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先生と行く高知茶旅2017(5)高知散策

それでは困るので、他の宿へ行くも、料金が1000円以上上がっても、Wi-Fiは繋がらないことがある、というのだから本当に困ってしまう。過去3日はスマホのみの使用となっており、今晩は色々と作業があるので、Wi-Fiが繋がらないと言われると泊る訳には行かない。更に歩いていき、日本各地にあるチェーンホテルで尋ねても『この辺でWi-Fiがちゃんとつながる保証なんてありませんよ』とさも当然という声が出てきて、本当に驚いた。日本ではスマホのみを使用し、PCを使うことはないのだろうか。

 

最後にダメもとで行ったきれいなビジネスホテル、そこのフロント女性は『Wi-Fi、繋がりますよ。今まで問題があったとは聞いていませんよ』と言ってくれた。私はその答えを待っていたのだ。ここに投宿。部屋は狭いがきれいでよい。高知駅から数百メートルという立地もよい。少し疲れが出たので、この部屋で休みながら、色々と作業をした。

 

日が暮れて、腹が減る。香港時代に知り合いから是非行くようにと言われていたラーメン屋があったのだが、行ってみると店は閉まっている。何と午後8時開店だというのだ。高知では飲んだ後の〆はラーメンということなのだろうか。酒を飲まない人はお客にあらず、というか。

 

ホテルのフロンで紹介された店へ行ってみた。そこも夜7時から開店のテント屋台だったが、既に人が並んでいたので、その後ろに並ぶ。屋台餃子安兵衛、どこかで聞いた名前だなと思ったら、昼にひろめ市場で餃子を食べたばかりだった。ただ入ってしまったので、ラーメンと餃子を注文する。

 

一人で来る客は稀で、ほぼ全員が酒を飲み始めている。ラーメン屋の屋台とは違うようで、おでんなども出てくる。餃子は昼と同じで形は小さめだったが、パリっと焼き上げられており、中の肉汁がうまかった。ラーメンはシンプルであっさりしているが、うまみがあり、細麺とよく合っている。十分に満足してしまった。お客がどんどん列を作るので早々に退散した。

 

11月28日(火)
高知散策

翌朝はボーっとしていた。9時半頃になり、今日はどこへ行こうかと検索を始めると、My遊バスというのが、あることが分かる。これなら植物園にも桂浜の龍馬像も見に行けるらしい。ただ時間を見ると、駅前を10時に出発する。慌ててホテルをチェックアウトし、荷物を預けて、走って高知駅へ。バスセンターで1000円の1日乗り放題チケットを買い、また駅の反対側へ戻る。バスはまだ停まっており、何とか乗り込むことができた。乗客は数人しかいない。

 

まずは五台山展望台へ向かった。ここは初日に看板を見てIさんが反応した場所だった。そう五台山と言えば中国にもあるので、何かゆかりがあるに違いない。20分ちょっとで山を登り、バス停で降りた。運転手さんに聞くと『2時間後にバスがあるから、ここを歩いて竹林寺へ降りて、そこから乗るといい』とアドバイスを受けた。そして彼はバス停に掛かる札をひっくり返して去っていく。バスが通過したかどうかはこの札で分かる仕組み。有り難い。

 

展望台からは高知市が一望できた。庭園になっているところも、色々な木が植えられており、きれいである。ただ殆ど人がいなくて寂しい。すぐに坂を下りていくと、竹林寺が見えた。ここはちょうど紅葉の時期になっており、予想もしなかった美しい景色に遭遇することができた。境内はかなり広く、趣もあり、その中で見る紅葉は実に鮮やかだった。ここには結構観光客やお遍路さんがいた。

 

更に歩いていくと牧野植物園の裏門に出たので、そこから入ってみる。温室には世界中の植物が植えられており、南国ムードが漂い、目をキョロキョロさせてしまう。かなり広い敷地には、本当に様々な樹木が植わっている。ただ茶樹は見付けることは出来なかった。後で聞くと入れないエリアにあったらしい。

 

ここは日本植物学の父、と呼ばれている牧野富太郎が作った植物園だった。彼は高知に生まれ、小学校中退ながら、最後は博士にもなる人物。記念館にはその苦労の連続であった植物研究の活動内容が詳細に展示されていた。このような人物が出てくるのも高知ならではかもしれない。

 

正門でバスに乗り、そのまま桂浜へ向かった。浜へ下る所に龍馬記念館があったので降りたかったがどうやら休館中らしい。終点で降りると何とも寂しい所だった。ちょっと歩くと、坂本龍馬の大きな像があったが、それも改修工事中。天気もあまりよくないためか、桂浜も寂しく見えた。観光客の数も少ない。近くの水族館でイルカショーの入場を呼びかける声がこだましているが、殆ど観客はいないだろう。残念だがこれが地方の実態だ。海津見神社という小高い所にある神社から浜を眺めるのみ。

 

そこで味気ない親子丼を食べた。何だか寅さんの映画を思い出す。またバスに乗り、駅へ引き返した。まだ時間があったので、路面電車に乗り(バスチケットで無料)、龍馬生誕の地に行き、碑を見る。更にその付近を散策、才谷屋の跡にも巡り合う。路面電車はかなりゆっくり走っていく。最後にはりまや橋で降り、昨日のお菓子屋でお菓子を買い、駅から空港バスに乗り込む。高知空港は小さな空港でお土産物を眺めて時間を潰すしかなかった。

先生と行く高知茶旅2017(4)ひろめ市場で

それから車で1時間、高知駅まで送ってもらった。Iさんは電車に乗って高知の別の場所へ向かった。Hさんは夕方のフライトで東京へ行くのでそれまで時間がある。2人でコインロッカーに荷物を預けて、高知の街を散策することにした。駅前には幕末に活躍した坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の像が青空に屹立している。

 

まずは高知城の方角へ歩いていく。道にはあんパンなどのキャラクターが飾られている。ここは生みの親、やなしたかしが育った場所でもある。彼の父親は高知の出で、東亜同文書院を卒業し、厦門で客死した人だったと知る。一番街というアーケードが見える。高知はサンゴが有名ということで、店がいくつかある。

 

Kさんが言っていたひろめ市場に出くわした。昼には少し早いが、ここでランチを探すことにした。一番並んでいたのは、やはりカツオのたたき。しかも並んでいるのは何と中国人ばかり。聞けばクルーズ船が今日入港したという。若い中国人が『日本語でテイクアウトって、なんていうんだ?』と聞いてきたので教えてあげたら、喜んでくれた。彼らは一生懸命日本語を使おうとしていた。中には英語でコミュニケーションを図ろうとしている者もいる。

