華人と行く安渓旅2019(5)コロンス島で

6月17日(月)
厦門へ戻る

ついに今日は安渓を離れ、厦門に行くことになっていた。校長がまた車を出してわざわざ送ってくれた。陳さんは先日のホテルにチェックインして、明日帰国するというので、そのホテルまで同行して、そこで別れた。今回は本当に陳さんに世話になった。そして酒も飲めずに何らお役には立たなかった。

 

そこからタクシーでいつものホテルまで行く。5つ星ホテルよりこちらの方が私には落ち着く。しかしすぐに外出した。出来れば鼓浪嶼、コロンス島へ行っておこうと考えたのだ。もう何年も行っていない。聞けば、昔の船にはもう乗れず、船着き場も別の場所になったというのだ。バスでその船着き場にかなり迷いながら行ってみると、何と昔の金門行きフェリーが出ていた場所だった。色々と変化があるものだ。

 

 

しかも以前は空いていればすぐに乗れた船、今やチケットを購入して乗船時間が決まる。すぐ出ていく船は既に満員で、1時間は待たされる。そして何より昔は1元、その後10元だった船代が、何と50元になっている(35元の船もあるようだ)。船で10分の距離、どう考えても合理性はない。これは入場料ということか。待っている時間がとても暇に思えたが、よく見ると壁に100年ぐらい前の厦門やコロンス島の写真が沢山貼られており、結構楽しめた。

 

船は超満員で座る席さえない。まあわずか20分のことだからどうでもよいが、そう考えると船賃に納得がいかない。コロンス島には確か3つは船着き場があると思うが、そのうちの一つ、見覚えのあるところに到着。早々歩き出す。海辺は気持ちがよく、一体どこに来たのかと思うほどのリゾート気分。しかし途中から上り坂になり、結構疲れる。

 

今回態々ここまでして島に来た目的は1つ。先日紹介を受けた郭春秧の子孫が出演した番組によれば、郭はこの島に別荘を建てており、その別荘は今も残っているということだったので、是非見てみたいと思った次第だ。だがその別荘の場所までは意外と遠い。改めてこの島の広さを実感する。ようやくたどり着いたときにはヘロヘロだった。

 

今その別荘はホテルになっており、建物中に入ることはホテルゲスト以外できないと言われる。仕方なく外からその重厚な建物を眺めた。庭もそれなりにあり、お茶を飲んでいるお客もいた。ここ以外にも、春秧の茶荘の名称から取ったと思われる、錦祥路という狭い道もあるが、特にお茶に関連ありそうな風景は今や見当たらない。

 

しかしこの島、歩いている人が多い。静かで優美な、ピアノの音が聞こえてくる島、というイメージはもうない。人込みを避けて歩くと、旧日本領事館の建物に遭遇した。ここには往時各国の領事館が置かれていた、いわゆる租界地という面もあった。本来はもっとゆっくり昔の建物など眺めながら、歴史に浸りたいところだが、観光客の群れはそれを許さない。

 

仕方なく、近くにあった船着き場から厦門に帰ろうと思ったが、そこは厦門市民専用だった。観光客と島民、市民をここで区別して、観光客から高い料金を取りたてていたのだ。何だか釈然としないが、一方でこれだけの人が島に来てしまえば、島民の生活にも大きな支障が出たことだろうから、この処置はやむを得ないと理解し、歩いて10分ほどの観光客用に行って乗船した。帰りの料金は行きに含まれており、この船着き場から出る船は、すぐ対岸に着岸してくれたので、帰るのは楽だった。

 

バスで宿に帰る。腹が減ったので、近くの新疆料理屋でラグメンを注文する。夕方5時だというのに、漢族の若者が酒を飲み、大声で騒ぎ、そして料理の味付けに文句を言っている。それを黙って聞いているウイグル族の夫婦。もう慣れっこなのだろう。少なくとも同胞というイメージはない。若いウイグル女性はこの暑い中、冷房のない外で、串焼を焼いている。ウイグルの中にも格差社会はあるのだろうか。

 

夜はゆっくりと休んでいたが、なぜか眠れずに、ずっとテレビを点けていた。女子ワールドカップサッカー、中国チームはスペインの猛攻に耐え、何とか決勝トーナメントに進んだ。中国女子は90年代、日本などよりはるかに強く、世界の頂点に居たこともあるが、最近は成績が芳しくなかった。男子同様、奮起が期待されている。中国の監督が試合後涙しているのは特に印象的だった。

華人と行く安渓旅2019(4)大坪 張彩雲の娘

6月16日(日)
大坪で

今日は安渓滞在実質最終日。明日の朝には厦門に戻る。私は陳さんに我儘を言った。大坪に連れて行って欲しいと。陳さんは承諾し、何と校長先生夫妻が車で連れて行ってくれた。大坪、これまで張さんの茶作りを見に、何度も通った場所だったが、今回はミャンマーの大茶商、張彩雲の娘が生きているとの情報をもらい、その親戚とも連絡がついたので、どうしてもこの機会に訪ねたくなったのだ。

 

その前に一か所、寄り道した。そこは大きなビルの中。安渓県教育局の部屋に行く。陳さんは学校に寄付しているのだから、教育局に行くのは分からないでもない。しかし今日は日曜日、しかもそこに待っていたのは局長だった。実はこの局長、大坪の出身で、勿論張彩雲の名前も知っていた。校長が気を利かせてくれたのだろう。(いや、むしろうまい口実の下に、局長と陳さんを引き合わせた)

 

