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カンボジア・タイ 国境の旅2016(9)バッタンバン街歩き

雨はスコールで、すぐに止んだ。涼しくなった街を歩き出す。少し行くと古いマーケットの建物が見えてきた。昼下がりで人もいない。怠惰な雰囲気が流れている。市場の外で野菜を売っている若い子は、夢中で勉強していたようだが、疲れ果ててウトウトしている。インド系の女性がワッフル?を焼いていたので、少し買ってみる。この付近も華人が多く、なぜか葬儀用品を扱う店が並んでいた。一度ホテルに帰り、朝が早かったので昼寝した。実に気持ちよかった。

夕方再び、外へ出る。簡易な地図に教会が書かれていたので、橋を渡って行ってみる。教会は街と川を挟んだ対岸にあり、少し距離を置いている印象がある。カソリック教会と書かれた門を入ると、かなり広い敷地。しかし所謂教会のシンボルである礼拝堂が見るからない。奥まで歩いていくと平屋の礼拝堂があった。これは珍しい。その横には写真が飾られていたが、見ると1975年ポルポト軍によって破壊された元の礼拝堂が写っていた。その後再建されることなく今日を迎えているのだろう。近くではクメール舞踊の練習をしている若い女性たちがいた。平和とは何か、をちょっとだけ考えた。

だんだん暗くなる中、本日の夕飯を探した。いくつかの店があり、鍋におかずが並べられている店で、指さしでおかずを選び、ご飯をもらい食べた。彼らも片言の英語は出来たが、意思はあまり通じない。でも飯は誰でも食うので問題はない。筍と豚肉、そして卵を煮込んだカンボジアによくあるおかずは、やはり甘かった。ご飯はどんどん進んでいき、かなり太ったという自覚がある。

730日(土)
博物館は休館

翌朝は早く目覚める。タサエン村の生活が続いている感じだ。朝食はホテルで取る。華人向けのお粥を取り、オレンジジュースを飲み、目玉焼きを焼いてもらい、自分でパンを焼く。妙な組み合わせだが私が食べたかったのはこれだった。食べたい物を食べたいときに食べる。これも気ままな一人旅のいいところだ。

 

そしてまた歩き出す。今日は天気がすごく良い。折角傘を用意してきたのに。目指すは博物館。ここに行けばバッタンバンの歴史が分るだろうと思ったのだが、昨日のマーケットを越えてさらに暑い中、川沿いを歩いていき、歩き疲れた頃に辿り着いたそこは休館だった。土日は休館とのことで、私には見学の機会は訪れず、バッタンバンについても何も変わらないままだった。でもまあいいや。土日は企業も休みのようで、街中の倉庫や会社も閉まっているところが多かった。

ふらふら歩いていると小さい街だ。昨日の雨宿りのおばさんとまた目が合ってしまい、引き込まれるように中へ。今日は土曜日で学校が終わったのか、もうほとんど料理は残っていなかったが、『まあ座れ』という感じで注文も聞かず、有り合わせのものを全部載せて出してきた。たくましい商魂だが、嫌な感じがまるでない。『美味しいだろう』と食べている私を覗き込む。確かに美味しいのだから仕方がない。昨日より1000r安かったのは、やはり残り物だったからだろうか。それでも満足してしまう。

廃線を歩く

一旦ホテルで休息し、夕方また外へ出る。特にやることもなくフラフラしていると、何だか線路が目に入った。あれ、バッタンバンには電車が走っていたのか。だがその線路の上を人が歩いていく。まあ本数が少ないのだろうと思い、その後ろからついていくと、線路に座って遊ぶ子供、何かをしている親子など、不思議な風景が目に留まる。そしてついに線路の上に物が置かれ、有る所では断絶していることが分かる。この路線は既に廃線だったのだ。

行きがかり上最後まで見届けに行くと、確かにある所で見えなくなっていた。あとで見てみると、バッタンバンからプノンペンまでは鉄道を復旧しようという作業が行われているらしいがどうなんだろうか。ADBが支援しているとも聞くが、それは必要なのだろうか。今なら道路を整備してバスを走らせた方がよほど早いように思う。中国はどう出ているのだろうか。

 

バンブートレインという観光用のトレインが走っているらしく、トゥクトゥクドライバーに声を掛けられたのを思い出した。その先はこの状況だったという訳だ。タイまで電車を通す、という話も出ているのかもしれないが、この線路を復活させるのは容易ではないだろう。夕日に照らされた廃線を行く、鉄道ファンならぜひ見たい、歩いて見たいということかな。

 

暗くなった頃、街中に戻り、昨日の隣の店で夕飯を取る。へちまと豚肉炒め、小魚の揚げ物を頼む。ここの若い女性は英語がうまく、初めて3ドル、と米ドルで請求された。これまでカンボジアには何度か来たが、いつも米ドルを持っていれば用が足りていた。今回は場所が違うせいか、リエルで請求されることばかりだったので、何となく新鮮に感じる。横で若者たちがビールを飲み、騒いでいる。今日はやはり休みの日なのだな。

731日(日)

翌朝は早く起きて、朝食を済ませた。Tさんの計らいで、7時半に車が迎えに来てくれ、パイリンという国境まで連れて行ってくれることになったのだ。だがどんな人が来るのかもわからない。時間通り来るかもわからない。まあ取り敢えず荷物を持ってロビーに行き、ソファーに座っていたら、すぐに人がやってきて車に荷物を積み込み始めた。一目で日本人と分かってもらえるのは嬉しい。

その車は私専用だったが、途中で農家からコメを積み込んだ。そして国境近くの村へ寄り道して、そこで降ろしていた。更に途中朝ご飯を食べていない運転手はご飯を食べ始めた。私は濃いコーヒーを飲み、そして優しいお茶をチェイサーにした。大型バスが停まり、乗客がトイレに行く。約2時間でパイリンの街へ着き、米を届けてから国境へ進む。そこは閑散とした辺境、ただカジノホテルが2つほど、異様な感じで建っていた。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(8)バッタンバンへ

 日が暮れてきた。今晩はお客の人数も増えたので、外で焼肉パーティーだ。タイではムーカタと呼ぶ、傾斜のある鍋で肉と野菜を焼き、そのエキスを下で受け止め、スープのようにして飲む。大変庶民的で人気のある食べ方だ。確かラオスでも食べていたので、タイのイーサン料理だろうか。お手伝いさんや元お手伝いさん?などスタッフ総出で焼いてくれる。村の人がバイクでやってきて宴会に加わる。