 

3日前にたらふく食べたのにもかかわらず、カツオは美味しかった。食後お茶屋さんなどを見ていると、土佐碁石茶なども売られている。土佐の人は飲まなかった碁石茶、これもお土産用か。城の方に向かうと、骨董市みたいなものもあった。中に『両替』の文字を掲げているところが見える。完全な個人営業だが、確かに船でやってきた人々は一体どこで両替するのだろうか。合法的とは思えないが、ニーズはあるのだろう。

 

高知城に入る。山内一豊とその妻の像があった。そういえば大河ドラマで松嶋菜々子がやっていたな、と言ったら、Hさんから、違うでしょう、と言われてしまう。そう松嶋菜々子は『利家とまつ』のまつ、だった。千代は仲間由紀恵、一豊は上川隆也だったことを思い出すには数分掛かってしまった。私の記憶力の衰えは相当に深刻だった。

 

お城はとても立派に見えたが、階段を上って行くのは結構大変だった。結局上までは上がらず(入場料を払わずに)、途中から城下を眺めた。それでも十分に気持ちの良い風が吹き抜けた。中国人観光客も、全員が上に上がる訳でもなく、皆適当に散策していた。正直高知城の歴史に興味を持つ人は多くなく、遠目から写真を撮ればよい、という雰囲気だった。

 

もう一度ひろめ市場に戻ると、場内は完全に中国になっていた。12時に開店する餃子屋を目指して再訪したのだが、尋常ではない込み具合。さすがクルーズ船の威力は凄い。その中で餃子を買うのは日本人が多い。何とか餃子を買って、席を探したが見付からない。ちょうど荷物が置かれている場所があったので中国語で、『ここに座っても良いか』と聞くと、中年女性は『取り敢えず座って、席がないんでしょう』と譲ってくれた。その後両親などが戻ってきたが席は何とかやりくりする。

 

食後は地元の人が日本三大がっかり名所の1つと呼ぶ『はりまや橋』を見に行く。因みに日本三大がっかり名所とは『札幌の時計台と高知のはりまや橋が含まれることはほぼ意見の一致を見ている』ようだが、3つ目は意見が分かれるという(長崎オランダ坂とか、沖縄守礼門とか)。私は世界三大がっかりは聞いたことがあったが、日本版は聞いたこともなかった。

 

ひろめ市場から1㎞ぐらい歩いた交差点、そこに近づいても、確かに橋は見えない。交差点まで行ってちょっと横を向くと、小さな橋が架かっていた。なるほど札幌の時計台も、通り過ぎてしまうのががっかりなのだ。その橋は思ったよりきれいだったが、きっときれいになったのだろう。

 

元々この橋と言えば『土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい』というよさこい節で有名な訳だが、僅か20mの橋も、まさか自分が名所となるとは思っておらず、更にはがっかりと言われるとは夢にも思っていなかっただろう。お坊さんの恋の歌、というのは、決して褒められた話ではないのだから。

 

今ではその橋の架かっている奥に、きれいな人工水路があり、子供の遊び場もある。Hさんは橋のたもとのお菓子屋に入り、お土産の物色に入った。何だかおいしそうだったので、帰る時には私も買おうと思った。ちょうど時間となり、駅まで歩いて戻り、Hさんは空港バスに乗って去っていった。いよいよここから一人旅が始まった。

 

まずは今日泊まる宿を探さなければと思い、駅の周りを歩いてみた。コインロッカーから荷物を取り出してしまい失敗した。宿が決まったら取りに来ればよかったのだ。すぐ近くに安い宿が見付かった。ただチェックインは午後4時からと言われ、おまけに部屋は4階になり、Wi-Fiが繋がる保証はないと言われてしまう。

先生と行く高知茶旅2017(3)山の古民家で飲むりぐり茶

11月26日(日)
いのの街へ

翌朝も早めに起きた。先生は当然起きておられ、またお話しを聞いた。今日はIさんも話に加わった。Iさんは恩施玉露について、現地にも行き、強い関心を持っていた。先生は20年以上前にそこを訪問していたが、その時は地元では恩施玉露はここが発祥だと言っていたという。だが最近先方の対応が変わってきたとか。

 

Iさんは中国北京の出身で、好奇心が非常に強い。ちょうど私が上海に留学した1986年に日本にやってきたというから改革開放後世代だ。この時期に日本に留学に来た中国人は総じて学力レベルも高く、また家柄の良い人が多い。Iさんはその後日本で結婚し、今は日本人となっている。

 

昨日同様ふれあいの里で朝ご飯を頂き、Kさんが迎えに来てくれた。先生は既に今回の調査目的を達し、午前中の列車で帰られることになっていた。JRいの駅まで先生を送り方々、我々も街に向かった。まずは清流として有名になっているという、仁淀川、その最下流にある沈下橋を見学した。この付近は台風などで大水が出ることがあり、橋に欄干があると流されるので、初めから設置しないと聞き、昨日見た山同様、自然災害の激しさを思う。

 

それからいの町の紙の博物館に送ってもらい、先生とはここでお別れした。先生とKさんは車でいの駅へ走っていった。雨が軽く降っている。博物館の中に入り、入場料を払うと、案内の人がついてくれ、ゆっくり見学を始めた。世界の紙の歴史から、紙漉きの実演まで、紙に関する様々な内容が詰め込まれており、興味深かった。特に紙を作る過程で原料を蒸す大きな木製の道具が、何となく阿波番茶の製造過程で出てくるものと似ており、ちょっと反応してしまった。

 

 

その後、車で古民家に行く。ギャラリーぼたにか、というギャラリー?があった。この倉は明治初期の建造物らしい。中に入ると、何となく骨董屋さんを思わせる古い物が置かれていた。古書もある。オーナーの女性は実に穏やかで、平家の落人です、と言われ、そうだなと思える人だった。商売をしているのか、展示を見せているのか、と思ってしまうような作りだったが、何とも楽しい空間だった。

 

昨日とは違う山の茶畑も見た。今日は天気が悪かったが、何とか雨は免れた。清流が流れる脇に、昨日同様の急斜面があり、茶樹がぽつぽつ植わっている感じだった。こうなると生産効率は良くなさそうだが、有機栽培というに相応しい雰囲気があった。茶はどのように作られるのだろうか。

 

