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香港マカオ茶旅2024(5)シグナル8発出

少し風が強くなってきた。まだシグナル8には間がありそうだったので、なんとセントラルに戻り、スターフェリーに乗りに行く。だが乗り場すら忘れてしまっており、右往左往する。ボケとは恐ろしい。何とか辿り着くとそのままアッパーデッキに乗ってしまう。10年ぶりだろうか。景色がいつものより良く見える。ハーバーは波もなく快適な10分間だった。5ドルなら次回からアッパーか。

TSTを散歩して、さっきの宿へ戻り、チェックイン。なかなかいい部屋で外の景色が良く見える。テレビを点けっぱなしにして、これまでの旅のまとめをしていると、いよいよ台風ヤギが接近してきたので、近所のスーパーに買い出しに行く。といっても明日の午後には香港を離れる予定なので、カップ麺とビスケットだけ買う。更に夕飯をどうしようかと考えていたら、すぐ近所に弁当屋があり、そこで適当に弁当を買う。これは安上がりだった。

今晩会う予定だったOさんと連絡を取り、残念ながら取りやめとなる。まあシグルナ8には慣れており、昔と違ってネット繋がるので特に問題はない。時折強い風が窓をたたくが、それほど恐ろしいこともない。雨はそれほど降らなかったようで、夜中に一度窓をたたいた程度で済んだ。香港の被害は最小限に止まった。

9月6日(金)香港空港へ

朝起きてもシグナルは出続けており、会社も学校も今日は休みが確定した。12時過ぎにシグナル3になると言っているのは、相当の配慮だろう。昔なら株式市場や為替市場が大きな問題になっていたが、今はそんなこともないのだろう。小売業や飲食は大きな影響があったかもしれないが。私は午前中ゆっくりと過ごす。

10時過ぎて雨も降っていないので外へ出てみた。まだ8だから、ネーザンロードも車は殆ど走っていない。観光客が多少歩いているだけで、勿論店も全て閉まっている。バスも動いていないので、空港へはMTRしかないだろう。その空港も情報によると正常通り動いているらしい。

12時に宿をチェックアウトして、駅に向かおうとしたら、凄い雨が降ってきて立ち往生した。8が3になる前の最後の抵抗なのだろうか。少し雨に濡れたが何とか駅に辿り着くと、結構乗客がいた。これから30分か1時間すると、出勤の人々が出て来るのだろうが、今はまだ少ない。

本来なら香港駅まで行ってエアポートエクスプレスに乗るのが速いのだが、フライト時間に余裕があるので、電車を2本乗り継いで空港へゆっくり向かう。茘景、青衣、このルートで行くのは全く初めてだ。それにしても青衣から空港まで僅かな時間なのに65ドルも取るのはボッタくりとしか言いようがない。まあ電車が動いているだけ有り難いということだ。

1時間半ほどかけて空港に着いた。中国方面のフライトはいくつか欠航になっていたが、かなりのフライトは順調だった。だが残念ながらチェンマイ行は2時間ディレーしており、更に空港で待ち時間が増えた。朝からあまり食べていなかったので、まずは腹ごしらえ。懐かしいレストランがあったので入ってみたが、小龍包4つと麺を1つ頼んだだけで軽く2000円は越えてしまった。恐ろしくて味も分からない。

出境はすぐに出来てしまったので、後はひたすら待つのみ。空港内はドリンクすら高いので何もできず、ネットを見て過ごす。ゲートは一番端で、今まで来たことがない場所。人も少なく静かでよかった。香港のLCCに充てられた場所ということか。大阪行きには多くの人が乗って行く。雨は断続的に降っており、シグナルは3のままだ。

結局4時間ほど待ってついに搭乗となる。乗客は7割程度だろうか。台風でもみんな観光旅行へ行くんだな。約3時間乗って、何とかチェンマイ空港に辿り着く。正直ほっとして腹が減る。宿の横の店はもう閉まっているかと思ったら、時差が1時間あり、何とか炒飯にありついた。こっちは野菜炒めも入れて、500円だった。

香港マカオ茶旅2024(4)消えゆく香港

宿で荷物を取り、もう一度バスに揺られて、フェリー乗り場へ取って返す。たいした時間でないからよい。買ったチケットの時間より2本速いフェリーがあり、それに簡単に乗れるのが香港式だ。ただフェリー自体の到着が遅れ、ちょっと時間はロスしたが、何とも懐かしい船旅となる。フェリー自体は特に変わっていないが、私が乗った船は遅い方だと気が付いた。

1時間半近くかかってようやく上環のターミナルに着く。実にスピーディな入境対応で有難い。出口を出ると、すっかり景色が変わっており、MTRの駅への道が分からなくなっていた。MTRも昔はここが始発だったのだが、現在は大勢の人がやってくる電車を待つ駅になってしまった。

