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チェンマイ滞在記2024その7(7)チェンマイ最後の夜 スマホ止まる

Mさんと昔話をしていたが、記憶力低下が著しく、話がうやむやになってしまう。共通の知り合いの名前も思い出せない。彼女は今朝到着の夜行列車でバンコクから来たのだが、とても元気。年末までチェンマイ滞在を楽しむらしい。日本からも知り合いなどが合流して、にぎやかにやるという。私とは本当にすれ違い寸前での劇的再会だった。

12月7日(土)チェンマイ最後の夜 スマホ止まる

チェンマイ最終日。準備万端。昼前に近所にアメリカンブレックファーストを食べに行く。何で最後がこれなのか。よく分からないが、食べたい物を食べて終わりにしよう。午後宿の人に部屋のチェックをしてもらい、チェックアウト手続きはあっけなく完了した。といっても、この宿では最終的に出ていく時に鍵を部屋に置いていけばよいという有難いシステム(フロント業務は6時終了なので)があり、引き続き部屋は使えた。

最後の作業はAISに行くこと。4か月使った契約を解除する。そして今晩1日分のWifiを購入して、引き続き使い続ける。今の世の中、Wifiなし、スマホ無しの環境では車も呼べないし、支払いも出来ない。そのままずっと歩いて行く。30分ぐらい行くと、昨日再会したMさんと待ち合わせたお粥屋があるはずだった。ところが私が思っていた場所は閉まっており、通りの角の2階でMさんは待っていた。

お粥を食べながら、おかずをつまみ、ビールを飲む(酒は飲まなくても良い)というコンセプトの店なのだ。ちょうど料理が出そろい、さあ写真を撮ろうとしたその瞬間、突然の悲劇に見舞われた。私のスマホがフリーズしたのだ。電源を切ることも出来ず、どうにも動かない。その時から、私は食事も喉を通らない状況に陥る。もしスマホが使えなければ宿までどう帰り、空港までどうやって行くのかさえ、分からない。更に北京に着いたら、それこそ何もできない。頭の中だけがグルグル回る、パニックだ。

傍らのMさんが空港までは何とかする、と言ってくれたのが救いだった。次にスマホ修理屋はどこにあるのか考えたが思い出せない。食事もそこそこに、取り敢えずMayaを目指したが、車は渋滞にはまり動かない。時間は刻々過ぎていき、何だか焦ってしまう。何とかMayaに辿り着き、Mさんはトイレに行く。私はまっすぐ携帯ショップを目指したところ、途中に携帯修理屋のブースがあるではないか。

係員の女性にスマホがフリーズしたというと彼女はちょっと見て、ほんのちょっと何かを押すと、あっという間に再起動が始まった。え、と驚いてみていると、スマホを渡され、「問題ある?」という顔をした。彼女はタイ語しか話さないので、一体どこを押したのか分からなかったが、何だかキツネにつままれたような感じだ。Mさんもスマホを見て唖然としている。修理代すら払っていない。感謝の言葉も十分に伝えられない。

全ての悩みは一瞬にして解消された。Mさんはソンテウに乗って帰っていく。私は歩いて宿に帰り、車を呼んで大きな荷物を運び入れ、無事に空港に到着。チェックインももう慣れているので、何事もなかった。最後のバタバタが嘘のように、私のチェンマイ生活4か月はこのようにして、幕を閉じた。果たして来年は何が待っているだろうか。

チェンマイ滞在記2024その7(6)カオスイからイタリアンまで

昼ご飯は結局フードコートで食べた。立派なフードコートだが、料金は普通のフードコートと変わらないのが良い。帽子はユニクロで買おうと思ったが、良いのが無く、1階のブースで100バーツで売っているのを買った。タイというところは立派なデパートでも、1階に雑多な店が並んでいるところもあり、面白い。ここでもクリスマス飾りが盛大に行われている。タイ人にとっての冬という特殊な感覚とクリスマスセールがうまく組み合わされているようだ。

夜は先日出会った旅行業のSさんと食事をした。お互いの家は近いので、その中間付近にある店が指定された。夜出歩かない、酒を飲まない私にとって、未知の領域である。夜7時過ぎ、広々とした吹き抜けの空間、お客はそれほど多くない。お客が増えるのは夜中近くになってかららしい。日本で言えば居酒屋で、料理の品数は多い。

