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ある日の台北日記2025その3(3)苗栗 宝元紀を見学する

今日訪ねるのは世界の靴王と呼ばれた宝成の老板が最近作ったという施設。彼はビジネスで儲けた資金をかなりプーアル茶収集に充てたと言い、その一部が公開されているというので出掛けてみた訳だ。駐車場から入り口を入ると、そこは日本的な庭になっており、既に広大な敷地であることが分かる。案内の人に聞いてみたら、11haの敷地の内、現在使用されているのは2haだけだと言っていたが、それでも歩いて行くとのその広さが実感できる。そこには日本から庭師を招いて作った本格的な日本庭園があり、一部は台湾的な庭との融合も試みられていて素晴らしい。お茶を飲める空間もあり、遠くに高速道路が見えた。

建物に入ると、そこでお茶が供された。お茶を淹れてくれた女性はトミーやジャッキーを見てすぐに分かったようだ。やはり茶業界の有名人と一緒にいると対応が違う。ここにはお茶関連の本や可愛い文具なども売れられており、何だか誠品みたいな空間になっていた。日本語の本もあり、私が見知ったものも並んでいて驚いた。

お茶の展示はこちらのブランドのプーアル茶だけ(しかも2004年以降のもののみ)であり、沢山収蔵されたという古いプーアルは見られなかったが、現在別の建物を改修中で、将来はそこに展示されるのかもしれない。世界の喫茶文化を展示するコーナーもあり、ここが茶文化の発信基地を目指していることも分かる。

隣の建物に食堂があり、そこでランチを食べる。ハンバーガーとパスタがあり、パスタを選択する。ドリンクはサービスで提供された。茶葉アイスもあり、サンプルを食べさせてもらったが、なかなか美味しい。ここでオーナーの蔡さんを見かけた。既に80歳を超えているとのことだったが、お元気そうだ。実は私は30年前この靴王とビジネス上で少しだけ関係があり、蔡さんを見るのはそれ以来で、ちょっと感慨深い。

更に別の建物には喫茶コーナーがあり、実においしそうなケーキが並んでいた。何と日本人パティシエが企画に関わっているという。実はここは京都に支店があり、相当深く京文化を学んでおり、日本をかなり意識して取り入れている。次回は京都のお店にも行ってみよう。2階はセミナールームになっており、何でも出来そうだ。

4時間ほど滞在して、この地を離れた。トミーと別れてジャッキーの車で先日も行った頭份のバスターミナルまで送ってもらい、バスに乗って台北に帰った。一度部屋に戻り休息。夜は永和の韓国街へ行ってみる。中興街というのが名称だが、戦後韓国系の人々(山東から韓国経由も)が台湾に渡り、ここに住み着いたらしい。韓国系の店、服やコスメなどがいくつか見られたが、ミャンマー街ほどの賑わいはない。

ここにある山東水餃子の店でチャジャンミョンを食べてみることにした。ここのチャジャンミョンは韓国、中国とはちょっと違うとは思ったが、どう違うかは分からない。水餃子とチキンも食べてみたが、あまり海外感が無かった。帰りにミャンマー人のドリンクスタンドで飲み物を買い、外で風に吹かれながら飲んだ。何となくヤンゴンを思い出す。

ある日の台北日記2025その3(2)ラジオ収録

今日は20年に付き合いになる人とこの近くのお茶屋で密会した。質問内容はずばりプーアル茶の台湾への輸入についてだった。ある意味で答えは簡単だった。基本的に巷で言われている台湾茶商が雲南山中に分け入り、古い倉庫からプーアル茶を掘り出したが、その茶が非常に美味かった、といった類は根本的に美しい物語だという。

実際彼女は1980年頃には香港茶商のプーアル茶台湾代理店をやっていたが(このこと自体も密輸)、当時は台湾におけるプーアル茶市場などほぼなく、誰も見向きもしなかったのが真実らしい。プーアル茶が盛り上がったのは21世紀に入ってからであり、政府も2004年には輸入を解禁しているが、それまでは様々な方法で台湾に持ち込まれてはいたが、その量には限りがあったらしい。

また雲南の倉庫にずっと眠っていたプーアル茶があったとしても、それはいいお茶にはなり難い。湿気や高い気温などの条件のある香港のような場所できちんと管理するから熟成が進むのだとも言い、『港倉』(香港の倉庫)に置かれたプーアル茶が良い茶であると言われる由縁はここにあるらしい。

話しをしていた店は台東の紅烏龍茶などを扱っていたが、その茶を飲ませてもらうとなかなか美味しい。来年は久しぶりに台東方面を目指してみようかと思いながら、今日聞いた話を反芻していく。そして腹が減ったので、ついに近所の行きつけの店へ行き、思いっきり注文して満足するまで食べた。満腹は幸せ、だ。