たった一駅乗ってセントラルで下車。ここで今回の用事を済ませる。香港も色々と面倒になっていると感じる。そういえば、台風が近づいていた。既にシグナル1が出ており、明日は8になるだろうと言われると、何となくウキウキしてしまうのは昔の習慣だろうか。何しろ8が出れば会社は休みだったから。

目の前にマンダリンオリエンタルホテルがあったので、思わず入ってしまった。30年前シグナル8直前に帰宅する際は、いつもここのフルーツパウンドケーキを買ったものだ。2階にベーカーリーはあったが、フルーツは既にバナナに変わっている。これを聞いた年輩の店員に『よくご存じね』と言われたのは、ちょっと嬉しかった。

取り敢えず用事は終えたので、TST側の予約した宿へ向かった。昔からあるホテルだが、料金が昨年と比べたら半額だろうか。これも中国経済低迷の恩恵?と言っていいのか。かなり広い部屋で、かつ窓からの景色もあるのは嬉しい。これなら偶には香港へも来られるだろうか。

少し休んでから、またMTRに乗る。今晩はYさんと待ち合わせ。場所は初めて行く(いや、その昔は行った?)彩虹。駅を出ると、昔懐かしい香港の下町風景が現れる。そんな通りを歩いて行くと、古めかしい建物が見えてくる。今晩ご飯を食べる老舗食堂だ。遠くに高層ビルが見える中、平然としているようにみえる。この地域は開発から取り残されているが、いよいよ数年内には立ち退き、再建が始めるらしい。

昔は大賑わいだったというこの店、今日はなんだか空いている。景気低迷の煽りだろうか。クリスピーチキン、イカのフリッター、上湯野菜がテーブルの上に乗る。何とも嬉しい夕飯だ。1つずつの皿が大きいので、2人ではこれ以上食べられないのが残念だった。Yさんと近況を話しながら、ゆっくりと食べていく。もうこの風景は見られないかも、と思うと何とも悲しい。

9月5日(木)シグナル8発出

朝起きてテレビを点けるとシグルナ3になっている。しかも夕方には8が出るだろうと言っている。これは急がないと全てが止まってしまう。まずは今の宿を出て近所に引っ越した。さすが香港、昨日は安かったこの宿、今日は料金が跳ね上がっていた。仕方なく新しくできた宿へ荷物を預ける。今晩はここに籠城することになるだろう。

朝ご飯を近所で探し、パッと入る。50ドル近くする立派な朝飯セット。まあボリュームもあるので満足せざるを得ない。宿の料金は乱高下するが、物価は急には下がらない。MTRでまた香港島へ渡り、昨日の続きの所要を済ませる。そしてそのままトラムに乗り、上環へ回る。

福建茶行、5年前にミャンマー華商の調査で突然訪れた茶行。すると何と中に知り合いが座っていてびっくりしたという思い出がある。その時に会ったオーナーの楊さんと再会したが、私のことは覚えていなかった。それでも1950₋60年代の香港茶市場の様子を色々と話くれたのは、何とも有難い。台湾白茶、プーアル熟茶、六堡茶など、貴重な証言を得る。

ついでに近所の堯陽茶行にも立ち寄る。番頭さんと挨拶して、オーナーの王さんに色々と聞いてみたが、王さんが茶業の携わったのは遅かったので、昔のことはあまり知らないという。もうこういう歴史調査も限界が来ていると感じる。特に香港のようにビジネス第一の世界では歴史を辿るのは難しい。

香港マカオ茶旅2024(3)マカオ散策

これでマカオでのミッションを果たしたので、ここからは自由だ。バスに乗って林則徐記念館を目指した。蓮峯廟というかなり古い寺があり、その敷地内にあった。マカオ返還直前に建てられたこの記念館、やはり中国の息がかかっている。マカオでもアヘン貿易はかなりあっただろうから、この辺の歴史が中心だ。

それから反対側の古廟を見て、坂をだらだら上っていく。モンハの丘、と呼ばれ、アヘン戦争当時砦があった場所だ。この上からはマカオが良く見えたが、今は何もない。この下で1844年にアメリカと望厦条約(中国がイギリスと南京条約を結んだことに習う)が締結された歴史的場所でもある。20年前にマカオ歴史散歩をやった時に歩いているはずだが、何も思い出せない。

そこからバスに乗り、タイパ島に向かった。10数年ぶりだろうか。バスをちょっと乗り間違えて、目的地から少し離れた場所で降りたら、そこには教会があり、結婚写真を撮るカップルなどがいる。こんな場所もあるのかと、初めて知るが、観光客も多い。その先に昔行ったポルトガルレストランがあったはずだが、どうしても見つからず、迷子になる。