Sさんは実は私の息子世代。我々の世代はある程度敷かれたレールの上を走っていれば安泰だったが、今やそうはいかない。社会システムの変化もあるが、多様性や自分らしさが求められ、そこに過度に嵌ると意外なほど厳しい社会ではなかろうか、と話していて思ってしまった。まあ、私も自分の好きなことをして生きて行こうと決め、それに従って自らレールを外れたので、今の若者でやる気があれば応援したいと思う。

12月5日(木)カオスイを食べる

朝出るのが遅くなり、昼近くなってダンバウを食べに行く。これも今年の食べ納め。腹一杯になったのだが、それから車を呼んで午後1時に、先日同級生夫妻とカオソイを食べに行く。カオソイドムアーンは私が最初にチェンマイでカオソイを食べた場所であり、店の雰囲気も含めて気に入っている。現オーナーのお母さんが始めた店らしい。若き日のお母さんと一緒に記念撮影した。華人経営だ。

車で夫妻の宿泊先近くの寺まで行き、彼らとはそこで別れた。何となく歩きたい気分であったので、堀の中をクルクル歩き、寺々を回り、それから外へ出てまた歩く。帰りに何となくマクドナルドへ寄ってしまったのは、なんだか不思議だ。いつもの安いセットを頬張りながら、チェンマイについて色々と考える。

12月6日(金)イタリアンで

いよいよ明日はチェンマイを離れるので、部屋にある物を整理して、買ったばかりのスーツケースに詰め込んだ。今回は意外と茶葉の量も少なく、相変わらず書かれた資料は皆無のため、思ったほどの分量にはなっていない。さすがに4か月も住んでいると、何となく離れ難い気分もあるが、一方ちょっとした解放感も漂う。

夕方ソンテウに乗って出かけた。夕飯は何とイタリアンだ。随分以前にヨーガ関係で会ったことがあるMさん。彼女は毎年バンコクとチェンマイで雑貨を仕入れたりしながら1か月ほど滞在しているのをFBで見ていたが、昨年はタイミングが合わず、今回ようやく久しぶりの再会となった。

彼女が指定したのがターペー門近くのイタリアンだった。ここはかなりの老舗で昨年も食べにきた。時間が早かったせいか、お客は殆どいない。暗くなると白人がワインなど飲んでいることだろう。パスタもピザも安定の味で美味しい。今回はこういう物をほぼ食べていないので、何とも有り難い。

チェンマイ滞在記2024その7(5)突然やってきた同級生

11月30日(土)突然やってきた同級生

そろそろチェンマイ撤退準備が始まる。思い残すことが無いように、食べたい物を食べにいく。今朝はターニン市場の牛筋麵に行ってしまった。50バーツで幸せになれる麺。言葉は通じないが、店の人には感謝したい。この市場も少しずつ店が無くなっているのが気がかりだ。チェンマイの食、それはまさにB級グルメ、そしてフルーツが安く食べられることだろう。

昼ごはんにパンをかじっていると突然メッセージを受け取った。大学の同級生からだったが、何と今チェンマイ空港に着いた、というのだ。彼女はアメリカ在住で最近は連絡も取っていなかったので驚いた。夕飯を食べることになったが、「いつも行っているようなカジュアルな店で」と言われたものの、アメリカ人のご主人も一緒だというので、ちょっと困ってしまう。何しろチェンマイ滞在は長いが、一人飯ばかりだから、気の利いた店を全く知らない。来るならもう少し早く言ってよ、と思ったが、自らの旅を考えると人のことは言えない。

取り敢えず先日大勢で行ったニーマンの店に行ってみたが、予約は出来ないという。席はありそうだったので、ここで到着を待つことにした。コロナ中に東京で会って以来の再会だが、Eさんは相変わらず元気だ。相対的にご主人は物静かで、如何にも大学教授だった。日本の民俗やファミリーヒストリーが研究対象らしく、まず聞くことを大切にしている。彼の同僚にあのローバト・ヘリア氏がいるという。

ご主人と私は日本語で、彼女とは英語で話しているのは何となく面白い。日本に長く滞在経験のあるご主人は、アジア系の食べ物も普通に食べられる。今回はビルマカレー?が良かったらしい。そして北タイの山岳民族などへも興味を持っている。今回は完全な休暇で観光しているだけのようだが、Grabの使い方など手慣れたもので、車を呼んで帰っていく。

