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ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(4)ヤンゴンをフラフラ

10月8日(月)
今日もフラフラ

今朝も天気は良い。何となく洗濯したい気分となるが、ホテルに洗濯を出すのは料金の問題もあり気が進まない。東南アジアの都市には、1㎏いくらで洗濯してくれる、またはコインランドリーなどがあり、ヤンゴンはどうかと歩き回ってみたが見付からない。聞いてみると、近所にはいくつもゲストハウスがあり、そこで安くやってもらえそうだというので、泊る訳でもないのに、GH探しに切り替わる。

 

1つの通りに幾つもGHがあった。但し殆どが受付はビルの3階以上で、エレベーターなどない。しかも行ってみるとランドリーサービスがないなど、結構苦労した。ようやく見つけた1軒、スタッフは親切だったが、洗濯物は翌朝出来上がりだという。明日はヤンゴンを離れるのでちょっと不安だったが、思い切って出してみた。因みにシステムはホテルと同様だったが、非常に安くて驚いた。

 

それからスーレーの横を通り抜け、川沿いに出ていく。この付近一帯は全て植民地時代の建物が残っており、以前は汚いままだったが、最近はヤンゴン市が保存政策を打ち出したのか、かなりきれいな観光地と化している。午後にでもゆっくり散策することにして、また歩をチャイナタウンに向ける。

 

実は先日会った張さんより『チャウメイで茶業をしている息子がヤンゴンに来るので会うか』と聞かれたので、再度お寺を訪ねてみたのだ。ところが行ってみると張さんはいない。車の駐車スペースを探しているというのだ。ようやくやってきても『息子は来ない。今年はもう製茶はしないと言い出した。来年もやるかどうかは分からない』というではないか。何か事情が変わったようだ。

 

そんなことを話していると突然事務所に女性が飛び込んできた。大声で何か騒いでいる。張さんも事務所を飛び出していった。何とこの女性はひったくりに遭ったというのだ。防犯カメラもあり、画像から犯人を特定している。最近ヤンゴンも治安が悪くなったらしい。これも経済悪化の影響だろうか。

 

張さんとは収穫なく別れた。ホテルに帰る道すがら、気になったのが、ピンクの服を着た尼さんが沢山歩いていたことだ。どうやら雨安吾明けの活動があるようだ。托鉢している人々もいる。尼さんには失礼だが、とても華やかな感じがしてしまう。幼い子も尼さんになっているのが、かわいらしい。彼女らはどのようにして尼の道に進んだのだろうか。

 

昼になり、腹が減る。ホテルの近くに屋台があった。モヒンガーを出しているようだったので思わずそこの椅子に座ると、店主は身振り手振りで応対してくれた。恐らくは障害があるのだろう。こちらも手ぶりで入れて欲しいものを差し、食べる振りをすれば、モヒンガーは出てくる。この麺、スープが実にうまい。芋の天ぷら?が良い。ああ、これが食べたかった。500チャットは、やはり以前に比べて高くなっているが、それでもこれだけ旨いものがこの値段で食べられることは幸せだ。

 

それから川沿いを散歩した。郵便局やストラッドホテルなど馴染みの場所ではあるが、更に手入れがされ、いくつもの建物が輝いて見えた。ヤンゴン市が指定した保存建築の紹介がされた地図も作られており、外国人観光客誘致など、昔と比べて相当に意識改革された感じだ。暑いので、川を見ようと道路を渡ったら、そこは向こう岸に渡るフェリー乗り場。ちょっと覗いてみると『日本人は無料だから乗りな』と言われ、ビックリ。日本から寄贈された船だとか?!

 

歩き疲れたので、現代的なカフェに入ってみると、お客で混みあっており、やはり所得の向上と共に路上カフェが消え、クーラーの効いた涼しいところに集まる傾向を確認した。ドリンクは決して安くはないが、それにケーキなども合わせて食べているのを見ると、庶民のお金の余裕は実感できる。

 

カフェの横にバスチケット売り場があった。鉄道駅の前まで行かなければならないと思っていたが、英語も通じたのでここで明日のモウラミュイン行きのチケットを買う。洗濯物を午前に取るため、午後のバスにした。3列シートのVIPバスだというが、さてどうだろうか。そして問題は郊外にあるバスターミナルまで遠いということ。残念ながらここからの送迎はなく、自力で行けと言われる。

 

夜はTさんにモン州料理に連れて行ってもらった。民族色が強いかと思い行きや、非常におしゃれな店内で驚く。白人がよく利用する、英語も通じる店だった。明日行くモウラミュインもモン州らしいが、一人なのでよいものは食べないだろうと、イカ飯のようなものを食べたが、実にうまかった。オクラを揚げたものも美味。明日からのモン州が楽しみになって来た。

ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(3)安渓会館からティラワへ

昼ごはんは麺を食べたいと思い、シャンヌードルの店に行ったが、何と既に売り切れていた。それからヤンゴン在住の日本人、Gさんを自宅に訪ねた。Gさんは奥さんがミャンマー人で、こちらに長く住んでいる。ミャンマーの少数民族、そして茶の歴史のことなどを話しだしたら止らくなってしまい、午後中話し込んでしまった。奥さんは飽きれ果ててどこかへ行ってしまう。

 

夕飯も3人で食べることにした。連れて行ってくれた店は何とコーガン料理だった。コーガンとは中国とシャン州の国境にある、ある意味で危険地帯。メニューにケシの実スープがありオーダーしたが、特に味は分からなかった。料理全般は中華系と言えるが、コーガン料理屋を探すことは一般的には難しいだろう。

 

10月7日(日)
ヤンゴンをフラフラ

翌朝は朝飯を食べてから、散歩がてら付近を散策。近くにあるスーレーパゴダを一周回り、路地に紛れ込む。ここは昔路地ごとに紙屋とか電気屋とかに仕切られていたのかもしれない。コーヒーや紅茶と軽食を出す店には、朝からたくさんの人が座り、朝飯を食べている。

 

両替をしようと思い、探してみたが、朝はやっていないところが多い。昨日見た感じでは、1米ドルに対して1500チャット以上になっており、一昨年の1200チャット台と比べれば相当に為替が弱くなっている。これもミャンマー経済の悪化を象徴している。そういえばミャンマーでは紙幣が折れていたり、書き込みがあるとその分ディスカウントされるというとんでもないルールがあるが、今回は米ドルの旧札が大幅ディカウントされることを知り驚く。