皆がキャッサバ焼酎を飲み始める。何とも賑やかな食事となる。真っ暗な中、庭の小屋で食べるのは何とも言えない野性味がある。そして安全に見えるこの村でさえも、夜は警備の人が来ており、何と銃が柱にぶら下げられている。このような光景を見ると、『武装することと防衛すること』の意味を考えざるを得ない。人には二面性がある。いくら良い人でも、困ったときは強硬手段に出ることもある。その時、自衛手段を持たなければ、悲劇が訪れ、その人は罪人になり、自衛されていれば、強硬手段を思い止まることもあるだろう。一概には言えないが、性善説だけでは生きていけない現実がそこにある。これは我が国についても言えることではないだろうか。

 

夜、私は特等席のベランダに蚊帳を吊ってもらい、そこに寝る。何ともひんやりしていて気持ちがよい。男子高校生は、守衛のおじさんと共に、庭でハンモックを吊り、そこへ寝ることに。これでは蚊の餌食だろうと思っていたが、何とこのハンモック、内側から閉めることができ、蚊の侵入は防ぐことができた。さすが元自衛隊員のTさん、装備は万全ということだろう。これなら次回は一晩、このハンモックにお世話になりたいと思う。翌日聞いてみると、身動きは取れず、少し寝にくいらしい。

729日(金)

翌朝は周囲が明るくなると目覚める。そのままベッドから朝日が昇るのをボーっと眺めている。何とも幸せな気分になる。すぐに朝ご飯になり、寝ていた高校生もたたき起こされる。この村の朝は早い。肉団子のスープが美味い。これはタイでゲンチューと言っているスープだ。やはり、この付近はタイの影響を色濃く受けている。いや、タイとかカンボジアとかではなく、昔は一つの地域だったということだろう。

そしてついに別れの時が来た。今日この村を離れてバッタンバンへ行くことになっていた。シェムリアップへ行くことも考えたが、距離も遠いので、今回は行ったことのない街を訪ねてみることにし、ついでにそこから国境を越え、タイに戻り、知らない街を旅していくことも考えていた。これまで茶旅に時間を割いてきて、このような全く無目的、ノースケジュールの旅をする機会が減っていたので、良い時間が訪れそうだった。

 

移動手段はバスもあるようだったが、村の乗り合いタクシーを手配してもらう。村人は朝が早く、7時過ぎには車が迎えに来てしまい、名残を惜しむ間もなく、出発した。またいつかここに戻ってこようと、心の中で誓った。私は助手席に乗り、他の村人3人を後ろに乗せ、車は国道をひた走った。道はそれほど悪くなく、快適だった。道路脇に所々家があったが、概ね畑が広がっていた。

 

途中ガソリンスタンドでトイレ休憩したが、2時間後にはバッタンバンの街に入り、乗客は街中で次々に降りて行った。私はTさんがアレンジてくれたホテルに向かう。とても立派な大きな建物の前に車が停まり、乗車代10ドルを支払う。フロントで聞くと予約はないとのことだったが、Tさんの助手に連絡して、何とか宿泊できた。120ドルと格安料金だった。これもTさんのお陰。感謝。

 

3. バッタンバン
街歩き

部屋もとても立派なので、3日ぶりのお湯シャワーを浴びて寛ぐ。この街に関する知識は何もなく、何するという目的もないので、取り敢えずフロントで地図をもらい、街歩きに出た。すぐ近くに大きな川が流れており、その周辺には華人を中心にした商売人が店を構えている。これを見ても、ここが昔、川を中心とした交易で栄えていたことが想像できる。ここからプノンペン方面へ抜けられ、タイへもすぐに行ける、物資の集積地だったであろう。

お寺も多い。そこに漢字表記があり、華人がお参りしているのが分る。路面にテーブルが出ており、食事ができる場所があった(実はここは学校の裏手だったことが後でわかる)。フェンスの向こうから『なんか食べていきなよ』と声が掛かり、思わず座る。すると『すぐに雨が降るから』というではないか。その言葉通り、すぐに雨が激しく降り、路上から内側のテーブルに移動し、傘を持たない私は濡れずに済んだ。この店の女性は英語が話せて、外国人客も呼び込んでいるのだろう。ただお母さんの顔を見ても華人にしか見えない。この辺の商売上手はやはり華人の伝統だろう。クメール人はもっとのんびりしているはずだ。

 

甘く煮付けた豚肉が美味い。きゅうりの漬物、そして豚足の小皿まで登場し、ご飯をかき込んだ。何ともいい味を出しており、この街では飯には困りそうもないと分かって安心した。これに水代を加えて5000r130円)は、この付近の相場として妥当かどうかはわからないが、とても満足した。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(7)緊張の地雷処理と村の未来

地雷処理の現場へ

そして雨が上がり、ついに地雷処理の現場を見学するため、外出した。村の郊外の野原、というか、何もない丘で、そのデモンストレーションは行われた。ダマイナーたちが先導して、3種類の既に除去した地雷を穴に入れ、そこに導火線のついた爆薬を使い、爆破する。我々はその現場まで見たうえで、車が停まっている、かなり離れた場所まで下がり、更には防弾チョッキをつけて、待機した。じわっと汗をかく。これにはかなり緊張した。 

少し待っていると、突然大音響とともに、噴煙が上がった。ただ我々の位置からは正直よく見えず、丘の向こうに砂塵が上がるのが少し見えた程度だった。聞くところによれば、このような爆発音は反響の関係で、近場よりむしろ村の方が大きな音が聞こえるらしい。爆破はほんの一瞬の出来事だった。少し時間をおいて、また現場へ向かう。既に跡形もなくなった地雷を確認するためだった。しかしこの人海戦術で、一体どれだけの地雷が処理できるのだろうか。地雷は何百万個と埋まっているという。

 

機械ではできないのか、犬を使えないのか、など色々な研究がなされているらしい。この現場を見れば、機械が求められていることがよくわかる。と同時に、これだけの地雷をよくも埋めたな、と感心してしまうほど、その数は多く、今後いつまでこの処理に時間が掛かるか、全く分からないというのも、何とも言えない心持がする。しかも世界にはカンボジア以外に多くの国にいまだに地雷が埋まっており、その被害に遭う人々がいるという事実も、胸に突き刺さる。

 

帰りに、仏塔の前で停まる。ここは7名の方が亡くなった事故の慰霊塔だという。Tさんたちが資金を工面して建てたものだった。『一番端は自分の骨壺の場所だと思っている』と語るTさんにとって、この事故は一生涯消えないものなのだろう。中には7名の写真が掲げられており、女性も3名含まれていた。幼い子供など、家族を残して逝った人々の思いは計り知れない。隣のお寺がこの慰霊塔の供養をしてくれているという。ちょうどそこではお坊さんが信者に水を体にかける、荒行のようなことが行われていた。

