が覚める。貧乏性だ。中国の鉄道の良いところは、車掌がちゃんとおこしに来てくれることなのに。まあ20時間と言っても、半分近くは寝ているので、それほど苦痛でもなかった。

 

1219日(土)
長沙散歩

7:00長沙着。既に大理昆明7時間、昆明長沙20時間の旅を送っており、今日こそはホテルに泊まるぞ、シャワーを浴びるぞ、と思っているのだが、何とS氏は切符売り場へ向かう。そして列車の中で見つけた次のターゲット、赤壁行の硬座を購入してしまう。それは私にとって地獄の宣告だった。長沙は、湖南省は万里茶路の起点であり、必ず見ておくべきところだが、そこの滞在がわずか数時間しかないのだ。しかも疲れており、おまけに雨まで降っている。

 

ここも寒い。温かいものを食べようと、駅前の李先生というチェーン店に入る。牛肉湯23元は意外とうまかった。おまけにWi-Fiが使えたので、長沙の街を検索する。数時間をどう過ごすのかを検討する。トイレもきれいでかなり気に入った場所となる。取り敢えず活動するために荷物を預ける。25元もする。これは日本のコインロッカー並だ。高過ぎるだろう、中国では。

 

とにかく傘を差して歩き出す。駅近くは昔の街並が残っている。懐かしい感じがする。大きな市場もあるが、まだ店は開いていない。ずっと歩いて行くと、ようやく神農茶都という茶葉市場へ出た。だがこの市場、全面改修中のようで、真ん中の道が掘り返されている。9時過ぎたばかりで店も閉まっているところが多い。

中国鉄道縦断の旅2015(3)観光地瑞麗と極寒の大理

1217日(木)
国境散歩

国境の街は朝8時にようやく明るくなる。フラフラと街歩きが始まる。天気は悪くない。国境まで行くと、人はまばら。やはり中国側は観光客で賑わっていただけで、普段は静かなのだと分かる。宝石店も皆閉まっている。国境のビルからずっと境界線が敷かれている。だがどう見ても、夜は潜り抜けられそうな代物だ。この線を越えてくるミャンマー人はどれぐらいいるのだろうか。逆にここから出て行く、逃げていく?中国人もどれほどいるのだろう。

 

朝飯は雲吞米線にした。熱々でウマイ、8元。それほど寒くはないが、ダウンを着たまま過ごしている。ありえない状況だ。10時前に再度国境ゲート付近へ行くと、観光客が増えていた。孫悟空の着ぐるみを着た芸人が客に笑顔を振りまき、チップを求めている。ミャンマー側へ行く客は殆どいない。

 

 

疲れたのでお茶でも飲もうと思い、ミャンマーティの店に入る。しかし何と店員と言葉が通じない。客もすべてミャンマー人、昼間もこういう世界があるんだ。横の客が通訳してくれ、ようやくミルクティにあり付く。S氏もミャンマーで飲んで以来、大好きになっている。

 

3. 大理へ
出発しないバス

昨日の運転手が11時半にホテルに迎えに来た。ここが今回スタート地点だが、残念ながら鉄道がない。まずは鉄道のスタート地点、大理まで速やかに移送するため、昨日のうちに頼んでおいたのだ。でも昼のスタートは予想外に遅い。しかも迎えには来たものの、出発しない。客が満員になっていないのだ。この運転手、毎日のように800㎞の道のりを往復している。赤字になる運行はしない。

 

瑞麗大道沿いで車を停めて『まずは昼飯を食え』という。早く走ってほしいのだが、それは無理な相談のようだ。どう考えても路線バスに乗った方が確実だった。でも今更仕方がない。飯を食い、周囲を歩き時間を潰す。更には午後1時過ぎてから郊外の物流センターに客を拾いに行く。ようやく1時半に瑞麗を離れる。この物流センター、規模が大きい。乗って来た客は何と山東省から3日以上掛けてトラックを運転してきたらしい。今から故郷へ戻るというのだ。

 

