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中壢台中茶旅2023(2)持木家のパートナー、廖家を訪ねる

もう何度も乗ったルートを巡っていく。表面的には特に変化は感じられない。途中から登りになり、約1時間で目的地に着いた。乗客のほとんどは終点まで乗るので、降りたのは私だけ。何とも開放的な気分となり、古い家並みが残る街を歩き出す。今回の目的はただ一つ。いつもFBにメッセージをくれる林老師に会うことだった。

歩いて数分で懐かしい玉春茶房に着いた。隣は息子の店で、まずはそちらに行ったが、ちょうどお客が来ており、早々に退散する。林老師は最近大病されたと聞いて、伺ったわけだが、予想外にお元気そうだった。ただやはり以前のように動くことは出来ないと言いながら、お茶を淹れてくれた。

懐かしい歴史話などを聞いていると、奥さんが『お昼ご飯、食べていくでしょう。買ってくるんじゃなくて、作るから美味しいよ』と声を掛けてくれた。こちらのご飯が美味しいのは12年前、初めて伺った時に味わって知っていた。だが今日は残念ながら時間がない。いや、時間が無いというよりバスの時間と合わなかった。全く後ろ髪を引かれる思いで、立ち去る。

逆に少し時間が余ったので、一停留所分歩いて下ることにした。ここもかつて何度も通った道で懐かしい。ずるずると農会のところまで歩いて来ると結構暑かったので、農会内の売店で涼む。そしてバスの時刻にバス停に戻ると、ちゃんとバスはやってきた。私ともう一人高校生ぐらいの女の子がバスに乗り込む。

やはり予想通り、バスがかなり混んでいたが、何とか席を確保した。鹿谷付近には地元枠として3席確保されている。ただおじさんの何人かは大量の荷物を席において、他人が座れないようにしていた。この辺のモラルの低さは残念としか言いようがない。この点については、誰も口出ししない。いや、さすがに乗れない人が出てきたら、荷物をどけるだろうと信じたい。

台中で劇的に出会う

1時間後に高鐵台中駅に戻り、午後会う予定の陳さんに連絡すると、お迎えまでほんの少しの時間があった。昼ご飯は食べていなかったので、丸亀製麺でうどんでも、と思ったが、残念ながら既にその姿はなく、後には一風堂ラーメンが見える。その横には大戸屋があったが、私は以前も使っていた、まいどおおきに食堂へ向かう。

中に入ると風景はそれほど変わっていなかったが、値段はかなり上がっていた。まあこれが普通なのかもしれない。もし時間的に余裕があれば、鹿谷のお母さんのご飯が食べたかった、無理しても食べるべきだったと激しく後悔する。それでもそれが私の定めと諦めて、ハンバーグに食らいつく。

陳さんと合流して、市内へ向かう。何度も来ている台中だが、実は市内の地理は全く分からない。いつの間にかモノレールが通っている。そんな辺りの駐車場に車を停めて、目指す家に向かった。廖さんの家は立派だった。招き入れられ、挨拶を交わすが、何となくぎこちない。陳さんがうまく説明してくれなければ、会話が進まなかったかもしれない。

この廖さんのお爺さんが、戦前日月潭で紅茶を作っていた持木家の台湾人パートナーだったのだ。廖さん自身は日本人に決して良い印象を持っていないことは何となくわかる。ただ『持木の名前は、爺さんからも父さんからも何度も聞いている』と言って、廖家の話をしてくれた。

そのうち廖さんも元銀行員だと分かり、少し打ち解けてくる。やはり戦前の有力者だったお爺さんの一族には関係者が多く、そのすべてを聞くのはとても無理だった。最後の方になり廖さんが『なんでもっと早く来なかったんだ』と言い出した。実は2階には病気療養中のお父様がいたのだが、具合が悪いので会うのは難しいと言われていた。

しかし廖さんは突然『2階に行こう』と言い出し、我々を連れて階段を上った。そこにはテレビを見ている老人がいた。『日本語で話しかけてくれ』と言われて、『持木さんを覚えていますか?』と大きな声で聴いてみると、目は動くのだが、残念ながら言葉は発せられなかった。それから記念写真を撮り、お暇した。

廖さんは『日本語なら反応すると思ったのだが』といい、『持木の子孫ならいつでも歓迎する。一緒に爺さんの墓参りに行こう』と言ってくれた。この時廖さんはこれが最後のチャンスだと分かっていたようだ。そのわずか1週間後、廖さんのお父様、廖阿霖の息子は97歳で生涯を閉じたと聞く。もしコロナが無くて2‐3年前に来ていたら、日本語で様々な話が聞けただろうと思うと、何とも残念、いや言葉が無かった。

陳さんに高鐵台中駅まで送ってもらい、台北に戻った。車中、頭では常に廖家の存在を考えていた。そして歴史を追うとはどういうことなのか、をじっと考えている。考えれば考えるほど、腹だけが減る。手近なすき家で夕飯を取る。まあ、この低価格路線、悪くはないのだが、今日の気分ではなかったようだ。

中壢台中茶旅2023(1)中壢のミャンマー人村へ

《中壢台中茶旅2023》  2023年6月1日-2日

今年の台湾滞在の最後に中壢に行く。そしてなんと翌日は日帰りで台中へ向かう。何となく慌ただしくなったが、とても重要な情報を得て、非常に貴重な面談を果たした。やはり大切なことは動くことだ。

