「茶旅」カテゴリーアーカイブ

ヤンゴン茶旅2020(3)懐かしのヤンゴンを歩く

1月18日(土)
ヤンゴンをフラフラ

翌朝も宿で朝食を食べてから、外へ出た。今日も香港から来ているIさんと一緒にヤンゴンを歩くことにした。彼女のホテルのすぐ近くには、100年ぐらい前に建てられた教会があったが、そこには厦語教会とも書かれており目を惹く。19世紀半ば以降、厦門には教会が出来、そこで英語を学んだ若者がおり、彼らは台湾や香港など海外に雄飛したとも言われている。もしやラングーンにもやって来て、その支部がここに建てられたのだろうか。その横にはヒンズー寺院があり、インド系との境目になっていた。

 

スタンドで売られている新聞に目をやると、スーチー氏と習近平氏が握手していた。私は知らなかったが、習氏はネピドーを訪問していたようだ。だがその記事はとても好意的な内容とは思われず、今日ヤンゴンでも反中デモが行われるという話まであった。ミャンマーの苦境に忍び寄る中国、という構図だろうか。

 

チャイナタウンを歩くということだったが、何となく東の方に足が向き、インド人街を抜けて、川の方へ向かっていた。昨晩話に出ていた国立図書館のきれいな建物が見えたが、警備員から『オープンは4か月後だよ』と教えられる。ミャンマーのことを調べるためには一体どこへ行けばよいのだろうか。

 

クラシカルな建造物エリアに進む。レトロ郵便局は土曜日だからか人がいない。ストラッドホテルではハイティーが20ドルと書かれていたが、朝からやっているわけはない。まあ、それほど暑くないので、川沿いの重厚な建物を見て回るのは悪くないが、やはり疲れてくる。

 

私の宿に戻った。今日は旧知のTさんと会う約束だったが、昨晩メールで会う場所を変更した。が、Tさんからは何の連絡もなく、どちらに来てくれるのか分からないという事態が発生した。電話も掛けたが繋がらない。こういう場合は、やはり元の場所の方が無難だと思い、待っていると、ちゃんとTさんが現れたのでビックリ。何だかスマホも携帯もない時代に戻った気分だ。

 

昼ご飯は、近くのシャンカオスイの店へ行く。普通のカオスイも美味しいだが、折角なので、トウフヌエを頂く。シャン州に行ったら必ず食べたい麺だった。ついでに揚げ豆腐も頼んだが、こちらはシャンとは少し味が異なっていた。Tさんは最近モン州に引っ越しており、たまたまヤンゴンに出張で来ていて再会できた。ミャンマーのことにはとても詳しいので何でも聞いてしまう。

 

チン州の話が出たところで、場所を移してチンレストランでコーヒーを飲むことにした。話しているとそれが目の前に出てくる、やはりTさんと一緒だと世界が変わる。牛干し肉がなぜか出てきて、コーヒーを一緒に食べる。まあ、ビーフジャーキーかな。こんな組み合わせ、見たことがない。

 

Tさんと別れて、ボージョーマーケットへ行く。2003年の初ヤンゴン以来、何度も行ったマーケットだが、最近は買い物に行くこともない。Iさんは雑貨や服、織物などを物色している。そういえば、ここでチン州の物品を扱っている店があり、昔チンの茶をご馳走になったことを思い出す。あの店まだあるのかな、と思っていたら、Iさんが目指す店はそこだった。だがチンの若者は『チンにはコーヒーはあるが茶はない』ときっぱり。

 

やっぱりパゴダも1つは行こうということになり、スーレーに向かう。ここに入るのは何年ぶりだろうか。ミャンマーのお寺は入り口で靴を脱がなければならず面倒だが、花を買うと靴を預かってくれるのは昔ながらで懐かしい。昔と言えばどんな時にも、参拝客で混雑していたヤンゴンのパゴダ。今や本当に訪れる人が減った。信心より金儲け、と言われて久しいが、ミャンマーらしさが失われていく。

 

お参りは、自分の生まれた曜日の前で行う。これもミャンマーを訪れると最初に知る習慣だった。何だか日本語を少し話すミャンマー人が、一生懸命にIさんに参拝方法を指南している。こういう人は、単なる親切なのか、何か目的があって近づいているのか、現在のミャンマーにおいてはその判断は難しい。

 

疲れてしまったので、カフェに入る。ヤンゴンは急速におしゃれなカフェが増えている。外国人比率が高い。2階はバーになっており、夕暮れ時、酒を求める人々も入ってくる。今日一日、Iさんには様々な情報が入ってきたかもしれない。しかしそれを吸収、消化するのは簡単ではない。ここで飲み物を飲みながら、頭を冷やす。

 

最後に串焼きストリートへ向かう。数年前から、チャイナタウンに、路上も含めて、ビールを飲み、串焼きなどを食べる一つの通りが出現した。そこに辿り着く直前、観音古廟から麒麟がお出ましになる。夜に一体どこへ行くのだろうかと、興味本位で付いて行くと、近くの別の廟へ向かっていた。これは練習なのか、本番なのか、何も分からない。折角なので、少し観音古廟も見学する。ライトの光で廟内はきらびやか、且つ幻想的だ。

 

土曜の夜で賑わうストリートに席を見つけて、その雰囲気を味わった。白人も多いが、ミャンマー人比率が上がっているように思われる。ヤンゴンの夜の観光名所として定着しているのだろう。

ヤンゴン茶旅2020(2)ヤンゴンの再会、そして茶旅報告会

1月17日(金)
ヤンゴンの再会、そしてお話し会

朝、ホテルで朝食をとる。ここは老舗だからやはり種類が多い。パンもあればお粥もあり、フルーツもそれなりにあるので十分だった。それから暑くなる前に外へ出た。1年2か月前、何度か歩いたダウンタウンだったが、既に土地勘が無くなり、思い出しながら歩いてみた。途中インド系の多いエリアでは、インド風のチャイが飲まれており、ミャンマーのティーミックスの起源かな、などと思う。それにしてもなぜヤンゴンにはインド系が多いのだろうか。

 

