杭州・安徽・北京茶旅2017(5)上等の祁門紅茶を試飲する

6月24日(土)
茶廠へ

翌朝は朝ご飯を食べるとすぐに祥源の茶工場へ向かった。祥源は浙江省の不動産開発会社であり、その潤沢な資金でこちらの茶工場を買収した。グループ全体の売り上げに占める茶業の割合は僅か1%だという。今も輸出が全体の70%、リプトンに中国茶葉も供給しているというが、その量も少ないのだろうか。

 

雨は降り続いており、工場の横を流れる川は増水し、このまま降り続ければ溢れるのではと思う程だった。6月はこんなに雨が降るのだろうか。工場は立派できれい。最近新設されたものだそうで、以前の国営時代の工場は別の場所にあったが、既に完全に取り壊されて跡形もないという。

 

建物の前には立派な像が建っていた。呉覚農、近代中国茶業を担った一人だが、彼は1932-34年の間、この地の茶業改良場の場長を務めていたという。研究、生産、販売を一体化するなど相当大胆な改革を断行し、この地の紅茶生産に貢献したとある。当時の外貨獲得の重要物資である茶はこのような人々により発展していった。

 

工場内を見学すると、先端の大型機械が導入され、自動化が進んでいた。これまで見てきたいくつもの紅茶工場の中でも最大規模ではないだろうか。一方博物館の方へ行くと、昔の器具が並んでおり、その生産の歴史が見られるようになっていた。実は今日は朝から一人の老人が我々に同行してくれていた。

 

閔宣文氏、85歳。1958年に祁門茶廠に入り、製茶技術を深め、60年に渡って紅茶を作ってきた人である。現在でも祥源の顧問として、技術指導に当たっている。非常に元気で、我々の質問にも的確に答えてくれた。2008年には非物質文化遺産として、祁門紅茶の伝統製造技術の代表的伝承人にも認定されている。

 

試飲室に移った。ここには相当の種類の祁門紅茶が置かれており、そのうち数種類が無造作に置かれていた。試飲が始まる。上級から3種類は手摘みで、後は機械摘みだという。その最上級の紅茶を飲んでみると、これは完全に異次元の香りと味がした。久しぶりに美味い紅茶を飲んだと思えた。

 

実は先日日本のある年配の方と話していると『30年前、祁門ではいい紅茶が作られており、我々はそれを飲むことができた。だが今やそんな上等な茶を見つけることは難しい。祁門も相当の変化があったようで、上等のお茶は作られなくなっているのだろう』と言われた。だが今飲んでいるお茶を見ると決して上等のお茶がないと思えず、関係者の人に聞いてみた。

 

『それはこちらの問題ではなく、日本の問題でしょう。30年前、日本の経済力は凄かった。当時の中国でいいお茶は日本にどんどん流れていた。だが今は日本人のそんな高級なお茶を買う余裕はないのでは』というのだ。確かにそうかもしれない。30年前の100元は彼らの一か月の給料だったが、日本人にとっては一回の飲み代に過ぎなかった。我々は物があれば何でも買えた。だが今や、高級茶は1斤(500g)、1万元(17万円)もするのだ。私には手が出ない。もし手にできる日本人がいても、その茶を10斤買う力はない。中国人はその単位で茶を買うのだから、勝負にならない。

 

昼ごはんを食べてから、ある茶荘に向かう。ここには元国営茶廠の廠長だった人がいた。彼は茶廠が売却されるとその職を辞し、今は自分で細々とお茶を作っていた。10年前の混乱でにも変化があり、もう大きな茶廠で茶を作る気はないという。その辺の多くは語らないが、色々と大変だったのだろうと推察された。

 

実は今日は山の中の茶畑を見学する予定になっていたが、ここ数日の雨で山道に土石流が発生。その様子が微信で配信されてきて、とても危険な状態だということで、残念ながら見学を諦めた。ちょうど雨が上がっていたので、代わりにこちらの茶荘の裏にある茶畑をちょっと見た。雨に濡れた茶樹は元気で、茶葉もすくすく伸びていた。

 

ホテルの裏に、茶山公園という名の場所があった。時間が余ったのでそこへも行ってみる。そこは小高い丘になっており、茶畑もあったが、既にすべて刈り取られていた。ここの麓には、元々茶業改良場があったという。確かに古い建物が残っていた。昔の従業員宿舎らしい。その前の建物は現在政府が使っており、改良場はもっと田舎に移されているらしい。

 

夜は茶業関係者が集まってきて、大宴会が催された。年配者も来て、酒を酌み交わし、楽しそうに昔話をしている。モンゴル族の女性が草原の歌を披露してさらに盛り上がる。私は酒を飲まなかったが、疲れが出たのか、途中で目が回るような感覚に襲われ、宿に帰って休息した。やはり旅が続いたこと、雨など季節的な要因があったのだろうかと思う。

杭州・安徽・北京茶旅2017(4)中国有数の紅茶産地 祈門へ

6月23日(金)
黄山へ

翌朝は早く起きた。今日は杭州東駅から高速鉄道に乗らなければならない。9時半過ぎに列車に乗るためにはここからバスを乗り継いでいては間に合わないと言われ、タクシーを頼んだ。タクシーは朝の渋滞に嵌ることもなく、思ったより早く、出発1時間以上前に駅に着いたが、料金は来た時より遥かに高かった。どうしてそうなるのかはよくわからない。何か仕掛けでもあったのだろうか。

 

駅に着くと腹が減ったので、お粥と油条を食べた。この店、どこにでもあるチェーン店だが、この日はシステムがダウンしており、オーダーがまとまらずに混乱していた。中国は日本より便利になった想うことも多くなってきたが、一旦破たんすると、目の当てられない惨状になる。いや今や日本でも同じか。

