「カンボジア」カテゴリーアーカイブ

カンボジア旅2022(6)観光客のいない街

街まで戻り、ついに運転手とお別れだった。彼もプチュンバンのお休みに故郷に帰らず、稼がなければならない立場だったようで、少しは貢献できたかもしれない。オールドマーケットで降ろしてもらった。すぐにランチを懐かしいクメールキッチンで取った。ここは11年前にも来た食堂。アモークという、カンボジア名物の甘い煮物が好きなのだ。

ついでにオールドマーケットを散策したが、どこの店も閑散としていた。既に閉店したレストランやホテルも目に付く。外国人観光客は戻ってきておらず、何となく寂しい。それでも店が開けられるまで回復したと見るべきだろうか。まあ昼間だから客が少なく、夜はもう少しマシかもしれない。

宿の向かいのスーパーへ行くと、何と日本語を話す母子とすれ違った。駐在夫人だろうか?なぜこのスーパーにと思い入ってみると、日本の味噌や豆腐などが売られていた。日本人や日本食レストラン、今も少しは残っているのだろう。相変わらず古い米ドル札が使えない。

かなり疲れたので、午後は宿で休息した。この宿は落ち着きがあってよい。夕飯のため再度オールドマーケットへ行ってみたが、事態は昼間とあまり変わらない。今度は華人系の食堂に入り、クメールカレーを食べた。ちょっとだけスパイシーなこのカレーは一体どこから来たのだろう、と思っても、答えてくれる人はない。恐らくは外国人観光客のために作られたのではないだろうか。夜のライトアップがやけにまぶしい。今は便利な世の中でカンボジアにいても、サッカー日本代表の情けない?試合が見られる夜。

9月28日(水)シェムリアップを去る

翌朝は小雨が降っている。朝ご飯を宿で食べて、傘をさしてちょっと散歩に出る。しかし特に行くべきところもなく、人も全く歩いていない。市場で働く女性はヒジャブを被っている人が多い。これはどういう系統の人々だろうか。チャンパなのか。

10時になり、宿をチェックアウトする。この宿には空港までの送迎が無料で付いているのでそれを利用する。他のトゥクドライバーは暇を持て余している。トゥクで約20分走って空港に着く。こんな空港だっただろうか。見ると国際線は1日10便程度しかない。ドル箱路線だったはずのバンコク便も1日2往復のみ。何とも寂しい空港になっていた。

トゥクを降りて礼を言うと運転手の若者が『お代は?』と聞いてくるので、『それは君がホテルからもらうんだよ』というと、『へー、そうなんだ』と言いながら笑顔で手を振り去っていく。せめて自分の食い扶持をだれが払うかぐらいは確認しろよと言いたいが、何とも憎めないヤツだった。

チェックインカウンターの女性は実に丁寧な日本語を話すのだが、なぜか話の前に『おにいさん、ワクチン証明ありますか?』と『おにいさん』を付けてくる。最初は夜の仕事でもしていたのかと思ったが、そんな雰囲気はまるでなく、日本語もしっかりしている。後である人曰く『カンボジア語では目上の人に敬称を付けて呼ぶが、それを直訳したのでは』と。

空港内は閑散としている。それでもちょうど何便か出発便があるので救われている。私が乗るバンコクエアーは、以前はエコノミークラスでも空港ラウンジが使えたのだが、当然この空港のラウンジは無くなっていた。バーガーキングは開いており『We are back!』と書かれているが、隣の吉野家は暗いままだった。土産物コーナーはコーヒーの横にカンボジア茶が売れられていたのが目を惹く。

タイと書かれた大型飛行機が到着したので私が乗る便だと写真を撮っていたら、何と30分前に出るエアアジアだった。エアアジアはここに勝負を掛けているのだろうか。だいぶん安いからこちらに乗る乗客は確かに多い。我々の飛行機は小型機で、しかも後ろ乗りだった(私は前の方の席を取ったので失敗)。搭乗時間になるとトボトボと歩いて行くのは昔から変わっていない。

機内では国際線らしく?機内食が出たが、あまり好ましいものではなく、食べない人が多かったようだ。航空会社も余裕がないのだろうか。空から下を見るとやはり水が良く見えており、洪水の懸念が高まる。シェムリアップは早く危機的状況から脱してもらいたいが、それも中国人観光客待ちだろうか。

カンボジア旅2022(5)奇跡のベンメリアへ

今日の部屋は昨日の宿とは全く違い、実にシンプルだが、必要な物はすべてそろっており、断然良い。腹が減ったので周辺で店を探すと食堂があった。入っていくと愛想のよい店主が英語でオーダーを取る。今日はポーク焼そばだなと思っていると、おまけに目玉焼きを乗せてくれた。麺はインスタント麺、美味い。2.5ドル。

近所の寺を見学していると雲行きが怪しくなる。慌ててスーパーに入ってドリンクを調達した。勘定しようとしたが、持っていたドル札はやはり受け取ってもらえない。古いものは銀行でも受け取らず、既に流通していないという。私の持っているドル札は6年以上前に使ったものだから、それも当然かもしれない。ただどれが使えないのかを私は判断できないことだった。今やアジアで米ドル札を使うのはカンボジアぐらい?なので、必要性は薄れている。

宿に戻ると激しい雨が降り出した。昨日と同じスコールかと思って部屋から外を眺めていると、向かいのレストランはいずれも中国人経営のようで看板は漢字だ。これだけ中国人観光客を当て込んで作った店は果たして生き延びられるのだろうか。この午後、雨は全く止まず、暗くなっても降り続けた。疲れてしまった私は雨の中を外へ出る気もならず、そのまま部屋で過ごし、寝てしまった。

9月27日(火)ベンメリアへ

朝は晴れていてホッとした。朝ご飯もビュッフェで、昨日のようなこともなく、ゆっくりと食べられてよかった。宿を出るとトゥクの運転手が何人も客を待っていた。彼らと値段交渉する必要がないだけでも助かった。いや今はGrabがあるから、吹っ掛けられればそちらへ行けばよい。彼らのターゲットはGrabを使わない外人客だけになっている。

