華人と行く安渓旅2019(3)華人の出た村で

6月15日(土)
故郷へ

今日はいよいよ陳さんの先祖の出身地に向かう。厦門から車に乗せてくれた親戚が送ってくれた。安渓県と言ってもかなり広い。その中でも山間にある村に行くのに1時間はかかった。天気は抜群に良い。山の道を上って行くと村は晴れやかだった。時折爆竹の音が聞こえる。今日は年に一度の村祭りがあるという。陳さんもそのためにここに来たわけだ。

 

彼と二人、途中で車を降りて歩いて坂を上る。所々に家があり、如何にも田舎、という雰囲気で鶏やアヒルがウロウロしている。古めかしい家もある。顔が見えると必ず『寄っていきなよ』と声がかかる。陳さんはここでも有名人だ。そして寄れば必ず、お茶が出て、お菓子か果物も出てくる。何ともお接待が行き届いている。

 

聞けば、普段は老人と子供ばかり100人程度しか住んでいないのだが、今日は数百人が祭りのために戻ってきており、1年で一番賑やからしい。中には陳さん同様、マレーシアから里帰りしている人までいた。今や故郷は近くなったものだ。100年前なら一度出て行ったら、2度と戻れないという覚悟だったのではないだろうか。

 

関帝廟がある。爆竹はそこで鳴らされており、皆がお参りに向かっている。その向こうには陳さんたちが建てた、村の集会所があった。そこでは今日の昼ご飯の用意が進んでいる。それを確認してから、更に上にある親戚の家に行く。最近建てたかなり立派な家だ。是非泊まって行けと言われる。普段は厦門に居るようだが、今日のために一家で帰省していた。商売に成功したのだろうか。

 

昼ご飯を食べるために皆が集会所に集まってきた。1卓10人として、20テーブルはあるだろうか。昨日の鉄工芸の工場をやっている人が取り仕切っている。今回の数百人分のご飯は全て彼が資金を提供したと聞き、驚いた。そしてもっと驚いたのが、その豪華なメニュー。これはいわゆるケータリングで持ちこまれた食べ物だが、魚や肉やエビやカニが、スープになり、焼かれ、煮込まれ、様々な料理となって登場した。

 

凄まじい数が出てきた。しかも食べている人は、到底食べきれないと見ると、半分も残っているのに、どんどん食べ物を捨てて、次のものに切り替えている。この壮大な無駄は一体何だろうか。これが往年貧しくて華僑を生み出した村の今日なのだろうか。本当に信じられない中国の様子に愕然となりながら、それでも箸は動いて食べていた。昼間なので酒がそれほど出なかったのがせめてもの救いだろうか。男性は大体タバコを吸っている。

 

食後、余りに腹が一体となり、陳さんと一緒に坂登をした。どこへ行くのかと思っていると、その上に家が見える。古い家は既に取り壊しかかっているが、何とここが祖先の住んでいた家だったというのだ。陳さんのお爺さんは、100年近く前にここを出て、遥かマレーシアに渡っていったらしい。今でも農作物もあまりできそうにない土地だ。厳しい生活を打開するために決意したのだろうか。そしてマレーシアで見事に成功するのだが、その具体的な内容をきちんと聞いたことはない。

 

古い家は改築して新しくなるのだろう。その横には現在の住まいがあり、そこには陳さんの親族が何人かいた。お婆さんが出てきて、陳さんが来たことをとても喜んでいる。その顔には『次に会えるという保証はないよ。今日会えてよかった』と書いてある。陳さんはひょうきんなところがあり、人気者なのだ。お茶を飲みながら、しばし話し込む。皆さん、当然閩南語で話しているから意味は分からないが、楽しそうである。帰りは安渓に戻るという親戚の車に便乗する。陳さんには一体何人の親戚がいるのだろうか。

 

昼ご飯をあれだけ食べたのに、また夕飯を食べる。陳さんには断り切れないほどのオファーが来ている。ここにいる限り、致し方ない状況なのだ。それが成功者の故郷ということがよく分かった。私などは文句を言えた義理ではない。何の関係もないのに、毎日贅沢に飲み食いしており、お金も全く払っていない。これでよいのだろうか。

 

さすがに疲れたので、夜は早めに宿に帰る。テレビをつけると、卓球だ。何と女子シングルスで、平野美宇と佐藤瞳という日本人同士の試合を、CCTVはゴールデンタイムに生中継してくれている。こんなこと、あるんだろうか。勿論そのあとの中国人同士の試合の合間だとしても、日本では絶対に見られないことだろう。他国の選手の試合を見て、初めて自国選手の実力が分かるということだ。

華人と行く安渓旅2019(2)故郷に錦を飾る学校

6月14日(金)
故郷に錦を飾る学校

さすが安渓のホテル、ちゃんとお茶淹れ道具一式が部屋に置かれており、陳さんからもらった茶を淹れて朝を迎えた。朝食はホテルのビュッフェ、既に食べ過ぎの兆候があるので、かなり抑え気味に過ごす。陳さんも元気に姿を見せたが、私に対して『なんで酒飲まなくなったんだ?』と何度も聞く。今回の旅、陳さんの作負担軽減のために私が呼ばれたらしい。その当てが外れて、かなり不満そうだ。

 

今日は陳さん一族が30年前に寄付して建てられた学校の見学に行く。陳さんのおじさんの名前が付いた学校だ。かなり広い敷地で、車を降りてから校舎まで歩くのも距離がある。現在は3000人の生徒が学んでいるという。陳さんは有名人なので、先生は皆挨拶しに来る。そして招かれて、お茶を飲む。この辺も安渓らしい。すぐにお茶なのだ。明日から中学校の統一試験があるようで、実な皆さんは忙しそうだったが、私がお茶の歴史について聞くと、さすがは先生、色々と情報を提供してくれる。

 

マレーシアで成功して財を成した陳 さんのおじさんが30年以上前に故郷にやってきた時は、大歓迎だったという。そして故郷のために何かしようと考えたが、教育が一番大切、ということで、学校建設となる。その時点では中国も貧しく、教育の機会を与える、という感じだったようだが、今や試験の成績とか、有名大学への進学とか、ポイントはかなりズレてきている。その中で陳さんは『今も貧しい田舎の子供にハイレベルの教育機会を与えたい』と訴えている。

 

