熊本宮崎茶旅2021(3)宮崎のキーモン種

その畑の持ち主は、ご主人が既に亡くなっており、奥さんが対応してくれた。あくまで伝え聞いている話として、『60年以上前に試験場から分けられたキーモン種がここに植えられている。自分たちはその土地を譲り受けているので、当時の状況はわからない』とのことだったが、勢い良く伸びている茶葉はキーモン種かもしれないと思わせた。冷たくて甘い紫蘇ジュースを頂き、のどがとても潤った。

そこからまた1時間ほど車に揺られる。最後の訪問先は宮崎県農業試験場茶業支所。川南分場として、戦前に作られ、様々な品種改良を行ったことで知られている。ここに戦前戦後に勤務した森薗市二さんに関して、情報を得ようとした。Oさんのアレンジで、OBのFさんが来てくれていた。

Fさんは森薗さんと1960年頃一緒に働いていた人で、その人となりに関して、色々と話してくれた。そしてFさんは宮崎県茶業史を監修した人でもあるので、そのあたりの歴史についても、色々と教えを乞うた。ついでに試験場の初代所長、堀地重義氏についても情報を得た。やはり現地に来なければ分からないことが多い。これは大変有意義な面談だったが、何しろコロナ下でもあり、時間が限られてしまったのはちょっと残念だった。

Aさんに宮崎市の宿まで送ってもらった。『明日はお助けマンが来るから』と言い残して、Aさんは熊本に帰っていった。今回はAさんのお陰で旅が続いた。本当にありがたい。もう夕飯の時間だったので、宿の近くでチキン南蛮など鶏料理を食べた。小雨が降ってきたので、早々に引き上げ、ちょっと疲れが出たので、ゆっくり休んだ。この宿には大浴場があるので、気持ちが良かった。

7月22日(木)都城へ

翌朝宿で朝ご飯をたらふく食べた。そうこうしていると、迎えが来た。お助けマンTという。なんと靴など履かず、裸足で生活しているらしい。若いがとてもユニークな人で、その経歴もかなり面白い。世界を放浪した旅の話を聞いているだけで一日終わりそうだ。車は都城の方へ進む。TさんはAさんの指示通りの場所へ向かったが、私にはそこに何があるのか、あまり理解していなかった。いつの間にか行き先を理解していない二人が旅をするという珍道中となっている。これまた面白い。

最初は茶畑を見に行く。事情があって詳細は述べないが、三股町にある。だがそこへ行こうとすると道路工事が立ちはだかる。何とかそれを躱してたどり着くと、そこには古い茶工場もあり、色々と興味をそそられる。歴史的に表に出てこない茶があるということか。

都城は現在宮崎県ではあるが、地理的には鹿児島県にも近く、歴史的には微妙な場所らしい。そんなことを考えながら、都城市内の島津邸に行ってみる。ここに島津家の足跡があるのだ。立派な庭に出迎えられ、建物に入ってその歴史について聞いてみると、2階に簡単な図書室があるというので、そこで資料探しが始まる。勿論戦国時代の島津氏も重要だが、明治以降も気になるとことだ。

それが済むともう昼になったので、ランチ場所を探す。Tさんは実はビーガンだというので、ちょっと頭を巡らす。インドカレー屋を探すとちょうどあったので、そこに入る。そしていきなりビーガン用カレーを作ってほしいとお願いすると、奥からネパール人が現れ、『茄子のカレーでいい?』と聞いてくる。このあたりの臨機応変さがよい。このカレーが肉入りよりもおいしく感じられ、また店の人々も親切で食事が進んだ。

本来はもっと色々と調べたいこともあり、宮崎市内に戻って図書館へでも行くべきだったのだが、何となく疲れてしまい、Tさんに頼んで早めに空港に送ってもらった。すると都城から1時間で宮崎空港に着いてしまった。Tさんの異色な経歴話はまだ終わっていなかったので、次回また聞きたいと思うが、会うチャンスは果たしてあるだろうか。

ちょうどアップグレードポイントの有効期限が来ていたので、今回はビジネスクラスで東京へ戻った。軽食が出る他、天気の良い空が良く見え、久しぶりに写真を撮った。東京ではすでに実質オリンピックがスタートしているが、コロナの影響で無観客試合が行われている。明日から2週間はテレビに張り付いて、オリンピックを楽しもう。そして合わせて体調を徐々に回復させていこう。

熊本宮崎茶旅2021(2)熊本から宮崎へ

7月20日(火)熊本市内2

今日から宮崎へ行く予定だったが、一緒に行くはずのOさんが都合により行けなくなってしまった。Oさんは事前アレンジに奔走してくれており、今回の旅を一番楽しみにしていたのだから、さぞ無念だっただろう。まあこういうこともある、仕方ないと心に整理をつけ、さてどうしようかと思っていると、『代わりにAさんが連れて行ってくれます』と書いてくる。え、実は今月愛媛で会う予定だったが、肩痛でキャンセルしてしまったので、何となくバツが悪いが、一生懸命アレンジしてくれたOさんの無念さを考えると、宮崎を訪ねて報告しなくてはならない。

ただいきなりの交代なので、Aさんは今日の夕方から動けるようになるとのことで、午後までは熊本市内で時間を潰すことになった。豪華な朝食も今朝はちょっと変わったものを思い、サンドイッチを注文したが、これまたボリューム満点でうまい。ここに来てから、ホテルの朝食の重要性に大いに気づかされた。これからのビジネスホテルは魅力的な朝食で売り出し、国内客を引き付けるのではないだろうか。

今日の元々の予定では、朝のうちにホテルの近所にある西岸寺に阿倍野利恭の墓をゆっくり探しに行くことになっていた。その寺は徒歩10分ほどのところにあったが、寺自体が閉鎖されているかのようになっている。これもコロナの影響で、長居はできない。仕方なく、自ら墓石を眺めて探すと、思いのほか、新しい墓であった。これも継承者の関係で合同となった結果らしい。これからはこういう墓が増えていくのだろう。

