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香港つかの間茶旅2017(3)学生時代に戻った気分で

そのままセントラルへ行き、スターフェリーに乗った。まだ夕方で夕日がまぶしい。何だかんだ言っても、一度は必ず乗るのだ。観光客が大半を占める中、わずか10分にも満たない船旅は波に揺られて、心を揺らす。両岸の風景も時々変わっており、香港の現在を映し出す鏡のようで、その変化が楽しい。

 

今晩はフェリー乗り場のすぐ先のホテルで林さんと会うことになっていた。場所は問題なくわかっていると思い込んでいた私だが、ショッピングモールの中に入り込んでしまい、迷子になってしまう。一度迷うとこれは困る。そのホテルの名が表示されたり消えたり。最後は仕方なく人に聞いてみて、一度道へ出ないとホテルに入れないことがようやく分かった。

 

大汗をかいて遅刻した私を林さんは温かく迎えてくれる。今日は初めて奥さんにも会った。3人で立派な和食の店に座る。そして奥さんに好きなものを頼んでもらい、それを食した。いきなり寿司が出てきたり、うどんが出てきたりする。こういう経験は日本人ではできないので、何とも興味深く、そして美味しく頂いた。お酒を飲まないので食事は早くに終わり、別れた。ご馳走様でした。

 

帰りも又スターフェリーに乗る。今夜も夜景がきれいだ。なんとも贅沢な時間を過ごす。初めてこの光景を見たのは今から30年も前のこと。やはり香港にはこんな夜景が似合う。香港は如何に変化してもやはり香港だ、と思うと同時に、目に見えない大きな変革に晒された香港の将来にちょっと思いを馳せる。

 

8月21日(月)
広州へ

翌朝も早めに起きて、宿をチェックアウトして香港大学へ向かう。昨日のリベンジだ。平日の朝8時の地下鉄はさぞや混んでいるだろうと、荷物を宿に預けて、乗り込んだが、思いのほか混んではいなかった。今や香港島は通勤の主流ではないのかもしれない。やはりあっという間に到着する。

 

8時半には図書館に着いたが、ビジターは9時に受付で登録しないと、入ることは出来ないという。この30分はもどかしい。9時になり、登録にも手間取ったが、無事に館内に入り、時間が無いので、最初からデスクに検索相談に行く。丁寧に検索をしてくれたが、やはり資料はそう多くない。それでもいくつか見つけ出し、備え付けのPCでそれを見て、必要部分はコピーした。決済はオクトパスカード。日本の大学だと、こんなに便利だろうか。

 

用事を済ませると、すぐに宿に取って返し、荷物を引き取り、バス停へ。ホンハムへ行くにはトンネルを越えるバスが一番早い。向こう側へ着くと、今度はMTRに乗り換え、待ち合わせ場所の駅へ急ぐ。初めて降りたその駅でKさんが待っていてくれた。彼と会うのは何年ぶりだろうか。

 

駅近くのショッピングモールに入り、レストランを探す。結構人がいるのでビックリ。何とか席を確保して、料理を頼み、話し始める。実は彼とは31年前、上海留学が一緒で、大学も1年後輩という関係。最近彼が実家からその当時の写真を掘り出してきて、FBに上げたのだが、その中の1枚に私も写っていた。和平飯店の前で4人して写っているのだが、後の二人は誰だろう。一人は大学の先輩で、今は某大学の教授だという。ただもう一人の女性に心当たりがなかったのだが、これもFBの力。やはり後輩だと分かる。そんな昔話をするつもりだった。

 

ところが話が『私は今台湾の埔里に拠点がある』というと、彼が食いついてきた。埔里とはどういう意味か、タイのチョンブリのブリ、マレーシアのジョホールバルのバルと同じ意味では?などと畳みかけられ、更にはタイから中国広西、そして沖縄まで話が飛んでいく。彼は香港で言語学を教えており、まさにそんな研究をしているらしい。私はお茶の歴史を勉強しているのだが、よもやこんなところでお互いの学習がクロスするとは信じられない。

 

二人して夢中で話した。料理のことも覚えてはいない。隣のおばさんがやけに大きな声で話しており、煩いと言ってしまうほど、自分たちの話にワクワクしていた。こんな感覚は最近滅多にない。いや、まるで学生時代のノリなのである。お互いいい歳になったが、こんなふうに盛り上がれるとは、興味のある分野があるというのはよいことだと再確認した。

 

あっという間に3時間近くが経過していた。香港のレストランはランチがそのまま下午茶になるので追い出されないので、気が付かなかった。とても名残惜しかったが、Kさんと再会を約して別れた。そしてまたMTRに乗り、国境へ向かう。何十回も通過した羅湖。以前ほどの人の数ではない。国境を越えると、駅に向かい、切符を買う。ここから広州までは僅かな時間だ。急ぐ旅ではないが、早く着きたい!

香港つかの間茶旅2017(2)郭春秧を追って

銅鑼湾まで戻ってくると、実に様々な国籍、肌の色の人々が行き交っていて面白い。その中で何やら路上で展示が行われていた。よく見てみると、『釣魚台は中国領土』という幟が見える。展示は香港人の活動家が、尖閣諸島に上陸した時に写真のようだ。香港は日本びいき、などと思っていると、実は色んな人がいるので注意が必要だ。

 

夜まで部屋で休み、また出掛けて行く。今度は地下鉄で旺角だ。少し早く着いたので女人街でも見学しようかと歩いて行くと、道の両側に楽器やカラオケを並べて、歌ったり、演奏したりしている人たちがいた。以前はなかったように思うのだが、いつから、何のために始まったのだろうか。憂さ晴らしなのか。

 

今晩は香港研究家のK夫妻と食事することになっていた。そこにYさんとOさんも参加したので、まるで10数年前の香港滞在時を思い出すメンバーとなり、話は当然昔話が多くなる。今の香港、問題が多過ぎて、聞けばいくらでも出てくるだろう。本来なら現在の香港情勢について解説してもらう良い機会なのに、何となく昔の風情を残すレストランで、リーズナブルな値段で美味しいものを一杯食べて、楽しく過ごしてしまう。それでよいのだろうか、きっとよいのだ。

 