昼ごはんは道の駅でうどんを食べた。お客さんが沢山いて、驚いた。周囲にあまり食べる所がないのかもしれない。そして、また山を登っていく。かなり上ったところに瀟洒な古民家があった。Kさんがお客さんにお茶を振る舞う場所らしい。中に入ると、何とも言えない古い台所があり、竈などもある。柱がしっかりしている。

 

Kさんは囲炉裏に薪をくべ、火を漉し始めた。人間はゆっくりと火を眺めるのがよい。インドでもそう教わった。一杯のお茶を飲むためには、様々な労力を惜しまない。そして丁寧に淹れられたKさんのお茶、りぐり茶を味わう。既に茶畑を見ているので、それを頭に浮かべながら飲む。

 

山茶を原料にして、それを釜入りで仕上げる。何となく中国の山の中の、勢いのある緑茶を思い出す。それでいて柔らかさもある。有機無農薬、あの畑ならそうだろう。『りぐり』とは土佐弁で『こだわる』という意味だと聞く。日本にもこんなお茶があるのかと、正直びっくりしてしまう。台湾のお茶好きに連絡したら、『ぜひ買ってきてくれ』と即答だった。その希少性に惹かれたのだろう。

 

それにしてもこの民家で、畳に座ってダラダラとお茶を飲むのは何とも嬉しい。ずーっとここでこうして居たいような気になってくる。ここに泊まれないのかな。もしお天気が良ければ、眼下の景色も素晴らしかったろう。Kさんには感謝しかない。山を下り、宿舎に戻り、今晩は先生がいないので、3人で夕飯を頂いた。部屋の寒さにも慣れ、ぐっすりと眠ることができるのはよい。

 

11月27日(月)
高知へ

翌朝はゆっくり起きる。お話し相手の先生はもういない。もっと話を聞けばよかったと後悔するが遅し。8時に高知の方に行くというKさんが迎えに来てくれ、宿舎ともお別れして、車に乗り込む。まずはKさんの茶工場による。ここも見晴らしの良い高台にある。創業者であるKさんのお父様がここに眠っている。20年前に亡くなり、その跡を関西にいたKさんが継いだ。とんでもない苦労があったことだろう。お父様の山にかける情熱が伝わるような石碑が建っている。

 

工場の中は比較的新しく、釜入り用の釜もあり、蒸し製を作る機械もあり、設備はきちっと揃っていた。年間にここを使用する機会はそれほど多くはないだろう。隅の方に手摘みに使う竹のかごが置かれていたのが、山茶の工場、という雰囲気を出していた。林業の傍ら、茶業も行う、そう簡単ではないように思う。思いが無ければできないことだろう。

 

それからKさんのオフィスに寄った。Kさんのお嬢さん2人が頑張って事業を進めている。後継者がいるのは頼もしい。お茶を購入した。普通の日本茶に比べれば決して安いとは言えないが、これまで茶畑から工場まで見せてもらい、お茶についても様々な話を聞いているので、特に高いとも思わない。時々思うのは、日本茶、特にいいお茶は他国に比べて安過ぎるのだ。

先生と行く高知茶旅2017(2)山の茶

いの町に着いた時は、既に辺りは暗かったが、雰囲気のよさそうな田舎の集落だった。Kさんの実家が今は来客宿舎になっていると言い、そこに泊めて頂くことになる。2階に上がるとちょうど4部屋あり、一人一部屋となる。すぐに夕飯が供される。かつおのたたき、新鮮な野菜の煮物、太巻きなど、高知の名物が並ぶ。美味しいので、どんどん食べてしまい、腹一杯になる。苦しい!

 

先生は夜が早く、朝も早いので、私も早めに就寝。11月下旬の高知、暖かいかと思ってきたが、この山間は結構涼しい。夜は寒いくらいだったが、エアコンが機能して、また厚手の布団を掛けて、寝入る。畳の部屋、何だか田舎のおばあちゃんの家に来たような感覚に包まれ、かなり熟睡できてしまった。

 

11月25日(土)
茶樹のある山へ

翌朝7時前に目覚める。居間に行くと、先生が既に起きておられ、資料を見ていた。そしてチビリチビリと昨晩の残りの酒を飲んでいた。先生は朝からお酒を飲む習慣があるのかと驚いたが、部屋が寒かったので、仕方なく飲んでいたということが分かった。実はこの部屋にはエアコンがあったのだが、それには気づかれなかったらしい。しかも先生の起床時間は午前4時。それは寒いはずだが、環境対応力は抜群だ。

 

Hさんがやってくるまで、先生に色々と質問してしまった。私にとってはこの時間が一番貴重だった。何しろ先生の60年に渡る経験値は物凄い。こちらが何か聞けば即座に何かが返ってくる。しかもそれが普通の、本で読んだような答えではなく、『何それ?』と思うようなことが多々あり、そしてそれが後日、どこかで役に立つというのだから面白い。

 

8時過ぎに4人で近所に朝食を食べに行く。明るくなった外を見ると、やはり想像通り、雰囲気のある、秋の終わりの集落。5分ほど歩くと、ふれあいの里という共同販売所があり、Kさんがお願いしておいてくれ、そこで朝食となる。味噌汁がホッとする。近隣の農家で採れた野菜などに交じり、釜炒り茶が売られている。何とも懐かしい味がする。

 

そこへKさんがやって来た。ここの女性たちと地元の言葉で話しているが一部聞き取れない。車で山を登り始める。停まったところには特に何もなかったが、『ここからこの山系全体が見渡せる』というKさん。さすが林業会社の社長さんだ。確かに先ほど地図を見てはいたが、先ずここから全体を見ないと、後で山に入っても何もわからない。

 

それから山の反対側へ行く。車は全く走っていなかったが、途中道路工事をしている場所がある。その手前に茶畑が広がっていた。斜面に茶樹がかなりの密度で植えられている。勿論これは山茶ではなく、人が植えた物。民家もあり、軒下の柿が干されているのが晩秋の風情だった。

 

更に登り進むと林が濃くなる。先生はこの付近で車を降り、熱心に道路脇を眺め始めた。ちょっとしたところに茶樹が植わっている。今回の先生の調査、それは『人が住まないところに茶樹はない』を確認することだったらしい。茶樹のある場所ではKさんに、以前民家があったどうか聞いている。

 

そしてついにかなりの急斜面に、茶樹がぽつぽつ植わっている場所に出た。何だか福建省武夷山あたりの光景を想起させる岩が所々にある。ここでの茶摘みは大変だろうな。有機栽培茶畑との表示が見えるが、茶園管理も厳しそうだ。登っているが足元がおぼつかないほど急だった。こんな風景が日本にもあるとは意外だ。茶葉を見ると、様々な形をしており、いわゆる自然交配が繰り返された雑種だった。

