ある日の埔里日記2017その4(8)眉原で下山操子さんと会う

9月22日(金)
東邦紅茶から魚池へ

今朝は宿にKさんを迎えに行き、いつもの店で朝食を食べた。それから歩いて東邦紅茶に向かう。郭さんは紅茶作りに忙しかったが、その中を相手してくれた。古い工場の2階を見て、それからちょうど揉捻機が動いている新しい1階の方へ移る。更には事務所で簡単に紅茶を頂く。Kさんのように品茶に興味がある人には、ちょっと形が違う歴史アプローチだった。

 

そこへIさんが迎えに来てくれ、私は一旦Kさんと別れ、イベント打ち合わせのため、18度Cへ向かう。今日は実施的な実行委員長も決まって、各地区の珈琲班の人々が参加しており、このイベントがかなりの速度で動いてきたことが分かる。初めはどうなることかと思ったが、18度Cオーナーの度量もあり、何だか出来そうな気がしてきた。

 

その後宿に戻り、再びKさんと会って、昼ご飯は黒肉飯を食べる。これから魚池へ行こうとしていたが、1時のバスに乗りそこないそうになり、慌ててターミナルへ。何とか乗れたのでホッとしていたが、老茶廠で下車して連絡してみると、会う予定の李さんは何と埔里に来ており、入れ違いになってしまった。李さんとKさんはFB上の知り合いで、今回初めて会うので私も同席することになったのだ。

 

仕方なく、老茶廠をゆっくり見学する。平日はお客さんもおらず、茶作りも止まっていたので、特に見る物もない。Kさんの最近の動向を聞きながら李さんを待ち、彼の迎えで家へ。ちょっとお茶を飲んですぐに茶畑を見学。ちょうど茶摘みが行われていた。そのまま李さんの知り合いの女性のところへ回る。彼女のところでも紅茶を作っているが、女性らしくかなり可愛らしいパッケージを作り、売り出しているようだ。

 

李さんの車で魚池まで送ってもらう。夜は豚足でも食べに行こうということになり、有名店だという店まで歩いて行ってみた。結構遠かった。店にはお客は誰もおらず、店の対応もイマイチ。まあ、わざわざ食べに来る必要はなかったなと思う。埔里には残念ながら名物と呼ばれるものがない。

 

9月24日(日)
眉原で下村さんに会う

今日はIさんからお誘いがあり、車で中原へ向かった。この付近はセデック族が移住した場所であり、Iさんの奥さんの実家、お母さんもここに住んでいる。まずはお母さんの家に寄る。中原には思ったより家がある。この手前には、あの霧社事件の後、生き残ったセデック族が移住させられた川中島という村もあった。今は清流部落という。このあたりは本当に環境がよい。

 

それから車は更に進み、眉原という部落に入った。その本道から少し降りた場所に、民宿を開いている人がいた。下山誠さん、本日お訪ねする下山操子さんの弟さんだった。誠さんは、随分前にこの土地を買い、草花や野菜を植えている。とても素敵な庭を持っていた。奥さんは現地の人だ。

 

そこへ操子さんが入って来た。日本の敗戦直前、埔里で生まれた。お爺さんは警察官で、タイアル族の頭目の娘と政略結婚した。原住民融和政策の一環であり、彼女のお父さん、下山一さんらが生まれた。ただお爺さんは日本へ帰国してしまい、お婆さんの願いで一家はマレッパというお婆さんの故郷に残った。あの霧社事件とは直接関係はないという。

 

操子さんが生まれてすぐに日本が降伏、下山一家も日本に帰還するはずだったが、お婆さんはどうしても日本行きを拒み、一家は山の中に残った。その結果、お婆さんが亡くなった後もここに置き去りにされ、またまた父一氏はスパイなどの容疑を掛けられ、度々拘留される。そして帰還船に乗ることが出来ず、ついに台湾国民として生きることになった。敗戦国民として一般台湾人、そして外省人から厳しい対応を受けるなど、日本人と台湾との関係をもう一度考えさせられる話が一杯だった。

 

その壮絶な生きざまを淡々と話されると逆にすごみがある。それは私が28年前に会った霧社事件の生き残り、高山初子さんの話を聞いた時と同じ印象を受けた。本当に厳しい、過酷な状況に置かれた人の本音の話というのはそういうものではないだろうか。操子さんの著書『故国はるか 台湾霧社に残された日本人』を読んで、勉強したいと思った。

 

