厦門で歴史茶旅2018(3)厦門茶業のレジェンドと会う

11月22日(木)
厦門茶業のレジェンドと会う

厦門3日目。今日は昨日会った張理事長が、『安渓大坪の大先輩、レジェンドのところに連れて行ってあげる』というので、有り難くついて行くことにして、待ち合わせ場所の地下鉄駅まで歩いて行った。ところが到着直前になって、『急な用事が出来たので、一人で行って。場所は息子に電話して聞いて』というではないか。

 

仕方なく電話を掛け、ご自宅の住所を聞き、タクシーを拾って向かった。そこは海が見えるマンションで、環境がとても良かった。言われた部屋に行くと、1928年生まれ、90歳の張乃英さんが、暖かく迎えてくれた。大坪に生まれた張さんは、解放後厦門のお隣、樟州茶廠(厦門、安渓と並ぶ三大茶廠)に長年勤め、その製茶及び評茶技術は周囲に一目置かれる存在だった。

 

お名前からも分かる通り、安渓大坪で、あの台湾に鉄観音を持ち込んだと言われている張乃妙とは同郷、同族。乃妙の一族は今も大坪におり、かなり標高の高いところに家があるのだという。乃英氏の家とは2㎞ほどしか離れていないそうだ。戦争中、集美中学(厦門)が安渓に疎開してきたので、中学に行くことができた、これは日本のお陰だね、笑って話してくれる。その笑顔が実に穏やかだ。

 

1950年代初め、厦門に出てきて茶行で働いた経験もあるという。現在の鎮邦路付近に店があり、今もその建物は残っているかもしれないという。この辺りには往時、大茶商が沢山ビルを構えて店を出し、賑わっていたらしい。それも国営化の波で今やすべて消えてしまっている。

 

1989年に樟州茶廠を定年退職するまで、特に80年代に改革開放が始まると、多くの外国人がやって来た。その中には日本の松下先生もいたよ、という。またコンテストなども始まり、張天福先生と一緒に評茶した写真なども残っている。鉄観音茶が盛り上がったのもこの頃だった。ただ100年前鉄観音は既に大坪にもあり、その形状は半球形だったという。現在の安渓鉄観音茶の惨状を見過ごすことは出来ずに、2016年には個人で安渓政府に意見書を提出し、その結果、豆腐機の使用禁止など、改善策が示されたという。

 

乃英氏の息子は茶業に就かなかったが、父親のそばで色々と見聞きし、現在はその資料を整理しているようで、こちらも歴史にかなり詳しかった。2時間も話し込んだら昼時になり、ご自宅でご飯をご馳走になってしまう。食後も安渓産の水仙など珍しいお茶を淹れて頂き、大いにお話しを聞いた。乃英さんは終始元気だったが、実は半年前に同い年の奥様を亡くされたばかりだった。次回また再訪したい家だ。その機会はあるだろうか。

 

乃英家を失礼し、バスに乗ってバスターミナルへ向かう。そこから開元路に切り込むとレトロ感が溢れてくる。教えてもらった鎮邦路にも一部古い建物が残っていたが、そこが元の茶行かどうかは分らない。Y字路などがあり、道は面白いが、唯一洋行の名前が記された壁があったがそれだけしか発見できなかった。

 

更に歩くと水仙路に出た。この道には聞き覚えがある。先日バンコックで林奇苑という戦前の大茶商の名前を聞いたが、その厦門本店の場所が水仙路だったはずだ。だが現在の水仙路は非常に短い道で、しかも完全に開発されており、現代的な大きなビルが建つなど、往時の面影は全くない。残念ながら厦門で古い茶商を探すことは、国営化と再開発という二つの壁に大きく阻まれ、もはや不可能だと思われた。

 

そこから18年前に宿泊した鷺江賓館の前を通り、人が大勢いるフェリー乗り場からコロンス島を眺め、そのまま歩いて行くと人通りがなくなり、寂しくなる。ここに最初の港があったようだ。軌道の始発駅、第一码头駅まで辿り着き、それに乗って宿に帰る。さすがに歩き疲れて休養する。

 

すると、張理事長からまた微信が入ってくる。ミャンマー、ヤンゴンに本店があった張源美の厦門支店を管理していた末裔と連絡が付いたぞ、というビックリする内容だった。疲れも忘れて飛び出し、指定されたバス停に向かう。何とそこはバス停2つしか離れていなかった。こんな近いところにいたのか。

 

そこに張一帆さんが迎えに来てくれ、今はほぼ休業状態の茶荘をわざわざ開けて見せてくれた。何とそこには古い張源美茶行の看板が掛かっているではないか。私がヤンゴンにいる末裔に会ったというと張さんは驚いて『今は連絡も途絶えている』という。張源美が国営化された時代、張さんのお父さんが店を経営していたが、それ以前の話を聞いたことは一度もなかったという。

 

その理由は文革だった。資本家は打倒されるので、子供に類が及ばないように伏せていたらしい。そのお父さんは、そのまま厦門茶廠に務め、茶業界では有名な方だった。実は昨日厦門茶廠で『中国烏龍茶』という本をもらったが、それはこのお父さんが書いたものだったのだ。僅か3年前に亡くなったという。もしお父さんが生きていれば、今であれば詳しい話が聞けたかもしれない。張さん自身は90年代に茶業が儲かると聞いて、茶の輸出などはしていたが、今は引退の身だという。2000年代の鉄観音茶が緑化していく話などは参考になった。

厦門で歴史茶旅2018(2)茶業商会と厦門茶廠を訪ねて

11月21日(水)
茶業商会理事長を訪ねる

今回中国で使うシムカードは松山空港で購入してみた。中国国内のシムカードでは残念ながらFBやツイッターを見ることは出来ないが、長い期間連絡を絶つこともできないので、海外のシムカードを買うことになる。今回買ったシム、7日間で630台湾元だが、十分に使えた。電話は使えないが、これがあれば、中国内でもなんとかなるので有り難い。