それから水前寺成趣園にも行ってみる。天気も良く、池と庭の取り合わせがよい、写真写りが良い風景だ。細川藤孝像など、見るべきものもかなりある。歩いていて何となく楽しい。ただ結構暑いので、休み休み歩くも疲れる。その後ホテルに戻り、荷物を取り出して熊本駅へ向かう。Aさんとの待ち合わせは新八代駅になったので、そこへ移動する。一昨日水俣へ行ったばかりだから、ルートは先刻ご承知だ。

なんとか合流して、Aさんの車で今晩の目的地、高千穂へ行く。2時間ほどかかって高千穂の宿に着く。ここは本当に山の中で、車で来ないと夕飯にもありつけない感じだった。すでに夜の7時を過ぎて、暗くなっていたので、チェックイン後速やかに食堂を探しに出た。案の定結構閉まっているお店が多い。ようやく中華料理屋を見つけてご飯にありつく。ここで中華、よかった。

7月21日(水)宮崎茶旅

本日はOさんのアレンジしてくれた日程をAさんと訪ねる。まずは五ケ瀬の釜炒り名人Kさんのところへ行く。これは私が5年前からKさんに『一度伺います』と言ってオオカミ少年になっていたものを、この機会に払拭するためお訪ねしたものだった。だが当然ながら名人の茶作りは多彩で、次々と珍しいお茶が登場し、同じ茶農家のAさんは目を輝かせて頷きながら、感心して飲んでいる。そして『私はここに来られただけで十分です』と感動している。

五ケ瀬の釜炒り茶は昔から作られていたが、周囲が蒸し製に切り替わる中、ずっと残ってきた。それは地産地消的な感覚なのか、交通が不便で蒸し製緑茶を売るに至らなかったのか、非常に興味深いテーマだろう。そんなことを、この実に眺めの良い、いい風が吹くKさんの茶屋で考える。奥様が私の原稿を読んでくれているという、喜ばしいお話も頂き、すごく満足。Aさん共々立ち去りがたい。

そこから車で1時間山道を行くと、美郷町に出る。ここの山中に茶工場があるというので訪ねてみたが、既に使われなくなってかなり経っている廃工場がようやく見つかった。この付近には茶畑も少しだけ残っており、植えられている品種も独特のようだった。Aさんは早々茶畑を眺めて、しきりに品種を見分けようとしていた。

昼時になったので食事場所を探したが、なかなか見つからない。何とか食堂があり、そこで肉うどんを食べた。最近食べ過ぎだったが、今日は朝ご飯も食べず、昼もヘルシーで体が軽い。午後は美郷町役場の方を訪ねる。ここにあの、中国安徽省からもたらされたキーモン種が植わっているとの情報があり、そこに一緒に行ってもらった。

熊本宮崎茶旅2021(1)熊本リベンジ散策

《熊本宮崎茶旅2021》  2021年7月18日-22日

コロナ感染は激しくなった。オリンピックは開催されるが無観客となった。それでも開催するには、それなりの意味があるだろう。私の方は首肩肘痛が激しくなり、ブログも書かず、散歩もままならなくなっていた。とうとうカイロプラクティスに通うようになる。鬱々とした生活が続き、余計に悪化していく。

そんな中、茶旅も愛媛におじゃまする計画が残念ながらとん挫した。オリンピック直前、最後のチャレンジでもう一度九州行きが浮上する。原稿の締め切りも迫っており、何とか出掛けることにした。今回は宮崎へ行くのだが、なぜか集合場所は熊本になった。2か月で2度目の熊本、よほどご縁があるのだろう。

7月18日(日)熊本へ

先月に続いて熊本へ向かう。もう見るところもないだろうと思ったが、フライトの関係もあり、早めに東京を離れた。肩肘に痛みの様子を見る必要もあった。午前中にオンラインの勉強会を開催して、そのまま夕方のフライトに乗る。なんだかサラリーマン時代の出張が思い出される。先月と同じルーティンで熊本空港からホテルに入る。夕飯も同じようにとり、同じように眠った。いつの間にか、熊本に慣れ、親近感を持つようになっていた。

7月19日(月)熊本市内散策

朝も前回同様、おいしい郷土料理をゆったりとしたスペースで頂く。やはり宿泊客は少ないのだろう。とても満足して、部屋に戻り、市役所に電話した。前回は閉鎖されていた石光真清記念館、入ろうと思ったら、役所に事前連絡する必要があったからだ。ただ電話に出た担当の人も石光や石光にかかわった人々(例えば阿倍野利恭など)についてあまり知識がなく、ちょっと残念だった。郷土の先達、もう少し知らしめてほしいところだ。

9時半に約束して現地に向かうと、草むしりしている人しかいない。ちょっと待つと警備会社の人がやってきて、鍵を開けてくれた。今や市役所が警備会社に委託して管理しているということだ。もう一度来てもらうのも悪いと思い、待っていてもらって、中をさっと見学する。

木造2階建て、1階には石光家についての様々な情報が展示されていた。更には過去の石光真清顕彰会の会報などが置かれており、かなり詳細な内容で大変参考になった。石光についての資料はこれまであまり見られなかったので、喜ばしい。ここでいくつか新しい発見があった。

それから熊本城に登った。これまでは地震の影響、そしてコロナ禍での閉鎖で、見学する機会がなかったが、今回は普通に入ることができた。ところどころ城壁が崩れたままであるなど、地震の影響が感じられるが、見事に復元してきている。石垣がすごい。そしてなんといっても城自体が立派だ。見栄えが良い。場内の展示物も見ごたえがあり、参考になる。観光客も少なく、見学には最適だった。

せっかくここまで来たので、先月閉まっていたところをすべて訪ねておこうと思い、バスに乗って泰勝寺に行く。今回は中に入り、細川ガラシャ(藤孝、忠興も)の墓に詣でることができた。ガラシャの人生に思いを馳せる。とても気持ちの良い庭園が広がっている。茶室は改修中で見られなかったが、十分に堪能できた。