6月1日(木)ミャンマー人村へ

今朝は雨が降っていた。待ち合わせ場所である台北駅へ何とか向かった。中壢行きのバス停はすぐそこだが、雨が強すぎて行くのを躊躇する。同行してくれるTさんは駅舎内のマックで朝ご飯を買っている。時間が来たので雨の中を走り抜け、バス停に着くとちょうどバスが来る。時刻表より少し早いが乗り込むとすぐに出て行く。この辺のいい加減さがバスにはある。

バスで約1時間走ると、中壢のバスターミナルに着いた。ここからバスを乗り換えて、目的地、龍岡へ向かう。私一人ならバスの乗り換えも迷っただろうが、Tさんが一緒なので、実にスムーズに進行する。4年前に来た中壢、最初は見たことがある風景であったが、その内全く知らない所へ向かっていく。

20分ほど乗って、忠貞というバス停で降りる。そこは台湾ならどこにでもありそうな田舎町。すぐに路地に入ると市場に繋がっている。野菜などが売られており、その先にTさんお目当てのナーン屋さん?があったのだが、残念ながら今日は閉まっていて食べられなかった。この店に清真の文字が見えた。

その先には中華民国の国旗が無数にひるがえっている。国旗屋と書かれたその店は、本当は何屋なんだろうか。この辺から、この街が普通ではないと思い始める。そこから径に入ると、イスラム教会、龍岡清真寺が見えてくる。その規模はかなり大きく、回族が多く住んでいることを窺わせる。

当初は1960年代に建てられたというこの寺、当日は中に入ることは叶わなかったが、かなり立派な造りとなっている。現在の形になったのは1980年代だろうか。そして説明書きにも、1954年にタイ・ミャンマー北部から移動していた国民党系の人々について書かれており、ここも所謂ミャンマー人村の一つだと分かる。近所にはタイ・ミャンマー雑貨を売る店がいくつかある。

それから異域故事館を訪ねる。ここは見るべきということでTさんが予約していてくれた。タイから戻った人が立ち上げた展示館で、多くの資料があるらしい。時間になると予約した人々が集まり、ガイドが華語で説明しながら、展示を見て回る。オーナーが収集した数々の武具や写真が目を引く。

約30分見学する。ガイドも我々が日本人なので興味を持って、ここへ来た理由を訪ねてくる。残念ながら茶に関する展示はなかったが、タイ北部と国民党の繋がりを台湾側から見る機会を得たことは収穫だった。この国民党兵士の帰還に関しては、往時もかなりの温度差があったのだろうと感じる。

お昼は名物米干を食べに行く。かなり混んでいるが、何とか席を確保。米干とは『インディカ米を磨いて、ペースト状にして鉄板に載せて蒸す。出来上がったら、太い麺のようにカット』と書かれているが正直よく分からない。豚肉、豚レバー、卵が入っているのが定番。スープはあっさりしている。なぜこれが雲南にあるのか、今度タイ北部へ行って探してみよう。

最後に雲南文化公園へ行く。『魅惑の金三角』という文字が躍っているが、そこは老人がボーッと座っている、実に静かな公園だった。米干節などイベントの際は賑わうらしい。公園内には国民党軍の苦難の歴史なども展示されているが、普段は見る人もいないようだ。既に70年前の歴史となっている。

バスで中壢駅に戻った。何となく話し足りないので、カフェを探して入る。台湾のカフェはどこも実に独創的で、若者が丁寧にコーヒーを淹れている。そして接客も笑顔で好感が持てる。ここでTさんとまた歴史話を繰り広げてしまい、気が付くと辺りは夕方になっている。慌てて台北行きのバスに乗り込むも、台北駅には行かないようで、Tさんに教えてもらい、何とか最寄りバス停で降りた。

6月2日(金)鹿谷へ

翌日もまた出掛ける。今朝は高鐵で台中に向かう。7時台の高鐵に乗るのは今回が3回目。もう慣れたものだ。高鐵台中で下車して、すぐにバスに向かう。ここから鹿谷まで行くバスは渓頭行きで人気があり、コロナ前は乗車できないこともあった路線。今回はどうかと聞いてみると、今停まっているバスに乗れ、と指示があり、急いで駆け込むと、最後の一席が一番後ろに残されていた。やはりもうコロナは過ぎ、路線は完全に回復しているようだ。

台南・高雄茶旅2023(4)文藻外国語大学へ

一度宿に戻り休息。暗くなった頃、近所を散策して夕飯を探す。1軒、客が外まではみ出している店があった。牛肉拉麺と書かれており、ちょっと興味を持って入っていく。お客が多い中、何を頼むべきか分からず、注文するところへ押し出されたので、牛肉拉麺というしかなかった。他の客は小菜も頼んでいるので、キュウリを頼んでみた。

少し時間は掛ったが、あの大混乱の中でも店員は注文を間違わずに運んできた。さすが高雄の人気店。スープの味が濃厚で、麺はしこしこ。これなら客が集まるわけだ。それにしても台湾人はいつから牛肉を食べているのだろうか。やはり戦後かな。帰りにおーいお茶を買ってみる。日本産茶葉100%使用だ。

5月25日(木)高雄の大学で

朝ご飯は地下にあった。宿代の割には充実した朝食だった。今の台湾、特に若者的には、きれいで機能的な部屋、健康的な朝食が求められているようだ。宿に荷物を預けてチェックアウトしようと思ったが、荷物がロビーに並べられているのを見て止めた。これなら盗まれても分からない。セキュリティーは重要度が低いのだろうか。日本の新しいチェーン店でもスペースが無くて、こんなことになっているのを思い出す。

