ある日の台北日記2018その3(11)南港茶展始まる

11月16日(金)
茶展始まる

本日より年に一度の台北茶展が南港で始まる。私は一昨年に一日だけ見学したことがあるが、今回は折角台北にいるので、がっつり見て回ろうとちょっと張り切る。初日の朝、茶葉アイスで出店する葉さん夫妻と共に8時台に家を出て、9時過ぎには南港展示場についてしまう。葉さん達は出店準備で忙しいので、私は一人、開場前のブースを見て回った。

 

10時に開場すると多くの人が飛び込んできた。平日だが、それなりに来場者はいるのだ。葉さんのアイスは無料で配られるので、すぐに行列ができ、皆が旨そうにアイスをパクつき始めた。彼らは食べている人々に話し掛け、アンケートを取り、今後の商品づくりに生かそうと懸命だ。普段は企業間取引しかしていない彼らにとって、この場は貴重な機会なのだと分かる。花蓮から手伝いに来た甥っ子がアイス配りで活躍している。

 

トミーから連絡が入った。開幕式は4階で行われるというので、一応皆で行って見ると、そこには、茶業改良場、台湾農林など見知った顔が沢山あった。この開幕式で最初に挨拶したのが製茶公会の陳理事長。実はこの展覧会は製茶公会が主催だと初めて知る。合わせてコーヒー、酒展も行われており、合同開幕式にはヨーロッパや南米の駐在大使なども出席しており、お茶だけの会より、かなり華やかだ。日本からは交流協会の人が参加していたが、残念ながら日本の影は薄かった。

 

台湾がこれまでどんな外交を行ってきたのか、確かに国交を結んでいる国は減少しているが、国交だけが交流ではない、ということをこの会では見せられた思いがする。コーヒーや酒を通じて、商売を通じて繋がっていく、それは双方にとっていい関係とも言え、単に経済支援を一方的に受けるのはちょっと違うように感じる。それでも色々と問題はあるのだろうが、何となく皆楽しそうなのが良い。

 

1階に戻り、トミー達とブースを一軒ずつ回り始める。これまで高山茶、包種茶、紅茶、緑茶などの茶旅でお世話になった人々が沢山出店しており、旧交を温める。トミー達と一緒だと、更に知り合いの輪も広がっていき、楽しく過ごせるのは良い。基本的に私はお茶を飲んだり、買ったりする人ではなく、茶の歴史を学ぶ人だから、お茶屋さんにとっては、不必要な人間、特にこのような場ではそう思われるに違いないので。

 

中には珍しいお茶屋もあった。煎じた茶を独特の器に入れて、茶筅でかき回してお茶を点てている。これは伝統的な茶を淹れる手法なのだろうか。興味は惹かれるが、歴史的にはよく分からない。茶業改良場と共同して製茶機械を開発した会社はその展示を行っていた。品質を落とさず、人力を機械に替えられれば、非常にいい話だ。

 

日本からも、茶道具を売る店が来ていた。今や日本の茶道具は台湾でも人気ではあるが、どれだけの人が関心を持って、実際に買っただろうか。京都からは、職人さんもやってきて、匠の技を実演しているところもあった。こういうのは、言葉を介さなくても、何となく見ていれば分かる部分もあるのでよいが、やっている方は大変だろう。

 

 

午後はちょっと4階のコーヒーの方を見学する。こちらは茶展の3倍以上の面積を使っており、規模が大きい。そして若い人が多く、ブースに立っている。来場者の数も圧倒的にこちらに集まっており、それも若者が多いように感じた。コーヒーブーム、その勢いをまざまざと感じさせられた。しかもコーヒーブースの種類も豊富でユニーク。お茶にはやはり華やかさがないな、と勝手に思ってしまう。

 

夕方、知り合いのYさんが会場に来たというので、合流する。彼女は中国語が出来ないが、ちゃんと日本語のできる台湾男子を確保して、自分の好きなブースを歩き回っていた。この台湾男子は、有機栽培などに相当のこだわりがあり、それを売り物している店を歩いては、色々と質問を重ねている。とても熱心でよいとは思うのだが、どうも私は『有機』『オーガニック』への過度なこだわりにはついて行けない。いずれこの方面は市場が崩壊する?いや茶業全体が衰退か。

 

夜は製茶公会が開いた宴会に出席する。トミーの車で南港から中山北路に向かったが、さすがの大渋滞で、茶展参加者は軒並み遅れる。その中で、地下鉄で来た人々が早くも、ビールを飲み盛り上がっていた。日本からも輸出協会に人々が参加、このような関係が続くことは悪くない。久しぶりの北京ダックも美味しく頂く。今日は偶然にも陳理事長の誕生日で、ケーキも運ばれ、また盛り上がる。台湾茶業関係者ともお近づきになれ、有り難い宴席となった。

ある日の台北日記2018その3(10)なぜ茶の歴史なんか?