12月3日(火)シャン料理を訪ねるも

帰国準備を進めているが、今回は4か月にいた割には、収穫が多くなかったと感じてしまう。そう、長くいればそれだけ多くの物が得られる、というのは、正しいとは言えない。北タイの茶業史で分かることは元々かなり限られており、そういう意味では、もうあまり掘り出せるものはないのかもしれない。来年もここに来る意味はあるだろうか、と正直考えてしまう。ただロングステイだと思えば良いか。

偶にはシャン料理が食べたいと思い、新規開拓に出向く。少し早めに行けば席もあるだろうと思い、歩いて行くと、何と11時半で食堂は満席だった。しかも見ればお客の大半が僧侶ではないか。確かに僧侶は午前中しか食事が出来ないから、この時間はかき入れ時。どうやら最近ミャンマー方面から逃れてくる若者が多いと聞いたが、まさかお坊さんになってタイへ来たのだろうか。

ミャンマー軍政府は、兵士不足から若者の徴兵を進めているらしい。その中で僧侶になった者の扱いはどうなっているのだろうか。チェンマイにシャン人が増えている。食堂を諦めて少し行くとそこには大きなミャンマー寺院があり、若い僧侶が歩いている。ここには僧房もあるので、庇護されているということだろうか。

チェンマイ滞在記2024その7(4)涼しくなったチェンマイ

11月27日(水)涼しくなったチェンマイ

マレーシア旅から帰ってきたら、何となく涼しいチェンマイ。確かに昨年1月の朝はかなり涼しかったから、もうそういう季節になった訳だ。といっても昨日の朝の雨のハジャイも決して暑くはなかった。むしろバンコクだけが異常に暑かった。涼しい方が気持ちは良いと言えるが、夜中に寒くてバスタオルを重ねて寝る。

何だか疲れも出てしまい、洗濯だけして部屋で休息した。洗濯物のちょっとひんやり。原稿やオンラインの準備もしなければならかったが、どうにも気力が沸かない。こういう時は温かいものを食べようと思い、たまに行く食堂へ急ぐ。スープがとても温かくてうまい。野菜炒めもうまい。かなり満足して帰り、重ね着してすぐに寝る。

11月29日(金)チェンマイのカフェで

何だか体がムズムズする。何か特に食べたい物でもあっただろうか。仕方なくMayaのフードコートで探してみた。そうだ、餃子だ。タイ語で焼き餃子はギョウザというらしい。今やフードコートの定番メニューにもなっていてタイ人も大好きのようだ。いつもの滷麺と一緒に食べるとなぜか更に美味しく感じられる。

Mayaの外へ出ると、噴水のところに突然トナカイが現れる。クリスマスツリーもセットされた。ワーカーが一生懸命やっている。まだ11月だが、既にチェンマイはクリスマスシーズンになったのだろうか。白人も多いこの地域では、以前からこんな感じなのだろうか。気が付けば、私は11月末にチェンマイにいたことはなく、こんなことも初体験だった。

宿に帰る途中、何故か入ったことのない横丁へ曲がる。何となく何かありそうだと予感したが、何とそこにはお寺があった。妙覚寺という漢字も見られたので、中国系の寺だが、寺というより、学校のような雰囲気がしていた。タイで信者を増やそうとしているのは、日本系の仏教団体だけではなさそうだ。

午後はちょっと歩いて遠出した。お堀の南側まで行と立派なホテルとカフェがあった。タイ料理研究家Aさんはその後生徒さんと一緒にタイ料理の旅をしたようだが、そのアレンジはチェンマイ在住日本人の若者がしたと聞き、紹介してもらって会ってみた。私も車は使うし、偶にはツアーもするので、便利な旅行会社があると有難いのだ。

このカフェ、なかなかおしゃれで、しかも静かで雰囲気が良い。Sさんは良くここでPCを持ち込んで仕事をしているらしい。いわゆるノマドワーカーである。私もそういう格好良い活動をしたいのだが、どうもカフェで文章を書くのは苦手だ。どうしても集中したい時だけ、ネットを切ってカフェで書くから、そのトラウマだろうか。

