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タイ北部茶旅2022(6)チェンマイで

折角いい部屋にいるのだからと、午前中は優雅に部屋で過ごすことにした。もう一度ジャグジーに入り、気持ちよく過ごす。外のプールに入ろうかと思っていると、何と韓国人のおっさんが一人でスマホに向かって大声で話している。友達にでも自慢しているのだろうが、何だか見苦しい光景だった。自分もそうならないように気を付けよう。

昼にチェックアウトしたがフライトは夕方なので、国立チェンマイ博物館に行ってみる。実はここは、過去2回行こうとして、2回とも休館日だったという苦い経験がある。月火の休み、祝日休みに引っかかったが、今日はさすがに開いているはずだ。

博物館は城外にある。トゥクトゥクに声を掛けたが、行きたくない様子で法外な料金を言って来るので、即座にGrabで呼ぶ。あっという間にやってきて、行き先を言う必要もなく明朗会計。これではトゥクトゥクの淘汰は時間の問題ではないだろうか。ある意味で長年の観光地の悪しき懸案事項が、今修正されてきており、そこにコロナ禍が拍車を掛けている。

西の方、ヘミンニーマン地区はかなりの渋滞となっている。城内の静けさはなく、既にチェンマイ地元民、タイ人の生活は普段に戻りつつあるということだろうか。運転手も動かない車を見て苦笑している。博物館まで来ると、木々が生い茂り、また静寂の中に入り込む。しかし博物館内は、社会見学?の中学生に占拠されており、まるで野球場のような歓声怒号に包まれている。

その一段をやり過ごし、展示物を見て行くと、チェンマイの成り立ちから周辺地域との交流などが良く示されていてとても勉強になる。そしてこの地域の知識が私には欠けており、ここの歴史を学ぶことで茶の歴史にも間接的繋がることがありそうだと直感する。出来れば来年はチェンマイに長逗留して、ランナー文化などから何かを見つけてみたいと衝動的に思う。

博物館でまたGrabを呼び、チェンマイの街の成立と同時に作られたという最古の寺、ワットチェンムンに向かう。博物館で得た知識の中にあった寺だった。行ってみると、何とも雰囲気が良い。仏塔も渋い。ここには大理石とクリスタルの仏像があり、見応えも十分だが、観光客は残念ながら殆どいない。歴史的な価値もあるが、所謂観光の穴場というべきか。

そこから宿の方に歩いて行き、ランチを食べていなかったので食堂を探したが、良い店が見付からない。結局昨日食べた牛肉麺かと思ったら、その辺に店がいくつも固まってあり、その中に『うまくて号泣ラーメン』という不思議なネーミングの店があったので、思わず寄っていく。

メニューを見るとかなり安いが、日本人の手は入っていそうだったので、とんこつ醤油99bを注文してみる。狭い店内より広場のベンチでラーメンをすする。一番安いラーメンは59bだから、これはかなりコスパが良い。タイ人が結構食べているから地元民向けだろうが、コストさえ合えば繁盛するかもしれない。

宿に戻り、予約した無料空港送迎を待つ。バンはきちんと予定通りにやってくる。これは何とも有難い。それにしてもチェンマイ空港までかなり近いことを忘れていた。だがこれまでは高額の車代を取られていた苦い思い出がある。いや前回はバスが走っていた筈だが、チェンライ同様あれは無くなってしまったのだろうか。

空港に着くと、ライオンのチェックインカウンターへ行く。私は既にWebチェックインをしているのだが、なぜかメールで搭乗券が送られてこない。その理由を知りたかったが、カウンターでは分からないという。それでも粘っていると、スタッフがスマホ上の搭乗券を探し出し、これで乗れるはず、と言ってくれた。忙しい中、対応が非常に良い。更に搭乗口で確認した時も対応が良かった。LCC、これからはライオン一択だな。

機内は混んでおらず、三席を独占して上空から下を見ていた。かなりの場所で水が多いことが確認できる。バンコクに近づくと、工場や家屋が多くなるが、11年前のようにここが水で沈んでしまわないことを祈るばかりだ。ドムアン空港に着くと夕日がきれいに落ちていく。

タイ北部茶旅2022(5)静かなチェンマイを歩く

確かに部屋はかなり広く、風呂場も広く、浴槽にはジャグジーまでついていた。しかも1階でプールは目の前、これはもう完全にカップル用の部屋だった。しかし冷蔵庫が見当たらない。スタッフも一緒に探したがないという。何でこんな立派な部屋に冷蔵庫がないのか?後で氷を貰ったら、そこのスタッフが『絶対ある』と言って再度探し、物入れの下の二十扉から冷蔵庫を発見した。部屋はそれほどに広い?

腹が減ったので外へ出た。さっき通り掛かって気になった麺屋へ行ってみる。牛肉麺と書かれているが、台湾の物とは違うようだ。それでも牛肉が柔らかく煮込まれていて十分に満足できる味だった。外国人もタイ人も食べに来ており、常にお客がいる店だ。華人の家族経営、素晴らしい。

それから場内をフラフラと歩いてみる。残念ながら閉鎖されたホテルやレストランなどがいくつも見られた。観光業、特にこの地域では、観光客が来なかったコロナの2年間はかなりの打撃になってしまったようだ。そしてトゥクトゥク、ソンテウドライバーにとってもお客のいない日々が続いていただろう。恐らく最近ようやく商売を再開した、という雰囲気が漂う。

こんなに人がないチェンマイなら、お寺巡りをしてみようと思う。まるで2年前に行った京都の静けさが思い出される。まず木造のいい感じの建物が見えたワットパンタオに入ってみた。天気も良いので写真も映える。そして後方を見ていると、向こうに崩れかけたものが見えたので、行ってみた。そこはワットチェディルアンというチェンマイ一の名所だった。

