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北京・天津旅2024(1)北京再入国

《北京天津2024》  2024年1月18₋21日

昨年11月、チェンマイからの帰途、北京に立ち寄った。そして今回、その折り返しのチケットで、また北京に降り立つことになっていた。なぜ上海経由にしなかったのか、と聞かれても、その答えは自分の中にはない。と言って北京にどうしても行きたい訳でもない。それでも行ってしまう北京とは。今回は日帰りで天津まで足を延ばす。

1月18日(木)北京再入国

朝4時前に起きた。すぐに羽田へ向かって始発電車に乗る。今日は北京へ向かうのだが、羽田空港出国の大行列を想像すると夜も眠れない。それなら始発で行ってゆっくりしようかと考える。始発電車にも結構乗客がいて、座れない。まあ混んでいる訳ではないので、ゆったりと構えて向かう。

6時頃羽田空港に到着したが、人は殆どいない。何とまだチェックインカウンターも開いていない。普通はWebチェックインで、そのまま保安検査場へ行けるのだが、中国行きには特別カウンターが用意されている。ちょっと待つとチェックインが始まり、臨時入境のため、書類チェックが入念に行われた。

それが終わると保安検査場へ。もう少し遅い時間だと長蛇の列だったが、この時間だと人は少なく、10分で通過可能とある。ところが何と荷物検査で引っかかる。知り合いから頼まれていた日本酒を機内持ち込みしようとしたが(預け荷物無し)、なんと持ち込み不可で没収だという。私は酒を飲まないので、長年海外に酒を持っていったことがなく、そのルールに疎かった。

どうしても酒を持っていかねばならず、一度カウンターに戻って荷物に入れて預ける必要があった。特別ルートで戻され、預けてまた特別ルートから再検査となった。まあこれもいい経験だろう。出国が完了してお土産を少しだけ買う。その頃ようやく朝日が昇り始める。早く来ればそれだけ早く出国できることを実感する。次回からいつも始発にしようか。

フライトは順調だった。やはり乗客は多くはなく、日本人より中国人の方が多いのは変わらない。食事は前回とほぼ同じで選択権なし。もう期待はしない。映画を見ながらウトウトする。ちょうど12時頃、北京空港に到着した。前回も行ったので臨時入境手続きの場所は分かっていたし、書類も事前に書いていたが、何と20人以上の列が出来ていて、窓口まで辿り着けない。

仕方なく、シムカードの交換などをしていると、何とタイのシムを落としてしまう。あの小さいシムカード、一度落ちるとどこにあるのか分からない。バッグの中に落ちたのか、と探すのを断念する(結局紛失)。タイのシムでよかったが、これが中国や日本だと再発行が想像するだけでも大変だ。

結局40分以上かかってシールを貰い入国。預け荷物のレーンは既になく、荷物を探して右往左往。だから預けたくなかったのに荷物。今回は昼まで荷物も少ないので、地下鉄で市内へ向かう。ここはさすがに現金でも切符が自販機で買える。だが地方から来た老人たちが切符を買えずに困っており、私が教える羽目になる。不親切にも職員はいないのだ。

今回はチェーンホテルの前回とは別の宿を予約してみる。駅から地図上では遠くないのだが、実は道が限られており、意外と歩くのは大変だった。そしてチェックインしようとしたが、スタッフは私のパスポートを持ったまま、他の中国人の対応に追われ、私の順番は全く進まない。20分ぐらいして、ようやくお客が途切れ、『私のチェックインは』と聞いたら、『あなたは誰?』と聞かれたので、さすがに頭に来た。

その後上級スタッフが平謝りしていたが、同じチェーンでも対応がかなり違うことを実感。また中国人の横入りは普通だが、いくら何でももう少し配慮が欲しいところ。まあ、こういう時は間が悪く、前回に比べて部屋も良くなく、更に落ち込む。スタッフが部屋まで来てきてしきりに『微信で繋がりましょう。こちらでご意見を承ります』というのも、少し気に障る。

ちょっと北京散歩2019(3)苦節5年、ついに決着

10月23日(水)
ついに決着

今日は午前中、ティールームで旧知のMさんと会った。Mさんとは今年3月、四川の旅をご一緒し、団体さんが帰った後も、本格茶旅に付き合ってもらった。彼女も北京滞在20年を越える人だから、一応Hさんにも紹介する。Mさんが気功、薬膳の話をすると、サックスを吹いているHさん、呼吸の話に大いに興味を持ったようだ。

 

今や殆ど見られなくなった武夷山の白鶏冠のサンプルをもらい、Mさんが淹れてくれた。驚いたことに、彼女は来月住み慣れた北京を離れ、上海に引っ越すらしい。自分の決断ではないようだが、偶には環境を変えてみたい、ということだろうか。上海に行けば、きっと北京を懐かしむことになるだろう。Hさんは途中で香港に帰って行き、今回の私の任務は全て終了した。

 

昼は隣のビルに勤務する、元同僚の中国人と会う。これまで会う時は、出来るだけ彼の家のある、中関村方面にしていたが、今回はランチしか空いていないというので、珍しく職場付近になった。年度末ということもあり、彼はとても忙しく、食事の途中で職場から電話があり、あっという間に呼び戻されてしまった。やはり職場の近くではゆっくりできない。そして現在中国経済が置かれている状況についても何となく分かる感じがした。

 

午後はまた西の方へ行く。もう5年以上前に銀行カードを失くしてしまい、そのために現金も引き出せないし、口座の解約もできない状態がずっと続いていた。既に10年前に北京を離れており、5年前に北京を旅した時からこの戦いは始まった。簡単に再発行できるだろうと思っていたら、何と口座開設時に登録したパスポートが更新されており、古いパスポートも持ってこないと手続きできないと言われたことに始まる。

 

その1年後に行っても、『お前の口座は見つからない』とか、『カード再発行には1週間かかる』とか、言い訳をさんざん言われ、どんどん手続きは厳しくなり、ようやく2年前に再発行の手続きをしたが、1年前に取りに行く時、何と間違えて隣の支店に行ってしまい(大手銀行の支店は多すぎる)、らちが明かず。そしてついに今日、全てをそろえて万全の態勢でカードを取りに行った。

 

しかしやはり、2年前に申請したカードをきちんと管理しているほど、中国の銀行は甘くない?ただ彼らも私の事情は十分に分かってくれ、懸命に探しているようだったが、最後は本店に電話を入れて、カードなしで口座を解約して、口座残高を現金で渡してくれた。ああ、苦節5年、中国の銀行とは何と面倒なことか。いや日本でも対応は親切だろうが、手間はかかるだろうな。ただ中国で今から外国人が口座を作るのは大変だとも聞いており、口座を残しておけば、何かに使えるかもしれず、ちょっと残念だった。

 

それから東の方に戻り、昔住んでいた辺りを散歩していると辺りが暗くなる。そのまま歩いてホテルまで帰ることにしたが、今晩は予定もなかったので、その辺で夕飯を軽く食べてから戻ろうと思った。が、オフィス街では一人でサクッと食べられる店は多くはなく、結局ホテル裏のモールで麺を食べた。このモール、夜もレストランは意外と混んでいる。仕事帰りのOLが一人で食事をしている姿も見られた。今やデリバリーフード全盛の中国だが、勿論外で食べる若者もいるのだ。

 

夜は部屋でサッカーACL準決勝、浦和対広州恒大の試合を見た。今季リーグ戦不調の浦和だが、この試合に賭けていたのか、第一線のアドバンテージも生かして何とか競り勝つ。その後NHKでニュースを見ていたが、香港騒動のニュースはきれいにブラックアウトしていた。ウイグルと香港は見られない。

 

10月24日(木)
台北へ

今朝は5時に起きて、6時前にホテルを出た。朝8時半のフライトで台北へ帰るためだ。私はこんな朝早いフライトを選択することはないが、今回はスポンサーが選んでくれたので、仕方がない。そもそも昨日変えるべきところを1日延長してくれたのだから有り難いと思わなければいけない。そしてちゃんと運転手が空港まで送ってくれるのだから尚有り難い。

 