8月20日(日)
香港大学へ

今朝は香港大学へ行くことにしていた。今や地下鉄で行けるので、銅鑼湾から30分はかからない。何と便利になったのだろう。香港大学は数年前に大きく拡張されたが、駅はそのちょうど真ん中にあるようで、エレベーターを登っていくと、中間に出た。今日の午前中は、茶の歴史関係の調べ物で図書館に籠るつもりである。そのためにN先生に許可まで取ってもらっていた。時間がもったいないので午前9時の開館の時間に到着する。

 

ところが、何と日曜日は休館だったのである。その昔この大学にお世話になったことがあるが、確かに日曜日にここに来ることはなく、全く想定外の出来事だった。しばしボー然と立ち尽くした後、仕方なく、懐かしいキャンパスを歩いて見る。昔からある建物はやはり昔のままの風情を残しておりよい。

 

そこへ茶縁坊の高さんから『いつ来るんだ?』とメッセ―ジが入って来た。彼女もついにスマホを使いだしたのだ。当初は午後行くと伝えていたのだが、この状況が分かっているかのように『早く来い』と言ってくるのが、何ともおかしく、そして有り難い。すぐさま地下鉄で上環へ戻る。

 

高さんと再会し、お茶を飲み始める。息子もやってきて、いつものようにお茶の話から香港の話まで、しゃべり続ける。するとそこへいつもはいないご主人までがやって来た。彼は平日他の茶荘で、茶師としての仕事をしている。その彼が何と、私が安渓の張さんの家で大好きだった、炊き込みご飯をわざわざ作って持ってきてくれたのだ。彼はあの張さんの弟、昔からあのご飯を食べていたことがよくわかる。それにしても、何よりのご馳走だ。本当にありがたい。

 

春秧街
午後はまた地下鉄に乗り、北角へ向かう。今回の台湾茶調査の目的、それは南洋の4大砂糖王の一人、郭春秧について調べることであり、彼の名前がついている道、春秧街にも行ってみることとした。その昔、1-2度は行った場所である。何しろそこはトラムの終点の一つだから、馴染みがある。

 

その道を相変わらずトラムは走っていた。あまり広くないその道の両側には乾物屋などの商店が並び、更には服などを売る露店がせり出しているから、トラムはそこを抜けていくことになる。歩いている人の中にヒジャブを被っているインドネシア系と思われる女性が多くいた。

 

郭春秧がここで開発を行ったのは1920年代からであり、最終的に住宅を作ったらしい。そして第二次大戦後は福建からの大量の移民がここになだれ込み、一時は『小福建』とも呼ばれるほどだった。更には最近ではインドネシア系出稼ぎ者が住む街としても知られており、郭春秧が福建出身のインドネシア華僑だったことを考えると、とても偶然とは思われない繋がりがある。だが現在それを示すものは道路標示以外何も見当たらない。勿論茶荘などもなく、香港で包種茶が商われていた形跡も発見できない。

 

謎は深まっており、このモヤモヤを何とか解決したい。その思いでバスに乗り、中央図書館を目指した。ここはビクトリアパークの横にあり、私が10数年前に住んでいたところにほど近い。日曜日の今日、やはりインドネシア人が楽しそうに公園を占拠していた。昔よりもその数は増しているだろうか。

 

図書館には以前何度か来たことがあるが、オープンで立派なところである。勿論日曜日の午後、人は多い。そこをかき分けて人名で検索を掛け、参考になりそうなものを探した。だが驚いたことに、春秧街という道の名は香港人なら誰でも知っているのに、肝心の郭春秧に関しては殆ど知られていないことが分かった。

 

何故だろうか。如何にも研究対象になりそうな人物だと思うのだが。資料として出て来たものは、大体どれも同じ内容のコピペであり、また道についての動画だったりするだけ。郭春秧という人物について研究されたものは全くなかった。何だかとても残念な気分になり、図書館を後にした。

香港つかの間茶旅2017(1)香港国際茶展へ

《香港つかの間茶旅2017》

香港には長く住み、愛着もあったが、最近は近寄らなくなっていた。それが昨年あたりから日帰り程度で通い出し、今年3月には2年ぶりに滞在した。やはり香港はいい、と思うところもいくつもあり、また宿泊料金などが下がったことも寄与して、今回香港経由で広東へ向かうことになる。

 

8月19日(土)
香港の宿

朝8時50分羽田発香港行きの便に乗る。もう気分は完全にサラリーマン時代の出張だ。機内食を食べてから寝ているうちに、着いてしまう。ボーっとした状態で空港に降り立つ。実はパスポートを更新してから初めての香港。古いパスポートに貼られていたe-道のステッカーをもらうため、専用デスクへ。何の審査もなく、3分でゲット。これがあれば、陸路で中国へ行く場合も長い行列に並ぶ必要がなく、有り難い。

 

外へ出る。いつもはここでスマホのシムカードを買うのだが、今回は奥さんが買っておいたシムを使ってみる。だが差し込んでも機能しないので、仕方なく中国系メーカーのブースを探して持ち込む。やはり私のスマホ内の日本シム設定が邪魔をしていたらしく、それを削除すると、すぐに使えた。これもまた有り難い。

 

バスで銅鑼湾へ向かう。ここまでランディングから35分。この辺のスピード感は香港が一番であり、それは私がかつて慣れ親しんできたものであり、なんとも好ましく、テンションが上がる。今日の天気は最高であり、橋を渡る時の景色も素晴らしく、気分も上々となる。バスも40分で目的地に到着。

 

前回予約して意外とよかったゲストハウス、今回は違うところを試してみることにした。料金はさほど変わらず、住所もほとんど同じだ。だがその住所に行ってもゲストハウスの表示はない。住民に聞く訳にも行かず、仕方なく前回宿泊した時の受付に行き、聞いてみることにした。

 

すると驚いたことに受付はここだという。結局同じ系列で名前だけ別にしていたのだ。前回は宿泊する部屋は別棟だったが、今回はここの上で荷物の運搬が助かる。だが部屋には机がなく、ちょっと難儀する。同じような部屋を予約しても、形状はみな違うようだ。この民泊のようなゲストハウス、立地もよく、料金も手ごろなので常に混んでいる。

 

茶博へ

実は香港に行くことを決めたものの、特にやることはなかった。すると図ったようにFB上でのお誘いがある。ちょうど香港国際茶展というイベントが行われているというのだ。会場も近いので早々行ってみることにした。地下鉄だと降りてからが遠いので、バスで向かうが、今日が土曜日だということを忘れており、狙っていたバスは来なかった。仕方なく近くまで行き歩く。天気はいいが、その分当然ながら暑い。

