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ある日の埔里日記その3(12)千客万来

5月27日(土)
Mさんがやってきた

埔里のゲストハウスにYさんに連れられて泊まりに来たのは昨年の5月。その時、お手伝いをしていたのがMさんだった。何となくMさんの話を聞いているときわめて個性的な女性で面白いなと思った。その後オーストラリアへ行っていると思っていたが、いつの間にか岡山に住んでいるらしい。そのMさんから連絡があり、埔里に数日滞在するという。

 

GHに会いに行ってみる。このGHの常連、Iさんという女性もいた。この人も個性的で、埔里によく来るらしいが、特にやることもないという。何となく3人で夕飯を食べに行くことになった。と言っても、埔里で一人ご飯以外は殆ど知らない私。Mさんの後ろをついていくだけだ。

 

埔里にもこぎれいな食堂があった。だがそこは何と満員で入れなかった。仕方なくその辺をふらつくと、ビヤホールかと思うようなレストランがあった。よくわからないが原住民が経営しているらしい。ちょっと興味を惹かれ、入ってみる。店の中ではギターの生演奏をやっている。原住民仲間の集まりなのかもしれない。生ビールを飲んでワイワイやっている。

 

オーナーは勿論国語は話すが英語もうまい。名物は牛肉麺だというので、頼んでみた。この麺はこしがあり、なかなかうまい。山豚肉の炒め物もうまい。原住民の中に日本人が3人紛れ込んだので、先方も興味津々。こちらも彼らの歌を聞きながら、興味津々。何だかもっと両者が出会える場があればよいのに、と勝手に思ってしまった。Mさんといると何かが起こる気がする。

 

5月28日(日)
茶酔いさんがやって来た

今年三回目の埔里滞在もあとわずかだが、ラストスパートとばかりに、お客さんが来る。今日は夕方茶酔いさんがバスでやって来た。彼は台湾茶好きの人で、年に数回茶を求めて台湾に来るという。こちらもMさんの宿泊するGHへ投宿。ここへ来た目的は李さんに会うためらしい。中国語が殆どできないのに、台湾の茶農家と交流する茶酔いさんのバイタリティには敬服する。

 

茶酔いさんが到着すると、李さんが魚池からすぐにやって来た。この2人の関係はよくわからないが、李さんは何とも親切な人である。今は茶農家だが、昔はコックだった人で、何とGHから歩いて3分のところに、昔のオーナーが店を出していると言って連れて行ってくれた。ここは海鮮料理と書かれているが、日曜日のせいか、お客が多く、席はない。だが李さんは事前に連絡していたのか、ちゃんと席が設けられる。

 

注文をさばききれずに少し待ったが、李さんは自ら厨房の方に出向いていき、焼き魚やイカ、貝などの料理がどんどん出てきた。埔里で海鮮なんて初めてだ。我々は酒を飲まないので黙々と食べた。そしてお茶の話はまた明日、と約束して別れる。茶酔いさんは魚池に行くつもりはなかったようだが、流れ上そうなる。

 

5月29日(月)
茶摘み見学

翌朝は7時半にGHに行き、茶酔いさんと朝ご飯を探す。すぐ近くに古びた食堂があり、米粉を食べさせるというので寄ってみる。米粉は埔里名物と言われているが、埔里の街で食べられるところは多くない。何とも不思議だ。周りの人でも米粉を食べている人は多くない。まあ確かにすごく旨いということはない。

 

李さんが迎えに来て、魚池に向かう。天気が良く、ちょうど茶摘みが始まった茶園に直行した。地元のおばさんたちが手摘みしている姿を写真に撮る。既に気温はかなり上がっており、茶摘みは辛い作業になっている。完全防備のおばさんたちが手に刃を付けて起用に摘んでいく。

 

それから李さんのお兄さんの家でお茶を飲む。ここにも2度ほどお邪魔しているのでもう慣れたものだ。李さんは作業があるので我々はここで待機している。少しすると李さんが摘まれた茶葉を運んできて、茶工場へ向かうというので同行する。彼は道路沿いの茶工場を借りていた。生葉を2階に上げ、すぐに萎凋槽に入れる。

 

ここは博物館にもなっており、台湾紅茶の初心者や観光客が訪れ、土産を買う場所となっている。ここのオーナーが最初に日月潭紅茶をブランド化したということらしい。古い製茶機械が展示され、日本時代以降の歴史が語られている(一部に誤りあり)。そして2階では製茶の実演が一部見られるという訳だ。

 

もう昼時だというので魚池の牛肉麺屋へ行く。埔里でもあまり牛肉麺を食べないので久しぶり。上品というは店の名前だろうか。その後、李さんが埔里まで送ってくれ、茶酔いさんはバスターミナルからバスに乗って台中の方へ去っていく。何とも慌ただしい旅だが、普通の人の旅はそんなものか。

 

夜はまたMさんと食事をした。先日満員だった店に行ってみると、今晩は空いている。かなり波があるのだろう。そこで色々と話していて、ふと思い出した。私も明後日埔里を離れるのだが、部屋にはゴミが残っており、ごみ収集車は今晩来るということを。これを逃してはまずい。取りものも取り敢えず、Mさんを残して走り出したが、何と無情にも収集車はエリーゼのために、の音楽を鳴らしながら去って行ってしまった。ボー然と立ち尽くすのみ。最近ボケが進んでいるようだ。

ある日の埔里日記その3(11)廬山温泉へ

5月24日(水)
廬山温泉へ

昨晩宿へ帰ると、近所のおばさんから『早くシャワーを浴びなさい。今晩9時から丸一日断水だから、トイレに水を溜めておいて』と急に言われる。後で見ると確かに張り紙があったが見落としていたようで、おばさんに感謝してすぐに言われた通りにした。寝る前に歯をみがいたが、水は普通に出ており、且つトイレの水も問題なかった。まあ台湾だから時間のズレもあるだろうと思って寝た。

 

だが翌朝も何の問題もない。しかも下の店は通常通り開いている。朝飯を食べながら聞いてみると、『ああ、屋上に貯水槽があるから1日ぐらいは問題ないよ』と言われて唖然。天気が怪しげだったので、昼間はどこへ行こうかと考えていたが、その必要は無くなっていた。ただ急に晴れ間が見えたので、思い立って廬山温泉を目指してみる。

 

