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マレーシア茶及び食の旅(5)雨のハジャイ

ようやくチケットを入手して、いざマレーシア出国、と思ったが、どこからマレーシアを出国するのか分からない。何の表示もなく、そのまま外へ出てしまうと、ヒンズー寺院が見える。反対側に回ると、ホームに列車があるのが見えるのだが、鉄格子が嵌っており、ここから降りることは出来ない。そのまま眺めていると向こうから列車がホームに入ってきた。あれに乗るのだろうか。

結局ある程度の人がベンチに座っている場所が待合室。皆が手持無沙汰にひたすら待っている。だが時計だけが動いていき、人の動きは起こらない。何と発車時間の16:40になって初めて審査場行きのドアが開いた。審査は2度あるが簡単で、すぐにホームまで行けた。タイの陸路入国、以前は年間2回までという制限があったが、今はないんだよな。

そこには古びた列車が待っていた。ハジャイに行く乗客が続々と審査を終えて乗り込んでくると、ゆるゆると出発した。乗客はマレーシア人が多く、白人もいる。日本人の年配者も一人だけ見掛けた。日本人バックパッカーはもういない。列車が走ると窓から吹き込む風が爽やかだ。この風を浴びるために、私はここに居る。

40分後に列車はハジャイ駅に入った。ここは何度か乗り降りしているので、見慣れた光景だった。小雨が降る中、予約した宿へ向かった。メインの通りを歩いて行くと、麵屋が見える。昼ご飯を回避して腹が鳴っており、宿よりまずは麺となった。どう見ても華人経営の店で、豚肉麺を頂く。ハジャイもタイピンに負けずグルメな街だ。有難く満たされた。

宿は以前も泊ったことがある。可もなく不可もないが、料金はちょっと値上がりしている。まあ仕方がない。荷物を置いて再度外へ出たが、雨脚が強くなっており、遠くへは行けない。仕方なく、近所の店でカオマンガイを食べる。これはさすがにタイピンの海南鶏飯の方が美味いし、コスパも良い。もっと他の物も食べたかったが、やむを得ない。部屋に帰って雨音を聞きながら寝るだけだ。明日も早い。

11月26日(火)バンコクの茶荘

朝5時台に起床する。今日は朝一番のフライトでバンコクへ移動する。だが雨はまだ降っており、Grabで車を呼んでも見つからない。何とも困った。周囲を見渡してもソンテウも全くいない。何度か挑戦していると、なんとか車がやってきた。空港までは約30分。国内線だし、それほど慌てる必要もなかったが、万が一の場合は取り返しがつかないので、ちょっと焦ってしまった。

空港に着いてホッとしたが、周囲を見るとイスラム教徒ばかりが目に付く。やはりここは深南3県、チェンマイとは全く風景が異なる。少し時間があったので、あまり人がいない所まで行き、柱についていたコンセントで充電を開始した。するとそこにムスリム親子がやってきて隣で充電する。英語で声を掛けられ、少し会話した。何でもメッカ巡礼に行くらしい。幼い娘はスマホの動画に夢中になっており、移動を拒んでいた。巡礼しなくていいの?

北タイ茶旅2024その2(3)茶畑で転倒する

11月14日(木)茶畑で

朝はすっきりと目覚めた。Aさんは毎日朝5時に太極拳をやっていると言い、Sちゃんは早々に散歩に出たらしい。私もちょっと散歩してから朝ご飯にする。ご飯を食べているとオーナーが来たので「茶畑見学は可能か」と聞くと、連れて行くと言ってくれた。これまで約18年の付き合いになるが、いつも忙しい彼とはそれほど接触はなかった。今回はメーサロン茶業に昔話をしてくれた。息子たちが成長して少し余裕が出来たようだ。

彼らの茶畑に行くのは10年ぶりだった。だいぶ広くなったように思う。品種も増えている。急斜面のところもあり、茶摘みは大変ではないか。もう少し行くとアカ族が茶摘みをしていた。なかなかいい風景が広がっている、と喜んでいたその瞬間、私は足を滑らせて転倒してしまった。雨に濡れた茶畑、靴底に泥が溜まったいせいだろうか。

一瞬のことで何が行ったかは分からなかったが、すごい勢いで登り坂に叩きつけられた感じだった。ただ起き上がることは出来たし、眼鏡も壊れておらず、額を少し擦りむいた程度だった。いや左手を地面に着いた際、かなり皮がむけ、そこから血が見えていた。オーナーは応急処置が必要だと言い、すぐ宿に戻った。自ら治療してくれたが、さすが若い頃は軍人さんだ。

ここでオーナーと別れてマーケットで買い物、そして歴史を学ぶために泰北義民文史館にちょっと寄ってメーサロンを後にした。それから山を降りていき、昼過ぎにチェンライの街に入った。チェンライでランチを食べたいというのが、Aさんの希望だったので、その食堂を探したが、なかなか見つからず、暑い中をちょっと歩いた。