朝の空港は相変わらず混んでいたが、それでも比較的スムーズに通り抜けた。既に9月末より大興空港が開港したとニュースでは聞いているが、まだ殆どのフライトは北京空港を使っているらしい。巨大空港の試運転はいつまで続くか分からない。北京市内からも相当に遠いようで、利用者は大変だ。私は今後も安全なエアチャイナを使うことにしよう。今回は自分の旅ではないので、あっという間に過ぎてしまった。目をつぶっていると台北に着いてしまう。

ちょっと北京散歩2019(2)新旧北京を巡る

そこから王府井に歩いて出た。ここも以前に比べれば歩いている人は多くない。既にかなり疲れてきたので、ここから地下鉄で帰ろうと思ったが、ちょうどそこに北京飯店があり、Hさんの希望で見学することにした。入ってみると、昔の面影はあまりなく、ロビーはすっかりきれいになってしまっていた。

 

コーヒーショップでコーヒーを飲もうと注文すると、ウエートレスがいきなり『今日はシステムに不具合があり、現金は使えませんが、大丈夫でしょうか?』と訳の分からないことをいう。現金しか使えない、の間違いではないのか。私が支付宝を持っているというと、ウエートレスはホッとした顔でコーヒーを提供する。外国人が利用するホテルで一杯63元もすると飲み物の支払いさえも、難しくなってきている。最後にシステムが治り?Hさんが現金で支払って、ご馳走になることが出来たのはよかった。

 

ホテルに戻って休む。夜は知り合いのMさんとKさんに来てもらい、昨日の夜と同じレストランの同じ個室で食事をした。目的は昨今の北京情勢を聞いて、12月のイベントに備えることだった。この二人とはもう10数年の付き合いになるが、こんなフォーマルな席を共にするのは初めてであり、何だか緊張する。オーナーからは高級ワインの差し入れもあり、いつもと様子が違う。それでもHさんが質問を連発して、かなり長い時間を付き合わせてしまった。まあ、偶にはいいか。

 

10月22日(火)
北京散歩2

今朝も天気が良い。朝飯の後、テレビを見る。このホテルではNHKワールドプレミアが映るので、便利ではある。今日日本は祝日、雨の中、新天皇の即位の儀式が行われており、生中継を見ることが出来た。この儀式については賛否あると思うが、色々とものを考える節目にはなる。

 

大戦後、昭和天皇はなぜ退位しなかったのか、とても疑問に思っている。そしてその流れが平成天皇の生前退位となったような気がしてならない。皇后など皇族の服装などに関心が集まるのは、正直ちょっと頂けない。ワイドショーとは、『話を広げる』という意味なのだろうか。

 

快晴の北京で外に出た。茶荘の店長に連れられて、三里屯に行ったのは意外だった。そこには、何と高級車のショールームがあったのだ。我々とは無縁に思われる高級車だが、そこにも高級茶として岩茶が置かれ、スタッフが派遣されて、上客に茶を振る舞っているという。写真を撮ることを遮られた車、聞けば1台日本円で1億円ぐらいするらしい。ショールームと言っても既にほぼ予約済みの車が飾られているようだ。やはり中国経済の勢いは未だ全て止まったわけではない。

 

その後早めのランチを食べに行く。店長と運転手は共に北京人だといい、かなり力を入れて?伝統的な北京料理をオーダーしてくれた。この店は最近流行っていると言うだけあって、店内もきれいで、料理の盛り付けなどもインスタ映えする内容だった。私は久しぶりに濃厚な味付けの腰花が食べられて、満足する。Hさんも初めての北京料理に『意外にうまい』と言って手を伸ばしている。

 

一度ホテルに戻り、ホテル裏にあるショッピングモールを見学する。昼時は近所のオフィスビルからOLなどが大量にランチにやってくる場所で、それ以外の時間は閑散としているらしい。もしイベントをするなら、ランチタイムしかないな、と感じる。今北京にはモールが多過ぎて、お客も相当に分散している。

 

午後はHさんの希望で、什刹海へ地下鉄で向かう。ここにジャズクラブがあるので行って見たということだったが、確かに東岸という名前のクラブが存在した。北京にもジャズ好きがいるのだな、と初めて認識する。そしてここに出演している人の中に、日本人もいるのに驚く。活躍の場を中国に求めた人々なのだろうか。いずれにしても昼下がりに演奏はなく、お客もおらず、その雰囲気は掴めないが、建物の古めかしい感じは悪くない。

 

そのまま歩いて南羅鼓巷まで行く。ここは昔大好きな場所だったが、今は新しい土産物屋や食べ物屋が並び、大勢の観光客の波が押し寄せ、完全に浅草のようになってしまっていた。ここが初めてのHさんには、ちょっとした北京下町散歩で良かったようだが、昔を知る者からすればかなり残念な状況だと言わざるを得ない。

 

夜は西側まで地下鉄に乗って行く。旧知のWさんと会うためだ。10号線に乗って行ったが、やはりそれほどの混雑がない。駅を降りてから、大きなモール付近にあるレストランを探すのに苦労した。北京でも珍しい南京料理の店で、美味しい魚をご馳走になった。Wさんは更に精力的に活動しており、頻繁に日本にも行ってようだ。Hさんとも話が合い、楽しい夜を過ごした。

ちょっと北京散歩2019(1)天安門へ

《ちょっと北京散歩2019》  2019年10月20日-24日

昨年12月の香港及び北京、今年4月の香港そして武夷山でお世話になった香港のお茶屋さんのイベントに関して、またお声がかかった。ただ今回は何と12月に北京で行われるビックイベントの下見として、日本人Hさんのお供をするという、ちょっと変わった旅となる。久しぶりの天安門に北京飯店、何となく新鮮で不思議な体験だった。

 

10月20日(日)
北京へ

台北から北京に行く。初めての試みだ。航空会社はエアチャイナ。まずはバスで桃園空港に向かう。中華航空やエバ空港と同じ第2ターミナルから出発する。エアチャイナはエバ航空と同じスターアライアンスグループだが、ラウンジは中華航空の場所を使うらしい。搭乗ゲートが近いからという理由だったが、如何にも中国人のニーズに応えた対応だと思われた。

 

エアチャイナには何度も乗っており、機内はいつもと何ら変わらない。3時間ちょっとで北京に到着する。ところが空港の入国審査、外国人が殺到しており、審査場に入るのが制限されるほどだった。ようやく審査の列に並んだが、長蛇の列でいつ辿り着くのかも分からないほどだ。こんな北京空港、見たこともない。何かあったのだろうか。旅行シーズンということか。

 

列に並びながら、周囲をキョロキョロした。ほぼ同じ時間に香港からやってくるHさんを探してみたのだが、人が多くて見付からない。フライトもちゃんと着いているのか分からない。そんな時、Hさんの姿が目に入り、無事合流できた。そしてダラダラと1時間ほどかかって何とか入国する。ちょうど直前に北大の准教授が中国で拘束される事件もあり、少し緊張したが、何事もなく過ぎた。

 

出口には、迎えの運転手が待っていた。昨年12月と同じ人だった。Hさんは北京が約20年ぶりだと言い、何から何まで見たこともない風景だという。今日は日曜日ではあるが、三環路のホテルに着くまでには、かなりの渋滞があった。空気は以前に比べるとかなり良くなっており、気候も10月の秋の北京で気持ちがよい。

 

ホテルに着くと、香港から来た老板が我々を待っていてくれた。早速レストランの個室で、夕飯が始まる。蒸し魚、茹でエビ、北京ダック、そして極めつけは季節の上海ガニ。それも1杯、300gもある特大の蟹で、これまで食べた中で最大だったと思う。しかも一人3杯も用意されてあり、残念ながら2杯しか食べられなかった。何だか全てが超高級なメインデッシュだけで構成された夕食で、驚いてしまった。Hさんは麻婆豆腐が食べたいと言ったが、結局出てくることはなく、腹は完全に一杯となり、すぐに部屋に戻り休む。シャワーを浴びて寝ようとしたところ、バドミントンの男子シングルス決勝に桃田が出ており、それを見ながらそのまま眠りにつく。これは何とも幸せな夜だった。

 

