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広東・海南大茶旅2017(6)海南から広州へ

8月28日(月)
海南を去る

翌朝は早めに起きて、周囲を散歩してみた。昨晩は暗くて分からなかったが、実は相当大掛かりな開発がなされていた。名前を茶渓谷というらしい。泊まっていたホテル部分の他、別館あり、多数のコテージがあり、プールなどの施設も整っていた。更に歩くと分譲用の家も建てられている。一体どれだけの開発をしたのだろうか。今日は天気が悪いが、もしよければ下が一望できる空間もある。

 

朝ご飯に行くと結構泊まっている人がいて驚く。粥などをさらっと食べて宿をチェックアウトした。もうほとんど残っていない茶畑をチラッと見た。今日は一気に海口まで帰り、空港から飛行機で広州に戻ることになっていた。雨の中、車は山を下り、来た時とは違う道を通っていく。昨晩の宿は三亜の方にかなり近いことが分かる。三亜は昔、息子と二人で遊びに行った思い出がある。

 

途中車は海沿いを走っていた。ガソリンを入れた以外はほぼ休憩なしで3時間以上走った。もう少しで海口というところまで戻ると、道を外れていく。最後の訪問地、南海茶廠に向かっていた。その敷地に入っていくと、茶工場というよりリゾート地のような景観だった。建物も博物館風に整えられており、先の方には宿泊施設さえ見える。

 

陳さんたちはもう一か所にある茶工場に用事があると言って出て行ってしまい、私はそこの人と二人で茶を飲んでいた。彼の話では、ここは元茶工場だが、今はリゾート施設となっているという。海口からも近いため、週末などは人が来て泊まっていくらしい。確かに環境は悪くない。90年代までは大量に紅茶を生産しており、日本企業との取引もあったという。

 

何と陳さんたちはここで作られた黒茶餅を持って帰って来た。既に10年以上前に作られたとのことで、飲んでみるとスッキリしており、黴臭さもなく、美味しかった。紅茶の輸出が落ちこんで以降、様々な取り込み、生き残り策が検討されたことが窺われる。雨が止んだので敷地内を散歩すると、池もあり、畑もあり、何となくいい雰囲気だ。

 

昼ごはんもここで食べるのかと思っていたが、別の場所へ移動。ここでしか食べられない鍋をご馳走になる。隣のテーブルでは昼から酒が入って大宴会だ。そこから車で1時間半ほど行くと海口の空港に着いた。今回は陳さんに大いに世話になってしまった。いつか恩返しをしなければならない。

 

広州で
空港はそれほど大きくはないが、何となくゆったりしていた。フライトも順調で遅れることなく、広州に戻って来た。空港からはいつもは地下鉄に乗るだが、今回はIさんが言っていた空港バスを使ってみることにした。バス乗り場が思っていたより遠くて難儀する。切符を買うのも初めてで分かりにくい。

 

何とか乗り込んだものの、夕方のラッシュ時とぶつかり、途中から何時着くとも知れない感じとなる。おまけに私は終点まで行くのだが、途中停車まであり、時間は読めない。海珠広場に到着したのは1時間半後ぐらいだった。それもバスターミナルもなく、その辺ぽんと降ろされてしまった。

 

既に暗くなっていたが、ネオンがまぶしい。この広場自体はかなり明るい空間なのだ。地下鉄の駅があったが、腹が減ったので、その辺の店に入り、夕飯を済ませてから乗る。安いご飯もマズくはないのだが、何となく塩気が強い。海南島で自然の美味しいものを食べ過ぎたのか過敏になっている。

 

地下鉄で勝利賓館に戻る。海南島でもそうだったがVPN環境は極めて不安定である。次回中国に来る時は別の方法を考えざるを得ない。外国人にとってはどんどん不便になっていく中国の現実。一方中国人は微信の活用などでどんどん便利な生活を送れているというのに。ちょっとむくれる。

 

8月29日(火)
広州を去る

翌朝は快晴だった。何となく雨模様が続いていたので、気持ちよい朝だった。今日は東京へ行くだけの予定だったので、ダラダラと部屋で過す。その後宿をチェックアウトして、また地下鉄に乗り、昨日のリベンジとばかり、また空港バスに乗りに行く。ところが切符売り場に着いた時、ちょうどバスが出た後だった。

 

一応シートはあるので座ることは出来るのだが、トイレがないので困る。係員に聞くと、何と『マクドナルドでしてきてね』というではないか。良いか悪いかわからないが、尿意には逆らえず、広場の向こう側のマックへ行く。しかしマックは2階にあり、重い荷物を持ち上げで、こそこそとトイレを借りる。何しろいつバスが来るかわからないのだから、ゆっくりコーヒーを飲むこともできない。

 

セブンイレブンの前で待て、と言われたが、案の定、指定時間になってもバスは来ない。こういう時、待つ場所を間違えたかとか、時間を間違えたかとか、心配性である。もう一人どう見てもバスを待つ女性がいたので救われた。10分遅れでバスが来て、50分後には空港まで辿り着く。昨晩よりはかなり早い。

 

今回のチケットは香港から入って広州から出るという往復チケット。これでもほとんど料金が変わらないようなので、本当に助かる。ANAの機内ではハーゲンダッツのアイスまで出てくる。偶に乗る日系エアラインはいいものだ。快適な空の旅で東京に着いた。

 

広東・海南大茶旅2017(5)新旧海南茶業を見る

8月27日(日)
茶廠2日目

翌朝は早めに起きたが、出発時間が分からず、部屋でボーっとしていた。午前7時半にホテルをチェックアウト、少し待っていると、茶園のオーナーという人が急いでやって来た。聞けば昨晩深夜に海口から戻り、あまり寝ていないらしい。それでも我々の相手をしに来てくれるのだから熱心な人だ。

 

まずは朝ごはんを、ということで、麺を食べに行く。やかんに番茶のようなものが入っていて意外と美味しい。それから車で20分ぐらい行くと、五里路茶業の有機茶園に到着した。ここは平たい場所に茶畑が広がる。10年前は荒れ地だったらしい。向こうの方では朝日を浴びながら、大勢の女性が編み笠を被り、茶摘みが始まっていた。

 

これからの茶業を考えているオーナー。有機は一つのキーワードであり、それを武器に売り込みを図っていく。近々ここにも茶工場を建てるという。大きな木の下で、茶を淹れてもらった。昨日と違って今朝は天気が素晴らしく、雰囲気も大いに作用していると思うが、ここで飲む緑茶は美味しかった。きっと水もよいに違いない。

