福建茶旅2018(8)厦門⇒金門⇒台中へ

4月22日(日)
厦門へ戻る

昨晩早く寝たのと、鳥のさえずりがかなり煩かったので、早めに目覚めた。下へ降りて行き、資料を確認して、朝ご飯を頂戴する。ここにもっと居たい、と思う。昨日はここの子供たちが週末帰宅で戻ってきており、賑やかだ。この村には学校がないので、街に泊まって学校に通い、週末だけ実家で過ごすという生活になっているという。

 

今日は智送が厦門に行く用事があるのでその車に乗せてもらい、厦門に戻る予定となっていた。ただ都合で、午前9時にここを離れたのはちょっと残念だったが仕方がない。また来ることがあるだろうか。まず昨日行った日塞にもう一度行き、何か歴史的な手掛かりはないか探してみた。残念ながら何も出てこない。

 

続いて、南岩鉄観音発祥の地にも寄る。ここは前回も来たことがある有名な場所だ。母樹が大きく囲われ、横の建屋ではお茶が売られている。確かに歴史的な場所なのだが、後から作られたものが多い、観光地化したところにはあまり用がない。観光客の邪魔になるので早々に退散する。鉄観音茶のルーツもいくつか説があるようで、困る。

 

車は厦門に向かって走る。今日は日曜日、厦門市内に近づくと車が増えて渋滞になる。茶葉市場にある梅記の店に辿り着き、そこで智送の妹に昼飯をデリバリーしてもらい食べる。その後、智送は安渓に帰っていき、私は王さんの車で厦門賓館へ行きチェックインした。この宿は気に入っているので、ここで過す。

 

それに飽きると散歩に出る。近くには烈士の記念碑があり、更に歩くと、かなり古い建物が点在している。その向こうにはビルが連なっていたが、1階の店は全てへ移転していた。張り紙を見ると、ここが解放軍所有のビルだと分かる。賃貸禁止で全て追い出されたのだろう。それにしても昔の一等地に沢山不動産を所有しているな。

 

華僑飯店の近くまでそう遠くはなかった。私が1987年に初めて厦門に来て泊まった宿。ここのチャーハンが美味しかったような。いや、あれは泉州の華僑飯店かな。今日はなぜか小籠包が食べたくなり、店を探して入る。なぜか麺まで頼んでしまい、動けなくなるほど腹一杯。ここで現金で払おうと小銭を探していると、店のオヤジが『面倒だな』という顔をした。アリペイで払ってほしかったようだが、今回福建に来てこのような対応をされたのはここだけだった。日本の報道では中国で現金はもう受け取られないかのように言っているがそんなことはない。

 

4月23日(月)
4. 台中まで
金門

翌朝は早く起き、朝食をしっかり食べて宿を出る。金門行きのフェリーターミナルはいつの間にか五通一か所となり、バスで行こうと探してみたが、ウマく乗り継げずに、タクシーを拾う。タクシーでもかなり距離があったので、9時前にようやく到着する。9時半のフェリーチケットを買い、出国する。

 

今日は金門経由で台中へ行き、そこから埔里まで帰るつもりだった。これは台湾人がよく使うルートで、福建行きの国際線フライトよりはかなり安くあげられるはずだ。取り敢えず12時の金門発台中行のフライトを抑えており、フェリーは10時過ぎに金門に着いたので問題ないと思っていた。

 

ところがバスに乗ろうとすると『あなたはセットチケットを買っていないので乗れない』と断られる。実は厦門からフェリー代、金門内バス代、台中までのチケット代が込みで販売されていたのだが、それを知らずに航空券だけ買ってしまい失敗した。このチケットがあれば、フェリーターミナルで荷物のチェックインも出来る楽々サービスらしい。

 

しかしそこは台湾だ。『領収書が要らなければ200元でバスに乗せるよ』と言ってくれ、難なく空港に到着。ただ荷物を預けるのは1時間前からしか受け付けないという。しかも重量検査はかなり厳しく、少しでもオーバーすれば追加料金だ。まあ飛行機が小さいので仕方がないか。因みにフェリーターミナルと空港で台湾のシムカードを購入しようと思ったが、残念ながら台湾島で扱っているような30日のカードは売っておらず、台中空港で購入することとなった。

 

飛行機はあっという間に台中に着く。しかしここからが厄介だ。台中市内へ行く交通手段があまりないのだ。バスはいつ来るかわからない。すると今回、空港バスが増えていることに気が付いた。しかも高鐵駅へ行くというので、ちょうど停まっていたバスに慌てて乗り込む。100元はかなり高いが、荷物の置き場などもあり快適。

 

これまでの市内行きの路線バスと違い、このバスは速い。30分ちょっとで高鐵駅近くに来たが、何と高鐵駅ではなく、台鉄の新烏日駅の横に着いた。下車したのは私だけ。余程使えないバスなのだ。そこから繋がっているとはいえ、延々と歩いて高鐵駅へ。着いた時には疲れ果て、思わず丸亀製麺でうどんを食べてしまう。元気が出たところで、バスに乗り、今回の旅は終わった。