この付近は観光客が多くて疲れる。取り敢えず適当にポルトガルレストランと書いてある店に入ったら、ちゃんと1席だけ空いていた。面倒なのでセットランチを頼んだが、残念ながらそれほど美味しいとは思われなかった。アラカルトで頼めばよかったのかもしれないが、それだと昼から大盤振る舞いになるので止めた。店員が私に広東語で話し掛け、英語で返すと首を傾げていた。

その辺をフラフラしたが、疲れてしまい、またバスに乗る。橋を渡るとリスボアが見えたので思わず降りてしまう。私が1987年に初めてマカオに来た時、ここのカジノで訳も分からず『大小』をやってちょっと勝ったいい思い出がある。中に入ってみると、その昔とは雰囲気ががらりと変わり、観光客が行き交う場所になっている。その数もずいぶん減っているように見えたがどうだろうか。

ナタを売る店は相変わらず客でごった返しており、お気に入りのホートン図書館へも行ってみたが、残念ながらエアコンもなく、暑くて退散した。宿で休んでから夕方出てみるとちょっと涼しくなっている。麺でも食べようかと歩いていると、潮州系の魚蛋麵があった。ただなんとカレーも付いているのは、マカオ風に仕立てたということだろうか。

9月4日(水)香港へ

今日は香港への移動日。朝ちょっとだけ媽祖廟に寄りたかったのだが、何と道路工事で大渋滞が発生していた。仕方なく、反対側のバスに乗り、フェリー乗り場を確認しに行く。1990年代から2005年まで、一体何度このフェリー乗り場にやってきたことだろう。だが今や橋も出来て、タイパ島も大いに発展しており、このフェリー乗り場は何となく寂しい。バスも何だか遠くに停まってしまい、10分も歩いて何とか到着。折角なのでチケットを購入しておく。

帰りのバスも渋滞だったが、なんとか宿近くまで戻ると、ちょうど如何にも前世紀の遺物という感じの餐庁が出現した。ちょっと迷ったが、思い切って入ってみる。そこにいる客はおじさんのみ。朝から酒を飲んでいるグループすらある。店主も広東語で応対する。何とも懐かしい風景だった。

細い麺の焼きそばと点心を2つほど頼み、後は茶を飲んで過ごす。この点心と茶の組合せは絶妙(昔から食べなれているから)で、今や香港ではあまり見られない風景がマカオに乗っていることに涙する。ただ料金だけが数倍に跳ね上がっており、また基本的にマカオパタカで計算するのが祖国復帰後のマカオだった。

香港マカオ茶旅2024(2)マカオ英記茶荘を再訪する

何とか見慣れた通りでバスを降りたが、目指すホテルが全く見付からない。多少土地勘はあるのだが、なんだかおかしい。道路工事の影響だろうか。適当に歩いていると、あるはずのない所にホテルが忽然と現れて救われる。フロントの女性は最初から普通話を使い、パスポートを見せると『あんた、英語も出来るの、凄いね』という。きっと中国からの出稼ぎだろうが、愛想がよくて楽しい。

部屋は思ったより新しくきれいでよい。コロナ前はマカオのホテルも高騰していたが、今は中国の不景気のせいか、随分安くなったと感じる。有難い。そこから早めの夕飯を、と思い、昔行ったマカオレストランを探すがやはり見つからない。フラフラ歩いていると、十月五初街に出た。昔見た廟があり、明日行く予定の茶荘も健在のようだ。

その先をずっと歩くと、カレー屋があった。マカオ返還直前に出来た店で、実は結構有名らしいが、それほど客はいなかった。ここでも最初から普通話で話し掛けられ、鶏撈麺と凍寧茶を注文する。何となくアフリカンチキンと広東麺という組合せが好きだ。久しぶりに凍寧茶も香港を思い出させる。ただ料金はこれで日本円1300円を越える。やはり物価は高い。

日暮れ前のセナド広場に行くとさすがに観光客が多い。中秋節、如何にもここは中国だ。銀行で香港ドルを引き出そうとしたが、銀聯カードを使ったが出て来ない。理由は不明だが、機械に身分証をかざすところなどもある。懐かしい鉅記に入ると、蛋餅が売っており、つい買いこんでしまう。店の女性が『あんた、なかなか通だね』と言われてちょっと嬉しい。

9月3日(火)老舗茶荘へ

朝飯を探して外へ出てみる。まずは香港ドルを確保する必要があり、宿の横にあった両替所で持っていた人民元を変えてみる。最近マカオの料金表示はマカオパタカが多い。それをまた香港ドルに少し修正するのは面倒くさい。それでもマカオは香港ではない、という主張だろうか。

坂を上っていくと、食堂があった。何となくフラッとは入ってしまう。観光客が多いマカオ中心部で、ここは地元民もかなり来ている店。白粥と書かれていたが、滷肉拌腸粉に惹かれた。これは肉みそが実に美味い。この食べ方は潮州だろうか。粥と茶を入れても、それほど高くないのがよい。