ここでは入場料50bを取られた。中に入ると女性たちがお祈りしていたが、そのお堂は女人禁制であり、なぜ入ってはいけないが英語と中国語でも説明されていた。それでも納得できない外国人はいるだろう。お堂の中は非常にきらびやかで美しい。ランナー様式だと書かれている。

1391年この寺はメンラーイ王朝第7代セーンムアンマー王が建立したと伝えられる。チェンマイで最も大きな仏塔のある寺院。仏塔は、創建当時で高さ約80メートル、四角い形をした基壇の一辺も約60メートルと巨大なもので、市街地の真ん中にそびえ立っている。当時の王は仏教の宇宙観に従って、都の真ん中に須弥山に擬えた大きな仏塔を置き、それを囲うように8つの方向にもひとつずつ寺院を建立すると、王朝の繁栄がもたらされると信じていた。現在の仏塔は1545年の大地震で先が壊れ、後に修復されたもの。

ここで暑さを避けて木陰に座っていると、何ともいい風が吹いてきて、眠気を覚える。実に落ち着きのある、静かな午後だった。図書館にも入ったが、停電中でよく見えない。近くにすごく高い木があった。枝葉は上の方だけに生えており、とても特殊な形状だったのが気なった。

三人の王の像のところまで歩く。三人とは、マンラーイ王(中央:チェンマイ王朝王)、カムムアン王(左:パヤオ王国国王)、ラームカムヘーン王(右:スコータイ王国国王)だという。その向かいにチェンマイ民俗博物館があったので、入ってみる。入場料100b。展示品はかなり豊富で見応えがある。

暑さで疲れたので一度宿へ戻り、部屋のジャグジーで寛ぐ。これならプールに入らなくても気分が良い。夕方夕飯を探しに外へ出たが、以前行った和食屋はタイ料理屋になっており、近所の新しい和食屋は満員で入れない。仕方なく華人経営の店に入ったが、愛想がない。カリカリ豚と揚げた魚、スープと白米で270bも取られた。なんでチェンマイらしいものを食べなかったのだろうか。夜は広いお部屋で一人寛ぐ。

9月17日(土)チェンマイ散策

眠りが深かったのはベッドが良かったからだろうか。すっきりとした朝を迎え、朝食に行ってみる。お客は2組しかなく、従業員もいない。何とか注文して、サラダなどを取っていると、中国人家族4人がものすごい勢いで口論を始めた。最初は『中国語の甲高い声、懐かしい』などと思っていたが、それは長く続き、食堂に響き渡る。ああ、またあの煩い日々が戻ってくるのだろうか。ハワイから来た男性が負けじと大声で英語を話す。食事の味は覚えていない。

タイ北部茶旅2022(4)ウィアンパパオ 暁の家で

そこからNさんの居場所までは一本道を歩いて行けると聞いたが、念のため車で迎えに来てくれた。Nさんはタイに関わって35年、山岳民族支援活動をずっとしているという。私はバンコク在住の知り合いから紹介されて、ここを訪ねることになったのだった。ルンルアンプロジェクト、元々は山岳民族の子供たちの教育支援で、現在の地に寮を作り、学校に通わせるものだったという。最初はバンブーハウスから始まった。既に寮は閉鎖されているが、敷地は広大で、寮として使われた建物も残っている。

事業は徐々に山岳民族の産業振興支援へと移っていき、2008年からはコーヒー栽培が始まった。そして5年前からはアッサム種を使った紅茶の製造も始めたというからすごい。山の人々は換金作物が必要であり、有機栽培のコーヒー、紅茶は主力事業になるという。紅茶を飲ませてもらったが、ほんのり甘い感じがする。

Nさんにお話を聞いていたが、その淡々とした語り口、淡々とした活動状況を知るにつれ、さすがに35年やっている人は違うな、と感心した。同時に35年の間には想像もできないほど大変なことも沢山あり、その結果として今日の『淡々ぶり』なのだろうと勝手に解釈した。猫や犬が実にのんびりと暮らしている。

寮だった建物は、日本から来る中高校生など、研修用に活用されている。様々な団体や個人がここを訪れ、何かを学んで帰っていくらしい。図書館もあり、かなりの日本語の本も置かれている。これも歴史がなせる業だろうか。鶏も飼われているし、隣には田んぼや畑もある。自給自足が出来そうだ。

午後5時を過ぎると夕飯の時間だ。スタッフ全員がそろい、スタッフの当番が作った蒸し鶏を頂く。これは美味い。食度はかなり大きく、30人来ても入れそうだった。京都の女子大学生が一人、研修で来ていた。『コロナの時期でご両親の反対はなかったか』と聞くと、何と『母は高校生の時、ボランティアでここに来ました』というではないか。筋金入りということだ。彼女の研究課題は『持続的な支援』だそうだ。

食後は各自過ごす。シャワーはお湯が出るし、トイレはきれい。部屋もシンプルだが、Wi-Fiも入るので、何の不便もない。日が暮れると非常に静かになる。そんな中でPCに向かい、日記などを書いていると、時間は過ぎていく。寝ようとすると、灯りで集まってきたのか、蚊が飛んできて刺されてかゆかった。標高500mはメーサローンに比べれば低いが、それでも涼しかった。

9月16日(金)チェンマイへ

朝6時前に起きた。ここのスタッフは既に起きて、掃除や朝食の用意をしている。朝飯のスープと野菜も美味しく頂く。Nさんは今日、支援者のお葬式があるとのことで、急遽朝から出掛けることになった。その短い合間に、私にコーヒーを淹れてくれ、美味しいバナナも出してくれた。Nさんと話した時間は決して長くはなかったが、何だか支援したくなるような人だった。