Sさんは、チェンマイにおいてはパック旅行ではなくマニアックな旅をアレンジしたいと旅行業を目指したらしい。そういう意味でお茶や山岳民族の旅にも興味があるという。ただその旅の内容は口で伝えても伝わらない可能性が高いので、来年一度一緒に行ってみようということになった。来年のチェンマイ再訪が少し楽しみになってきた。帰りはSさんのバイクの後ろに乗せてもらい、スーッと宿まで行く。

チェンマイ滞在記2024その7(3)体力の衰え、生きる意味

11月18日(月)コピー

先日Sちゃんに資料を貸したら、彼女はコピー屋を探してサクッとコピーしていたので、私も1冊コピーしようと、近所のコピー屋を探した。歩いていけるギリギリの場所に1か所発見したので、早々に歩いて行ってみる。お店が連なっているところではなく、ポツンとあったのでちょっと驚く。

中に入ると、ちゃんと英語も通じ、料金表なども貼られていた。Sちゃんはカラーコピーしたので、相当高かったらしいが、私は白黒でよいので、料金はそれ程高くはなく、お願いした。それにしてもこのペーパーレスの時代に、大量のコピーを請け負っているこのお店、一体何をコピーしているのだろうか。

コピーするのに時間がかかるので、一旦店を離れ、昼ご飯はニーマンの和食屋さんで済ませる。それから宿へ戻り、疲れを癒し、またその店まで歩いて行く。最近は歩くスピードもゆっくりとなり、Google Mapの表示通りの時間がかかる。体の劣化はかなり激しいと自覚している。

午後4時に無事コピーを受け取り、そのままMayaへ歩いて行く。長距離を歩いただけで、なぜか腹だけは減る。こういう時は体から危険信号が出ている証拠だ。八番らーめんで、早めの夕食として優しい麺を食べるのが一番固い。モール内の店ではすでにクリスマス飾りが始まっている。チェンマイ滞在も既に3カ月超。そろそろ本格的な疲れが見えてきていた。

11月19日(火)ガチ中華2

先日壊れたスーツケースの修理に失敗していた。そろそろ帰国のことを考えなければならない。もう新しいのを買うしかない。そう思って昨日Mayaを歩いていると、旅行鞄を売る店が、セールをしていたので、ちょっと見てサイズを確認しておいた。プラプラとMayaの方へ歩いて行くと、先日食べた四川料理屋の看板が目に入る。

辛い物が欲しくなる時は、体の危険信号と理解しているが、何となく店へ行ってしまった。辛い物を敢えて避けて、トマト卵麵を注文する。麺はツルツルしており、スルスルと喉を通過する。トマトと卵が辛い訳がない。大盛りサイズなので食べ過ぎ感はあるが、大変満足な一品だった。この店はフルーツ取り放題なので、スイカも一杯食べる。

Mayaへ行くと、昨日話を聞いたおじさんが待っていた。早々に選んでおいた超軽量級の大型バッグを購入する。おじさんは他にもいいのがあるよ、と言っていたが、そこは完全に無視。ただいざ会計しようとすると「会計係がいないのでちょっと待って」と言いながら、色々と商品説明をしてくれる。これまでタイでこんな対応を受けたことが無い。というか、このおじさんは英語が出来たから理解できただけなのだろうか。

ケースを引っ張って宿まで持ち帰る。午後はこれから行くマレーシアの六堡茶に関する資料を少し読んで、論点をまとめていく。だがどうしても所々抜けが発生してしまい、きちんと輪郭を掴むことが出来ない。これもまた老化の一環なのだろうか。以前はすっきりしていた頭が何となくぼやけてしまい、何を考えてもクリアーにまとまらず、同時にひらめきも起こらない。

これはもう妄想茶旅の終焉を意味するのだろうか。これからの旅、そして執筆はかなり苦しいものとなって行くだろうが、果たして耐えられるのか。いや耐える必要はなく、出来なければ辞めればいいという選択肢が残されているのだが、生きていく意味がどこにあるのかを少し考えなければならない。

チェンマイ滞在記2024その7(2)アカ族のタンブンで

日本語先生一家はこれから予約したコムローイ会場へ行くのだと言い、大型タクシーを呼んだが、予約できてもすぐにキャンセルされてしまい、何度か繰り返していた(もっといい条件のオファーがあればすぐに乗り換えるらしい)。この時期は、車を捕まえるのは本当に大変、まるでバンコクのようだ。車を待っているとAさんが呼んだバイクがサッと来て、彼女はサッと移動していく。格好いい。私はテクテク歩いて帰る。

