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【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】第七篇 同时活跃在新马两地的茶庄

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】
第七篇 同时活跃在新马两地的茶庄

    前几天,一位年轻人对我说:“新加坡和马来西亚曾经是一个国家呢。”这话着实让我大吃一惊,真是没想到。我深刻感受到,普通日本民众其实并不了解东南亚历史。

    上篇介绍林金泰时提到,他1924年曾在吉隆坡开店,第二年又在新加坡成立了总店,其实这两个地方当时同属一个国家。这次我在马来西亚探访老字号茶庄时,发现了几个原本在新加坡有店,之后又在马拉西亚开店的茶庄,但如今都只保留了新加坡的店铺。这期,我就来向大家介绍其中的两家。

马六甲的高铭发茶庄

    从马来西亚首都吉隆坡乘坐快速公交约两个小时即可到达马六甲。600多年前,这里曾是繁华的商贸城市。如今,城中到处是历史建筑,有葡式、荷式、英式,以及中式各种风格。行走间能够感受到扑面而来的历史气息。中国明代航海家郑和下西洋时也曾在此落脚。200年前,这座城市和新加坡一起成为了英国的海峡殖民地。

    当听说马六甲有老字号茶庄的时候,我决定要去探访一番。高铭发茶庄静静地伫立在中华街上。第三代掌柜高培材平静地说:“已经有很长一段时间,马六甲只有我们一家经营中国茶了。”店内天井很高,气氛古雅,确实给人一种老字号的感觉。

    高铭发茶庄是高培材先生的祖父高铭壬,于1905年在新加坡开设的当地最早的茶庄之一。高铭壬祖籍福建安溪虎丘。查找1928年成立的新嘉坡茶商公会第一届会员名单,高铭发茶庄赫然在列,高铭壬后来还担任了公会理事长。1930年,高铭壬在马六甲也开了店,店址据说只和现在的店铺相隔5家店。第二次世界大战结束后,高铭壬将新加坡的店铺交给长子经营,带着三子也就是高培材的父亲一起永久移居马六甲欢度晚年。所以,高培材至今还记得,幼时爷爷周围经常聚集很多朋友,大家一起饮茶的场景。

    高铭发在新加坡的店铺于上世纪60年代关门了。虽然内情不详,但1972年,源崇美第二代掌柜颜辉宗曾撰文提到“新加坡的年轻人喜欢喝可乐和汽水,已经不喝中国茶了”。然而,更主要的原因可能是他提到的 “错失了向马来西亚和印尼两大市场开展茶叶转口贸易的机会”。而决不会仅仅因为新加坡年轻人喜欢喝可乐。

    这可能也和上世纪60年代导致苏加诺下台苏哈托继任的印尼屠华事件,以及禁止华裔使用汉语有关系。同时,还有人认为1965年新加坡从马来西亚独立(抑或受到马拉西亚排挤?)后的西化发展是茶庄关门的原因。以60年代为界,东亚各国的中国茶叶消费发生了戏剧性变化。

    另一方面,在马六甲,高铭发1953年正式注册,成为当地唯一的中国茶庄,由此,高培材祖父的朋友汇聚而来,茶庄一派兴旺。之后,高培材之父高水成子承父业,继续主营福建茶。基本上以零售居多,没有自主进口茶叶。1960年,高铭发加入马来西亚新加坡茶商联合成立的岩溪茶行,从中能够感受到高铭壬先生在茶叶界的影响力。虽然如今高铭发已经延续了三代,但遗憾的是后继无人,高培材很寂寥地表示不知道茶庄今后可以持续到什么时候。

巴生的杨瑞香茶庄

    巴生港是马来西亚最大港口。从吉隆坡乘电车1个半小时左右即到。昔日,包括茶叶在内的很多进口产品都是从这里卸货。曾经有很多中国苦力在这里劳作,由此诞生了肉骨茶(一种猪骨药材汤,并无茶叶成分,因是闽南话,故发音近似“茶”——译注)。

    当然,一听说这里也有老字号茶庄,我便要了地址拜访了其中一家。然而,这竟然只是一个茶商的住所,店铺已经没有了。茶庄名叫杨瑞香,和高铭发一样,第一代掌柜杨惠丕(祖籍安溪,是受访者的曾祖父)先在新加坡开店,上世纪30年代又在巴生港开了分店。杨惠丕也是新嘉坡茶商公会会员,并在公会成立初期担任过重要职务,但最终于1947年从会员名单中销声匿迹,据说他们是搬迁到了福建人聚居的巴生,因为那里距离港口近,生活更加方便。

    然而此后,马来西亚限制销售从中国进口的茶叶,渐渐地,杨瑞香的经营项目从供应中国茶,转变为供应马来西亚人和印度人都爱喝的奶茶原料——红茶粉。90年代,杨瑞香关闭了在巴生城内的店铺,现在只保留了茶叶工厂。我到访了店铺旧址,不知为何已经完全成为了印度人的聚居区,我很惊叹于港口城市巴生的变化。同时,我也注意到当地华人势力的衰退,这甚至让人感受到马来西亚这个国家所发生的巨变。

图片说明

  1. 马六甲 高铭发
  2. 创业者 高铭壬
  3. 高铭发 昔日的茶叶罐
  4. 1972年颜辉宗的报告书
  5. 巴生 杨瑞香的茶叶包装
  6. 杨瑞香店铺旧址
  7. 巴生 肉骨茶

タイ北部茶旅2022(6)チェンマイで

折角いい部屋にいるのだからと、午前中は優雅に部屋で過ごすことにした。もう一度ジャグジーに入り、気持ちよく過ごす。外のプールに入ろうかと思っていると、何と韓国人のおっさんが一人でスマホに向かって大声で話している。友達にでも自慢しているのだろうが、何だか見苦しい光景だった。自分もそうならないように気を付けよう。