そして操子さんの家にもお邪魔した。『私は2回に死にかけた。その時天から救われた』と言い、家の横には大きなイエス像が建てられていた。庭はとても広く、草花が沢山植わっていた。家の中にも写真が貼られており、引き続き下山家の話を聞いた。操子さんは逆境にもめげず、努力を重ねて、学校の先生を定年まで勤められた。実は今日一緒に来た人の中にも教え子がいた。先生らしい言葉遣い、そして昔の日本のおばさんのような心遣い、その歴史と相まって不思議な時間を過ごした。

ある日の埔里日記2017その4(7)花蓮散策

花蓮散策

自強号に乗れば1時間ちょっとで着くはずだった花蓮に2時間かけてようやく到着した。これも旅としては良いだろう。ここは日差しが強い。駅前をうろつき、ちょうどよさそうなホテルを探す。少しきれいなホテルがよいと思い、入った所は1泊1000元だったが、取り敢えずそこに泊まることにした。

 

そして腹が減ったので、フロントに『花蓮の名物はなにか』と聞いてみると、『扁食』という答えが返って来た。どこに行けば食べられるのかと聞いてみると『ここからちょっと遠い』といい、道順を教えてくれたが、結局面倒になり、バイクでそこまで送ってくれた。何と親切なことか。

 

花蓮の街の中心は駅前ではなく、そこからバイクで10分ほど行ったところだと分かる。バイクから降りて、街を歩くとすぐに扁食の店があったので入る。扁食とはワンタンのことである。ここでは基本的に雲吞スープを売っており、皆がそれを食べている。私も70元のものを食す。正直何故花蓮名物がこれなのか、不思議に思う。他にないからだろうか。

 

少し暑いがそのまま花蓮の街の散策を始めた。街の様子を理解するには歩くのが一番だ。海辺までは遠いようだったので、大きな道を歩いて行くと、突然日本家屋にぶち当たる。日本統治時代は軍関係者の宿舎だったというが、今は史跡指定を受けて一般開放している。大きな木が印象的だ。ただ残念なことに参観者は全くおらず、日本の演歌が空しく響いていた。

 

更に歩いて行くと松園別館と書かれた看板が見えたので行ってみる。そこは高台にあり、階段を上って行くとかなり足が痛くなる。その門に辿り着くと、入場料50元を払い中へ。そこからは花蓮の海がよく見える絶好のスポットだった。しばし海を眺めて和む。いい風も吹いて来る。

 

松園別館は、戦争末期に花蓮での兵役募集・管理のために作られた施設、旧名を『花蓮港陸軍兵事部』という。ここで終戦を迎えた軍幹部の中には、自決した者もいたらしい。光復後は米軍軍事顧問団のレジャー施設として使われたらしいが、地元では長年幽霊屋敷のような扱いだったのではないか。その後ホテル建設計画があったが、保護運動により今日に至る。日本時代の軍施設としてほぼ完璧に保存されている稀な建物だ。

 

現在園内には4棟の建物が残されている。母屋は2階建てで、今は展示スペースなどに使われている。その廊下からはやはりきれいに海が見え、まるで映画のロケにでも使えそうな雰囲気を出している。若者が自撮りに余念がないのも頷ける。他の建物にはカフェが出来ており、居心地のよさそうな空間が用意されている。庭には松の木などが沢山植わっており、素晴らしい。

 

土産物を売る店も作られていた。実は入場料には30元に買い物券が付けられていたが、土産を買わない私は水を一本もらい、渇きを癒した。それから元来た道を降り、30分ほど歩いてホテルまで帰った。暑くてのどがカラカラになる。飲料をコンビニで買い、部屋でぐったりと休む。

 

夜になり、夕飯を食べに外に出た。駅前の食堂に入り、鶏肉飯を頼むと、何と魯肉飯と同じような小さな椀で出てきた。埔里で食べる奴は野菜などが添えられており、ボリュームがあるのだが、これでは夕飯にならないとおかずを三品ほど足した。僅か三品だったが、会計すると意外なほど高く、店のおばさんが計算を間違えたのかなとは思ったが、面倒なのでそのまま払って出てきた。だがそれからずっとそのことが頭から離れない。やはりはっきりさせるべき時はきっぱり言うべきだった。最近では珍しい後悔だ。疲れてはいたが、何となく寝心地も悪い。

 