いつものようにバスターミナルへ行き、バスを探すが、平日の午後廬山温泉へ行く人などいない。地元の老人が数人乗り込んだが、すぐに降りてしまい、霧社までに中国から来たスーツケースを持った女性3人組だけになる。ただ霧社では学校帰りの子供たちが乗り込んできて賑やかになる。霧社からは山道をくねくね。バスを降りた子供2人がけんかをはじめ、お互いを叩き合っているのに、ちょっとビックリ。

 

1時間半で廬山温泉に到着したが、バス停近くの商店街は余りにもひっそりしていて寂しい。実は私は1989年の暮れ、廬山温泉に1泊したことがある。当時はお客も多く、賑わいがあったと覚えている。その時泊まった温泉旅館を経営していたのが、あの霧社事件で逃れた高山初子さん(花岡次郎夫人)とそのご長男(事件当時初子さんのお腹の中にいた)だった。そこで初めて霧社事件について、彼女の口から出る流ちょうな、そして淡々とした日本語で聞いたわけだが、その時までこの事件の存在すら知らず、全く理解できなかったのを覚えている。

 

その時の旅館はもうないようだ。既に初子さん、ご長男とも他界されたと聞く。私はないとは分っているが、何となく当時の面影を求めて彷徨う。だが、川には吊り橋?が掛かり、高所恐怖症の私の前途を遮った。この橋には見覚えがある。ずっと回り道すると、普通の橋があり、そこから登ってみる。

 

その先にはいくつか温泉宿が開いてはいたが、もう風前の灯。ここは2008年、2012年に起きた台風・洪水で大きな被害が出ており、政府としては安全面からこの温泉郷全体の閉鎖を促しているが、まだ一部が応じていないのだ、という話もあった。その先はもう何もなさそうだったが、バスの時間まで間があったので散歩してみる。天仁銘茶のホテルなどがあるが、やはり既に閉鎖されている。少し古い建物が見えるが、そこはこの地を好んだ蒋介石ゆかりの蒋公行館。今は特に使われていない。

 

そこから山を登っていくと、マヘボ社という石碑に出くわす。ここが霧社事件の首謀者、モーナルーダオの部落であった。その上に記念碑があるというので上って行くとかなり時間が掛かってしまう。何とか碑を見つけたが、そこには抗日英雄、莫那魯道という文字。何となく違和感あり。廟に入っても、中国式の構えになっており、どう見ても原住民が作ったとは思えない。不満はあるだろう。僅かに香炉にタバコがさしているのが、ささやかな抵抗なのだろうか。

 

ふと気が付くと雨が降り出し、その雨は次第に強くなり始める。私は帰るタイミングを逸してしまい、ただ廟の脇にたたずんでいる。そして先日初めて見たセデックバレという映画を思い起こしている。原住民を単に可哀そうだとか、英雄視するとか、それはどうも違うように思う。彼らはこの山の中で昔から受け継がれた生活をしたかっただけだろうが、時代がそれを許さなかった。それは罪なのか。モーナルーダオが私に考える時間を与えてくれたのだろうか。

 

小雨になったので急いで山を下りた。バスの時間が迫っていたのだ。ところが温泉街まで来るとまた雨が強くなる。強くなるどころか、豪雨になってしまったが、雨宿りしていては、次にバスは1時間半以上ない。あたりも暗くなる。道は濁流のようになり、足はずぶ濡れとなったが、それでも傘を差して前に進んだ。何とかバス停に到着したが、お客は誰もいなかった。私が乗りこむとすぐに発車したが、車内は冷え込んでおり、風邪をひきそうになる。これは何か啓示なのだろうか。

 

埔里に戻ると、雨がすっかり止んでいる。異常に腹が減り、終点まで行かずにバスを降り、ワンタンの店に飛び込む。ちょっと冷えた体にワンタンスープがしみいる。何となく夢を見ているような1日だった。

ある日の埔里日記その3(10)鹿谷の歴史を勉強する

5月21日(日)
鹿谷へ

新竹、羅東、台北、三峡、桃園と回ってようやく埔里に帰り着いたが、翌日の朝はゆっくり起きたものの、また昼前からバスに乗り鹿谷へ向かった。鹿谷へはいくつか行く方法があったが、面倒なので高鐵台中経由台湾好行バスにした。まずは腹ごしらえで、いつもの店でサンドイッチをつまんだが、ちょっと足りないので蛋餅まで注文してしまった。少し気持ちが高ぶっていただろうか。

 

2時過ぎに鹿谷に着き、Uさんと合流。実は彼は明日の朝ここを引き払う予定で何かと忙しい。取り敢えずは彼の用事を済ませる。まずは昨年実に美味しいお茶をお土産にもらった張さんのところへ行く。また美味しい烏龍茶があればぜひ購入したと思ったが、なかなかそうはいかない。あれはよほどの当たりのお茶だったのだろう。もっと大切に飲めばよかった。

 

それから鹿谷の下の方へ向かった。ここに凍頂のお茶の元祖、林鳳池の生家があるという。その家は中心の道から少し入った所にあり、表示などもないので普通には分らない。Uさんに連れて行ってもらい、初めて行ける場所だった。その廟にお参りすると、確かによく見掛ける林鳳池の絵が額に入っておかれている。この家が古いことも分る。だが家に前にある茶畑の茶樹は林さんが持ち帰ったものではないという。末裔の人々も、1855年に先祖が福建から36株の苗木を持ち帰ったという話を懐疑的に見ているのではないか、と思えてしまった。

 

それから焙煎で有名な人のところへ行ったが、ちょうどお客が来ており、Uさんが渡すものを渡して退散した。ここでちょっとお茶を買いたいなと思ったがそうはいかない。もう一軒農会の会長をしている人のところへ行く。彼は福寿山で高山茶を作っているというので、次回機会があれば茶作りの時期に訪ねてみたいと思う。ここには30年前に鹿谷で作られた烏龍茶があったので、写真に撮る。彼が子供の頃(1950-60年代)はこの付近にそれほど沢山の茶畑はなく、70年代以降急激に増えたらしい。それも99年の地震でほぼ姿を消したようだ。

 

夕飯に粥を食べた後、鹿谷の茶の歴史に一番詳しいという林さんのところへ勉強に行く。ちょうど外国人も訪ねて来ており、注目度の高い人だ。林さんは農会の秘書という立場であるが、率直に色々と教えてくれた。お茶の歴史というのは文献、記載がない物が多いので、そう簡単に言えるものではないとしながら、手元にある資料を見せてくれ、丁寧に答えてくれた。またよく言われる伝説がそのまま歴史になることもあるという。凍頂烏龍茶の歴史と現在、取り敢えずしっかりとメモした。

 

