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雲南茶葉古道をかじる茶旅2025(4)麗江 ナシ族の馬幇

やはりお茶屋が多いから、何となく気持ちが良いのだろうが、ただそこで売られている茶は観光客向けで、非常に廉価。プーアル茶餅、1枚10元など、一体どこから持って来たのか、といった茶が多いので中に入る気にはなれない。ただ店の説明などがあれば写真に撮っておく。きっと何かの役に立つ。

木府付近は観光客が集中していた。60₋70歳はチケット半額、20元で入る。中はかなり豪華な建物が3つぐらい並んでおり、とても普通の家ではない。何だか寺院に入ったような感覚だったが、庭園などもあり、もし観光客が押し寄せていなければゆったりは出来る。ただ私は木氏の歴史を知りたくて来たのだが、ついにその詳細は説明に出会うことが無かった。人が多過ぎて通り過ぎてしまったのだろうか。

木府を出ると来た方と反対側に歩く。観光客向け土産物屋が実に多く、今日は観光客もいるので非常に活気がある。地図アプリを使ってもなかなか行きたい方向に行けないほど、迷路のようになっていて面白い。ただ観光地化されているとはいえ、民族衣装を借りて写真を撮る人があまりにも多いのは、ちょっと、という感じだ。思い出してみれば昔から中国人は写真好きだったが。

宿のところまで帰ってくると、ちょうど古びた木造の建物のところに「馬幇博物館」の文字が見えた。ただ戸は閉まっており入れない。正面に回ってみるとそこは茶馬広場。そこに同心阜という茶荘があった。馬幇の像が建ち、説明板もある。中に入って博物館を見学したいというと、2階に案内され、展示を見ることが出来た。そこには馬幇が使用していた馬具や服などがあり、また運んだ茶葉や製法などについても説明があった。だが個人博物館のため写真撮影は不可だった。

店に戻り、老板娘に話を聞く。彼女はナシ族でご主人が最後の馬幇と言われている人物だという。ナシ族以外に漢族も回族も馬幇はいたらしい。彼らのルートはラサに行って終わりではなく、インドやネパールまで運ぶこともあったというが、それに関する資料はないともいう。馬幇は1980年代に公路が開通するまで存在していたらしい。この家では明代後期から17代続いたとある。本来は販売しないという、ご主人のことが書かれた本も譲ってもらい、今後勉強することにした。

そういえばさっき道を歩いている時も、茶商の称号を見かけたような気がする。仁和昌という商号で、今はその屋敷跡で茶や土産物などを売っている。大理から繋がれた茶馬の道は、ここでナシ族などに引き継がれ、チベットを目指したということだろうが、既に50年前には途絶えており、昨今の観光ブームで一部が形を変えて復活しているのかもしれない。

宿に帰って休息したが、やはり標高2400mの高地に体がすぐには順応せず、疲れが出た。部屋まで行くのに階段で2階に上がると息が切れる。頭が痛いとか、吐き気がある、などの症状はないのだが、食欲はほぼない。昼の回族料理の油がいけなかったのだろうか。取り敢えずシャワーだけ浴びて寝ようとしたが、横になるとちょっと息苦しく、なかなか寝付けない。

10月5日(日)麗江で

よく眠れない中、明るくなるまでベッドに居た。特に症状は出ていないので、取り敢えず宿の朝ごはんに行く。麺は自分で調味料を使って味付けするのが面倒だ。なぜかチキンカツのようなものがあり、食べてみると旨い。だが、食後出掛けてみると、やはりちょっと腹の調子が悪い。

雲南茶葉古道をかじる茶旅2025(3)麗江の茶馬ホテル

普通の駅は15分前にホームに降りるが、ここは25分前、しかも始発だからゆるゆる乗り込む。当然満席かと思っていたが、所々空いている。ただ私の席は窓側で、横の2人の女性はほぼ動かず、何と4時間そこに閉じ込められて窓の外を見て過ごす。列車は120₋150㎞の速度で淡々と走っており、時折古い家などが見える程度で、どこを見ても飽きてきた。停まる駅は何と2つしかない。目をつぶっているしか仕方ない。

ちょうど2時間ぐらいで大理の近くに来る(10年前は高速鉄道が無く、確か7時間ぐらいかかっていた)と、突然湖と高い山という風景が登場し、車内が急に沸き、皆が一斉にスマホを構え始める。大理付近で結局30分ほど停まっていたようだったが、その後はスムーズ。車内では売り子さんが見事な話術で特産品の販売を始め、何だか観光の雰囲気が出てきた。それが終了すると約4時間かかって、麗江に着いた。

気温は昆明より少し低いが、非常に気持ちが良いのは空気がきれいだからだろうか。ホームに吹く風が特によい。出口を出て車を呼ぶとどこでも同じように指定場所に誘導されるが、そこは駐車場になっており、予約した車を自分で探すことになるが見付からない。入口に立っている人が声を掛けてきて、自分の運転手だと分かる。