 

慰霊塔の横に階段があり、丘を登れるようになっていた。階段はかなりあり、相当疲れてしまったが、やはり高校生が元気だ。スイスイ上っていく。下には平原が広がっている。この一帯はポルポト軍がやってきて、政府軍もやってきた。更にはベトナム軍までがやってきたという。ポルポト軍は国境を越えてタイまで逃げ込んだが、その際、地雷を埋めて行ったらしい。中国とベトナムの戦争である中越戦争、ベトナムの主力がカンボジアに行っている間に中国が仕掛けた、と思い出す。

 

のどが渇いたので、村の喫茶店に入った。皆さんがにこやかに迎えてくれ、飲み物を頼むとフルーツが出てきた。ここで採れた物らしい。そして楽しそうにTさんと談笑している。さりげなく生きる人生、何だかこんな夕方がよいな、と思ってしまう。結局飲んだり食べたりしたが、代金は受け取られなかった。これで商売になるのかと、心配になってしまう。

 

車は村から少し外れた。そこに小さなゲートがある。『ここも国境だよ』とTさんが説明する。この国境、カンボジア人とタイ人は通ることができるが、我々は越えられない。こんな国境がこの付近にもいくつかあるようだ。実にのんびりと、トラックが国境を越えていく。以前はカンボジアの木材がタイに運ばれたが、今は禁止されている。一体何を運んでいるのだろうか。

 

事務所に帰ると今日も日本語学校が開かれている。日本の高校生二人が教室に入り、生徒と交流を始めた。自己紹介したり、日本のことを話したり。でもこれが意外と難しい。結構苦労している。だが同じ年代の若者たち、すぐに打ち解けてしまう。昨日のおじさんとは大違いだ。授業が終われば、一緒に記念写真を撮り、サッカーに興じている。ついには、皆でどこかへ遊びに行ってしまった。

教室では昨日からどうしてか気になって女の子が一人いた。あまり口をきかず、しかし真っすぐに前を見ている子。皆が縄跳びを始めるが、その輪に加わらず、じっと見ているだけ。私が縄跳びを渡そうとしても、首を横に振る。シャイなのか、と思っていると、彼女は実はサッカーがしたかったのだと分かる。何とも真っすぐな性格、自分のやりたいことを無意識に持っている。とても芯が強い。

 

その子のお母さんが、フルーツをプレゼントしてくれた。あのぬかるんだ道の家、上の子が日本に留学している子のお母さんだった。ということはあの子は妹なのか。姉が途轍もない頑張り屋で日本にまで行った。決して豊かではない暮らしの中で、感謝の気持ちを忘れない。この母子を見ているとなぜだか、未来があるな、と感じてしまった。そして愛媛にいるお姉ちゃんにもぜひ会ってみたいと思う。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(6)日本から高校生がやってきた

高校生がやってきた

Tさんは本当に忙しい。その中をお付き合い頂いているのだから、申し訳ない。今日もお客さんが来る(昨日来ると思い込んでいた人々)。私と全く同じルートで国境まで来る予定なので、一緒に迎えに出た。10時前に2台目のロットゥに乗り、彼らはやってきた。Tさんの地元愛媛から、高校生二人とその引率者、そしてもう一人女性も乗ってきた。総勢4人、皆大きなスーツケースを持っており、バス代の超過料金を取られる。入国書類を書き、無事国境を越えた。

 

引率者のSさんは愛媛で農業をしており、昨年もここを訪れている支援者。そして地元の高校生にカンボジア行きを募集したところ、高校二年生の男女1名ずつが応募してきたという。この歳で、カンボジアを見てやろう、という気持ちを持っていることが素晴らしい。さすがに陸路の国境越えは緊張したという。こういう経験は日本ではできないので、非常に重要だ。

 

男子は陸上競技をやっている、小柄だががっしりしたタイプ。何とも人が良い田舎の高校生だ。同級生からも『カンボジアへ行くのか』と驚かれたらしいが、行ってみたいと気持ちが勝ったのだろう。女子は一人っ子というから、さぞや両親が心配しただろうと聞くと『お父さんが行ってこい』と背中を押したらしい。天真爛漫に育ったのだろうが、どこへ行っても女は強い、と感じる。

 

まずは村人を訪問した。実は家の長男は、デマイナーとして地雷処理に当たり、その中事故で亡くなっていた。この事故はTさん不在の中で起こり、7名の方が亡くなったという。Tさんにとっては痛恨の大惨事であった。日本であれば『安全には万全を期したのか』など遺族から強いクレームが予想されるが、我々は実に温かく迎えられた。『息子はこの村のために作業をして、不幸にも亡くなった。誇りに思う』という言葉が突き刺さる。しかし残された両親、そしてたくさんの弟や妹の胸中はいかばかりか。

 

話を聞いていると奥さんが態々冷たい水を買ってきてくれた。これは何とも有り難い。言葉は通じていないが、気持ちは通じている。庭を見ると、古ぼけた石碑に日本の国旗が見えた。近づいてみると、そこには井戸があった。『この井戸ができるまでは、自家用水は1㎞以上離れた川まで汲みに行っていた』という。日本政府の援助で井戸が掘られたことにより、大幅に仕事が軽減された。

 

だがTさんは『他の家で、掘った井戸に落ちて亡くなった子供がいた。安全対策を取る必要もある』と厳しい顔になる。そこには起きてしまった事故に対する無念の思いが滲んでいた。村の人のために行っている活動で村の人が犠牲になる、これは非常に重い現実だ。ただ村人も、地雷が処理され、井戸が掘られることが、基本的には村の生活をよくしてくれることを理解しているからこそ、Tさんに対しても感謝の気持ちになるのだろう。もし少しでも金儲けのためにやっていれば、必ずや非難され、活動は中止となるはずだ。

 

初めての海外、勿論初めてのカンボジアで、いきなりこのような現実に直面した高校生は、一体何を思ったことだろうか。単純に『カンボジアの人のために何かできることを』などという感覚が、この現場では通用しない現実を見て、きっと何かを得ていくことだろう。しかも郷里の大先輩が、懸命にその道を切り開いている姿を横で見られるのだから、これは大きな財産になるのではないか。

 