ミニカブ?は順調に走っていく。ベンメリアはアンコールワットよりはるかに遠く、50㎞は走らなければならない。途中道は平たんだが、何度も大きく曲がる。何となく『The Long&Winding Road』という言葉を思い出し、その音楽が頭を流れていく。その時、『そうだ、私が本当に会社を辞めようと思ったのは、このベンメリアへ行く道』だったのだと分かった。車は音もたてずに、ただただ前に進んでいく。

1時間半ぐらいかかってベンメリアに着いた。チケットを買おうと売場を探したがない。窓口があったので聞いてみると、アンコールワットと共通券なので、不要だと言われる。トイレに行くところにベンメリアだけのチケットは0.5ドルと書かれていて驚く。次回はベンメリアだけにしようか。しかし車代を考えれば、同じか。

ベンメリアはアンコールワットより古い11世紀ごろの宮殿跡。アンコールの仏教と違い、ヒンズー教の影響を受けており、寺院もある。今は廃墟となり、その一部が整備され、見学できるようになっている。日本ではジブリの『天空の城ラピュタ』のモデル舞台だとも言われており、日本人観光客には人気があったが、今はほとんどいない。

いつものように廃墟を眺めていると、男性が『こっちだ』と声を掛けてきたので、その後に従った。彼は軽々とがれきを乗り越え、中へ入っていく。恐る恐る従っていくと、どんどん奥へ突き進む。雨も降ったので石が濡れていてかなり怖いが、面白みも出てきた。崩れた建物を潜り、西から東まで中を歩いた。普通の観光客は全く入らないエリア。なぜ彼は私を誘ったのだろうか。一部ヒンズー寺院の跡にレリーフが落ちており、図書館跡という建物も見える。

運転手との約束は1時間後だったが、まさにぴったりのワイルドツアーは終了した。そこへ日本人の男女がやってきたので少し話したが、彼らは周囲を散策しただけだった。私にも何か特別な物が付いていたのだろうか。そういえば、『会社を辞める決断』もアンコールではなく、ここで廃墟を見ながら、思ったことのように感じられた。奇跡のベンメリア、と私は名付けている。

それから運転手の案内で、街に近い3つの寺院を回った。ここも共通券があれば無料で見られるので寄っただけだが、意外と面白い。ベンメリアよりさらに古い9世紀頃の遺跡。傷みが激しく修繕中の建物もある。その横を通ると作業員が英語で話し掛けてきて、修繕の様子を熱心に語ってくれた。彼はこの遺跡に誇りを持っている。実にすばらしいことだ。

カンボジア旅2022(4)アンコールワットで何を思うか

9月26日(月)アンコールワットへ

朝は早く起きた。6時頃からプールで遊ぶ子供たちの声が聞こえたからだろうか。バルコニーで寝そべりながらコーヒーを飲んだ。それからちょっと書き物をして8時頃、朝食に行った。テラスは昨晩の雨で濡れており、食堂はそれほど広くなかった。一人旅はこういう時に座る場所に困る。

何とか2人席に座り、オムレツなどをオーダーしたら、突然後ろから激しく腰を打ち付けられて驚いた。隣のテーブルの大人数の一人が椅子を動かそうとして、誤ってしまったらしい。腰に衝撃があったので、ちょっと動かずにいたが、誰も謝りもしない。ただ見ているだけ。さすがにちょっと不愉快になり、スタッフに言って、朝食を部屋に運んでもらい、その場を立ち去った。さすがにまずいと思ったのか、朝食はすぐに運ばれてきた。

まあとにかくこのホテルにいるのはもう御免なので、朝食を食べると早めにチェックアウトした。宿の前にトゥクトゥクはいなかったので、Grabで呼ぶと簡単にやってきた。それは車というか、オートリキシャーのような乗り物で、意外と便利そうだった。取り敢えず、今日予約した宿へ向かってもらったが、運転手は英語が出来たので、交渉して宿経由でアンコールワットまで行ってもらうことにした。

まずは街中のホテルへ行く。古いが何となく雰囲気は良く、またスタッフの対応が良いのでここに決めた。まだ朝9時なのでチェックインはできず、荷物を預けて出掛ける。さあ、アンコールワットだと意気込んだところ、運転手が『チケット持っているのか?』と聞いてきた。そりゃ、チケット売場で買うよ、というと、『今売場は全然違うところに移転していて、そこへ行くなら+2米ドルだ』というので、驚いた。

検索すると確かに彼の言うとおりだったので、それに従った。そこは街からも少し離れ、またアンコールワットとも離れた場所だった。突然大きな建物が現れる。一瞬博物館かと思ったが、そこがチケット売場だった。中に入ると人はほとんどいない。窓口に行くと37米ドルで2日間使えると言われる。しかし持っていた100ドル札を差し出すと『これは古いから受取れない』と言われてしまう。3枚出してようやく1枚受け取ってもらえ、何とかチケットが買えた。なんだそりゃ。

そこから勇躍アンコールワットへ乗り込んだ。最初は片道でいいと言っていたが、彼が迎えに来るというので、3時間後に待ち合わせた。以前のチケット売場はチェックポイントなっており、入り口も実質なかった。ただ橋のところでチケットを見せるだけ。しかし聞いていたよりはるかに多くの人がここにいる。でもチケット見せているのは白人など僅か人だけ。何と今日はプチュンバンでカンボジア人無料開放日らしい。それで着飾った家族連れなどが多く訪れていた。

とにかく今回は静かにアンコールワットを回りたいと考えていた。中国人観光客不在で、それは容易なはずだったが、甘かった。仕方なく、人があまり通らない遠回りの道を選ぶ。すると草刈りをしている人々が目に入る。私が見るべきなのは、遺跡ではなく、こういう人々ではないのか、とふと思う。

実は私は11年前、ここへ来て『会社を辞める決断』をした。何があった訳でもないが、ふと『辞めても良いか』と思い至ったのだった。しかしそのピンときた場所はメインの遺跡ではなかったはずだ。いきなり脇道でコーラを飲みながら考え込むが思い出せない。仕方なく遺跡に入っていく。

