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静岡茶旅2022(3)磐田 赤松茶園を調べる

12月22日(木)掛川で

翌朝はゆっくり起きて、掛川城の周辺を散歩する。前回見付けていた石碑をもう一度確認する。山田治郎蔵とはどんな人物か。興味が更に沸く。そして報徳会に行ってみる。堂々とした門を入り、立派な木造建築を眺める。さて、見学しようかと踏み出すと、何と本日はイベントがあり、見学できないとある。

仕方なく、事務所へ行く。そこで『報徳会と茶』に関する資料などはないかと聞くと、親切にも冊子をくれた。更に昨日会ったMさんのことを思い出し、話に乗せてみると、更に色々と対応してくれる。実はここの社長は先日訪ねた鷲山医院の一族の方と聞いたが、あいにく不在で会えなかった。吉岡弥生と松本亀次郎について、尋ねられれば良かったが、何しろこちらが突然お邪魔したので、何ともし難い。

またお城は眺めるだけにして、駅へ向かう。前回同様コメダでモーニングでも食べて、お土産を買って、などと考えていたら、何と停電とのことで、駅の店は閉まっていた。復旧の目途も立たないという。やむを得ず、電車に乗り、磐田へ行く。前回は何と磐田駅に着いたものの、どこへ行くのかを忘れるという失態を演じた。今日はしっかり狙いが定まっている。

磐田で

駅前からバスに乗って図書館へ向かう。ところがこのバス、発車する前に運転手が威嚇的?な口調で『バスに乗り慣れていない人は早めに運賃を用意して。お釣りは出ないし、停車してからの両替は迷惑』といった感じでアナウンス。そこで出発前に『図書館まではいくらですか?』と確認したところ、『いや、それは?まあ、150円ぐらい用意しておいて』と情けない返事。勿論Suicaは使えず、不便この上ない。

15分ぐらい乗って図書館に到着する。ここには赤松則良ら赤松家の蔵書が寄贈された赤松文庫があると聞き、早々見に行ったが、蔵書を見ても、茶畑のことが分かるわけではない。そこで郷土史などの資料を探すと、かなり赤松家について調べられたものがあり、早々にコピーを取る。更に図書館の人に『赤松家の茶園の場所』などを聞いてみると、専門の方に問い合わせてくれ、何と午後その方がここへ来るので直接話が聞ける、というではないか。折角の機会なので午後まで待つことにした。

すると係の人が『この辺、ランチを食べる場所が無くて。一か所あるので聞いてみましょう』とわざわざ確認の電話をしてくれた。それではと、そこへ昼を食べに行く。結構しっかりしたお店でちょっとひるんだが、料亭と一般に分かれているようで、一般の方に入ってみた。中は天井が高い、木造で雰囲気が良い。しゃも鍋が美味しいというので、それを頼み、更に天ぷらまで注文してしまった。まあ、年の暮れ、一人忘年会だ。

しゃも鍋は赤みそ仕立ててで、非常に濃厚。そして何よりしゃも肉に歯ごたえがあり絶妙に美味い。更に揚げたての天ぷらを食えば最高だ。ふと見るとこの建物の外に何やら胸像が見える。何とここは赤松邸の敷地内に作られていたのだ。隣の旧赤松家の見学に移る。まずは門が立派。城の城壁のような煉瓦造りだ。

中に入ると先ほど見えた赤松則良の胸像がある。日本造船技術の先駆者と書かれているが、その説明書きの中にも、磐田原の茶園開拓について語られている。土蔵に入ると赤松家の詳細な家系図や資料が展示されていて興味深い。ここは戦後初代磐田市長になった則良の孫が市に寄贈したらしい。また記念館では係の方に案内して頂き、赤松茶園などの説明を見る。

そこから図書館に戻り、赤松家について研究されているKさんにお目に掛かり、赤松茶園の詳しい場所などをご教示頂いた。赤松がなぜここに茶園を作り、その後どうなったのかなど、郷土史ではかなり鮮明に調べられていてとても有難い。ただそれでも最近は磐田の方でも赤松を知る人は少なくなっているという。

磐田駅まで戻り、JRで掛川へ行く。ここから新幹線に乗って帰ろうと考えていたが、駅の停電が一部解消されており、土産物屋が1つ開いていたので、そこで買い物をする。ただ私が前回気に入った森町の蒸し栗羊羹が買えなかったのは、何とも心残りだった。それを引きずってしまったのか、新幹線に乗る所をまた在来線ホームへ行き、ちょうど来た興津行に乗ってしまった。

車内は混んでいたが、1席空いていたので座ってボーっとしていた。気が付くと日が暮れた興津駅。後続の熱海行まで、またボーっとしている。熱海まで来ると腹が減り、違うホームにある立ち食いそば屋へ駆け込む。かなり冷えてきたので、カレーうどんを食べると、何だかすっきりした。そして小田原で、急にロマンスカーに乗りたくなり、切符を購入する。だがなぜか町田までしか買わず、初の夢のロマンスカーは僅か40分で終了した。同時に今年の旅も終わりを告げた。

静岡茶旅2022(2)森町と台湾の繋がり

12月21日(水)森町へ

朝はゆっくり目覚め、静鉄で県立図書館へ向かう。先月も行ったばかりだが、やはりここで資料を漁るのが一番早いと感じる。今回は前回とは異なる資料を入手して満足。時間になり、宿へ戻り、荷物を取りだして駅へ。また腹が減ったので、ホームでそばを食べる。時間がない時、ちょっとお腹が空いた時、何とも便利な食べ物だ。