今日はもう帰る手立てがないので、鹿谷に泊まることになる。前回はUさんの家に泊めてもらったが、彼は明日早朝ここを出るので、今晩は偉信のところに泊めてもらうことになった。彼はちょうど近所の知り合いと飲み会中とのことで、そこへ向かう。鹿谷の夜は早く、楽しいこともあまりないようで、知り合い同士で飲むことが多いらしい。

 

Uさんは10時頃先に帰ったが、飲み会は延々と続く。鹿谷は何となく裕福な街だと感じる。これも80年代のお茶バブルの恩恵だろうか。12時すぐにようやく偉信の家に辿り着く。勿論家族は寝ているので、そっと部屋に入り、シャワーを借りて、すぐに寝入ってしまった。さすがに疲れていたのかもしれない。

 

5月22日(月)
埔里へ戻る

翌朝8時頃目が覚めた。皆さん、何時に起きるのかよくわからず、部屋から出てみる。ちょうど子供が学校に行く準備をしていた。何だか夜中にやってきて、奥さんにも申し訳ない。まあ、顔は知っているので、突然知らない男が出てきたわけでもなく、笑顔で迎えられる。偉信のご両親も隣の家からやってきて、孫と戯れている。奥さんは朝ご飯を買ってきてくれ、有り難く頂く。

 

それからボーっとお茶を飲んでいたが、偉信は最近大陸に茶を売り込んでいるとの話を聞く。紹興だ、広東だ、武漢だという話が出てくる。台湾経済の現状なども考えると、中国は無視できないということだろうか。ただ以前大陸に支店などを出して台湾茶を売っていた人々は結構苦戦していると聞いているのがちょっと心配。

 

今日は日月潭経由のバスで帰ろうと思い、バス停に向かった。台湾好行の台中行が来た後に、そのバスは緩々とやって来た。竹山から日月潭へ向かう。地元の老人などが多く、そこそこ乗り降りがある。こんな道を通るんだとワクワクしながら見ている。新しい路線は何となく楽しい。

 

ただ水社に着いたのは1時間半後だった。しかも埔里行きバスは今出たばかり。次まで50分も待つことになる。これでは台中経由で帰っても時間的には変わらない。やはり田舎のバスは難しい。仕方なくここで昼ご飯を食べたが、観光地価格で安くはない。食後はゆっくり散歩をしてからバスを待つ。バスは何種類も出ており、台北行きなど、埔里に停まるのに、埔里で下車する人間は乗せないという。どうなっているんだ。何となく釈然とせずに埔里に辿り着く。

ある日の埔里日記その3(9)三峡、桃園の茶農家へ

5月19日(金)
交流協会へ

翌朝は9時前に荷物をフロントに預けてチェックアウトした。今日は交流協会の図書室で調べ物をしようと思っていた。今年1月に初めて現在の交流協会の建物に足を踏み入れた際、2階にかなりの本が置かれている図書室を見て、一度訪ねたいと思っていた。当然台湾関連の日本語の本が多数所蔵されているから、参考になるものもあるだろう。

 

林森と南京路の交差点からバスに乗ると10分ほどで交流協会に着いてしまった。もしMRTに乗っていれば、駅まで歩いて行き、電車を待つので、こうはいかない。台北ももう少しバスを有効活用できれば、時間が短縮できる。しかもバス代は高くない。少し勉強してみようか。

 

やはり図書室には沢山の本があり、参考になりそうなものをピックアップした。特に日本統治時代に日本語で書かれた本が目を惹く。ただ図書室にはコピー機がなく、この本を借りて行き、コピーしなければならない。それでも借りるのはパスポートがあれば簡単だったし、コピーは一番近いコンビニで出来るので、確かにそれほど不便ではない。

 

昼前には作業を終え、交流協会にいる知り合いのHさんを訪ねた。彼とは香港で知り合い、当時中国国内の同じような場所によく行っていたので、何となく気が合っていた。その後彼は台北転勤となり、2年前に一度会っていたが、今回ご縁があり、また会うことになった。近くの客家料理の店で昼飯をご馳走になってしまう。彼はもうすぐ台北を離れることになっていると聞いた。次に会うのはどこだろうか。

 

三峡へ
それからバスで宿に戻り、荷物を受けだして台北駅へ。これから鶯歌駅を目指すため、台鉄の鈍行に乗る。鶯歌と言えば陶器の街であり、お茶関係者はここに茶道具などを買いに来るようだが、興味のない私はご縁がない。鶯歌までは小1時間かかるが、約束の時間より早く着いてしまった。なぜか富山県高岡の陶芸家の展示会がここで開かれるとポスターが言っている。今度富山を再訪するのでちょっと気になる。

 

駅で待っていると谷芳の李夫妻が車で迎えに来てくれた。3月に一度訪ねているので、気軽に迎えをお願いした。ところが道中、突如腹痛に襲われる。理由は全く思い当たらないが、車に乗っていることが出来ない。こういう時、台湾には田舎でもセブンイレブンがある。そこでトイレを借りると収まったので助かった。こんなことは滅多にないので自分でも驚いた。

 

工場に着くと、すぐに生葉が運ばれてきた。若者がバイクで持ってきたが、彼はUターン組。お茶で食べていけるなら、田舎に戻りたい人はいるだろう。李さんは生葉を処理しながら私に色々と説明してくれた。戦前の写真なども探し出し、かなり昔から茶作りしていたことを証明してくれた。

 

それから場所を上のお店に移して、お茶を飲む。Gaba茶なども作っており、興味深い。何でも新しいことに挑戦する李さんらしい。お母さんはここで50年近く商売しているので、どのお茶が売れるかに詳しい。双子の息子、高校生も帰ってきて、一緒に茶を飲む。彼らは既に親の仕事を継ぐことを決めているから真剣だ。奥さんはパンなどを作るライセンスを取得、これからお茶に合う食品を見据えていく。実に面白いファミリーだ。

 

帰りは暗くなる中、駅まで送ってもらった。今晩は桃園駅近くのホテルに泊まる予定。桃園駅に着くと、何だかかなりの疲れを覚えた。そんな中、歩いてホテルに入る。結構いい料金、ここはビジネスマンが出張で泊まるところだと思っていたが、部屋はかなり広く、なぜかダブルベッドが2つ置かれていた。ファミリータイプの部屋だろうか。ちょっと雨も降っており、体調もすぐれないので早々に寝込む。

 