 

かなり山道を歩き回り、写真を撮ったり、木を眺めたり。それからふれあいの里まで一旦戻り、お昼にうどんを頂く。このふれあいの里、夏はテラスでBBQなども出来るらしい。そこから外を見ると、畑がきれいだった。田んぼアートというのだろうか。何となく疲れが癒える。

 

午後も別の山に行く。標高700-800m、この辺まで来ると、茶樹は見られなくなっている。それを必死で確認する。この辺は過去も人の住んだ気配がない。無いことを確認することの重要性、きちんとした仮説を持ち、先入観を持たずに行動すること。結果は先生の言うとおりになっていた。なるほど、そうか。

 

今回は大きな車は途中までしか行けないというので、小さな車に乗り換え、2人ずつ運んでもらった。帰りは下りだったが、先生はあっという間に坂を自分の足で下っていく。そのスピードはとても87歳とは思えない。60年以上の経験は、茶だけはなく、山の中を歩くことにもいかんなく発揮されている。驚くばかりの元気さに、皆舌を巻く。

 

疲れて宿泊先に戻る。夜は美味しいお稲荷さんが待っていた。実に見事なキウイも出てくる。そしてこの街の役場で課長をしていた女性が来てくれ、色々と街の話をしてくれた。我々はあまり酒を飲まないので、先生にはよい相手が出来た。こういうところで周辺情報を集めるのも重要な仕事だ。

先生と行く高知茶旅2017(1)突然長曾我部の居城跡へ

《先生と行く高知茶旅2017》  2017年11月24-28日

ある日、以前からのお知り合いであるHさんよりメールが来た。『この度M先生から、お電話があり11月24日~27日まで四国へ山茶の実態調査に行かれるそうです。関心のある方と同行したいとの事です。ご一緒しませんか?もう、最後の調査かも^_^; と仰ってましたが・・・( ^ω^ )』

 

M先生と言えば、茶旅の大先輩であり、茶の歴史の研究歴は60年を超えるという大御所だ。一昨年ベトナム茶旅をご一緒し、その60年に渡る茶旅の膨大な蓄積を伺う機会を得、大いに感化された。出来ればまたお話を伺いたいと機会を狙っており、幸運が訪れたと即座に回答した。しかもこれが最後の旅かもしれないと言われるとどうしても行こうと考える(先生は毎回これが最後か、とおっしゃっていることは知っていたが)。

 

だがよく考え見れば、なぜ私が誘われたのか、誰が私を誘ったのかさえよくわからない中で、行くという決断は早計だったのかもしれない。ただこれまたベトナムでご一緒したTさんも参加されると聞き、また千葉のIさんとも初めて会う機会を得るというので、取り敢えず行くこととした。タイミングは絶好で、ベトナムの旅から帰ってすぐ後、台湾に行く前になっており、やはり天は行けと指示したと感じた(元々は九州に茶旅に行く予定だったがキャンセルした、残念)。

 

11月24日(金)
高知まで

高知に行くには、飛行機しか考えられなかった。例え電車に乗ったとしても料金は安くないし、何より時間がかかり過ぎる。四国の他の都市にはLCCが参入し、料金が大幅に下がっているのに、高知だけはJALとANAしか飛んでいないため、更に競争原理が働かず、料金は高いままである。夜行バスなどもあるかもしれないが、今回は待ち合わせもあり、またベトナムから戻ってすぐのため、ANAを選択することにした。M先生は新幹線と特急で来るという。その時間に合わせて午後のフライトを予約した。羽田から行くHさんとIさんも同じフライトとなる。

 

久しぶりには羽田空港の国内線のロビーへ行く。今やチェックインはなく、バーコードで飛行機に乗れる。今回は荷物を預けるつもりもなく、何とも手軽だった。ただ荷物預けが機械で自動になっているのを見たが、そこには『手荷物』と大きく書かれている。手荷物とは、機内持ち込み荷物のことだと思っていたが、中国語では宅運行李と書かれており、こちらは正しい。なぜこんな紛らわしい書き方をしているのだろうか。日本人はこれで分かるのだろうか?不思議でならない。

 

お二人とも無事に合流した。搭乗口で前回はバーコードが消えてしまい焦ったが、今回はきちんと処置をしてきたので、問題なく搭乗できた。国内線のフライトとはいえ、料金はかなり高いのに、ご飯すら出ないのはどうしてだろうか。LCCとは違うのだから、その辺のサービスがあってもよいのではと思うほど高知は遠かった。2時間以上かかって高知空港に到着した。

 

いきなり博物館へ
当初はM先生の到着する高知駅で待ち合わせていた。ところが状況が変わり、急きょ高知県立歴史民俗資料館へ行くことになった。空港からタクシーに乗り込んだのだが、運転手は極めて陽気に高知の紹介を始める。だが今回お世話になるKさんによれば『空港から10分で着く』と聞いていたのに、それを過ぎても着かない。そして車は市内中心部へ入っていく。

 

突然運転手が『間違えた』と言い出した。彼は高知城の横にある博物館だと思い込んで走っていたが、指定されていたのは、市内から少し離れた、長曾我部氏の居城だった岡豊城跡に建てられた資料館だったのだ。運転手は恐縮しきりで、料金は割り引かれ、何回も謝られた。小高いところを上り詰め、ついに到着した。外には格好良い長曾我部元親像が建っていた。私のイメージが武骨な武将だったが、近年ゲームがヒットして、格好良い長曾我部像が作られているという。

 

ちょうどKさんが老人を送りに出てきたところだった。この郷土史家がM先生と会い、お互いの情報交換をしていたという。その話、是非聞きたかったが間に合わなかった。何とも残念だ。それにしてもかなり高齢で、且つ外出も難しいと言われている老人がわざわざ出向いて来る。その好奇心の強さ、精神力、私など到底及ばないと察する。

 

資料館に入り、先生を探す。長曾我部氏の歴史が展示されているところで先生と合流した。この歴史も何かお茶の歴史と繋がるものがあるのかもしれない。更には特別展として、仏教、禅関連の展示もあった。最近地方の博物館、美術館に行くことがあるが、実に展示が充実していると思う。ここには高地について色々と書いているKuさんも同行していた。

 