そして現在建設中の新しい学校も見に行く。来年開校予定で、校舎建設が急ピッチで進んでいる。こちらは2000数百人を収容する中高一貫学校になる予定だ。今や資金も豊富になった中国だが、『お金はあるに越したことはない』ということで、陳さん一族が資金を提供したらしい。こういう学校ができることは地域にとって果たして良いことだろうか。中国ももう、自らの力で、自らの学校を建てた方がよいのでは、とふと思ってしまった。

 

昼は昨日の親戚の家に押しかけて、食べた。ここは雑貨店を営んでおり、小学生が小銭を握りしめて、ノートを買いにきたりして、何とも微笑ましいところだった。その店のテーブルに電気炊飯器がどんと置かれた。そこにはかなり煮込んだ鶏肉スープが入っている。これ、一口飲んだら、美味いと叫びたくなる。なぜ陳さんがあれほど拘ったのか、その理由は明確だった。

 

親戚としては、食べる場所もないし、大したご馳走でもない、と思っていたかもしれないが、陳さんは既にご馳走を一生分以上食べている。本当に食べたい物は、こういう素朴で、しかもマレーシアでは食べられないものなのだ。豚肉とタケノコも出てきて、ご飯をお替りする程食べてしまった。

 

午後は茶都へ行く。ここは安渓の茶市場で、過去にも来たことがある。午後はもう取引もあらかた終了しており、人影もまばらだった。一軒のお茶屋に入り、お茶を飲む。そしてその老板が立ち上がり、連れだってどこかへ向かう。茶都の本体ビルに突撃した。そこには博物館があり、鉄観音茶の歴史などが丁寧に展示されていた。これは私にとっては有難いことだったが、興味深い展示に関していくつか質問しても、案内の人は答えに窮したようで、話は進まない。インドネシア華僑から贈られたというものすごい数の急須の展示は圧巻というしかない。

 

夜は学校の先生たちと夕食会。立派なホテルの個室に向かうと、何と反対の会場では高校生の卒業記念会(謝恩会?)が行われており、若者たちが集い、かなりはしゃいでいた。これもまた現代中国の一つの現象だろう。我々の部屋にも立派なしゃぶしゃぶ、刺身などが運ばれ、美味しく頂く。陳さんは今日も酒を飲み続け、先生が連れてきた人々の陳情やら、関係づくりなどに付き合っている。これは故郷に帰るということは毎日大変なのだ、とよくわかる。

 

皆さんはカラオケに行くというので、私だけホテルに送ってもらった。今晩は女子ワールドカップの日本対スコットランド戦がCCTVで生放送されるので急いで帰ったのだ。第1戦を引き分けたため、予選突破が危ぶまれたが、今日はまあまあの出来で、何とかスコットランドを振り切った。その後、ゴルフの全米オープンの放送まで始まってしまい、寝られなくなる。

華人と行く安渓旅2019(1)安渓の伝統工芸 竹藤編

《安渓厦門茶旅2019》  2019年6月12-19日

何と驚いたことに3か月連続で福建省にやってきた。しかも3か月連続の厦門。確かに台北との行き来では厦門は便利ではあるが、これだけ続くのにはそれなりの訳がある。今回は本来KLで会おうと思っていた陳さんの里帰りに同行するという稀有な体験が目的であった。ついでに茶の歴史の一端でも見られるとよいのだが、さて、どうだろうか。

 

6月12日(水)
厦門へ

今回は厦門航空の夜便で厦門へ向かった。単純な台北-厦門の往復便だが、料金は意外と高く困った。金門経由も早い段階で売り切れており、この路線を使う人が多いことを窺わせた。松山空港発は夜便しかない、という不便さだが、桃園に行くよりはよい。まあ、今日は着いて寝るだけと諦めるしかない。

 

空港内では、なぜか日本の茶碗展示が行われている。それもかなり大規模な数で驚いた。台湾人の日本への興味はこのようなところへも波及している。夜便で短距離だからご飯も出ないだろうと思い、空港内でワンタンメンを食べてから乗ったら、機内でもちゃんとご飯が出てきた。

 

夜9時には厦門空港に到着。荷物を預けていないのでさっさとイミグレを通過して、タクシーに乗り込む。今晩は陳さんの親戚が予約してくれたホテルに宿泊するので、そこまではタクシーでないと難しい。実はよく見ると、そこは金門島から来るフェリーが着くターミナルのすぐ近く。こんなことなら、何としても金門経由を予約すべきだったと思ったが、後の祭りだ。

 

ホテルは豪華5つ星。いつもは泊まらないのだが、陳さんのお供だから仕方がない。ロビーも広くて、チェックインにもまごつく。だが、通された部屋を見てびっくり。何と若夫婦と子供が泊まるためのファミリールームだった。子供用に小さなテントまで用意されているのだが、私が必要としているデスクがない。折角広い部屋で申し訳ないけれども、デスクのある部屋と交換してもらった。一体なぜ男一人のお客をこんな部屋に通したのだろうか。翌朝陳さんの部屋に行ってみるとまさにその部屋だったので、単に広い方がよいと思った、ホテル側の配慮だったらしい。

 

6月13日(木)
安渓へ

翌朝は陳さんと朝食を一緒に取った。彼と会うのは雲南省大理以来6年ぶりだろうか。あの時はお茶の買い付けに行く陳さんに付いて行き、色々と体験させてもらった。実は陳さんには昨年久しぶりに連絡を取った。理由はマレーシア華人の大茶商を探すため。彼ならいいネットワークを持っていそうだったのだが、2月は旧正月だから難しいと言われ、8月に行くと言ったら、KLには居ないかもしれないと言われてしまう。

 

今回はそんな陳さんが祖先の故郷である安渓に行くというのを捕まえて同行することになった。これも華人が故郷に帰る、とどうなるのか、その繋がりを見る良い機会だと思っている。ついでに安渓の茶業についても何かしら得られるものがあればよい、という程度でやってきた訳だ。

 

陳さんの親戚という人が車でやってきて我々を乗せて安渓に向かう。この道はもう何度も通っているので、親しんでいる。今は高速道路のような立派な道があり、厦門-安渓間はわずか1時間ちょっとで行けるが、100年前、海を渡ろうとした人々は歩いて2-3日掛けて山の中から厦門の港に出てきたという。それだけでも大変なのに、ここから船に乗り、未知の東南アジアへ渡っていったのだから、それは物凄い覚悟だと思うし、やはりそうするしかない事情もあったのでは、と考える。

 

車は安渓の街に入った。前回は旧市街に泊まったが、今回は少し離れた街一番のホテルというところにチェックインする。また別の親戚という人が現れ、早々に外に連れだされた。街で流行っていそうなレストランで昼食をとる。結構いい料理が出てきて喜んでいたが、なぜか陳さんは不機嫌だった。『俺はお前の家でご飯が食べたいんだ』と言っている。どうして?