 

列車はかなり長い編成でやって来た。ところが何と、私は並ぶところを大幅に間違えてしまっていた。前と後ろを反対に考えていた。どこに何号車が停まるかということが明示されていないのでこんなことが起こる。15両もの間違えは致命的、列車がついて初めて知り一生懸命走ったが、当然発車までに間に合わない。車掌も取り敢えず乗れ、と叫ぶ。この列車は先頭車両を2つ連結しており、何とか自分の席のある側まで辿り着いて乗り込んだ。もし手前に乗れば、歩いて自分の席に行くことは出来なかった。

 

今回は安徽省の祈門紅茶の旅で来たのだが、杭州からは黄山北駅に行くことになる。まさかここにも高速鉄道が通っているとは思ってもみなかったが、杭州から中国有数の観光地である黄山へ行く便数は少なく、本体である魏さん一行が福州から到着する時間に合わせることは出来ず、長時間待つことになっていた。午後1時過ぎ、列車は無事に黄山北駅に入った。

 

3. 安徽
祈門まで

ホームを歩いていると、スマホに着信があった。出口のところで誰かが待っているという。行ってみると、何とモンゴル族の女性がそこにいた。魏さんたちの紅茶が好きで、内モンゴルから出てきて、深圳などで茶の勉強をしており、近く内モンゴルで茶荘を開こうとしているらしい。今回も勉強のためにこのツアーに参加したのだが、何と深圳からは夜行列車しかなく、今日の早朝にここに着いたのだと。驚いた、朝からずっと待っていたとは。

 

更に武漢から来たという二人の男性も合流した。彼らは私と同じ列車でここに辿り着いていた。お茶や水関係のビジネスをしているようで、浙江や福建を回ってきて、このツアーを知り、参加したらしい。メンバーが4人になり、話に花が咲く。持っていたお茶が淹れられ、のどの渇きを癒す。お湯がどこでも手に入るのが中国の良いところだ。この駅も高鉄のご多分に漏れず、新しいがため周囲に特に何もない。おまけに雨もかなり降っているが、これなら2-3時間待っても問題がない。

 

3時間ぐらいして魏さんたちがやってきてようやく合流した。迎えの車が来ており、ここから60㎞離れた祈門へ向かう。途中はかなりの田舎。雨が強いのでよく見えないが、田畑が多く、また山も見える。約1時間かかって、何とか街に入る。街は思ったよりも建物が多いという印象。

 

予め宿が予約されており、相変わらずの林さんと同室。もう慣れていて有難い。すぐに向かいのホテルで今回の受け入れ元である祥源祈門紅茶の孫総経理が食事を用意してくれ、大いに食べる。その後そのホテルの1階にある祥源の店に場所を移し、紅茶を飲み始める。そこでいくつか祈門紅茶の歴史を聞き出す。世界の三大紅茶の1つとも言われ、中国を代表する銘柄だから、その歴史も華麗なのだろうか。

 

1900年代前半から祈門は世界的ブランドだった。1915年の万博での受賞が大きく取り上げられるが、それだけではないようだ。しかし近年は不振に陥り、ついに国営茶廠が競売されてしまった。祥源は国営茶廠解体後、それを引き受けた会社で、母体は不動産開発業者だった。孫総経理も元々リプトン中国に勤めていたとのことで、この買収により、請われてやってきたという。祈門紅茶は混乱して、以前のような生産はされていない、と何度も聞いていた意味が何となく分かる。

 

話を聞き終えると、眠くなり、申し訳ないが先に部屋に戻って休むことにした。魏さんたちはこれまでの例だと延々茶を飲み続け、話続けているはずだ。林さんが部屋に戻って来たのは夜中の12時を過ぎていたと思う。外はこれまた延々と雨が降り続いている。明日はどうなるのだろうか。

杭州・安徽・北京茶旅2017(3)良渚博物館と径山寺

6月22日(木)
良渚博物館

翌朝雨は降っていなかったので、明るい時間帯の文化村を散歩した。様々な創造的な空間がそこにあったが、果たしてどれだけ使われているのかはちょっと疑問だった。杭州市内の混雑を避け、豊かな空間でクリエイティブな仕事をする、というコンセプトはこれからだろうか。

 

針路を北にとり、教えられた通りに、良渚博物館を目指す。道は本当に広く、車は極めて少ない。そして歩行者に対してとても親切。やはりここは中国ではない。北のはずれに博物館はあった。敷地は広い。正面入り口まで歩くのも大変だ。中に入ると参観者は少なく、ここもゆっくり見学できる。この辺の遺跡は1936年に発掘されたとある。発掘の歴史は意外と古い。その発掘者の中に梁思永という人物がいた。彼はハーバードを出た考古学者だが、何と日本に亡命した梁啓超の息子だった。長男で建築家の梁思成とは母親が違うらしい。この一家、調べればすごい人材を輩出しているのではないだろうか。因みに彼は1954年に50歳の若さで亡くなっている。

 

良渚文化は今から約5300年前から4300年前の1000年間栄えたと言われている。この付近にはこれより前に河姆渡文化があり、その関連性などは説明されていない。この文化にはかなりの定住性があり、家もしっかり作られている。井戸などの水回りも整っていた。そして王権というか、リーダーの下で集団生活が行われていたように見える。墓も王家の物が立派なのは勿論、既に庶民の物も作られていたという。この時代にそんなものがあるとは意外だ。かなり高度な文化がここに存在したことを示している。

 