駅から古城までは30分以上かかった。途中渋滞もある。さすがに連休だからか。ようやく着いたと思ったら、運転手が「この中には車は入れないから、歩いていけ」と降ろされてしまう。しかも指さした方は駐車場で結局抜けられず、騙された思いで、トボトボと石畳の道を行く。スーツケースを引っ張るのは大変でかなり疲れる。標高も2400mに上がっているので息が切れる。

宿泊ホテルは広場の前で、馬幇の像などが置かれており、茶馬広場という名前だった。そして何とこのホテル自体が、その昔の土司(地元の管理者)、木氏の王府驛駅旧趾(茶葉の集散地)だった場所だと書かれており、何だか周囲が茶に囲まれており、気持ちが茶馬古道に寄っていく。

宿の敷地はかなり広く、茶葉の集積地としての規模が窺われる。四合院の庭が3つもある。部屋もかなり広くて快適だ。部屋に冷蔵庫が無いのは、必要性がそこまでないということだろう。エアコンもないようだが、寒くなればセントラルコントロールとなるのだろうか。まあ何だか期待が持てる。

時間は午後2時。腹が減ったのだが、何を食べるべきか。さっき車の窓から見えた清真の文字が気になってしまい、歩いて探しに行く。そこは車通りの端っこにあった。25年続く回族食堂と書かれている。メニューで気になったのが、牛干巴(雲南回族の伝統料理)。頼んでみるとこれは干し牛肉を作って再度揚げたもの。塩気と油が意外と強く、サクサク食べられるという感じではなかったが、別の部位の牛肉は美味しく、ご飯と一緒にかなり食べた。また無料で出てきたお茶(たぶん緑茶)がかなり美味しくて、これを飲むと干牛肉も入っていく感じがあった。

店は家族経営で、1998年に開いたという。麗江に回族は多いか聞くと「回族は大理だ」と言い、彼らも元は大理にいたようだ。ここには馬幇がいたのだから、その中継地として当然回族もいただろうとは思うが、その関係はこれから明らかになるだろうか。

この古城の中で最も有名なのは土司であった木氏の邸宅、木府。そこへ向かうと急に雨が降り始め、ドリンクだけ買って宿へ引き上げた。だが雨はすぐに止み、すぐにもう一度木府に向かった。古城内は道が曲がっていたりして、しかも石の道で歩きにくく、なかなか目的地に着かない。だが、その光景は観光化されていると言ってしまえばそれまでだが、それなりのいい雰囲気を持っており、思わず写真に収める。

雲南茶葉古道をかじる茶旅2025(2)昆明でロシア人と出会う

昆明駅はすぐそこなのだが、10年前とはかなり違っており、見違えてしまった。あの頃改築工事が行われていたような気もする。ここで車を呼び、出掛ける。ところが数分で来るはずの車が一向に来ない。駅周辺は旧市街で道が狭く、大混雑のようだ。何とか車に乗り込むと、今度は一気に外環道路を走り出す。

約40分かけて知り合いのHさんが最近留学を始めた大学までやって来た。中国の大学は敷地が広く、門がいくつもあるので、なかなか迷う。何とか留学10日目のHさんと合流して、その住まいの方へ向かったが、くねくね曲がった上り坂の周囲には80年代に建てられたであろう教員宿舎がそのままずらりと並んでいて、何となく懐かしい風景だ。そのかなり奥まった場所に外国人居住区があり、授業もそこで受けるらしい。

Hさんの部屋を見せてもらうと、天井が高く、部屋はかなり広い。これなら私もここに留学したぐらいだ。80年代の上海の留学生宿舎は狭かった。もう一つの建物に入り、Hさんが知り合ったばかりだというロシア人のところへ行ってみた。驚いたことに彼は英語も中国語も普通に話せた。

ロディアはモスクワ郊外の出身だといい、5年前に中国に留学に来た。南京で中国語を学び、その後彼の関心事である茶を学ぶため杭州の大学4年で学部を卒業した。その卒業論文は「万里茶道」だというので驚いていると、関連資料がどんどん出てきた。私も10年前に万里茶路の旅に出ており、かなり色々と調べたので話が合う。留学早々のHさんは中国語の会話もそうだが、内容が耳に入って来なかっただろう。特に彼が言う「現在万里茶道に関する論文などは中国人によって書かれており、ロシア側の情報がほぼない。またロシア人研究者が書いた論文はロシア語から翻訳されることはほぼない」は極めて重要であり、彼のような人材が非常に貴重であることが分かる。

彼はこれまでにため込んだ貴重なお茶も沢山持っていて、色々と飲ませてくれた。茶器にもこだわりがあり、壊れた物は金継ぎしているようだった。ロシアの茶関係者が来る時は、通訳兼ガイドもしているという。最近は武夷山や漢口へ行き、調査も欠かさない。こういう大学院生が日本にもいるのだろうか。