10月21日(月)
北京散歩

朝は快晴だった。まさに北京秋天。朝ご飯をホテルで食べると外へ出てみた。気持ちがよい。近くのセブンイレブンに行くと、若いサラリーマン、OLが朝ご飯を買っていた。私以外は全員スマホ決済で、現金を出した私を見て、『どこの田舎から来たおじさんか?』といった顔をしているのがよく分かった。

 

午前中は、ちょっと打ち合わせがあり、今回北京に来た目的の一部を早々に果たした。私の役割は、こちらの秘書とHさんの通訳をすることになった。また同時に中国の習慣などをHさんに伝えることも必要となる。このホテルでは今晩、映画の新作発表会があるらしく、その準備が進んでいた。若い二人の主演俳優の写真や映画ポスターなどが展示されており、ファンなのか若者が盛んに写真を撮っていた。

 

昼ご飯は公寓のレストランで特別にスパゲッティーを食べた。こちらも12月にちょっとしたイベントをやる予定で、打ち合わせした。併せて2階のプライベートティールームにて、私の小セミナー開催も決まった。北京でお茶の話、一体何を話せばよいのだろうか。でも日本語でよいというのでかなり気は楽だ。でも誰が聞きに来るのだろうか。

 

午後はHさんの北京散策に付き合った。地下鉄に乗って天安門広場へ行く。地下鉄カードを忘れてきてしまい、一々切符を買うのがとても面倒だったが、いずれにしてもHさんの分は買わなければならなかったから、手間は一緒だ。昔は大混雑だった1号線、車両もきれいで心なしか空いている。

 

天安門東駅で降りると、警備は以前より厳しかった。広場へ向かう道もかなり制限されている。つい20日前に建国70周年の記念式典があったのだから、その名残だろうか。広場に行ってみても以前に比べて観光客が少ない。特に中国の地方から来た人、お上りさんがそれほど多いと感じられない。これだけ天気の良い10月、昔なら観光客で埋まっていたはずだが、何か制限でもあるのだろうか。天安門の下を潜り、門の上に登れるかと思って見てみると、切符売り場はきれいに無くなっていた。

 

ごく一部の人が横からひっそりと登っていくのが見える。どうやらここを登るには事前予約が必要らしい。更には故宮に入るにも、QRコードの読み込みなど、面倒な作業が必要らしい。しかも月曜日は休館日で閉鎖されており、結局入ることは出来なかった。本当に外国人にとっては、不便な国になったと言わざるを得ない。

【上海歴史散歩2009】 

【上海歴史散歩】 2009年4月26日(日)

23年前に留学した上海、その時の印象は決して良いものではなかった。留学生なのに生活に追われていた?こともあり、また上海側も歴史的な建造物、場所を保護しようともしていなかった。歴史散歩など思いもよらなかった。

2006年2月、2007年10月と上海を訪れ、少しずつ散歩した。今回は大先輩の思い出の場所、東湖賓館及び前日ワイン会でSさんが魯迅の孫に会った、と言ったことから、魯迅関連の場所を訪ねて見た。

1.東湖賓館

先日大手商社を退職されたMさん。1975年から中国ビジネスに関わっていたと言うベテラン中のベテラン商社マン。先日のミニ送別会の席で、『1980年に上海で東湖賓館を押さえたことが、一番の仕事だった』と振り返って言った。

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当時上海にはホテルが少なく、ホテルの部屋を予約するのが駐在員の一番の仕事。私が留学中の86-87年も事情は変わらなかったからその大変さが良く分かる。合弁ホテルなどはなかった。予約は実質出来なかった。予約しても、予約金を入れても当日党のエライさんでも来れば、常にキャンセルされた。

そんな時代に賓館(ホテル)を押さえたことは大きい。出張者は安心して出張できるし、恐らくは駐在員もそこに住んだだろう(当時はアパートもなく、ホテルの一室に住んでいた人が多い)。

陜西南路にある城市酒店を出発。南に下り、新楽路を右折。角には由緒正しそうな建物が。今はホテルであるが、1932年にフランス人のラファエット建築士が設計。上海暗黒街の大ボス杜月笙が設立した三?公司のオフィスであった。飾り窓とベランダ、外壁はきれいになっているが渋い外見を残している。

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尚現在日経新聞に連載中の高樹のぶ子の小説『甘苦上海』は正直一体何を言いたいのか分からないが、何故か私にとっては懐かしい地名が沢山出てくる。この三?公司の建物も小説の中では主人公が食事をするホテルのレストランとして登場する。

この新楽路、左右に古い民家が並ぶ。フランス租界特有の3階建てのちょっとお洒落な建物。東正教堂と言われる古い教会も残っている。1932-34年ロシア形式で建造。5つの玉葱型の尖塔に特徴がある。

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少し歩くと東湖賓館の裏側に出る。公寓も迎え側にある。道を回ると正面玄関へ。非常に感じの良い庭があり、お洒落な雰囲気が漂う。フロントで『お洒落なバーがあると聞いたのですが』と質問すると、それは道の反対側だという。

1920年代から40年代に掛けて建てられたというこのホテル、上海暗黒街のボス、杜月笙の邸宅として部下が建築したと聞く(実際には杜は住む機会がなかった)。由緒正しい5階建てのホテル(85年に従来の3階建てを改装)。主楼の前にはきれいな前庭、そしてそのまま別棟に続くアーチがある。かなり広いかと思っていくと直ぐに突き当たる。ここには2-3の建物があるだけである。

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道の反対側には何があるのか?見ると確かに6号楼という建物がある。1925年建造。特に古めかしいと言う感じはないが、エレベーターで2階に上がる。2階にはラビエラという名前のコーヒーショップがあった。中に入るとなかなか雰囲気がよさそう。ここがバーかと思ったが、夜もコーヒーショップだと言う。

ランチが38元と安かったので、ここで食事をする。ポテトサラダとカレー、コーヒー、デザートも付いていた。かなりお得。特にカレーはかなり美味しい。やはり北京とは違って、上海は質が良くて安い。

ここを出ると横に門がある。公園かなと思って眺めると、ここも東湖賓館であった。何と広いことか。入ると右側に建物がある。これはなかなか雰囲気がある。玄関には『大公館』と書かれた看板がある。中に入ると極めてクラシックな造り。昼間でも暗いが、趣があるスペース。1階の入って直ぐにバーもある。2階は個室とか。

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シガーバーもあった。奥にも怪しげな部屋??がいくつか。こんな所で昼から密会している人はいない。更に行くと庭が眺められる場所へ。結局誰一人食事をしている人はいなかった。よほど高級なのだろうか。写真禁止で残念。庭へ出るといくつか建物がある。全て人が住んでいる気配。別荘風戸建て。大きな庭を挟んで点在。こんな所に住めれば気持ちがよい。門を出て花屋の横に金洋バーと言う名前の店があった。ここも1階。今回ある方の要請で『東湖賓館の主楼以外の建物の2階にある雰囲気のあるバー』を探すと言う企画があったが、残念ながら果たせず。

2.虹口
(1)内山書店

東湖賓館から去り、地下鉄に乗って虹口へ。虹口足球場まで行く。上海の地下鉄は最近急速に増えたようで、何処を何線が走っているのか、テンで分からない。何とか1号線を人民広場で乗り換えて、8号線で向かった。

日曜日の昼下がりの地下鉄は予想外に空いていた。座席に腰掛けて本を読むのは無上の喜びだ。北京ではなかなかない場面。上海の交通整備振りが窺われた。

地下鉄を下りて足球場を過ぎ、魯迅公園の前を通る。魯迅公園は戦前の名称が新公園。私が留学した86-87年は虹口公園と呼ばれていたはず。88年に現在の名称へ。ここは前回も訪問しているので、中には入らず先に進む。

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目指すは旧内山書店。23年前の留学時には時折バスの中から、眺めた場所である。当時既に中国工商銀行の支店になっていたが、何となくここが内山書店と言う感覚はあったが、バスをおりて見ることは無かった(あの頃一度バスを下りると乗るのが大変だったなあ)。