事務所へ行くとまた雨だ。昨日は急に降り出した雨で靴を下に置いたままなのをすっかり忘れてしまい、ずぶぬれになった。扇風機で一晩乾かして、何とか履けるようになる。今日は同じ過ちを繰り返さない。ただ今晩は部屋を女性に譲って、私は特等席である階段脇のベランダで寝ることにしていた。壁はないので、夜強い雨だと濡れるかもしれない。どうなるのかな。また美味しくお昼ご飯を頂く。高校生も恐る恐る口に運び、美味しいとわかると食べ始めた。

 

午後は工場を見学した。キャッサバ焼酎を作っている。地雷処理が終わった場所にキャッサバが育つ。それを原料に焼酎を作る。焼酎を作った経験もないTさんがこれにチャレンジした。すごいな。既に4年前に私もお土産に買った。日本への輸出も決まりかけたが、成分の問題で輸出の話が止まってしまった。既にこの問題は解決しているようだが、現在は中国向け輸出を狙っている。非常にネバリ強い取り組みが行われている。工場内には醸造する機械が置かれており、スタッフが日夜研究にいそしんでいる。外には古い小型トラックがあった。使えるものは何でも使う。使う用途に合わせて改造して、何とか活用する。モノが溢れている社会ではないのだ。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(5)人材育成の現場

村の教育

それから実際に過去に地雷処理が行われた場所へ向かう。雨でぬかるんだ道、そこに地雷処理の看板が建っていた。その先の道はTさんが寄付を募り、整備したのだという。確かに地雷を処理しても、それからどうするのか、どのように使うのか、も重要だ。車で数分行くと、小さな家が建っていた。だが農作業に行っているのか、誰もいない。なぜここへ来たのか。

『実はここの家の子が今愛媛に留学している。ものすごい勉強家で、中学生の時、どんなにひどい雨でも日本語学校まで通ってきていた。日本の高校に留学する時には、日本の高校生と同じ基準で受験して、見事合格した。120時間は勉強していた』というのだ。これには正直驚かざるを得ない。何しろこのぬかるみの道を歩くだけでも大変なのに、学校まで行くとは。そして毎日街灯もないこの道を歩いて帰ってきたのか。更には日本語がそれほどできないのに、頑張る、驚異の粘り。今は日本の大学に入るべく、猛勉強しているらしい。是非一度会ってみたい!その家の庭にはなんと不発弾が転がっていた。これが現実なんだ、その中で光を見出そうと努力する人々。

 

そして事務所に戻ると、学校を終わった子供たちがそこで遊んでいた。ちょうど日本語教室が始まる所だった。私もそこに混ぜてもらう。生徒は10-13歳ぐらいの子たち。自分の名前と年齢を大きな声で言ってくれる。先生は高校生。それでも日本語が相当にうまい。彼女の通訳で、一人ずつ、色々と聞いてみる。『ここから日本は相当に遠い』ということを実感する。日本語の先生になりたい、日本へ行って日本語を勉強したい、と言われるとその夢をかなえてあげたい気持ちになる。

 

この学校は日本人女性の寄付により、昨年完成したという。村を向上させていくには、『教育』が重要だとTさんは考えている。しかしただ日本語を教える、ということでない。教室に入る時に、履いてきたサンダルをきちんとそろえる、そんなところからやっている。恐らく子供たちも、煩いな、面倒だな、と思っているはずだが、このような基礎教育こそ、これからのカンボジアに必要なものだという。

 

今は小学校に通えない子供は殆どいなというが、勉強するモチベーションを上げる必要もある。一生懸命勉強した子にはご褒美が必要だ。日本側で受け入れてくれるところがあれば、留学にも送り出す。現在2人の村の子が日本に居る。先ほど家を訪ねた子の頑張りは、村でも有名なはずだ。生徒たちがきれいな日本語でアンジェラ・アキの『手紙』を歌ってくれた。先生役をしている高校生は本当の歌手のように『涙そうそう』を歌い上げた。次は誰の番だろうか。人材育成、その形を見る。

 

シャワーを浴びさせてもらう。と言ってもお湯は出ない。水シャワーを浴びるのだが、水をそのまま浴びると冷たいということで、Tさん自ら考案した、シャワーがそこにあった。確かにこれを使うと、管を通る間に少し温くなっている。とはいえ、水シャワー、私はインドやタイなどで何度も経験があるので、1-2日は問題ないが、出来ればお湯が欲しくなるはず。食事も日本食などは食べず、現地の食べ物で通しているらしい。Tさんは私より一回り以上上なのに、村人と同じ生活をしている。これは簡単なようなすごいと思う。そして泊まりに来た日本人に水シャワーを経験させることはかなり重要なことのように思えた。

 

夕飯を頂き、Tさんと話し込む。ここカンボジアで地雷処理をする意味、政府の関与、国際貢献やボランティアなどの在り方、など話は多岐に渡る。『議論ばかりしていても何も進まない。まずは実践すること』なのだろう。既に69歳という年齢のTさんがカンボジアと日本を何回も往復して、実務である地雷を処理し、村の将来を考え、そして日本にこれを伝え、寄付を募る。今回、クラウドファンディングという新しい手法を取り入れたのも、『やってみよう』という精神の表れだろう。この村の在り方とそこへの関わり方は、必ずや日本人にも参考になる。Tさんは相当に疲れているはずなのに、夜遅くまで話に付き合ってくれた。情熱が感じられる。

 

728日(木)

大きなベッドで安眠した。まだ薄暗いのに鳥のさえずりがうるさい。外に出て朝日を浴びる。犬が転がって遊んでいる脇で、デマイナーの女性が既に出勤してきて、庭の掃除をしていた。バイクで送られて出勤する人もいた。6時半過ぎには朝礼が始まる。今日やるべきことを確認。それから場所を移動して、昨日までに除去した地雷を11つ確認している。『これはソ連製』などと言いながら、カタログを見ている。地雷と言ってもその種類は予想よりはるかに多い。爆薬の有無などは勿論、その性能、処理に仕方、などの知識を共有している。

 

朝ご飯を頂くと、Tさんの部屋でコーヒーを飲む。するとPCが振動して、スカイプが始まる。日本との時差2時間、既に愛媛事務所の活動は始まっており、NPO理事長として、Tさんに色々と指示を仰いでいる。プレーイングマネージャーであるTさん、理事長が現場の第一線で活動しながら、色々な決済もするのは大変だ。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(4)村に工場が誘致されて

 2. タサエン村
いきなり現場見学

国境を出た車は田舎道を走っていく。と言ってもちゃんと舗装されており、問題はない。広々とした空間が広がっている。元ポルポト軍の司令官の住まいが立派に建っていた。そういわれて初めて、こののどかな空間が20年以上前は内戦の舞台だったと気付かされる。しかし本当にここで何かがあったのか、と思うほど、何もない静けさ。