 

昼前にTさんがまた迎えに来てくれた。まずはホテルのすぐ近くの茶屋、というか、呑み屋に入る。この付近はヤンゴン中央駅前で、映画館が並んでいたそうだが、どんどん取り壊される再開発地域だ。その茶屋はシャン州のチャウメイ出身者が経営しており、お茶も販売していた。

 

それから昨日の続き、チャイナタウンに行き、安渓会館を訪ねることにした。安渓出身者の情報があるに違いないと思い向かったが、その場所がよく分からなかった。ちょうど永定会館があったので聞いてみようと2階に上がると、二人の老人が将棋を指していた。その壁を見てびっくり。そこにはあのタイガーバームで財を成した胡文虎兄弟の肖像画が掛かっていたのだ。胡の原籍は永定であり、タイガーバームはヤンゴンで彼らの父により発明されたと初めて知る。

 

安渓会館はそこからすぐの場所にあった。事務所には老人が一人おり、聞いてみると資料はあまりないという。それでも50年以上前の会員名簿などを見せてもらうと、何人か安渓出身の茶商の名前が出てきた。住所も書かれていたので、そちらを訪ねてみようと思ったが、突然のスコールに遭う。この会館の5階には清水祖祠が祭られているというので、そちらにお参りに行く。今ではここを参拝する人も少ないらしいが、やはり安渓人の寺なのだ。歴代会長の写真が飾られている。

 

少し待つと雨は止んだので、外へ出て、先ほど見付けた茶商の跡を追う。その住所はすぐに見つかったが、そこは食堂だった。店員に聞くとオーナーがお茶屋だったらしい。3階に住んでいるというので訪ねてみたが不在で会えなかった。もう一人の茶商の住所には銀行しかなく、その上には寺があるだけで消息はつかめなかった。ご縁はなかったようだ。

 

昼ご飯、今日はシャンヌードルにありついた。1杯1200チャットは日本円にすれば決して高くはないが、シャン州なら700チャットぐらいが相場、ヤンゴンでも1000チャットはしなかったように思う。思っていた以上に物価は庶民の生活を直撃しているのかもしれない。

 

取り敢えず今日の調査は終了したので、午後はティラワ工業団地を見に行く。数年前、ここを2度ほど訪れたが、その時は土台工事をしていた。この団地は日本の肝いりプロジェクトで、日本のマスコミが大々的に宣伝していたが、最近は音沙汰もない。どうなっているのだろうか。

 

1時間ほど車で走り、道路脇をキョロキョロした。実は以前この辺に日本帰りのミャンマー人がカフェを開いていたので、その後どうしたか知りたいと思い、探してみたが、見付からなかった。商売が上手く行き、もっといい場所に引っ越したか、或いは上手く行かず店を閉じたのか。

 

ティラワの一期工事は完成しているように見えた。日本企業の名前の入った工場がいくつも並んでいた。だがそこに行くまでの道はガタガタで、とても最新鋭の工業団地を訪問する雰囲気ではなかった。日曜日で人影もなく、とても寂しく見えた。これもミャンマーの現状を表しているように思えた。

 

夜は紹介されていたピンピンの店に行ってみた。ボージョー市場のちょっと北側はおしゃれないエリアになっており、その中に雲南華僑の若い女性が作った火鍋屋は存在していた。彼女はマレーシアに出稼ぎに行き、台湾系レストランで働いた。その時の経験を生かして4年前に店を出し、今や隣の場所にまで拡大している。お客は日本人駐在員と出張者というから目の付け所が良い。手ごろな料金でうまいものを出しており、ミャンマー料理が苦手な日本人に合わせていた。

ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(2)大茶商の末裔を発見!

10月6日(土)
大茶商の末裔

朝の目覚めは比較的良かった。今回泊まったこの宿、何となくフランス風の作りだった。トイレとシャワールームのドアが共有で、二人で使う場合はどうするのか、と思うような遊びがあった。こういう作り、嫌いではない。ただWi-Fiの電波は弱く、結局iphoneからテザリングする羽目になる。古いホテルのインフラ、仕方あるまい。

 

朝ご飯は1階で食べる。メインの食べ物はオーダーするが、パンやコーヒー、フルーツは自分で取るスタイルとなっている。30ドルちょっとのホテル代なので、悪くない朝食だ。お客も白人が多く、中国人も少しはいるが、英語を話す人種が大半だった。

 

今回のミャンマー訪問の目的はずばり、『大茶商の末裔を探す』ということだった。ヤンゴンには何度か行ったことがあり、チャイナタウンと思しき場所も訪ねたが、お茶屋があるという印象はなかった。先日のバンコック同様、地元を知り、ミャンマー語を話す人材の助けは必須だった。以前からの知り合いであるTさんにお願いすると興味を持ってくれ、事前調査までしてくれた。

 

その事前調査とは、私が華僑誌で見つけた華人茶商の名前を挙げ、知り合いがその知り合いの華人に伝え、その人がヤンゴンの福建系寺院に問い合わせたところ、何と末裔の電話番号が得られたというのだ。その番号にTさんが電話を掛け、取り敢えずアポイントを取ることに成功したというのだ。こんなとんとん拍子に行くとは思わなかったが、さてどうなるのか。

 

Tさんが車でホテルに迎えに来てくれ、活動が始まった。とにかく指定された寺院に向かう。今やヤンゴンでも車が多過ぎて駐車スペースを探すのに苦労した。その寺院は如何にも福建系であり、入っていくと線香の煙に包まれた。その寄付金のボードに、早くも調査したい人物、張彩雲氏の名前を発見して、テンションが大いに上がる。

 

案内された事務室に入ると数人の老人がいたが、その中に、張彩雲氏の息子、張家栄さんがいた。このお寺、慶福宮の前主任をしていたという。きれいな中国語を話した。この宮も張彩雲がその管理に尽力し、それを三男の家栄氏が引き継いだということらしい。まあとにかく日本人がわざわざ自分の父親の歴史を調べに日本から来た、そして中国語を話したということで、とても喜んでくれた。

 