Nさんが出掛けてしまい、私もチェンマイに行くことになったのだが、そのバスまでまだ時間がある。折角なので周辺を歩いてみることにした。ここは平地であり、周囲にはコンビニも銀行もあり、ある意味で街中なのだ。子供たちが学校に通うにも便利だったのだろう。近くには大きな病院まであった。ウィアンパパオとは、どのような歴史で出来た街なのだろうか。交通の要所であったかもしれない。

午前10時にスタッフに送ってもらい、街中のミニバス乗り場へ行く。昨日既に席を予約してもらっていたのだが、始発から乗車したのは私だけだった。途中メーカチャンで数人が乗り込んだが、それでチェンマイまで行く。以前は一日に数便もあったチェンマイ行は今や4便となり、それも満員にはならない寂しさだ。88bで、チェンマイアーケードまで2時間で行く。

いつもは車で込み合っていたアーケード付近だが、何となく車が少ない。そしてバスに乗る乗客も多くはない。寂しい。取り敢えず予約した宿まで行くのにGrabを取り出したが、面白くないので、ソンテウおじさんに声を掛けてみた。やはりお客が少ないのだろう、Grabとさして変わらない料金を最初から言ってきたので、ソンテウで行くことになった。彼らの生活も大変なのだろうと思いながら、隙間から外の景色を眺める。

今回初めて宿を城内にしてみた。観光都市チェンマイがどうなっているのかを観察するのが目的であり、その為通常より良いホテルを予約したが、料金は日本のビジネスホテル並みだったので、それだけでもチェンマイの大変さが分かった。宿に着くと、立派なところだった。受付の女性が『え、一人で来たんですか、部屋広いですよ』と驚いていた。

タイ北部茶旅2022(3)メーサローン散策、そしてウィアンパパオへ

午前中はお散歩。茶器モニュメントまで歩いて行く。これまで何度か歩いたが、今回は無難な広い道を通る。途中の坂道に茶樹が生えている。これは山茶だろうか。葉っぱや木がかなり大きなものもある。アッサム系だろうか。モニュメントに辿り着くと、獅子たちは健在だったが、茶器は一部取り外されていた。かなり古びていたので仕方ないだろう。私が最初に見たのも16年前なのだから。

その下まで歩いて行くと、芙蓉宮が作った風景スポットが出現した。確か茶畑は5年前伍さんが作っていたのを思い出す。あの時の茶畑がこんなインスタ映えするスポットになったのか。ここだけはタイ人観光客がいる。トイレも完備されているので、私も使わせてもらい助かる。その下まで降りるつもりでいたが、足に自信がなく途中で引き返す。衰えを感じる。

主要道路まで戻って、以前訪ねた茶工場を探すとそのあたりに大型リゾートホテルが出来ている。でもお客はいないようだ。コロナ前から準備して出来上がったのだろうが、経営はどうなのだろう。茶工場を探し当てて行ってみると、女性たちにより枝取りが行われているだけだった。雨が多いので今週は製茶はなしらしい。その下には景色の良いカフェが作られており、冷たい飲み物を飲んで休む。

なぜかチェンマイからバンコクに戻るフライト予約をスマホでした。私は現金で払いたいので、セブンのカウンター支払いを選択する。ついでにドリンクを買う。ここにポカリスエットが売っている。その下の雲南麺屋で雲吞麺を食べる。50bで美味しい。やっぱりお婆さんの中国語は流暢 (若者も中国語は分かるが話さない傾向?)。帰りの道にコインランドリーが出きている。やはり突然雨が降る変わりやすい天気には便利?

午後は天気が良かったが、疲れたので部屋にいた。晴れた景色を眺めるのもまたよし。ずっとバルコニーに居たら、蚊に刺されてかゆい。夕飯にチャーハンとキャベツ炒めを注文したら、ちょうどオーナーの楊さんと三男がチェンマイから戻ってきた。ご主人のお母さんご病気で、チェンマイの病院にいるらしい。87歳というが、このお母さんの人生は聞いてみたい。

楊さんとご主人の李さんの父親同士は雲南黄埔士官学校の同期生であり、その縁で結婚したことを初めて知る。ミャンマー生まれの楊さんに最近の状況を聞いてみたが、陸路の国境は全て封鎖されており、この宿で働いているミャンマー人も帰ることはできない。更には危険が迫っているので、ミャンマー人は密航してタイに逃げこんでいるという。また観光客は来ないので、ホテル業は低調だが、巣籠需要なのか、茶葉輸出は好調でホテル従業員を茶業に回しているという。

9月15日(木)メーサローンからチェンライへ

昨晩はそれほど寒くなく、快適に眠れた。朝ご飯を食べに行くと楊さんが一緒に食べてくれた。カオトーガイに今日は油条が付いてくる。楊さんは実は果敢(雲南‐シャン州の国境にある秘境)の領主家出身だというので驚いた。その一族の歴史が書かれた本を貸してくれる。彼女の一代記、是非書いてみたい。

メーサローンを離れる。Grabは捕まるか分からず、三男がメーサイへ行くので下まで乗せて行ってもらう。いつもとは別道を行くと早く平地へ出る。三男とは初めて会ったがなかなかの好青年だった。メーチャン付近で降ろしてもらい、ちょうど来たチェンライ行バスに飛び乗った。ボロバスだが、25bでチェンライまで運んでくれる。

バスで約50分。バスターミナルへ着くとちょうどメーカチャン行は出てしまっていた(トイレに入っている間に?)。仕方なく、ターミナル前のきれいなカフェに入り、久しぶりのクラブサンドイッチを頬張る。美味しい。120bはバンコクでは考えられない値段だ。コーラも飲む。

12時半出発予定のメーカチャン行バスに乗り込んだが、定刻を過ぎても出る様子がない。荷物を大量に載せており、中では箱詰めされた鶏が鳴く!鶏と一緒にバス?数十年ぶりの体験にちょっとウキウキ?運転手はバスの下にもぐり始める。バスは故障したのだろうか?