遺跡の端を歩くということは、必然的に回廊を巡っていくことになる。ここにはかなりの壁画が残されており、そのほとんどは戦闘シーンである。如何に戦ったかを記録しているのはなぜなのか。一部首が落ちた仏像なども置かれており、宗教的な色彩も帯びている。メインの建物は上に登れるが、階段はかなり急激。いつもなら登らないが、なぜか足が向く。上からは遠くが見渡せる。

帰りがけに、観光客が必ず写真を撮るスポットにも行く。池に移る遺跡がメインだ。その付近では多くのカンボジア人が民族衣装で写真を撮っている。今やここもインスタ映えの世界である。いや昔も権力を誇示するためにはインスタ映えは必要だったのだろうと思わせる遺跡なのだ。

3時間弱歩き回るとさすがにきつく、最後はへたり込んで飲み物を飲んだ。迎えもちゃんと来ており、宿へ帰っていく。明日はベンメリアへ行きたいというと、運転手も連れて行くというので話が纏まる。今回は彼の運転でシェムリアップを回ろう。10年前はサレンのトゥクだったことを懐かしく思い出す。

カンボジア旅2022(3)カンボジアのお盆 プチュンバン

9月25日(日)カンボジアのお盆 プチュンバン

朝は鶏の声で目覚めた。まだ6時前だが、気分は爽快だ。部屋から出るとTさんが『お茶飲みませんか?』と言ってくれ、何と愛媛の番茶をご馳走になる。昔はどこの家でも番茶を自分で作って飲んでいた、というのは興味深い。宇和島出身のTさん、その辺はミカンの前は茶だったのだとも思う。

朝ご飯は、ご飯を作る人がお盆休みで、昨晩の残り物だったが、これで十分に幸せ。更に美味しい梅干しが出てきて感激。ミエン氏も家族が帰省中で、3人で食べる。また色々な話をしていたが、ミエン氏が『お寺へ行きましょう』と言い、昨日の寺まで行く。今日はお盆の最終日。昨日よりはるかに多くの人が集まり、まるで村祭りのような賑わいだった。

持参したご飯と水を持ち、お寺へ入ると、そこは善男善女が集い、お坊さんにご飯などを差し上げている。すごい行列の中を我々も並び、それに倣う。更にはお坊さんにお祈りしてもらい、頭に水を掛けてもらい、また何かを占ってもらう。昨日の小坊主も、今日はしっかりとお務めを果たしていて、微笑ましい。

Tさんが歩くところ、必ず誰かが挨拶してくる。まさに村の有名人だ。そして若者たちからも声が掛かる。日本語学校の生徒だった人たちが、今や立派になり、結婚して親になり、プノンペンで事業に成功していたりする。彼らもプチュンバンの時は村へ戻り、家族とともに過ごしている。日本へ技能実習生を送り出している、という人もいた。

お寺で過ごしているといつの間にか時間が過ぎていき、急いで戻る。そしてミエン氏が素麺を茹でてくれ、3人でそれを掻き込んでいると、予約していたタクシーがやってきた。実に慌ただしいお別れであった。タクシーも本当は今日ばかりはお休みだったはずが、色々と探し、お願いして、何とか確保してもらったので、すぐに乗り込んだ。あっという間にタサエン村が遠のく。

シェムリアップへ移動

シェムリアップまでは車で東に約230㎞、4時間と聞いていた。最初は北へ進み、ポイペト国境近くで東に向かう。かなりの雨に見舞われ、どうなることかと思われたが、途中から晴れ間も見えてきた。途中いくつかの街を抜けたが、全て平地で快適なドライブだった。ただシェムリアップに近づくと、所々で水が溢れており、洪水の危険も感じられた。

一度ガソリンスタンドで給油した他はノンストップでほぼ4時間、予約したホテルに到着した。タクシー代100米ドルは決して安くはないが、移動手段が少ないカンボジアでは仕方がない。プチュンバンの中、運転してくれただけでもありがたいので、少しチップも渡す。

実は予約したホテルは、プール工事のため閉鎖されたので、姉妹ホテルへ行ってくれ、と連絡が来ていた。それに関して質問を送っても返事はなく、取り敢えず来て見ると、何事もなくチェックインできた。リゾートホテルという感じで雰囲気は良い。ただ街からはすこし遠い。おまけにプチュンバンでホテル前にトゥクなどもいない。

フロントは親切そうだったが、宿代のお釣りの米ドルがないとか、面倒くさそうな対応が気になっていた。部屋は広くて快適そうだったが、何とTVは付かず、冷蔵庫も動いていない。それを指摘すると『今夜は満員なので部屋は変更できない』と言われ、代わりに氷を貰った。

このホテルのオーナーはカンボジアン人だが、中国系が運営していると聞いていた。如何にも見掛けだけは良いが、中身が伴っていない中国式の典型だった。従業員もやりようがなくて、小手先で客の要望をかわすようになっている。これではいいホテルはできない。電気系統は恐らくコロナ禍の閉鎖で、長い間使っていなかったことによる不具合だろう。唯一良いのはバルコニーに寝そべって立派なプールを眺められることだった。

街まで2㎞ぐらいと言われたので歩いて行こうと思ったが、雨が降りそうだった。すぐ隣にちょうど食堂があったのでそこに入ると、ちゃんと写真付き、米ドル表示のメニューがあり、チャーハンとパパイヤジュースを頼む。チャーハンはきちんと作られていて美味しい。華人系だろう。3米ドルは安いと思ったが、昔の感覚1米ドル=100円ではないぞ、と思い直す。

そこへ大雨が降ってきて立ち往生。小さな折り畳み傘を何とか持って宿まで走って帰った。宿では大きな傘を貸してくれたが、私が折り畳みを持っているとみるとすぐに回収された。この辺がリゾート感覚ではない。夜は白人が騒ぐのではないかと心配したが、それはなく、ゆったりと過ごす。