そこで麺を食べた。ただ名物の豚血湯は既に売り切れており、残念だった。それでも麺が緑豆で作られた特殊麺だったので、ちょっと珍しかった。この店は創業50年近くになるようで、ほんのちょっと漢字表記が見られ、華人経営だろうと想像できた。昼過ぎでお客はいなかった。次回は朝来ることにしよう。

そこからスイルンの店を探した。2週前メイラオの茶工場を訪問したが、今回はAさんがお茶を買いたいというので、市内の店を訪ねた。2階に上がると、何とジャルワン社長のお母さんがいた。初めて会ったが、気さくな人だった。ジャルワンもオフィスにいて出てきてくれた。玄米茶のティーバッグを買って帰る。

午後ちょっとだけシンハパークに寄った。ここは過去2度訪ねたことがあるが、久しぶりに来て見るとかなり変わっていた。茶畑は減ったように見える。観光客はかなりいて、カフェでお茶を飲んでいる人が多かった。日泰合弁の茶工場も健在で、今も煎茶を作っているようだった。

約2時間走り、メーカチャンで前回会った曽老人を訪ねた。突然行ったが、老人は店にいて、歓迎してくれた。息子がお茶を淹れてくれたが、私はもう曽さんに確認したいことを聞き出すのに専念した。やはり1960年代、北タイではプーアル荒茶が作られており、バンコクで加工もされていたようだ。これを聞ければ今日は御の字。

Aさんはもち米を入れる籠を買いたいと言っていたが、街道沿いにそれらしい店が見えても、ドームは全く止まる気配がない。彼はとにかく早くチェンマイに帰りたいようだったが、Aさんも引かずに車を止めさせ、走って少し戻り、籠を探していた。なかなかいい物は見付からない。

チェンマイが近づくと渋滞が始まった。普通は渋滞などないチェンマイだが、明日と明後日ロイカトーン、年に一度の大きなお祭りなので、既に前夜祭的な人の動きが見えられた。Sちゃんのホテルに寄り、次に私は自分の宿で降りた。渋滞は続いており、いつもより30分以上時間がかかった。更にAさんの宿に辿り着くまで1時間かかったらしい。

今回は2泊3日、ちょっと時間的にきつかったが、いい旅だった。と思ったが、部屋でシャワーを浴びようとすると、何と頭が切れており、血で髪の毛が固まっていた。どうやら茶畑で倒れた際、頭を打ち、本人は平気だと思っていたが、実は頭がふらついていたようだ。今年2回目の死に損ない、まだ生きていてよいということか。

北タイ茶旅2024その2(2)ドイプーメンからメーサロンへ

夕飯は前回同様ラフ族の茶葉料理が中心。向こうにはフランスのお茶好きさんツアーがテースティングなどしており、オーナーのヨックが付き添っている。明日の朝はこのツアーと一緒に古茶樹を求めて山登りらしい。フランスのお茶好きもかなり気合が入っている。この宿で売っていた茶葉もいくつが売り切れていて買えなかった。食後は暗い中、ちょっと散歩に出たがすぐに引き返した。

11月13日(水)ドイプーメン、メーサロンで

朝起きて少しだけ散歩した。既に11月、前回よりも涼しくなっていた。Sちゃんも散歩していたようで、途中ですれ違った。それから朝ご飯の粥を食べていたが、Aさんは姿を現さない。何とまた別の朝市に行き、嫌いな犬を避けるため、かなり苦労していたらしい。料理の道を究めるのも険しい。

今回はすぐにドイプーメンを目指して山道を上がっていく。途中で大木が倒れたらしく、道が一部塞がっていたが、なんとか車が通れる幅を確保して、通り過ぎた。恐らくは9₋10月の雨の影響だろう。やはり山路は何があるか分からない。それでもさほど遅れずに村には到着した。

これまで何度かここへ来たが、今回訪ねた家はこれまでと違っていた。料理研究家が料理を見たいと言ったので、料理上手な女性の家になったのかもしれない。既に準備が始まっており、早々Aさんはその作業に加わった。我々はタマダーの茶をすすりながら、ダラダラしている。

するとSちゃんも活発に動き出した。何と彼女は大学時代に探検部に入っていたそうで、実は海外の秘境などへも足を踏み入れていたという。とすれば、ここは彼女にとっては願ってもない土地だ。生き生きと出歩き、写真を撮り始めた。Sちゃんのイメージが一変した瞬間だ。これではお父さん(知り合い)も心配するわけだ。

そして前回同様ドームの兄が住む場所へ登っていく。私はもう慣れたのだが、番犬が4匹ものすごい勢いで駆け下りてきて、犬嫌いのAさんを震え上がらせた。お茶を飲みながらプーアル茶などを見て過ごしたが、何と彼ら夫妻はもうすぐにビエンチャンに働きに行き、2₋3年は留守にするという。これはちょっと残念なお知らせだが、ビエンチャンに会いに行こう。