昨日のパスポートチェックポイントに着く。今回は係員がやって来た。運転手に色々と聞いている。どうやら我々の行動が特殊だったため、怪しまれたらしい。それはそうだ、観光だと言いながら、昨晩着いて、すぐに引き帰している。何か運んでいるのではないかと思われたらしく、荷物を全て検査される。我々の旅を彼らに説明してもきっと理解されないだろう。何しろ私自身が理解していないのだから。

 

何とか解放され、またバスに乗り込む。既に相当に疲れていた。他の客にも迷惑な話だったが、今日は乗っている客同士の会話もあり、Nカメラマンも加わっている。今日中に昆明に行き、明日のフライトに乗るという男性2人は、運転手の口添えもあり、1部屋に2人で泊まり、経費を浮かせる話にまでなった。さすが中国だ。

 

この瑞麗から昆明への道は、戦時中援蒋ルートと呼ばれ、重慶の蒋介石軍に米英が物資を供給した道だという。勿論日本軍もそれを阻止しようとして、爆撃などを繰り返したらしい。この道はミャンマーのティボーやラショーでも出て来たルートであり、これも1つの茶葉の道でもあったと考えられるが、今はその痕跡は見られない。

 

車に空きがあり快適に移動していたが、運転手の携帯が鳴り、保山で4人の乗客と大量の荷物を拾うことになった。もうこの時点で午後5時を過ぎていた。一体いつ大理に着くんだ、と叫びたくなる。結局夜8時に大理着。滅茶苦茶寒い。今晩はここに泊まるだろうと思って油断していた私が悪かった。大理の駅へ入り、切符を確認すると何と1時間半後の昆明行きが買えてしまい、大理は夕飯を食べるだけになってしまう。ここは実質のスタート地点だよ、そんな滞在でよいのか、と誰も聞いてくれる人などいない。

 

 

駅構内の食べる所は見当たらなかった。カップ麺でも買って食べるかと思ったが、駅の外へ出てみた。駅前には屋台だけがあった。温かさそうな湯気が出ていたので、つられてそちらへ向かう。小雪が舞う中、とにかく寒いので、米麺と包子を頼んだ。しかし待っているのは完全な外だ。風邪ひきそうで、泣きそう。

 

驚いたことに、屋台の女性はこの寒いのに赤ちゃんをかごに入れておぶっていた。これは寒いだろうが、この夫婦はこうしなければ食べていけないことを物語っていた。そこへやはり出稼ぎかと思われる若い男女が寄ってきて、一生懸命その赤ちゃんをあやし始める。これが中国の良いところだ。その光景には、本当に泣きそうになってしまった。中国の貧富の差とはなんと過酷なものなのか。そんな中でも懸命に生きる人たちがいる。

 

夜の9時半に、暗いホームから列車は大理を発った。直前に切符を買ったので、硬臥中段(2人は下段)になっていた。中段は初めてだったが、結構広い。隣の席に座っていた夫婦がお茶を飲み始めたので覗き込むと茶葉をくれた。プーアール生茶だった。どうやらお茶屋さんらしい。それを飲んでから、すぐに寝入る。5時間は寝むれた。朝4時に列車は極寒の昆明駅に入った。

中国鉄道縦断の旅2015(2)長い長い瑞麗まで道のり

1216日(水)
2. 瑞麗
瑞麗行きのバスに乗るも

8時、起きてたまげた。何と雪がパラパラと降っている。えー、12月とは言え南だろう、と言っても始まらない。ホテルの朝食も何となく冷えている。すでに心が萎えている。こんな日はどうするんだろうか。それでも外に出た。そしてどうやったら瑞麗に行けるのかの調査が始まった。普通はそれを調べた上で来ると思うのだが、この旅にはそんなものはない。全てが現地対応だ。

 

駅前を歩いていると、バスターミナルのようなものがあった。チケット売り場があるのかと覗き込むと、カメラマンのNさんが『ここから瑞麗まで直行バスがあるようだ』と言い、一人の切符売りと話し始める。9時には出るから、乗るならすぐ来い、と言われ、ホテルに戻って荷物をまとめ、慌てて取って返した。

 