13時過ぎにようやく出発。そこへ本日訪ねる予定のNさんから電話が入り、私の行き先を車掌にタイ語で告げてもらう。最初誰が車掌だか分からない雰囲気が面白い。途中はかなりの山道あり、水田ありの田舎道を行く。2時間かかって、本日の目的地、ウィアンパパオに到着。55b。降りるよう指示されたサイアムコマーシャルバンク前でバスが停まるまで、タイ人乗客も皆緊張していた。何せ車掌は私より先に下車してしまい、乗客に私のことを頼んでいたのだから。

タイ北部茶旅2022(2)懐かしのメーサローンへ上がる

少し待ってみたが雨は止みそうにない。宿からバスターミナルへ行き、ローカルバスでメーチャンの先まで行って、そこから山へ行くソンテウを拾うという作戦だったが、そもそもコロナでソンテウが走っているのかもわからず、不安になる。念のためにGrabで探してみると、何と料金がこれまで払ってきたタクシー代の半額程度だったので驚いた。

しかし実際に行く車があるのかとボタンを押してみると、何とすぐにつかまり、こちらに向かってきてしまった。驚いて宿をチェックアウトすると、そこにきれいな車が待っていた。メーサローンへと告げると黙って首を縦に振る。若者だが英語は苦手のようだ。車はチェンライを出て、メーサイ方面に向かう。雨が降っているせいか、運転が非常に丁寧で好感が持てる。

メーチャンの先から山道に入ったが、そこにはソンテウの姿はなく、Grabを選択して本当に良かったと感じる。あそこで雨の中いつ来るともしれないソンテウを待つのはちょっと耐えられなかっただろう。山道は相変わらず急であったが、運転の安定感が救いとなる。途中車は殆どなかった。ちょうど1時間半で懐かしいメーサローンビラに到着した。料金はわずか550b。チップをあげても合計600bでとても安い。驚いたことに料金を渡すときに顔が見えたが、何と男性ではなく、若い女性だった。こんなおじさんと山の中を走るのは不安もあっただろうにと、気の毒に思う。

メーサローンビラは変わっていなかったが、受付の女性は変わっていて私は知られていなかった。まあここに泊まるのは7年ぶりだから仕方がない。取り敢えずチェックインすると、いつもより景色が良い、バルコニーのある部屋へ通された。妙に落ち着く。だが、オーナーはチェンマイに行っており、今日は帰らないことを知る。

取り敢えず雨が止んだので、街歩きを始める。覚えている道よりずっと急な坂道に思えるのは、自分の体力が落ちたせいだろうか。セブンの前は工事中だが、何ができるのだろうか。茶葉を売っている店が並んでいた場所までは実に遠く感じた。段将軍陵墓の入り口を通り過ぎると、ようやくお店が見えてきた。

茶葉を売る広場には人がいない。店もお茶よりドライフルーツをメインに置いている。その先に地元民向けの新市場が出来たようだ。観光客が来なかったコロナ禍での変化だろう。とにかく坂がきつい、長く感じられるのは老いのせいだろう。それでもあと1㎞ぐらい歩いて、泰北義民文史館までやってきた。

文史館の敷地内には、新しく段将軍の像が出来ていた。段希文はメーサローンの歴史そのものなのかもしれない。その生い立ちから生涯をここでじっくり学ぶ。特に1960年代、この地に残って孤軍奮闘する様は、何と言ってよいか分からない。またこの軍隊は75年の蒋介石死去でタイに土着することを決め、武装解除したのかと思っていたが、70年代末でも戦闘をしていた。これはサイゴン陥落やラオス建国など国際情勢が影響していたのだろうか?

アップダウンのある坂を引き返しながら考えても何も浮かばない。腹が減り、途中で麺を食べる。ひき肉がスパイシーな、ボリューム満点の雲南麺、40b。おばさんの中国語が流暢なのは有難いが、若者は中国語を使わなくなってきたように思える。あるいは最近ミャンマーから来た人なのだろうか。

段将軍陵墓にも行ってみる。やはり坂道を歩く。実に静かな、奥まった場所にあった。福の文字が印象的。お墓の前のお供え物、茶杯に葉っぱが直接入ったお茶が置かれている。段将軍は茶業に対してどのような考えを持っていたのだろうか。街中の家の壁に描かれた 好々爺な段将軍の姿。近所には蒋家塞の文字も見える。

宿に帰った。バルコニーからただただ景色を眺める。何とも懐かしい風景が広がっているように思える。そしてかなり涼しい、いや半袖では寒いくらいの気候。標高が高いだけではあるまい。夕方食堂で名物の豚足とスープを食べる。ようやくお茶も出て来る。きれいな夕暮れが流れていく。

9月14日(水)メーサローン2

夜中は寒かったので、毛布を掛けて寝たが、朝はさわやかだった。朝ご飯にはお馴染みのカオトームーを頼む。するとなぜかトーストが出てきたので、折角なので一緒に掻き込む。インスタントコーヒーも付いてくる。それからゆっくりとお茶を飲む。そしてまた風景を眺める。

タイ北部茶旅2022(1)チェンライまでの道

《タイ北部茶旅2022》  2022年9月12日₋17日

今回のバンコク滞在中、どうしても行きたい場所があった。それはメーサローン。もう5年も行っていない。何とか合間を見つけて旅に出ることにしたが、まずは予約したチェンライ行フライトがまさかのキャンセル。果たして旅はどうなるのか。