カンボジア旅2022(2)国境バンレアムを越えタサエン村へ

目指せカンボジア国境 バンレアム

朝早く目が覚めた。やはりちょっとした緊張があるのが国境越え。このワクワク感は堪らない。8時発のバスではあるが、7時前には宿を出た。気持ちの良い朝が広がっている。バスターミナルへ行くと昨日と同じおばさんが『ああ来たね』という顔をしてチケットを売る。200b。バスは既に停まっており、一安心だ。

周囲を見渡すと、麺屋などは開いていたが、何となく食べずにバスを待つ。だがその後チケットを買ったのは3₋4人だけ。これならもっとゆっくり来ればよかった。10分前に運転手が現れ、5分前に乗車した。結局6人だった。ただ大きな荷物を持ち込んだ人もおり、このバスは荷物運びにも使われるように思われた。

7分ほど過ぎてバスはついに出発した。遅刻した者を待っていたのだろうか。取り敢えず街中を走り、一人を拾う。その後は国道を時速90㎞で飛ばしていく。国境バンレアムまではおよそ80㎞。この勢いなら1時間で到着だ、と思ったが、そこから時々乗客を探して乗せるので、意外と時間が掛かる。それでも見事に1時間半後にバンレアムに到着。

タイ国境の出国で窓口を探していると、なぜか『ジャパニーズ?』と声が掛かった。こっちに並べとの指示に従い、出国すると、何とそこにTさんが待っていてくれた。約3か月ぶりの再会だ。Tさんの相棒ソクミエン氏も一緒だ、懐かしい。まずはビザ取得のため部屋に入る。前回同様Tさんのお知り合いだから緊張感なし。写真が必要なのは陸路だけだろうか。最後に費用30ドルを支払ったが、20ドル札が汚い?と言って交換させられる。あの1ページに及ぶ大きなビザが6年ぶりにパスポートに貼られた。国境付近の様子は少し変わっていたが、のどかな雰囲気に変わりはない。

車で15ほど行くと懐かしのタサエン村に入った。Tさんの拠点に行くと何となく雰囲気が違う。6年前はなかった塀で囲まれている(コロナ下での安全対策)が、逆に木が二本無くなり、何となく明るくなっていた。食事などをするテラスも新設されており、さっそくそこでお茶を頂く。お茶は何とミエン氏が発明したススキの穂(花)茶。ナチュラルで実にいい香りがする。昼ご飯はタケノコ鶏肉スープに豚肉インゲン炒め。白米をどんどん食べる。

なんだかとても静かだと思っていると、何と今日はプチュンバンというお盆の最中、日本でいえばお正月の2日みたいな日であり、日本語学校も地雷処理もお休みだった。そして強烈なスコールが降りだす。Tさんもリラックスムードで話が弾む。こんな機会でもないとゆっくりとお話しする時間はない。『物事の本質』について、じっくりと聞く。

それからミエン氏が作り出しているススキの穂茶の畑を見学した。かなり広い敷地に日本でいうススキが植えられている。全て有機栽培だという。香りが良いだけでなく、効能もあるらしい。工場には乾燥機、そしてティバッグに詰める機械も揃っている。マンゴリキュールもちょっと頂く。

Tさんの車で村を案内してもらった。車をゆっくり走らせるのは、村人と出会った時、ちゃんと挨拶するためだという。確かに何人もの人から声を掛けられ、Tさんも声を掛けている。何だか選挙カーにでも乗っている気分だが、この辺にもTさんの気遣いが見られる。まずはTさんが誘致してここに工場を開設した日本企業に行ってみたが、さすがに休みだった。6年前の4社から1社がプノンペンに移動したが、後はコロナ禍でも頑張っているようだ。

それからお寺へ行く。ここに地雷処理中に亡くなった7名の方のお墓がある。6年前は1つだった慰霊碑が2つになっていた。実は地元の人々のお墓代わりに、もう一つ建てたという。そして真ん中にお地蔵さんが置かれている。これらも支援者の方々から贈られたもので、その思いをTさんたちが苦労して輸入して、形にしている。

Tさんのもう一つの大きな支援は子供たちへの教育。日本語学校でもそうだが、脱いだ履物を揃えるなど、基本的なことを常に教えこんでいる。お寺でも小坊主を可愛がり、一つ一つ様々なことを丁寧に教えているのは実に印象的だった。私も一度サンダルを揃えずに注意された。

夕飯もまたおいしい。地鶏のいい焼き目の付いた焼き鳥、タケノコ、豚肉と卵の煮物。これはいくらでもご飯が食べられる代物で、食べ過ぎて困るほど。食後は6年前の水シャワーに変わり、温かい湯が出るシャワーを浴びさせてもらい、その有難みを知り、静かな夜を過ごした。蚊帳もあり、眠りも深い。

カンボジア旅2022(1)6年ぶりにチャンタブリへ

《カンボジア旅2022》  2022年9月23₋28日

7月愛媛県宇和島で奇跡の再会があった。偶然というにはあまりにもビックリする内容で、『これはカンボジアを目指せ』と言われているのだなと思い、タイ‐カンボジア国境の村を再訪することを決めた。だが前回6年前とは状況も変わっており、バンコクからあの国境へ直行するバスは無くなっていた。これもコロナのせいだった。ではどうやって行くか。するとちゃんと道を知る先達が登場し、『チャンタブリからロットゥだ』というので、それにトライすることとなった。

9月23日(金)チャンタブリへ

チャンタブリ行のミニバスはエカマイから出る。前日既にバスターミナルへ行き、午前9時発のチケットを購入しておいた。220b。これでチャンタブリまでは行けそうだと思っていた。そして当日も朝早く起きて万全の準備をした。時間に余裕があったのでバスで行くことにした。72番バスはエカマイまで直行する。

ところがその日停まっていたのは72番のエアコンバス。そしていつになっても発車せず、乗っていた客も呆れて、違うバスに乗り換えた。私もついにしびれが切れて、アソークま方面へ行くバスに乗り換えた。ところが午前8時前のラッシュアワーに引っかかり、大渋滞。アソークはおろか、MRTの一つ前の駅まで辿り着くにも相当な時間が掛かる。こんなことならGrabバイクを呼べばよかった。

