カンボジア・タイ 国境の旅2016(5)日本から高校生がやってきた

高校生がやってきた

Tさんは本当に忙しい。その中をお付き合い頂いているのだから、申し訳ない。今日もお客さんが来る(昨日来ると思い込んでいた人々)。私と全く同じルートで国境まで来る予定なので、一緒に迎えに出た。10時前に2台目のロットゥに乗り、彼らはやってきた。Tさんの地元愛媛から、高校生二人とその引率者、そしてもう一人女性も乗ってきた。総勢4人、皆大きなスーツケースを持っており、バス代の超過料金を取られる。入国書類を書き、無事国境を越えた。

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引率者のSさんは愛媛で農業をしており、昨年もここを訪れている支援者。そして地元の高校生にカンボジア行きを募集したところ、高校二年生の男女1名ずつが応募してきたという。この歳で、カンボジアを見てやろう、という気持ちを持っていることが素晴らしい。さすがに陸路の国境越えは緊張したという。こういう経験は日本ではできないので、非常に重要だ。

 

男子は陸上競技をやっている、小柄だががっしりしたタイプ。何とも人が良い田舎の高校生だ。同級生からも『カンボジアへ行くのか』と驚かれたらしいが、行ってみたいと気持ちが勝ったのだろう。女子は一人っ子というから、さぞや両親が心配しただろうと聞くと『お父さんが行ってこい』と背中を押したらしい。天真爛漫に育ったのだろうが、どこへ行っても女は強い、と感じる。

 

まずは村人を訪問した。実は家の長男は、デマイナーとして地雷処理に当たり、その中事故で亡くなっていた。この事故はTさん不在の中で起こり、7名の方が亡くなったという。Tさんにとっては痛恨の大惨事であった。日本であれば『安全には万全を期したのか』など遺族から強いクレームが予想されるが、我々は実に温かく迎えられた。『息子はこの村のために作業をして、不幸にも亡くなった。誇りに思う』という言葉が突き刺さる。しかし残された両親、そしてたくさんの弟や妹の胸中はいかばかりか。

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話を聞いていると奥さんが態々冷たい水を買ってきてくれた。これは何とも有り難い。言葉は通じていないが、気持ちは通じている。庭を見ると、古ぼけた石碑に日本の国旗が見えた。近づいてみると、そこには井戸があった。『この井戸ができるまでは、自家用水は1㎞以上離れた川まで汲みに行っていた』という。日本政府の援助で井戸が掘られたことにより、大幅に仕事が軽減された。

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だがTさんは『他の家で、掘った井戸に落ちて亡くなった子供がいた。安全対策を取る必要もある』と厳しい顔になる。そこには起きてしまった事故に対する無念の思いが滲んでいた。村の人のために行っている活動で村の人が犠牲になる、これは非常に重い現実だ。ただ村人も、地雷が処理され、井戸が掘られることが、基本的には村の生活をよくしてくれることを理解しているからこそ、Tさんに対しても感謝の気持ちになるのだろう。もし少しでも金儲けのためにやっていれば、必ずや非難され、活動は中止となるはずだ。

 

初めての海外、勿論初めてのカンボジアで、いきなりこのような現実に直面した高校生は、一体何を思ったことだろうか。単純に『カンボジアの人のために何かできることを』などという感覚が、この現場では通用しない現実を見て、きっと何かを得ていくことだろう。しかも郷里の大先輩が、懸命にその道を切り開いている姿を横で見られるのだから、これは大きな財産になるのではないか。

 

事務所へ行くとまた雨だ。昨日は急に降り出した雨で靴を下に置いたままなのをすっかり忘れてしまい、ずぶぬれになった。扇風機で一晩乾かして、何とか履けるようになる。今日は同じ過ちを繰り返さない。ただ今晩は部屋を女性に譲って、私は特等席である階段脇のベランダで寝ることにしていた。壁はないので、夜強い雨だと濡れるかもしれない。どうなるのかな。また美味しくお昼ご飯を頂く。高校生も恐る恐る口に運び、美味しいとわかると食べ始めた。

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午後は工場を見学した。キャッサバ焼酎を作っている。地雷処理が終わった場所にキャッサバが育つ。それを原料に焼酎を作る。焼酎を作った経験もないTさんがこれにチャレンジした。すごいな。既に4年前に私もお土産に買った。日本への輸出も決まりかけたが、成分の問題で輸出の話が止まってしまった。既にこの問題は解決しているようだが、現在は中国向け輸出を狙っている。非常にネバリ強い取り組みが行われている。工場内には醸造する機械が置かれており、スタッフが日夜研究にいそしんでいる。外には古い小型トラックがあった。使えるものは何でも使う。使う用途に合わせて改造して、何とか活用する。モノが溢れている社会ではないのだ。

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カンボジア・タイ 国境の旅2016(5)人材育成の現場

村の教育

それから実際に過去に地雷処理が行われた場所へ向かう。雨でぬかるんだ道、そこに地雷処理の看板が建っていた。その先の道はTさんが寄付を募り、整備したのだという。確かに地雷を処理しても、それからどうするのか、どのように使うのか、も重要だ。車で数分行くと、小さな家が建っていた。だが農作業に行っているのか、誰もいない。なぜここへ来たのか。

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『実はここの家の子が今愛媛に留学している。ものすごい勉強家で、中学生の時、どんなにひどい雨でも日本語学校まで通ってきていた。日本の高校に留学する時には、日本の高校生と同じ基準で受験して、見事合格した。120時間は勉強していた』というのだ。これには正直驚かざるを得ない。何しろこのぬかるみの道を歩くだけでも大変なのに、学校まで行くとは。そして毎日街灯もないこの道を歩いて帰ってきたのか。更には日本語がそれほどできないのに、頑張る、驚異の粘り。今は日本の大学に入るべく、猛勉強しているらしい。是非一度会ってみたい!その家の庭にはなんと不発弾が転がっていた。これが現実なんだ、その中で光を見出そうと努力する人々。

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そして事務所に戻ると、学校を終わった子供たちがそこで遊んでいた。ちょうど日本語教室が始まる所だった。私もそこに混ぜてもらう。生徒は10-13歳ぐらいの子たち。自分の名前と年齢を大きな声で言ってくれる。先生は高校生。それでも日本語が相当にうまい。彼女の通訳で、一人ずつ、色々と聞いてみる。『ここから日本は相当に遠い』ということを実感する。日本語の先生になりたい、日本へ行って日本語を勉強したい、と言われるとその夢をかなえてあげたい気持ちになる。