そうこうしているうちに、華人街に入り、漢字が増えてくる。その昔、張彩雲が開いた茶行、張源美のあった場所も懐かしく通り過ぎた。そして彩雲の孫が今も細々とやっている茶荘に何とか辿り着いた。丁国さんは私のことを忘れていたようだが、話をしながら書いた文章を渡すとにわかに記憶が蘇ったようで、嬉しそうに相手をしてくれた。

 

その後、少し離れたホテルに向かう。何と現在は香港在住のIさんが今朝バンコックから飛んで来ているはずだった。彼女と会うのは台湾の基隆以来だろうか。ちょうど到着したIさんと二人で慶福宮に向かい、そこに彩雲の息子を訪ねた。Iさんの北京時代の同僚で、ヤンゴン在住のICさんも加わった。

 

家栄さんも私のことなどすっかり忘れていたのだが、あれから厦門へ行き、安渓へ行き、遂には彩雲の長女にも会ったことを告げると、目を丸くして驚いていた。全てはこの宮から始まったのだ。もう一度会って話ができることは双方にとって何とも喜ばしいことであった。家栄さんがお菓子を勧めてくれたが、これは彼の息子が作っているらしい。やはり張家は実業家一家なのだ。

 

そこへ男性が入ってきた。聞けば家栄さんの長男だという。何と聴診器をぶら下げており、医者だとすぐに分かる。茶業で儲かった家は必ず子供によい教育をさせており、医者や弁護士が出ることは珍しくはない。このお医者さん、政府内幹部にも患者がいるようで、なかなか興味深い人物だ。

 

更に奥さんは華人ではなかった。どうして華人以外の人と結婚したのかと問うと『うちの嫁は美人なんだ』というからビックリしてしまったが、家栄さんも満更でもない、という顔をしている。後で知ったことだが、このお医者さんのお嬢さんは、ミスミャンマーやミスインターナショナルミャンマー代表などの栄冠に輝いた、自慢の娘だったのだ。張彩雲の曾孫はミスミャンマー、知っていればエピソードとして書いたのに、残念だ。次回は是非曾孫にインタビューしに行こう?

 

外を歩いていると、やはり旧正月が近いことが分かる。正月の麒麟舞(獅子舞?)の稽古が行われており、正月飾りなどが売られている。お昼はチャイナタウンで麺を食べる。汁なし麺。豚肉がうまい。スープはホーロー缶で煮込まれている。昨晩ほど高くもなく、満足できる味だった。

 

午後はもう一度丁国さんの店に行く。折角なので、ICさんたちにも、このお店を紹介しておこうと思う。今や張彩雲関連のお茶は、ほぼここでしか買えないからだ。以前はシティーマートに置かれていたが、一部を除いて取り扱われなくなったらしい。ここは看板も出ていないので、一見さんが来るのは難しい。丁国さんも来訪を喜んでくれたのでよかった。

 

ここでICさんとは一度別れて、Iさんと二人、フラフラ歩きながらホテルへ戻った。ロビーで待っているとジュースが振る舞われる。何とも有り難く、美味しく頂く。それから、今日の講座の会場へ向かう。タクシーに場所を説明して、何とか辿り着く。今やGoogleマップもあり、何とも便利になっている。

 

着いた場所は、ダウンタウンから少し離れており、周囲はお寺が多い場所だった。そこにベトナムで成功した日系ビジネスホテルが出来ていた。この宿にはホーチミンで8年ぐらい前に泊まり、経営者とも会ったことがあったので、懐かしかった。会場はその建物の一番上、夕日の沈む、そしてライトアップされたシェンダゴンパゴダがよく見えた。

 

会には駐在員夫人や現地在住者など10数人が集まってくれ、かなり驚いた。これも主催者ICさんのネットワークの広さだと感心すると同時に、ミャンマーに住んでいるのだから、ミャンマーのことを知りたい、という意欲が他国よりも一層感じられた。話の内容はミャンマー茶の歴史及び華人茶商の歴史についてだったが、色々と質問も飛び出し、興味深い会となった。

 

その後場所を移して、夕飯を有志で食べた。中華料理とのことだったが、どこの料理かは分からない。そこでもミャンマー事情を伺うことができ、また少数民族のこと、茶の起源などについて、様々な情報が寄せられた。やはり現地でこのような問題提起の報告を行い、それによって皆さんの知識・経験などを呼び起こすことも大切かな、と思われた。

ヤンゴン茶旅2020(1)アイちゃんと赤ちゃん

《ヤンゴン茶旅2020》  2020年1月16-23日

娘のように長年付き合っているスス(以下SS)が昨年11月に二人目を出産した。可愛らしい赤ちゃんの写真が沢山送られてくる。ニセ爺さんとしては、孫の顔を見に行かねばならない。併せて、一昨年10月に訪ねた張彩雲氏の息子や孫も再訪し、既にまとめて発表した文章を届けてお礼を言いたいと思っていた。

 

1月16日(木)
ヤンゴンへ

タイスマイルはLCCではないので、一応サンドイッチ程度の食事は出た。座席も頼んではいないが、非常口の広めの席が用意され、隣もいなかったので、かなり快適な旅だった。と言っても、1時間ちょっとで着いてしまうのだから、どうでも良いか。中国で、新型ウイルスが流行っているらしいが、中国人もチラホラ乗っている。

 

ヤンゴン空港はどんどんきれいになっていくようだ。入国審査もスムーズでよい。預けた荷物もサッと出てくる。初めてヤンゴンに来た2003年から見ると、まさに隔世の感がある。出口を出るとすぐにシムカードを買う。これも前回から簡単に買えるようになり、有り難い。前の中国人が『本当に使えるのか』などと聞いているのが微笑ましい。だが私の番になり、シムを入れ替えた後、なんとタイのシムカードを捨ててしまったらしい。この辺がミャンマーの未熟さだろうか。

 

今日はまっすぐSSの家に行くことになっていた。何しろスーツケース一杯にお土産が詰まっているのだ。しかも一番は粉ミルクだった。どうしても日本の粉ミルクがよい、というので、運んで来たのだが、これは意外と重い。それでも赤ちゃんの貴重な食糧だと思えば、軽く持っていける。

 