 

車は大きな建屋に近づいた。そこはTさんの地元、四国から企業を誘致して建てられた工場だった。正直こんな田舎に日本企業の工場があることに驚く。そして日本人の駐在員も一人いた。工場を案内してもらうと、上等な和紙を使い、和服を包むための紙を作っていた。カンボジアの片田舎で和服を包む紙とは。この意外性に仰天する。工場は広々としており、その中でカンボジア人の若者が働いている。日本語の通訳をしている若者は先日バイクで事故に遭い、かなりのケガをしていた。『カンボジアではヘルメットは重要です』という。

 

次は地元のカンボジア人の家を訪問した。昼間からほろ酔い気分になっているところにちょうど行ってしまう。ここの主人は内戦で片足を失い、ここに移住。農地を広げるために危険を承知で開墾し、結果地雷でもう一つの足を失ってしまったという。だがそれにもめげずに、農地を広げ、キャッサバなどを植え、またその苗を育てて他者に分けていく、という方式で、成功を収めていったようだ。

 

義足をつけていながら、我々を快く迎え、さっさと歩いて畑を案内してくれる。Tさんの支援が如何に彼の助けになっていたかを知るに十分な笑顔で話してくれる。彼の人生を窺い知ることはできないが、内戦があり、兵士として戦い、戦後は地雷とも戦ったのだろう。突然闖入した者には計り知れない努力の結果、今があるはずだ。

 

Tさんの事務所へ行く。思ったより広い敷地、2階建ての建物と、反対側には平屋、正面には工場のようなものが建っていた。平屋は寄付により建てられた日本語学校、正面は焼酎工場だった。2階建ての2階がTさんの事務所兼住居。空いている一部屋は私が使わせてもらう。この部屋には曽野綾子さんなど、著名人も泊まったことがあるという。因みに人気俳優の向井理はハンモックに寝ていたとか。

 

既に昼近く、ご飯が用意されていた。ここには2人の若い女性が住み込みで勤務していた。ベテランが辞め、まだ来たばかりだという。20歳前だが、聞けば10歳ぐらいから畑の草むしりなどの仕事をして、その後タイに出稼ぎに出たり、戻ってきて色々な仕事をしたらしい。若いのに、かなり苦労している。でもこれがこの村では珍しくないという。

 

ご飯と、魚に甘いたれをかけて食べる。生野菜も付いている。これはかなりうまい。彼女らは小さい頃から簡単なご飯は自分で作れるようになっているらしい。ご飯も進む。カンボジアの料理は基本的に甘い。そしてアジア全体にそうだが、ご飯を食べるためにおかずがある。猫がご飯を狙っている。何だか微笑ましい光景だった。

 

ちょっと休息していると雨が降り出す。スコールというほど強くもなく、ほどなくして止む。するとTさん、ミーティングがあると言って下に降りたので、付いていく。そこには地雷除去の作業をする5人の隊員、デマイナーがちょうど作業現場から戻っていた。何と5人のうち3人が女性で驚いた。しかも皆家族を置いて、遠くの作業場まで出掛けるので、数日戻らないこともあるらしい。

 

さすがTさん、元自衛官。きちんと整列して、きちんと挨拶する。こういう光景を見ていると、『けじめ』という言葉が生きて来ると思う。特に地雷のような危険物を扱う仕事、当然慎重に行うはずなのだが、ちょっとでも気が緩むと、事故を招きかねない。作業終了報告を簡単に終えて、すぐに解散となったが、身が引き締まる中に、暖かい何かが走る。

 

雨も上がったので、外出。もう一つ誘致された工場を見る。こちらも紙関係。ご祝儀袋などを作っている。原料は全て日本から運び、形作る?作業だけ。若者が数十人、なんとも楽しそうにやっている。聞くところによれば、この作業、材料を家に持ち帰って、お母さんや妹と一緒にやってもよいらしい。いわゆる内職なのだ。日本では既に内職する人も減っており、また人件費から考えて採算も合わないのだろう。

だがこちらでは人が余っており、家族まで含めると、かなりの労働力がある。内職、実は意外と難しいようにも思うが、カンボジアなどでは有効な手段にも思える。ここでは昔Tさんのところで地雷処理に携わった人もおり、またこの工場が誘致されて仕事ができたことを感謝している人もいる。出稼ぎに行かなくてよい、家族と一緒にいられることはここでは何より重要かもしれない。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(3)不思議なバスで国境へ

727日(水)
カンボジア国境へ

翌朝3時台に起きて、410分には宿をチェックアウト。予め言ってあったので、フロントの横でスタッフが仮眠を取りながら、鍵を受け取ってくれた。そして歩いてテスコへ。道路には当然車は走っておらず、陸橋ではなく、下を渡ると、すぐに駐車場へ着いた。まだ暗かったが、そこにはすでに10人以上の先客がいた。英語で『カンボジアへ行くのか』と聞くと、きちんとした英語で『そうだ』という答えが返ってきたので、彼の横に腰を下ろして待つ。

 

その後続々と乗客が集まってきたが、その人々には1つの大きな特徴があった。非常に軽装、旅行用の荷物を持っているのは私だけなのだ。更にはタイ人らしい人が少ない。このバスはカンボジアへの帰省用かとも考えたが、土産を持っていない。担ぎ屋でもない。フィリピン人や欧米人も数人見られ、どうも違うらしい。かといっても観光用でもない。皆慣れた様子でバスの到着を落ち着いて待っている。

 

510分頃になり、ようやくバスの姿が見えると皆が一斉に立ち上がり、バスの方に向かった。タイでよくあるロットゥと呼ばれるミニバスだから、全員が乗るのは難しい。当然私も出遅れてしまい、大きなケースを持って乗り込もうとしたが、なかなか厳しい。運転手が整理するとあと一席あるというので何とか乗り込めた。残された人も慌てていないので、もう一台バスが来ることは明白だった。私の荷物は運転台に置かれた。

 

席は一番後ろの一番端。隣にフィリピン人の小柄な女性が座ったので、まだよかったが、そうでなければその狭さにとても耐えられなかっただろう。初めは見慣れたスクンビットの通りを走り、そのうち郊外に出て、それから2時間、どこを走っているのかもよくわからないまま、車は前に進んでいく。夜も完全に明け、スピードが出ていた。

 

2時間後に休憩があった。ほとんどの人はここでトイレに行き、朝ご飯を買って食べていた。私は乗り物に乗っている時は食べ物を食べないようにしているので、その辺を散歩した。足が伸ばせるのが有り難い。車もバンパーを上げ、休憩している。ここは一体どこなのだろうか。そして同乗者同士が英語で話しており、顔見知りも多いようだが、一体誰なんだろうか。