MRTに駆け込んだが、なかなか来ない。何とか乗り込み、一駅でBTSに乗り換え。何とか間に合ってエカマイに到着した。ミニバスのドアはまだ開いていない。出発15分前に滑り込んだ。僅か3㎞弱のところ、1時間半もかかってしまった。これだからバンコクは怖い。

ミニバスは定刻になっても出発しない。まだ予約した乗客を探している。2‐3分遅れて悠々と彼らは現れる。私は何のためにあんなに急いだのだろうか。バスはバンナーのストップで3人を更に乗せ、満席で高速を走りだす。途中まではスクンビット通りを行ったが、早々に海側の道を捨てた。水嵩の増している水田が目に付く。

2時間ほど行くと一度トイレ休憩がある。その後もただひたすら走っていく。途中で数人がおり、4時間後にチャンタブリのバスターミナルに到着した。乗ってしまうとそれほど遠いとは感じない。取り敢えず、明日向かう国境行のバスを探すと、何とあっけなく見つかった。英語も通じているので問題なさそうだ。

チャンタブリを歩く

明日のバスが見付かると急に腹が減る。町にどんな食堂があるかも良く分からない(6年前にも来ているが、食事に関して思い出はない)ので、ターミナルの食堂へ入る。メニューには英語はあるが、金額は書かれていない。取り敢えず麺を頼んでみたが、請求された料金は普通だった。

ターミナルを出て歩く。すぐ横にホテルがあるのは分かっていたが、何となく泊まる気になれず、そのまままっすぐに歩いて行く。10分ほど歩くと、見たような宿が目の前に現れた。ここが6年前、国境からタクシーで連れてこられたホテルだった。懐かしいのでここに泊まることにする。料金は900b(朝食なし)で6年間変わっていない。コロナで閉まっていたのかもしれないが、設備なども特に変わっていない。

外を散歩してみる。川沿いに観光街があることは覚えていたが、当然ながら観光客はほとんどいない。そして地元民のマスク率がバンコクなどより高いと感じられる。なぜだろうか。川沿いの景色は悪くない。私はまっすぐ一番行きたかった大聖堂を目指した。この教会はタイでもっと立派だと思われるが、その様子はまるで変っていない、輝きがあった。

橋を渡って歩いて行くと、宝石市場に出た。ここは百年以上前からインド系、アラブ系、中国系、そしてタイ系など宝石バイヤーが屯して、売買に血眼になった場所であり、今でもその名残は十分にある。思ったよりもここには人がおり、石の鑑定などが各所で行われていた。

そこから宿の方へ戻ると、大きな市場があった。チャンタブリの街の規模が分かるような大きさだった。雨模様で人もまばらな午後。その横には立派なお寺があり、入っていくと、極めて造形的な仏塔?などが見られ、写真を撮りたくなる。掃除するお坊さんたちはそんな私には全く構うことなく、自らの仕事に集中していた。

部屋に戻って休息後、夕飯を食べに出た。近所で済まそうと思い、華人系の店に入る。今回は中国人らしい振る舞いをしてテーブルに着くと、おばさんが早々に中国語で『何食べるの?』と聞いてきたので、タイ語が出来ない私としては、作戦は成功したかに見えた。ところが何が美味しいかと聞くと『ベトナム春巻き』を指したので、思わず『えー』と言ってしまい、敢え無く中国人でないことがバレてしまった。揚げた魚と野菜をスープで煮込んだ料理は美味しかった。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(9)バッタンバン街歩き

雨はスコールで、すぐに止んだ。涼しくなった街を歩き出す。少し行くと古いマーケットの建物が見えてきた。昼下がりで人もいない。怠惰な雰囲気が流れている。市場の外で野菜を売っている若い子は、夢中で勉強していたようだが、疲れ果ててウトウトしている。インド系の女性がワッフル?を焼いていたので、少し買ってみる。この付近も華人が多く、なぜか葬儀用品を扱う店が並んでいた。一度ホテルに帰り、朝が早かったので昼寝した。実に気持ちよかった。

夕方再び、外へ出る。簡易な地図に教会が書かれていたので、橋を渡って行ってみる。教会は街と川を挟んだ対岸にあり、少し距離を置いている印象がある。カソリック教会と書かれた門を入ると、かなり広い敷地。しかし所謂教会のシンボルである礼拝堂が見るからない。奥まで歩いていくと平屋の礼拝堂があった。これは珍しい。その横には写真が飾られていたが、見ると1975年ポルポト軍によって破壊された元の礼拝堂が写っていた。その後再建されることなく今日を迎えているのだろう。近くではクメール舞踊の練習をしている若い女性たちがいた。平和とは何か、をちょっとだけ考えた。

だんだん暗くなる中、本日の夕飯を探した。いくつかの店があり、鍋におかずが並べられている店で、指さしでおかずを選び、ご飯をもらい食べた。彼らも片言の英語は出来たが、意思はあまり通じない。でも飯は誰でも食うので問題はない。筍と豚肉、そして卵を煮込んだカンボジアによくあるおかずは、やはり甘かった。ご飯はどんどん進んでいき、かなり太ったという自覚がある。

730日(土)
博物館は休館

翌朝は早く目覚める。タサエン村の生活が続いている感じだ。朝食はホテルで取る。華人向けのお粥を取り、オレンジジュースを飲み、目玉焼きを焼いてもらい、自分でパンを焼く。妙な組み合わせだが私が食べたかったのはこれだった。食べたい物を食べたいときに食べる。これも気ままな一人旅のいいところだ。

 

そしてまた歩き出す。今日は天気がすごく良い。折角傘を用意してきたのに。目指すは博物館。ここに行けばバッタンバンの歴史が分るだろうと思ったのだが、昨日のマーケットを越えてさらに暑い中、川沿いを歩いていき、歩き疲れた頃に辿り着いたそこは休館だった。土日は休館とのことで、私には見学の機会は訪れず、バッタンバンについても何も変わらないままだった。でもまあいいや。土日は企業も休みのようで、街中の倉庫や会社も閉まっているところが多かった。