そこは商店の前だった。男達がたき火をしている。それほどに寒い。そこで待っていると、ミニバスがやってきて、乗客が乗り込む。ぎゅうぎゅう詰めだ。中国人のおばさんは『これは本当にバスターミナルへ行くのか』と叫び、納得できずに降りて行った。そう、今や中国人でも騙される危険があり、誰を信じてよいか分らない。だが我々にとってはこんな旅が欲しいので、そのまま揺られていく。

 

街を少し走り、9時半ごろ、郊外のバス会社に到着した。ここで客を集め、出発するらしい。それにしても寒い。たき火しているので、そこへあたりに行く。昔は皆がこのようにして暖を取り、自然と輪ができていたと分かる。トイレは横の倉庫の中。ボロボロだ。いつになってもバスは出ない。しかしここまで来たら待つ以外方法はない。バス代もすでに払っているし、街に戻るのも大変だ。

 

10時過ぎにようやくバスが来た。ミニバスだ。ところが最後に乗り込んだ若い女性3人がチケットを買っていなかった。お金はないという。行先で待っている人が払う約束になっているというので、そちらに電話が回る。そこで、払う、払わないで押問答が凄い。他の客は、あの三人早く降りろよ、と言いたいところだが、誰一人言わない。でも本当に一人でも減れば座るのが楽になるんだが。荷物は後ろにも思いっきり積み込んでおり、後ろの三人は大変だ。

 

何と11時を過ぎた。ついに電話の相手が折れ、携帯で代金を振り込んだらしい。この辺が今の中国の凄いところだ。こちらの会社の人間が入金確認のショートメッセージを受け取り、ついに出発した。最初にバスに乗ってからもう2時間以上が経つのに、まだ昆明だ。すぐに高速に乗り、スピードが出る。でも雪だからあまり速いのも怖い。

 

午後2時頃まで猛スピードで走り、サービスエリアに入った。運転手の昼ご飯の時間だ。我々も何か食べようと見渡したが、特に何もない。寒いので麺を食べる。10元、ちょっと辛い。その後大理を通過して、保山へ向かった。4時間後に、サービスエリアに入る。もうかなり疲れていた。

 

ここで例の代金でもめた3人ともう一人男性が降りて行った。3人娘は迎えが来ており、また乗り換えだった。彼女らはどこかへ働きに行くようだ。どんな仕事なのだろうか。天気は良くなっており、南へ向かうので暖かく感じられた。景色も悪くない。もうすぐ着くよと言ってくれれば、晴れ晴れした気分になれるのに。

 

席に余裕ができたことは大きかった。でもバスは高速を降りてしまう。これはいい話ではない。前のおばさんたちの家まで行くらしい。彼らは龍陵という玉の産地で商売しているという。かなり狭い道を行く。夕闇が迫ってくる。何だか絶望的な気分になっている。おばさんたちは大量の荷物と一緒に降りて行った。

 

次は国境検問があった。場所は木康というところ。パスポートチェックが行われて、すぐに通過できた。まだ国境には相当あるはずだったが、なぜだろうか。また高速に乗る。そして夜の9時、ついに瑞麗に着いた。かなり大きな街で驚く。バスに揺られて10時間が経過していた。運転手にミャンマー国境へ行きたいと告げると、『この車は夜国境地域に入れないから、タクシーを拾え』とあっさり降ろされてしまう。仕方なくタクシーを見付けて姐告という半島の先のような場所へ移動した。

 

タクシーで着いたところは、確かにあの半年前に見た国境のゲートの反対側だった。だが今は夜で人はいない。村聯飯店というミャンマーの雰囲気の宿へ入る。フロントの女性はミャンマー人だが普通話ができる。3人で1部屋160元。かなり広いところだ。まるでミャンマーに戻った気分になる。

 

腹が減っていた。南国に夜のはずだったが、それでもダウンを着たまま出掛けた。涼しい。鍋屋の露店が出ている。よく見ると店員も客も皆がミャンマー人だった。すごい街だ。昼間は中国人が沢山いて、国境が閉まるとミャンマー人の街になる。ミャンマービルが出てくる。低い椅子に腰かけて、ミャンマー語が飛び交う。金だけは人民元だった。一体我々はどこへ来てしまったのだろうか。疲れと酔いでよくわからなくなる。

中国鉄道縦断の旅2015(1)雪の昆明で混迷?

