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ある日の台北日記2019その3(16)チョコイベントへ

11月17日(日)
茶展からチョコイベントへ

今日はゆっくり起きて、また茶展に向かう。まだ挨拶していない茶業者も沢山いるので、この機会に纏めてご無沙汰を詫びる所存だった。日曜日なので人出は多いが、業界人は来ない日なので、余り直接的な商売にはならないらしい。どちらかというと一般人向け宣伝の日という位置付けかもしれない。

 

人だかりができているブースに行ってみると、Aさんたちが手もみの実演をしていた。その横では、以前お世話になったNさんたちが和服でお茶を点て接客に忙しい。こういうブースは非常に分かりやすくて人が集まる。その場で茶葉の販売もしており、日本茶普及への貢献度は高い。

 

少し離れた所に行くと、陽光茶園のブースが見えた。ふと覗くと楊さんもやはり来ていた。既に98歳だが、先日の南投茶博にも姿を見せており、霧社からここまでやってくる体力はすごい。魚池の李さんを見つけ、そこでお茶を飲んで休む。新しい茶工場もできたというので、次回は是非訪ねてみたい。三峡谷芳のブースも久しぶり。なぜかスペイン人の若者がここの緑茶に興味を持ち、あれこれ聞いている。

 

折角なので、横の食べ物コーナーも一通り見学する。食品卸しのブースが多いせいか、その場で食べられる場所は多くはない。私はいくつかサンプル品をつまんで腹が一杯になってきた。台湾には美味い物が一杯ある。更には反対側の酒コーナーもふらつく。酒を飲まない私には無縁の場所だが、お茶コーナーより多くの人が試飲などをしている。コンパニオンが酒を勧めるなど華やかさがある。日本酒のブースも人気だ。

 

確か夕方、知り合いが来るとか言っていたので待とうかと思っていると、葉さんが『今からチョコレートイベントに行かないか』という。茶展にも飽きてきたので、その誘いに乗ると、会場は市政府近くの百貨店であり、地下鉄で移動した。特設会場に着くと大勢の観衆がいた。そして驚いたのは、葉さんの茶葉をチョコレートやドリンクに混ぜて使っていたシェフは日本人だったのだ。

 

お茶とチョコのコラボ。そして台湾特産品とのコラボ、いわゆるペアリングだが、これを日本人シェフがアレンジして、台湾で提供するのは、実に面白い。実際には銀座の店で提供が始まっているらしい。非常に工夫されており、多彩で観客ウケもよい。お茶の扱い方を見直す時期が来ていることを感じさせる。

 

11月18日(月)
南港の茶農家へ

茶展最終日。昨日途中で抜けてしまったので、今日も行こうと地下鉄に乗る。鹿谷からUさんが出てきており、南港で待ち合わせることになっていた。ちょうど2年前Uさんと南港の茶農家に行ったのだが、彼は今日もそこへ行くというのでバスの時間を確認していた。ところが今日は大雨だった。

 

Uさんのお義父さんが車で送ってくれるというので、南港茶展に寄らず、駅で拾ってもらい、そのまま茶農家へ直行した。ここはいつ来ても懐かしさを感じさせる場所だった。そして素朴な農家が、昔ながらの茶作りをしているのが、何とも好ましい。数種類の包種茶を並べて試飲していると、その発酵度も若干高く、心地よい。ほぼ今年の茶は作り終えており、常連さんがどんどん買って行ってしまう。

 

奥さんは茶摘みのプロ(ご本人は長年やっているだけと言っているが)であり、全国茶摘みコンテストで準優勝するなど、その実力を発揮している。今や茶の摘み手不足が深刻化する中、貴重な存在だ。果たしてこの茶農家、いつまで続くのだろうか。台北市内から車であっという間なのに、この山の中。環境的にも面白い。

 

一度宿泊先に帰り、夜はTさん主催の浙江の会に参加させてもらった。先日は四川の会だったが、Tさんは昔から会を作って人を集めるのが得意なのだ。今晩も6人で杭州料理を食べた。奥さんが浙江人という方が中心だが、近々江蘇との合同会に発展するとか。台湾にも中国関係者が増えているということだろう。

 

今回の台北滞在1か月半も無事に終了した。茶の歴史はいくらでも広がっていくが、調べることの限界も見えてきている。そしてその広がりは台湾に留まらず、中国、そして東南アジアへと繋がっている。来年は少し台湾滞在が減り、東南アジアシフト及び中国への本格調査が始まるのかもしれない。

ある日の台北日記2019その3(15)坪林の絶景茶畑

11月16日(土)
坪林へ

翌朝は早く起きて、新店駅へ向かった。今日は知り合いと共に坪林を散策する予定となっている。坪林行バス、週末なのでハイキング客で混んでいるかと思い、早めに集合したところ、何とか乗車することができてよかった。ここから1時間弱で坪林に到着する。ちょっと朝早かったが、祥泰茶荘は開いており、お父さんがお茶を淹れてくれた。因みにお父さんの趣味の一つが急須を集めることであり、ものすごい数の急須を所蔵していることに初めて気が付く。

 

それから馮君が包種茶について色々と説明をしてくれ、勉強する。その後、天気が良いので茶畑を見に行こうと言って、近くの川沿いの畑を見学する。最近は茶農家と一緒に茶畑を見ながら基本的な話しをする機会は無くなっており、ちょうどよかった。もう街の近くには茶畑は殆どない。

 

馮君は他に予定があったので、そこで分かれて、早めの昼ご飯に向かう。勧められた食堂に行くと、店先に珍しい野菜が置かれており、自分で選んで調理してもらう方式になっていた。この野菜が色味はワイルドだが、新鮮でなかなか良い。それに乾麺やスープ、魯蛋などを注文して腹を満たす。味がとても良く満足。

 

