人民中国2017『中国紅茶の旅』中文版(4)「在福州感受107岁茶界泰斗的制茶热情」

在福州感受107岁茶界泰斗的制茶热情

一般认为,红茶的发源地是福建省的武夷山,因为在福建历史上,迄今为止生产过正山小种、政和工夫等多种红茶。而我一直以为红茶主要是出口到欧洲等地,“中国人不饮红茶”。直到大约15年前,我在上海的一家时尚咖啡厅中,看到一位年轻女性很享受地品味着袋装的立顿红茶,由此意识到中国也迎来了红茶时代。

在福州与张天福先生(中央)和魏社长(左)在一起

生产中国人喜好的红茶

而说起被中国人广泛饮用、并风靡全国的国产红茶,当属由红茶发源地武夷山开发的“金骏眉”。这种红茶只取茶叶细嫩的芽尖,冲泡后茶汤甘甜绵软,符合中国人的喜好,由此成为中国人最初享用红茶的契机。只不过,“金骏眉”价格昂贵,甚至有上万元1斤的高端产品,所以只能成为部分有钱人的饮品。尽管如此,距今100多年前就受到国际好评的湖南湖北等中国各地红茶的复苏,仍是一件可喜可贺之事。

与此同时,也有的茶厂开始生产全新的红茶。比如,福州专门经营红茶的元泰茶业的社长魏文生,就联合全国20多处茶叶产地,销售各种各样的红茶。同时也致力于挖掘红茶的历史,让红茶文化在中国扎根。因为他觉得“既然红茶的发源地是中国,并且全世界茶叶产量的8成都是红茶,中国人自己不了解红茶就太遗憾了”。

 

要想在全世界普及红茶,从生产层面来看,需要具备三个要素,即“易于标准化”、“适合调味”、“通过调味更加美味”。然而,在中国茶界,目前还无法实现大规模标准化生产。并且,中国人不喜欢在茶叶中添加香料,也不愿去调味。如果是这样,不如生产专门迎合中国人口味的红茶。不知从何时起,这一想法开始在魏社长心中萌生。并且,这也是他的老师,中国茶界泰斗张天福先生的夙愿。

将毕生精力奉献给茶叶事业

张老先生生于1910年,如今已是107岁高龄,现居福州。民国时期,张老曾在福建兴建了示范茶厂,在培养了诸多茶业人才的同时,也致力于品种改良和制茶技术的发展。据说,抗日战争开始之前,他还曾到日本和台湾地区考察。新中国成立后,他为中国茶叶事业的发展尽心尽力,然而在“文革”期间,他被错划为“右派”,事业一度受阻。但即便在那段时期,他仍凭借顽强的毅力,坚持不懈地研究制茶。

 

上世纪80年代,张老被平反,虽然已经70多岁了,他仍然举办了许多与茶叶有关的活动。不仅在中国大陆、在台湾等地也很有名气。他为纪念自己百岁诞辰而出版的《茶叶人生》一书,正是其为茶叶事业倾尽毕生心血的写照。顺便介绍一下,这是一部700页的中文巨著。当看到年纪过百,仍然对制茶保持旺盛热情的张老,我能真切感受到正是由于常年规律饮茶,他老人家才能如此健康硬朗,真是令人羡慕不已。

从福州市区驱车两个小时左右即到达永泰县。7年前,张老和魏社长在这里兴建了茶厂,开始栽培茶树。当地此前没有种植过茶树,周围也没有民居,土壤和水都没有遭受过污染,环境优越。他们在这里种植了适合生产红茶的各种新品种茶树,正在尝试生产不使用农药和化肥的新型红茶。

种植新品红茶的永泰茶田

在日本荣获最高金奖

多年的努力终于结出硕果,那就是“金元泰”红茶。该茶味道清爽,比近来市场上的中国红茶甜度低,与传统的中国红茶相比风格迥异。不仅在中国国内受到越来越多茶商的青睐,去年还在日本静冈县举办的世界绿茶大赛中荣获最高金奖,一时间享誉国内外。

然而,张老和魏社长心中理想的红茶,绝不是最高级的红茶,也不是最赚钱的红茶。他们正在研发的是在拥有悠久茶文化历史的中国,与百姓生活密切相连的,中国人能够日常饮用的红茶。在当今食品安全面临严峻考验的中国,能够生产出让百姓放心饮用的红茶至关重要,所以,从这个意义上来说,理想的红茶也就是满足消费者需求的红茶。

 

(日文原文刊载于《人民中国》杂志2017年第4期 翻译:钱海澎)

 

インドで自然療法2018(14)極楽のアユルベーダ生活

2月26日(月)
アユルベーダ2日目

翌朝はなぜかドクターが7時からヨーガをやるというので、起きてみた。しかしやる気配はなかった。以前学んだところでは、アユルベーダでヨーガが取り入れられているとの話はなかったが、今回ドクターによれば、100年以上前からアユルベーダの中にヨーガはある、とのことだった。実はその朝は7時過ぎに患者が来て、診察にかなり長い時間がかかっていたので、実施されなかったのはそのためかもしれない。

 

朝ご飯として、ホットミルクとコーンフレークが出てきた。コーンフレーク、何とも懐かしく有り難い。自然療法では間違っても出ないご飯だった。美味しく頂く。そもそも自然療法では朝ご飯はジュースだったから、その違いは大きい。そしてお湯をもらってハーブティも飲む。

 

ドクターの息子、ウオーレンがやって来た。昨年は抹茶を飲んでいると言っていたが、何と今はコーヒー党だという。『やはりコーヒーは味が良いから』というではないか。彼は学校を出て、今はドクターのクリニックを手伝っているらしい。脈の専門家になりたい、と言っていたが、相変わらず若者らしく、カッとんでいる。