 

午後は学校へ向かった。華僑職業学校と書かれている。立派な建物だ。その中を行くと、陳さんの親戚で、竹藤編名人がいた。もう80歳近いというのに、伝統工芸の第一人者ということで、この学校で教えている。その作品が沢山展示されていたが、実に見事で驚く。1960年代既に彼の作品は海外要人向け土産として、送られるほど認知されていたらしい。それがここ安渓の主要物産品となっている。これまでお茶のことしか見てこなかったが、安渓には他にも色々とあるのではないか、との予感がする。

 

更には別の親戚の鉄工場にも行ってみる。鉄を使った家具、インテリアを作り、欧米にも輸出しているらしい。シンプルなデザイン、簡易な商品、こういうのがウケるのかもしれない。だが老板は『現在の米中問題が長引けば、中国での生産、輸出は難しくなる。東南アジアなどへのシフトを検討するかも』といい、陳さんに相談を持ち掛けようとしている。確かにそうだな。

 

夜は先ほどの竹藤編名人を含めて、親戚と友人が集い、宴会となる。陳さんは私に『宴会要員(酒飲み)』を期待していたようだが、私がもう酒は飲めないと言うと、かなりがっかりして、自ら相当に飲んで、酔っ払っていた。ここに昨年安渓で会った華僑史の専門家、陳克振先生がいたのには、驚いた。親戚ではないが、マレーシア華僑の陳さんの家の歴史もかなり研究してきたという。ご縁というのはすごい、そして嬉しい。

ある日の台北日記2019その2(17)中壢へ

6月10日(月)
中壢へ

月曜日になったのでまた鉄道に乗る。今年前半の台湾滞在は秒読み段階となり、やるべきことを1つでも多くやっていく時期になっていた。今日は台湾で亡くなった可徳乾三について調べるつもり。行く場所は、彼が日本台湾茶業を退職後に茶舗を開いたと言われる埔心駅前だ。

 

埔心に行くには、区間車に乗ればよいのだが、1時間もかかり何となくかったるい。自強号に乗ると中壢で乗り換える必要がある。そうだ、それならいっそ中壢も散歩してみよう、と思う。中壢は私にとっては35年ぶりの場所だ。初めて台湾に来た時、東京の下宿で隣だった陳さんの家を訪ねたことがある。そこが中壢だったのだ。今覚えているのはお兄さんが医者で、遠東百貨の横に病院を持っていたことだ。

 

中壢駅で降りてみても、思い出すことは何もない。そうだ、あの時はバスで来たのだ。駅前から遠東百貨を目指して歩く。いくつかの古い建物が残っており、保存対象のようだ。勿論今や遠東百貨もなく、以前の場所は別の店が入っていた。そしてその周囲には病院はなかった。私の思い違いでなければ、病院もどこかへ移転したのだろう。陳さんはニューヨークへお嫁に行ったので、ここには居ないだろう。駅の横のバスターミナルが僅かな記憶に引っかかるが、結局何の手掛かりもなく、中壢を後にする。

 

埔心にはわずか1駅で着く。8年前、埔心に徐英祥先生を訪ねたことがある。あの時は黄顧問が書いてくれた地図を頼りに、駅前から歩いて先生の家に向かった。初めて訪ねて来た者に対して、80歳の、足の悪かった先生が自ら運転して、改良場を案内してくれた。魚池改良場にも自ら電話して、訪問を手助けしてくれた。あの出会いがあって、今日の私の歴史調査がある。その5か月後にまさか先生が亡くなるとは。まさに一期一会。

 

8年前と比べて駅は何となくきれいになっている気がする。徐先生の家のほうに歩いて行き、そのまま改良場まで歩いて行こうか、などと考えていたが、それは甘かった。雲行きが怪しかった空が、ついにうなりを上げた。強烈な雨が降り出し、傘をさして歩くことが難しい。仕方なく、駅前を探索。

 

可徳乾三の茶舗は駅前にあったと言うが、彼が亡くなったのは1926年。その後家族が茶舗を継いだとは聞いていない。取り敢えず古そうな薬局に入ってみる。お婆さんがいたので聞いてみたが、『私が生まれる前のことなんてわからないよ。台湾人がこの辺でお茶を売っていたという話なら聞いたことはあるけど』と一蹴される。それはそうだ、約100年前に無くなった店を探すのはやはり困難だ。

 

腹が減ったので、隣の弁当屋に入る。この店の弁当は50元、やはり地方都市は安いということだろうか。お客がやってきて、自分独自の注文をし、あれはないのか、などと聞いているのは微笑ましい。折角ここまで来たのだが、雨も止みそうにないので、今日の調査は終了して台北に戻る。

 

6月12日(水)
王添灯の孫

今日の夜は厦門に行くというギリギリの日に、昨年からお世話になっている黄さん夫妻と会うことになった。場所は黄家近所のカフェ。台湾プラスチックビルの前でバスを降りると、何やら反対運動が展開されている。大企業にはよくあることだろうが、王永慶という名前も出てくる。台プラ創業者の王の家も日本時代は茶農家だった。そしてこれから会う黄さんのお爺さんである王添灯の家とは茶で繋がりがあったと聞く。双方ともに新店郊外の出身だ。

 

カフェでは黄夫妻が待っていてくれた。今日は昨年、天津と大連に行った時のことを報告をすることになっていた。日本時代にこの両地に作られた文山茶行の支店や家族の住んだ場所など、勿論現在はすっかり変わってしまい、見付からないのだが、そこを歩いてきた話をした。

 

話しているうちに、王家の重要人物が誰であるかという話になり、実は光復後の茶業界においては、王添灯の長男である王政統氏の名前が挙がる。政統氏については、製茶公会の黄顧問も話していたので、気にはなっていた。すると黄さん、何と電話を掛けている。相手は政統氏の長男で、もうすぐここに来てくれるというではないか。