ランチのために先ほどの家に戻ると全てが出来上がり、帰りを待っていた。相変わらず美味しいご飯を食べて、満足。食後の運動として?茶摘みを少しして、鍋で炒青、ござの上で揉捻して、製茶体験も行った。茶畑の写真を撮りに行くと、フランス人団体が大勢歩いてくる。本当にフランス人はここが好きだな。

ドイプーメンを離れ、メーサロンへ向かう。今回はミアン村には行かないので、時間が余る。Sちゃんがお寺へ行きたいというと、ドームは自分の知っている寺に連れて行く。ちょっとした山の上で、向こう側に川を挟んでミャンマーが見える。その昔国民党の人々は山越えして、この付近からタイに入ったと聞く。お寺はかなり立派で見学に時間を要する。

日が傾き始めた頃、メーサロンの手前まで来るとAさんがカフェでコーヒーを飲みたいという。こんな国境沿いでカフェなんて、と思っていたが、検索するとちゃんと出てくる。しかもそのカフェが意外としゃれていて驚く。料金は高くないので、何とも有難い。ここでしばしまったり。

日暮れが迫る頃、メーサロンの宿に着いた。ここは定宿なので勝手は分かっている。夕飯を食べようと食堂へ行くと、オーナー夫妻が現れ、旧交を温めた。更には初めて会う長男、次男も来ており、今晩は一家の集まりのようだった。烏骨鶏のスープやシイタケなどを美味しく頂く。

オーナーに明日茶工場を見せてとお願いすると何と「明日製茶はないが、今やっているので行こう」と言われ、突然車で工場へ向かった。実に久しぶりに製茶現場に遭遇してワクワク。Aさんは、このお茶屋をインスタでフォローしていると言い、大喜びだった。工場で試飲するお茶はまた格別だった。

北タイ茶旅2024その2(1)メーテンからファーンへ

11月12日(火)ファーンまで2

朝8時、車は出発した。Aさん、Sちゃんをそれぞれピックアップ。朝ご飯は前回同様のネイトマーケット付近かと思っていたら、突然車は郊外に出ていく。メーリム付近まで来て、一軒の食堂へ入る。そこにも美味しいジョークがあった。料理研究家のAさん、早々に興味を示して作り方を眺めている。オーナーは華人で、作り方はかなり丁寧だった。

前回はなぜか行かなかったメーテン。今回はドームに言って無理やり連れて行ってもらう。一体どんな所か、確認したかったというだけなのだが、興味津々。車は山道に入るが、意外と開けていた。それほど標高の高い所へは行かない。観光客向けの象のキャンプなどの施設が見える。

かなり奥へ入ると、何となく既視感のある風景が見えてくる。自転車に乗った白人とそのガイドが見えたが、確か10年ほど前に私も自転車に乗って茶畑へいった記憶がある。そうこうしている内に着いたのがアクサラという施設。この名前で思い出した。私は10年前確かにここへ来ている。

その時はリス族の村に泊まり、お茶ツアーに参加したのだが、そのリスロッジからアクサラガーデンまでやってきた。途中までは自転車を漕いだ。その後はトラックの荷台に自転車と共に乗り、自然の中を行く、如何にも白人が好みそうなアクテビティだった。更に茶園で茶摘みから製茶体験、最後はお茶を飲み、お菓子を食べたとという記憶がある。

今そこに建つと、建物はかなりきれいになり、茶畑は後方に押し下げられ、食事やティーを楽しむ空間、そしてお茶を買う売店が充実していた。我々もそこでお茶を飲んでみた。すると先ほどの白人2人を先導してきたガイドが見えた。何だか見覚えがあると思い、10年前の写真を取り出すと、何とあの時のガイドではないか。

思わず彼に声を掛けると、勿論彼は私を覚えてはいなかったが、突然「上を向いて歩こう」を日本語で歌ってくれ、再会を喜んだ。名前を聞くとチャーリーと答えており、それで思い出した。全く変わっていない、楽しいおじさんだった。今度機会があれば、また茶園に来てお世話になろう。

そこから2週間前も行ったチェンダオのラミンエステートへ向かった。ここで風景を眺めてから、あの豚足屋でランチと思っていたのだが、ドームは「それでは道順が逆だから行けない」と拒む。仕方なく、この標高1000m越えの山で普通のパッタイなどを食べてみることになる。

ラミンを後にして、山を下り、一路ファーンを目指した。前回は温泉・洞窟・テーマパークに寄り道したが、それはもういい。代わりにAさんが市場に寄りたい、というので、2時間ほど走って、モン族の市場を見付けて見学する。Aさんはタイ料理研究家だから、当然タイ野菜やスパイスなどに極めて詳しい。

中にはほうずきを売っており、これは美味しいと言って買っている。私は浅草ほうずき市以外でこれを見た記憶がなく、まさか食べるなんて考えもしなかった。因みに後で知り合いに聞いたら、中国の大連などでもほうずきを食べているという。どこか原産地なのだろうか、ちょっと気になる。