空港のタクシースタンドで行先を告げると1万チャットと言われたが、8000チャットでしょう、と切り返すと、それでよいという。乗り込むと若い運転手が片言の日本語を話し出す。どうやら技能実習かなにかで半年ほど広島に行っていたらしい。一生懸命に話す姿が何とも微笑ましい。30分ぐらいで到着したが、結局彼にチップとして2000チャット渡す。

 

SSと娘のアイちゃんは、昨年タイ国境のミャワディからヤンゴンに引っ越していた。アイちゃんの幼稚園の都合らしい。この家には初めて来た。おばさんが来ており、子供たちの面倒を見ている。SSが作ってくれた料理を久しぶりに食べたが、美味しい。アイちゃんは遠くの幼稚園に行っており、夕方しか帰って来ないという。それまでSSと近況を話し、赤ちゃんの顔を見て過ごす。

 

おばさんが車で迎えに行き、アイちゃんが帰って来たのは、本当に夕方だった。車の渋滞もあり、通園時間は片道1時間、大変だ。1年会っていないと、幼女が少女の顔に変っているのは面白い。そして非常に活発になっている。遊ぶところがなくて、元気を持て余しているのだろうか。

 

アイちゃんの顔を見たので、帰ることにして、車で送ってもらった。今回は初めて泊まるダウンタウンの古いホテルを予約した。数年前はどこでも高かったヤンゴンのホテルが、今や軒並み安くなっている。こういうホテルは部屋が比較的広く、設備は古いが一通り整っているところが今の私には有難い。

 

夕飯を探しに外へ出てみる。以前この付近には泊まったことがあるが、何を食べたかは覚えていない。唯一覚えていたのは、レートの良い両替屋だけだった。ちょっと覗いてみるとやはり近所より多少はレートがよいようだったので、100ドル札を出してみると、『この札は10%カットだ』と言われ、ミャンマーの洗礼を浴びる。勿論慣れているので違う札を出して100%両替をしたが、もうそろそろこういう習慣、止めてもらえないかな。

 

その近所にうまそうな麵屋があったので入ってみた。女性は英語ができるので『チキンヌードルスープ』と注文したところ、出てきた麺は大盛りの上に、店にある具材を全種類入れたかのような特盛状態だった。まあなんて盛りの良い店だろうと感心しながら、懸命に碗を平らげた。

 

勘定を聞くと、何と3000チャットだというから驚いてしまった。さすがに『こんなにたくさん頼んでない』と反論するとすぐに『じゃあ、2500チャットでいい』と値下げするから、これはボッタくりだと思い、さらに値下げを要求したところ、男性が出てきたが、英語はあまりうまくなく、何だかにらみ合いになってしまった。

 

こうしていても仕方がないので、2000チャットをテーブルに置いて出てきたが、特に相手は何も言わなかったから、それでも儲かったのだろうか。ただ翌日地元民に聞くと、『今は麺一杯1000チャットなんてない。2000チャットは十分あり得る金額』と言われ、ヤンゴンの物価が1年で相当に高くなったことを実感した。

北京及び遼寧茶旅2019(10)北京ぶらぶら

12月21日(土)
北京で

今朝はいつもより早く起きた。そしてさっさと朝食を取り、8時には宿を出た。ついに北京に戻る時が来た。瀋陽駅から北京駅まで行く列車は多くなく、普通の高鉄より時間も少しかかるが、瀋陽北駅まで行き、北京南駅で降りて戻ることを考えると、自分の選択はすぐに決まった。

 

瀋陽駅までは歩いても行けるのだが、ちょうどバスが来たのでそれに飛び乗り、あっという間に到着した。だが駅に行くには地下道を通らなければならず、エレベーターがない所もあって、荷物を持って上がるのは大変だった。瀋陽駅と言えば、確か映画ラストエンペラーの冒頭で、溥儀が連行される場面がここだったのではなかったか、と突然思い出す。

 

列車に乗り込むと、すぐに寝込む。今回の旅で列車に乗るのはこれが5回目、さすがに飽きた。しかも今回は最も長い5時間だ。この列車はこれまで来た道のりを戻っていくだけでもあり、窓の外を見ることもなく、やることはない。当然列車は満員で、居心地がよいわけでもない。

 

何とか午後2時前に北京駅に到着した。この駅から脱出するにはやはり地下鉄しかない。一駅乗って建国門で降り、歩いて宿へ向かう。瀋陽に比べればかなり暖かく、着込みすぎていて汗が出てしまう。宿に到着し、昼を食べていなかったので、前回来た時と同じ麵屋で麺を食べる。

 

その後、地下鉄駅まで歩き、一駅乗って10号線に乗り替え、また一駅乗って先日泊まった宿に行く。実は一部荷物を預けていたので引き取りに来たのだが、1週間前の荷物が見つからず、ちょっと困る。五つ星ホテルと言ってそこは北京か。最後は出てきたので事なきを得たが?

 

建国門で昔馴染みの足マッサージ屋、いまだに12年前に作ったカードが使えるのは有難い。この10年で店舗は相当きれいになり、そして料金は2-3倍になった。いつものようにマッサージお姐さんから、色々と話を聞き、中国の庶民の様子を勉強する。ついでに凝りもほぐしてもらい、一石二鳥である。中国の農村地帯、話によると激変しているらしいが、行ってみないと、実感が沸かない。

 

夕飯はKさんと食べる。今や貴重な東四の老舗北京料理屋へ向かう。ずいぶん前に来たことがあったと思うが、雰囲気はあまり変わっていない。勿論ここも料金は相当上がっているが、何となく懐かしい味がして、嬉しい。ジャージャー麺や腰花などを食べて満足する。ただ土曜日の夜なのに、凄く満員ではないところがちょっと気になる。

 

Kさんは北京B級グルメをよく知る人物だが、北京からどんどん老舗食堂が無くなっていくことに時に流れを感じているようだ。恐らく老北京人も同じ感慨を持っているだろうが、もうこの国の勢いを止めることはできず、ただただ呆然と眺めていくだけだ。古き良き北京、今や建物だけでなく、料理の味や人々の心も失われていく。

 