30分の休憩後、車は再び走り出し、私は眠りに就いた。そしてその2時間後、起き上がると、そこは閑散とした国境だった。時刻は9時半、休憩を入れて4時間半の旅だった。皆が車から降りて、私の荷物も運転手が下してくれた。さて、ここからどうなるのだろうか。確かTさんは国境で待っていると言ってくれていたが。携帯に電話すると、タイ側を出国するように指示がある。乗客全員がパスポートを持ち、出国手続きをしていた。やはりこの人たちはすべて外国人だった。タイ人とカンボジア人は別のゲートから簡単に出入りしていた。

 

出国するとそこにTさんが待っていてくれた。2年ぶりの再会となる。橋を渡るとそこがカンボジアだった。そして事務所のようなところへ行くと、ドイツ人が待っており、車代として400bを支払った。一緒に乗ってきた他の全員が彼の周りで、用紙に何か記入していた。それでようやく分かった。このバスはタイのビザを取るために一度国外に出るためのバスだったのだ。だからミニバスがテスコのところにやってきて、知っている人だけが乗り込んだのだ。私はそこに便乗した特別の客だったという訳だ。

 

通称ビザランと呼ばれるビザを繋ぐために一度国外に出る行為。本来はきちんとした滞在ビザを取るべきことは言うまでもないが、様々な事情でそれができない人が短期ビザを繋いでいる(日本人なら30日のノービザを繰り返す)。当然政府も取り締まりをするのだが、そこはタイ。必要悪に対しては規制が緩い。また偶に厳しくなるが、すぐに緩くなるのが実態だろう。同乗してきた人たち、バンコックで何をして、働いている人々なのだろうか。ちょっと気になるが聞けなかった。

 

Tさんが反対側の事務所に入った。そこは皆知り合いのようで握手を交わしている。そこで35ドル支払ってビザが交付された。ここがドゥーンという名の国境だと初めて知る。タイからカンボジアへ行く外国人は普通、アラヤンプラテートからポイペトに入るのだが、ここは全く知られていない、こんなことでもなければ通ることはない国境だった。

 

Tさんの車に乗り、国境を離れようとしたが、出口のところで、パスポートチェックがあり、どこかへ行けと言っている。よく考えてみたら、ビザはもらったが何と入国のスタンプを押してもらっていなかったのだ。チェックされてむしろ良かった。カンボジアを出国する時、入国スタンプがなければ、どういう扱いになるのだろうか。不法入国の疑いで捕まってしまうのだろうか。それにしても緩い国境であることに間違いはない。

カンボジアご縁の旅2015(10)プノンペン 街を歩いて気づくこと

それから橋を渡り、ダイアモンドアイランドへ。建設中の国際学校が見える。その他、いくつものの開発が見られた。私の目的地はこの中にあるホテル。実はこの橋ではなく、もう1つ上流の橋の袂にあったので、かなりの時間を歩く羽目になった。ようやくたどり着いて見ると目の前には東横インが建設中だった。1月にプサンで泊まった時、プノンペンにもできると書かれたポスターを見た記憶がある。それが今、目の前に現れた。3月にオープンの予定とか。普通のビジネスホテルの他、日本人の長期滞在を見込んでおり、料金は日本と変わらないぐらいらしい。

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さて、河沿いにお洒落な建物が並ぶ中、私が訪ねたホテルはこちらも日本人経営。屋上に風呂があるというので行ってみたが、あったのはジャグジー。しかも水は入っていなかった。部屋を見せてほしいというと『満室だ』と断られたが、『もし次回泊まってくれるなら、割引するよ』とカンボジア人スタッフは言う。どうも話がちぐはぐだ。実はその横にも新しいホテルが出来ていた。こちらはやや高級なイメージがあり、敬遠して入らなかったのだが、後で聞いてみると、こちらも日本人経営とか。日本人によるプノンペンへの投資は、大きな企業から個人べースまで、かなり進んでいることが分かったが、既に上手くいくケースとそうでないケース、明暗が分かれ始めている。

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ホテルのある建物の後ろには、4年前に観光で来た、大型結婚式場?があった。カンボジアもベトナム同様、結婚式には相当にお金を掛け、盛大に親戚や友人を呼び合う。それにしてもこんな大きな建物、誰が使うのだろうか。前回聞いた時はフンセン首相の息子の結婚式に2万人?がやってきた、と聞いたような気がする。

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また街歩き

それから炎天下の中、メコン川沿いを北上した。カジノのあるナーガホテルは改装中。その向かいには観覧車があるが、かなりスピードが速いと聞いた。今日は動いているのだろうか。王宮にたどり着くと、シハモニ国王の写真が飾られていた。4年前はシアヌーク国王の写真だった記憶があるが、国王は3年前に北京で亡くなっていた。時の流れを感じる。

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かなり北上した川べりのところに、シアヌークビルでも訪ねた日本人経営のゲストハウスがあった。中はやはりきれいで、ドミトリーのみ。ここでもロビーには欧米人がゴロゴロしており、今日も満室で泊まれない、と言われた。『日本人は金があるから、もっと高い宿に泊まるんだろう』とフロントのニーちゃんに言われる。そうなのだろうか。それにしてもこの繁盛ぶり、ロケーションがそれほどよくない中、なかなかすごい。その後疲れたのでWiFiの繋がるカフェで休憩し、ライムジュースを二杯も飲んだ。

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それからゆっくりと歩いて、宿へ帰った。途中にローカル市場があり、中を通り抜ける。熱い空気がこみ上げてくる。狭い路地、野菜・果物・魚など、買い手と売り手が和やかに会話している。中国なら、丁々発止の交渉が行われるが、ここにはそんな雰囲気はない。正月が近いので、赤い提灯などの飾りが売られている。

 

韓国系焼肉

疲れ果てたのでシャワーを浴びてぐったり寝込む。今晩は現地でフリーペーパーを発行しているKさんと、カンボジア伝承医学の復興を目指すTさんと再会する予定。Kさんがトゥクでわざわざ迎えに来てくれる。Kさんと会うのは4年ぶり。すぐ近くの焼肉屋へ向かう。ここは肉屋さんだから、肉が美味いと評判のようで、7時に行くとすでに満員状態。何とか席を確保する。

 