大坪はかなりの山の上にあり、安渓の街からはやはり1時間かかる。しかも最近新しい道路を造っているのか、車のナビと道路がマッチせず、工事中の道に突っ込むなど、ちょっとスリリングなドライブとなる。大坪に上るのに道がいくつかあることが分かる。その一本はかつて張彩雲が資金を提供したものだったはずだが。

 

その親族の工場は街外れにあった。何と茶を作っているではないか。高さんは、張彩雲の娘、秀月さんが嫁いだ高家の人間だった。すぐに小さな街の真ん中に行く。そこにはかつて栄えた古街があり、驚く。これまでこんな道を歩いたことはなかったからだ。そこには古い建物が残り、中には張彩雲が茶の商売をしたと言われる場所すら残っていた。だが今や、全く閑散としており、往時を思い起こすことは難しい。

 

その道は何本かあったが、その突き当りに家がある。その中で張秀月さんは暮らしていた。数え年94歳。お手伝いさんはいるものの、この歳で一人暮らしをしている。ご主人は早くに亡くなり、4人の子供もすでに他界、孫もすべて大坪を出ていた。手がしびれると言い、箸が持てずにスプーンで食事をとっている。

 

昔話を沢山聞いた。閩南語しか話さないとのことで、親族に通訳をお願いしたが、溢れるほどに話が出てきて、全てを理解することは不可能だった。大坪に生まれ、ヤンゴンで育ち、結婚で大坪に残り、ご主人が亡くなり4人の子を育て、文革の嵐に翻弄された。そこには全く大茶商の娘、お嬢さんという話は出てこない。彼女が大切に持っているのは、80年前彩雲から贈られたという旅行カバンに入った親族の写真。あまりに悲しい話に、親族が途中で話を打ち切るほどで、何とも言えない訪問となった。

 

ここで分かったことは、彩雲や長男の樹根は1950年代、故郷に帰ってきており、樹根などは北京で周恩来や毛沢東にも会っているという事実だった。それが1960年代、ビルマでも革命が起こり、中国も文革で往来は途絶えてしまう。その後も樹根らは秀月さんに援助をしていたようだが、彼らも皆亡くなってしまったということだ。

 

高さんに連れられて、1930年代に建てられたという張家を訪ねる。木造の古い建物だが、所々に彫刻などが残り、往時は街一番の家だった様子も分かる。この時期は土匪が横行し、この家も被害に遭ったらしい。それでもこの家が現存しているということが、張彩雲の生きた証のようにも見える。

 

その横には20年前に4兄弟の末裔が資金を出して建てた5階建てのビルがある。その屋上には張家の歴史と、既に無くなった方の写真などが飾られていた。彩雲には3人の男子がいたが、その一人は養子であったことも分かる。ここの碑に歴史を刻んだのは、あの『中国烏龍茶』を書いた、次男の息子、張水存だった。周囲には長男、次男、三男の古い家もわずかに残っている。

 

大坪からある程度降りたところで、休息だと言って、ある学校に入っていく。その校長が知り合いということで、ちょっと会いに行ったのだ。お茶を飲みながら、話題は教育になるのだが、聞いていると、陳さんたちの学校ができると、ますますこちらの過疎化が進むのでは、と思うような話になっている。確かに田舎の子もいい学校を目指して街に出てしまうからだ。大坪も鉄観音茶の産地として名高いが、昔から今でもずっと、ここで食べて行けず、外に出る人々がいる現実はある。

 

もう一軒寄り道がある。先日会食した建設関連の社長の別荘にも寄った。あの時既にこういう話になっていたのだろう。その別荘は建てたばかりで、皆に見せたくて仕方がない、という感じの豪華なものだった。裏の川の上に、屋外の茶の飲める場所があるなど、雰囲気も良い。そこで豪勢な夕飯も頂く。今日一日の出来事からかけ離れた世界に複雑な思いになる。

華人と行く安渓旅2019(3)華人の出た村で

6月15日(土)
故郷へ

今日はいよいよ陳さんの先祖の出身地に向かう。厦門から車に乗せてくれた親戚が送ってくれた。安渓県と言ってもかなり広い。その中でも山間にある村に行くのに1時間はかかった。天気は抜群に良い。山の道を上って行くと村は晴れやかだった。時折爆竹の音が聞こえる。今日は年に一度の村祭りがあるという。陳さんもそのためにここに来たわけだ。

 

彼と二人、途中で車を降りて歩いて坂を上る。所々に家があり、如何にも田舎、という雰囲気で鶏やアヒルがウロウロしている。古めかしい家もある。顔が見えると必ず『寄っていきなよ』と声がかかる。陳さんはここでも有名人だ。そして寄れば必ず、お茶が出て、お菓子か果物も出てくる。何ともお接待が行き届いている。

 

聞けば、普段は老人と子供ばかり100人程度しか住んでいないのだが、今日は数百人が祭りのために戻ってきており、1年で一番賑やからしい。中には陳さん同様、マレーシアから里帰りしている人までいた。今や故郷は近くなったものだ。100年前なら一度出て行ったら、2度と戻れないという覚悟だったのではないだろうか。

 

関帝廟がある。爆竹はそこで鳴らされており、皆がお参りに向かっている。その向こうには陳さんたちが建てた、村の集会所があった。そこでは今日の昼ご飯の用意が進んでいる。それを確認してから、更に上にある親戚の家に行く。最近建てたかなり立派な家だ。是非泊まって行けと言われる。普段は厦門に居るようだが、今日のために一家で帰省していた。商売に成功したのだろうか。

 