9月21日(木)
プルマ号で

今朝は早めに起きて散歩に出た。朝食は繁盛している店に入り、サンドイッチと紅茶で済ませる。それから街中を歩き回り、古い建物などを見て回る。まだ花蓮には老建築が少し残っていた。朝は比較的涼しいので、散歩には適している。本当は海を見るべきだが、一昨日車から見たので、今回はカットした。

 

花蓮発のプユマ号に乗り込む。これだと一番早く、且つ台中まで一気に行けるのである。但し昨日切符を購入した時、『4人掛けの席しかありませんがいいですね』と聞かれた。とにかく一日に何本もない、常に満員の列車なので、それでよいと答えたが、車両に乗り込むとその意味が分かる。基本は新幹線のように2人ずつ進行方向を向いて座るのだが、家族用に2人ずつ向かい合わせの席を2-3、用意しているのだ。

 

知り合い同士ならよいが赤の他人だとちょっと気まずい。その上座席が狭い。窓側の進行方向逆向きの席は最悪だ。隣のおじさんは寝ているので勝手に席を立って動くこともできない。その上逆方向で長時間同じ姿勢でいると普段の倍以上疲れることが分かった。何とか4時間の乗り切り、電車を降りた時はぐったり疲れた。この4人掛けの席は廃止すべきだと思う。

 

それからバスで埔里に戻って休む。夜は広島のお茶好きKさんがやってきたので、宿の主人と共に夕飯を食べる。ちょっと立派な定食屋なのだが、メニューに大阪風とあったので頼んでみた。何とメインディッシュがお好み焼きという訳だ。取り敢えず美味しく頂き、宿で少し話をした。

ある日の埔里日記2017その4(6)瑞穂の茶業

ここの庭は広い。ちょっと散歩していると葉さんが出掛けるという。ようやく着いたばかりなのに、と思ったが、そのまま従って車に乗る。目的地はここからさらに20㎞先の玉里だった。そこの玉里麺が有名で美味しいというのでわざわざ出かける。それは有り難いことだった。

 

玉里はそれほどの街ではなかったが、その麺屋は本当に混んでおり、行列ができていてびっくりした。しかも周囲に何軒もあるのに、混んでいるのはその一軒だけだった。何とか席を確保して座る。確かに何気ない雰囲気ながら、麺もスープも美味しい。何となく満足してまた瑞穂に帰る。

 

午後は葉さんのお父さんとお母さんから、話を聞く。1960年代、この瑞穂で初めて茶業を行ったのはこのお父さんだった。龍潭から最初は通って、その後移住した。交通が不便でかなり難儀したらしい。後から来た人には苗を分けて、茶の作り方も教えたらしい。瑞穂茶業の父と呼んでもよい存在だった。昨年訪ねた粘姉妹の親が彰化からここにて茶を始めたのはその後だったという。

 

話の間にも宅急便が荷物を取りにきたりして、皆さん忙しい。鶴岡文旦の名で有名な文旦を台湾各地に発送しているのだ。日本では九州や四国で文旦が採れるようだが、中国では柚子という別名で呼ばれている。何故台湾と日本では文旦と呼ぶのだろうか。聞いてみたが、定かではなかった。

 

それから茶畑へ行った。ここには未発表の品種も植わっており、台東の改良場と協力して、この葉を使って白茶が作られているらしい。元々は緑茶を作る計画があったが頓挫し、その後烏龍茶などを作って来た。お父さんは一応引退しており、今はお兄さん二人が跡を継いでいる。

 

茶工場は、最初に建てられたものが残っており、ここで苦労して茶が作られた様子が分かる。当初はここで寝泊まりもしていたらしい。そして茶作りが終わると龍潭に帰っていったと。当時はほんとに交通が不便で、帰ると言っても3日がかりだったとか。その苦労がしのばれる。

 

紅葉温泉
夕方になり、今日私をどこに泊めるかが話し合われた。その結果、車は高台を降りていき、駅と反対側の方へ向かう。まずは夕飯を食べようということで一軒のおしゃれな店に入る。ここは火鍋屋だった。一人ずつ好きな鍋を注文して食べる方式だ。これがお客に便利なだけでなく、店側にも用意が簡単なようだ。この店の道の向こうには大きなホテルが建設中だった。このホテルが出来ればさらにお客が増えるのではないかという読みと、反対にホテル内で全て済ませてしまうのではないか、という心配が交錯していた。

 