 

そんなスマホを使って向かった先は、厦門茶業商会の張理事長。彼の茶荘は、地下鉄嘉禾路駅の近くにある。取り敢えず一番近い駅、斗西路口駅から軌道に乗り、地下鉄1号線の文灶駅に乗り換えようとした。ところが同じ名前の駅なのに、実はこの2つの線は全然繋がっていないことが判明。スマホで位置を確認して歩いて10分も掛けてようやく乗り継いだ。1年前に出来た地下鉄はとてもきれいだったが、空いていた。こんな不便があるからだろうか。

 

何とか嘉禾路駅に辿り着き、歩いて指定された茶荘まで来たが、まだ朝早く、店は閉まっていた。そこへちょうど今回の紹介者である郷土茶業史家の沈先生もやってきたので、電話してもらい、中へ入った。張理事長は茶商として、日本企業との付き合い(茶葉輸出)も多かったと言い、簡単な日本語を話したので驚いた。

 

長年厦門市茶商協会の理事などを務めていたが、お役所である協会に限界を感じ、2013年に茶業商会を設立したという。当然多くの茶商を知っているが、その資料は協会にも商会にも殆どないという。ただ張理事長もやはり安渓大坪出身であり、鉄観音茶の歴史、いや歴史的人物の紹介を受ける。これはとても有り難いことだった。また鉄観音茶は100年前からその形状はそれほど変わっていないこと、そしてそれほどには有名ではなかったことも教えてくれた。

 

張氏は茶商としてよりむしろ評茶師として有名だという意外な話もあった。そのため様々な茶が中国中から持ち込まれ、美味しい茶も手に入り易いらしい。ただ近年の中国茶全般についての評価はかなり厳しく、彼は厳選した茶だけを売るようになったらしい。お土産に雲南の高山紅茶をくれたが、何となく台湾的だった。

 

一度宿に戻る。乗り換えるのが面倒で、中山公園まで地下鉄で行き、そこから歩いた。また厦門にも古い街並みがそこここに残っている。腹が減ったので、沙茶麺を食べる。今では厦門中どこにでもある沙茶麺、私が入ったのはチェーン店で、器は紙で味気ない。値段はどんどん上がっている感じで、いくつかトッピングを加えると20元にもなってしまう。

 

午後は銀行に出掛けた。窓口でちょっと手続きをしたのだが、何と支付宝への入金の仕方を忘れてしまい、係員が親切に教えてくれた。実はその時、パスポートから書類を落としてしまっており、後で電話がかかってきて知らせてくれた。今や銀行窓口は比較的すいており、対応も親切になっている。

 

沈先生が午後のアポも取ってくれた。鉄観音茶輸出の歴史なら、輸出入公司に行くべきだと言い、私はバスで指定された場所へ向かった。そこは旧市街からは少し離れていたが、茶工場がまだ残っており、周囲に微かに茶の香りがした。元の国営厦門茶廠(移転後)がここだった。

 

今は中茶で統一され、その傘下となっている厦門茶廠。1954年に中国茶業公司の厦門事務所としてスタートし、その後周辺の茶廠、茶商を収容して国営化していく。実は先日ヤンゴンで訪ね当てた張源美という茶商もこの時、ここに併合されている。その後文革を経て、1979年に改組され、改革開放を歩んでいく。その頃に出てきたのが鉄観音茶だったともいえる。

 

オフィスではなく、その販売店舗で先生と待ち合わせた。そこへ日本向け輸出担当スタッフなどがやってきて、烏龍茶輸出の歴史を語り出す。特に1970年代の終わり、日本向け輸出が始まった頃の話、その後急速に輸出量が伸びていく辺りは、面白い。ただ烏龍茶ではあるが、鉄観音茶とは誰も言っていない。

 

1970年に製造された鉄観音茶が残っていた。水仙もある。さすが中茶だ。だが『こういうものは飲まない方がよい』と言われ、写真を撮るだけになった。80年代の茶缶も登場したが、鉄観音茶はその頃ようやく名前が売れ出したのだろう。安渓県政府が鉄観音茶のブランド化に尽力した話なども出てきていた。

 

最近は利益優先の企業集団として、様々な茶の開発に取り込んでいるという。今回飲ませてもらったのは、烏龍茶を後発酵させたブロック茶だった。この茶葉は口当たりも悪くなく、体にも良い、として、売り出す予定らしい。茶葉が大量に余り、売り先に困る昨今、企業は様々な工夫をしている。

 

バスで宿に戻り、そのすぐ横にある梅記に立ち寄る。ここには以前お世話になり、安渓西坪の工場にも2度お邪魔し、泊めて頂いていた。1875年に厦門に店を出した老舗であり、歴史調査でも重要なところの1つである。店長の王さんは若いが歴史に興味があり、今日も西坪出身の茶商の話をしてくれ、参考になった。

 

夕飯は近所の鴨肉屋でご馳走になったが、そこの燻製鴨肉は実に味が良かった。更にはかなりあっさりした鴨肉麺を食べながら、叉焼などを頬張ると幸せになれる。こういう食事が簡単に出来るのは実にありがたい。

厦門で歴史茶旅2018(1)心地よいお茶工作室

《厦門で歴史茶旅2018》  2018年11月20-24日

台湾滞在中に海外へ行く。以前バンコック滞在中はしょっちゅう出掛けていたが、台湾では東京との往復がもっぱら。ただ以前一度福建に入っており、今回も金門経由で厦門へ行くことにした。厦門行きの目的は、先日バンコック及びヤンゴンで見つけた茶商の末裔関連を調べること。そして懸案となっている鉄観音茶の歴史を大陸側でも掘り越すことだ。ちょっと大掛かりになってしまったが、さてどうなるのだろうか。