昼ご飯を食べるために皆が集会所に集まってきた。1卓10人として、20テーブルはあるだろうか。昨日の鉄工芸の工場をやっている人が取り仕切っている。今回の数百人分のご飯は全て彼が資金を提供したと聞き、驚いた。そしてもっと驚いたのが、その豪華なメニュー。これはいわゆるケータリングで持ちこまれた食べ物だが、魚や肉やエビやカニが、スープになり、焼かれ、煮込まれ、様々な料理となって登場した。

 

凄まじい数が出てきた。しかも食べている人は、到底食べきれないと見ると、半分も残っているのに、どんどん食べ物を捨てて、次のものに切り替えている。この壮大な無駄は一体何だろうか。これが往年貧しくて華僑を生み出した村の今日なのだろうか。本当に信じられない中国の様子に愕然となりながら、それでも箸は動いて食べていた。昼間なので酒がそれほど出なかったのがせめてもの救いだろうか。男性は大体タバコを吸っている。

 

食後、余りに腹が一体となり、陳さんと一緒に坂登をした。どこへ行くのかと思っていると、その上に家が見える。古い家は既に取り壊しかかっているが、何とここが祖先の住んでいた家だったというのだ。陳さんのお爺さんは、100年近く前にここを出て、遥かマレーシアに渡っていったらしい。今でも農作物もあまりできそうにない土地だ。厳しい生活を打開するために決意したのだろうか。そしてマレーシアで見事に成功するのだが、その具体的な内容をきちんと聞いたことはない。

 

古い家は改築して新しくなるのだろう。その横には現在の住まいがあり、そこには陳さんの親族が何人かいた。お婆さんが出てきて、陳さんが来たことをとても喜んでいる。その顔には『次に会えるという保証はないよ。今日会えてよかった』と書いてある。陳さんはひょうきんなところがあり、人気者なのだ。お茶を飲みながら、しばし話し込む。皆さん、当然閩南語で話しているから意味は分からないが、楽しそうである。帰りは安渓に戻るという親戚の車に便乗する。陳さんには一体何人の親戚がいるのだろうか。

 

昼ご飯をあれだけ食べたのに、また夕飯を食べる。陳さんには断り切れないほどのオファーが来ている。ここにいる限り、致し方ない状況なのだ。それが成功者の故郷ということがよく分かった。私などは文句を言えた義理ではない。何の関係もないのに、毎日贅沢に飲み食いしており、お金も全く払っていない。これでよいのだろうか。

 

さすがに疲れたので、夜は早めに宿に帰る。テレビをつけると、卓球だ。何と女子シングルスで、平野美宇と佐藤瞳という日本人同士の試合を、CCTVはゴールデンタイムに生中継してくれている。こんなこと、あるんだろうか。勿論そのあとの中国人同士の試合の合間だとしても、日本では絶対に見られないことだろう。他国の選手の試合を見て、初めて自国選手の実力が分かるということだ。

華人と行く安渓旅2019(2)故郷に錦を飾る学校

6月14日(金)
故郷に錦を飾る学校

さすが安渓のホテル、ちゃんとお茶淹れ道具一式が部屋に置かれており、陳さんからもらった茶を淹れて朝を迎えた。朝食はホテルのビュッフェ、既に食べ過ぎの兆候があるので、かなり抑え気味に過ごす。陳さんも元気に姿を見せたが、私に対して『なんで酒飲まなくなったんだ?』と何度も聞く。今回の旅、陳さんの作負担軽減のために私が呼ばれたらしい。その当てが外れて、かなり不満そうだ。

 

今日は陳さん一族が30年前に寄付して建てられた学校の見学に行く。陳さんのおじさんの名前が付いた学校だ。かなり広い敷地で、車を降りてから校舎まで歩くのも距離がある。現在は3000人の生徒が学んでいるという。陳さんは有名人なので、先生は皆挨拶しに来る。そして招かれて、お茶を飲む。この辺も安渓らしい。すぐにお茶なのだ。明日から中学校の統一試験があるようで、実な皆さんは忙しそうだったが、私がお茶の歴史について聞くと、さすがは先生、色々と情報を提供してくれる。

 

マレーシアで成功して財を成した陳 さんのおじさんが30年以上前に故郷にやってきた時は、大歓迎だったという。そして故郷のために何かしようと考えたが、教育が一番大切、ということで、学校建設となる。その時点では中国も貧しく、教育の機会を与える、という感じだったようだが、今や試験の成績とか、有名大学への進学とか、ポイントはかなりズレてきている。その中で陳さんは『今も貧しい田舎の子供にハイレベルの教育機会を与えたい』と訴えている。

 

そして現在建設中の新しい学校も見に行く。来年開校予定で、校舎建設が急ピッチで進んでいる。こちらは2000数百人を収容する中高一貫学校になる予定だ。今や資金も豊富になった中国だが、『お金はあるに越したことはない』ということで、陳さん一族が資金を提供したらしい。こういう学校ができることは地域にとって果たして良いことだろうか。中国ももう、自らの力で、自らの学校を建てた方がよいのでは、とふと思ってしまった。

 

昼は昨日の親戚の家に押しかけて、食べた。ここは雑貨店を営んでおり、小学生が小銭を握りしめて、ノートを買いにきたりして、何とも微笑ましいところだった。その店のテーブルに電気炊飯器がどんと置かれた。そこにはかなり煮込んだ鶏肉スープが入っている。これ、一口飲んだら、美味いと叫びたくなる。なぜ陳さんがあれほど拘ったのか、その理由は明確だった。