今日は高雄の大学を訪ねる予定になっていた。台湾で唯一の外国語大学である文藻外国語大学へ向かう。バスを検索すると数分歩いたところから出ているとあったので行ってみたが、バスはいつ来るか分からない。おまけに午前9時でもかなり暑くて、待っているのもしんどい。

何とか来たバスに乗り込む。何と長距離バスだった。20分ほど乗っていると到着する。門を入るとここがキリスト教系の大学だと分かる。まだ少し時間があったので周辺を散歩する。立派な図書館などがあるが、学校自体は大きくない。私も日本の外国語大学卒だから、その小さい理由はよくわかる。

時間に正門へ行くと、連絡していた鄧先生がやってきた。何と広報の人も一緒で、まずは自己紹介をして、写真を撮る。それから先生の研究室へ向かい、横の会議室で色々と話を聞く。先生は1930年代の台湾の茶貿易について調べており、特にシンガポール華人との繋がりについて、現地調査(実在の茶荘)していた。ただ勿論本業は茶貿易ではないので、その調査は関連する一部だけのようではあった。それでも十分に貴重な情報を得ることが出来て満足だった。

昼前に先生の教え子がやってきて、車に乗せてくれ、ランチに行った。しゃぶしゃぶの店だったが、前菜やデザート、ご飯や野菜などは取り放題で、メインのしゃぶしゃぶも豪華だった。私は普段食べないが、台湾では平日の昼間から、多くの人がこんなものを食べているのかとちょっと驚きだった。ご馳走になり感謝する。

それにしても外は35度、日差しも強く南国の強烈な暑さだった。これからどうするかと尋ねられ、取り敢えず高雄駅まで戻りたいというと、また車に乗せてくれ、送ってくれた。途中の道路を見ていると、本当に歩いている人はなく、車も少なかった。そして車が着いた先は高雄駅ではなく、高鐵の始発駅、左営駅だった。台北に帰るものと、気を利かせてくれたのだ。私は元々潮州あたりを歩いてみようかと考えていたのだが、この暑さですっかりその気はなくなり、駅に来たのをよいことに高鐵に乗ることにしてしまった。

自由席だが、始発なので座れる。そのまま疲れた体をシートに沈めるとあっという間に寝込んでしまい、後はただ流れに任せていたら、いつの間にか台北まで運ばれていた。僅か2時間半で着いてしまう。東京‐京都間の距離なのだ。台北に着いてから、急に潮州へ行きたくなったが、それは来年のお楽しみにしよう。

台南・高雄茶旅2023(3)台湾糖業と逍遥園

そこからDさんの案内で食事に向かう。最初に市場を通ると、そこにおいしそうな麺があったが、もっと美味しいものがあるというので通り過ぎる。そして辿り着いたのは、昨日歩いていた赤崁楼の横だった。午前11時頃だったが、その店はお客で溢れている。何とか席を確保して、並んでいるおかずから好きなものを選び、肉燥飯と一緒に食べる。内臓系が旨い。美味い店は地元の人が一番よく知っている。ここでDさんの近況や将来などについて聞く。

台湾糖業で

Dさんと別れ、駅まで歩き、荷物を取りだして台南駅から電車に乗る。今日は高雄に泊まる予定だが、折角なので途中で寄り道。橋頭駅で降りる。駅から遠くを眺めると煙突が見える。その方向に10分ほど歩くと、台湾糖業が見えてきた。特にチェックもなく、自由に中に入り、参観できる。

入るとすぐに古ぼけた建物が見える。これは日本時代の物だろう。その前には巨大な木とそこに作られた防空壕があり、歩いていると時空を越えそうな雰囲気が漂う。ちょっと行くと当時の廠長宿舎がきれいに整備されていて我に返る。この先は糖業博物館と書かれていたが、門番のおじさんに聞くと『ここからすべて博物館だよ』と教えてくれた。そして私が日本人だと分かると、実に親切に対応してくれて嬉しい。

少し歩くと立派な、オランダ風の建屋が見える。ここは事務所だったらしい。その前に胸像がある。台湾製糖初期から携わり、社長も務めた山本悌二郎のもので、台糖と三井の関連を思う。建屋内にも色々と展示があった。その外に観音像が見えたので近寄る。これがあの初代社長鈴木藤三郎が作ったものなのか。つい先日彼の出身地、静岡県森町で見たものと同じようだ。この辺に深いつながりが感じられる。

そこから工場の方へ向かう。今も現役なのだろうか、大きな設備が見られるが、人は誰もいない。その向こうの倉庫跡が整備されて、イベントなどに使われているようだ。敷地がかなり広いので、既に暑さにやられ、疲れが出て来る。さっきの煙突があり、その向こうには鉄道が敷かれている。往時はこれで砂糖が運ばれたのだろうか。

何とか一周回ってさっきのおじさんに挨拶する。『高雄へ行くなら、その先に駅があるよ』とこれまた親切に教えてくれた。敷地を出るとすぐに廟があり、その向こうにMRT橋頭糖廠駅があった。台鐵駅に戻るよりはだいぶ体力がセーブできた。高雄方面も詳しくないので、こんな交通手段があることに驚く。