 

今日から本格的な施術かと思っていたが、まずは製薬工場の見学に行こうということになり、車で向かう。そこは昨年も行っているところだが、なんだかすごく遠く感じられた。プネー郊外もどんどん宅地化が進み、1年も見ないと、景色はかなり変わる。ただ製薬工場は特に変わってはいなかった。

 

薬の製造工程を見ていると、見慣れた機械が置かれており、何となくお茶の工程に似ているなと思う。それはある意味で当たり前か。ここでは約6か月を掛けて、約700種類のアユルベーダ伝統医薬が作られ、各アユルベーダクリニックに小売されるらしい。

 

そのニーズはますます高まっているが、原料の調達は、大手製薬会社の資本投下で青田買いされてしまい、難しい状況になっているとも聞くが、今日も原料を洗い、砕く作業が手で行われていた。牛糞は固形燃料になるが、それを灰にして塗ると効き目があるとも聞く。何となくプーアル茶を連想したが、それは形だけだったか。

 

帰りにドクターが小さな市場に寄ったので、我々も付いていく。野菜を買っていたが、我々の目はフルーツの方に向いていた。ドクターが『何が食べたいの』と聞いてくれたので、メロンを指さした。その他ブドウやスイカなど数種類のフルーツが買いこまれ、食べさせてもらえそうで嬉しい。

 

クリニックに帰ると、ランチが待っていた。サラダが出てくるところが泣けてくる。この家で食事を作る女性が更に食事を盛ってくれた。何だかいいホテルにでも泊まっているような気分だ。それからお昼寝をしたが、どうも寝起きにめまいを感じる。どうしたのだろうか。午後はポータリーマッサージを受ける。これはハーバルボールを温めて、体全体を隈なくマッサージしていくもので、何と今日は二人掛だったのでちょっと驚く。終わるとスチームバスに入り、汗を流してデトックス。どうも毎日の習慣になっており、インドを離れれば、これがなくなると思うと、ちょっと残念だ。

 

夕方気が付いてみると、テーブルの上にスイカとブドウが置かれていた。思わず食べ始めると美味くて止まらない。あっという間に食べてしまい、腹がくちる。これではとても夕飯は食べられないと、少し間をおく。ドクター曰く、『太陽のあるうちは消化力が高いので沢山食べてもよいが、日が沈んだ夜は量を減らすこと』ということで、混ぜご飯のようなものが出る。これがまた新しいバリエーションで嬉しい。

 

それからWさんとずっと話をして、ドクターの帰りを待ったが、ついに帰ってこなかった。どうしたんだろうか。シャワーを浴びて、ベッドに入る。今晩は蚊もおらず、よく眠れそうだった。

 

2月27日(火)
アユルベーダ3日目

今朝は5時台に起きてしまった。やはり自然療法場とは違い、お茶も飲み、食べ物も多く食べるとそれだけ体に負担が増え、寝る体力を奪ってしまうのだろうか。それともストレスだろうか。いずれにしても困ったものだ。7時にはリビングでWさんと話し始める。実は彼は今日、ビレッチャナをするかどうかが分からずにいたのだ。

 

ドクターがやってきたが、やはりこれまでほとんどギーを使っていないので、Wさんのビレッチャナは3月1日に延期になった。ついでに今日から私のご飯にもギーが使われるらしい。今朝の朝食はボーハというご飯。古代米を使ったピラフのようなもので意外と美味しい。食後にブドウを頂く。

 

午前中はついにバスティーが行われる。自然療法ではエネマと言っていたが、その違いを尋ねると、『バスティーはハーブをかなり使っている』という。ようは効果が高いということだろう。実際自然療法場では大勢を一度にやることもあり、簡単に挿入して、簡単に済ませていたが、ここではじっくり管を入れ、ゆっくりしみこませていく。私は途中で耐えられなくなり、トイレに駆け込むことになる。

人民中国2017『中国紅茶の旅』中文版(3)「在赤壁一带邂逅米砖茶 」

在赤壁一带邂逅米砖茶

 

虽然上期已经介绍了湖北省的宜红,但是除了宜红之外,我还想介绍一种有趣的红茶。那是我为了研究万里茶道(从中国通往俄罗斯的茶叶丝绸之路)的历史而到访湖北省羊楼洞时,偶然发现的。羊楼洞位于距离《三国志》中最著名的赤壁之战主战场——赤壁市30分钟车程的地方。清末时期,这里的茶叶贸易曾一度兴盛,但最终也难逃衰落的命运。相传150年前,俄罗斯人为了寻得黑茶和红茶,在这里兴建了一座茶厂,我们此次要找的就是这家茶厂的遗址。俄罗斯人曾千里迢迢来这里寻找茶叶让我倍感惊讶。

赵李桥茶厂

被制作成块状的红茶

返程途中,我漫步在羊楼洞的古道上,发现了一种块状的茶叶。上面绘制着火车头的图案,非常有趣。一问才知道,这是用红茶的茶粉压制而成的。据说,当年在这一带,黑茶被制作成便于运输的砖茶,运往现在的蒙古国、西伯利亚、莫斯科以及圣彼得堡等地。而实际上,同期出口的还有用红茶制成的砖茶——米砖茶。

翻阅羊楼洞的历史可以得知,在清朝乾隆年间,山西商人曾在此开设巨盛川等茶叶工厂,生产黑砖茶。之后,太平天国运动切断了从福建出口茶叶的商道,转瞬间,湖南湖北一带的茶叶产地受到瞩目,除了山西茶商之外,广东商人和俄罗斯商人等也纷纷到此,展开了一场茶叶争夺战。由此,羊楼洞的茶叶贸易迎来了鼎盛期。据说,我们所探访的茶厂用的制茶机器,就是当年由俄罗斯商人带过来的,机械化的实现使得茶叶产量倍增。