それから車は暗い道を少しずつ上って行く。着いたところは紅葉温泉。確かここには15年前に一度来て泊まった記憶がある。あの時は台湾温泉1周旅行の途上で寄った。毎日違う温泉に入るという温泉三昧。今の私には考えられない。その中で一番不便な場所だったと記憶している。

 

日本統治時代に建てられたというこの温泉宿、何だか昔の小学校みたい。畳の部屋などもあるが、私は普通の個室に入った。大風呂もあるのだが、残念ながら水着着用が義務付けられており、私は部屋の風呂で済ませた。15年前と設備的にはそれほど変わっていないように思えるのだが、どうだろうか。夜はとても静かでぐっすり。まあ朝4時半に起きたのだから当たり前か。

 

9月20日(水)
瑞穂2
翌朝は早めに目覚める。朝ご飯が付いているのだが、8時頃と言ったにも拘らず、7時過ぎには食べる。蛋餅を目の前で作ってくれた。他に宿泊客が数人いたが、昨晩は全く会わなかった。今日も天気が良い。外で食べる朝食は格別だ。葉さんが迎えに来てくれるまで、ここの若き経営者と話した。

 

『何とか今の経営体制を変えないとマズいんだが、親の世代が話を聞いてくれない。改装や料金体系の見直しをしないと、これからできる大型ホテルに対抗でいない』と悲痛な叫びがあった。この世代間、経営者株主間闘争?様々なところで聞かれるが、何とも難しい課題だ。せめて昼の温泉プランは考えた方がよい。

 

今朝もまた富源茶業に戻り、お父さん、お母さんと話す。結局今回の瑞穂行きでは他にはどこも行かなかった。葉さん達はまだここで仕事が残っているというので、駅まで送ってもらう。ちょうど各駅停車が来たので、乗り込んだが、後から来る自強号に追い抜かれる運命だった。ガラガラの電車にゆっくり揺られる、まあこれもまた旅だろう。

 

瑞穂から花蓮の間、何となく駅名を眺めていると、富源→大富→光復、とか、平和→志学→吉安、とか、凄く立派な名前が連なっていることに気づいた。これはこの地域が、平地が少なく、台風などの自然災害もある、非常に厳しい環境に置かれており、その中で入植した人々に願いが込められているように思えてならない。こんなことを考えるのも各駅停車の良いところだ。

ある日の埔里日記2017その4(5)茶葉入りアイス

9月18日(月)
茶葉アイス

今日から旅に出る。まずは台北を目指すため、9時発のバスに乗る。もう乗りなれているので寝ていると難なく着いてしまう。知り合いの紹介で葉さんと台北駅で待ち合わせた。西出口で待っていると夫妻で迎えに来てくれ、車で彼らの工場のある三重に向かった。三重は今バスで通って来た場所。分かっていれば三重で降りたのに。

 

大きな建物の駐車場に車は入った。ここは小さな工場が入居する工業ビル。そこに彼らの小さな工場はあった。元々は電子部品を作っていたが、今は食品関係を作っているという。なぜかおしゃれなカフェのような場所で驚く。作っていたのは、お茶のティバッグやアイスクリーム。何とも興味深い。

 

茶葉を入れて作ったアイスは紅茶や抹茶だけでなく、鉄観音など変わった品種まであり、全部で12種類。実は葉さんの実家は茶農家なのだ。元々の出身は龍潭、そこからお父さんが花蓮の瑞穂に移住して、今でも茶作りをしている。明日は彼女の実家を見学するため、今日ここにやってきたわけだ。実家の素材をうまく利用して高級アイスを作るなんて面白い!

 

アイスは全然甘くない。『もうハーゲンダッツの時代は終わった』と言い、少なくても台湾では甘くないアイスが好まれているというのだ。更にはそこにイタリアのジェラートの感覚も取り入れている。これは正直ちょっと意外だった。このアイスの値段は結構高いが、台湾では好評で、近々工場を拡張する計画もあるという。ティバッグの受注も伸びている。これからの茶業の新しい形かなと思う。

 

彼らは仕事が忙しいので、ここの一部屋を借りて、お茶の勉強をする。その部屋には茶に関する本がたくさんあり、中でも製茶組合の歴史の本など、普通は手に入らないものがあるので、それを読み始めたら止まらない。途中で葉さんが実家で作っているという文旦をくれたが、これがまた美味い。益々読書に身が入ってしまう。

 