 

11月20日(火)
厦門まで

前回台北から厦門へ行った時、帰りに厦門のフェリーターミナルで『一条龍服務にしたら』と言われたことを思い出し、今回はそれを予約することにした。一条龍とは、ワンセットサービスのこと。台北-金門の往復航空券、金門内の移動及び荷物のトランスファー、そして金門-厦門の往復フェリーチケットが全て込みの料金でチケットが買える。いわゆる2001年に始まった小三通での特殊サービスだ。航空会社は立栄と遠東の2社。遠東の方が安いし、全く乗ったことがないので、遠東を選択する。

 

台北松山空港までは宿泊先から僅か5駅ですぐに着く。預け荷物は搭乗1時間前からしか受け付けないのでじっと待つ。10㎏までなので、かなりギリギリだが、何とかクリアーした。荷物検査を通ると後は搭乗するだけ。のはずだったが、なぜか搭乗口を間違えており、あわや乗り損なうところだった。最近のボケ具合は半端ない。

 

小型飛行機で1時間、金門に着く。遠東航空の乗り心地もサービスも分らないうちに到着だ。金門空港で指定カウンターへ行き、パスポートを預けて他の乗客を待つ。そして外に待つ専用バスに乗り込む。まずまずスムーズだ。しかしバスは真っすぐフェリーターミナルに向かわず、何と途中で停まる。

 

そこは金門名物の麺などを売る土産物店。遠東が提携しているのだろう。小さなお椀一杯の麺が無料で試食できたが、特に購入する人はいなかった。バスは物産セールスを行い時間調整したのだ。ターミナルにはフェリーが出る40分ぐらい前に着き、預けたパスポートで買われたフェリーチケットと弁当を受け取り、イミグレを抜けて、フェリーを待つ。その間にもらった弁当をかき込む。まさかここで弁当を食えるなんて、すごい流れ作業だ。

 

フェリーに乗れば30分で厦門に着く。着けばイミグレは簡単ですぐに入国できる。素晴らしいスピード。11時に台北を離陸して午後2時には厦門のターミナルを出る。これならダイレクトフライトを使わない訳だ。ただここから厦門の街に出る公共交通手段がないのは困ったものだ。

 

仕方なくタクシーに乗る。運ちゃんと話すと、今日はもう200㎞以上走ったのでこれで帰宅するという。決して景気が良い訳ではないが、ここには確実なタクシー需要がある。途中で渋滞に嵌るも、40分ぐらいで予約してもらったホテルに着いた。実は前回泊まったホテルがとても良かったのでまたお願いしたが、何と満員で別のホテルとなっていた。

 

工作室へ
早速厦門での行動を開始する。まずは先日ホーチミンで張さんに紹介してもらった王さんを訪ねることにした。住所を聞いたが、どうやら地下鉄などもなく、バスも難しそうなので、またタクシーに乗る。運ちゃんに住所を見せるも、住所ではよく分からないと言われ、取り敢えず近くまで行って見ることにした。

 

その通りまでは行けるのだが、番地は複雑で分かり難い。だが何とか探し当て、ビルに入り、その階に行って見たが誰もおらず鍵がかかっている。連絡してみるともうすぐ仲間が行くから、と言われ、ちょっと待っていると若者がやってきて中に入る。中はお茶の倉庫兼研究室のようで、本棚にはお茶関連の本がかなり置かれている。私が見たい内容の本が沢山あり、嬉しくなって思わず手に取る。

 

そこへ王さんと2-3人の仲間が入ってきて、賑やかになる。王さんは元新聞記者で数年前にそれを辞めて、今は茶文化の研究をしながら、執筆などを行っているという。その取材力があり、筆も確かで、お茶の歴史についても既に多くの関係者と会っており、その内容は微信で公開されていた。これを読めば私の今回の目的もある程度達成できそうな感じだ。

 

ただかなり忙しく、夜は予定があると言って別れた。この工作室、お茶好きが集まり、持ち寄った茶葉を試したり、お互いの知識を共有したりと、他日1日ここで勉強したいほど充実していた。若者たちが夕飯に連れて行ってくれ、一緒に食べた。それから仲間がやっているというオフィスへ向かう。

 

かなり新しい感じのビルで、その中に茶葉の包装などを作る会社があった。勿論お茶以外にも様々な包装が飾られていて面白い。これまで若者はIT企業に向かっていたが、ITビジネスも一段落。これからはこんなビジネスが流行るのだろうか。因みにここを起業した若者の参考書は日本で出版されたデザイン本だった。彼らはどんどん日本を吸収していく。

ある日の台北日記2018その3(12)孤独のグルメ、そして木柵のレジェンドに会う

11月17日(土)
茶展2日目

2日目の茶展、今日は昼前にゆっくりと出掛ける。ブースは一通り見たので、今日はイベントを中心に見ることにした。会場に着くといきなり4階に上がっていく。今日は土曜日なので、昨日より来場者がぐっと多い。コーヒー展の会場は先に進むのが難しいほど、人で溢れていた。

 

その人込みを掻き分けて向かったのは、なぜか茶飲料のブース。そこではトミーが茶飲料のセミナーを開催しており、人だかりが出来ていた。茶に関する普及活動、コーヒー党にも紹介していく姿勢は素晴らしい。ただあまりに会場が大きく、常にざわついており、そして人の流動性も高いので、かなり話しにくかっただろうと想像する。聞いてくれる人がどこに関心があるのかを測るもの難しく、こういうオープンスペースで話すのは私には無理だな、と一瞬で判断する。

 