羊楼洞古道

红茶大量出口俄罗斯的历史

这期间,由于红茶的需求量较大,茶商们也生产了许多红茶用于出口。于是就有了便于运输至俄罗斯的块状红茶——米砖茶。据统计,1888年,米砖茶的出口量超过了中国茶叶出口总量的12%。即便到了20世纪初,米砖茶的生产势头依然不减,甚至有记载称,在1915年以纪念巴拿马运河开通为主题的旧金山世博会上,巨盛川的米砖茶获得了金奖。可见,米砖茶虽然是由红茶粉末压制而成,却依然受到了国际好评。

为什么红茶的块茶不叫红砖茶,而叫米砖茶呢?据说是因为红茶粉形似米粒,但也无从考证。将这种红茶粉末压制而成的紧压茶,因为颜色发黑,难以和黑茶区分,但冲泡之后就会回归红茶的本色。米砖茶有很多品牌,例如牌楼牌、凤凰牌、火车头牌等,都是根据茶面图案而得名,宛如工艺品一般精美。

 

赴俄罗斯探寻火车头牌米砖茶的身世

现在市面上出售的米砖茶为何会绘制火车头的图案?据说这和20世纪初西伯利亚铁路的开通有关。实际上,早在1918年粤汉铁路、京汉铁路开通之际,赵李桥镇就修建了火车站。位置就在今天生产米砖茶的赵李桥茶厂旁边。所以,火车头图案会勾起人们的乡愁。赵李桥茶厂原本是新中国成立之后,将附近的茶厂整合而成的国营工厂,但进入本世纪之后,实现了民营化,现已成为湖北省最大的茶叶生产厂。

然而,随着1917年俄国革命的爆发,红茶的出口也几经波折,抗日战争时期,羊楼洞遭受了日军的轰炸被占领。之后又经历了中苏交恶的冷战期。当时,绘有火车头图案的米砖茶到底出口了多少?为了了解那段历史,去年,我到访了莫斯科。问及如今在莫斯科做茶叶生意的中国商人,但其对于那段历史不甚了了。可见,漫长的冷战时期宛若一堵墙横亘在中苏之间。

这次行程,我只买到了出口至俄罗斯的2008年产米砖茶。这种茶好像是由湖北、湖南、云南等地的茶叶混合制成的。今天的俄罗斯人已经广泛饮用红茶,但主要是斯里兰卡或者肯尼亚产的袋装红茶。价格昂贵的中国红茶成为部分资深茶叶爱好者的专享。据说在将云南和福建等地产的一级茶叶调配而成的米砖茶中,有交易价格高达10万元级别的名贵品种,还有茶商特意从中国来到俄罗斯收购这些陈年红茶。可见,如今米砖茶反倒是在原产地中国越来越有市场。

火车头牌米砖茶

(日文原文刊载于《人民中国》杂志2017年3期 翻译:钱海澎)

インドで自然療法2018(13)アユルベーダに突入

11時前にラトールさんの車で別の人が迎えに来てくれた。鍵を返して荷物を積み込み、ついにアシュラムから出所した。実に13日、正直長過ぎた。もうここに来ることはないだろうと思うが、特に感慨はない。車は一路プネーに向かって走り、途中少し渋滞はあったものの、12時前に市内に入る。そこから前回行った両替所へ行こうとしたが、見付からず。結局違う場所へ行くも外国人だと足元を見られ、レートはかなり悪かった。

 

それからラトール家に行き、ラトールさんと共にランチの場所へ向かう。ビバさんの美味しいチャイを飲む時間はなく、残念!Good Luckというその店は、若者でごった返していた。ここはイラン系レストランとして有名な老舗だというから驚きだ。ベジもノンベジもOKということで、今日お会いするH先生お気に入りのレストランとして、連れて来られた。

 

10分以上待って何とか席が空く。H先生とは昨年も一緒に食事し、また学校行事にも参加した。そしてお互いのFBで近況を見ているので、1年ぶりとは思えないスムーズな会話となる。ここはイラン人がやっているから、イラニアンティがあるというので注文してみたが、何とプレーン紅茶にライムが付いているだけだった。Wさんはイラニアンティにミルクと頼んだら、チャイと同じになってしまった。

 

バターパンとエッグカレー、そしてチャパティが登場した。どれも一口食べて、『うまい』と叫んでしまう味だった。分けてもエッグカレー、私は卵好きだが、これほど卵がうまいと感じたのはいつ以来だろうか。カレーもマイルドにしてもらい、チャパティをつけて食べると、何とも言えない幸福感が広がった。やはり私は資本主義に毒されている、でも毒されていても、もう戻れないのだ。

 

H先生は昨年より元気そうに見えた。家を転居し、生活環境がよくなり、プネーの生活にも慣れたようだった。インドの、特にこの地域の日本語熱は盛んだから、色々と行事などもあり、忙しい日々を送っているという。インド国内の旅行もままならないとか。やはりインドで仕事をしているのは大変なのだろう。

 

レストランの近くでWさんが日本で用意してきたプリペイドカードを使って現金を引き出した。インドの銀行のどこで引き出せるとのことだったが、一軒目はダメだった。私も昔海外銀行のATMカードを持って銀行を回ったが結局引き出せなかった。記憶がある。何とか3軒目で現金が出てきたらしいが、その仕組み、理由は良く分からないという。

 