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この学校は日本人女性の寄付により、昨年完成したという。村を向上させていくには、『教育』が重要だとTは考えている。しかしただ日本語を教える、ということでない。教室に入る時に、履いてきたサンダルをきちんとそろえる、そんなところからやっている。恐らく子供たちも、煩いな、面倒だな、と思っているはずだが、このような基礎教育こそ、これからのカンボジアに必要なものだという。

 

今は小学校に通えない子供は殆どいなというが、勉強するモチベーションを上げる必要もある。一生懸命勉強した子にはご褒美が必要だ。日本側で受け入れてくれるところがあれば、留学にも送り出す。現在2人の村の子が日本に居る。先ほど家を訪ねた子の頑張りは、村でも有名なはずだ。生徒たちがきれいな日本語でアンジェラ・アキの『手紙』を歌ってくれた。先生役をしている高校生は本当の歌手のように『涙そうそう』を歌い上げた。次は誰の番だろうか。人材育成、その形を見る。

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シャワーを浴びさせてもらう。と言ってもお湯は出ない。水シャワーを浴びるのだが、水をそのまま浴びると冷たいということで、Tさん自ら考案した、シャワーがそこにあった。確かにこれを使うと、管を通る間に少し温くなっている。とはいえ、水シャワー、私はインドやタイなどで何度も経験があるので、1-2日は問題ないが、出来ればお湯が欲しくなるはず。食事も日本食などは食べず、現地の食べ物で通しているらしい。Tさんは私より一回りより上なのに、村人と同じ生活をしている。これは簡単なようなすごいと思う。そして泊まりに来た日本人に水シャワーを経験させることはかなり重要なことのように思えた。

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夕飯を頂き、Tさんと話し込む。ここカンボジアで地雷処理をする意味、政府の関与、国際貢献やボランティアなどの在り方、など話は多岐に渡る。『議論ばかりしていても何も進まない。まずは実践すること』なのだろう。既に69歳という年齢のTさんがカンボジアと日本を何回も往復して、実務である地雷を処理し、村の将来を考え、そして日本にこれを伝え、寄付を募る。今回、クラウドファンディングという新しい手法を取り入れたのも、『やってみよう』という精神の表れだろう。この村の在り方とそこへの関わり方は、必ずや日本人にも参考になる。Tさんは相当に疲れているはずなのに、夜遅くまで話に付き合ってくれた。情熱が感じられる。

 

728日(木)

大きなベッドで安眠した。まだ薄暗いのに鳥のさえずりがうるさい。外に出て朝日を浴びる。犬が転がって遊んでいる脇で、デマイナーの女性が既に出勤してきて、庭の掃除をしていた。バイクで送られて出勤する人もいた。6時半過ぎには朝礼が始まる。今日やるべきことを確認。それから場所を移動して、昨日までに除去した地雷を11つ確認している。『これはソ連製』などと言いながら、カタログを見ている。地雷と言ってもその種類は予想よりはるかに多い。爆薬の有無などは勿論、その性能、処理に仕方、などの知識を共有している。

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朝ご飯を頂くと、Tさんの部屋でコーヒーを飲む。するとPCが振動して、スカイプが始まる。日本との時差2時間、既に愛媛事務所の活動は始まっており、NPO理事長として、Tさんに色々と指示を仰いでいる。プレーイングマネージャーであるTさん、理事長が現場の第一線で活動しながら、色々な決済もするのは大変だ。

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カンボジア・タイ 国境の旅2016(4)村に工場が誘致されて

 2. タサエン村
いきなり現場見学

国境を出た車は田舎道を走っていく。と言ってもちゃんと舗装されており、問題はない。広々とした空間が広がっている。元ポルポト軍の司令官の住まいが立派に建っていた。そういわれて初めて、こののどかな空間が20年以上前は内戦の舞台だったと気付かされる。しかし本当にここで何かがあったのか、と思うほど、何もない静けさ。

 

車は大きな建屋に近づいた。そこはTさんの地元、四国から企業を誘致して建てられた工場だった。正直こんな田舎に日本企業の工場があることに驚く。そして日本人の駐在員も一人いた。工場を案内してもらうと、上等な和紙を使い、和服を包むための紙を作っていた。カンボジアの片田舎で和服を包む紙とは。この意外性に仰天する。工場は広々としており、その中でカンボジア人の若者が働いている。日本語の通訳をしている若者は先日バイクで事故に遭い、かなりのケガをしていた。『カンボジアではヘルメットは重要です』という。

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次は地元のカンボジア人の家を訪問した。昼間からほろ酔い気分になっているところにちょうど行ってしまう。ここの主人は内戦で片足を失い、ここに移住。農地を広げるために危険を承知で開墾し、結果地雷でもう一つの足を失ってしまったという。だがそれにもめげずに、農地を広げ、キャッサバなどを植え、またその苗を育てて他者に分けていく、という方式で、成功を収めていったようだ。

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義足をつけていながら、我々を快く迎え、さっさと歩いて畑を案内してくれる。Tさんの支援が如何に彼の助けになっていたかを知るに十分な笑顔で話してくれる。彼の人生を窺い知ることはできないが、内戦があり、兵士として戦い、戦後は地雷とも戦ったのだろう。突然闖入した者には計り知れない努力の結果、今があるはずだ。

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Tさんの事務所へ行く。思ったより広い敷地、2階建ての建物と、反対側には平屋、正面には工場のようなものが建っていた。平屋は寄付により建てられた日本語学校、正面は焼酎工場だった。2階建ての2階がTさんの事務所兼住居。空いている一部屋は私が使わせてもらう。この部屋には曽野綾子さんなど、著名人も泊まったことがあるという。因みに人気俳優の向井理はハンモックに寝ていたとか。

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既に昼近く、ご飯が用意されていた。ここには2人の若い女性が住み込みで勤務していた。ベテランが辞め、まだ来たばかりだという。20歳前だが、聞けば10歳ぐらいから畑の草むしりなどの仕事をして、その後タイに出稼ぎに出たり、戻ってきて色々な仕事をしたらしい。若いのに、かなり苦労している。でもこれがこの村では珍しくないという。

 