また掛川駅へ行く。先月のホテルがあんまりだったので、今回は馴染んだ宿を予約した。ただ駅から少し離れているので、荷物を持っていくのが大変。それでも掛川付近のよい散歩になり、古い建物などを見ながら楽しむ。山内一豊は掛川城主だった。チェンマイのコーヒーを出す店もあったが、今日は休みのようだった。

掛川駅に戻り、天竜浜名湖鉄道に乗って森町へ向かう。森町に行くのは2017年以来6年ぶりだろうか。前回は掛川からでなく、豊橋に近い新所原駅から乗って、1両列車にずっと揺られたのが懐かしい。ちょうどあの年は大河ドラマ『あんな城主直虎』で、沿線が盛り上がっていたように思う。今回は掛川から約30分のみ、料金480円。

相変わらず1両列車、1時間に一本程度運行されている。乗客も多くはない。遠州森という駅で降りず、次の森町病院前で下車。ここは前回も来た役場があるが、今回はその向こうにある立派な建物、森町文化会館を訪ねた。ここで館長のMさんと、お知り合いのYさんが待っていてくれた。

Mさんとは、藤江勝太郎のご縁で知り合った。今日もその後の藤江研究の成果をご披露頂き(Mさんは各所で藤江について講演している)、その進歩に感激した。台湾製茶試験場を作り、初代場長となった藤江は森町の名家出身。森町と台湾の繋がりは尋常ではなく、台湾製糖初代社長鈴木藤三郎もここの出であり、台湾の三大輸出品の内2つのトップは森町出身だから、これは驚くしかない。台湾製糖との交流は以前より行われていたが、最近は台湾茶業改良場などとの交流も始まっているようで、何とも嬉しい。

その後Mさんの車で歴史民俗資料館に案内してもらう。ここは以前も来ており、初めて藤江の顔写真と対面した場所でよく覚えている。見てみると展示品が増えている。何と藤江が森町に設立した日本烏龍紅茶株式会社で使われた製茶道具や蘭字まで揃えられており、驚く。Mさんたちの努力には敬意を表したい。また鈴木藤三郎と藤江の交わりも何となく見えてきて面白い。

更に車で案内されたのは、前回私を案内してくれたKさんの家。Kさんは当時役場職員であったが、郷土史研究家でもあり、かなり深く歴史を調査している。今回も地元の茶商などについて教えを乞う。Kさんとお別れし、最後に日本烏龍紅茶の茶工場があったと目される川沿いの場所まで連れて行ってもらった。今や何も痕跡はないが、ここまで分かってくるとワクワクしてくる。

文化館に戻り、Mさんとお別れした。Yさんが『もう少し案内しましょう』と言ってくれ、今度はYさんの車で庵山へ向かった。ここには村松吉平の碑がある。吉平は明治初期横浜の茶貿易で活躍した森町出身の茶商。地元に紅茶製造所をいち早く作ったほか、相良油田採掘事業に取り組むなど、興味深い人物である。

そしてもう一つ。浪曲『森の石松』と遠州森の茶の碑がある。これは昭和初期の不況下、森町の茶を売り込むために、『遠州森町良い茶の出処』と人気絶頂の浪曲師広沢虎造に謳わせた名曲を記念している。更にその横には形の良い観音様がある。何と鈴木藤三郎が作らせた4体の内の1体がここにある。そしてもう1体は台湾製糖にある(残り東京の鈴木邸及び鎌倉別邸の2体は所在不明)というからすごい。こんなところにも日本と台湾の交流がさりげなくある。因みに藤三郎も明治初期は茶貿易に従事したことがあるらしい。

誠にありがたいことにYさんが掛川まで車で送ってくるという。既に周囲も暗くなっていたので、どこかで夕食でもと思い、思いついたのが先月久しぶりに訪ねた、さわやか、だった。今回は前回と別の店に行く。ちょうどタイミングが良かったのか、今日はほぼ待たずに席に着いた。

ハンバーグを食べながらお茶談義に花が咲く。Yさんも中国留学組であり、中国、台湾事情なども話題となる。何だかとても楽しくて、ついついデザートも頼む。ミカンとほうじ茶プリンを食べ、コーヒーを飲みながら、話はどんどん弾んでいく。かなり長居してしまい、気が付くと周囲にお客さんがいなくなっていた。

静岡茶旅2022(1)聖一国師墓所へ

《静岡茶旅2022》  2022年12月19₋21日

ワールドカップの64試合目はPK戦までもつれ、アルゼンチンが勝った。その時点で夜中3時だった。そこから寝て、起き上がるともう午前9時。ゆっくりと静岡へ向かう。今年最後の旅が始まる。

12月19日(月) 静岡 聖一国師墓所へ

先月も行った静岡。ちょっとやり残したことがあったので行ってみる。ということで今回はゆっくり在来線で静岡入りする。到着したのは午後2時。今日の宿は静岡駅の真横、ちょっといいホテルらしい。これも全国旅行支援のお陰で安く泊まれる。

まずは荷物を預けて、すぐに横のバスターミナルへ。 蕨野というバス停へ行くバスを検索するが、乗り場が多過ぎて良く分からない。案内所があったのでそこで聞いて何とか辿り着く。しかし1つのバス停にも何台ものバスが次々来るので結局よく分からない。すると地元の方が親切に教えてくれる。こういうのがとても有り難い。