結局夜まで本を読み続ける。我ながら勉強熱心だと思う。それから夫妻に連れられ、市内へ戻り、夕飯を食べる。最近流行りだという麺の店へ行くが、そこは熱炒の要素も取り入れ、客の注文で調理もする。初めの一店舗が成功して、今は横に4店舗まで広げたらしい。確かに味がよく、客は引っ切り無しに入ってくる。

 

今晩は葉さんの家に泊めてもらう。家と言ってもマンションの同じ階の部屋を2つもっていて、その一つは空いているというのでお言葉に甘える。広い家だが、オウムと亀がいるだけだった。明日の朝は早起きなのでシャワーを浴びてすぐに寝入る。夜中にオウムの奇声を聞いたような気もするがぐっすりと休む。

 

9月19日(火)
花蓮 太魯閣

朝4時半起床!昨晩『明日早いから』と言われたのだが、まさかこんなに早いとは思わなかった。真っ暗な中車に乗り込む。今日は花蓮の南部、瑞穂を目指すわけだが、なぜこんなに早く出るのかはよくわからない。ただ連れて行ってもらう以上、相手に合わせるのが流儀。黙って着いて行く。車はすぐに高速道路に上がり、宜蘭の方へ向かってひた走る。5時半頃には陽が登り始める。

 

更にどんどん進み、6時半頃には海岸線へ出る。久しぶりの太平洋。しばし車を停めてもらい、海を眺める。断崖と書かれている場所もある。以前は花蓮へ行くのに、相当の時間が掛かったが、今では道路が整備され、随分と便利になっている。実は花蓮自体を見るのがなんと27年ぶりなのだ。

 

車は太魯閣渓谷の方へ向かっていく。どうやらこの近くで用事があるようだが、まだ時間が早いので、寄り道するらしい。私にとっては願ってもない機会だ。27年前にここに来た時は、その2週間前に前代未聞の台風による自然災害があり、道路は崩れて殆ど何も見られなかったのだ。

 

朝が早いせいか、観光客は見当たらない。なんとも天気がよく、空が澄んでみる。川の水も清らかだ。あくまでもトイレ休憩なので、じっくりと歩くことは出来なかったが、十分に堪能できた気はする。東西横貫公路が出来ており、西側へ行くこともできるようだが、その道は険しそうだ。日本人の団体を乗せたバスがやってきてすれ違った。

 

それから花蓮市の少し先の吉安郷に行き、用事を済ませた。彼らは非常に熱心に価値ある農産物を食品に入れるべく、探しているのが分かった。こういう人々の努力で、我々の口に物が入るのだ。東海岸の平坦な道を車は走っていく。横には線路が見え、電車が走るのだろう。

 

瑞穂
11時半頃、目的地に着いた。台北を出てから6時間半が過ぎていた。驚いたことに、葉さんの実家、富源茶葉には、昨年瑞穂に来た時に寄ったことがあったのだ。それは台北の茶荘の紹介だったが、その時は別の茶荘に行った関係で寄らないつもりでいたのだ。ただ朝の散歩で偶然見つけていきなり押し掛けた経緯がある。葉さんのお兄さんが対応したのだが、そのことは覚えていてくれ、お互い驚く。

ある日の埔里日記2017その4(4)セデック族の結婚お祝いに

9月16日(土)
セデック族の結婚お祝いに

今日もIさんに誘われて、埔里から少し山の方へ向かう。実は彼の奥さんはセデック族の出身であり、親戚に結婚する人がいることから、そのお祝いの儀式があるというので、行ってみることになったのだ。この儀式、何でも朝一番で豚を解体し、親戚一同に配り、集まった者で、肉を焼いて食べるのだそうだ。何だかとても原始的な儀式を想像してしまう。

 

車は霧社へ向かう道を登り始めたところで、横道に入った。眉渓という辺りらしい。そこには教会があり、そこに車を停める。周囲には民家がいくつもあり、想像していた山の中ではない。その一軒の家の前で小型トラックの荷台を使って男性が3人がかりで解体作業が行われていた。周りでは長老など集まった親族がそれを見つめながら話し、子供たちはその辺で遊んでいた。

 

次々に奥さんの親戚を紹介されるも、元々の関係が全く分かっていないので、とても覚えられない。しかも肝心の新郎新婦がどこにいるのかもわからない。後で新郎には挨拶できたが、新婦はこないのだという。この儀式は新郎側で行われていたのだ。結婚式は来週そこの教会で挙げ、披露宴は埔里市内で行うらしい。今日のそれは伝統行事の継承だろうか。

 