あっと言う間に3時間が過ぎてしまい、あたりが暗くなる。彼の部屋を辞して、近所で晩御飯を探す。農家菜の店を検索で見つけて行ってみたが、途中に似たような店があったのでそこに入った。豚肉スープは意外と旨く、野菜もたっぷりでよかった。Hさんはここで一年頑張るというのだが、色々と大変なことだろう。ただきっとそれ以上の収穫を得ると思いたい。車を呼んで40分ほどかけて暗い夜道を宿へ戻った。かなり疲れていた筈だが、なかなか寝付けなかったのは、やはり標高1900mのせいだろうか。

10月4日(土)麗江へ

眠りが浅い中、朝は早めに起きて宿の朝飯を食べた。まあ仕方ないのだが、食べたいものは殆どなく、かなり軽めの食事となる。実は昆明駅は宿の窓からほぼ見えているのだが、百度地図などで見ると歩いて10分などと書かれていて、ちょっと不安になり、早めに出ていく。

駅前の広場はキレイになり、駅舎も勿論きれいだ。チェックも簡単ですぐに中へ入る。エキナカの店の一つはあの2015年末に寒さを凌ぐために入ったところだと気づいて、ちょっと感動する。確かあの頃、この駅で事件があり、ピリピリしていたことも思い出す。国慶節休みの混雑はほぼ感じられず、季節の良い週末という感じだ。

雲南茶葉古道をかじる茶旅2025(1)国慶節に8年ぶりの昆明へ

《雲南茶葉古道をかじる茶旅2025》  2025年10月3₋12日

チェンマイで北タイの茶歴史を学んで3年になる。いよいよ雲南へも足を踏み入れるべきだろう。昨年末よりノービザになり、時期は整っている。今回は国慶節の連休に行くという暴挙に出たが、果たして結果はどうだろう。

10月3日(金)昆明でロシア人に会う

いつものように車を呼んで僅か20分でチェンマイ空港に着いた。既にWebチェックインも済んでいるので問題ないと思っていたら、何とスマホのチケットは使えないらしく、預け荷物もないのに、長い列の一番後ろに並ばされた。カウンターで聞くと、元々Webチェックインで送られてくるチケットはここでは使えないという。なーんなんだ。

それでも20分ほどでチケットを得て、イミグレを簡単にすり抜ける。チェンマイ空港は本当に良い。でも中国は国慶節だというのに、その割には観光でチェンマイに来る人は多くない。昆明行のフライトも、連休半ばということもあってか、若干空席が見られたのは、中国経済が余程悪いという証明だろうか。

フライトは僅か1時間半、それでも中国東方航空はレガシーキャリアであり、以前は必ず食事が出たと思うのだが、今回は何とドリンク一杯だけだった。そういえばネットで席を予約した際、非常に紛らわしい表示に騙されて、わざわざ3席の真ん中が予約されていたのには、自分で驚く。因みに急に気分が悪くなった乗客が出て、初めて「お医者さんはいませんか」とCAが声を掛ける場面にも遭遇した。幸い軽症だったようで、飛行機はそのまま昆明に着いた。出発も定刻10分まで、到着は20分前だった。

イミグレへ行くと、外国人と書かれたブースに係官はいなかった。勿論誰も並んでいない。全てのパスポート、と書かれたブースでようやく係官を見付けてパスポートを出すと、暇なのか中国語で色々と聞いてくる。そして入国スタンプを押したのに、パスポートを別の係官に渡してしまう。えー、と思っていると、その後ろの係官は「あなた、記者じゃないでしょ?」と聞いてきただけですぐに解放された。

昆明に来るのは調べてみると8年ぶりだった。今は地下鉄もあるようだが、昆明駅へ行くルートを案内所で確認すると、やはりバスだった。10年前に来た時は夜中に空港に着き、極寒の中をこのバスで駅へ向かったのを懐かしく思い出す。切符はどこで買うのかウロウロすると、係員が寄ってきて、機械を出してくる。こちらも支付宝を差し出すと25元取られ、チケットの紙が出てくる。

バスはすぐに満席になる。運転手をはじめ、喫煙者は恨めしそうに車内に入る。バスが動くとなんと車掌の女性、いやガイドさんが、雲南の紹介を始め、観光案内、物産紹介などをテキパキと行う。バスは2か所だけ止まり、3つ目で駅付近に終着した。40分ほどかかったろうか。

予約した宿へ行く途中、どうしても腹が減ってしまい、米線を食べる。路上にテーブルが出ており、皆そこで食べるのだが、気温20度で優しい風が吹き、あの暑かった東京、時々雨模様以外は30度のチェンマイと比べて格段に気持ちが良い。更には米線が何とも旨く、しかも僅か8元で幸せになれる。