 

親戚としては、食べる場所もないし、大したご馳走でもない、と思っていたかもしれないが、陳さんは既にご馳走を一生分以上食べている。本当に食べたい物は、こういう素朴で、しかもマレーシアでは食べられないものなのだ。豚肉とタケノコも出てきて、ご飯をお替りする程食べてしまった。

 

午後は茶都へ行く。ここは安渓の茶市場で、過去にも来たことがある。午後はもう取引もあらかた終了しており、人影もまばらだった。一軒のお茶屋に入り、お茶を飲む。そしてその老板が立ち上がり、連れだってどこかへ向かう。茶都の本体ビルに突撃した。そこには博物館があり、鉄観音茶の歴史などが丁寧に展示されていた。これは私にとっては有難いことだったが、興味深い展示に関していくつか質問しても、案内の人は答えに窮したようで、話は進まない。インドネシア華僑から贈られたというものすごい数の急須の展示は圧巻というしかない。

 

夜は学校の先生たちと夕食会。立派なホテルの個室に向かうと、何と反対の会場では高校生の卒業記念会(謝恩会?)が行われており、若者たちが集い、かなりはしゃいでいた。これもまた現代中国の一つの現象だろう。我々の部屋にも立派なしゃぶしゃぶ、刺身などが運ばれ、美味しく頂く。陳さんは今日も酒を飲み続け、先生が連れてきた人々の陳情やら、関係づくりなどに付き合っている。これは故郷に帰るということは毎日大変なのだ、とよくわかる。

 

皆さんはカラオケに行くというので、私だけホテルに送ってもらった。今晩は女子ワールドカップの日本対スコットランド戦がCCTVで生放送されるので急いで帰ったのだ。第1戦を引き分けたため、予選突破が危ぶまれたが、今日はまあまあの出来で、何とかスコットランドを振り切った。その後、ゴルフの全米オープンの放送まで始まってしまい、寝られなくなる。

華人と行く安渓旅2019(1)安渓の伝統工芸 竹藤編

《安渓厦門茶旅2019》  2019年6月12-19日

何と驚いたことに3か月連続で福建省にやってきた。しかも3か月連続の厦門。確かに台北との行き来では厦門は便利ではあるが、これだけ続くのにはそれなりの訳がある。今回は本来KLで会おうと思っていた陳さんの里帰りに同行するという稀有な体験が目的であった。ついでに茶の歴史の一端でも見られるとよいのだが、さて、どうだろうか。

 

6月12日(水)
厦門へ

今回は厦門航空の夜便で厦門へ向かった。単純な台北-厦門の往復便だが、料金は意外と高く困った。金門経由も早い段階で売り切れており、この路線を使う人が多いことを窺わせた。松山空港発は夜便しかない、という不便さだが、桃園に行くよりはよい。まあ、今日は着いて寝るだけと諦めるしかない。

 

空港内では、なぜか日本の茶碗展示が行われている。それもかなり大規模な数で驚いた。台湾人の日本への興味はこのようなところへも波及している。夜便で短距離だからご飯も出ないだろうと思い、空港内でワンタンメンを食べてから乗ったら、機内でもちゃんとご飯が出てきた。

 

夜9時には厦門空港に到着。荷物を預けていないのでさっさとイミグレを通過して、タクシーに乗り込む。今晩は陳さんの親戚が予約してくれたホテルに宿泊するので、そこまではタクシーでないと難しい。実はよく見ると、そこは金門島から来るフェリーが着くターミナルのすぐ近く。こんなことなら、何としても金門経由を予約すべきだったと思ったが、後の祭りだ。

 

ホテルは豪華5つ星。いつもは泊まらないのだが、陳さんのお供だから仕方がない。ロビーも広くて、チェックインにもまごつく。だが、通された部屋を見てびっくり。何と若夫婦と子供が泊まるためのファミリールームだった。子供用に小さなテントまで用意されているのだが、私が必要としているデスクがない。折角広い部屋で申し訳ないけれども、デスクのある部屋と交換してもらった。一体なぜ男一人のお客をこんな部屋に通したのだろうか。翌朝陳さんの部屋に行ってみるとまさにその部屋だったので、単に広い方がよいと思った、ホテル側の配慮だったらしい。

 

6月13日(木)
安渓へ

翌朝は陳さんと朝食を一緒に取った。彼と会うのは雲南省大理以来6年ぶりだろうか。あの時はお茶の買い付けに行く陳さんに付いて行き、色々と体験させてもらった。実は陳さんには昨年久しぶりに連絡を取った。理由はマレーシア華人の大茶商を探すため。彼ならいいネットワークを持っていそうだったのだが、2月は旧正月だから難しいと言われ、8月に行くと言ったら、KLには居ないかもしれないと言われてしまう。

 

今回はそんな陳さんが祖先の故郷である安渓に行くというのを捕まえて同行することになった。これも華人が故郷に帰る、とどうなるのか、その繋がりを見る良い機会だと思っている。ついでに安渓の茶業についても何かしら得られるものがあればよい、という程度でやってきた訳だ。

 

陳さんの親戚という人が車でやってきて我々を乗せて安渓に向かう。この道はもう何度も通っているので、親しんでいる。今は高速道路のような立派な道があり、厦門-安渓間はわずか1時間ちょっとで行けるが、100年前、海を渡ろうとした人々は歩いて2-3日掛けて山の中から厦門の港に出てきたという。それだけでも大変なのに、ここから船に乗り、未知の東南アジアへ渡っていったのだから、それは物凄い覚悟だと思うし、やはりそうするしかない事情もあったのでは、と考える。

 

車は安渓の街に入った。前回は旧市街に泊まったが、今回は少し離れた街一番のホテルというところにチェックインする。また別の親戚という人が現れ、早々に外に連れだされた。街で流行っていそうなレストランで昼食をとる。結構いい料理が出てきて喜んでいたが、なぜか陳さんは不機嫌だった。『俺はお前の家でご飯が食べたいんだ』と言っている。どうして?