7月2日(水)ラジオ収録

暑さがきつくなってきた。食欲は依然あるが、気分を変えたくて、昨年時々いった食堂へ行ってみる。だが10時からだと思っていた開店は何と11時。暑さの中、ちょっとガッカリしていたら店員さんが「何が食べたいの」と言って作ってくれた。こういうのが如何にも昔の台湾らしく、何とも有難い。折角なので食べたことが無い、ワンタン撈麺を頼んでみる。予想外に少しスープが入ってきたが、美味しく頂く。

今日はBさんがやっているラジオ番組への出演の日だった。過去2回ほど訪ねているラジオ局だが、今回は暑さもあったので、宿泊先から直行できるバスにしてみた。バス停に行くとすぐにそのバスが来たので、思ったより少し早くラジオ局付近に着いてしまった。手前には忠烈祠があったので、懐かしさからちょっと寄ってみる。台北駐在時には故宮博物院とセットで何度来たことだろうか。この暑い中でも衛兵はちゃんと立っていてエライ。

ラジオ局では昨年とほぼ同じように、リラックスしてお話ししてしまう。ちょっと緊張感が無さすぎでは、と思ってしまったが、さすがに慣れているBさんのリードは素晴らしく、すぐに時間は過ぎてしまった。果たしてどれだけ伝えるべきことが伝えられただろうか。かなり危うい内容だが、これも実力、仕方がない。どんな話をしても腹だけは減る。帰りに双醤麺を食べて腹を満たしたが、心は何となく満たない。

7月3日(木)苗栗の宝元紀

今朝は先日久しぶりに会ったジャッキーから誘われて苗栗へ行く。彼は家族が台北にいるので朝車で宿泊先に迎えに来てくれ、そのまま苗栗三義に向かった。朝は台北を出るあたりでさすがに多少の渋滞があったが、その先は車もスイスイと進み、約2時間で三義までやって来た。何と台中から茶旅の相棒トミーも合流した。

ある日の台北日記2025その3(1)6年ぶりに黄さんと会う

《ある日の台北日記2025その3》  2025年6月30日₋7月23日

6月30日(月)疲れをとるには

週末の台南旅は収穫が多かったが、その前週の山登りの疲れが抜けず、更に疲労感が増していた。そんな時は眠るのが一番だが、この暑さの中、年齢的には寝るのも大変だ。クーラーなど点けて寝ると風邪を引くし、点けないと暑さで起きてしまうという悪循環。こんな時は好きなものを食べるのも選択肢の一つだが、一番好きな牛肉湯肉絲麺を出す店は結局私が台北に来てから一度も開いておらず、食べることもままならない。ちょっとイライラする。

まあ仕方がないと言いながら、いつものクラブサンドを食べに行く。自分で言うのもなんだが、本当にこれが好きだな。店のおばさんも昔より丸くなり、何だか対応が柔軟になって来ていて、安定感がある。ドリンクを入れて70元は日本では考えられない値段だ。何とも有難く、拝みながら頂く。

ランチは気分を変えるために近所で見つけた炒飯専門店に炒飯を食べに行く。小さな店だが、午後1時過ぎに席があり、入って注文をした。ところがランチタイムで外帯の注文が殺到しており、テイクアウトに来る人でごった返していき、いつになっても私の炒飯はやって来ない。何と30分以上経ってようやく炒飯とお目見えしたが、既に食べる気を失くしており、味はよく分からない。因みにこの店は午前11時から午後2時までの3時間しか営業しないらしい。

午後もボーっと過ごす。なにもやる気になれないし、原稿などにも手が出ない。配信ドラマも途中で投げ出してしまうほど、集中力がない。今日は1年の半分が過ぎる日。季節の変わり目的な気分からか、どうにも落ち着かない。

7月1日(火)黄さんと湯さん

今日は6年ぶりに黄さんと会うことになった。黄さんは228事件で行方不明となった大茶商王添灯の孫にあたり、当時王添灯を書くに際して、王家の親族を何人も紹介頂くなど、大変手厚い支援をしてくれていた。お陰で王添灯関連の取材は台湾のみならず、大連や天津にまで広がったのは何とも懐かしい。

今年の3月初め、ふとNHKの番組を見ていたら、228事件関連で黄さんが登場したので驚いた。二二八記念館の改修や演劇活動など、かなり積極的に取り組んでいる様子が映し出されていた。随分ご無沙汰してしまったので、ご自宅付近のカフェで待ち合わせた。宿泊先からはバスで一本、距離的にもかなり近い。ところがそのカフェはやっておらず、戸惑っていると向こうから黄さんがひょっこり笑顔でやって来た。