【中国鉄道縦断の旅2015】 20151215-28

 

7月に練習のつもりで参加したミャンマー縦断鉄道の旅。そのすごさ、しんどさ、半端なかった。最後はリタイアの憂き目にあい、数日は立つことも出来なかった。そんな経験をバネに本番、『万里茶路』のルートに挑む。今回は中国の雲南省から内モンゴルまで。南国から極寒の地まで、しかもやはり鉄道縛りだ。

 

既に異変は出発前から起こっていた。予約していた羽田北京線。朝便はなぜか欠航になり、午後に。しかもエアチャイナのWEBチェックインはどこかおかしく、結局できない。何かが起こっていた。しかしサイは投げられてしまった。もう後戻りはできない。思い出したくもない地獄の旅の始まりだった。

 

1215日(火)
1. 北京経由で昆明へ
昆明まで

まずはこの旅の掟である前回終了地点からスタート、に沿って、前回の最後、ミャンマーと中国の国境へ向かう。もうこれだけでも普通の人にとっては大変な旅だと思うが、中国側の国境瑞麗まで行くのは、本番ではなく、ただの移動なのだ。そのためにエアチャイナで昆明を目指す。

 

爆買いの中国人がいた。北京行午後便、我々が乗り込んだ頃は空席がかなりあったが、後から後から中国人観光客が大きな袋やバッグを抱えて入って来た。それを収納場所へ押し込むのだが、どう見ても無理だと分かるほどすごかった。CAさんも普段はサービスと言う概念を知らないのかと思っていたが、この時ばかりは総出で場所を探し、荷物を収納していく。これもまた呆気にとられるサービス対応だった。

 

だがそれも限界がくる。私の横に乗客が来た時、全てのスペースは埋まっていた。すると彼女、ブランド品の袋を足の下へ押し込んでいく。そしてついに、私の足の下にまで突っ込んできた。さすがに拒否した。恐ろしいまでの執念が感じられた。爆買いは日本を潤しているのだろうか、中国が黙っている訳はないと感じた。

 

飛行機が何とか飛び立つと、数人が通路に荷物を投げ出す。そうか、足の下は一時的な対応だったか。トイレに行くにも荷物が邪魔で動けない。機内サービスが来るとまたひっこめる。対応は機敏だった。食欲もないほど圧倒された。横の女性は寝ていたのだが、起き上がって機内食の蕎麦だけもらっている。中国人も慣れたものだ。私も真似してしまう。

 

 

何とかほぼ定刻に北京空港に到着。入国して荷物を受け取り、トランスファーカウンターを通る。だが国内線の荷物検査は長蛇の列。どうして国際線からのトランスファー組を別の通路にしてくれないのと思ってみても仕方がない。結構消耗する。北京空港は人が多過ぎる。

 

北京昆明間は順調だったが、それでも到着は夜中の1時。昆明空港はきれいになっていたが、広くなりすぎて、いくら歩いても到着ロビーに着かない。驚く。南国雲南省に来たつもりだったが、なんと東京を出る時に着ていたダウンジャケットがそのまま必要だった。寒いのだ。

 

この時間は空港バスもないので、タクシーに乗る。以前なら白タクしかいなかったのに、今や夜中でも、ちゃんとメータータクシーが走っている。素晴らしい。ところで行先は?S氏は到着地のホテルを決めない主義だ。それが例えば夜中到着であってもだ。どこへ行くんだ。

 

取り敢えず鉄道駅まで、と告げる。夜中2時前、駅に着いたが、何と駅は閉まっていて入れない。夜行便すら終わっている。どうするんだ、この寒い中。『宿でも探すか』となったが、駅前ホテルの2軒に断られる。パスポートでは泊まれないというのだ。満員だと言ったところもある。そしてついに立派そうなホテルで、3人部屋、320元の広い部屋を確保して入ったのは、3時前。何はともあれ、ベッドに潜り込んだ。それにしても夜中は本当に寒かった。暖房もなく、何と窓が開いているのに気が付かなかった。