1階に降りると、中央のスペースで、Aさんによる、日本の手もみ茶実演会が開催されており、こちらは座るスペースがあり、落ち着いた中、実際に手もみが行われ、参加者はその味を確かめ、茶葉を手で触り、色々と質問していた。日本茶への関心もどんどん高まっており、毎年行っているこのような交流には意味がある。実演スペースの直ぐ近いには、静岡県などが日本茶の宣伝販売に務めており、一定の関心を集めていた。

 

そうこうするうちに、Uさんがやって来た。彼は鹿谷での仕事を終え、台北に来ていたので合流した。葉さんのブースで挨拶していると、茶業改良場の黄さんもやってきて、皆で話し込む。そのまま黄さんの後ろについて、もう一度ブースを回ってみる。さすがに黄さんは業界の有名人であり、あちこちのブースから声が掛かり、挨拶を繰り返し、あるブースでは座って茶を飲む。

 

驚いたことに元台湾プロ野球の選手が、黒茶を売っていた。こういう出会いも、言われなければ分からない。Uさんもプロの視点から、様々な茶を試しており、そのトレンドを掴み、業務に生かすことに余念がない。私には見えない多くの物が、この二人には見えているのだろう。その後は一人になり、原住民の高山茶などを見て回る。

 

翌日の3日目は茶展に行くのをお休みして、厦門に行く準備をしていた。夜は許さんによる手もみのAさんたちの歓迎会に誘われたので、出席した。来年2月、許さんを団長に台湾茶業者20名が静岡を訪問し、手もみ茶の勉強をする予定だということで、その関係者が参加、沢山の料理が出てきて大いに盛り上がる。私は静岡の皆さんと交流を深めた。

 

11月19日(月)
アテンド

昨晩静岡から来ているNさんが『明日の最終日、お休みもらえたから、台北観光したい』と言われ、私がお付き合いすることになった。皆さん自主的に台北まで来て、日本茶の宣伝に努めている方々だから、大稲埕あたりのお茶の歴史を紹介したいと考えた。

 

ホテルは比較的大稲埕に近かったので、歩いていくことに。朝方は雨が降ったが、ちょうど止んだのが幸いし、涼しいお散歩となる。皆さん、3日間和服を着て、茶展会場で立ち仕事をしていたので、さぞやお疲れかと思っていたが、お茶農家などで鍛えておられ、歩くのは問題ないという。

 

観光客の多い迪化街を歩くと、乾物屋などから声がかかる。いつものお茶屋をちょっと見て、淡水河の景色を眺める。貴陽街の歴史を少し話したら、もうお昼だった。『どこか地元風の食堂に入りたい』と言われたが、ここは観光地だからどうだろうか。フラフラ歩いていると、如何にも昔からあるという小さな店の前に出た。夫婦が忙しそうに働いている。

 

何とその店は日本のテレビ番組『孤独のグルメ』に登場したと書かれている。私はこの番組を見たことがなかったが、名前は知っていた。少ない席に何とか座れたので、好奇心でここに入ってみた。よく見るとお客の半数以上は日本人で、台湾人はテイクアウトして持ち帰る人が多い。

 

メニューを見ると、普通の魯肉飯から『五郎セット』なるものまである。隣で食べている豆腐が旨そうなので注文し、下水湯(砂ぎもスープ)も頼んでみる。同行者は興味津々というより『大丈夫かしら』という眼差しを向けている。来客が多く、なかなか料理は来なかったが、お腹が空いていたので、普通に美味しく頂く。私はテレビで宣伝するような店に入ることはあまりないが、偶にはこういうのも良いかと勝手に思う。

 

まだ少し時間があったので、腹ごなしに歩いて、林華泰へ行って見た。この店に入るのは10年ぶりだろうか。雰囲気は変わらないが、ちょっときれいになったようだ。日本語を少し話す若い店員が、奥の工場を案内してくれた。以前は店に入っても、ちょっと怖い雰囲気があったが、今や観光客の取り込みに懸命な様子、変化を感じた。

 

会場の片付けに行くNさんたちと別れて、私は木柵に向かった。先日陳先生から紹介された張協興のお父さんに会うためだった。行って見ると、97歳のお父さんはずっと待っていてくれた。早速お話しを聞いたが、台湾語を話すので、孫に通訳を頼んだ。若い頃張乃妙と商売した話や80年前の鉄観音茶がどのような形だったとか、非常に参考になる生の情報が続出した。

 

その後、夕飯をご馳走になり、何とお父さんと二人で食べた。木柵のレジェンドは97歳とは思えない食欲を見せ、私にも食べ物を進める気づかいを見せた。言葉は通じないが、暖かい物を感じる。すごく元気だが、歩くときは介助者が付く。彼女はインドネシア人だが、何と国語も台湾語もある程度以上分かるからすごい。日本もこのような介護者を入れるべきだと強く感じる。

ある日の台北日記2018その3(11)南港茶展始まる

11月16日(金)
茶展始まる

本日より年に一度の台北茶展が南港で始まる。私は一昨年に一日だけ見学したことがあるが、今回は折角台北にいるので、がっつり見て回ろうとちょっと張り切る。初日の朝、茶葉アイスで出店する葉さん夫妻と共に8時台に家を出て、9時過ぎには南港展示場についてしまう。葉さん達は出店準備で忙しいので、私は一人、開場前のブースを見て回った。

 

10時に開場すると多くの人が飛び込んできた。平日だが、それなりに来場者はいるのだ。葉さんのアイスは無料で配られるので、すぐに行列ができ、皆が旨そうにアイスをパクつき始めた。彼らは食べている人々に話し掛け、アンケートを取り、今後の商品づくりに生かそうと懸命だ。普段は企業間取引しかしていない彼らにとって、この場は貴重な機会なのだと分かる。花蓮から手伝いに来た甥っ子がアイス配りで活躍している。