そこから歩いて十月五初街へ。昨日も来たが、よく見てみると、まだ古い茶楼が残っている。ここで1960年代に六堡茶が飲まれていた、との記述を先日見ていたので、ちょっと感慨深い。その先にはその茶を供給したであろう、英記茶荘が見える。まだあってよかった、と中へ入ると、9年前に会った夫妻がいた。私は前回香港長洲島のお爺さんに言われて、ここのお爺さんに会いに来たのだが、お爺さんは何と昨年末95歳で亡くなっていた。

息子夫妻が店を引き継ぎ(9年前にはもう引き継いでいただろう)、今も昔ながらの商売をしていた。創業は1932年、この付近で唯一残っている老舗茶荘だ。息子にいくつか質問してみたが、前回のお爺さん同様、あまり明確な答えは得られなかった。正直茶の歴史についてはあまり興味がない、というのが本音ではなかろうか。

ただ白茶は政和産を以前から扱っていること、プーアル熟茶は散茶状態で雲南から仕入れて、マカオでも常連さんは散茶を買っていくことなどは分かった。以前は日本人客も多く買いに来ていたが、今やほとんど来ないともいう。私は前回買ってとても良かったプーアル散茶と壽眉を購入した。あまりたくさん買うと持って帰れないので少ししか買えなかったのは残念だった。

香港マカオ茶旅2024(1)香港空港からマカオへ

《香港マカオ茶旅2024》  2024年9月2日‐9月6日

チェンマイへ来て1か月。ちょっと外へ出てみようと思い、用事のある香港行チケットを取った。するとマカオの茶荘の歴史が知りたくなり、引き寄せられるように香港空港からマカオへ直行する。懐かしいマカオフェリーで香港へ上陸するも、これまた懐かしいシグナル8に遭遇し?さて、どうなる。

9月2日(月)チェンマイからマカオへ

朝起きるとすぐに朝食を食べに行く。今日は香港へ行く日なのだが、なぜかカオマンガイを食べている。いつものようにBoltで車を呼び、空港へ向かった。香港エクスプレス、今回私は予約間違いを起こしてしまい、多大な損害を被った。その一端はこの航空会社にも責任あると思うのだが、やはりボケの進行は深刻だった。そして香港は油断できない場所だったと改めて思い返して、地団太を踏む。

チェックインはスムーズで、香港・マカオのシムカードもAISで購入した。本当は中国・マカオのシムカードは既に買ってあったのだが、マカオから香港へ移る際にまた変更するのが面倒だったのだ。これで中国シムは期限が過ぎてしまうので、無駄になってしまったが、今やそんな頭も回らないので、シンプルに動くしかない。

フライトは順調で、座席は非常口。ここは有料席なのか、誰も座って来ないので、3席を独り占めした。ただでさえ普通より広いのでかなり快適な空の旅となる。でももし万が一のことがあったら、非常口は私が開けなければならない。そう思うと、初めてまじめに説明書を読み始めた。LCCは食事も何も出ないので静かな2時間半が過ぎる。

時差が1時間あるので、到着したらもう2時半だった。慣れ親しんだ香港の空港だが、今回はここで入国せず、マカオと書かれた方向に進んでいく。香港入境直前のところに、マカオ行きのバスとフェリーチケット売場があり、ここでパスポートを出すと、何と無料チケットをくれる。これはマカオの観光キャンペーンで、もし普通に買えば5000円ぐらいするらしいから、何とも嬉しい。

指示された場所を降りていくと、シャトルがやってきてバスターミナルまで連れて行ってくれる。今回私は預け荷物が無いので、ターミナルに着くと、すぐにバスまで直行して乗ることが出来た。何ともスピーディな展開に、久しぶりの香港を感じて、これまた嬉しくなってしまう。

バスには数人しか乗っていない。まあ平日の午後だからこんなものか。香港マカオ大橋なるものが出来ても、一度も渡ったことがなかったので、これはちょうどよい機会だった。橋は長く、単調な走行が続く。車もあまり走っていない。まあ香港空港からそのままマカオへ行けるのだから、文句は言うまい。

約40分でマカオ側に辿り着く。イミグレに向かうと、向こうから出て来る人々が多い。昼間マカオでカジノにでも行って、香港に帰るのだろう。それに比べてマカオへ入国する人は少ない。なので、広い入境審査場も、パスポート保持者の列は1列だけだったが、すぐに通過した。

ここからどうやって市内へ行くのか分からなかったが、バスがあるようだ。ところが香港ドルの小銭が無いので、支払いが出来ない。コンビニに戻ってマカオパスなるものを購入したが、何と130ドルもする。デポが30ドルらしいが、これはどうやって返却されるのだろうか。説明などは当然何もない。