 

会場近く、地下鉄駅から続く陸橋に上がってみて驚いた。すごい行列なのだ。香港の茶博がそんなに人気があるとは夢にも思わなかった。暑い中、クーラーもない中、大勢の人が並んでいる。若いカップルや家族連れが多い。土曜日の午後だからだろうか。しかしよくよく見てみると『香港美食展』という表示が目に入る。

 

どうやらこれを同時に開催されているらしい。帰っていく人を見ると戦利品として日本食品などを大量購入している人々がいる。やはりなんと言っても美食の街、香港。食べ物に対する要求、欲求は高く、そのエネルギーが人々を美食展に向かわせている。何とか茶博だけに入る道を探るも全く隙間はなく、延々並んで待つしかない。

 

ようやく屋内に入った頃にはもう疲れ果てていた。それでもここまで来て帰ることは出来ない。美食展を横目に5階まで上がると、そこにはそれほどの人はいなかった。これが茶の置かれている現実だ。会場内もそれほど人はいない。ただ何となく人だかりがあったので寄ってみると、そこは日本ブースだった。和服を見た女性がお茶の点て方を教えていた。香港の人も中国の人も興味津々でお茶を習って、自ら点てていたのは微笑ましい。

 

ここで和服を着た、オスカルさんにも出会った。彼は日本茶好きの外国人として、日本でも知名度が上がっており、外国人が外国人に日本茶の良さを知らせるという仕事で、ここに来ているという。出来れば抹茶や茶道ではなく、煎茶の普及を図って欲しいが、どうだろうか。

 

その横へ行くと、静岡などの産地から茶商が来て日本茶を売りこんでいる。そのうちの一つに聞けば、既に香港そごうに出店し、煎茶を販売しているというから、ちょっと驚いた。基本的に中国系の人は日本の煎茶をあまり好まない傾向にあり、日本に比べてその単価も高い煎茶が売れるとは意外だった。煎茶にチャンスはあるのだろうか。

 

最後に九州のブースで辻利さんを見つけた。彼は現在世界各地に喫茶の店を大展開しており、ここ香港にも最近出店している。茶葉はなかなか売れないといい、ドリンクやパフェなど、消費者の嗜好に合った形で提供することを考えている。中国の抹茶生産の勢いなど、貴重な情報も得ることができた。隣ではハラール認証をとったお茶を売る店も出ている。日本茶に変化の兆しはあるだろうか。

 

中国茶は香港という土地柄か黒茶系の店が多く出店していたが、すでに飽和状態なのか、それほど人を集めておらず、帰り支度する姿もあった。一時は茶葉取引の中心的な役割を持っていた香港も、近年の中国パワーに押され、参加者も伸び悩んでいるとの話もあり、その位置づけはちょっと微妙のようだ。

杭州・安徽・北京茶旅2017(9)不便も相変わらずの北京

そこから東の大望路まで地下鉄で戻るが、約束の時間を過ぎており慌てる。こんな時こそ、シェアバイクが便利とスキャンしたが、なぜかちゃんと読み取れず、益々焦って次の自転車のコードもスキャンしてしまった。すると、Wi-Fi電波が弱かったのか、暗証番号が出ないので、仕方なく歩いて行く。途中で急に暗証番号が出てきて混乱が起き、結局この会社の自転車を使うことが出来なくなってしまった。

 

走って約束のリッツカールトンに行ったつもりが、隣のホテルにロビーに行ってしまい、いくら探しても待ち合わせ人Mさんはいない。ようやく間違いに気づき、大幅遅刻で会うことができた。彼女とはバンコックで会って以来だから久しぶりだ。ホテルで持ち寄ったお茶を飲みながら、色々な話をした。

 

彼女と別れ、シェアバイクのことに気を取られていると、カメラがないことに気が付き、急いでホテルに戻ったが、既に彼女はおらず、カメラもない。何とも困っていると、ロビーで遭遇し、無事カメラが戻って来た。彼女は微信で何度も電話をくれたが、私の方はオフラインとしていて、気づかなかった。最後まで迷惑をかけてしまった。そして自分が如何にITに弱いかを痛感した。

 

次の約束にも遅れてしまった。本当は大望路から国貿まで、シェアバイクがあれば一番活躍できたのだが、仕方なく地下鉄に乗る。夕方のラッシュ時の混雑は東京よりよほどすごい。僅か1駅でも苦しかった。そこから地上に上がり、指定されたレストランまでがまたやけに遠く感じられる。

 

今晩は、旧知のT氏、そして後輩のKさん、初対面のTさんと4人で会った。場所はオフィスビルの中にあるきれいなレストラン。だが福建料理だという。これは北京では珍しい。食通のKさんのオーダーで、何となく目新しい料理がいくつも運ばれてきた。福州や厦門には時々行くが、こんな料理だったかな、と思うものもあるし、懐かしいと思えるものもある。

 

実は今回の北京滞在は、T氏の家にご厄介になろうかと考えていたのだが、原稿の締め切りを勘違いしており、夜は部屋に籠って仕上げていた経緯がある。取り敢えずT氏とはここで会えてよかった。楽しい時間は過ぎていき、帰りも又シェアバイクに乗れずに歩いて宿へ戻る。自転車の便利性に完全に取りつかれてしまったようだ。

 

6月29日(木)
東京へ

今朝はかなりゆっくりと起き上がった。これまで早起きしたり、長時間移動したりで、かなり疲れていたようだ。自転車に久しぶりに乗ったことも影響したかもしれない。どうしてもしなければならない用事もなく、部屋で完全休養した。12時に宿をチェックアウトする。昨晩部屋で新しいシェアバイク会社の登録をした。青い会社だが、登録はスムーズだったが、北京を去るにあたり、保証金を返金しようとしたが、これは簡単には出来なかった。ちょっと不安が過る。

 

空港へ行く前に、昼ご飯を食べる。宿の向かいにある茶餐庁、ここも10年前からあるので何度か来たことがある。香港の茶餐庁はB級グルメだが、ここ北京では結構立派なレストランである。だが北京の人々の所得も上がり、今では普通のレストランという扱いだった。席は満席で、付近のOLや友人同士という感じの客が多かった。そこで鶏や鴨肉の定食を食べる。55元。やはりスマホで決済した。