そこから歩いて桜山神社へ行く。雨が降り出したのでさっと見学する。ここは神風連の乱で亡くなった人々の墓がある。西南戦争の直前、熊本の人々も立ち上がった戦い。首謀者といわれる太田黒伴雄以下、ずらっと並んでいる墓を見ていると、明治初期は何が善で何が悪かよくわからないが、勝てば官軍ということだろうか。

雨を避けてバスに乗ったが、すぐに止んだので、今度は県立図書館へ行く。ここで再度茶資料を探す。同じ建物の中には、熊本文学歴史館があった。そこで没後40年横溝正史展というのをやっているのがなんとも意外だ。取り敢えず見学する。最近目が悪くなり、展示物の説明をきちんと読むことができない。裏側に回ると、庭園が見える。ここも元は細川家の敷地だったらしい。熊本には至る所に細川家が出てくる。本当にお殿様がいたようだ。

路面電車に乗って帰ろうと道に出ると、向こうに食堂があった。食事は朝食べたきりだから、早めに夕食をとる。たくさんのおかずから選んでトレーに載せていくカフェテリア方式。ついつい煮物など余計に皿をとってしまい、結構な量を食べることになる。夕日と共にゆっくりとご飯を飲み込んだ。

熊本佐賀福岡茶旅2021(5)糸島へ

伊万里駅前にも太一郎の銅像があった。この像は私も数年前に見た、肥前さが幕末維新博事業で製作されたものが、ここに寄贈されたらしい。佐賀というところは歴史的に実に面白いところであるが、それほど知られていなのは残念だ。今回の大河ドラマでは大隈重信も活躍するだろうから、もっと広く知られてほしい。

森永太一郎の碑がある苑にも行った。森永公園という場所もあった。こうして回ってみると伊万里は森永一色?のようだ。それは太一郎がつらい過去を持ちながらも故郷のために様々な行動をとったからかもしれない。それはキリスト教的精神だったのだろうか。

最後に唐津に向かい、和菓子屋さんに行った。ここはOさんの紅茶などを使っているお店で、お茶とお菓子を頂いた。今やお茶とお菓子のペアリングは普通に言われているが、太一郎は洋菓子を作りながら、それに合うドリンクにも心を砕いていたはずだ。そして森永紅茶は生まれた、と勝手に考えている。

東唐津という駅まで送ってもらい、Oさんと別れ、一人周船寺という駅を目指す。先ず筑前前原まで行き、そこで乗り換え、ダラダラと進む。このルートは昨年唐津から博多へ出た時に既に通っている。約1時間で周船寺に着く。先日熊本で出会ったSさんが迎えてくれた。

まずは元々訪ねる予定だった宮崎安貞の家と墓に行ってみる。駅から歩くと20分ぐらいかかる場所だったが、車で連れて行ってもらい助かる。江戸の三大農学者といわれる宮崎安貞が後半生を過ごし、『農業全書』を著わした場所である。お墓の場所は森の中にあり、何とも森厳な雰囲気が出ている。

そこからほど近い場所にある平原弥生古墳に行く。ここは魏志倭人伝より約100年早い時代の古墳だ。日本で発見された最大の鏡も出土しており、天皇家の故郷だと唱える人もいるという。魏志倭人伝でいう伊都国は糸島ということか。古代史ファンには興味深い場所だろう。

更にSさんの家の方へ行くと、怡土城跡がある。奈良時代の山城と言われており、あの吉備真備も造営に関わり、中国・朝鮮への防衛のために築かれたらしいが、詳細は分かっていない。今は私有地ということで一般の立ち入りはできないが、Sさんの案内で、中へ入っていく。

私がここに来たのは、その奈良時代、ここに茶が植えられたとの話があったからだ。薬として入れられたものかもしれないが、あってもおかしくはない。静かな森林、神社などがあり、荘厳な雰囲気が漂う。古代を考えるにはふさわしい場所だった。そして知られていない遺跡から、新たな発見があるような気がしてならい。今回の旅では、博多以前、大陸から渡る船はまずここに入り、この地が中心だったことを想起させる内容だった。

Sさんの好意で、姪浜まで車で送ってもらった。糸島は博多からも近い場所だと実感する。そこから電車で中洲川端まで乗り、本日の宿に入る。ちょうど午後8時、殆どの店が閉店となり、夕飯を食べる場所を失った。仕方なく、チェーン店のテイクアウトで凌ぐ。コロナ恐るべし。

6月5日(土)福岡で治療

翌朝宿の朝ご飯を食べた。かなり本格的な和風ビュッフェで感激した。思わずマネージャーに聞いてみると、福岡でも人気のお店がここに出店しており、朝ご飯を提供しているというから、ちょっと驚く。ステイホームの時代、間違いなくこのような宿が支持されていくだろう。

それにしても昨日から寝る時の首の痛みが半端ない。これはダメだと思い、今日会う予定だったYさんに連絡しておいた。彼は現在マッサージを生業としており、昨年一度施術を受けていた。宿からバス一本で行けそうだったが、コロナで時刻表がずれていて、いつ来るか分からない。歩いて行ったら道に迷った。首痛による集中力の欠如だろうか。

かなり入念に施術してもらい、何となくすっきりした。ちょうど昼時になったのでY夫人とランチに出掛けた。近くのとんかつ屋?でちゃんぽん?を食べた。お店は大繁盛で、外に待っている人達がいた。ここのちゃんぽんが美味しいと評判になったそうで、多くの人の注文がちゃんぽんだった。

その後コーヒーショップでお茶を飲みながら、ケーキも食べてしまった。とりとめもない話をして、時間がどんどん過ぎてしまった。コロナ禍とは思えないほど、お客さんがいたのには驚いた。ウイズコロナの時代に入ったのだろう。とにかく楽しい時間を過ごしている間は、首の痛みはない。帰りは地下鉄の駅まで歩いて行ったが、痛みは出ない。

6月6日(日)福岡治療2

一旦よくなったと思った痛み。やはり夜中に出てしまい、もう一度Yさんのお世話になりに行く。しかし2日続けてやってもよくなるものではないらしい。やはり年齢的なものなのか。今日はバスに乗って帰る。これからの活動がどうなってしまうのか、心配ではある。取り敢えず痛みは和らいでいるので、荷物を持って空港に向かうが、東京へ帰る気持ちはかなり重かった。