福建茶旅2018(7)西坪にある日塞と月塞

4月21日(土)
西坪を歩く

何だか寝坊してしまった。緊張感がない、というか、全てから解放されたような朝だった。下に降りていくとお父さんがお茶を淹れてくれたのでそれを飲み、朝ご飯のお粥を頂く。これが何とも幸せな朝餉なのである。この家には一体何人が住んでいるのだろうか。さっぱりわからないが、一人紛れ込んでも問題なさそうだ。

 

お父さんがこの家の歴史を教えてくれる。それは族譜と呼ばれる家系図にもちゃんと書かれており、明瞭だ。昔は貧しかった、という話が出る。共産中国は長年、農村に富をもたらさなかった。『タバコが無くてね、自分で巻いて吸ったものだ』と言いながら、実際に見せてくれた。実に懐かしそうだ。今でもこの世代より上は大抵タバコを吸うし、また大切に吸う。

 

沈さんも加わって、ひとしきり昔話に花が咲く。そしてお父さんの弟が、香港で成功し、茶業が続けられたことなどが語られていく。その後王さんと沈さんは厦門へ帰っていき、私だけがここに残った。ひとしきりここにある資料を読んでいると、何と先日木柵で会った鉄観音茶の張さんのことが安渓県誌に出ているではないか。すぐに張さんに連絡すると彼も驚いていた。30年前に書かれた本に載っているのだから驚くのも無理はない。ここで台湾と中国の鉄観音茶に対する定義の違いも学ぶ。

 

お昼がやってきて、また美味しく頂く。田舎の農家の食事は皆が一斉に集まって『頂きます』などとやることはない。手の空いた者からやってきて、ご飯とスープをよそい、おかずに手を伸ばして黙々と食べて、終わったら食器を片付けるだけ。日本はいつから皆で食卓を囲むようになったのだろうか。一家団欒というのは高度成長期の産物だろうか。いずれにしても、農家飯は美味い。

 

皆は忙しそうなので、ひとりで散歩に出てみた。古めかしい建物がこの田舎にマッチしている。ちょっと歩くと南岩村と書かれた建物がある。ちゃんと理解していなかったが、ここが鉄観音茶のパッケージによく書かれている、あの南岩村なのだ。更に進むと堯陽という地名も出てくる。これはあの、香港や台湾にある堯陽茶行の発祥の地名だろう。歩いているだけで歴史が見えてくるようだ。堯陽には日塞と呼ばれる要塞のように囲われた場所がある。

 

ここは民国初期に、匪賊から身を守るために一族で固まって居住した跡らしい。ここから堯陽茶行を興した人々が出ていくわけだ。恐らく台北に今もある有記銘茶などもここから出ているだろうという。今や住む人もまばらで、繋がりも確認できないようだが、往時の様子、なぜ彼らは外に活路を求めたのかが少しわかるような気がした。

 

道に横断幕が張られているところがあった。『全面的に圧茶機を取り締まり、圧製茶を排除する。安渓鉄観音の品質保持の戦いに打ち勝つ』と書かれている。確か圧茶機が規制されたのは、私が前回ここに来た一昨年の10月。しかしやはりその後もこの機械は使われ続け、その品質を落としているということか。一度楽をした者は元には戻れない、大坪の張さんが言っていた言葉が思い出される。

 

梅記に戻ると、智送が『どこかへ行くか』と声を掛けてくれたので、彼の車に乗り込む。車は私が今歩いて戻ってきた道を進む。そして私がさっき遠くから眺めた日塞の近くで停まり、我々は下へ降りて行った。すぐ横には『本山発祥の地』という碑があり、母樹が囲われている。ここも前回来た時に見た記憶があるが、今回見ると、やはり歴史的な意義、この茶葉は色種と言われたものなのかなど、考えてしまう。

 

そして日塞の中を歩いていく。立派な建物が少し残っている。人はあまり住んでいないが、お婆さんが顔を出したりする。周囲の城壁のような石垣は崩れずに健在だ。100年以上経っているのだろうか。往時はここで茶作りが行われ、ここから多くの茶葉が世界に運ばれて行ったのだろう。

 

次に月塞に行ってみる。こちらは横に民宿がある。前回も来たのだが、今回見てみると、何とここからバンコックへ移民して茶商をしていた人の手紙や写真が飾られていた。ここの親戚筋なのだという。こういう記録が何気なく残っているところが流石に西坪だな。今度バンコックで追跡してみようか。

 

ここの民宿のオーナーが本山を飲ませてくれた。先ほど作ったばかりだという。実はここの小高い場所に本山を植えるプロジェクトが進行しているというので、登ってみることにした。既に本山という品種はある意味で絶滅危惧種かもしれない。それを守ろうという試みらしい。標高700m、月塞がよく見える場所に茶樹が植わっていた。果たして成功するだろうか。