ビックバザールへ向かう。ここは私の定点観測の場。今回も買うものはなかったが、敢えて店内を見て回る。品ぞろえは年々向上している。そして売り場の品ぞろえと位置も変わっている。売れ筋商品に変化があるのだろうか。お茶も緑茶スペースは相変わらずで紅茶を圧倒。しかも紅茶も安い商品は置かなくなり、値の張るものだけが置かれるようになっていた。

 

一瞬ラトール家に戻り、荷物を持って、スチェータ先生のアユルベーダクリニックへ行く。先生もクリニックも特に変わった様子もなく、チェックイン。今回はシャワートイレ付きの部屋をWさんに譲り、私は隣の部屋へ。部屋の横にはトイレがあるので問題はない。1階の内部はかなり変わっていた。以前食事をしていた狭い部屋は無くなり、広めの施術室が2つになっている。

 

既に夕方に近づいており、早々今日のマッサージが始まる。マッサージ師は昨年同様ヨゲーシュ。彼のマッサージも実にうまい。自然療法のチャンドラカントよりさらにパワフルに押してくるが、気持ちよい。スペースも広い個室なので、自然療法のようにおじさんたちに挟まれてマッサージを受けることもなく、気持ちが楽になっている。

 

夕方もすでに5時を過ぎているがまだ日は高い。それでも今日のトリートメントは終了。夕飯が用意されていたが、さすがに昼を食べ過ぎているので、6時にシャワーを浴び、6時半から頂くことにした。食事の前にシャワーを浴びるのは、消化を助けると昨年ドクターに助言されていたこと、記憶力の悪い私も、ここで教わったことのいくつかは実践している。

 

夕飯はドクターが運んできてくれた。日曜日だからだろうか。野菜がコロコロ入っていて嬉しい。自然療法場では、いつも同じようなスープと野菜だったので、かなり新鮮だった。そしてチャパティは旨い。更には白いご飯まで出てきて感激した。ドクターが横で質問に答えてくれるので、どんどん思いつくまま質問を繰り返す。この環境が欲しかったんだ。

 

そうしていると突然電気がすべて消えてしまった。慌ててスマホのライトをつける。どうやら周囲一帯が停電したようだ。ドクターが『こんなことは滅多にない』と言いながら、ライトとろうそくを持ってきてくれた。いつもなら夜ドクターはいないので、ラッキーだった。一度は点いたがその後また消え、復旧には少し時間がかかった。ラダックでの停電などを懐かしく思い出す。その夜はチャイなど飲んだせいか眠りが浅く、また蚊にも刺され、夜中に起きあがってしまった。やはりGood Knightは必要だったか。

インドで自然療法2018(12)ウルリの街へ

2月24日(土)
復活の12日目

今朝は5時台に起きてしまう。さすがに10時間睡眠を何日も続けてはいられないだろう。Wさんが寝ていたので、ロビーのソファーでPCをいじっていると、『どうしたんですか?』と彼が心配そうに起きてきた。『急にいなくなったから』というが、確かに昨日までグータラ寝ていたオヤジが居なくなれば驚くかもしれないな。腰痛はすっかり良くなり、身体向上の予感。

 

今日は精算の日。まずはマッサージで支払いをして、と思ったが、チャンドラカントは『明日もするなら明日でいい』という。そしてマッサージが終わるとスーパーバイザーを指して、サインと言ってくれたのでスムーズに終わる。スチームバスも熱くなるので、人が出てから少し間を開けて入るようにすると熱くない。そんな技術を身に着けたと思ったら最終日だった。

 

それから難関のキッチンでもあっさりとサインをもらい、一度も行ったことがないライブラリーでも、何のチェックもなく、サインをもらう。まるでスタンプラリーのようだが、何のために我々がこれをしなければならないのか、分らない。更にドクター横のデスクでサイン、レセプションでもサインをもらい、ようやく会計に辿り着くからたまらない。これが治療にでも役立つならよいのだが、何とも首をひねるばかりだ。

 

昼ご飯を食べながら皆で雑談。まあこれもまた楽しい。12時に部屋でアイパックをすると急に頭がクラっとなる。めまいか?そこへ掃除ににいさんが入ってきたので勝手に掃除してと言ったら、目を開けてみていて欲しいという。そうか、何かがなくなったとか、疑われたくない、自分の仕事を守る手段なんだな。勿論アイパックを外し、見ていた。その後またアイパックをすると、そのまま完全に寝入ってしまい、1時間程起き上がれなかった。これもまた反応なのだろうか。もうドクターに聞きに行くことは出来ない。

 

3月の予定が埋まり始めたのでフライトの予約をしていると3時になり、もう腰痛はなかったが、お金を払ってしまっていたので、最後の電気治療に行く。ちょっと時間がかかった上、今日だけ熱く感じる。スピナルバスに行く必要もないと思い、そのまま部屋に帰ると、Wさんが娑婆へ出るという。

 

流石に一度ぐらい出た方がよいと思い、着いて行く。カードをガードマンに渡し、12日ぶりに娑婆へ。そこは思っていたよりは随分きれいな、小さな街だった。YさんとWさんはお菓子屋さんに走っていき、ドーナッツみたいなお菓子を買っていた。味見したが、腹にちょっと堪えた。

 

それから一人で駅まで歩いてみる。埃っぽかったが、清潔な道だった。駅には人が結構待っており、ちょっとするとハイデラバード行の電車がやって来た。いつものことだが、満員電車だ。しかも待っているところには停まらず、勿論表示もなく、皆が大慌てで前の方に走っていき、乗り込む。

 