更にファーンの街に入ったところで、車を止めてまた市場に入る。ここは規模が大きく、迷子になる。Aさんと歩いていると、野菜の料理法などを教えてくれ、タイ語が読めない私にも興味が持てるような話をしてくれるので、市場が楽しくなる。こういう散歩はとても為になる。

ファーンの宿に着いたのは結局、夕日が落ちる午後5時半頃だった。少し休んでから食事を食べようと降りていくと、食堂に何かが置かれている。恐らくフランス人団体のために用意されたソムタムセット、自分たちで作るための材料だった。これを私は専門家Aさんにお願いして作ってもらった。何気なくトントンしていたように見えたAさんのソムタム。これまで食べたことが無いような美味しさで本当に驚いた。さすが料理人。

北タイ茶旅2024その1(5)ワーウイ、メイラオ

メーサロンを離れ、ワーウイに向かった。いつもと反対側から、全く通ったことのない道を1時間ほど行く。何だかとてもいい天気で、景色が良い。思ったより早めに宿に着いた。今晩の宿泊者は我々だけのようだ。アカ族だろうか、可愛らしい娘たちが荷物を運んでくれる。部屋は古いが、眺めは悪くない。何より人がいないので、静かだ。

食事前に少し散歩して、それから茶園を眺めながら、この宿と茶業について、メンバーに説明した。というのも、あるじの李さんは雲南へ行っていて不在なので、先週聞いた話をこちらか伝えるしかない。HHさんが持参したコーヒーを淹れてくれ、皆で飲みながら風に吹かれる。いい感じだ。

夕飯は先週来た時、既に注文済みだった。昨日に続き烏骨鶏スープを飲んだが、少し涼しい夜にはこれが何とも沁みる。豚足も旨い。野菜も新鮮だ。広い食事場所で我々だけしかいない中、無駄話に花が咲く。夜はとても静かで、早めに就寝した。やっぱり疲れが出たのだろうか。

11月1日(金)ワーウイ、メイラオ

朝は早く起きて、近所を散歩した。既に日は高く昇り、ちょっと暑さを感じるぐらいにいい天気だった。これだけ人がいない場所を歩くのは久しぶりかもしれない。宿と反対側にも茶畑を発見する。朝ご飯は昨日に続き、色々と出てきたので、ことごとく食べてしまう。メロンが美味しい。

食後オーナー夫人がプーアル茶を淹れてくれたが、これまで李さんとは歴史の話しばかりをしていたので、彼女の淹れるプーアル茶、とても新鮮だった。しかも貴重なお茶がいくつか出てきて、皆さん興味津々となる。プーアルにおける雲南と北タイの繋がり、更に考えてみる必要があるのかもしれない。

茶工場も見学する。先週も見たのだが、その付近にも一部古茶樹が残っていた。工場内でプーアル茶の包装が行われていた。1つずつ丁寧に包んでいる。古い製茶機械を象で運んだ話など、何度聞いてもこの地の大変さが分かる。もっと奥の方にはかなり古い茶樹もあるようなので、次回は訪ねてみたい。

そこから少し下るとワーウイの街がある。今回はそのモスクを訪ねてみた。予想以上に大きくて立派なモスクだった。ここは国民党の村、恐らく相当数の雲南回族が住んでいるのだろう。モスク前の道路は25年ほど前、台湾の支援で作られたとある。2000年前後から、国民党村と台湾の関係が新たな時代を迎え、そして回族の寄付などでモスクもきれいになっている。この村も発展方向にあるとは言い難いが、セブンイレブンも出来、高級中学もあることから、相応の街にはなっている。

そして山を降りていく。前回チェンライへ向かう時は、ドイチャーンの山越えを選択したが、今回も同じ道を行く。そしてなんと同じ場所で水が溢れていた。ランドクルーザーなので何とか通過した。結局2時間近くかかって、今回の最終目的地、メイラオにあるスイルンに到着する。

ここは4年前に一度Grabタクシーで来たことがあるが、あまり覚えていない。ちょうど昼時間で従業員は休憩中。工場は動いていなかった。店の方へ入るとジャルワンが迎えてくれ、早々に茶歴史の話が始まってしまった。その間、同行者3人はゆっくりとお茶を飲んでいたようだ。

その後皆でお茶を飲みながら話した。ここに来た理由、それは「回族」と私が何度説明しても、普通の日本人にはピンとこないので、実際にヒジャブを被った茶業者に会った方が良いと考えたからだった。回族の北タイにおける茶業については、なかなかその歴史が掴めないが、今後も地道にやっていくしかない。

この旅も終わり、チェンマイへ戻ることになった。この道は何度も通っているが、今回もまたドームが途中で温泉たまごを作り出し、皆に配っていた。結局3時間ほどでチェンマイ市内に帰り着き、各ホテルに送迎された。私と近所に泊った2人はニーマンのレストランでお疲れ様会をタイ料理で行い、全日程を終了した。