12月22日(日)
東京へ

ついに東京へ戻る日がやってきた。外へ出るとさほど寒くはないので、帰る前に懐かしい散歩道を歩いてみる。10年前に住んでいた建国門から二環路の内側に入り、社会科学院の脇を抜けて、川弁へ。ここの四川料理は安くてうまかったが、今はどうだろうか。そこから北へ趙家楼飯店(1919年の五四運動の現場)を通り過ぎ、灯市口の方へ歩いて行く。

 

この付近にも古い歴史的な建物がいくつも残っており、歩いているだけで歴史好きには楽しい。清末から民国時代が目の前に現れてくるようだ。ここは何度も歩いているが、何度でも歩きたい場所である。北京の胡同、開発は一応止まっているようだが、改修などの名目で古い建物が建て替えられている姿を見ると、何とも言えない。

 

宿へ帰って時間までテレビを見た。チャンネルは沢山あるのだが、日曜日の午前中は大体ドラマの再放送が多い。しかもいくつものチャンネルで、いわゆる抗日ドラマをやっている。日本軍人役の俳優が変な日本語を使っているのがおかしい。これまでじっくり抗日ドラマを見ることなどなかったが、これは日本でいえば、水戸黄門や大岡越前などの時代劇に当たるのでは、と思ってしまう。何しろストーリーは安定しており、筋は大体は読める。別に中国人も日本憎しで見ている人は多くはないだろう。

 

昼にチェックアウトすると、外にはフードデリバリーのバイクが列をなしている。今や北京も食堂に行かない時代なのだろう。地下鉄に乗り、久しぶりに空港鉄道に乗り換えて行く。車内はかなり混んでいたが、外国人と中国人が席を譲り合って、座っている姿が微笑ましい。今年に私の茶旅もこれにて終了した。来年はどうなるのだろうか。

北京及び遼寧茶旅2019(9)瀋陽故宮と張氏師府

12月20日(金)
瀋陽で

翌朝部屋から外を見ると快晴だった。それで暖かいのかとちょっと外へ出てみたら、ものすごく寒かった。気温は午前8時で零下15度。ほぼ想定したマックスの寒さだった。疲れもあるのでどうしようかと思ったが、ご飯を食べたら気合が入ったので、予定通り出掛けることにした。

 

今日は王道の故宮と張氏師府に行くことにした。ここは10年前には行ったと思うが、やはり歴史を見る上では外すことはできない。今は地下鉄もあるので、外が寒くても、道が凍結していても行くことはできる。中街という駅で降りる。道を間違えて反対に歩くとすぐに立派な建物を見る。1905年に設立された東北三省官銀号、当時東北最大の銀行だったという。だが1931年に日本軍がここも占拠し、資金を持ち去り、営業停止に追い込まれた、とプレートにはある。

 

やはり道は歩きにくかった。雪が残っているところは凍結していて危険だった。それでも何とか10分歩いて瀋陽故宮まで来た。入場料は50元にもなっている。中に入っていくつかの宮殿を見たが、特に日蔭は凍り付いており、危なくてオチオチ見学もしていられない。北京の故宮の小型版とはいっても、それなりの規模なので、途中で投げ出し、無念のリタイア、外へ出た。

 

数分歩くと瀋陽故宮博物院という文字が見えた。ここにも博物院があるようだが、一般公開はされていない。その横に見慣れた立派な建物が見えてきた。張氏師府、東北軍閥の首領、張作霖、張学良親子の官邸及び私邸だった場所だ。中国的な部分と西洋的な部分が入り混じった独特の建物だ。

 

1914年に作られた大青楼が中心の建物で、会議室では軍閥、日本軍など様々な人々が出入りしたとある。彼らの執務室や寝室もここにあった。また趙四小姐楼は側室の建物で、爆破された作霖はここに運び込まれて息絶えたという。尚張学良の弟たちは共産党に入党して新中国を生きた。更には1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した劉長春の写真がある。彼は中国初のオリンピック選手(陸上100m、200m)だが、張学良の支援があったと書かれているなど、知らないことも多く掲示されている。建物の門の前には張学良の像がスッとが建っている。

 

張氏師府を横に歩くと、辺業銀行という名のかつての銀行の建物が出てくる。今は金融博物館となっており、合わせてここも見学する。中は迷路のようになっており、思ったよりははるかに大きい。ここも清末から民国時代、そして満州事変での影響などの歴史が綴られている。

 

瀋陽にも立派な天主堂があると聞き、そこも訪ねてみた。1878年に作られた建物は大規模で荘厳。1900年の義和団事件、1960年代の文革では相当の被害を受けたようだが、今も立派にそびえている。現在信徒はどれほどいるのだろうか。教会の横にはなぜか瀋陽で一番きれいな公衆トイレがあった。

 

天気は良いのだが、昼間でも気温は氷点下。かなり疲れてきたので、宿へ戻る。そして宿の前にあった韓国料理屋で昼ご飯を取る。まあこれも東北らしくて良いかと思ったが、ボリュームはすごいのだが、料理の質はイマイチだった。中国では全体の物価も上がっているが、良いものとそうでないものの価格差がかなり開いていることを実感する。

 

ちょっと休んだだけで、また外へ出ていく。ラストスパートと言ってよいかもしれない。バスで旧日本領事館を探しに行く。結局今は瀋陽迎賓館になっており、建物も建て替えられてしまっていた。その横にはそれらしい建物があったが、こちらはどこぞの公館跡だった。

 

そこからフラフラ歩いて、中山広場の方へ向かう。途中から古い建物がチラホラ出てくる。更に行くと欧風街などと書かれている。皆大体1920年代に建てられているらしい。ということは、瀋陽の街が整備されたのはその頃だったのではないか。かなり歩いて瀋陽駅の近くまで来ると、ここは保存地区なのか、その100年前の建物がズラッと並んでいる。往時は日本人も沢山住んでいたのだろう。郵便局の中の展示室があったりもする。

 

夜はまた面倒になり、宿の近くの店に入った。何となく見覚えのあるメニューで、水餃子を頼んだのだが、何と営口で行った餃子屋と同じチェーンだった。そして同じメニュー、同じ味なのに、餃子が2元高かった。この辺りが中国の地方格差を表しているようにも思う。

