「日記」カテゴリーアーカイブ

ある日の台北日記2019その1(3)東台湾の旅 宜蘭へ

1月15日(火)
東台湾の旅 宜蘭へ

今日から宜蘭、瑞穂、鹿野という東台湾の旅に出る。勿論これは茶旅であり、これまであまりスポットが当たって来なかった、東海岸のお茶の歴史を学ぶのが目的だった。今回も旅のアレンジ、全面的なサポートをしてくれるのはトミーとチャスター、そしてビンセントの3人組。

 

朝8時過ぎに台北まで迎えに来てくれ(彼らは台中からやって来た)、一路宜蘭を目指す。2時間も経たずに、黄さんのところに到着した。彼とは以前一度会ったことがあり、宜蘭で熱心に茶作りをしているという印象があった。お茶などなさそうなところに茶荘があり、横の敷地には最新鋭の設備を備えた工場を新設しているところだった。

 

彼のところはお父さんの代、1970年代に茶業を始め、色々な品種を植え、烏龍茶でも紅茶でも、何でも作って来たという。現在は特色ある茶作りということで、有機栽培を中心に、コンテストでも、有機王の称号を得ている。茶畑は山の方にあるということだった。環境はよさそうだ。様々な種類のお茶を飲み、午前が終わる。

 

昼ご飯を食べようと言って車で出掛ける。道を眺めていて不思議だったのは、空き地のような場所の一角に、ポツンと家が建っているところがいくつもあったことだ。聞いてみると、それを農舎というらしい。どうやら農地に住宅を建てる一つの手法であり、宜蘭までの道が開かれて以降、台北からたくさんの投資があったという。グレーゾーンというヤツだろうか。いや黒にしか見えないが。

 

近くで、と言っていたはずだが、車で30分も離れた食堂へ行った。これは田舎感覚の距離感だ。私にはない発想だが、周囲に店がないということだろう。ちょっと味付けが濃いが確かに料理は美味しい。そして客が次々に入ってくる人気店だ。行列が出来てきたので、すぐに席を立つ。

 

そのまま車は、山を登り始めた。日本時代より前からある茶畑に行こう、というのだ。ここ宜蘭では1885年頃から茶樹が植えられ始めた記録があるという。私も日本時代初期に宜蘭で茶の話が出てくる新聞記事を見ていたので、十分考えられると思って行って見る。確かにかなり古い茶樹が所々に自然と残っていた。

 

そして新しい茶畑も一部にあるが、決して多くはない。日本時代は、山を見れば一面茶畑だったとの証言もあったが、今この山の中腹には淡江大学など2つの大学のキャンパスが作られており、その様相は一変していると言ってよい。ここから見える夜景は素晴らしいので、デートスポットでもあるらしい。街の向こうに太平洋が見える。

 

それから宜蘭県茶業公会の理事長のお店を訪問して、宜蘭茶の歴史のヒントを探る。宜蘭茶の最盛期は光復後のことであり、その後輸出競争力の衰えてと共に、茶作りから茶商へと、変わっていった人々がいたことを知る。一部は中国に台湾茶を輸出しているが、その台湾茶も自分では作っていないというのが現状だろうか。

 

ここには最初に茶業を始めたと言われる一族の人も来てくれ、やはり宜蘭茶は1885年頃に始まったという話を聞く。そして日本時代の茶工場が今も残っているよ、という耳寄りの情報を得たので、是非見たいということで、車で向かう。行って見ると確かに古めかしい、かなり大きな建物があり、ドアなどには日本も感じられる。

 

ただ中に入ると古い製茶機械は残っているが、既に生産はしていない。林さんという老人が、一人でここに住み、先祖が残した茶工場を守っていた。私が日本人だと分かると、一層親切になり、思い出話を色々と聞かせてくれる。この建物は林さんのお父さんが自ら設計して建てたという。かなり凝った造りになっている。もし林さんが居なくなれば、この建物も取り壊されてしまうかもしれない。こういう貴重な建物を保存することは意外と難しいので、困る。

 

宜蘭での調査は終了したので、黄さんを家まで送った後、今日の内に次の目的地である、瑞穂に向かって走り出す。だが瑞穂は花蓮県とは言ってもかなり遠い。まずは花蓮市まで行くのに、2時間以上はかかった。周囲は真っ暗になり、海岸沿いをトラックなどが多く走り、車の運転も何となく危険な感じがする。

 

ようやく花蓮市内に入り、夕飯の場所を探すがすでに夜8時を回り、いいところが見付からない。仕方なく麺屋に入り、4人とも違う麺を頼んで、啜る。何となく味気ない夕飯となったが、やむを得ない。更にここから瑞穂まで、1時間以上車を飛ばした。夜9時半、やっと予約した民宿に入る。

 

民宿の奥さんも我々に早く来て欲しかったようだ。部屋割と簡単な説明をするとすぐに行ってしまう。明日の朝は鍵を置いて勝手に出て行く、と言ったスタイルだ。今日は日中晴れてはいたが、気温はそれほど高くはなった。不思議な作りの民宿の部屋も若干涼しい。疲れたので、早々に寝入る。

ある日の台北日記2019その1(2)慈湖 蒋介石象の墓場

1月13日(日)
蒋介石象の墓場

先日食事を一緒にしたTさんから『慈湖に行くけど』と言われたので、ついて行くことにした。慈湖と言えば、35年前、私が初めて台湾に来た時、当時同級生の台湾人、陳さんに連れられて行ったことをはっきりと思いだす。当時は山深い場所だったということと、蒋介石の遺体が安置されている建物の前で、突然衛兵の号令で3回頭を下げさせられた。それ以来、何度台湾に来ても行くことはなかった場所。

 

板橋で待ち合わせた。三猿広場の前で、と言われていたが、三猿って何だろうと思っていた。そして何と読むのだろうかと見てみると、何とそのまま『Sanzaru』と日本語ではないか。最近台湾には本格的な日本も導入されているが、未だ不思議な名前を付けているケースも多い。

 

もう一人初対面のFさんも同行していた。Fさんも80年代からずっと台湾にいる(関わっている)古参。この3人が出会えば、懐かしい名前が飛び出したり、80年代から90年代前半の出来事が突然思い出されたりと、話に花が咲く。Tさん運転の車で慈湖まで、あっという間に感じられた。

 