11月15日(木)
疑問を胸に

現在の宿泊先の近くに陳先生の店があるので、偶に訪ねて行く時がある。今回は先日大稲埕の福記茶荘で、お母さんから『確か義父、王泰友は陳さんと一緒に木柵へ行っていたから、鉄観音茶の歴史のことなら、陳さんに聞いてみたらどうか』と言われたので、聞きに行くことになった。

 

平日の午後は、さすがにお客もなくちょうどよい。福記の話をいきなり持ち出すと『それは勘違いだ。確かに一度茶工場で会ったことはあるが、一緒に行ったという記憶はない』と言われてしまう。それでも私が困った顔をしていると、優しい陳さんは『鉄観音茶の歴史だろう、それなら張協興に行け』と言ってくれた。

 

だがすでに張協興には何度か行っていると告げると、『先代のお爺さんには会ったのか』と言われ、思わずノーと答える。すると先生、すぐに電話を取り出し、どこかへ掛けて台湾語で話している。そして『お爺さん、97歳だけど頭ははっきりしていると家族は言っているから訪ねてみたら』との有り難いアドバイスを頂戴する。

 

それよりさ、と言って陳先生が持ち出してきたのが、何と先日我々が石門で見た巡回教師の任命書の写真だったので、驚いた。この問題は鉄観音茶ではなく、包種茶の歴史に大きく関わるものだ。そして陳先生と私は全く同じ疑問を持っており、それを解決する手段はないか、探していることに気が付いてまたびっくり。

 

更には高山茶の歴史についても、『80年代、高山茶は本当に売れなかったよ。何しろ福壽山農場に3年間、茶作りに行って、その茶を売った自分が言うんだから間違いがない。今でもどうしてあれに人気が出たのか、と思ってしまうことがあるよ』と思い出を語られ、なるほどと頷く。

 

最後に先生から『なんで歴史なんかやっているんだ、歴史は突っ込みどころが多過ぎて、本に書いても問題多過ぎだぞ』と窘められる。確かに現在共通に抱えている問題点を何とか証明(これまで言われてきたことはは間違いだと証明)したとしても、『では真実はどこにあるのだ』と突っ込まれると答えに窮してしまうのだ。

 

そこへ突然2人連れの客が入って来た。既に連絡があったらしく、素早く顧客対応に切り替える。さすがお茶屋だ。この二人、深圳から来た中国人で、IT関連の企業経営者、誰からの紹介で茶葉を買いに来たという。ほんの一口飲んで、『これ旨いから6斤買うよ。それともっと安いやつも土産に配るから6斤ね』というではないか。

 

正直ここの高山茶はそんなに安くない。それを殆ど試飲もしないで、数キロ単位で買っていくとはすごい。微信で支払いたいというのは如何にも中国人らしいが、この店では扱っていない。彼はすぐに外へ出て、セブンイレブンのATMで台湾元のキャッシュを下ろしてきて、どさっと札を置いて支払いを行い、あっという間に去って行った。日本にも何度も仕事と旅行で行っているとか。

 

こういう客がいるとお茶屋は楽だな、と思ってしまう。と同時に、台湾の茶荘から見て、何種類もの茶を試飲して、ああでもない、こうでもないと言いながら、結局2時間もかけて4両(150g)しか買わない日本人客など、客の内には入らないだろう。それでも我慢強く付き合ってくれている内に、もう少し買い手も考えないといけないな、と痛感させられる出来事だった。まあ、私のように、ハナから商売にもならない人間だと認識されれば、それはそれでよいのだろうか。

 

モヤモヤしながら陳先生と別れる。もう夕方なので、ちょっと早いが夕飯を探す。前から気になっていた、牛雑湯の店に行って見ることにした。どうも私は内臓系が好きで、あればそれを頼んでしまう癖がある。今日は頭もモヤモヤしているので、思い切って、牛雑湯と炒牛雑という、究極の組み合わせを選択する。

 

ここのスープが、またあっさりしながら牛雑の味を出していてイケる。更に濃い目の味付けの牛雑炒めが来ると、幸せな気分になれる。絶妙なタイミングで『白飯いるだろう』と声が掛かると嬉しくなってしまう。人間は幸せだと思える時間を持つことが大切だ、としみじみ感じる。また元気が必要な時には食べに来よう。

ある日の台北日記2018その3(9)暖かい鍋、そして日本語で

11月13日(火)
寒いので鍋

11月の台北はこんなに寒かっただろうか、という日が続いていた。まさかそんなに寒いとは思わず、服も半数以上は半そでだし、ズボンも薄手の物しか持ってきていなかった。まあ2-3日の辛抱かと待ってみたが、一時的に気温が上がっても、体感温度としてはそれほど暖かく感じない。それって、歳をとったからなのだろうか。どうしたらよいのかよく分からない。

 

とにかく食べ物も暖かい物がよいし、飲み物も冷たい物は避けてきた。昼ご飯などは、暖かそうな大根スープの店に入ってしまう。またこの大根の暖かさが沁みるんだな。ついでに内臓系や脂身の肉を頼み、魯肉飯をかっ込むと、かなり寒さは改善される。小雨が降ったり、風が強いと本当に台北は寒い。適度に暖かい埔里が恋しくなる。

 

旧知のSさんとご飯を食べに行くことになり、いつもは『何でもいいです、好きなところを選んでください』というのだが、今日に限っては、『寒いので鍋が食べたい』と言ってしまう。するとSさんから様々な鍋屋の紹介文が送られてきて驚く。羊鍋、麻辛鍋から日本の寄せ鍋など、今や台北にはあらゆる鍋料理が揃っているように見えた。

 

ただ2人で食べるには量的な問題もあり、最終的に日式鍋物屋が選ばれる。行ったことがないので、中山近くのその店に興味津々で入ってみた。かなりきれいな店内で、2人用の席は向かい合うのではなく並びで仕切られている。これでSさんとデート状態になる。隣を見ると何と一人用席までちゃんと仕切られているが、何となくこれは味気ないのでは、と思えてしまう。

 