 

午後は学校へ向かった。華僑職業学校と書かれている。立派な建物だ。その中を行くと、陳さんの親戚で、竹藤編名人がいた。もう80歳近いというのに、伝統工芸の第一人者ということで、この学校で教えている。その作品が沢山展示されていたが、実に見事で驚く。1960年代既に彼の作品は海外要人向け土産として、送られるほど認知されていたらしい。それがここ安渓の主要物産品となっている。これまでお茶のことしか見てこなかったが、安渓には他にも色々とあるのではないか、との予感がする。

 

更には別の親戚の鉄工場にも行ってみる。鉄を使った家具、インテリアを作り、欧米にも輸出しているらしい。シンプルなデザイン、簡易な商品、こういうのがウケるのかもしれない。だが老板は『現在の米中問題が長引けば、中国での生産、輸出は難しくなる。東南アジアなどへのシフトを検討するかも』といい、陳さんに相談を持ち掛けようとしている。確かにそうだな。

 

夜は先ほどの竹藤編名人を含めて、親戚と友人が集い、宴会となる。陳さんは私に『宴会要員(酒飲み)』を期待していたようだが、私がもう酒は飲めないと言うと、かなりがっかりして、自ら相当に飲んで、酔っ払っていた。ここに昨年安渓で会った華僑史の専門家、陳克振先生がいたのには、驚いた。親戚ではないが、マレーシア華僑の陳さんの家の歴史もかなり研究してきたという。ご縁というのはすごい、そして嬉しい。

ある日の台北日記2019その2(17)中壢へ

6月10日(月)
中壢へ

月曜日になったのでまた鉄道に乗る。今年前半の台湾滞在は秒読み段階となり、やるべきことを1つでも多くやっていく時期になっていた。今日は台湾で亡くなった可徳乾三について調べるつもり。行く場所は、彼が日本台湾茶業を退職後に茶舗を開いたと言われる埔心駅前だ。

 

埔心に行くには、区間車に乗ればよいのだが、1時間もかかり何となくかったるい。自強号に乗ると中壢で乗り換える必要がある。そうだ、それならいっそ中壢も散歩してみよう、と思う。中壢は私にとっては35年ぶりの場所だ。初めて台湾に来た時、東京の下宿で隣だった陳さんの家を訪ねたことがある。そこが中壢だったのだ。今覚えているのはお兄さんが医者で、遠東百貨の横に病院を持っていたことだ。

 

中壢駅で降りてみても、思い出すことは何もない。そうだ、あの時はバスで来たのだ。駅前から遠東百貨を目指して歩く。いくつかの古い建物が残っており、保存対象のようだ。勿論今や遠東百貨もなく、以前の場所は別の店が入っていた。そしてその周囲には病院はなかった。私の思い違いでなければ、病院もどこかへ移転したのだろう。陳さんはニューヨークへお嫁に行ったので、ここには居ないだろう。駅の横のバスターミナルが僅かな記憶に引っかかるが、結局何の手掛かりもなく、中壢を後にする。

 

埔心にはわずか1駅で着く。8年前、埔心に徐英祥先生を訪ねたことがある。あの時は黄顧問が書いてくれた地図を頼りに、駅前から歩いて先生の家に向かった。初めて訪ねて来た者に対して、80歳の、足の悪かった先生が自ら運転して、改良場を案内してくれた。魚池改良場にも自ら電話して、訪問を手助けしてくれた。あの出会いがあって、今日の私の歴史調査がある。その5か月後にまさか先生が亡くなるとは。まさに一期一会。

 

8年前と比べて駅は何となくきれいになっている気がする。徐先生の家のほうに歩いて行き、そのまま改良場まで歩いて行こうか、などと考えていたが、それは甘かった。雲行きが怪しかった空が、ついにうなりを上げた。強烈な雨が降り出し、傘をさして歩くことが難しい。仕方なく、駅前を探索。

 

可徳乾三の茶舗は駅前にあったと言うが、彼が亡くなったのは1926年。その後家族が茶舗を継いだとは聞いていない。取り敢えず古そうな薬局に入ってみる。お婆さんがいたので聞いてみたが、『私が生まれる前のことなんてわからないよ。台湾人がこの辺でお茶を売っていたという話なら聞いたことはあるけど』と一蹴される。それはそうだ、約100年前に無くなった店を探すのはやはり困難だ。

 

腹が減ったので、隣の弁当屋に入る。この店の弁当は50元、やはり地方都市は安いということだろうか。お客がやってきて、自分独自の注文をし、あれはないのか、などと聞いているのは微笑ましい。折角ここまで来たのだが、雨も止みそうにないので、今日の調査は終了して台北に戻る。

 

6月12日(水)
王添灯の孫

今日の夜は厦門に行くというギリギリの日に、昨年からお世話になっている黄さん夫妻と会うことになった。場所は黄家近所のカフェ。台湾プラスチックビルの前でバスを降りると、何やら反対運動が展開されている。大企業にはよくあることだろうが、王永慶という名前も出てくる。台プラ創業者の王の家も日本時代は茶農家だった。そしてこれから会う黄さんのお爺さんである王添灯の家とは茶で繋がりがあったと聞く。双方ともに新店郊外の出身だ。