 

宿に預けた荷物を取り出し、地下鉄駅に向かう。駅では相変わらず荷物検査が行われ、下りのエスカレーターもなく、大きな荷物を持つ者としては面倒この上ない。2号線に乗り、東直門駅まで行き、そこから空港線に乗り換える。これもまた結構な労力だ。おまけに空港線なのに荷物置き場もないままだ。北京オリンピックの時に急ごしらえで作って以来、特に改善もないのは、これだけ発展した街としては残念でならない。

 

空港に着くと、東京行きのフライトは1時間半も遅れていたが、折角メールアドレスを登録しても、Gmailが使えないから、見ることもできない。まあエアチャイナが送って来た変更のお知らせも、私は空港に着いた後だから、ほとんど意味はない。サービスと言う概念は相変わらずないのである。

 

結局夕日が沈むころ、2時間遅れで離陸した。だが羽田空港に何時に着くのか、アナウンスもなく、終電が少し気になる。最終的には午後11時過ぎに到着し、その後がスムーズで何とか電車には乗れた。今回の旅は高鉄やシェアバイク、スマホ決済など、中国の便利面も味わったが、相変わらずダメな部分も特に最後に味わった。

 

中国には時差がある、とは常に言うことだが、これは大都市と中小都市の間に差だけではなく、都市の中にもかなりの格差があることを意味している。これが中国を発展しているのか、相変わらずなのかを分かりにくくしているのだろう。中国に行くのが少しずつ億劫になっていく自分がいるのを今回発見して、驚いている。

杭州・安徽・北京茶旅2017(8)ついにシェアバイクをに乗る

6月27日(火)
シェアバイクで

今朝は朝9時に銀行へ行く。理由は昔開設した口座のセカンド口座を作るためだった。セカンド口座、聞きなれない言葉だったが、中国人の知り合い全員がこれを勧めた。私はアリペイを使うために、決済口座を必要としていたのだ。だが、これまでの口座を使い、何か問題が発生すると困るので、今や中国人はアリペイやWechatペイ専用口座を作っているという。それで近年銀行の口座数が急増したわけだ。それほどに詐欺事件、情報流出などが多いということだろう。

 

銀行窓口では簡単に口座が作れた。そして口座間転送の金額制限などを細かく示される。銀行側もセカンド口座の利用方法を知っており、詐欺などにあった場合でも、被害を最小限に済ませるためだ。そして作ったばかりの口座をすぐにアリペイに繋いで見た。思いの他簡単に繋がった。そのまま銀行の外へ行き、自転車を見付けてQRコードを読み取る。すると暗証番号は提示され、鍵は解除される。

 

自転車にあっと言う間に乗れた。実に快適だ。もし乗っている自転車が壊れていたり、空気が甘かったり、不具合があれば、すぐに他の自転車を見つけることができた。建国門から昨日の雍和宮まで渋滞もなく20分ぐらいで着いてしまった。昨日危険だと思った自転車の群れ、今日は私もその一員になる。天気も良いので気分もよい。

 

孔子廟の中に入り、ぐるぐる回る。以前にも来たことはあるが、今回は牌坊などをじっくりと眺める。碑林という建物もあり、中には凄い数の石碑が並んでおり、圧倒された。それから南羅鼓巷に向かう。地下鉄だと乗り換えも必要だが、自転車ならすぐに行ける。ただ古巷は歩行者天国で、自転車すら走れない。この付近の以前にも調べた古い建物を見て回る。

 

お昼は張自忠路駅の上にある老舗店、天興居で、Tさん夫妻を会った。店はきれいになっていて、昼時はかなり混みあっていた。Tさんのご主人、北京人の張さんが全てを注文してくれた。老北京菜、内臓系を含め、どれも美味しい。偶にこういうものを食べると、北京に来たな、という気分が出る。胡同の現状についても詳しく教えてもらう。

 

午後も自転車を駆使して、ホテルまでゆっくりと帰る。ホテルの入り口まで乗り込んで終了した。入会キャンペーンということで何と料金は2日間無料!有料でも1時間1元程度だから、これほど便利な乗り物はない。ただ見ていると違法駐車は普通で、放置自転車も散見される。真の便利というものは、ルールの無いところに存在するのだな、と強く感じる。日本ではこの便利さは許されない。今日だけでもぶつかっている自転車にも何度か遭遇した。中国を知らない日本人には信じられないかもしれないが、今や中国人は自転車に慣れていないのだ。

 

自転車に乗りなれていないのは私も同じ。快適だとは言っても、相当に疲れが出て、足も痛い。宿でぐったり休む。暗くなってから、夕飯を食べるために外へ出た。昔働いていた懐かしい場所を歩き、蘭州ラーメンの店に入り、12元のラーメンを食べた。その代金を初めてスマホで払おうとしたが、どうしたらよいかわからない。店員に聞くと彼はウイグル人で、私のスマホ画面の英語が読めないと言って困惑する。二人でちょっと格闘して、何とかQRコードを読み込み、無事12元の支払いを終える。やっと人並みになった気分だ。

 

6月28日(水)
銀行で

今日は海淀に行く用事があったので、懸案にチャレンジしに行く。実は数年前、私の銀行口座のATMカードを息子が紛失したが、本人でないと再発行できないと言われていた。既に北京を離れていた私はすぐに申請が出来ず、2年ぐらい経ってからその申請に行ったのだが、『カードの再発行には1週間かかる』と追い返されそうになった。何とか係員を説得して、うまく事が運びそうになったものの、何と口座開設時からパスポートが更新されており、古いパスポートもなければ本人確認が出来ず、手続きできないと追い返されていた。

 

今回2年ぶりにその支店に行き、案の定、一から説明して悪戦苦闘することになる。何しろ最初の担当者は『口座はない』と言い放ち、ここでごねてようやく口座番号に辿り着くも、上級職員が本店を説得しきれず、タイムオーバーとなる。結局取り敢えずこの支店あてにカードを再発行してもらい、次回取りに来ることにしたのだが、果たして取りに来てもすんなり出てくるか。この辺は中国の困った部分だ。ただパスポート更新時に番号が変わってしまうという日本の方式も困りものだ。