別のカフェに落ち着く。この辺り昔は田畑で、その後開発業者がおしゃれな街づくりをしたということで、今でもカフェなどが多いエリアだという。インスタ映えを狙った写真を撮りに来ている若者などもいた。茶器やプレートで出てきたご飯も何となく映えを狙っている気がする。心地よいランチとなる。

黄さんから黄家と萬華の歴史の本を頂く。黄さんの実家は日本時代に台湾亀甲萬の総代理店をしていた家系で、そちらの関連資料などもあり、纏められたものだという。当然ながら日本と台湾の密接な関係は黄家にも表れている。戦後生まれの黄さんだが、幼い頃はお爺様が生きていて、日本式すき焼きなどを食べていたらしい。台湾食文化もこのような階級の人と一般人では全く違うのだろうか。

一度部屋に戻り、夕方今度は圓山へ行った。MRTを降りると懐かしい護国禅寺があった。ここは児玉源太郎時代に誘致された日本式寺院で、雰囲気もどう見ても日本そのものだった。そのまま保存されているのが素晴らしい。ただあまりに日差しが強く暑いので、ちょっと見学してすぐに退散する。

ある日の台北日記2025その2(7)玉井のマンゴー市場で

客家であることを証明する方法は色々あるのだろうが、その中に敷地に半月池がある、というのがあるらしい。これは他の客家地域でも聞いたことがあるが、この邸宅も一番前に半月池があったのは面白い。また集落内にある井戸も立派で、そこで洗濯などをするために井戸の周囲に洗い場が確保されているのはAさんの研究課題だ。

案内してくれた人の同級生のカフェへ行った。そこでマンゴーかき氷を食べた。何という美味しさだろうか。勿論マンゴーの新鮮さ、甘さはあるのだが、氷にはちみつなどがかかっていて、この味が何とも凄い。なぜ人々がここにマンゴーを食べに来るのか、その理由がよく分かる。私は35年前の台北在住時代にかき氷に中り、それがトラウマとなってこれまで一度も手を出したことはなかったが、今回大いに認識を改めた。

そういえば、木の幹になるブドウ、樹葡萄があり、それをとって食べたら、これまた美味しかった。埔里で見て以来だろうか。ずっとこの村に居たかったが、他のメンバーがマンゴー市場に到着したとの報を受け、退散することとなる。タクシーを呼ぼうとしたらカフェの奥さんが車で送ってくれ、来年も来てね、という。何ともほっこりした会話に癒される。

マンゴー市場の規模は想像以上だった。メンバーを探すのに手間取るほど。昨晩のメンバーに加え、更に数人が香港から来ており、ちょうどかき氷を食べようとしていた。私はもうお腹いっぱいで食べなかったが、こちらでも実に多くの人がマンゴーかき氷を食べている。何でそこまでマンゴーが好きなのか、と思っていたが、やはり美味しければ食べるだろう。

そこから農会ビルにある食堂でランチを食べようとしたが、ここもお客で大混雑。お目当てのマンゴーカレーは既に売り切れ(というか、米自体も売り切れていた)で、メンバーが買える物を確保してくれた唐揚げなどにありついた。そしてまた市場に戻り、値段交渉を繰り広げ、マンゴーを買っていく。マンゴーって、こんなにいろんな種類があり、味も違うことを初めて知る。香港組はマンゴー持ち込み自由だが、日本組は持ち込めないため、ここで食べるしかない。明暗くっきり。すごい熱気で最後まで粘って買っている人もいた。

かなり疲労したので帰ることにした。元々は歴史博物館へも寄りたかったが、今回その気力はなく、バスに揺られて眠った。同行者数人も同じバスに乗ったが、何とマンゴー箱買いして、そのままバスに乗り込み、周囲もちょっと驚いていた。うち二人はそのまま高雄空港へ行き、箱を持ったまま飛行機に乗るらしい。今回が8回目という人はもう慣れた感じで、何とも面白い。

1時間半で台南駅まで戻り、そのまま箱を持った二人と台鐵のホームへ行く。彼らは自強号で高雄へ、私は区間車で高鐵駅へ行く。ちょうど雨が降り出し、別れた。高鐵駅についてもまだ時間があったので、高鐵弁当を買ってみる。結構並んでおり、人気なんだな、と思う。120元は普通の台鐵弁当80元よりかなり高い。が、高鐵駅で売っている台鐵弁当はもっと高いことが分かり、安堵して?食べる。夕日を眺めながらうつらうつら台北へ戻る。