もう少し街をフラフラしたが、すぐに尽きてしまうほど小さい。野菜市場を通り抜け、果物を物色するも、美味しいと言われたイチジクはなく、アシュラムの門まで帰ってくる。仕方なく、内部でイチジクを買おうとしたが、なぜか私だけが吹っ掛けられる。それは高いだろうというと素直に安くなるからよいのだが、嫌われているのだろうか。しかもそのイチジクは思ったほどうまい、ということはなかった。

 

夕飯を食べることにした。明日は午後1時まで食事できないと分かっているので、フルーツだけだとめまいがしそうだった。ちょっと珍しい食べ物もあり、にいちゃんが勝手に大盛りにしたこともあり、それを食べ切るのに苦労した。そして腹が完全に膨れてしまい、散歩ぐらいではへこまなかった。

スピードスケートマススタートで高木奈菜が金メダルを取った。この姉妹、姉が金2つ、妹は金銀銅だ、凄いな。でも美帆にしてみれば15歳で自分の方が上にいたのに、今回もまた越されてしまった感があるだろうな。カーリング女子も何とか銅メダル、これは日本中が沸いているぞ、きっと。

 

いつものように夜9時すぐにベッドにもぐりこんだ。だがその瞬間、ちょっとめまいを感じる。そうなると睡眠は十分足りているので、眠れなくなってしまった。このめまいの原因は何だろうか、一過性なのだろうか。そういえば、このアシュラムでは鉄分など殆どとっていないのでは。そうこうしているうちにWさんが部屋に戻り、先に寝息を立ててしまった。最後の夜が眠れぬ夜になろうとは。

 

2月25日(日)
ラスト&ファーストデ―

今朝は朝からてんやわんや。急に車のアレンジが変わったのだが、その詳細が何も詰められておらず、困ってしまった。ラトールさんに電話しても繋がらない。スマホの調子が悪いらしい。どうなるんだろう、今日は。8時にA師夫妻とYさんがプネーに向けて先に出発。Yさんは午後そのままムンバイに行き、今夜のフライトで帰国する。

 

8時20分には早くもチャンドラカントが迎えに来た。まず料金の支払いをしたが、少し多めに渡すと『お釣りは要らないのか?』と聞いてくる。何とも律義な男だ。勿論チップだよ、と言ったが、どう思ったかな。そして入念な最期のマッサージを受け、スチームに入り、体を洗い、全てが終了した。

人民中国2017『中国紅茶の旅』中文版(2)「湖北省 广东商人生产的宜红」

湖北省 广东商人生产的宜红

说实话,日本人对湖北省不是很了解。所以,知道这里有茶田,以前曾生产过大量茶叶并出口至国外的人更是少之又少。然而,据记载,日本政府曾在明治8年(1875年)为了调查红茶的生产情况,以及在明治20年(1887年)为了研修制茶法,向武汉及周边的茶叶产地派遣过研修人员。从这一事实依稀可知,当时的湖北省是生产出口茶叶的一大据点。

以此为线索,本期我到访了红茶产地宜都。当代中国的交通真是越来越方便。从汉口到宜昌,坐两个小时火车,再从宜昌坐1个小时汽车就可以到达宜都。而在20年前,今天这3个小时的路程,却需要坐汽车走上8个小时。那么,在茶叶出口繁盛的150年前,到底是通过什么运输手段,又需要花费多长时间呢?

为何从广东至遥远的湖北?

据说在19世纪20年代,有一位名叫钧大福的广东商人来到现在湖北省宜都山中的五峰土家族自治县。他判断这里的茶叶适合生产红茶,于是教给少数民族制作红茶的方法。并将生产的茶叶经由宜昌、汉口运至广东,又从广东出口到欧洲。那么,钧大福为何特意从广东千里迢迢来到湖北生产宜红呢?

从宜都市汽车客运中心站乘车来到长江边。此次,我到访的宜红茶业就位于长江和其支流清江的汇合处。在水运作为主要运输手段的时代,不难理解在此建造茶工厂的缘由。尽管现在会在交通更加方便的地方修建新工厂,但古时候应该是有河的地方才有茶。

五峰是从唐代开始就已经有茶田存在的古代茶叶圣地。据说制茶的是山中的少数民族。到了19世纪20年代,清朝限定只有广东一地可以开展对外贸易。然而,实际上,恰克图(清代中俄边境重镇,原属中国——译者注)已经作为北方的窗口开港,推动了面向俄罗斯的茶叶出口。想要通过海路将茶叶出口到欧洲的广东商人,一定是觉得仅仅出口经由河口运来的福建茶叶还不够,有必要压制其他茶叶。并且,压制的茶叶还必须是红茶,于是,就将一直以来生产的绿茶改制成红茶。

被作为调配茶的原料

经历过两次鸦片战争之后,1861年汉口对外开放,宜红的产量也在19世纪80年代迎来了鼎盛期。然而,那之后,和其他的中国红茶一样,受到廉价的印度和斯里兰卡茶叶的冲击,宜红走向衰退,新中国成立后,才有国营宜都茶厂继承了宜红的生产。

改革开放后的上世纪80年代,也是以广州为中心开始了对外出口。我采访了当时在广州茶叶进出口公司工作的一位女士。她对我说:“宜红虽然是欧洲人比较喜欢的红茶品种,但30年前,它仅仅是和其他茶叶,比如从云南移栽到广东的茶树叶进行调配的原料。所以,可以说宜红这一品牌已经从历史上消失了。”的确,宜红相比其它中国红茶略带苦涩。

积极开拓国内市场

宜都茶厂进入21世纪后实现了民营化,更名为宜红茶业。以地方政府支持企业发展的形式,摸索重振宜红品牌。该厂副总经理章艳珍说:“今后,我们还将拓展国内市场。原本产量的90%以上都是出口,现在有20~30%面向国内市场,认知度正在提升。”

茶工厂附近的实验茶园

红茶从某种意义上说是一种调配茶。而一般的中国红茶是不调配的。现在,即便从中国出口时不加调配,运到欧洲市场后也会和其他茶叶混合,生产出符合当地人口味的红茶。由此一来,红茶很难确立自己的品牌,所以,今天开拓新的国内市场,制作中国人喜欢的红茶成为课题

(日文原文刊载于《人民中国》杂志2017年2期 翻译:钱海澎)

人民中国2017『中国紅茶の旅』中文版(1)「江西省也有武夷山?」

江西省也有武夷山?