バスはリスボア方面へ行くらしいが、いきなり中国国境の横を通った。そうか、珠海にも行けるのだ。だが我々日本人はビザが無いと難しい。満員のバスはどこを走っているのかよく分からない。そして何だかGoogle Mapもちょっとおかしい。バス停などの表示が合わない。どうしてだろうか。

静岡・和歌山茶旅2024(7)大垣、名古屋に寄り道

腹が減ったので近くのラーメン屋に入る。日曜日の11時頃、地元のお客が結構いる。店員はベトナム人かな、色々と親切に教えてくれる。和歌山ラーメンを食べてみると旨い。6年ほどまで和歌山に来て食べた時は、ちょっと脂っこいかな、という印象だったが、ここのスープはあっさりしていて美味い。

宿に戻り、荷物を引いて、南海和歌山駅へ行く。ここから特急の無料座席に乗り、新今宮で環状線に乗り換えて、大阪からは新快速で米原、そこから東海道線で大垣までスムーズに進む。正直週末の大阪は人が多過ぎて疲れてしまう。やはり和歌山は良かった、と感じてしまうのはさっき出会った中国人女性と一緒だ。

今回の旅、本当は紀伊田辺から三重方面へ向かい、名古屋まで辿り着く作戦を考えたのだが、やはり残念ながら交通が不便で、思う時間に名古屋に辿り着けないと分かったので、降りたことがない大垣で1泊することに変更して、このようなルートを辿ることとなった。

大垣駅で降りて、駅前の宿に入る。部屋で少し休んでいたが、夕方腹が減り、何故かまたとんかつ屋さんへ向かってしまう。ここでは素直に味噌カツ定食を頂く。名古屋名物、味噌カツ、ここでも美味しい。3日ぐらいならとんかつを食べ続けられる自信は付いた、かな。

6月17日(月)大垣から名古屋へ

今朝は宿で朝食を食べてから出掛ける。何となく大垣城へ。関ケ原の戦いでは、石田三成の本拠地だった場所。その敷地、天守閣をゆっくりと通り過ぎて、反対側の歴史資料館を見学する。ここで大垣の歴史を学ぶ。庭がきれいだった。そこから水路沿いに1㎞以上歩いて行くと『奥の細道 むすびの地』という表示がある。ここは芭蕉の奥の細道旅の終着地だった。至る所に芭蕉の句碑などが建っている。今でも俳句が盛んなのだろうか。

街の中を歩いていると本陣などの文字が沢山出てきた。ここは美濃路の大規模な宿場街だったらしい。今は、何となくゆったり、ひっそりとした佇まいがよい。ちょっと関ヶ原にも行ってみたかったが時間が無く、次回とした。大垣駅から電車に乗ると、30分ほどで名古屋駅に着いてしまう。その近さを実感する。

名古屋駅から乗り換えて千種駅で降りて、目的地まで歩く。茶心居さん、コロナ前まで何度もセミナーなどをさせて頂き、お世話になっていた。コロナ後私はオンラインに切り替えてしまい、こちらに伺う機会も無くなっていた。今回は折角なので連絡を取ると、以前支援して頂いていた方が集まってくれた。

ご飯は店主特製のカオマンガイとサラダ。非常にきれいにできており、本家タイを凌ぐ一品。食後には茶農家Sさんがお茶を淹れてくれ、ベトナム茶の話などで盛り上がる。そして久しぶりのIさんとも色々と話が出来た。世の中、知らない内に色々と変わっているんだな、と分かる。そういえば9年前の龍神村、このIさん、Sさんと一緒に行ったのだ。これもご縁だろうか。

あっという間に4時間以上が過ぎていき、Iさんの車で名古屋駅まで送ってもらった。帰り方を色々と考えていたのだが、ちょっと疲れてしまい、そのまま新幹線に乗ることにした。お昼もたらふく食べたのに、また腹が減りそうで、名古屋満載という名の駅弁を買い込む。天むす、エビフライ、アンスパ、名古屋コーチンの鶏飯という豪華なラインナップ。今回の旅もこの弁当のように盛沢山、色々とあったな、と思いながら噛みしめて食べる。

静岡・和歌山茶旅2024(6)紀伊田辺から和歌山市へ

それからOさんの車で龍神方面に戻る。私はJRに乗って和歌山方面へ行きたいのだが、交通機関はなく、途中の道の駅で降ろしてもらって、紀伊田辺方面に向かうバスを待つことにした。道の駅なのでランチを食べようと入ってみると、牛丼が名物とのことで食べてみると確かに美味しい。隣では韓国人女子が食べている。外は雨だが、雰囲気は良い。道の向こうには熊野古道の文字があり、ヨーロッパ人女性がその道を上がっていく姿が見える。

バスは10分ほど遅れたが、なんとかやってきた。乗車できてホッとする。この車内も外国人が多い。日本人の地元住民はほぼ車移動なのだろう。田舎道を約1時間走って、紀伊田辺駅に到着。QR決済可能と言われていたが、実際には反応せず。こういうのは本当に困る。駅前に武蔵坊弁慶の像がある。南方熊楠の写真もある。この街にとても興味はあったのだが、今回はパスして電車に乗る。