それにしてもカンボジア人の店員のスローテンポはなかなか、凄い。席が空いても案内しないし、既に去ったお客のテーブルを片づけることもしない。我々が何か言っても反応が鈍い。Kさんのクメール語が理解できない子もおり、ここで仕事をするのも大変だな、と痛感した。マネージャーの女性が何とか捌いて行くが、カンボジアの若い子だけでは店は回らない。これは工場でも同じだろう。この国の将来を考えると、ちょっと心配になるが、それは大きなお世話なのだろう。

 

確かに肉はウマし!そして韓国系がやっているので、キムチ以下、副菜がずらりと並ぶ。完璧な韓国焼肉をプノンペンで食べられるとは感激。遅れてきたTさんも加わり、カルビ、ロースと頼み、バクバク食べて腹を満たす。さすがフリーペーパーの編集長、いい店知っている。今やカンボジアでも日本語フリーペーパーの創刊が増え、競争が起こり、独自性を出す必要に迫られている。

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2月10日(火)

ランチ

翌朝はすごくゆっくり起きた。そして出掛けることもなく、宿に籠り、旅行記を書いて過ごした。偶にはこんな時間がないと、疲れが取れない。暑さの中、毎日歩くのはそれだけでも疲労が溜まる。12時前にチェックアウトして、荷物を預けて、またボンケンコンを歩く。ちょうど良いカフェを見つけて、一日中オーダーできるブレックファーストを頼む。WiFiは初め繋がっていたが、途中で切れ、少し休んでいるとまた繋がった。自分の体と同じだな、と思う。

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2時間ぐらいネットを触り、また宿へ歩いて帰り、荷物を持って空港へ向かう。宿の横に居たトゥクを捕まえ、乗り込んだのだが、何と途中で別のトゥクへの乗り換えをさせられる。初めからあの宿の辺で客を捕まえる係だったのか、それとも急用ができたのか、全く分からなかったが、まあ特に問題もなく。空港に着く。現在拡張工事中だ。

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空港ではちょうどエアアジアのチェックインが始まろうとしていた。2時間前しかチェックインさせないのはエアアジアの都合なのか、空港のキャパの問題なのか、いずれにしてもすでにかなりの行列が出来ている。欧米人が多い。ほぼ満席のフライトに乗り、何とかドムアン空港にたどり着く。ちょっと疲れた旅だった。

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カンボジアご縁の旅2015(9)プノンペン イオンモールのワタミにて

3.プノンペン2

Kさんとワタミ

ゲストハウスのフロントのニーちゃんたちは、相変わらずフレンドリーだった。部屋も前回の4階から、2階に移してくれたというので、大喜び。預けた荷物も持ってくれ、2階の個室へ。古びていて窓もないが、快適そうな部屋だった。エアコンを点けて、お湯の出を確認し、さあ、シャワーでも浴びようかとしていると、ドアがノックされた。ニーちゃんが血相を変えて入ってきて、『ごめん、部屋を間違えた』と部屋替えを迫る。今度は3階だというので、しぶしぶ同意すると、ニーちゃん、かなりホッとしていた。

 

今晩は大阪からプノンペンに拠点を移したKさんと会う約束になっていた。彼を待つ間、その部屋でまたテレビを見て休む。カンボジアでNHK大河ドラマが見られる、しかもこんな安いゲストハウスで。ちょっと感激。それにしても井上真央、どうなんだろうか?大河の主演女優としては華がない、ようにも思えるのだが。東出何某の久坂玄瑞もイメージ違うなあ??

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携帯が鳴り、表へ出るとKさんがすごく立派なトゥクで迎えに来てくれていた。がっちりした大型バイクに跨り、運ちゃんがポーズを取ってくれたので、思わず写真撮影。でもこの運ちゃん、田舎の人のようで、イオンモールの場所も分からない。周囲の運ちゃんに聞いて、何とか方向を理解して進む。

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日曜日の夜のイオンモール、さすがにお客が沢山いた。正直日本人としてかなりホッとした気分だった。ホーチミン、そして先日のプノンペンとも平日に来店したため、お客さんが少なく、大丈夫なのかなと危惧したのだが、週末はだいぶ様子が違っていた。家族連れがとても多い。1日遊ぶ場所、遊園地として扱われている。まあ、とにかく人がいることはいいことだ。先日訪問したWakanaショップを覗いたが、渡辺店長は不在だった。

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日本の居酒屋、ワタミに入る。ここはKさんのお気に入りのようで、日本人の店長以下、仲良しだった。ワタミ前会長の渡邉美樹さんが来店した際にも、一緒に食事をしたとか。簡単なセットメニューを頼むと、日本にはない料理が沢山出てくる。カンボジアオリジナルもあり、香港の店から持って来たメニューもあるという。カンボジアの人に如何に受け入れられるか、苦労しているのだろう。味付けも甘めで、カンボジア人好みにしているように思う。寿司も巻物で、日本にはないような具を入れている。

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午後8時前に入店したが、席は殆ど埋まっており、日本人客はあまり見られなかった。殆どがカンボジア人の家族連れ。それが結構いい物を食べており、消費力のある層がいる、増えてきていることを覗わせる。酒を飲んでいる人はあまり見られず、暑い中鍋をつつきながら食事を楽しんでいる光景が印象に残る。カンボジアも金持ちと貧乏人しかない、と言われる国。そこに中間層が出てきたのだろうか。

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Kさんは最近本格的にカンボジアに居を移した設計士さん。日本企業の進出も盛んになっており、仕事は沢山あるようだ。しかし彼は『カンボジアは海外進出の通過点だ』と言い切る。将来はアフリカあたりに行ってみたい、というのには驚くと同時にかなり飛躍があると感じたが。そういえば先日会ったバーの店長、たかやんも昨年は『将来アフリカに行きたい』と言っていた。Kさんの場合、『カンボジアには家族を呼ぼうとは思わないが、アフリカの気にいった国なら、一緒に暮らそうかと考えている』というから本気度は高い。世界はまだまだ広い。こんな発想になるのも、きっとカンボジアという国にいるからだろう。

 

イオンモールの夜は煌々と輝いている。そこに沢山の人が集い、楽しむのであれば、とても良いことだろう。これが続くことを願うのみだ。帰りもトゥクで送ってもらう。プノンペンの街は以前よりはかなり明るくなったとはいえ、まだまだ暗い。イオンの灯りはカンボジアに取って実に眩しい。

 

2月9日(月)

流行るホテル 流行らない和食

翌朝はゆっくり起きて、10時頃に散歩に出た。既にかなり暑かったが構わず、プノンペンの代官山??ボンケンコン付近を歩き回る。ここはお洒落エリアだが、店の浮き沈みも激しい。1年前にはあった日本食レストランが見付からない。早々に店じまいしたらしい。エリアはどんどん広がっている感じだが、お客がそれほどいるのだろうか?プノンペンも地価ばかりが上がり、商売繁盛とはいっていないところが多い。