腹がくちると散歩するが、何しろ暑い。通りをフラフラしていると、店先で茶葉のてんぷらを作って売っていたので、興味本位で食べてみることにした。これもサクサクしてなかなか美味しい。日本でも是非茶葉天ぷらを茶産地の名物にして欲しいと思う。このお店、勿論お茶屋でもあり、茶箱には達筆な文字が書かれている。今や茶葉を売るにも個性が必要な時代だろうか。

 

その後もフラフラと歩き、茶葉博物館の前まで来た。前回既に見学していたので、今回は単に待ち合わせ場所に使った。午後は白青長工作坊を訪問する予定となっており、白さんがわざわざ迎えに来てくれたのだ。私は2年前に一度訪ねてことがあったが、昨日偶然茶展で再会し、急遽今日の訪問が実現した。これも茶縁だろう。

 

『坪林で一番高い所にある茶畑を見に行こう』と連れて行ってもらったのは、山道をかなり上った標高800mの茶畑。その風景は絶景で、遠くには太平洋も望めた。だが台風などが来れば、畑は直撃を受け、強い風で葉は育たないともいう。ほんのちょっと離れた場所でも生育状況がかなり異なることを知る。自然環境とは実に恐ろしいものである。

 

白さんの家は高祖父の代から茶を作っているらしい。この付近の茶畑は、福建の安渓から渡ってきた先祖が開拓し、今も親族が所有して、何軒かが茶を作っているという。白さん自身は33歳で、大学を出てから茶業を継ぐため郷里に戻った5代目、青年茶農だ。ちょうど2年前我々が訪ねた時に結婚し、既にお子さんがいた。台湾ではイケメン茶農家としても有名だと聞く。

 

白さんの茶工場に向かった。ここには最新鋭の製茶機械が揃っており、包種茶を中心に、東方美人茶、白茶、鉄観音茶など様々な茶を作っている。ちょうど摘まれた生葉が到着し、お父さんが室内萎凋を行っていた。今や坪林では日光萎凋は行わず、いきなり萎凋槽に茶葉を入れて、熱風萎凋を行うのが普通になっている。これなら天候に関わらず、茶作りができる。

 

数種類のお茶を試飲した。あの800mの茶畑に植えられていた鉄観音で作られた茶もあった。焙煎機も最新の設備を備えている。何度も言うが、台湾茶の歴史の中で、一番重要なのは包種茶だと思っている。現在は坪林の文山包種茶だけが有名であるが、日本時代はどこでも作っていた。坪林の、それもこれほどの山の中であれば、その伝統もかなり残っているかと思ったが、今や技術は進み、若者は最先端の茶を作っていく。

 

茶工場の前にある茶畑、雰囲気がとても良い。何でも台湾茶飲料のCMのために使われたらしい。しかもそこに出演したのが、何と日本の俳優、阿部寛だというから驚いた。先ほど隣でお茶を飲んでいたカップルも、この茶畑でポーズを決めて写真を撮っている。私もイケメン君の写真をパチリ。

 

帰りに車で街まで送ってもらう。ちょうど車がバス停に着いた時に、新店行のバスがやってきたので、急いで乗り込むと、何とか席を確保できた。お世話になったのに挨拶もできぬまま、お別れとなってしまったのは残念だ。まあまたどこかで会うこともあるだろう、きっと。

ある日の台北日記2019その3(14)南港茶展始まる

11月15日(金)
南港茶展始まる

翌朝、茶展に出掛ける葉さん夫婦に同行して、南港に向かった。開場は10時だが、9時に到着。皆さんは準備に精を出すが、私はやることもないので、一度会場を後にして、近所を散策する。すると、ロイヤルホストの看板が見え、何やら朝食を提供しているとあったので、思わず入ってみる。

 

朝定食は2種類あり、どちらも190元だった。鮭和風定食はよいが、和牛ハンバーグ定食は、日本の朝に、出て来るものだろうか?取り敢えず鮭を選択してみたが、そこはファミレス。当然ながらチンして作った食事だから、何とも味気ない。海苔が一番良いかな。ハンバーグの方がよかったかと後悔する。因みに午前9時台に食事している人はほとんどいなかった。

 

会場に戻ると既に沢山のお客さんが入場している。葉さんの所では、冷蔵庫が壊れたようで、ジェラートが提供できずに困っていた。私はブースを回り始める。まず目に入ったのが、埔里で高山茶を作っている原住民のところ。以前一度訪問したことがあったが、今は息子が販売に力を入れている。

 

鹿谷の連山とは、先日南投でも会っており、既に顔なじみになった。花蓮の嘉茗茶園も毎年出店している。先日東台湾茶の歴史を書いたので、その冊子を渡す。花茶の歴史関連では、三峡で先日訪ねた天芳が出店している。息子が来ており、お父さんと会ったことを話すと喜んでくれた。そしてこれから是非行くべきと言われた茶業者も出店していたので、奥さんにあいさつした。来年訪ねる時、果たして覚えていてくれるだろうか。

 

あっという間に昼を過ぎてしまった。知り合いが来ていたので、一緒に近くにあった台湾料理の欣葉に行く。欣葉は懐かしい店だが、最近は大発展を遂げ、支店を幾つも出しており、ここもきれいな店舗だった。茶展関係者が沢山食事をしていたが、何とか席を確保して、定番料理を食べた。

 

実はこの知り合い、夜も台湾人の招待で、別の欣葉で食事をすることが分かり、何だか申し訳なかった。その話を聞きつけたこの店のマネージャーが『夜はどこの欣葉に行くのですか?予約のお名前は?』といい、何と我々が昼に食べたメニューを夜の店に伝達しておくので、重ならない食事ができるでしょう、というではないか。この辺のサービス概念は素晴らしい。

 