今回訪ねてみると、銀行の壁に魯迅と店主であり魯迅を匿ったとされる内山完造の壁画が描かれていたり、いくつも文化記念地点の表示がなされていたりした。しかし2階を見学できると書いてあったガイドブックがあったが、何処から入るのかも分からない。

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取り敢えず隣の新華書店で上海市の地図を買い、気分を出す。手には『伝統の日中文化サロン 上海・内山書店』(太田尚樹著 平凡社新書)がある。この中でここ内山書店が果たし役割が如何に大きかったが読み取れる。

内山完造はよほど魅力的な人物だったらしい。貸し売り(代金後払い)と言う当時としてはリスクの高い商売をしていた。これは信用の上に成り立っている。中国人に対しても分け隔てなく、貸し売りをしていれば、必ず評判になり、口コミで人が集まったであろう。『いつ行っても老板がお茶を入れて歓迎してくれる』とは実に良い。

谷崎潤一郎、佐藤春夫、金子光春など日本の蒼々たる文人が訪れている。魯迅、郭沫若、田漢、郁達夫などの中国文化人とも交友があった。当時の文化人は同時に革命家でもあり、魯迅を庇った内山は常に危険に晒されたことだろう。

1929年にこの場所に移転してから、終戦まで。日本が軍国主義をひた走り、暴走し、そして自壊した、その中で内山とその書店は日中を繋いでいた。何と言えばよいのか。

(2)魯迅故居

内山書店から魯迅故居までは歩いて10分弱。非常に近い。現在の山陰路をカーブするとそこは戦前の日本人居留区を若干保っている。パラソルの下で野菜や果物を売っている。その上には布団が干されており、2階の窓がちょっとお洒落。

 

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魯迅故居の看板を見つける。その道の反対側には瞿秋白故居もあったが、こちらは看板だけで、中には入れない。と言うか、特に保護されている様子もない。魯迅と瞿秋白、生前頻繁に往来し、仲の良かった二人。瞿秋白夫妻は南側の2階に住んでいたと言う。このアパートは日本人が居住するため造られており、魯迅が内山完造に依頼して、借りてもらっていたと言う。

瞿秋白は30年頃には一時共産党の最高指導者の位置にもついた人物。文革で弾劾されるなど、魯迅とは違い死して尚評価が定まらなかったことが災いしたのだろうか??

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魯迅故居は里弄の中にあり、看板がなければ判らない場所にある。回りには普通の人々が昔ながらの生活をしている。洗濯物は物干し竿に掛けられ、外に突き出している。切符売り場に入る。入場料8元。売り場のおばさんが『日本人?』と聞いてくる。やはり日本人が多いようだ。

隣の建物に入ろうとすると警備のおじさんに遮られる。何で?ボランティアの若い女性が『今他の人が見学中』と言う。そんなに狭いのか?仕方なく、待つ間、その辺の写真を取り捲る。

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ようやくOKが出て、中へ。若いボランティアが付いてきて、ちゃんとした説明を始める。1階にはテーブルがあり、食事をした場所か。2階は魯迅の部屋、そして奥さんである許広平の寝室もある。またお茶好きの魯迅が使ったと言う茶碗なども食器棚に入っていた。『魯迅はどんなお茶を飲んでいたの?』などと意地の悪い質問をすると、後ろに控えているベテラン警備員が答えてくれるのが微笑ましかった。

3階は魯迅の息子周海嬰の部屋。日本人画家が描いたと言う子供向きの絵が架かっていた。魯迅の死亡後、太平洋戦争勃発と同時に日本軍の憲兵隊がこの家に押し入り、資料と許広平を連れ去ったと幼い海嬰が内山に電話したのはここからだろう。

因みにこの家も内山が内山書店店員の名義で借り、ラモスアパートから魯迅をここへ移したものらしい。3階の部屋と反対側には物干し用の屋上への出口もあった。魯迅はここから何度か逃げる用意をしただろう。外へ出ると、猫が一匹、大人しくこちらを見ていた。

(3)長春公寓

宝山路に出る。この辺りにも旧租界のムードが出ている。如何にも旧日本家屋と思われる平屋の建物も見える。この辺りの一部は60年以上変化していない。しかし周りは既に開発が進んでおり、高層マンションも見える。

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更に漂陽路に入ると雰囲気が一変。古い洋館が立ち並び、良い雰囲気が漂う。北側の道沿いを歩くと壁にこのあたりの古い建築物、革命に参加した人々などを紹介するプレートが数多くはめ込まれている。気分よく歩いていると、横道に立派な建物が目に入り、思わず曲がる。

長春路、この道の北側は20年代に建造された欧米近代風の長春公寓が建っている。『虹口地名志』(1989年)の‘長春公寓’の項を引用すると、元は北端公寓と呼ばれ、『1921年前後の建築、一度火災に遭い、1928年前後に再建 』とやや曖昧なところがある。現在の建物は従来の4階建てを1936年に2階付け足して6階建てに改装されている。

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また向かいの南側には沙遜楼群がある。先程見掛けたのはこちらの建物。イギリス風の重厚なレンガ建築。非常に良い佇まいで、思わず住んでみたくなる。オランダ風の装飾が施されていると解説されているが、どこであろうか?この地区は2004年に地元と華東師範大学が共同して、景観を保護。『以前のまま保護』する事を原則としている。

(4)横浜橋

四川北路に戻り、少し南下。すると道の西側に門が見えてくる。多倫路文化名人街とある。旧日本租界はこの辺りが中心であった。内山完造、ジャーナリスト松本重治、尾崎秀実、詩人の金子光春などが住んでいた。

現在は1998年にこの辺りが整備され、一大観光スポットとなっている。この日も天気がよく、多くの人が歩いており、小物、骨董などを見ている。雰囲気の良い場所をブラブラ歩くのは良いものだ。

 入り口近くには『公琲珈琲館遺跡』という看板が出ている。今はどう見ても珈琲館ではなく、写真屋か何か?突然コーヒーが飲みたくなる。租界時代にコーヒーを飲むことはステイタス、そんな記述が『懐旧的中国を歩く』にあった。租界が出来てコーヒーがもたらされた当初は上海人の生活とかかわりがなかったが、1920年代から30年代には多くの珈琲館が出来、進歩的な文化人が出入りし、珈琲館に座ること自体がステイタスみたいになったモダンな時代。50年代から60年代には珈琲館は時代にそぐわないものとして姿を消した。

鴻徳堂という屋根が中華風の教会(1928年建造)あり、有名な名人茶館(既に閉鎖された模様)あり、なかなか楽しめる散歩である。道は北上する(様々な商店や毛沢東記念館のようなものがあるらしい)が、私は南へ。目指すは横浜橋。

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横浜路へ出る。ここは昔の日本租界の雰囲気を伝えている。如何にも2階の窓から日本の布団を干しそうな風景がある。お洒落なべランダの付いた2階建てがある。上海市の歴史遺跡に認定されている。

そこから四川北路に戻ろうと行くと、河がある。既にきれいに改修された川辺から眺めると向こうに橋が見える。あれがお目当ての横浜橋。急いで橋の袂に。最近架け替えられてきれいになっている。ちょっと残念。

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更にビックリしたのが、この橋、横浜の地名から取ったと思い込んでいたが、違っていた。『浜』という字は『水路』の意味で、何と『横濱』とは意味が異なるばかりか、発音まで違うのである。『濱(bing)』と『浜(bang)』。確かに翌日市内の南西の方に『肇家浜路』という道があり、タクシーの運転手に『bang』と直されてしまった。とんだ横浜間違い、結構疲れてしまい、タクシーで新装なったガーデンブリッジを経由してホテルに戻ってしまった。

3.紅房子

ホテルから歩いて3分の所に紅房子があった。ここは留学中、珍しかった洋食を食べさせる店であり、留学生仲間とよく行った場所だ。今回その時の仲間、H君夫妻と22年ぶりに食事をしに行った。

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『懐旧的中国を歩く』(樋口裕子著 NHK出版)と言う本を読んでいたら、以下の記述あり。

『紅房子西菜館』は1930年オープン。租界で偶然出会ったオーストリア人とイタリア人の男女がガレージを改造した店舗で乏しい資金で始めた。文革中に他の西洋料理店が次々閉店する中、この店だけは中国人のコックに引き継がれて残った。北京から来た紅衛兵も記念に食事したと言う。