博物館の周囲を一周する。結構な時間が掛かる。とても素晴らしい池があり、蓮の花がちょうど終わった時期らしい。いい眺めだなと写真を撮っていると馮さんから電話があり、車で迎えに来てくれた。これから径山寺へ行こうと誘ってくれたのだ。昨日の村よりはかなり近いところにある。余杭という地名はどこかで見た記憶があったが、以前径山寺に行く時に通過した街だった。

 

径山寺へ
まずは寺に上る前に、下の街で昼ご飯を食べた。そこは一応観光地のようになっていたが、お客は多くない。食堂に入り、エビや魚を食べる。この辺の名物らしい。お茶は普通の径山茶がポットで出てくるからうれしい。私は以前よりこの緑茶が好きだ。誰も知らなかった頃が懐かしい。

 

それから山道を登っていく。以前はここをタクシーで登ったのでよく覚えていないが、かなり急な坂もある。中腹まで来ると突然通行止めになっていた。何と全山全面改修中だということで、誰も入ることは出来ないという。だがここで諦める馮さんではなかった。ちゃんと道はあり、めでたく上に登ることは出来た。どのようにして登ったかは秘密としておこう。

 

だが頂上は無残な場所となっていた。多くの建物が壊され、新しく建て替えられようとしていた。本殿はさすがに修理だけのようだが、その上にあったと思われる茶畑は無くなり、大仏殿、観音殿が立派に建立されている。不思議な体型をした仏像もあった。まるでタイの物のようだった。寺全体を再開発して、観光スポットにでもしようという考えのようだ。さすがに日本では考えにくい大胆な発想。これは寺に資金が溜まったことと地方政府が何等か関係してなされているのだろう。

 

この寺には、静岡茶の源流としての聖一国師の像や、日本茶道の源流に関する碑なども建てられているが、さすがにそれはそのまま置かれていてホッとした。その部分だけが径山寺だと思えてしまうのは、かなり悲しい。日本との繋がりも、今回の再開発で立ち消えてしまうのではないか。それにしても歴史を発掘して守っていこうという良渚と、再開発しようという径山寺、どちらもお金が絡んでいるのは仕方がないことか。

 

以前はあった製茶室を探しても見つからなかった。取り壊されてしまったのだろう。以前はこのお寺で径山茶を作っていたが、今はもうないのだろうと念のために聞いてみると、倉庫のようなところに通された。そこには段ボールが山積みされ、緑茶ばかりでなく、紅茶や白茶まで保存されていた。今やこの寺のブランドを使い、茶園の茶葉を使い、製茶は外注している様子が窺える。販売価格もかなり高い。これが今の中国のお寺商法か。

 

 

帰りに良渚文化芸術中心で降ろしてもらい、馮さんとは別れた。ここには図書館などがあるが、蔵書には期待していなかった。単にこの建物が日本人、安藤忠雄氏により設計されたという理由で寄っただけだ。今や日本の一流建築家は日本ではなく、海外で高く評価され、そちらで作品を残している。それがいいことなのかどうか、私にはわからない。

 

フラフラ歩いて帰ると、一昨日の晩に来たスタバの横に出た。そこにはいくつかの食堂が店を出していたので、夕飯はそこで麺を食べることにした。中国に来るとどうしても食べ過ぎになってしまうので、一人の時は軽く済ませるのがよい。その後宿とは反対にあるスーパーに行き、飲み物を調達。ようやくこの街にも慣れてきたが、明日はもうここにはいないのだ。

杭州・安徽・北京茶旅2017(2)九曲紅梅を探して

6月21日(水)
九曲紅梅を探しに

翌朝は雨だった。明るくなってみてみると、ホステルの周囲は興味深い建物が並んでいる。だが雨なので外出を控えた。9時前には馮さんが迎えに来てくれた。彼女の車に乗り、知り合いのところへ行くという。私は今回九曲紅梅という杭州の紅茶を訪ねに来たのだが、前回宜興の旅で知り合った馮さんがそれを請け負ってくれ、知り合いに紹介を頼んだようだ。その彼も彼の車に乗り、我々を先導してくれる。

 

良渚文化村から約1時間かかって双灵村に着いた。同じ杭州と言いながらもマ反対の場所、随分と遠い所だった。そこで3代に渡って紅茶を作り続けているという賈炳校さんを訪ねた。彼の茶工場には、石うすやら木製の揉捻機やら、まるで骨董商の様にそこかしこに置かれていた。これは製茶道具として使うのではなく、彼の趣味だという。

 

九曲紅梅というと茶葉が少し曲がっているのが特徴だった。以前は殆ど見ることのなかったお茶、浙江省の茶葉の紅一点、それが最近の紅茶ブームに乗って少しずつ復活してきているという。ただその量は決して多くはなく、また龍井43などの品種を使って紅茶を作っても、需要もそれほど伸びるとも思われない。この村では、この紅茶という資源を使い、村おこしとして、観光茶園化を計画しているという。

 

実際に賈さんの茶工場の上も、既に宿泊施設の整備が始まっていた。来年には前の空き地も駐車場になり、週末には沢山の観光客が訪れることを期待している。杭州市内という一大観光地から僅か15㎞という立地に優位性はあるのだろう。だがお茶を使ってそこまでニーズがあるのだろうか。雨はかなり強くなってきている。仕方なくお茶を飲んでいる。

 

何とか雨が小やみとなり、昼ごはんに行く。地元の人しか知らない場所にある自然の中の食堂。野性味満点。そこで出された鶏肉の美味いこと。地鶏というんだな、これを。野菜なども柔らかくて美味しい。まさに農家菜だ。杭州の少し田舎でも皆さん、実に裕福だ。これも含めて観光化なのだろう。

 