高雄で

30分ほどきれいな電車に乗っていると、高雄駅に着いた。今日はこの付近に宿を取ったので、楽ちんだと思った。ところが高雄駅は改修中で、結構分かり難い。更に私の宿は駅の裏だったようで、更に分かり難い。何とか辿り着いたそこは、全く賑わいのない裏道。そして新しくできたらしいそのホテルのロビーは殺風景だったが、部屋はまあまあ。

まずは歩いて逍遥園に向かう。ここは日本時代末期、大谷光瑞が建てたもので、熱帯植物研究の基地だった。戦後は完全に埋もれ、近年解体の危機にあったが、何とか保存が決定し、ここに修復されたと聞いたので、見学に出向いた。旧市街地の一角にきれいに整備された場所が現れた。係員はいたが、見学は自由。参観者は多くはない。

和洋折衷の2階建て建物は1940年に作られた。その修復にどれだけのエネルギーが必要であったか、それをここでは展示している。勿論本願寺や光瑞についても語られている。実は私が知りたかったのは、光瑞が投資した茶について。唯一見付かったのは、光瑞の弟子の広瀬の写真かな。

フラフラ付近を歩いていると、何となく古い高雄にタイムスリップした気になる。私が初めてここへ来た約40年前、勿論随分変わっているが、関東煮や山本頭など、懐かしい文字も並んでいる。ただ賑わいという点では、残念ながら今は寂しい限り。全てが台北に回ってしまったのだろうか。

台南・高雄茶旅2023(2)朝は画廊で

取り敢えず外へ出た。台南は4年ぶりで、駅前宿泊も何度もしているが、未だに道を覚えない。ホテル前の広い道をまっすぐ歩いてみる。腹が減ったので食堂を探すと意麺の文字が見える。乾意麺を注文するといい感じだ。台南に来たら、まずはこれを食べないと始まらない。

すぐ近くに赤崁楼があった。ここは1653年にオランダ人が創設、もとはプロビンティア城と言われ、鄭成功も拠点とした場所。今や台南観光の中心地だ。台南に初めて来た1984年には見学したと思うが、今はかなりきれいになっている。近所に天后宮などもあり、古き良き台南だった。

天后宮の横の細い路地を入っていくと、古い茶荘が見えた。その先に武廟がある。先日茶商公会で聞いたのがここの歴史。何とここには1818年に茶商の集まり(茶商組合の前身)が寄進した記録が壁に残っているというのだ。台湾最古の茶商はどこだ、という話を前に追いかけたことがあるが、1836年というのが一番古かった。この茶荘は今でも台南にあるが、それより以前に台湾には茶商がいた、しかも1つではないとなると歴史はどうなるのだろうか。

とぼとぼと駅まで戻る。駅の中は相変わらずレトロだが、改修中の足場などが何となく痛々しい。ここにステーションホテルが出来るのだろうか。我がホテルへ行き、チェックインして部屋に入る。それほど良い部屋でもなく、料金はそれなりだからコスパは良くない。唯一良いのはレトロな雰囲気だろうか。

少し休むと夕飯の時間となる。小雨が降り出したので近くで食べようと探すと、ちょうどよい雰囲気の食堂があった。外にメニューが出ていたので、それをゆっくりと眺めていると、おじさんが『早く注文しろよ』と華語で言い放つ。私は困ってしまい、華語がたどたどしくなる。すると奥さんが旦那に向かい『あんた、外国人が一生懸命中文で話そうとしているのになんてこと言うんだ』と怒ってくれた。何とも有難いのだが、何とも言えない気持ちになる。

台南名物?虱目魚魚肚湯と肉燥飯(南部では魯肉飯はない)を注文して席に着くと奥さんがやってきて『野菜も食べた方がいいよ』と言ってくれたので、追加注文する。ちょうど向こうのテーブルには日本人観光客がいて、楽しそうに日本語で話していたので、思い切って日本語で注文すればよかったな、と思ってしまう。

出てきた料理はとても美味しかったが、何となく後味が悪かった。だが会計をするとおじさんが『あっちの食べ物もうまいぞ。今度また食べに来てくれ』と笑顔でいうではないか。余程奥さんの忠告が効いたのだろうか。本人もかなりバツが悪かったのだろう。何となく晴れやかな気分にはなった。

5月24日(水)朝は画廊で

翌朝はゆっくり起き上がる。食欲に乏しく、部屋でゴロゴロする。朝8時半にチェックアウトして荷物を預けて、出掛ける。今日は台南在住のDさんと会う予定になっていたが、指定された場所は何と画廊だった。しかも画廊が開く前の時間、オーナーに日本語を教えているので、一緒にどうかという。

街の中心にあるその画廊は、かなり奥ゆかしい建物だった。日本的な窓枠、階段、中庭などもある。2階の一室で日本語の授業が始まる。Oさんとは8年ぶりだが、その時は蕎麦屋を開店しようとしていた。その後コロナ禍で蕎麦屋を辞めて、台湾の歴史本を翻訳して出版するなど活躍している。音楽なども行い、実に多趣味な人材だ。

Oさんの授業はかなり実践に即しており、今日はオーナーの娘も参加して、日本の話題を話している。彼女は京都が好きで住みたいらしい。かなり京都関連について勉強している。なんだか楽しく1時間話している内に授業は終了した。こういう授業であれば飽きないだろうな。