 

戻るとすぐにまた夕飯の時間となる。新鮮な野菜に、鶏肉や豚肉。こんな食事をしていたら幸せだな、と思ってしまうが、食べるのを止めることが出来ず、腹は常に満杯で、体重も相当に増えたと認識できるほどだ。今晩も又、食後に濃厚な味わいの鉄観音茶を頂き、早めに就寝する。

福建茶旅2018(6)安渓を再訪する

4月20日(金)
安渓

今朝は早めに目が覚めた。疲れてくるとこういうことがよくある。ホテルの朝食は、かなり混みあってはいたが、満足のいく物で、美味しく頂く。食べ過ぎだとは分っていても、付いている物は食べてしまう。悲しい習性だ。そのまま気持ちがよいので散歩に出た。この厦門賓館、実は後背部を含めてかなりの敷地がある。驚いたのは小高くなった場所にある古めかしい建物、タイの領事館がこの中にあったことだろうか。周囲にも古い建物などが残っており、歴史を感じさせる昔の一流ホテルだ。習近平もここで結婚披露宴をしたとネットにあったが、本当だろうか。

 

王さんが迎えに来てくれた。沈さんという年配の人も一緒だ。沈さんは長年お茶の歴史を研究し、雑誌を発行しているという。これから行く安渓の歴史などは相当に深く勉強しており、おてものだ。3人で安渓を目指す、その車の中で既にレクチャーは始まっている。これは何とも有り難い。更には既に雑誌に載せた物で関連あるものを微信で送ってくれた。

 

1時間半ほどで安渓県の中心に到着する。そこには茶市場があるのは前回も来たので知っている。ここで昼を食べる。王さんの知り合いがレストランを開いており、豆腐がうまかった。その後市場をちょっと見学するが、そろそろ茶が出来始めているが、昼過ぎで閑散としている。市場の外の店に入る。沈さんの知り合いだという。鉄観音茶で色々と賞を取っているようだ。出された鉄観音は清香だが、マイルドな味わいだった。

 

それから孔子廟を訪ねる。なぜここに来たのかと思っていると、見学もせずにどんどん中に入っていく。奥にオフィスがあり、そこにこの廟の管理者が待っていた。彼は書の達人のようで、帰りに彼が書いたものをくれたので、驚いた。そしてそこには安渓華僑史の第一人者である陳先生がいた。

 

86歳の陳先生から、詳しくはこれを読んでくれといわれ、著書を頂く。中をパラパラめくると、安渓出身、東南アジアで活躍した華人のことなどが沢山記されている。これは大いに参考になる。特にビルマで茶商として成功した人が気になる。タイは殆どいない。インドネシア、マレーシアも茶商は見当たらない。

 

そして私の一番の関心事を率直に聞いてみた。『台北の大稲埕で歴史的に茶商をやっていた(今もやっている)者には安渓西坪出身者が多く、その姓は王だが、それにはどういう歴史があるのか』と。しかし陳先生の答えは意外だった。『私の専門は華僑史だが、台湾に渡った者は華僑ではないから専門外だ』というではないか。

 

確かに中国から見えれば、国外に渡った者が華僑、華人であり、中国の一部である台湾に渡っても、単なる国内移動ということだろう。これは香港、マカオについても同様の論理だ。なるほど、この辺の定義もしっかりしているなと妙に感心する。結局その答えには辿り着けなかったが、収穫のある面談だった。西坪に行けばこの答えは見つかるだろうか。

 

1年半ぶりに西坪の梅記を訪れた。前回2泊させてもらったが、ここは本当に居心地の良い場所だった。智送が笑顔で迎えてくれた。まだ茶作りは始まっていないようで、周辺は閑散としていた。近くの泰山楼を見学。前回も見たが、住んでみたくなるような100年以上前の建物だ。

 

夕暮れが近づいており、すぐに車で茶畑のある山の上まで登る。標高約1000mの眺めの良い場所にある茶畑は、まだ茶の芽が少し出ているだけの状態であり、茶摘みが始まるのは数日後かららしい。沈さんが愛おしそうに茶樹を眺め、茶葉に触っていたのが、ちょっと印象的。本当にお茶が好きなんだな。

 

日暮れ前に梅記に戻り、美味しい夕飯を皆で頂き、それからゆっくりと老茶を飲む。今日は沈さんが一緒ということもあり、前回よりさらに古いお茶が出てくる。部屋は前回同様4階にあり、そこに場所を移して、お茶を飲み続ける。何となく疲れてしまった私は先にシャワーを浴び、そして静かな、涼しい環境の中、ぐっすりと寝入る。