セットメニューが数種類あり、肉や魚を選べばよいので簡単。基本的には一人鍋なのでお互い好きな物を頼む。すぐに野菜や練り物などがやってきて、タレは自分で作るスタイルだからシンプルだ。寒い日に簡単に一人でも暖まれるというコンセプトだろうか。料金もさほど高くないので、フラッと入り易い。

 

その後はSさんがよく行くというカフェに場所を移して、話し続ける。このカフェ、地下にあり、意外と広い。カップルなどがお茶飲みながら話し込んでいる。そう、台北には様々なカフェが怒涛のように増えてきているが、お客さんは何を基準にカフェを選ぶのだろうか。料金ではなさそうだが、ここのカフェラテはかなり安いので、入り易いのかもしれない。帰りにいまだに中に入ったことがない誠品生活の建物を眺める。もう三越の次代は終わりなのだろうか。

 

11月14日(水)
中国大陸の思い出を聞く

本日も黄さんにお世話になり、王添灯氏関連のヒアリングを続ける。指定された場所は二二八紀念館。最初にここを訪れ、黄さんと出会い、そこから多くのことが広がっていき、今日がある。既に思い出の場所と言ってもよいかもしれない。今日は比較的暖かく、公園を散歩している人も多い。紀念館の前では、社会科見学の学生が記念写真を撮っている。このような歴史は必ず子供たちに教えて行かなければならない。

 

今回お会いするのは、王添灯氏の弟、進益氏の息子さん。進益氏は日本に留学後、文山茶行の新市場開拓の任を担い、大連・天津の支店を任された人。光復後台湾に戻り、茶商公会に長年勤め、その発展に尽力したと聞いている。104歳まで生きられ、90歳を過ぎても公会にバイクでやってきたという長寿、健康な方だったようだ。

 

その息子さんは台湾で生まれたがゼロ歳で大連に渡り、13歳の終戦まで大連で過している。85歳の今でも、日本語は極めて流ちょうで、黄さんたちも話が聞きたかっただろうが、私が日本人だということで、ほぼすべての話を日本語で披露してくれた。大連の小学校、住んでいた場所、その頃の様子を非常に明確に覚えているのが凄い。

 

更には終戦で天津に移り住んだが、そこの住所、付近の建物など、目印がどんどん出てきて面白い。私は子供頃に住んだ場所をこんなにはっきりと言えるだろうか。とにかくお話しを聞いているうちに、天津・大連に行って見たいという気持ちになって来て、ついには行くことにしてしまった。勿論王さんたちが住んだ場所や店舗は、今やある訳もないのだが、それでも『満州や華北に住んだ台湾人』というテーマは実に新鮮で、そして謎も深い。

 

黄さんたちは、貴重な話を収録しようとビデオ撮影までセットしていたが、内容が日本語になってしまい、大変申し訳なかった。ただ王さんが『あんた日本人だろう、僕は台湾人だ。北京語で話はおかしいよね』と言ったことが、心に刺さっている。もし私が台湾語を話していれば、問題はなかったのだろうが、大連で満州語を十分に学び、北京語が流ちょうに話せるはずの王さんが、日本語を選んだのは私のためばかりではないようだ。

 

最後に王さんは『今日稀勢の里が負けたらどうなるんだ、大変だよ』と日本の大相撲を欠かさず見ていると言って帰っていった。何だかとても久しぶりにこのような台湾世代に会ったのが嬉しい。

ある日の台北日記2018その3(8)昔の台北を思い出す

11月10日(土)
台北ふらふら

台中から戻った翌日、ちょっと疲れはあったが、タイから観光に来た知り合いと会った。場所はトミーの台北拠点。土曜日なのに、トミー姉に開けてもらい、1時間ほどお茶を飲ませてもらった。こういう場所があるととてもありがたいし、台湾茶の基礎を知る上でも大いに役に立つ。

 

そのまま近くのレストランへ飛び込みランチ。昼間に来るのは初めてだったが、既に店内は満員の盛況。だが向かいの姉妹店に何とか席を作ってもらい、ご飯にありつく。土曜日の昼間、家族連れが賑やかにご飯を食べている。観光客はほぼ見られない。名物の蒸し鶏や美味しいチャーハンなど注文し、堪能。幸せな気分に一人浸る。

 

そこからタクシーに乗り、大稲埕へ向かう。今や私の庭?と化した大稲埕。新芳春の博物館をさっと見学してから、有記銘茶へ進む。バンコックでも王有記の店(親戚)を訪ねていていたので、是非行って見ようということで出掛ける。奥の焙煎室も見学し、お茶も買ってご満悦。次に行く厦門にこのお茶を持っていってみようと思う。

 

それから今話題の場所へ行きたいというのでレトロなスターバックスを探して入る。店舗自体は前を通ったことがあったが、かなりごっつい建築。そして実際に喫茶する場所は2階と3階で、その階段はレトロだ。ほぼ満席で席を確保するのに苦労した。こんなところがあるとは全く知らなかった。やはりたまには観光客目線で旅をしないと、知らないことだらけとなってしまう。

 

スタバでゆっくり休んでから、また歩き出す。大稲埕の昔の茶商街である貴徳街に行こうと思っていたが、ちょうど淡水河の夕日が見られそうだったので、河辺に行く。大勢の人がカメラを構えてその瞬間を撮ろうと集まっていた。思ったよりずっときれいな夕暮れの風景がそこに現れ、驚いた。ここも茶葉を出荷する港としてしか見て来なかったが、こんな風景があるなら、これからたまには夕方に来よう。

 