途中一度乗り換えて、16時前に紀伊由良という駅に着く。ここに径山寺味噌、醤油とゆかりのある寺があり、一度訪ねてみたいと思っていた。駅から荷物を引きずり10分ほどで到着。ただ階段が多く難儀する。興国寺という禅寺。法灯国師という名前が見える。なかなか立派なお寺だったが、人気は全くない。径山寺味噌といえば、鎌倉初期の聖一国師を思い出す。近所には醤油を作る工場が見られた。

紀伊由良駅からまたJRに乗り、和歌山駅へ。和歌山は5ね年ぶりだろうか。今日予約した宿はここではなく、南海和歌山駅に近く、バスに乗る。この路線も初めてで分かり難かったが、何とか到着。南海の駅まで歩いて明日の予定を確認し、ついでにそこにあったとんかつ屋で夕飯を食べる。地元で有名なチェーン店らしく、味もサービスも良く、サクサク食べる。帰りに宿の近くで南方熊楠生誕地碑を発見。紀伊田辺の人だと思っていたが、生まれは和歌山市か。

6月16日(日)和歌山から大垣へ

さすがに疲れが出てきた。そして食べ過ぎでもあったので朝ご飯を抜いてゆっくり起動する。今朝は和歌山城の横からバスに乗り、県立図書館へ向かう。残念ながら探していた資料はあまり見付からず、早々に退散する。そのまま歩いて、郭家住宅を見学。といっても改修中で、外からちょっと覗くだけ。

代々紀州藩の御殿医であったという郭家はどうして和歌山へ来たのだろうか。家鳴り民の滅亡と関連があるのだろう。そして明治になり、この偽洋風建築の建物を建て、今は旧郭百甫医院として保存されている。それにしても和歌山だと中国系の人が根を張り、住み続けている感じがフィットしている。現在もご子孫が横に住んでいるようだ。

和歌山城まで戻ってきたので、ちょっとお城を見学しようとしたが、何と入り口で迷う。車の駐車場用入り口前で、入れるのかとみていると、横にいた女性も同じように迷っていた。話かけると中国人で、大阪の親戚の家に遊びに来たが、京都大阪は人が多過ぎるのでここまで一人で来たいという。

彼女と二人で城に入り、上まで登っていく。『最近大阪も特に中国人が増えている。親戚も中国から移住して、商売を始めた』などと中国人事情を説明してくれた。城に登るという彼女と上で別れて、一人で歴史資料館へ向かう。和歌山、紀州藩の歴史、茶道、そして孫文まで登場。松下幸之助と茶という展示もなかなか興味深い。

静岡・和歌山茶旅2024(5)龍神村のいい温泉からなっちゃんの茶畑へ

そこから喫茶店へ行った。ここも9年前に来た記憶がある。龍神茶の歴史が分かる方にお引き合わせいただき、聞いてみたが、やはり龍神茶については分からないことばかりらしい。我々は中国の晒青緑茶との関連を調べているのだが、どうやらこの茶はその昔から伝統的に作られているようで、渡来の茶かどうかは判別しがたい。和歌山には徐福伝説などもあり、何となく渡来だといいな、と思っていた自分がいた。

Mさんの家を通り掛かると天誅倉という文字が見えた。幕末の天誅組との関連が想起される。ここでMさん作成の龍神茶を頂いた。実は9年前はお金を出せばどこかで買えた龍神茶、今では自家用以外殆どないらしく、道の駅でも売っていないそうだ。そういえば9年前に訪ねた茶農家さんもお父さんが亡くなり、今では高齢の奥さんが細々続けていると聞く。

最後にOさんのお店へ行く。すでに閉鎖されている中、豆腐作りの機械などを見せてもらう。話を聞いていると龍神の豆腐の歴史と茶の歴史、重なることが実に多く、その深い意味が少しずつ解けていく。こちらで作られた豆腐を食べさせてもらったが、何とも言えない深みがある。これはOさんの努力の結晶だろうか。

バスを降りた宿まで送ってもらう。部屋に入ると昨日とは別世界。広い部屋に快適な空間。勿論防音もある。すぐに夕飯会場へ行くと、そこには料理がふんだんに盛られており、ビュッフェ形式でいくらでも食べられる。如何にも修行が足りないな、と思いながらも、鮎やローストビーフなどを美味しく頂く。昨日は外国人だらけの中、今日は外国人が一人もいない中、ご飯を食べる不思議な感覚。