 

ここからは政統氏の話、そして王家そのものの歴史について、詳しく話を聞いた。彼自身もアメリカ暮らしが長く、茶業そのものについてはそれほど詳しくないが、貴重な話が沢山出てきた。やはり身内に話を聞くことは大切だと思う。これでようやく王添灯とその一族について、何かしら書ける目途がついたような気がした。

 

皆さんと別れてすぐに西門町に向かった。というのは、政統氏が光復後に買って、家族が住んだという西門町の家は、まだ建物が残っている、と聞いたからだ。これも機会を逃すと行けないので、善は急げと進む。行ってみると、確かにそれらしい建物は残っていた。これもまた歴史の一コマか。帰りのMRTで、何と出勤するSさんと乗り合わせた。これもご縁か。

ある日の台北日記2019その2(16)光復前後の歴史は

6月6日(木)
台湾セメントへ

今朝はゆっくりと起きて、お気に入りのサンドイッチを食べに行く。それからU-bikeに乗って国家図書館まで走る。先日見られなかった資料を見るためだ。だが、資料請求しても取り出しまでに2時間もかかるというので、その時間は外出した。今度はMRTに乗って行く。

 

到着したのは中山北路にある台湾セメントビル。ここはその昔、何度も通った場所だったが、今はすっかりきれいに建て替えられている。そこに辜公亮基金会の事務局があると聞いてきたのだ。ビルの1階には京劇の大きなポスターがある。だが人は誰もいない。地下2階に飛び込んでみると、まさに劇団の事務所、といった雰囲気で、役者の卵が出入りしている。

 

そこで声を掛けると、どこかへ電話してくれ、担当が降りてくるという。しばらくして広報担当の女性がやってきた。そう、ここは辜公亮、まさに辜振甫氏の基金会であり、生前京劇が好きで、自らも舞台を踏んでいた氏の遺志を継ぎ、京劇の後継者を育てているのだ。この基金会は20年前に発足しており、辜氏が生前作ったものだった。

 

広報担当女性も20年前からここに勤務しており、かなり詳しい。日本人も多く京劇の公演を見に来てくれていると言いながら、台湾在住日本人にももっと見に来て欲しいという。年に2回、大型の公演があり、その1回が今週末だという忙しい時期にお邪魔してしまった。私はそんなことは全然知らなかった。

 

辜振甫氏と茶業について尋ねると『確かに氏が茶業に携わっていた時期があるが、それを聞かれたのは初めてだ。また正直言うと、これは家業であり、氏が自ら率先して行ったものではなく、グループ企業の1つだった、その責任者として名前が出ているだけではないか』という意見だった。

 

それでも何とか役に立とうとしてくれ、1階にある氏の書斎を再現したスペースで、氏について書かれた本を読み返してみたり、色々と探してくれた。何とも有り難いことだが、この時代については複雑な事情もあったのかもしれない。更には後日辜振甫氏の娘さんにまで聞いたというメールが来たが、答えは特に変わらなかった。どんなお茶が好きだったのか、なども分からず仕舞いだ。光復前後の台湾はやはり謎に包まれている。

 

再度国家図書館に戻って取り寄せた資料を見てみたが、やはりピタッと来るものはなかった。帰りに中正紀念堂の横に回って、写真を撮った。辜振甫氏が舞った舞台がそこにあった。そしてその道の向かいには、数日前にMさんたちと行った魯肉飯屋があり、何となく一人でそこへ入って、また食べてしまった。その後隣の市場に寄ったら、何やら行列ができていた。見ると粽を買う人々。端午節が近づいていた。

 

6月8日(土)
ミャンマー日本食から図書館へ

私には週末も何もないのだが、世の中、週末は何かと忙しい。出掛ける人も多いので、私は大人しくすることにしていた。今日はそんな私をBさんが誘ってくれた。指定された場所は林森付近。日本食とは珍しい、と思ったが、やはりただの和食屋ではなく、実はそこはミャンマー人経営だった。

 

彼らは元々東京にいて、こちらに移ってきたらしい。日本人だと日本語で、台湾人だと国語で対応している。私は彼らにとても興味を持つたが、適度にお客は来るし、第一相手が話したい内容かどうかも分からなかったので、今回は何も聞かなかった。ただ色々と想像してしまったことは事実である。

 

店はちょっと前に東京にもあったような定食屋(洋食屋)のイメージかな。ふらっと一人で入れる。日替わり定食他、一通り何でもあり、値段も200元程度と手ごろなのがよい。私は奮発してたくさん入っている弁当を注文してみたが、満足できる水準だった。これから通って少しずつ謎を解き明かそう。

 

Bさんの方は仕事も順調のようで、最近リリースしたCDをもらった。ただ私にはCDを聞く機器を持ち合わせていなくて困る。若者たちなら、ダウンロードする方法が取られるだろうか。それにしても、台湾温泉音頭、どんどん続いて行くだろうか。ちょっと面白い試みではある。

 

Bさんと別れて、永和の図書館へ行く。週末にここに来るのはどうかと思ったが、時間もないので、来てしまった。週末は5階の日本時代資料の部屋は午後5時で閉まってしまうので、じっくり調べるわけにはいかない。いつものお姐さんにお願いして、探しているものの検索を掛けると、何とあるではないか。急いでコピーを取る。

 

先日の国家図書館にはなかったのに、なぜ別館にあるのだろうか。まあ、理由はともあれ、探し物が一つ片付いた。だが、それにより、さらに追及すべきテーマが浮上する。完全なイタチごっこであり、これは一生終わらないな、とあきらめの境地に入る。それにしても、光復前後の闇は深い。

ある日の台北日記2019その2(15)台中日帰りで

6月5日(水)
台中日帰り

今日は茶の歴史調査の一環で台中に行くことにしていた。ただ珍しく日帰りだ。私の調査も段々と進んでいき、大詰めが近づいているものもある。台北滞在期間も限られている。効率よく進まねばならない。資金と利便性を考えて、今日も高鐵ではなく、台鉄自強号で向かう。既にチケットは予約済みだ。

 