既に暗くなる中、貴徳街を軽く散策。何となく夕飯の時間になったので、近くの四川料理屋でご飯を食べる。いわゆる中華料理に慣れていない2人と一緒なので、かなり基本的なものを頼む。日本にある中華料理はやはり日本の料理であり、同じ名前でも入っている物から味わいまで、かなり異なっていると言える。美味しいものを頼めるようになるといいな、と思う。

 

11月12日(月)
昔を思い出す

今日は先日も会った黄さんからお誘いがあり、現在調べている王添灯氏の娘さんの家にお邪魔した。二二八事件で父親が連行された時、まだ小学生だったという。そしてその後の苦難の人生の一部をお話頂き、大変参考になった。二二八の犠牲者は当人だけではなく、その家族の人生にも重大な影響をもたらしており、今でこそ話も聞けるが数十年の間、皆が封印して生きてきたことを改めて知る。

 

またご主人の張さんは優秀な成績で大学に入りながら、白色テロの犠牲となり、7年間も投獄されていたという。当時の友人と一緒に写っている写真を見せられたが、張さん以外は全員死刑か行方不明だという惨劇。当時の国民党が一体どんなことをしていたのか、大変興味深いお話しを聞くことができた。

 

張さんの日本語は完璧で、英語も流暢。日本企業で長く勤めていたという。最初は出国もままならなかったが、最終的にアメリカに渡り、子供も孫も皆アメリカで暮らしている。2000年代に入り台湾に戻ってきたが、90歳近い今でも、会社を経営しており、その気力、精神力は凄いとしか言いようがない。

 

1990年以前の台湾の緊張感、今や昔のこととなり、その雰囲気は分からなくなってしまっているが、それを思い出せてくれるよい機会となった。確かに80年代でも戒厳令が敷かれていたが、それでも夜中の12時過ぎても皆が外出し、呑み屋は繁盛していた記憶がある。日本語禁止と言いながら、街中に日本語が溢れ、おる年代以上の多く人が日本語を話し、かなり形骸化されていたと思う。

 

だが日本語で昔話をする時に、どうしても周囲を見回してしまう老人、個室に入って2人きりでしか日本統治時代の話をしない企業人など、最初はよく理解できない光景を何度も目にしていた。中には『こんな話をしていると特高が来るんだ』と真顔でいう人もいた。今では笑い話のようだが、当時は光復後に台湾人を襲った横暴、悲劇を皆が抱えており、あまり油断はできない、という雰囲気があったものだった。特に一族が何らかの災難に遭い、目を付けられていると認識していた人はそうだっただろうと今にして思う。

ある日の台北日記2018その3(7)杉林渓へ

台中を出て、竹山方面へ向かった。これは慣れた道、1時間もかからずに竹山に着く。今日は杉林渓に行くのではなかったのか、と思ったが、車は竹山の茶荘に入っていく。何とここに、杉林渓で3番目ぐらいに茶業を始めた人が待っていてくれた。彼から一通り杉林渓の歴史を聞く。

 

やはり杉林渓の高山茶は少し後に始められていた。鹿谷の凍頂烏龍茶が全盛期にわざわざ高山茶を売りだす必要はなかったようだ。だが時は流れて高山茶がブームになると、杉林渓に茶を植えて、製茶は鹿谷で行う人が増えてくる。最初はほんの小さな茶畑が杉林渓と呼ばれたが、今ではかなり広範囲になっているという。

 

奥さんが淹れてくれたお茶を飲みながら話を聞く。実はこの奥さん、茶の世界では有名な方だという。この茶荘も独特で、何だか骨董品屋かと思うほど、色々な茶道具などが置かれている。しかもよく見ると、日本の物が非常に多い。茶道の道具などの収集家のようだ。日本にも何度も行っているという。ふと置かれていたいた建水、その昔爺さんが煙草盆の代わりに使っていた物にとても良く似ていて驚いた。

 

一通り話しを聞き終え、店を出た。杉林渓については、他の高山茶産地に追加するような歴史はあまり見られないことが分かる。だが何しろ一度もきちんと茶畑を見ていなかったので、1時間かけて山を登ることにした。ただその前に腹ごしらえ。昼ご飯は、トミーの知り合いがやっているレストランで食べることになる。

 

そのレストラン、ちょっとおしゃれ。そして食事の内容が、魚の煮込みや唐揚げなど、かなり和のテイストが入っており驚くほど、ウマい。オーナーは奥さんで、常に料理を研究しており、体に優しく、美味しい物を作り続けているという。台湾ではこんな地方にもこのような店がどんどん増えていると感じる。

 

この日もランチタイムのお店は満員の盛況、今や台北などへ行かなくても、いいものが食べられる時代なのだろう。因みにこの店の横には、茶の包装材などで有名な会社の本社+倉庫が建設中であり、今後はお茶好きの日本人などが立ち寄ることもあるかもしれない。そんな時はここでご飯を食べるのもいいかな、と思う。

 

それから車は山登りを始めた。懐かしい鹿谷を一気に駆け上がり、更に進んでいく。渓頭のホテルには一度来たことがあったが、そこから先は未知の世界。子供たちが干支にちなんだ絵を描いて、それが看板になっているのは面白い。何度カーブを曲がったことだろう。1時間ほどで杉林渓に着いた。

 

かなりの傾斜のある場所に茶樹が植えられている。茶工場もいくつか目に入ってくる。ちょうど天気が曇りとなり、高山の雰囲気が出てきていた。茶摘みをしている人々も、その作業を止め、次々に摘み取った茶葉を渡して、トラックの荷台に収容されていく。茶摘みのために下から上がってきた女性達だ。平均年齢は高そうだった。