北京及び遼寧茶旅2019(8)瀋陽 中山広場から九一八紀念館へ

12月19日(木)
瀋陽へ

いよいよ旅も終わりに近づいてきている。それと共に疲労が出ており、疲れていると眠りが浅くなる。今朝も6時台に目覚め、外を見ると日が昇っていく。宿の食事にも飽きてきたが、寒いので外に出る気にはならない。また茶専門チャンネルを見て過ごすことになる。過去に放送された番組も是非見てみたい内容だ。

 

時間になり、荷物を持って外へ出ると、そこにちゃんとタクシーがやって来て、寒さを感じないうちに、駅まで運ばれていった。今日は省都瀋陽を目指す。駅の中のトイレに入ると、各扉の上に『有人』『無人』を知らせる電光掲示があったので驚いた。こんなの今まで見たことがない。先進的だが、そこまで必要なのだろうか。ただその横で『禁煙』と書かれて壁に手をついてタバコを吸っている若い男がいたのは、明らかに時代に逆行していた。

 

改札時間が来て、ホームへ行くと風が冷たくて思わず引っ込みたくなる。わずか数分間だったが、耐えるのに苦労する。一昨日から東北地方では大雪が降ったと聞いていたが、これまでの暖かな冬が嘘のように寒さが堪える。瀋陽もかなり雪が降ったらしいから、さぞや寒いだろう。

 

列車は僅か1時間で瀋陽駅に着いた。瀋陽に来るのは10年ぶりだと思う。いつの間にか地下鉄が走っており、一駅だけ乗って、予約した宿に入る。ここは繁華街のど真ん中だが、上の階なので、うるさくはない。まだ12時過ぎだったので、外へ出て昼ご飯を食べるかどうか考える。

 

日差しがあるものの、気温は零度前後。おまけに2-3日前に降った雪が残っており、道は滑りやすく歩きにくい。地下鉄の駅名が太原街なのに、その太原街が見つからない。そこは満州時代、日本人が住んでいた中心的な場所だったのだが。ようやくその辺りに行くと、きれいなショッピング街になっていて、ちょっとがっかり。確か大連の天津街と同じ構図になっている。

 

 

ただ日本人町だったことを反映してか、日本食レストランがいくつか見える。スマホで見てみると、割烹清水の名前も出てきたので、ちょっと離れていたが、迷わずそこへ行ってみた。ここは昨年大連でも行った、懐かしの食堂だった。だが、午後1時半過ぎに入ると、お客は殆どおらず、店員は日本語を話して丁寧だったが、全体的には和食屋のサービスでもなく、味もちょっと。瀋陽は大連とは違うんだ、と何となく思う。

 

それからやはり中山広場に足が向く。ここの遼寧賓館(旧大和ホテル)はまだちゃんと営業していた。ここに泊まったのは32年前になる。中に入るときれいなロビーで驚く。横浜正金や三井の入っていた建物も残っているが、公安が使っている建物などもあり、写真を撮るのが憚られた。

 

結構疲れていたが、折角なのでここからバスに乗って、一気に九一八紀念館へ向かうことにした。スマホ地図ではかなり遠いとなっていたので、覚悟していく。このバス、柳条湖橋の手前で降りることになっており、なぜか歩いて橋を渡ることになる。橋の上は強風が吹き付け、気温は零下8度。下は雪が凍結しており実に歩きにくい。何だか試練を与えられたような気分で、前に進む。橋から真っ赤な夕陽が落ちていくのが見える。

 

何とか紀念館に辿り着いたが、トイレに行きたくて仕方がない。受付で聞くと、この展示をずっと行かなければない、と言われ、少しずつ見始めると、止められなくなり、しかし限界が来て?展示内容はかなり刻銘であり、残念ながら日本人が見るには厳しい。参観者のほとんどが中国人であり、あちこちで『日本は本当にひどい』などと囁きあっているのが耳に入ると、困ってしまい、結局かなりの展示を飛ばしてトイレに駆け込む。

 

そしてすっきりして出てくると、もう閉館時間が迫り、半分も見ないうちに追い出されてしまった。柳条湖事件とは何だったのか、満州とは何なのか。考えなければならないことは沢山あるが、考えて分かる話でもないかもしれない。先日登場した張学良などに更に関心が高まる。

 

帰りもバスに乗る。瀋陽駅まで渋滞もあり1時間以上かかった。駅に着くと既に暗くなっており、駅舎のライトアップが美しい。宿の周辺も古い建物にライトが当たっており、ちょっと華やかだ。疲れてしまったので、宿の前の牛肉麺の店に入る。ウイグル系の若者が一生懸命麺を打っていたが、その動作にも疲れが見える。きっと苦労して生きているのだろうな。

北京及び遼寧茶旅2019(7)営口の街を巡る

12月18日(水)
営口で

翌朝はゆっくり起き上がる。やはり疲れが出ているのかもしれない。ただ朝食は最近泊まった3つの宿の中では一番良かったので、少しテンションが上がる。正直外に出るには寒かったが、きょうは営口の全容をつかもうと思っており、勢いで川沿いへ出た。宿の横には古い建物が残されており、ここが税関だった。今は特に使われている様子はない。

 

それから川沿いにずっと歩いて行く。古い建物がポツンとある。対岸には船の修理場も見えてくる。100年前、この地は東北の玄関口として、貿易を担う港であった。3㎞近く歩くと渡口駅という名の渡し場があり、現在も船が運行されているようだが、冬は川が凍結しており、閉ざされていた。

 

少し川から離れると、遼河老街と呼ばれる古い街並みを保存した場所があった。ただ実際には新しく建てたものもあるようで、最近中国各地でよく見られる老街の一つという感じだった。午前中でもあり、寒さもありで、歩いている人は殆どなく、店も開いていなかった。老人が一人、縄のようなものを振り回して鍛錬しているのが面白い。

 

博物館があるということだったが、とうの昔の閉館しているようで、今や建物だけが残っている。仕方なく、現在の港がある所へバスで行ってみることにした。バスは1元でちょっと小型。宿へ帰る途中の道にはやはりまだ微かに古い建物が残されているが、何があった場所かはよく分からない。

 