その後画廊内を見学する。台湾人の画家の絵が掛かっていたが、何と彼の先祖は西夏だというので驚く。私は潮州人を追いかけてみたが、台湾にはもっと様々な民族がいるということが分かり、益々興味が沸く。この画廊には日本人の作品が展示されることもあり、その作品は人気で、よく売れるという。こんなところにも繋がりがある。

台南・高雄茶旅2023(1)奇美博物館へ

《台南高雄茶旅2023》  2023年5月23日-25日

台北滞在も1か月を過ぎ、一度南部へも行こうと思い立つ。はたしてどこまで行けるのだろうか。今回はちょっといつもと違う感じの旅となる。

5月23日(火)奇美博物館へ

朝起きて台北駅へ行く。ちょうど1か月前台中に向かった時とほぼ同じ感じだ。今回は台中を通り越して台南まで行ってみる。時間的には30-40分伸びるだけで、料金も高鐵で600元ほど増えている。実は台南には何度も行っているが、高鐵駅で降りた記憶がない。なぜだろうか。

高鐵台南駅へ降りてみたが、やはり記憶はない。そしてここから台南方面へ向かう電車がどこから出ているのか、良く分からずまごつく。改札を出ると、珍しく日本人の団体さんと遭遇した。高齢者が多く、ガイドさんが日本語で細かい注意事項を伝えており、大変そうだった。

台鐵沙崙駅を何とか探し当てる。三井アウトレットモールの看板が見える。台中だけでなく、台南にも進出か。電車は既にホームに停まっていた。2両編成の車両は上を走っていく。車内はきれいだが乗客は少ない。中洲駅で高雄方面は乗り換えとなる。私は台南方面に一駅乗って保安駅で下車した。

保安駅の駅舎(1908年建造)は実にレトロでよい。そういえばその昔『保安‐永康』間の切符がブームになったことを思い出す。駅前を歩き出すとバス停もレトロだったが、今はかなり荒れていた。更に橋を渡り、向こう側を見ると広大な敷地が見えてくる。駐車場側から入っていく。ここが奇美博物館だった。

奇美実業は台湾有数の企業であり、その老板許文龍氏の名は各方面で知られている。私ももう30年近く前に一度だけ仕事で会ったことがあるが、実に飄々とした人物であった。ただその事業は極めて合理的で、先進的だったことは良く覚えている。帰りに当時の奇美本社ビルの上にあった博物館を見学した。許氏は自らも芸術家であり、世界中から美術品、工芸品を収集し、台南の子供たちに見せていた。

その博物館がいつの間にか郊外の巨大スペースに移されていた。入場料を払い、中に入ってみると、自然科学から歴史まで、展示物はかなり多い。鎧があると思えば、楽器があり、美術品が納められた部屋があれば、はく製なども自然に置かれている。それでもスペースはかなりゆったり取られており、2階まで上がって一生懸命見た。だが私の今回の目的、許氏が自ら作成した日本人胸像を見付けることは出来なかった。この胸像、先日盛岡で新渡戸さんの物を見たし、新井さんについては魚池と沼田で見てはいるのだが、他の人もまとめて見られれば、と思った次第だ。

仕方なく一回りして外へ出た。インフォメーションへ行き、日本人像について尋ねると『以前特別展をやっていた記憶はあるが、今それがどこにあるのか分からない。メールで問い合わせてみては』といい、メールアドレスを教えてもらった。そこへメールしてみたが、その後も何の返答もない。私の言語が不明瞭であったろうか。

台北に比べて南部はかなり暑い。ここから台南行きバスも出ているようだがいつ来るか分からず、結局また保安駅へ戻り、台南駅まで一駅乗る。台南駅は4年前来た時も改装中だったと思うが、今も尚改装中で驚いた。後で聞いたら、途中で工事が中断したらしい。コロナのせいではあるまい。

今日は駅前の老舗ホテルを予約していた。1時過ぎにチェックインしようと思い行ってみると何と『チェックインは4時からです』で言われてしまう。これではまるで東横インだ、と日本語で言うとフロントの女性は『では3時まで荷物を預かります』と今度は日本語で答えた。後ろでも日本語が聞こえるこのホテル、どうなっているのだ。

台中茶旅2023(3)台鐵で雲林へ

4月22日(土)雲林で

今朝も雨が降っていた。それでも駅近くを散歩する。市場では野菜や果物を買う市民が集まっていた。鉄道の線路を越えると、公園のようなところがある。よく見ると古い建物が建っている。帝国製糖廠、ここは日本時代の砂糖工場だった。今は展示館になっているが、まだ時間が早く残念ながら開いていない。それにしても立派な庭園があるものだ。

その向こう側にショッピングモールが見える。ここが三井のアウトレットパークだと聞き、驚く。日本時代、三井は日東紅茶などで台湾を攻め、今は不動産で攻めているのか。実は台中港付近にもう一つアウトレットがあるというから、中国から台湾に進行方向を切り替えている。

その更に向こうには、立派な市場の建物が見えた。建国市場は元気の良い所だった。雨でも濡れないのでここにもお客が結構いた。こんな駅の近くに色々とあるのはすごい。折角なので、ここで朝ご飯として、赤肉麺線を食べる。何だかお店の人がとてもやさしい。料金も優しいので嬉しい。

台中駅周辺は現在再開発が進んでいるということか。そしてまず駅舎が新しくなった。週末そこを歩いているのはインドネシアなどの外国人労働者というのが、台湾の将来を暗示している。そしてもう一つ気になったのは、多くのホームレスが駅で寝泊まりしていること。台湾も経済が良いとは決して言えない。