 

それにしてもかなりの急斜面。先ほど聞いた話では、茶業が始まった頃、傾斜度30度以上の場所には茶樹を植えてはいけない、というルールがあったと聞いた気がするが、標高約1700m、ここの傾斜はどのくらいなのだろうか。ボーっとそんなことを考えていると、雨が降り出し、すぐに退散となった。

 

車は鹿谷に向けて降りて行く。山から直接竹山に降りる道もあったが、もう一軒寄り道するらしい。街道から離れ、ちょっと分り難い道を行くと、いきなり茶工場が見えてきた。その付近には少しだけ茶畑も残っている。工場には摘まれた茶葉が持ち込まれ、先進的な機械で、室内萎凋が始まっていた。

 

連山というこちらの茶農家では、1960年代から茶作りをしており、ずっと凍頂烏龍茶を作って来たというので、凍頂烏龍茶の歴史をじっくりと聞いていた。天仁などとのかかわりも出てきて面白い。伝統的な凍頂烏龍茶の味を守ってきており、2000年代に入るまで、高山茶には手を出さなかったが、最近は杉林渓高山茶も作るようになっている。

 

実は朝台中で訪ねた茶屋は、ここの娘さんが開業したもので、消費者のニーズなども考慮しているようだ。近年茶農家は減る傾向にあるが、茶畑は増えていくようで、ちょっと危機感がある様子だった。陽が沈む中、茶の香りがしている中、ここを後にして、一路台中に向かう。

 

高鐵台中駅まで送ってもらい、夕飯を一緒に食べようというトミーの誘いを断り、高鐵に乗ろうとしたが、金曜日の退勤後ということか、1時間先まで指定席が取れず、立って帰るのも何なので、丸亀製麺で一人夕飯を食べてから列車に乗る。何となく疲れたなと思ったら台北に着いた。

ある日の台北日記2018その3(6)台中で茶の歴史談議

11月8日(木)
台中で

翌朝は何となく眠いまま、起き上がる。朝食は付いていたのでホテルで食べたが、食欲はそれほどなかった。今日は台中へ移動する。何しろ駅は目の前だから、移動は簡単だった。ここから区間車に乗り込み、台中駅を過ぎ、大慶駅で下車する。約束しているトミーからここを指定されたからだ。台中駅前も車を停めるのは難しいのでこうなったらしい。

 

トミーの車で向かった先は、製茶公会が紹介してくれた張瑞成氏の自宅だった。張氏は光復後長らく農林庁に奉職し、現代台湾茶業に果たした役割は実に大きい。9月のお訪ねしたレジェンド、林復氏の農林庁での部下に当たり、東部開発からコンテスト開催まで、その実行部隊であったという。第1回鹿谷コンテスト(1976年)では、あのレジェンド、呉振鐸氏と並んで審査員をした方でもある。

 

現在86歳だという張氏だが、驚くほどに元気で、何と2時間半もの間、自らお茶を淹れてくれ、こちらの質問に対して話し続けた。しかも記憶がはっきりしており、的確に答えてくれる。これは本当に驚いたし、何とも有り難いことだった。因みにお茶も老茶が多く、歴史的なものだった。

 

張氏の話、勿論お役人から見た歴史ではあるが、実に示唆に富んでいた。やはりお茶の歴史は茶農家や茶商に話しを聞くと同時に、政府側の話、政策や時代背景なども聞き、それを踏まえて、文献などに当たるのがよいと分かる。張氏は話だけではなく、自ら執筆した本も提供してくれたので、これを読めばわかる部分が多いようだ。因みに張氏は現在のコンテスト運営に対しては、かなり異論があるようだった。それはある意味で我々も感じていることで、共感できる部分がある。

 

そういえば、張氏は日本との関係もかなりあったようで、1998年に農林庁を退職した際には、日本輸出茶協会から紀念のプレートが送られており、今も大事に飾られていて、その親しい様子が見えた。台湾煎茶の日本への輸出なども、張氏が関わっていたことは間違いがない。光復後、台湾茶業が荒波に晒される中、『台湾茶の輸出』そして『輸出から内需への転換』と何かと茶業の発展に尽くした張氏の姿が目に浮かぶ。

 

長い時間話しを聞いたのち、失礼した。もう午後1時に近い。取り敢えずトミーの家に向い、そこで弁当をご馳走になる。午後は2階の部屋で半日、台湾紅茶の歴史について話しをした。トミーも台湾紅茶の講座を開いており、知識の補給が必要であろう。私も久しぶりで忘れてしまったこともあったが、これまで台湾でも日本でもあまり取り上げられてこなかった人々の歴史を、トミーを通じて台湾人に知ってもらえるのは嬉しい。日本統治時代の台湾茶業は新井耕吉郎さんだけが行っていた訳ではないのだ。最後の所長に注目するのではあれば、最初の所長にも注目してもらいたい。

 

夜はトミー家の前に軽井沢、という名前の日本料理屋が出来たので行ってみようとしたが、何と満席だと断られてしまい、驚く。日本料理屋はこれほどに繁盛しているのだろうか。どうやら店の外観、そして内装などが斬新で人気を集めているらしい。いつか一度行って見てみよう。夕飯はいつものように、小籠包の店に行き、好きな物を思いっきり食べて満足する。

 