その後ゆったりと休んでから大浴場で湯を浴びる。ずっと居たいような感覚に捕らわれるほどいい湯だった。『日本三大美人の湯』は私には関係ないが、なめらかないい湯は何とも有難い。宿坊は修行の場であり、修行のためにお金を払ったが、今日は自分の楽しみのために払った感じ。9年前は龍神温泉別館に素泊まりしたのだが、こちらの宿の方が良い。今晩は昨日眠れなかった分を取り戻すほど熟睡した。

6月15日(土)熊野本宮へ

翌朝も快適に目覚めた。まずは温泉に入る。誰もいな朝風呂は実に心地よい。朝ご飯もビュッフェ。何と茶粥があったので食べてみたが、これは龍神茶ではなく、ほうじ茶を使っていた。この宿でも以前は地元民が持ち込んだ龍神茶を売っていたが、今は持ち込みが殆どなく、龍神茶で茶粥を焚くことも出来ないという。

Oさんが迎えに来てくれ、龍神村とお別れ。今日は熊野本宮を目指す。Oさんが知り合いの茶農家に連れて行ってくれた。実は彼は引っ越し間際でとても忙しい上に、何と隣人が亡くなり、その葬儀の手配などもしていたようで、大変申し訳なかった。1時間ほどで茶畑に到着。

実はここの茶畑には3年前も来ている。当時88歳だったUさんを訪ね、釜炒り番茶を見せて頂いていた。その際『最近若者が隣の茶畑を継いだ』という話が出ていたのだが、それが今日紹介されたなっちゃんだった。まだ20歳代、きゃしゃな雰囲気だが、芯は強そうだ。おじいさんとおばあさんの茶業を引き継ぎ、天日干し釜炒り茶や煎茶、紅茶作りにもチャレンジしている。好奇心が旺盛で、勉強に励んでいるともいう。Oさんなど支援したいと思っている人々が多い。外国人のアシスタントもいる。

茶畑の中でお茶を入れて貰い、ゴクンと飲んだ。決して豪華ではないが、何やら風景が絵になり、お茶も美味しい。もう顧みられなくって久しい天日干し釜炒り茶。龍神村では消えていくしかないが、なっちゃんに継承して残して欲しいとは思う。ただ実収が伴うかどうかだろうな。

静岡・和歌山茶旅2024(4)龍神村へ

6月14日(金)龍神村で

朝は5時過ぎには目覚めた。というか、あまりよく眠れなかった。既に明るくなっていたので、外を眺めてお茶を飲む。6時には朝のお務めが始まる。前日同様、住職の英語が響き、我々はまた後から朝食会場へ向かった。朝ご飯は豆腐の他、海苔や漬物など、昔の日本の朝食だった。それから午前9時のチェックアウトまで、庭を眺めていた。殆どの宿泊客はあっという間にチェックアウトして見えなくなったが、ごく1部は連泊するようで、英語ガイドが迎えに来るなど、熱心だった。

9時過ぎに荷物を引きずり、街へ向かった。バスは9時55分発なので、その辺をぶらぶらしていたが、荷物が邪魔なので、早めにバス停に行った。するとすでにそこには数人の外国人がバスを待っており、日本人のおばちゃんに『ここで待っていれば、熊野本宮へ行けるか』などと聞いている。私と同じバスに乗るのはやはり全て外国人だった。横にいたオランダ人の若い女性は2か月日本を旅しており、仏教に興味があるという。

バスは何とかやってきて、高野山駅から乗っていた数人と合わせて13人が乗り込んだ。中国人カップルの2人以外は皆ヨーロッパ人だった。奥の院を抜けると、一路下りに入る。約1時間で護摩壇山に着くと、もう一台のバスが待っており、熊野方面から来た乗客を入れ替えて出発する。若い車掌と話していると『とにかくコロナ前から外国人が多かったが、コロナ後日本人は殆ど来なくなり、今日もあなた一人ですよ』と寂しそうに話す。そしてなんとか英語を使って乗客を捌いて行く。

聖地巡礼バスは、熊野に向けて再び出発した。そこから35分、私の目的地、龍神村に着いた。と言っても、ここには温泉宿だけがあり、周囲は大自然。そして何とここで40分ほどの休憩が入るというので、私はここで下車して、荷物を宿にチェックイン。再度外へ出ると、さっきのオランダ女性が車掌と話している。聞けば彼女、アクセサリーデザイナーのようで、この周辺の木に関心がある。何でもこの辺はチェーンソーアートが有名だとか。

バスが行ってしまう頃、今回お世話になるOさんが迎えに来てくれ、村の中にあるカフェでランチを頂く。何だかほっこりしたご飯で美味しい。Oさんはお客さんと挨拶しているが、その様子がかなり好ましい。彼は18年前この地に来て伝統的な豆腐作りを始めた人だが、既に完全に地元民になっており、好かれている。ただ近々ここを離れて新たな挑戦をする予定だと聞き、私が急遽やってきたわけだ。