我们都知道“茶叶的发源地是中国”,但如果问道“红茶的发源地是哪里”,不知为何得到的答案却是印度等。似乎中国与红茶相距甚远、毫无关联。这或许是因为自古以来就没有中国人饮红茶的印象。然而,最近在中国掀起的红茶热,特别是随着以福建产金骏眉为代表的高价红茶的出现,让红茶的知名度迅速提升,普通民众开始关注起中国红茶。

通过经营红茶的中国朋友的介绍,我有机会到访中国各地的茶叶产地。让我大为吃惊的是,红茶产地竟然有18处之多,我想借此机会向喜欢或不喜欢红茶的人们,介绍中国的红茶产地,以及其历史背景、文化背景和生存现状。另外, 最近我不断在中国各地听到我从15年前就开始使用的“茶旅”一词,感觉有形成新产业化的趋势。

江西省的武夷山

在以茶乡闻名的福建省,有一座被列入世界遗产的风光明媚的旅游胜地——武夷山。这里也是被称作岩茶的乌龙茶等茶叶的著名产地。实际上,据说全世界红茶的发源地就是武夷山的桐木村。现在,这里是自然保护区,一般人禁止入内,于是我只能忍痛割爱。

一位福州友人得知情况后建议我:“那就去江西吧!那里也有武夷山!”我不明就里,心想反正也有红茶,就跟随他驱车从武夷山出发奔向江西。中国如今已被高速公路网所覆盖,即便从山区出发,走高速很快就进入江西境内。沿途有几个隧道,最长6公里。我不由得想,古人到底是怎么翻山越岭来到这里的呢?

我们的车沿着河岸行走驶入大自然的怀抱。周围没有住家,水流清澈,密树成林。这里虽然是江西省武夷山自然保护区,拥有国家级的自然资源,但完全看不到游客的身影。虽然我不能相信江西省也有武夷山,但仔细一想,日本的富士山也不只是在静冈县能看到,从山梨县也可以看到,这是一个道理。

万里茶路第一站 河口镇

途中忽然出现了名为“河帮茶厂”的茶叶工厂。到底为何会在这里建厂?并且生产的并非福建盛产的乌龙茶而是红茶?此外,地名桐木关也让人联想到福建的桐木村。

笔者现在对“万里茶路”有着浓厚的兴趣。这是一条将在福建、湖南、湖北生产的茶叶经由蒙古、西伯利亚,千里迢迢运送到俄罗斯莫斯科和圣彼得堡的国际商贸路线。河帮茶厂的存在,印证了福建生产的茶叶先被运至这里(古人要肩挑茶叶翻山越岭令我很惊叹),再由数百名制茶师傅进行加工,之后,经由万里茶路或广东出口至欧洲的历史。顺便解释一下,“河帮”指的是汇集在这附近的中心城市河口(位于现在的上饶市铅山县)的制茶师傅们。

河口的繁荣有深厚的历史背景。1757年,清朝的乾隆帝敕令只有广东一地可以和欧洲开展国际贸易。导致福建武夷山产茶叶的贸易通道——福州和厦门等地的沿岸港口被封锁,只好将茶叶先集中到江西河口,因为这里既是通往广东的捷径,也连接着“万里茶路”。

从流经河口的信江一路到珠江,便来到广东。而走汉口方向又可通往“万里茶路”。并且,这里和上海周边的水路也相连,所以,河口实际上占据了可以将茶叶分别运往三地的绝佳地理位置。只可惜其繁荣终止于鸦片战争。自从福州、厦门和上海开通港口之后,河口便优势尽失。其昔日繁华成为了一场百年遗梦。

复苏的河帮茶厂

河口的现状

如今,河口古镇依然沿河健在,但遗憾的是,和武夷山自然保护区形成鲜明对比,这里由于欠缺保护,正在日益衰败。仔细看,房屋的地下是相通的,有些地方可以直通河道,用于运输茶叶,让人联想到往昔场景。只是,河边的港口已经了无踪影,只看到洗衣妇女。

当“万里茶路”的历史意义开始在中国各地广为传播的时候,河口似乎也在一点点重新认识那段历史。古镇中的老建筑被重新装修后开了茶庄,被人们视为那段历史的见证者。如前所述,通过提升红茶的价值,振兴红茶贸易,一场重新关注河口历史意义的行动悄然兴起。

对于在河口加工的红茶,其出口对象国英国等地也表现出高度的关注。听说,甚至有大学学者直接到访当地搜集相关资料。

想必今后,这里凭借茶叶历史、丰富的自然资源,以及新产的红茶,将会在文化旅游产业结出累累硕果。毕竟250年前的红茶究竟是怎样的味道和芳香已无人知晓。

萧条的河口古镇

(日文原文刊载于《人民中国》杂志2017年1期 翻译:钱海澎)

 

 

 

 

 

インドで自然療法2018(11)腰痛がぶり返す

2月22日(木)
腰痛の10日目

朝は5時台に目が覚めてしまった。Wさんは既にヨーガに行っている。腰が痛い。これは困った。取り敢えず冷やさないようにして、頑張る。7時台に暖かいハーブミルクを飲むと少し落ち着く。和歌山の知り合いからも歓迎とのメッセージが入る。もう心は日本に飛んでいた。