熊本佐賀福岡茶旅2021(4)玉名から伊万里へ

雨の中を出発する。今日の午前はお墓探しの旅である。台湾魚池で紅茶を最初に作った持木壮造。彼のお墓が熊本玉名にあると聞き、これまで色々と調べてきたご縁も考えて、訪ねてみることにした。手掛かりはお寺の名前だけ。それでも行けば何とかなるというかなり甘い考えで進む。

1時間ほどで玉名のお寺に到着。案内を乞うと最初は怪訝な顔をしていた住職夫人だったが、私が壮造のお孫さんからもらった家系図を取り出すと『あ、それはこの寺にある家系図を写したものだ』と言い、後は色々と教えてくれた。最近は個人情報もうるさく、身元調査を称して個人を調べる人も来るので警戒しているらしい。とにかく分かったことは、持木家の菩提寺はここだったが今墓はないということ。

それから教えられたもう一つの寺へ行く。こちらではさっきのお寺の名前を出したのでスムーズに取り合ってくれたが、何とここにも壮造の名前はなかった。現在の持木家の当主に連絡すれば何かわかるかもしれないと言われたが、それは私のやるべきことではないと思い、後はご子孫にお任せした。いずれにしても今、日本のお墓制度は崩壊しようとしていることが分かる。

そこから30分。今度は大牟田に寄る。三井三池炭鉱は、三井財閥の収益源だったが、ここから出て、三井の2代目総帥になった男、團琢磨ゆかりの場所として訪ねた。團はもともと福岡出身だから、地元でもっと顕彰されてよい人物だと思う。炭鉱跡はきれいな庭のあるレストランになっており、そこに團琢磨の胸像が置かれていた。もう一つ、新幹線の新大牟田駅前にも團の銅像が建っているが、どれだけの人が彼を認識できるのだろうか。いずれにしても日東紅茶の生みの親は團琢磨だと思っている。

山鹿に向かう途中、道の駅でランチを探す。田舎へ行く時には何といっても道の駅が役に立つ。そして偶にはお茶を発見する。ここでは馬すじゴロゴロコロッケ(通称バカコロ)を頂く。牛筋は食べても馬筋は食べたことがない。元々牛筋が好きなこともあり、美味しく頂く。

それから車で1時間、山鹿に到着した。先ずは山鹿紅茶を復活させているFさんを訪ねた。実は5年ほど前、宮崎で紅茶伝習所の話を聞いていた時、山鹿ならFさんがいるよ、と言われてその場で電話したことがあった。何とFさんもその時のことを覚えていてくれたらしい。

Fさんのところでは、現在は紅茶だけでなく緑茶も作っている。というかこの地は緑茶が主流だが、山鹿伝習所の歴史を踏まえて、Fさんが紅茶を作っているというのが正しい。お茶を頂きながら、色々と資料を見せてもらう。ただいくつか気になる点があった。特に伝習所の場所がよく分からない。

続いて役場に移動して、こちらでもお話を聞く。山鹿もかなり広く、伝習所の場所はやはり特定できない。ここでも志那風とインド風の伝習所が開かれており、特に最初の場所は難しいらしい。さらになぜこの地が伝習所として選ばれたのかについてもよく分からない。ただアレンジした人が意外で、実は緑茶を指導しようとしていたかも、と思ってしまった。

岳間茶の碑も見に行った。大変景色の良い場所に比較的最近建てられたようだ。元々山鹿は江戸時代からの茶産地で、藩主細川家にも茶を献上していたという。明治に入り岳間茶といえば、紅茶から緑茶に切り替えた中川正平を思い出すが、彼もまた可徳乾三と共にシベリア視察に行っている。結局中川の岳間茶は残り、可徳の紅茶は消えていったということだ。最後に岳間小学校に行き、お茶の歴史関連の展示を見学した。明治大正昭和の製茶や茶もみ唄など面白い展示がある。車に乗り込むと同時に雨が降り始め、途中は暴風雨のようになったが、佐賀に着いた時は何となく止んでいた。

6月4日(金)伊万里から糸島へ

佐賀の朝はぐずついていた。本日はOさんとの茶旅、最終日。佐賀市から伊万里へ向かう。伊万里といえば有田と並ぶ焼き物の地であり、お茶関係者は茶碗などを見にいくところだろうが、我々の目的は全く違っていた。この地で生まれた森永製菓創業者、森永太一郎を訪ねる旅だった。

先ずは伊万里川沿いに太一郎生家跡を探す。古民家を改造したおしゃれなカフェがあり、そこで聞くと生家は隣だという。このカフェ、とても居心地がよさそうだったので、ここで現代の伊万里紅茶を飲み、サンドイッチを頂く。するとこの伊万里紅茶を作っている茶農家さんもやってきて、面白い。

お隣は今割烹料理屋になっている。江戸時代から森永家はここで陶器と魚の問屋を営んでいたが、父が早くに亡くなりここを去ったとある。太一郎の苦労の始まりであろうか。続いて伊万里神社を訪れる。ここの上に太一郎の胸像があった。そして何と神社の横には菓祖中嶋神社がある。香橘神社もある。Oさんにとって興味のある分野らしい。和菓子の伝来、伝承、面白い。その街から西洋菓子で成功した太一郎が出たことはどう関係するのだろう。

熊本佐賀福岡茶旅2021(3)合志から小天温泉へ

6月2日(水)熊本市内3

今朝も美味しいご飯を食べたので、散歩に出た。熊本学園大学まで歩くにはかなりの時間が掛かったが、案外足が軽い。この大学の創設にかかわったのが阿部野利恭。阿部野は可徳乾三がシベリアに設けた茶業事務所の責任者をしており、しかも日露戦争前に軍のために諜報活動も行っている。石光真清とも昵懇の間柄だ。更に熊本茶業組合長にも就任、茶業に縁のある人物だ。大学内はやはり静かだったが、ビルの中に阿部野の胸像が置かれており、学校は彼を忘れていないようだった。