それからKさんの車に乗せてもらい、1時間半ほどかかっていの町に到着した。実は今回の旅は先生と一緒にTさんがやってきて、レンタカーを借りて動く、と聞いていたのだが、なぜかTさんの姿がなかった。先生によると、『名古屋から乗った新幹線でも、乗り換えた岡山駅でも見付からなかった』というのだ。そして『Tさんには高知でどこへ行くのか知らせていない』というので、急いで携帯電話を掛けると、既に名古屋辺りに戻っていた。何とも残念だったが、結局参加者が4人となり、Kさんの車に乗ることができた。

広東・海南大茶旅2017(6)海南から広州へ

8月28日(月)
海南を去る

翌朝は早めに起きて、周囲を散歩してみた。昨晩は暗くて分からなかったが、実は相当大掛かりな開発がなされていた。名前を茶渓谷というらしい。泊まっていたホテル部分の他、別館あり、多数のコテージがあり、プールなどの施設も整っていた。更に歩くと分譲用の家も建てられている。一体どれだけの開発をしたのだろうか。今日は天気が悪いが、もしよければ下が一望できる空間もある。

 

朝ご飯に行くと結構泊まっている人がいて驚く。粥などをさらっと食べて宿をチェックアウトした。もうほとんど残っていない茶畑をチラッと見た。今日は一気に海口まで帰り、空港から飛行機で広州に戻ることになっていた。雨の中、車は山を下り、来た時とは違う道を通っていく。昨晩の宿は三亜の方にかなり近いことが分かる。三亜は昔、息子と二人で遊びに行った思い出がある。

 

途中車は海沿いを走っていた。ガソリンを入れた以外はほぼ休憩なしで3時間以上走った。もう少しで海口というところまで戻ると、道を外れていく。最後の訪問地、南海茶廠に向かっていた。その敷地に入っていくと、茶工場というよりリゾート地のような景観だった。建物も博物館風に整えられており、先の方には宿泊施設さえ見える。

 

陳さんたちはもう一か所にある茶工場に用事があると言って出て行ってしまい、私はそこの人と二人で茶を飲んでいた。彼の話では、ここは元茶工場だが、今はリゾート施設となっているという。海口からも近いため、週末などは人が来て泊まっていくらしい。確かに環境は悪くない。90年代までは大量に紅茶を生産しており、日本企業との取引もあったという。

 

何と陳さんたちはここで作られた黒茶餅を持って帰って来た。既に10年以上前に作られたとのことで、飲んでみるとスッキリしており、黴臭さもなく、美味しかった。紅茶の輸出が落ちこんで以降、様々な取り込み、生き残り策が検討されたことが窺われる。雨が止んだので敷地内を散歩すると、池もあり、畑もあり、何となくいい雰囲気だ。

 

昼ごはんもここで食べるのかと思っていたが、別の場所へ移動。ここでしか食べられない鍋をご馳走になる。隣のテーブルでは昼から酒が入って大宴会だ。そこから車で1時間半ほど行くと海口の空港に着いた。今回は陳さんに大いに世話になってしまった。いつか恩返しをしなければならない。

 

広州で
空港はそれほど大きくはないが、何となくゆったりしていた。フライトも順調で遅れることなく、広州に戻って来た。空港からはいつもは地下鉄に乗るだが、今回はIさんが言っていた空港バスを使ってみることにした。バス乗り場が思っていたより遠くて難儀する。切符を買うのも初めてで分かりにくい。

 

何とか乗り込んだものの、夕方のラッシュ時とぶつかり、途中から何時着くとも知れない感じとなる。おまけに私は終点まで行くのだが、途中停車まであり、時間は読めない。海珠広場に到着したのは1時間半後ぐらいだった。それもバスターミナルもなく、その辺ぽんと降ろされてしまった。

 

既に暗くなっていたが、ネオンがまぶしい。この広場自体はかなり明るい空間なのだ。地下鉄の駅があったが、腹が減ったので、その辺の店に入り、夕飯を済ませてから乗る。安いご飯もマズくはないのだが、何となく塩気が強い。海南島で自然の美味しいものを食べ過ぎたのか過敏になっている。

 

地下鉄で勝利賓館に戻る。海南島でもそうだったがVPN環境は極めて不安定である。次回中国に来る時は別の方法を考えざるを得ない。外国人にとってはどんどん不便になっていく中国の現実。一方中国人は微信の活用などでどんどん便利な生活を送れているというのに。ちょっとむくれる。

 

8月29日(火)
広州を去る

翌朝は快晴だった。何となく雨模様が続いていたので、気持ちよい朝だった。今日は東京へ行くだけの予定だったので、ダラダラと部屋で過す。その後宿をチェックアウトして、また地下鉄に乗り、昨日のリベンジとばかり、また空港バスに乗りに行く。ところが切符売り場に着いた時、ちょうどバスが出た後だった。

 

一応シートはあるので座ることは出来るのだが、トイレがないので困る。係員に聞くと、何と『マクドナルドでしてきてね』というではないか。良いか悪いかわからないが、尿意には逆らえず、広場の向こう側のマックへ行く。しかしマックは2階にあり、重い荷物を持ち上げで、こそこそとトイレを借りる。何しろいつバスが来るかわからないのだから、ゆっくりコーヒーを飲むこともできない。

 

セブンイレブンの前で待て、と言われたが、案の定、指定時間になってもバスは来ない。こういう時、待つ場所を間違えたかとか、時間を間違えたかとか、心配性である。もう一人どう見てもバスを待つ女性がいたので救われた。10分遅れでバスが来て、50分後には空港まで辿り着く。昨晩よりはかなり早い。

 

今回のチケットは香港から入って広州から出るという往復チケット。これでもほとんど料金が変わらないようなので、本当に助かる。ANAの機内ではハーゲンダッツのアイスまで出てくる。偶に乗る日系エアラインはいいものだ。快適な空の旅で東京に着いた。

 

広東・海南大茶旅2017(5)新旧海南茶業を見る

8月27日(日)
茶廠2日目

翌朝は早めに起きたが、出発時間が分からず、部屋でボーっとしていた。午前7時半にホテルをチェックアウト、少し待っていると、茶園のオーナーという人が急いでやって来た。聞けば昨晩深夜に海口から戻り、あまり寝ていないらしい。それでも我々の相手をしに来てくれるのだから熱心な人だ。

 

まずは朝ごはんを、ということで、麺を食べに行く。やかんに番茶のようなものが入っていて意外と美味しい。それから車で20分ぐらい行くと、五里路茶業の有機茶園に到着した。ここは平たい場所に茶畑が広がる。10年前は荒れ地だったらしい。向こうの方では朝日を浴びながら、大勢の女性が編み笠を被り、茶摘みが始まっていた。