 

1216日(水)
2. 瑞麗へ
瑞麗行きのバスに乗るも

8時、起きてたまげた。何と雪がパラパラと降っている。えー、12月とは言え南だろう、と言っても始まらない。ホテルの朝食も何となく冷えている。すでに心が萎えている。こんな日はどうするんだろうか。それでも外に出た。そしてどうやったら瑞麗に行けるのかの調査が始まった。普通はそれを調べて上で来ると思うのだが、この旅にはそんなものはない。全てが現地対応だ。

 

駅前を歩いていると、バスターミナルのようなものがあった。チケット売り場があるのかと覗き込むと、カメラマンのNさんが『ここから瑞麗まで直行バスがあるようだ』と言い、一人の切符売りと話し始める。9時には出るから、乗るならすぐ来い、と言われ、ホテルに戻って荷物をまとめ、慌てて取って返した。

 

そこは商店の前だった。男達がたき火をしている。それほどに寒い。そこで待っていると、ミニバスがやってきて、乗客が乗り込む。ぎゅうぎゅう詰めだ。中国人のおばさんは『これはバスターミナルへ行くのか』と叫び、納得できずに降りて行った。そう、今や中国人でも騙される危険があり、誰を信じてよいか分らない。だが我々にとってはこんな旅が欲しいので、そのまま揺られていく。

万里茶路を行く~北京から武漢まで(9)漢口のロシア人茶工場

そして更に行くと、ちょっとおしゃれな建物が見えた。中を覗くと普通に人が住んでいる。ここがあの順豊茶廠を作ったリビノフの屋敷跡だというのだ。建造年は1902年、リビノフが巨万の富を築いた晩年に当たるのだろうか。説明によれば、1917年のロシア革命までここに住み、その後一家はアメリカに亡命したらしい。リビノフの孫が1990年代に武漢を訪れ、昔の住まいを探したのだという。この建物も知らなければ通り過ぎてしまうもの。

 

この辺は租界が入り組んでいるのか、その横にはフランス人の屋敷跡もあった。そしてY字路に建っている建物が残っていた。ここが巴公房子と呼ばれたバノフハウスであった。バノフはロシア皇帝の親戚とも言われ、ロシア領事館の領事をしていたこともあるという有力者。その建物は独特だが、中の傷みは激しかった。

 

 

ついにロシア人が建てた茶工場、順豊茶廠の跡にまで辿り着いた。改修中で外からではプレートすら見えない。ほぼ間違いなく地元の人、専門に研究している人しか分らない場所だ。昔は大工場だったが、現在はその後方部のごく一部が残っているのみ。ここで茶を作り、そのまま前の道を渡って港へ運び込んでいたらしい。羊楼洞だけでなく、漢口にも茶工場を作ったリビノフ、どんな人物だったのだろうか。

 

ロシア租界には往時5つの茶工場があったというが、新泰茶廠の建物もあった。だがよく見てみると比較的新しい。1920年代に建て直されたもので、新泰大楼と書かれていたが、茶工場の跡ではなく、オフィスにしか見えない。それを話すと劉先生が『新泰の茶工場もあるよ』というではないか。その横の建物、一部の壁が非常に古い。そして道の反対側から建物に入ると、そこは地下道のように暗い。茶葉が運ばれた通路だった。

 

その奥にも小部屋のようなところが見える。その横から光が漏れていた。何と建物の中央部に出ると急に眩しい。現代的なショップ、レストランがそこに並んでいた。この建物は若者により、観光資源として活用されていたのだ。その一角に新泰についての説明がされており、古いブロックが置かれていた。『今や中国ではこういう形でしか、歴史的建造物を残す手段はないんだ』と劉先生は残念そうに話す。よく中国人が『日本の素晴らしいところは歴史的な建物も、産物をきちんと残しているところだ』というが、確かにそういう面はあるかもしれない。

 