80年代のこの店の印象は薄暗かった。外国人は2階、中国人は1階との区別もあり、値段も違っていた。当時は高級レストランだった。その後一時店を移転し、ビルを建てた。現在の紅房子はビルの6階にある。正直あまりの変わりようにH君は『本当に行きますか?』と聞いたぐらいだ。

メニューも大幅に変わっていた。逆に昔からあるメニューに印が付いていた。きっと我々のように昔を懐かしむためにやって来る人があり、そのための配慮であろう。私の印象ではポテトサラダ(かなりマヨネーズがべったり)、オニオンスープ、ハマグリのガーリック焼き(かなりの油)があった。今回もそのメニューを頼む。味はお洒落になっていた。ハマグリを入れる器(真鍮か?)だけが昔の姿を留めており、懐かしさがこみ上げた。

正直に言うと店内もきれいになり、メニューも洗練され、自社名を入れたワインを置く紅房子にはもう用はない。ウエイトレスに歳を聞くと『1983年』との答えで、H君が初めてここで食事をした年であった。

4.新天地

その後H夫人(フクタン大学本科卒業の中国人で私の家庭教師)が新天地に連れて行ってくれた。ここは2001年に香港資本により開発された上海屈指のお洒落なスポット。元々は1920~30年代に建てられたモダンな雰囲気の「石庫門住宅」 を修復し、旧フランス租界の街並を再現した。「石庫門住宅」とは、洋中折衷様式で盛んに造られた集合住宅。ボロボロとなっていたタウンハウスを改造し、お洒落スポットに転換した所はさすが。

雰囲気は以前訪れた時少し変わっている。常に拡張し、マイナーチェンジをしているそうだ。本日も非常に多くの人が集まってきている。上海に来た地方の人々、外国人観光客、そして地元に住む人々。ここには不況は感じられない。

新天地の端を歩いていくと、倉庫のような所に出た。ここにはスポットは当たっていない。「中共一大会址記念館」とある。1921年7月に共産党の創立大会がここで行われた。毛沢東他13名が出席。歴史はここから始まった。今の新天地の姿を見たら、毛沢東も驚くだろう。因みに翌日ホテルの近くで「中共二大会址」を発見。1922年7月に開催された。きれいに整備された記念館となっていた。老成都北路7号。

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H夫人のお供で、ライブスポットへ。かなりの賑わい。H夫人はサルサを習っていたとかで、その先生たちのサルサを見せたかったようだが、夜10時でも彼らは姿を見せなかった。代わりに彼女の知り合いの高学歴、高収入の人々がサルサに熱中していた。日曜日の夜なのに、明日も仕事がないかのようなパワフルな人々。まるで日本のバブルを思い出す。新しい中国を見る思いがした。

5.錦江飯店

後日錦江飯店に行く機会を得る。ここは最も懐かしい場所。留学中の憧れの場所。広い敷地内の西楼に当時『ジェシカ』という小さな店があった。ここには日本または香港から輸入された商品が並べられており、我々の眼を奪ったもの。値段はカップ麺が600円ぐらいしたと思うので、かなり高級。

錦江飯店の前身、錦江川菜館は一人の女性が1935年に開いたもの。董竹君、上海の貧しい家に生まれ、12歳で妓楼にあがり、15歳で四川の軍関係者に見初められ、四川へ。その後分かれて、上海に戻り、四川暮らしで覚えた料理を出した。これが当たり、杜月笙などのサポートを得て、大きくなる。

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共産党の時代になり、キャセイマンション(和平飯店)を接収した政府に管理運営を委託され、最終的には錦江グループになる。錦江飯店北楼には留学当時四川料理屋があり、一度はあまりの辛さに腹を壊したこともよい思い出。錦江飯店中楼には一度泊まったが、ここは1972年にニクソン、田中角栄が相次いで泊まり、歴史的な外交を展開した。

現在北楼の11階に四川料理はなく(いや、部屋はあるので食事は食べられるか?)、24時間営業の夜上海と言う店が入っている。写真を撮ろうとしたがどうしても上手く撮れない。きっと昔の自分が悲しんで撮らせないのだろう、と諦めて去る。

6.  馬勒飯店 
最終日に少し時間が空いたので、気になっていた城市酒店の向かい側にある馬勒飯店を訪ねる。ちょうど改装中で、建物の外壁には竹の足場が出来ていたが、中は健在。門の所にホテルの従業員が立っており、笑顔で迎えてくれる。『どうぞ中を見学してください』と気持ちよく言われる。非常にリラックスできる。

中に入るとさすがに重厚な印象。向こうから女性服務員がやってきて、何か用かと聞く。見学したいと申し出ると快く部屋を案内してくれた。この辺は北京では味わえない感じ。更に日本人かと聞いてきて、何と少し日本語も話した。

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3階の部屋は僅か9室。スタンダードの部屋でも結構立派である。1936年建造時のままの内装、家具も骨董か。

更に一番よいお部屋にも入る。広いリビング、洒落たバスルーム。如何にもレトロな上海と言う感じ。説明によると現在の上海市長、韓正が共青団時代の執務室にしていたのが、この部屋とか。因みにホテルが開業した2002年以前は様々な使われ方をしていたようだ。

一昨年の陳宇良氏逮捕劇では何とのこのホテルに北京の公安が陣取り、隣の城市酒店を含めて100名以上で任務遂行に当たったとの話もある。まさに歴史的な建物である。2号楼は後から造られたのか、一般的な客室。ここなら何とか泊まれそうな値段である。客層はやはり西洋人中心か。

庭がまたいい。広い前には馬の像が。向こうにはレストランもある。思わず、ここでお茶を飲みながら時間を使おうか、と考えていたら、携帯がなり、私の上海レトロ旅は終わってしまった。

 

明るくなった上海旅2015(6)雨に降られて

夜も6時を過ぎ、次の約束の地へ向かう。ところがタクシーで来たため、ここがどこかよく分からない。この時間ではタクシーも捕まらない。仕方なく、歩いていくとようやく地下鉄の駅が見えた。しかし既に待ち合わせの時間に遅れそうである。ここから中山公園まで乗り、乗り替えて行くようだが、よく見るとここから2駅先で降りて歩く方が早いかもしれない。それに賭けた。結果として、それが正解で、何とか時間通りレストランに着いた。

 

今晩は東京で行っていた寺子屋チャイナの主要メンバー2人が上海転勤になっており、久しぶりに会うことになっていた。こんな会合は喜ばしい。後から新聞社特派員のKさんも参加して、上海情報を交換し、なかなか愉快な飲み会になった。上海の日本人は減っている、とのことだったが、まだまだ沢山の駐在員がおり、新しい人たちがやって来て、活躍している。

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それにしてもこのレストラン、地元の庶民的な店で、味もまずまずだったが、夜9時前には店員たちが賄い飯を食べ始めた。我々は7時半に集合したので、あまり時間のないまま、解散となる。もっと遅くまでやればいいのに、とは思うが、繁華街からちょっと離れた店では、夜半のお客は見込めないのだろうか。いや、飲んだくれにダラダラいられても困るのだろう。

 

Hさんと一緒にホテルの方に戻った。彼は何とホテルの目の前の大きなマンション群に暮らしていたのだ。『日本人は確実に減っている』と彼は言う。日本企業も撤退を進めているが、中途半端な対応で、そのスピードは上がらず、結果として撤退コストが増大している。中には内部の不正が発覚するなど、今や本社の経営を揺るがしかねない会社も増えている。『外から見ると日本は何とも危うく見える』、その言葉が実に重みを増してくる。日本国内の議論の空虚さよ、何とかならないのか。

 

6月2日(火)

浦東で

上海最終日。外は雨が降っていた。今日は浦東へ行ってみる。既に高層ビルが立ち並び、上海を象徴する場所であるが、その中心街へ行くと、煌びやかな香港のショッピングモールそっくりの造りのビルがあり驚く。シティースーパーやペニンシュラーチョコなど、テナントもほぼ同じ、まるで香港をここへ移築したようで、既に香港など敵ではないという上海の自信、が感じられる場所だった。