午後もまた、ブースを回った。ただ1階のお茶コーナーではなく、4階にある珈琲コーナーを見学した。4階の方が規模は遥かに大きく、来場者も遥かに多い。各ブースでは、新しいコーヒーの売り込み、淹れ方や豆の紹介などを競って行っている。やはりお茶よりはコーヒーかとも思ってしまうが、よく見ると4階の隅には空きスペースが結構あった。さすがに台湾のコーヒーブームも一段落かなと思われるスペースだった。

 

午後4時過ぎに南港を出た。葉さんから『中山の店とコラボして、お茶が飲めて、アイスが食べられるスペースがある』と聞いたので、予約してもらったのだ。その店は中山駅からすぐの所にあり、畳があるなど和のテースト満載だった。そこで何と、ジェラート、お茶ポップコーンなどのセットが無料で体験できたのには驚いた。

 

聞けばこの店は、食事も提供する予定だったが、火の取り扱いが禁止されてしまい、やむなく閉店するところで、葉さんたちが1か月だけそのスペースを借りて、プロモーションに使っていたのだ。日本人観光客からは、『こんな店があったら是非行きたい』との要望もあるようだが、ある程度の料金を取っても、家賃との比較では割に合わないのだろうか。

 

既に暗くなりかけていた。中山からトボトボ歩いて、長安東路に向かった。夜は『32年ぶりの再会』が待っていた。32年前に一緒に上海に留学していたBさんから、『あの時院生だったSさんが来るので会いませんか?』と誘われたのだ。正直Sさんとはそれほど親しく話した記憶はないが、言われた瞬間、彼のフルネームを思い出し、急に懐かしくなっていた。

 

会うと、その面影は十分に見て取れた。彼は九州の大学で中国文学を研究しながら、中国語を教えているのだという。留学中、似非文学班だった私とは違い、Sさんは既に明確な目的で留学しており、その後も巴金や余華などの文学作品を研究、紹介していた。今は台湾の日本時代文学にも興味を持ち、台湾に来る機会も増えているらしい。

 

久しぶりの熱炒で、何だかたくさん食べて、たくさん話してしまった。酒を飲まない私は熱炒に来る機会も少ないが、偶にはこういう空間で食事をするのもよいものだ。何となく熱気があると、人はハイになるらしい。急に思い出した懐かしい記憶、ご縁も繋がり、いい一日だった。

ある日の台北日記2019その3(13)花茶から広がる意外な歴史

11月10日(日)
再び全祥茶荘へ

土日は動かないとの原則が崩れていく。土曜日は気になっていた花茶資料探索のために、永和図書館へ行く。ここでひたすら日本時代の新聞記事を検索して時を過ごす。それに疲れたら、日本時代の書籍を斜め読みする。午後一に出掛けても閉館の5時近くまでいることになる。

 

帰りがけに1階奥のスペースを何気なく見ると、写真が数枚飾られていた。近づいてみると、古寧頭戦役70周年記念の写真展だった。古寧頭戦役と言えば、国共内戦で国民党が金門島を死守した戦役だと記憶している。そうか、中国人民共和国が建国70周年なのだから、その裏には70年前に幾多の歴史が起こっているのだ。ただこの展示には、根本中将などについては全く触れられていない。

 

翌日もまた出掛けてしまった。知りたいことが出てくると、どうしてもすぐに動きたくなる性格なのだ。先日一度訪れた、全祥茶荘、その衡陽路の本店にもう一度行ってみる。今回は林さんのお父さんに話を聞く。日本時代、林家は天津で商売していたということで、そのあたりの事情を聴いたのだが、お父さんも台湾生まれであり、伝えられているトピックスを参考までに聞く。

 

その中には、あの民主活動家で、先ごろ亡くなった呂明さんの名前などが出てきて驚く。後日呂明伝記を読んでみた。彼もまた、大陸から引き揚げた一人であり、その引き上げの際に頼った親戚というのが、私が今調べている王添灯の兄、王水柳だと書かれているではないか。ここでも繋がったお茶の歴史、本当にすごい。

 

お父さんの話は引っ切り無しにお客が来るので、途切れ途切れになる。花茶の歴史としては、外省人がキーになると思われるが、この店の裏は台湾銀行本店、その向こうは総統府という位置関係を考えるだけでも、そのレトロな店舗と相俟って、その歴史の一旦は十分に見て取れるのではないだろうか。

 

このすぐ近所には、兄弟である華泰茶荘もある。そして西門町まで歩けば、紅楼のすぐ近くに全泰茶荘もある。ここも先々代は兄弟である。一応歩いて行ってみたが、特に中には入らなかった。お客は観光客がメインなのだろうか。私はあまり各家のファミリーヒストリーを調べるつもりはないのだが、この辺の棲み分けには興味がある。

 

帰りがけに、店先でいい匂いをさせている食堂があったので、フラッと入り、肉粽と魚丸湯を食べてみる。たまに食べるとこういう食事は実にうまく感じられる。しかもサックと食べられるのが何とも私の今のリズムに合っている。宿泊先の近くにこんな店がないのは残念だ。

 

11月14日(木)
茶業者の宴会へ

今日から何となく南港茶展のムードが高まってくるが、なぜか朝部屋の電気が点かなくなる。停電かと思ったが、電球が切れたことが判明。すぐさま近所の雑貨店に行き、替え電球を買い求める。こんな時、台北はすぐ近くに何でも売っている店が何軒もある。コンビニでは間に合わない物を簡単に買えるのは良い。そして電球を交換したので、部屋が急に明るくなり、眩しいほどで、ちょっとやる気が出る。

 

午後は知り合いがやってくるので、松山空港に迎えに出た。ちょっと時間があったので、空港展望台に行ってみる。今やどこの空港にもある展望台だが、ここは飛行機との距離がやけに近い。やはり小さな空港なのだ。そういえば、飛行機に乗っていると、『空港上空からの写真撮影は禁止』とのアナウンスが流れるが、ここからは何の規制もないのか。

 