予約した宿もそれなりにきれいで良い。ただ笑ってしまったのが、トイレで流すためのボタン(レバー)がどうしても見つからずに困る。実は半日探してようやく見つけたのは便器の下の方にちょっとだけ突き出たポッチ(センサー)だったのだが、今まで見たことが無い場所にあるので、困った人は多いのではないだろうか。なぜそこにあるのか、誰か教えて欲しかった。足を近づければ水は流れる。

広東客家茶旅2025(10)中環と深水埗

そういえば、長洲島にはもう一つ行き先がある。それは大判焼きと手巻き寿司のお店だ。ここのYさん夫妻には昔お世話になったが、ご主人は昨年亡くなったと聞かされたのでご挨拶に行こうと思ったが、ちょうど店舗が移転していて、開いていなかった。港沿いのいい場所に移っているので、ご商売はい上手くいっているのだろう。そんなことを考えながら、またフェリーに乗り、セントラルへ戻った。

埠頭からどうやって帰るのか。目の前にバス停があったので、そこに立っているとバスが来たので乗ってみた。このバスは湾仔へ行くのは間違いなかったが、何と埠頭横のバスターミナルで10分以上休憩すると運転手が言ったので、バスを降りて歩いてMTR駅を目指した。ビル内は涼しくて快適。この屋内外の激しい温度差が香港なのだ。金鐘駅から歩いて宿に帰る。

あまりに疲れたので、部屋で休息する。夕方6時に宿を出たところ、ちょうど目の前にバスが来たので乗り込む。今晩は中環と上環の間で食事をする予定だが、バスだとちょうどよい所に停まる。歩いていると懐かしい本屋や茶荘などに出会う。そして懐かしいレストランも目に入る。まあ10年も住んでいたのだから懐かしい場所はそれなりにある。

ご飯はOさんと食べた。昨年約束していたのだが、台風に直撃され、シグナル8発令で延期になっていた。今回は老舗レストランだったが、お客はほぼ中国人だった。ローストダックやポークなどが美味しい。でも皿が大きく、いくつも頼むことは出来なかったのは残念。広東料理といっても量が多い店もあるんだ。

帰りはトラムに乗ってみた。何となくいつも乗りたい乗り物だ。最近は半島側に泊まることも多く、なかなか乗る機会がなかったが、目の前を走って来ては乗らざるを得ない。観光客の中には日本人もいて日本語が聞こえてきたのは良い。今年は香港映画が当たって、久しぶりの香港ブームが来ているらしい。夜のトラムはやはりシックだ。

7月15日(火)香港から台北へ

ついに長旅最終日。今朝は暑いので会展駅まで歩いてMTRに乗り、金鐘で乗り換えて、深水埗の鴨寮街まで行く。中国シムなどの購入が目的だったが、時間が早過ぎて店はどこも閉まっていた。仕方ないと朝ご飯を探すと一軒店が開き、無事にシムを購入した。そして近くの茶餐庁に入り、茄濃湯とトースト、たまご、そしてミルクティーを頼む。何となく完璧な香港式朝食。特にふにゃふにゃのマカロニがたくさん入った茄濃湯は美味い。

急いで宿まで帰り、チェックアウトして湾仔の三六九飯店へ急ぐ。香港最後の食事は旧知のFさんと。Fさんは香港駐在3回目らしく、わざわざこの店を予約してくれた。実は先日の夜、この店がまだあることを確認したが、満席で、かつ一人では入り難いなと思っていたところで、まさに渡りに船のお誘いだった。

11時半に落ち合うとお客はまばらだったが、12時にはほぼ満席の大盛況。老舗上海料理屋ではあるが、好物の揚げたイカ、葱油麺、そして雪菜スープなど色々な料理が並んでいた。Fさんと昔話をしていると、忘れていた思い出がどんどん蘇ってきて面白い。偶にこういう会話があると、少し脳が活性化するようで楽しい。

宿で荷物を取り出してMTRで中環駅へ行き、そこから荷物を引いて香港駅へ移動し、エアポートエクスプレスで空港へ向かった。いつもならバスで行くのだが、バスを待つ間も汗まみれになるだろうと思い、今回は奮発した。預け荷物が無いとチェックインカウンターへ行く必要もなく、出境も簡単なので時間を持て余す。行きの台風騒ぎとは違い、帰りは全てが順調で台北まで帰り着く。機内食はちょっと不思議な鶏肉飯だった。

広東客家茶旅2025(9)上環から長洲島へ

コンベンションセンター駅(会展駅)は本当にあった。そこから地上に上がり、センターの脇を通ると宿に到達した。香港は常に進化している。この宿は初めて来たが、狭いものの意外ときれい。ハーバーも少し見えて快適。以前は料金もかなり高かったろうが、今はそれほどでもない。ちょうどテレビで女子サッカーが始まったのでそれを見ていたら暗くなってしまった。