福建茶旅2018(5)改修中の万福寺と新しい梅記

4月19日(木)
全面改修中の万福寺

翌朝は特に予定もなかったので、ホテルで朝食をゆっくり食べた。福清の街でも歩いてみようかとロビーまできたところ、N師と同行者がソファーで談笑していたので挨拶すると、『今から万福寺に行くけど、行かないの?』と聞かれ、折角だからと同行することにした。既に2年前に訪ねてはいたが、N師は福清の万福寺再建に尽力されたと聞いていたので、ちょっと興味があったのだ。

 

いつの間にか昨日のメンバーも何人か集まり、促進会の副会長以下が迎えに来てくれ、2台の車で万福寺を目指した。万福寺は福清の郊外にあり、30分ぐらいかかる。街道から小道に入り、小さな村を抜けたところに、あるはずだった。だがそこで目にしたのは、改修中の寺だった。

 

部分的に補修しているのではない。ほぼ全面的に壊して、新たに作っていると言った方がよいかもしれない。2年前の姿は見られなくなっており、唖然とした。しかし私などより数年ぶりに来たというN師はどうだろうか。30年前、砂埃の舞うこの地に通い、様々な困難を乗り越えて再建したものが目の前から消えているのだ。その心境は推し量れない。いつの間にか林会長も厦門から駆け付け、この光景をじっと見ていた。

 

辛うじて本殿は残されており、その横に臨時の建屋があった。そこに今の住職が立っていた。彼は30年前、研修?でここに来て、その再建を見ていたらしい。その後海外に渡り、今回を機に戻ってくるということだった。彼もまた何となく申し訳なさそうではあるが、既に立場のある人であり、双方ともに大人の対応をしていた。お茶を淹れてもらったが、何となく味気ない。

 

帰りは何となく言葉も少なくなる。市内に戻り、林会長が元気づけのためか、威勢の良い海鮮料理屋へ案内してくれ、またまた福清料理をご馳走になる。イカやカニ、魚などの海鮮がふんだんに登場、そして豚足や内臓系など私の好物もこれでもかと出てくる。麺も実にとろみがあるスープでうまい。更にはタケノコ、スイカなど隠元ゆかりのものも織り込まれる。ちょっと元気が出た。そういえば空心菜は沖縄には伝わったらしい。

 

午後は林会長が茶荘に連れて行ってくれた。非常に豪華な茶館もある。黄檗宗の関連で、煎茶なども作られている。茶の歴史が知りたかったが、それはなかなか難しく、お土産のお茶をもらっただけに終わる。そして最後は会長の自宅に招かれ、今度はコーヒーを頂く。枇杷が出てきた。これも日本に伝えられたという。奥さんとは東京でお会いしたことがあったが、この立派な家で会うとまた別人のようでもある。

 

厦門へ行く高鐵を予約してもらった。厦門北駅ではなく、厦門駅へ行く列車もあると聞き、厦門駅の方が市内に近いので、そちらにしてもらったら、午後をゆったりと過ごすことができた。車で福清駅まで送ってもらい、活動終了。最後の仕事は予約したチケットを窓口で受け取ることだが、やはり行列が出来ていた。何とか早めに進んで、無事列車に乗り込んだ。

 

3. 厦門
新しい梅記

厦門北駅を通過した頃、王さんより連絡があった。北駅で下車して新しくできた地下鉄に乗れ、と。だがすでに駅は過ぎていた。彼はまさか私が北駅で降りないとは思っていなかったのだろう。結局厦門駅でBRTを探し、店のある駅まで行って合流した。厦門にもついに地下鉄が出来たことに気が付かなかったのは迂闊だった。本当に中国はいつ来ても変化がある。

 

店にも寄らずに、王さんの車で出掛ける。何と離れた場所に梅記のきれいな新しい店が出来ていた。かなり立派な2階建て。商売は順調なようだ。夜も8時を過ぎていた。腹が減り、その店の向かいのレストランへ行く。1年半前に一緒に安渓に行った女性スタッフと三人で夕飯を頂く。

 

店を案内してもらうと、敷地はかなり広い。和室を含めて個室が充実している。ハイクラスな顧客向けに作られている空間。かなりモダンな造りになっているが、そこに梅記の歴史紹介など、伝統、文化などを織り交ぜて、雰囲気を出している。お茶も鉄観音(かなり古い物もある)は勿論、色々な茶葉を用意して顧客ニーズに応えている。

 

ここでゆっくりとお茶を頂き、王さんが予約してくれた宿へ向かう。厦門賓館、如何にも昔からあるホテルである。何だか高そうだったが、法人契約で意外と安く泊まれる。フロントの女性も非常に親切でフレンドリー。部屋はコンパクトで使い勝手が良い。結構気に入ってしまい、ぐっすりと休む。

福建茶旅2018(4)黄檗文化促進会で

4月18日(水)
2. 福清
黄檗文化促進会

翌朝は福州から福清に移動する。魏さんが連れて行ってくれるというので、オフィスまで歩いていき、そこで合流して乗車した。福清には2年前にも一度行っているが、今回も又黄檗文化促進会を訪問する。因みに魏さんも福清の出身、というか、日本にいる福建人の半数以上は福清出身だと思う。黄檗文化促進会の林会長もやはり福清出身で、魏さんと同じ時期に日本に留学していたらしい。この福清人脈は知られていないが、かなりすごい。