 

カフェでは黄夫妻が待っていてくれた。今日は昨年、天津と大連に行った時のことを報告をすることになっていた。日本時代にこの両地に作られた文山茶行の支店や家族の住んだ場所など、勿論現在はすっかり変わってしまい、見付からないのだが、そこを歩いてきた話をした。

 

話しているうちに、王家の重要人物が誰であるかという話になり、実は光復後の茶業界においては、王添灯の長男である王政統氏の名前が挙がる。政統氏については、製茶公会の黄顧問も話していたので、気にはなっていた。すると黄さん、何と電話を掛けている。相手は政統氏の長男で、もうすぐここに来てくれるというではないか。

 

ここからは政統氏の話、そして王家そのものの歴史について、詳しく話を聞いた。彼自身もアメリカ暮らしが長く、茶業そのものについてはそれほど詳しくないが、貴重な話が沢山出てきた。やはり身内に話を聞くことは大切だと思う。これでようやく王添灯とその一族について、何かしら書ける目途がついたような気がした。

 

皆さんと別れてすぐに西門町に向かった。というのは、政統氏が光復後に買って、家族が住んだという西門町の家は、まだ建物が残っている、と聞いたからだ。これも機会を逃すと行けないので、善は急げと進む。行ってみると、確かにそれらしい建物は残っていた。これもまた歴史の一コマか。帰りのMRTで、何と出勤するSさんと乗り合わせた。これもご縁か。

ある日の台北日記2019その2(16)光復前後の歴史は

6月6日(木)
台湾セメントへ

今朝はゆっくりと起きて、お気に入りのサンドイッチを食べに行く。それからU-bikeに乗って国家図書館まで走る。先日見られなかった資料を見るためだ。だが、資料請求しても取り出しまでに2時間もかかるというので、その時間は外出した。今度はMRTに乗って行く。

 

到着したのは中山北路にある台湾セメントビル。ここはその昔、何度も通った場所だったが、今はすっかりきれいに建て替えられている。そこに辜公亮基金会の事務局があると聞いてきたのだ。ビルの1階には京劇の大きなポスターがある。だが人は誰もいない。地下2階に飛び込んでみると、まさに劇団の事務所、といった雰囲気で、役者の卵が出入りしている。

 

そこで声を掛けると、どこかへ電話してくれ、担当が降りてくるという。しばらくして広報担当の女性がやってきた。そう、ここは辜公亮、まさに辜振甫氏の基金会であり、生前京劇が好きで、自らも舞台を踏んでいた氏の遺志を継ぎ、京劇の後継者を育てているのだ。この基金会は20年前に発足しており、辜氏が生前作ったものだった。

 

広報担当女性も20年前からここに勤務しており、かなり詳しい。日本人も多く京劇の公演を見に来てくれていると言いながら、台湾在住日本人にももっと見に来て欲しいという。年に2回、大型の公演があり、その1回が今週末だという忙しい時期にお邪魔してしまった。私はそんなことは全然知らなかった。

 

辜振甫氏と茶業について尋ねると『確かに氏が茶業に携わっていた時期があるが、それを聞かれたのは初めてだ。また正直言うと、これは家業であり、氏が自ら率先して行ったものではなく、グループ企業の1つだった、その責任者として名前が出ているだけではないか』という意見だった。

 

それでも何とか役に立とうとしてくれ、1階にある氏の書斎を再現したスペースで、氏について書かれた本を読み返してみたり、色々と探してくれた。何とも有り難いことだが、この時代については複雑な事情もあったのかもしれない。更には後日辜振甫氏の娘さんにまで聞いたというメールが来たが、答えは特に変わらなかった。どんなお茶が好きだったのか、なども分からず仕舞いだ。光復前後の台湾はやはり謎に包まれている。

 

再度国家図書館に戻って取り寄せた資料を見てみたが、やはりピタッと来るものはなかった。帰りに中正紀念堂の横に回って、写真を撮った。辜振甫氏が舞った舞台がそこにあった。そしてその道の向かいには、数日前にMさんたちと行った魯肉飯屋があり、何となく一人でそこへ入って、また食べてしまった。その後隣の市場に寄ったら、何やら行列ができていた。見ると粽を買う人々。端午節が近づいていた。

 

6月8日(土)
ミャンマー日本食から図書館へ

私には週末も何もないのだが、世の中、週末は何かと忙しい。出掛ける人も多いので、私は大人しくすることにしていた。今日はそんな私をBさんが誘ってくれた。指定された場所は林森付近。日本食とは珍しい、と思ったが、やはりただの和食屋ではなく、実はそこはミャンマー人経営だった。

 

彼らは元々東京にいて、こちらに移ってきたらしい。日本人だと日本語で、台湾人だと国語で対応している。私は彼らにとても興味を持つたが、適度にお客は来るし、第一相手が話したい内容かどうかも分からなかったので、今回は何も聞かなかった。ただ色々と想像してしまったことは事実である。

 

店はちょっと前に東京にもあったような定食屋(洋食屋)のイメージかな。ふらっと一人で入れる。日替わり定食他、一通り何でもあり、値段も200元程度と手ごろなのがよい。私は奮発してたくさん入っている弁当を注文してみたが、満足できる水準だった。これから通って少しずつ謎を解き明かそう。

 