 

トミーから連絡が入った。開幕式は4階で行われるというので、一応皆で行って見ると、そこには、茶業改良場、台湾農林など見知った顔が沢山あった。この開幕式で最初に挨拶したのが製茶公会の陳理事長。実はこの展覧会は製茶公会が主催だと初めて知る。合わせてコーヒー、酒展も行われており、合同開幕式にはヨーロッパや南米の駐在大使なども出席しており、お茶だけの会より、かなり華やかだ。日本からは交流協会の人が参加していたが、残念ながら日本の影は薄かった。

 

台湾がこれまでどんな外交を行ってきたのか、確かに国交を結んでいる国は減少しているが、国交だけが交流ではない、ということをこの会では見せられた思いがする。コーヒーや酒を通じて、商売を通じて繋がっていく、それは双方にとっていい関係とも言え、単に経済支援を一方的に受けるのはちょっと違うように感じる。それでも色々と問題はあるのだろうが、何となく皆楽しそうなのが良い。

 

1階に戻り、トミー達とブースを一軒ずつ回り始める。これまで高山茶、包種茶、紅茶、緑茶などの茶旅でお世話になった人々が沢山出店しており、旧交を温める。トミー達と一緒だと、更に知り合いの輪も広がっていき、楽しく過ごせるのは良い。基本的に私はお茶を飲んだり、買ったりする人ではなく、茶の歴史を学ぶ人だから、お茶屋さんにとっては、不必要な人間、特にこのような場ではそう思われるに違いないので。

 

中には珍しいお茶屋もあった。煎じた茶を独特の器に入れて、茶筅でかき回してお茶を点てている。これは伝統的な茶を淹れる手法なのだろうか。興味は惹かれるが、歴史的にはよく分からない。茶業改良場と共同して製茶機械を開発した会社はその展示を行っていた。品質を落とさず、人力を機械に替えられれば、非常にいい話だ。

 

日本からも、茶道具を売る店が来ていた。今や日本の茶道具は台湾でも人気ではあるが、どれだけの人が関心を持って、実際に買っただろうか。京都からは、職人さんもやってきて、匠の技を実演しているところもあった。こういうのは、言葉を介さなくても、何となく見ていれば分かる部分もあるのでよいが、やっている方は大変だろう。

 

 

午後はちょっと4階のコーヒーの方を見学する。こちらは茶展の3倍以上の面積を使っており、規模が大きい。そして若い人が多く、ブースに立っている。来場者の数も圧倒的にこちらに集まっており、それも若者が多いように感じた。コーヒーブーム、その勢いをまざまざと感じさせられた。しかもコーヒーブースの種類も豊富でユニーク。お茶にはやはり華やかさがないな、と勝手に思ってしまう。

 

夕方、知り合いのYさんが会場に来たというので、合流する。彼女は中国語が出来ないが、ちゃんと日本語のできる台湾男子を確保して、自分の好きなブースを歩き回っていた。この台湾男子は、有機栽培などに相当のこだわりがあり、それを売り物している店を歩いては、色々と質問を重ねている。とても熱心でよいとは思うのだが、どうも私は『有機』『オーガニック』への過度なこだわりにはついて行けない。いずれこの方面は市場が崩壊する?いや茶業全体が衰退か。

 

夜は製茶公会が開いた宴会に出席する。トミーの車で南港から中山北路に向かったが、さすがの大渋滞で、茶展参加者は軒並み遅れる。その中で、地下鉄で来た人々が早くも、ビールを飲み盛り上がっていた。日本からも輸出協会に人々が参加、このような関係が続くことは悪くない。久しぶりの北京ダックも美味しく頂く。今日は偶然にも陳理事長の誕生日で、ケーキも運ばれ、また盛り上がる。台湾茶業関係者ともお近づきになれ、有り難い宴席となった。

ある日の台北日記2018その3(10)なぜ茶の歴史なんか?

11月15日(木)
疑問を胸に

現在の宿泊先の近くに陳先生の店があるので、偶に訪ねて行く時がある。今回は先日大稲埕の福記茶荘で、お母さんから『確か義父、王泰友は陳さんと一緒に木柵へ行っていたから、鉄観音茶の歴史のことなら、陳さんに聞いてみたらどうか』と言われたので、聞きに行くことになった。

 

平日の午後は、さすがにお客もなくちょうどよい。福記の話をいきなり持ち出すと『それは勘違いだ。確かに一度茶工場で会ったことはあるが、一緒に行ったという記憶はない』と言われてしまう。それでも私が困った顔をしていると、優しい陳さんは『鉄観音茶の歴史だろう、それなら張協興に行け』と言ってくれた。

 

だがすでに張協興には何度か行っていると告げると、『先代のお爺さんには会ったのか』と言われ、思わずノーと答える。すると先生、すぐに電話を取り出し、どこかへ掛けて台湾語で話している。そして『お爺さん、97歳だけど頭ははっきりしていると家族は言っているから訪ねてみたら』との有り難いアドバイスを頂戴する。

 

それよりさ、と言って陳先生が持ち出してきたのが、何と先日我々が石門で見た巡回教師の任命書の写真だったので、驚いた。この問題は鉄観音茶ではなく、包種茶の歴史に大きく関わるものだ。そして陳先生と私は全く同じ疑問を持っており、それを解決する手段はないか、探していることに気が付いてまたびっくり。

 

更には高山茶の歴史についても、『80年代、高山茶は本当に売れなかったよ。何しろ福壽山農場に3年間、茶作りに行って、その茶を売った自分が言うんだから間違いがない。今でもどうしてあれに人気が出たのか、と思ってしまうことがあるよ』と思い出を語られ、なるほどと頷く。

 