 

車は小1時間で福清に入る。昔は山を越えて難儀して福州に来たらしいが、今は高速道路があり、トンネルがあり、簡単に行きつける場所になった。何故福清から海外を目指す人が多かったのか、それは山深い場所で仕事がなく、福州までは難儀ではあるが歩いて行けた、ということであったろう。

 

黄檗文化促進会の建物は相変わらず立派だった。入っていくと、既に大勢の人が集まり、何かをしている。林会長の正面に座っていたのは、まさかの日本人。それも黄檗宗のお坊さん、N師だったので、驚いた。聞けば、仏教画を描かれるということで、隠元禅師にもゆかりが深く、林会長とも深いご縁のある方だった。

 

それに合わせて東京からもマスコミ関連の中国人が同行してきていた。やはり今は黄檗宗、隠元禅師を見直そうという機運が、特に中国側で強いということだ。皆が話している中にも、隠元禅師が中国からもたらした文化が江戸初期の日本にどれほどの影響を与えたのか、と言った話題が出てくる。

 

 

同時に『魏氏楽譜』という古来の楽譜を研究している女性が態々広西から来ており、驚く。これは中国で現存する最古の楽譜であるらしい。確かに古代から音楽はあるが、それがどんな曲だったのかは分かっていない、と説明されればその通りかもしれない。そしてそこに我が魏さんが当然のように食いつく。彼も魏氏の一人なのだ。放っては置けない。一緒に勉強を始め、同じ魏姓で、この研究をしている人に熱心に教えを乞うている。

 

今日宿泊する予定のホテルに場所を移してランチ。かなりのご馳走が出てくる。テーブルも2卓、20名が食事を共にした。この食事の内容がまた日本人の口に合う。それは味付けがよいこともあるが、食材が日本に近く、何となく安心して食べられる雰囲気なのだ。これもまた隠元禅師のお陰か。忙しい魏さんはここで福州へ向けて帰っていった。いつも本当にありがたい存在だ。

 

促進会に戻る途中、林会長が『ちょっと寄り道しよう』と言って、街中に出ていく。車を降りるとそこにはベーカリーがあった。『ちんすこうを買おう』というので驚いた。店にはパンやケーキなどが並んでいたが、その一角に中華菓子のようなものがあった。その中に『真酥』と書かれた食べ物がビニール袋に入っている。『これがちんすこうだよ。真酥は福清語で「ちんる」、そこに糕「こう」を加えて、ちんすこうと沖縄の人には聞こえたのに違いない。もっとも糕は蒸しパンなど指すけど、福清も沖縄も焼き菓子だね』と説明される。林会長はお店の人に作り方も見せて欲しいと交渉してくれたが、さすがに企業秘密ということで断られてしまう。ただ作り方もほぼ同じらしい。

 

これを持ち帰る。まだ腹が一杯なので、まずは隠元禅師や黄檗宗の説明を聞く。この会館には実に多くの関連資料が保管されている。その多くがこの2年、林会長自らが毎年4-5回は日本へ行き、ゆかりの地を訪ね歩き、そこで集めて来た物なのだ。中国にはすでに残っていないが、日本には残されている歴史的な資料、遺品の典型例だった。

 

そしてついに福清のちんすこうを食べる時が来た。どんなお茶と合わせるのかと考えていると、何と会長は生卵を持ち出し、それを溶いているではないか。そこに熱湯をかけてかきたま風にする。更にちんすこうをパラパラとかけてかき混ぜ、頂く。なんだこれは。まるでシリアル?真酥にはちょっと塩気があり、卵の甘さを合わせると絶妙な味になる!

 

林会長によれば、昔は皆貧しく、子供は病気になった時だけ食べさせてもらえたらしい。何だか私の思い出すのはバナナかな。また来客があり、食事まで間がある時に出されるものだったともいうが、当時卵は貴重品であり、平時食べるものではなかったであろう。それにしても熱湯をかけるとはいえ、生卵を使うことが驚きであり、まるで日本の風習かと思ってしまったのは偶然だろうか。

 

実は1月に沖縄に行った時、老舗ちんすこう店の方を紹介してもらい、話したことがある。沖縄に入ってからの歴史はある程度分かるが、中国でのちんすこうの歴史は分からない、ということで、今回聞いてみたわけだが、まさに百聞は一見に如かず、というところか。今後沖縄と福清の交流が進むとよいと思う。また福清以外にもちんすこうはあったかもしれず、それを探すのも又一興だ。

 

林会長は忙しい。これから厦門まで行って夜は宴会だという。我々は皆お腹が一体でホテルに戻る。だが軽く夕飯を食べようということで、ホテル内になぜかある韓国料理へ行く。N師はここの牛丼は日本のような味だと言って勧めてくれたので、それを食べて、部屋に戻る。とても長い一日だった。

福建茶旅2018(3)包種茶って、結局なんだろう?