 

時間が迫っていたので、シェアバイクでランチの約束場所へ乗り付ける。本当に便利で有り難い。知り合いの王さんと食事をして北京情勢などを聞く。料理は四川だが、それほど辛くなく、あっさりと食べる。皆ある程度歳を取ると健康に問題が出てくるのだから仕方がない。特に中国人は基本的に食べ過ぎなので注意が必要だ。

杭州・安徽・北京茶旅2017(7)胡同を歩いて思う

6月26日(月)
北京散歩

翌朝は早起きてして、暑くならないうちに、懐かしの散歩ルートを歩いて見る。建国門には昔の気象台、古観象台があるが、今日は月曜日で上に登ることは出来ない。社会科学院(元科挙試験場)から胡同に入り、四川省弁事処を抜けていく。ここの四川料理は今もうまいだろうか。

 

北に進路を取ると趙家楼飯店というホテルがある。ここは五四運動で学生が押し寄せた場所として、今もプレートがはまっている。その向かいには梁思成夫妻のサロンがあったはずだが、既に10年前には取り壊され、未だに再開発が行われている(いや開発が止まっているのだろう)。

 

その辺から古い建物は残っているが、住人は減っている感じを受ける。一部は改修という名のもと、取り壊しが進んでいるようにも見える。ここまで地価が高くなった北京で、この立地は誰もが望むところだろう。外交部路の協和病院宿舎のようにホテルとして使われるならよいが、胡同の家に住みたい者も少なくなっているかもしれない。

 

お爺さんが日向ぼっこをしている横で修繕工事が行われていた。その横には人が集まっていた。見ると薬局だった。老人だけが残っている状況の今、この胡同に必要なのは薬局と医者なのかもしれない。それも高価な物は買えないので、伝統的な庶民の薬。胡同の明日が見えるような風景だった。

 

北京二十四中という学校の前を通ると、大勢の人が門の外にいた。何事かと門に近寄ると『考試』という文字が見える。大学入試統一試験、高考は今や日本でも知られるようになったが、その一つ前、高校受験がちょうど行われているようだ。中国の、特に大都市における受験競争の激しさの一端を見る思いだった。そして何より、子供や孫の合格を願って外で待っている親や祖父母の気持ちに思いが至る。

 

実はその横にもう一つの行列を見つけた。こちらはカメラを向けると皆が顔を隠した。何の行列かとみると、清朝時代の総理衙門のその建物は信訪室と書かれていた。ここは地方から出てきた人々が中央政府に何かを訴える窓口になっている。地方では解決できない問題が増えているのだろう。学生も陳情者も厳しい戦いを強いられている。胡同でこんな場面に遭遇するとは思いもよらない、これも北京散歩の面白い所だろう。

 

最後に蔡元培故居を少し覗いて、金宝街を歩いて、地下鉄の駅を探す。香港ジョッキークラブが作った北京ジョッキークラブはまだ存在していた。北京にこれがあってよいのだろうかと昔は思ったものだが、今はどういう位置づけなのだろうか。中国と香港の立場も大きく変化している。

 

お昼は現在連載している人民中国の王総編集長を訪ねて、西へ行く。最近は地下鉄も増え、6号線が近くを走っているらしいが、私は未だにバスで百万庄を目指す。オフィスでは初めて私の文章を担当してくれている銭さんも会えた。それから社内食堂でご飯をご馳走になる。いつも素朴だが美味しいご飯でよい。

 

帰りがけに、魯迅博物館に寄ったが、何と月曜日で閉館。この博物館、一般企業のオフィスもあるようで紛らわしい。白塔もお休みで、何も見ることは出来ず、1番バスで故宮など主要観光地をぐるっと回って、雍和宮に向かった。そこでTさんと待ち合わせていたのだ。Tさんは東京の大学を卒業後北京で勉強し、今は北京の大学で教えている。こういう人材が北京で活躍しているのは喜ばしい。

 

雍和宮は中国最大のチベット仏教寺院。過去何度か中に入っているので、今回は門の写真だけを撮る。それから孔子廟の方へ向かう。ここも観光地化が進んでおり、門の前を通り過ぎる。今や一世を風靡しているシェアバイクがあちこちで横行しており、緑豊かな通りをゆっくり歩くのは危ない。

 

夏の北京の風物詩と言えば、西瓜ではないだろうか。私が北京に住んでいた頃は、街中に小型トラックで西瓜売りがやってきて、ごろごろした西瓜が山のように積まれていた。そして値段も驚くほど安く、甘みもあった。だが最近この光景を見ることはない。トラックは街中に入ることができないのだ。それに代わって目に付くのは、水果店という小さなお店。これがそこいら中にあって驚く。しかしこの店は実は大資本によるチェーン店らしい。実際買ったバナナは美味しくなかった。若いうちにとった果物を大量に購入して、全国にばら撒く。これで美味しい訳がない。あの美味しい北京の西瓜はどこへ行けば食べられるのだろうか?

 

疲れたので観光地化された道のカフェに入ってみる。胡同とは無縁のおしゃれな様相。カフェラテやフレーバーティは置いてあるが、アイスティはメニューにない。だが注文すると作ってくれた。料金はラテの半分だから客単価を考えてメニューに載せないのだろう。決済は勿論スマホ。全てが経済だ。

 

夜は知り合いの陸さんと久しぶりに会った。場所は胡同の中にある工場跡らしい。そこの庭がとてもいい感じ、白人さんが夕日を浴びながら食事をしていた。我々もそこでビールを飲みながら、かなり寛いだ。日が暮れてもきれいなライトアップがあり、実に良い雰囲気が醸し出される。北京も変わったのかな、とふと思う。

杭州・安徽・北京茶旅2017(5)上等の祁門紅茶を試飲する

6月24日(土)
茶廠へ

翌朝は朝ご飯を食べるとすぐに祥源の茶工場へ向かった。祥源は浙江省の不動産開発会社であり、その潤沢な資金でこちらの茶工場を買収した。グループ全体の売り上げに占める茶業の割合は僅か1%だという。今も輸出が全体の70%、リプトンに中国茶葉も供給しているというが、その量も少ないのだろうか。

 