夜9時頃宿を出て夕飯を探す。湾仔でご飯を食べるなんて何十年ぶりだろうか。25年前、1か月ほど付近のホテルに滞在したことを思い出す。何となく昔からあるレストランも目に入る。夜9時でも結構賑わっているのは中国人観光客のお陰。今では普通話も普通に聞こえてくる。

一軒のレストランへ入ったが、広東語ではなく普通話で話している。これが香港の変化だろうか。ガチョウが有名の店だったが既に売り切れ。鶏と豚肉ご飯を頼み、凍檸茶で流し込むのは何とも良い。食べ物だけは昔の香港を想い出させてくれる。MTR湾仔駅付近は賑やかだが、宿のあたりは非常に静か。

7月14日(月)久々の長洲島

翌朝は目覚めて窓の外を見ると、もやったハーバーがある。これも香港らしい風景だ。外へ出てMTR湾仔ではなく、金鐘駅まで歩く。こちらも10分ちょっとと便利だが、朝からかなり暑い。明都酒楼という看板が見える。ここはワゴンで点心を出す店だったが、もうすぐ閉店と聞いている。上環まで乗っていき、懐かしい街を歩く。お茶屋はまだ開いていない時間だ。ちょっと朝ご飯でもと思ったが、昔よく行ったお粥屋は観光客に占拠され、おまけに暑くて食べる気にもならない。

少し上って懐かしのキャットストリートを歩く。骨董街で、25年ほど前通った界隈だ。老舗の茶餐庁があったので、何十年ぶりかで入ってみた。少しきれいにはなっているが、雰囲気はあまり変わらない。そして後継ぎと思われる男性が丁寧に英語で接客してくれたのは嬉しい。思わずキチンチョップまで注文して豪勢な朝食となる。代金はオクトパスで払える。こういう店は残って欲しいな。

そこからセントラルの埠頭へ。歩くとかなり距離があったが、懐かしい風景が広がり、どんどん進む。そして懐かしい長洲島行きフェリーに乗る。10年以上前、ラマ島、ランタオ島(ディスカバリーベイ)にも住み、この埠頭をいつも使っていた。長洲島は8年ぶりだろうか。

30分で島に着く。埠頭を出るまでは、目的地の方向に自信が無かったが、出たらすぐに分かった。やはり2週間でもここに住んでいたのは大きい。だが最後の位置は不確かだった。それでも何とか福華茶荘に辿り着く。ここは13年前、「長洲島でプーアル茶を作っていたお爺さんを探せ」という無茶ぶりにめげず、辿り着いた場所だった。

中に入ると女性が私の顔を見て「おー」と言って寄って来た。8年ぶりでも一目で思い出してくれたのは、本当に嬉しい。ご主人も含めて再会を喜んだ。店は元々ベビー服屋の中でお茶を売っている感じだったが、今回行ってみるとベビー服は無くなり、完全な茶荘になっていた。そして盧鑄勛氏の生前の写真が飾られていた。

盧鑄勛氏は戦後ここでプーアル熟茶を作り始め、その後アジア各地でも作った伝説の人物。私は3-4回会っているが、残念ながら5年前に亡くなった。一度お悔やみに来たかったのだが、コロナもあって今日になってしまった。お墓参りにも是非行きたかったが、お墓は山の上にあるとのこと、この暑いのにとても連れてはいけない、と言われ、後日涼しくなってから行くことになった。ちょっとお茶を買って失礼した。

帰る前にどうしても食べたい物があった。この暑いのに「粥」。港近くの食堂は屋根はあるが屋外で、扇風機は回っているが、暑さをしのぐには少し足りない。食べている人も僅かで、しかも多くが焼きそば。そんな中でもお粥を食べる。汗が噴き出しても、やっぱり旨い。凍檸茶をすすりながら、何とか完食する。達成感があるが、すぐにスーパーに潜り込んで涼を取る。

広東客家茶旅2025(8)魚生から茶葉世界、そしてKCRで湾仔へ

車に1時間乗り、河源市内に戻る。今朝チェックアウトした宿にまたチェックインする。全く同じ部屋にまた入る。安定感が良い。夜は陳さんが魚生を食べに連れて行ってくれた。潮汕地区では生の魚を食べると知っていたが、まさか客家地区でも食べるとは驚きだった。勿論あちらは海の魚、こちらは川魚の違いはある。

店はかなり繁盛しており、地元民が普通に刺身を食べている様子が分かる。我々のテーブルにもすごい量の魚(一匹分)が乗せられる。魚は非常にしまっている。そこに生姜やピーナッツ、ゴマなどをかけ、最後に茶油を垂らして食べると旨い。勿論醤油とわさびで食べても良いというので、驚くほどの量を食べてしまった。これは良い経験だった。