随分昔に梅ヶ島というところへバスに乗っていたことがある。今日のバスも恐らくはその路線を走っている。前回は土曜日だったが、今回は平日。途中から小学生が沢山乗ってきた。バス通学の子が結構いるようで、先生が見送りに出ていた。静岡市というのは市町村合併もあってか、何とも広い。今回は結局バスに1時間揺られて、ようやく目的地に着いた。

そのバス停の横には茶畑があり、説明書きが建っている。『本山茶の茶祖 聖一国師墓所』と書かれている。鎌倉初期に宋に渡り、多くの文物を持ち帰った国師は、ここの出身であり、伝承として持ち帰った茶の種をこの地に植えたとある。その真偽は別としても、この地が茶栽培に優れていたことは確かなようで、本山の名を付けている。

墓所は軽くスロープを上がったところにあった。ここにはお寺はなく、斜面にお墓がいくつも並んである。国師の墓を探したがよく分からない。手前に小さな石碑があり、その前に聖一国師と書かれているのがそうだろうか。付近に人の気配もなく、確認することもできない。安部川の向こうにも茶畑が見える。

帰りのバスにはかなり時間があるので、安部川沿いに少し歩いて戻ってみる。冬枯れなのか、川には水が少なく、すすきの穂がなびく夕暮れ、川岸では何やら工事が行われている。ここは雨量が一定を越えると、通行止めになるとも書かれている。更に行くと、川につり橋が掛かっている。ここを渡るとずっと遊歩道が続いているらしいが、私はつり橋が大の苦手で眺めるだけ。

結局バス停2つを数十分かけて戻り、そこでバスを待つ。ここから乗ったのは私以外に1人だけ。何とも寂しい。だがどんどん静岡駅が近づくと乗客が増え、いつの間にか立っている人が多数になる。最後は多少の渋滞もあり、行きより時間が掛かって、暗くなって駅に戻った。

そして宿にチェックインしようとしたら、結構な行列で驚く。時間帯が悪かったらしい。それにしてもフロント業務の効率が悪いと感じる。ようやく私の番が来たが、マスク越し(防御パネル越し)で会話が通じず?何度も同じことを確認され、嫌な思いをする。折角いいホテルに泊まったと思ったのに、部屋も狭いし、ちょっとガッカリ。

それでも旅行支援クーポンをアプリに入れ、いざ出陣!今晩はすぐ横の回転ずしに行く。まだ早い時間だったが、次々にお客がやってきて席が埋まっていく。私は食べたい物だけどんどん注文し、バクバク食べて引き上げる。酒を飲まない客は早く帰るのが良い。帰りにドラッグストアーで買い物しても、クーポンが使えるので何とも嬉しい。

静岡歴史茶旅2022(4)袋井 松下コレクションと可睡斎

袋井駅まで行き、バスに乗る。このバスは現金のみ。小銭の用意が何とも面倒だ。しかもあいにくの雨。何とか浅羽支所に着く。週末は脇から入りエレベーターで3階の松下コレクションへ。すぐに松下先生が登場され、30分ほど懇談。先生は92歳とは思えないお元気さ。私がこの1年で立てた仮説に対して、ダメ出し連発でかなり参ってしまった。やはり単に頭を捻っただけでは分からないことが多い。

そこへ突然IJさんが登場して驚いた。しかし考えてみれば、今日は松下先生の講演がある日だから、いてもおかしくない。彼女も交えて更に話が弾む。更に松下コレクションの貴重な展示品を少し見て写真に収める。そうこうしている内に、時間になり、セミナー会場へ移動。途中に小学生が書いた『税の習字』が目を惹く。小学生の納税洗脳教育か。すごいな、日本。

松下先生のセミナー、お題は番茶。2週後に番茶大会も開かれるらしい。日本の番茶、もう一度見直して、整理した方が良いと常々感じているが、そういうムードが出てきた、ということなのだろうか。セミナーには知り合いが数人参加しており、先日のエコ茶会であった人もいた。やはり知りたい人はここまでやってくるようだ。

セミナー終了後、IJさんが『李鴻章関連の場所へ行かないか』と誘ってくれた。静岡と李鴻章、全く結び付かないので気になって行ってみる。T議員のご案内で、INさんも同行した。その場所は可睡斎。李鴻章と佐藤進ゆかりの寺と聞き、思わず佐藤進に反応したところ、T議員に『佐藤進を知っているのか』と逆に驚かれた。佐藤進は順天堂の三代目で、陸軍軍医総監、天皇の命で、暴漢に襲われた李鴻章の手当てをした。そこに活人剣の逸話が生まれ、ここ可睡斎に記念のモニュメントが作られた(可睡斎の僧侶と佐藤にご縁があったらしい)。

可睡斎は思ったより大きいお寺。聞けば曹洞宗でも相当格式が高い。先ほどの李鴻章、活人剣の逸話の他、家康ゆかりの寺としても知られるなど、その歴史を十分に感じさせる風格がある。中を見学させて頂くと、すごく広い。『日本一の東司』というのもあり、また善光寺を思わせる地下道?もある。何とキューバ出身の坊さんがいて驚く。