ふらふら歩いていると小さい街だ。昨日の雨宿りのおばさんとまた目が合ってしまい、引き込まれるように中へ。今日は土曜日で学校が終わったのか、もうほとんど料理は残っていなかったが、『まあ座れ』という感じで注文も聞かず、有り合わせのものを全部載せて出してきた。たくましい商魂だが、嫌な感じがまるでない。『美味しいだろう』と食べている私を覗き込む。確かに美味しいのだから仕方がない。昨日より1000r安かったのは、やはり残り物だったからだろうか。それでも満足してしまう。

廃線を歩く

一旦ホテルで休息し、夕方また外へ出る。特にやることもなくフラフラしていると、何だか線路が目に入った。あれ、バッタンバンには電車が走っていたのか。だがその線路の上を人が歩いていく。まあ本数が少ないのだろうと思い、その後ろからついていくと、線路に座って遊ぶ子供、何かをしている親子など、不思議な風景が目に留まる。そしてついに線路の上に物が置かれ、有る所では断絶していることが分かる。この路線は既に廃線だったのだ。

行きがかり上最後まで見届けに行くと、確かにある所で見えなくなっていた。あとで見てみると、バッタンバンからプノンペンまでは鉄道を復旧しようという作業が行われているらしいがどうなんだろうか。ADBが支援しているとも聞くが、それは必要なのだろうか。今なら道路を整備してバスを走らせた方がよほど早いように思う。中国はどう出ているのだろうか。

 

バンブートレインという観光用のトレインが走っているらしく、トゥクトゥクドライバーに声を掛けられたのを思い出した。その先はこの状況だったという訳だ。タイまで電車を通す、という話も出ているのかもしれないが、この線路を復活させるのは容易ではないだろう。夕日に照らされた廃線を行く、鉄道ファンならぜひ見たい、歩いて見たいということかな。

 

暗くなった頃、街中に戻り、昨日の隣の店で夕飯を取る。へちまと豚肉炒め、小魚の揚げ物を頼む。ここの若い女性は英語がうまく、初めて3ドル、と米ドルで請求された。これまでカンボジアには何度か来たが、いつも米ドルを持っていれば用が足りていた。今回は場所が違うせいか、リエルで請求されることばかりだったので、何となく新鮮に感じる。横で若者たちがビールを飲み、騒いでいる。今日はやはり休みの日なのだな。

731日(日)

翌朝は早く起きて、朝食を済ませた。Tさんの計らいで、7時半に車が迎えに来てくれ、パイリンという国境まで連れて行ってくれることになったのだ。だがどんな人が来るのかもわからない。時間通り来るかもわからない。まあ取り敢えず荷物を持ってロビーに行き、ソファーに座っていたら、すぐに人がやってきて車に荷物を積み込み始めた。一目で日本人と分かってもらえるのは嬉しい。

その車は私専用だったが、途中で農家からコメを積み込んだ。そして国境近くの村へ寄り道して、そこで降ろしていた。更に途中朝ご飯を食べていない運転手はご飯を食べ始めた。私は濃いコーヒーを飲み、そして優しいお茶をチェイサーにした。大型バスが停まり、乗客がトイレに行く。約2時間でパイリンの街へ着き、米を届けてから国境へ進む。そこは閑散とした辺境、ただカジノホテルが2つほど、異様な感じで建っていた。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(8)バッタンバンへ

 日が暮れてきた。今晩はお客の人数も増えたので、外で焼肉パーティーだ。タイではムーカタと呼ぶ、傾斜のある鍋で肉と野菜を焼き、そのエキスを下で受け止め、スープのようにして飲む。大変庶民的で人気のある食べ方だ。確かラオスでも食べていたので、タイのイーサン料理だろうか。お手伝いさんや元お手伝いさん?などスタッフ総出で焼いてくれる。村の人がバイクでやってきて宴会に加わる。

皆がキャッサバ焼酎を飲み始める。何とも賑やかな食事となる。真っ暗な中、庭の小屋で食べるのは何とも言えない野性味がある。そして安全に見えるこの村でさえも、夜は警備の人が来ており、何と銃が柱にぶら下げられている。このような光景を見ると、『武装することと防衛すること』の意味を考えざるを得ない。人には二面性がある。いくら良い人でも、困ったときは強硬手段に出ることもある。その時、自衛手段を持たなければ、悲劇が訪れ、その人は罪人になり、自衛されていれば、強硬手段を思い止まることもあるだろう。一概には言えないが、性善説だけでは生きていけない現実がそこにある。これは我が国についても言えることではないだろうか。

 

夜、私は特等席のベランダに蚊帳を吊ってもらい、そこに寝る。何ともひんやりしていて気持ちがよい。男子高校生は、守衛のおじさんと共に、庭でハンモックを吊り、そこへ寝ることに。これでは蚊の餌食だろうと思っていたが、何とこのハンモック、内側から閉めることができ、蚊の侵入は防ぐことができた。さすが元自衛隊員のTさん、装備は万全ということだろう。これなら次回は一晩、このハンモックにお世話になりたいと思う。翌日聞いてみると、身動きは取れず、少し寝にくいらしい。

729日(金)

翌朝は周囲が明るくなると目覚める。そのままベッドから朝日が昇るのをボーっと眺めている。何とも幸せな気分になる。すぐに朝ご飯になり、寝ていた高校生もたたき起こされる。この村の朝は早い。肉団子のスープが美味い。これはタイでゲンチューと言っているスープだ。やはり、この付近はタイの影響を色濃く受けている。いや、タイとかカンボジアとかではなく、昔は一つの地域だったということだろう。

そしてついに別れの時が来た。今日この村を離れてバッタンバンへ行くことになっていた。シェムリアップへ行くことも考えたが、距離も遠いので、今回は行ったことのない街を訪ねてみることにし、ついでにそこから国境を越え、タイに戻り、知らない街を旅していくことも考えていた。これまで茶旅に時間を割いてきて、このような全く無目的、ノースケジュールの旅をする機会が減っていたので、良い時間が訪れそうだった。