バスは宿を越えて更に進んでいく。元々は港を中心とした街だから、港周辺には昔栄えた市場や異国風の百貨店などがあり、興味をそそられる。肝心の港には入ることもできず、何も見られなかったが、途中で焼売屋を見つけたので入っていく。モンゴルの稍麦、焼売の原型で大型だ。この店は漢族がやっているようだが、モンゴル族のものとはまた違う。とにかく寒い中を歩いてきて、あの湯気を見ると幸せを感じる。しかも内臓スープ、羊雑湯も、本当に内臓たっぷりに入っており、もう何とも言えない気分に浸り、頬張る。

 

元気になったので、またバスに乗り、今度はお寺に向かう。九重の塔があるという楞厳禅寺。中国で九重の塔はあまり見たことはなかったが、何しろ新しい。文革で荒廃後、改革開放で立て直したのだろうか。敷地は広いがお参りの人が多いとは思えない。更にフラフラと歩き始める。

 

この街にも万達広場があり、今の街の中心はこの付近になっている。更に行ってなぜかちょっと曲がると、そこに営口博物館があるではないか。しかも無料で誰でも入れる。中もまさに私が必要としていた、天津条約、開港、そして満州時代のことがかなり展示されてあり、大変参考になる。大連も港として有名だが、最初に東北で開港したのは営口であり、少なくとも第二次大戦までは、東北の中心の一つであったはず。日本人もかなり住んでおり、商人も多かった。また茶葉貿易も一時行われていた。

 

博物館で満足したが、最後に日本領事館の痕跡がないか、周囲を訪ね歩いてみた。だがどうやら今は学校になっており、何も見付けることはできなかった。日本への思いというのは、特に東北の地で複雑ではないだろうか。体が凍えてきたので、部屋へ戻った。テレビを点けると、習主席がマカオに到着。そうかマカオ返還20周年なのだ。

 

暗くなると昼間通りかかった四川料理屋が思い浮かび、どうしても回鍋肉が食べたくなって出掛けた。何故東北まで来て四川料理とは思うものの、食べたい物を食べるのが一番良いので、そうする。一人だと一品しか頼めないのは辛いが、質はまあまあだったので、良しとしよう。体も温まった。

 

部屋に戻ると茶専門チャンネルで、何と四川の茶馬古道について、かなり詳しいレクチャーが行われていた。様々なルートの紹介から、女背夫の存在まで説明しているから、相当詳しい。来年3月にはまた四川に行き、もっと詳しい歴史を学んで来ようと計画中だったので、30分ほど食い入るように見る。

 

そうこうするうちにサッカー東アジア選手権、男子の日韓戦が放送されたので見てみた。日本チーム、勿論海外組がいないなどで戦力不足かもしれないが、韓国に押されっぱなしで覇気が感じられず、あっけなく敗れてしまった。テクニックだけが妙にあっても、気迫がないプレーヤーは去るべきだろう。また監督についても、さすがに考える時期ではないだろうか。

 

茶専門チャンネルに戻すと、昨晩に続き、学生による、ストーリー性のある個性的な茶芸が繰り広げられていた。こういうのを見ていると、一つの方向性が見えるのかもしれないが、茶とは何だろうかと本気で考えてしまう。茶芸とはその動作を見せるためにあるのだろうか。私は与えられた茶葉を吟味し、いかに美味しく淹れるか、淹れられるか、そのために道具は何を使うかを考えるのが茶芸師だと思っていたが。

北京及び遼寧茶旅2019(6)レトロな街、営口へ

12月17日(火)
営口へ

翌朝は非常に良い天気になった。昨日は何だったのだろうか、と思ってしまう。朝ご飯を食べてから、外へ出た。実は数か月前にもあったことだが、銀行カードがなぜか急に使えなくなってしまったので、急いで銀行へ行く。歩いて1㎞ちょっとの所にあるのだが、道が広くて意外と遠い。

 

銀行に入ると年配の女性が寄って来て、『どうしたの?外国人なの?』と聞いてきて、窓口まで連れて行き、係員にも一生懸命状況を説明してくれた。中国の銀行ってこんなに親切だっただろうか。だが、窓口では原因がなかなか分からない。今日は営口に移動するので、列車の時間もあり、ちょっと焦る。係員はついに、再度私のデータを登録し直したらしい。すると突然使えるようになる。システム上の問題なのか、本当にこういうのは困る。お金が急に使えないのは外国では致命的なのだ。でも銀行側の対応は有難い。

 

急いで宿へ戻り、チェックアウトする。この宿、とても立派なのだが、受付の対応は残念ながら今一つ。急いでいるのに、私の作業を途中で中断して他のことを始めてしまった。何とかアウトさせてもらい、前に停まっていたタクシーに乗る。駅に着くとまだ40分もあったが、私のチケットの列車より早いのはない、とのことだった。

 

何故だろうか。本日向かう営口という街は、その手前で瀋陽と大連方面に分れるのだ。だから葫蘆島を通る列車は沢山あるのだが、私は大連方面行にしか乗れない。このようにして、街の位置関係を理解することも重要だ。大連行きに乗れば1時間ちょっとで営口東駅に到着する。もう列車の旅も慣れてしまい、目をつぶっていると着いてしまう。

 

営口東駅も新しい感じだった。ここから街までは相当に遠い。またバスなども乗り換えないと予約した宿に行けないため、タクシーを使う。日本に比べれば決して高くはないので、つい使ってしまうのだ。営口の街はかなり古びており、歴史好きの私としては、秦皇島、葫蘆島よりはワクワクする。

 

宿も老舗ホテルだった。予約した時は気が付かなかったが、この付近が往時営口の貿易の中心であり、この宿の位置も元々は税関の横であった。裏は川が流れている。天気は良いのだが、川風はかなり冷たい。思えば北京からどんどん北に向かっている。そしていつの間にか遼寧省に入っている。

 

宿の向かいに由緒正しそうなビルがあった。1930年代にできた銀行の営口支店だった。その隣は郵便局の跡、中国赤十字発祥の地とも書かれている。更に道を渡ると珍しい建物が見える。何と旧ロシア領事館だった。実はこの両側にはイギリス領事館と日本領事館もあったらしいが、今はその姿は見えない。ただ更に行くと、立派な教会が今もどんと存在している。往時の営口とはどんな街だったのだろうか。