ある日の台北日記2025その2(6)台南の客家村へ

あっと言う間に2時間ほどが過ぎ、帰りはかなりのスピードで戻った。温老師に長栄大学駅まで送ってもらい、そこから台南駅を目指した。汗だくになりながら駅前の宿に入る。ここも以前泊ったような気がするが、週末ということでかなり高い料金になっていた。ただそれでも東南アジアからの観光客が沢山来ていた。

急いでいたのは午後6時から食事会があったからだ。何と明日玉井にマンゴーを食べに行く(買いに行く)ために、香港から日本人が沢山来るというのだ。しかも彼らはXなどで発信している人々で、私も時々参考にしている投稿をしているらしい。Aさんも行くというので、私も参加させてもらった。

台南の老舗レストランに9名が集まり、コース料理を堪能した。蟹の乗った米糕、砂鍋鴨、大きなプリンなど、最近食べたことがないほど豪華な食事だった。やはり大勢で食べるのは偶には良い。またメンバーが個性的で、香港・台湾・日本で活躍している若手(私から見ると)で頼もしい。

6月29日(日)玉井でマンゴー

泊っていた部屋は広いが何もない。朝は日が差し込み、早めに起き上がる。すると何故か腹が減り、外へ出た。サバヒー粥の話題が出ていたので、ちょっと探しに行ってみる。だが朝7時でも既に結構暑い。さすがに台湾南部だ。何とか見つけた店はかなり有名な店らしいが、早めだったのかお客はまばらだ。お粥が170元というのはちょっと高いが、デカいサバヒーがドーンと乗っており満足感はある。そして何より美味しい。青菜炒めも付けて、昨晩に続いて豪華な朝飯となる。

汗をかきながら部屋まで戻って、約束の時間に下に向かうと、何とフロントで昨晩の女子3人組と出会った。彼女らは別のところに泊まっていたが、今晩Kさんだけがここに泊まるため、荷物を預けに来たという。よく聞いてみると昨日のメンバーも多くがここに泊まっていた。台南の週末は宿難民続出だろうか。

宿のすぐ前から玉井行のバスが出ていた。玉井にマンゴーを食べに行く人は週末だから多いかと思い、一生懸命バスに乗り込んで席を確保したが、乗客は途中で降りていく人が多かった。やはり基本は車だろう。途中のターミナルで何故かバスは20分も停まり、それでも1時間半ほどで玉井までやって来た。本来はここでマンゴー市場へ行くのだが、我々4人はAさんを先頭に更に奥地に向かうタクシーを探した。

田舎のタクシーはコンビニで呼ぶと初めて知ったが、結局捕まえられず、外を見るとちゃんとタクシーがいた。料金は交渉だったが、近いのですぐに纏まり、乗り込む。我々の行き先は客家村だったので、運転手は「そんなところ、何もないよ。他に観光地はあるよ」と誘ってきたが撥ねつけて村で降りた。

ここは台南郊外では珍しい客家村だとAさんは説明したが、その時向こうから男性がやってきて声を掛けてきた。その人を見たAさんは驚いている。何とネット上で村を説明していた人が目の前に現れたのだ。しかも普段は村に住んでいない人で、たまたまマンゴーを買いに寄ったというからかなりの幸運だ。

その人が邸内を案内してくれたが、衝撃的だったのは「つい最近まで自分たちが客家だとは思っていなかった」及び「自分の母親は外省人と客家を嫌っていたが、自分の嫁は外省人であり、更に母自身が客家だった」という話しだろうか。自らのルーツを隠してしまうことは、昨年探した畲族で学習済みではあるが、やはり当人にとってのショックは計り知れない。

ある日の台北日記2025その2(5)高雄六亀へ

午後は茶商公会に行き、いつものように色々と質問した。今回はプーアル茶の歴史がテーマだったので、それが分かりそうな茶商を紹介してもらい、また統計資料から、2004年に台湾へのプーアル茶輸入が解禁されたことを確認することも出来た。毎年総幹事にはお世話になりっぱなしで、何とも有難い。

帰りに歩いて台北駅の向こう側まで行く。なんだか15年前に行った牛肉麺屋に関する投稿を見たので、急に行きたくなってしまった。狭い路地を入っていくと確かに同じ場所にその店は存在し、午後5時なのに満員の盛況だった。何とか席を確保したが、暑さはかなりのもので、その中でも熱い牛肉麺を食べる。代金は2倍ぐらいになっていたが、変わらず美味しい味だった。汗だくで食べ尽くす。