それから台中駅近くに予約してもらっていた宿に送ってもらう。恐らくは古いホテルを改造してきれいにした感じの宿。窓もない、こじんまりした部屋だったが、寝るだけならこれで十分。昨晩の部屋が大き過ぎたのだ。ただ何となく送風が止まらず、涼しいので、シャワーを浴びるのを止め、昨日からの疲れもあり、早々に布団を被って寝てしまった。

 

11月9日(金)
杉林渓へ

翌朝、宿の周囲を散策すると、古風な居酒屋、大衆酒場があった。今や単なる日本の居酒屋ではダメなのだろうか。今日はトミーに加え、ビンセントとチャスターもやってきて、賑やかに山を登る予定となっていた。車が出発してすぐに、電話が入り、台中で寄り道することになる。

 

住宅街の中、と言う感じの場所に、その茶館?はあった。若い女性が3年前に開いたという。初めは場所柄もあり、お客が来なかったようだが、友人たちが集ううちに、徐々に知られるようになり、今は経営も軌道に乗っているらしい。オーナーは鹿谷出身であり、実家から来るお茶などの販売も行っている。非常に気楽にお茶が飲める場所であり、またかなりこだわりも感じられるお店。これからはこんな場所が流行っていくのかもしれない。

ある日の台北日記2018その3(5)豊原の旨い物

11月7日(水)
豊原へ

私は埔里滞在中から、一人でご飯を食べる場合は、一日二食を基本としている。そして午前10時過ぎに食べるブランチ、その多くはクラブサンドイッチにしている。特に意味はないが、好きなのだ。だが、台北に来てから近所にお気に入りの店が見付からない。作りが雑だったり、店員の愛想が悪かったり、とどうも通う気が起こらないのだ。

 

そこで活動範囲を広げてみた。かなり東の方まで歩いていくと、賑やかな繁華街があり、そこには市場もあった。朝から人も大勢歩いており、宿泊先の静かさとは対照的だ。何軒かの朝ご飯屋が存在しており、その中で目を惹くところがあった。炭火鉄板三明治、かなりそそられる。

 

小さなその店、飾りは可愛らしく女性的だが、思い切って入ってみる。店員の女性はかなり愛想がよく、好感が持てる。取り敢えず『当店のお勧め』である招牌サンドを注文してみる。この値段は普通に私が頼む物より、20元は高い。飲み物の紅茶を加えると100元にもなる。だが、やってきたそれは、それだけの価値が十分にあった。パンもちゃんと焼かれており、中にはカツまで挟み込まれている。上質なカツサンドともいえる一品だった。これには驚き、満足して去る。やはり台北は侮れない。ちゃんと探せば、そしてほんの少しコストをかければ、美味しいものはいくらでもありそうだ。

 

午後は台北駅に向かった。今日はこれから豊原に行く。台中なら迷わず高鐵に乗るが、豊原なら自強号かと思い、昨日切符を事前予約しておいた。万が一、満席だと2時間立って行くのは嫌だった。中国ほどではないが、台湾でも駅の窓口でチケットを取らないといけないのは、時間が読めずに困る。案の定、お婆さんが何度も同じことを聞いており、係員も困りながらも親切に対応している。その間、我々はずっと待っていなければならないのだが、まあ仕方がない。想定内だ。

 

何とかチケットをゲットして、自強号に乗り込む。毎回思うことだが、35年前、初めて台北に来て、台中まで自強号に乗ったあの日のことが蘇る。あまりに緊張して車両を間違えて座っていたこと、何時に着くのか一向に分らず、何度も隣の人に聞いた記憶もある。あれば私の初の海外、初の海外電車だった。車両は多少新しくなったかもしれないが、自強号は基本的にあの頃と変らない。豊原に着く時間もほぼ変わらない。

 

ところが豊原駅の方は大きく変わっていた。前から工事はしていたのだが、10か月ぶりに来てみると、新駅舎が完成しており、非常にきれいになっている。駅前も広々としており、これまでの裏口から出てきていたのが、すぐに正面に行ける。ただ駅前には沢山のU-bikeなどがあり、多くの学生がこちらに向かって自転車を漕いできて、その勢いに押される。

 

いつもとは別の路を歩き、いつもの泉芳茶荘に行く。ジョニーはまだ帰っておらず、お母さんにお茶を淹れてもらい、頂く。そして相変わらず、高山茶の歴史確認を行い、途中には当事者でもあるお父さんも登場して、作業が進む。とにかく、この一家と高山茶の繋がりはかなり深い。

 

ジョニーが帰ってきても、話はまだまだ続き、気が付くと8時近くになっている。その間に美味しい肉圓をご馳走になったが、廟東の夜市に行くタイミングを逸していた。さあ、どう切り上げようかと考えていると、突如お母さんが『これ食べて』と言って、カレー味の鴨肉入りパスタを出してくれた。

 

申し訳ないと思いながら食べてみると、これが実にうまい。うまいと言うと、今度はジョニーが『鴨肉がうまいぞ』と言って、煮込んだ鴨肉をご飯にかけて持ってきてくれた。これがまた飛び切り旨い。聞けば市場で鴨を買い、長い時間煮込んだ物だという。この家は普段からいいお茶を飲み、いいものを食べているに違いない。今晩は夜市に行く必要がなくなった。

 

夜も9時近くなり、宿を決めていないというとジョニーが慌ててホテルに電話してくれた。だがいつも泊まる宿は何と満室だと断られたという。何故だ?台中で今月から世界花博が開催されているとは知っていたが、実はその会場は台中ではなく、ここ豊原などにあったのだ。結局ジョニーが探してくれて、駅前のホテルに空きがあるというので行ってみる。