北タイ茶旅2024その1(4)メーサロンのワンプッタン

今晩の宿は芙蓉宮(ワンプッタン)にお願いした。ところが連絡を取っていた、知り合いユーピンの姿はない。知らないうちに結婚してバンコクに住んでいたとは。兄のナコーンを紹介され、チェックインした。部屋は茶畑に面した広々としており、かなりゆったり感がある。ただ既に日が暮れて、前が見えない。

急いで夕飯となった。この付近もキノコや新鮮な野菜などが名物。そして烏骨鶏スープは体に染みる。今日はもう腹一杯、と思っていたが、更にご飯が進んでしまう。食後はナコーンが茶を淹れながら、話をしてくれた。有機栽培の茶は、なかなか味わいがある。静岡で賞も取っている。彼のお父さんに話しを聞いたのはもう7年前だろうか。この地で烏龍茶生産を始めた最初の一人だった。軟枝烏龍で作る茶が面白い。白茶や東方美人にも目が行く。今夜は眠れるだろうか。

10月31日(木)メーサロンからワーウイへ

朝はすっきり目覚めた。お茶を淹れて、ベランダで飲んでみる。何だかとても澄んだ気持ちになれてよい。朝ご飯を食べに行くと、なんとも盛りだくさんで驚く。ドームはパンを焼き、カオトームと目玉焼きを頬張る。さすがに多過ぎるだろうとは思ったが、何とも嬉しい朝となる。

ナコーンの案内で、反対側に建てた施設と茶畑を見学する。急須のモニュメント、18年前私はあれを目指して茶畑見学をしたが、あれはワンプッタンが作ったものだった。その下に、今や、観光客向けのカフェ、インスタポイント、そして宿泊施設まで出来ており、観光客が集まる場所となっていた。

ナコーンはかなり詳細に茶畑の様子や製茶について説明してくれた。有機への取り組みなど、父親時代からの変化も面白い。育てやすい金萱より、軟枝烏龍を重視する対応、白茶への取り組みなど、気合が入っていると感じられる。カフェは飲みやすい飲料も販売しており、今後の発展が期待される。コテージのような部屋は、茶畑の中にある感じで、ベランダはいい感じになっており、思わず寝転がりたい気分になる。

そこからもう一度泊まっていた場所に戻り、買い物タイム。酸梅などが美味しいと皆が求めていく。そして芙蓉宮と別れて、ドームの車は少しわき道に入った。ここに35年住んでいる台湾人製茶師がいるというので、訪ねてみる。規模の大きな茶工場と自宅があった。蘆さんは35年前にここへきて、烏龍茶生産に関わった人物。特に101の人と結婚して、その生産に従事していたが、今は自分の茶工場を運営している。

何と彼は埔里の生まれで、父親は東邦紅茶に務めていたというから、急に身近に感じられた。今回は突然の訪問で、次の予定もあったのであまり話は聞けなかったが、次回はちゃんと聞き取りしたいと思う人だった。確か以前噂で聞いた人物が彼だったように思う。北タイ烏龍茶の有名人。

取り敢えず軽く昼ご飯を食べることにした。何しろ朝が多過ぎて腹は減っていない。適当に入った雲南食堂、私は巴巴絲を頂く。まあパッタイだな。この店の女性は普通に華語を話していたが、何と男性は日本語を話した。昔日本に留学して、バンコクでも日本人社長の下で働いていたという。しいたけ栽培と聞いたので、以前日本人が従事していた事業の一つだろうと思われる。その関係でこの地に来て、そのままここに居るらしい。

泰北義民文史館にも寄る。私は何度も来ているが、皆さんには一応ここの歴史を紹介するべきと思って訪ねた。華語で団体に向けに説明している。展示はかなり多いが、基礎知識が無いと、何を書いているか分からないだろうと思う。台湾側でもある程度調べているので、簡単なことは説明出来るようになった。おじさんがこちらにやってきて、蒋介石の本などを見せてくれる。日本人だというと驚かれる。

北タイ茶旅2024その1(3)ドイプーメンからドラーンへ

赤ラフの村から黒ラフの村へ移動。教会が見えてくる。少し上るとお茶を飲むスペースが見えた。その前には太陽光パネル。これで電気を賄おうという考えらしい。ところがドームの弟、ジョンがスイッチを入れても電気は来なかったので、お茶も出て来なかった。ここから見えるエリアで茶工場の拡張が行われている。ジョンはヤリ手の経営者だ。コーヒーとお茶の商いを広げていた。

更に上に登っていく。今回は彼らの一番上の兄にも会いたいとお願いしていた。かなり上った場所に大きな家があった。そこに長兄が住んでいた。彼は1970年代、台湾に留学し、何と鹿谷で2年烏龍茶製造の勉強をしたというから驚いた。既に亡くなった次兄も一緒だった。その後村へ帰り、茶作りに励んでいた。勿論華語も上手い。

2008年頃、台湾から来て1年に一度来て茶を作っていた師匠からプーアル茶の作り方を習って作ってみたこともある。包み紙には自分でブランド名を印刷したらしい。因みにその紙は何となく和紙に似ている。この地域、ヘロインを和紙で包んでいたとの記述を見たことがある。尚この付近は雨季に特に雨が多く湿度が高いため、プーアル茶の保存には適さないという。麓の方にプーアル用の倉庫が建てられているらしい。