当然ではあるが、私が来た35年前とは雰囲気もかなり変わっている。しかも今日は何と蒋経国の命日とあって、要人の参拝などもあるのか、警備も厳重で、午前中はそちらには近づけないと言われた。広場の様な場所に行って見て、ビックリした。胸像、座像、立像など、無数の?像が、ところ狭しと置かれているのだ。しかもその像は基本的に蒋介石、そして蒋経国と孫文の3つだけ。2000年頃に開園したこの場所、数百体の像はどうしてやって来たのだろうか。

 

聞くところによれば、蒋家の時代には、どの町、どの学校、どの職場にも蒋介石象、蒋経国像はあった。その時代が終わった後、その像をどうするのか、議論があったようだ。確か中国でも毛沢東像をどうするかという話があったので、それに似ている。結果的にここにかなりの数が集められ、展示?されるようになった。それはある意味で、蒋介石象の墓場とも言えるかもしれない。

 

それにしても様々なポーズ、様々な顔、様々な年齢の蒋介石がいるものだ。国民党が台湾に来た頃は、製造特需だったに違いない。ただ明るい内は問題ないが、もし夜にここに来たら、それはそれは、恐ろしい光景になるだろう。肝試しをこういう場所でやると言えば、不謹慎だろうか。

 

河沿いを歩いて行くと、経国紀念館という建物に出くわした。中には蒋経国関連の資料が沢山展示されており、興味深いものもあった。その向かいには御陵があるようだったが、命日のため一般人は立ち入れなかった。それではと先ほどの場所に戻り、更に行くと、今度は蒋介石の御陵がある。

 

蒋介石は将来中国に戻るということで、遺体は火葬されていないと聞いている。35年前はその安置所に入れたと思うが、今はガラスの壁があり、建物内に入ることは出来ない。これは昨年、事件があったからだ、と言われたが、よく分からない。一人の年配の女性が『なぜ私は中に入れないのだ』と訴えており、スタッフが丁寧に対応しているのが印象的だった。最近台湾にも色んな人が色んな主張をしているらしい。台湾人観光客?が周囲を取り囲み、写真を撮っている。

 

昼になったので、車を走らせ、道沿いのローカル食堂を探す。台湾の場合、立派なレストランではなく、昔からあるB級食堂が本当に美味いし、満足できることが多い。それをよく知るTさんは、毎回ふらっと目に付いた食堂に入り、地元の人が食べている料理に目を走らせ、ウマそうなものを注文しているという。今回も確かに豆腐や油条が旨かったな。

 

午後は桃園神社に向かう。日本時代、神社は台湾中に作られたが、光復後、その殆どが壊されたと聞いている。今ある神社も後から復元したものなどが多く、残っているのは鳥居や灯篭だけというところが多い。そんな中、桃園神社は社殿など、建物が日本時代のまま残っている台湾でもほぼ唯一の神社だと聞き、大いに興味が沸く。ところが行って見ると、10か月間の修復工事に入っており、中には入れなかった。外からちょっと見る感じでは確かに雰囲気がある。次回修復後に再訪しよう。

 

車は板橋に戻り、今日の反省会?がスタバで行われる。それにしても日曜日の午後のスタバは混んでいる。そして3人分のコーヒー代は、ランチの食事とほぼ変わらない料金。何だか不思議な感じがする。今日は台湾の歴史について、再度考える機会が与えられた。国民党とは一体何なのか、そして台湾に及ぼした影響は。話題はいくらでもあるが、時間には限りがある。

 

1月14日(月)
コーヒーを飲む

朝昼兼用の食事。これが何もない日の日課である。今日は大好きになったサンドイッチ屋に行ったが、いつも同じものばかりではと、推薦されたハンバーガーを食してみた。ところがやって来たバーガー、そのあまりの高さ?に唖然。これ、どうやって食べるのだろうか。思わず店員に聞くと、自分で袋に入れて押しつぶして食べるらしい。味は悪くないが、食べにくいこと甚だしい。もう一度頼む気にはなれない、食べるのに疲れる。

 

夕方MRT芝山駅に降り立つ。今日は旧知のSさんとコーヒーを飲むことにした。実はシェフのSさんが、コーヒー屋さんに転職したというので、その仕事場を訪ねることにしたのだ。彼は非番なので、そこでゆっくりお話しする。このコーヒー店、日本人経営で、既にかなり有名。

 

ベテランスタッフが手で入れてくるコーヒーは1杯300元と高いが、非常に上質な感じがする。コーヒーブームに乗り、このようなコーヒーが台湾に受け入れられ始めている。合わせて食べたスコーンも美味しい。Sさんも早く自分の手でコーヒーを淹れてお客さんに出したという。これは面白い挑戦かもしれない。台湾のお茶はどうなるのだろうか。

ある日の台北日記2019その1(1)台北から始まる2019年

《ある日の台北日記2019その1》  2019年1月7日-30日

正月明け、やはり今年も台湾から始めよう。と言っても、お茶の歴史の勉強、そろそろ方向を考えなければならない。今回は2019年をどうしていくのかも考えながら、過ごしていくことになる。新たな展開は果たして見出せるのか。

 

1月7日(月)
台北へ

今日は昼過ぎの便で台北に向かう。羽田発なので、ゆったりと出向く。世の中は今日が仕事始めらしい。空港は正月明けで、さほど混んでいない。イミグレを通ると、免税店のレイアウトが少し変わっている。そして常滑焼の急須や越前の漆器などが、特別に展示されていた。外国人がそれを興味深く眺めている。正月7日、ちょうど七草がゆを食べられるところがあったので、久しぶりに食べる。案外とよい。

 

いつものエバ航空に乗り込む。もう慣れてしまい、一番使いやすい航空会社になってはいるが、料金もどんどん上がってきており、毎回乗る訳にはいかない。特に羽田便に乗るのはこれが最後かもしれない、などと思う程だ。機内では名探偵コナンを見て、寝入る。

 

ふと気が付くと着陸態勢に入っており、その速さに驚く。松山空港は乗客が少ないので、イミグレも簡単で、すぐに外に出られる。いつもの桃園便より、だいぶん早く市内に着くので、葉さんは当然家にいないだろうと思い、Tさんと約束して、早めの夕飯を食べることにしていた。荷物を初めて空港のロッカーに入れ、少し早いので、空港周辺を散策する。

 

5時にTさんが予約してくれた小籠包屋で落ち合う。こんなところに店があるのか、という場所。聞けばTさんのお知り合いがオーナーだとか。空港からそれほど離れていなので、今後も使えるお店ではないかと思う。私は小籠包も好きなのだが、ここでは敢えて牛喃を頼んでみる。なぜか先日夢に見て?食べたいと思っていたのだが、ここで食べられるとは。

 