台北駅ではなぜか懐かしくなり、台鉄弁当を買う。伝統的な排骨弁当だ。35年前、初めて食べて以来、その美味しさ、安さ(コスパ)は変わらない。駅でトイレに行こうと思ったら、これがなかなか見つからない。駅員の言う通り行くと、その階段は通行止めになっている。最後に掃除のおばさんに聞くと、『通行止めだけど、トイレに行く人はいいんだよ』というではないか。こういうところが台湾的だ。

 

列車はいつものように進んでいく。平日の午前中でもそれなりに乗客がいるので、それなりの需要があるということだろう。途中で弁当を食べて、後は眠りこける。なぜか列車に揺られていると短時間でも深い眠りが得られ、目が覚めると爽快な気分になれる。目が疲れ、本が読みづらくなった今、列車の旅は寝るに限る。

 

昼に台中駅に到着する。ちょっと暑いが歩いて台中公園に向かった。台中には何度も来ているが、ここに来るのは初めてだった。公園内を見渡すと、人はほとんどいない。が、木陰に座ってランチを食べているのはインドネシア人の出稼ぎ者らしい。よく見ると、歩いている人々も女性はヒジャブを被っている人が多い。台中駅前も今やベトナム、インドネシアなどのレストランが並び、東南アジア街と化している。

 

公園から歩いて少し行くと張さんの家があった。午後1時の約束で、5分ほど遅刻すると、何と張さんは家の前に立って待っていてくれた。私が迷っていると思ったのだろうか。ここに来るには2回目だが、前回はトミーの車で来たので、スマホ頼りであり、時間が読めなかったのは事実だ。申し訳ない。

 

前回張さんからは、鹿谷の優良茶コンテストなど、貴重な話を沢山聞いた。政府側の証言として、光復後の茶の歴史はどう語られるのか、当然民間とは異なる視点になり、とても興味深く、参考になる。今回は特に台湾東部開発に関する話を重点的に聞いた。東部茶業に初期から関わり、何度も足を運んだ話は面白い。老茶を淹れて頂きながらでも、話には淀みがない。

 

また農林庁で上司であった、林復氏についても色々と聞いてみる。私が林氏に昨年会ったことを告げると『そうか、まだご存命か』と感慨深そうではあったが、やはり生きている人に関する話は、かなり選別され、思い出しても語られることはそう多くないと感じる。そこにはやはり外省人という意識が働いていただろうか。

 

まだまだ聞きたいことは沢山あったが、いくらお元気だとは言え、張さんも87歳のご高齢だから、2時間ほどで退散した。次回も色々と確認事項を持って訪ねて行こう。それから台中駅まで急いで戻った。これから豊原まで行くのだが、ちょうど自強号が2分遅れており、何とかそれに飛び乗った。

 

15分で豊原駅に着く。いつもは泉芳茶荘に向かうのだが、今日は華剛の方のオフィスに来て欲しいと言われていた。そこは私が初めてジョニーと会った場所だったが、それ以降行く機会はないままだった。あの時は何と北埔からタクシーで直接やってきたので、行き方もわからないが、今はスマホがあるので歩いて向かえる。豊原駅の裏側の道を初めて歩く。

 

ジョニーは最近春茶の製茶を終えて山から下りてきたので、とても忙しい。その中で対応してくれるのだから有り難い。オフィスも大きくは変わっていないが、商品はかなり増え、パッケージもおしゃれになり、歴史関連を紹介するものなどもあり、かなり充実してきていた。話を聞いている中でも、スタッフがどんどん仕事の話を持ってくる。作ったばかりの茶のテースティングも随時行われる。かなり臨場感のある現場だった。

 

今回私が聞きたかったのは、花蓮で光復後に茶作りをしようとした人の中に、豊原の杜という苗字が出てきたので、これはジョニーのところで聞けばわかるだろうと思ったのだ。だがジョニーはもちろん、お父さんでも『多分遠い親戚だろう』ぐらいしかわからないという。この狭い台湾で、豊原で、そうなのだろうか。なぜこの杜という人はまだ茶もない時期に瑞穂に向かったのか。なぞだ。

 

ジョニーも時間が無いので、車で駅まで送ってもらう途中、簡単に夕飯を食べた。肉の入った麺、こういうのが美味いのだ。列車時間ギリギリまで食べて駅に駆け込んだら、列車は遅れていた。大汗が出た。台鉄、遅れがひどいな。結局台北には夜の10時過ぎに到着。それでも日帰りでかなりの成果を得た。

ある日の台北日記2019その2(14)羊毛とおはな

6月3日(月)
永康街で

今日は久しぶりにSさんと会うことになった。彼もこの数か月で色々と変化があったようだが、それでも台湾に留まっている。やはり台湾が好き、ということだろうか。待ち合わせは永康街なので、散歩がてら歩いて向かう。Sさんが選んでくれたお店、初めてだと思って行って見たら、以前にも来たことがあった。今やちょっと前に行った場所はほぼ忘れてしまうらしい。

 

昔の台湾料理を出す店、という感じだったので、あまい味を絡めたレバーを注文してみる。野菜もシャキシャキしていて旨い。先日の潮州料理とは勿論違うのだが、美味いと思えるものを食べているのは幸せなことだ。料理人であるSさんに、潮州に行って食べ物を味わうべきだと強く勧めてしまった。

 

まだ時間があったので、どこかでお茶でも飲もうかと歩いていると小雨が降り出す。ちょうどそこに一軒のカフェがあった。実は以前もこの前を通ったのだが、ここがカフェだとは思わなかったのだ。店名は『羊毛とおはな』というので、毛糸屋さんかと勘違いしていた。だが今日、よく見てみるとポスターも貼られていた。それは私が数年前に見たテレビドラマのエンディングを歌っていた日本のアコースティックデュオではないのか。

 

Sさんによれば、メンバーの一人はここでライブをすることもあるらしい。このユニットを好きな台湾人がこの店を開いているともいう。思わず中に入るとかなり広い空間があり、昼下がりにスマホやPCをいじりながら、時間を過ごす若者たちがいた。こんな世界もあるのかと感心。メンバーの千葉はなさん、2015年36歳の若さで乳がんで亡くなっていた。

 

あれは2年程前か。私は「はだかのピエロ」という曲を初めて聞いた。WOWOWの連続ドラマW、東野圭吾作品『片想い』のエンディングテーマだった。歌っている人間が亡くなっているのに、曲が採用されるのは異例だろう。それほどにマッチした曲だった。私も珍しく、誰が歌っているのかと検索を掛けたほどだ。ドラマ自体はジェンダーを扱っており、かなり厳しい内容だったが、エンディングにこの曲が流れると、何となく癒されると言う毎回だった。