6月28日(土)高雄六亀から台南

今朝は早起きして、台北駅へ向かった。週末台南にマンゴーを食べに行くというMさんの話に乗っかって、行ってみることにした。昨年紹介されて台南で会った温老師、あの時は劇的に屏東まで車で連れて行ってくれたが、今回連絡するとまた高鐵台南駅に迎えに来てくれるという。台南まで約2時間はほぼ眠っていた。乗り過ごさないでよかった。

温老師の車に乗り、向かった先は何と高雄県六亀だった。昨年の経験から台南から高雄県は想像以上に近いとは認識していたが、私は老師にどこへ行きたいかと聞かれた際、「老師とお話しできれば良い」と答えていた。すると老師の方から、「最近台湾山茶という名をよく聞くので一度飲んでみたい」ということで、老師自ら調べて訪問先を決めてくれた。私はただ乗っていればよく、その間に歴史について聞くチャンスを得たのだから、こんな幸いなことはない。

しかし車はすぐに停まった。義民爺亭と書かれた廟にお参りする。この付近では過去様々な戦い、争いが発生し、この地を守るために命を賭した義民が祀られているという。日本が台湾統治を始めた際も、ここは抗日拠点だったらしい。ただ温老師によれば、現在説明されている歴史はちょっと違うらしいが。そこから昨年連れて行ってもらった月世界を通り抜ける。気温はかなり上昇し、暑さが堪える。

途中で旗山という街に出た。ここはバナナの産地として有名。続いて橋を渡るとそこは美濃。ここは客家の里として名高い。車から見る眺めはかなりいい感じだったので、次回はゆっくり街歩きがしたい。更に川沿いを行く。途中の休憩所が改装中で、何も飲まず、食べずに進むことになる。

約2時間かかってようやく六亀に入り、更に田舎の方へ向かう。「藤枝」などという地名を見ると、オー、と思ってしまう。突然六亀山茶の文字が見えてきて、数軒の茶農家が店を構えていた。私は6年前に一度六亀へ来たことがあるが、その時と比べると六亀山茶の宣伝は行き届いているように思える。

温老師が探した店に入る。そこには30年前に鹿谷から移住して、茶作りをしている劉さんが待っていてくれた。まさかここで鹿谷の人と会えるとは。しかも彼は70年代に茶業改良場で研修した経験もあるというから驚きだ。移住したのは父親が木材関係の仕事で、この地に関わっていたかららしい。

劉さんから六亀山茶の説明を一通り聞いた。山茶で作った紅茶や緑茶が出てきたが、6年前のブヌン族の茶とはかなり違っており、美味しく感じられた。更には武夷種で烏龍茶を作ったり、何と山茶で黒茶を作っていたのには驚いた。劉さんの多彩さは改良場で鍛えられたのだろうか。

標高1000mを越える土壌で栽培された茶樹。南部とはいえ寒さもあり、同じ紅茶でも2月と4月に作ったものを飲み比べてみると、かなりの違いが確認できる。山茶、それも原生種となると、かなり自然交配が進み、味にも変化がありそうだ。この付近の気候に適した作り方を劉さんはしているのかもしれない。

ある日の台北日記2025その2(4)食品展と最後の肥前屋

夕方茶歴史の話しでお腹いっぱいのはずが、リアルに腹が減って来た。帰る前にその辺の店に飛び込み、また魯肉飯などを思いっきり頼み、思いっきり掻き込んだ。こんな生活していた大丈夫だろうか、と思ってしまうが、好奇心を満たすと腹は減るらしい。MRTに乗ると腹が重くて耐えられない。

6月25日(水)南港食品展

朝いつものクラブサンドを食べてから、南港に向かう。MRTモノレールにダラダラ乗っているとかなり時間がかかって何とか南港駅に着いた。今日から国際食品展が開催されていると聞き、ちょっと覗いてみることにしたのだ。会場はかなり広くて、どこで何をやっているのか把握できずに歩き始める。

最初は食品機械の展示階に迷い込む。何とか食品コーナーを経て、ドリンクコーナーまで辿り着く。11月に開催される茶展とは違い、ここは食品展。冷凍食品などの横には、ペット飲料やインスタントティーの展示が並んでおり、現在の茶と言えば、実はこちらがビジネス上は主流なのだと思い知らされる。我が大家も、かなり良い茶粉を使った商品を売り込んでいる。

最近の景気悪化及び微妙な中台関係により、中国企業の出店はほとんど見られなかった。私が思う茶業者の展示もほんの少ししかなく、何となく落ち着かない。その中で奮闘していたのがジョニー。彼のブースへ行き、お茶を飲ませてもらい、ようやくホッとする。彼のところのブランド価値はかなり上がっているとは思うのだが、このアウエー感の中で戦うのは大変だろう。