 

そこから車で1時間ぐらい走った。ちょうど峠に差し掛かると、やはり車の調子が悪くなる。取り敢えず停まって休みながら、解決策を探る。私は景色がよいのでその辺を見て回ると、大きなダムがあったりする。地元民も峠の茶屋、と言った感じで、お茶を飲んで休んでいたりする。そこへ小型バスが来たので、ここがバス停なのだと分かる。

 

何とか車を動かして、次の訪問地へ向かう。そこはかなりの山間、小さな場所だった。女性オーナーは、非常に積極的な人で、2000年頃全くの未開の地だったここを開拓して茶園を開いたことを話してくれた。当時は道もなく、小舟で川づたいにやってきたというからすごい。

 

五指山椰仙という場所らしい。茶畑を案内してもらうと、樹齢100年を超える茶樹が植えられている。小さな丘のようなところに茶畑が広がる。そこでも少数民族が労働者として働いていた。ちょうど昼時で作業は終了したが、数人が何やら茶樹の下の方を掘っている。聞いてみると、そこに生えている野菜を取り、今晩のおかずにするというのだ。因みに『この野菜は何という名前か?』と聞いてみると『野菜さ』というではないか。まさに野の菜であった。

 

この少数民族、黎族がその昔から茶葉を利用して茶を飲んでいた、という話を何度か聞いていた。ただ今回来てみても、その当時どんな茶を、どのように作り、どのように飲んでいたかは、分からなかった。大変興味深い分野なのだが、漢族中心の歴史の中では少数民族の歴史は完全に埋もれてしまうようだ。

 

 

お昼ごはんにまた美味しい鶏を頂いた。鶏肉好きの私が、お世辞抜きで美味しいと思う地鶏。さすが海南島、レベルが高い。レストラン横の敷地では鶏が放し飼いで飼われており、元気に走り回っている。不謹慎ながら、このような地鶏は旨いに決まっている。肉の締まり方が違う。現地の野菜もうまし。

 

それから五指山の街に行く。そこに陳さんの知り合いの茶荘があったので、寄ってみた。午後3時前は、皆昼寝の時期で、茶荘の電気も消えており、慌てて起きだしてきた人もいた。地元の紅茶や緑茶が出てくる。味にすごく特徴があるという感じではない。天気が悪くなり、雨の気配があった。

 

そんな中をもう一度山の中へ向かう。五指山茶廠、そこも昨日行った2つの工場同様、開拓時代に作られた古い工場だった。後ろの方へ行くと、歴史資産として残し欲しいような建物が残っている。また一応現役ではあるが、将来は保存され、博物館になるのではないだろうか。

 

今日は日曜日だが、すぐ近くに宿舎があり、幹部がやってきてくれた。この工場の上部機関の人も来ており、その運営方針が話しの端々で出てきていた。今や儲けてなんぼの中国、茶業は既に儲からない業務という位置づけなのだろうか。なかなか難しい。オフィスに庭には大葉黄金桂などという珍しい品種が実験用として植えられているが、何となく寂しげだった。

 

夕飯を食べるというので近くの店に移動したが、そこは何となくワイルドな場所。雨が降っていなければ、恐らくは外で食べたであろう。ここの料理もやはり美味しかったが、他のお客が犬の肉を食べており、こちらにも回って来た。私は特に美味しいとは思わないが、好きな人は好きなようだ。ここでも我々がいるのも構わず、茶業についての議論が行われていた。

 

そして真っ暗な中、どこかの山を車で登っていった。よくわからないが、リゾートホテルのような場所へ来た。ここには茶畑もあると言われたが暗くて見えない。取り敢えず、静けさの中、部屋に入り、そのまま寝てしまうしかなかった。茶業関係者により、特別料金だった。海南島も色々あるんだなとしみじみ。

広東・海南大茶旅2017(4)海南島の茶

2時間ほど話した後、外へ出た。オフィスのあるビルは古く、そのすぐ脇には何やら人が集まっていた。ちょっと気になったので近づいてみると、建物の1階が簡素なレストランの様になっており、そこで大勢の人々がお茶を飲み、軽食を食べていた。陳さんが『これが海南島に昔からある老巴茶だよ』と教えてくれた。

 

老巴茶は、以前は暇なおじさん、お爺さんたちが集まり、お茶を飲んで遊んでいたと聞いていたが、今はかなり一般化し、子供も若者も集っていた。飲んでいるお茶も冷たい茶が多く、紅茶も緑茶もあった。広州の飲茶のような風格はなく、茶も食べ物も簡単ではあるが、今ではほとんどなくなってしまった庶民の茶を感じさせた。出来ればここでお茶を飲みたかったが、陳さんに促されて、離れた。

 

次に向かったのは、海口の茶市場。ここで海南紅茶、緑茶などを飲ませてもらい、その雰囲気を味わった。緑茶が美味しく感じられたのは気のせいか。さすがに外国人が来ることはあまりないようで、お客さんも含めて、興味を持たれ、色々と質問が飛んできた。日本への関心の高まりはこんな所まで来ているようだ。

 

夕食は、海南料理屋へ。何といってもここは鶏肉。肉につけるたれは自分でアレンジするのが海南流。これは初めての経験だ。鶏肉は何とも柔らかく、そして皮のプユプユして、実に美味。他の料理もどんどん口に運びたくなる。店内もかなり混んでおり、海口の有名店であることが分かる。有り難いことだ。

 

帰りに陳さんが車で、海口の夜景を見せてくれた。当たり前だが17年前とは全然違っており、橋のライトアップなどがきれいだった。ただ昔と同様それほど高い建物がないため、広々とした空間があり、安らぎが感じられる。湖南省出身の陳さんも、ここは住みやすいという。移住者も増えている。

 

8月26日(土)
茶産地へ

翌日は朝8時に陳さんが迎えに来てくれ、ホテルをチェックアウト。これから2泊3日の茶旅を始まると告げられた。陳さんも週末を潰して付き合ってくれるのだから、何とも有り難い。車は昨日来た空港方面の高速を走っていたが、いつしか山道へ入っていく。海南島に高速道路はあるが、まだ一部に過ぎない。そしてこの島の真ん中付近はそれほど高くはないものの、山岳地帯なのだと分かる。

 