 

零下の街を歩いていると、実はかなりの疲労感がある。そして腹が減るが、この周辺にはあまり食堂がなく、たまたま見かけた包子の店に入っていく。ドアも2重になっており、急に北国を実感する。包子以外にも豆腐脳も注文し、更にはキムチも出てきてちょっとカオス。だが体は温まってよい。

 

そのまままた歩き出し、宿の裏の川沿いを少し歩いてみたが、残念ながら風が強くて、宿へ戻ってしまった。ベッドに潜り込んで体を温める。テレビを点けると女子サッカー東アジア選手権、中国対台湾をやっている。本来なら北朝鮮が出るべき試合だが、代わりに台湾が招待された。日本にはぼろ負けしたが、今日はかなり頑張って1点差の惜敗。監督も日本人であり、今後向上が見込まれる。

 

夜になると腹が減りまた外へ出た。先ほど見た古い建物はきれいにライトアップされていた。今回は歩いて15分ほどかかる、街の中心部まで行ってみた。小さな街だが、重厚感ある建物も残っている。なぜか水餃子が食べたくなり、チェーン店らしき店に入る。かなりきれいで雰囲気も良く、ここだけお客が多い。

 

餃子は冬至に食べようと思っていたが、今回は冬至の日に帰国するので、東北にいる間に食す。ここの餃子は餡がしっかりしており美味だ。一種類なので飽きてしまわないように、キュウリの和え物も頼んであるので、快調に箸が進む。家族連れもいるが一人客も多く、特に女性が目立つ。これからはこんな店が地方にもどんどんできるのだろう。

 

部屋に帰ってテレビを回していると、何と『茶番組』専門チャンネルを発見した。茶の歴史番組もあり、かなり本格的で一流の先生が講義しており、真剣に見入る。学生の茶芸コンテストはどうかとも思うが、取り敢えずこんなチャンネルがあることに中国の凄さを感じる。日本ではとても成り立たないだろう。

北京及び遼寧茶旅2019(5)氷雨の葫蘆島で

 

夕飯は結局面倒になり、宿の横のウイグルレストランに入って、ラグマンを頼む。出て来た麺、二人分はありそうだ。具も沢山で、自ら麺にかけて食べる。久しぶりに堪能する。小学生の女の子は宿題をしながら、店の手伝いをしており、何となくウイグルを思い出す。もう一度行きたいのだが、今は少し不自由だ。

 

宿へ帰り、またテレビ。もう旅をしているのか、スポーツを見に来ているのか分からなくなるが、年末のグランドファイナルを生中継で見られるのだから、つい見てしまう。バド女子は台湾の戴と中国の陳の戦いとなり、予想を覆して、陳が優勝した。彼女のスマッシュ、コースが独特で実に拾いにくい。

 

併せてサッカー東アジア選手権男子、中国対韓国の試合も見た。どちらも動きはイマイチだが、そこは試合好者の韓国が上手だった。目を引いたのは、中国の監督代理があの李鉄だったことか。彼は中国初のプレミアリーグ選手だったことをよく覚えている。現在中国選手でイングランドに所属している人はいるのだろうか。李の頃は中国ももう少し強かったような気がする。

 

12月16日(月)
葫蘆島へ

翌朝もダラダラ起きる。午前中は休息に当てる。11時前にチェックアウトして、駅へ向かう。今日は高鉄で葫蘆島北駅まで進む。途中昨日行った山海関を通り過ぎ、約1時間で葫蘆島北までやってくる。駅は畑の真ん中に作られた感じが強く、周囲には特に何もない。タクシーで市内中心部へ向かうも、30分ほどかかる。予約した宿に入ると、見かけはかなり立派。区画整理がよくできており、新市街地にいることが分かる。

 

残念ながら葫蘆島で雨が降り出し、かなり肌寒い。昼を過ぎていたが、ちょっと外に出て、麵屋に駆け込み、熱い麺をすする。落ち着いたところで、外へ出るとちょうどタクシーが来たので、港の方へ走ってもらう。港は街から10㎞も離れており、予想以上に遠く感じられた。運転手も『なんでそんなところへ行くんだ』と怪訝そうな顔をする。

 

目的地をスマホ地図で示して、30分ぐらいかけて何とかそこに辿り着く。そこ、とは、第二次大戦後、旧満州などか命からがら逃げてきた100万人の日本人が、海を渡って引き揚げた場所だった。『日本僑俘遣返地』という石碑が建っているが、これは最近地元政府が建てた新しいものだった。

 

いつかは一度、この地に来ようと思っていたが、その日は突然にやってきた。だがこの石碑以外、この地の歴史が感じられるものは何もない。1945年から46年にかけて、着の身着のまま満州から逃げてきた開拓民がここに集められ、寒さの中、日本への帰国を待っていた。それは今日の零下の気温と小雨の中で見ると、恐怖でしかない。日本人は満州で一体何をして、何を得て何を失ったのか、私などには想像もできない。ただただ茫然と佇むのみである。

 

ここを訪れたことを後日、何人かの日本人に話したところ、『実は自分の母親もここから引き揚げたと聞いている』『一度父を連れて行きたかったが、もうそれは叶わない』など、思った以上に反響があり驚いた。そして満州引き揚げの規模の大きさ、身近さがひしひしと感じられた。もし当時の引揚者が今の葫蘆島を見たら、一体どう思うだろうか。懐かしくはあるかもしれないが、決して良い思い出がある場所ではないはずだ。

 

この石碑の海側にも何かあるというので、小山を登ってみた。ここからは現在の港が一望できるはずだったが、霧でほぼ何も見えない。上には『葫蘆島港開工記念碑』が建っていた。1930年とあり、張学良の名前も見える。この時代、東北軍閥の雄、張学良は父張作霖の爆死後、この辺りまでを勢力圏に置いていたことが分かる。そして僅か6年後、西安事件で幽閉され、次に歴史上に登場するのは、1990年の台北だから、あまりに劇的である。

 

帰りのタクシー内で『ほかに古い町並みが見られるところはないか』と聞いてみると、葫蘆島市内は、戦後の建物ばかりだが、もう少し遠くで良ければ明代の建物が残っている、というので、そちらにも行ってみることにした。何しろ雨で動きは取れないので、今日はこのタクシーを使うしかない。