帰りもT議員に車で送ってもらう。議員の家に寄り、李鴻章関連の資料を頂戴する。活人剣モニュメント復活のため、募金活動を行い、わざわざ李鴻章の故郷安徽省、佐藤進の佐倉まで出向いて、彼らについて学んだというからすごい。郷土の歴史というのは、このような熱心な方に支えられて続いて行く。そして我々もそれを利用させて頂く。有難いことだ。

3人で掛川まで行く。もう夜なので夕飯を食べようとなり、駅前の居酒屋へ入る。私は酒を飲まないし、一人で居酒屋へ入る機会などなかったが、偶然入ったその店の焼き鳥は大きくてうまい。パイナップルサワーは自ら搾るという面白さ。結構新鮮な驚き。居酒屋飯は意外と野菜も取れて、定食屋より、よいかもしれないと思う。今度は一人で入ってみようか。

食べて飲んでいる間も、お茶の歴史や製法、品種などのお茶談義が続き、午後8時になってしまった。名残惜しいが私はこだま号に乗って東京へ帰る。涼しい風が何となく心地よい駅のホームだった。暇なので車内を見学していたら、変なスペースがあった。見れば『廃止された喫煙ルーム』だった。新幹線って、去年まで喫煙できたのか、すごいな、日本。さあ、これからワールドカップの連戦だ。気合を入れよう!

静岡歴史茶旅2022(3)なぜ行ったのかの磐田

バスに乗って掛川駅へ戻る途中、あの名店を見付けて思わず降りてしまった。静岡に来たらさわやかへ、とは以前より何度も聞いていた。今回は6年ぶりに、衝動的な出会い。時刻は土曜日の午後2時半、それでも5組待ちという超人気で、かなり驚く。さすがに帰り客が多くいて、そんなに待たずに入れたが、さすがさわやか、と感心しきり。ジューシーなげんこつハンバーグのセットは1260円で、十分満足した。

磐田

そこから歩いて15分で掛川駅へ到着する。何だか勢いが出て(明日の雨予報もあり)、そのまま電車に乗った。磐田までは4駅と近い。初めての磐田。駅を降りると階段にジュビロ磐田の応援が。清水と並び、来年は残念ながらJ2になったようで、こちらも駅前は実に静か。そして何とボケたことか『私は何で磐田に来たんだろう』とその目的を完全に忘れてしまって焦る。元々明日来る予定だったので、いきなり来ていきなり忘れた。そんなことってあるのだろうか。老いとの戦い、いや共生。

仕方なく、何も分からずに駅からまっすぐ歩き出す。1㎞ほど行くと、遠江国分寺跡という看板が見えた。今朝は駿河、夕方は遠江国分寺とは、なかなかすごい。静岡の広さを感じる。更に静岡県には伊豆国分寺もあったらしい。遠江国分寺は、現在鋭意発掘整理中のようで、かなりの規模を発掘し、整理していた。夕暮れ時に遺跡を眺めていると、何故か遠い昔、歴史学を勉強したいと思った自分が懐かしくなった。

道路の向かいにうっそうとした森があった。こちらも奈良時代創建の府八幡宮。かなりの格式が感じられる上、日がほぼ沈む頃のこと、何とも神妙な雰囲気が流れている。子供の頃なら肝試し会場かもしれない。そこから駅までゆっくり戻るが、残念ながら見るべきものはあまり見当たらなかった。

掛川

掛川に戻り、荷物を取りだして再度宿へ向かった。さすがにフロントがいてチェックインが進んでいた。フロントは外国人だったが、慣れた感じの日本語を普通に使い、テキパキこなしており、特に問題はなかった。彼らも全国旅行支援など、新しい制度の業務が加わり、大変だとは思うが、マニュアル通りきちんとこなしていて好感が持てる。

だがこの宿、そのサービス内容はかなりすごかった。何しろ掃除は7泊以上しないとしてくれない(必要な場合は1回1000円)。スタッフは23時以降昼までは完全不在。電話しても浜松店にかかる仕組みらしく、緊急状況に対応できるのか、かなり不安である。部屋も狭く、これで料金1万円(明らかに全国旅行支援の便乗値上げ)はないだろう。まあ部屋に電子レンジがあるなど、よい点もあるのだが、ついにこんな宿が出来たのかと、複雑な心境になる。夕飯を探しに出たが、支援クーポンが使える店もなく、何だかかなり疲れたので、コンビニでサンドイッチなどを買い込んで部屋で食べた。

11月20日(日)袋井へ

今日の予報は雨。そしてやはり雨。掛川城にでも行こうと思っていたが、宿でゆっくり待機する。10時ちょうどにチェックアウト。スタッフはいなので、単にカードを箱に返すだけ(チェックアウトしたかは誰が確認するのだろうか)。朝食を食べていなかったので、駅にあるコメダ珈琲で久しぶり(台湾以来)のモーニング。おぐらあんを選択して500円。日曜日のせいか、お客さんはかなり多い。

静岡歴史茶旅2022(2)駿河国分寺と松本亀次郎

11月19日(土)静岡で

朝早く起きる。朝食も食べずに出掛ける。宿の前付近から静岡大学方面行バスに乗る。料金をSuicaで払おうとしたら、何と『本日限り運賃無料』と書かれているではないか。一体なぜなのかはどこにも書かれていない。そして地元民が乗ってきても、この表示に戸惑っているので、余程稀なことなのだろう。すごく得した気分でバスに揺られる。