最後に先生から『なんで歴史なんかやっているんだ、歴史は突っ込みどころが多過ぎて、本に書いても問題多過ぎだぞ』と窘められる。確かに現在共通に抱えている問題点を何とか証明(これまで言われてきたことはは間違いだと証明)したとしても、『では真実はどこにあるのだ』と突っ込まれると答えに窮してしまうのだ。

 

そこへ突然2人連れの客が入って来た。既に連絡があったらしく、素早く顧客対応に切り替える。さすがお茶屋だ。この二人、深圳から来た中国人で、IT関連の企業経営者、誰からの紹介で茶葉を買いに来たという。ほんの一口飲んで、『これ旨いから6斤買うよ。それともっと安いやつも土産に配るから6斤ね』というではないか。

 

正直ここの高山茶はそんなに安くない。それを殆ど試飲もしないで、数キロ単位で買っていくとはすごい。微信で支払いたいというのは如何にも中国人らしいが、この店では扱っていない。彼はすぐに外へ出て、セブンイレブンのATMで台湾元のキャッシュを下ろしてきて、どさっと札を置いて支払いを行い、あっという間に去って行った。日本にも何度も仕事と旅行で行っているとか。

 

こういう客がいるとお茶屋は楽だな、と思ってしまう。と同時に、台湾の茶荘から見て、何種類もの茶を試飲して、ああでもない、こうでもないと言いながら、結局2時間もかけて4両(150g)しか買わない日本人客など、客の内には入らないだろう。それでも我慢強く付き合ってくれている内に、もう少し買い手も考えないといけないな、と痛感させられる出来事だった。まあ、私のように、ハナから商売にもならない人間だと認識されれば、それはそれでよいのだろうか。

 

モヤモヤしながら陳先生と別れる。もう夕方なので、ちょっと早いが夕飯を探す。前から気になっていた、牛雑湯の店に行って見ることにした。どうも私は内臓系が好きで、あればそれを頼んでしまう癖がある。今日は頭もモヤモヤしているので、思い切って、牛雑湯と炒牛雑という、究極の組み合わせを選択する。

 

ここのスープが、またあっさりしながら牛雑の味を出していてイケる。更に濃い目の味付けの牛雑炒めが来ると、幸せな気分になれる。絶妙なタイミングで『白飯いるだろう』と声が掛かると嬉しくなってしまう。人間は幸せだと思える時間を持つことが大切だ、としみじみ感じる。また元気が必要な時には食べに来よう。

ある日の台北日記2018その3(9)暖かい鍋、そして日本語で

11月13日(火)
寒いので鍋

11月の台北はこんなに寒かっただろうか、という日が続いていた。まさかそんなに寒いとは思わず、服も半数以上は半そでだし、ズボンも薄手の物しか持ってきていなかった。まあ2-3日の辛抱かと待ってみたが、一時的に気温が上がっても、体感温度としてはそれほど暖かく感じない。それって、歳をとったからなのだろうか。どうしたらよいのかよく分からない。

 

とにかく食べ物も暖かい物がよいし、飲み物も冷たい物は避けてきた。昼ご飯などは、暖かそうな大根スープの店に入ってしまう。またこの大根の暖かさが沁みるんだな。ついでに内臓系や脂身の肉を頼み、魯肉飯をかっ込むと、かなり寒さは改善される。小雨が降ったり、風が強いと本当に台北は寒い。適度に暖かい埔里が恋しくなる。

 

旧知のSさんとご飯を食べに行くことになり、いつもは『何でもいいです、好きなところを選んでください』というのだが、今日に限っては、『寒いので鍋が食べたい』と言ってしまう。するとSさんから様々な鍋屋の紹介文が送られてきて驚く。羊鍋、麻辛鍋から日本の寄せ鍋など、今や台北にはあらゆる鍋料理が揃っているように見えた。

 

ただ2人で食べるには量的な問題もあり、最終的に日式鍋物屋が選ばれる。行ったことがないので、中山近くのその店に興味津々で入ってみた。かなりきれいな店内で、2人用の席は向かい合うのではなく並びで仕切られている。これでSさんとデート状態になる。隣を見ると何と一人用席までちゃんと仕切られているが、何となくこれは味気ないのでは、と思えてしまう。

 

セットメニューが数種類あり、肉や魚を選べばよいので簡単。基本的には一人鍋なのでお互い好きな物を頼む。すぐに野菜や練り物などがやってきて、タレは自分で作るスタイルだからシンプルだ。寒い日に簡単に一人でも暖まれるというコンセプトだろうか。料金もさほど高くないので、フラッと入り易い。

 

その後はSさんがよく行くというカフェに場所を移して、話し続ける。このカフェ、地下にあり、意外と広い。カップルなどがお茶飲みながら話し込んでいる。そう、台北には様々なカフェが怒涛のように増えてきているが、お客さんは何を基準にカフェを選ぶのだろうか。料金ではなさそうだが、ここのカフェラテはかなり安いので、入り易いのかもしれない。帰りにいまだに中に入ったことがない誠品生活の建物を眺める。もう三越の次代は終わりなのだろうか。

 

11月14日(水)
中国大陸の思い出を聞く

本日も黄さんにお世話になり、王添灯氏関連のヒアリングを続ける。指定された場所は二二八紀念館。最初にここを訪れ、黄さんと出会い、そこから多くのことが広がっていき、今日がある。既に思い出の場所と言ってもよいかもしれない。今日は比較的暖かく、公園を散歩している人も多い。紀念館の前では、社会科見学の学生が記念写真を撮っている。このような歴史は必ず子供たちに教えて行かなければならない。

 