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ここにあるカフェで旧知のGさんと再会した。彼はいつの間にか上海駐在となっており、前回の香港以来、久しぶりに会った。上海の明るさはズバリ、『習近平政権への支持の高さ』『株式市場の高騰』、『資金が上海に集まる状況』などにあると明確に教えてくれた。勿論中国政府は『日本のバブル崩壊』に関しても詳細な研究を行っており、日本の巷で騒がれる『中国崩壊論』はあり得ない、という。その後の株式市場の暴落?により、上海の明るさに変化はあっただろうか。バブルは崩壊するのだろうか。そんな簡単な話ではなさそうだ。

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午後は時間が空いたので、茶葉市場へ行ってみる。上海には茶城と呼ばれる市場がいくつもあり、よく分からないので、適当に検索して、新しい場所を探す。地下鉄1号線に乗り、延長路駅で降り、大寧国際茶葉市場なるところへ行く。雨の日の午後、お客は全くおらず、お店側のテンションも最低だった。確かこの茶城は2007年に開業し、取引量は上海一、と聞いていたのだが、茶葉の取引自体が低調なのだろうか。あまりに元気がなく、試飲すらせずに立ち去る。

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雨が降る中、向かいの公園が気になった。閘北公園、入り口には急須のモニュメントがある。そして入っていくと陸羽の座像まであった。どういうことだろうか?そして入場無料の公園を奥へと歩いていくと、今度は清朝末期の革命家、宋教仁の墓があった。宋は湖南省出身で、日本にも亡命、北一輝などと交流した。清朝が倒れた後は国民党を立ち上げ、大統領制ではなく、議院内閣制を主張したが、上海駅で暗殺された。臨時大統領の袁世凱に嫌われた結果と言われているが、一部には孫文との対立の結果とも噂された。今は愛国者として位置付けられている。何故ここに墓があるのだろうか。

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そしてホテル付近に戻る。雨が強くなり、外を歩くのは大変なので、喫茶店で時間をつぶすことにした。最初に入った、香港によくあるチェーン店は何とVPNが機能せず、コーヒーを飲んで早々に退散した。次にスタバに入るとかなり混んでいたが、何とか席を確保、VPNも繋がり、検索しながら、この旅を振り返り、旅行記を書く。上海でもスタバだけはVPNが機能すると聞いたが、何故だろうか。システムが違うのだろうか。スタバのカフェラテは1杯、30元。東京よりはるかに高い600円を出してネットを繋ぐ、やはり面倒な上、高い。

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雨に降られながら、スーツケースを2つも持って、空港へ向かう。地下鉄2号線を延々と乗って行くと、途中駅で下ろされ、向かいの電車に乗り替えをする。そのホームはなぜかものすごく混んでいたが、最後の駅まで乗る乗客は海外へ行く人だけ。上海もどんどん郊外に住処が移っていることが分かる。約1時間半、料金は僅か7元で空港に着くと、後はスムーズだった。そして飛行機に乗り、荷物を引き取るための旅、バンコックへ向かったのである。

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明るくなった上海旅2015(5)茶館を巡る

お洒落なお茶屋さん

昼はHさんの奥さん、Wさんと会うことになっていた。彼女は私の上海留学時代の中国語家庭教師。やはり30年の付き合いになる。北京生まれだが、大学は上海で過ごし、普通話は標準的、上海語も広東語も話し、更に日本語も英語もできるのだ。凄い!彼女はHさんの転勤で、香港や上海で暮らすことが多かったが、今般子どもの関係で20年ぶりに東京に住むという。私は先週も東京で彼女に会った。京都でも会った。そしてなぜか同じ日に上海にいた。

 

ホテルの前の道に人だかりができていた。以前中国ではよく人だかりを見たが、最近は少なくなったように思う。覗いて見ると、セクシーなモデルの女性が3人、男性が一人プラカードを持って立っていた。どうやら通信会社の4Gの宣伝のようだ。彼らは特に何もしないのだが、周囲のスタッフがしきりに大声で、『この瞬間を微信にアップしましょう。友達に知らせましょう』と叫んでいる。確かに微信がこれだけ普及すれば、微信による口コミ、が宣伝が莫大な効果をもたらすのかもしれない。

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地下鉄の駅で待ち合わせた。彼女は前日微信で大学時代の友人たちにメッセージを送り、上海で行くべきお茶屋さんを調べていてくれた。その1つがホテルのすぐ近くにあるというので、一緒に出掛けてみた。地下鉄2号線の上、愚園路を歩いていくと、プラタナスの並木があり、ちょっと懐かしい雰囲気になる。道路沿いの古い建物(1925年建造)の下を潜ると、そこには庶民の生活空間があるはずだった。だが今やこの辺も地価が高騰しているから、既に住人は変わっているかもしれない。その奥の方へ進んでいくと、看板もないその店は扉を閉じていた。ベルを鳴らすと店員が開けてくれる。

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何とも言えない癒しの空間がそこにあった。ここは春の日の午後に転寝をするのに適しているように見えた。小さな庭で名物の猫が微睡んでいる。ただ我々はランチを食べていなかったので、一度退散し、近くの日本料理屋で定食を食べて出直すことになった。因みにこの定食屋、30元ぐらいだったが、味は本格的、量も多い。地元のサラリーマンで一杯だった。私が食べたからあげ丼、親子丼の鶏肉が唐揚げになっていたのだが、なかなか美味かった。

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そして再度お茶屋さんに戻る。喫茶去、という名前のこの茶館、上海に2店舗あるという。お茶の種類も豊富で、目移りする。Wさんが『美味しいプーアール茶が飲みたい』というので、目に入った『2002年易武古茶樹』と書かれた生茶を注文。ふくよかな味わいが広がる。よく考えてみればこのお茶、非常に値段が高かったのだが、それだけの価値のある味だった。この茶を何杯も飲み、ダラダラと過ごす。日本人女性Kさんも合流するというので待っていたが、ついに彼女は来なかった。その間約3時間、ここに座って、まったりした。

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お客ははじめ、誰もいなかったが、気が付くとほぼ満員。商談する男性もいたが、比較的若い女性がダラダラお茶を飲んでいる姿が印象的。店内はかなり広く、座席の種類はバラバラ。皆都合の良い、好きな席についている。間隔がかなり空いており、話をするにも、何とも都合がよい。密談している人もいたかもしれない。決して安くないお茶代でありながら、お客が多い理由は、ここにあるのだろう。勿論レトロな雰囲気もあるかもしれないが。

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Wさんが『もう1軒行きましょう』という。茶館のハシゴ?まあ言われるままに付いていく。タクシーに乗り、徐家匯の方へ行った。到着したところは実に立派な高層ビル。こんなところ茶館があるのか。ビルの2階には場違いな空間が存在していた。何だここは、と言いたくなる豪華な雰囲気。中に入ると、お茶を飲む場所は基本的に個室。4人部屋もあれば6人部屋もある。ここは商談などミーティングの場所として使われる茶館だと分かる。最近の上海のトレンドだろうか。部屋は半分ぐらいが使われており、中は見えないが、打ち解けた雰囲気でミーティングが行われているのだろう。我々は2人で6人ぐらいは入れる部屋に案内される。

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スタッフの女性もこまごまとサービスしてくる。最低消費は1人、100元。お茶は美味しいとは言えないが、種類は揃っている。そしてヒマワリの種などの他、お菓子、フルーツなどもふんだんに出てくる。兎に角お客を招待する空間、豪華に飾り、場所代を取り、単価を上げる作戦だ。このスペースの家賃は相当に高いのだろう。そして極めつけは、何と麺が無料で食べられるということ。隣の麵屋から運ばれてきた牛肉麺は大盛りであり、とても茶館で食べる物とは思えない。ここで商談して、お茶を飲んで、麺で腹を満たして、家に帰る、または次に飲みに行く、というコンセプトだろうか。面白いが、ゆっくりお茶を楽しむ雰囲気はなく、私には縁がない場所だろう。上海には様々なタイプの茶館ができており、本当に驚く。