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本日はダイアモンドアイランドという新興開発地区に行ってみることにした。ボンケンコンからイオンモールの方に歩いていき、橋を渡ると着く筈だったが、道を間違えてしまい、かなりのローカルエリアに踏み込んだ。これは面白いとどんどん進むと最初は市場などがあり、人通りがあったが、後は迷路。そして路地の人の目が厳しくなる。よそ者、を自覚し、すごすごと退散した。

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何とか見つけて橋の手前まで来ると日本食レストランが見えた。時間はまだ早かったが、確か美味しいとと誰かが言っていたので、食べてみることにした。店員の愛想はよいが、お客は私しかいなかった。8ドルのカツ丼を注文し、それを食べたが、最後まで客は私一人。これで経営が成り立つのだろうか。ここが美味いと言われても、これだけ誰も来ないとなあ、プノンペンの日本食屋は完全に淘汰の時代に入っていると思う。

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カンボジアご縁の旅2015(8)シアヌークビル リゾートではゆったりしたい

縁日2

宿のベッドで横になると眠気が襲う。確かに朝から歩き続けて夕方まで来てしまった。熱いシャワーを浴びるとぐったりした。寝入る。東南アジアでは、この心地よい午睡が楽しい。全てのトラブルを忘れて、グーッと深く、眠りに落ちる。その深さに爽快感があり、素晴らしい。気が付くと8時を過ぎていた。

 

腹が減ったので、またさおりさんの店へ行く。今日も忙しそうだったので、声をかけずに、イカ焼とビールを注文。それを頂いていると、さおりさんより、『さっき市場で買った魚の刺身』が届けられた。これが美味かった。やはり自分が市場で見た魚が目の前に出てくるのは面白い。そして焼きそばを食べて、早々に退散した。朝からの疲れがビールで一気にやってきた。フラフラしながら宿へ帰る。

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2月8日(日)

ソカビーチ

シアヌークビル最終日。午前中は散策に充てる。ただ昨日のように遠出すると大変なので、宿の近くを歩く。さおりさんの店と反対側にもビーチがあると聞き、行ってみる。宿のすぐ近くに日本食レストランがあったが休業していた。既にシアヌークビルでもレストランの淘汰が始まっているのだろうか。

 

ソカビーチ、きれいな浜が広がっていた。中国人観光客がパラパラといた。そこへヒジャブを被った小柄な女性たちが団体でやってきた。インドネシアあたりからの観光客だろうか。海を見て嬉しそうにしている。そこへ今度は、若い僧侶の団体がやってきた。イスラム教徒と仏教徒がこのビーチで出会う。勿論言葉を交わすわけでもなく、さりとて避けるわけでもない、お互いが海の見つめている、世界にはそんな関係が必要ではないだろうか。

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ビーチの横にホテルがあった。実に立派なリゾートホテルで、入口まで歩いていくにもかなりの時間が掛かった。かつて子供が小さかった頃、香港からアジア各地のビーチリゾートへ行ったことが思い出される。こんなホテルがあるなら、シアヌークビルにも来ればよかった、アジアはまだまだ広いな、とつくづく感じる。

 

ホテルロビーの向こうでは朝食を取る人でごった返していた。中国人が多くいたのには驚いたが、そういう時代なんだ、と痛感する。かつてはフランス人を中心とする欧米人向けのリゾートだったが、今や中国人の独壇場、それがいいとかどうとか言うつもりはないが、何だか違和感のある風景になっている。ハワイを日本人が占拠した時も、こんな感じだっただろうか。とにかく余裕がない。リゾートのゆったり感もなく、せかせかとご飯を食べ、写真を撮り、バスに乗り込んで観光に出ていく。こういうのはリゾートではない。

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帰り道をトボトボ歩いていると腹が減ってきた。カフェに入ってネットを繋ぎながら、朝食を取ろうと思う。朝昼兼用でパンケーキを食べる。カフェには殆ど人がいなくて静かで良い。実に緩い時間が流れている。シアヌークビルにはこの緩さが似合うのであって、ソカホテルのような慌ただしさは似合わない。どこに行っても同じ行動を取ってしまう中国人や日本人、少し考えたほうが良いのではないか。

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シアヌークビルを離れる

ダラダラとカフェで時間を過ごしていると、ランチの人が入ってくるようになった。そろそろここともお別れだな。宿のニーちゃんもさすがに12時に出ていけとは言わなかった。この宿が経営するバンが1時半に出るのだから、当然といえば当然だが、そんなサービスをセットにしてくれるといいのにとも思う。

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ところが1時過ぎにチェックアウトして、バンの停車場へ行ってもバンは来ていない。チケット売り場に聞いても待て、とだけ言う。乗客が集まり出したが、一向に来る気配がない。1時半を過ぎてようやくバンが乗客を乗せてやってきた。同時にもう一台もやって来て、我々が乗り込む。まあこの程度の遅れであれば、上出来だろう。

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こうしてシアヌークビルを離れた。2泊3日、滞在丸2日にしては中身の濃い旅だった。昨日歩いた道をバンがスピードを出して通り過ぎていく。郊外にはビール工場が見えた。ここはリゾートと同時に工場もあるんだな、とその時初めて思った。日本企業の誘致活動も行っているという話だったが、駐在員はそれほどいないようだ。これからこの街はどうなっていくのだろうか。

 

今回は席が一人席で、ゆったりしていた。乗客はカンボジア人が後ろに固まって乗っていた。日本人も2人いた。1時間ほど一昨日来た道を走ると急に車が止まった。あれ、休憩には早いようだが、と思ったが、やはり休憩だった。トイレを探して建物の後ろへ回る。すると洗濯物が見え、薪で湯を沸かしと、そこに住む人々の生活感が滲み出ていた。こんな光景もよい。

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今回の休憩はトイレ休憩ではなく、カンボジア人がフルーツを買い込むために停止を要求したことが分かった。如何にもカンボジアらしい。また1時間行くと、正規の休憩があったのでわかる。そこで前回同様パイナップルを食べる。その後も順調に進んだが、プノンペン郊外に来ると渋滞が始まる。そしてカンボジア人が一人また一人と降りていき、終点まで乗っていたのは外国人ばかり。合計4時間の旅が終わった。私はそこから15分ほど歩いて、懐かしのナイスゲストハウスへ戻った。都会の道は歩き難かった。

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