今ではフランス人がホームステイし、ゲストの料理は彼が作っているという。次回は是非味わってみたいものだ。大きな犬が何匹も彼らを守っており、私は怖くて近づけない。先ほどの母屋まで戻ると、囲炉裏付近からいい匂いが漂ってくる。竹筒ご飯、焼き鳥、竹筒に入った豚肉、そして焼き芋など、どれも美味である。まあ、これを食べるためにわざわざ上ってきたようなものだ。

若者が自家製のコーヒーを淹れてくれる。それから皆で茶畑を見学し、茶摘みの写真を撮る。だがまた母屋に引き戻される。前回も会ったおじさんが、竹で籠を作る技術を見せてくれる。これらが全て茶ツアーに含まれているので、先方としては全てやらざるを得ないし、こちらも付き合わざるを得ない。まあ何となく楽しい時間ではある。

プーメンを越えて反対側へ車は走っているようだ。実にさわやかな午後だった。1時間半ほど走って、ようやく山間の村に着いた。ドイラーンというタイヤイの村で、ミャンマー国境に近かった。ずっと国境沿いを走ってきたらしい。タイヤイというのはシャン族のことで、大きな括りではここもタイ人系の村。ミャンマー側から渡ってきた人々が住んでいた。

もうこの村の雰囲気は完全にシャン州だった。人々の顔も更に日本人に近い。訪ねた茶の仲買人の家の奥さんなど、明るい日本人と言っても良い。23年前ミャンマー側から渡ってきて旦那と結婚したという。この家の納屋には茶葉が沢山詰まっていた。これを用途別に売り捌くのが仕事なのだろう。

旦那が近所の家に連れて行ってくれた。ミアンを作っているという。昨年でミアンは見飽きたが、覗いてみると、どうも様子が違う。この村で生葉を集めて、ちょっと蒸して、すぐにどこかへ販売してしまうらしい。これでは漬物茶ではない。勿論漬ける葉もあるようだが、どうやら行先はタークと聞こえた。

タークなら、ミアンに砂糖やココナッツを入れて食べるとも聞いたので、生葉状態でタークへ行き、そこで砂糖などを加えて漬けるのでは、と想像する。またそこからミャンマーへ売られるものあるだろうか。村を離れる際、ちょうど漬物樽に乗っている男性を見た。恐らくミアンを作っているのだ。各家で製造工程は異なるのかもしれない。

そこから車で約1時間、夕日が落ちて行く中、山路を行き、ドイメーサロンに入った。2年ぶりだろうか。ただいつもと反対の道から来たので途中までどこを走っているのかさえ、全く分からなかった。今日来た道が、メーサロン‐ファーンを繋ぐ道、その昔茶業者が茶葉を運んだ道だったのだろう。

北タイ茶旅2024その1(2)ファーンの茶工場

午後はどうするのかと思っていたら、何と土管温泉へ行った。ここは20年前に日本人が川沿いに沸く温泉に入るため、土管を地中に埋めた場所。今やタイ人や白人の人気スポットになっており、車が何台も停まっていた。だが我々にとって、入りもしない温泉よりは茶畑だった。なぜここへ?

続いてチェンダオ洞窟へ行く。ここはドームが幼少期、おばさんの家に預けられた場所だと説明されたが、やはりなぜここに来たのは不明。取り敢えず入場料を支払って洞窟内見学したが、何だかシャン州のビンダヤの洞窟を思い出す。北タイからシャンにかけては多くの洞窟がある。

最後にファーンに入る前に、突然鳥居が見える。通称ヒノキランドと呼ばれるテーマパークのような場所で、日本関連の場所がここに再現されている。日本旅行がブームのタイ。日本に行かなくても、日本が味わえる、ということだろうが、今回の参加者は皆日本から来ているので、全く興味を示さない。取り敢えず写真だけ撮って退散。参観者も殆どいなかった。

夕方ファーンの街に着いた。まだ陽も高いのにホテルに入っても仕方がないので、ファーンのお寺を2つほど訪ねた。以前半日かけてこの街を歩いた記憶が蘇る。特に何もない、名所もない街ながら、何故か心地よい。高い建物が全くない、車が少ないなどいくつも要因はある。寺が多いのも関係あるだろう。ファーン自体の街の歴史は実はあまり分かっていない。寺もビルマ風、シャン風の建築様式だとは思うが、その歴史はよく分からない。まあ、この地域も極めて複雑、としておこう。

ホテルに入る。だがオーナーのヨックは不在だった。チェンマイへ行ってしまったらしい。夕飯はラフ料理を中心に、茶葉サラダやてんぷらなど、かなり色々と食べられた。皆満足したのではなかろうか。食後はお茶を試飲したが、お茶淹れのカレン族お姐さんが帰ってしまい、宿の若者が四苦八苦しながら淹れてくれた。ワイルドティや白茶に興味が集まる。後はこの宿の来歴、ドームたち兄弟と父親の物語の展示を説明して、1日目を終える。