11月17日(日)アカ族の村へ

朝突然昨日のHさんから「今日の昼、アカ族村でタンブンがある」とのお知らせが来た。え、どうしてその情報、昨日会った時に言わないの、などという野暮は言わない。早々にアカ族村に興味を持ったAさんにも連絡して、村へ向かうこととした。ところが、ロイカトーンの真っ最中で、ただでさえ車がひっ迫する中、チェンマイ郊外の村まで行ってくれる車は全然見付からない。

取り敢えずAさんが我が宿までバイタクでやってきて対策を練るが、埒が明かない。Hさんに連絡すると「メージョーまで来てくれれば迎えに行く」と言ってくれた。メージョーは大きな道路沿いになるので、Boltで何とか車を捕まえることに成功した。この作業に1時間以上を費やした。

何とかHさんと落ち合い、懐かしい村へ向かった。村の一つの家へ行くと、かなり大がかりに食事の準備が進んでいる。Hさんと入っていくとH夫人に「準備を手伝わないなら邪魔だから出て行って」と怒られてしまう。だがAさんはその合間を縫って、しれっと準備作業に加わっている。さすが料理研究家。いや、普通の料理研究家はここまでするだろうか。実地研修で積み上げたAさんの料理は一味違うことを私は知っている。

1時間ぐらいフラフラしていると料理が完成する。同時に牧師さんが教会の日曜ミサから移動してきて、この家でまた説教をしている。更にはなぜか歌を歌い始める。歌って踊れる牧師さん、凄い。確か彼とは昨年中国語で会話して記憶もあるが、今日は忙しいので話す時間はなかった。ところで今日は一体何の会なのだろうか。ロイカトーンとは関係ないと思うのだが。

食事は前回より辛くなかった。それは今日の料理の主担当がH夫人だったから、敢えて我々のために辛さを抑えてくれたのだという。何とも有難いことだ。豚肉野菜炒め、スープ、ラープと生野菜、もち米と共に食べると、どんどん食べられてしまう。少し食べるとまた料理が追加され、満腹になっても止まない。

帰りはHさんがチェンマイまで送ってくれた。途中で急にAさんが「モンスーンカフェに行きたい」というので、3人で立ち寄った。冷たいお茶と温かいお茶を2つ頼んで3人で十分に飲めるのは有難い。オーナーのケネスがちょうどやってきたので、ここ2週間の北タイ茶旅の成果を報告、彼から貴重な情報を得ることも出来た。

因みにこのカフェの反対にピン川が流れており、昨晩はそこで大勢が集まって灯篭流しを眺めていたらしい。突然お酒も入り、ケネスは眠そうな目をこすっていたが、今日もまたあるのだろうか。そういえばHさんも昨晩コムローイ祭り会場に足を運び、格安で入場して写真を撮りまくったという。車など足のない私にはどうすることも出来ない。まあ行きたいという願望も沸かない。

チェンマイ滞在記2024その7(1)ロイカトーンのチェンマイ

《チェンマイ滞在記2024(7)》  2024年11月15日‐20日 11月27日‐12月7日

11月15日(金)日本語が聞こえる街

茶旅ツアーから戻り、かなり疲れたので休養が必要だったが、朝からパンを買い、食事に出なければならない。家々には提灯が下がっていて、ロイカトーンという感じにはなっている。昨晩手の怪我のため、薬局に行った時に気づいたのだが、我が宿の路地付近を歩く親子連れ、若いカップル、普段は全く聞こえない日本語があちこちで聞こえて驚いた。

ロイカトーンの時だけ、日本人がチェンマイに来るということが分かる。1年に1度、この3日ほどの間だけ、同胞が沢山いるという、何とも不思議な光景だった。結構な料金を払って旅行会社に依頼して、コムローイ(天燈/ランタン)フェスティバルに参加する人々。チェンマイには勿論色々と魅力があると思うのだが、これは日本人の習性をうまく利用した旅行会社の策略なのだろうか。

昼ご飯は鶏麺を食べた。やっぱり鶏肉が柔らかくてうまい。何だか激闘の旅の疲れを癒すにはもってこいの麺だった。午後はSちゃんの連絡を待っていた。彼女に貴重な資料を渡しており、コピーして返してくれることになっていたが、こんな日にちゃんとコピーできるのか、そしてそれを返しに来られるのかちょっと心配した。