午後は博物館へ。九曲紅梅の歴史がかなり細かく紹介されており、また実際に1900年代初頭から30年代ぐらいまで、この紅茶が龍井茶などと並ぶ高値の茶だったことなどが実際の新聞記事などを交えて展示されており、興味深い。その当時の九曲紅梅はどんな味だったのだろうかと、ふと思ってしまった。

 

それから村の中に少しだけある茶畑を見学。その横にある賈さん所有の別荘?も見学。池があり、いい庭があり、宿泊も可能な部屋がいくつもあるが、一般には開放していないようだ。こちらでは、緑茶をご馳走になる。それにしても賈さんだけがこの村の成功者なのだろうか。

 

賈さんに別れを告げて、浙江大学へ向かった。浙江大学と言えば、6年前、私が会社を辞めて最初の茶旅に出た際、訪れた大学だった。あれから6年も経ったかと感慨深い。馮さんはここの茶学学院の出身ということで、こちらの教授からも歴史を学ぼうと訪れた。残念ながら現在の茶関係者にとって、歴史はそれほどに重要ではない。なぜそれが必要なのかと質問されれば答えに窮する。

 

その後、良渚文化村に戻る。こちらにはなぜ、と聞く必要もなく、5000年前の文化がそこに厳然と残っている。ただ残っていると言っても、発掘されたものは博物館に行き、その現場には何も見られない。遺跡公園という名称が残るだけである。これからここを開発して、テーマパークのようにしていく計画らしい。同時に更に発掘調査が進められるようで、そこに期待がこもる。文化は経済の支えがあって初めて成り立つものだから。

 

夕飯は馮さんがご馳走してくれた。出来るだけ地元の料理をということで色々と頼んでくれた。湯葉を使った料理は日本を思わせる。他の炒め物も、何となく味がちょうどよく、日本を感じさせた。やはりこの地域、日本との関係が非常に強いのではないかと勝手に想像してしまう。

 

夕食後は、文化村内を散策した。この街は大手不動産集団、万科の王主席が『夢の街』として作ったと聞いている。それにふさわしい静かで落ち着いた、中国とは思えない、どこかアメリカ西海岸のような雰囲気を漂わせている。まず人々が急いでいない、車はゆっくり、信号もゆっくり、もうそれだけでも今の中国には貴重だ。ハワイなどを思い出す。

 

きれいな池の周囲を歩くだけで心地よい散歩ができる。犬などを連れて歩いている家族やカップルが多い。魚釣りを楽しむ人もいる。部屋に帰ってすぐに蚊取り線香を点けたが、またかなり刺された。自然に囲まれて生きるとはこういうことかと思いながら、何とか目を閉じる。

杭州・安徽・北京茶旅2017(1)良渚までの長い道のり

《杭州・安徽・北京茶旅2017》  2017年6月20日-29日

2か月に一度の中国遠征、茶旅にも少し慣れてきた。今回は前回ほど遠くない2つの場所、杭州と安徽省祁門を選んで、紅茶の旅してみることにした。ところが突然のプラン変更があり、何とそこから北京にまで行くことになってしまう。やはり中国の旅は疲れることを実感するが如何とも仕方がない。

 

6月20日(火)
1. 杭州まで
ラッシュの上海を抜ける

東京から上海へ飛び、北京から東京へ戻る。こんなフライトがそんなに高くない料金で乗れるのはやはりエアチャイナの良いところだ。ただ成田から浦東へ行かなければならないのは、その後杭州に行く人間にとっては厄介なことだった。もし虹橋行きならすぐに高速鉄道に乗り、杭州に行けるのに。世の中全てがうまくいくということはない。

 

しかも浦東着は午後5時過ぎ。ちょうど上海市内のラッシュ時間に当たっており、バスやタクシーでは何時着くか分らない。上海に泊まることも考えたが、やはり一気に杭州まで行きたくて、今回初めてリニアを使ってみることにした。空港のイミグレはスムーズで思いのほか早く出られたが、リニアの駅までは歩いてちょっとかかる。乗車券は50元、地下鉄なら虹橋まで7元で行けることを考えると極めて高い。しかも列車は出たばかりで待たなければならない。

 

列車が入る時間にしかホームに入れないという中国式は変わらない。特にすごい車両でもなく、乗り込むとすぐに発車し、何と僅か8分で竜陽路駅に着いてしまう。ほとんど何も見ないうちに、そして写真も撮らないうちに終わってしまった。まるでジェットコースターに乗っているような気分だった。

 

竜陽路駅で地下に潜り、2号線に乗り換える。これで直接虹橋駅まで行けるのだが、当然ながらラッシュ時で混んでくる。荷物を持っているので、むしろほかの乗客がよい迷惑だったろう。特に浦東中心部から浦西に渡る付近は滅茶混みで、体の体制を維持するのに苦労するほど。今や上海の地下鉄は東京の込み具合を越えており、昔のように次を待つ余裕もなく、無理やりに乗ってくるのだ。

 

何とか虹橋駅で降りて、すぐに切符売り場に並ぶ。上海はネット化が進んでおり、並んでいる人が少ないので、すぐに買えるのが嬉しい。杭州東駅まで迎えに来てくれるという馮さんに連絡を入れてみる。切符を買うまで何時に着くか分らないのだから仕方がない。案の定、彼女はお嬢さんの都合で迎えに来られないという。まあタクシーで行けば済む話だと思ったのだが。

 