7月13日(日)深圳経由香港へ

河源最後の朝。宿でご飯を食べてから散歩に出た。ここに来てからずっと陳さんにお世話になっており、最後は一人で歩きたかった。街中なので大きな公園を目指した。朝は幾分爽やかだった。公園はかなり広く、朝からマイクで歌っている人々がいた。多くの塑像が置かれているのが目を惹く。

宿に帰る前にコンビニに寄った。何気なく店に入り、ポカリを持ってレジへ行ったが、誰もいなかった。レジ台には自動レジが置かれていたので、何とか微信で決済した。さあ、宿へ帰ろうとドアを押したが開かない。何度やってもダメ。狭い店中を探したが店員はどこにもいない。どうすればよいか分からず焦ったが、自動レジに呼び出し機能があり、ちゃんと人が話し始めた。何と店を出るには微信でQRコードをスキャンする必要があったのだ。まさかこんな仕掛けとは思わず、本当に焦ってしまった。無人店舗、店のドアに注意書き位貼って欲しい。

宿を出て車を呼び、駅へ行く。もう慣れたもので何の心配もなく高鉄に乗れる。深圳北駅まで約1時間。行きは直通だったが、帰りは羅湖に寄るため、ここで下車する。深圳の地下鉄網は発展し過ぎて、どれに乗るか迷う。何とか乗り換えて羅湖まで30分ほどかかる。腹は減っていないので、そのまま茶葉世界に入っていく。

鳳凰単叢の李さんとの約束時間には少し早かった。ちょっとフラフラしていたら、何と旧知の春桃と出会った。台湾茶の店はもう息子夫婦に譲ったと聞いていたが、この日は店に彼女しかなかったので、昔話をした。ところが私が梅州、河源で客家茶の歴史を見てきたというと彼女は「私の祖籍は河源。私の一族はそこから江西に移動した客家」というではないか。知り合ってから25年も経っているのに、実は何も知らなかった。次回チャンスがあれば、彼女の故郷へ行ってみたい。

李さんの店へ行き、鳳凰単叢を購入する。3月に一度来て持って帰った宋種という単叢がとても評判がよく、また買いに来たわけだ。ちょうど常連客がやってきて、お茶を飲みながら一緒に話をした。お茶だけでなく、日本への興味も相当あるようで、話があちこちに飛んでいく。その合間を縫って何とかお茶を購入したのだが、その支払いに支付宝を使ったところ、香港に渡ってから、支払いが出来ていないと連絡があり焦る。それでも何とか支払いが出来て信用を保てた。これも微信のお陰だった。

日曜日の夕方、羅湖には香港へ帰る人々が多くいた。それでも以前に比べれば入出境はそれほど混んではいなかった。それでも香港側の羅湖駅には乗車を待つ人が大勢いたので、今回は奮発して頭等車に乗り込み、何とか席を確保した。次の上水駅では頭等も立っている人がかなり出た。やはり週末は混んでいる。

慣れ親しんでいるKCR(現在はMTR)だが、今日の宿がある湾仔へ行くにはどこで乗り換えるのか思い出せず、GoogleMapに頼る。すると思いもかけないルートが出てきた。何とこのまま乗っていれば湾仔に着き、予約した宿まで駅から歩いて数分だというのだ。調べてみると湾仔のコンベンションセンターに駅が出来ていて、羅湖からホンハム、そしてハーバーを渡って湾仔、金鐘が終点となっていた。これには驚くしかない。

広東客家茶旅2025(7)龍川 桂林茶の産地へ

昨晩張会長が話してくれた茶亭。今も現存している場所に案内された。そこは田畑の続く道の先にあった。この道自体が歴史を感じさせる石を敷き詰めた道であり、その昔は旅人がここを通っていたという。そこにある茶亭とは、旅人が一服する場所であり、休息を取り、茶を振舞われた。往時は何百という茶亭があったらしいが、今は歴史遺跡としていくつかが残されていた。中は意外と広く、湯を沸かした場所もあった。夏休みで帰省していた若夫婦と子供たちが遊んでいたが、これは何とも絵になる風景だった。茶亭は日本の四国の茶堂(お接待の場)を思い起こさせる。またお接待といえば「奉茶」と繋がるだろうか。

佗城の街中はいい感じに古びていて、中国のどこの街にある老街とは異なり、昔のままであった。陳さんの知り合いの店を訪ねると、以前街のリーダーだったという男性が色々と話をしてくれた。この近くの桂林という村でかなり茶が作られているという。いつでもどこでも濃い緑茶は飲まれている。今回は地元新聞の記者が同行しており、かなり細かい話をヒアリングしていた。

その桂林村へ向かった。また小雨が降り出したが、何とか到着。そこには77歳の欧陽老師が待っていてくれ、まずはランチを食べる。田舎の食堂と侮るなかれ。トマトスープは濃厚な味わいがある。豆腐冬瓜豚肉鍋は極めて滋味深い。ここの地鶏も肉と骨がきっちり付いており、歯ごたえがすごい。飯を頼まず、おかずだけをひたすら食べ、大いに満足する。