今回日本から来た人はちょっと変わっており、ホテルではなく、民泊するという。タクシーでその住所へ向かったが、本当に住宅街で、探すのは大変だ。しかも古い住宅で、5階までエレベーターもなく、重い荷物を自分で持ち上げなければならない。宿泊スペースは快適そうだが、私には向かないタイプだ。オーナーは流ちょうな英語を話し、近隣紹介もちゃんと英語で書かれていた。『鼎泰豊まで歩いて行けるぞ』がウリらしい。

 

夜は明日の南港茶展の前夜祭か、茶業者の集まりに顔を出す。日本から手もみのAさんが来ており、彼を囲む夕食会に私も飛び込んだ形になる。行ってみると3卓もあり、非常に盛況な会だった。主催者の許さんの人徳だろうか。明日の茶展に出展する台湾中の茶業者の顔が見られた。

 

Aさんは非常に社交的で、言葉が通じなくても、酒を酌み交わし、誰とでも仲良くなれる人だった。何だか昔の日本の宴会がそこにあって、酒を飲まない私でも、ちょっと懐かしい気分に浸る。海鮮料理の店なので、海の幸がふんだんに出てきたが、途中から何を食べているのかも分からなくなってしまい、笑い声が絶えないまま、夜は更けていった。

ある日の台北日記2019その3(12)茶業関係者の末裔と

11月7日(木)
茶業関係者の末裔と会う

2日間、中部に行ったので、今日はゆっくりしようと思っていた。ところが突然微信で連絡が入る。1年以上前に茶商公会の紹介で知り合った呉さんだった。彼は当時上海で働いているということで、会う機会はなく、その後私も上海に行くことが全くなかったので、完全に忘れていたのだ。

 

メッセージでは今台北にいるとのことだったので、急遽会うことになり、30分後には部屋を飛び出した。待ち合わせ場所は大稲埕に近い地下鉄の駅だった。現れたのは、私の息子と同じ歳の青年だったので、ちょっと驚いた。そして茶商公会からは『日本時代初期に有名だった茶商、呉文秀の末裔』とのことだったが、聞いてみると少し違っていて、これまた驚く。

 

彼の案内で迪化街にある同安楽という名の店に入った。店名からして厦門の向こうにある同安である。店は最近はやりのきれいなものだが、奥行きがあり、かなり心地よい空間になっていた。よく見ると以前はお茶屋だったようで、『陳悦記』という文字も見える。店の女性も我々の歴史話に興味を示し、自らの一族の歴史を少し話す。店には日本時代、悦記が大稲埕で包種茶の茶商として活動していたことを示す新聞記事もあった。

 

呉さんの先祖は呉文秀ではなかったが、やはり茶業界の人で、100年ほど前に茶商公会で働いていたらしい。彼もその辺の歴史が知りたくて以前茶商公会を訪ねていたのだ。ちょうど私が持って行った茶商公会の本の中にも、ちゃんと彼のご先祖の名前はあった。1922年の茶業コンテストの際の実行委員会のメンバーだった。

 

そしてその息子は、台湾茶共同販売所に関連しており、日本時代は茶業を中心に発展した一族だと思われた。元は福建の泉州付近から出てきたようで、これまでは安渓中心に調べてきたので、これを機会に泉州茶商の足跡も当たってみたい。何しろ現在調べている林馥泉も泉州出身であり、呉さんの親戚はまだそこに住んでいるようなので、訪ねてみたいと思うようになる。

 

それにしても、若者が自分の一族の歴史に興味を持つことはとても良いことであり、また彼は予想以上に調べていた。そしてこういう話はいくら話も尽きることはない。茶を飲みながら話していたが、昼食もそこで取る。同安の昔の料理が定食で出てくる。なかなかうまい。そしてまた話し続け、結局初対面にも拘らず4時間以上にもなってしまった。

 

それでも別れがたくて、一緒に新芳春の博物館まで行った。ここも大稲埕の大茶商だったが、今は立派な博物館だ。これまで何度か来ていたが、いつの間にか完全リニューアルされており、展示内容は格段に分かりやすく、そして興味深

 

呉さんの一族に歴史に更に興味が沸いてきた。今回はここまでだが、ネタはいくらでもあるだろう。その後も彼からは、様々な資料が送られてきて、それを眺めている。直接的なものではなくても、いずれは役に立つ物だ。再会と新たな発見に期待している。年齢は異なるが、同じ話題で盛り上がれる同士は得難いものだ。

 

一度帰り、疲れをとる。若者と長時間話していたら、やはり疲れてしまった。夜はTさんからのお誘いで、四川の会に行ってみる。これは四川ゆかりの人が集まり、四川料理を食べる会らしい。私も今年、久しぶりに四川に行き、茶旅したばかりだったので、入れてもらった。

 

中山にある四川料理屋、何となく日本的な雰囲気があった。当然ながらそこまで激しい四川料理は出て来ない。なぜか他のお客も日本人ばかりで、店員も日本語で応対する。昔の台北の料理屋の雰囲気がある。参加者も急用などで、4人だけとなっており、和やかな雰囲気で、食事をした。

 

80年代の四川を知る大先輩と、懐かしい話に花が咲く。あの頃は本当に痺れる辛さで、日本人はとても食べられない四川料理が沢山あったことを思い出す。泊まれるホテルは錦江賓館だけ。そして言葉の訛りも強く、何を言っているのか分からないことも多かった。全てが既に歴史の域に入っている。

ある日の台北日記2019その3(11)車埕から鹿嵩へ

11月6日(水)
水里から魚池へ

何だかかなりよく眠れた。急いで宿をチェックアウト。台湾人の団体さんが大勢ロビーにおり、道路にも大型バスが数台停まっている。そこを掻い潜ってトミーの車に乗り込んだ。元々台中に泊まる気はなかったのだが、ちょうど魚池の石さんと連絡を取ったところ、有益な情報があったので、寄っていくことにした。

 