ご飯と、魚に甘いたれをかけて食べる。生野菜も付いている。これはかなりうまい。彼女らは小さい頃から簡単なご飯は自分で作れるようになっているらしい。ご飯も進む。カンボジアの料理は基本的に甘い。そしてアジア全体にそうだが、ご飯を食べるためにおかずがある。猫がご飯を狙っている。何だか微笑ましい光景だった。

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ちょっと休息していると雨が降り出す。スコールというほど強くもなく、ほどなくして止む。するとTさん、ミーティングがあると言って下に降りたので、付いていく。そこには地雷除去の作業をする5人の隊員、デマイナーがちょうど作業現場から戻っていた。何と5人のうち3人が女性で驚いた。しかも皆家族を置いて、遠くの作業場まで出掛けるので、数日戻らないこともあるらしい。

 

さすがTさん、元自衛官。きちんと整列して、きちんと挨拶する。こういう光景を見ていると、『けじめ』という言葉が生きて来ると思う。特に地雷のような危険物を扱う仕事、当然慎重に行うはずなのだが、ちょっとでも気が緩むと、事故を招きかねない。作業終了報告を簡単に終えて、すぐに解散となったが、身が引き締まる中に、暖かい何かが走る。

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雨も上がったので、外出。もう一つ誘致された工場を見る。こちらも紙関係。ご祝儀袋などを作っている。原料は全て日本から運び、形作る?作業だけ。若者が数十人、なんとも楽しそうにやっている。聞くところによれば、この作業、材料を家に持ち帰って、お母さんや妹と一緒にやってもよいらしい。いわゆる内職なのだ。日本では既に内職する人も減っており、また人件費から考えて採算も合わないのだろう。

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だがこちらでは人が余っており、家族まで含めると、かなりの労働力がある。内職、実は意外と難しいようにも思うが、カンボジアなどでは有効な手段にも思える。ここでは昔Tさんのところで地雷処理に携わった人もおり、またこの工場が誘致されて仕事ができたことを感謝している人もいる。出稼ぎに行かなくてよい、家族と一緒にいられることはここでは何より重要かもしれない。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(3)不思議なバスで国境へ

727日(水)
カンボジア国境へ

翌朝3時台に起きて、410分には宿をチェックアウト。予め言ってあったので、フロントの横でスタッフが仮眠を取りながら、鍵を受け取ってくれた。そして歩いてテスコへ。道路には当然車は走っておらず、陸橋ではなく、下を渡ると、すぐに駐車場へ着いた。まだ暗かったが、そこにはすでに10人以上の先客がいた。英語で『カンボジアへ行くのか』と聞くと、きちんとした英語で『そうだ』という答えが返ってきたので、彼の横に腰を下ろして待つ。

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その後続々と乗客が集まってきたが、その人々には1つの大きな特徴があった。非常に軽装、旅行用の荷物を持っているのは私だけなのだ。更にはタイ人らしい人が少ない。このバスはカンボジアへの帰省用かとも考えたが、土産を持っていない。担ぎ屋でもない。フィリピン人や欧米人も数人見られ、どうも違うらしい。かといっても観光用でもない。皆慣れた様子でバスの到着を落ち着いて待っている。

 

510分頃になり、ようやくバスの姿が見えると皆が一斉に立ち上がり、バスの方に向かった。タイでよくあるロットゥと呼ばれるミニバスだから、全員が乗るのは難しい。当然私も出遅れてしまい、大きなケースを持って乗り込もうとしたが、なかなか厳しい。運転手が整理するとあと一席あるというので何とか乗り込めた。残された人も慌てていないので、もう一台バスが来ることは明白だった。私の荷物は運転台に置かれた。

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席は一番後ろの一番端。隣にフィリピン人の小柄な女性が座ったので、まだよかったが、そうでなければその狭さにとても耐えられなかっただろう。初めは見慣れたスクンビットの通りを走り、そのうち郊外に出て、それから2時間、どこを走っているのかもよくわからないまま、車は前に進んでいく。夜も完全に明け、スピードが出ていた。

 

2時間後に休憩があった。ほとんどの人はここでトイレに行き、朝ご飯を買って食べていた。私は乗り物に乗っている時は食べ物を食べないようにしているので、その辺を散歩した。足が伸ばせるのが有り難い。車もバンパーを上げ、休憩している。ここは一体どこなのだろうか。そして同乗者同士が英語で話しており、顔見知りも多いようだが、一体誰なんだろうか。

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30分の休憩後、車は再び走り出し、私は眠りに就いた。そしてその2時間後、起き上がると、そこは閑散とした国境だった。時刻は9時半、休憩を入れて4時間半の旅だった。皆が車から降りて、私の荷物も運転手が下してくれた。さて、ここからどうなるのだろうか。確かTさんは国境で待っていると言ってくれていたが。携帯に電話すると、タイ側を出国するように指示がある。乗客全員がパスポートを持ち、出国手続きをしていた。やはりこの人たちはすべて外国人だった。タイ人とカンボジア人は別のゲートから簡単に出入りしていた。

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出国するとそこにTさんが待っていてくれた。2年ぶりの再会となる。橋を渡るとそこがカンボジアだった。そして事務所のようなところへ行くと、ドイツ人が待っており、車代として400bを支払った。一緒に乗ってきた他の全員が彼の周りで、用紙に何か記入していた。それでようやく分かった。このバスはタイのビザを取るために一度国外に出るためのバスだったのだ。だからミニバスがテスコのところにやってきて、知っている人だけが乗り込んだのだ。私はそこに便乗した特別の客だったという訳だ。

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通称ビザランと呼ばれるビザを繋ぐために一度国外に出る行為。本来はきちんとした滞在ビザを取るべきことは言うまでもないが、様々な事情でそれができない人が短期ビザを繋いでいる(日本人なら30日のノービザを繰り返す)。当然政府も取り締まりをするのだが、そこはタイ。必要悪に対しては規制が緩い。また偶に厳しくなるが、すぐに緩くなるのが実態だろう。同乗してきた人たち、バンコックで何をして、働いている人々なのだろうか。ちょっと気になるが聞けなかった。

 

Tさんが反対側の事務所に入った。そこは皆知り合いのようで握手を交わしている。そこで35ドル支払ってビザが交付された。ここがドゥーンという名の国境だと初めて知る。タイからカンボジアへ行く外国人は普通、アラヤンプラテートからポイペトに入るのだが、ここは全く知られていない、こんなことでもなければ通ることはない国境だった。