出発からほぼ2時間、最初の目的地に着いた。国営烏石農場岭頭茶廠、1950年代に建設された茶工場。最盛期には大量に紅茶を生産していたが、今は農場の中の一つの工場という位置づけになっている。往時を知る人々に招き入れられ、お茶を振る舞われた。ここも兵団が開墾した場所。今でも来るのが大変なところだから、当時の苦労は並大抵のものではなかった。

 

生産が軌道に乗り、輸出が順調になると、外貨獲得のため、CTC方式が早くから採用されていった。ちょうど文革の頃ではないだろうか。ただ1990年代にはほぼその役割を終え、生産量は激減している。この数年の紅茶ブームで多少息を吹き返しているという感じだろうか。

 

工場でお昼を頂いた。どこもそうだが、農場自家製の野菜は新鮮。やはり現地で食べるのが一番美味しいのだ。地元民同士も懐かし気に、子供の頃の話を思い出していた。うちはXX師団だよ、などという言葉を聞くと、現実にここに入植し、ここで生まれた人々がいたことを実感する。

 

ここからまた山越えを行い、次の茶工場へ向かった。雨が強くなっている。山の中で突然車の調子がおかしくなっていた。原因は分からないが、ここで動けなくなってはかなり危険だと思うような山中だった。幸い車は動いたので、スピードを落とし、何とか次の目的地の街まで辿り着いた。ホッとする。だがその小さな街の修理工場では原因が特定できず、取り敢えずオイルを足すなど応急処置をした。

 

この街の外れに白沙茶廠があった。その周囲にはかなり広大な茶畑が広がっていた。ちょうど雨が上がり、手で茶葉を摘む人々が見えた。摘み手は少数民族らしい。ここも先ほどの岭頭茶廠と同じ成り立ち、同じような歴史を辿っていたが、最近は緑茶生産に力を入れ、白沙緑茶はかなり有名なブランドになっている。

 

この付近には数万年前に隕石が落下したとかで、その土壌、水質は特別だとの説明もあった。とにかく特色を出し、従業員のやる気を向上させないと生き残れない、と若い主任はつぶやいていた。ちょうど土曜日で工場には誰も出勤しておらず、彼は我々が来るので待っていてくれたわけだ。

 

今夜の宿はこの街の大きなホテルだった。川沿いにあり、夜景もきれいだ。夕飯もそこのレストランで食べた。蒸かし芋やトウモロコシが出てきて、何とも安らかな田舎の食事となった。陳さんたちは車の修理に行ったが、果たして明日の運行は大丈夫だろうか。海南島の茶畑、ワクワクの一日が終わった。

広東・海南大茶旅2017(3)沙面から海口へ

8月24日(木)
沙面散歩

翌朝はかなりゆっくり起き上がる。天気は極めて良く、昨晩の雨は嘘のようだった。ホテルのロビーに行くと、昔使われていたものが展示されていた。建物は新しくなってもやはり老舗ホテルだったのだ。外へ出ると、相変わらず古い建物のオンパレード。まあ、昔の租界をそのまま残しているのだから、いくらでもある訳だ。確か2008年頃にもこの付近に泊まったことがあるが、その頃よりもより商業的になっているのは仕方がないことだろう。

 

腹が減ったが、一人で簡単に食べる店はそれほどなさそうだった。ホテルの横にちょうど麺屋があったので簡単に済ませた。観光地というのは庶民的な食べ物屋がないのが困りものだが、灯台下暗しということか。その後も周囲を散策し続けた。教会などもあり、やはり当時の租界、という雰囲気があった。

 

それから橋を渡って地下鉄の駅へ向かった。今日は昨年紹介されて気に入ってしまった老茶客というお店を訪ねることになっていた。前回はタクシーで連れて行ってもらったので、場所がよく分からず、ちょっと迷ったが、何とか到着した。お店にお客はおらず、柯さんが待っていてくれた。ただ上の階の美容院がが改修工事中で、工事の音が煩かった。

 

それでも彼は丁寧にお茶を淹れてくれた。かなり暑い日だったのだが、そのお茶は濃厚な味わいでありながら、何となく涼やか。さすがに有名な淹れ手が入れるとこうなるのか、と感心した。相変わらず茶器も清代の骨とう品で見事だった。やはり彼と一緒に汕頭辺りを旅してみた気分になる。実はこの辺の茶文化が素晴らしいと何度も聞いていたのだが、一人で行っても今は見られないだろうと思っている。次回は潮州料理を一緒に食べようと言って別れた。

 

地下鉄で戻り、ホリデーインに向かった。ちょうどここにIさん夫妻がチェックインしているはずだった。フロントでIさんは、と聞くと、すぐに部屋に電話を掛けてくれた。ここでは彼女は有名人なのだ。部屋に行ってみるとちょうど今着いたばかりだという。空港から近くまでバスに乗り、そこからタクシーを拾おうとしたが、なかなか捕まらず、ようやく捕まえた運転手は道を知らなかったらしい。今や中国でよくある光景だ。

 

Iさんと外へ出て、いつもの店で夕飯を食べる。この付近、まだ古い店が残っているのだが、徐々に新しい店、チェーン店に押されてきているようだ。数年後には無くなってしまうのではないかと寂しく思う。部屋に戻り、プーアル茶を淹れてもらい、何となく落ち着いて話す。このホテル、以前はVPNなしで簡単にネットが繋がっていたが、今や難しくなっているようだ。私のホテルで繋がらないのも当然だ。これからどうなるのだろうか。

 

8月25日(金)
海南島へ

翌朝は早く起きて、空港へ向かう。地下鉄はラッシュ時で混んではいたが、何とか乗れた。広州空港で国内線を利用するのは実に久しぶりかもしれない。なんだかすごくきれいに見える。時間があったので朝食にケンタッキーの粥セットを食べてみる。30元以上とかなり高い。支払いはアリペイで。

 

飛行機は海南航空。思い出すのは今から8年ぐらい前、息子と二人で海南島に遊びに行き、帰りが北京の大雪に遭遇。フライトが飛ばない中、海南航空はホテルの部屋と夕飯を提供してくれ、プチリゾート気分を味わったことだ。30度の海南島から夜中の3時に零下4度の北京に降り立った時の寒さと言ったらなかった。海南航空の印象は良い。

 