そこから山道を狭い道を走り、義都鎮へ入った。本当に昔ながらののどかな村であり、斜面の所々に茶樹があった。欧陽老師が老茶樹を指さして、斜面をどんどん上っていく。雨がかなり強くなり嵐のようになる中、我々も続いて登ったが、途中からかなり危険な状態となる。それでも這って登り切り、何とか記念写真に納まる。喬木、樹齢200₋300年らしい。

そこから降りるのはもっと大変だったが、皆さんの助けを借りて、何とか降りきる。村人の家に入ると、何ともいい雰囲気の木のテーブルがあり、村人と共に濃いお茶をだらだらと飲む。全て手作りの家具。雨で涼しくなった室内には、なんとなく温もりがあった。標高はそれほど高くないが、冬は寒いだろうか。

更に近くの茶工場を見学する。新しい機器を入れ、規模を拡大して、桂林嶅顶峰茶を製造している。そして皺老板と欧陽老師に連れられて山道を車で登っていく。かなり高い山、標高1000mあたりに茶畑が広がっていた。ただ強烈な雨が降り出して、車から出ることも出来なくなる。これは台風の影響だろうか。

少し小雨になったところを見計らって、建物内に入る。ここは山の上の小さな茶工場。製茶はほぼ全て手作業で行われるという。聞いてみると、ここのお茶も昔から釜炒りであり、晒青緑茶はない。茶畑を見て売ると老板が茶樹の下の土を掘り起こし、「茶樹に適した土。福建の岩茶のような場所」との説明がある。更には霧がすごく、雲霧茶とも呼ばれている。確かにこの風景は素晴らしいが、この急斜面の茶摘みは相当大変だろう。

雨が止み、下山する。山の上はかなり涼しかったが、いや寒かったが、村は暖かかった。帰り際に欧陽老師の家に寄り、その茶工場を見学する。こじんまりした手作り感が素晴らしい。77歳になっても様々なお茶を学び、作り、それを伝えている様子に感動する。村から出る所に、急須のモニュメントがあり、桂林茶を売り出そうとする行政の様子も見て取れた。

広東客家茶旅2025(6)河源で客家茶の歴史を聞く

約1時間で河源東駅に着く。途中にあった龍川西駅がちょっと気になる。駅には陳さんが迎えに来てくれた。陳さんは広州茶市場で出会った李さんからの紹介だった。河源市茶葉協会の秘書の女性が車を運転してくれた。何とも有難い。街に入るとそれなりに発展しているのだが、陳さんは「河源は発展が遅れ、生活はかなりスロー」という。そこが魅力なのでは、と感じる。

小雨が降っていることもあり、茶畑見学は明日となり、茶荘に入る。そこにいたのは茶の歴史についても詳しい邱さん。10年以上前に作られた釜炒り緑茶が振舞われ、「釜炒り緑茶は老茶になっても美味しく飲める」との説明を受ける。確かにこの緑茶、何となくミャンマーシャン州で昔飲んだ緑茶に似ているかもしれない。

更に客家擂茶について聞いてみると、「この地域には擂茶の習慣はないが、私の生まれ故郷にはある」といい、なんとその場で擂茶実演会が開かれてしまう。邱さんはじめ、陳さんなども実にうまく大きな擂こき棒を操るが、私は昔台湾の北埔で経験はあるものの、ほぼ腰砕けとなる。この様子を見ていると、確かに客家の一部に擂茶の習慣がある、と言われれば頷いてしまう。そして擂茶を飲んでみると、何とも美味しいのが印象的だ。

次に向かったのは百信という茶荘。ここは標高800mの山中で茶業と民宿を経営しており、茶畑もそこにあるという。ここもお茶は釜炒り緑茶が中心。煮出して飲む方法が一般的だったというのは先ほどの茶荘と同じ話だが、最近は椀で淹れる人が増えているという。椀で淹れた茶の方が滑らかな感じがする。本当は山の上の民宿を訪ねたかったが、今回その機会は得られなかった。

最後に茶葉協会会長張さんのところへ行く。彼は市議会の代表も務めているようで、会議が終わると戻ってきてくれ、河源茶の歴史について熱く語ってくれた。沢山の資料もくれた。梅州ではこのような専門的な人と逢わなかったので、これは大変有り難く、客家茶全体の歴史を理解する上で大いに役に立った。客家山歌や茶亭の話などは特に興味をそそられる。

更に張会長が晩御飯をご馳走してくれた。苦瓜、豆腐、河魚、春雨など、実に味付けの良い料理が並んで、美味しく頂く。これらの料理はかなりの日本人が好きだと思うが、日本には客家料理専門店を見かけないので、ここで思いっきり頂く。張さんは酒も飲まずにず、ひたすら私に茶歴史を語ってくれ、本当に有り難い。