 

Tさんの車に乗り、国境を離れようとしたが、出口のところで、パスポートチェックがあり、どこかへ行けと言っている。よく考えてみたら、ビザはもらったが何と入国のスタンプを押してもらっていなかったのだ。チェックされてむしろ良かった。カンボジアを出国する時、入国スタンプがなければ、どういう扱いになるのだろうか。不法入国の疑いで捕まってしまうのだろうか。それにしても緩い国境であることに間違いはない。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(2)バンコックの一日

726日(火)
バンコックの一日

翌朝はいつものようにYさんと朝のアメリカンコーヒーを飲み、それから馴染みのおばちゃんのところへ行き、コムヤーンを食べる。これがなぜか美味い!私だけでなく、食べた人間は殆どが病みつきになる。だがおばちゃんはなぜか機嫌が悪く、ぷいと向こうに行ってしまった。もう一人のおばちゃんが後を取り仕切る。言葉は全く通じないが、私のしたいことは皆わかっている。店などない。そこにあるテーブルを使い、椅子を探して座り、カオニャオをもらって、一緒に食べるだけ。150円払えば腹一杯で幸せな気分が訪れる。

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部屋に戻ってダラダラしていると、昼前になり、NHKのお昼のニュース、そして朝の連ドラの再放送を見ると、もうランチに行く時間になってくる。今日はここをチェックアウトするのだが、昼ご飯後でよいというので、Yさんたちとランチに出る。今日は久しぶりの鴨肉麺を食す。ここのおばさんたちも相変わらず元気な様子。初めて行った5年前から時間が止まっているようだ。その後またアメリカンを飲んでいると、時間はすぐに過ぎていく。

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ホテルをチェックアウトして、タクシーを呼んでもらう。明日の早朝、カンボジア国境に向かうため、Tさんから指示のあったオンヌットの宿に移った。スクンビット通り沿いにあったが、車からは見過ごしてしまい、歩いて何とかたどり着く。フロントの女性はにこにこと愛想がよい。Tさんの定宿だけあって名前を出すとさらに笑顔になる。部屋はツイン、実はシングルの部屋があるのだが、ネットで予約する場合、ツイン以上の部屋しか取れないらしい。1800b。シングルなら600bなので、次回は直接電話して予約してね、と言われる。

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Tさんにチェックインした旨をFBで告げると、『今日高校生二人と引率の大人一人がそこに泊まるから、明日一緒に来て』と連絡がある。Tさんに村には日本から高校生までが来るのかと感心する。だが、フロントでいくら聞いても、そのような日本人の予約はないという。まあ直接来るのかと思い、宿を出て、まずは明日バスに乗る場所を確認する。BTSの駅の前に大きなスーパー、テスコがあるのだが、そこの駐車場から乗るというのでちょっと驚く。勿論この時間に行ってもバスがいる訳でもなく、なんとも腑に落ちないが、まあ指示通りにしよう。

 

それからBTSに乗り、プロンポンへ。相変わらず車内が寒い。かなり混んでおり、乗り込んでからスマホをいじっているうちに、何と駅を乗り過ごし、アソークまで行ってしまう。慌てて戻り、何とか約束の時間に待ち合わせの場所に着いた。駅構内にHISのショップがあったが、貼り出されている広告は日本行きばかり。それなりに高い料金だが、今年はタイ人が日本に100万人訪れると言われており、その勢いは十分に感じられる。

 

今日はバンコック茶会の主催者Mさんと会うことにしていた。もう一人も参加され、三人でお茶を飲む。場所はオーガニック野菜を売り物にするレストラン。日本人がタイで有機栽培の農業を始め、そのアンテナショップとして開いたお店。1階では作られた野菜などを直接買うことができる。日本人だけでなく、欧米人にも人気、そして最近は意識の高いタイ人も来店している。タイで日本人が農業することは色々な意味で充分な可能性を感じる。もっと多くの人がチャレンジすればよいなと思う。そしてその対象顧客は日本ではなく、地元に住む人々。これからそういう時代だ。

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昨年バンコックを離れてから開けていないバンコック茶会。メンバーも続々帰国しており、再開は難しいかもしれない。やはりバンコックでも日本人は減少傾向にあるらしい。これもまた経済の影響が大きいようだ。バンコックは恐らく世界一日本人が住んでいる都市だと思うが、駐在員もリタイア組も、タイ経済の低迷、爆弾事件などテロの再発などに苦しんでいるようだ。まあ、お茶の香りのしないバンコックで中国茶などの会を開くこと自体、かなり無理があったかもしれない。

 

帰りにオンヌットのテスコ内にあるフードコートでカオマンガイを食べた。ここには何度も来て食べた記憶がある。50bあれば、蒸した鶏と揚げた鳥の両方が入って、お腹いっぱい食べられる。やはりバンコックの物価は上がったと言ってもまだまだ安い。一時の円安も少し戻ってきたので、円換算すると安く感じられる。拠点をそろそろ海外に設ける必要性がある。

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外に出てみると夕日がとてもきれいだった。多くのタイ人がスマホで写真に収めている。宿に帰ったが、やはり日本人は来なかった。結局はTさんの記録が一日間違っており、明日は一人で向かうことになる。午前4時半にはバス乗り場へ行かなければならないが、そんなに早くに行く必要があるのだろうか、などと考えているうちに、珍しく眠れぬ夜を過ごす。

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カンボジア・タイ 国境の旅2016(1)チャンスの訪れ

《カンボジア・タイ 国境の旅2016》  2016725-84

 

7月はケニアに行けるかと思ったが行けず、東欧に行く予定が無くなり、モンゴルの話も立ち消えた。何となく長い休みを取った。茶旅も5年を超え、かなりの疲れが見えてきた。この疲れは肉体的な疲労でもなく、嫌でやっている訳でもないので、精神的なものとも考えにくい。結果として、お茶を追いかけすぎた、やりたいことが多くなり過ぎた、そのプレッシャーに少し行き詰ったという結論に達し、お茶とは無縁の旅をしようと決めた。

 

2014年にカンボジアのプノンペンで行われた『ドリームガールズプロジェクト』というイベントに勝手に行き、参加した。このイベントは1年に1回、カンボジアの女性にデザインを描いてもらい、優秀な作品を選び、それを企業に売り込んで、商品化し、彼女らに仕事の機会を与えようというものだった。会場のホテルには200人以上が集まり、熱気に包まれていた。