9月12日(月)チェンライへ

1週間前に予約したチェンライ行。4日前の夜に突然キャンセル+当日の夜便に変更、との連絡が来た。当日朝が夜になると、当然予定は狂う。どうするんだ、LCCでの初の経験。取り敢えず書かれていたアドレスにメールを打つ。せめて前日の夜に変更して欲しいと。朝になって、『こんなメールに返事は来ないよな』と思い、対策を練り始めた矢先、返信があった。変更は1回限り無料、但しコールセンターに電話して変更、が条件だった。

そこから電話が繋がらない。諦めかけた頃、突然オペレターが出て、後は意外とスムーズに変更が叶えられた。ただ彼女は3回も『コンファメーションは今日中に送るから見てね』と言っていたが、その肝心のメールはついに来なかった。だが前日リマインダーが届くと、そこには変更後のフライトが記載されていてようやくコンファームされた思いだった。

元々朝早い便だったので、結局ドムアン空港付近に泊まろうかと思っていた。それがドムアンではなく、チェンライになっただけだといい方向に考えた。また午後時間に余裕があったので、雨を避けながら早めに空港に向かい、先日も乗ったレッドラインで空港へ行ってみた。レッドラインの駅(外)にはトイレがあることを発見。また先日も食べた空港食堂でゆっくり夕飯を食べてから飛行機に乗り込んだ。

さすがに朝便を詰めて夕方便だけにしたせいか、機内は意外と混んでいた。タイライオン航空はこの日、キャンセル便がいくつもあった。他社もそうだが、燃料費高騰などで不採算では飛ばさない、ということだろうか。今後もキャンセルの可能性には注意が必要だ。

定刻前にチェンライ空港に着いた。2年半ぶりだが、前回は確か市内行バスが運行されていて喜んだ覚えがある。ところが外へ出てもバスはなく、案内所で聞くと『バスなんてありませんよ』とまるで夢でも見ているの、という対応をされ、タクシーに誘導された。昔は運転手との交渉が嫌だったが、今ではカウンターで行き先を言えば、定額で行ってくれるのでまあいいか。

フライトが確定しなかったこともあり、ホテルは予約していなかったが、以前泊った街中の老舗に行ってみた。予約サイトでも直前は料金が上がっていたが、取り敢えず受け入れ範囲内の料金だったので、そのままそこに泊まることにした。ここは古いがその分広く、ゆったりしていてよいはずだったが、なぜかシャワールームだけ非常に狭かった。

飲み物を買いに外へ出た。すぐ近くのバスターミナルが新しくなっていたが、午後8時でほぼバスはなく、乗客もいなかった。その向こうに夜市があったので行ってみたが、残念ながら観光客の姿は少なかった。ここにもコロナの衝撃が見られた。昔世話になったフランス人経営の旅行会社の姿もない。

以前行った夜市のレストラン、西洋人が多かったが、今やほぼ開店休業状態だった。そこから少し歩くと、そことは別に、地元民を含めたタイ人向けのフードコートが出来ており、そちらはそこそこの賑わいがあった。私も軽く焼きそばでも食べようと席を探したが、雨が降っていたらしく、どこも濡れていた。店の人が席を探してくれ、本日四食目を完食して一日目が終了した。

9月13日(火)メーサローンへ登る

翌朝起きると雨が降っていた。今日は山登りの予定なので憂鬱になる。まずは宿の朝ごはんを思い切り食べて、気力を養う。宿泊客はそれほど多くはないようで、しかもタイ人ばかりで外国人の姿はほぼなかった。7年前はかなり賑わっていたホテルで、静かな朝食を嚙みしめながら食べる。

パクセー茶旅2020(3)パークソンの茶畑

それから街中をゆっくり散策する。ウボンと比べると少し涼しい感じがするのは気のせいか。ワット・ルアンという大きな寺に入ってみる。かなり歴史がありそうだとみていると、なぜか日本人の団体が入ってきた。学術調査のついでに観光しているといった感じで、細かい所を見ている。ここのお墓にも漢字が刻まれており、華人もいることは分かる。

きれいな建物があった。中には小さな店がたくさん入っているが、お客は全くいない。昔の市場をここに押し込んだのだろうが、効果はあまりなかったようだ。教会も見える。この地には、華人の他、宣教師などもやってきたことだろう。そこから川沿いに出て友好橋を写真に収めようとしたが、うまく撮れないので、どんどん橋に近づいて行き、気が付くと橋の袂まで来ていた。

この橋、日本の資金でできたらしいが、建設したのは韓国の会社か。その名前が刻まれている。そして実際にこの橋を使っているのは、ラオ人の他はタイ人と中国人が多いらしい。これぞ国際貢献、と言って喜べるのだろうか。いずれにしてもパクセーはこの川で栄えた、とは分かる。近くには立派なホテルも建っている。夕陽がドンと落ちていく。

今度は内側に歩いて行くと、市場があり、夕飯の買い物をする人々がいた。宿の方へ戻ると、途中には中国系の廟などが見られたが、既に門は閉ざされていた。結構歩き回ってかなり疲れてしまった。夜外へ出るとすぐ近くにも立派な中華商会の建物があり、やはり華人が貿易していたのだと理解する。

夕飯は、昼を食べた隣のカフェへ入る。そしてシーフード炒めと書かれているのを、イカ炒めだけにしてもらい、たらふく食べた。隣に地元の華人と中国から来た中国人のグループが座った。周囲はちょっと気にしていたようだ。既に中国人団体観光は止まっているが、彼らは個人で来たのだろうか。それとも中国に帰れず、既に1月からここに留まっているのかもしれない。