今回のフライトは海口まで1時間ちょっとだから、機内サービスも何もない。あっという間に海口空港に降り立った。何と海口に来るのは2000年以来、17年ぶり2度目。前回は仕事で、天安門事件の際に趙紫陽の懐刀の一人であったと言われる人物に会いに行ったことが何とも懐かしい。

 

空港には陳さんの部下が迎えに来てくれていた。空港から市内までは約60㎞、1時間ほどかかるという。天気は良く、空はすこぶる青い。途中まで建物もあまりなく、昔の中国を思い出させた。だが市内近くには、既に高速鉄道の駅さえ見られ、海南島も他の中国と同じようになっていることを予感させた。

 

ホテルも予約しておいてくれ、すんなりチェックインした。海口のホテルだから安いだろうと思っていたが、そんなことはなかった。ホテルの周囲には食べ物屋などもなく、ちょっと歩いて見る。広州より暑い。これでは長くは歩けないと思い、横道にあった食堂に入る。海南島には海南チキンライスはないが、文昌鶏がある。これはこれで十分に美味い。値段も流石に安い。

 

午後迎えの人が来て、歩いて10分ぐらいのところにある陳さんのオフィスに案内された。陳さんの会社は茶葉の輸出入を行っており、当然ながら茶の輸出の歴史には詳しい。ここで紅茶を頂きながら、ひとしきり海南紅茶の歴史を聞く。流れとしては先日の英徳とほぼ同じだが、その担い手が違っていた。こちらは中国の屯田兵、兵団の開拓者たちだったのだ。

広東・海南大茶旅2017(2)英徳紅茶の歴史を学ぶ

8月23日(水)
英徳へ

翌日午前8時にチェックアウトした。今日は英徳に連れて行ってもらえるので、広州茶文化協会の張さんを待った。車で来るというので、荷物をそこに乗せ、今晩広州に帰った時に、ホテルを移るのにちょうどよいと思っていた。車は広州市内の渋滞を抜け、高速道路に入った。思っていたよりも交通量が少なく順調で、拍子抜けだ。

 

英徳は市であり、その中にまた英徳村があった。英徳市までは約2時間、そこから更に30分ほど走り、目的地に着いた。そこは農村と言った感じだったが、立派な建物があった。広東省農業科学院茶葉研究所だ。広東省の研究機関がこんなところにある、それは英徳が広東省の茶業中心であることを雄弁に物語っていた。

 

中に招き入れられ、色々と説明をしてもらった。1960年前後に作られたこの研究所では、当初から現在流行りの紅茶、英紅9号という品種が開発されていたらしい。ただ当時の紅茶はほぼ輸出用であり、すぐにCTCが採用され、リーフはごく一部だったようだ。そしてこの英徳という地は客家が多く住み、昔から緑茶は作られていたことなども分る。昼ご飯も研究所の食堂で、新鮮な野菜、ここで飼育された豚や鳥を頂く。当然美味しい!乗ってきた車は返してしまい、また帰る時に呼ぶというのが今の中国らしいが、私の大きな荷物は結構邪魔で大変だった。

 

それから研究所のすぐ近くにある茶工場を見学した。1957年に建設されたという紅旗茶廠、何と文革中のスローガンがレンガの壁に残されており、古めかしさを感じさせる。建物内部は天井が高く、当時の製茶機械も多く残されていた。歴史を感じさせる場所で、70年代からこの工場で働いていたという人に話を聞いた。話していると声がこだまする。英徳市の茶業協会の人たちも来てくれ、色々と便宜を図ってくれた。

 

事務所でお茶を頂いていると、目の前に華僑茶場と書かれたペナントが掲げられていた。何と中越戦争で帰国したベトナム華僑がこの農場に配置され、茶作りをしていたというのだ。ただ90年代には中国紅茶の輸出は厳しくなり、生産は減っていく。そしてつい最近、英紅9号というブランドが知られるようになり、英徳紅茶は復活した。因みにこの農場は1950年代には右派、60年代には文革の知青、そして80年代には華僑と、実に様々な人々が働いており、まさに現代中国史の一つの縮図のような場所であった。

 

次に向かったのは小さな村の中にある茶工場だった。老一隊、という如何にも軍隊の名前がついている。生産第一大隊、ということだろうか。紅旗茶廠同様、五七幹部学校、文革中は知識青年の下放の場でもあったという。今は民営化しているようだが、やはりその歴史はすさまじいと言える。

 

ここは何と中国の航空宇宙方面と合作して、英紅9号を30株、宇宙に持っていくという実験を行ったことで知られていた。そしてうち4株が見事に生育しているその現場を見ることができたのは何とも幸運。葉っぱは通常の物より大きくなっており、これは宇宙と地球の環境の差から生まれるもの、なのかもしれない。それにして茶が宇宙に行く時代とは驚きだ。

 

最後に郊外の観光茶園に向かった。山の中にきれいな建物があり、小雨の中、テラスで優雅に茶を飲むことができた。近くには茶工場もあり、紅茶生産の現場を見ることもできる。近くの宿泊施設に泊まり、自然環境の中で過すというコンセプトのリゾートとしての開発が行われている。近場では温泉も出るらしい。

 

その後雨が止み、茶畑へ行くと、茶の葉が元気に伸びてきていた。ここには中国企業の看板が多く見られる。各社がお金を出して自社の宣伝を兼ねて、茶園を保有する形態をとっていた。エコとかCSRとかいう言葉が中国でも聞かれて久しい。自社のイメージアップ、そして実際に収穫・生産された茶葉をお客などに配る、如何にも中国老板が考えそうな手法をうまく取り入れている。

 

帰りはまた高速道路に乗る。広州市内まで来るとさすがにかなりの渋滞、しかも雨。それでも何とか今日の宿、沙面の勝利賓館に辿り着く。ここは前のホテルよりはかなり格が上で、料金も高い。有名なホテルだった。ただ昔の面影はなく、90年代に全面改装されているので、歴史的ホテルと言った雰囲気はあまりない。

 

夕飯はホテルの近くで張さんたちと食べる。沙面もどんどんオシャレになり、きれいなホテルやレストランが出来ている、ライトアップもきれいで、観光客も多い。部屋に戻ったが、何とここでもFBに繋がらずお手上げ。ついにトミーに泣きつくと、彼が別のアプローチを教えてくれ、その夜3日ぶりに下界と連絡がついた。何と面倒なことだろうか。何とも面倒でやり切れないが、フカフカのベッドで寝ることができたのは幸せ。