話に夢中になって時間は過ぎて行った。空港のロッカーから荷物を取り出そうとしたら、何と80元の支払いを求められている。3時間80元と書かれていたのだが、3時間を過ぎると、更に3時間分の料金を払わなければならないのか。たった30分のためには、高い代償だった。次回は気を付けよう。

 

葉さんに家に着く。今日は早くに家に帰っていたようで、ホームパーティーをしていた。気を使って時間を調整する必要はなかったかもしれない。いずれにしても、また資料がぎっしり詰め込まれた部屋に戻ってくることが出来た。もう腹も一杯だったので、すぐにぐっすりと寝込む。

 

1月9日(水)
大稲埕から中和へ

今朝は製茶公会に向かった。黄さんから、黄さん他のインタビューが載っている本を頂戴するためだった。この本には、6人の茶業人が掲載されており、その内容は台湾茶業の歴史を知る上で大いに参考になるものだった。既に出版元にも在庫がなく、黄さんにお願いした。実は11月にお会いするはずだったが、腰痛とのことで、1月に延期になっていた。

 

約束の時間に公会に行ったが、黄さんは現れなかった。30分過ぎて電話すると、『今行く』との返事。どうやら茶業者と熱の入った議論をしており、時間を忘れてしまったらしい。80歳を過ぎてもこの情熱、すごい。そしてまたこちらでも1時間近く熱弁を振るって、私の質問に答えてくれた。有り難い。

 

昼になったので、近くの鍋屋に連れて行ってもらった。カウンター席に一つずつ鍋が置けるコンロが設置され、鍋に野菜や豆腐などの具材を入れて煮て食べる仕組み。私の記憶に間違いがなければ、この一人鍋は30年以上前に台湾でお目見えしたものだ。あの頃単身赴任だった私には便利な鍋だったので、時々食べに行ったのを覚えている。それと比べれば、今日の鍋は調理器具も具材も相当進歩している。

 

午後は中和の図書館に出掛ける。以前は何度もここを訪ね、日本時代の新聞記事の検索をしていたが、最近はご無沙汰だった。図書館は823紀念公園の中にあり、初めてその敷地内を一周した。1958年に共産党と戦って勝利したことは、その後の台湾に大きな力を与えたのだろう。

 

図書館に行って見ると1階は改修中だったが、6階は特に変わりはなかった。今回は特に調べる目的はなかったので、カウンターの人に告げて、開架図書を見て回る。実はこのフロアーは、まずは目的を告げて、それに合わせて司書が本を探したり、PC使用を許可したりするシステムになっているが、さすがに顔馴染みになっているので、すんなり入れてくれた。

 

ここに置かれている日本時代関連の図書、こんなに沢山あるのかと驚いてしまう。いつもは手前しか見ていなかったが、奥が深い。本の範囲や内容も奥が深い。何だか沼に嵌ったような気分で数冊を手に取り、パラパラ見だす。日本語も中国語も合わせれば、興味深い資料がいくつもあり、いくら時間があって読み切れない。

 

その中で特に『日治時期 在満州の台湾人』という本に目が行った。先日訪ねた大連や天津に日本時代に渡った台湾人、その後はどうなっているのか知りたかったが、その資料は殆どなかった。この本は今から20年ほど前に、中央研究院が当時の人々から直接聞き取りを行った記録で極めて貴重。終戦後台湾に引き上げるまでの過程も一部語られていた。ただここで取り上げられている方の多くが医者であり、一般の、特に商人の記録は殆どないのは残念だった。

 

何故中和に来たのかというと、夜旧知のSさんとの食事場所がこの近くだったからだ。指定された場所を探すと、普通は来ないだろうと思われる、不思議な場所にある鉄板焼き屋。聞けばSさんの知り合いが近くに住んでおり、先日食べて美味しかったから、連れて来たという。シェフは海外で修行して戻って来て開業。住宅地で気楽だが、本格ステーキなどを出しており、お客は多かった。

ある日の台北日記2018その3(15)包種茶の謎

12月2日(日)
仁愛路散歩

土日は人と会うのも少なく、図書館に行く気も起きない。いつもブランチを食べる店も混んでおり、そこも敬遠すると食事の場所にも困る。今日は天気も良いので少し遠くまで散歩してみることにした。仁愛路、30年前に台北にいた時から高級住宅街、というイメージがあったが、大きな街路樹が植わる広い道は今も堂々としている。

 

きれいな道、そして立派なビル。いかにも高級住宅街らしく、高価な骨董や絵画を売るギャラリーなどがある。だが、ビルの1階には空き店舗が目立つのも事実だ。家賃高騰に商売が合わなくなっているのだろう。台湾経済の低迷?はこんなところにも表れているように思える。

 

途中に飯屋があったので入ってみる。仁愛路から少し外れており、庶民的な店だ。ここで内臓系のスープを飲む。こういうスープ、日本にはないのかな。美味しいのになあ。腹ペコだったのであっという間に平らげる。すると腹が膨らみ、またゆっくりと散歩することになる。

 

東門外市場という昔からありそうな市場へ迷い込む。何となく懐かしい雰囲気がある。屋根のある屋内から外へ出ても市場は続いていた。狭い道の両側に露店が並び、盛んにお客に声を掛けている。そこへ突然救急車がサイレンを鳴らして入って来た。道の真ん中に野菜や果物を並べていたおばさんたちは急いで片づけをして道を開け、救急車は何とか通り抜けていく。特になんだということはないが、さり気ないこういう光景には癒される。

 

12月3日(月)
包種茶の謎

先日トミーから『包種茶について、SNSで面白い議論があるよ』と連絡があった。それは1840年の新聞広告に、Pou Chong Teaという名前が出ているというのだ。Pou Chong Teaといえば、中国語名は当然包種茶のはずだが、この時期、一体どこに包種茶はあったのだろうか。

 

その新聞記事を送ってもらうと確かにNYに輸入され、売り出される茶の中にこの名前がある。中国福建で包種茶を発明したのは、1796年の王義程という歴史も見ているので、当時福建からアメリカに輸出されても不思議ではないが、やはり現実にこのような証拠があると、本当にあったのだな、と妙に納得する。

 

そしてこの新聞記事を持っていたのは、以前紅茶の調査で出向いたこともある、新竹関西の台湾紅茶という会社の子孫で、現在の紅茶館(博物館)を作った羅さんだと聞き、一度会って見たくなる。トミーが連絡してくれ、すぐに会うことができたのは幸いだった。羅さんも当然ながら茶の歴史に詳しく、特に自分の実家の茶業や紅茶の歴史を独自に研究しているという。いわば同好の士だ。