Bさんの方は仕事も順調のようで、最近リリースしたCDをもらった。ただ私にはCDを聞く機器を持ち合わせていなくて困る。若者たちなら、ダウンロードする方法が取られるだろうか。それにしても、台湾温泉音頭、どんどん続いて行くだろうか。ちょっと面白い試みではある。

 

Bさんと別れて、永和の図書館へ行く。週末にここに来るのはどうかと思ったが、時間もないので、来てしまった。週末は5階の日本時代資料の部屋は午後5時で閉まってしまうので、じっくり調べるわけにはいかない。いつものお姐さんにお願いして、探しているものの検索を掛けると、何とあるではないか。急いでコピーを取る。

 

先日の国家図書館にはなかったのに、なぜ別館にあるのだろうか。まあ、理由はともあれ、探し物が一つ片付いた。だが、それにより、さらに追及すべきテーマが浮上する。完全なイタチごっこであり、これは一生終わらないな、とあきらめの境地に入る。それにしても、光復前後の闇は深い。

ある日の台北日記2019その2(15)台中日帰りで

6月5日(水)
台中日帰り

今日は茶の歴史調査の一環で台中に行くことにしていた。ただ珍しく日帰りだ。私の調査も段々と進んでいき、大詰めが近づいているものもある。台北滞在期間も限られている。効率よく進まねばならない。資金と利便性を考えて、今日も高鐵ではなく、台鉄自強号で向かう。既にチケットは予約済みだ。

 

台北駅ではなぜか懐かしくなり、台鉄弁当を買う。伝統的な排骨弁当だ。35年前、初めて食べて以来、その美味しさ、安さ(コスパ)は変わらない。駅でトイレに行こうと思ったら、これがなかなか見つからない。駅員の言う通り行くと、その階段は通行止めになっている。最後に掃除のおばさんに聞くと、『通行止めだけど、トイレに行く人はいいんだよ』というではないか。こういうところが台湾的だ。

 

列車はいつものように進んでいく。平日の午前中でもそれなりに乗客がいるので、それなりの需要があるということだろう。途中で弁当を食べて、後は眠りこける。なぜか列車に揺られていると短時間でも深い眠りが得られ、目が覚めると爽快な気分になれる。目が疲れ、本が読みづらくなった今、列車の旅は寝るに限る。

 

昼に台中駅に到着する。ちょっと暑いが歩いて台中公園に向かった。台中には何度も来ているが、ここに来るのは初めてだった。公園内を見渡すと、人はほとんどいない。が、木陰に座ってランチを食べているのはインドネシア人の出稼ぎ者らしい。よく見ると、歩いている人々も女性はヒジャブを被っている人が多い。台中駅前も今やベトナム、インドネシアなどのレストランが並び、東南アジア街と化している。

 

公園から歩いて少し行くと張さんの家があった。午後1時の約束で、5分ほど遅刻すると、何と張さんは家の前に立って待っていてくれた。私が迷っていると思ったのだろうか。ここに来るには2回目だが、前回はトミーの車で来たので、スマホ頼りであり、時間が読めなかったのは事実だ。申し訳ない。

 

前回張さんからは、鹿谷の優良茶コンテストなど、貴重な話を沢山聞いた。政府側の証言として、光復後の茶の歴史はどう語られるのか、当然民間とは異なる視点になり、とても興味深く、参考になる。今回は特に台湾東部開発に関する話を重点的に聞いた。東部茶業に初期から関わり、何度も足を運んだ話は面白い。老茶を淹れて頂きながらでも、話には淀みがない。

 

また農林庁で上司であった、林復氏についても色々と聞いてみる。私が林氏に昨年会ったことを告げると『そうか、まだご存命か』と感慨深そうではあったが、やはり生きている人に関する話は、かなり選別され、思い出しても語られることはそう多くないと感じる。そこにはやはり外省人という意識が働いていただろうか。

 

まだまだ聞きたいことは沢山あったが、いくらお元気だとは言え、張さんも87歳のご高齢だから、2時間ほどで退散した。次回も色々と確認事項を持って訪ねて行こう。それから台中駅まで急いで戻った。これから豊原まで行くのだが、ちょうど自強号が2分遅れており、何とかそれに飛び乗った。

 

15分で豊原駅に着く。いつもは泉芳茶荘に向かうのだが、今日は華剛の方のオフィスに来て欲しいと言われていた。そこは私が初めてジョニーと会った場所だったが、それ以降行く機会はないままだった。あの時は何と北埔からタクシーで直接やってきたので、行き方もわからないが、今はスマホがあるので歩いて向かえる。豊原駅の裏側の道を初めて歩く。

 

ジョニーは最近春茶の製茶を終えて山から下りてきたので、とても忙しい。その中で対応してくれるのだから有り難い。オフィスも大きくは変わっていないが、商品はかなり増え、パッケージもおしゃれになり、歴史関連を紹介するものなどもあり、かなり充実してきていた。話を聞いている中でも、スタッフがどんどん仕事の話を持ってくる。作ったばかりの茶のテースティングも随時行われる。かなり臨場感のある現場だった。

 

今回私が聞きたかったのは、花蓮で光復後に茶作りをしようとした人の中に、豊原の杜という苗字が出てきたので、これはジョニーのところで聞けばわかるだろうと思ったのだ。だがジョニーはもちろん、お父さんでも『多分遠い親戚だろう』ぐらいしかわからないという。この狭い台湾で、豊原で、そうなのだろうか。なぜこの杜という人はまだ茶もない時期に瑞穂に向かったのか。なぞだ。

 