 

そこにはカンボジアで活躍する日本人が数人、プレゼンターとして呼ばれていた。イベント後、打ち上げがあり、そこにも参加させてもらった。その時出会ったのがTさん。私より一回り以上歳上だが、非常に情熱的な元自衛官で、タイとカンボジアの国境で、ポルポト時代に埋められた地雷を処理していた。処理するだけでなく、その跡地にキャッサバを植え、キャッサバ焼酎を作っているという話が気になった。その焼酎は私が会社を辞める直前、2011年に頼まれて買ってきたカンボジア土産だったのだ。

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その後Tさんとは、FBでは繋がっていたものの、直接のコンタクトはなかった。ところが突然メッセージが来た。『クラウドファンディングに参加してほしい』、以前の私であれば、断っていたかもしれない。いや、返事すらしなかった可能性もある。だがここ数年アジアを歩いていて分かったこと、『ご縁は大切にする』『頼まれたことはピンチではなくチャンス』という考え方から、賛同の意を表して、早々に参加した。その特典として、『カンボジアの村に泊まれる』というのがあったのだ。

 

すぐにTさんに連絡を取ったが、彼もとても忙しい方で、実現しないかに思われた。だが7月終わり、ぽっかり時間が空いていた。ここしかない、とカンボジアの村へ行くことを決意した。カンボジアへは何度か行っているが、陸路で行くのは初めてだった。何だかバックパッカーになった気分で、まずはバンコックに向かった。

 

725日(月)
1. バンコックまで

夕方の便でバンコックに飛ぶため、いつもの電車に乗り、成田空港へ向かう。ところが乗換駅では、何のアナウンスもなかったのに、新宿まで来たら、行先で人身事故が発生していた。電車が2分遅れると謝るくせに、もっとも大事なことは乗客に伝えない、とはどういう訳だ。お陰で、先に進めず、20分間駅で待ち、しかも荷物を持った私は満員で乗れない。この状況が分かっていれば、突然別の路線に乗ったのに。

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だが、何とか電車に乗り込み、少しでも早く行こうと、急いでいると、何と予定時間より早く着いてしまった。実は今日は時間があるので、一番安い方法で成田を目指そうとしたのだが、そのルートは安いが時間はかなり掛かることが分かった。僅か150円程度の違いで、30分以上早いなんて、成田エクスプレスなど使う必要もないな、と思ってしまう。

 

そして空港にはタイ航空のカウンターが開く前に着いてしまった。既にWEBチェックインを済ませているというと、チェックイン開始30分前から荷物預けはOKと言われ、ホッとする。このサービスは良い。すでに何人もの人が荷物を預けるために並んでいた。それにしても出発3時間前に着いてしまうとは、とほほ。それから長いこと空港で時間をつぶした。

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定刻に出発したフライト。ここ数回乗っているお馴染みの新しい機体。きれいでよい。それにしてもタイ航空、機内プログラムがいつも同じで変化なし。日本映画は前回同様、小栗旬の『信長協奏曲』だけ。仕方なく、音楽を聴くが、これも前回と何も変わっていない。昨年から一度も入れ替えていないのではないだろうか。それでも私は竹内まりあのアルバムに聞き入る。彼女の音楽、基本的に変わっていない。特に『いのちの歌』はNHKドラマの主題歌、確か満島ひかりが主演だったと思うが、なんともいい。

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そんなことをしていると、時間が過ぎて行き、空港に着いた。荷物を受け取ると、すぐにシムカードを買う。10日間で449b。円高にもなっており、1500円でネット使い放題だ。今回の目的地はカンボジアだが、タイとの国境らしいから、恐らくはこれが使えるだろう。それにしてもタクシーはいつも悩みの種。空港タクシーは料金をごまかすか、態度が悪いか。今回は久しぶりに4階の出発ロビーに行ってみる。そこにもタクシーがおり、こちらは愛想がよい。

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2.バンコック

夜の高速はガラガラ。30分でいつもの定宿に着くと、フロントも笑顔で迎えてくれる。そして何と1年前から荷物を預けたままのKさんに連絡を取り、東京から持ってきた大型スーツケースを更に預けた。今回の帰りに荷物を入れて持ち帰るためだ。今回の旅のもう一つの目的、それがこの荷物引き取りだった。それにしてもこの宿の弱点はネットが弱いこと。ところが私のスマホではデザリングが出来ず、これが問題となる。今回は何とか解決策を見出そう。

 

藤枝から愛知へ流れていく2016(5)醤油、みりん、そして常滑

67日(火)
醤油やみりんや

翌朝は朝からTさんが茶を淹れてくれる。お茶好きが集まると、気楽なお茶会がすぐに始まるのが嬉しい。彼は日本に20年住んでいた人で、ある意味では日本人以上に日本に詳しく、またお茶への造詣も実に深い。今はワルシャワに帰っているが、今回も日本滞在中に様々な場所を訪れ、日本を体感しようとしていた。その後は中国へも入り、お気に入りのお茶場を訪問するらしい。すごい情熱だ。

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本日彼はこの三河地方で、醤油屋さんやみりん屋さんへ行くという。面白そうなので、Iさんとともに付いていくことにした。運転はKさんという女性がやってきて担当してくれた。彼女は自然保育のような活動をしているという。『えこども=絵+子ども、エコ+子ども、笑顔+子ども。世界の素敵な人々と創造力溢れる保育』。何だか面白そう。Iさんのところには色々な人が集まってくる。

 

Tさんたちは約束の時間があるので先に出掛けていた。我々は追い掛けていく。車は碧南市というところへ入る。周囲には古めかしい家が並ぶ。事務所ではTさんと日東醸造の社長が面談していた。突然押し入る形になり恐縮。醤油屋さんと聞いていたが、出てきたのは『しろたまり』という商品。日本で醤油を名乗るには大豆を原料として使わなければならないが、こちらでは小麦を使っているので、そのような名前になっていると説明を受ける。

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製造場所が『足助』と聞いて、Iさんの目が輝く。実は寒茶作りをしている場所だったという。兎に角水がいい。空気が言い、環境が抜群だと社長もIさんも言う。木の樽で天然醸造、などと言われると、それだけですごい商品に思えてくる。是非一度足助、という場所には行ってみたい。創業1938年の老舗である、この会社のこだわりがTさんをも驚かせている。