雨は降り続いており、工場の横を流れる川は増水し、このまま降り続ければ溢れるのではと思う程だった。6月はこんなに雨が降るのだろうか。工場は立派できれい。最近新設されたものだそうで、以前の国営時代の工場は別の場所にあったが、既に完全に取り壊されて跡形もないという。

 

建物の前には立派な像が建っていた。呉覚農、近代中国茶業を担った一人だが、彼は1932-34年の間、この地の茶業改良場の場長を務めていたという。研究、生産、販売を一体化するなど相当大胆な改革を断行し、この地の紅茶生産に貢献したとある。当時の外貨獲得の重要物資である茶はこのような人々により発展していった。

 

工場内を見学すると、先端の大型機械が導入され、自動化が進んでいた。これまで見てきたいくつもの紅茶工場の中でも最大規模ではないだろうか。一方博物館の方へ行くと、昔の器具が並んでおり、その生産の歴史が見られるようになっていた。実は今日は朝から一人の老人が我々に同行してくれていた。

 

閔宣文氏、85歳。1958年に祁門茶廠に入り、製茶技術を深め、60年に渡って紅茶を作ってきた人である。現在でも祥源の顧問として、技術指導に当たっている。非常に元気で、我々の質問にも的確に答えてくれた。2008年には非物質文化遺産として、祁門紅茶の伝統製造技術の代表的伝承人にも認定されている。

 

試飲室に移った。ここには相当の種類の祁門紅茶が置かれており、そのうち数種類が無造作に置かれていた。試飲が始まる。上級から3種類は手摘みで、後は機械摘みだという。その最上級の紅茶を飲んでみると、これは完全に異次元の香りと味がした。久しぶりに美味い紅茶を飲んだと思えた。

 

実は先日日本のある年配の方と話していると『30年前、祁門ではいい紅茶が作られており、我々はそれを飲むことができた。だが今やそんな上等な茶を見つけることは難しい。祁門も相当の変化があったようで、上等のお茶は作られなくなっているのだろう』と言われた。だが今飲んでいるお茶を見ると決して上等のお茶がないと思えず、関係者の人に聞いてみた。

 

『それはこちらの問題ではなく、日本の問題でしょう。30年前、日本の経済力は凄かった。当時の中国でいいお茶は日本にどんどん流れていた。だが今は日本人のそんな高級なお茶を買う余裕はないのでは』というのだ。確かにそうかもしれない。30年前の100元は彼らの一か月の給料だったが、日本人にとっては一回の飲み代に過ぎなかった。我々は物があれば何でも買えた。だが今や、高級茶は1斤(500g)、1万元(17万円)もするのだ。私には手が出ない。もし手にできる日本人がいても、その茶を10斤買う力はない。中国人はその単位で茶を買うのだから、勝負にならない。

 

昼ごはんを食べてから、ある茶荘に向かう。ここには元国営茶廠の廠長だった人がいた。彼は茶廠が売却されるとその職を辞し、今は自分で細々とお茶を作っていた。10年前の混乱でにも変化があり、もう大きな茶廠で茶を作る気はないという。その辺の多くは語らないが、色々と大変だったのだろうと推察された。

 

実は今日は山の中の茶畑を見学する予定になっていたが、ここ数日の雨で山道に土石流が発生。その様子が微信で配信されてきて、とても危険な状態だということで、残念ながら見学を諦めた。ちょうど雨が上がっていたので、代わりにこちらの茶荘の裏にある茶畑をちょっと見た。雨に濡れた茶樹は元気で、茶葉もすくすく伸びていた。

 

ホテルの裏に、茶山公園という名の場所があった。時間が余ったのでそこへも行ってみる。そこは小高い丘になっており、茶畑もあったが、既にすべて刈り取られていた。ここの麓には、元々茶業改良場があったという。確かに古い建物が残っていた。昔の従業員宿舎らしい。その前の建物は現在政府が使っており、改良場はもっと田舎に移されているらしい。

 

夜は茶業関係者が集まってきて、大宴会が催された。年配者も来て、酒を酌み交わし、楽しそうに昔話をしている。モンゴル族の女性が草原の歌を披露してさらに盛り上がる。私は酒を飲まなかったが、疲れが出たのか、途中で目が回るような感覚に襲われ、宿に帰って休息した。やはり旅が続いたこと、雨など季節的な要因があったのだろうかと思う。

杭州・安徽・北京茶旅2017(4)中国有数の紅茶産地 祈門へ

6月23日(金)
黄山へ

翌朝は早く起きた。今日は杭州東駅から高速鉄道に乗らなければならない。9時半過ぎに列車に乗るためにはここからバスを乗り継いでいては間に合わないと言われ、タクシーを頼んだ。タクシーは朝の渋滞に嵌ることもなく、思ったより早く、出発1時間以上前に駅に着いたが、料金は来た時より遥かに高かった。どうしてそうなるのかはよくわからない。何か仕掛けでもあったのだろうか。

 

駅に着くと腹が減ったので、お粥と油条を食べた。この店、どこにでもあるチェーン店だが、この日はシステムがダウンしており、オーダーがまとまらずに混乱していた。中国は日本より便利になった想うことも多くなってきたが、一旦破たんすると、目の当てられない惨状になる。いや今や日本でも同じか。

 

列車はかなり長い編成でやって来た。ところが何と、私は並ぶところを大幅に間違えてしまっていた。前と後ろを反対に考えていた。どこに何号車が停まるかということが明示されていないのでこんなことが起こる。15両もの間違えは致命的、列車がついて初めて知り一生懸命走ったが、当然発車までに間に合わない。車掌も取り敢えず乗れ、と叫ぶ。この列車は先頭車両を2つ連結しており、何とか自分の席のある側まで辿り着いて乗り込んだ。もし手前に乗れば、歩いて自分の席に行くことは出来なかった。

 

今回は安徽省の祈門紅茶の旅で来たのだが、杭州からは黄山北駅に行くことになる。まさかここにも高速鉄道が通っているとは思ってもみなかったが、杭州から中国有数の観光地である黄山へ行く便数は少なく、本体である魏さん一行が福州から到着する時間に合わせることは出来ず、長時間待つことになっていた。午後1時過ぎ、列車は無事に黄山北駅に入った。

 