宿は茶葉協会がアレンジしてくれた。洗濯機があったので洗濯を試みたが、乾燥機が小さくてなかなか乾かない。するとホテルスタッフが色々と気を使ってくれ、部屋で乾燥できるものまで持ってきてくれたのは有難かった。更にはドリンクを買おうとしたら、無料のドリンクを出してくれるなど、サービスは手厚い。やはり外国人が来ることなどほぼないからだろうか。

7月12日(土)龍川のお茶

翌朝も陳さんが迎えに来てくれ、車で1時間走り、龍川という街へ行った。客家はかなり以前に中原からやって来た、という説があるが、南部へ移動後、落ち着いたのが龍川だったという話しがあった。調べてみると紀元前秦国時代に南海郡が置かれ、後に南越国を建国する趙佗などが嶺南一帯を統括した。佗城鎮には今もその頃の城跡が残っている。

また街中には「越王井」という場所があった。趙佗に関する井戸が今も置かれており、水も出ている。ここはベトナムのキン族などの祖先と言われている百越の地。百越は非漢族系民族とも言われ、往時の南部には漢族は多くはなかった中、客家との関連をどのように考えるべきだろうか。

広東客家茶旅2025(5)梅州を離れる

そのまま車で帰路に就く。途中潭江鎮でランチを食べることにした。適当に見つけた食堂に入ると、何だかいい匂いがしてきた。まずは豚肉スープから始まる。スープが重要でしかも安いのは、ここも同じ。更に周囲の人も食べていたのは、何と水煮魚。四川料理の代表銘柄だが、この店の看板メニューだという。しかも食べてみるとかなり美味しい。やはり山間の街なので、川魚を使った料理として取り入れられたのだろうか。老板娘が先ほど行った村の茶を飲ませてくれた。

帰りは雨も止んで快適だったが、この雨をもたらしたのが台風だと聞き、ちょっと驚く。こんなところに台風が来るのだろうか。しかも調べてみると、私が台北を出る時に出会った台風が、何とその先でV字に進路を変更して、劇的に梅州方面へ入ってきたというのだから、これはもう因果応報だろうか。お陰で涼しかったとも言えるが、ダムの貯水量はかなり増していた。

梅県まで辿り着くと雨も上がっていたので、客家祖祠に行ってみる。そこは意外と大きな敷地があり、客家百姓と書かれたボードには漢族の主要な姓が網羅されている。客家とは何か、さっき畲族村で持った疑念が、違う形で膨らんでいくのを感じる。何となく分かるのは、「よく分からないのは、民族間の融合がかなり進んだ結果」ではないか、ということだろうか。

夜は梅県中心部、繁華街へ行ってみた。車を降りるといきなり「犬肉」の表示があり、ちょっと驚く。客家は犬肉を食べるが畲族は伝統的に犬を食べない(言い伝えでは犬が祖先)ので、この辺りから違いが見出せるのかもしれないが、既に同化して久しい場合はどうだろうか。

繁華街は、今や中国のどこにもあるような、少し古い町並みを利用して飲食店や土産物屋が並んだ老街だったが、雨のせいか、観光客は非常に少なく、閉まっている店もあり、なかなか食事にありつけない。結局一周回って、また手作り麺とスープに落ち着く。しかしこれが美味いので満足して帰る。

7月11日(金)河源で客家擂茶

梅州最終日の朝、トミー家の近所で朝食を取る。折角なので麺以外で探すと、やはり腸粉が目に入る。これは潮州式腸粉だろう。ついでにワンタンスープも頼む。これはかなりボリュームがあって旨い。店内を見ると午前9時頃でもほぼ満席の盛況。人気店だと分かるが、ここの人たちは朝ご飯に時間をかけている。

そのまま郊外のお寺へ行ってみる。ここは一昨日行った雁南飛の近い所で、同じ道を走っている。約30分で到着、運転手は待っていてくれるというので帰る心配はなくなった。小雨が降る中、傘をさして霊光寺を目指す。周囲を山に囲まれているが、その斜面に茶畑が見える。ただ茶畑まではかなり距離があり、しかも急斜面のため、下から見上げるだけにした。ここも一種の観光茶園になっている。

寺に入ると、かなり新しい雰囲気がした。1980年代、恐らくは文革の被害に遭った寺を再建するために寄付したのは、海外に移住した人々だった。壁に描かれたプレートでそのことが分かる。所謂探親が始まり、華人が故郷を訪れる機会が増え、貧しい故郷に金を置いていったのかもしれない。客家もかなりの人口が海外に出ている。

寺から市内に戻り、荷物を持って車に乗る。ついに梅州を離れることになった。3泊したが、予想以上の成果があった。しかしそれ以上に謎は深まったように思う。小雨の中、梅州西駅に辿り着く。「客都」という文字が見られ、ここはやはり客家の里だな、と思いながら、高鉄に乗り込む。さすがに乗客は多くはない。