 

続いて向かったのはみりん屋さん。道が狭く、どこから入るのか迷う。背の高い煙突が目印。明治43年創業の角谷文治郎商店。外国語ができる社員がきちんと対応してくれた。勿論Tさんは日本語堪能なので、会話は日本語だったが。三河みりんというのは、原料にしょうちゅうを使い、醸造期間も1年以上で、他のみりんとは違っている。工場を見学すると、もち米が大きな容器に入れられ、蒸されていた。

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みりんを試飲した。まるでリキュールのようにほんのり甘く、濃厚だった。リキュールグラスで飲むとその印象が一層増す。これはちょっと衝撃。製造法を聞いていても、焼酎を使って発酵を抑制するなど、何だかこの辺の商品はお茶に繋がるものがあるようにも思える。最近はみりんがマクロビに使われるなど、その効能にも注目が集まっているようだ。それは大規模大量生産ではなく、伝統製法で作られるみりんにのみ適用される。

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茶の旅で歩いている私だが、このような日本の伝統製法に触れると、その良さが実感でき、茶のみならず、その作り方、こだわりを十分に理解して、消費者としてそれを守っていく必要があると強く感じる。大量・安価な商品に流されてはいけない。Iさんのように料理が得意で、食材にもこだわりのある人だけではなく、一般人が少し昔に戻らないと、良い方向には行かない。

 

常滑

Tさんたちと別れて、車は常滑へ向かった。先日お知り合いのWさんから『ぜひ常滑へ行って』と言われたのだが、焼き物に興味があるわけでもなく、知る人もないので、当面行かないだろうと言ったばかりだったが、なんとその舌の根も乾かないうちに、常滑に連れてこられてしまった。これもご縁というのだろうか。

 

常滑へ行ったのは、焼き物を見るというよりは、ランチを食べに行ったという方が正しい。車で常滑の街を通ったが、焼き物屋さんが目立つなというぐらい。ただ聞いてみると、以前はこんなに店はなかった。特に日本茶が売れない原因の1つが急須離れだ、という意見もあり、急須の産地には打撃が大きかっただろう。確かに焼き物は売れなくなっていたのだが、努力して、店が増えて行ったのだという。確かに中国人や台湾人が日本の焼き物に関心を示しているとはよく聞くが、そういう外国人パワーのお陰なのだろうか。

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常滑屋さん、という、古民家を改造したレストランに入った。何とも雰囲気の良いお店。平日だがお昼は混んでいるようだった。ランチはハヤシライス。器がよい。ご飯ができるまで、オーナーにお話を聞く。常滑の急須を愛し、陶芸家さんを支え、育ててきた様子がよくわかる。常滑の復活?はやはり地道な努力による。そしてこれから、更に発展していけるかどうか。2階には焼き物のほか、地元の商品などが置かれており、買い物ができる。今回は心の準備がなく常滑に来てしまったので、次回はもう少し落ち着いて街歩きがしたい。

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すぐに時間は過ぎていく。車で名古屋駅まで送ってもらう。常滑は空港セントレアからもかなり近く、名古屋駅へも遠くはない。1時間程度で行くことができるので、今回は名古屋駅から新幹線で東京を目指すことにした。

藤枝から愛知へ流れていく2016(4)カレーを食べて、迷子になって

 ようやく見つけたそのお店、週末の家族連れで混んでいたが、何とか席を見付けて座る。従業員を見ると全てインド人に見えたが、彼女は『全てネパール人』と小声で教えてくれる。それでもヒンディー語がなんとか通じるようで、色々と話していたのは良かったのかもしれない。出てきたカレー、インド中部出身の彼女にとっては、北部中心の料理は少し味が違っているようだったが、それでもお腹が空いているのか、どんどん食べていた。

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因みにインドでナンを食べている人を殆ど見ないが、日本ではチャパティを見ることは殆どない。インドではナンはチャパティの10倍するのに、日本ではなぜ同じ値段なのか。一口食べて『これはナンでなくて、パンですね』と彼女は看破した。帰る時に明日からの食糧としてチャパティをテイクアウトし、取り敢えず食べられそうなものを確保した。それにしても『日本では父親や母親までもが、子供の前でアルコールを飲む』というのに、ちょっと違和感があったようだ。インドのファミリーレストランではアルコールは一切出ない。

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大学のある駅まで戻り、寮に帰る前に、スーパーを探した。そこでも食べられそうなものを物色して、買い求める。食材に注意しながら、いくつか買っていたが、これは結構大変な作業だった。バンコックやハノイで出会ったインド人が、『大きなスーツケースを持っているのは、中にチャパティなど大量の食糧を入れているから』と言っていたのが、ようやくわかった気がした。ことは好き嫌いとか、我慢すれば食べられるとか、そういう次元ではないので真剣にならざるを得ない。ハラール食品などが注目されているが、インド人のことも考えて上げて欲しい。

 

家が見付からない

彼女と別れて、Iさんの家へ向かう。ここで急に心細くなる。名古屋までは車で連れてきてもらったが、新安城までどうやって行けばよいのだろうか。兎に角地下鉄で金山という駅へ行き、そこで乗り換える、と言い聞かせた。名鉄のホームへ行くと、電車が入ってきたが、新安城に行くのかどうかわからない。各停も来れば、急行も来る。どれに乗るのがよいのだろうか。

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取り敢えず急行に乗り込むとどうやら止まるらしいと安心した。30分後、下車。ここまでくれば大丈夫と思ったが、何と駅から家に行く道が分らない。駅のどちら側へ出るのだろうか。確か携帯に情報をもらっていたと思い、見ようとしたが、既に電池切れだった。あとは記憶を辿るのみ。駅から線路に近い道を行けば、と歩いたが反対側に出たようだ。更には目印の会社があったはずだが、見付からない。それが何とか出てきたが、最後に家に着けない。なぜだろうか。目印の車がないのだ。何とその車は昼間と反対向きに駐車されており、暗くて見えなかった。また近所の家も住所表示をしているところが殆どなく、何となく住所を思い出しても役に立たなかった。

 

駅を降りてから50分後、汗だくになって家に入った。そこにはSさんも待っていてくれた。『なんで電話しないの?』と言われたが、電池が切れると何もできないことを痛感した。二人は今晩豪華な食材を買い、美味しい夕飯を食べていた。私は疲れてしまい、しかもカレーで腹も一杯、何も食べられなかった。何とも損した様な気分になり、お風呂を借りて入り、布団を敷いて寝てしまった。