東名高速道路を潜り、静岡大学正門で下車したが、キャンパスには向かわず、駿河国分寺跡と言われている片山廃寺にやってきた。最近各地を旅する中で国分寺跡を目にすることも多く、出来る範囲で行ってみることにしている。片山廃寺は奈良時代創建の寺で、現在は大きな木がある他は何もなく、土台が復元され、高速道路の下まで続いている。近くに七重塔の跡も見つかり、国分寺跡とみられているようだ。

しかしGoogleによれば、駿河国分寺は別にあるという。そこにも行ってみようとまた無料バスに乗る。バスには静大の学生たちが乗り込んできて、結構な乗客になる。このバスで浅間神社まで行く。以前ここは見学していたが、もう一度中を通り、丸尾文六、阪本藤吉の石碑を眺める。これから彼らについて調べを進めたい。来年の大河ドラマ館の設置は進んでいる。

そこから数分歩くと、横道の中に古くはない、小さなお寺があった。確かに駿河国分寺と書かれている。ご住職が居たので『ここが国分寺跡ですか?』と聞いてみると、『いいえ、ここは奈良時代から続く国分寺で、跡ではありません』と言われ、驚く。奈良時代はこの横にある静岡高校の敷地全てが国分寺だったともいう。そして慶喜さんのお陰で明治以降も国分寺は残ったと説明されたが、何とも不思議な話だった。

そこから宿まで歩いて行くと、お城の裏に出る。すぐ近くにカフェがあり、モーニングが食べられるというので入ってみた。静かで心地よい空間だった。トーストと丁寧に入れられたコーヒー、そしてヨーグルト。ご主人が一人でやっていた。いい気分だったが、『写真撮影禁止』という張り紙で、少し心が萎えた。きっと事情はあるのだろうが、自分が食べたものを撮影できないのだろうか。忙しそうなので、聞かずに店を出た。

宿まで戻り、少し休息した後荷物を持って駅へ。今回は意外と時間がないので、昼ごはんは駅のホームでそばを食べる。これまで何度も見てきたが、ここで食べるのは10年ぶりだろうか。チーズそばなど不思議なメニューもあったが、一番人気のかき揚げそばを注文。さっきのカフェを引きずったのか、写真を撮り忘れた。来た電車に飛び乗って掛川へ向かう。

掛川

掛川駅へ着くと、まずは予約した宿に荷物を預けに行く。だがこの宿、どこかおかしい。入口が完全にブラインドになっていて中は見えない。入ってみると、何とフロント業務は12時からで、午前中は荷物を預からないとある。これで計画が狂い、駅へ戻って反対側にあるコインロッカーに荷物を入れる。何とも面倒だ。

そこからまた駅の反対側に戻り、バスに乗る。570円払って、40分行く。静岡市内は無料だったが、ここでは有料だった。バス停から10分ほど畑の間を歩いて行くと、立派な図書館が見えた。大東図書館、ここの2階に松本亀次郎記念館がある。資料の展示や亀次郎のビデオが無料で見られる。だが見学者はおらず、係員もいない。松本亀次郎とは、戦前あの魯迅や周恩来に日本語を教えた教師だったが、今は知る人は少ない。

そこからバスの時間が合わず、天気も良いので、歩いて亀次郎生家へ向かった。徒歩約40分。今は鶴峯堂という建物が出来ており、ここに亀次郎と中国人の交流が展示されている。ここは実は前回高天神城を訪れた帰りに偶然見つけた場所だった。そこで亀次郎を知り、興味を持ったので再訪することになった訳だ。

折角なのでこの付近で亀次郎の足跡を辿ろうと思ったが、お墓も見付からず、卒業した小学校も良く分からなかった。大きな道に出ると鷲山医院があり、ここから吉岡弥生が出たことは前回学んだ。

静岡歴史茶旅2022(1)清水次郎長を巡る

《静岡歴史茶旅2022》  2022年11月18₋20日

茨城から帰ってまたすぐに電車に乗る。今回は所用で静岡へ向かった。日本にいる期間が限られており、その中でワールドカップも近づく中、ちょっと強行軍ではあるが、やはり旅に出た方が楽しい。

11月18日(金)清水へ

いつも静岡へ行く場合、どの方法で行くかを迷う。ただ新幹線はつまらないので原則乗らない。電車もJRか小田急かなどと迷う。そんな中、今回は疲れないで行く、をテーマにゆっくりバスの旅を選択する。これまでもバスタ新宿からバスで行ったことはあるが、今回は渋谷から乗ってみた。新宿始発の25分後に渋谷に停まるので、こちらの方が楽だと思った。

渋谷のバス停はマークシティーにあると書かれていた。何度も行っている場所だが、こんなところにバスターミナルがあるのか。半信半疑で行ってみると確かに5階にあった。だが本当に小さな待合室、殆どいない乗客、9時台だと窓口すら開いていない。トイレも狭い。ただ逆に言えば、リラックスしてただバスを待つだけでよい。ここに来るのは羽田空港行などかなり限られているので、バスタのような忙しさは一切ない。今度ここから羽田に行って見ようかな。

バスはほぼ定刻にやってきた。乗客は2人だけ。そして乗っている客も多くはない。途中高速が渋滞したのは道路工事のせいだった。予定より40分遅れて足柄サービスエリアに入る。急ぐ旅ではないので、気楽なものだ。向こうに富士山がくっきり見える。今日は実に良い天気で風もない。観光バスはなぜ停車中ドアを開けたままなのか。泥棒はいないのか。