訪問は午後だったので、午前中はトミーの案内で動くことになった。まず高鐵台中駅へ行き、トミーの知り合いを拾う。洪さんは、実は有名人。企業向けのコンサル業をする傍ら、台湾ローカルの良い物を掘り出し、町興しなどに繋げる活動をしているという。その一環で茶も出てくるらしい。突然こういう人物と知り合うのも面白い。

 

以前トミーから聞いていた、水里へ行く。集集線というローカル鉄道の終点、車埕駅に着く。2年ぐらい前に一度、この鉄道に全区間乗ってみたことがあり、その際車埕駅にも10分ほど降りたことがある。何となくテーマパークのような施設があったので気にはなっていた。

 

駅は行き止まり。その先は山に囲まれ、木々が茂り、池があり、見事な自然が広がっていた。平日で人もいないので、ここを散策するだけでも良い。紅葉のシーズンがあれば、是非歩いてみたい光景だ。ここは日本時代、木材の集積所だったらしい。その輸送のために鉄道も敷かれている訳だ。近所にダムもでき、水力発電も行われた。

 

古い駅舎が建っている。日本人でここに来る多くは、鉄道ファンだという。駅前には木業展示館もある。明治神宮の鳥居にも使われた、いわゆる台湾ヒノキはここから運び出されたらしい。日本時代の展示はあまりないが、光復後も日本企業の係わりは大きかったようだ。日本家屋もいくつか保存されているが、これは再建されたものだろうか。

 

池の横にお茶が飲める場所がある。雰囲気の良いここでゆったりとお茶を頂くのもよい。いい風が吹いているので、外で飲めるのも良い。洪さんは過去ここをすでに取材しており、その変化などを計りながら、盛んに写真を撮っている。お土産物屋も地元の物を使って、充実してきているという。ランチもここの食堂で頂く。ファミリーで1日遊べる場所となっていた。

 

水里から日月潭を経由して、魚池の鹿嵩に向かった。先日も伺った和果森林に着いた。入口で石さんと出会った。同席して話をしてくれるのかと思ったら、泳ぎに行くのだという。水泳とジョギング、それによって91歳の石さんは益々若返って、元気になっている。お茶の影響もあるとは思うが、これはすごいことだ。

 

店内には、石さんのお嬢さんと旦那さんが待っていてくれた。彼らとは8年前に知り合ったが、その後はご縁がなく、最近茶の歴史の件で、連絡が復活した。今回も、何と二日前に、日本時代に魚池で紅茶を作った持木家の子孫が訪ねてきたというので、その状況を聞きにやってきたわけだ。石お父さんは、光復後台湾茶業に接収された持木茶廠で工場長を務めたご縁がある。

 

来訪したのは、持木家の次男の娘さんとその子供、孫らしい。台湾から引き上げた後は、茶業にはかかわらなかったという。最近大学生の孫が自分の祖先に関心を持ち、湾生だった祖母と共にやってきたということらしい。私の台湾茶の歴史調査にとっても大変役に立つ話なので、今後繋いでいけると良いな、と思う。

 

和果森林はこの辺りでは先駆的に個人旅行者向けDIY(紅茶作り体験)などを取り入れて、日月潭紅茶を売り出してきたが、ここにきて、少し状況が変わっているようだ。茶の卸しや、新しい茶の飲み方などを指向し、それを他業者にも伝えていく方向性を持っているように見えた。こういう話は洪さんの得意分野であり、かなり突っ込んだ話が行われていた。が、商売の話に関心のない私は、外を眺めていた。

 

現在『日本時代、魚池でアッサム紅茶に投資した日本人』について調べを進めている。その中の一人が、持木壮造であり、これまで知られてこなかった日月潭紅茶のルーツを含めて興味深い歴史が浮かび上がってきている。まずは持木、渡辺、中村三氏について、勉強を深めたい。

 

帰りはトミーの車で高鐵台中駅まで運んでもらい、洪さんと一緒に高鐵で台北に帰った。車中ゆっくり話を聞こうかと考えていたが、何と高鐵は満員で、隣に座ることはできなかった。彼は実は非常に忙しい人であり、講演や企業とのミーティングが詰まっているという。次回いつ会えるのかは分からないまま、台北駅で分かれた。

ある日の台北日記2019その3(10)松柏嶺へ

11月4日(月)
コメダで朝食を

前日の夜、いつもの麵屋が閉まっていたので、ちょっと歩いて、とてもきれいな新しい麵屋に入ってみた。だがこの麵屋も、先日のサンドイッチと一緒で、牛肉麺が240元もした。こんな高い麺を食べるなら、他の物を食べようかとも思ったが、物は試しにと頼んでみた。

 

どんなにすごい麺が出てくるのかと期待していたが、特に特徴もなく、スープも今一つ。そしてなんと、スープをすすったら、中からビニールまで出てきてしまった。さすがに高い料金を取って、これはないよなと思い、店員のおばさんに告げると、『いや、それは大変申し訳ない』と謝った上、お代もいらない、という。

 

そして『日本人に悪い印象を与えてしまったのは、大変残念だ』と頭を下げた。店は新しくても、おばさんは昔気質の人。きっと以前やっていた麵屋は、家賃高騰か再開発で追い出され、子供たちと一緒に新しい店でもやっているのだろう。台北は今、古い店がどんどん無くなり、その人情も薄れていく。

 

今朝はそんなことを考えながら、先日見付けたコメダへ向かう。名古屋に行ってもなかなか行かないコメダだが、折角近所にあるのだから、一度入ってみることにした。ここも店はきれいだ。店員は若者が多く、接客はかなり雑だった。お一人様用席がいくつもあり、よく見るとかなり奥まで席が続いていて、大きな店だった。

 