東方教会の建物もあった。ロシア租界だから当たり前だが、今は中露の文化交流館として使われている。この辺にも武漢とロシアの交流が意外とあることを窺わせる。それほど広いとは思われなかったロシア租界、こうやって案内してもらうと、実に様々な歴史が見えてくる。やはり専門家の説明は有り難い。

 

今回のこの散歩には劉先生、万さん、Mさんだけでなく、数人の地元人が一緒だった。有名なカメラマン、物理学者、歴史好きなど、劉先生のお仲間だ。私のために皆さん雨の中出てきてくれたのかと思ったが、実は万さんがこれから『中国長征の旅』に出発するので、その壮行会を兼ねていた。1か月、中国共産党が行った長征、江西省から山西省までを車で訪ね歩くらしい。最近はこのようなテーマのある旅をする中国人が増えてはいるが、ここまで徹底するのは珍しい。万里茶路以上の大変さだろう。

 

626日(日)
9. 上海
上海へ

 

翌日は武漢を離れる。飛行機で上海へ出ようと考えたが、上海のS先輩より『出来れば高速鉄道で来い』と指示がある。飛行機はいつ飛ぶか分らないが、高鉄は時間通りだという。それほど大気汚染はひどい。30年前の留学中調べた時、武漢上海の列車は50時間かかっていた。だが現在は僅か6時間で行ける。漢口駅から乗り込むと、後は寝ている間に上海だ。まさに夢のよう。途中、南京あたりから、更に早い列車に抜かれているから、一番早ければ5時間で行けそうだった。

 

上海でどこに泊まるか。色々とアドバイスをもらい、検索もしたが、結局懐かしい静安賓館にしてみた。ここは30年前の留学時、よく来た場所だった。実はここにはパン屋があり、当時は貴重だった食パンが手に入ったからだ。パンを見つけると一斤ではなく、ワンケース買い込み、寮で知り合いに配ったものだ。お金があっても物のない時代、今とどちらがよいのだろうか。安い部屋を予約したら、味もそっけもない別館に案内された。

 

その後、お知り合いのOさんと会って、なぜかケンタッキーへ。何だかおしゃれな場所だったが、Wi-Fiがあるのに、地下で繋がらず。淮海中路付近は相変わらず、租界的な建物が散見されたが、漢口に比べるとやけにきれいに見えた。更に歩いて夕飯の場所へ。S先輩をはじめ、上海在住者が集まってくれ、楽しく過ごした。そして上海料理はどんどん深化していることもよく分かった。日曜日の夜の上海は賑わっていた。景気が悪いという話はどこからも聞かれなかった。

 

翌日の午後、浦東空港から東京へ行った。時間はかかるが、浦西から空港まで地下鉄に乗れば、7元で行ける。景気は良くても安いものは安い。次回はもうちょっとゆっくり上海の街も歩いて見よう。

万里茶路を行く~北京から武漢まで(8)宜紅を見に行ったが

7. 宜都
宜紅茶業

 

バスターミナルには迎えが来てくれたので、スムーズに目的地に行けた。まずは予約しておいてくれたホテルに入る。これでもう今日もホテルの心配をしなくてよい。今後も相手には大変申し訳ないが、出来るだけ現地の人にホテルを手配してもらうようにしようと思う。それが現時点では一番安全だと分かる。またそれをお願いできる関係があった方が、茶旅自体もよい方向に行くと信じている。

 

今回訪ねたのは宜紅茶業という、この地域の元国営工場であり、今世紀に入り民営化された紅茶工場。副社長の章さんに会いに行く。女性ながら長年茶作りをしてきたベテランだ。元々は殆どが輸出用だったが、最近紅茶ブームが来ているので、宜紅のブランド力を強めて、国内販売に力を入れて行きたいという。宜紅はきれいな茶葉だったが、少し渋みが感じられる。ブレンドに適していたのかもしれない。

 

 