広東・海南大茶旅2017(1)広州の茶空間へ

《広東・海南大茶旅2017》 2017年8月21-29日

 

紅茶産地の旅を続けているが、そろそろネタも尽きてきた。ちょうど連載は1年で終了と言われたのでホッとしながら、最後の2か所をどこにしようかと迷った。広州に行きたいと思っていたので、広州から近い英徳、更には海南島へ渡ることを考えた。どちらも4月に貴州省へ行った時、出会った人々がいたので、行きやすい、ということもあったのは事実だ。

 

広州は毎年のように来ているが、海南島は2009年以来だろうか。しかも海口となれば、2000年以来かもしれない。いずれにしても随分と変っていることだろう。その変化も楽しみに旅を進めることにした。

 

8月21日(月)
広州の宿

広州東駅は相変わらず混みあっていた。そこから地下鉄に乗り、東山口駅で6号線に乗り継いで、文化公園で下車して、本日の宿に向かう。何となく蒸し暑い中、荷物を引いて道路を歩くのは大変だ。道も狭い。最後には陸橋まであり、難儀した。その陸橋の上を高架道路が走り、その横にへばりつくように、その宿は建っていた。

 

新亜飯店の入り口は何となく薄暗い。フロントまでも薄っぺらい感じ。ここは1926年に労働学院があった場所と書かれているが、当時の共産党は何をしていたのだろうか。予約はしてあったものの、最近ではパスポートを出すと断られるケースもあったので警戒したが、すんなりチェックイン出来た。横では中東系と思われる男が相当訛りのある英語でバスの乗り場を聞いていたが、フロントの女性も非常に上手い英語対応をしており、相当慣れている感じだった。

 

4階まで上がると廊下も広く、80年代のにおいがした。部屋はかなり広く、ベッドが二つ、昔風なので驚いた。クーラーの効きもよく、特に問題はないと思っていたが、ネットは繋がるもののなぜかFBなどへのアクセスが出来なかった。まあ時間が経てば治るかと思い、夕飯を食べに外へ出た。

 

今や中国有数の大都市となっている広州だが、この付近はまだかなり庶民的な店が残っていた。おまけにうちの宿も含め、この付近には中東やアフリカ系のバイヤーが多く宿泊するらしく、インド料理やムスリム料理の店まで並んでいた。ここが雑貨市場に近い、とはそういうことだったのだ。だが結局チェーン店の定食を食べてしまう私。暑かったので、クーラーを求めてしまう!

 

8月22日(火)
茶空間へ

翌朝はゆっくり起きる。天気は良いようだ。地下鉄に乗り、東湖駅で下車。そこから歩いて行くと越秀公園がある。とても爽やかな朝だったので散歩がてら、公園内を歩いて見る。木々が生い茂る中で、太極拳などをしている人々がいた。何とも優雅な雰囲気がある。その先が目的地だったが、場所はよく分からない。

 

ようやく探し当てたそこは喫茶去という茶荘。中には貴州で出会った鄧さんが待っていてくれた。連絡を取ってくれたのは前回もお世話になったKさん。この辺は皆何らかの繋がりを持っている。ここはお店というよりは、茶空間。ゆっくり入れて頂いた茶を味わい、その空間を楽しむ場だった。茶機も豊富に置かれている。鄧さんは広東の出身ではないけれど、お茶のことはよくわかっており、私がお世話になっている広州茶文化協会の副会長も務めている。

 

まずはゆったりとプーアル茶などを頂いていると、そこに人が入って来た。彼も4月に貴州であったコロンビア人で、既に広州に10年以上住み、お茶の勉強をしているという。ただ普段はコロンビア系の貿易会社で働いているというので、平日は来られないかと思っていたが、時間をやりくりしてきてくれた。やはり茶の歴史に非常に関心を持っている。

 

何となく話しているとすぐにお昼になってしまい、鄧さんが近くのレストランに案内してくれた。非常に独特なスープが美味しかった。とにかく広東に来たらスープを飲まないと始まらない。最近中流以上の中国人に多いようだが、彼女もやはり食べる物には色々と気を使っている。

 

午後はKさんがもう一軒連れて行ってくれるというので、出掛けた。完全に団地の中の家、そこが立然茶舎だった。非常にラフなスタイルで先程とは雰囲気が一変する。この多様性がまた素晴らしい。中では山茶、在来種から作った茶を頂く。かなりワイルドだが、味は悪くない。更には貴州省の知り合いが作っているという緑茶も飲ませてもらった。これからは大規模茶業なのか、それとも小規模在来なのか?

 

Kさんと別れて、何とか一人で宿まで地下鉄で帰る。広州もご多分に漏れず、ラッシュの込み具合がどんどんひどくなる。部屋では相変わらずFBやGoogleに接続が出来ずに困ってしまった。明日は宿を変えざるを得ず、宿探しに入る。結構気に入っていたのに残念だ。夕飯も又、定食屋で済ませる。これが一番安上がりだし、何より飯がうまいのがよい。

香港つかの間茶旅2017(3)学生時代に戻った気分で

そのままセントラルへ行き、スターフェリーに乗った。まだ夕方で夕日がまぶしい。何だかんだ言っても、一度は必ず乗るのだ。観光客が大半を占める中、わずか10分にも満たない船旅は波に揺られて、心を揺らす。両岸の風景も時々変わっており、香港の現在を映し出す鏡のようで、その変化が楽しい。

 

今晩はフェリー乗り場のすぐ先のホテルで林さんと会うことになっていた。場所は問題なくわかっていると思い込んでいた私だが、ショッピングモールの中に入り込んでしまい、迷子になってしまう。一度迷うとこれは困る。そのホテルの名が表示されたり消えたり。最後は仕方なく人に聞いてみて、一度道へ出ないとホテルに入れないことがようやく分かった。

 

大汗をかいて遅刻した私を林さんは温かく迎えてくれる。今日は初めて奥さんにも会った。3人で立派な和食の店に座る。そして奥さんに好きなものを頼んでもらい、それを食した。いきなり寿司が出てきたり、うどんが出てきたりする。こういう経験は日本人ではできないので、何とも興味深く、そして美味しく頂いた。お酒を飲まないので食事は早くに終わり、別れた。ご馳走様でした。

 