 

まさか台湾でも、このユニットがこれだけ知られているとは思いもしなかった。台湾人の日本好きは何とも奥が深い。むしろ日本人以上に日本の良い部分を知っている台湾人、有難いと言うばかりではなく、ここから学ぶことも多いはずだ。

 

茶商公会へ
カフェでSさんと色々と話し込み、そして別れた。今日は茶商公会に行くことになっていた。これまでも数回訪れて、色々と情報を頂いているが、今日もまた公会絡みの歴史のヒントをもらいに行く。総幹事の游さんはとても親切に相談に乗ってくれるので、何とも有り難い。

 

しかし茶商公会の歴史も光復前後の混乱期については、全く資料がないようだ。私は日本の茶業資産を本当に接収したのは誰なのか、について調べているが、どうにも確証がない。何故だろうか。代わりに游さんは『そういえば、先日郭春秧(最初の公会会長)の子孫がここに来たよ』というではないか。それは是非色々と教えてもらいたいとお願いすると、ご本人に連絡を取ってくれ、よくわかるテレビ番組を教えてもらった。

 

なるほど、と思うことが多い内容だった。やはり偶には公会にも顔を出して、こまめに情報収集することが大切だと分かる。世の中には実は様々な情報や資料が眠っているが、それを掘り起こせるかどうかは、運もあるが、何といっても熱意を持つことかと思う。研究者というのは、大変なことをしている人々だ、と思う所以である。

 

6月4日(火)
ユニークなお茶屋さんへ

天安門事件30周年!今日はいつもセミナーなどでお世話になっているMさんが台北に来ており、会うことになっていた。MRT龍山寺駅で待ち合わせ。ここの駅直結の場所にお茶屋があるというので付いていく。もう一人札幌からAさんが来ており、同行する。そのお茶屋は、これまでの茶荘とはちょっと違い、若者向けの店構えだったが、お茶は試飲させてくれる。

 

しかもその出てくるお茶はそれ相当なものなので、とても初心者向けとか、お土産を買う観光客向けではないのが、実にユニーク。更には一つずつの茶葉について、相当丁寧な解説がつく。試飲して気に入れば、その茶葉を買うこともできる。ただ人気の茶葉は数量がない場合もある。喫茶コーナーもあり、カフェのように座ってお茶を飲むこともできる。

 

お茶のパッケージは今風でおしゃれ。何だか、とてもいいとこ取りなお店だ。夜7時までらしいが、周囲の店はきちっと閉まっていた。正直あまり流行っていない商店街の中に敢えて作られているような印象もある。これからは、お茶が飲みたい人、買いたい人は、ここに連れて来よう。

 

夕飯は中正紀念堂近くの有名な魯肉飯屋さんへ行く。名前を聞いても行ったことはなさそうだったが、実際に店の前に行くと昔来たことがあると思い出す。いつも行列が出来ている店で、正直敬遠していた。でもさすがに皆さんが通うだけのことはあって、魯肉飯もスープもうまい。これからは偶には来よう。

広東・厦門茶旅2019(7)厦門は休日ムード

厦門で

厦門には昨年11月、そして先月もやってきたので、かなり事情は分かっていた。厦門北駅は相当街から遠く不便なので、今日もわざわざ本数の少ない厦門駅行を選んで乗った。降りたら、後は歩いて、チェーンホテルにチェックインするだけだ。しかしこのホテル、前回も予約より当日の方が同じ部屋が安い。そしてそれを伝えると、ちゃんと安い方にしてくれる。これなら予約しない方がよいのでは、と思ってしまう。

 

バスに乗って王さんの工作室に向かう。先月も訪ねていたので、場所は分かっており、宿からバス一本で行けるので、かなり楽だった。彼は元々雑誌の記者だったのだが、お茶好きが高じて、何と本格的なお茶屋になろうとしていたので、驚いた。王さんは少しお茶を淹れてくれただけで、お茶の包装に余念がない。

 

私はここに置かれているお茶関連の本が見たくて来たのだから、特に問題ない。ここには相当昔出された本のコピーなどもあり、本当に貴重な資料が揃っているので、有り難い。今回は譲ってもらえる本があればと思いやってきたのだが、基本的に欲しいものは大体手に入れることができ、大満足。今後の調査に役立ちそうだ。

 

それから梅記の王さんのところへ行く。今日は海峡茶市場の方にいるというのでバスから地下鉄に乗り換えて向かう。確か2年前、ここを訪れた時は、未だ地下鉄工事中だったのを思い出す。確実に時は過ぎているが、王さんたちのプーアル茶の店は健在だった。ここで20年物の白茶を頂く。これはかなりうまかった。そして夕飯もご馳走になる。

 

宿に帰ってテレビを点けると、今回は卓球をやっている。深圳で行われているチャイナオープン。日本と中国の選手が大挙して出場している。ちょうど馬龍と丹羽の試合を生中継。その後は、何と伊藤美誠を特集している。中国にとっても、最大のライバルが日本だ、ということをかなり意識している証拠だ。

 

6月1日(土)
散策

今日中国は児童節の祝日。そして土曜日でもあり、パパたちは大忙しだ。私が会いたいと思っていた人々も、何かと忙しく、今日、明日は無理のようだったので、自らちょっと歩いてみることにした。昼前にいつもの店に行き、いつもの鴨肉20元の定食を食べる。このコスパはどうしても外せない。

 

そこからフラフラ歩いて、開元路へ向かう。ここは昨年も歩いてはいたが、先日香港で堯陽茶行の王さんが『1930年代に茶行を開いていたビルが開元路にまだ残っているよ』と言っていたので、確かめに来たのだ。ヒントは市場の横のビル、ということで、長いトンネルのような市場を抜けると、その四つ角に確かに古いビルがあった。勿論今は違う店が入っているのだが、ビルの横の壁を見てみると『王』という苗字が見えている。恐らくここだろう。他の大茶商のビルがほぼ消えている中で、ここは貴重な存在ではないのだろうか。

 