3. 安徽
祈門まで

ホームを歩いていると、スマホに着信があった。出口のところで誰かが待っているという。行ってみると、何とモンゴル族の女性がそこにいた。魏さんたちの紅茶が好きで、内モンゴルから出てきて、深圳などで茶の勉強をしており、近く内モンゴルで茶荘を開こうとしているらしい。今回も勉強のためにこのツアーに参加したのだが、何と深圳からは夜行列車しかなく、今日の早朝にここに着いたのだと。驚いた、朝からずっと待っていたとは。

 

更に武漢から来たという二人の男性も合流した。彼らは私と同じ列車でここに辿り着いていた。お茶や水関係のビジネスをしているようで、浙江や福建を回ってきて、このツアーを知り、参加したらしい。メンバーが4人になり、話に花が咲く。持っていたお茶が淹れられ、のどの渇きを癒す。お湯がどこでも手に入るのが中国の良いところだ。この駅も高鉄のご多分に漏れず、新しいがため周囲に特に何もない。おまけに雨もかなり降っているが、これなら2-3時間待っても問題がない。

 

3時間ぐらいして魏さんたちがやってきてようやく合流した。迎えの車が来ており、ここから60㎞離れた祈門へ向かう。途中はかなりの田舎。雨が強いのでよく見えないが、田畑が多く、また山も見える。約1時間かかって、何とか街に入る。街は思ったよりも建物が多いという印象。

 

予め宿が予約されており、相変わらずの林さんと同室。もう慣れていて有難い。すぐに向かいのホテルで今回の受け入れ元である祥源祈門紅茶の孫総経理が食事を用意してくれ、大いに食べる。その後そのホテルの1階にある祥源の店に場所を移し、紅茶を飲み始める。そこでいくつか祈門紅茶の歴史を聞き出す。世界の三大紅茶の1つとも言われ、中国を代表する銘柄だから、その歴史も華麗なのだろうか。

 

1900年代前半から祈門は世界的ブランドだった。1915年の万博での受賞が大きく取り上げられるが、それだけではないようだ。しかし近年は不振に陥り、ついに国営茶廠が競売されてしまった。祥源は国営茶廠解体後、それを引き受けた会社で、母体は不動産開発業者だった。孫総経理も元々リプトン中国に勤めていたとのことで、この買収により、請われてやってきたという。祈門紅茶は混乱して、以前のような生産はされていない、と何度も聞いていた意味が何となく分かる。

 

話を聞き終えると、眠くなり、申し訳ないが先に部屋に戻って休むことにした。魏さんたちはこれまでの例だと延々茶を飲み続け、話続けているはずだ。林さんが部屋に戻って来たのは夜中の12時を過ぎていたと思う。外はこれまた延々と雨が降り続いている。明日はどうなるのだろうか。

杭州・安徽・北京茶旅2017(3)良渚博物館と径山寺

6月22日(木)
良渚博物館

翌朝雨は降っていなかったので、明るい時間帯の文化村を散歩した。様々な創造的な空間がそこにあったが、果たしてどれだけ使われているのかはちょっと疑問だった。杭州市内の混雑を避け、豊かな空間でクリエイティブな仕事をする、というコンセプトはこれからだろうか。

 

針路を北にとり、教えられた通りに、良渚博物館を目指す。道は本当に広く、車は極めて少ない。そして歩行者に対してとても親切。やはりここは中国ではない。北のはずれに博物館はあった。敷地は広い。正面入り口まで歩くのも大変だ。中に入ると参観者は少なく、ここもゆっくり見学できる。この辺の遺跡は1936年に発掘されたとある。発掘の歴史は意外と古い。その発掘者の中に梁思永という人物がいた。彼はハーバードを出た考古学者だが、何と日本に亡命した梁啓超の息子だった。長男で建築家の梁思成とは母親が違うらしい。この一家、調べればすごい人材を輩出しているのではないだろうか。因みに彼は1954年に50歳の若さで亡くなっている。

 

良渚文化は今から約5300年前から4300年前の1000年間栄えたと言われている。この付近にはこれより前に河姆渡文化があり、その関連性などは説明されていない。この文化にはかなりの定住性があり、家もしっかり作られている。井戸などの水回りも整っていた。そして王権というか、リーダーの下で集団生活が行われていたように見える。墓も王家の物が立派なのは勿論、既に庶民の物も作られていたという。この時代にそんなものがあるとは意外だ。かなり高度な文化がここに存在したことを示している。

 

博物館の周囲を一周する。結構な時間が掛かる。とても素晴らしい池があり、蓮の花がちょうど終わった時期らしい。いい眺めだなと写真を撮っていると馮さんから電話があり、車で迎えに来てくれた。これから径山寺へ行こうと誘ってくれたのだ。昨日の村よりはかなり近いところにある。余杭という地名はどこかで見た記憶があったが、以前径山寺に行く時に通過した街だった。

 

径山寺へ
まずは寺に上る前に、下の街で昼ご飯を食べた。そこは一応観光地のようになっていたが、お客は多くない。食堂に入り、エビや魚を食べる。この辺の名物らしい。お茶は普通の径山茶がポットで出てくるからうれしい。私は以前よりこの緑茶が好きだ。誰も知らなかった頃が懐かしい。

 

それから山道を登っていく。以前はここをタクシーで登ったのでよく覚えていないが、かなり急な坂もある。中腹まで来ると突然通行止めになっていた。何と全山全面改修中だということで、誰も入ることは出来ないという。だがここで諦める馮さんではなかった。ちゃんと道はあり、めでたく上に登ることは出来た。どのようにして登ったかは秘密としておこう。

 

だが頂上は無残な場所となっていた。多くの建物が壊され、新しく建て替えられようとしていた。本殿はさすがに修理だけのようだが、その上にあったと思われる茶畑は無くなり、大仏殿、観音殿が立派に建立されている。不思議な体型をした仏像もあった。まるでタイの物のようだった。寺全体を再開発して、観光スポットにでもしようという考えのようだ。さすがに日本では考えにくい大胆な発想。これは寺に資金が溜まったことと地方政府が何等か関係してなされているのだろう。

 

この寺には、静岡茶の源流としての聖一国師の像や、日本茶道の源流に関する碑なども建てられているが、さすがにそれはそのまま置かれていてホッとした。その部分だけが径山寺だと思えてしまうのは、かなり悲しい。日本との繋がりも、今回の再開発で立ち消えてしまうのではないか。それにしても歴史を発掘して守っていこうという良渚と、再開発しようという径山寺、どちらもお金が絡んでいるのは仕方がないことか。