ひとしきり彩雲氏の話を聞いた。1920年代からヤンゴンで茶業を始め、94歳まで元気で生きており、最後は事故で亡くなったという。ただその一生はかなりの激動であり、如何にも華人という歴史だった。更にはその人生とミャンマー、中国の歴史が密接に絡んでおり、このテーマは茶商の歴史をというより、華僑史、アジア史に直結しており、意味があると思うに至った。尚家栄氏は茶業をしておらず、息子の一人がチャウメイ方面で茶を作っているということだった。

 

続いて、華人図書館に行った。Tさんが探してくれていた場所だった。細い階段を上がると、2階には漢字の本がずらりと並んでいた。係の女性も普通の中国語を話し、親切にも本を紹介してくれる。ヤンゴンの華人に関するものは限られていたが、先ほどの慶福宮の歴史などが分かるものがあり、これをコピーさせてもらうことにする。

 

だが図書室にコピー機はなく、近くのコピー屋に持ち込む。本の持ち出しを簡単に許してくれたのも驚いたが、コピー屋ではコピーが何台かあり、スタッフが1ページずつ丁寧にコピーしてくれたのはもっと驚いた。とても立派なコピーが格安で出来た。さすがヤンゴン。

 

それから彩雲氏が主席を務めたという和勝総公司にも行ってみたが、そこは会社でもなく、何だか結社のような場所だった。そして話を聞くなら、中華総商会に行くように言われる。商会は川沿いの大きなビルだった。いきなり入っていったものかとも思ったが、2階だと言われたのでエレベーターで上に上がる。

 

そこはかなり広い空間であり、時々華人が集まっているのだろう。総幹事の黄さんが対応してくれる。彼は彩雲氏も勿論知っていたし、彼の孫世代とはかなり近しい関係だという。福建系の人々はやはりかなり繋がりがあるようだ。現在ヤンゴンで茶業をしている人は殆どいないことを確認。尚黄さんは旅行社を経営しており、ミャンマー華人の台湾訪問旅などもアレンジしているが、近年は参加者が増えているという。

 

彩雲氏の茶行は五十尺路にあった。五十尺路とはどこにあったのか、その場所も分った。そして茶行の場所に古い建物は無くなっていた。今は家栄氏の息子がプラスチック会社を興し、成功しているらしい。この道、よく見ると、茶荘など色々な商店が立ち並んでいて、面白い。往時は栄えたところだったのだろう。

 

家栄氏に住所を聞いて、彩雲氏の孫も訪ねた。長男の息子さんだった。最初は怪訝そうな顔をしていたが、こちらの意図が分かると、1950年代にナムサン方面に入った時の写真などを見せてくれ、説明してくれた。長男は3年前に亡くなったが、忠実に彩雲氏の教えを守り、細々と茶業を続けており、現在はその息子が引き継いでいた。ここでは水仙茶やジャスミン茶を売っており、なかなかいいパッケージだった。

ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(1)変化するヤンゴン

《ミャンマーの茶商を訪ねて2018》  2018年10月5-12日

4月に福建省の安渓に行った時、地元の華僑史研究の第一人者、陳先生と出会い、その著書をもらった。その本をパラパラ見ていると、東南アジアに出て行った安渓出身者の中で、茶業に従事した者が何人か取り上げられていた。さすが安渓、茶産地らしい。

ちょうど10月からミャンマーに入るのに、日本人はビザ免除になったこともあり、まずはヤンゴンへ行ってその華人の末裔を探してみようと考えた。果たしてそんなにうまくいくのだろうか。バンコックでの成功体験を胸に勢い込んで向かう。

10月5日(金)
ヤンゴンの変化

エアアジアは無事にヤンゴン空港に着いた。イミグレで日本人向けビザ免除が浸透しているのか、帰りのチケットを持たないでも本当に免除になるのか、ヤンゴンから入って、他の街から出国することは可能なのかなど、いくつかの不安があったが、それは完全に杞憂に終わる。イミグレの女性係官は笑顔で『ノービザね』と言い、あっという間に通過できた。観光目的に限り30日間免除、ということだが、これまでビザ取得にかかっていた時間、そして50ドル程度の費用が一瞬にしてなくなり、夢のようだった。

 

外へ出ると、シムカードも簡単に買える。ほんの数年前は保証金を出してシムカードを借り、帰りに空港で返していたのが何とも懐かしい。しかも料金は5500kと安い。空港内にはKFCも出来ており、どんどん変化していることがよくわかる。今までは空港にTTMなどが迎えに来てくれていたが、今回は初めて一人でダウンタウンに行くことになっていたのが唯一の不安材料。

 

タクシーも考えたが、シャトルバスがあると聞き、乗ってみる。僅か500kでさくらタワーまで行けた。何と便利になったのだろう。勿論沢山のバス停に止まるため時間はそれなりにかかり、車内アナウンスも全くなので、どこで降りてよいか分からないともいえるが、慣れている人なら大いに助かる。このバス、一般ミャンマー人も利用しているが、市内バス200kよりはかなり高いという。

 

今回はさくらタワーのすぐ横のホテルを予約していた。確か数年前は100ドル近くしたホテルのはずだが、予約した料金は僅か30ドルちょっと。行ってみると、かなり古いのだが、部屋には趣がある。Wi-Fiは弱く、繋がり難いが、それでもこの立地、朝食付きで、この料金は以前では考えられない。ヤンゴンのホテルバブルは収まったと言えるのではないか。

 

まだ日も高いので、取り敢えず周囲の散策を始めた。この付近、何度も来たことはあるが、ボージョーマーケットやさくらタワーなど、用事がある時だけ歩いているので、実はあまり馴染みがない。ボージョーの向かい側には大きな新しいビルが建ち、風景も変わってきている。だがその向こうには植民地時代の古い建物が並ぶ。病院だろうか。華人街、インド人街もその南側に広がっていた。路地には市場が立っており、柚子を買った。バナナも買いたかったが、いいものがなかった。

 

夜、一度ヤンゴンで会ったIさんと再会した。彼女はベトナムからヤンゴンに移って数年、精力的にミャンマー事情を紹介している。彼女はチャイナタウンの近くにある、ミャンマー人の若者が最近オープンしたという茶館に連れて行ってくれた。そこは賑やかな繁華街にあり、1階はバーのように見えた。

 