帰りも又スターフェリーに乗る。今夜も夜景がきれいだ。なんとも贅沢な時間を過ごす。初めてこの光景を見たのは今から30年も前のこと。やはり香港にはこんな夜景が似合う。香港は如何に変化してもやはり香港だ、と思うと同時に、目に見えない大きな変革に晒された香港の将来にちょっと思いを馳せる。

 

8月21日(月)
広州へ

翌朝も早めに起きて、宿をチェックアウトして香港大学へ向かう。昨日のリベンジだ。平日の朝8時の地下鉄はさぞや混んでいるだろうと、荷物を宿に預けて、乗り込んだが、思いのほか混んではいなかった。今や香港島は通勤の主流ではないのかもしれない。やはりあっという間に到着する。

 

8時半には図書館に着いたが、ビジターは9時に受付で登録しないと、入ることは出来ないという。この30分はもどかしい。9時になり、登録にも手間取ったが、無事に館内に入り、時間が無いので、最初からデスクに検索相談に行く。丁寧に検索をしてくれたが、やはり資料はそう多くない。それでもいくつか見つけ出し、備え付けのPCでそれを見て、必要部分はコピーした。決済はオクトパスカード。日本の大学だと、こんなに便利だろうか。

 

用事を済ませると、すぐに宿に取って返し、荷物を引き取り、バス停へ。ホンハムへ行くにはトンネルを越えるバスが一番早い。向こう側へ着くと、今度はMTRに乗り換え、待ち合わせ場所の駅へ急ぐ。初めて降りたその駅でKさんが待っていてくれた。彼と会うのは何年ぶりだろうか。

 

駅近くのショッピングモールに入り、レストランを探す。結構人がいるのでビックリ。何とか席を確保して、料理を頼み、話し始める。実は彼とは31年前、上海留学が一緒で、大学も1年後輩という関係。最近彼が実家からその当時の写真を掘り出してきて、FBに上げたのだが、その中の1枚に私も写っていた。和平飯店の前で4人して写っているのだが、後の二人は誰だろう。一人は大学の先輩で、今は某大学の教授だという。ただもう一人の女性に心当たりがなかったのだが、これもFBの力。やはり後輩だと分かる。そんな昔話をするつもりだった。

 

ところが話が『私は今台湾の埔里に拠点がある』というと、彼が食いついてきた。埔里とはどういう意味か、タイのチョンブリのブリ、マレーシアのジョホールバルのバルと同じ意味では?などと畳みかけられ、更にはタイから中国広西、そして沖縄まで話が飛んでいく。彼は香港で言語学を教えており、まさにそんな研究をしているらしい。私はお茶の歴史を勉強しているのだが、よもやこんなところでお互いの学習がクロスするとは信じられない。

 

二人して夢中で話した。料理のことも覚えてはいない。隣のおばさんがやけに大きな声で話しており、煩いと言ってしまうほど、自分たちの話にワクワクしていた。こんな感覚は最近滅多にない。いや、まるで学生時代のノリなのである。お互いいい歳になったが、こんなふうに盛り上がれるとは、興味のある分野があるというのはよいことだと再確認した。

 

あっという間に3時間近くが経過していた。香港のレストランはランチがそのまま下午茶になるので追い出されないので、気が付かなかった。とても名残惜しかったが、Kさんと再会を約して別れた。そしてまたMTRに乗り、国境へ向かう。何十回も通過した羅湖。以前ほどの人の数ではない。国境を越えると、駅に向かい、切符を買う。ここから広州までは僅かな時間だ。急ぐ旅ではないが、早く着きたい!

香港つかの間茶旅2017(2)郭春秧を追って

銅鑼湾まで戻ってくると、実に様々な国籍、肌の色の人々が行き交っていて面白い。その中で何やら路上で展示が行われていた。よく見てみると、『釣魚台は中国領土』という幟が見える。展示は香港人の活動家が、尖閣諸島に上陸した時に写真のようだ。香港は日本びいき、などと思っていると、実は色んな人がいるので注意が必要だ。

 

夜まで部屋で休み、また出掛けて行く。今度は地下鉄で旺角だ。少し早く着いたので女人街でも見学しようかと歩いて行くと、道の両側に楽器やカラオケを並べて、歌ったり、演奏したりしている人たちがいた。以前はなかったように思うのだが、いつから、何のために始まったのだろうか。憂さ晴らしなのか。

 

今晩は香港研究家のK夫妻と食事することになっていた。そこにYさんとOさんも参加したので、まるで10数年前の香港滞在時を思い出すメンバーとなり、話は当然昔話が多くなる。今の香港、問題が多過ぎて、聞けばいくらでも出てくるだろう。本来なら現在の香港情勢について解説してもらう良い機会なのに、何となく昔の風情を残すレストランで、リーズナブルな値段で美味しいものを一杯食べて、楽しく過ごしてしまう。それでよいのだろうか、きっとよいのだ。

 

8月20日(日)
香港大学へ

今朝は香港大学へ行くことにしていた。今や地下鉄で行けるので、銅鑼湾から30分はかからない。何と便利になったのだろう。香港大学は数年前に大きく拡張されたが、駅はそのちょうど真ん中にあるようで、エレベーターを登っていくと、中間に出た。今日の午前中は、茶の歴史関係の調べ物で図書館に籠るつもりである。そのためにN先生に許可まで取ってもらっていた。時間がもったいないので午前9時の開館の時間に到着する。

 

ところが、何と日曜日は休館だったのである。その昔この大学にお世話になったことがあるが、確かに日曜日にここに来ることはなく、全く想定外の出来事だった。しばしボー然と立ち尽くした後、仕方なく、懐かしいキャンパスを歩いて見る。昔からある建物はやはり昔のままの風情を残しておりよい。

 

そこへ茶縁坊の高さんから『いつ来るんだ?』とメッセ―ジが入って来た。彼女もついにスマホを使いだしたのだ。当初は午後行くと伝えていたのだが、この状況が分かっているかのように『早く来い』と言ってくるのが、何ともおかしく、そして有り難い。すぐさま地下鉄で上環へ戻る。

 

高さんと再会し、お茶を飲み始める。息子もやってきて、いつものようにお茶の話から香港の話まで、しゃべり続ける。するとそこへいつもはいないご主人までがやって来た。彼は平日他の茶荘で、茶師としての仕事をしている。その彼が何と、私が安渓の張さんの家で大好きだった、炊き込みご飯をわざわざ作って持ってきてくれたのだ。彼はあの張さんの弟、昔からあのご飯を食べていたことがよくわかる。それにしても、何よりのご馳走だ。本当にありがたい。