それから水前寺公園の方へ向かう。夏目漱石は熊本で頻繁に引っ越したらしい。ここにも旧居があったが、やはり入れなかった。その近くには、明治初期熊本洋学校の教師をしていた、ジェーンズ邸(日本で最古の洋館)があったが、何と熊本地震で崩れており、移転工事が進められているとのことだった。熊本洋学校といえば熊本バンド、徳富蘇峰など同志社などにも繋がっていく。

宿に戻りつつ、小泉八雲の家の前を通ったが、閉まっていた。結構閑静な日本家屋のようだった。それから熊本城の横を通り、加藤清正の像を久しぶりに見た。城は地震で壊れたが、改修は進んでいる。ただコロナもあって入場は制限されているという。遠くから城を眺めた。それから蔚山町を通って帰る。ここは清正が朝鮮の役に出兵して見た蔚山から名前が付いたらしい。

合志から小天へ

宿で一休みしているとOさんがやってきた。車に乗ってここから茶旅が始まる。まずは以前も訪ねた三友堂さんへ向かう。2年ほど前、合志で可徳乾三についてお話しした時、直前に訪問した。ここは130年前可徳が作った茶舗で、可徳破綻後工藤家が引き継いで、今に至っている。

何の連絡もせずにいきなり訪ねたのだが、ご夫婦とも覚えていてくれた。Oさんも紹介で来た。何とも有難い。前回以降に書いた文章も渡した。すると工藤さんが『可徳の看板、見る?』と聞いてくれたので、思わずお願いしてしまう。近所に保管されているその重みのある看板を引っ張り出すだけでも大変だったが、実際にこれを見ると、歴史の重みと同時に、可徳が本当に生きていた証を見た実感が沸く。帰りに見性寺に寄って写真を撮る。ここは可徳の法要が行われたという寺だった。

それから合志へ向かう。Uさんと連絡が取れなかったので、自ら合志義塾跡を訪ねた。ここは2年前と変わっていない。工藤家もここに関わっている。そしてハバロフスクの可徳商店に派遣された若者もここの出身者だった。何とも教育の重要性を感じさせる場所だ。

合志の歴史を掘り起こしているUさんと何とか落ち合って、可徳の墓に向かう。前回も連れてきてもらったが、やはり場所は分からず、迷ってしまう。可徳の墓は2年前と変わりはなかったが、Oさん、そしてUさんの知り合いにとっては、やはりあれだけ可徳という名前が並ぶ墓は珍しかっただろう。

Uさんとはあっという間にお別れして、今日の宿泊先、小天温泉へ向かう。雨がかなり強くなっているが、なぜか車の中にいる時だけだった。宿に着くと、コロナのせいか今晩のお客は我々二人だけだった。個室温泉付きの広い部屋にアップグレードされて嬉しい。お茶を頂き、お菓子を食べると温泉気分になる。

ここは夏目漱石の『草枕』という小説の舞台になった場所であり、その中の煎茶道関連の記述に注目して、その現場にやってきたわけだ。実は漱石はお茶好き、それも煎茶派だった。だが舞台はこの宿の隣、今宿はない。ここではゆったり温泉に浸かり、美味しい、そしてヘルシーなご飯を食べてボーっとしていた。

6月3日(木)大牟田から山鹿へ

翌朝も雨が降っていた。雨音を聞きながら個室風呂に朝から浸かり、やはり美味しい和食を堪能する。実は昨晩から首と肩の痛みが再発していた。恐らくは畳生活が影響しているのだろう。温泉に浸かればよくなるだろうと思ったが、意外や上手くはいかない。あまり肩を気にすると腰も痛みだす。

傘をさしてお隣を見学する。旧前田家住宅。前田案山子という名前には聞き覚えがある。漱石も案山子がいたから、わざわざこの山深い温泉まで足を運んだのだろう。建屋の中に小さな温泉が残っており、外から見ることができた。ある意味、何もないところ、だからこそ漱石が愛したのかもしれない。

雨の中を出発する。今日の午前はお墓探しの旅である。台湾魚池で紅茶を作っていた持木壮造。彼のお墓が熊本玉名にあると聞き、これまで色々と調べてきたご縁も考えて、訪ねてみることにしたのだ。手掛かりはお寺の名前だけ。それでも行けば何とかなるというかなり甘い考えで進む。

熊本佐賀福岡茶旅2021(2)水俣へ

Kさんとは3年ぶりだろうか。前回は人吉の紅茶伝習所関連でお世話になった。相変わらずいいお茶を作っており、ファンも多い。今回は香りのよいお茶を厳選して購入した。Kさんの隣にSさんという人が出店していた。何と福岡の糸島から来たという。お茶屋というよりシナモンなどを扱っているらしい。その彼が『糸島の歴史は面白いからぜひ来て』という。この先福岡で訪ねる予定の場所を告げると、何とそこは彼の家のすぐ近くだというので、その場で訪問が決定した。これぞ、茶旅。

一度宿に帰って休む。夜遅めに夕飯を探すと、コロナ禍でもあり、店があまりない。一番近くのとんかつ屋が開いていたので、久しぶりに立派なとんかつを食べる。非常事態宣言は出ていないものの、蔓延防止が出ている熊本。やはり旅をするにはかなりの不自由が生じている。

6月1日(火)水俣へ

翌朝は早く起きて、宿の朝食を食べる。ビュッフェスタイルではなく、定食を提供する形式なのだが、この郷土料理定食(レンコンなど)はかなりうまい。朝からいいものを食べて気分は上々。すぐに出掛ける。市電で熊本駅へ行き、JR鹿児島本線で八代に向かい、そこから肥薩オレンジ鉄道に乗り換えた。この列車はSuicaが使えないので、あらかじめ熊本駅で切符を購入した。

乗客も少なく、何とものどかな旅だった。途中から視界が開け、海沿いを走っていく。1時間ちょっとでその可愛らしい電車は水俣駅に着いた。今回水俣に来たのは、ここが徳富蘇峰、蘆花兄弟の出身地だったからだ。何しろ我が家の最寄り駅は芦花公園なのだから、一度は訪れたいと思っていた。