 

例の新聞記事については、実は記事を入手しただけで詳しいことは何も分からないと言い、それでSNS上で歴史好きが議論していたのだという。実は私もちょっと聞いてみたところ、東京の紅茶専門店のKさんから、『イングリッシュ ブレックファースト』という紅茶はブレンドだが、その中にはPou Chongが含まれている、と教えられていた。しかもこのブレンドが発売されたのは1843年だというから、大体符合する。これは面白くなってきたが、今日はここまで。次はいつ新しい発見があるだろうか。

 

因みに食事をした場所は、どんぶり屋という名前の和食店。海鮮丼が一押しということで食べてみたが、魚も新鮮で美味しかった。このレベルなら、十分に堪能できる。確かに最近どんぶりを売り物にする店が増えているようだが、一種の流行だろうか。また食べに来たい。

 

12月4日(火)
新店へ

明日は日本へ向かう。2018年台北最後の前日。荷造りなども終わり、少し時間が出来た。散歩も飽きたので、バスに出乗ってみようと思う。ちょうど新店行きのバスが来た。新店と言えば、先日1つの廟の名前が出てきていたので行って見る。バスは高架を走りMRT新店駅を越え、橋を渡る。そこで降りて太平宮を目指した。少し登った場所に思ったより大きな、立派な廟があった。参拝する人は誰もいない。3階まで登るとかなりの景色が見える。建物自体は建て替えられているのだろうが、最初の廟は200年ぐらい前に樟州から渡って来た人々が建立したらしい。

 

実はここは、現在調べている王添灯氏の故郷に近い。そして説明文を読んでいくと、この廟の管理を光復後長い間行っていたのが、添灯氏の兄、王水柳氏だと書かれている。王家にゆかりの廟なのだ。この規模からして、茶業で儲けた資金でここの管理をしていたのだろう。家もすぐ近くらしいが、どこにあるのか見つけることは出来ない。周囲を歩いていると、お墓に突き当たった。それもかなり大規模な墓地だった。何とここは空軍墓地。1950-60年代に亡くなった人、そしてその遺族が多く葬られていた。

 

夜は旧知のKさんと食事。いつもと違うところにしようというので、歩いていると、新しい小籠包屋さんが目に入る。きれいな作りだ。中はなぜか回転すし屋のようになっており、何と注文したものが、レールに乗って運ばれてくる。日本のどこかでも見たサービスだったが、それを模倣したのだろうか。相変わらず台湾も色々とやってくれる。翌日は何事もなく東京に戻った。

ある日の台北日記2018その3(14)懐かしの床屋&包種茶コンテスト

11月28日(水)
懐かしの床屋へ

昼まで原稿を集中して書いており、何も食べていなかった。午後1時を過ぎ、さすがに腹ペコとなって、外へ出た。魯肉飯が突然食べたくなることがある。今日がその日だったようだ。更には暖かい大根スープも欲しい。そして付け合わせに?三層肉を頂く。生姜と一緒に食べると絶品だ。こういうものが簡単に食べられることにとても満足している。

 

実は9月に東京で床屋に行って以来、髪の毛を切っていなかった。これまでは埔里で世話になっていた家が美容院だったので、暇な時に下に降りて行って切ってもらう習慣がついていたのだが、台北で髪の毛を切るのは恐らく30年ぶりではないだろうか。どこへ行って切ればよいか全く分からずに迷う。

 

勿論きれいな美容院は沢山あるが、私にはそんな必要はない。駅の近くには日本のQBハウスの看板も見られたが、料金は300元と、埔里の美容院より高い。日本の10分、1000円よりも感覚的にかなり高いので、入るのはためらわれた。因みに東京の家のすぐ近くにはランチサービス、690円という床屋があるので、どうしても高く感じてしまうのだった。

 

実は宿泊先のすぐ近くに屋台街のような場所があり、その裏通りには何軒も床屋がある。これがまた流行りの美容院とは完全に一線を画す、レトロな床屋ばかりで、こちらに入るのもなかなか勇気がいる。ただもう髪が伸び切ってしまったので、一度は体験、ということでそのうちの一軒に突撃してみた。

 

本当にそこにあったのは、私が子供の頃に行った床屋さん、椅子もそうだし、頭を洗う流しもそのままだった。愛想のいいおばさんが一目で『あんた、日本人だね』と言ったのにも驚いた。台南から出てきてこの道40年、昔は日本人駐在員が沢山来たのだという。その頃のことを懐かしそうに話してくれると、私も懐かしくなり、ついつい話が弾む。

 

勿論最近はお客も減ってはいるようだが、台湾のおじさんたちはこの辺へ来て、髪を切るらしい。古いビルの狭いスペースだから、家賃も安いのだという。頭を洗ってもらう時、鼻に水が入らないように、息が詰まらないように呼吸を整えていると、本当に小学生に戻った気分になる。髪を切り、シャンプーで頭を洗い、多少剃ってくれる、これで300元なら、QBハウスに行くよりはずっといい。そして何よりも楽しく会話するのは何とも良い。

 

11月29日(木)
坪林へ

先日台中で張瑞成氏と会った時、コンテストの話が出た。1976年の鹿谷コンテストはとても有名でその後の凍頂烏龍茶の発展に大いに貢献したと聞いているが、実はその1年前に新店で包種茶コンテストがあったことはあまり知られていない。張氏によれば、1975年に鹿谷、新店で同時開催を目論んでいたが、鹿谷は道路工事があり、1年遅れたのだとか。この新店のコンテストがどんなものだったのか、それを知るために、坪林に向かった。

 

午後2時頃行くと伝えていたが、何と新店から坪林に行くいつものバスはちょうどよい時間が無い。そういう時は大坪林から羅東行に乗ればよいと思い出し、MRT大坪林で降り、バス乗り場に向かった。ちょうど1時発のバスがあったのだが、その前後はなく、もし1時過ぎに来ていたら、大変なことになっていた。やはりバスは確実に時刻表を確認した方がよい。

 

バスは空いていた。道も空いていた。30分ちょっとで坪林に着いてしまった。このバス停は川沿いに着く。向こうには博物館が見えるが、改装は終わったのだろうか。随分と転じない夜が変わると聞いているが。歩いていつもの祥泰茶荘に向かう。大体いつも誰かお客がいてお茶を飲んでいる。ちょうど店では昼ご飯の時間だった。

 