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明るくなった上海旅2015(4)茶城で出会った少数民族

夜は紹興料理へ

夜はまた豫園の近くに戻る。この付近はこれまであまり来たことがなく、ちょっと興味が湧く。駅の付近は大規模な再開発がなされているが、その先には昔懐かしい上海が広がっていた。どうしてここだけ残ったのだろうか。何か利権があるのだろうか。パジャマ姿で歯を磨く女性がいたり、路上でおしゃべりに励むおばあちゃんたち、庶民生活ががそこにはあった。

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そして今晩のレストランは孔乙己酒家。北京にも3店舗あった紹興料理の店の名前なのだが、北京と同系列の店なのか、関係ないのだろうか。北京の店には実に良く通ったことを思い出す。日本人には紹興料理の味がよくあっており、また紹興酒が好きな人も実に多いので、お客が来ると重宝した。この店でもメニューには懐かしい物が並ぶ。店にはなぜか日本人店員まで居て、そして日本人客が数組いた。日本人店員を雇い、日本人の集客を目指すなんて、最近の中国でもあるんだな。さすが上海、他の都市ではなかなか成り立たない。

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今晩は、上海特派員のS先輩と、昔北京で一緒だったMさんと3人で食べた。Sさんはマスコミの超ベテランで、最初に出会ったのは15年前の北京。そして今回長老として上海に戻ってきた。Mさんも15年前の北京で一緒だったので、この2人もどこかですれ違っていたはずだ。Mさんは現在元の会社から出向し、今は畑違いの仕事をしている。既に4年ぐらい上海にいるはずだ。大ベテランのお2人に上海事情を色々と教わる。確かに最近の上海は明るいらしい。ここでも『上海だけは特別。上海は中国とは呼べないかもしれない』などと聞く。S先輩にご馳走になってしまい、申し訳ない。

 

6月1日(月)

天山茶城で出会う

翌朝も朝ごはんで起こされたが、もう食べる気はせず、また寝てしまった。疲れている、ということだろうか。ゆっくり起き上がり、ネットを繋ぐ。VPNが機能しており、特に不便は感じられない。聞く所に寄れば、上海市内でもVPNが機能する場所とそうでない場所があるということだ。何がイライラするかというと、使いたい時に繋がらない、使えると思って使うと繋がらないということ。人間、我儘といえばそれまでだが、何とも面倒な国だ。

 

今日は午前中暇なので、お茶市場へ行こうと思う。このホテルから一番近い市場は昔何度か行った中山西路にある天山茶城だろう。トボトボ歩いていく。高層ビルの裏側には、まだまだ80-90年代に建てられたと思しき、古いアパートが建っている。自分が留学した頃は、建設ラッシュだったのだろうと感慨深い。洗濯物がベランダから大きくはみ出しているのが、懐かしい。

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茶城は午前の早い時間ということもあり、お客は殆どいなかった。そして何と改修工事中。騒音が響き渡る。これではお客も来ない。店側も全くやる気が感じられない。これは出直した方がよさそうだな、と思っていると、見慣れた看板に遭遇した。深圳茶葉世界でいつも行く台湾茶の店、子揚銘茶の支店があったのだ。本当に支店なのか、名前を使っているだけなのかと、恐る恐る入っていくと、若い女性がにこやかに出迎えてくれ、『座って』と言ってお茶を淹れだした。

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自分は深圳の店によく言っていると告げると『私はあなたのことを知っている』というではないか。何と彼女は2年前まで深圳の店にいて、そこから上海に移ってきたのだという。深圳の店には若い女性が何人かいたので、私には分からなかったようだ。申し訳ない。ということで、突然旧知の人に出会い、馴染の店のようにお茶を飲み始める。こんな出会いもありがたい。

 

なぜ彼女は上海に来たのか、と聞くと『中国南部、広東の人などは上海の気候が体に合わない。桃姐(深圳の店の重鎮女性)なども1週間しかいられなかった。湖南省出身の私は耐えられたので』と面白いことを言う。彼女は湖南省と貴州省の境の山中の出身で、トン族という少数民族なのだという。上海にはトン族の人も出稼ぎに来ているが、交流はなく、早く故郷に帰りたいと言う。彼女は広東省に出稼ぎに来て、工場で働き、売店で働いているところを、偶然台湾人オーナーに出会い、お茶屋さんで働くようになった。元々お茶とは無縁。

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だが、まずは黙々と働き、お金を貯めることに専念しているようだ。地方から出てきた女性たちも、普通は上海を誉め、憧れ、ずっと上海に住みたいというらしいが、彼女は明らかに違っていた。自らの故郷について語る時の懐かしそうな遠い目、現代の中国において、少数民族の置かれている立場について、再度考える機会が与えられた。中国は本当に多様だ。

 

茶城を出て、ホテルの方へ戻る。大きな通りには不動産屋さんが並ぶ。見るともなしに物件情報を見てみると、この付近の家は100㎡で500万元程度が相場のようだ。500万元といえば、日本円で1億円。つまり億ションがずらりと並んでいることになる。今や東京で億ションが並ぶ地域は数少ないだろうが、上海中心部は至る所で億ションが繁殖している。その質が1億円に値しているかどうかは全く別として、それが実態であることを認識すべきだろう。日本に旅行に来て爆買いする観光客の資金源が、こんなところにも垣間見られる。

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また銀行の定期預金金利がかなり低下していることも実感できた。1年前なら1年物の定期預金は3-3.5%以上の金利が付いていたが、今は基準が2.5%程度に下がり、景気減速に伴い、さらに低下すると見られている。私が見た広告では、何とか資金を留めようと、1年物3%まで金利を付ける、という金融機関もあるようだった。ちょっと前までは考えられなかった中国の金利自由化も、確実に進んでいるようだ。それにしてもなぜ上海株に資金が流れるのか、不動産はすでに高値頭打ち、金利の低下などから見ても必然の流れのように見える。

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明るくなった上海旅2015(3)微信は中国人の自信を深めた

その後ダラダラと過ごし、少し早めに豫園に行く。今日は上海駐在のHさんとランチをする予定になっていた。地下鉄に乗り、豫園に着くと、既に大勢の観光客が歩いていた。豫園といえば、私が留学した30年前も観光地ではあったが、どこにあるのかも分からないような、整備もされていない場所だった。それが90年代に入ると、きちんと整備され、いつの間にか巨大なショッピングモールができ、買い物客でごった返していた。私の知る昔の上海はここからも既に消え去っていた。それでもイスラム寺院、清真寺があり、古い仏教寺院もあり、裏道に入ると、庶民の生活も覗くことができ、ごく一部にその面影を残している。

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観光客には中国中から来るお上りさん中国人が多いが、欧米人の姿もかなり目立つ。韓国人や台湾人の姿もちらほら見られたが、ほぼ全く見掛けないのが日本人観光客。僅かに出張に来たと思われる日本人男性が、中国人通訳と歩いていたのを見ただけだった。豫園に行くべきとは言わないが、ここでも日本人のプレゼンスの低下、中国への関心のなさを痛感し、危機感を覚えた。

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Hさんが予約してくれたのは、緑波廊。昔から豫園にある老舗の名店。エリザベス女王やクリントン元大統領などが訪れた写真が飾られるなど、政府御用達の大型レストランだったことが分かる。さぞや混んでいるかと思いきや、Hさんの予約のお陰か、スムーズに入店し、角のこじんまりした席に着き、ゆっくりと食事することができた。ランチとの時間とお茶の時間が分かれているせいかもしれない。伝統的な上海料理だったが、料理も思ったよりも美味しく、結構気に入ってしまった。

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レストラン内から、外の写真を撮る。この構図もなかなか良い。レトロな雰囲気を醸し出し、池も上手く組み合わされているように思う。結局今回も豫園そのものには行かなかった。豫園の前から湖心亭を眺めるだけだった。人が多過ぎる、用事がなければさっさと失礼することにした。

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微信は中国人の自信

次の予定は上海在住中国人との再会。彼女はいつもおしゃれなカフェを指定してくるのだが、今回も江蘇路駅近くの店に呼ばれた。ところが、場所が特定できない。指定された住所、ビルの名前まであっているのに、なぜたどり着けないのか。ビルの人に聞くと面倒くさそうに『あっちだ』と指で指すのだが、そこに行っても店はない。何故だろうか。その横の扉に気が付くのに随分と時間が掛かった。その扉を押すと、何と外に出てしまう。あれ?