それから鎮邦路、中山路、水仙路と歩いていく。何度歩いてももう歴史的な物は発見できないのだが、この何とも迷路のような脇道に入るのもまた楽しい。大通りではひと際、小さい子供を連れたファミリーが多いと感じたのは、気のせいだろうか。何だかみんな楽しそうに見えるのだが、実情はどうだろうか。

 

地下鉄に乗って宿に帰る。この宿は地下鉄駅から近いという利点もある。駅を出るとショッピングモールがあり、そこでフルーツ盛り合わせをチョイスしてテイクアウトした。もう流石に食べ過ぎなので、セーブする。夜は今晩も卓球を見て過ごす。伊藤美誠と丁寧の試合は白熱している。昔『石川佳純の卓球はうまいが、体重が軽すぎるから勝てない』と言った中国の解説者が居たが、伊藤はどう見えているだろうか。

 

6月2日(日)
空港で

香港に始まった今回の旅も最終日となる。宿で朝食をとり、タクシーを呼んでもらって空港に向かった。これも何となくルーティーン化してきている。空港も2時間前にしか、チェックインカウンターが開かないことにも慣れていた。今日はぎりぎり2時間前に到着すると、既に乗客は中に入っており、長い列ができていた。

 

私の番が来ると、係員が『台湾から出国するチケットを見せて』というではないか。そんなこと、これまで一度も言われたことがない。実はすでに東京へ戻る便は予約済みであったが、何とGmailが見られるシムカードはほぼ使い切っており、画面が表示できない。係員は『空港のWi-Fiを使って』というのだが、それでは見られないと告げると、『提示できないなら、この場で購入してくれないと乗せられない』というではないか。

 

これには心底驚いてしまった。そしていつもは厦門航空だが今回乗るのが華信航空だったとようやく気が付いた。華信は中華航空の子会社となっており、元を正せば『台湾からの出国チケットルール』を昔から後生大事に守っているのは、中華だけなのだ。少なくとも中国においてチケットが提示出来ない今回のようなケースには特例があってもよいと思う。

 

だがこの件では常に乗客ともめているので、スタッフは誰一人として同情を示したりはしない。すべてこちらが悪いと言い張る。何かがおかしいこの制度、少なくとも90日ノービザの日本人に関しては、台湾政府に改善を求めたい。最後に奇跡的にGmailが開き、何事もなかったかのように搭乗ゲートへ向かった。

広東・厦門茶旅2019(6)潮汕工夫茶伝承人を訪ねて

5月30日(木)
潮汕工夫茶伝承人を訪ねて

翌朝、荷物をまとめた。ついに潮州を去る日が来てしまった。何とも名残惜しい。そして去る前に矢張り朝食。張さんも昨日の店が痛く気に入ったようで、2日連続で向かう。私にも全く異存はない。今朝はシラス粥に焼き魚、そして漬物。まるで和食の朝ご飯のようなあっさりした仕立てが実によい。もっと他の物にも手を出したかったが、さすがにそれもできず、次回に持ち越すこととなる。

 

荷物を積み込み、いざ出発。今日はどこへ行くのだろうか。張さんが言うには『潮汕工夫茶の歴史について知りたいのなら、伝承人である有名な鄭さんに聞くのがよい』ということで、彼女はここ2-3日、鄭さんを探していたようだが、ようやくある山にいることが判明して、そこへ追い掛けていくことになったのだ。これまたある意味で凄い旅だ。

 

やはり山道を行き、高峰村という場所に行った。そこも周囲には何もない所だったが、茶畑が見え、茶工場があり、その中にお目当ての鄭恵豊氏がいた。彼は元々国営企業に勤めていたが、その茶の実力で独立し、今は何社もの茶作りのアドバイスをしているらしい。ここもそのうちの一社だという。ここで1時間ほど、その茶の歴史の話などを聞いた。さすがに現代史となると、話が生々しい。

 

お昼は街に降りていき、そこで食べた。またもやうまい。ここでは潮州名物のウナギが煮込まれて出てきた。海鮮系も多く、潮州料理のうまみがにじみ出ていた。食後は近くの茶荘に入り、そこで老板自慢のお茶を頂く。何だか眠気が出てくる。これは確かに極楽旅だ。ここでずっと休んでいたい。

 

何と鄭さん自ら我々を車に乗せて送ってくれるという。何とも有り難い。まずは張さんたちを潮汕駅に送る。彼女らの予約していた広州行き列車、ギリギリになったが、何とか間に合ったらしい。そこから鄭さんの自宅のある汕頭まで私も乗せてもらい、引き続き、質問を浴びせ、回答を得た。これはまた有意義な時間だった。

 

汕頭に着くと、すでに日も暮れており、予約したホテルまで送ってもらい、別れた。本当は明日も一緒に行動したかったが、鄭さんも久しぶりの自宅だというので遠慮した。紹介された汕頭のホテルはなかなか快適だった。取り敢えず外へ出て、駅に向かう。明日の厦門行きの高鉄チケットをゲットしておく必要がある。

 

汕頭に来るのも18年ぶりだが、特に高い建物もなく、非常に穏やかで、あまり変わっていない、という印象だった。潮州、汕頭、なぜここまで発展しなかったのだろうか。この2都市、お互いに競っていると聞いていたが、良い競争になっていなかったのだろうか。まあ、私個人としては、今の中国の中で、ここまで変化が乏しい街はむしろ貴重であり、懐かしむに足る。

 

駅は昨年改装されたばかりできれいであったが、駅の前は大きな道路に阻まれ、渡る所がないなど、インフラ面には問題があった。それでも駅には殆ど人もいなく、切符はすぐに買えて嬉しい。バスで帰ろうとしたが、こちらもよく分からず、結局歩いて戻る。途中の食堂で海鮮粥を食べて、何となく満足。

 

5月31日(金)
面倒な高速鉄道

朝ごはんはホテルで食べたが、料理は沢山あるのだが何とも味気ない。完全な潮州ロス状態に陥っている。これは早く脱却する必要がある。フロントでタクシーを呼んでもらい、乗り込むと、運転手が『どうして潮汕駅へ行かないんだ?』と聞いてくる。もう切符は買ってあると言うと、仕方ないな、と言い捨て走る。

 

駅にはすぐ着いたが、現金で払おうとすると『微信決済ではないのか、タクシーは誰が呼んだんだ?』と聞かれ、ホテルと答えると頭を抱える。ホテルが現金決済と言っていないので、現金は受け取れない仕組み?らしい。でもそれはこちらが困る。何と運転手はホテルへ戻るというので、勘弁してくれというと、ホテルまで戻る分もくれ、と表示以上の料金を要求。何とも良く分からない。