因みに国営工場時代、章さんは副工場長だったという。今の社長が工場長。そのままそっくり引き継いだ感じだ。1990年代には松下先生が2度ここへ来たよ、と言われてびっくり。先生の持論の一つである『茶は武陵山系から』というのはこの辺のことだったのか。確かに少数民族の茶作りもあるようだ。ヤオ族はいるのだろうか。このあたりは土家族が多いらしいが。

 

現在のオフィスのある場所は昔製茶工場だった。横には長江が流れ、屋上から先の方を見ると、もう一つの河と交差していた。100年以上前なら、この川の合流地点は製茶にとって絶好の場所だったであろう。やはり輸送という観点は重要だ。現在工場は新しい場所に移されているという。午後は茶畑を見に行きたいとお願いした。

 

ただ主要産地はあまりにも山の中で遠いので、近くにある試験場を見に行った。非常にきれいな、管理された茶畑が広がっていた。今は製茶の時期ではないが、芽が吹き始めている。夏茶が近いのかもしれない。本当は五峰山にある茶畑を見るべきだったのだが、天気も悪く、滞在時間が短すぎたのは反省だ。これからは最低2泊する予定で行かないと、見るべきものは見られないと悟る。

 

夜は章副社長に誘われて、食事会に参加した。社長も来ており、更に突っ込んだ話を聞こうとしたが、恩施から来たという提携業者?と事業に関して激しい議論が展開されており、全く話に入る余地がなかった。ただご飯を食べただけに終わる。レストランは泊まっているホテル内だったので、送ってもらう必要もなく、記念写真だけ撮って、お先に失礼する。雨音がしたが、疲れていたので、すぐに寝てしまった。

 

625日(土)

 

翌朝も雨だった。何だか気持ちも暗くなってしまう。昨晩の業者間の話、方言が強くてよくは聞き取れなかったが、雰囲気としては『どうやってもっと売っていくのか』ということではなかったかと思う。茶業界は厳しい時代を迎えている。宜紅の生産範囲には、相当離れた恩施で作られた物まで入ることを知る。宜都から恩施まで、同じ地域とは思えないが、次回は恩施にも行って、実感してみたい。

 

工場を案内してくれるというので、スタッフに連れられて、街から結構離れた場所を訪問した。ただ雨で工場は全く稼働しておらず、写真撮影も禁止ということで、お茶を飲んだだけで何も見ずに立ち去った。ちょっと不完全燃焼のまま、宜都を立ち去る。工場は宜都と宜昌の間にあるというので、車で宜昌東駅まで送ってもらった。雨なので助かった。切符は買ってあったので、列車にすぐに乗れた。2時間で漢口に戻り、また同じホテルに入る。

 

8. 武漢3
漢口のロシア租界を歩く

 

一度昼食を食べて外へ出たが、すぐに戻る。少し待つと劉先生と万さんがわざわざ来てくれた。今日の午後は漢口の万里茶路関連の場所を案内してくれるという。これは得難い機会なので、お言葉に甘えた。外は残念ながら小雨。車で漢口の川沿いまで来て下りる。Mさんも暇だというので合流した。100年以上前に埠頭があった場所が近いというので見学する。『東方茶港』と書かれた石碑があるが、ここにさえ自分で来ることはできなかったかもしれない。公園になっており、なぜか蒸気機関車が展示されている。

 

埠頭自体は今も使っており、観光船が発着しているようだが、今日は雨で乗客はいない。それほど広い場所でもなく、写真で見る限り、往時はここに茶葉が運び込まれ、荷物が積み込まれていたが、今はその面影な全くない。その繁栄を語られても、正直ピンとは来ない。ここはロシア租界から近かったらしく、製茶された茶葉がそのまま運び込まれたとの話も聞いた。やはり現場に来ないと実感はわかない。

 

それから川沿いの通りを歩く。フランス租界のインドスエズ銀行ビルが何とも美しい。近くにはアメリカ領事館跡も見える。道を少し入るとロシア領事館跡があったが、何と取り壊しが始まっていた。我々が中を見ようとすると、守衛さんに止められた。歴史的建造物の表示があるにもかかわらず、壊してしまうのか。それが今の中国だろう。ロシア政府は何も言わないのだろうか。金の力が優先するのか。