 

チェックインすると相当広い部屋で、浴室から外が見える、大きなベランダがあるなど、かなり豪華で私には不釣り合いだった。普通の部屋はやはり一杯だったようだ。偶にはこんな部屋に泊まるのも良いか、とは思ったが、広すぎてよく眠れない。いや、先ほど散々お茶を飲んだからだろうか。それともお茶の歴史の興奮が冷めていなかったからか。

ある日の台北日記2018その3(4)ご縁を繋いで

11月6日(火)
ご縁を繋ぐ

昨年から大茶商、王添灯氏について調べており、そのお孫さんである黄さんには何度も大変お世話になっていた。黄さんには王添灯以外にもう一人、父方の祖父がいる。黄鐵という名前のこの方、日本の会社の丁稚から身を興し、日本統治時代に日本の大手メーカーの台湾における販売代理店社長になった人だった。黄さんの家には祖父の遺品が沢山あり、是非その日本企業に見せたいという希望を持っていた。

 

その依頼があった時、私はとても驚いた。というのが、私が会社に就職した最初の職場の最初の上司が、何と黄さんの言った会社の関係者だったのだ。取り敢えずその先輩に連絡し、先輩がその会社に口をきいてくれ、ついにその会社の現在の社員が出張のついでに、黄さん宅を訪問する段取りとなったのだ。

 

当日その社員、Kさんと滞在先のホテルで待ち合わせ、タクシーで黄さん宅に向かった。だが途中で黄さんから電話があり、行き先が少し変更となる。黄さんたちが待っていたのは自宅近くのおしゃれなカフェ。そこに段ボールがいくつか持ち込まれており、広いスペースでゆっくりと拝見することとなった。

 

黄さんの弟さん、ご主人、娘さん(赤ちゃんも)まで同席され、沢山の資料が示され、色々と説明があった。こんなに資料が整っているのは、3年前に台北でこの遺品の展示会を行ったからだ。この展示会を見に来た当時を知る人からまた情報が寄せられたともいう。中には台湾の大企業の経営者もいたというから、興味深い。

 

この展示会のために、娘さんが主に資料をまとめ、ビデオまで作られていて、本当に驚いた。同時に当時の大稲埕付近にあった、自宅や関係する会社など、黄鐵氏ゆかりの場所の地図も作られていた。今度この地図をもって大稲埕を散策してみるのも悪くないと思う。

 

終戦に伴い、日本人が引き上げた後、この商品は日本から入って来なくなってしまう。黄氏は以前よりその製法などを研究しており、台湾で自ら作ることにしたらしい。その会社は途中で一緒に経営していた台湾人が引き継ぎ、今では誰もが知る会社となっているという。同時に黄氏が生きている間は、日本企業との連絡もあったと言い、黄さんは子供の頃に会った日本人のことを語り出す。

 

今回ご縁を繋ぐことが出来たことで、黄さんたちが非常に喜んでくれたことは、素直に嬉しい。このカフェで皆さんとブランチを食べながら、話は色々な方向へ向かい、盛り上がる。先輩に良い報告が出来ることも、何とも有り難い。茶の歴史を学ぶ中、こういう機会が有ると、もう一つのやりがいを見出すような思いだ。

 

Kさんとタクシーに乗り、皆さんと分かれる。すぐに懐かしい道を見つけて降りる。そこは31年前、私が暮らした場所だった。長らく行っていなかったので、当時住んでいたところを訪ねてみることにした。ここは松山空港のすぐ南側であり、飛行機の音が聞こえると特に懐かしい。当時は国内線と軍用の飛行場であった。

 

敦化北路と民生東路の大きな交差点には、今もマクドナルドがあり、それほど大きく変わっているようには見えない。その先を入っていくと、昔は完全な、静かな住宅街だったが、今はおしゃれなカフェやレストランが多くある賑やかなエリアに変身していた。大体の場所に既視感はあったものの、自分がかつて暮らしたアパートを認識することは出来なかった。このアパートでは、何と空き巣に入られ、大変な思いをしたので、印象は強かったはずなのに、最近の急激な忘却は、もう止めることは出来ない。

 

帰りは天気が良かったので、U-bikeに乗っていく。途中懐かしい場所を幾つも通り、U-bikeは勿論、MRTもない時代の外出を懐かしむ。30年経ってもまだ建っているビルは多くあり、1つずつの思い出が頭を過る。私は間違いなく、30年前この街で暮らしていた、生きていたと実感は出来るが、記憶の曖昧さは美しい思い出だけを小出しにしているようにも見える。今私が茶の歴史で話を聞く老人たちも、もしやすると、こんな感じで昔話をしてくれているのかもしれない。

 

夜、腹が減り、近くの屋台街へ向かう。何だか炒飯が食べたくなり、探してみるが見付からない。ようやくあったその店の炒飯は正直それほど美味しくはなかった。何が違うのかは分からなかったが、何かが違うのだ。それは今の台北が、30年前の台北と何かが違うのだ、と感じるのと同類のようにも思えた。

ある日の台北日記2018その3(3)猫空&石門 鉄観音茶の歴史を追う

11月3日(土)
猫空へ

台湾の鉄観音茶の歴史を調べるために、これまで何度か木柵、猫空へは行っている。だが、本当の台湾鉄観音茶の歴史というのはどうもしっくりとは来ていない。前回知り合いの黄さんに相談すると、『それなら何度でも違うところに行って聞いて見るべきではないか』と言われたので、お願いして、黄さんの知り合いの茶農家に連れて行ってもらった。