 

これからの茶業を考えているオーナー。有機は一つのキーワードであり、それを武器に売り込みを図っていく。近々ここにも茶工場を建てるという。大きな木の下で、茶を淹れてもらった。昨日と違って今朝は天気が素晴らしく、雰囲気も大いに作用していると思うが、ここで飲む緑茶は美味しかった。きっと水もよいに違いない。

 

そこから車で1時間ぐらい走った。ちょうど峠に差し掛かると、やはり車の調子が悪くなる。取り敢えず停まって休みながら、解決策を探る。私は景色がよいのでその辺を見て回ると、大きなダムがあったりする。地元民も峠の茶屋、と言った感じで、お茶を飲んで休んでいたりする。そこへ小型バスが来たので、ここがバス停なのだと分かる。

 

何とか車を動かして、次の訪問地へ向かう。そこはかなりの山間、小さな場所だった。女性オーナーは、非常に積極的な人で、2000年頃全くの未開の地だったここを開拓して茶園を開いたことを話してくれた。当時は道もなく、小舟で川づたいにやってきたというからすごい。

 

五指山椰仙という場所らしい。茶畑を案内してもらうと、樹齢100年を超える茶樹が植えられている。小さな丘のようなところに茶畑が広がる。そこでも少数民族が労働者として働いていた。ちょうど昼時で作業は終了したが、数人が何やら茶樹の下の方を掘っている。聞いてみると、そこに生えている野菜を取り、今晩のおかずにするというのだ。因みに『この野菜は何という名前か?』と聞いてみると『野菜さ』というではないか。まさに野の菜であった。

 

この少数民族、黎族がその昔から茶葉を利用して茶を飲んでいた、という話を何度か聞いていた。ただ今回来てみても、その当時どんな茶を、どのように作り、どのように飲んでいたかは、分からなかった。大変興味深い分野なのだが、漢族中心の歴史の中では少数民族の歴史は完全に埋もれてしまうようだ。

 

 

お昼ごはんにまた美味しい鶏を頂いた。鶏肉好きの私が、お世辞抜きで美味しいと思う地鶏。さすが海南島、レベルが高い。レストラン横の敷地では鶏が放し飼いで飼われており、元気に走り回っている。不謹慎ながら、このような地鶏は旨いに決まっている。肉の締まり方が違う。現地の野菜もうまし。

 

それから五指山の街に行く。そこに陳さんの知り合いの茶荘があったので、寄ってみた。午後3時前は、皆昼寝の時期で、茶荘の電気も消えており、慌てて起きだしてきた人もいた。地元の紅茶や緑茶が出てくる。味にすごく特徴があるという感じではない。天気が悪くなり、雨の気配があった。

 

そんな中をもう一度山の中へ向かう。五指山茶廠、そこも昨日行った2つの工場同様、開拓時代に作られた古い工場だった。後ろの方へ行くと、歴史資産として残し欲しいような建物が残っている。また一応現役ではあるが、将来は保存され、博物館になるのではないだろうか。

 

今日は日曜日だが、すぐ近くに宿舎があり、幹部がやってきてくれた。この工場の上部機関の人も来ており、その運営方針が話しの端々で出てきていた。今や儲けてなんぼの中国、茶業は既に儲からない業務という位置づけなのだろうか。なかなか難しい。オフィスに庭には大葉黄金桂などという珍しい品種が実験用として植えられているが、何となく寂しげだった。

 

夕飯を食べるというので近くの店に移動したが、そこは何となくワイルドな場所。雨が降っていなければ、恐らくは外で食べたであろう。ここの料理もやはり美味しかったが、他のお客が犬の肉を食べており、こちらにも回って来た。私は特に美味しいとは思わないが、好きな人は好きなようだ。ここでも我々がいるのも構わず、茶業についての議論が行われていた。

 

そして真っ暗な中、どこかの山を車で登っていった。よくわからないが、リゾートホテルのような場所へ来た。ここには茶畑もあると言われたが暗くて見えない。取り敢えず、静けさの中、部屋に入り、そのまま寝てしまうしかなかった。茶業関係者により、特別料金だった。海南島も色々あるんだなとしみじみ。

広東・海南大茶旅2017(4)海南島の茶

2時間ほど話した後、外へ出た。オフィスのあるビルは古く、そのすぐ脇には何やら人が集まっていた。ちょっと気になったので近づいてみると、建物の1階が簡素なレストランの様になっており、そこで大勢の人々がお茶を飲み、軽食を食べていた。陳さんが『これが海南島に昔からある老巴茶だよ』と教えてくれた。

 

老巴茶は、以前は暇なおじさん、お爺さんたちが集まり、お茶を飲んで遊んでいたと聞いていたが、今はかなり一般化し、子供も若者も集っていた。飲んでいるお茶も冷たい茶が多く、紅茶も緑茶もあった。広州の飲茶のような風格はなく、茶も食べ物も簡単ではあるが、今ではほとんどなくなってしまった庶民の茶を感じさせた。出来ればここでお茶を飲みたかったが、陳さんに促されて、離れた。

 

次に向かったのは、海口の茶市場。ここで海南紅茶、緑茶などを飲ませてもらい、その雰囲気を味わった。緑茶が美味しく感じられたのは気のせいか。さすがに外国人が来ることはあまりないようで、お客さんも含めて、興味を持たれ、色々と質問が飛んできた。日本への関心の高まりはこんな所まで来ているようだ。

 

夕食は、海南料理屋へ。何といってもここは鶏肉。肉につけるたれは自分でアレンジするのが海南流。これは初めての経験だ。鶏肉は何とも柔らかく、そして皮のプユプユして、実に美味。他の料理もどんどん口に運びたくなる。店内もかなり混んでおり、海口の有名店であることが分かる。有り難いことだ。

 

帰りに陳さんが車で、海口の夜景を見せてくれた。当たり前だが17年前とは全然違っており、橋のライトアップなどがきれいだった。ただ昔と同様それほど高い建物がないため、広々とした空間があり、安らぎが感じられる。湖南省出身の陳さんも、ここは住みやすいという。移住者も増えている。

 

8月26日(土)
茶産地へ

翌日は朝8時に陳さんが迎えに来てくれ、ホテルをチェックアウト。これから2泊3日の茶旅を始まると告げられた。陳さんも週末を潰して付き合ってくれるのだから、何とも有り難い。車は昨日来た空港方面の高速を走っていたが、いつしか山道へ入っていく。海南島に高速道路はあるが、まだ一部に過ぎない。そしてこの島の真ん中付近はそれほど高くはないものの、山岳地帯なのだと分かる。