歩き回っている内に腹が減る。そうするといい匂いの方に釣られていく。食品展なので、食べる物は沢山ある。お菓子類もあるが、台湾の名産品で試食できるものをいくつか食べてみる。私はB級グルメ専門なのだが、ファーストフード的な物にはあまり手を出さないので、ちょっと新鮮だった。

一度部屋に帰って疲れた体を休める。途中かなりの雨が降り、少し涼しくなる。夜は旧知のKさんと食事。私のリクエストで「小籠包と炒飯」をお願いしたので、久しぶりにその味を堪能することが出来た。Kさんとは昔話に話しが咲いたのだが、結構忘れていることも多く、頭を搔く場面が増えてきているのはなんとも気になる。

6月26日(木)茶歴史を探して

今日は李春生のご子孫を訪ねて林森北路付近へ向かう。昔の飲み屋街はすっかり変貌しており、ホテルや居酒屋などが増えている。その中にウナギの肥前屋を見付けて懐かしくなる。まずは李さんと会い、李春生と宝順洋行について質問する。その後李さんの方から、大正期の東京の住所が示され、現在のどこに当たるかをネット検索などで一緒に探した。

何とそこは現在の代官山付近であり、東京に移り住んだ李家の子孫の邸宅の場所だった。これまで色々と日本と台湾の繋がりを見てきたが、この付近に邸宅を持っていたお金持ち台湾人は何人かいたと思う。恐らくはその中で飛びぬけてお金があったのではないだろうか。婚姻関係なども今では考えられないものがあった。

2時間みっちり勉強して李家を辞した。既に時刻は12時とランチタイム。だめもとでさっきの肥前屋に行ってみると、何と全く行列が無い。コロナ前など11時でも大行列だったので、ちょっと驚きつつ中を覗くとすぐに席が確保できた。満席ではないがそこそこの入りではあった。

ここのうなぎは何年かぶりで食べたが美味しく感じられた。観光客は少なく、地元民のランチ風景だった。料金も特に高いとは感じられない。ところがその3日後、なんと何の前触れもなく肥前屋は閉店したとの報道が駆け巡って、心底驚いた。1988年に傾きかけた前店舗からお触れ出たいい匂いに惹かれて以来37年、その思い出は突然絶たれた。最後にウナギを食べられたのは、これこそ虫の知らせだったろうか。

ある日の台北日記2025その2(3)台湾プーアル茶の歴史

6月23日(月)藍老師と

朝は脚を引きずりながら第2市場へ向かう。前回気に入ったので朝ご飯を食べに来た。午前8時なら何軒かは既に営業しており、日本人観光客も食べていた。前回は台中人が愛する朝焼きそばを食べたが、今回は王道魯肉飯で攻めてみる。魯蛋が美味しい。行き帰りの道、お寺などちょっと興味深い場所がいくつかあったので、次回は少しゆっくりと回ってみようか。

宿をチェックアウトして、荷物を持って駅前からバスに乗る。ところがあまりにバスが色々とあってどれに乗ったらよいか迷ってしまう。最終的にはエイヤーと、目的地付近に行きそうなバスに乗ってしまったが、当然のようにルートを外れて行き、かなり焦る。だがいつの間にか目的地に到着してホッとする。

今日は昨年お話を聞いた藍先生を訪ねて、台湾畲族に関して纏めて寄稿した雑誌をお渡しした。藍先生は畲族だが、元々台湾畲族はお茶とは関係が無かったらしい。それがいつの間にかお茶専門家になり、今では中国などでも講演するなど、忙しく飛び回っているというから面白い。

当然話題は台湾茶の歴史になり、烏龍茶の発祥や鉄観音茶の定義、はては台湾山茶などに及ぶ。そこへ台中でペット飲料を作っている人が、先生に鑑定(意見を求める)を依頼するためやって来た。この飲料は既に台湾のコンビニで売られており、一本70元程度するので、ちょっと高級感?がある。当然茶葉にもこだわっている。次回は彼の茶工場に行ってみたいような気分になる。

奥さんが帰ってきて弁当を買って来てくれ、ご馳走になる。夏休みなのかお孫さんも来ていて忙しいらしい。帰りは先生が台中駅まで送ってくれたので助かった。そのまま自強号に乗って帰る。台北駅まで2時間15分、高鐵の手間と料金を考えるとリーズナブルな選択と言える。

6月24日(火)大稲埕でプーアル茶の歴史を聞く

何となく眉原山の疲れが残っている朝。また今日も大稲埕に向かった。昨年何度かご一緒したUさんと待ち合わせて、今日は意麺の店へ行く。10時半開店でぴったりに開く。一番乗りを果たす。近所の人が次々と入ってくる。乾意麺に赤いたれをかけて食べると旨い。クリアーな魚団子スープも良い。昔からある店、というのは、ほんのちょっとしたところに安定感がある。その後恒例のコンビニで食談義を聞く。