そしてここでもう一人のサポーターにバトンが渡された。Mさんはここに移住してきて長い。今はキャンプ場などを運営されているというが、同時に龍神村の歴史、お茶にも関心が深く、10数年前から龍神ハートというグループで活動されていた。私がここを訪ねた9年前も確か龍神ハートの方に案内されたのをふと思い出す。

Mさんが連れて行ってくれたのは、丹生ノ川という場所。丹生と聞くだけでテンションが上がってしまう。四国愛媛にもあった丹生。確か島根にもあった地名だろうか。水銀と関係があるとも聞いたが、茶との関連を是非追求したい。ここに1本だけ大きな葉の茶の木が残っていた。確かに普通とは違う。後で聞くと、コウロ種ではないかという。このような茶樹はどこから来たのか、中国から渡ってきた可能性はないのか、実に気になる所だ。

静岡・和歌山茶旅2024(3)高野山の宿坊生活は

この寺は奥が深く、しかも私の部屋は一番奥の更に2階の端。入口から一番遠いと言ってよい。スーツケースを廊下で引きずらないように持ちながら行くとシンドイ。そして部屋は一人で使う畳部屋。広さに問題はないが、勿論鍵などはなく、プライバシーはない。しかもトイレは1階にしかないので、夜中は大変だ。ただ中庭はとても美しく、まさにインスタ映えの世界で、外国人もしきりに写真(動画)を撮っている。

実はこのお寺、何故か六文銭が目に付く。何と真田家の菩提寺、との表現もある。その辺を聞いてみると、『裏に真田信之の墓がある』というではないか。真田といえば関ケ原後、昌幸、信繁親子が幽閉された九度山とも近い。寺の建物の脇を入っていくと出口があり、その先は細い路地。そして反対側、向こう側は別のお寺の敷地らしく、注意書きが書かれている。その向こうに墓石が見える。確かに真田信正と信之の名がある。かなり立派な墓だった。ただここから外の道路へ出ることは出来ず、完全に囲まれていて、一般人は参拝できない。この辺は高野山の闇だろうか。

寺の部屋にあったパンフの説明によれば、『関ケ原後、真田昌幸、信繁親子は高野山に蟄居を命じられたが、妻子が居住できないため、寺が九度山に場所を与えた』とあり、『信繁は高野山と九度山を往復、この寺で得度した』のだそうだ。大阪の陣後、兄信之と寺は繋がり、真田家菩提寺、真田坊として六文銭の使用が許されたとある。

夕方5時の瞑想まで時間があるので散歩してみる。まずは明日バスに乗るバス停を確認する。金剛峯寺の脇を通り、比較的賑やかな通り出る。この辺も歩いているのは外国人。日本人はお店の人などが多いように見える。以前泊った時も歩いた道をずっと行く。何となく懐かしい。ビルマ関連の展示がある寺もあった。最後は元に戻り高野山の入り口、女人堂まで歩くと、かなり疲れる。

本堂へ行くと既に数人の年配外国人が椅子に座っていた。後から来た若者たちは、興味津々に前の方の床に座る。住職が流暢な英語で、瞑想の仕方を教え、呼吸法を伝授する。それから約40分、久しぶりに目を瞑ってジッとしていた。住職は早口の英語で法話をされ、『日本人には後で日本語やります』と言い、外国人は先に退出して夕飯に向かう。何と残ったのは、私と女性が一人だけ。

夕飯の場所へ行くと、既に皆が畳に座り、何とか箸を使って精進料理を食べている。高野豆腐やてんぷらなどが中心で品数はある。ご飯は自由にお替りでき、若者たちは恐る恐る御櫃に近づく。宿坊体験をエンジョイしているだろうか。もう一間では、VIP用に住職も交じって会話がされている。こちらに座るには特別料金を支払い、特別室に泊まる必要があるらしい。私の部屋は1泊100ドルちょっとだが、彼らはその3倍は払っているようだ。彼らの部屋には鍵がかかる。

食事が終わるとすぐに風呂に向かった。ここは6時半から入れるので、ちょうど始まった時間に行ったら、なんと住職が一人で浴びていた。ちょっと話し掛けると『外国人の宿泊が多いのは歓迎だが、本当でこれでいいのか』と少し悩んでいる様子が見られた。『宿泊代が日本人価格ではないと言われることも多く』とは、正直私も感じる所だ。風呂は数人が入れるのだが、寺の方から『早めに入った方が良い。外国人は風呂で長話などするので』とアドバイスを受けていた。色々と大変だな、宿坊。

部屋にはWi-Fiが飛んでおり、明日の処理などをしていると消灯時間の9時になる。皆さん、意外と真面目に就寝したようだが、隣のフランス人のいびきと寝言がうるさい。もうドミトリーなどにも泊まらないので、実に久しぶりに人の寝息を感じながら夜を過ごす。夜中に2回ほどトイレに起きたが、その度、誰かを起こしてしまうかも、とひやひやした。