 

出発からほぼ2時間、最初の目的地に着いた。国営烏石農場岭頭茶廠、1950年代に建設された茶工場。最盛期には大量に紅茶を生産していたが、今は農場の中の一つの工場という位置づけになっている。往時を知る人々に招き入れられ、お茶を振る舞われた。ここも兵団が開墾した場所。今でも来るのが大変なところだから、当時の苦労は並大抵のものではなかった。

 

生産が軌道に乗り、輸出が順調になると、外貨獲得のため、CTC方式が早くから採用されていった。ちょうど文革の頃ではないだろうか。ただ1990年代にはほぼその役割を終え、生産量は激減している。この数年の紅茶ブームで多少息を吹き返しているという感じだろうか。

 

工場でお昼を頂いた。どこもそうだが、農場自家製の野菜は新鮮。やはり現地で食べるのが一番美味しいのだ。地元民同士も懐かし気に、子供の頃の話を思い出していた。うちはXX師団だよ、などという言葉を聞くと、現実にここに入植し、ここで生まれた人々がいたことを実感する。

 

ここからまた山越えを行い、次の茶工場へ向かった。雨が強くなっている。山の中で突然車の調子がおかしくなっていた。原因は分からないが、ここで動けなくなってはかなり危険だと思うような山中だった。幸い車は動いたので、スピードを落とし、何とか次の目的地の街まで辿り着いた。ホッとする。だがその小さな街の修理工場では原因が特定できず、取り敢えずオイルを足すなど応急処置をした。

 

この街の外れに白沙茶廠があった。その周囲にはかなり広大な茶畑が広がっていた。ちょうど雨が上がり、手で茶葉を摘む人々が見えた。摘み手は少数民族らしい。ここも先ほどの岭頭茶廠と同じ成り立ち、同じような歴史を辿っていたが、最近は緑茶生産に力を入れ、白沙緑茶はかなり有名なブランドになっている。

 

この付近には数万年前に隕石が落下したとかで、その土壌、水質は特別だとの説明もあった。とにかく特色を出し、従業員のやる気を向上させないと生き残れない、と若い主任はつぶやいていた。ちょうど土曜日で工場には誰も出勤しておらず、彼は我々が来るので待っていてくれたわけだ。

 

今夜の宿はこの街の大きなホテルだった。川沿いにあり、夜景もきれいだ。夕飯もそこのレストランで食べた。蒸かし芋やトウモロコシが出てきて、何とも安らかな田舎の食事となった。陳さんたちは車の修理に行ったが、果たして明日の運行は大丈夫だろうか。海南島の茶畑、ワクワクの一日が終わった。

広東・海南大茶旅2017(3)沙面から海口へ

8月24日(木)
沙面散歩

翌朝はかなりゆっくり起き上がる。天気は極めて良く、昨晩の雨は嘘のようだった。ホテルのロビーに行くと、昔使われていたものが展示されていた。建物は新しくなってもやはり老舗ホテルだったのだ。外へ出ると、相変わらず古い建物のオンパレード。まあ、昔の租界をそのまま残しているのだから、いくらでもある訳だ。確か2008年頃にもこの付近に泊まったことがあるが、その頃よりもより商業的になっているのは仕方がないことだろう。

 

腹が減ったが、一人で簡単に食べる店はそれほどなさそうだった。ホテルの横にちょうど麺屋があったので簡単に済ませた。観光地というのは庶民的な食べ物屋がないのが困りものだが、灯台下暗しということか。その後も周囲を散策し続けた。教会などもあり、やはり当時の租界、という雰囲気があった。

 

それから橋を渡って地下鉄の駅へ向かった。今日は昨年紹介されて気に入ってしまった老茶客というお店を訪ねることになっていた。前回はタクシーで連れて行ってもらったので、場所がよく分からず、ちょっと迷ったが、何とか到着した。お店にお客はおらず、柯さんが待っていてくれた。ただ上の階の美容院がが改修工事中で、工事の音が煩かった。

 

それでも彼は丁寧にお茶を淹れてくれた。かなり暑い日だったのだが、そのお茶は濃厚な味わいでありながら、何となく涼やか。さすがに有名な淹れ手が入れるとこうなるのか、と感心した。相変わらず茶器も清代の骨とう品で見事だった。やはり彼と一緒に汕頭辺りを旅してみた気分になる。実はこの辺の茶文化が素晴らしいと何度も聞いていたのだが、一人で行っても今は見られないだろうと思っている。次回は潮州料理を一緒に食べようと言って別れた。

 

地下鉄で戻り、ホリデーインに向かった。ちょうどここにIさん夫妻がチェックインしているはずだった。フロントでIさんは、と聞くと、すぐに部屋に電話を掛けてくれた。ここでは彼女は有名人なのだ。部屋に行ってみるとちょうど今着いたばかりだという。空港から近くまでバスに乗り、そこからタクシーを拾おうとしたが、なかなか捕まらず、ようやく捕まえた運転手は道を知らなかったらしい。今や中国でよくある光景だ。

 

Iさんと外へ出て、いつもの店で夕飯を食べる。この付近、まだ古い店が残っているのだが、徐々に新しい店、チェーン店に押されてきているようだ。数年後には無くなってしまうのではないかと寂しく思う。部屋に戻り、プーアル茶を淹れてもらい、何となく落ち着いて話す。このホテル、以前はVPNなしで簡単にネットが繋がっていたが、今や難しくなっているようだ。私のホテルで繋がらないのも当然だ。これからどうなるのだろうか。

 

8月25日(金)
海南島へ

翌朝は早く起きて、空港へ向かう。地下鉄はラッシュ時で混んではいたが、何とか乗れた。広州空港で国内線を利用するのは実に久しぶりかもしれない。なんだかすごくきれいに見える。時間があったので朝食にケンタッキーの粥セットを食べてみる。30元以上とかなり高い。支払いはアリペイで。

 

飛行機は海南航空。思い出すのは今から8年ぐらい前、息子と二人で海南島に遊びに行き、帰りが北京の大雪に遭遇。フライトが飛ばない中、海南航空はホテルの部屋と夕飯を提供してくれ、プチリゾート気分を味わったことだ。30度の海南島から夜中の3時に零下4度の北京に降り立った時の寒さと言ったらなかった。海南航空の印象は良い。