 

移動手段はバスもあるようだったが、村の乗り合いタクシーを手配してもらう。村人は朝が早く、7時過ぎには車が迎えに来てしまい、名残を惜しむ間もなく、出発した。またいつかここに戻ってこようと、心の中で誓った。私は助手席に乗り、他の村人3人を後ろに乗せ、車は国道をひた走った。道はそれほど悪くなく、快適だった。道路脇に所々家があったが、概ね畑が広がっていた。

 

途中ガソリンスタンドでトイレ休憩したが、2時間後にはバッタンバンの街に入り、乗客は街中で次々に降りて行った。私はTさんがアレンジてくれたホテルに向かう。とても立派な大きな建物の前に車が停まり、乗車代10ドルを支払う。フロントで聞くと予約はないとのことだったが、Tさんの助手に連絡して、何とか宿泊できた。120ドルと格安料金だった。これもTさんのお陰。感謝。

 

3. バッタンバン
街歩き

部屋もとても立派なので、3日ぶりのお湯シャワーを浴びて寛ぐ。この街に関する知識は何もなく、何するという目的もないので、取り敢えずフロントで地図をもらい、街歩きに出た。すぐ近くに大きな川が流れており、その周辺には華人を中心にした商売人が店を構えている。これを見ても、ここが昔、川を中心とした交易で栄えていたことが想像できる。ここからプノンペン方面へ抜けられ、タイへもすぐに行ける、物資の集積地だったであろう。

お寺も多い。そこに漢字表記があり、華人がお参りしているのが分る。路面にテーブルが出ており、食事ができる場所があった(実はここは学校の裏手だったことが後でわかる)。フェンスの向こうから『なんか食べていきなよ』と声が掛かり、思わず座る。すると『すぐに雨が降るから』というではないか。その言葉通り、すぐに雨が激しく降り、路上から内側のテーブルに移動し、傘を持たない私は濡れずに済んだ。この店の女性は英語が話せて、外国人客も呼び込んでいるのだろう。ただお母さんの顔を見ても華人にしか見えない。この辺の商売上手はやはり華人の伝統だろう。クメール人はもっとのんびりしているはずだ。

 

甘く煮付けた豚肉が美味い。きゅうりの漬物、そして豚足の小皿まで登場し、ご飯をかき込んだ。何ともいい味を出しており、この街では飯には困りそうもないと分かって安心した。これに水代を加えて5000r130円)は、この付近の相場として妥当かどうかはわからないが、とても満足した。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(7)緊張の地雷処理と村の未来

地雷処理の現場へ

そして雨が上がり、ついに地雷処理の現場を見学するため、外出した。村の郊外の野原、というか、何もない丘で、そのデモンストレーションは行われた。ダマイナーたちが先導して、3種類の既に除去した地雷を穴に入れ、そこに導火線のついた爆薬を使い、爆破する。我々はその現場まで見たうえで、車が停まっている、かなり離れた場所まで下がり、更には防弾チョッキをつけて、待機した。じわっと汗をかく。これにはかなり緊張した。 

少し待っていると、突然大音響とともに、噴煙が上がった。ただ我々の位置からは正直よく見えず、丘の向こうに砂塵が上がるのが少し見えた程度だった。聞くところによれば、このような爆発音は反響の関係で、近場よりむしろ村の方が大きな音が聞こえるらしい。爆破はほんの一瞬の出来事だった。少し時間をおいて、また現場へ向かう。既に跡形もなくなった地雷を確認するためだった。しかしこの人海戦術で、一体どれだけの地雷が処理できるのだろうか。地雷は何百万個と埋まっているという。

 

機械ではできないのか、犬を使えないのか、など色々な研究がなされているらしい。この現場を見れば、機械が求められていることがよくわかる。と同時に、これだけの地雷をよくも埋めたな、と感心してしまうほど、その数は多く、今後いつまでこの処理に時間が掛かるか、全く分からないというのも、何とも言えない心持がする。しかも世界にはカンボジア以外に多くの国にいまだに地雷が埋まっており、その被害に遭う人々がいるという事実も、胸に突き刺さる。

 

帰りに、仏塔の前で停まる。ここは7名の方が亡くなった事故の慰霊塔だという。Tさんたちが資金を工面して建てたものだった。『一番端は自分の骨壺の場所だと思っている』と語るTさんにとって、この事故は一生涯消えないものなのだろう。中には7名の写真が掲げられており、女性も3名含まれていた。幼い子供など、家族を残して逝った人々の思いは計り知れない。隣のお寺がこの慰霊塔の供養をしてくれているという。ちょうどそこではお坊さんが信者に水を体にかける、荒行のようなことが行われていた。

 

慰霊塔の横に階段があり、丘を登れるようになっていた。階段はかなりあり、相当疲れてしまったが、やはり高校生が元気だ。スイスイ上っていく。下には平原が広がっている。この一帯はポルポト軍がやってきて、政府軍もやってきた。更にはベトナム軍までがやってきたという。ポルポト軍は国境を越えてタイまで逃げ込んだが、その際、地雷を埋めて行ったらしい。中国とベトナムの戦争である中越戦争、ベトナムの主力がカンボジアに行っている間に中国が仕掛けた、と思い出す。

 

のどが渇いたので、村の喫茶店に入った。皆さんがにこやかに迎えてくれ、飲み物を頼むとフルーツが出てきた。ここで採れた物らしい。そして楽しそうにTさんと談笑している。さりげなく生きる人生、何だかこんな夕方がよいな、と思ってしまう。結局飲んだり食べたりしたが、代金は受け取られなかった。これで商売になるのかと、心配になってしまう。

 

車は村から少し外れた。そこに小さなゲートがある。『ここも国境だよ』とTさんが説明する。この国境、カンボジア人とタイ人は通ることができるが、我々は越えられない。こんな国境がこの付近にもいくつかあるようだ。実にのんびりと、トラックが国境を越えていく。以前はカンボジアの木材がタイに運ばれたが、今は禁止されている。一体何を運んでいるのだろうか。

 