午後はすぐ近くの徳芳茶行へ行く。ここは昨年Mさんに紹介してもらった老舗お茶屋さん。だが今回の目的はここではなく、このお店の人に別の店を紹介してもらうことだった。そのお店では30年ほど前、プーアル茶をかなり商っていた、と聞いたので、その状況を教えてもらうために訪ねた。

しかし既に茶業も大きく変化しており、このお店でもプーアル茶ビジネスを推進していた兄弟の一人は既に亡くなっており、過去のことになっていた。しかも何となく「お前は、密輸の歴史でも聞きに来たのか」という気まずい雰囲気が漂う。台湾は基本的に中国からの茶葉の輸入を今も禁止しているが、黒茶類に関しては2004年に解禁しているという。

プーアル茶に関する台湾茶商の武勇伝など、巷ではかなり大々的に喧伝されており、「1980年代に雲南の奥地に初めて入り込み、古い倉庫から古いプーアル茶を掘り出した」などという話しを何度も聞いた気がする。香港でも同じような話を聞いていたが、これはどうやら伝説らしい。では本当の歴史はどうなっているのだろうか。

台湾茶商の中で何人かは、1980年頃、台湾でプーアル茶を作っていたというので、驚いた。これは1970年代に台湾に流れ込んだ広東料理と飲茶文化ではないか、と考えられる。ただこれはブームにならずにすぐに消えていく。やはり台湾人にはプーアル茶は合わなかったのだろう。10年後の1990年前後、ベトナムでプーアル茶を作っていたという話しも出てきて興味深い。

ある日の台北日記2025その2(2)眉原山で台湾原生山茶を見る

そのわずか数年後の1935年、製茶試験場第5代場長谷村愛之助と魚池で紅茶作りを始めた持木壮造、そしてそのパートナーである廖阿霖らは、ここから(正確にはもう少し先の眉原部落)眉原山(バイバラ山)に生えている台湾原生山茶を目指して山登りを始めた。その時採取した標本が現在も台湾大学の保管されており、それを見た上で今回の山登りとなった。我々は梁さん(元茶業改良場)とスティーブ(魚池持木農場跡で紅茶作り)を加えて4人が集合。1台目の車で山を登り始めた。

30分ほど舗装された山道を行くと、そこからは徒歩。そして途中で山に分け入っていく。最初は道があったが、途中から徐々にその影が消えていく。何度もここにきているガイドの梁さんがいなければ、とても前には進めない。そしてついに台湾山茶の木に辿り着き、一同安堵して記念写真を撮る。

しかしそこからまだ先があった。しかも相当急な坂道が続き、最近降った雨の影響で道は滑りやすく、かなり危険だった。それでも前に進んでいくと、何とロープが用意されており、それを伝って這って登る場面すらあった。まさかこんなに厳しい山登りとは知らず、普通の靴で来てしまい、長靴を貸してもらっていなかったら、どうなっていたことだろうか。所々で素晴らしい風景が見られる場所があり、それが救いの旅だった。

そして歩き始めてから約1時間、標高1200mから1550mまで登って、何とか台湾山茶の林に入り込んだ。そこはもう幻想的な世界であり、疲れと同時に感動が体に心地よく触れてきた。そこへ陳さんが湯を沸かし、スティーブの紅茶が振舞われれば、もうこれまでの苦労は全て吹き飛ぶ。

眉原山に生えている茶樹は喬木であり、茶葉も大きい。山頂近くである現在地では、太陽の光がどれだけあたるかで、その生育状況に大きな違いが出る。中には既に倒れてしまった茶樹も見られる。林業研究所と共同で、ここで生育している茶樹は管理され、守られているが、大自然を前に人間は無力だと感じる雰囲気がある。

かなり体が休まり、心も整い、下山する。ところが当然ながら登る時より、降りる方が大変だ。滑らないように細心の注意を払えば、かなりの体力を要する。メンバーよりだいぶん年上のこともあり、置いていかれないように足を進めるが、一歩間違えば骨折は免れず、気を抜くことは出来ない。慣れた道のはずだが、登った時とはまるで違った風景になっている。

約1時間かかって車を停めている場所まで戻ることが出来たのは幸いだった。今日はずっと天気が良かったことも幸いしたと思う。清流部落で各車に戻り、最後に眉原部落まで行って山全体を眺めて解散した。下山さんの別荘がこの辺にあったように思ったが、見付けることは出来ず、そのまま台中まで帰って来た。