2階に上がるとそこは座敷のようになっており、ゆっくり座って茶を飲むことができる。こういう空間がミャンマーにも出現したのかと、ちょっと驚く。ここには数種類の中国茶が置かれており、簡単な食事もできた。お茶はポットでも3000kと決して高くはないが、ミャンマーの物価からすれば結構な値段なのだろう。

 

帰りがけに1階にいるオーナーからちょっと話を聞くことができた。まだ30歳、元々コーヒー店を経営しており、繁盛しているという。彼も親が雲南からやって来た華僑であり、中国語を普通に話す。コーヒーだけでなく中国的な茶にも目を向けたのだろう。正直酒を出すバーの方が儲かりそうに思うのだが。そんなことを考えていると、四川から来たという中国人が来店して話を始めたので、おいとました。

 

繁華街は夜10時を過ぎ、かなり盛り上がっていた。道の真ん中を占拠している果物の露店商も売り込みに懸命だ。Iさんは帰りのタクシーを探しているが、価格面でなかなか折り合いが付かない。そろそろメーターで普通に行って欲しいのだが、この辺に昔のミャンマーの名残がある。

バンコックの茶商を訪ねて2018(2)バンコックの2大茶商をついに発見

途中にきれいな寺があり、これかなと思って入ってみたが、違っていた。そこのお坊さんに中国語を使ってみても全く反応がなかった。ただここにお参りに来ている華人は結構いるようで、漢字の写真付きのプレートは嵌っていた。我々が思うチャイナタウンからは、だいぶ離れてきたように思われた。

 

更に進んでいくと、狭い路地のようになっていく。その奥にその廟、清水祖祠があった。奥の割には意外と大きい。そこにいた女性に声を掛けると一人は流ちょうな標準語を話した。この付近にはやはり福建系が多いらしい。そしてこの廟はあの福建省安渓にあった清水岩寺の分家だと分かりハッとする。

 

この廟の横はもうチャオプラヤ川なのだ。100年以上前、この辺りでは活発な貿易が行われていたに違いない。そして福建華僑の人々はここにお参りに来たはずだ。ちょっと暑いがいい風が吹いている。そこのおばさんが、『コーヒーを飲むいい場所がある』と案内してくれたのが、近くの見事なお屋敷。

 

昔コメ貿易で財を成した潮州系一族が暮らしていたようで、古い建屋が建っているのだが、今は末裔がダイビングをやるため、庭の真ん中はプールという極めて特徴的な場所だった。2階に一族関連の展示が少しあるが、ここも川にほぼ隣接しており、往時は米の輸出を激しく行っていたと想像できる。2階で冷たいお茶を啜ると心地よい。タイ華人や白人が来ており、穴場の観光地と化している。

 

取り敢えず腹が減ったので、ヤワラーに戻り、飲茶を食べる。ちょっと暑かったこともあり、そこで休息方々、2時間以上もしゃべり続けた。その後Oさんとは別れ、Mさんともう一つの調べに出掛けた。前回ここに来た時、台北の有記茶荘のお茶を売っている、と言っていたところがあったが、今一つ言葉が通じなかったので、Mさんを通訳に確認に行く。

 

そこはやはり、王有記の店だと分かった。有記は2代目がバンコックで開業しており、その末裔かと思ったが、それもちょっと違うらしい。この店のオーナー、4代目は不在だということで詳しいことは分からないが、店の男性は『実は王有記はもう一つあるよ』というではないか。

 

その場所を彼は簡単に説明してくれ、遠くはない、と言ったので、何となくその方向へ歩き出した。ところがタイ語で確認していたMさんは『そんなに近い訳はない』と言い出し、周辺で聞き込みを始める。でも誰も知らない。仕方なく、唯一得た場所のキーワードを頼りに、トゥクトゥクに乗り込み向かう。かなり走った後、政府機関の前で停まる。

 

もうこの辺はヤワラーではないが、漢字の看板は多い。飛び込みでMさんが聞き込みすると、何と近くにあることが分かり、ついには発見に至る。そこにはきちんと漢字で王有記と書かれているではないか。店の女性に聞いたがよく分からない。そこに4代目店主の女性が帰ってきて中国語で話が聞けた。この店の前身は約100年前に開業した、まさに2代目有記だった。もう感激だ。

 

色々と話を聞いたが、取材された英語記事なども見せてもらい、理解を深めた。今は姉弟で経営しているというが、跡取りはいないので、今後がどうなるかはちょっと心配だ。ヤワラーのような観光地ではないので、中国人や台湾人観光客も期待できない。地元民はどんどん茶を飲まなくなっている。さて、どうなるのか。

 

そこでタクシーを拾った。午前中に訪ねて引っ越した人と連絡が着いたのだ。ただそこはヤワラーからは遥かに離れた場所だった。車に揺られて30分以上かかった。一体どこへ行ってしまうのだろう。着いたところは立派な中華レストランだった。そして2階に上がると、そこにリバービューの席がある。夕暮れのチャオプラヤを見ながら、美味しい広東料理を食べた。

 

ここのオーナーはどこにいるのか、ずっと待っていたが来なかったので、もう一度聞いてみると何と隣で食事をしていた女性だった。この人が我々の探していた建峰茶荘の末裔。茶荘を閉めてレストランを興したのかと思っていたが、一応今も茶荘は続けていると言い、1階に看板も置かれていた。ついにここまで辿り着いたか、と感激はひとしお。今回はこれで目的達成と喜んだが、更にここで次の手掛かりを得る。茶のご縁はどんどん繋がっていく。

 

10月5日(金)
ヤンゴンへ

翌朝もコーヒーを飲んでチェックアウト。タクシーでドムアン空港に向かう。今日も又道は極めてスムーズで、30分以内で空港に到着した。朝ご飯を食べていなかったので、周囲を見渡すと、和食の看板があったので入ってみた。だが出てきたのは和食というより、もどき。それでもまあ食べられるのでよい。サボテンがあった時代が懐かしい。

 

今日は珍しくエアアジアに乗る。最近はこれに乗る必要がなく、何となく敬遠していたが、今回は時間の関係で乗る。私が買ったチケットにはなぜかご飯をついており、私だけが食べることになって恥ずかしい。皆ヤンゴンへ行く時荷物は手荷物だけなのだろうか。1時間のフライトでは食べ物は要らない。