先ずは市役所に向かう。実は昨日鶴屋で会ったAさん、自分が水俣に居ないのは申し訳ないと、何と徳富蘇峰記念館の担当者に連絡してくれ、会えるようにしてくれていた。というのも、蔓延防止措置の影響で、今は記念館も閉鎖されており、水俣に行っても何も見られないのは分かっていた。教育委員会で30分ほど丁寧に、ゆかりの場所など概略を教えてもらった。有難い。

役所を出て歩き出す、何と蘆花公園があった。記念碑もある。こちらがある意味、本当の蘆花公園かもしれない。川を渡ると徳富蘇峰記念があった。ここは蘇峰が寄付した資金を基に図書館が作られた場所らしい。ただ蘇峰兄弟は幼い時に熊本に移住しており、生まれ故郷ではあるが、馴染みはどれだけあったろうか。

図書館で徳富家関連の資料を探したが、コロナの影響で長居は出来なかった。徳富兄弟の生家の建物も残っていたが、立派な商家だった。少女像があったので見てみると、村下孝蔵は水俣出身の歌手だった。電車の時間が迫っていたので、駅前のパン屋さんでパンを買い、電車に乗ってから食べた。素朴な味が懐かしい。

因みにオレンジ鉄道ではPapPay支払いで切符が買えたが、その切符は一部手書き、思い出に残るようなもので、感心した。更に乗り換えの八代駅では、ここからJRでSuicaなどの使用が可能となるため、途中にタッチパネルが設置されているが、それにタッチしなかった客がいたようで、何と駅員がJRのホームまで探しに来ていたのが、何ともローカル線だった。

熊本市内2

熊本駅に戻る。そこからどこへ行こうかと迷っていると、駅前の大きなビルの中に何と図書館があった。しかもコロナ禍でも特に閉鎖されてはいない。思い切って飛び込み、知りたい資料の有無を訪ねると。実に丁寧に探してくれて助かった。県立図書館は閉鎖と聞いていたが、ここは市立図書館の分館らしい。駅前に図書館、いいね。

駅前から歩いて10分ちょっと、川沿いから少し入ると石光真清記念館があった。石光はあまり知られてはいないが、日露戦争以前より諜報活動に従事し、シベリア地区に非常に詳しい人だった。だがその功績はあまり評価されておらず、後に彼の手記が出版されて、知られるようになった。熊本関係者、そして茶業関係者にも繋がる重要人物だが、ここも閉まっていた。

さっきの図書館で検索してもらった時、市立図書館本館へ行けばみられると言われる本があった。折角だから行ってみようと思ったが、交通が不便。仕方なく30分ほど歩いて向かう。途中味噌天神などがあり、ちらっと見る。こちらの図書館はちょっとピリピリしており、検索された本だけが出され、コピーしたら早く帰って、といった対応だった。まあこれが普通のコロナ対応だろう。

帰りに徳富記念館にも寄ってみた。大きな木が見えたが、ここは改修中で入れなかった。この時期、熊本ではどこも締め出された。のどが渇いたのでコンビニに寄ると、『午後の紅茶 熊本県産いちごティー』なるペット飲料の売り出し中だった。熊本の紅茶、美味しいよね。腹が減ったので歩いていると、何と桂花ラーメンがあるではないか。若い頃、新宿で偶に食べたが、ここは熊本発祥だった。ラーメン+チャーンを美味しく頂く。これまたなつかしい味だった。

熊本佐賀福岡茶旅2021(1)熊本の歴史を歩く

《熊本佐賀福岡茶旅2021》  2021年5月31日-6月5日

ついに還暦を迎えた。さあ、これからだ、いや、これからだと思っていると、突然寝違えたような痛みが走る。それは首に始まり、肩にも広がり、そしてとうとう腕がしびれる事態となる。PCに向かい合っても、腕が痛くて文章も書けない。病院に行くと『そのうち治ります』と若い医者に言われ、早期回復の見込みはなかった。

コロナも感染者が増え、それでも東京五輪は予定通り行われるという。そうだ、この五輪期間中は思いっきり休もう。その前に行けるところには行っておこう。4月に大分に行ったので、やはり熊本県山鹿は訪ねたい。ついでに佐賀も行きたい。Oさんも乗り気だったので、またもや熊本に降り立った。

5月31日(月)熊本市内1

2年ぶりに熊本空港に降りた。前回は大学の先輩が迎えに来てくれ、30年ぶりの再会となったが、今回はコロナ禍でもあり、一人で市内へ向かう。この飛行場、2年前とは様子が違うように思われる。改修工事中なのであろうか、簡易な造りのところが目立つ。市内へ行くバスがあるので、それに乗る。地方空港はフライトに合わせてバスがあるのでうれしい。

以前熊本駅から空港までバスに乗ったことはあるが、今回は空港から途中で下車する。40分ぐらいで桜町バスターミナルに着く。ところが降りて外へ出ようとしたが、バスルートしかない。他の乗客の行動を見ていると、一旦ターミナル内に入っているので、それに従い、エスカレーターで2階へ行き、そこから外へ出る。きれいになったのは良いが、何だか面倒だ。

今回は初めてのホテルに泊まる。最近チェーン展開に力を入れているらしいが、熊本には昔からあるとか。フロントの接客対応がとてもよく、チェックイン時間前でも、部屋に入れてくれたので満足。夕方なぜか部屋のテレビのNHKだけが映らない怪奇現象もあったが、すぐに部屋をチェンジしてくれるなど、対応は良かった。

熊本はまだ五月だというのに、何とも暑い。午後2時の気温は30度を超えていた。それでも腹が減ったので外へ出た。宿のすぐ近くに大きなアーケードがあり、パッと目に付いたのが、『馬肉うどん』。熊本だから馬刺しは食べるだろうが、馬の肉をうどんに入れるのだろうか。好奇心から食べてみたが、まあ普通の肉うどんと変わりはない。