 

今回のフライトは海口まで1時間ちょっとだから、機内サービスも何もない。あっという間に海口空港に降り立った。何と海口に来るのは2000年以来、17年ぶり2度目。前回は仕事で、天安門事件の際に趙紫陽の懐刀の一人であったと言われる人物に会いに行ったことが何とも懐かしい。

 

空港には陳さんの部下が迎えに来てくれていた。空港から市内までは約60㎞、1時間ほどかかるという。天気は良く、空はすこぶる青い。途中まで建物もあまりなく、昔の中国を思い出させた。だが市内近くには、既に高速鉄道の駅さえ見られ、海南島も他の中国と同じようになっていることを予感させた。

 

ホテルも予約しておいてくれ、すんなりチェックインした。海口のホテルだから安いだろうと思っていたが、そんなことはなかった。ホテルの周囲には食べ物屋などもなく、ちょっと歩いて見る。広州より暑い。これでは長くは歩けないと思い、横道にあった食堂に入る。海南島には海南チキンライスはないが、文昌鶏がある。これはこれで十分に美味い。値段も流石に安い。

 

午後迎えの人が来て、歩いて10分ぐらいのところにある陳さんのオフィスに案内された。陳さんの会社は茶葉の輸出入を行っており、当然ながら茶の輸出の歴史には詳しい。ここで紅茶を頂きながら、ひとしきり海南紅茶の歴史を聞く。流れとしては先日の英徳とほぼ同じだが、その担い手が違っていた。こちらは中国の屯田兵、兵団の開拓者たちだったのだ。

広東・海南大茶旅2017(2)英徳紅茶の歴史を学ぶ

8月23日(水)
英徳へ

翌日午前8時にチェックアウトした。今日は英徳に連れて行ってもらえるので、広州茶文化協会の張さんを待った。車で来るというので、荷物をそこに乗せ、今晩広州に帰った時に、ホテルを移るのにちょうどよいと思っていた。車は広州市内の渋滞を抜け、高速道路に入った。思っていたよりも交通量が少なく順調で、拍子抜けだ。

 

英徳は市であり、その中にまた英徳村があった。英徳市までは約2時間、そこから更に30分ほど走り、目的地に着いた。そこは農村と言った感じだったが、立派な建物があった。広東省農業科学院茶葉研究所だ。広東省の研究機関がこんなところにある、それは英徳が広東省の茶業中心であることを雄弁に物語っていた。

 

中に招き入れられ、色々と説明をしてもらった。1960年前後に作られたこの研究所では、当初から現在流行りの紅茶、英紅9号という品種が開発されていたらしい。ただ当時の紅茶はほぼ輸出用であり、すぐにCTCが採用され、リーフはごく一部だったようだ。そしてこの英徳という地は客家が多く住み、昔から緑茶は作られていたことなども分る。昼ご飯も研究所の食堂で、新鮮な野菜、ここで飼育された豚や鳥を頂く。当然美味しい!乗ってきた車は返してしまい、また帰る時に呼ぶというのが今の中国らしいが、私の大きな荷物は結構邪魔で大変だった。

 

それから研究所のすぐ近くにある茶工場を見学した。1957年に建設されたという紅旗茶廠、何と文革中のスローガンがレンガの壁に残されており、古めかしさを感じさせる。建物内部は天井が高く、当時の製茶機械も多く残されていた。歴史を感じさせる場所で、70年代からこの工場で働いていたという人に話を聞いた。話していると声がこだまする。英徳市の茶業協会の人たちも来てくれ、色々と便宜を図ってくれた。

 

事務所でお茶を頂いていると、目の前に華僑茶場と書かれたペナントが掲げられていた。何と中越戦争で帰国したベトナム華僑がこの農場に配置され、茶作りをしていたというのだ。ただ90年代には中国紅茶の輸出は厳しくなり、生産は減っていく。そしてつい最近、英紅9号というブランドが知られるようになり、英徳紅茶は復活した。因みにこの農場は1950年代には右派、60年代には文革の知青、そして80年代には華僑と、実に様々な人々が働いており、まさに現代中国史の一つの縮図のような場所であった。

 

次に向かったのは小さな村の中にある茶工場だった。老一隊、という如何にも軍隊の名前がついている。生産第一大隊、ということだろうか。紅旗茶廠同様、五七幹部学校、文革中は知識青年の下放の場でもあったという。今は民営化しているようだが、やはりその歴史はすさまじいと言える。

 

ここは何と中国の航空宇宙方面と合作して、英紅9号を30株、宇宙に持っていくという実験を行ったことで知られていた。そしてうち4株が見事に生育しているその現場を見ることができたのは何とも幸運。葉っぱは通常の物より大きくなっており、これは宇宙と地球の環境の差から生まれるもの、なのかもしれない。それにして茶が宇宙に行く時代とは驚きだ。

 

最後に郊外の観光茶園に向かった。山の中にきれいな建物があり、小雨の中、テラスで優雅に茶を飲むことができた。近くには茶工場もあり、紅茶生産の現場を見ることもできる。近くの宿泊施設に泊まり、自然環境の中で過すというコンセプトのリゾートとしての開発が行われている。近場では温泉も出るらしい。

 

その後雨が止み、茶畑へ行くと、茶の葉が元気に伸びてきていた。ここには中国企業の看板が多く見られる。各社がお金を出して自社の宣伝を兼ねて、茶園を保有する形態をとっていた。エコとかCSRとかいう言葉が中国でも聞かれて久しい。自社のイメージアップ、そして実際に収穫・生産された茶葉をお客などに配る、如何にも中国老板が考えそうな手法をうまく取り入れている。

 

帰りはまた高速道路に乗る。広州市内まで来るとさすがにかなりの渋滞、しかも雨。それでも何とか今日の宿、沙面の勝利賓館に辿り着く。ここは前のホテルよりはかなり格が上で、料金も高い。有名なホテルだった。ただ昔の面影はなく、90年代に全面改装されているので、歴史的ホテルと言った雰囲気はあまりない。

 

夕飯はホテルの近くで張さんたちと食べる。沙面もどんどんオシャレになり、きれいなホテルやレストランが出来ている、ライトアップもきれいで、観光客も多い。部屋に戻ったが、何とここでもFBに繋がらずお手上げ。ついにトミーに泣きつくと、彼が別のアプローチを教えてくれ、その夜3日ぶりに下界と連絡がついた。何と面倒なことだろうか。何とも面倒でやり切れないが、フカフカのベッドで寝ることができたのは幸せ。