コンテストの話を切り出すと、お父さんが『あの時は現場にいたよ』とサラっという。その時のコンテストは初めてだったから出品も多くはなかったらしい。そして『うちもちゃんと受賞しているよ』と言って、見せてもらったのは、農林庁から得た特等賞のプレートだった。優勝記念、とも書かれているから、この年のトップを取った。しかもその後4年連続優勝したらしい。ちょっと感動した。

 

実はこの祥泰茶荘の歴史は古く、一番古いコンテスト受賞プレートは1960年のものだった。この時も優勝記念だから、何ら変わらないのではと思ってしまうが、以前のコンテストは製茶技術コンテストではなかったろうか。1975年以降は、内需促進のため政府が仕掛けたコンテストだから、かなり趣は違ったはずだが。

 

因みに75年の主催者は農林庁だが、78年は坪林農会になっているのは何故だろうか。相変わらず謎は深まるばかりだが、その答えは見いだせず、凍頂烏龍茶が絶頂を迎える中、包種茶はさほどのヒットを飛ばすことが出来なかったようだ。当時は既に清香型が主流だったようだが、台湾人は濃厚な凍頂を好んだということだろうか。

ある日の台北日記2018その3(13)選挙結果、そして日台交流

11月26日(月)
静岡旅行団との夕食

24日夜に厦門から戻って来た。この日は統一地方選挙があり、その開票状況などを見て過ごす。予想以上の民進党敗北、これをどう考えればよいのだろうか。4年前の選挙で中国との関係をノーと言い、蔡英文政権を生み出した台湾民衆をすごいと思い、台湾老人からは『武士は食わねど高楊枝』という言葉まで聞いた台湾だったが、やはり経済悪化は堪えているのだろうだろう。

 

特に中南部の落ち込みは埔里にいる時もかなり感じていた。若者に仕事がない。しかしこの選挙結果はそういうことだけを反映しているのだろうか。蔡総統の失政?中国の選挙妨害(金銭圧力)?台湾の選挙は決して一般人の投票だけで動いている訳ではなく、むしろ何か得体のしれないものに左右されているような気がしてならない。

 

そんなことを考えていても、福建で食べ過ぎたせいか余り腹も減らないので、近所で刀削牛肉麺を食べる。私は牛肉麺が大好きだが、つるつるした丸い麺より、ごわごわした、モチモチ感のある麺が好きだ。刀削麺は北京にいる頃、時々食べたが、台北でも食べられるのは嬉しい。さすが中国料理の宝庫、台北。いや、東京にも沢山あるかな。

 

トミーが台中からやって来た。彼に台中の選挙結果を聞いても『台中の人間も意外に感じている』という。林佳龍市長は、この4年間、色々な政策を積み上げてきたので、市民には一定の評価があったはずだが、思わぬ大敗。国民党候補がよいと思う人が多いとも思われない中、なぜそんな結果が出たのかと、首を傾げる。

 

今晩トミーから呼び出しがあったのは、静岡県日台友好協会の旅行団が来ているからだった。その中に、私もお訪ねしたことがある、和紅茶製造の第一人者、Mさん夫妻が入っており、トミーはどうしても会いたいということで、特別に夕食に入れてもらっていたのだった。

 

トミーは静岡を訪ねる度にM家を訪れ、紅茶談義をしている。今回は私がにわか通訳になって、この二人の会話を聞いていたのだが、内容的には茶の品種、その栽培法、製造法など、かなり専門的な話が多く、とても私では通訳し切れなかった。ただ二人の間では、言葉が通じなくても何となく分かり合える部分が多く、そこがとても面白かった。

 

M夫人は、いつもFBなどで発信をしておられ、私のFBもよく見ていてくれている。突然現れた私に驚き、そして再会を喜んでくれた。一緒に旅に来た人々も、台湾や中国にご縁のある高齢者の方が多く、90歳を越えた湾生の女性が来られていたのには驚いた。実はこの旅行のスケジュールを見ると、台中、台南などを回る強行軍。明日の朝静岡に帰るというので、さぞやお疲れだったろうが、M夫妻は元気にトミーと話しをしてくれた。

 

外交部の関係者も臨席しており、記念品の交換も行われ、日台の草の根交流を大切にしていた。トミーは旅行団全員に自らの茶をお土産として渡していた。まるでM夫妻の台湾の息子と言う感じで、大いに喜ばれていた。こういう交流もあるのだな、と再認識した。

 

11月27日(火)
講演会を聞きに行く

選挙結果について引き続きモヤモヤしていたところ、本日ジャーナリストの野島さんの講演があるというので、聞きに行くことにした。これは旧知のTさんの所属するロータリー主催であり、絶好の機会だった。野島さんとは5年ぐらい前、未だ彼が朝日新聞に在籍しており、台北支局から戻ったばかりの頃、私が主催していた寺子屋チャイナで、台湾情勢のお話をしてもらった、というご縁があった。その後フリーになり、どうやってあれだけの場所、人を取材して、どうやって資料を集め、あんなに沢山の文章を短期間に発信できるのだろうか、と思うような、スーパーマンになっていた。

 

会場は市内中心部で、かなり立派な設備がある。バーなどとしても使える場所らしい。エレベーターを上がると、既に多くの日本人、そして台湾人が詰めかけており、会場入りする野島さんに、チラッと挨拶するのがやっとだった。今や台湾でも超有名人である。会場には、お知り合いも数人きていた。

 

話の内容は、相当細かい選挙分析、それも日本のマスコミが伝えるような中台関係を基本としている物ではなく、台湾内部の問題、蔡政権の問題などを地道な取材の成果から検証しており、豊富なエピソードを交えて語られる内容は興味深かった。選挙終了後僅か3日目だが、以前より相当なシミュレーションを行い、選挙速報を流している感じだった。

 

講演終了後に挨拶しようと思ったが、既に大勢の聴衆に取り巻かれており、出版本のサインに忙しいようだったので、黙って失礼してきた。私はお茶の歴史を学んでいるが、野島さんほどには力を入れて取り組んでいるようには思えない。所詮遊びだと言いながらも、もう少し何とかするべきだ、と自分に言い聞かせながら帰った。

ある日の台北日記2018その3(12)孤独のグルメ、そして木柵のレジェンドに会う

11月17日(土)
茶展2日目

2日目の茶展、今日は昼前にゆっくりと出掛ける。ブースは一通り見たので、今日はイベントを中心に見ることにした。会場に着くといきなり4階に上がっていく。今日は土曜日なので、昨日より来場者がぐっと多い。コーヒー展の会場は先に進むのが難しいほど、人で溢れていた。

 