 

春秧街
午後はまた地下鉄に乗り、北角へ向かう。今回の台湾茶調査の目的、それは南洋の4大砂糖王の一人、郭春秧について調べることであり、彼の名前がついている道、春秧街にも行ってみることとした。その昔、1-2度は行った場所である。何しろそこはトラムの終点の一つだから、馴染みがある。

 

その道を相変わらずトラムは走っていた。あまり広くないその道の両側には乾物屋などの商店が並び、更には服などを売る露店がせり出しているから、トラムはそこを抜けていくことになる。歩いている人の中にヒジャブを被っているインドネシア系と思われる女性が多くいた。

 

郭春秧がここで開発を行ったのは1920年代からであり、最終的に住宅を作ったらしい。そして第二次大戦後は福建からの大量の移民がここになだれ込み、一時は『小福建』とも呼ばれるほどだった。更には最近ではインドネシア系出稼ぎ者が住む街としても知られており、郭春秧が福建出身のインドネシア華僑だったことを考えると、とても偶然とは思われない繋がりがある。だが現在それを示すものは道路標示以外何も見当たらない。勿論茶荘などもなく、香港で包種茶が商われていた形跡も発見できない。

 

謎は深まっており、このモヤモヤを何とか解決したい。その思いでバスに乗り、中央図書館を目指した。ここはビクトリアパークの横にあり、私が10数年前に住んでいたところにほど近い。日曜日の今日、やはりインドネシア人が楽しそうに公園を占拠していた。昔よりもその数は増しているだろうか。

 

図書館には以前何度か来たことがあるが、オープンで立派なところである。勿論日曜日の午後、人は多い。そこをかき分けて人名で検索を掛け、参考になりそうなものを探した。だが驚いたことに、春秧街という道の名は香港人なら誰でも知っているのに、肝心の郭春秧に関しては殆ど知られていないことが分かった。

 

何故だろうか。如何にも研究対象になりそうな人物だと思うのだが。資料として出て来たものは、大体どれも同じ内容のコピペであり、また道についての動画だったりするだけ。郭春秧という人物について研究されたものは全くなかった。何だかとても残念な気分になり、図書館を後にした。

香港つかの間茶旅2017(1)香港国際茶展へ

《香港つかの間茶旅2017》

香港には長く住み、愛着もあったが、最近は近寄らなくなっていた。それが昨年あたりから日帰り程度で通い出し、今年3月には2年ぶりに滞在した。やはり香港はいい、と思うところもいくつもあり、また宿泊料金などが下がったことも寄与して、今回香港経由で広東へ向かうことになる。

 

8月19日(土)
香港の宿

朝8時50分羽田発香港行きの便に乗る。もう気分は完全にサラリーマン時代の出張だ。機内食を食べてから寝ているうちに、着いてしまう。ボーっとした状態で空港に降り立つ。実はパスポートを更新してから初めての香港。古いパスポートに貼られていたe-道のステッカーをもらうため、専用デスクへ。何の審査もなく、3分でゲット。これがあれば、陸路で中国へ行く場合も長い行列に並ぶ必要がなく、有り難い。

 

外へ出る。いつもはここでスマホのシムカードを買うのだが、今回は奥さんが買っておいたシムを使ってみる。だが差し込んでも機能しないので、仕方なく中国系メーカーのブースを探して持ち込む。やはり私のスマホ内の日本シム設定が邪魔をしていたらしく、それを削除すると、すぐに使えた。これもまた有り難い。

 

バスで銅鑼湾へ向かう。ここまでランディングから35分。この辺のスピード感は香港が一番であり、それは私がかつて慣れ親しんできたものであり、なんとも好ましく、テンションが上がる。今日の天気は最高であり、橋を渡る時の景色も素晴らしく、気分も上々となる。バスも40分で目的地に到着。

 

前回予約して意外とよかったゲストハウス、今回は違うところを試してみることにした。料金はさほど変わらず、住所もほとんど同じだ。だがその住所に行ってもゲストハウスの表示はない。住民に聞く訳にも行かず、仕方なく前回宿泊した時の受付に行き、聞いてみることにした。

 

すると驚いたことに受付はここだという。結局同じ系列で名前だけ別にしていたのだ。前回は宿泊する部屋は別棟だったが、今回はここの上で荷物の運搬が助かる。だが部屋には机がなく、ちょっと難儀する。同じような部屋を予約しても、形状はみな違うようだ。この民泊のようなゲストハウス、立地もよく、料金も手ごろなので常に混んでいる。

 

茶博へ

実は香港に行くことを決めたものの、特にやることはなかった。すると図ったようにFB上でのお誘いがある。ちょうど香港国際茶展というイベントが行われているというのだ。会場も近いので早々行ってみることにした。地下鉄だと降りてからが遠いので、バスで向かうが、今日が土曜日だということを忘れており、狙っていたバスは来なかった。仕方なく近くまで行き歩く。天気はいいが、その分当然ながら暑い。

 

会場近く、地下鉄駅から続く陸橋に上がってみて驚いた。すごい行列なのだ。香港の茶博がそんなに人気があるとは夢にも思わなかった。暑い中、クーラーもない中、大勢の人が並んでいる。若いカップルや家族連れが多い。土曜日の午後だからだろうか。しかしよくよく見てみると『香港美食展』という表示が目に入る。

 

どうやらこれを同時に開催されているらしい。帰っていく人を見ると戦利品として日本食品などを大量購入している人々がいる。やはりなんと言っても美食の街、香港。食べ物に対する要求、欲求は高く、そのエネルギーが人々を美食展に向かわせている。何とか茶博だけに入る道を探るも全く隙間はなく、延々並んで待つしかない。

 

ようやく屋内に入った頃にはもう疲れ果てていた。それでもここまで来て帰ることは出来ない。美食展を横目に5階まで上がると、そこにはそれほどの人はいなかった。これが茶の置かれている現実だ。会場内もそれほど人はいない。ただ何となく人だかりがあったので寄ってみると、そこは日本ブースだった。和服を見た女性がお茶の点て方を教えていた。香港の人も中国の人も興味津々でお茶を習って、自ら点てていたのは微笑ましい。

 