2月18日(火)パークソンの茶畑へ

翌朝は宿で簡単にご飯を食べてチェックアウトした。やはり隙間風がうるさくてよく眠れなかった。フロントの男が『どうしてチェックアウトするのか』と聞いてきたが、無言で支払いをした。外に出ると、そこには昨日予約した車の運転手が待っており、荷物を載せて出発した。

車はすぐに郊外へ出て、思っていたよりずっといい道をほぼまっすぐ走っていく。山を登っているという印象は全くなかったが、30分後に標高を計ると、100mから800mに上がっていたので、かなり驚いた。そして車は道路わきに入っていく。そこは茶園があるらしい。手前の小屋には簡易な製茶道具が置かれ、奥には確かにかなり古い茶樹が沢山植わっている。

運転手は何が楽しんだ、という顔をしていたが、とにかく茶畑を見ると嬉しくなってしまうのはどうにも止めることができない。思ったよりずっと広い茶畑なので、写真を撮りながら、ずんずん奥へ入っていく。茶樹の間隔は広く、昔の茶畑という雰囲気が漂う。但し直射日光が照りつける、平たい場所にあるので、茶樹の生育としてはどうなのだろうか。

建物の所に戻ると、運転手が女性と話していた。その女性がここのオーナーであり、製茶もしているとのことだった。運転手が通訳をしてくれて聞いたところでは、まだフランス統治下、お父さんがベトナムからやって来て、ここでフランス人の茶作りの手伝いをしていたらしい。

フランスが去った後、その茶園を受け継ぎ、ここで茶業を続けてきた。道路の向かいにはコーヒー園とドリアン畑も広げた。そして父親が亡くなる時、姉妹が相続をした。目の前の彼女が茶園を引き継ぎ、妹が残りをもらい受けたらしい。とにかくここの茶畑は80年以上の歴史があることが分かり、満足。

現在ここで作られている茶は、何と紅茶、烏龍茶、白茶の3種類だった。普通ならあの晩茶のような緑茶が作られるはずだが、どうやら観光客向けに販売するので、フランス人あたりの好きそうなメニューになっているのかもしれない。これ以上、技術的な話は、通訳もできないだろうからと止めた。そして茶を少量ずつ買って、ここを離れた。

更に道を行くと、大型バスが停まっていた。ここでは白人さんが沢山下りてきて、皆でコーヒーを飲みながらガイドの説明を聞いていた。そしてお土産にコーヒーを買っていく。まさにコーヒーツーリズムだ。お茶も同じような扱いだろうが、現在ではコーヒーの方が優勢だ。

もう一つの茶園に行った。こちらはきちんと手入れをしていないようにも見える。完全に平らな土地に茶樹が無造作に植えられている。日もだいぶ高くなり、とにかく暑い。これではいいお茶が出来る、という感じはしない。なぜか茶畑を牛が歩いており、危うく衝突するところだった。

もうこれ以上、ここにいる理由もなく、車は町に帰っていった。途中道路脇に、大きな工場が見えた。Dao Coffeeという有名ブランド。1991年創業のラオスでも有数の企業だという。昨日歩いていた友好橋の袂にも、きれいなカフェを開店させていた。コーヒーの他、茶も商っている。

パクセー茶旅2020(1)ウボンラチャタニーで

《パクセー茶旅2020》  2020年2月16日-19日

3月初めまでバンコックを拠点に活動する予定だった。そして5年マルチのインドビザを用意し、コルカタ経由でアッサムに乗り込むつもりだったのだが、コロナウイルスの影響で急激に雲行きが怪しくなる。もしインド国内で隔離されたら、と思うと、インド行きに二の足を踏んでしまい、ビザを捨てて、ラオスに走ることにしてしまった。この判断が正しかったのかは、後に分るだろう。今回は行ったことがない南部ラオス、パクセーを目指す。

2月16日(日)ウボンへ

バンコックから直接パクセーに行ってもよかったのだが、それではやはりつまらない。今回は陸路で国境を越えようと思い、ラオス国境に近い街、ウボンラチャタニーまで飛行機で行って、そこに泊まることにした。実は2年前、コンケーンからウボンに行こうとしたことがあったが、バスの時間の関係でシーサケットに行ってしまい、結局ウボンだけ取り残してしまっていたのだ。

国内線に乗るべく、ドムアン空港を目指す。日曜日ということもあるが、MRTは空いていた。マスク姿が殆どだ。チャドチャックから空港バスに乗ると乗客は何と2人だけ。既にバックパッカーなどは随分と減っていることが分かる。ある意味でこれだけ人がいなければ安心かな。

ところがドムアンでは相変わらず乗客がかなりいた。マスクしていないのは、ほぼ白人というのが面白い。白人は感染症に敏感だとずっと思ってきたが、違うのだろうか。それともマスクが買えないのだろうか。飛行機に向かうバスも満員。機内はタイ人が多く、7割程度の乗客だった。

1時間でウボン空港に到着する。直ぐに外へ出ると、ここにも空港バスが出来ていたので乗ろうとして聞いたら、このバスは、お前が予約した宿にはいかない、と乗せてもらえなかった。タクシーに乗れと言われたが、何となく嫌で、そのまま歩き出してしまう。この空港、街とくっついているので、宿まで3㎞程度だった。ちょっと暑いが歩けないほどでもなく、街を散策しながらゆるゆると行く。

街はゆったりとしており、それほど大きくもない。宿までもう少しというところで腹が減ったので、食堂に入ってみた。そこには何ととんかつなどと書かれている。注文してみると,薄いカツに、不思議なソースが掛かっており、どんぶりでもなく皿に載ってくる。ライスの上には、目玉焼きが載る。完全な創作料理で面白い。

宿は結構立派で部屋も広い。料金は意外と安かったので、嬉しい。早速明日のパクセー行き情報を集めようとしたが、残念ながらフロントの女性たちはあまり英語が得意ではない。それでも一生懸命対応してくれ、何とか分かったのは、ここからかなり離れたバスターミナルから1日2本バスが出る、ということだけだった。