事務所に帰ると今日も日本語学校が開かれている。日本の高校生二人が教室に入り、生徒と交流を始めた。自己紹介したり、日本のことを話したり。でもこれが意外と難しい。結構苦労している。だが同じ年代の若者たち、すぐに打ち解けてしまう。昨日のおじさんとは大違いだ。授業が終われば、一緒に記念写真を撮り、サッカーに興じている。ついには、皆でどこかへ遊びに行ってしまった。

教室では昨日からどうしてか気になって女の子が一人いた。あまり口をきかず、しかし真っすぐに前を見ている子。皆が縄跳びを始めるが、その輪に加わらず、じっと見ているだけ。私が縄跳びを渡そうとしても、首を横に振る。シャイなのか、と思っていると、彼女は実はサッカーがしたかったのだと分かる。何とも真っすぐな性格、自分のやりたいことを無意識に持っている。とても芯が強い。

 

その子のお母さんが、フルーツをプレゼントしてくれた。あのぬかるんだ道の家、上の子が日本に留学している子のお母さんだった。ということはあの子は妹なのか。姉が途轍もない頑張り屋で日本にまで行った。決して豊かではない暮らしの中で、感謝の気持ちを忘れない。この母子を見ているとなぜだか、未来があるな、と感じてしまった。そして愛媛にいるお姉ちゃんにもぜひ会ってみたいと思う。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(6)日本から高校生がやってきた

高校生がやってきた

Tさんは本当に忙しい。その中をお付き合い頂いているのだから、申し訳ない。今日もお客さんが来る(昨日来ると思い込んでいた人々)。私と全く同じルートで国境まで来る予定なので、一緒に迎えに出た。10時前に2台目のロットゥに乗り、彼らはやってきた。Tさんの地元愛媛から、高校生二人とその引率者、そしてもう一人女性も乗ってきた。総勢4人、皆大きなスーツケースを持っており、バス代の超過料金を取られる。入国書類を書き、無事国境を越えた。

 

引率者のSさんは愛媛で農業をしており、昨年もここを訪れている支援者。そして地元の高校生にカンボジア行きを募集したところ、高校二年生の男女1名ずつが応募してきたという。この歳で、カンボジアを見てやろう、という気持ちを持っていることが素晴らしい。さすがに陸路の国境越えは緊張したという。こういう経験は日本ではできないので、非常に重要だ。

 

男子は陸上競技をやっている、小柄だががっしりしたタイプ。何とも人が良い田舎の高校生だ。同級生からも『カンボジアへ行くのか』と驚かれたらしいが、行ってみたいと気持ちが勝ったのだろう。女子は一人っ子というから、さぞや両親が心配しただろうと聞くと『お父さんが行ってこい』と背中を押したらしい。天真爛漫に育ったのだろうが、どこへ行っても女は強い、と感じる。

 

まずは村人を訪問した。実は家の長男は、デマイナーとして地雷処理に当たり、その中事故で亡くなっていた。この事故はTさん不在の中で起こり、7名の方が亡くなったという。Tさんにとっては痛恨の大惨事であった。日本であれば『安全には万全を期したのか』など遺族から強いクレームが予想されるが、我々は実に温かく迎えられた。『息子はこの村のために作業をして、不幸にも亡くなった。誇りに思う』という言葉が突き刺さる。しかし残された両親、そしてたくさんの弟や妹の胸中はいかばかりか。

 

話を聞いていると奥さんが態々冷たい水を買ってきてくれた。これは何とも有り難い。言葉は通じていないが、気持ちは通じている。庭を見ると、古ぼけた石碑に日本の国旗が見えた。近づいてみると、そこには井戸があった。『この井戸ができるまでは、自家用水は1㎞以上離れた川まで汲みに行っていた』という。日本政府の援助で井戸が掘られたことにより、大幅に仕事が軽減された。

 

だがTさんは『他の家で、掘った井戸に落ちて亡くなった子供がいた。安全対策を取る必要もある』と厳しい顔になる。そこには起きてしまった事故に対する無念の思いが滲んでいた。村の人のために行っている活動で村の人が犠牲になる、これは非常に重い現実だ。ただ村人も、地雷が処理され、井戸が掘られることが、基本的には村の生活をよくしてくれることを理解しているからこそ、Tさんに対しても感謝の気持ちになるのだろう。もし少しでも金儲けのためにやっていれば、必ずや非難され、活動は中止となるはずだ。

 

初めての海外、勿論初めてのカンボジアで、いきなりこのような現実に直面した高校生は、一体何を思ったことだろうか。単純に『カンボジアの人のために何かできることを』などという感覚が、この現場では通用しない現実を見て、きっと何かを得ていくことだろう。しかも郷里の大先輩が、懸命にその道を切り開いている姿を横で見られるのだから、これは大きな財産になるのではないか。

 

事務所へ行くとまた雨だ。昨日は急に降り出した雨で靴を下に置いたままなのをすっかり忘れてしまい、ずぶぬれになった。扇風機で一晩乾かして、何とか履けるようになる。今日は同じ過ちを繰り返さない。ただ今晩は部屋を女性に譲って、私は特等席である階段脇のベランダで寝ることにしていた。壁はないので、夜強い雨だと濡れるかもしれない。どうなるのかな。また美味しくお昼ご飯を頂く。高校生も恐る恐る口に運び、美味しいとわかると食べ始めた。

 

午後は工場を見学した。キャッサバ焼酎を作っている。地雷処理が終わった場所にキャッサバが育つ。それを原料に焼酎を作る。焼酎を作った経験もないTさんがこれにチャレンジした。すごいな。既に4年前に私もお土産に買った。日本への輸出も決まりかけたが、成分の問題で輸出の話が止まってしまった。既にこの問題は解決しているようだが、現在は中国向け輸出を狙っている。非常にネバリ強い取り組みが行われている。工場内には醸造する機械が置かれており、スタッフが日夜研究にいそしんでいる。外には古い小型トラックがあった。使えるものは何でも使う。使う用途に合わせて改造して、何とか活用する。モノが溢れている社会ではないのだ。