折角なので熊本市内の歴史的に興味がある場所を歩き回ることにした。先ずは熊本城の横を通り、堀の外側にある横井小楠とその弟子たちの像を見る。勝海舟や坂本龍馬にも影響を与えたと言われる思想家だ。明治の初めに京で殺されてしまったが、生きていれば更なる活躍があったかもしれない。その向こうには西南戦争で熊本城を守り抜いた土佐人谷干城の像も建っている。

更に進んでいくと、宮本武蔵旧居跡という表示が見える。そう、武蔵は晩年細川の庇護のもと、熊本に来て五輪書を書いてここで亡くなっている。そのまま夏目漱石旧居(5番目の家)を見学しようと思ったが、何と現在改修中で閉鎖されていた。その裏には先ほどの横井小楠生誕地の看板が見えた。建築関係の若者が休んでいるところをどいてもらい写真を撮ると、彼らもここが何なのかと興味を持ってのぞき込む。

そこから歩いて熊本大学を目指してしまった。ちょっと無謀だったが、30分以上かけて何とか歩けた。郊外にある熊本大学のキャンパスは静かだった。コロナ禍で授業はオンラインだろうか。熊本大学というと、何となく宮崎美子を思い出してしまう。何で宮崎なのに熊本?

今回の目的は夏目漱石の足跡。旧制五高の建物がキャンパスに残っていると聞いたが、ここも全面改修中。その前には小泉八雲の顕彰碑がある。漱石の記念碑を探すと少し離れたところで、おどけた感じの漱石像と句碑を発見。漱石の熊本は、松山より濃い生活だったのだろうか。

熊本大学を抜けて、更に歩いて行く。細川家の墓所があるという泰勝寺跡(現在は立田自然公園)まで行ってみた。ところがコロナ禍で閉園中、入ることはできなかった。かなり歩いていたので、疲れがドッと出た。お寺も門だけあったが、改修中のようで、何となく中は覗けそうだったが、そのまま立ち去る。

そこから10分歩いて熊本大学まで戻り、バスに乗って市内へ戻る。そういえば、茶農家のAさんやKさんが鶴屋百貨店の催事に出店していると言っていたので、折角だから寄ってみることにして、街の中心でバスを降りた。コロナ禍のこの時期に催事ができるとは、九州は東京とは違うようだ。

百貨店にはそれなりに人が入っていた。まずはAさんに挨拶。本当は明日水俣に伺う予定だったが、ここの催事が明日までということで、残念に思っていたので、会えてよかった。Aさんの活動はユニークで、様々なところへ行き、勉強しているという。愛媛の黒茶にも関わっているというので、次回はそちらを訪ねようと思う。

羽生茶旅2021

《羽生茶旅2021》  2021年5月6日

大河ドラマ『青天を衝け』を楽しみに見ている。渋沢栄一の生まれ故郷、埼玉県深谷市は盛り上がっているだろう。栄一は徳川昭武のお供でパリ万博に行っているが、その時の経験がその後の実業家を作ったとも言われている。この万博、色々と興味深い点があるのだが、日本の物品の中に茶はなかったのか、という観点で見てみた(茶は展示されたが、市主要産品ではなかった)。

その過程で、この展示品を運んだ、そして販売したのは誰だったのかに興味が出てきて、清水卯三郎という名前に行き当たる。卯三郎の墓が自宅のすぐ近くにあるというので行ってみたが、見付からない。もう一度検索すると、何と生まれ故郷の埼玉県羽生市に移されていると知り、訪ねてみることにした。

5月6日(木)羽生

盛り上がらないゴールデンウイークが過ぎた。原稿の締め切りもあったので、思い切って電車に乗った。羽生という場所は子供の頃からよく聞いていたが、行ったことはない。『久喜、加須、羽生、舘林・・』という東武線の放送が懐かしい。東武動物公園も昔は杉戸という駅名だった。現在羽生といえば、フィギャ―スケートの羽生選手ぐらいしか思い浮かばない人も多いだろうか。

北千住から久喜へ行き、伊勢崎線の館林行きに乗れば、羽生に着く。駅前からちょっと歩くと、市民プラザ前に清水卯三郎の胸像が建っていた。1829年この地に生まれた卯三郎は、江戸へ出て貿易商のような仕事をしながら語学を学び、薩英戦争後の交渉では大久保利通らの要請で通訳を務め、何とあの五代友厚を救出したという。大河ドラマで五代が熊谷宿で将棋を指すシーンがあったが、あれは救出した五代が逆に薩摩から追われていたので、この付近に匿ったという話から来ている。

更には1867年のパリ万博では商人代表として、物品を運び、会場に日本茶屋を設え、柳橋芸者を3人連れて行くという前代未聞の荒業をして、好評を博した。ナポレオン3世から勲章ももらったらしい。因みにその芸者たちが日本人で初めてヨーロッパに渡った日本女性らしい。御維新と共に浅草に瑞穂屋を開き、出版業や歯科医療機械の輸入などを行い、1910年に没した。あの勝海舟とも深い親交があったというから、何とも興味深い人物ではないだろうか。

もう少し歩くと、清水卯三郎生誕地という看板がある。今も酒屋か何かを営んでいそうな雰囲気のある家が建っている。卯三郎の時代はどのような暮らしをしていたのか、よく分からないが、酒造業であろう。とにかく羽生は北関東によく見られる、落ち着いた静かな町だった。

少し郊外まで歩いて行くと、正光寺という寺がある。そこに卯三郎の墓があった。これは1999年に東京世田谷烏山の乗満寺から移されたものだった。墓の継ぎ手がおらず、卯三郎顕彰会が尽力して清水家の菩提寺に移したらしい。比較的大きな墓石にはひらがなで『しみづうさぶらうのはか』と書かれている。これはかな文字論者であった卯三郎直筆とも言われており、誰でも文字が読めるようにという彼の志の表れだった。

この寺には歴代清水家の墓もある。『清水哲信墓碑』というものがあり、それによると清水家は小田原北条家に仕えていたが、江戸初期に羽生に移り、酒造業を行い、代々名主の家柄だったという。哲信とは卯三郎の祖父に当たる人物。卯三郎も実家が造り酒屋であれば、商売のことは小さい時からよく知っていたのだろう。