肉の解体が終了すると、新郎が長老に結婚報告のような形で、その肉などを渡している。後の人は各自持ち帰るようで、今日来ていない人の分も誰かが預かって持っていくらしい。そして全員が集まり、何かに向かって代表者が祈りの言葉を捧げた。更には殆ど人がキリスト教徒なのか、神にも祈りを捧げている。

 

この辺の宗教事情も知りたいところだ。光復後、物資がない時代にキリスト教の宣教師がやってきて、食べ物を与え、教育を与え、信者を増やしたらしい。今でもインドの山奥ではこのような布教活動が行われていたのを見たことがあるが、アメリカ人やヨーロッパ人が山の中で何十年も住みついているのもすごい。

 

それから食事が始まった。豪快に焼かれた肉の他に、木桶で炊かれたご飯や大皿に盛られたサラダなどがあり、皆好き勝手にとって食べている。肉のスープもあったが、これはあまりにも脂分が多くて濃厚だが、沢山は飲めない。

 

今日集まった人の中に、台北の大学で民族学を教えている人がいた。いわゆる原住民の歴史、これにも大いに関心がある私は、茶との関係などを中心に色々と質問してしまった。台湾に元々茶の木はあったのか、という命題と原住民は何らかのかかわりがあるように思えてならないのだが、そこはどうしてもわからない。ただこの近くの山でもお茶が栽培されているらしい。今度ちょっと調べてみたい気はしている。

 

軍の特殊部隊に所属しているという若者も来ていた。何となく高砂義勇軍なる言葉を思い浮かべてしまったが、不謹慎だろうか。中正記念堂の衛兵なども皆精悍な顔立ちだが原住民が多いと聞いている。勇猛果敢な人々は今も現役なのだろう。因みにこの地区の人々は霧社辺りから降りてきたセデック族で、いわゆる霧社事件のモーナルーダオなどとは系統が違うらしく、この事件については関係がないと言っていた。因みに家々の表札を見ると漢字名があり、その下にローマ字で元の名前が書かれていた。

 

学校の校長先生だったという方は病を得て車いす生活をしていた。それでも随分回復したと言い、皆と楽しそうに談笑していた。普段はインドネシアのメイドさんが世話をしているのだろうか。日本にも昔はこんな集まりがあり、親族が楽しく談笑していただろう。Iさんが日本酒を買ってきて差し入れた。さすがに皆、酒は強そうだった。

 

スマホの電池交換
車で送ってもらい、埔里に戻ってくると、なぜかスマホの電池がほぼゼロになっていた。いくら充電しても、すぐに無くなってしまう。これは充電コードの問題なのか、または電池か、それともアイホーン自体が壊れたのか。実は明後日から旅に出る予定であり、スマホは必須なため、スマホを修理してくれるところを探すことになる。

 

バスターミナル近くに1軒見つけたのでそこに飛び込む。若者がいたが、スマホを見るとすぐに電池の問題と断定した。まだ1年しか使っていないアイホーンだけど、電池の消耗が早過ぎ。でも背に腹は代えられない。電池交換を頼む。30分ほどかかるという。そうか、昔携帯みたいに自分で電池を入れ替えることは出来ないのだ。700元。

 

20分ぐらいして戻ると交換は完了していたが、充電が出来ていないので、そこで少し充電させてもらった。その間彼と話す。『実は彼女が東京旅行に行きたいっていうので先日お金を渡したんですが・・??』とまるで人生相談か。何となく面白いので、そのまま話を続けた。彼は東京旅行に行ったのだろうか。

ある日の埔里日記2017その4(3)埔里演習林 イベント会議に参加

9月13日(水)
埔里で和食を食べる

ご近所の日本人Iさんに埔里に戻ったことを伝えると、すぐにランチのお誘いが来た。こういう繋がり、埔里に不慣れな人間にとっては何とも有り難い。Iさんは既に日本の企業を退職し、埔里に定住している。奥さんもこちらの人、埔里は以前ロングステイヤーを誘致していたが、最終的に残っている人たちは、奥さんが台湾人であったり、ここに余程ご縁がある方々になっているらしい。

 

Iさんの車でやって来たのは、何と日本食屋さん、日高鍋物!埔里に日本食堂は何軒かあるが、本格的な店は見たことがなかったが、ここでは日本の味が味わえる。ランチの定食はとんかつや生姜焼き、焼き魚まで揃っていて、デザートまでついて250-300元。なかなか良い。埔里のおばさんたちが何組かランチに来ていたので、地元では評判になっているようだ。夜は店名の通り、鍋やしゃぶしゃぶが提供されている。