杭州東駅までは約1時間。何とも速くなったものだ。駅でタクシーを拾うが、場所を告げても運転手は分らないという。ただ最近は道行というナビがあるので住所を入れれば、すぐに探せる。それを見た運転手が『なんでそんなところに行くの?杭州市内に泊まった方が便利なのに』と言い出すほど辺鄙なところらしい。途中まで高速道路に乗り、更に一般道を30分以上走ったから、確かに遠い場所だった。そしてその住所近くに来ると、突然それまでの中国の街からカリフォルニアあたりの街並の雰囲気が出てくるから驚く。

 

だが今日泊まる予定のホステルは見付からず、色々と聞きまわる羽目に。最後は馮さんに電話して何とかたどり着く始末だった。そのホステルも何となくモダンな感じで若者が泊まるイメージだった。馮さんが予約してくれ受付で待っていてくれたので、助かった。ここ良渚文化村には外国人が泊れるホテルは3つしかないらしい。受付の女性はなぜか日本語も話し、ビックリ。

 

2. 杭州
夜食

ホテルは迷路のように階段があり、意外と広い。部屋は何となく屋根裏部屋と言った感じだが清潔でよい。料金も高くない。結構暑さを感じるのでクーラーをつけた。そして移動に心を奪われて夕飯を食べていないことに気が付く。しかしどう見ても周囲に食べるところなどない。受付に聞いたが、コンビニすらなく、辛うじてスタバが開いているかもしれないという。一体ここはどういうところなんだろう。

 

取るものも取り敢えず、外へ出た。数分歩くとちょっとおしゃれなスタバがあるではないか。だが中へ入ると、片づけが始まっている。何とか頼んでサンドイッチとカフェラテをテイクアウトできた。中国に来て最初の晩がスタバご飯なんて初めてかもしれない。まあそれでも食べられないよりはずいぶんとマシだ。部屋に帰ってそれを食べ、シャワーを浴びて寝る。何となく蚊に刺されたので、電気蚊取り線香を焚く。まあ寝心地は悪くない。

タイ巡礼、そして茶旅2017(21)ヤワラ―をふらつくも

8月2日(水)
空港へ行くまで

やはり少し長くバスに乗り過ぎたのかもしれない。首のあたりに疲れがたまり、少し頭が重い。そんな朝を迎えた。8時頃何とか起き上がると、ちょうど電話が鳴る。Yさんが階下に到着した合図だ。いつものようにタイ情勢や旅行業界の様子などを聞いて、情報収集に努める。

 

その後いつものように宿の向かいにコムヤーンを食べに行く。これはもうここに泊まったらマストアイテムになっている。おばさんも特に愛想よくしてくれるわけでもないが、一応席は空けてくれ、そこで食べさせてはくれる。今や半年に1度ぐらいしか来ない客となり、常連客からは外されてしまっている。しかしコムヤーンとカオニャオで45バーツの幸せ。何とも有り難い。

 

午前中は今晩の夜行に備えて、完全休養として、部屋で過す。この宿ではNHKが見られるのだが、何とお昼のニュースの後の番組、ひるブラというのを見ていたら、先日行った富山県朝日町が登場、しかも我々が世話になったKさんが何と生出演していたので本当に驚いた。バンコックでこれが見られるとは、かなり奇跡的なことだろう。すぐにFBで伝えると先方も『まさか海外まで自分の映像が流れていたことに驚いた』とのことだった。NHK、恐るべし。

 

昼になると下へ降りていき、Yさんたちとランチを取るのも恒例となっている。Yさんのところのタイ人スタッフが、ちゃんと席を確保して、メニューを選んでくれるので何とも安心できる。3-4人で食べて一人60バーツ程度と激安、激ウマなのがよい。その後、Yさんのオフィスにコーヒーを持ち込んで飲むのだが、その値段が55バーツだから、物の価値が分からなくなる。

 

部屋をチェックアウトして荷物を預け、出掛ける。今日はヤワラ―に昔の茶廠の痕跡を探しに行くことにした。冷房の効いた4番バスに乗れば一本で行けるのは知っていたが、何と乗り場が変わっているので、ちょっと驚く。何しろ言葉ができないのだから、こういうのは意外と困る。何とか乗り込んでチャイナタウン、ヤワラ―へ向かった。

 

ヤワラ―には何度も来ているのだが、どうも苦手だ。何しろ潮州系、客家系の街で普通話も通じにくいし、商売優先で話も聞きにくいのだ。だが今回もIさんからの無理強いがあり、重い腰を上げた。数十年前にバンコックにあった茶工場、茶商について知りたいというのだが、電話番号簿でも引けばという、そんな簡単な話ではなかった。

 

取り敢えず目に付いたお茶屋に入り、おばさんに『こんな名前のお茶屋が昔あったのを知らないか』と聞いてみるも首を振るばかり。その次の店も同じで、仕方なく、現在のヤワラ―で最大級のお店、三馬印へ行ってみた。だが何とここでも普通話すら通じない。何とか英語で対応してもらったが、何もヒントは出て来なかった。

 

更にふらふら歩いて見たが、どうにもならない。中国語よりむしろタイ語ができる人と一緒に歩かないと何もできないと知る。最後の店先にちょっと変わった名前を発見!『台湾南港茶』とは何ぞや。思わずこれを購入して、店のおばさんに聞いてみると『ああ、それは台湾のお茶じゃないよ』と軽くいなされてしまう。『じゃあ、なんで台湾って付いてんの』と聞いても、もう答えは返ってこなかった。

 

またバスに乗り、途中で地下鉄に乗り換えて、何とか宿に辿り着く。かなり暑くて疲れたので、宿のマッサージで時間を調整しようと考えたのだが、何と先客があり、『明日来てね』とつれない返事。私に明日はないのだ、と言いたいが、そのタイ語が分からない。それなら近所で探そうと、ウロウロし始めるが、なかなか見つからない。