このバスは遅延している上、高速を降りてから静岡駅まで結構時間が掛かることを知っていたので、清水駅前で降りる。昼過ぎの駅前、人もまばらで何とも寂しい。清水エスパルスに勢いがないことも関係するだろうか。腹が減ったのでとんかつ屋に入ったのだが、なぜか名物モツカレーを食す。モツもカレーも大好きだが、別々に食べても良いかもしれない。

そこから天気も良かったので、清水次郎長巡りを始めた。まず港沿いに歩き、次郎長が明治に開いた船宿末広の跡地へ行く。本当に港の横、ここは海軍の定宿だったとかで、あの広瀬武夫なども泊まったとある。今は家があったという雰囲気はない。山本長五郎の生家も少し離れた商店街に残っており、今は次郎長の足跡を展示する資料館になっていた。

生家の近くに次郎長の墓があるというので行ってみる。梅陰寺、かなりモダンな造りに見える。階段を上ると奥に次郎長の墓があるのだが、ここで参観料300円を取られる。墓参りに入場料とは、京都の寺でもあるまいし?遺物館に展示があり、次郎長の像もあった。そしてようやく次郎長、大政、小政、お蝶などの墓が並ぶ。帰りに受付でお茶を出してくれた。コロナ前はガイドの案内で外国人も来ていたという。

次郎長と茶園開拓(富士裾野の開墾)、というテーマで調べてみるのも面白いと思い、そこから県立図書館へ向かう。ただこの付近、交通は不便でバス路線もなく、静鉄の駅までかなり歩いて行く。美術館前で降り、知った坂道を上りようやく図書館に着く。ここでは、いつも気持ち良いサービスが受けられるので大変有り難い。今回は様々な資料を出して頂いたが、『本は使われないと可哀そうです』と言われたのが印象的だった。

本日は駅前ホテルに宿を取った。これも全国旅行支援のお陰で安く泊まれると喜んできた。静岡のクーポンは紙もあるが、原則はアプリ使用だった。ここに支援金を入れて使うという優れもの。これだと1円単位で使えるので、悩まなくてよい。ただエキナカで夕飯を食べる所はあるが、居酒屋系が多く困る。結局前回と同じ店で同じ夕飯を食べ、ちょっとお菓子を買って帰る。 

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】第七篇 同时活跃在新马两地的茶庄

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】
第七篇 同时活跃在新马两地的茶庄

    前几天,一位年轻人对我说:“新加坡和马来西亚曾经是一个国家呢。”这话着实让我大吃一惊,真是没想到。我深刻感受到,普通日本民众其实并不了解东南亚历史。

    上篇介绍林金泰时提到,他1924年曾在吉隆坡开店,第二年又在新加坡成立了总店,其实这两个地方当时同属一个国家。这次我在马来西亚探访老字号茶庄时,发现了几个原本在新加坡有店,之后又在马拉西亚开店的茶庄,但如今都只保留了新加坡的店铺。这期,我就来向大家介绍其中的两家。

马六甲的高铭发茶庄

    从马来西亚首都吉隆坡乘坐快速公交约两个小时即可到达马六甲。600多年前,这里曾是繁华的商贸城市。如今,城中到处是历史建筑,有葡式、荷式、英式,以及中式各种风格。行走间能够感受到扑面而来的历史气息。中国明代航海家郑和下西洋时也曾在此落脚。200年前,这座城市和新加坡一起成为了英国的海峡殖民地。

    当听说马六甲有老字号茶庄的时候,我决定要去探访一番。高铭发茶庄静静地伫立在中华街上。第三代掌柜高培材平静地说:“已经有很长一段时间,马六甲只有我们一家经营中国茶了。”店内天井很高,气氛古雅,确实给人一种老字号的感觉。

    高铭发茶庄是高培材先生的祖父高铭壬,于1905年在新加坡开设的当地最早的茶庄之一。高铭壬祖籍福建安溪虎丘。查找1928年成立的新嘉坡茶商公会第一届会员名单,高铭发茶庄赫然在列,高铭壬后来还担任了公会理事长。1930年,高铭壬在马六甲也开了店,店址据说只和现在的店铺相隔5家店。第二次世界大战结束后,高铭壬将新加坡的店铺交给长子经营,带着三子也就是高培材的父亲一起永久移居马六甲欢度晚年。所以,高培材至今还记得,幼时爷爷周围经常聚集很多朋友,大家一起饮茶的场景。

    高铭发在新加坡的店铺于上世纪60年代关门了。虽然内情不详,但1972年,源崇美第二代掌柜颜辉宗曾撰文提到“新加坡的年轻人喜欢喝可乐和汽水,已经不喝中国茶了”。然而,更主要的原因可能是他提到的 “错失了向马来西亚和印尼两大市场开展茶叶转口贸易的机会”。而决不会仅仅因为新加坡年轻人喜欢喝可乐。

    这可能也和上世纪60年代导致苏加诺下台苏哈托继任的印尼屠华事件,以及禁止华裔使用汉语有关系。同时,还有人认为1965年新加坡从马来西亚独立(抑或受到马拉西亚排挤?)后的西化发展是茶庄关门的原因。以60年代为界,东亚各国的中国茶叶消费发生了戏剧性变化。