 

66日(月)
日がな休息

翌朝はゆっくり起きた。今日はもう用事がないので、東京へ行くだけだった。ところが朝、Iさんが『今晩、ポーランドのTさんが泊まりに来るよ』という。実は彼には7月にポーランド、チェコ、ジョージア、ウクライナに行きたいとお願いしていたが、その話ができていない。更には先日の幸之松さんのご夫妻もポーランドに和食を披露しに行くので、一緒に行かないかと言われ、話が混乱していた。ここで話をするのがよい、ということになり、Iさんには申し訳ないが、もう一晩お世話になることにした。

 

朝ご飯は何と茶粥を作ってくれた。茶粥と言えば、昨年Iさんのアレンジ、Sさんの運転で行った四国茶旅が思い出され、懐かしい。Iさんはいとも簡単に料理を作ってしまうが、なかなか手間がかかるものだ。朝から美味しいご飯を頂き、満足。そして部屋で旅行記などを書いて過ごす。お茶を飲みに降りてくると、やはりまた四国の話となる。四国の晩茶、碁石茶などの後発酵茶はなぜ存在するのか、四国にはどういう人々が海を渡ってきたのかなど、色々な本の紹介をしてもらった。

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お昼御飯も昨晩のご馳走の残りを十分堪能した。こんな生活でよいのだろうか、と思うほど、ゆったりして、美味しいものを食べて、知識を吸収した。午後もこのペースでダラダラし、夕飯もまた美味しく頂く。Tさんたちは一体いつ来るのだろうか。彼らが到着したのは午後9時、それからご飯を食べて、お茶を飲む。そしてポーランド行の話をし、結果的に私の旅は10月以降に延期となる。お客さんがたくさん来るのに、彼が一人では対応できないからだ。

藤枝から愛知へ流れていく2016(3)茶心居、そしてインドから来た娘

 このお店、外観から見ると街の喫茶店のようにも見えるが、中に入ると、プーアル茶などが並んでおり、かなりのこだわりが感じられ、普通の喫茶店ではないことが分かる。そしてその中にSさんやGさんのお茶が置かれている。店内はこじんまりしているが、居心地のよさそうな空間だった。常連のIさんが『お茶下さい』というと、何も言わずに香りのよいお茶が出てきた。『スイーツは』というと、美味しそうなスイーツが出てくる。

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店主のTさんは15年ほど前にこの店を開いたというが、ミュージシャンでもあると聞き、驚く。そして料理もうまいらしい。こだわりは強く、茶に関する知識も豊富だ。こんなお店が名古屋にあるのか、と感心する。この周辺のお茶好きが集まるサロンのようだった。ゆっくりお話を聞きたいと思ったが、今回は突然の訪問でもあり、また次の約束の時間が迫っていたため、先に失礼してしまった。とても残念な思いが残った。次回ここに来るのはいつなのだろうか、果たして再訪の機会はあるのか。

 

後ろ髪惹かれる思いで店を出て、Sさんの車で大学まで送ってもらった。住宅街を曲がりくねり、最後は少し坂を上った。確かに近かったが、3㎞以上はあり、とても歩いていけるような距離ではなかった。その正門で待ち合わせていたのは、あのインドでお世話になったラトールさんの娘、ナイニーカだった。彼女は正門の前で心細そうに立っていた。2年ぶりに見る彼女はかなり大人びており、背もすらっと高くなっていた。

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インドから来た娘

ナイニーカと最初に会ったのは確か2009年の暮れ、私が初めてインドに行った時だった。ラトールさんのガイドのもと、エローラなどの遺跡などを見て回った後、自宅で出会ったはずだ。その時、彼女は12歳。ニコニコして聞き取りやすい英語を話し、その利発さを覗わせていた。その時の記録を紐解くと『お嬢さんに英語で話しかけると完璧な英語が返って来た。「学校は楽しいけど、数学嫌いなの。クラスは女性ばかり59人」。ミッション系の私立中学に通っている。めがねを掛けている。日本や中国と変わらない。違和感なし』

 

その後も3年前には一緒に北インドのデリー・リシュケシュの旅に行ったし、2年半前には彼らの親族の結婚式で、華麗な衣装も披露してくれた。15歳で一族の人々に花嫁候補としてデビューした時だった。2年前にはお母さんと一緒に初の日本旅行に来たが、我が家は奥さんと次男(リシュケシュでも一緒)が一日同行した。そして今回17歳になり高校を卒業して、大学に進学する前、初めて一人で6週間の短期プログラムに参加して、日本にやってきた。日本語を学ぶのだという。

 

私が一番心配したのは食事。何しろベジタリアン家庭だし、日本語は少し話せて読める程度だろうから、食べる物には神経を使うはずだった。門の前で『日本はどう?』と聞くと『いい』と言いながらも次の言葉が『おなかが空いた』だったのは、やはり悪い予想が当たっていた。学内の食堂を見に行く。土曜日の午後で閉まっていたが、当たり前ながら、インド人が食べそうなものはメニューにはない。コンビニがあったので入ってみたが、食材表示は全て日本語であり、しかも小さい文字。とても彼女が理解できるとも思えない。

 

仕方なく、どう見ても安全なリンゴジュースを買い、座って飲みながら、話を聞く。問題は食事だけではなかった。同じ寮に中国人の女性がおり、自炊しているのだが、豚肉を炒めているにおいが耐えられない、ともいう。これは単に好き嫌いの問題ではない。生活習慣上、有ってはならないことではないだろうか。当然部屋を変えて欲しいと要請したが、事務方は、週明けしか対応できない、と返事したという。海外から多数の留学生を受けている大学が、こんなことでよいのだろうか。そこにはノウハウの蓄積はないのだろうか。彼女が言うには、インド人は今回初めてこのプログラムで来たらしいが、イスラム教徒は来たことがないのだろうか。

 

そしてネット環境も万全ではなかった。部屋でネットが繋がりにくい、ロビーまで行く必要があるという。だから私の連絡に対しても対応が遅かったわけだ。インドでも数年前はWi-Fiなどないところが多かったが、今ではあっという間に普及して、彼女の家にだってWi-Fiがあり、私も使わせてもらったことがある。日本を科学技術先進国だと思ってきているアジアの若者はこの事態を目の当たりにして、どんな感想を抱いて帰っていくのだろうか。日本人として、ちょっと目の前が暗くなった。