 

いつものマッサージを受け、熱いスチームバスに入ると、腰痛は柔んできた。ドクターの診察を受けようとオフィスに行くも午後からと分かり、体重を図る。何と昨日より2㎏以上落ちている。スタッフが『体重計が2㎏間違っているね』とあっさり言う。ダイエットの人にとってはぬか喜びか。

 

昼ご飯を食べ、アイパックで昼寝、これももうルーティン化している。2時半にオフィスに行ったが、ドクターと話したのは3時過ぎ。腰痛を説明すると『自然療法の反応とは関係ない』と簡単に言われ、すぐに別棟送りとなる。そこで腰を温める機械治療。ベッドに寝て、腰を板に押し当て電気で温める。これって自然療法?1回80ルピーの別料金。これから3日間受けることになった。一時的に収まるが、夜にはまた復活の痛み。どうするんだ。まあ神経治療で背中を足で踏まれるよりは良いか。

 

和歌山の人とFB電話で話す。いつの間にかことは大きくなり、セミナー開催の様相となる。とにかく地方に行けるのは有り難い。大阪のお茶会も10名以上が参加だそうだ。また作業が増えてしまった。3月は一体何回話をするのか、原稿の締め切りはどうか、などと完全に日常に戻ってしまい、また腰痛がぶり返す。なんてこった。

 

Wさんたちはフルーツダイエットをはじめ、夕飯がフルーツだけとなり、一人で夕飯を食べる。さすがにもう飽きてきたな、この食事。しかしここを出所しても又スチェータ先生のクリニックだ。何と今回はインドに来て一度も娑婆で食事もチャイすらない、という逆説的にいえば画期的な旅となりそうだ。日本での反動が怖い。

 

深夜特急3、読み終わる。『インドでは何も得ることができない』という言葉が響く。まさにその通り。何かを期待してもイケないし、何かを得ようとすれば膨大な研鑽が必要になる。中国もそうだったが、この広大なインドを理解できる人間などいないのだ。私は既にその挑戦意欲すら失っているだろう。それでも何かを知りたい!何かを持って帰りたい。

 

2月23日(金)
平穏な11日目

朝はWさんより私の方が早く起きた。と言っても7時前だが。ロビーでPCをチェック。それからお茶を飲みに行くと外にYさんがいたので歓談。彼女の会社やご家族と、私の元勤め先はかなり関りがあることが分かり、話が弾む。ひとはどこで繋がっているのか分からない。

 

今日も順調に予定をこなす。チャンドラカントのマッサージは既に私の日常と化しており、これだけはもっと続いて欲しい。彼は英語も多少わかるし、毎日迎えにも来てくれ、私の体も気遣ってくれる。腕もよく、マッサージは心地よい。勿論仕事としてやっているのだが、実に好感が持てる。ここに来ての最大の収穫だった。

 

 

そろそろここを離れる日が近づいてきている。精算をどうするのか、次の日程がどうなるのかが気になり始める。明後日はラトールさんが迎えに来てくれることになっているが、何時に来てくれるのかと電話を入れたりする。インドでは大雑把には決まっていても、詳細は直前に詰めないと分からない。しかも実際に電話すると25日の予定が知らない間に入れられていたりするから、面白い。A師やYさんとも別行動で決着する。

 

ランチを食べていると、インド人がやって来た。日本に結構詳しいと言い、我々にも興味を持っている。『富士山のさんは、須賀さんのさんという意味か?』などと言われると、こちらも思いもよらず、驚く。『どうして富士山は、ふじやま、と読まないのか?』と聞かれても困る。日本に興味を持つインド人はどんどん増えているが、その知識は、どこから手に入れたのか、と思うようは、不思議なものに時々遭遇する。

 

午後スピナルバスをしようと向かったが、何とスタッフが誰もおらずに出来ず。こんなの初めて。仕方なく、昨日の腰の電気治療へ行き、10分間行うとかなり良くなる。今日は右が少し良くなり、ただ左に少し痛みが出ていたので、かなり効果的だった。そのままフルーツを買いに。今日はおじさんがおらず、おばさんの言い値は少し高いが、結局パパイヤとブドウを買う。今晩はフルーツダイエットの続きだ。

 

オフィス前で久しぶりにKさんに会った。彼女は到着日からフルーツとジュースで5日目を迎えていたが、実に元気で驚く。この人が一番ここに合っているな、と思う。彼女によれば、最終的な精算にはドクターのサインがいるのだという。それなら忙しいドクターを今日の内に捕まえておく方がよいだろうということになり、急きょオフィスに向かう。

 

また30分ぐらい待たされたが、何とか面談にこぎつける。そしてサンポートに感謝し、明後日発つことを告げる。血圧を測ると130/80、これはベストだと助手のジュディが言う。インド人の血圧は高いのだろうか。まあ確かに血の気の多そうな人は多いのだが。そしてドクターと記念写真を撮り、握手して別れた。ただ明日はキッチンから図書館まで終了のサインをもらって歩く作業があると聞き、愕然。そんなのそっちでやってよ!