バンコックの茶商を訪ねて2018(1)リベンジのヤワラー探索

《バンコックの茶商を訪ねて2018》  2018年10月3-5日、12-15日、21-23日

僅か1か月ちょっと前に行ったばかりのバンコック。今回はビザ免除になったミャンマーに行くついでに、ほんのトランジットのつもりで飛んで行った。だが1か月前のヤワラー攻略戦の不完全燃焼を抱えたままでは終われない。ちょうどバンコック在住のMさんが、タイ語の部分をサポートしてくれることになり、ある資料を手掛かりに、再度ヤワラーに分け入ることとなった。

 

10月3日(水)
バンコックまで

久しぶりに早起きした。午前4時、長男はバイトから帰ってきていた。午前5時過ぎの電車に乗って成田空港を目指す。7時半前に成田空港に到着したが、この空港はまだ完全に起き上がってはいなかった。店は7時半から開くらしい。今回選んだベトナム航空はすぐにチェックイン出来た。

 

3年前に同じベトナム航空でハノイ行きに乗った時は、確か1時間以上並ぶ羽目になった。その悪夢から逃れただけでもよかった。とにかくベトナム航空は安い。ベトナム経由のバンコック往復が3万円台、当然乗る人は多いと思っていたが、嘘のように人がいない。早過ぎただけなのか。

 

なぜかUAのラウンジが使えるというので行ってみたが、何と午前8時開門だった。どういう連携になっているのだろうか。実はベトナム航空はスカイチームの一員でありながら、最近ANAが資本参加しているというねじれ現象を起こし、複雑な状態になっていた。国内ではべトジェットに追い上げられているとも言われ、内部事情は厳しいのかもしれない。

 

やはり満席にはなっておらず、ゆったりと座席に着いた。フライトは順調、安いけれどLCCではないので、立派な機内食も出る。ほぼ寝込んでいると5時間ちょっとでハノイ空港に着いた。ここで2時間トランジットして、そのままバンコックに向かう。空港はきれいだが、特に何もないので退屈。トイレから外がきれいに見えるのはちょっと驚き。外からも見えるのだろうか?

 

バンコック行のフライトは本当にガラガラだった。だが成田で既に発券されたチケットには窓側の座席が指定されていた。CAに『通路側でお願いしたんだけど』というと、ドアが閉まったら、どこへでもどうぞ、と言われる。最近は指定された座席にしか座ってはいけない、と言われることもあったので、有り難く移動した。また機内食が出る。食べる。これは完全な赤字路線だ。夕日がきれいだ。

 

午後6時にはバンコックに到着した。シムカードを購入すると、同じAISなのに、8月のドムアンより100バーツ高い。何故なのだろうか。訳が分からないが購入するしか選択肢はない。電車に乗って定宿に向かう。ベトナム経由で丸1日が暮れ、暗くなって宿に着く。

 

10月4日(木)
ヤワラーリベンジ

翌朝はいつものようにコーヒーを飲む。終わるとすぐにMRTに向かう。今日はヤワラー調査のリベンジを決行する。ファランポーン駅まで行き、そこからは歩いてワット・トライミットへ。バンコック在住のMさんとインド在住で以前バンコックにも住んでいたOさんとの待ち合わせ場所を、有名なお寺にしたつもりだったが、二人とも、『初めて来た』というので、かなりビックリした。在住者は観光地には行かないものか。確かに日本人観光客は多くはないかも。

 

取り敢えずの手掛かりは、手紙のレターヘッドに書かれた茶荘。中国語で住所が書かれていたが、タイ語で何と言うか分からない。そこを解決したMさん、スマホでその場所へ連れて行ってくれた。だがそこの門は固く閉まっている。隣の人にタイ語で聞いてもらうと、数年前に引っ越していた。そこで手掛かりは途切れた、かに見えたが、後で奇跡が起こることになる。やはりMさんとOさんの二人のタイ語力は相当に役立った。中国語にプラス現地語、これが華人調査の基本だと知る。

 

取り敢えず、前回福建会館で教えてもらった廟に行ってみることにした。歩き出してすぐに、正大と書かれたビルに出会った。正大といえば、タイの華人が設立した大企業、あのチャローンポカパーン集団の中国語名なのを思い出すが、なぜこの小さなビルにこの名前が付いているのか。念のため警備員に聞いてもらっていたところ、車から降りてきた男性が英語で話しかけてきた。

 

ここがなんとあの大企業の創業の地だったのだ。そしてその男性は、創業者の孫世代に当たる一族の人であり、非常に驚いた。タイでは有名企業だが、タイに住む日本人はこの漢字の企業名は知らない。私のような者が歩いて初めて発見できるということを知る。タイ語も必要だが、中国語も必要であり、しかも一定の知識があれば、歩きは俄然エキサイティングになる。3人ともノリノリになっていく。

熱暑の関西茶旅2018(5)ティーツーリズム

7月25日(水)
和歌山大学ワークショップ

翌朝は皆で朝ご飯を食べた。この宿舎には食堂があり、住人は三食をここで食べることができる。確かに周囲に食堂などはあまりなく、学生にとってもここでの食事は重要だろう。朝飯は300円でビュッフェスタイル。好きなものを好きなだけ取って食べる。昔の学生なら大喜びだろうが、今はどうだろうか。パンや卵を取って食べる。因みに昼と夜はメニューが出ており、各500円だというから有り難い。

 

その後N氏とピアポーン先生はどこかへ出掛けていき、私は疲労が溜まっていたので、ワークショップの準備をしながら、部屋で休息していた。12時前にアムナーさんが迎えに来て、会場へ案内され、そこで資料のチェックなどを行った。それからランチ、さすがに学生で混んでいたが、何とか席を確保して、大型のオムライスを食べる。これはどう見ても男子学生向きで量が多い。

 

午後はアムナーさんの授業を見学した。思いの他多くの学生が授業を取っており、観光学に対する興味のほどが窺われた。今日の授業はちょうど、各グループが外国人向けに京都和束の旅をアレンジする旅行商品を発表することになっていた。アムナーさんは基本的に英語で授業しており、時々日本語を交ぜている。発表も勿論英語、プレゼン資料も英語だった。

 