 

遠くとは言ったが、本当に遠かった。一度葫蘆島市内を通り過ぎ、反対方向へ30㎞も進んだ。もう葫蘆島ではなく、隣の市ではないか。興城古城、という名の城壁に四方を囲まれた観光地がそこに出現した。だが冬で雨のせいもあり、観光客は全くおらず、既に切符売り場も閉鎖されていた。仕方なく場内を散歩したが、確かに古い建物はあるものの、現在も人が住んでいるため、その古さが今一つ感じられず、半分ほどで引き返した。

 

これまでタクシーを使って観光地に行くなど、殆どなかったのである意味新鮮ではあるが、ずっと雨に降られたので、何をしに来たのか、よく分からずに終わった。宿へ帰るともう外へ出る気力もなく、ルームサービスで済ませる。色々な意味でぐったりと疲れが出たのかもしれない。気持ちは非常に重かった。

北京及び遼寧茶旅2019(4)山海関と秦皇島

すぐ近くに立派な門があった。今や観光地の秦皇島だから、テーマパークのような公園でもあるのだろう。だが今日は日曜日だというのに、門は固く閉ざされていた。秦皇島の冬は完全なオフシーズンであり、開門しても採算が取れないのだろう。仕方なくその向こうをぐるっと回って何とか海に出た。

 

ビーチがあったが人影はまばら。夏は沢山の海水浴客が訪れるらしいが、本当に冬は誰も来ない。気温はそれほど低くはないが、今日は曇り空。そこへちょうどいい具合に薄日が射してくる。何となく秦皇島の雰囲気になってきているようだ。海から突き出して橋が架かっており、その先に石碑のようなものが見える。そこを渡るのに2元支払う。おばさんが『釣りの人かい』と聞いてくる。

 

渡っていくと、何となく始皇帝が不老長寿の秘薬を求めて渡海する気分になれる。釣り用のボートが横付けされているが、これに乗れば海の向こうへ行けるのだろうか。日差しが少しずつ強くなり、視界が開けてくる感じもある。だがそれ以上は特に何も起こらない。そしてトボトボと引き返すのみ。2200年前、始皇帝は本当に海を渡ろうとしたのだろうか。

 

バス停に戻り、来たバスに乗り込み、街の中心部でバスを乗り換える。ここでスマホ修理屋が空くのを待とうかとも考えたが山海関に行くバスは分かっているので、取り敢えず行ける所まで行ってしまおうと思う。最近の行動としてはかなり無謀だな。33番のバスは、先ほど乗ったバス停も過ぎ、秦皇島駅も通過して、一路山海関を目指す。路線バスなので何十ものバス停で乗客が乗り降りし、かなりの混み具合の中、1時間後ようやく山海関の街に入る。

 

ここは秦皇島とは別の街であり、電車の駅も別にあるようだ。山海関という文字が見える場所でバスを降り、そのまま中に入っていく。かなり歩くと入り口があり、15元を払って入場する。ここの料金も冬季割引があり、50元のところが15元らしい。まばらながらここには観光客がいた。登っていくと、なかなか眺めがよい。建物があり、天下第一関と書かれており、ここから万里の長城が始まるのだな、と思える。

 

関をずっと歩いて行くと、ここを守った人などゆかりの人の展示もあり、興味深い。元々は明末、万歴年間に建てられた建物が多く、それを1980年代に修復している。異民族の侵入を守る砦、明が滅んだときも、ここから満族が侵入してきている。万里の長城の端を見学するには、ここから更に行かねばならないようだが、私は天気の良いここでの散歩で大いに満足した。

 

更には長城博物館にも立ち寄り、長城が2600年も前から作られ始め、各時代の長城の範囲などが地図で示されているのは参考になった。我々が思う長城はごく一部だったということだ。そして抗日戦争中の長城の写真が展示してあり、日本軍が一部を破壊した様子も見られた。

 

またバスで帰ろうとしたところ、ちょうど屋台が出ており、いい匂いをさせていたので菓子餅が食べたくなる。おばさんに注文すると、『微信支払いできるか』と言われ、現金でというと見せろと言う。10元を見せると、何と10元分、ぎっちり詰め込まれた餅が出てきてビックリ。お釣りはないので現物支給だ、と言わんばかりに10元を取り上げられた。今回北京でも、ここまではっきり現金ノーを突き付けられたことはなく、驚くばかりだ。これも観光地での新手の商売戦略の一環かもしれない。

 

バスでまた市内中心部へ戻る。僅か2元でこんなに長い距離を走れるのはうれしい。だがスマホが使えないので正直退屈でもある。バスを降り、見つけたスマホ修理屋に駆け込んだ。おばさんが『どこが壊れたんだ』と聞いてきたので、画面が真っ暗だと告げると、ほんのボタンを1-2押して、あっという間に解決してしまった。ようやく私が何かで操作を誤り、画面の明るさを0にしてしまっただけで、壊れてはいなかったのだと分かる。おばさんも呆れてしまい、『早く帰って、商売の邪魔だ』という顔をしたが、私としてはホッと胸を撫でおろした。

 

バスで宿へ戻ると、またCCTVを点ける。今日は日曜日だから各種目の決勝が行われている。バド男子はシングルスで桃田が優勝。最近の彼の強さは際立っている。女子ダブルスは期待の永原/松本が精彩を欠く試合内容でがっかり。中国ペアの良さだけが目立つ試合となった。卓球も女子シングルスは世界ナンバーワンの陳夢が貫録勝ち。

 

あっという間に外は暗くなり、また夕飯を探す旅を始める。すると向こうの方に鉄道チケットを売る店があるではないか。最近は皆がスマホで予約するため、このような店はどんどん減っているのだが、折角あったので、明日の葫蘆島行きだけでなく、営口、瀋陽、北京と回るチケットを全てここで買ってしまった。日程は固定されてしまったが、もうこれでチケット窓口に並ぶ必要はない。外国人にとってはこういう店に残って欲しい。チケット代も全部で400元ちょっと、やはり中国は日本に比べて相当と安い。