一旦駅付近に戻り、ランチにありつく。何だか久しぶりに外食してちょっと緊張する。居酒屋も今は酒が出せず、ランチに精を出しているようで、思いの外お客がいた。それから図書館へ回ってみた。結構歩いて辿り着いたのだが、何と今日は休館日だった。木曜日に休館はないだろうと思ったが、祝日の翌日休みでは仕方がない。それよりここには歴史館が併設されていたようだが、こちらが見られなかったのは何とも残念だった。

帰りに老舗和菓子屋に寄り、まんじゅうを買ってみる。元治元年1864年創業と書いてあったが、聞いてみるとここは支店で本店は熊谷であった。いずれにしてもこの頃、卯三郎と五代がこの辺を駆け回って(逃げ回って)いたと思うと、何ともおかしい。今回折角だから渋沢栄一の故郷深谷にも足を延ばそうかと思ったが、羽生から深谷は距離的には近いが、鉄道路線がなく、大回りなるので止めた。渋沢と卯三郎はどんな交わりがあったのだろうか。ちょっと気になるところだ。

大分茶旅2021(5)竹田から大分へ

街中まで車で行き、先ずは老舗和菓子屋但馬屋に入った。創業200年、但馬の国ともかかわりがあるらしい。菓子販売部と喫茶部がある。土産の菓子を買い、開放されている店内を見学する。それから生菓子付きのお茶セットを注文して朝ご飯とした。これだけの老舗があるこの街、侮れない。

それから近くにある竹田市歴史文化館へ向かう。ここに滝廉太郎や竹田に関する展示があった。併せて岡藩や中川家の歴史も学ぶ。この文化館の後ろに竹田荘がある。田能村竹田の住まいや墓がある、私のお目当てはこちらだ。ここはかなり高い場所があり、エレベーターで昇った。

家がきれいに残っている。茶室もある。敷地が思いの外、広い。頼山陽など多くの客人がここに泊まったのだろう。竹田の文化人らしい様子がよく見える。石碑類も沢山あり、その中にはちょっと気になるものもあったが、さすがに古いものは文字が読めない。何気なく受付に居た方に聞いてみると、何と文化館に資料があるはずだと言って、自ら下へ行き、コピーを取ってきてくれた。何とも有難い。

竹田の墓はこの家の裏山の中にあるというので、一度外へ出てまた登っていく。かなり急な坂があり、更に横道を入っていく。かなり奥の方にその墓はひっそりとあった。表示がなければそこへは行かないだろうという場所だった。如何にも竹田らしい眠り方かもしれない。

その山道を降りて行かずにそのまま歩いて行く。何故か『広瀬武夫の墓』という表示を目にしてしまったのだ。あの日露戦争で英雄になった広瀬は竹田の生まれだった。ところがその表示からかなり歩いても辿り着けなかった。Oさんは車を取りに戻り、後から来てくれた。茶屋の辻、というこの場所は、西南戦争の激戦地であり、薩摩も政府も双方多くの兵が亡くなった、千人塚と呼ばれる塚があるところだった。

実は広瀬家もこの戦いで家を焼かれて、飛騨高山へ引っ越したという。ようやく見付けた記念碑は『広瀬武生誕の地』だった。そしてその先のちょっと高い場所にその墓が現れる。広瀬はロシア語が堪能で、ロシア娘との恋も伝わっている。柔道六段。そしてそこから車で街中に戻る。巻き寿司が評判という店で買い込んで、ふと振り返ると、そこは広瀬神社であり、広瀬の像も建っている。彼はいつの間にか神になっていた。

大分で

駅まで車で送ってもらい、Oさんと別れた。ここから大分まで電車で行く。先ずはホームで巻き寿司を頬張り、電車に乗り込んだ。そこからのどかな田舎を眺めながら、揺られていく。乗客も多くはない。全く何のストレスもない春の日、思わず目を閉じてうたた寝してしまう。

大分駅に着くとそこは都会だった。ちょっとそのギャップに悩む。駅では大友宗麟の像が出迎えてくれた。キリシタン大名宗麟については、非常に興味がある。そこから荷物を引っ張って、宿まで歩いた。いつもよりちょっといい宿が安かったので泊まることにしたのだが、駅近の方が楽だっただろうか。

荷物を置くとすぐに外へ出た。先ず向かったのは大友氏の館跡。今は庭園など一部が復元されていた。これからその遺構が整備されるのだろう。それから城まで歩いて行く。今日はワクチン接種会場となっており、中を見ることはできず、外堀だけで終わる。急に腹が減ったので、とんこつラーメンと餃子を食べる。そして広いお部屋、大きなバスタブに帰って、ゆっくりと休んだ。偶には広い、快適な部屋で寝るのもよい。

4月10日(土)大分をフラフラ

翌朝はゆっくり起き上がる。特にやることもなかったが、フライトは夕方だったので、朝から歩き回る。駅の反対側のなだらかな丘を登ってみる。大友氏の拠点の一つ、上原館跡に碑が建っている。その向こうに宝戒寺が見える。弥栄神社は荘厳な雰囲気があった。恐らく普通の観光客は行かないだろう場所を巡った。

それから図書館に寄って、大分の茶業、そして田能村竹田などの大分出身の偉人の資料を見た。農学者大蔵永常が気になる。それにしても腹が減ったが、周囲に食べるところがない。図書館内のカフェでオムライスを頂く。何故大分まで来てオムライスなのかとは思うが、腹が減ったから食うのだ。

宿まで歩いて戻り、荷物を引っ張ってまた駅前まで来た。大友宗麟だけでなく、フランシスコ・ザビエルの像も建っていた。宗麟はザビエルを招き、そこからキリスト教が広まったという。ここから空港行きのバスに乗る。行きは空港から中津まで2時間も掛かったが、今回は1時間も掛からない。飛行機に乗ると、なぜか宮崎の茶が配られた。

本当は今回、別府温泉に浸かり、フェリーで四国愛媛に渡る計画も立てていたのだが、コロナも怪しくなり、また自分の体力にも問題が発生してしまい、帰ることになったのは、残念だった。