今日はまっすぐ台北に帰らず、雲林へ行く。区間車で約1時間かかるが、台鐵に乗るのは好きなので苦にはならない。乗客は外国人も多いが、何とか座れたのでゆったりと進む。雨も上がり、晴れ間も見えてくる。何とも揺れが心地よい。新烏日、彰化、二水など馴染みある駅を通り過ぎていく。

11時過ぎに林内駅に到着。ここから歩いて数分で張さんの店に着いた。コロナ中に新たな住居兼店を買い求めたらしい。初めて来たがすぐに分かった。店に入ると旨いお茶が出て来る。さすがは茶師。更には親戚が肉羹麺を買ってきてくれ、昼ごはんとして食べる。雲林の名物は肉羹麺と排骨飯。今回は麺にありついた。

張さんの車で林内神社へ行く。今も日本時代の鳥居や灯篭が残っている。神社までの階段は一体何段あるのだろうか。さすがに足では上がれないと、車で上がる。上から見ると、ここ林内は、南投、彰化との境目にあり、交通の要所と言える位置にあることが分かる。茶葉も以前はこの付近から鉄道で送られていたのだろうが、今や茶畑はほぼない。

土曜日の午後、店に戻ると親族が見ていた。張さんの1歳になる孫娘が可愛い。張さんもメロメロだ。私は今日台北に帰りたいというと、高鐵の駅が車で30分以内の場所に2つあるという。だが折角なので自強号に乗りたいと無理を言う。週末は席がないことが多いとは知っていたのだが、調べてもらうと空席があるらしい。

林内駅で指定席を買い、斗六駅まで車で送ってもらった。途中張さんが『この辺は中国大陸から戻ってきた工場がどんどんできている。それに合わせて労働者も住み始めており、人口は増えている』という。そんな情報、どこでも見たことがない。これがリアルな現状なのだろう。百聞は一見に如かず、ということだ。

斗六駅から電車に乗ったが、以前のような混雑は確かになかった。台北まで3時間20分、高鐵ならその半分で行けるだろうが、やはり旅情がある。新竹ぐらいから、立っていく客が出てきたが、満員電車という感じはなかった。本当は台鐵弁当を買って食べたかったが、満員を予想して遠慮した。台北駅に着くと妙に腹が減り、近所の麺屋で麺を食べて満足した。

台中茶旅2023(2)魚池で劇的に出会い、豊原へ

4月21日(金)魚池で

今朝はゆっくり目覚める。窓の下に台中駅が良く見える。8時半にはトミーが迎えに来てくれた。今日は久ぶりに魚池へ向かう。高速に乗ってちょっと行くともう埔里と魚池の境目まで来る。一体何度ここを通ったことだろうか。ちょっと時間があったので、そのまま魚池の街へ行き、王さんの茶工場、いやお茶屋さんを見学する。4年前はちょうど開店するところで、忙しくしていたのを思い出す。

ところが今や魚池で最も成功した茶業者となっていた。週末は5000人ものお客が列をなしてお茶を買いに来るらしい。ちょうど日月潭への通り道、その立地の良さと、彼のセンスでビジネスに成功した。彼のお父さんは造園業で成功しており、やはり血筋があるのだろうか。血筋と言えばお爺さんは林口茶業伝習所の卒業生で茶業に関わっていた人。残念ながら昨年亡くなられたと聞く。私が訪ねると喜んで迎えてくれた姿が忘れられない。

そして和果森林へ向かった。ここでデニス夫妻と森永紅茶の歴史について語り合うことになっていた。台中から台湾紅茶の歴史を研究する陳さんも駆けつけてきて、議論に加わる。やはり森永紅茶にはかなりインパクトがある。そして日本で森永紅茶復活プロジェクトが進んでいることを説明し、彼らもそこに参画したい、との希望があるようだった。そこで一度日本へ行ってプロジェクトメンバーなどとも会ってみてはどうか、という話なる。

昼ごはんはこちらで美味しいパスタをご馳走になった。旦那のスティーブは用事があると出掛けていく。そして食後の紅茶を飲んでいると、LINEでメッセージが入る。知り合いのKさんからだったが、何と送られてきた画像は和果森林の1階のショップのものだった。ということは下に居るのかと急いで降りて行ったがその影はなかった。電話すると、既に日月潭の方に移動したという。

我々も次の目的地が日月潭だったので、そちらに向かった。湖に臨む絶好の場所に新しいホテルが出来ていた。何とここのカフェを任されていたのが、以前茶旅にも参加してくれたチェスターだった。ホテルはまだ内装中だったが、屋上のバーからは日月潭が一望でき、ホテルの部屋もかなり豪華なもので、中には畳の部屋まであった。

カフェでは各種紅茶などを飲むことが出来、菓子類も充実しているようだった。取り敢えずこんな場所があることが分かり、ちょっと驚く。場所は文武廟の前だから、誰でもわかるだろう。そこへ先ほど連絡したKさんたちがやってきた。彼女とは何年ぶりだろうか。お互い台湾にいることすら知らなかったのに、何という偶然、いや必然だろうか。そういえば4年前にも香港で突然出っくわしたことがあったので、余程のご縁なのだろう。

Kさんたちはこれから豊原へ行くという。何とジョニーのところだと聞き、私も突如同行することとなり、トミーとはここで別れた。それにしても何という成り行きだろう。頼さんが運転する車に乗り、豊原へ向かった。頼さんは最近お茶の販売を始めた人だったが、昨年のエコ茶会でも会っていた。