昼にチェックアウトしたがフライトは夕方なので、国立チェンマイ博物館に行ってみる。実はここは、過去2回行こうとして、2回とも休館日だったという苦い経験がある。月火の休み、祝日休みに引っかかったが、今日はさすがに開いているはずだ。

博物館は城外にある。トゥクトゥクに声を掛けたが、行きたくない様子で法外な料金を言って来るので、即座にGrabで呼ぶ。あっという間にやってきて、行き先を言う必要もなく明朗会計。これではトゥクトゥクの淘汰は時間の問題ではないだろうか。ある意味で長年の観光地の悪しき懸案事項が、今修正されてきており、そこにコロナ禍が拍車を掛けている。

西の方、ヘミンニーマン地区はかなりの渋滞となっている。城内の静けさはなく、既にチェンマイ地元民、タイ人の生活は普段に戻りつつあるということだろうか。運転手も動かない車を見て苦笑している。博物館まで来ると、木々が生い茂り、また静寂の中に入り込む。しかし博物館内は、社会見学?の中学生に占拠されており、まるで野球場のような歓声怒号に包まれている。

その一段をやり過ごし、展示物を見て行くと、チェンマイの成り立ちから周辺地域との交流などが良く示されていてとても勉強になる。そしてこの地域の知識が私には欠けており、ここの歴史を学ぶことで茶の歴史にも間接的繋がることがありそうだと直感する。出来れば来年はチェンマイに長逗留して、ランナー文化などから何かを見つけてみたいと衝動的に思う。

博物館でまたGrabを呼び、チェンマイの街の成立と同時に作られたという最古の寺、ワットチェンムンに向かう。博物館で得た知識の中にあった寺だった。行ってみると、何とも雰囲気が良い。仏塔も渋い。ここには大理石とクリスタルの仏像があり、見応えも十分だが、観光客は残念ながら殆どいない。歴史的な価値もあるが、所謂観光の穴場というべきか。

そこから宿の方に歩いて行き、ランチを食べていなかったので食堂を探したが、良い店が見付からない。結局昨日食べた牛肉麺かと思ったら、その辺に店がいくつも固まってあり、その中に『うまくて号泣ラーメン』という不思議なネーミングの店があったので、思わず寄っていく。

メニューを見るとかなり安いが、日本人の手は入っていそうだったので、とんこつ醤油99bを注文してみる。狭い店内より広場のベンチでラーメンをすする。一番安いラーメンは59bだから、これはかなりコスパが良い。タイ人が結構食べているから地元民向けだろうが、コストさえ合えば繁盛するかもしれない。

宿に戻り、予約した無料空港送迎を待つ。バンはきちんと予定通りにやってくる。これは何とも有難い。それにしてもチェンマイ空港までかなり近いことを忘れていた。だがこれまでは高額の車代を取られていた苦い思い出がある。いや前回はバスが走っていた筈だが、チェンライ同様あれは無くなってしまったのだろうか。

空港に着くと、ライオンのチェックインカウンターへ行く。私は既にWebチェックインをしているのだが、なぜかメールで搭乗券が送られてこない。その理由を知りたかったが、カウンターでは分からないという。それでも粘っていると、スタッフがスマホ上の搭乗券を探し出し、これで乗れるはず、と言ってくれた。忙しい中、対応が非常に良い。更に搭乗口で確認した時も対応が良かった。LCC、これからはライオン一択だな。

機内は混んでおらず、三席を独占して上空から下を見ていた。かなりの場所で水が多いことが確認できる。バンコクに近づくと、工場や家屋が多くなるが、11年前のようにここが水で沈んでしまわないことを祈るばかりだ。ドムアン空港に着くと夕日がきれいに落ちていく。

タイ北部茶旅2022(5)静かなチェンマイを歩く

確かに部屋はかなり広く、風呂場も広く、浴槽にはジャグジーまでついていた。しかも1階でプールは目の前、これはもう完全にカップル用の部屋だった。しかし冷蔵庫が見当たらない。スタッフも一緒に探したがないという。何でこんな立派な部屋に冷蔵庫がないのか?後で氷を貰ったら、そこのスタッフが『絶対ある』と言って再度探し、物入れの下の二十扉から冷蔵庫を発見した。部屋はそれほどに広い?

腹が減ったので外へ出た。さっき通り掛かって気になった麺屋へ行ってみる。牛肉麺と書かれているが、台湾の物とは違うようだ。それでも牛肉が柔らかく煮込まれていて十分に満足できる味だった。外国人もタイ人も食べに来ており、常にお客がいる店だ。華人の家族経営、素晴らしい。

それから場内をフラフラと歩いてみる。残念ながら閉鎖されたホテルやレストランなどがいくつも見られた。観光業、特にこの地域では、観光客が来なかったコロナの2年間はかなりの打撃になってしまったようだ。そしてトゥクトゥク、ソンテウドライバーにとってもお客のいない日々が続いていただろう。恐らく最近ようやく商売を再開した、という雰囲気が漂う。

こんなに人がないチェンマイなら、お寺巡りをしてみようと思う。まるで2年前に行った京都の静けさが思い出される。まず木造のいい感じの建物が見えたワットパンタオに入ってみた。天気も良いので写真も映える。そして後方を見ていると、向こうに崩れかけたものが見えたので、行ってみた。そこはワットチェディルアンというチェンマイ一の名所だった。

ここでは入場料50bを取られた。中に入ると女性たちがお祈りしていたが、そのお堂は女人禁制であり、なぜ入ってはいけないが英語と中国語でも説明されていた。それでも納得できない外国人はいるだろう。お堂の中は非常にきらびやかで美しい。ランナー様式だと書かれている。