10月30日(水)ドイプーメンからメーサロンまで

朝は早めに起き、ちょっと散歩する。托鉢のお坊さんたちが街を歩いているのが好ましい。中には老僧をカートで送っていく信者もいる。この街は本当に時間がゆったりと流れていく感覚が良い。ちょっと考えごとをしていたら、寺までお参りに行く時間も無くなった。朝飯はラフのお粥。いつもながら優しい味が好きだ。

今日はまず難関のドイプーメンへ上がる。と思っていたら、車は突然郊外の工場で停まった。何と茶工場だった。中からオーナー夫人(結婚40年)が出てきた。聞けば、1960年代国民党関係だったご主人(姓は蘆)が、茶房で茶業を始め、70年代にここに降りてきて工場を開設したという。恒春茶廠と書かれていたので台湾絡みかと思ったが、全く関係ないという。だがその横には台湾製の揺青機が置かれている。

昔は紅茶も作ったし、荒茶も作ってバンコクの三馬にも出していたという。原料は茶房から来る。ここで作られた茶がバンコク経由で香港に運ばれたという話も聞いたことがあるという。烏龍茶を結構作っていた様子も窺われる。変な言い方だが、良く生き残ってきたな、と感心する。ご主人が不在で残念だったが、次回また訪ねてみたい場所だ。

そこから山登りが始まる。さすがに1か月前に大水で山道も傷んでいたが、通れない所はなかった。道のでこぼこは相変わらずだが、ドームの慣れた運転で難なくドイプーメンに入る。久しぶりに訪れたが、村は一見どこも変わっていなかった。一応茶旅ツアーなので、ランチを用意している母屋へ行き、普通のお茶(タマダー)を飲む。

北タイ茶旅2024その1(1)チェンダオへ

【北タイ茶旅2024】2024年10月28日‐11月1日 11月12₋14日

いよいよ茶旅本番の季節がやってきた。昨年はミアンを探す旅を行ったが、今回は北タイの茶産地を回り、その歴史を検証することにした。

10月29日(火)ファーンまで

朝ドームがやってきた。参加者3名をホテルでピックアップして、朝ご飯へ向かう。ドームのお勧めはナイトバザール近くで40年以上やっているというジョークの屋台。私は北タイの朝飯はカオトームだと思い、そちらを選択。味は悪くない。観光客も利用するような立地だが、お客は地元の人ばかり。

車は一路北を目指して走り始める。今回は後部座席に3人に座ってもらうので、かなり窮屈ではないかと心配する。元々ドームは午前中、メーテンの茶園に行く、と言っていたのだが、突然『時間がないのでチェンダオへ行く』と言い出し、混乱をきたす。どう考えても時間はあるのに、なぜ行かないのか。彼なりの事情はあるのだろうが、我々には理解しがたい。

そして車にガソリンを入れる。昨年のミアンツアーにも参加したHさん。どこのガスステーションにも併設されているカフェアマゾンを気に入り、今年もいそいそとコーヒーを買っている。トイレ休憩が終了すると車は走り出し、その内に山道に入り込む。この道、1年半前も来ているが、こんなに曲がりくねっていたのだろうか。ところどころに洪水の影響が見られた。

チェンマイから約2時間、標高約900m。ついにチェンダオ山中のラミンエステートに到着した。ここは1940年頃ラミン初代(Prasit)が茶を植えたとされる場所で、タイ全土で初めて茶園が開拓されたという歴史的なスポットになる。現在はラミンカフェが作られており、斜面に映える茶畑を眺めながら、お茶を飲むことが出来る。

ラミンの歴史については、先日ラミン3代目(Jakarin)とチェンマイのオフィスで会った際、説明は聞いていた。ただその歴史は、初代は中国人ではあるが、雲南ではなく北京から来た人と言われて驚いた。しかもフランス留学後、戦火で本国に帰れず、イギリス人とたばこビジネスで訪れたタイに留まったと聞いた。彼はユーカスの『All About Tea』を読んで感化されたともいう。彼がここに来る以前、タイでは茶葉はミアンとして消費されていたが、ドリンクとしては飲まれていなかった、というのが面白い。

カフェの後ろ側にひっそりと茶工場がある。今回特別に見学させてもらった。この工場は2代目で、最初の工場は斜面の向こう側の学校の敷地にあった、と前回聞いた記憶がある。基本的にはラミンは当初からアッサム種を使って紅茶を生産していた。1970年代ラミンの2代目(初代の娘婿Nit)は、スリランカや台湾を視察して、この工場にそこで得た技術を盛り込んでいる。現在かなり古いタイプの茶工場にはなっているが、その独特な設備は興味深い。

すぐ近くにラフ族の村があるというので行ってみる。実はここの茶園の茶摘みなどのワーカーはラフ族であり、それはドームの父親であるジャファーが、ドイプーメンの黒ラフをこの地に送ったという繋がりがあるようだ。黒ラフとは基本的にキリスト教徒。山岳民族には国境はなく、仕事があれば移動する、ということをここから学んだ。