 

夕飯の時間になったが、もうキッチンの食事には飽き飽きしており、買っておいたフルーツで済ませる。こんなこと、日本にいたら絶対にできないよな。日本には美味しいものが多過ぎて、基本的にダイエットなど無理だと思う。オリンピックのカーリング準決勝で日本が韓国に負けてしまったのは何とも残念。

インドで自然療法2018(10)悪者は判明したが

別れの9日目

朝7時、目覚ましの音で起きる。ちょうど10時間、一度もトイレに行くこともなく眠っていた。体はすごく快調で、この上ない状態だ。甘いハーブティを飲みに行く。もうキッチンデスクには近寄らない。9時20分にマッサージ師が来た。今日はいつもより少し遅い。マッサージ後は、そのままスチーム。今日は初めて一番大きなバスに入り、快適。小型なのは熱すぎて火傷気味だから、これからはこちらにしたい。

 

具合の悪かったTさんが、やはり帰国することになった。今晩遅くの便でプネー空港から発つ。その精算でもめており、なぜかまた私が呼び出されて通訳する羽目になる。私はリーダーではないのだから呼ばないで欲しい、そして昨日の事件を考えれば、私に良くも頼めるな、という気持ちだったが、インド人は凄い。臆面もなく頼み、そして李さんにまで泣きついて私を動員してしまう。

 

彼らはTさんに今晩遅い便なので夜9時半まで部屋を使い、それからタクシーで空港へ、という提案をしていた。だがTさんは帰ってくるはずのデポジットが少ないので確認すると、その日の泊まり賃もきっちりとられていることが分かる。この世界に親切などはないのだ。それを断ると、『では12時にチェックアウト、3時にタクシーで空港へ行け』となったらしい。理由は夜女性が一人で行くのは危ないから。完全に論理が空回りしているが、ようは追い出したいのだ。

 

因みに彼女はそれを受け入れ、午後3時にタクシー乗ることに同意したが、12時にチェックアウトした後も、同室のKさんの部屋にいたところを咎められ、また私は呼ばれる事態になった。本当に金が絡むとやけに細かいな、インド人。まあその場は適当に治め、適当に過ごしてもらう。

 

午前中ドクターと面談して、全てのダイエットの中止と昨日の事件の説明を求めるつもりだったが、何と彼は会議で不在だった。もうこうなれば、ドクターの意見を待つまでもなく、健康体の私は通常食に転換した。フルーツダイエットは僅か1日で終了、体重は250g減少に止まった。2日ぶりに食べた食事は以前より美味しく感じられた。

 

部屋にアイパックが届いていたのでやってみる。初日からメニューにはあったが1週目は来ていなかったような気がする。Wさんが入室してから、ちゃんと来るようになった。そういえば、他の部屋にはマッサージシートや水、せっけんなどがセットされていたらしいが、我が部屋には全く無かったので、私はもう必要はなかったが、Wさんのために抗議してみた。というより、昨日の事件を根に持ち??要求できるものはちゃんと要求しようと思うようになる。ウデイクマ氏に言うと、支給するとの回答で、午後にはちゃんと配送された。1つせしめたぞ!?

 

午後2時半にドクターのところへ行く。彼は昨日の事件をすでに知っており『あれはオフィサーのミステイクで、キッチンに指示が正しく伝わっていなかったのだ』と説明していた。ようはデスクのおばさんが悪いのではなく、そこに指示を出すべきオフィサー、つまりあのウデイクマ氏に責任があるという。彼は今朝何食わぬ顔で『彼女は申し訳ないと謝っている』とかぬかしていたが、事の真相はこれだろうな。それだとつじつまは合う。

 

ドクターには『私は健康体なので、何を食べてもよいようにしてくれ』と言い放ち、もうダイエットは止めにした。もうあんな面倒な思いはしたくない。今晩から通常食かフルーツか、自分で選ぶことに決めた。因みに体を冷やすのはなぜ、という質問には、『一時的に体を冷やし、体内の循環を良くする』との答えだった。また血圧を測ってもらうと130/90で前回の100/80よりだいぶん上がってしまったが、こちらの方がよい、と言われる。インド人は血圧が高いのだろうか。

 

ドクターの診察が終わると、ちょうどTさんが車に乗り込み、アシュラムを離れる場面に出くわした。ちょっと残念ではあるが、インドでは体調最優先だから、やむを得ない。最後に写真を撮りたいというので、私とかと思ったら、何と彼女はウデイクマ氏とKさんのところへ行き、私がカメラマンになったのには呆れた。ウデイクマ氏もまんざらでもない様子で写真に納まっている。この悪代官め!!意外と憎めないタイプだ。

 

更に氷水のパックをやってみると、何だか体が絶好調になり、それと共に腹が減って来た。ここではフルーツを買う以外の自由はないので、今の季節が美味しいと聞いた、ブドウを買ってみる。200g、30ルピー。パパイヤが1㎏、40ルピーであることを考えると、高いのか安いのか。まあとにかく食べてみると甘いので許す!それにしても、何かをやる気はあまり起こらない。怠惰になっている。

 

何となく、娑婆の食べ物が恋しくなる。Wさんと話しているうちに、彼の出身地である大阪へ行ってみたくなる。そういえば先日在阪中国人から、お誘いがあった。和歌山からもお誘いがあった。ついに帰国後、静岡へ行ったついで?に、関西方面への訪問計画を練り始めた。大阪の知り合いからよい反応があり、行くことになるだろう。

 

オリンピックは女子スピードパシュートで金メダルが出た。高木美帆はこれで金銀銅全てを手にした。またお姉ちゃんと同時金メダル。きっと苦労が報われただろう。15歳でオリンピックに出て、前回は落選。厳しい状況からよく這いあがったと思う。カーリング女子も苦しみながらのベスト4。これからの一発逆転はあるだろうか。

 

夜寝る時にベッドに横たわると、急に腰が痛くなって来た。折角治って絶好調と思ったのに、好事魔多し、である。いつもは目をつぶれば5分以内に眠れるのに、ちょっとした痛みが気になって、体の位置を変える等して、なかなか寝付けない。ウトウトしながら1時間以上はそうしていただろうか。