 

以前はあった製茶室を探しても見つからなかった。取り壊されてしまったのだろう。以前はこのお寺で径山茶を作っていたが、今はもうないのだろうと念のために聞いてみると、倉庫のようなところに通された。そこには段ボールが山積みされ、緑茶ばかりでなく、紅茶や白茶まで保存されていた。今やこの寺のブランドを使い、茶園の茶葉を使い、製茶は外注している様子が窺える。販売価格もかなり高い。これが今の中国のお寺商法か。

 

 

帰りに良渚文化芸術中心で降ろしてもらい、馮さんとは別れた。ここには図書館などがあるが、蔵書には期待していなかった。単にこの建物が日本人、安藤忠雄氏により設計されたという理由で寄っただけだ。今や日本の一流建築家は日本ではなく、海外で高く評価され、そちらで作品を残している。それがいいことなのかどうか、私にはわからない。

 

フラフラ歩いて帰ると、一昨日の晩に来たスタバの横に出た。そこにはいくつかの食堂が店を出していたので、夕飯はそこで麺を食べることにした。中国に来るとどうしても食べ過ぎになってしまうので、一人の時は軽く済ませるのがよい。その後宿とは反対にあるスーパーに行き、飲み物を調達。ようやくこの街にも慣れてきたが、明日はもうここにはいないのだ。

杭州・安徽・北京茶旅2017(2)九曲紅梅を探して

6月21日(水)
九曲紅梅を探しに

翌朝は雨だった。明るくなってみてみると、ホステルの周囲は興味深い建物が並んでいる。だが雨なので外出を控えた。9時前には馮さんが迎えに来てくれた。彼女の車に乗り、知り合いのところへ行くという。私は今回九曲紅梅という杭州の紅茶を訪ねに来たのだが、前回宜興の旅で知り合った馮さんがそれを請け負ってくれ、知り合いに紹介を頼んだようだ。その彼も彼の車に乗り、我々を先導してくれる。

 

良渚文化村から約1時間かかって双灵村に着いた。同じ杭州と言いながらもマ反対の場所、随分と遠い所だった。そこで3代に渡って紅茶を作り続けているという賈炳校さんを訪ねた。彼の茶工場には、石うすやら木製の揉捻機やら、まるで骨董商の様にそこかしこに置かれていた。これは製茶道具として使うのではなく、彼の趣味だという。

 

九曲紅梅というと茶葉が少し曲がっているのが特徴だった。以前は殆ど見ることのなかったお茶、浙江省の茶葉の紅一点、それが最近の紅茶ブームに乗って少しずつ復活してきているという。ただその量は決して多くはなく、また龍井43などの品種を使って紅茶を作っても、需要もそれほど伸びるとも思われない。この村では、この紅茶という資源を使い、村おこしとして、観光茶園化を計画しているという。

 

実際に賈さんの茶工場の上も、既に宿泊施設の整備が始まっていた。来年には前の空き地も駐車場になり、週末には沢山の観光客が訪れることを期待している。杭州市内という一大観光地から僅か15㎞という立地に優位性はあるのだろう。だがお茶を使ってそこまでニーズがあるのだろうか。雨はかなり強くなってきている。仕方なくお茶を飲んでいる。

 

何とか雨が小やみとなり、昼ごはんに行く。地元の人しか知らない場所にある自然の中の食堂。野性味満点。そこで出された鶏肉の美味いこと。地鶏というんだな、これを。野菜なども柔らかくて美味しい。まさに農家菜だ。杭州の少し田舎でも皆さん、実に裕福だ。これも含めて観光化なのだろう。

 

午後は博物館へ。九曲紅梅の歴史がかなり細かく紹介されており、また実際に1900年代初頭から30年代ぐらいまで、この紅茶が龍井茶などと並ぶ高値の茶だったことなどが実際の新聞記事などを交えて展示されており、興味深い。その当時の九曲紅梅はどんな味だったのだろうかと、ふと思ってしまった。

 

それから村の中に少しだけある茶畑を見学。その横にある賈さん所有の別荘?も見学。池があり、いい庭があり、宿泊も可能な部屋がいくつもあるが、一般には開放していないようだ。こちらでは、緑茶をご馳走になる。それにしても賈さんだけがこの村の成功者なのだろうか。

 

賈さんに別れを告げて、浙江大学へ向かった。浙江大学と言えば、6年前、私が会社を辞めて最初の茶旅に出た際、訪れた大学だった。あれから6年も経ったかと感慨深い。馮さんはここの茶学学院の出身ということで、こちらの教授からも歴史を学ぼうと訪れた。残念ながら現在の茶関係者にとって、歴史はそれほどに重要ではない。なぜそれが必要なのかと質問されれば答えに窮する。

 

その後、良渚文化村に戻る。こちらにはなぜ、と聞く必要もなく、5000年前の文化がそこに厳然と残っている。ただ残っていると言っても、発掘されたものは博物館に行き、その現場には何も見られない。遺跡公園という名称が残るだけである。これからここを開発して、テーマパークのようにしていく計画らしい。同時に更に発掘調査が進められるようで、そこに期待がこもる。文化は経済の支えがあって初めて成り立つものだから。

 

夕飯は馮さんがご馳走してくれた。出来るだけ地元の料理をということで色々と頼んでくれた。湯葉を使った料理は日本を思わせる。他の炒め物も、何となく味がちょうどよく、日本を感じさせた。やはりこの地域、日本との関係が非常に強いのではないかと勝手に想像してしまう。

 

夕食後は、文化村内を散策した。この街は大手不動産集団、万科の王主席が『夢の街』として作ったと聞いている。それにふさわしい静かで落ち着いた、中国とは思えない、どこかアメリカ西海岸のような雰囲気を漂わせている。まず人々が急いでいない、車はゆっくり、信号もゆっくり、もうそれだけでも今の中国には貴重だ。ハワイなどを思い出す。

 

きれいな池の周囲を歩くだけで心地よい散歩ができる。犬などを連れて歩いている家族やカップルが多い。魚釣りを楽しむ人もいる。部屋に帰ってすぐに蚊取り線香を点けたが、またかなり刺された。自然に囲まれて生きるとはこういうことかと思いながら、何とか目を閉じる。