1391年この寺はメンラーイ王朝第7代セーンムアンマー王が建立したと伝えられる。チェンマイで最も大きな仏塔のある寺院。仏塔は、創建当時で高さ約80メートル、四角い形をした基壇の一辺も約60メートルと巨大なもので、市街地の真ん中にそびえ立っている。当時の王は仏教の宇宙観に従って、都の真ん中に須弥山に擬えた大きな仏塔を置き、それを囲うように8つの方向にもひとつずつ寺院を建立すると、王朝の繁栄がもたらされると信じていた。現在の仏塔は1545年の大地震で先が壊れ、後に修復されたもの。

ここで暑さを避けて木陰に座っていると、何ともいい風が吹いてきて、眠気を覚える。実に落ち着きのある、静かな午後だった。図書館にも入ったが、停電中でよく見えない。近くにすごく高い木があった。枝葉は上の方だけに生えており、とても特殊な形状だったのが気なった。

三人の王の像のところまで歩く。三人とは、マンラーイ王(中央:チェンマイ王朝王)、カムムアン王(左:パヤオ王国国王)、ラームカムヘーン王(右:スコータイ王国国王)だという。その向かいにチェンマイ民俗博物館があったので、入ってみる。入場料100b。展示品はかなり豊富で見応えがある。

暑さで疲れたので一度宿へ戻り、部屋のジャグジーで寛ぐ。これならプールに入らなくても気分が良い。夕方夕飯を探しに外へ出たが、以前行った和食屋はタイ料理屋になっており、近所の新しい和食屋は満員で入れない。仕方なく華人経営の店に入ったが、愛想がない。カリカリ豚と揚げた魚、スープと白米で270bも取られた。なんでチェンマイらしいものを食べなかったのだろうか。夜は広いお部屋で一人寛ぐ。

9月17日(土)チェンマイ散策

眠りが深かったのはベッドが良かったからだろうか。すっきりとした朝を迎え、朝食に行ってみる。お客は2組しかなく、従業員もいない。何とか注文して、サラダなどを取っていると、中国人家族4人がものすごい勢いで口論を始めた。最初は『中国語の甲高い声、懐かしい』などと思っていたが、それは長く続き、食堂に響き渡る。ああ、またあの煩い日々が戻ってくるのだろうか。ハワイから来た男性が負けじと大声で英語を話す。食事の味は覚えていない。

タイ北部茶旅2022(4)ウィアンパパオ 暁の家で

そこからNさんの居場所までは一本道を歩いて行けると聞いたが、念のため車で迎えに来てくれた。Nさんはタイに関わって35年、山岳民族支援活動をずっとしているという。私はバンコク在住の知り合いから紹介されて、ここを訪ねることになったのだった。ルンルアンプロジェクト、元々は山岳民族の子供たちの教育支援で、現在の地に寮を作り、学校に通わせるものだったという。最初はバンブーハウスから始まった。既に寮は閉鎖されているが、敷地は広大で、寮として使われた建物も残っている。

事業は徐々に山岳民族の産業振興支援へと移っていき、2008年からはコーヒー栽培が始まった。そして5年前からはアッサム種を使った紅茶の製造も始めたというからすごい。山の人々は換金作物が必要であり、有機栽培のコーヒー、紅茶は主力事業になるという。紅茶を飲ませてもらったが、ほんのり甘い感じがする。

Nさんにお話を聞いていたが、その淡々とした語り口、淡々とした活動状況を知るにつれ、さすがに35年やっている人は違うな、と感心した。同時に35年の間には想像もできないほど大変なことも沢山あり、その結果として今日の『淡々ぶり』なのだろうと勝手に解釈した。猫や犬が実にのんびりと暮らしている。

寮だった建物は、日本から来る中高校生など、研修用に活用されている。様々な団体や個人がここを訪れ、何かを学んで帰っていくらしい。図書館もあり、かなりの日本語の本も置かれている。これも歴史がなせる業だろうか。鶏も飼われているし、隣には田んぼや畑もある。自給自足が出来そうだ。

午後5時を過ぎると夕飯の時間だ。スタッフ全員がそろい、スタッフの当番が作った蒸し鶏を頂く。これは美味い。食度はかなり大きく、30人来ても入れそうだった。京都の女子大学生が一人、研修で来ていた。『コロナの時期でご両親の反対はなかったか』と聞くと、何と『母は高校生の時、ボランティアでここに来ました』というではないか。筋金入りということだ。彼女の研究課題は『持続的な支援』だそうだ。

食後は各自過ごす。シャワーはお湯が出るし、トイレはきれい。部屋もシンプルだが、Wi-Fiも入るので、何の不便もない。日が暮れると非常に静かになる。そんな中でPCに向かい、日記などを書いていると、時間は過ぎていく。寝ようとすると、灯りで集まってきたのか、蚊が飛んできて刺されてかゆかった。標高500mはメーサローンに比べれば低いが、それでも涼しかった。

9月16日(金)チェンマイへ

朝6時前に起きた。ここのスタッフは既に起きて、掃除や朝食の用意をしている。朝飯のスープと野菜も美味しく頂く。Nさんは今日、支援者のお葬式があるとのことで、急遽朝から出掛けることになった。その短い合間に、私にコーヒーを淹れてくれ、美味しいバナナも出してくれた。Nさんと話した時間は決して長くはなかったが、何だか支援したくなるような人だった。

Nさんが出掛けてしまい、私もチェンマイに行くことになったのだが、そのバスまでまだ時間がある。折角なので周辺を歩いてみることにした。ここは平地であり、周囲にはコンビニも銀行もあり、ある意味で街中なのだ。子供たちが学校に通うにも便利だったのだろう。近くには大きな病院まであった。ウィアンパパオとは、どのような歴史で出来た街なのだろうか。交通の要所であったかもしれない。