5月20日(土)
桃園

翌朝は体調を考慮して、宿代に入っている朝食を食べずにチェックアウトした。林口方面行きのバスは、駅の反対側から出ているという。まずは駅で荷物をコインロッカーに預ける。バス停に行ってみると長蛇の列がちょうど動いており、乗るべきバスが来ていることを知る。土曜日の朝、なんでこんなに混んでいるんだろうか。

 

バスで40分ぐらい行くと、既に見慣れたバス停があり、降りる。そこから緩やかな上り坂を歩く。到着してみると以前はなかったコンテナが置かれている。事務所を作ったという。林さんとはここで会うのが三回目。彼は今や若手茶農家のホープとして、神農賞を受賞するほど、注目された存在だ。何しろアイデアマンである。

 

林さんのお父さんは東方美人茶作りの名人と言われており、日本語もうまいので、話を聞く。それから林さんと台湾茶業の将来について、延々と話し続けた。これは日本茶業にも繋がる話だと思う。伝統的な茶業を守ること、しかし時流をきちんと読まないと滅んでしまうこと、何とも難しい。あっという間に3時間ほど過ぎ、弁当をご馳走になって退散した。日本語で話しているので理解度が高いことも事実だが、林さんと話していると、ちょっと違った視点で物が考えられるような気がする。

 

帰りがけに茶畑を見せてもらったが、今年の春は天候が悪く、新芽の出も悪く、茶作りが思うように進まないという。雨が降りそうだったので、そのままバス停に送ってもらう。元来た道を帰り、桃園駅で荷物を取り出す。30元と書いてあったが、これは3時間までで、追加料金を取られる。それでも日本のように一日いくら、というよりよほど合理的にできている。

 

桃園駅で台中までの自強号の切符を買うと『新竹で席を代わって』と言われ、2枚の切符を渡される。これはシステムの問題なのだろうか。日本でもこんなことあるのだろうか。乗り込んでみると老夫婦も同じ問題で困っていた。大きな荷物を持って車内を移動するのは大変だ。しかし訴える相手がいない。しかも立っている人も沢山いるから文句も言えない。かなり疲れた状態で埔里まで戻った。

ある日の埔里日記その3(7)皇太子が泊った部屋、そして魚池改良場で

5月12日(金)
皇太子が泊った部屋

今日は恒例の金曜日、黄先生のサロンの日だった。Iさんの車に乗せてもらい、アトリエに向かう。ここには埔里在住日本人が集まってくる。埔里と言えば、一時期日本人のロングステイヤーを募っており、多くの人が住んでいると聞いていたが、その後ブームは下火になり、今はご縁のある方々が十数名、リストに上がっているという。

 

このサロンに来るとちょっとした面白い話が聞けるからよい。今日は作家の佐藤春夫が1920年に埔里に来たと聞いた。佐藤春夫を研究している日本人が態々ここまで来て色々と調べて行き、それが本になっているという。このサロンにこの本の中文訳があり、しばし眺める。

 

埔里に来たと言えば、昭和天皇が皇太子であった1923年に台湾を訪れたことは有名であるが、この埔里にも宿泊したと黄先生が言う。そして何と皇太子が泊った部屋はこのアトリエの横に移築されているというから驚いてしまう。当時は日月館という宿を日本人が経営しており、何かの都合で日月潭ではなく、ここに泊まったとある。この日月館を光復後、譲り受けて経営していたのが、黄先生のご一家だというからすごい。因みに日月館は埔里のバスターミナル前にあったが、今は取り壊されている。

 

とにかくそのお部屋を見せてもらった。木造家屋の中に入ると、広々とした10畳ぐらいある和室、床の間があり、色々と飾りもある。屋根や壁は修繕されているようで意外ときれいだった。やっぱりちょっと緊張してしまう。トイレをお借りすると、これまた昭和レトロな雰囲気だった。

 

実はこの部屋は皇太子が来るから建てられたのではなく、その10年前、1912年に5代総督佐久間左馬太がこの地を視察する際、作られたのだという。しかも翌年も再訪しており、総督がこの辺鄙な地に2年続けてくるという異例の行動の裏には、理蕃政策があったと言われている。佐久間総督は明治天皇の信任が厚く、特に天皇が亡くなっても、台湾全島が天皇の命に従っていない現状の打開に努めたはずだ。原住民にとっては迷惑な話だが、植民地とはそういうものだろう。

 

5月15日(月)
茶業改良場で

土日は観光客などが多くなり、バスなども込み合うため、大人しく埔里で引き籠り。そして今日は先日出会ったSさんが、魚池の改良場に行きたい、というので、先方に連絡を取ると『ちょうどいい。新井さんのお孫さんが来るから来たらどうか』と誘われる。新井さんとは、昨今有名になった試験支所最後の所長、新井耕吉郎氏のことである。ただお孫さんが何の用事で来るのかなどは全く分からないまま、取り敢えず訪ねることにした。

 

Iさんの車に乗り、Sさんと奥さん、そして赤ちゃんで日月潭に向かう。昼前に出発し、昼ごはんはS奥さんイチ押しのお店へ。日月潭、水社の街を過ぎ、ちょっと寂しくなったところにそのお店はあった。丼物とおでんの店。そこで角煮丼とおでんを少々つまむ。面白いのはここの奥さんはタイから来たという。バンコック付近の出身だが華僑ではない。ただもう10年以上台湾に住んでいるので中国語に問題はない。

 

それから少し戻り、坂道を上がると改良場がある。一般人はここまで登れても中には入れないが、今日は約束があるので、入れてくれる。ここから眺める日月潭の風景は最高だ。Sさんは改良場の場誌を見たいというので見せてもらい、我は昨今の茶業事情などの情報を得ていた。

 

そこへ新井さんのお孫さんがやって来た。奥さんとそのお子さん2人と家族旅行とのことで、我々も加わり、話し始めた。お孫さんは新井さんのお嬢さんのお子さんで、苗字は新井さんではない。勿論台湾生まれでもない(お母様はいわゆる台湾生まれの湾生、15歳までこの地で過し、終戦で帰国している)。この後、お母様の通った小学校も訪問するという。

 

あの1938年に建てられた茶工場の前に立った。お子さんと言っても二人とも成人して、仕事をしている若者がそれを見て『うちのご先祖が台湾でお茶を作っていたとは聞いていたが、まさかこんなに大きな、立派なものを作り、今でも台湾の人から尊敬されているなんて夢にも思わなかった』と感慨深げに眺めていた。そう、功績は大きいが、わずか数年前まで茶業関係者ですらその名を知らなかった新井さん。突如偉大だと言われても遺族は戸惑っただろう。