 

Sさんも一緒に食べたのだが、彼からイベント企画の話があった。5月に連れて行ってもらった埔里に古い建物が残る北大の演習林。ちょうどここが12月で開設100周年を迎えるということで、何とか皆にその歴史を知ってもらいたいと、イベントを企画しているらしい。Sさんは今、埔里郊外でコーヒー栽培を始めており、演習林でもコーヒー栽培の記録があることから、そこを連動させたいともいう。

 

実は今日来たこの日高鍋物は、すぐ近くにある埔里名所のチョコレート屋、18度Cのオーナーが開いた店であり、先日このオーナーにこの企画を持ち込み、興味を持たれた。その時に連れてきてもらってこの店の存在を知ったという。何とも興味深い企画だが、一体どうなるのだろうか。

 

9月14日(木)
両替で

今日もいい天気なのに、午前中は部屋に籠り、気が付くと11時を過ぎていた。急いで馴染みのサンドイッチ屋でクラブサンドを食べようと出掛けたが、何と『今日は早めに仕舞いにしたよ』と素気無い返事。思わず『えー』と餌をねだる子犬のようにしてみると、『仕方ないね』と言いながら、作ってくれた。優しい。いよいよ常連さんかな。こんな交流が嬉しい。

 

そこから台湾銀行に両替に行く。いつものように100米ドルの新札を出したら、いつものお姐さんに『このお金はどこから持ってきたの?』『どうやって手に入れたの?』と聞かれ絶句!確かにヨレヨレのTシャツ着ていたけど??これまでそんなこと聞かれたことないんだけど。ちょっと焦る。

 

思わず『昔香港で一生懸命働いたんです、信じてください』と言ったら周囲の皆に大笑いされた!!因みに『両替した台湾ドルは何に使うの?』とも聞かれたので『魯肉飯が食べたいんです!』と答えておいたが、信じてもらえただろうか?勿論彼女に他意はなく、登録上、一応聞くことになっているらしいが、急に聞かれてもこちらも困るよな。

 

それから夕方まで部屋でお休みした。気が付くと夕日が少しずつ落ちていく。この部屋は夕日がまぶしいのだが、こんなにきれいに空が染められているとは気が付かなかった。今度は建物の無い場所で写真を撮ろう。

 

9月15日(金)
イベントの企画会議に出る

今日は午前10時から18度Cで先日の演習林イベントに関する会議があるというので、特別に入れてもらった。日本時代の演習林の歴史、そしてコーヒーとの関連、実に面白い。台湾でも最近はコーヒーブーム。台湾コーヒー発祥の地は雲林県古坑だとは聞いているがどうなんだろう。台湾でこのようなイベントをする場合、どんな感じで、どんな人が参画して事が進むのかにも興味があった。

 

Iさんの車で画家の黄先生を迎えに行き、18度Cに行く。ここはチョコレート屋さんだが、アイスクリームなどにも人気があり、いつも観光客で賑わっており、10時過ぎでも既に人がいる。まずは近くのオーナーの家へ行く。茆さんは埔里人、日本を含む世界各地でパティシエとしての腕を磨き、2007年に埔里の店をオープンさせた。生チョコやイタリアのジェラート、日本のバームクーヘンなど、美味しいものを台湾に紹介し、人気を博している。茆さんは気さくな感じ、この企画にも埔里の歴史を広めるために興味を持ったようだ。

 

場所を会議室に移したが、まだ人が集まらないので、生チョコを作る工程を何気なく見学する。カカオの歴史など勉強になる。また黄先生がコーヒー大使だと初めて知る!

 

会議には南投県の観光局や議員さんも参加して、本格的に進む気配があったが、まだ纏まりはなく、取り敢えずイベント開催に向けて進める方向で終わった。私は18度Cのチョコとバームクーヘンを頂き、大満足。日本人Sさんの歴史発掘と、埔里の歴史を知りたい、活用したい人々が融合していくのが面白い。日本統治時代の歴史はまだまだ発掘の余地があり、台湾人もそれを知りたがっているのだ。今後の展開が楽しみになって来た。