    另一方面,在马六甲,高铭发1953年正式注册,成为当地唯一的中国茶庄,由此,高培材祖父的朋友汇聚而来,茶庄一派兴旺。之后,高培材之父高水成子承父业,继续主营福建茶。基本上以零售居多,没有自主进口茶叶。1960年,高铭发加入马来西亚新加坡茶商联合成立的岩溪茶行,从中能够感受到高铭壬先生在茶叶界的影响力。虽然如今高铭发已经延续了三代,但遗憾的是后继无人,高培材很寂寥地表示不知道茶庄今后可以持续到什么时候。

巴生的杨瑞香茶庄

    巴生港是马来西亚最大港口。从吉隆坡乘电车1个半小时左右即到。昔日,包括茶叶在内的很多进口产品都是从这里卸货。曾经有很多中国苦力在这里劳作,由此诞生了肉骨茶(一种猪骨药材汤,并无茶叶成分,因是闽南话,故发音近似“茶”——译注)。

    当然,一听说这里也有老字号茶庄,我便要了地址拜访了其中一家。然而,这竟然只是一个茶商的住所,店铺已经没有了。茶庄名叫杨瑞香,和高铭发一样,第一代掌柜杨惠丕(祖籍安溪,是受访者的曾祖父)先在新加坡开店,上世纪30年代又在巴生港开了分店。杨惠丕也是新嘉坡茶商公会会员,并在公会成立初期担任过重要职务,但最终于1947年从会员名单中销声匿迹,据说他们是搬迁到了福建人聚居的巴生,因为那里距离港口近,生活更加方便。

    然而此后,马来西亚限制销售从中国进口的茶叶,渐渐地,杨瑞香的经营项目从供应中国茶,转变为供应马来西亚人和印度人都爱喝的奶茶原料——红茶粉。90年代,杨瑞香关闭了在巴生城内的店铺,现在只保留了茶叶工厂。我到访了店铺旧址,不知为何已经完全成为了印度人的聚居区,我很惊叹于港口城市巴生的变化。同时,我也注意到当地华人势力的衰退,这甚至让人感受到马来西亚这个国家所发生的巨变。

图片说明

  1. 马六甲 高铭发
  2. 创业者 高铭壬
  3. 高铭发 昔日的茶叶罐
  4. 1972年颜辉宗的报告书
  5. 巴生 杨瑞香的茶叶包装
  6. 杨瑞香店铺旧址
  7. 巴生 肉骨茶

タイ北部茶旅2022(6)チェンマイで

折角いい部屋にいるのだからと、午前中は優雅に部屋で過ごすことにした。もう一度ジャグジーに入り、気持ちよく過ごす。外のプールに入ろうかと思っていると、何と韓国人のおっさんが一人でスマホに向かって大声で話している。友達にでも自慢しているのだろうが、何だか見苦しい光景だった。自分もそうならないように気を付けよう。

昼にチェックアウトしたがフライトは夕方なので、国立チェンマイ博物館に行ってみる。実はここは、過去2回行こうとして、2回とも休館日だったという苦い経験がある。月火の休み、祝日休みに引っかかったが、今日はさすがに開いているはずだ。

博物館は城外にある。トゥクトゥクに声を掛けたが、行きたくない様子で法外な料金を言って来るので、即座にGrabで呼ぶ。あっという間にやってきて、行き先を言う必要もなく明朗会計。これではトゥクトゥクの淘汰は時間の問題ではないだろうか。ある意味で長年の観光地の悪しき懸案事項が、今修正されてきており、そこにコロナ禍が拍車を掛けている。

西の方、ヘミンニーマン地区はかなりの渋滞となっている。城内の静けさはなく、既にチェンマイ地元民、タイ人の生活は普段に戻りつつあるということだろうか。運転手も動かない車を見て苦笑している。博物館まで来ると、木々が生い茂り、また静寂の中に入り込む。しかし博物館内は、社会見学?の中学生に占拠されており、まるで野球場のような歓声怒号に包まれている。

その一段をやり過ごし、展示物を見て行くと、チェンマイの成り立ちから周辺地域との交流などが良く示されていてとても勉強になる。そしてこの地域の知識が私には欠けており、ここの歴史を学ぶことで茶の歴史にも間接的繋がることがありそうだと直感する。出来れば来年はチェンマイに長逗留して、ランナー文化などから何かを見つけてみたいと衝動的に思う。

博物館でまたGrabを呼び、チェンマイの街の成立と同時に作られたという最古の寺、ワットチェンムンに向かう。博物館で得た知識の中にあった寺だった。行ってみると、何とも雰囲気が良い。仏塔も渋い。ここには大理石とクリスタルの仏像があり、見応えも十分だが、観光客は残念ながら殆どいない。歴史的な価値もあるが、所謂観光の穴場というべきか。

そこから宿の方に歩いて行き、ランチを食べていなかったので食堂を探したが、良い店が見付からない。結局昨日食べた牛肉麺かと思ったら、その辺に店がいくつも固まってあり、その中に『うまくて号泣ラーメン』という不思議なネーミングの店があったので、思わず寄っていく。

メニューを見るとかなり安いが、日本人の手は入っていそうだったので、とんこつ醤油99bを注文してみる。狭い店内より広場のベンチでラーメンをすする。一番安いラーメンは59bだから、これはかなりコスパが良い。タイ人が結構食べているから地元民向けだろうが、コストさえ合えば繁盛するかもしれない。