 

ようやくかなり離れた場所で1軒、発見して中に入る。お客はいなかったので、すぐに足を揉んでもらう。『あっちが混んでいたの?』と聞かれ、ちょっと変だなと思っていると、何と斜向かいに日本人がマッサージ屋を開いたというのだ。私もそこを訪ねた客だと思ったらしい。次回はそちらへ行ってみようか。

 

少し早かったが空港へ向かった。地下鉄も結構混んでいたが、乗り換えたエアポートリンクは激混みだった。ちょうど退勤時間と重なり、空港へ向かう人、家に帰る人で長蛇の列となっていた。2台、乗れずに見送るという恐ろしい状況。本当に早めに出てきてよかった。ようやく乗れた3台目も超満員で身動きできず。途中で人がおり、何とか座れて助かった。空港では夕飯を食い、ネットをやって、ダラダラ過ごす。

 

夜10時のフライトはちょっと遅れてテイクオフした。何となく寝付けずに朝を迎えた。6時前の朝日はきれいだった。定刻にランディングして、家路を急ぐ。明日の夜からは世界陸上テレビ観戦のため、ロンドン時間で過すことになっている。時差ボケ解消が急務だった。もうこの旅を振り返る余裕はない。

タイ巡礼、そして茶旅2017(20)一路南下してバンコックへ

ようやく宿に帰って遅めの朝食を頂く。ここもやはりビュッフェではなく、アラカルトのチョイスだが、サラダやフルーツなどは自分で取りに行くスタイル。この辺にも華僑ビジネスっぽさが出ているかな。美味しく頂き、その後は疲れた体を休めるため、シャワーを浴び、部屋で休息する。これが何とも心地よい。

 

昼前に動き出し、取り敢えず軽く麺を食べる。そのまま日差しが強い中、歩き出す。ホテルの部屋から見えた寺を目指してみる。その途中にあった寺では信者向けの講話が行われているようで、本堂には入れない。かなり熱心な信者が暑い中、扇風機の風に吹かれながら講話を聴いている。

 

その先にお目当ての寺があったが、特に見るべきものもなく、あまりの暑さに退散し、夕方まで部屋で休憩した。そして意を決して再度出動。歩いて行くが、夕方で日差しが弱い。着いたところはワット・スワンタンという名前らしい。敷地はかなり広く、ここの建物はすっきりしていてよい。それから満を持して?もう一度昨日は小坊主が掃除していて入れなかった寺へ向かう。この寺は、何とも白が効いていて、建物にキレがあり美しい。

 

夕飯を探したが、適当な物がなく、結局いつものカオマンガイになる。何とも古めかしい建物で営業しており、地元民が引っ切り無しにやってくる。女子高校生も学校帰りに食べている。暗くなると部屋に戻り、シャワーを浴びると眠たくなり、ぐっすりと寝入る。この旅もいよいよ終わりに近づいているが、その感慨などはない。

 

8月1日(火)
バンコックへ

今朝も早起きした。6時半の朝食開始と共に食堂へ行き、慣れた感じで朝食を食べた。そして8時のバスに乗るために7時半には宿をチェックアウトし、宿で予約した車に乗り、橋ターミナルへ向かった。あんなに近いのに100バーツも掛かるなんて、やはり華人経営だ、などというつもりはない。

 

本当に時間通りに事が運ぶと、待ち時間が長くなる。その上8時発だというのに、そして始発だというに、なぜか予約したバスは来ないのだ。何か間違いがあったのかと思い、オフィスに聞くも『ウエイト』と言われるだけで埒が明かない。他の会社のバスが行ってしまうとかなり心配になる。

 

結局15分遅れでバスが来てすぐに乗り込み、出発した。座席は一番前で前に広い空間があり荷物を置けたので便利だった。お菓子と水も配られたが、取り敢えず寝ることにした。まだ先は長いのだ。それから元来た道を戻っていく。プレーに停まり、ランパーンの手前で南下した。一番前の席は外がよく見えるのがよい。

 

5時間ほど乗ったところで休憩があった。何とこのサービスエリアはこのバス会社専用のもので、麺でもご飯でも一食は無料で食べられるという。乗車中はあまりものを食べない私だが、無料となるとつい手が出てしまうのはちょっと卑しい。軽く麺を取る。ここは巨大な場所で、体育館のようだ。土産物も売っているし、スナックも買える。バス料金の安さから考えても、日本ではできないサービスだな、と思う。

 

それからまたバスに揺られて南下する。交通の十字路のような場所に標識があったが、昆明1460㎞、ヤンゴン607㎞、ビエンチャン509㎞、ダナン1010㎞というのを見ると、まさにここがアジアンハイウエー、東南アジアの交差点だということがよくわかる。ヤンゴンやビエンチャンがそんなに近いとは驚きだ。それにしても中国の南下政策はどうなるだろうか。今度この辺を拠点に4つの都市に行ってみるのも面白いかもしれない。

 

後はただただ南下を続けた。知らない地名が多く、バスターミナルにも停まらないのでよくわからなかった。一応バスは10時間でバンコックに着くとのことだったが、暗くなる頃には、当然のように渋滞が待っており、何時着くとも知れない状況となっていた。ただそれも見慣れたドムアン空港付近まで来ると後は何とかなり、約12時間かかって午後8時に北ターミナルに戻って来た。今回の旅の初めに夜の北ターミナルを出てから18日が経っていた。

 