午前10時にスタッフに送ってもらい、街中のミニバス乗り場へ行く。昨日既に席を予約してもらっていたのだが、始発から乗車したのは私だけだった。途中メーカチャンで数人が乗り込んだが、それでチェンマイまで行く。以前は一日に数便もあったチェンマイ行は今や4便となり、それも満員にはならない寂しさだ。88bで、チェンマイアーケードまで2時間で行く。

いつもは車で込み合っていたアーケード付近だが、何となく車が少ない。そしてバスに乗る乗客も多くはない。寂しい。取り敢えず予約した宿まで行くのにGrabを取り出したが、面白くないので、ソンテウおじさんに声を掛けてみた。やはりお客が少ないのだろう、Grabとさして変わらない料金を最初から言ってきたので、ソンテウで行くことになった。彼らの生活も大変なのだろうと思いながら、隙間から外の景色を眺める。

今回初めて宿を城内にしてみた。観光都市チェンマイがどうなっているのかを観察するのが目的であり、その為通常より良いホテルを予約したが、料金は日本のビジネスホテル並みだったので、それだけでもチェンマイの大変さが分かった。宿に着くと、立派なところだった。受付の女性が『え、一人で来たんですか、部屋広いですよ』と驚いていた。

タイ北部茶旅2022(3)メーサローン散策、そしてウィアンパパオへ

午前中はお散歩。茶器モニュメントまで歩いて行く。これまで何度か歩いたが、今回は無難な広い道を通る。途中の坂道に茶樹が生えている。これは山茶だろうか。葉っぱや木がかなり大きなものもある。アッサム系だろうか。モニュメントに辿り着くと、獅子たちは健在だったが、茶器は一部取り外されていた。かなり古びていたので仕方ないだろう。私が最初に見たのも16年前なのだから。

その下まで歩いて行くと、芙蓉宮が作った風景スポットが出現した。確か茶畑は5年前伍さんが作っていたのを思い出す。あの時の茶畑がこんなインスタ映えするスポットになったのか。ここだけはタイ人観光客がいる。トイレも完備されているので、私も使わせてもらい助かる。その下まで降りるつもりでいたが、足に自信がなく途中で引き返す。衰えを感じる。

主要道路まで戻って、以前訪ねた茶工場を探すとそのあたりに大型リゾートホテルが出来ている。でもお客はいないようだ。コロナ前から準備して出来上がったのだろうが、経営はどうなのだろう。茶工場を探し当てて行ってみると、女性たちにより枝取りが行われているだけだった。雨が多いので今週は製茶はなしらしい。その下には景色の良いカフェが作られており、冷たい飲み物を飲んで休む。

なぜかチェンマイからバンコクに戻るフライト予約をスマホでした。私は現金で払いたいので、セブンのカウンター支払いを選択する。ついでにドリンクを買う。ここにポカリスエットが売っている。その下の雲南麺屋で雲吞麺を食べる。50bで美味しい。やっぱりお婆さんの中国語は流暢 (若者も中国語は分かるが話さない傾向?)。帰りの道にコインランドリーが出きている。やはり突然雨が降る変わりやすい天気には便利?

午後は天気が良かったが、疲れたので部屋にいた。晴れた景色を眺めるのもまたよし。ずっとバルコニーに居たら、蚊に刺されてかゆい。夕飯にチャーハンとキャベツ炒めを注文したら、ちょうどオーナーの楊さんと三男がチェンマイから戻ってきた。ご主人のお母さんご病気で、チェンマイの病院にいるらしい。87歳というが、このお母さんの人生は聞いてみたい。

楊さんとご主人の李さんの父親同士は雲南黄埔士官学校の同期生であり、その縁で結婚したことを初めて知る。ミャンマー生まれの楊さんに最近の状況を聞いてみたが、陸路の国境は全て封鎖されており、この宿で働いているミャンマー人も帰ることはできない。更には危険が迫っているので、ミャンマー人は密航してタイに逃げこんでいるという。また観光客は来ないので、ホテル業は低調だが、巣籠需要なのか、茶葉輸出は好調でホテル従業員を茶業に回しているという。

9月15日(木)メーサローンからチェンライへ

昨晩はそれほど寒くなく、快適に眠れた。朝ご飯を食べに行くと楊さんが一緒に食べてくれた。カオトーガイに今日は油条が付いてくる。楊さんは実は果敢(雲南‐シャン州の国境にある秘境)の領主家出身だというので驚いた。その一族の歴史が書かれた本を貸してくれる。彼女の一代記、是非書いてみたい。

メーサローンを離れる。Grabは捕まるか分からず、三男がメーサイへ行くので下まで乗せて行ってもらう。いつもとは別道を行くと早く平地へ出る。三男とは初めて会ったがなかなかの好青年だった。メーチャン付近で降ろしてもらい、ちょうど来たチェンライ行バスに飛び乗った。ボロバスだが、25bでチェンライまで運んでくれる。

バスで約50分。バスターミナルへ着くとちょうどメーカチャン行は出てしまっていた(トイレに入っている間に?)。仕方なく、ターミナル前のきれいなカフェに入り、久しぶりのクラブサンドイッチを頬張る。美味しい。120bはバンコクでは考えられない値段だ。コーラも飲む。

12時半出発予定のメーカチャン行バスに乗り込んだが、定刻を過ぎても出る様子がない。荷物を大量に載せており、中では箱詰めされた鶏が鳴く!鶏と一緒にバス?数十年ぶりの体験にちょっとウキウキ?運転手はバスの下にもぐり始める。バスは故障したのだろうか?