ここで和服を着た、オスカルさんにも出会った。彼は日本茶好きの外国人として、日本でも知名度が上がっており、外国人が外国人に日本茶の良さを知らせるという仕事で、ここに来ているという。出来れば抹茶や茶道ではなく、煎茶の普及を図って欲しいが、どうだろうか。

 

その横へ行くと、静岡などの産地から茶商が来て日本茶を売りこんでいる。そのうちの一つに聞けば、既に香港そごうに出店し、煎茶を販売しているというから、ちょっと驚いた。基本的に中国系の人は日本の煎茶をあまり好まない傾向にあり、日本に比べてその単価も高い煎茶が売れるとは意外だった。煎茶にチャンスはあるのだろうか。

 

最後に九州のブースで辻利さんを見つけた。彼は現在世界各地に喫茶の店を大展開しており、ここ香港にも最近出店している。茶葉はなかなか売れないといい、ドリンクやパフェなど、消費者の嗜好に合った形で提供することを考えている。中国の抹茶生産の勢いなど、貴重な情報も得ることができた。隣ではハラール認証をとったお茶を売る店も出ている。日本茶に変化の兆しはあるだろうか。

 

中国茶は香港という土地柄か黒茶系の店が多く出店していたが、すでに飽和状態なのか、それほど人を集めておらず、帰り支度する姿もあった。一時は茶葉取引の中心的な役割を持っていた香港も、近年の中国パワーに押され、参加者も伸び悩んでいるとの話もあり、その位置づけはちょっと微妙のようだ。

杭州・安徽・北京茶旅2017(9)不便も相変わらずの北京

そこから東の大望路まで地下鉄で戻るが、約束の時間を過ぎており慌てる。こんな時こそ、シェアバイクが便利とスキャンしたが、なぜかちゃんと読み取れず、益々焦って次の自転車のコードもスキャンしてしまった。すると、Wi-Fi電波が弱かったのか、暗証番号が出ないので、仕方なく歩いて行く。途中で急に暗証番号が出てきて混乱が起き、結局この会社の自転車を使うことが出来なくなってしまった。

 

走って約束のリッツカールトンに行ったつもりが、隣のホテルにロビーに行ってしまい、いくら探しても待ち合わせ人Mさんはいない。ようやく間違いに気づき、大幅遅刻で会うことができた。彼女とはバンコックで会って以来だから久しぶりだ。ホテルで持ち寄ったお茶を飲みながら、色々な話をした。

 

彼女と別れ、シェアバイクのことに気を取られていると、カメラがないことに気が付き、急いでホテルに戻ったが、既に彼女はおらず、カメラもない。何とも困っていると、ロビーで遭遇し、無事カメラが戻って来た。彼女は微信で何度も電話をくれたが、私の方はオフラインとしていて、気づかなかった。最後まで迷惑をかけてしまった。そして自分が如何にITに弱いかを痛感した。

 

次の約束にも遅れてしまった。本当は大望路から国貿まで、シェアバイクがあれば一番活躍できたのだが、仕方なく地下鉄に乗る。夕方のラッシュ時の混雑は東京よりよほどすごい。僅か1駅でも苦しかった。そこから地上に上がり、指定されたレストランまでがまたやけに遠く感じられる。

 

今晩は、旧知のT氏、そして後輩のKさん、初対面のTさんと4人で会った。場所はオフィスビルの中にあるきれいなレストラン。だが福建料理だという。これは北京では珍しい。食通のKさんのオーダーで、何となく目新しい料理がいくつも運ばれてきた。福州や厦門には時々行くが、こんな料理だったかな、と思うものもあるし、懐かしいと思えるものもある。

 

実は今回の北京滞在は、T氏の家にご厄介になろうかと考えていたのだが、原稿の締め切りを勘違いしており、夜は部屋に籠って仕上げていた経緯がある。取り敢えずT氏とはここで会えてよかった。楽しい時間は過ぎていき、帰りも又シェアバイクに乗れずに歩いて宿へ戻る。自転車の便利性に完全に取りつかれてしまったようだ。

 

6月29日(木)
東京へ

今朝はかなりゆっくりと起き上がった。これまで早起きしたり、長時間移動したりで、かなり疲れていたようだ。自転車に久しぶりに乗ったことも影響したかもしれない。どうしてもしなければならない用事もなく、部屋で完全休養した。12時に宿をチェックアウトする。昨晩部屋で新しいシェアバイク会社の登録をした。青い会社だが、登録はスムーズだったが、北京を去るにあたり、保証金を返金しようとしたが、これは簡単には出来なかった。ちょっと不安が過る。

 

空港へ行く前に、昼ご飯を食べる。宿の向かいにある茶餐庁、ここも10年前からあるので何度か来たことがある。香港の茶餐庁はB級グルメだが、ここ北京では結構立派なレストランである。だが北京の人々の所得も上がり、今では普通のレストランという扱いだった。席は満席で、付近のOLや友人同士という感じの客が多かった。そこで鶏や鴨肉の定食を食べる。55元。やはりスマホで決済した。

 

宿に預けた荷物を取り出し、地下鉄駅に向かう。駅では相変わらず荷物検査が行われ、下りのエスカレーターもなく、大きな荷物を持つ者としては面倒この上ない。2号線に乗り、東直門駅まで行き、そこから空港線に乗り換える。これもまた結構な労力だ。おまけに空港線なのに荷物置き場もないままだ。北京オリンピックの時に急ごしらえで作って以来、特に改善もないのは、これだけ発展した街としては残念でならない。

 

空港に着くと、東京行きのフライトは1時間半も遅れていたが、折角メールアドレスを登録しても、Gmailが使えないから、見ることもできない。まあエアチャイナが送って来た変更のお知らせも、私は空港に着いた後だから、ほとんど意味はない。サービスと言う概念は相変わらずないのである。

 

結局夕日が沈むころ、2時間遅れで離陸した。だが羽田空港に何時に着くのか、アナウンスもなく、終電が少し気になる。最終的には午後11時過ぎに到着し、その後がスムーズで何とか電車には乗れた。今回の旅は高鉄やシェアバイク、スマホ決済など、中国の便利面も味わったが、相変わらずダメな部分も特に最後に味わった。

 

中国には時差がある、とは常に言うことだが、これは大都市と中小都市の間に差だけではなく、都市の中にもかなりの格差があることを意味している。これが中国を発展しているのか、相変わらずなのかを分かりにくくしているのだろう。中国に行くのが少しずつ億劫になっていく自分がいるのを今回発見して、驚いている。