彼女はバイタクに乗って悠々と戻ってきた。すごい、さすが探検部。お腹が空いているというので、そのまま近所のタイ料理屋へ行き、夕飯を取る。ここのチャーハンもスープも美味しいと言って食べていたが、実は彼女は中国人なので、「これは中国料理じゃないの?」と当然すぎるリアクションだった。全くタイ料理と言われているものの多くは、中国由来と考えていいのではないか。

その後彼女はターペー門の方へ歩き出したので、付いて行った。お堀のあたりまで来ると、花火が上がり、かなりの人が出ていた。若者が多く、自ら花火を上げているので、ちょっと怖い。何だか10数年前の危険な北京、花火が飛び交う元宵節を思い出す。お坊さんも一緒に堀を眺めていたが、とても平和な光景ではない。そこで彼女とは別れ、宿へ帰った。私はどうも祭りというものに乗り切れない。この日の夜はさすがに若者が夜中まで騒いでいた。

11月16日(土)ロイカトーンのお客

Hさんから連絡が来た。お昼にロイカトーンでチェンマイに旅行に来た日本人の会食があるという。場所はニーマンだというので、出掛けることにした。ちょうど茶旅を一緒にしたAさんをH夫妻に紹介したいと思っていたので、Aさんも誘ってみる。宿から歩いて10分ちょっとでそのレストランに着いた。

そこは庭もあり、感じの良い場所。外国人客も多い。今日に限っては日本語も結構聞こえる。かなり込み合う中、H夫妻は席を14も押さえてくれていた。何とも有難い。メンバーはバンコクから来たSさん(先日チェンマイで知り合った)と奥さん(カレン族)、子供二人、そして日本語の先生をしている男性と日本から来たそのご家族計六人となっていた。

ここの名物はカレーだという。ビルマカレーと書かれていてコクがある。他の料理もまあ美味しく、しかもそれほど高くはない。日本語先生のお父さん、鹿児島から来たというが、我々と親しく話をしてくれ、楽しい。しかも気が付かない内にこの食事会の支払いまでしてくれた。息子がいるタイに来るのが何よりの楽しみのようだ。

チェンマイ滞在記2024その6(5)チェンマイのガチ中華

外に何とか席を確保していつものクイッティアオを注文したが、既に太麺は売り切れていると言われた。仕方なく細麺をお願いしたのだが、出てきた碗の中を見ると、ところどころに太麺が混ざっている。取り敢えず残っていた太麺を全部入れたな、という感じが何とも良い。これが日本なら、こんな中途半端はしないだろう。

夜も近所で済ませることにした。麺ばかり食べても何なので、と何とガパオライスを注文する。なぜ日本人はガパオライスが好きなのか、なぜ日本ではあんなに高いのか、と思う一品である。この店のガパオもその辺よりは少し高いが、それでも70バーツだ。日本の800円とはかなり違う。

11月9日(土)ガチ中華

何だか天気もイマイチで気分がさえない。もうすぐ第2回茶旅があるので、元気を出さねばならない。やはり気分を変えるには食事しかない。晴れていたので、少し歩いて行くと、中国料理の店が大型コンドの中にあるのを思い出した。一度も入ったことのない四川料理屋。中に入ると、何と全てが華語である。客はほぼ中国人で、スタッフもタイ華人だろうか。オーナーは四川人だと言っている。

久しぶりに回鍋肉を食べる。特に辛くはない、分厚い肉が入っていてご飯がすすむ。オーナー夫人と話していたら、日本人だと分かり、向こうがかなり驚いていた。そして宣伝宜しく、と如何にも中国人らしい対応が何となく好ましい。次回は何を食べようか。

恐らくチェンマイには数千人の中国人が暮らしているだろうから、所謂ガチ中華の店は沢山あるはずだが、私の眼にはなかなか入らない。確かにチェンマイに来て中国人と付き合おうと思ったこともないし、出会いもあまりない。ちょっと生活をリフレッシュするには、他国のお友達を作る必要もあるかもしれない。

11月11日(月)Aさん、Sちゃん登場

今日は11月11日。中国ではビックセールの日として有名だが、何だかあまり盛り上がってはいないらしい。まあ私にはあまり関係ないが。昼ごはんはいつものお弁当を頂き、テンションを上げていく。そして明日からの茶旅に参加する二人がチェンマイに到着したとの連絡があった。