11. バンコック2
定宿へ

それからは以前と同じ、バスと地下鉄を乗り継ぎ、今回は定宿へ帰還した。約1時間で到着した。正直疲れてはいたが、慣れたところへ戻ると、何となくホッとする。案内された部屋は以前と違っており、その設備もかなり良くなっていた。電気ポットが導入されたのは何とも有り難い。そして懸案だったWi-Fiも繋がったようだ。これで普通のホテル並みになったと言えるだろう。努力したんだな。

 

腹が減った。午後9時を回っていたが、宿のすぐ近くの屋台が開いていたので、そこに座る。スキヘーンとご飯で十分にお腹いっぱいになる。結構辛かったので疲れた胃腸には堪えたかもしれない。それをコーラで優しく癒す?如何にもタイ流の食事の仕方だ。私もようやくタイ人に少し近づいたかもしれない。

タイ巡礼、そして茶旅2017(19)よそ者に優しいナーン

10. ナーン
ナーンの宿

ナーンのバスターミナルは街から少し外れたところにあった。その周囲にはホテルがあるようには見えなかったので、取り敢えずバイタクを拾い、街中を目指す。予想通りお寺の間を縫うようにバイクは走っていく。そして街の真ん中のホテルの前で停まった。ここはこれまでと違って、そんなに古い感じではなかった。

 

1泊1000バーツとポンと言われ、一瞬他を探そうかと思ったが、面倒だからやめた。部屋は極めて簡素、そういえばフロントは華人系だったから、そういう経営なのだろう。タイ人のようなゆったりとは根本的に違うのだ。それにしてみれば、ホテルの建物の作りがちょっと不思議。中にかなりの空洞があり、無駄なスペースが多い。

 

外へ出ると小雨。隣には木造の雰囲気のよさそうな宿があり、こちらに変えようかと思ったが、ネットで見る限り宿代は2倍以上するので止めた。取り敢えず雨が上がったので外を散歩する。少し歩くとちょうどいい感じのお寺があったので中へ入り拝む。仏塔の形がよい。

 

既に昼を大きく過ぎており、ご飯を食べる場所が見付からない。ツーリストインフォメーションで聞いた方向へ進むと博物館らしきものが見えてきた。場所がよくわからずまごついたのだが、広い敷地の中にあるかなり古い洋館だった。ただ館内は改修中のようで展示物はほぼ見られなかった。残念。ほんの少しの写真などもタイ語しか表記がなく、意味は不明。唯一あったのがブラックアイボリーと書かれた不思議な像だった。

 

ようやく麺屋を見付けて飛び込む。優しい感じのおばさんが『日本から来たのか?』と英語で聞いてきたのにはちょっと驚く。ここの麺、大根や卵、内臓系などの具がいい。一気に汗が噴き出すと、扇風機を回してくれた。何となくホッとする空間だった。この近くにもゲストハウスがあるようだった。こちらへ越してこようかなと思うほど、のどかだった。何となくここの人は外国人慣れしているように思える。

 

フアクワンという中国系の寺が見えた。1500年代に出来た寺だという。中では新車のお祓い?をしてもらう信者がいた。日本は神頼みだが、ここではすべてが仏頼みなのだ。本堂に入るとすると、年老いた僧が2階を指して、皆が寝ている、という感じのジェスチャーをしたので上がらず退散した。

 

そのすぐ向こうにクリーム色の寺があった。何とも南国風な寺だった。ここに安置された数体の仏像はなかなかいい感じで長く座っていたかったが、ちょうど坊さんが掃除に来て邪魔そうだったので退散する。ワット・ミンムアンという大きな寺にも行ったが、ここも小坊主たちが掃除をしていた。午後のこんな時間が掃除タイムなのだろうか。

 

その道路沿いにバナナクレープを売る屋台があり、思わず買ってしまった。実に甘いのだが、疲れている体には心地よい。天気もすごくよくなって汗が出ていた。その後ナーンで一番有名なワット・プミンを訪ねる。堂に安置されている仏像は四面体。何となくすべての顔が違い、信者はそれぞれの好みで拝んでいるように見える。外では夜市の準備が始まっている。この付近が観光スポットらしい。

 

最後にもう一つ大きな寺に入ると、そこでは掃除をさぼっている小坊主と目が合う。中に一人だけきちんと箒を動かしている者がおり、好感が持てる。彼は一体何のために箒で掃いているのだろうか。ふとそんな思いに駆られるほど、熱心に掃いていた。夕暮れが近づき、宿に戻る。

 

暗くなると腹が減る。外へ出ると自然に市場に突き当たる。そのすぐ近くにパッタイの屋台が出ていた。おばさんたちがやっている。そこでパッタイを注文したが、言葉が通じていないのに、ちゃんと会話しているような心地よい雰囲気があり、好感が持てる。『おもてなし』とは本来このような物だろう。パッタイもイケる。夜を軽めに食べると寝心地もよい。

 

7月31日(月)
ナーン散歩

翌朝は相当早く起きた。暑くならないうちに郊外の寺まで行ってみるようと試みだ。宿からは3㎞以上ありそうだったが、交通手段がないので仕方がない。大きな道路沿いに歩いて行くと、何となく寺に導かれているようだ。前を托鉢僧が歩いているのもよい。ワット・プラチャ・チャエハーンに着いた頃には日も高くなり、薄っすら汗をかいていた。

 

この寺は規模が大きい。そしてきれいな仏塔がそびえている、特徴のある寺だった。寺は塀で囲まれていたが、開いているところがあり、そこから滑り込む。付近は公園のようになっており、敷地は相当に広い。仏塔の前でじっと眺めた後、またテクテクと宿の方へ戻っていく。

 