 

MRT動物園駅で待ち合わせて、黄さんの車で上に上がる。私は高所恐怖症であり、ロープウエーなどに乗るのは好まない。車が着いた場所は、先日訪ねた張乃妙紀念館のすぐ近くであった。やはりこの辺が木柵鉄観音茶の発祥地だからだろうか。中では林さんが待っていてくれた。

 

この地に来て5代目だという林さんだが、元々は野菜などを作っており、茶は副業だったという。しかも1970年代に林さんの父が鉄観音茶を作り始めるまで、その茶は包種茶だったようだ。80年代には猫空の観光地化が始まる。それと共に鉄観音の名声も上がっていき、90年代に最盛期を迎えた。

 

だが2000年以降は観光の方に力が入り、茶の生産は減少傾向だという。木柵から茶畑が減っているおり、同時に摘み手の老齢化が拍車をかけている。茶葉は坪林など他の茶産地から調達しているケースも多い。品評会の評価方式も変わり、伝統的な鉄観音より軽発酵、軽焙煎の物が賞を取るようになり、本来の鉄観音茶は失われつつある。

 

黄さんはこの茶農家に毎年、仲間を募り、自分たちの好みのテイストの鉄観音茶を特別注文して作ってもらっている。本当に飲みたい鉄観音茶はこのようにしなければ、手に入らないというのが現状だ。作り手も、『原料の茶葉も少ない中、確実に売れなければ手間をかけて作ることはない』というのが本音だろう。

 

この日、猫空周辺はどんより雲で覆われていた。土曜日なのに何となく寂しい雰囲気が漂う。話の内容が明るいものではなかったからだろうか。とにかく分かって来たことは、『台湾において鉄観音茶がメジャーな商品になったことは歴史上一度もないし、恐らく今後もないだろう』ということだ。ある意味で、歴史があると思い込んでモヤモヤするより、歴史は殆どない、と考える方が非常にスッキリする。本当の歴史とはそんなものではないだろうか。

 

11月4日(日)
再び石門へ

木柵の翌日、葉さん夫妻に連れて行ってもらい、もう一度石門を訪ねた。葉さん夫妻は早朝、マラソン大会で10㎞走って帰ったばかりだというから、申し訳ない限りだ。台湾も今はマラソンブーム、毎週のようにどこかで大会が開かれている。健康ブームともいえるか。

 

途中、淡水の近くで、一人の若者をピックアップ。MRT駅からかなりの坂を上ったところに住宅街があり、ちょっと驚く。台湾のバブル期、この辺もかなり開発されていったようだ。そう考えると以前訪ねた新店などはもっと前に茶畑は消え、住宅街になっていたのだな、これが台北という街の歴史なのだ、と思い至る。

 

石門の茶農家を訪ねる前に、三芝の街中にある、老地方という名前の食堂に向かう。昼過ぎだが、店の外まで人が溢れ、混みあっていた。入口で豪快に小籠包が蒸され、肉圓が作られ、大根などが煮込まれている。確かに美味そうだ。結局席を確保するまでに30分以上かかってしまう。小さな街にこれほどの人気店があるとはビックリした。客の多くが家族連れ、地元の人々だろう。安くて、ウマい、は共通語だ。

 

石門の茶廠に向かう。草里製茶廠に着き、3月に訪ねた85歳の謝さんに会う。この地の石門鉄観音製造は1980年頃始まった。その時の販売責任者はこの謝さんだった。彼によれば、茶業改良場の指導の下、硬枝紅心という、この地に植えられていた品種で鉄観音を作ったという。そして台湾各地に赴き、販売活動を展開したと言い、顧客ニーズに応えていち早くティーバッグ製造機械を導入したりしている。これらの努力により石門鉄観音の名前は知られるようになった。

 

だがそのセールス活動の資金はどこからねん出されたのか、という疑問があった。実は途中で原子力発電所の脇を通った。確かに台湾にも原発はあり、その一つがこの辺にあることは知ってはいた。そして彼の話を聞いているうちに、原発と石門茶の関連に思い至った。1980年代に、石門鉄観音茶を売りだしたのは、勿論それまでの包種茶や紅茶の需要がなくなったからだろうが、同時に鉄観音売り出しの資金は恐らくは街は入った補償金から出ていたのではないか、それだと合点がいく。

 

この付近は1920年代、台湾茶業の中心の一つであり、この地域一面、茶畑だったらしい。特に輸出用の包種茶、そしてその後の紅茶が有名であった。謝さんは話の半分以上を台湾語で話すので、葉さんの通訳が必要になり、肝心な話をうまく引き出して聞くことは難しかった。

 

ただ祖父の謝泉はこの地の有名人であり、もう一人許里と並んで台湾茶業界にその名を残している。その謝泉は、政府の巡回教師に任命され、台湾北部各地を回り、製茶技術を教えている。政府は1920年代に推奨していたのは包種茶だった。そしてこの家には謝泉が巡回教師として回った地名、そして生徒名が資料として残されているが、その中に台湾包種茶を発明したと言われている南港の魏静時の名前があることに首を傾げてしまう。この点についても謝さんはヒントになるような話を全く聞いていないようで、謎は深まっていく。

 

帰りがけに少し茶畑を見に行ったが、本当に小さかった。その周囲を車で巡ってもらっても、往時の面影を発見することは全くできなかった。車が迷路に入ってしまったように、石門の茶の歴史も話が横道に逸れていく。