今回お会いするのは、王添灯氏の弟、進益氏の息子さん。進益氏は日本に留学後、文山茶行の新市場開拓の任を担い、大連・天津の支店を任された人。光復後台湾に戻り、茶商公会に長年勤め、その発展に尽力したと聞いている。104歳まで生きられ、90歳を過ぎても公会にバイクでやってきたという長寿、健康な方だったようだ。

 

その息子さんは台湾で生まれたがゼロ歳で大連に渡り、13歳の終戦まで大連で過している。85歳の今でも、日本語は極めて流ちょうで、黄さんたちも話が聞きたかっただろうが、私が日本人だということで、ほぼすべての話を日本語で披露してくれた。大連の小学校、住んでいた場所、その頃の様子を非常に明確に覚えているのが凄い。

 

更には終戦で天津に移り住んだが、そこの住所、付近の建物など、目印がどんどん出てきて面白い。私は子供頃に住んだ場所をこんなにはっきりと言えるだろうか。とにかくお話しを聞いているうちに、天津・大連に行って見たいという気持ちになって来て、ついには行くことにしてしまった。勿論王さんたちが住んだ場所や店舗は、今やある訳もないのだが、それでも『満州や華北に住んだ台湾人』というテーマは実に新鮮で、そして謎も深い。

 

黄さんたちは、貴重な話を収録しようとビデオ撮影までセットしていたが、内容が日本語になってしまい、大変申し訳なかった。ただ王さんが『あんた日本人だろう、僕は台湾人だ。北京語で話はおかしいよね』と言ったことが、心に刺さっている。もし私が台湾語を話していれば、問題はなかったのだろうが、大連で満州語を十分に学び、北京語が流ちょうに話せるはずの王さんが、日本語を選んだのは私のためばかりではないようだ。

 

最後に王さんは『今日稀勢の里が負けたらどうなるんだ、大変だよ』と日本の大相撲を欠かさず見ていると言って帰っていった。何だかとても久しぶりにこのような台湾世代に会ったのが嬉しい。

ある日の台北日記2018その3(8)昔の台北を思い出す

11月10日(土)
台北ふらふら

台中から戻った翌日、ちょっと疲れはあったが、タイから観光に来た知り合いと会った。場所はトミーの台北拠点。土曜日なのに、トミー姉に開けてもらい、1時間ほどお茶を飲ませてもらった。こういう場所があるととてもありがたいし、台湾茶の基礎を知る上でも大いに役に立つ。

 

そのまま近くのレストランへ飛び込みランチ。昼間に来るのは初めてだったが、既に店内は満員の盛況。だが向かいの姉妹店に何とか席を作ってもらい、ご飯にありつく。土曜日の昼間、家族連れが賑やかにご飯を食べている。観光客はほぼ見られない。名物の蒸し鶏や美味しいチャーハンなど注文し、堪能。幸せな気分に一人浸る。

 

そこからタクシーに乗り、大稲埕へ向かう。今や私の庭?と化した大稲埕。新芳春の博物館をさっと見学してから、有記銘茶へ進む。バンコックでも王有記の店(親戚)を訪ねていていたので、是非行って見ようということで出掛ける。奥の焙煎室も見学し、お茶も買ってご満悦。次に行く厦門にこのお茶を持っていってみようと思う。

 

それから今話題の場所へ行きたいというのでレトロなスターバックスを探して入る。店舗自体は前を通ったことがあったが、かなりごっつい建築。そして実際に喫茶する場所は2階と3階で、その階段はレトロだ。ほぼ満席で席を確保するのに苦労した。こんなところがあるとは全く知らなかった。やはりたまには観光客目線で旅をしないと、知らないことだらけとなってしまう。

 

スタバでゆっくり休んでから、また歩き出す。大稲埕の昔の茶商街である貴徳街に行こうと思っていたが、ちょうど淡水河の夕日が見られそうだったので、河辺に行く。大勢の人がカメラを構えてその瞬間を撮ろうと集まっていた。思ったよりずっときれいな夕暮れの風景がそこに現れ、驚いた。ここも茶葉を出荷する港としてしか見て来なかったが、こんな風景があるなら、これからたまには夕方に来よう。

 

既に暗くなる中、貴徳街を軽く散策。何となく夕飯の時間になったので、近くの四川料理屋でご飯を食べる。いわゆる中華料理に慣れていない2人と一緒なので、かなり基本的なものを頼む。日本にある中華料理はやはり日本の料理であり、同じ名前でも入っている物から味わいまで、かなり異なっていると言える。美味しいものを頼めるようになるといいな、と思う。

 

11月12日(月)
昔を思い出す

今日は先日も会った黄さんからお誘いがあり、現在調べている王添灯氏の娘さんの家にお邪魔した。二二八事件で父親が連行された時、まだ小学生だったという。そしてその後の苦難の人生の一部をお話頂き、大変参考になった。二二八の犠牲者は当人だけではなく、その家族の人生にも重大な影響をもたらしており、今でこそ話も聞けるが数十年の間、皆が封印して生きてきたことを改めて知る。

 

またご主人の張さんは優秀な成績で大学に入りながら、白色テロの犠牲となり、7年間も投獄されていたという。当時の友人と一緒に写っている写真を見せられたが、張さん以外は全員死刑か行方不明だという惨劇。当時の国民党が一体どんなことをしていたのか、大変興味深いお話しを聞くことができた。

 

張さんの日本語は完璧で、英語も流暢。日本企業で長く勤めていたという。最初は出国もままならなかったが、最終的にアメリカに渡り、子供も孫も皆アメリカで暮らしている。2000年代に入り台湾に戻ってきたが、90歳近い今でも、会社を経営しており、その気力、精神力は凄いとしか言いようがない。

 