宿に戻り、予約した無料空港送迎を待つ。バンはきちんと予定通りにやってくる。これは何とも有難い。それにしてもチェンマイ空港までかなり近いことを忘れていた。だがこれまでは高額の車代を取られていた苦い思い出がある。いや前回はバスが走っていた筈だが、チェンライ同様あれは無くなってしまったのだろうか。

空港に着くと、ライオンのチェックインカウンターへ行く。私は既にWebチェックインをしているのだが、なぜかメールで搭乗券が送られてこない。その理由を知りたかったが、カウンターでは分からないという。それでも粘っていると、スタッフがスマホ上の搭乗券を探し出し、これで乗れるはず、と言ってくれた。忙しい中、対応が非常に良い。更に搭乗口で確認した時も対応が良かった。LCC、これからはライオン一択だな。

機内は混んでおらず、三席を独占して上空から下を見ていた。かなりの場所で水が多いことが確認できる。バンコクに近づくと、工場や家屋が多くなるが、11年前のようにここが水で沈んでしまわないことを祈るばかりだ。ドムアン空港に着くと夕日がきれいに落ちていく。

タイ北部茶旅2022(5)静かなチェンマイを歩く

確かに部屋はかなり広く、風呂場も広く、浴槽にはジャグジーまでついていた。しかも1階でプールは目の前、これはもう完全にカップル用の部屋だった。しかし冷蔵庫が見当たらない。スタッフも一緒に探したがないという。何でこんな立派な部屋に冷蔵庫がないのか?後で氷を貰ったら、そこのスタッフが『絶対ある』と言って再度探し、物入れの下の二十扉から冷蔵庫を発見した。部屋はそれほどに広い?

腹が減ったので外へ出た。さっき通り掛かって気になった麺屋へ行ってみる。牛肉麺と書かれているが、台湾の物とは違うようだ。それでも牛肉が柔らかく煮込まれていて十分に満足できる味だった。外国人もタイ人も食べに来ており、常にお客がいる店だ。華人の家族経営、素晴らしい。

それから場内をフラフラと歩いてみる。残念ながら閉鎖されたホテルやレストランなどがいくつも見られた。観光業、特にこの地域では、観光客が来なかったコロナの2年間はかなりの打撃になってしまったようだ。そしてトゥクトゥク、ソンテウドライバーにとってもお客のいない日々が続いていただろう。恐らく最近ようやく商売を再開した、という雰囲気が漂う。

こんなに人がないチェンマイなら、お寺巡りをしてみようと思う。まるで2年前に行った京都の静けさが思い出される。まず木造のいい感じの建物が見えたワットパンタオに入ってみた。天気も良いので写真も映える。そして後方を見ていると、向こうに崩れかけたものが見えたので、行ってみた。そこはワットチェディルアンというチェンマイ一の名所だった。

ここでは入場料50bを取られた。中に入ると女性たちがお祈りしていたが、そのお堂は女人禁制であり、なぜ入ってはいけないが英語と中国語でも説明されていた。それでも納得できない外国人はいるだろう。お堂の中は非常にきらびやかで美しい。ランナー様式だと書かれている。

1391年この寺はメンラーイ王朝第7代セーンムアンマー王が建立したと伝えられる。チェンマイで最も大きな仏塔のある寺院。仏塔は、創建当時で高さ約80メートル、四角い形をした基壇の一辺も約60メートルと巨大なもので、市街地の真ん中にそびえ立っている。当時の王は仏教の宇宙観に従って、都の真ん中に須弥山に擬えた大きな仏塔を置き、それを囲うように8つの方向にもひとつずつ寺院を建立すると、王朝の繁栄がもたらされると信じていた。現在の仏塔は1545年の大地震で先が壊れ、後に修復されたもの。

ここで暑さを避けて木陰に座っていると、何ともいい風が吹いてきて、眠気を覚える。実に落ち着きのある、静かな午後だった。図書館にも入ったが、停電中でよく見えない。近くにすごく高い木があった。枝葉は上の方だけに生えており、とても特殊な形状だったのが気なった。

三人の王の像のところまで歩く。三人とは、マンラーイ王(中央:チェンマイ王朝王)、カムムアン王(左:パヤオ王国国王)、ラームカムヘーン王(右:スコータイ王国国王)だという。その向かいにチェンマイ民俗博物館があったので、入ってみる。入場料100b。展示品はかなり豊富で見応えがある。

暑さで疲れたので一度宿へ戻り、部屋のジャグジーで寛ぐ。これならプールに入らなくても気分が良い。夕方夕飯を探しに外へ出たが、以前行った和食屋はタイ料理屋になっており、近所の新しい和食屋は満員で入れない。仕方なく華人経営の店に入ったが、愛想がない。カリカリ豚と揚げた魚、スープと白米で270bも取られた。なんでチェンマイらしいものを食べなかったのだろうか。夜は広いお部屋で一人寛ぐ。

9月17日(土)チェンマイ散策

眠りが深かったのはベッドが良かったからだろうか。すっきりとした朝を迎え、朝食に行ってみる。お客は2組しかなく、従業員もいない。何とか注文して、サラダなどを取っていると、中国人家族4人がものすごい勢いで口論を始めた。最初は『中国語の甲高い声、懐かしい』などと思っていたが、それは長く続き、食堂に響き渡る。ああ、またあの煩い日々が戻ってくるのだろうか。ハワイから来た男性が負けじと大声で英語を話す。食事の味は覚えていない。