メニューは、ドリンクを頼むと無料でトーストなどが付いてくる、日本と全く同じだと思われる。コーヒーが110元だからその値段な訳で、日本より若干安いかもしれないが、台湾の朝ご飯より、明らかにボリュームはない。コーヒーの味は特に変わらない。ただ店は若者や主婦層でほぼ満員の盛況。落ち着いてPCなどを使う雰囲気もなく、早々に退散する。やはり残念ながら、私に向いているカフェではないということだろう。

 

11月5日(火)
松柏嶺へ

今日は朝から台中へ向かう。初めて外国人旅行者専用の高鐵割引チケットを購入してみる。700元が560元になるのだから安いのだが、自動改札を通れない。また帰りの時間が読めないので、行きしか買えない。この不便さはJR東海の『ぷらっとこだま』という商品を想起させる。

 

先月と同様、トミーが車で迎えてくれ、松柏嶺へ向かった。今回の目的は花茶の歴史を学ぶことだ。松柏嶺と言えば、低地でどんな茶でも作っていると言われる場所。ここにはどんな歴史があるのだろうか。などと考えているうちに、いつの間にか大地を登り、松柏嶺に入った。

 

まず行ったのは、先月の南投茶博でも会った陳さんの家。お父さんによれば、松柏嶺では1920年代に包種茶を作っていたらしい。陳家では光復後すぐに茶作りを始めたという。武夷や青心烏龍で発酵茶を作っていたが、その後四季春や金萱が中心になり、今日に至っている。花茶は、低級品ということもあり、特に作らなかったという。

 

陳さんが知り合いの茶農家に連れて行ってくれた。こちらではその昔は果物を作っていたが、1950年代に茶を作り始めた。そして70年代に花茶作りが始まった。花は彰化の花壇から取り寄せ、発酵茶と合わせて作った。花は茉莉花の他、樹蘭、黄枝などがあり、その用途に合わせて使った。

 

現在でも色々な花茶を作っており、飲ませてもらった。正直花茶を美味しいと思うことはあまりないのだが、こちらで作られた樹蘭四季春などの花茶は、実に味わいがあり、花の香りもしとやかで、私でも楽しめた。こういう花茶が台湾で作られているとは知らなかった。コストが高いので、値段も高いとは思うが、この商品はありだな。

 

我々が現在普通に口にしている花茶はどこで作られているのだろうか。台湾で売られている8-9割は外国産らしい。値段が安いものは先ず間違いなくベトナム産などだという。ヨーロッパではフレーバーティーはむしろ常道であり、何の問題もないと思われるが、台湾では自然な香りがよいだろう。

 

午後、陳さんの茶畑を見学に行く。仏手を植えているというので、興味を持つ。この品種、実はその由来が中国大陸でも30年ほど前に話題になり、専門家が論争を繰り広げたという。その中に日本に渡った品種、という話も出てくるので、出来ることなら、仏手の歴史を少し調べてみたいと思っている。

 

その後、焙煎を専門に行っている若者の工房を訪ねた。プレハブの簡易な建物だが、炭焙煎も行える設備を持ち、本格的だ。焙煎技術を師匠から習い、自分たちで色々と挑戦しているようだ。台湾茶の特色の一つはやはり焙煎だろうから、今後付加価値を付けていく有効手段ではないか。焙煎の歴史ももう一度洗い直したい。

 

トミーに台中駅まで車で送ってもらい、初めての宿に投宿する。何時も泊る所よりも随分と安い(朝食付きでない)が、寝るだけなら特に問題はない。しかも一人なのになぜか3人部屋で無駄に広い。この宿、団体客が多いから、このような作りになっているのだろうか。夜は少しお茶の歴史を整理しながら寝落ちる。

ある日の台北日記2019その3(9)新書発表会へ

11月3日(日)
新書発表会へ

ブランチに、近所にできたきれいなレストランに初めて行く。チェーン店だからとフラッと入り、何気なくサンドイッチセットを頼んだら、何と飲み物は別料金で、いつも食べているサンドイッチ+紅茶の倍の料金を取られた。正直そこまでの価値は見出せないので、もう行かないと思うが、地価の高い台北ではコストを考えた料金設定で、物価を押し上げている。

 

先日映画のお誘いのあったBさんから、今度はトークショーの案内があった。何気なく見ると、その対談相手は一青妙さんだったので、出掛けてみることにした。妙さんは、元々歯医者さんだというが、現在は作家、女優もこなし、更には交流活動のため、頻繁に日台を往復して活躍している。妹は歌手の一青窈さんであり、お父さんは台湾五大財閥の一つ、基隆の顔家出身という、何かと話題の多い人だ。

 

会場は、ニニ八国家紀念館。実は台北には2つのニニ八紀念館があるが、平和公園内にあるのは台北ニニ八紀念館で、例の王添灯関連の人々のサポートもあって作られている。今日行くのは国家の方だ。ここにも以前一度来ており、1931年に建てられた立派な建物だな、と感心した覚えがある。

 

今日のイベントは、一青妙さんの新刊書発表会だった。これまでも多くの作品を送り出しているが、今回はエッセイ集らしい。その対談相手に日本人のBさんが選ばれるというのも何とも不思議な気がするが。入り口を入り、階段を2階に上がる。時間的に早かったので、まずはニニ八関連の展示で、確認したいところを見て回ることにした。

 

それが終わって1階に戻り、受付をしていると、横を妙さんが通りかかったので、思わず声を掛けた。実は初対面だったが、既にFBでお友達になっており、埔里時代に東邦紅茶の件で、お尋ねしていたりしたので、何だか初めてという気はしない。彼女もそのことを覚えてくれており、『おばあさまは元気でしょうか?』などと、気さくに話をしてくれた。

 

おばあさまとは東邦紅茶の創業者、郭氏の奥様で101歳。実は妙さんのお婆様はこの郭さんの妹さんだから、相当にご縁は深い。おばあさまは一時入院していたが、今は元気に埔里で暮らしている。更にはBさんの所に行きましょう、と言って、控室に案内してくれた。妙さん、Bさんと3人、何となく繋がりがあり、面白い。