突然豊原へ

車は1時間ほどかかって豊原に着いた。懐かしのジョニーの店。ここに来るのは久しぶりだ。彼はもうすぐ山の上の茶工場へ行くので、相当忙しいはずだが、Kさんのために時間を取ってくれていた。丁寧にお茶を淹れ、丁寧にお茶の説明をしている。会社の歴史についてもどんどん詳しい説明になっている。2時間ほどがあっという間に過ぎた。

夜は何といっても豊原の夜市へ行く。私が台湾で最も好きな夜市だ。まずは肉圓を食べてスタートする。肉羹は30分待ちの大行列。ジョニーが番号札を取っている間に、頼さんが菱角酥を買ってくれる。これもうまい。食べながら立って待っていると、どんどん客が増えてくる。ようやく順番が来て、肉羹にありつく。これはまた幸せなこと。

食後は歩いて泉芳茶荘へ向かう。夜遅いのにお母さんが『お茶飲んでいけ』と言ってくれる。お父さんの顔を見ることもできた。お母さんが今年の新茶を淹れてくれ、更には何とあの幻の鉄観音茶まで出してくれた。これはもう感激しかない。何と有り難いご縁で、有り難いお茶を頂く。素晴らしい夜だった。頼さんに車で送ってもらい、夜更けの台中へ帰る。

台中茶旅2023(1)茶の本の山に埋もれて

《台中茶旅2023》  2023年4月20日-22日

台北到着後、茶旅の相棒である台中のトミーに連絡したところ、この日なら空いている、と言われ、早々に台中まで行ってみる。彼も今や茶業界の大先生なので時間がある時に会っておこうと思う。

4月20日(木)3年半ぶりの台中で

雨の中、MRTで台北駅へ行く。駅の自販機で高鐵の切符を買った。だが高鐵の改札が通れない。おかしいと首を傾げると、隣の乗客が『ここはMRTの出口だ』と教えてくれる。何と自販機がMRT駅内にあったということをすっかり忘れていた。かなり恥ずかしい。高鐵は値上がりがなく、日本の新幹線の半額だ。客は意外と多い。1時間で高鐵台中駅まで行く。

雨が降っているということで、いつもと違う場所で待っていたトミーと再会。既にFacebookでは見ていたが、3年前と比べてトミーはすごく痩せていた。30㎏以上の減量をしたと言い、今はすごく軽い感じになっている。彼の車も変わっていた。まっすぐ彼の家へ行く。お父さんとお母さんが笑顔で迎えてくれた。

取り敢えずランチでも、ということで、以前も通った近所の小籠包屋へ行ったが、何故か閉まっており、初めて行くハンバーガー屋へ。ハンバーガーなんか食べて痩せられたのはすごいと思う。メニューを見ると金三角サンドイッチがあり、思わずそれを注文する。まだチェンマイ滞在を引きずっている自分がいる。

トミーとは3年半の溝を埋めるのにそれほど時間はかからない。ただ話したいことが多過ぎて収拾がつかない。お家に戻り、お茶を頂く。この後新しくできたお茶屋さんへ行く予定だったが、トミーが『実は最近姉が友人からお茶の本を大量にもらった』と言い出した。よく分からないが、まずはそれを見てからということで、2階に上げる。

驚いたことに段ボール3箱はあった。お茶関係者が亡くなり、その人が集めていた本が遺族を通じて回ってきたらしい。確かに必要のない人にとっては、場所を取るだけの厄介ものだろう。だがその箱を開けてみると、私には宝箱に見えた。そして何気なく一番上の本を開いて驚愕する。そこにはなんと『森薗市二』の名前があったからだ。これは著者が森薗に贈呈した本だった。まさかこんなところで会えるとは。この本により森薗が戦中台湾に滞在したことは完全に証明された。

それから約5時間、そこにあった本を片っ端から読み漁る。よくもこんなに集めたものだ。まずは何があるかを見ているだけで日は暮れてしまった。お茶屋さんに行く暇もなくなった。何とか切りの良い所で本を納めてホテルに向かった。トミーが車で送ってくれたが、夕飯を食べようとは言わなかった。それで彼のダイエット法が夕飯をぬくことであると知る。

ホテルは台中駅の横。以前の定宿だったが、名前が変わり、経営も変わった。料金はそれほど変わっていないが、4年分劣化している。朝食もない。4年前は窓のない部屋でぐっすり眠ったが、今回は窓ありだった。こんな部屋もあったのか。窓からきれいになった新しい台中駅と保存された昔の台中駅のライトアップが良く見える。

腹が減ったので、近所を散策すると、ここは完全に東南アジアだった。ベトナム系のレストラン、雑貨屋、美容室などが軒を連ねている。インドネシア、タイなども見られる。食堂は何となく8時頃閉まるようで、片付け中のところも多い。何とかベトナム系の店に入り、フォーを注文する。まあハノイと値段は変わらないか。中国語が通じるだけ有り難い。台湾には一体どれだけの東南アジア出稼ぎ者が来ているのだろうか。

台湾一周茶旅2016(9)彰化で歴史を、台北で茶博を

5. 彰化
彰化散歩

 