13時過ぎにようやく出発。そこへ本日訪ねる予定のNさんから電話が入り、私の行き先を車掌にタイ語で告げてもらう。最初誰が車掌だか分からない雰囲気が面白い。途中はかなりの山道あり、水田ありの田舎道を行く。2時間かかって、本日の目的地、ウィアンパパオに到着。55b。降りるよう指示されたサイアムコマーシャルバンク前でバスが停まるまで、タイ人乗客も皆緊張していた。何せ車掌は私より先に下車してしまい、乗客に私のことを頼んでいたのだから。

タイ北部茶旅2022(2)懐かしのメーサローンへ上がる

少し待ってみたが雨は止みそうにない。宿からバスターミナルへ行き、ローカルバスでメーチャンの先まで行って、そこから山へ行くソンテウを拾うという作戦だったが、そもそもコロナでソンテウが走っているのかもわからず、不安になる。念のためにGrabで探してみると、何と料金がこれまで払ってきたタクシー代の半額程度だったので驚いた。

しかし実際に行く車があるのかとボタンを押してみると、何とすぐにつかまり、こちらに向かってきてしまった。驚いて宿をチェックアウトすると、そこにきれいな車が待っていた。メーサローンへと告げると黙って首を縦に振る。若者だが英語は苦手のようだ。車はチェンライを出て、メーサイ方面に向かう。雨が降っているせいか、運転が非常に丁寧で好感が持てる。

メーチャンの先から山道に入ったが、そこにはソンテウの姿はなく、Grabを選択して本当に良かったと感じる。あそこで雨の中いつ来るともしれないソンテウを待つのはちょっと耐えられなかっただろう。山道は相変わらず急であったが、運転の安定感が救いとなる。途中車は殆どなかった。ちょうど1時間半で懐かしいメーサローンビラに到着した。料金はわずか550b。チップをあげても合計600bでとても安い。驚いたことに料金を渡すときに顔が見えたが、何と男性ではなく、若い女性だった。こんなおじさんと山の中を走るのは不安もあっただろうにと、気の毒に思う。

メーサローンビラは変わっていなかったが、受付の女性は変わっていて私は知られていなかった。まあここに泊まるのは7年ぶりだから仕方がない。取り敢えずチェックインすると、いつもより景色が良い、バルコニーのある部屋へ通された。妙に落ち着く。だが、オーナーはチェンマイに行っており、今日は帰らないことを知る。

取り敢えず雨が止んだので、街歩きを始める。覚えている道よりずっと急な坂道に思えるのは、自分の体力が落ちたせいだろうか。セブンの前は工事中だが、何ができるのだろうか。茶葉を売っている店が並んでいた場所までは実に遠く感じた。段将軍陵墓の入り口を通り過ぎると、ようやくお店が見えてきた。

茶葉を売る広場には人がいない。店もお茶よりドライフルーツをメインに置いている。その先に地元民向けの新市場が出来たようだ。観光客が来なかったコロナ禍での変化だろう。とにかく坂がきつい、長く感じられるのは老いのせいだろう。それでもあと1㎞ぐらい歩いて、泰北義民文史館までやってきた。

文史館の敷地内には、新しく段将軍の像が出来ていた。段希文はメーサローンの歴史そのものなのかもしれない。その生い立ちから生涯をここでじっくり学ぶ。特に1960年代、この地に残って孤軍奮闘する様は、何と言ってよいか分からない。またこの軍隊は75年の蒋介石死去でタイに土着することを決め、武装解除したのかと思っていたが、70年代末でも戦闘をしていた。これはサイゴン陥落やラオス建国など国際情勢が影響していたのだろうか?

アップダウンのある坂を引き返しながら考えても何も浮かばない。腹が減り、途中で麺を食べる。ひき肉がスパイシーな、ボリューム満点の雲南麺、40b。おばさんの中国語が流暢なのは有難いが、若者は中国語を使わなくなってきたように思える。あるいは最近ミャンマーから来た人なのだろうか。

段将軍陵墓にも行ってみる。やはり坂道を歩く。実に静かな、奥まった場所にあった。福の文字が印象的。お墓の前のお供え物、茶杯に葉っぱが直接入ったお茶が置かれている。段将軍は茶業に対してどのような考えを持っていたのだろうか。街中の家の壁に描かれた 好々爺な段将軍の姿。近所には蒋家塞の文字も見える。

宿に帰った。バルコニーからただただ景色を眺める。何とも懐かしい風景が広がっているように思える。そしてかなり涼しい、いや半袖では寒いくらいの気候。標高が高いだけではあるまい。夕方食堂で名物の豚足とスープを食べる。ようやくお茶も出て来る。きれいな夕暮れが流れていく。

9月14日(水)メーサローン2

夜中は寒かったので、毛布を掛けて寝たが、朝はさわやかだった。朝ご飯にはお馴染みのカオトームーを頼む。するとなぜかトーストが出てきたので、折角なので一緒に掻き込む。インスタントコーヒーも付いてくる。それからゆっくりとお茶を飲む。そしてまた風景を眺める。

タイ北部茶旅2022(1)チェンライまでの道

《タイ北部茶旅2022》  2022年9月12日₋17日

今回のバンコク滞在中、どうしても行きたい場所があった。それはメーサローン。もう5年も行っていない。何とか合間を見つけて旅に出ることにしたが、まずは予約したチェンライ行フライトがまさかのキャンセル。果たして旅はどうなるのか。