 

大学の近くにはインド料理屋がなく、昨晩は同室の日本人が、名古屋駅近くまで連れて行ってくれて、そこで夕飯を済まし、そこでテイクアウトしたローティーを今朝食べただけだという。急いで検索して、日本人がやっていなさそうな料理屋を探す。そこへ行くのは地下鉄を乗り換える必要があったが、距離的には近そうだった。大学から最寄りの駅は既に彼女が覚えていたのでスムーズ。駅で切符を買おうとする彼女だが、どこまで乗るのか、一生懸命探さないと、料金すらわからないのが日本のシステム。

 

毎回これでは大変だと、窓口に行き、スイカのような現地のICカードを購入して渡した。こうすれば、切符を買わなくても済むし、バスにも乗れ、東京や大阪でも使える。外国人の目線で見ると、地下鉄の乗り換えでも容易ではない。何しろ表示が分り難いうえ、英語は限られている。更には到着駅から地上に上がると日本人の私でさえ、方向感覚を失う。スマホがあれば地図を検索できるが、シムカードがなければWi-Fiは飛んでいないので、検索できない。

藤枝から愛知へ流れていく2016(2)豊橋の絶品紅茶

 65日(日)
豊橋の紅茶

翌朝は雨上がり。牧之原の茶畑も何となく潤っている。朝6時には起きて、付近を散歩すると何とも心地よい。雨で空気も澄んでいる。茶畑、特に元気な茶畑を見ているとこちらも元気になるのはなぜだろうか。既に2番茶の摘み取りも終わり、夏に向けた準備が行われている畑もあり、また今日の摘み取りを待っているような畑も見えた。今日の茶摘みがないのは残念だ。お母さんが朝ご飯を用意してくれ、ずうずうしくも、たらふく頂く。日本はいいな、と思う瞬間がここにある。

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Sさんの車に乗り、豊橋に向かう。今日は前々から一度訪ねたいと思っていた、Gさんのところへ向かう。Gさんとは2年半ぐらい前に、名古屋のお茶会で知り合った。豊橋で紅茶作りをしていると聞いたので、興味を持ち、一度訪ねたいと申し入れたが、その後機会がなかった。昨年11月の下田サミットの会場ですれ違った時、『来ませんね』と言われたのが引っかかっていた。どうしても行きたいと思い、今回の藤枝セミナーを引き受ける条件としてS氏に『Gさんのところへ連れて行ってくれれば』と伝え、実現した。ただもし今日が晴れなら、自分で電車に乗って行くところを、なぜか雨が降る。この辺が農業の難しいところであり、また人生のあやか。

 

牧之原から1時間半ぐらいで豊橋に着く。特に標高があるわけでもない、普通の畑が続く。そんな中にGさんの茶畑はあった。挨拶もそこそこに茶工場に入り、茶を飲み始める。若いGさんは、様々な試みをしており、実に研究熱心。茶工場はまるで実験場のような雰囲気で、紅茶や烏龍茶など面白いお茶が出てきた。それをSさんが飲むと、かなり専門的な話が飛び出し、私などはついて行けないこともしばしば。更にはお父さんも加わり、完全な茶農家談義が繰り広げられる。

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Gさんは4代目。数年前に勤めを辞めて、実家に戻り、家業を継ぐことに。こちらのG製茶は1927年の創業、元々は煎茶を作っていたが、50年ぐらい前に紅茶を数年作ったらしい。残念ながらその紅茶は輸出用で国際競争力がなく、数年でとん挫。以降こちらで紅茶を作られることもなく、作り方も伝わらなかったが、10年前に復活。無農薬、無化学肥料で紅茶を作り、好評を博し、昨年は尾張旭の紅茶フェスでグランプリを獲得するまでになる。Gさんは茶葉の組み合わせと揉み方を研究して、最高のものを追及している。その熱意は相当のもので、ストイックに行っている。

 

茶畑を見学する。茶樹に蜘蛛の巣が掛かっている。虫も所々に見える。虫よけの棒が刺さっている。無農薬とはこういうことだろう。無農薬茶園を作るには長い時間が掛かっている。『有機JASで認める農薬も一切使わない』という話には刺さるものがある。『正しい整枝法を実行すれば、茶樹は健康になり、少ない肥料でより「うまい茶」を作ることができる』という話も出る。この辺になる正直私にはよくわからないのだが、S氏とG親子の間では盛んに議論がなされている。枝の切り方、落とし方で茶の味が変わるのだろうか。科学的なことは分らないが、ここのお茶が美味しいとすれば、それは正しい方法ではないかと思う。その他土壌造りなどにもこだわっており、この農業をやっていく、特にこれをきちんと管理していくことは大変なのだと感じる。

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現時点では収量がそれほど多くなく、G製茶の紅茶はなかなか手に入らない貴重品となっている。何しろ現地まで買いに来たというのに『在庫はありません』と言われてしまうのだから、驚きである。ウンカにかまれた茶葉を見て『烏龍茶生産にも』と意欲を示す。とにかくGさんは『うまい茶を作る』という一点に集中している。勿論ご両親がいるからできることだが、Sさん同様、両親が元気な間に新しい日本の茶を作ってほしいと思ってしまう。

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あっという間に時間が過ぎていき、昼頃になってしまった。Sさんは安城に用事があるというので、また車に乗せてもらい、名残惜しい豊橋を離れた。豊橋から安城まではすぐだった。この辺の土地勘はまるでない。いつもお世話になっているIさん宅を訪問。なぜか今晩はここに泊めて頂くことになる。何という展開。この家は一種のサロンになっており、SさんやGさんのお茶もここに来れば手に入るようになっていた。私は2階の部屋に荷物を置く。

 

茶心居へ

私の次の目的地は名古屋にある大学だった。その大学がどこにあるのかわからない、というと、Iさんが『そこは茶心居さんの近くだから一緒に行こう』と言い出し、Sさんが車を出して、何と名古屋へ向かって走り始めた。まあ茶旅とはこういう展開だとは思うものの、日本でこの展開はなかなかない。茶心居、お茶好きの人に聞いたことがある名前だが、初めて行くところである。車は小1時間で、名古屋のどこか分らない所に着いた。