ジョニーも時間が無いので、車で駅まで送ってもらう途中、簡単に夕飯を食べた。肉の入った麺、こういうのが美味いのだ。列車時間ギリギリまで食べて駅に駆け込んだら、列車は遅れていた。大汗が出た。台鉄、遅れがひどいな。結局台北には夜の10時過ぎに到着。それでも日帰りでかなりの成果を得た。

ある日の台北日記2019その2(14)羊毛とおはな

6月3日(月)
永康街で

今日は久しぶりにSさんと会うことになった。彼もこの数か月で色々と変化があったようだが、それでも台湾に留まっている。やはり台湾が好き、ということだろうか。待ち合わせは永康街なので、散歩がてら歩いて向かう。Sさんが選んでくれたお店、初めてだと思って行って見たら、以前にも来たことがあった。今やちょっと前に行った場所はほぼ忘れてしまうらしい。

 

昔の台湾料理を出す店、という感じだったので、あまい味を絡めたレバーを注文してみる。野菜もシャキシャキしていて旨い。先日の潮州料理とは勿論違うのだが、美味いと思えるものを食べているのは幸せなことだ。料理人であるSさんに、潮州に行って食べ物を味わうべきだと強く勧めてしまった。

 

まだ時間があったので、どこかでお茶でも飲もうかと歩いていると小雨が降り出す。ちょうどそこに一軒のカフェがあった。実は以前もこの前を通ったのだが、ここがカフェだとは思わなかったのだ。店名は『羊毛とおはな』というので、毛糸屋さんかと勘違いしていた。だが今日、よく見てみるとポスターも貼られていた。それは私が数年前に見たテレビドラマのエンディングを歌っていた日本のアコースティックデュオではないのか。

 

Sさんによれば、メンバーの一人はここでライブをすることもあるらしい。このユニットを好きな台湾人がこの店を開いているともいう。思わず中に入るとかなり広い空間があり、昼下がりにスマホやPCをいじりながら、時間を過ごす若者たちがいた。こんな世界もあるのかと感心。メンバーの千葉はなさん、2015年36歳の若さで乳がんで亡くなっていた。

 

あれは2年程前か。私は「はだかのピエロ」という曲を初めて聞いた。WOWOWの連続ドラマW、東野圭吾作品『片想い』のエンディングテーマだった。歌っている人間が亡くなっているのに、曲が採用されるのは異例だろう。それほどにマッチした曲だった。私も珍しく、誰が歌っているのかと検索を掛けたほどだ。ドラマ自体はジェンダーを扱っており、かなり厳しい内容だったが、エンディングにこの曲が流れると、何となく癒されると言う毎回だった。

 

まさか台湾でも、このユニットがこれだけ知られているとは思いもしなかった。台湾人の日本好きは何とも奥が深い。むしろ日本人以上に日本の良い部分を知っている台湾人、有難いと言うばかりではなく、ここから学ぶことも多いはずだ。

 

茶商公会へ
カフェでSさんと色々と話し込み、そして別れた。今日は茶商公会に行くことになっていた。これまでも数回訪れて、色々と情報を頂いているが、今日もまた公会絡みの歴史のヒントをもらいに行く。総幹事の游さんはとても親切に相談に乗ってくれるので、何とも有り難い。

 

しかし茶商公会の歴史も光復前後の混乱期については、全く資料がないようだ。私は日本の茶業資産を本当に接収したのは誰なのか、について調べているが、どうにも確証がない。何故だろうか。代わりに游さんは『そういえば、先日郭春秧(最初の公会会長)の子孫がここに来たよ』というではないか。それは是非色々と教えてもらいたいとお願いすると、ご本人に連絡を取ってくれ、よくわかるテレビ番組を教えてもらった。

 

なるほど、と思うことが多い内容だった。やはり偶には公会にも顔を出して、こまめに情報収集することが大切だと分かる。世の中には実は様々な情報や資料が眠っているが、それを掘り起こせるかどうかは、運もあるが、何といっても熱意を持つことかと思う。研究者というのは、大変なことをしている人々だ、と思う所以である。

 

6月4日(火)
ユニークなお茶屋さんへ

天安門事件30周年!今日はいつもセミナーなどでお世話になっているMさんが台北に来ており、会うことになっていた。MRT龍山寺駅で待ち合わせ。ここの駅直結の場所にお茶屋があるというので付いていく。もう一人札幌からAさんが来ており、同行する。そのお茶屋は、これまでの茶荘とはちょっと違い、若者向けの店構えだったが、お茶は試飲させてくれる。

 

しかもその出てくるお茶はそれ相当なものなので、とても初心者向けとか、お土産を買う観光客向けではないのが、実にユニーク。更には一つずつの茶葉について、相当丁寧な解説がつく。試飲して気に入れば、その茶葉を買うこともできる。ただ人気の茶葉は数量がない場合もある。喫茶コーナーもあり、カフェのように座ってお茶を飲むこともできる。

 

お茶のパッケージは今風でおしゃれ。何だか、とてもいいとこ取りなお店だ。夜7時までらしいが、周囲の店はきちっと閉まっていた。正直あまり流行っていない商店街の中に敢えて作られているような印象もある。これからは、お茶が飲みたい人、買いたい人は、ここに連れて来よう。

 

夕飯は中正紀念堂近くの有名な魯肉飯屋さんへ行く。名前を聞いても行ったことはなさそうだったが、実際に店の前に行くと昔来たことがあると思い出す。いつも行列が出来ている店で、正直敬遠していた。でもさすがに皆さんが通うだけのことはあって、魯肉飯もスープもうまい。これからは偶には来よう。