学生にとっては外国人を迎え入れる旅行会社のようなことをするのは、経験がなければ極めて難しいと思う。そんな中、和束を訪ね、色々と工夫して旅をアレンジしている様子は、前向きでなかなか良かった。今政府が推進している訪日客数の増加ありきの政策ではなく、満足が得られる、リピーターが増えるアレンジをしてもらいたいと感じた。

 

授業が終わるとそのまま、ワークショップになだれ込んだ。参加者は学生と学内の先生だけと思っていたが、学外からも大勢来ていたので、驚いた。ピアポーン先生がタイのティツーリズム(ロイヤルプロジェクトなど)を説明、N氏は日本とアジアの茶業の現状を細かく説明していた。私はアジア各地で実際に行われているティーツーリズムを自らの経験に基づき紹介した。果たしてどこまで役に立っただろうか。

 

 

その後、ピアポーン先生がタイ茶を淹れ、私が持ち込んで台湾茶をTさんに淹れてもらって、参加者で飲んでみた。やはりティーツーリズムにはお茶がないと始まらないだろう。参加者同士の交流も行われ、お茶を通じた地域交流、世代を超えた交流会になっており、良かったなと感じる。

 

夜はTさんの車に乗せてもらい、市内へ出て、刺身や焼き物など美味しい物を沢山食べた。日本に何度も来ているピアポーン先生だが、焼き鳥が入ったサラダをお替りしていた。やはり刺身に慣れているとは言っても、ガイヤーンの方が更に慣れているのだろう。Tさんには大学まで送ってもらい、お手数を掛けてしまったが、これも3月のご縁ということで楽しい夜だった。

 

7月26日(木)
大阪セミナー

翌朝は早く起き、宿泊先を出た。午前7時、駅まで行くバスはまだないので、荷物を転がしながら歩いて向かう。大学前駅に着くと、そこそこ乗客がいた。もうすぐ特急サザンが来るというので、大きな荷物も邪魔かと思い、急いで特急券を買って座っていくことにした。こんな贅沢、良いのだろうか。

 

指定席はそれほど混んではいなかったので、ゆったりと過ごす。途中からだいぶ人が乗ってきたが、それでも満員ではなかった。やはり510円払って1時間座るというのは贅沢なのか。田園風景がずっと続いていたが、その内、街がどんどん飛んでいく。一昨日乗り換えて慣れている新今宮で降りて、JR大阪駅へ向かった。

 

この旅で何度も来ている大阪駅ではあるが、今日のセミナー会場は駅前に沢山あるビルの一つであり、正直よそ者には分かりにくい。地下をぐるぐると回り、何度かへこたれながら、それでも3月に来ていたので、何とか辿り着いた。Mさんとお手伝いの皆さんが暖かく迎えてくれ、大勢のご参加を頂き、午前午後のセミナーも無事に終了した。3月に開催したばかりなのに、本当にありがたい。

 

セミナー終了後、東京に帰る前に、『たこ焼き食べましょう』と誘われ、2月にインドで食べたい病に掛かって以来、念願のたこ焼きにありつく。関西ではたこ焼きは家で作って食べるもの、ということもあり、大人数でたこ焼きを食べられる場所をわざわざ探してもらったようだ。そこには普通のたこ焼きもあるが、ネギマヨ、ゆず塩ポン酢、濃厚チーズなど、予想外のたこ焼きが沢山並んでいて驚いた。確かに普通のものを食べるなら家で、となれば、店側も工夫するのだろう。

 

皆さんと楽しくお話しして、腹も膨れた頃、新大阪に向かい、新幹線に乗り込んだ。今夏の旅はとても暑かったが、それなりの収穫もあり、また普段は見ないようなものも見られてとても有意義だった。次回はもう少し涼しい時期に再訪しよう。

熱暑の関西茶旅2018(4)孫文記念館から和歌山大学へ

7月24日(火)
孫文記念館

今日も快晴だった。天気が良いのは悪いことではないが、こう暑いと動きが鈍い。結局わざわざ三宮まで来て2泊もして、何もしていないような気分になってしまい、やはりここは孫文記念館を訪ねることにした。そこがそんなに遠いとは思っておらず、相変わらずの無計画が露呈しているが、それが私の旅だろう。

 

JRで明石の方向へ舞子という駅まで揺られていく。この駅で突然気付いたことは、ホームにあるベンチが全て、電車の進行方向(またはその逆)に並んでおり、ちょっと異様に見えた。少なくとも関東では見たことがない並びだ。後で聞くと、これは転落防止のために作られているという。ホームが傾斜しているので、酔っ払いの他、ベビーカーなども落ちる危険があるようだ。関東にも一部あると教えられたが、それなら全部そうすればよいのではないだろうか。

 

遠くへ来たもんだな、と駅を出ると、何だかちょっと現代的で驚く。そして向こうに海が見える。更にはチラッと橋も見える。ここが明石海峡大橋のある場所だとようやく気が付いた。そしてお目当ての孫文記念館はその雄大な橋のたもとに立派に建っている。実にいい景色だ。

 

八角形の中国式楼閣『移情閣』は1915年に建造された現存する日本最古のコンクリートブロック建造物だという。華僑の貿易商、呉錦堂の別荘の一部をここに移築した。中に入ると、煌びやかで美しい。孫文ゆかりの品も展示されており、神戸華僑の歴史も少し学ぶことができた。何よりこの風景、いいな。

 

周囲も散策したかったが、時間があまりなかった。予想外にいいところだったので次回はゆっくり来よう。JRで三宮まで戻り、荷物をホテルに取りに帰って、またJR駅にやって来た。これから梅田経由で和歌山へ向かうのだが、昨日の予行演習もあり、今日はちゃんとJR大阪駅へたどり着く。

 

梅田経由和歌山へ
大阪駅ではIさんと待ち合わせた。Iさんは阪急沿線の人だが、私が間違えないようにJRまで迎えに来てくれた。何しろ以前彼女のところでセミナーをやった時、JRを乗り間違えて遅刻した苦い経験がある。それから大阪の電車はよく分からない、と思うようになっていたのだ。駅近くのビルの上のレストランへ行く。

 