その人込みを掻き分けて向かったのは、なぜか茶飲料のブース。そこではトミーが茶飲料のセミナーを開催しており、人だかりが出来ていた。茶に関する普及活動、コーヒー党にも紹介していく姿勢は素晴らしい。ただあまりに会場が大きく、常にざわついており、そして人の流動性も高いので、かなり話しにくかっただろうと想像する。聞いてくれる人がどこに関心があるのかを測るもの難しく、こういうオープンスペースで話すのは私には無理だな、と一瞬で判断する。

 

1階に降りると、中央のスペースで、Aさんによる、日本の手もみ茶実演会が開催されており、こちらは座るスペースがあり、落ち着いた中、実際に手もみが行われ、参加者はその味を確かめ、茶葉を手で触り、色々と質問していた。日本茶への関心もどんどん高まっており、毎年行っているこのような交流には意味がある。実演スペースの直ぐ近いには、静岡県などが日本茶の宣伝販売に務めており、一定の関心を集めていた。

 

そうこうするうちに、Uさんがやって来た。彼は鹿谷での仕事を終え、台北に来ていたので合流した。葉さんのブースで挨拶していると、茶業改良場の黄さんもやってきて、皆で話し込む。そのまま黄さんの後ろについて、もう一度ブースを回ってみる。さすがに黄さんは業界の有名人であり、あちこちのブースから声が掛かり、挨拶を繰り返し、あるブースでは座って茶を飲む。

 

驚いたことに元台湾プロ野球の選手が、黒茶を売っていた。こういう出会いも、言われなければ分からない。Uさんもプロの視点から、様々な茶を試しており、そのトレンドを掴み、業務に生かすことに余念がない。私には見えない多くの物が、この二人には見えているのだろう。その後は一人になり、原住民の高山茶などを見て回る。

 

翌日の3日目は茶展に行くのをお休みして、厦門に行く準備をしていた。夜は許さんによる手もみのAさんたちの歓迎会に誘われたので、出席した。来年2月、許さんを団長に台湾茶業者20名が静岡を訪問し、手もみ茶の勉強をする予定だということで、その関係者が参加、沢山の料理が出てきて大いに盛り上がる。私は静岡の皆さんと交流を深めた。

 

11月19日(月)
アテンド

昨晩静岡から来ているNさんが『明日の最終日、お休みもらえたから、台北観光したい』と言われ、私がお付き合いすることになった。皆さん自主的に台北まで来て、日本茶の宣伝に努めている方々だから、大稲埕あたりのお茶の歴史を紹介したいと考えた。

 

ホテルは比較的大稲埕に近かったので、歩いていくことに。朝方は雨が降ったが、ちょうど止んだのが幸いし、涼しいお散歩となる。皆さん、3日間和服を着て、茶展会場で立ち仕事をしていたので、さぞやお疲れかと思っていたが、お茶農家などで鍛えておられ、歩くのは問題ないという。

 

観光客の多い迪化街を歩くと、乾物屋などから声がかかる。いつものお茶屋をちょっと見て、淡水河の景色を眺める。貴陽街の歴史を少し話したら、もうお昼だった。『どこか地元風の食堂に入りたい』と言われたが、ここは観光地だからどうだろうか。フラフラ歩いていると、如何にも昔からあるという小さな店の前に出た。夫婦が忙しそうに働いている。

 

何とその店は日本のテレビ番組『孤独のグルメ』に登場したと書かれている。私はこの番組を見たことがなかったが、名前は知っていた。少ない席に何とか座れたので、好奇心でここに入ってみた。よく見るとお客の半数以上は日本人で、台湾人はテイクアウトして持ち帰る人が多い。

 

メニューを見ると、普通の魯肉飯から『五郎セット』なるものまである。隣で食べている豆腐が旨そうなので注文し、下水湯(砂ぎもスープ)も頼んでみる。同行者は興味津々というより『大丈夫かしら』という眼差しを向けている。来客が多く、なかなか料理は来なかったが、お腹が空いていたので、普通に美味しく頂く。私はテレビで宣伝するような店に入ることはあまりないが、偶にはこういうのも良いかと勝手に思う。

 

まだ少し時間があったので、腹ごなしに歩いて、林華泰へ行って見た。この店に入るのは10年ぶりだろうか。雰囲気は変わらないが、ちょっときれいになったようだ。日本語を少し話す若い店員が、奥の工場を案内してくれた。以前は店に入っても、ちょっと怖い雰囲気があったが、今や観光客の取り込みに懸命な様子、変化を感じた。

 

会場の片付けに行くNさんたちと別れて、私は木柵に向かった。先日陳先生から紹介された張協興のお父さんに会うためだった。行って見ると、97歳のお父さんはずっと待っていてくれた。早速お話しを聞いたが、台湾語を話すので、孫に通訳を頼んだ。若い頃張乃妙と商売した話や80年前の鉄観音茶がどのような形だったとか、非常に参考になる生の情報が続出した。

 

その後、夕飯をご馳走になり、何とお父さんと二人で食べた。木柵のレジェンドは97歳とは思えない食欲を見せ、私にも食べ物を進める気づかいを見せた。言葉は通じないが、暖かい物を感じる。すごく元気だが、歩くときは介助者が付く。彼女はインドネシア人だが、何と国語も台湾語もある程度以上分かるからすごい。日本もこのような介護者を入れるべきだと強く感じる。

ある日の台北日記2018その3(11)南港茶展始まる

11月16日(金)
茶展始まる

本日より年に一度の台北茶展が南港で始まる。私は一昨年に一日だけ見学したことがあるが、今回は折角台北にいるので、がっつり見て回ろうとちょっと張り切る。初日の朝、茶葉アイスで出店する葉さん夫妻と共に8時台に家を出て、9時過ぎには南港展示場についてしまう。葉さん達は出店準備で忙しいので、私は一人、開場前のブースを見て回った。

 

10時に開場すると多くの人が飛び込んできた。平日だが、それなりに来場者はいるのだ。葉さんのアイスは無料で配られるので、すぐに行列ができ、皆が旨そうにアイスをパクつき始めた。彼らは食べている人々に話し掛け、アンケートを取り、今後の商品づくりに生かそうと懸命だ。普段は企業間取引しかしていない彼らにとって、この場は貴重な機会なのだと分かる。花蓮から手伝いに来た甥っ子がアイス配りで活躍している。

 