陳さんがどこかへ連れて行ってくれるという。そこは日本時代に作られた放送局だった。なぜここに、と思っていると、その敷地内に石灯篭が見えた。近寄ってみると台中軽鉄という会社が昭和5年に神社に奉納したとある。なぜそれがここにあるかは不明だが、この会社の監査役として持木壮造の名前があり、灯篭にもその名が刻まれている。私は以前神社周辺を探したことがあったが、見つからなかったものだった。さすが陳さん。

部屋に戻るとどっと疲れが出た。ただ何故か腹も減っており、台中駅まで行って台鐵弁当を購入して、部屋に持ち帰り食べた。初めて台湾に来た40年前からよく食べている台鐵弁当には、何となくホッとするような、変わらぬ美味しさがある。それは今風にいう、普通に美味しい、ということだろうか。夜は疲れからよく眠れたが、翌朝から足の筋肉痛が始まり難儀する。

ある日の台北日記2025その2(1)懐かしの埔里へ

《ある日の台北日記2025その2》  2025年6月21₋29日

6月21日(土)懐かしの埔里へ

朝早く起きた。今日は久しぶりに埔里に行く。既にバスチケットは買ってあったので時間に合わせていく。週末なのでターミナルは混んでいた。日月潭へ行く人も多いかと思ったが、満席でもなかった。もっと朝早く出る人が多かったのかもしれない。台北‐埔里路線は昔よく乗ったが、懐かしむ余裕もなく、寝落ち。

ほぼ予定通りにバスは走り、埔里郊外の信号で停まる。何だか向こうに見慣れない建物があるが、よく見ると何とTSUTAYAだったので驚いた。埔里にTSUTAYAが出来る時代になったのか。既に埔里を離れて7年になり、街並みは忘れ始めており、どこがどこか分からないまま、バスターミナルまで来てしまった。

そこで7年ぶりのIさんが待っていてくれた。Iさんは私の埔里拠点のすぐ近くに住んでいた日本人。昨年も会いに来たかったが、タイミングが合わず、ようやく会えた。だがIさんの車も知らない道を通っていく。何と私が埔里を離れた後、引っ越していた。私の埔里拠点がどうなっているのかを見ることは今回なかった。

Iさんの家はちょっと郊外にある感じだった。家でお茶を頂き、昔話に花を咲かせた。昼ご飯は近所で牛肉麺をご馳走になる。埔里の週末は観光客でかなり込み合うことを思い出した。特に何をすることもなく、ダラダラと昔話をするのは何となく心地よかった。あっと言う間に時間が過ぎてしまい、Iさん一家に送ってもらう形で台中へ向かった。埔里滞在はほんの少しに終わる。

台中駅近くに出来ていたららぽーとで買い物をするというので付いて行ってみた。館内はまるで日本、日本関連の店舗がずらっと並んでおり、地下のスーパーも日本から来ていた。埔里では買えないものがここでほぼ揃うということで、時々買い出しに来ているという。無いものは諦めるのだが、あるとなると買いたくなるのは人情。当然価格は日本の1.5倍から2倍はするが手が出てしまうらしい。台湾人はどれだけ買っているのだろう。

予約した台中駅前の宿に入った。週末はどこも料金が高くなっており、質と価格がマッチしていないのが台湾の宿だと感じる。日本のようにチェーン店の競争によるサービス向上はないようだ。まあそれでもここはまだ最低限のものはあるので良い。更には窓から旧台中駅が見えるのが気に入ってはいる。

夜は陳さんが来てくれ、駅の反対側のビル内でタイ料理。宿の近くの東南アジア料理とは全く違う雰囲気で、若者や家族連れが多く、満席の盛況。タイティーもおしゃれに提供されており、かなりアジアで浸透してきたことを窺わせる。店名が瓦城というのはちょっとドキッとするが、台湾では馴染みがあるのだろう。階下のスシローにはお客が沢山待っていた。

6月22日(日)眉原山で台湾原生山茶を見る

翌朝は早く起きる。7時には陳さんが迎えに来てくれ、車で昨日訪ねた埔里方面へ向かう。途中国姓の街を抜ける。ここはあの鄭成功ゆかりの名が付いているが、本当にここまで鄭成功は来たのだろうか。そこから少し走っていくと懐かしい風景が出てきた。そして着いた場所は何とあの川中島(現在は清流部落)だった。

日本で川中島といえば武田信玄、上杉謙信の激戦地として有名だが、こちらは1930年に発生した霧社事件後、生き残ったセデック族が移住させられた場所。随分前にこの地にセデック族の地を引く、下山操子さんを訪ねたことが思い出された。そういえば昨日会ったIさんの奥さんもセデック族だった。