4月17日(火)
包種茶の定義を知る

翌朝も又元泰のオフィスへ行く。今日は魏さんが出張から戻っているというので出掛けた。だが鄭さんより朝9時に陳さんという専門家に来て頂いたと言われ、まずは陳さんと会う。彼はすでに引退しているが、福建省茶葉公司で長年勤務し、この業界では相当に有名な方だった。福建の茶については、その歴史を含めて非常に詳しいが、実に気さくな人だった。

 

私から包種茶について質問すると、『それは昔福建の北では奇種、南で色種、台湾では包種と呼んでおり、三兄弟の関係さ。水仙や鉄観音などの品種茶以外の茶葉を交ぜて作った茶の総称だ』との説明を受け、何だかスッキリしてしまった。今でこそ、品種が主流だが、その昔大量の作られる茶は大雑把に刈り取られ、作られて行ったことだろう。今ほど品種が主体でもなく、自然交配などで雑種になっていったものが多かったのではないだろうか。

 

確かに台湾でも老舗の茶荘には、『武夷奇種』などと書かれた茶缶が置かれていることがある。大稲埕の有記銘茶には『奇種』と名付けた包種茶も売られていた。香港でも包種茶というお茶は見たことがなかったが、奇種、色種なら、何となく見たことがあったと思う。ようは福建を出た奇種が台湾では包種となり(または台湾から送られてきた四角く紙に包まれた茶葉を福建人が包種と呼び)、香港などに流れた茶は、そのまま奇種と呼ばれていたのかもしれない。何となく謎が解けた気分になり、陳さんには大いに感謝した。

 

またこの話を台湾人にしたところ、『包種茶はいかにも台湾らしい』と説明する。台湾は昔から中国大陸の産物を多く取り込み、そしてよいように改良してきた歴史がある。呼び名がなんというかは別にして、自然の花香をうまく出して、同時に花料代を節約したお茶、それが台湾包種茶ではないのか、と言われれば、そうかもしれない、と思ってしまう。小回りに利く台湾、現代でも電子部品産業などにその力を大いに発揮している。

 

陳さんが帰った頃に魏さんが現れ、久しぶりの再会。以前は彼が主催する紅茶の旅に何度か同行したので頻繁に会っていたが、その連載が終了したので、用事が無くなっていた。この1年で元泰にも大きな変化があり、単に茶葉を売るというビジネスモデルは難しくなってきたという。茶文化を如何に売っていくか、そしてそれを如何に広げていくか、これが一つの課題だ。喫茶部や土産物を売る店舗の閉鎖はその表れだ。やはり決断は早い。

 

昨日使わせてもらった図書室では何人もの社員が来て、準備が始まっている。数日後にこの図書室のお披露目式が開かれるというので、残念ながら式典に出られない私も人民中国や月刊茶など、執筆した雑誌を寄贈して飾ってもらった。因みに日本語の本も結構ある(例えば紅茶の磯淵先生は魏さんのお友達である)。

 

魏さんは出張明けで忙しそうだったので、皆さんで飲茶ランチをしたところで早々に失礼した。午後は部屋で勉強して、夜叉合流して、また四川料理屋で食事をした。余程手軽で人気なのだろう。もしこの店が日本にあれば味付けと言い、サービスと言い、日本で流行るかもしれない。

 

それからお茶を飲みに行く。昨年も訪ねた茶芸師林さんのお店。林さんが丁寧に淹れてくれるお茶は美味しく、心地よい。この空間は落ち着きがあって素晴らしく、また来たいお店の一つだ。だが彼女から『実はあなたがこの店に来るのは最後です』と言われてしまう。今月末でここから引っ越すのだとか。その理由を聞くと『このビルの持ち主、軍なんで』というではないか。

 

何と中央の指示で、今解放軍関連のサイドビジネス?は厳しく規制され、貸しビル業もご法度となったらしい。軍の腐敗に対する締め付けだ。しかも当局の指示だから、借り手の契約期限も守られず、違約金も払われない。何と理不尽なとは思うが、それについて異を唱える中国人は一人としていない。何かを訴えても無駄なことは誰にも分っており、そんな暇があったら、次に物件を探し、前を向いて進んでいく。こんなところに中国人の強さの一端を見る。

 

6年前に福州で一度会ったアメリカ人の夏先生ともここで再会する。彼はずっと福州におり、お茶の道を究めていき??最近では中国各地から老師としてお声がかかる存在になっている。魏さんの元泰でも顧問の一人となっている。楽しく、お茶を飲んで、茶談義をして夜が更けた。

福建茶旅2018(2)元泰茶業の図書室で勉強する

寒いので鄭さんと別れて、部屋に戻る。夜になり、それでも腹が減ったので、食事に出るが更に寒い。なぜかチャーハンが食べたくなり、探して食べる。福建のチャーハンと言えば、日本のチャーハンの源流かと勝手に思っているが、今日のチャーハンは如何にもの中国炒飯。まあそううまくはいかないが、悪くもない。