 

会場の方へ行くと、既に聴衆が集まってきているが、その中には日本人も混ざっていた。旧知Tさんを見つけて横に座る。出版社の社長や紀念館の館長の挨拶があったが、何だか日本人との結婚が話題の林志玲のお父さんもいたようで、『結婚おめでとう』などと言っている人がいる。式は台南で2週間後らしい。

 

妙さんが中国語で話し始めた。彼女は11歳まで台湾で過ごした経験があり、当然ながら中国語は流ちょうだ。話慣れているという部分と、何となく日本人に分りやすい言葉遣いなのがとても聞きやすい。この辺がハーフの強みであろうか。だがニニ八事件で顔家にも相当な被害があったことなどを話し出すと、思わず涙ぐんでしまい、台湾に、そして一族に対するその思いの強さも見られた。

 

いよいよBさんとの対談が始まった。二人とも控室では普通に日本語を話していたのに、ここでは中国語を使っている。Bさんなどは、一緒に留学した上海や北京の言葉を面白おかしく使い、笑いまで取っている。そして話題は日本から見た台湾。まあそれがエッセイにも散りばめられているから、新書の宣伝的要素もあっただろうが、なるほどと思う内容もかなり含まれており、楽しく聞いた。

 

対談後は記念写真、新書の販売と続いていく。やはり台湾の人々にとって、日本は特別なのかな、と思う。そして常に日本を知りたいと思っており、妙さんのような感性で書かれたものを中国語で読めるというのは貴重なのではないだろうか。妙さんを囲む人の列は絶えず、挨拶もしないままに会場から失礼してしまう。

 

Tさんと地下鉄駅に向かって歩き出す。来た時は違う駅を目指すことになったが、この辺りには歴史的な建物が沢山あるようで、楽しい。そしていつの間にか台北市植物園に迷い込む。こんな都会に、木々が生い茂る。日本時代に作られた植物園で、その当時の建物も残っており、市民が楽しそうに散策している。台北市内でも行ったことがない場所がまだまだたくさんあると知る。

ある日の台北日記2019その3(8)新竹関西、そして総統府へ

11月1日(金)
新竹関西へ

昨日に続いて遠出した。今日は羅さんの車で、彼の故郷、新竹関西へ行く。午前10時に羅さんの家の近くまで待ち合わせ、出発。途中で早めの昼ご飯を頂く。やはり客家料理だ。内臓系がたっぷりで本当にうまい。当然ながら客家の羅さんとは、『客家とは』という命題で話し続ける。

 

関西の羅家は、茶業で財を成した一族。そして新竹には義民廟という客家の廟があり、毎年祭りが開かれるという。新竹各地15の代表が持ち回りで幹事を務めるが、関西の代表は羅家であり、羅さんのお父さんが10年前に祭りを取り仕切り、その時羅さんも手伝いで参加、この祭りに強い関心を持ったらしい。お父さんは高齢であり、5年後の仕切りは彼の仕事だ、と今から頭にあるという程、重要な行事だった。

 

初めて羅さんの実家に行った。関西の街から少し離れた、何とも言えないいい感じの田舎だった。そこに大きな家があり、お父さんの兄弟がワンフロアーごとに使っているらしい。お墓もすぐ近くにあり、最近改修して、新しくなっていた。客家の先祖に対する意識は他より強いと感じる。そして伝統を重んじる姿勢、行事を守っていく意識は高い。

 

先に横山の許さんを訪ねる。許さんと羅さんは仲良しなので連れて行ってもらう。この大きな工場に来るのは何回目だろうか。大体はいつもお客さんが沢山いて、ゆっくり話を聞く時間などないのだが、今日は三人だけだから、工場の外で風に吹かれながら、和紅茶を頂く。最近許さんは日本との交流を一層進めており、今年2月には台湾人茶業者を大勢連れて静岡に研修に行っている。

 

花茶のことを聞くと、ここの庭にも樹蘭の木があるよ、とそれを指す。意外と背の高い木だった。基本的に花茶を作る意味は、烏龍茶としては物足りない品質の物を売り物にするために施す、ともいう。それは恐らく正しいだろう。特に輸出用においては質よりも量だった時代が長く、安い茶に付加価値を付ける必要はあったと推察できる。

 

 

台湾紅茶へ向かう。今日の目的は羅さんのおじさん(台湾紅茶社長)に会うためだった。以前も2度ほど話を聞いているが、その後体調を崩されたとのことで、その回復をお待ちしていたところ、今回の面談に繋がった。確かに羅社長は以前より痩せていたが、元気そうで何よりだった。

 

今回の質問は紅茶や緑茶ではなく、林馥泉や林復について、その思い出を聞くことだった。広い展示室には沢山の写真が飾られていたが、何気なく見たその一枚に、羅社長と林馥泉氏が一緒に写っていたのには驚いた。しかも日本考察団の写真であり、煎茶製造を模索している頃のものだった。歴史がそこにあった。

 

更には台湾に釜炒り緑茶を持ち込んだ唐季珊の写真も目を引いた。何故この写真を大きく飾っているのかと聞くと『彼が光復後の台湾茶業の貢献者だから』と明快に答えられた。今や殆どの人が知らないこれらの人物が、光復後の台湾茶業を復興させ、支えていったことがよく分かる。

 

客家についてもいくつか質問したが、例えば『客家の伝統文化である擂茶』という表現は正しいか、という質問には、即座に『擂茶は伝統文化ではなく、後から取り入れたもの』ときっぱり。客家に対しては、色々と誤解も多いようだが、現代台湾では政治なども絡んでおり、解明するにはなかなか難しい課題のようだ。

 