9月12日(月)チェンライへ

1週間前に予約したチェンライ行。4日前の夜に突然キャンセル+当日の夜便に変更、との連絡が来た。当日朝が夜になると、当然予定は狂う。どうするんだ、LCCでの初の経験。取り敢えず書かれていたアドレスにメールを打つ。せめて前日の夜に変更して欲しいと。朝になって、『こんなメールに返事は来ないよな』と思い、対策を練り始めた矢先、返信があった。変更は1回限り無料、但しコールセンターに電話して変更、が条件だった。

そこから電話が繋がらない。諦めかけた頃、突然オペレターが出て、後は意外とスムーズに変更が叶えられた。ただ彼女は3回も『コンファメーションは今日中に送るから見てね』と言っていたが、その肝心のメールはついに来なかった。だが前日リマインダーが届くと、そこには変更後のフライトが記載されていてようやくコンファームされた思いだった。

元々朝早い便だったので、結局ドムアン空港付近に泊まろうかと思っていた。それがドムアンではなく、チェンライになっただけだといい方向に考えた。また午後時間に余裕があったので、雨を避けながら早めに空港に向かい、先日も乗ったレッドラインで空港へ行ってみた。レッドラインの駅(外)にはトイレがあることを発見。また先日も食べた空港食堂でゆっくり夕飯を食べてから飛行機に乗り込んだ。

さすがに朝便を詰めて夕方便だけにしたせいか、機内は意外と混んでいた。タイライオン航空はこの日、キャンセル便がいくつもあった。他社もそうだが、燃料費高騰などで不採算では飛ばさない、ということだろうか。今後もキャンセルの可能性には注意が必要だ。

定刻前にチェンライ空港に着いた。2年半ぶりだが、前回は確か市内行バスが運行されていて喜んだ覚えがある。ところが外へ出てもバスはなく、案内所で聞くと『バスなんてありませんよ』とまるで夢でも見ているの、という対応をされ、タクシーに誘導された。昔は運転手との交渉が嫌だったが、今ではカウンターで行き先を言えば、定額で行ってくれるのでまあいいか。

フライトが確定しなかったこともあり、ホテルは予約していなかったが、以前泊った街中の老舗に行ってみた。予約サイトでも直前は料金が上がっていたが、取り敢えず受け入れ範囲内の料金だったので、そのままそこに泊まることにした。ここは古いがその分広く、ゆったりしていてよいはずだったが、なぜかシャワールームだけ非常に狭かった。

飲み物を買いに外へ出た。すぐ近くのバスターミナルが新しくなっていたが、午後8時でほぼバスはなく、乗客もいなかった。その向こうに夜市があったので行ってみたが、残念ながら観光客の姿は少なかった。ここにもコロナの衝撃が見られた。昔世話になったフランス人経営の旅行会社の姿もない。

以前行った夜市のレストラン、西洋人が多かったが、今やほぼ開店休業状態だった。そこから少し歩くと、そことは別に、地元民を含めたタイ人向けのフードコートが出来ており、そちらはそこそこの賑わいがあった。私も軽く焼きそばでも食べようと席を探したが、雨が降っていたらしく、どこも濡れていた。店の人が席を探してくれ、本日四食目を完食して一日目が終了した。

9月13日(火)メーサローンへ登る

翌朝起きると雨が降っていた。今日は山登りの予定なので憂鬱になる。まずは宿の朝ごはんを思い切り食べて、気力を養う。宿泊客はそれほど多くはないようで、しかもタイ人ばかりで外国人の姿はほぼなかった。7年前はかなり賑わっていたホテルで、静かな朝食を嚙みしめながら食べる。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(11)なぜか屋島へ

なぜか屋島に行ってみたくなった。源平合戦、先日壇ノ浦に行ったことも理由だろうか。琴電屋島で降りる。実は屋島は島と書いて山だった?!小さな駅で降りてどうするのかと思っていると、ちゃんとバスが来て山頂まで連れて行ってくれた。しかも100円で。登るにつれて、眼下に海が見えてくる。

源平屋島合戦場との看板が迎えてくれたが、やはり山の上ではピンとこない。その向こうには四国88か所の一つ、屋島寺があったので、まずはそこを見学。源平合戦の遺物を展示した宝物館があるとあったが、スルーした。太子堂や千躰堂などが並び、蓑山大明神のたぬきの置物がかわいらしい。本堂も年季が入っている。

更に展望台?にも行ってみた。ここからなら屋島地域が一望でき、屋島の合戦の舞台を上から見ることが出来る。きれいに作られた施設もあるが、人は殆どいない。天気が悪いからだろうか。今日は小雨で気温も23度と肌寒いと言ってもよく、歩くにはいい気温ではある。

そこから更に歩き、屋島城という古代の遺跡を見た。663年の白村江の戦いに敗れた後、中大兄皇子がここに防御の城を築いたらしい。他にも瑠璃宝の池(血の池)など源平ゆかりの場所もあるが、那須与一や義経の故事はやはり下へ行かないと出てこないらしい。帰るバスが来たので乗り込んだが、駅まで行く前で一人だけ降りた。

バスから洋館が見えたからだ。神戸の異人館から移築され、今はカフェになっていた。その横にはテーマパークのようなきれいな施設があったが、これまたスルーした。その向こうを登ると屋島神社がある。高松藩初代は水戸家初代徳川頼房の次男で、ここに家康を祭った。讃岐東照宮という文字も見える。階段がきつい。神社の門は固く閉ざされていた。ここからは街が良く見えた。

琴電で元に戻り、瓦町駅から歩く。商店街のモールの下をずっと歩いて行くと、高松のB級グルメ、かしわバター丼を出す店に辿り着き、遅いランチを食べる。それにしてもこの店のボリュームはすごい。ご飯は茶わん3杯ぐらい。鶏肉をふんだんに焼いて乗っけてくれる。更には何とご飯が余れば、無料でカレーを掛けて食べられる。これで800円、ありえない。午後3時でも若者が何人も来ていたのは頷けるが、この量、私にはもう無理かな。