 

部屋に戻ると、午前中に会った李さんから微信が来ている。もう一時茶荘に来ないかという誘いだった。実は午前に訪問した際、台湾で作られた烏龍茶と包種茶に関する本を持参していた。著者は台湾では有名な林馥泉、彼は元々福建人だが、第二次大戦後に福建から台湾に渡った人で、福州でも茶業関係者には知られた存在だという。

 

その著書は1956年に書かれているが、福建では手に入らないらしい。実は李さんは確認したいことがあり、その本が見たいということだったのだ。まさかそれほど貴重な本だとは思っていなかったので、驚く。お蔭で更に李さんから教えを乞う機会を得られたのは幸いだった。

 

ただ昼間人に連れられて行ったお店に夜もう一度行こうとしたら、完全に道に迷ってしまった。これは昨今よくある傾向だが、本当に記憶力が低下しており、恥ずかしい。スマホの地図を駆使して何とか行き着き、夜遅くまでお茶を飲みながら話す。

 

4月16日(月)
元泰茶荘へ

翌朝は魏さんがまだ出張から戻っていないのに、元泰茶業へ行く。昨年までは喫茶部としてお店があり、基本はそこで会っていたが、既にその店は閉鎖され、元泰茶業は今年から新しいスタートを切っていた。オフィスのあるビルの25階へ行くと、以前とは雰囲気はがらりと変わり、展示物が増えている。空いた空間ではお茶を飲んでいる人々がいる。

 

更には図書室が一室に作られ、これまで収集されたお茶関係の本が相当沢山並んでいるのには驚いた。午前中はここで気になる本を取り出して読んで過ごす。包種茶ばかりでなく紅茶などにも興味深い指摘がある。また福建省各茶産地についても、もう少し回って勉強したくなる。ちょっと眺めているだけで、すぐに時間は経ってしまう。

 

昼ごはんの時間になると鄭さんが声を掛けてくれ、元泰の社員の皆さんとランチに出掛ける。辛い物は苦手な福建人が四川料理屋へ行くというのでちょっと驚いたが、そのレストランは大繁盛で席が空くまで少し待った。なぜ人気なのか、その秘密をすぐに分かった。サラダやフルーツ、ライスにスープは各自が好きなものを取るビュッフェ方式になっていて満足感がある。そして何よりも味がさほど辛くなくイケている!中国に来ると、本当に腹一杯食べて満足することがあるが、まさにそれだな。

 

食後、横にあった新華書店に寄ってみる。30年前、時々行った書店だが、その頃はどこにでもあるが冴えない感じだった。ところが今は違う。おしゃれな雰囲気で、座り込んで本を読んでいる学生までいる。荷物はロッカーに預けなければならないが、それも自動ロッカーになっている。残念ながらお目当てのお茶関連の本は見付からなかったが、良い勉強になった。

 

午後も又、図書室に戻り、精力的に福建の茶の歴史を調べていく。勿論すべてを読みつくすなど到底できないので、主要な部分をチェックして、後はカメラに収めておき、後日読むことにした。今後は福建や広東の茶産地を一つずつ回る旅、というのをやってみようかと思う。案外知られていない歴史が掘り出されるかもしれない。

 

夕方元泰を失礼して、少し街を歩く。昨年まであったビルが取り壊され、再開発されている。少し雨がぱらついても、夕方のラッシュ時、バイクと自転車が多過ぎて、交差点は人が渡るのは難しいほどだ。近くに定食屋があったのでフラフラと入ってしまう。量は相変わらず多いが、料金もセットメニューで20元前後。ちょっと前までは10元で簡単な飯にありつけたが、今はよほど探さないとそんなことにはなりそうもない。

 

宿への帰り道。フルーツを売る店が何軒か並んでいる。これも近年中国の大都市にはよくある光景、大資本が全国展開しているのかもしれない。その軒先には枇杷が沢山置かれている。ちょうど旬らしい。そういえばこの枇杷も福建から日本に運ばれたと聞いた記憶があるが、福州の名物だったか。いくつか買って帰り食べてみたが、まだちょっと青かった。

福建茶旅2018(1)福州で台湾茶の歴史を学ぶ

《福建茶旅2018》 2018年4月14日-23日

台湾茶の歴史を勉強していると分からないことが沢山出てくる。資料はなかなか見つからず、有効な答えに出会えないことも多い。先日の包種茶など、やはりどうしてもしっくりこない。こんな時は対岸の福建省、元々台湾茶の元祖である福建の茶の歴史に当たるべきではないかと思い、出掛けてみることにした。ついでに1月に沖縄で出た疑問、『ちんすこう』の歴史についても学んでみたい。

 