1990年以前の台湾の緊張感、今や昔のこととなり、その雰囲気は分からなくなってしまっているが、それを思い出せてくれるよい機会となった。確かに80年代でも戒厳令が敷かれていたが、それでも夜中の12時過ぎても皆が外出し、呑み屋は繁盛していた記憶がある。日本語禁止と言いながら、街中に日本語が溢れ、おる年代以上の多く人が日本語を話し、かなり形骸化されていたと思う。

 

だが日本語で昔話をする時に、どうしても周囲を見回してしまう老人、個室に入って2人きりでしか日本統治時代の話をしない企業人など、最初はよく理解できない光景を何度も目にしていた。中には『こんな話をしていると特高が来るんだ』と真顔でいう人もいた。今では笑い話のようだが、当時は光復後に台湾人を襲った横暴、悲劇を皆が抱えており、あまり油断はできない、という雰囲気があったものだった。特に一族が何らかの災難に遭い、目を付けられていると認識していた人はそうだっただろうと今にして思う。

ある日の台北日記2018その3(7)杉林渓へ

台中を出て、竹山方面へ向かった。これは慣れた道、1時間もかからずに竹山に着く。今日は杉林渓に行くのではなかったのか、と思ったが、車は竹山の茶荘に入っていく。何とここに、杉林渓で3番目ぐらいに茶業を始めた人が待っていてくれた。彼から一通り杉林渓の歴史を聞く。

 

やはり杉林渓の高山茶は少し後に始められていた。鹿谷の凍頂烏龍茶が全盛期にわざわざ高山茶を売りだす必要はなかったようだ。だが時は流れて高山茶がブームになると、杉林渓に茶を植えて、製茶は鹿谷で行う人が増えてくる。最初はほんの小さな茶畑が杉林渓と呼ばれたが、今ではかなり広範囲になっているという。

 

奥さんが淹れてくれたお茶を飲みながら話を聞く。実はこの奥さん、茶の世界では有名な方だという。この茶荘も独特で、何だか骨董品屋かと思うほど、色々な茶道具などが置かれている。しかもよく見ると、日本の物が非常に多い。茶道の道具などの収集家のようだ。日本にも何度も行っているという。ふと置かれていたいた建水、その昔爺さんが煙草盆の代わりに使っていた物にとても良く似ていて驚いた。

 

一通り話しを聞き終え、店を出た。杉林渓については、他の高山茶産地に追加するような歴史はあまり見られないことが分かる。だが何しろ一度もきちんと茶畑を見ていなかったので、1時間かけて山を登ることにした。ただその前に腹ごしらえ。昼ご飯は、トミーの知り合いがやっているレストランで食べることになる。

 

そのレストラン、ちょっとおしゃれ。そして食事の内容が、魚の煮込みや唐揚げなど、かなり和のテイストが入っており驚くほど、ウマい。オーナーは奥さんで、常に料理を研究しており、体に優しく、美味しい物を作り続けているという。台湾ではこんな地方にもこのような店がどんどん増えていると感じる。

 

この日もランチタイムのお店は満員の盛況、今や台北などへ行かなくても、いいものが食べられる時代なのだろう。因みにこの店の横には、茶の包装材などで有名な会社の本社+倉庫が建設中であり、今後はお茶好きの日本人などが立ち寄ることもあるかもしれない。そんな時はここでご飯を食べるのもいいかな、と思う。

 

それから車は山登りを始めた。懐かしい鹿谷を一気に駆け上がり、更に進んでいく。渓頭のホテルには一度来たことがあったが、そこから先は未知の世界。子供たちが干支にちなんだ絵を描いて、それが看板になっているのは面白い。何度カーブを曲がったことだろう。1時間ほどで杉林渓に着いた。

 

かなりの傾斜のある場所に茶樹が植えられている。茶工場もいくつか目に入ってくる。ちょうど天気が曇りとなり、高山の雰囲気が出てきていた。茶摘みをしている人々も、その作業を止め、次々に摘み取った茶葉を渡して、トラックの荷台に収容されていく。茶摘みのために下から上がってきた女性達だ。平均年齢は高そうだった。

 

それにしてもかなりの急斜面。先ほど聞いた話では、茶業が始まった頃、傾斜度30度以上の場所には茶樹を植えてはいけない、というルールがあったと聞いた気がするが、標高約1700m、ここの傾斜はどのくらいなのだろうか。ボーっとそんなことを考えていると、雨が降り出し、すぐに退散となった。

 

車は鹿谷に向けて降りて行く。山から直接竹山に降りる道もあったが、もう一軒寄り道するらしい。街道から離れ、ちょっと分り難い道を行くと、いきなり茶工場が見えてきた。その付近には少しだけ茶畑も残っている。工場には摘まれた茶葉が持ち込まれ、先進的な機械で、室内萎凋が始まっていた。

 

連山というこちらの茶農家では、1960年代から茶作りをしており、ずっと凍頂烏龍茶を作って来たというので、凍頂烏龍茶の歴史をじっくりと聞いていた。天仁などとのかかわりも出てきて面白い。伝統的な凍頂烏龍茶の味を守ってきており、2000年代に入るまで、高山茶には手を出さなかったが、最近は杉林渓高山茶も作るようになっている。

 

実は朝台中で訪ねた茶屋は、ここの娘さんが開業したもので、消費者のニーズなども考慮しているようだ。近年茶農家は減る傾向にあるが、茶畑は増えていくようで、ちょっと危機感がある様子だった。陽が沈む中、茶の香りがしている中、ここを後にして、一路台中に向かう。

 

高鐵台中駅まで送ってもらい、夕飯を一緒に食べようというトミーの誘いを断り、高鐵に乗ろうとしたが、金曜日の退勤後ということか、1時間先まで指定席が取れず、立って帰るのも何なので、丸亀製麺で一人夕飯を食べてから列車に乗る。何となく疲れたなと思ったら台北に着いた。