 

 

記念館に入り、様々な展示物からその功績が更にビジュアルに見られる。そして許文龍氏作成の胸像を前に記念撮影。今回の旅は家族の歴史を受け継ぐものとなっただろう。眼下に見える茶畑、『恐らくあのあたりに埋められたと聞いたが、今は何も残っていない』とここで亡くなった新井さんのお墓がないことを悲しむ。戦後すぐに混乱状況ではそれも仕方がないか。

 

最後に改良場に上る道の途中にある記念碑にお参りした。私は何度もこの碑を見てはいたが、きちんとお参りしたことはない。改良場の場長は歴代、朝ここにお参りするのが習わしだと聞いたがどうだろうか。台湾式のお線香をあげ、皆で手を合わせた。偉人の功績は静かに称えるものだ、と心で思った。

 

帰りがけ、Sさんが『コーヒーを飲んでいきましょう』という。車は魚池の山の中に入り、こんなところに店がある訳ないだろうという場所に停まった。まさにそこは木々に覆われた大自然のコーヒーショップだった。風景を見ながら飲もうと先端に出て行くと突然嵐のような大雨に見舞われ、退散する。

 

この店のオーナーはコーヒーに深いこだわりがあり、自らコーヒーを栽培・焙煎し、自ら淹れてくれた。ご自慢の珈琲を何種類も出てくるのには驚くしかない。嵐の中で飲むコーヒー、この感覚は新鮮だった。雨がほぼ止むまで、コーヒーの嵐が私の中を駆け巡っていった。

ある日の埔里日記その3(6)国史館台湾文献館へ

5月11日(木)
国史館へ

ここ数日は台湾茶の歴史関連の資料を読むため、部屋に籠っていた。その歴史は予想以上に面白く、夢中で読み進んでいたが、やはり生来の旅人は、どうしても外へ出たくなる。そこで今日は、前から気になっていた国史館へ行ってみることにした。そこには日本時代の膨大な資料が眠っていると図書館で聞いたからだ。

 

ただ場所は南投の田舎。どうやって行くのか一応ネットで調べたが、バスを乗り継いで行かなければならないらしい。バスはどれほどあるのだろうか?不安の中、取り敢えず埔里からいつもの好行で高鐵台中駅まで行き、そこから南投客運に乗り換える。如何にもローカルバスで、地元の老人などが多く乗っている。40分以上経って、草屯に着いた。更にそのまま乗って行くと、何と中興新村が見えるではないか。

 

中興新村は1957年から約40年間、中華民国台湾省の省都であったところ。確か初めて台湾に来て、台中から日月潭に行く時、通りかかったような記憶があり、降りてみたい衝動にかられたが、台湾の複雑な歴史を見るのは国史館の後にしようと先を急ぐ。バスはその少し先に行き、ついに私は降りた。

 

そこは大木などもあり環境抜群の場所だったが、同時にその昔に作られた人工的な街にもなっている。しかも現在は政府施設が点在するだけで、歩いている人も殆どいない。バス停から国史館までの場所を聞くことも出来ず、スマホを頼りに適当に歩いて見る。5分ほどで何とか到着。

 

そこには立派な建物が建っていた。国史館台湾文献館、1992年に完工した建物が3つあり、閔南式、バロック式、中国宮廷式の様式で建てられたとある。この中には日本統治時代の総督府及び戦後の行政長官の文書などが保存されている。正面の建物に入ると、そこは展示室になっており、文献は横の建物にあると言われてそこへ移る。

 

その建物の入り口に人は誰もいなかったが、偶然通りかかった人に聞くと、資料の閲覧は地下だという。そこへ行くと受付があり、資料を見たいというと『えー、何でここまで来たの!資料ならネットでも見られるでしょう』と言われてしまう。それは知っていたが、わざわざやって来たのに、それはないでしょう!パスポートを見せるとその女性も納得したようで、PCの使い方を教えてくれる。

 

確かに検索は家でもできるのだが、キーワードに何を入れるかで出てくるものが相当に違ってくる。私が知りたい具体名などは入れても何も出て来ないが、彼女の教えてくれた簡単なワードを入れるといくつも出てくるから不思議だ。それでも勿論本命には辿り着かない。

 

ただこの歴史的文献を見ていると、総督乃木希典や児玉源太郎、民政長官後藤新平などという歴史上著名な人物の名前が頻繁に登場する。これはある意味で歴史好きな人にとってはたまらないかもしれない。私もちょっとワクワクしてしながら、何枚ものコピーを取る。今日は収穫があったのだろうか、いや単なる気晴らしにしては良かったといえよう。

 

やはりどうしても中興新村に寄りたいと思い、やってきたバスに飛び乗ってバス停2つで降りた。そこには今は機能を停止されている台湾省議会の建物が見えた。人の出入りは殆どない。何年か前に金門島で見た台湾省政府の建物の記憶が蘇る。昔のクイズで『中華民国の首都はどこでしょう?』とか、『台湾省の省都はどこでしょう?』などがあったが、あれは日本人が台湾という場所をどれほどの深さで理解しているかの一つのバロメーターだったように思う。

 

中華民国の地図には南京に赤い三重丸が付いており、台北は臨時首都、台湾省政府はここ中興新村にあった。28年前台北で仕事をしている時、政府高官や企業の偉いさんに会おうとすると『その日は省議会だからいないよ』と言われたことが懐かしい。台湾というのは、大いなる無駄をして、建前で何十年も生きてきたのだ。政府の建前と庶民の本音がこれほど違う国?を見たことはなかったように思う。

 

帰りのバスはいつ来るのだろうか。少し歩くと国光号のバス停がある。ここから台北行きのバスが出ているらしい。これも往時の名残だろうか。草屯までのバスは時々来るようで、それほど待たずに、省都を離れた。草屯駅で降りると、反対側に埔里行きのバスが来ると聞き、その短い間に昼ご飯をかき込んだ。わざわざ台中まで行かなくてもここで乗り換えれば簡単だったことはやはり来てみて初めて分かる。それほど時間もかからずに埔里まで帰り着いた。

ある日の埔里日記その3(5)Uさんがやってきたが

5月7日(日)
Uさん来訪

今朝は鹿谷からUさんがバイクで遊びに来てくれた。Uさんとは6年前、鹿谷で出会って以来、こちらが鹿谷に行くと世話になっている。今回初めて、彼の方がやって来た。春茶の買付、色々と苦労が多いようで、その気晴らしということらしい。それにしてもバイクというのは便利なものだ。どこへでも移動できる。