ここはタイレストランで、ビュッフェスタイル。思えばIさんと会ったのもタイであり、一緒にカンボジアへも行った。何となくフワッとした人で、そこが何とも良い。タイ料理も意外と本格的で、美味しい。実はタイ料理は今やタイより日本の方が旨いのではないかと、思えるほど、日本で普及しており、日本人の口に合わせている。

 

ヨーガの話からアジアの話へ。どんどん話が進んでいき、取り留めはないが尽きることもない。途中でお腹は満腹信号を出していたが、構わず話し続けた。何だかとても懐かしい人に会い、昔話を延々としているような感覚になる。Iさんには申し訳なかったが、非常にすっきりして、次に進むことができた。

 

3月にも梅田から和歌山に向かったことがあった。その時はセミナーに参加していた方が途中まで同行してくれて、何も考えずに、和歌山まで行くことができたが、今回は一人。そして前回はJR和歌山駅だったが、今回は南海で和歌山大学駅前へ。仕方なく検索して、一番簡単なルートである、JR大阪-新今宮-和歌山大学前で行ってみた。

 

新今宮付近は近年外国人バックパッカーが沢山宿泊する安宿があると聞いており、一度は泊まりたいと思っているが、今回もまた大阪は素通りとなってしまった。新今宮駅でJRから南海に乗り換えるのはちょっと面倒だったが、関西空港に向かう外国人は私よりサクサクと乗り換えホームを目指している。

 

特急サザンという列車は一部が指定席になっているが、平日の昼間だから自由席でも十分に座れた。約50分で3月にも来た和歌山大学駅前に到着してしまう(JR和歌山駅へ行くよりずいぶんと近く感じられた)。これは確かに大阪への通勤圏だ。駅前で今回招いてくれたアムナーさんに連絡を取ると、何と出掛けており、こちらに向かっているらしい。私は大学行きのバスに乗ってしまったので、大学で彼を待つことになった。

 

今回は和歌山大学観光学部のワークショップに参加する。そのため、大学のゲストハウスに宿泊させてもらった。アムナーさんもここに住んでおり便利だ。ワンルームマンション、1か月5万円らしい。私が学生の頃は、こんな立派な、明るい部屋には住めなかったなあと感慨深い。ただゲストは与えられたWi-Fiの機械を自分で操作してネットに繋がねばならない。結局よく分からず、職員の方の手を煩わせることに。

 

夜は同じくワークショップで登壇するN氏及びタイのピアポーン先生と一緒に、歩いて和歌山大学駅前に戻り、イオンモールにあるレストランで食事をした。アムナーさんを入れたこのメンバーは、昨年7月タイ北部のお茶調査で出会っており、そんな茶縁がここに繋がるのだな、と面白く感じる。

熱暑の関西茶旅2018(3)南京町の歴史

7月23日(月)
南京町で

翌朝も快晴で朝から暑い。ホテルから南京町までは歩いて僅か10分程度で近い。南京町の歴史は神戸港が開港した160年前当時、外国人居留地の横に華僑が住み始めたのが始まりのようだ。だが残念ながらそんな資料が展示されているだろう華僑博物館は今日休館で見られない。この地域は戦後、米軍相手の飲み屋街などになっており、1980年代に中華門を作り、中華街として再開発して売り出したのは比較的新しい。かなり意外な歴史だといえよう。

 

南京町自体は決して大きくない。暑い中、歩いていくと、天仁銘茶など台湾系の茶荘が見えるが、これも1980年頃、南京町が観光地化した際に進出したものらしい。ここには残念ながら老舗の茶荘はない、と聞いている。だが南京町には今でも多くの華人が住んでいる。彼らはお茶を飲まないのか、飲むとすればどこで買うのかを聞いてみた。

 

東栄商行でしょう、と言われる。中華食材店、そういう目で見てみると、商店の店頭には安い烏龍茶やジャスミン茶が並べられている店がいくつもある。中華レストランで使われるお茶もここらあたりから、供給されているのだろう。ここのお茶は中国から仕入れているに違いない。南京町の一般の茶の歴史を辿るのはそう簡単ではない。

 

今日は月曜日で、観光客も多くはない。老祥記などの有名店も定休日で食べられない。仕方なく、海の方へ歩いていく。海岸通りには中華商会の立派なビルがあり、また100年程度前の建物がいくつも並んでいる。ここが当時神戸の国際貿易の中心地だったことが分かるが、その中に茶葉は含まれていなかったのだろうか。

 

道路を渡り、メリケンパークへ行く。ホテルオークラの向こう側、ここは遮るものもなく、直射日光にやられ、午前10時でも歩くのは困難だった。ただ海は鮮やかに見え、気持ちはよい。そこからヨロヨロと南京町付近に戻り、古い建物が並ぶ街並みを歩いてみたが、暑くて断念。中華料理を食べようという意思も消え、なぜか鱧フライを食べてホテルに帰る。

 

梅田へ
ホテルでシャワーを浴びる。もうこれがないと生きていけないほどの暑さだった。クーラーを全開にして昼寝をする。しかしその時間も長くは続かず、またJR駅に向かう。何とこれから梅田へ出るのだ。梅田と言っても私がよく分からないので、待ち合わせはJR大阪駅にしてもらった。ただ来た電車に乗ってまっ直ぐに進めば大阪駅へ行けると思っていたが、やはりそうではなく、危うく違うところへ行きそうになる。

 

大阪駅で会ったのは王さん。実は昨年のエコ茶会で紹介され、少し話しただけだったが、四川省出身で現代茶文化を研究している研究者。私は最近喫茶の発祥が中国四川省かどうかに、興味を持ち始めたので、今後機会が有れば四川に行きたいと考えていた。3月に和歌山で会ったTさんとも仲良しということで、急きょ今回会うことが決まったのだ。本当は彼女の勤める大学まで行きたかったが、ちょっと遠かったので、梅田になった。

 

彼女はとても研究熱心で、駅構内にあるファーストフード系のカフェに入っても、抹茶ドリンクを頼み、その傾向を分析している。観光学とお茶、というテーマは、明後日和歌山大学で行われるワークショップにピッタリな気がする。それにしても日本語でこれらを研究していくのは大変だろう。また日本の大学には色々と雑用もあるようで、研究時間には制限がある。

 