腹ごなしに歩いて行くと、歴史資料館と図書館、そして菊池寛記念館が同じビルに入っていたので、寄ってみる。歴史資料館で香川の歴史を学び、図書館で香川茶業の歴史を探す。菊池寛は時間的にパスしたが、後で中央公園に像が建っているのを見て、地元では顕彰されていると感じる。この日は宿でゆっくりして、夕飯は抜き、夜泣きラーメンで一日を終える。

7月15日(金)高松で

朝ご飯を探して町に出る。商店街の2階にモーニングがあると聞いて出掛けてみると、何と300円のコーヒーを頼めばトーストが無料で付いてくるというものだった。かなりレトロな店内は満員で、ちょうど席が空いたので、取り敢えず注文してみた。正直コーヒーは?だったが、トーストは美味しく頂いた。

東京に戻る前に時間があったので、高松駅まで散歩して、高松城跡を見ることにした。横には琴電築港駅がある。この城は基本的に松平家。天守閣は石垣だけが残っており、披雲閣庭園は手入れが行き届いており、素晴らしい。盆栽なども沢山置かれている。月見櫓も残っている。今は玉藻公園という名称の方が一般的らしい。

宿近くまで戻り、早めのランチに行く。丸亀で行けなかったので、綿屋の肉ぶっかけを食べる。システムが良く分からなかったが、社員食堂のように流れていくらしい。早い時間でもどんどん人が入ってくる。確かにこの麺はコシがあり、肉汁のうまみも感じられ、美味い。

昼頃リムジンバス乗り場を探してバスに乗り込む。高松空港は以前一度降りたことはあるが、乗るのは初めて。というか、今回私が四国を目指した真の理由、それは香川県にこれまで1泊もしたことがなかったからだった。これで残すは埼玉県のみ。いつでも泊まれると思って残ってしまったが、果たしてどこで泊まるのが良いかを考えながら、フライトを終わる。折角讃岐うどんを食べたのに、帰りに新宿でまた立ち食いうどんを食べてしまったのはなぜだろうか。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(10)仁尾、塩飽本島から高松へ

仁尾

文化会館の中に図書館があったので入って、後発酵茶や茶粥について何か資料はないか、聞いてみる。対応は非常に親切で、かなりの資料をコピーさせてもらえた。それでも地元の人も、碁石茶がここに運ばれ、仁尾商人が売り捌いた歴史についてはほとんど知らないという。茶粥も食べてはいないとか。坂出あたりでは今も食べられているのだろうか?

古い町並みを歩いてみる。旧塩田忠左衛門邸という、見るからに立派な建物が保存されている。特定日には公開もされるらしい。この付近の旧家は米酢などの製造で栄えていたのかな。その先には文豪菊池寛母の出生地の碑が建っている。海寄りには江戸時代に造られた金毘羅灯篭があり、土佐藩主が参勤交代におりにこの港を使ったこと、そして土佐茶の販売権を仁尾商人が得ていたことが説明されていた。ようやく碁石茶と仁尾の接点を見つけたが、今回はこれまでだった。

更に覚城院という寺へ行く。ここは坂がかなり急であり、横から見ると石垣が積まれている感じだった。仁尾城跡と書かれていて、何となく納得した。最後に50年前は碁石茶を扱っていたと資料に書かれていた今屋という茶屋に行ってみる。店の建物自体はまだあり、茶缶などが置かれているのは見えたが、扉は固く閉じられており、これ以上仁尾茶についての調べは受け付けられないことを悟る。

塩飽本島

仁尾からバスで詫間へ戻り、JRで丸亀までやってきた。結構疲れたのでそのまま宿で休む手もあったが、明日の天気予報が雨だったので、思い切ってそのまま塩飽本島へ向かう。歩いて数分のところに港があり、往復1070円でフェリーに乗れた。30分で到着。高見島行よりかなり大きいフェリーで、島の規模を知る。 

本島は平たんで歩きやすい。すぐに天理教の大きな建物があったのは驚いた。10分ぐらいで塩飽勤番所跡の建物が見えたが、既に見学時間は終わっていた。そのすぐ近くの家には咸臨丸水夫生家跡の表示がある。確かにこの時代、アメリカまで行ける水夫を探すのは大変で、塩飽の漁民などが駆り出されたのだろうか。

その先をずっと歩いて行くと、専称寺という寺を見た。この寺の起源は、あの法然上人が四国へ配流になった際、ここに庵が建てられたことだという。横には島のまとめ役、年寄の墓も見られる。その先が笠島伝統的建造物群保存地区であり、古い建物などがきれいに整備されて残っていた。中には何でも探偵団に伊藤若冲の絵を出品して、高額の評価を得た家もあると書かれているが、歩いている人は一人もいない。

フェリーの時間があるので、ここまでとして帰り道を急ぐ。一つ気付いたのは、家の門のように、柱が二本経っている家が多い。あれは何の印だろうか。今度はもっと時間を掛けて島を巡りたい。今回は残念ながらお茶に関する歴史は何も出てこなかったが、色々と面白い発見がありそうだ。

フェリーで丸亀に戻ると、腹が減ったので商店街の店に入った。さしみの文字に釣られたのだが、何ともうないという。仕方なくかつ丼とうどんのセットにしてみたが、これが意外にイケる。何だかこういう店のかつ丼は、卵とじが上手いような気がする。店の人は刺身がないことを何度も謝ってくれたが、とんでもない、ご馳走様でした。