仕方なく、周辺を歩いて、旅行会社などを探すが、見つからない。大きな通りに出ると、ウボン国立博物館があったので、取り敢えず見学してみる。タイの博物館はどこもそうだが、ここも発掘された仏像の展示が中心。見学者は誰もいないので、係員も手持無沙汰でおしゃべりに夢中。

商店街があったが、日曜日のせいかほぼ閉まっていて人気がない。旅行社が一軒開いていたので、入ってみると何とか英語は通じたが、やはりバスの予約はターミナルへ行かないとできないと教えられる。その場所はBigCの近くだと聞く。そのまま川沿いに歩いて行くと、市場があったが、既にほぼ店じまいしており、のんびりした雰囲気。少し川を眺める。

橋の所へ行くと、ソンテウが停まっていたので、『BigC』と言ってみると、乗れ、と合図されたので乗ってみた。大通りをまっすぐ行けばBigCなのだが、ソンテウはくねくねと横道に入りながら、北に向かって行き、最後のBigCで停まった。地方都市のソンテウは10バーツだから安い。

地図で見るとすぐのはずだったが、ターミナルまでは実はかなり距離があった。テクテク歩く。郊外のバイパス道を何とか渡り、ようやくたどり着く。私はウボンで何しているんだろうか。パクセー行のバスは午前9時半と午後3時の2本、料金は200バーツ。午前便を予約したかったが、当日しか売らないと言いながら、座席表に私の名前を書き込んでくれたので、安心してまたソンテウで戻る。

まだ陽が高かったので、もう少し散歩を続ける。大きな教会が見えたので、ちょっと眺めていると、シスターが子供たちに声を掛け、何か話している。その親しげな様子は好ましい。私にも英語で声を掛けてくれた。

国境の街だから、貿易などに携わる華人は沢山いると思うのだが、華人廟も見つからないし、漢字の看板もさほどない。華人は一体どこへ消えたのだろうか。夜は何とか見つけた華人経営の店で麺をすすったが、言葉は英語だった。

チェンライ・チェンマイ茶旅2020(3)チェンマイのコンブチャ

チェンマイで

バスは今来た道を戻り、順調に進んでいく。車内の乗客は6-7割の状況であり、わりとゆったりできる。途中であのタイ茶の工場があり、近くには温泉が出ており、そして休息があった。3時間で着くはずだったが、1時間は遅れているのが何ともタイらしい。更にはチェンマイ市内へ入る道がひどい渋滞でバスが全く進まず、結局4時間半かかって、アーケードターミナルに入った。

バスを降りると、誘導され一列に並んで、何と検温を受けた。一昨日のチェンライ空港でもなかったことで正直驚く。平熱で助かる。既にチェンマイは大変なことになっているのか勘ぐったが、そこを通るといつもの風景。いや、客が非常に少ない状況が見えた。渋滞なので、予約した宿までタクシーには乗りたくなかった。何とかバイタクを探して乗り込む。

西側の老舗ホテルの豪華なロビーは静まり返っていた。日本人観光客の姿が数人見えただけで、スタッフは全てマスクをしていた。部屋は広いが非常にシンプル。テレビはなぜか日本の民放が1つ映ったが、NHKは映らなかった。電気ポットはあったが、インスタントコーヒーすらなかった。これがかつては天皇も訪れたというホテルだろうか。ロビーにその写真が飾ってあるが、今やかなり安いのだ。

ここでOさんと再会した。Oさんは以前バンコック茶会に参加してくれたことがあり、その後いつの間にかインドに拠点を変えていた。一昨年台湾で再会し、その後バンコックで一緒に茶旅した。今はインドが寒い(彼の拠点は北部の山中)ので、チェンマイで避寒しているというのだ。この付近には月極で借りられる部屋が多くあり、日本人もかなり住んでいるらしい。次回は試してみるか。食事も日本人などがよく通う台湾料理屋で食べながら、遅くまで話し込んだ。

2月4日(火)コンブ茶

翌朝Oさんと待ち合わせて、タクシーでTea Galleryへ向かった。ここも2年半前に訪問した場所ではあるが、車で連れてきてもらったので、その一は全然分かっていなかった。それでもGrabで車を呼び、何とか辿り着く。チェンマイ郊外、閑静な住宅街にオフィスがあり、知らない人はまず行けない場所だろう。

1階はドリンクなどが飲めるスペースになっている。入っていくと、何と前回チェンライでプレゼンしていたイタリア人と再会した。Jackはコンブ茶などを研究している博士だった。そしてオーナーのJeedもやってきた。彼女は私のことは忘れていたが、静岡訪問団は覚えていた。

コンブチャはタイのミエンから作られるドリンクで、健康茶としてアメリカなどで人気があるという。日本ではその昔、紅茶キノコと呼ばれていた。ミエンの製造を含めて、Oさんは発酵食品の研究に余念がなく、この手の話には極めて情熱的に反応して、出されたミエンが美味しいと食べている。ミエンから作られるジャムなど、興味深い商品も並んでおり、ワッフルにつけて食べる。もし身近に売っていれば、きっとヒットするだろうが、家訓なのか、大きな商売はしないともいう。

Jeedの話を聞いていて驚いた。実は彼女の父親も雲南回族。母がタイ人のため、彼女はヒジャブを被らないが、イスラム教徒だというのだ。苗字は雲南回族で一番多い『馬』であり、馬班だったらしい。しかも昨日訪ねたジャルワンとは姻戚関係もあるというから世界は狭い。父親の代は茶業者だったので、バンコックの茶業者との付き合いもかなりあったらしく、知っている名前もいくつか出てきた。