四川のお茶については、実に興味深いが、私はきちんとした茶旅は一度もしていない。それは特にご縁がなかったということだが、同時にそこまで四川のお茶、特にその歴史を重視してこなかった結果ともいえる。だがここに来て、ベクトルが四川を指している。茶の起源は雲南でも茶の利用は四川から、という可能性もある。何とかして、茶旅をしてその一端を解明したいと、王さんにお願いした。果たして願いは叶うだろうか。

 

時間はあっという間に過ぎてしまい、今度は大阪から元町までJRで戻ることになる。夜は北京でのお知り合い、Iさんと中国料理を食べた。彼女の息子も同席したが、北京の時はうちのお茶会にも参加していた小学生だった彼が、何とこれからオランダの大学で勉強するのだという。思わず、『日本に帰らないつもりで頑張れ』と言ってしまった。母親の気持ちはどうなんだろうか。

 

因みに元町の南側には南京町があり、昼間も歩いた通り、昔ながらの中華街のレストランが並んでいる。駅の北側には、新華僑とも言うべき新興勢力が台頭しているようで、店は結構流行っている。従業員はほぼ中国系だったが、白人の団体がやってきたりしても、片言英語で何とかやっている。南京町にも厳しい競争が起こっているようだ。

 

熱暑の関西茶旅2018(2)岐阜の在来茶園と神戸の茶貿易

7月22日(日)
在来茶園

翌朝は部屋に差し込む朝日で目覚めた。Nさんが和の朝ご飯を用意してくれ、気分上々、美味しく頂く。こんな古民家で暮らせたらいいな、と思ったが、当然ながら雨漏りなど色々と不具合も多く、修理などなかなか大変らしい。このような家はこの集落には他にもあるようだが、借り手もなく、住む人もいないのが現状らしい。過疎化は深刻のようだ。その中で若者がNさんの手伝いをして、茶作りをしているのは頼もしい。

 

名残惜しいが午前8時には出発し、茶園見学に向かう。車で山を登っていくと、道の両側にきれいな茶畑が見えてきた。そこから下を見ると、実に見事な景色が広がっている。この景色が評判を呼び、週末は観光客が大量に車で訪れるようになったという。だがその結果、車の排気ガスやごみが排出され、畑仕事に影響が出るまでになる。中にはそんな状況に嫌気がさし、茶業を辞めてしまった人もいるらしい。ここの茶園の茶樹は6割以上が在来種だと言い、昔からある貴重な茶樹だと思うのだが、何とも仕方のない現実がそこにある。Nさん達の茶業、これからどうなっていくのだろうか。

 

それから岐阜駅まで送ってもらい、JRの在来線に乗る。岐阜の古民家滞在はあっという間に終了し、現実に引き戻される。今日はここから神戸三宮まで行くのだが、新幹線に乗るほど急ぐ旅でもないので、米原から新快速に乗って座っていく。日曜日の京都、大阪周辺はかなり混んでいたが、合計2時間半ほどで三宮に着く。

 

神戸へ
神戸には最近来た覚えがない。10年ぶりだろうか、実に久しぶりだ。岐阜と同じくらい暑いので、まずは予約しているホテルに行き、荷物を置かせてもらう。大阪はホテル代が高いと言われていたが、三宮のビジネスホテルはかなりリーズナブルな料金だ。これはどうも、神戸が外国人観光客のインバウンド地域から外れているということらしい。観光のイメージのある神戸、何となく不思議だ。

 

チェックインできる時間ではないので、駅前に戻り、ランチを食べる。神戸と言えば、何だろうか。結局南京町から駅前に出店している小さな店で、焼き餃子を食べていた。調理していたのは中国から来た人だろうか。それから図書館へ向かう。とにかく暑いので外を歩くのには限界があった。実は今回神戸に来たのは『南京町と茶』というテーマで何か調べられないか、と思ったからだった。そのために、地元在住のお知り合いIさんにK先生を紹介してもらっていた。

 

K先生は大学教授でもあり、南京町にある華僑博物館の館長も務めた方で、この話には打ってつけであったが、既に大学も博物館もリタイアしておられ、何と今は東京に住んでおられた。そこで事前に東京でお会いして、色々とお話しを聞き、資料も頂いたのだが、基本的に南京町の歴史などはよくわかったものの、お茶の歴史に関するヒントは殆ど得られなかった。既にこの時点で、今回の企画は破たんしていたともいえる。

 

K先生から何か資料があるかもしれないと言われたのは神戸市立中央図書館。三宮から地下鉄に乗り、大倉山という駅で降りる。大倉山公園があり、そこには孫文の碑や華僑関連の碑などがあるので、ちょっと驚く。ここは政商大倉喜八郎の別荘だったところだというから、中国とも何か関連があるのだろう。

 

図書館は外壁工事ですっぽり覆われていたが、通常通り開館されていた。真っすぐ2階に行き、神戸ふるさと文庫を見る。神戸居留地と華僑に関する資料などは見付かったが、茶の輸出などは、明治期に終わってしまったとあるだけだった。台湾と神戸についても、色々と資料はあり、バナナや帽子に台湾商人が絡んだ歴史は見てとれたが、茶貿易に関しては、ほぼない。神戸と言えば異人館などがあり、紅茶のイメージもあるが、こちらも一部しかなかった。収穫の殆どない事態となる。

 

今回の私の発想は、NHKのファミリーヒストリーという番組に女優の余貴美子さんの回があり、彼女の祖父が台湾から神戸に来て、茶を商った、というナレーションを聞いたことによる。商人の中には茶を扱った者はいたはずだが、それが歴史に残るほどの大きな商いではなかったということだろうか。これは横浜についても同じで、華人茶商については、調べるのが難しい。

 

暑いのでホテルに帰って休むことにした。ホテルの近くに生田神社があり、そこにお参りする。その先、異人館近くまで歩いて登ると、モスクが見えた。この付近、飲食店などを見ても、イスラム系、インド系、中華系、朝鮮系などが混在しており、多彩な神戸の一端が見られた。

 

 

夜まで休息し、暗くなってから外へ出た。今日は日曜日であり、街は人で溢れていた。神戸牛を売り物にする店がズラッと並んでいるが、そんなに牛はいるのだろうか。本物はどれだろうかと思いながら、牛はパスして、ラーメンを食べた。まあ、私の旅はグルメではなく、その日の気分で食べるものが決まるだけだ。