7月14日(木)雨の高松へ

今朝は予報通りの雨だった。高松へ移動することにしていたのだが、荷物もあるので困った。取り敢えずチェックアウト時間に外へ出て、商店街のアーケードで雨を避ける。昨日閉まっていたカフェがやっていたので、そこへ入る。何とこの店、和朝食、洋朝食各990円という本格的なメニューがありドキッとしたが、その横にモーニングセット510円があった。ほっとしてそれを頼んだが、それでも十分の量がやってきた。お店は広く、喫煙可でもその被害はなかった。

小雨の中を駅へ行き、高松行電車に乗る。途中国分寺のあった国分駅、そして鬼無(きなし)という駅名に驚く。ここも桃太郎関連だろうか。30分弱で高松に到着。駅の案内所で地図を貰い、バスに乗って今日の宿へ向かう。荷物を預けると雨が止んでいたので、すぐに行動を開始して、琴電瓦町駅まで歩く。琴電は先日金毘羅で始発駅を見て乗りたいと思っていたローカル線だ。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(9)高見島と丸亀城

高見島へ

観光案内所の女性が『茶粥は高見島』といったのが頭から離れず、とにかく高見島を目指すことになってしまった。案内によれば、高見島へ行くには、まずJRで2つ戻って多度津駅で下車。何とこの辺ではSuica使用可能。多度津駅前には少林寺拳法発祥の地の碑がある。駅でもらった地図を手掛かりに、古い町並みが保存されている地区を歩く。合田という一族が繫栄していたらしい。合田家の豪邸を見ても、多度津が江戸から明治にかけてかなり繫栄していたことは分かる。

駅から港までは徒歩15分。港で往復切符950円を買って乗り込む。小さなフェリーで乗客も数人だけ。老人に茶粥のことを聞きたかったが、このフェリーは他の島へも行くのでおいそれと話しかけられない。高見島に着いたが、飲み物を買うところもなく、自販機すらない。ひたすら歩くだけだ。

石垣の脇を登る。サンフランシスコへ移住した家があり、外からトマトが伝わったとある。実にいい感じの細い道が続き、鄙びた家々が連なり、そして青い海と空、石垣の集落。この世のものとも思えない風景、まるで寅さんの舞台だなと思っていると、やはり寅さんはここへ来ていた。『男はつらいよ 第46作 寅次郎の縁談』(マドンナ松坂慶子)にこの島は登場しているようだ。大聖寺という寺があり、その楼門は力士が柱を支えている。 

浦地区から浜地区へ移動してみた。島は大きくないので歩いて回る。途中お爺さんが家の前に座っていたので声を掛けると、まあ座って話そうと言ってくれた。茶粥については『茶粥なんて結婚してから食べたことない』とあっさり。更には『茶粥を食べなくなってから、島で胃が悪い人がいなくなったよ』という驚きの証言も飛び出す。基本的に番茶や麦茶を飲んで暮らしてきたという。茶粥は50年以上前に一般的には食べられなくなったと考えてよさそうだ。因みにこの島に食堂のようなものはなく、茶粥が食べられるのは島に一軒ある民宿だけらしい。

お爺さんの家の先にはお墓があった。これが珍しい両墓制(埋葬とお墓参り用に2つのお墓を設ける)。昔は土葬だったので、土葬の上に小さな小屋を作っていたが、昨今の台風で墓が流されてしまって荒れていた。先ほどのお爺さん曰く『今は島で死ぬ人はいない、皆町の病院だ』。

フェリーで島から戻り、駅まで走っていく。何とか電車に間に合い丸亀へ戻る。宿にチェックインして、疲れたので部屋で相撲を見て過ごす。6時に夕飯を食べに外へ出た。宿の近くでうどん屋を探したが、実はさぬきうどんも朝から昼に食べるもの。夜やっているのは居酒屋でその一軒でざるうどんと骨付鶏を食す。骨付鶏はうまみが出ていてよいが、ニンニクが非常に多く使われている。居酒屋なので、隣のおばさんが酒飲みながらタバコをふかすので、すぐに退散。

7月13日(水)丸亀城

今日も朝から暑い。朝ご飯を探そうかと思ったら、お城が目に入ってしまい、暑くないうちにと、登り始めたが坂が厳しい。それでも丸亀城天守閣まで登ると、とても涼しい風が吹き抜けてホッとする。これは入場料を払う価値がある。ただ階段はかなり急激で、木造なのでちょっと怖い。景色は間違いなく抜群。搦め手からするすると降りる。城の石垣は大規模工事だった。横の歴史資料館に入り、丸亀藩のお勉強。生駒、山崎、松平と続く藩主についての展示があった。

昨日歩いた商店街に、良さそうなカフェを見つけていたので、朝ご飯を食べようと向かったところ、まさかのお休み。何だかすごく焦って急遽他の店に走っていく。ちょうど居心地の良さそうなカフェが見付かり、一安心。ホットサンドセットとアイスティーは悪くなかったが、600円という表示が税抜き表示で660円取られたのは、ちょっと残念。更にタバコを吸う常連客がいて、またもやすぐに退散。

今日は仁尾へ行ってみる。昔栄えた港街だというが、今や鉄道も通っていない。詫間駅まで4駅。ここの駅でもなぜかSuicaが使える(詫間と観音寺のみ)。駅に着くと馬渕英里何と要潤が三豊市のCMに出ている。二人ともここの出身だという。

駅の横にある詫間駅観光案内所に入ると若い女性がとても親切に色々と教えてくれた。40分バスを待つ間、その辺をふらふら歩く。ここにも桃太郎伝説があるらしい。この辺りもコミュニティーバスが何路線か動いているが運賃100円は安い。30分ぐらい乗って行くと、一山超えて仁尾に入っていく。そして古い町並みが見えてくる。取り敢えず仁尾文化会館で降りてみる。