バスで嫌な思いをした上、凄く暑く感じられた。どこでもよいから早く宿を確保して落ち着きたかった。駅前を眺めたが、ホテルらしきものはなく、少し入った場所でビジネスホテルを発見した。その付近はベトナム語など、東南アジアの言葉が並んでいた。宿で部屋があるかと聞くと『あんた、何人?』と聞き返され、ドキッとするが、日本人と答えると笑顔になり、11000元というので、すぐに部屋へ上がった。古いが、昨日より格段に広く、寛げた。空いていれば午前中でもチェックインできるのは、なんとも嬉しい。

 

彰化駅へ向かい、明日の台北行きの切符を買う。日曜日の朝の自強号、簡単に買えてよかった。駅の案内所で彰化の地図をもらい、動き出す。開化寺、孔子廟と進むが、それほど古さは感じられない。彰化に大きな大仏があると聞いていたので、そちらへ向かって丘を登る。途中に抗日記念館があると聞き、それを探すが見付からず、ハイキングコースになっている裏道を登ってみる。結構自然があり、気持ちがよい。上りきると大仏へたどり着いた。

 

非常に天気も良く、ここからの彰化の眺めはよかった。八卦山大仏、アジア一ともいわれるそれは高さ22m、見上げるほどの高さでどっしりと座っていた。観光客も大勢訪れており、強い日差しも風で和らぎ、皆が立ち止まっていた。大仏の中に入り、上に上ることも出るようだったが、遠慮しておいた。

 

車の通る道を降りていくと、さっきは見付からなかった記念館、1895八卦山抗日保台史跡館が見付かった。無料で中に入れ、涼しいので一息つく。そして展示物を見始めたのだが、下関条約により日本軍が台湾に侵攻し、それに対してどのような抵抗が行われたのかが、時系列的にかなり克明に記されていた。

 

ここ八卦山でも激闘があり、北白川宮もここで負傷したとの話もあるようだった(北白川宮はその後台南で死亡?台湾で一番知られている宮家となった)。尚この人物は明治天皇のオジにあたり、明治維新に際しては、色々な話があるようだ。一体どんな人だったのだろうか、興味深い。決して台湾人も初めから日本を受け入れていた訳でもなく、恨んでいた人々も沢山いたことを物語る展示であった。こういう歴史も日本人はきちんと見た上で、台湾が如何になる歴史的変遷を経て、今日、我々に優しく接してくれるのかを考えるべき。簡単に親日であるなどというべきではない。

 

街中に戻る途中、幼稚園があった。しかしその建屋はかなり古い。表示を見ると、元々清の時代に建てられた書院を日本時代に第二幼稚園としたとある。こんな立派な幼稚園があるということが、その当時の彰化の位置づけを語りかけているように見えた。それにしても歴史的建造物の幼稚園に通う園児はどんな気分だろうか。

 

街中には古い畳屋さんがあった。今や日本より、このような歴史的畳屋を見る機会は多い。台湾の家には今でもたまに畳の部屋があるが、畳屋は商売が成り立つのだろうか。昼ご飯は名物にも飽きたので、鶏排弁当を食べる。ボリュームがすごい。宿の周囲も古い街並みだが、その中でも1つの大旅社が観光スポットになっており、台湾人が写真を撮っていた。30年前、こんな旅社に泊まったことを懐かしく思い出す。

 

午後は疲れが出たので、ゆっくりと休養した。そして暗くなった頃、再び街へ繰り出した。土曜の夜であり、人々でごった返していた。宿のすぐ横は有名な肉圓の店らしく、行列ができている。私はそことは反対側で昔からやっている店でゆっくりと肉圓を味わう。地元の常連さんしか来ない店はちょっと入り難い。

 

更に駅前付近をうろつくと、こちらは観光客用ではなく、完全地元仕様の店が並んでいた。こんな場所がうまそうに思える。私の好物の魷魚肉があったので、飯を入れて食する。最近はイカの味に問題のある店もあるのだが、こちらはちゃんとした食材を使っていて、しかも安い。有り難い。

 

6. 台北2
茶博覧会へ

 

1120日(日)

翌朝は9時過ぎの自強号で台北に向かった。やはり切符を買っておいてよかった。途中駅から乗り込んでくる乗客がどんどん増え、本当に超満員、立っているのも大変な様相となる。3時間で台北駅に着き、定宿に荷物を運び、昼ご飯を食べに行く。それから南港の展示館へ急ぐ。

 

今日まで台湾国際茶酒珈琲展が開かれている。先日行った瑞穂の粘さんも参加すると聞き、顔を出したみたわけだ。予想以上にブースがあり、日曜日で人が多かった。ここでは、魚池で以前訪ねた茶農家が出店していたり、三峡で緑茶を作っている元気な家族に出あったり、埔里の茶農家とも知り合い、有意義だった。

 

日本から来た人々が手もみ茶の実演をしていて驚いた。抹茶と黒糖をコラボさせた飲み物を売り込んでいる日本人もいた。それでもやはりメインは、酒コーナーだった。コーヒーに集まる男性も多かった。それに比べればお茶は今一つかもしれない。日本酒コーナーも人気だった。これだけの規模の展示場を回るにはもう体力がなかったので退散した。夜は奮発して魚を食べ、すぐに寝る。

 

1121日(月)

 

翌朝は午前9時前のフライトに乗るため、午前5時半には宿を出た。雨が降っており、濡れた。空港行バスの乗り場の位置が変わっており、乗り方もちょっと変化している。空港に着くと雨が上がり、飛行機は順調に飛び立った。午後1時前には成田空港に到着、今回のミッションは終了した。