昼前に山を下りた。ランチはどうするのかと思っていたら、チェンダオの街の華人食堂へ入る。ドーム曰く『この店はプミポン国王も食べたという美味い豚足の店』だった。確かにその豚足はあまりにも立派(1₋2人ではとても食べ切れない)、しかもトロトロで美味だった。一塊350バーツも頷ける。

店の若い女性は英語が出来た。外国人も来るのだろう。彼女は『父は華人、母はタイ人』と説明する。確かに車いすに乗った老人は華人だった。元気でにこやかな年配の女性も華人に見えたが、母親なのだろうか。ドームはプロのガイドを自称しているが、このような説明は全くない。チェンダオの街にも華人は多く住んでいるように見えた。

タイ北部茶旅2022(6)チェンマイで

折角いい部屋にいるのだからと、午前中は優雅に部屋で過ごすことにした。もう一度ジャグジーに入り、気持ちよく過ごす。外のプールに入ろうかと思っていると、何と韓国人のおっさんが一人でスマホに向かって大声で話している。友達にでも自慢しているのだろうが、何だか見苦しい光景だった。自分もそうならないように気を付けよう。

昼にチェックアウトしたがフライトは夕方なので、国立チェンマイ博物館に行ってみる。実はここは、過去2回行こうとして、2回とも休館日だったという苦い経験がある。月火の休み、祝日休みに引っかかったが、今日はさすがに開いているはずだ。

博物館は城外にある。トゥクトゥクに声を掛けたが、行きたくない様子で法外な料金を言って来るので、即座にGrabで呼ぶ。あっという間にやってきて、行き先を言う必要もなく明朗会計。これではトゥクトゥクの淘汰は時間の問題ではないだろうか。ある意味で長年の観光地の悪しき懸案事項が、今修正されてきており、そこにコロナ禍が拍車を掛けている。

西の方、ヘミンニーマン地区はかなりの渋滞となっている。城内の静けさはなく、既にチェンマイ地元民、タイ人の生活は普段に戻りつつあるということだろうか。運転手も動かない車を見て苦笑している。博物館まで来ると、木々が生い茂り、また静寂の中に入り込む。しかし博物館内は、社会見学?の中学生に占拠されており、まるで野球場のような歓声怒号に包まれている。

その一段をやり過ごし、展示物を見て行くと、チェンマイの成り立ちから周辺地域との交流などが良く示されていてとても勉強になる。そしてこの地域の知識が私には欠けており、ここの歴史を学ぶことで茶の歴史にも間接的繋がることがありそうだと直感する。出来れば来年はチェンマイに長逗留して、ランナー文化などから何かを見つけてみたいと衝動的に思う。

博物館でまたGrabを呼び、チェンマイの街の成立と同時に作られたという最古の寺、ワットチェンムンに向かう。博物館で得た知識の中にあった寺だった。行ってみると、何とも雰囲気が良い。仏塔も渋い。ここには大理石とクリスタルの仏像があり、見応えも十分だが、観光客は残念ながら殆どいない。歴史的な価値もあるが、所謂観光の穴場というべきか。

そこから宿の方に歩いて行き、ランチを食べていなかったので食堂を探したが、良い店が見付からない。結局昨日食べた牛肉麺かと思ったら、その辺に店がいくつも固まってあり、その中に『うまくて号泣ラーメン』という不思議なネーミングの店があったので、思わず寄っていく。

メニューを見るとかなり安いが、日本人の手は入っていそうだったので、とんこつ醤油99bを注文してみる。狭い店内より広場のベンチでラーメンをすする。一番安いラーメンは59bだから、これはかなりコスパが良い。タイ人が結構食べているから地元民向けだろうが、コストさえ合えば繁盛するかもしれない。

宿に戻り、予約した無料空港送迎を待つ。バンはきちんと予定通りにやってくる。これは何とも有難い。それにしてもチェンマイ空港までかなり近いことを忘れていた。だがこれまでは高額の車代を取られていた苦い思い出がある。いや前回はバスが走っていた筈だが、チェンライ同様あれは無くなってしまったのだろうか。

空港に着くと、ライオンのチェックインカウンターへ行く。私は既にWebチェックインをしているのだが、なぜかメールで搭乗券が送られてこない。その理由を知りたかったが、カウンターでは分からないという。それでも粘っていると、スタッフがスマホ上の搭乗券を探し出し、これで乗れるはず、と言ってくれた。忙しい中、対応が非常に良い。更に搭乗口で確認した時も対応が良かった。LCC、これからはライオン一択だな。

機内は混んでおらず、三席を独占して上空から下を見ていた。かなりの場所で水が多いことが確認できる。バンコクに近づくと、工場や家屋が多くなるが、11年前のようにここが水で沈んでしまわないことを祈るばかりだ。ドムアン空港に着くと夕日がきれいに落ちていく。