ナーンはラオスの国境に比較的近いせいか、漢字の看板が多く見られる。華人が中国からこの地までやってきて住み着いたことがよくわかる。何となく外から来た人間に寛容なのはこのせいかもしれない。宿泊先もそうだが、商売をしている家が多い。OTOPの店があり、開いていたので入ってみる。茶が売られていたので、取り敢えず買ってみる。何しろタイの茶産地は、チェンライ、チェンマイとここナーンの3県しかないのだ。今回はその3県を制覇したのだ。

タイ巡礼、そして茶旅2017(18)プレー寺巡り

7月29日(土)
プレーでゆっくりお寺巡り

翌朝は相当早くに目覚める。朝食はホテルで取ったが、やはりお客は少なく、寂しいビュフェだった。まあ、私はお粥があれば満足だから文句はない。ホテルのすぐ近くに有名なお寺があると聞き、出掛けてみた。確かに近かったが、そこには貴金属の売り買いをする市が立っており、日曜日の朝から賑わいを見せていた。まさに門前市だ。

 

ワット・ジョムサバーン、このお寺は素晴らしかった。1850年代に創建されたが、その後イギリス商人の支援もあり、1930年代にビルマ式を導入して、木造の立派なお寺が出来たという。石段のところにいるおばさんに一礼して上がると、本堂は天井が高い。そこは何となく日本の寺のようであり、懐かしい感じがして、何かに包まれたようにしばし動かずに仏像を見つめた。

 

朝のさわやかな風が吹き抜ける中、本堂にじっと座っていたが、それに飽きると外へ出る。仏塔が見えたので近づくと、その中に小さな仏像が見えた。ちょうどお参りに来た女性がそこへ入り、熱心に祈っている。私も祈りたかったが、邪魔はしたくなかったので、明日の朝またここへ来ることに決めた。余裕のある旅はこんなことができるからよい。

 

それからはす向かいに見えた寺にも入ってみた。こちらはド派手で対照的だ。しかもユーモラスな坊さんの大きな像があり、また頭がいくつも伸びる観音像、そしてポケモンのピカチューまで置かれており、とても寺とは思えない。学校が併設されていたが、まるでテーマパークかと思う。

 

昨日と同じ道を通り、市内中心部へ。途中でトイレに行きたくなり、近くの寺に入ったが、何と全てのトイレに鍵が掛かっており、おまけに犬に吠えたてられ、あえなく退散。立派な建物の敷地にも入ってみたが、どうやら政府機関のようで警備が厳重で逃げ出す。もう我慢の限界かと思った頃に、公園があり、何とか用を足した。

 

ワット・ポースワンという寺は実に鮮やかな白い仏塔が並んでおり、気持ちがよいほどだった。ここも廃寺を富豪が修復したという。裏には立派な涅槃仏もあり、ちょっと心洗われる感じがする。本堂に入ろうとしたが、ちょうど坊さんが読経中だったので控えた。天気が良いせいか、白い色が目に沁みる。

 

そのすぐ近くにボンブリハウスという古い家があった。1897年建造というから100年を越え、往時の富豪の生活が見られる。テレビドラマのロケでもよく使われるらしい。庭も相当に広く、優雅できちんと管理されていた。ここは入場料がいるのだが、おばさんが一人で管理しているのか、最初は誰もいなかった。

 

するとそこへ幼い女の子が二人現れ、タイ語で何か聞いてきたが、答えられなかった。彼女たちも残念そうだ。そこへ母親が来たが彼女も英語はできない。ただ分かったことは、もしタイ語が分かるなら、この子たちがガイドする、ということで、ちょうど後から来た客には生き生きとガイドしていた。すっかり感心しながら、見学した。重要な場所にはなぜか中国語が書かれていたので一部は理解できた。

 

最後にワット・プラノーンというお寺へ行く。ここが一番有名らしく、観光バスも停まっていた。800年代の創建となっているから古い。この街の守り寺かもしれない。ここには室内に立派な涅槃仏が安置されていた。それを見終わると川沿いにフラフラと歩いてホテルに戻った。結構疲れたので夕方までゆっくりと休む。

 

夕方、街と反対の方に歩いて見たが、道路があるだけで面白くない。夕日がずんずん落ちていくだけ。街に戻ると市場があり、いい匂いのコムヤーンが出来上がっていたので、思わず買い込む。ホテルの部屋で食べるはずが、歩きながら少しずつ食べているうちに無くなってしまうという意外な展開。昼ごはん食べなかったから、腹が減ったのだろう。お腹にコーラを注いで満腹。その夜もよく歩いたので疲れてよく眠れる。

 

7月30日(日)
再び寺へ

朝6時に起きて、昨日の寺へ向かう。今日もいい天気だ。誰もいない本堂に入り、しばし祈り座っていたら、周囲に機織り機があるのに気が付いた。そう、プレーは昔織物の町として栄えたらしい。今は街中を見てあまり見られなくなっていたが、この寺では自らはたを織っているのだろうか。

 

タイの街を歩いていて気が付くことがある、それはどこの街でも警察署まで何キロあるかという道路標示が必ずあり、そこには英語も必ず書かれていることだ。そんなに皆が、そして外国人が警察に用事があるとも思えないのだが、なぜこの表示はあるのだろうか。単なる興味本位だが、ちょっと気になる。

 

ついに客が少なくて今日はブッフェが取りやめとなっていた。朝粥を食べて、部屋で休息。12時前、ゆっくりとチェックアウトして、バスターミナルへ向かう。最後の訪問地、ナーンへ向けて出発だ。バスターミナルに近いということは本当に便利なことだ。ロットゥがここでも定期便としてあり、数十バーツで行けるのがよい。また2時間ちょっとの旅となる。途中で若者が急にコンビに寄りたいと言い出し、ATMでお金をおろしていたのがご愛敬だった。