 

しかし彼が埔里に来ても行くところがない。正直埔里には鹿谷ほど、良いお茶があるとも思えない。親しくしている茶荘もそれほどない。仕方がないので、ホテル前のベンチに座り、雑談を始める仕儀となる。今年の台湾茶も天候により、かなり厳しい。妥協せず、クオリティを求め、茶葉の買付を行うのは年々難しくなっている。彼の苦悩もどんどん深くなっていく。

 

それから葉さんの店に行くが、彼は茶園に行っており不在。まあこの時期に暇な人はあまりいないだろう。適当に道具を使わせてもらい、茶葉を見付けて飲んでみるが、ちょうどよいお茶には出会えない。こんな遊びにもすぐに飽きてしまう。茶の作り手も茶商同様、苦労しているだろう。

 

昼ごはんでも食べようかと出掛ける。イタリアンが食べたいというが、この街に本格的なイタリアンなどあるのだろうか。私はいつも一人で食事しており、殆ど台湾料理で満足しているので、誰かと行く店を知らない。Uさんは鹿谷にもう1か月もおり、食事の選択肢は埔里より限られているため、何とか新鮮味のあるところを探したい。

 

あまりに台湾ぽいところを避けた結果、若者が行くようなこぎれいな店に入った。イタリアンというより、洋食だろうか。結局よくわからないものを注文し、よくわからない味を食する。日曜日ということか、店は満員なのだが、この中途半端な感じは結構きつい。一般的には台湾人も香港人などと同様に、パスタは麺が柔らかくないと食べない。日本のパスタは硬過ぎるといつも言う。食文化の違いは大きい。

 

食後、葉さんが店に戻ってきたというので、もう一度訪ねた。Uさんと葉さんは初対面。私が初めてここに来た時、鹿谷から車を運転してくれたのはUさんだったが、その時も葉さんは茶園におり、彼が帰った後降りて来た。各地の茶園の状況などが話題に上るが、それほどいい話はない。

 

魚池にも行ってみることになる。Uさんのバイクの後ろに乗り、ヘルメットを借りて出発。今日は山茶の王さんを訪ねることにした。彼も茶園に行っており、連絡するとわざわざ戻ってきてくれた。王さんは茶作りをしているが、様々なお茶を収集しており、紅茶だけでなく、烏龍茶やプーアル茶まで登場してきた。そして前回美味しく頂いたバナナまで出てきて、また持ち帰ってしまう。

 

話の中でUさんが『そういえばこの辺に以前黒肉麺という店があったような』というと、『それはうちの隣にあった店だけど、色々とあったようで』と王さん。いつの間にかなくなり、大陸客を当て込んだ豪華な店ができたが、客が来なくて閉店している。『黒肉麺の店は魚池から埔里に移っているよ』と言われて、はたと気が付いた。そんな店が家の近くにあったことを。

 

Uさんは急にそれが食べたいと言い出し、何と鹿谷とは逆方向の埔里へバイクを走らせる。まあ私は送ってもらって助かった。ところがいざその店に行ってみると、何と昼しか営業していないことが分かる。かなりのショック。Uさんはそのショックを引きずったまま?埔里を離れ、帰っていった。

 

後日この店に行ってみると、黒っぽく揚げられた排骨と麺が出てきた。その味は何となく日本を想起させるものがあり、普通の排骨とは少し違っていた。昼は弁当を買いに来る客でかなり混雑しており、埔里に移っても人気店のようだ。因みに埔里酒廠の近くにもう一店舗あり、そちらは夜もやっているとのこと。謎の看板の意味が分かり収穫があった。

ある日の埔里日記その3(4)埔里の歴史遺産

5月6日(土)
埔里の歴史遺産

昨日午前、久しぶりに黄先生のサロンへ行く。埔里在住の日本人が金曜日の午前中に集まってきて、サロン化しているのだ。先生は御年80歳、埔里では有名な画家で、そのアトリエを開放している。その絵は非常に温かみがあり、埔里や中部台湾の風景、民族が多く描かれている。観光局の絵としても使われているらしい。

 

当初はWさんに連れてきてもらったこの会だが、何と同じ場所に住んでいる日本人Iさんとここで出会い、声を掛けてもらい、車に乗せてもらっていく。そのサロンで話をしていると、埔里の東邦紅茶の話題になり、先生が東邦のお婆さんの長女と同級生だと知り、驚く。アメリカの華人に嫁ぎ、ずっとアメリカ暮らしらしい。するとIさん、そしてSさんが東邦に興味を持ったので、今日一緒に訪ねることにしたのだ。

 

まずはIさんの車でSさんを拾いに行く。Sさんは埔里では有名な牡蠣オムレツ屋の娘さんと結婚しており、今はお父さんが店をやっているという。このお店、40年ほどの歴史があり、埔里人なら誰でも知っているそうだから、今度一度食べに行こう。奥さんは赤ちゃんの関係でお留守番。3人で向かう。

 

東邦紅茶の工場に着くと、郭さんが案内してくれたが、初めての2人は『埔里にこんな歴史的な場所があるとは驚きだ』と感想を述べ、階段の手すりや天井など、60年前の建物に見入る。そして『ぜひここを博物館にして保存し、皆に見せてあげたい』ともいう。郭さんにもそのような構想はあるようだが、資金の問題と親戚の了解を取り付けることはそれほど簡単ではないらしい。

 

2人ともお茶関係者ではないので、製茶機械などは簡単に見て、事務所でお茶を飲む。普段は日月潭の紅茶も飲まないだろうから、ここのお茶はかなり新鮮かもしれない。この敷地では茶を売っていない。一般人が気楽に茶を買えるスペースがないと、普及しないようにも思える。何しろ東邦の知名度は埔里では抜群なのだが、紅茶製造を復活していることを知る人はどれほどいるだろうか。

 

最後に宿舎を見学する。ここは創業者の住まいだったところであり、その中は昭和レトロな雰囲気と洋風が混在している。玄関には上がり框、奥には畳の部屋もある。書斎にはピアノや蓄音機が残され、日本語で書かれた戦前の専門書がそのまま置かれている。まるで骨董屋さんのようだ。

 

ここには創業者の奥様がそのまま暮らしている。何と今年99歳、今日も日本語で『いらっしゃい。座って』と言ってくれたので、少しお話しした。耳が遠いようだが、健康そうに見える。この方の歴史には非常に興味をそそられるが、余り長居すると疲れると思い、記念写真を撮って退散した。

 