彼女が引き継いでから従来の形態を転換して、現在は科学的な研究を行うラボも作り、健康をキーワードにビジネスを展開している。顧客はアメリカやヨーロッパに広がっているが、タイ国内の需要が高まることを一番期待しているという。タイの茶産業は後発だから、このような健康食品ビジネスが有望ではないかということだ。

Galleryを辞して、ワロロット市場へ行ってみる。いつもは観光客で賑わっているが、中国人の団体がごっそり抜けた感じで実に静かでよい。ミエンを売っている店は僅かしかなく、残念ながらタイではこれを食べる習慣は薄れていることが実感できる。周囲の華人廟などを探しながら散歩してみたが、思ったほどは見つからない。この街で華人はひっそりと生きているのだろうか。

一度宿に帰り、預けた荷物を取ってから空港へ行く。バスターミナルと異なり、こちらは検温など、コロナ関連の対応は特になかった。マスク姿が増えていたものの、バンコック行のフライトはほぼ満員で、影響はまるで感じられない。この時点、コロナは中国だけの問題だと思われていた。

チェンライ・チェンマイ茶旅2020(2)回族の茶業者

そのまま川の方に戻ると、何ともレトロで良い感じの洋風建築のカフェがあった。タイの若者であふれており、川べりの席は無さそうだったので、そのまま歩いて帰る。夜は、かなり気になっていたコムヤーンカレーを食べてみた。豚ネックを使った、それほどスパイシーではないカレーは意外なほどうまい。カレーは北部タイ料理なのかと聞いてみたが、家では食べたことはない、との答えだった。チェンマイカオソイなどもカレー味だが、このカレーは一体どこから入ってきたのだろうか。

2月3日(月)

回族の茶農家

翌朝も宿で朝食を取る。そして昨日インストールしたGrabを初めて使ってみる。本日訪ねる茶農家は、何とチャンライ市内から30㎞も離れており、バスで向かうことは不可能だと聞いていた。ホテルでタクシーを頼めば、法外な料金を請求されかねない。Grabで検索すると300バーツで行けると出ている。だが本当にこんな遠くまで行くタクシーを見つけられるのか。

食後、Grabアプリで予約を押したところ、3分で来るとの表示が出たので慌てて、荷物を持ってチェックアウトする。表に出たところでタクシー到着の連絡はあったが、その車を見つけることができない。仕方なくメッセージでホテル名を再度打ち込むと2分ほどで、その番号の車と合流できた。

車は郊外の道を一直線に走る。車はきれいで、運転手は英語を話した。これなら外国人でも快適だ。目的地に行ってからGrabで帰りのタクシーを探すのは不安だったので、彼に頼んで待っていてもらうことにした。とても良い人で、滞在中の待ち時間は無料で良いという。確かに往復した方が実入りは良いのだろうが、こちらとしては何とも有り難い。

目的地は本当に田舎、それも住宅などもほぼない場所にあった。まさに農地、そして茶畑が少し見えた先に、工場と事務所があった。オーナーのジャルワンさんとは、2年半前に茶ツアーで一度訪問して顔は分かっていた。先方も日本人が中国語の通訳をしていたので、覚えていてくれたようで、にこやかに迎えてくれた。

彼女の特徴は何といっても、ヒジャブを被っており、一目でイスラム教徒と分かることだろう。そしてタイのイスラム教徒なのに、華人であること、これも我々には理解が難しい。今回はこの辺の謎をたっぷり聞こうと訪問したわけだが、その壮大な一族の歴史には正直驚いてしまった。俄かには信じられない話も出てくる。

彼女のお爺さんの故郷は雲南省。生まれた村は全員が回族だという。そしてその先祖はチンギスハンだと言われたが、いきなり言われても歴史が繋がらない。勿論雲南回族は以前馬班と言われ、ホースキャラバンを率いてこのエリアの物流を担っていたと聞く。それと関連があるのだろうか。よく調べてみる必要がある。

現在チェンライのイスラム教徒は、タイ・パキスタンとタイ・雲南の2系統がいるという。そして昨日見た清真寺は雲南系が建てたもので、一大勢力であり、現在その勢力を束ねる顔役は何と、あの鄭和の子孫だというではないか。確かに鄭和は雲南回族出身と言われているが、歴史とは何とも面白い。

話していると彼女の妹が入ってきた。妹はアメリカ留学経験があり、中国語より英語が得意だと言うので、後半は英語で話すことになる。この辺の言語適応力もすごい。彼女らのお爺さんが雲南からチェンライへ来た旅、お父さんが一代で築いた茶園、そして現在チェンライ市内にもスウィルンという名前で2店舗を持つ、姉妹で発展させる茶業、とても面白い。

茶畑の写真も撮った。以前はマンゴなどのフルーツ畑であったが、お父さんが全て買い取り茶園を広げていった。この辺の平地で茶樹が育つと思っていた農家はなかったというから、農業の才があったのだろう。台湾から技術を導入した四季春品種の烏龍茶をお土産に少し購入した。

あっという間に2時間以上が過ぎ、お昼ごはんを出してくれるというのを断って、車でチェンライバスターミナルへ向かう。この道、よく見ればチェンマイへの道ではないか。よく分かっていれば、ここからチェンマイ行きのバスに乗ることもできるのかもしれないが、既にチェンマイ行きチケットを購入していたので、市内まで戻ることになる。

ターミナルに着くと、購入したバスの時間まで1時間以上あったので、早いバスにチェンジしようとしたが、何と変更不可だった。仕方なく新たに購入してバスに乗り込む。何で変更できないのだ。ちゃんと確認しなかったこちらが悪い。しかしそうであれば、少なくとも郊外の新バスターミナルへ行けばよかったと後悔する。