 

汕頭駅には、地下通路に降りるエスカレーターすらなく、何のために改装したのかと思う。皆重い荷物を持って階段を上り下りして疲れる。何と今回普通座席が売り切れていたので、一等車初めて乗ったが、座席が僅かに広いぐらいで特段良くというわけではない。でもたった一駅とはいえ、16元というのは極めて安い。ただ次の潮汕駅では、一等車両は出口から一番遠く、何の優先もないと知り、がっかり。おまけにエレベーターで降りたら、そこは出口に行けず、また荷物を持って、別の階段を探す始末。

 

更に私は切符を2枚持っていた。何故だ?私は乗り換えるのだから、改札を出る必要はないと思っていたが、中国は甘くない。列車が来るまでホームで待つことは許されておらず、一度特別改札を出て待合室へ行き、時間が来たらまた並び直して列車に乗るのだ。だから皆が潮汕駅を使えと言ったのだ。意味は分かったが、もう後の祭りだ。中国の高速鉄道は恐ろしく発展してきたが、ソフト面では不便なことが多い。それから1時間半ほどかけて、ようやく厦門駅に着いた。

広東・厦門茶旅2019(5)双髻娘山へ

5月29日(水)
双髻娘山へ

今朝も朝ごはんを求めて、古い街並みを歩く。張さんはグルメであり、グルメの周囲にはグルメの友人が集まる。彼らから様々なグルメ情報が入ってくるようで、その店を探しまくる。私は道端でお茶をすすっている老人や天秤棒で野菜を売る人などに興味を惹かれ、はぐれそうになる。

 

ようやく着いたその店は、観光客は絶対に行かないだろうと言うローカルな雰囲気。店のおばさんも『あなたたち、どこから来たの?』と聞くほど、地元民しか来ない。そこには焼き魚やつみれ、ゴーヤーなどが置かれており、好きな物を取る方式になっている。それにお粥、大腸のたっぷり入った粥は最高にうまい。これはもうしあわせに到達した域だ。私はここにずっと留まっていたいと思うようになっていた。

 

今日もまた車に乗って出かける。昨日鳳凰山へ行ってしまったのに、今日はどこへ行くのだろうか。また1時間ぐらいかけて堯平県と潮安県の境にある双髻娘山というところへ向かった。天気は小雨、そして待ち合わせ場所に責任者の劉さんが迎えに来てくれており、ここから先は細い急激な上り坂で、慣れていなければとても運転できないため、車を乗り換えて進む。生態公益林と名付けられた自然体系を守りながら、産業化していくプロジェクトのモデルになっているようだ。

 

海抜1000mのところに茶工場が作られており、ここで数年前より大学の研究と茶業を一体化させた実験的な茶が作られていた。科学的、無農薬、無化学肥料、高海抜などを売りに、茶の生産も軌道に乗ってきており、有機認定などの取り組みも行われている。これまでの鳳凰単叢をさらに進化させ、大きなブランドにしていこうという試みだと受け止めたが、果たしてどうなっていくだろうか。

 

周囲には樹齢100年を超える茶樹も植えられており、山の上に茶樹畑が広がっている。雑草がかなり生え、茶葉には蜘蛛の巣が掛かっており、その栽培法が分かる。天気が良ければ、ここを散歩していれば気持ちがよいだろう。また下までいい景色が見られるそうだが、本日はあいにくの雨。残念ながら、ほぼ視界がない状態で、景色は次回にお預けとなる。所々に大きな岩があり、そこで記念写真を撮り、足を滑らせないように注意しながら、工場に戻る。

 

そのまま車に乗り込み、下へ降りていく。堯平の街まで30分以上かかったか。そこで遅いお昼を取ることになった。自然の中で食べる、という感じで、何やら期待が持てる雰囲気だった。潮州の食は本当に期待を裏切らない。やはり地鶏の肉は歯ごたえがあり、皮がうまい。また地元で採れたイモととうもろこしを蒸かしており、これがまた甘い。既にここ数日、美味い物をたらふく食べて、お腹がパンパンなのに、頭はまた食べることを要求してくる。これって、何だか体の一部が壊れてしまったよう感覚に捕らわれる。

 

夕方宿にたどり着くと、すぐにシャワーに向かった。昨日浴びられなかったお湯、この時間なら出るのではないかと期待していたが、この期待も裏切られず、暖かいシャワーを浴びて、気分は爽快になっている。人間、お湯を浴びるとこんなにも元気になるものかと思うほど、疲れが吹っ飛んでいた。

 

夕方6時すぐには宿を出た。まだ昼ご飯を食べてから3時間ちょっとしか経っていないが、グルメの張さんにはそのようなことは関係ない。行きたい食堂が夜7時前には閉まることを知って、急いで飛び出したのだ。さすがにちょっとしか食べられないだろうと思っていたが、名物だと勧められると口にせざるを得ず、カボチャなど美味しいのでまた食べてしまう。何とここでもまた結構な量を食し、ついに腹が爆発?

 

食後、骨董屋などを冷かしながら散歩するも重たい腹は解消せず。今晩はとにかく失礼して部屋で休もうかと思っていたが、何と張さんはスタスタと茶館に入っていくではないか。『折角だから伝統的な茶館スタイルを体験しよう』ということで、テーブルに座り、お茶を淹れ始める。だが大きな舞台は暗く、茶館の出し物はまだ始まらないということで、この古い建物を散策することにした。

 

潮州は華僑の一大出生地であり、その多くが東南アジアへ移住している。その華僑と故郷を結ぶ便りや送金に関する書類が展示されているのは興味深い。この立派な洋風の建物自体が、そうした海外からの送金により建てられたものかもしれない。茶の流れについても何か資料はないかと探してみるも、何も出てこない。単叢は華僑に飲まれることはなかったのだろうか。

 

茶館の出し物は、歌と劇、そしてなぜか茶芸も入っていた。その昔の茶館で、茶を淹れることが芸になっていたとは思われず、かなり違和感はあるが、今風の分かりやすい演出だと思えばよいか。往時はもっと華やかで、やんやの喝采などもあったのだろうが、今はみな大人しく、茶をすすっている。