車はSさんの家に戻り、奥さんと赤ちゃんも乗せて、昼ご飯を食べに行く。この付近、食べ物屋が多いが、一軒非常に繁盛している店があった。席がありそうだと分かると、奥さんは車を降り、すぐに席を確保する。元々近所だから店の人とは顔馴染みだ。ここのチャーハンはこれまで埔里で食べた中で一番うまいが、量が半端なく多い。あとはあんかけ飯がうまそうで、大抵の人が食べていた。しかしその後もう一度行ってみようと歩いて行ったが、なぜか見付からない。

 

午後は演習林に行った。私も全く初めて行く場所。古そうな建物が建っているだけで説明書きなどもなく、意味はよくわからない。この演習林を研究しているSさんによれば、『ここはちょうど100年前、北海道帝国大学が設けた恵蓀演習林の埔里事務所のような場所』らしい。当時日本の大学は国内だけではなく、朝鮮や樺太にも演習林を設置し、植民地経営の一環としての研究を進めていたと思われる。

 

因みに演習林とは林学の研究・教育の場としての実験林だという。台湾には東大、京大、九大も別の場所に演習林をもっていた。たしか東大の演習林は台湾大学に引き継がれ、鹿谷にあり、Uさんのバイクで連れて行ってもらったことがある。マラリアの薬であるキニーネを研究していたと聞いた記憶がある。

 

その場所は川沿いにあり、公園のような敷地に木々が生え、その中にポツンと建物が建っている。中には入れない。こんな歴史的な建物があることなど誰からも聞いたことはなかった。往時は隣の家も全て演習林の敷地だったという。今は何も使われておらず、ただ放置されている状態。

 

現在台湾各地で掘り起こされている旧懐日本ブームから見れば、この施設は十分に活用できそう。特にあまり資源がない埔里としては非常にもったいないと思うのだが、現在の管理者は台中の中興大学らしい。ただ植民地時代に作られた施設については、日本側から活用を働きかけるのは難しいだろう。日月潭紅茶のように台湾側が何らかのビジネスと繋がる中で、日本時代を持ち出す、という形しかない。

ある日の埔里日記その3(3)日本茶品茶会と新たな取り組み

5月2日(火)
日本茶品茶会

福州から桃園空港に戻り、そのまま空港バスで台中に向かった。2時間ちょっとで台中駅前に着いたから意外と速い。腹が減ったので、駅近くで探したところ、香港式があり、そこで叉焼などを食す。香港式は意外と人気があり、店が増えているような気がするのだが、埔里の店は1つ潰れてしまい、残念に思っている。

 

台中から1時間で埔里に戻り、宿泊先の窓を開ける。5月初めでもそれほど暑いとは感じられない。例年より涼しいとの話もあるが、ここの気候は昔からよいということらしい。部屋の片づけや旅行荷物の整理をしていると、東邦紅茶の郭さんから連絡があり、迎えに来てくれた。

 

今晩は、埔里郊外のトミー別荘で、日本茶を飲む会を開催してもらった。私が日本各地を歩いた中で自分がいいなと思ったいくつかのお茶を送ってもらい、持参した。それを数人のお茶好き、茶農家の若者に飲んでもらい、感想を聞こうという趣向だった。日本茶は煎茶、ほうじ茶、紅茶を持っていく。トミー別荘は広々とした庭があり、建屋内にテースティング機材などがすべて揃っている素晴らしいお茶の空間だ。

 

皆実に興味津々でやってきた。まずは彼らがちょうど作った日月潭紅茶を試飲する。作り手同士だから真剣に批評し合っている。18号紅玉のメンソールが強いものがあり、好ましい。独特の21号や珍しい20号など、作り手は様々な挑戦をしている。それはまた生き残りをかけた厳しい戦いのようだ。

 

基本的には台湾人には蒸し煎茶は口に合わないようだ。どうしても『海苔の味がする』など、塩気を好まない彼らには馴染まない。むしろほうじ茶の方がうけは良い。中でも茨城から頂いた茎ほうじ茶の原料というのが、彼らにフィットしたのはちょっと驚き。やはり何でも試してみないと分からない。

 

続いて和紅茶。こちらは彼らの専門分野でもあり、一段と興味が沸く様だ。愛知から送られてきたお茶を見て、『どうやってこんなにきれいな紅茶ができるんだ。日本でももうこのレベルなのか。将来こんな茶が作りたい』との声が上がった。特に『手摘みできれいに作れるのは分るが、機械摘みでここまでできるとは』『この茶を作るのに一体どれだけの時間やコストがかかるんだ。これは商品というより芸術品だ』という感想は茶農家ならでは。

 

その他、茨城、静岡、熊本などの和紅茶はどれも比較的良い評価を得ていた。日本が本気で紅茶を作れば、台湾も危うい、という印象のようだった。最後に貴州から持ち帰った紅茶を飲んでみたが、飲んだ瞬間『芋の味だね』と福建品種とすぐに分かるようだった。日本には大葉種の紅茶はないが、台湾中国はアッサム種など大葉種で紅茶を作る強みがあるように思う。

 

あっという間に3時間ほどが過ぎ、夜は更けていく。若者たちは実に熱心に、茶葉、茶色、茶殻を見て討論を続け、自らの将来を考えていた。やはり台湾は高山茶など烏龍茶が主流であり、紅茶が生きる道はかなり険しいと感じる。日本時代に日本主導で始めた紅茶栽培、台湾で復活と見るのは早計かなと。

 

5月5日(金)
茶と観光と

先日の日本茶品茶会で知り合った若者、王さん夫妻。まだ20代なのに、色々と活動しており、また彼のお爺さんが茶葉伝習所の卒業生で、ご存命と聞いたので、彼らを訪ねてみた。昼過ぎにバスターミナルからバスに乗り、魚池のバス停で下車。そこに王さんが迎えに来てくれたが、彼の新しい工場は、何とこのバス停の後ろの小高い所にあり、実に便利な場所。車は2分で頂上に到着した。

 

頂上付近はキャンプ場として使えるようになっていた。最近特にアウトドアライフが盛んになっている台湾で、車で観光地にやってきて安い料金でキャンプする人が増えている。ここは日月潭にも近く、また一応街でもあるので、好都合だろう。更にはその下には茶畑があり、景色もよい上、その下には宿泊施設2棟の建設が進んでいる。『どうしてもキャンプではなく、屋内で寝たい人のために』ということらしいが、凄く大掛かりな投資だ。

 