Sちゃんはお知り合いの娘さん。高校生の頃に一度、そして今年久しぶりに京都で会っただけである。お茶好きということで誘ったところ、一人でやってきた。昼ごはんでもと思っていたが、一人で街歩きがしたい、ということで、放置した。若者の考えはよく分からないので、言うとおりするのが良い。

もう一人のタイ料理研究家Aさんは、何度もチェンマイに来ており、こちらも問題ない。午後は打ち合わせがあるとのことで、夕飯を3人で食べることにした。ちょっと早めにソンテウに乗り、ワーロット市場方面へ行く。1か月半前の洪水の時ほどではないがピン川の水位それなりに高い。周囲のお寺などをフラフラしていると、洪水の時に比べると観光客はかなり多い。

Aさんが予約してくれた店は6時で完全満席だった。チェンマイでは珍しい海鮮系ということもあるのだろう。場所が良いこともあるだろう。Aさんはここのシェフにほれ込み、料理研修を受けているらしい。確かに出てきた料理はいつものチェンマイとは全く異なり、味付けがいい。何だか久しぶりに2人以上で食べたので、更に美味しく感じられたかもしれない。

Sちゃんは若いのでナイトマーケットをちょっと見てから帰ると言い、結局ニーマンの宿まで歩いて帰ったらしい。Aさんと私は車を呼んで帰る。この年代も興味もバラバラの3人の旅、一体どうなるのだろうか。ちょっと楽しみ。

チェンマイ滞在記2024その6(4)疲れが溜まって

11月2日(土)チェンマイ食のはしご

何とか茶旅を終えて、ちょっとホッとしていた。朝起きると道路が濡れていたので雨が降ったのが分かった。パンを買い、久しぶりの場所でカオマンガイを食べた。ボーっとしているとMさんから連絡が入る。他の2人は昼のフライトでハノイへ行ってしまい、Mさんだけが残っていた。ガイヤーンが食べたいというので、有名な食堂で待ち合わせた。

ガイヤーンを食べながら話しをしている内に、やはりカオソイも食べたいということになり、Boltで川向うまで走った。昼過ぎだがお客は多かったが、何とか席があり、カオソイにありついた。現在のオーナーが名物だ、というので、フライドパンプキンも頼んだ。甘いおやつだな。Mさんのお宿は旧市街地の立派なホテルに移動しており、そこまで車で送って別れた。Boltの使い方が分かれば、買い物などに私は不要だろう。これで茶旅第1弾の責務は終了した。

11月4日(月)スーツケースの修理は

日曜日はゆっくりとお休みした。やはり疲れはかなり出ていた。今日は何かしなければ、と思い立ち、懸案だったスーツケースの修理に行くことにした。ネット上で簡単に修理が出来ると書かれていたので、取り敢えず持ち込んでみた。場所は空港のすぐ近くで、Boltを読んで100バーツ程度で行けた。

何とかその店を見付けて、スーツケースの壊れた部分を見せると、その瞬間『ああ、これは簡単に直らないね。部品もないからバンコクまで送って2₋3週間かかるが、それでも直らないと言われかねない』という厳しい評価が下ってしまった。仕方なく、また車を呼んで宿へケースを持ってすごすごと引き返す。これは意外と無駄な出費となる。

何となく腹立たしい気分になってしまい、昼めしをがっつり食べたい欲求にかられた。こんな時はダンバウだと、いつもの店に行き大盛りを注文して、がつがつ食べて気を紛らわせた。こんな感じになるのは久しぶりだった。これもやはり疲れのせいだろうか。午後はゆっくり休んで早く寝る。

11月5日(火)やることは溜まるが

チェンマイ滞在も3カ月が過ぎようとしている。既に色々と茶旅もしたし、人から話も聞いていたのだが、何故か纏めようという気力が起こらない。最近は疲れを感じるケースも多く、折角乾季になり、雨の心配も無くなったのに、自分で洗濯する以外は、イマイチ積極性も生まれない。

それでも何とか新規開拓をしようと思い、ネット検索で出てきた近所のムーピン屋を訪ねてみた。焼き豚は好きなので簡単に食べようと思ったが、結局カイダオのセットを注文してしまう。店はキレイだが、ニーマン付近なのに英語はあまり通じないのが不思議だ。料金はニーマン的で、量は多くない。