4月14日(土)
1. 福州
新しい宿

台北松山空港を飛び立った厦門航空は、順調に飛行した。LCCではないので食べ物は出たが、バナナとパンと水だけ。まあ1時間ちょっとのフライトだから国内線並みか。午後10時頃に福州空港に到着。イミグレも順調で、あっという間に外へ出た。意外と涼しい。すぐに市内に向かう空港バスを探す。ちょうどバスには1席だけ余裕があり、滑り込む。これは結構助かった。

 

もうこのルートも慣れており、夜の暗い街を走る間も寝入る。1時間弱でいつものアポロホテルに到着。そこでタクシーを拾い、今日の宿へ向かう。実は昨年まで、定宿としていた如家というホテルチェーン、ついに予約を断られてしまった。仕方なく、他に泊まれるところを探してもらったところ、意外と安い宿が見付かったというので、そこにしてみた。

 

もう真夜中の12時、道には車は殆ど走っていない。簡単に見つかるはずのその宿は、なぜか入り口が見当たらない。タクシーの運転手も2回回って、降りて探してくれ、と言って走り去ってしまう。探すと実に小さな入口があり、入っていくと『ああ、日本人の人ね』と予約があることが確認できる。

 

この宿、実はXX会館の宿泊部として登記したらしい。外国人が宿泊することを想定してライセンスを取得していたため、安い料金ながら合法的に泊れる場所となっていた。廊下の壁のペイントなどはかなり若者向け。部屋はこじんまりしており、特に何もないが、それが何となくよい。今やベッドとWi-Fiがあれば、どうにでもなる。入口の横には雑貨屋があり、夜中でも飲み物が買えた。有り難い。

 

4月15日(日)
茶の歴史を求めて

翌朝目覚めると、外は相当に寒かった。まるで冬のようだ。それほど厚手の服装を持っていないので、ちょっとまごつく。午前9時に魏さんのところの鄭さんが来てくれる。実は魏さん、急な出張が入り、私の方に日程の変更を求めてきたが、こちらも変更できない事情があり、福州に押しかけてしまった。そこで鄭さんが案内役に指名された訳で、日曜日に申し訳ないことだ。

 

外に出て朝ご飯を探す。福州名物?海蠣餅が目に入る。それにつられて中に入ると鍋辺糊がある。寒い朝にこれは抜群に良い。お客も満員で、皆熱々の物を食べている。なんでこんなに寒いんだろうか、そしてなんでこんなに美味いと感じるのだろう。

 

そこからちょっと歩いていくと、集合住宅がある。入って行くと、小さな事務所のような場所があった。そこは台湾人、李さんのお茶屋さんだったのだ。なぜここを訪ねたかというと、この李さんは、何と昨年亡くなった張天福先生の弟子で、先生を慕って台湾から20年ほど前に福州へ移住した人だったのだ。

 

彼なら台湾茶と福建茶の両方に詳しいだろうということで、その歴史を聞きに行く。彼は私が包種茶について質問すると、一つ一つ紙に書いて丁寧に説明してくれた。その説明を聞いていると、中国では定義が比較的はっきりしているのに、台湾では福建から渡って来た後、改良が重ねられ?定義が曖昧になっているように思えた。品種と商品名など、ちょっと複雑になってしまい、それが分かりにくくしているという印象も受けた。

 

ここで学んだ大きなポイントは、『台湾茶の歴史を台湾内だけで調べていても埒が明かないものがある』ということだ。やはり起源は中国大陸にあり、そこには正しいかどうかは別にして、文献や定説が存在する可能性がある。台湾の方が書かれたものが少ないのは残念ながら事実だ。

 

白茶などを頂きながら、2時間ほどお話しして失礼する。昼ご飯も暖かい物ということで牛肉麺を食べる。やはり中国に来ると牛肉麺は捨てがたい存在だ。そしてちょっと銀行に寄ろうとしたが、歩くと少しかかる。鄭さんが『シェアバイクで行こう』と言い出したのだが、私は北京で昨年シェアバイクを試し、その際保証金が返還されずにその会社が倒産した経験があって、今は使っていなかった。

 

だが鄭さんは『今は保証金なんていらないよ』というではないか。聞けば、芝麻信用なる個人の信用度をはかるものがあり、それが一定以上の点数だと、保証金は不要なのだとか。試しに私の信用度を見てみると、残念ながら保証金不要になるほどの信用度がなかったので諦めた。私は支払宝を数回しか使ったことがなく、芝麻信用に信用されるほどのユーザーではなかったらしい。結局二人で歩いて銀行を往復し、更には三坊七巷へ向かう。

 

そこでおしゃれない茶館に入る。観光地には最近はデザイン力もある、人の目を惹く茶館が本当に増えたと感じる。ただお茶を飲むのが目的ではなく、ここで著名なお茶研究者の温老師と待ち合わせていた。温老師は何冊もお茶関連の本を出している方で、お茶の歴史にも詳しかったので、色々と質問し、これまでの情報を踏まえて、全体を整理できてよかった。