そしてその横には真新しい3階建ての工場があり、既に一部最新鋭の機械が搬入され、茶作りは始まっていた。王さんは茶作りをしながら、私に説明をしてくれた。お爺さんの時代には紅茶を作っていたが、お父さんの時代には造林業などをしている。自分も奥さんも大学では観光学を学んでおり、今後は茶業と観光業の両立を目指していく。確かにこの地域、現在は紅茶ブームではあるが、将来を見据えた戦略を立てている。

 

外に出るとお父さんが植えられた木を見ていた。その中には樹齢100年近い茶樹もある。最近ここを整備する中で他から移植してきたという。まだ根がおぼつかない木もある。ここが本当に最近開発されたことがよくわかる。年内には宿もオープンし、本格的に稼働するらしい。

 

王さんに連れられて、オフィスというか自宅に行く。ここは茶業と造林業のオフィス機能があり、また茶葉の倉庫にもなっている。周囲は木々で囲まれており、フルーツがなっており、環境は良い。お茶を飲んでいるとお爺さんが入って来た。私を見ると『日本人と会うのは久しぶりだ』と日本語で言い、えらく喜んでくれた。

 

このお爺さんが光復後、林口の茶葉伝習所で茶作りなどを学んだ人だった。後で名簿を確認すると5期の卒業生だ。もうその頃は日本人の先生は帰国しており、台湾人から習ったというが、伝習所で勉強できたことを懐かしんでいた。更には『この付近は渡辺さんの茶園だった。自分のお父さんは渡辺さんと働き、子供だった私は渡辺さんの奥さんに可愛がられたよ』と。既にお爺さんは87歳、どんどん歴史は過ぎていく。

ある日の埔里日記2017その3(2)安宿から華信航空に乗る

4月25日(火)
台北へ

 

昨日の疲れが相当に残っていた。いや昨日だけではない。数か月の疲れが噴き出してきて、起き上がれなかった。それでも今日は台北に行かなければならない。明日福州に行くフライトは早朝で、しかも松山から出るのに気が付かなかった。どうやっても今日中に台北に行き、明日の始発前に松山へ行かなければならない。

 

午後2時にバスに乗った。一昨日と違い、空いていた。夕方のラッシュ時にぶつかるかと思ったが、極めて順調に5時すぎには台北に戻って来た。ちょうど二日ぶりだった。今回はまさに寝るだけだと思い、いつもの定宿ではなく、ネットで一番安い個室の宿を探したところ、何と1泊700元というのがあったので、怖いもの見たさに予約してみた。

 

場所も森林北路で、長春路の近くと便利な場所。バスターミナルからゆっくり荷物を引いて行っても15分位で着いた。ビルの3階だったが、中はきれいだった。昨年改修工事をしたばかりだという。以前は何だったのだろうか。フロントの女性の対応はとても親切で好ましい。

 

部屋はかなり狭く、椅子が壁にぶつかるが特段問題はない。小さな窓もあり、料金相応だろう。ただ部屋のドアは自動ロックで内側から開けるのになぜか苦労した。ちょっとシステムに問題があるのだろうか。一瞬閉じ込められたかと思った。またクーラーの調節ができないのは老人の私にとってはちょっと残念。

 

取り敢えず夕飯を食べに外へ出る。双連駅近くに屋台があると聞いたので出かけてみた。以前も何度か前は通ったが、一度食べたきりで全貌は分らなかったので興味津々。でも意外と数が少ない。後で見てみるとかなり広範囲にわたって店があるようだったが、腹が減っていたので、普通の弁当屋さんに入り、定食で済ませる。私の場合『台北に行ったらこれを食べなきゃ』といった執着は既にない。

 

まだ夜も7時だったが、大人しく部屋に帰り、ちょっとネットをいじってからシャワーを浴びる。勿論トイレ・シャワーは共同なのだがお客に殆ど会わず、すんなりとシャワーを浴びることができた。これは私にとっては有り難い。ただここにはどんなお客が泊まるのかは分からず、それは残念。また夜中にトイレに起きても、誰もいないので気が楽だった。何となくクーラーがきついので良くは眠れなかったが、午前4時半には起き上がった。

 

4月26日(水)
福州へ

フロントも寝ているかと思いきや、ちゃんと男性がいてすんなりチェックアウトできた。安宿はこういうところで躓き易いがここはOKだった。午前5時に森林北路へ出たのは初めてではないだろうか。なんとまだ煌々と灯りをつけている店があり、驚く。往時?飲み屋街だったこの辺、今はどんな客がいるのだろうか。

 

地下鉄の始発は未だなので、タクシーに乗る。安い航空券を買ったのはよいが宿に泊まり、タクシーに乗らなければならいのはちょっとした出費だ。しかも車など走っていない早朝のこと、ものの10分で空港まで着いてしまう。空港には明かりはついていたが、チェックインは始まっていなかった。乗客も殆ど着ていない。なんでこんな早く来てしまったのだろうと悔やんでも遅い。

 

華信航空のチェックインは5時45分からと表示されていた。それまで大人しく待つ。頭の中には27年前、私が台北に駐在している時、お世話になっている台湾企業が、この華信航空を設立したことが急に思い出された。李登輝総統になり、色々な変化がある中、航空業界も中華航空1社というのは如何なものかとの議論があり、2人の財閥オーナーに新航空会社設立の打診があったと聞く。

 

1人がエバーグリーンの張栄発氏。昨年亡くなり、2011年の東日本大震災で10億円を寄付した台湾人として急に有名になったが、私がお目に掛かった20数年前も、すでに世界の最大手コンテナ会社のオーナーだった。彼は長栄航空(エバエアー)を創設した。私はこの会社の当初の訓練も見学し、CAさんの実験台として乗客役などをしたのが懐かしい。

 

そしてもう一つの航空会社が華信であった。この会社を設立したのが中国信託グループの辜濂松氏。私はこちらにお世話になっていたので、微力ながら力添えをした。ただその後、中華航空の傘下に入ったと聞き、残念に思っていたが、今日初めて搭乗できると思うと、ちょっとワクワクした。因みに張栄発氏と辜濂松氏が同時に日本より旭日重光章の叙勲を受けているのは、その貢献度の高さから言って当然だろう。

 

そんなことを考えていると、チェックインが始まり、私は出遅れてしまい、折角あんなに早く来たのに後ろに並ぶ羽目になった。飛行機に乗り込むと機体は新しく、きれいでよかった。朝ご飯としてパンと飲み物が出ただけで、フライトとしては僅か1時間ちょっと。サービスを受ける間もなく、かなり物足りない中、福州に到着した。