トミーから連絡が入った。開幕式は4階で行われるというので、一応皆で行って見ると、そこには、茶業改良場、台湾農林など見知った顔が沢山あった。この開幕式で最初に挨拶したのが製茶公会の陳理事長。実はこの展覧会は製茶公会が主催だと初めて知る。合わせてコーヒー、酒展も行われており、合同開幕式にはヨーロッパや南米の駐在大使なども出席しており、お茶だけの会より、かなり華やかだ。日本からは交流協会の人が参加していたが、残念ながら日本の影は薄かった。

 

台湾がこれまでどんな外交を行ってきたのか、確かに国交を結んでいる国は減少しているが、国交だけが交流ではない、ということをこの会では見せられた思いがする。コーヒーや酒を通じて、商売を通じて繋がっていく、それは双方にとっていい関係とも言え、単に経済支援を一方的に受けるのはちょっと違うように感じる。それでも色々と問題はあるのだろうが、何となく皆楽しそうなのが良い。

 

1階に戻り、トミー達とブースを一軒ずつ回り始める。これまで高山茶、包種茶、紅茶、緑茶などの茶旅でお世話になった人々が沢山出店しており、旧交を温める。トミー達と一緒だと、更に知り合いの輪も広がっていき、楽しく過ごせるのは良い。基本的に私はお茶を飲んだり、買ったりする人ではなく、茶の歴史を学ぶ人だから、お茶屋さんにとっては、不必要な人間、特にこのような場ではそう思われるに違いないので。

 

中には珍しいお茶屋もあった。煎じた茶を独特の器に入れて、茶筅でかき回してお茶を点てている。これは伝統的な茶を淹れる手法なのだろうか。興味は惹かれるが、歴史的にはよく分からない。茶業改良場と共同して製茶機械を開発した会社はその展示を行っていた。品質を落とさず、人力を機械に替えられれば、非常にいい話だ。

 

日本からも、茶道具を売る店が来ていた。今や日本の茶道具は台湾でも人気ではあるが、どれだけの人が関心を持って、実際に買っただろうか。京都からは、職人さんもやってきて、匠の技を実演しているところもあった。こういうのは、言葉を介さなくても、何となく見ていれば分かる部分もあるのでよいが、やっている方は大変だろう。

 

 

午後はちょっと4階のコーヒーの方を見学する。こちらは茶展の3倍以上の面積を使っており、規模が大きい。そして若い人が多く、ブースに立っている。来場者の数も圧倒的にこちらに集まっており、それも若者が多いように感じた。コーヒーブーム、その勢いをまざまざと感じさせられた。しかもコーヒーブースの種類も豊富でユニーク。お茶にはやはり華やかさがないな、と勝手に思ってしまう。

 

夕方、知り合いのYさんが会場に来たというので、合流する。彼女は中国語が出来ないが、ちゃんと日本語のできる台湾男子を確保して、自分の好きなブースを歩き回っていた。この台湾男子は、有機栽培などに相当のこだわりがあり、それを売り物している店を歩いては、色々と質問を重ねている。とても熱心でよいとは思うのだが、どうも私は『有機』『オーガニック』への過度なこだわりにはついて行けない。いずれこの方面は市場が崩壊する?いや茶業全体が衰退か。

 

夜は製茶公会が開いた宴会に出席する。トミーの車で南港から中山北路に向かったが、さすがの大渋滞で、茶展参加者は軒並み遅れる。その中で、地下鉄で来た人々が早くも、ビールを飲み盛り上がっていた。日本からも輸出協会に人々が参加、このような関係が続くことは悪くない。久しぶりの北京ダックも美味しく頂く。今日は偶然にも陳理事長の誕生日で、ケーキも運ばれ、また盛り上がる。台湾茶業関係者ともお近づきになれ、有り難い宴席となった。

ある日の台北日記2018その3(10)なぜ茶の歴史なんか?

11月15日(木)
疑問を胸に

現在の宿泊先の近くに陳先生の店があるので、偶に訪ねて行く時がある。今回は先日大稲埕の福記茶荘で、お母さんから『確か義父、王泰友は陳さんと一緒に木柵へ行っていたから、鉄観音茶の歴史のことなら、陳さんに聞いてみたらどうか』と言われたので、聞きに行くことになった。

 

平日の午後は、さすがにお客もなくちょうどよい。福記の話をいきなり持ち出すと『それは勘違いだ。確かに一度茶工場で会ったことはあるが、一緒に行ったという記憶はない』と言われてしまう。それでも私が困った顔をしていると、優しい陳さんは『鉄観音茶の歴史だろう、それなら張協興に行け』と言ってくれた。

 

だがすでに張協興には何度か行っていると告げると、『先代のお爺さんには会ったのか』と言われ、思わずノーと答える。すると先生、すぐに電話を取り出し、どこかへ掛けて台湾語で話している。そして『お爺さん、97歳だけど頭ははっきりしていると家族は言っているから訪ねてみたら』との有り難いアドバイスを頂戴する。

 

それよりさ、と言って陳先生が持ち出してきたのが、何と先日我々が石門で見た巡回教師の任命書の写真だったので、驚いた。この問題は鉄観音茶ではなく、包種茶の歴史に大きく関わるものだ。そして陳先生と私は全く同じ疑問を持っており、それを解決する手段はないか、探していることに気が付いてまたびっくり。

 

更には高山茶の歴史についても、『80年代、高山茶は本当に売れなかったよ。何しろ福壽山農場に3年間、茶作りに行って、その茶を売った自分が言うんだから間違いがない。今でもどうしてあれに人気が出たのか、と思ってしまうことがあるよ』と思い出を語られ、なるほどと頷く。

 

最後に先生から『なんで歴史なんかやっているんだ、歴史は突っ込みどころが多過ぎて、本に書いても問題多過ぎだぞ』と窘められる。確かに現在共通に抱えている問題点を何とか証明(これまで言われてきたことはは間違いだと証明)したとしても、『では真実はどこにあるのだ』と突っ込まれると答えに窮してしまうのだ。

 

そこへ突然2人連れの客が入って来た。既に連絡があったらしく、素早く顧客対応に切り替える。さすがお茶屋だ。この二人、深圳から来た中国人で、IT関連の企業経営者、誰からの紹介で茶葉を買いに来たという。ほんの一口飲んで、『これ旨いから6斤買うよ。それともっと安いやつも土産に配るから6斤ね』というではないか。

 

正直ここの高山茶はそんなに安くない。それを殆ど試飲もしないで、数キロ単位で買っていくとはすごい。微信で支払いたいというのは如何にも中国人らしいが、この店では扱っていない。彼はすぐに外へ出て、セブンイレブンのATMで台湾元のキャッシュを下ろしてきて、どさっと札を置いて支払いを行い、あっという間に去って行った。日本にも何度も仕事と旅行で行っているとか。