11月2日(土)
総統府見学

一度行ってみたいと思っていた総統府の公開日。月に一度土曜日と確認して出掛けてみた。混んでいるのではとの不安から、早朝に行くことにした。午前8時開門、地下鉄に乗り、8時10分前に現地に到着した。既に10人以上が並んではいたが、それほどの混雑もなく、いつでも入れそうな感じだった。

 

8時に開門されると、荷物検査などはあったが、入場料無料。正面に行き、写真を撮り中へ入る。今年100周年とは思えない、きれいな内装。殆どの部屋が開放されているのではないかと思われるほど、執務室やら会議室など、どんどん入って行けるのが面白い。更には2階、3階まで登ることもでき、歴代総統や総統府、台湾の歴史なども勉強することができる。

 

廊下の窓から、あの特徴的な塔の部分を見ることもできる。中庭を歩くこともでき、そこには大きな木が植わっている。この木はいつからあるのだろうか。郵便局があり、土産物ショップまである。1階廊下では農産物の即売まで行われているから、台湾産の食べ物のアピールはここでも行われている。

 

1時間ちょっと見学してもまだ午前中だったので、併せて台北賓館の見学に向かう。ここは元々総督官邸、また迎賓館として昭和天皇(皇太子時代)も滞在したという場所。総統府からは歩いて10分もかからない。こちらも総統府と日時を合わせて一般公開しているので、中に入ることができるが、荷物検査などはなく、人も少ない。

 

建物はやはり100年ほどの古さがあるが、展示物は総統府に比べると少なく、見るべきものはあまりない。気にかかったのは、ここが出来るまでの官邸などの変遷が写真で展示されていたことだろうか。裏には思ったより大きな庭があり、ちょっと日本的なところも見られた。建物からして、住居としての使い勝手は良くなく、総督は別邸に住んでいたらしい。昔偶に行った蛋餅屋で朝ごはんを食べて帰る。

ある日の台北日記2019その3(7)三峡の花茶

10月30日(水)
カレー屋へ

今日はいつも会うSさんとカレー屋に行くことになった。私は全く知らなかったが、比較的宿泊先に近く、歩いていくことが出来る場所に人気のカレー店がオープンしていた。12時開店で予約はできないとのことで、少し早めに行ってみたが、既に店の外に行列が出来ており、その中にSさんも混ざっていた。まさかカレー屋がこんなに混んでいるとは思いもよらない。

 

何とか店に入ると、中は至ってシンプルな作りで、カウンター席が8つしかない。だから並ぶわけだ。そして多くの人がテイクアウトしていく。テイクアウトの場合は、料金はちょっと安い。合理的な経営方法だ。我々は豚と鶏のカレールーを半々でオーダーした。味噌汁と漬物が付いてくる。

 

お味は何とも濃厚でかなりうまい。聞けば日本のカレーが好きになり、自分たちで研究して作り出したというのだ。カウンターと店の人との距離が近く、何ともアットホームな雰囲気で面白い。ルーをちょっとだけお替りで乗せてくれるのもよい。セットメニューが230元、というのは、案外安いのかもしれない。また来よう、今度はテイクアウトで。

 

それから近くのカフェに入って話し込む。いつものパターンだ。このカフェの女性店主は日本語が少しできるようだった。コーヒー以外にも烏龍茶や紅茶なども用意されており、ちょっと面白そうだ。最低消費150元とあったが、腹一杯だと告げると、100元のアメリカンで勘弁してくれた。こちらもまた機会があれば来よう。

 

それにしても近所に色々な店があることに気づかされて驚く。一人で簡単に食べるとなると、どうしても決まったいくつかの店しか行かなくなるのが難点だ。やはり偶には人と会って、見識を広げる必要もある。因みに帰りに歩いていると、何とやはり近所に名古屋のコメダ珈琲まで出来ていた。目玉のモーニングもあるようなので、今度朝行ってみることにする。

 

10月31日(木)
三峡へ

何だか小雨が降っている。前回三峡を訪ねた時もそうだったと記憶している。何か行いが悪いのだろうか、それとも三峡は鬼門?取り敢えず地下鉄で新店駅まで向かう。そこで前回同様黄さんの車に乗せてもらい、軽い山越えをして、三峡に入る。本当に車で20分ぐらいの距離にあり、その近さが実感できる。100年以上前、この山道を農民が茶葉を担いで行く風景が何となく見える。

 

前回台湾緑茶の歴史を知るために訪れた場所にまた車を停める。だが今回訪ねたのは隣の家だった。同姓であり、親戚なのだろうが、花茶の歴史を知っているということで、今回は道路に面して店を構えている黄さんと会った。日本統治時代にはこの付近にも日本人が多く来ており、彼らとの交流もあったと語る。

 

光復後、三峡は外省人向けの緑茶、三峡龍井茶を生産していたが、その過程で、夏茶に花をつけたことはあるという。花茶というのは、下級の夏茶に付加価値を付けるために作られた、と考えられる。だが以前は花茶の製造法自体を知らなかったので、緑茶を原料として台北に送るだけだったらしい。1980年代、茶農家が直接茶葉販売をできるようになった際、製法を学んで自分たちでも作ったということだろうか。だがその期間は長くなかった。恐らくは中国などから大量に安価な花茶が流入したからだろう。

 

そして現在、夏茶で作るのは、価格が高い蜜香紅茶や東方美人になっている。そして最近高値で売れる桂花茶も作り出してはいるが、桂花を摘むのに手間がかかり過ぎ、また摘み手の高齢化などもあり、コスト面から言っても、決して安い花茶は出来ないという。この辺りは南港でも聞いた話だ。

 

帰りに裏の黄さんの所に寄ってみたが、寄り合いに出ているというので、会うことは出来なかった。一応『台湾緑茶の歴史』を書いた雑誌を奥さんに手渡して去る。日本語だから読めないだろうが、写真が掲載されているので、何となく分かるだろう。三峡には緑茶はあるが、花茶の歴史はあまりないことを確認して、車で新店駅に戻った。