夕飯はあまり歩く気にならず、隣の食堂で食べた。ここは緊急時に食べる用にいつもはあまり行かない。チャーハンを頼んだのだが、何となくご飯が美味しくない。疲れが溜まっているせいか、最近ご飯が美味しいと思えない日もある。いくらチェンマイの環境が良いと言っても、3カ月もいれば、飽きてくるのだろうか。

11月7日(木)雨が降る

乾季に入って一安心と思っていたら、最近は雨が降る。気温も低く、タイ人は上着を着ている人が増えた。私はいまだ短パンだが、涼しいと感じることが多い。昨日からバミー、カオソイなど麺ばかり食べているのも涼しいからだろうか。今日の昼もまた麺の店に行く。ここは美味いからいつもお客が多い。

チェンマイ滞在記2024その6(3)ラミンティの3代目と会う

10月25日(金)ラミンティー

午前中散歩していると、比較的大きなお屋敷が売りに出ていた。タイ語と併記で中国語も書かれているのだが、このご時世、中国人でこの家を購入する者はいるのだろうか。まあ、値段も分からないので何とも言えないが、時々不動産の売り物件を目にする。昼ご飯は久しぶりにおかずを選んでご飯とスープで食べる店へ行く。

今日は重要な日だった。10月初めにチェンダオで会う予定だった、ラミンティーの3代目と突然会えることになったのだ。しかも場所はチェンダオではなく、チェンマイ市内のラミンのオフィス。何と40年以上前に建てられた茶工場が併設されていた。またそこは大きなバイパス道路に面しており、現在茶業と並んで家業となっている自動車ディラーの店舗もあった。

3代目は非常に親切な人で、わざわざパワーポイントを準備してくれ、ラミンの歴史を説明してくれた。ただ初代については少し不明な点があり、今後機会があれば2代目夫人に聞いてみたいと思った。いずれにしてもここ北タイにおいて、最初に茶を植え、茶園を造り出したのは1940年前後のラミンであることは間違いなさそうだ(元々生えていた茶樹の葉を加工したケースはもっと古いと思う)。

現在同社では様々な種類の茶を作っているが、その根本は創業当時から紅茶で変わっておらず、今もアメリカ向け紅茶輸出が主業だと聞くと、確かに北タイは烏龍茶、というイメージは後世の物だと感じられる。そして初代の謎を解くことで、北タイプーアル茶の歴史も紐解けていくかもしれない。茶工場も見学して、紅茶をお土産にもらって帰る。

10月28日(月)茶旅が始まる

いよいよ北タイ茶旅が始まる。昨晩メンバーの一人HHさんがチェンマイにやってきて、気分が高揚する。昨晩はMAYAにサンダルを買いに行き、そのままフードコートで麺を食べ、ニーマン地区をフラフラ散策した。ハローウインが近いこともあり、仮想して写真を撮っている人達がいる。何だかちょっとキラキラしたチェンマイを見た。

今朝は朝8時集合でHHさんとカオソイメーサイに行く。この時間だと行列もなく、この有名店で悠々とカオソイを食べることが出来る。久しぶりのチェンマイだと聞いたので、こういう店も良いかと思う。食べ終わって出てくるころには既に外に観光客が立っていたから、相変わらずの人気だが。

そこから周辺を散策。市場に行ってみようと歩いて行く。そろそろ10月も終わりに近づき、心地よい朝が来ていた。市場でも魚や野菜などを見ていくが、私には名前も分からず、聞くためのタイ語力もない。実はもう一人のメンバーMさんが空港に到着するはずだったので、その連絡を待っていたのだが、何故かスマホの不具合か?うまく連絡がつかず。何とか無事到着を確認したが、Mさんは夜行便の疲れもあり、マッサージ屋へ行っていた。

我々は昼ご飯を食べるため、モンスーンカフェまで車で行った。後からMさんも合流して、3人でお茶を飲みながらミアンが入った料理を頂く。色々なお茶を飲んでまったりしてしまい、時間がどんどん過ぎていく。車を呼んで帰る際、HHさんは途中の市場で降りる行動派だ。夜は明日からのメンバーで夕飯(昨年と同じ場所)を食べる。夜の便でチェンマイ入りしたHSさんも無事合流して、明日からの気分が大いに高まる。