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そこは裏の駐車場に繋がっていた。周辺をキョロキョロすると、若者がその先に歩いていく。ついていくと、そこにはおシャレなカフェが確かにあった。しかしこんなところにあるなんて、誰も分からないだろうと中へ入ると、2階は満員だった。どうして?隠れ家的カフェ?今の上海、分からない。そして待ち合わせの相手もまだ来ていない。何と彼女も初めてくるとかで、迷っていたらしい。スマホの地図で探してきても、ここは分からないだろう。

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お洒落な若者が集う店、大ぶりのマグカップに入ったコーヒーは美味しかった。店の空間もリラックスできた。コーヒーは1杯40元だから、日本円で800円もしたが、今の上海では高いとは言えないようだ。その支払いをクレジットカードでするのではなく、スマホでしている人がいた。待ち合わせた彼女に聞くと『とにかく今や中国人は微信です。微信をやればタクシーも呼べるし、支払いもそこからできる。あなたも微信をやらないと中国のことは分からないし、中国人と友達になることはできませんよ』と大いに警告された。そこまでホメるのか?

 

私も先日行った福州で、知り合った中国人が誰も名刺もくれず、すぐに微信友達になろうとすること、そうしないと一緒に撮った写真すら送ってもらえないことに少なからずショックを受けていたのだが、GoogleもFBも原則繋がらない今の中国において、微信は必須アイテムになったのであろう。今の中国人の中にはEメールの使い方が分からないという者もいるのだ。もう世間の新しい波には乗らない、と決めていた私。スマホすら持っていないが、それは中国では許されないことを改めて突き付けられた。仕方ない、スマホ、始めるか!

 

ところで一昨年会った彼女は『私もいつまで上海にいるか分からない。今は皆が中国から国外へ逃げ出したいと思っている』と語っており、その後実際イギリスにも行ったのだが、今回聞いてみると『上海なら中国に住んでもよいと思う。ここは今世界一便利な場所。他の都市はダメ、上海だけ。仕事もあるし』と何度も強調する。そこまでこの1年半で上海は変わったのか。確かに東京並の便利さを感じるし、大気汚染も思ったほどではない。これで政治的制約がなければ、と思うのは私だけか。それでも『習近平政権への評価はかなり高い』と彼女は自信をもっていう。日本では中国人の習政権への支持が高い、などという報道は見たことがないのだが。

 

そして『微信はすごい!Lineより優れている。そしてこれを開発したテンセントもすごい。上海以外で評価できる都市はテンセントを生み出した深圳だけ。他の中国はダメね』と微信とテンセントをべた褒めする。実はこんな意見を上海にいる間、何度となく中国人から聞いた。微信が中国人の自信を大いに深めた、必要は発明の母、ということなのだろうか。驚き!

 

明るくなった上海旅2015(2)物価が高い!

中山公園の宿

乗降客は少ないので、かなりスムーズに入国できた。1号楼ターミナルは何とも古びており、寂しい感じがした。今日の宿は地下鉄の中山公園近く。空港から地下鉄で乗り換えなしで行けると勘違いしていたが、1度乗り換える必要があった。空港1号楼駅は、ターミナルからかなり歩かなければならない。乗客で歩いている人は殆どいない。荷物を引き摺り、何とか駅までたどり着く。ところが中山公園へ行くにはルートが2つあり、どちらが良いか分からず、来た方の電車に乗る。するとそこへ、Hさんからメッセージが入り、後はナビしてもらう。

 

今や上海の地下鉄は東京都より走行距離が長く、路線もどんどん増えているので、路線図を見ても、簡単には理解できず、このナビは実に有難い。それでも2号線から4号線への乗り換えにはかなりの時間を要した。地下から地上へ上がるのに、荷物が多いので難儀した。上海も早めにできた地下鉄はあまり乗客に便利にはできていない。何とか中山公園駅に着くと、そこにはHさんが待っていてくれ、予約してくれたホテルまで連れて行ってくれた。

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Hさんとは29年前、上海の留学で一緒になってからの長い付き合い。奥さんとは先日京都と東京で会ったばかり。最近彼は香港に駐在していたこともあり、懐かしの上海で再会するのは10年ぶりか。彼の上海生活は合計で何年になったのだろうか。長い間彼が日本で働いているのを見たことがない。いや、もう日本で働くのは疲れるのだろう。中華圏で過ごしてしまうと、東京は息苦しい。

 

宿は本当に駅の前、高層ビルのいくつかのフロアーを使っていた。元々は長期滞在者用であろうか、それともアパートとして建てられたのだろうか?大きな冷蔵庫やキッチンが付いており、広々としていた。これで380元/泊は以前なら安い、と感じるだろうが、何しろ1元=20円の時代、何を見ても高く感じてしまうのは、仕方がないところ。29階から見る景色は良いが、目の前では未だに開発が行われ、上海は止まってはない、ということが実感できた。モノレールのように高架を走る地下鉄の音も少し気になったが、学生時代、都電の線路脇で4年を過ごした私にはどうでもよい音だった。

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いきなり浦東へ

蘇州に駐在する大学の同級生S君と連絡したところ、たまたま今日は上海にいるというので、会いに行くことにした。指定された場所は聞いたこともない地下鉄の駅。塘橋駅というその駅は、4号線にひたすら乗り30分、何と浦東側にあった。地上に出ると、駅前には外資系の5つ星ホテルはあるし、ショッピングモールまであった。その後ろは高層の住宅街、上海は今や、中心部ならどこでも、このような光景を目にすることができる。この辺も家賃は高そうだ。

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S君に連れて行かれたのは、日本人が多く住むアパート。日本食品が沢山置かれているスーパーが併設されており、すれ違う住人も日本人ばかり。未だにこんな場所があるのか、と何となく懐かしくなる風景だった。そして地下には日本食レストランがあり、そこでS君たちは、合唱団の練習打ち上げを行っており、そこへ飛び入り参加した。学生時代から合唱をしていた彼は、今でも同好の士と共に、合唱を続けている。

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焼き魚やお好み焼きなど、食べ物は全く日本と変わらず、そばは特に美味かった。地下鉄が発達し、日本食が自由に食べられる都市、上海は今や日本と変わらないな、つくづく思う。ただ駐在員生活は、元高もあり、仕事のやり難さもあり、以前より厳しくなっているようだ。経費の関係は、住環境の問題で、家族を日本に返し、単身赴任している人も多いと聞く。

 

帰りはタクシーであっという間に中山公園に帰りつく。上海ではタクシーも捕まえにくいと聞いていたが、土曜日の夜、雨も降っていなければ、そう難しくはないようだった。道路も空いていた。ただタクシー代はどんどん高くなっており、物価全体は完全に東京より高い、と強く感じられる。

 

中山公園では先ほどのHさんが待っていてくれたので、近くのホテルでコーヒーを飲んだ。彼は開口一番『上海の景気はいいですよ、でも上海だけですよ。他の中国はかなり悪いです』という。私もわずか数時間しかいない上海ながら、なぜか『明るさ』を強く感じていた。何か『上海だけは特別だ』という言葉を突き付けられているように思われる。それは一体どこから来ているのだろうか。一昨年10月に来た時とは雰囲気がまるで違う。習近平政権の政策は、『新常態』だが、上海は確かに新しい常態に入ったようにも見える。その訳が知りたい。

 

5月31日(日)

豫園で

翌朝は7時に叩き起こされた。このホテルには朝食が付いているのだが、何と部屋に運ばれてくる。それが朝の7時に配られたのだ。決して贅沢な旅をしているわけではない私だが、正直この食事を食べるのはちょっと嫌だ、と思ってしまう代物だった。茹で卵は剥き難く、マントウは冷えて固かった。以前は下の階にある上島珈琲で食べていたそうだが、経費削減の結果だろうか。食事が付いているだけマシ、とはとても思えない。上海の食、という点では、安全面と共に課題が残っている。

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