 

こういう客がいるとお茶屋は楽だな、と思ってしまう。と同時に、台湾の茶荘から見て、何種類もの茶を試飲して、ああでもない、こうでもないと言いながら、結局2時間もかけて4両(150g)しか買わない日本人客など、客の内には入らないだろう。それでも我慢強く付き合ってくれている内に、もう少し買い手も考えないといけないな、と痛感させられる出来事だった。まあ、私のように、ハナから商売にもならない人間だと認識されれば、それはそれでよいのだろうか。

 

モヤモヤしながら陳先生と別れる。もう夕方なので、ちょっと早いが夕飯を探す。前から気になっていた、牛雑湯の店に行って見ることにした。どうも私は内臓系が好きで、あればそれを頼んでしまう癖がある。今日は頭もモヤモヤしているので、思い切って、牛雑湯と炒牛雑という、究極の組み合わせを選択する。

 

ここのスープが、またあっさりしながら牛雑の味を出していてイケる。更に濃い目の味付けの牛雑炒めが来ると、幸せな気分になれる。絶妙なタイミングで『白飯いるだろう』と声が掛かると嬉しくなってしまう。人間は幸せだと思える時間を持つことが大切だ、としみじみ感じる。また元気が必要な時には食べに来よう。

ある日の台北日記2018その3(9)暖かい鍋、そして日本語で

11月13日(火)
寒いので鍋

11月の台北はこんなに寒かっただろうか、という日が続いていた。まさかそんなに寒いとは思わず、服も半数以上は半そでだし、ズボンも薄手の物しか持ってきていなかった。まあ2-3日の辛抱かと待ってみたが、一時的に気温が上がっても、体感温度としてはそれほど暖かく感じない。それって、歳をとったからなのだろうか。どうしたらよいのかよく分からない。

 

とにかく食べ物も暖かい物がよいし、飲み物も冷たい物は避けてきた。昼ご飯などは、暖かそうな大根スープの店に入ってしまう。またこの大根の暖かさが沁みるんだな。ついでに内臓系や脂身の肉を頼み、魯肉飯をかっ込むと、かなり寒さは改善される。小雨が降ったり、風が強いと本当に台北は寒い。適度に暖かい埔里が恋しくなる。

 

旧知のSさんとご飯を食べに行くことになり、いつもは『何でもいいです、好きなところを選んでください』というのだが、今日に限っては、『寒いので鍋が食べたい』と言ってしまう。するとSさんから様々な鍋屋の紹介文が送られてきて驚く。羊鍋、麻辛鍋から日本の寄せ鍋など、今や台北にはあらゆる鍋料理が揃っているように見えた。

 

ただ2人で食べるには量的な問題もあり、最終的に日式鍋物屋が選ばれる。行ったことがないので、中山近くのその店に興味津々で入ってみた。かなりきれいな店内で、2人用の席は向かい合うのではなく並びで仕切られている。これでSさんとデート状態になる。隣を見ると何と一人用席までちゃんと仕切られているが、何となくこれは味気ないのでは、と思えてしまう。

 

セットメニューが数種類あり、肉や魚を選べばよいので簡単。基本的には一人鍋なのでお互い好きな物を頼む。すぐに野菜や練り物などがやってきて、タレは自分で作るスタイルだからシンプルだ。寒い日に簡単に一人でも暖まれるというコンセプトだろうか。料金もさほど高くないので、フラッと入り易い。

 

その後はSさんがよく行くというカフェに場所を移して、話し続ける。このカフェ、地下にあり、意外と広い。カップルなどがお茶飲みながら話し込んでいる。そう、台北には様々なカフェが怒涛のように増えてきているが、お客さんは何を基準にカフェを選ぶのだろうか。料金ではなさそうだが、ここのカフェラテはかなり安いので、入り易いのかもしれない。帰りにいまだに中に入ったことがない誠品生活の建物を眺める。もう三越の次代は終わりなのだろうか。

 

11月14日(水)
中国大陸の思い出を聞く

本日も黄さんにお世話になり、王添灯氏関連のヒアリングを続ける。指定された場所は二二八紀念館。最初にここを訪れ、黄さんと出会い、そこから多くのことが広がっていき、今日がある。既に思い出の場所と言ってもよいかもしれない。今日は比較的暖かく、公園を散歩している人も多い。紀念館の前では、社会科見学の学生が記念写真を撮っている。このような歴史は必ず子供たちに教えて行かなければならない。

 

今回お会いするのは、王添灯氏の弟、進益氏の息子さん。進益氏は日本に留学後、文山茶行の新市場開拓の任を担い、大連・天津の支店を任された人。光復後台湾に戻り、茶商公会に長年勤め、その発展に尽力したと聞いている。104歳まで生きられ、90歳を過ぎても公会にバイクでやってきたという長寿、健康な方だったようだ。

 

その息子さんは台湾で生まれたがゼロ歳で大連に渡り、13歳の終戦まで大連で過している。85歳の今でも、日本語は極めて流ちょうで、黄さんたちも話が聞きたかっただろうが、私が日本人だということで、ほぼすべての話を日本語で披露してくれた。大連の小学校、住んでいた場所、その頃の様子を非常に明確に覚えているのが凄い。

 

更には終戦で天津に移り住んだが、そこの住所、付近の建物など、目印がどんどん出てきて面白い。私は子供頃に住んだ場所をこんなにはっきりと言えるだろうか。とにかくお話しを聞いているうちに、天津・大連に行って見たいという気持ちになって来て、ついには行くことにしてしまった。勿論王さんたちが住んだ場所や店舗は、今やある訳もないのだが、それでも『満州や華北に住んだ台湾人』というテーマは実に新鮮で、そして謎も深い。

 

黄さんたちは、貴重な話を収録しようとビデオ撮影までセットしていたが、内容が日本語になってしまい、大変申し訳なかった。ただ王さんが『あんた日本人だろう、僕は台湾人だ。北京語で話はおかしいよね』と言ったことが、心に刺さっている。もし私が台湾語を話していれば、問題はなかったのだろうが、大連で満州語を十分に学び、北京語が流ちょうに話せるはずの王さんが、日本語を選んだのは私のためばかりではないようだ。

 

最後に王さんは『今日稀勢の里が負けたらどうなるんだ、大変だよ』と日本の大相撲を欠かさず見ていると言って帰っていった。何だかとても久しぶりにこのような台湾世代に会ったのが嬉しい。