ある日の埔里日記2017その4(2)大稲埕で

9月8日(金)
大稲埕へ

今日は埔里に戻ることにしていたが、午前中は大稲埕に行ってみることにした。昨日坪林の博物館で見た包種茶を輸出した時の茶箱、そこに『有記』と書かれていたので、何かわかるかもしれないと思い、有記を訪ねたのだ。確か2年程前、Bさんに連れられて一度行ったことがあったので、その記憶を頼りに歩いて見る。

 

茶葉公園という石碑があるのでその場所はすぐに分かった。ただまだ朝の9時過ぎ。店は開いているかと覗いてみると、開いていた。中に入ったが、焙煎が行われている雰囲気はない。前回はここで先代の奥さんが中を案内してくれたのだが、今日はいないだろうな。何気なく聞いてみると、5代目という若旦那が登場した。まだ31歳だそうだ。

 

早々中を見せてもらう。現在は作業をしていないが、この付近では唯一現役の茶工場だ。焙煎も独特の方法で行う。陰火と言って直接火で焙るのではなく、火をいったん消した残りの熱で焙るらしい。非常にまろやかな仕上がりになるという。この店は100年以上前に創業したというが、台湾の技法なのだろうか。実はこの有記は1947年に3代目がバンコックから移ってきたというから驚いた。実際の許可書もその年号になっている。なぜだろうか。日本統治時代も茶工場は大稲埕にあったというから、ここからバンコックにも輸出していたのだろう。

 

5代目に教えてもらった博物館にも行ってみた。新芳春という老舗の茶行だったが、光復後ほどなくして、茶業は辞めてしまったらしい。最近の旧懐ブームでここを博物館にしたという。一部はご先祖様が残した王家の資産の公開であり、茶業の部分はそれほど多くはない。ただ非常に立派なテースティング台が2階に置かれており、目を惹いた。昔は相当勢いのある茶荘だったのだろう。奥には茶工場も併設されており、往時の名残は感じた。

 

実は大稲埕と言えば、買弁として有名な李春生と包種茶の関係を知りたいと思っていたが、その資料はほとんど見当たらない。ここでも書籍を販売しており、李春生関連もあったが、どれも後期の思想物か日本へ旅した時の日記などで、肝心の茶に関する記述が少ないのは解せない。研究者は必ずいるはずだが、どうなんだろうか。取り敢えず日本旅行記を購入して読んでみることにした。

 

そう思っていると自然と足は大稲埕に向かう。入口の写真を撮っただけですぐ細い道に入り、李春生ゆかりの教会を眺める。迪化街など観光地化が進んだ道とは違い、人は殆どいないのがよい。迪化街は昔薬屋や乾物屋が多かったが、今では土産物屋やカフェなどに代わり、あまり面白くない。

 

建成国民中学と書かれた立派な建物を通り過ぎた。ここは今では中学ではなく、博物館か美術館になっているようだ。この付近の学校はやはり皆由緒正しい、立派なところが多い。この付近が往時の台北の中心だったことがよくわかる。トイレを借りようとしたがなかったので急いで宿へ戻る。

 

歩いて宿まで帰り、荷物を引き出し、バスターミナルへ向かう。国光号に乗れば3時間半後にはきちんと埔里についてしまう。台湾の高速道路は本当に車が少なくてよい。鍵を受け取り3か月ぶりに部屋に入る。さすがにまだ9月初旬で温かい。この部屋は西日がきついので暑く感じる。この部屋でクーラーなしで寝てみたが、正直少し寝苦しい。特に夜の一定時間、風が止まるのが分る。

 

9月11日(月)
鉄観音茶を味わう

土日は基本的の外には出ない。特に人が多いのでバスに乗るなどはしない。少し暑いが部屋に籠って原稿などを書いて過ごす。そして月曜日、また動き出す。昼ご飯を食べた後、珍しく魚池の劉さんのところへ向かう。確か会うのは1年半ぶりになる。魚池までバスに乗り、そこまで迎えに来てもらった。

 

茶工場では茶作りが行われていた。そこで魚池出身で現在台北の雑誌社で働く謝さんと会った。彼は趣味で茶を作っており、時々実家に戻っては劉さんの指導を受けているという。劉さんはなかなか怖い先生のようで、一生懸命茶を作り、汗を流していた。因みに彼の勤める会社は最近新しい雑誌を創刊したばかり。この時代に新しい雑誌って、ちょっと興味が沸く。

 

劉さんは紅茶も作っているが、雲南に行ったりして、その収蔵品が増えていた。プーアル茶、白茶、などを買い求め、自ら餅にしている。よいお茶はすぐに売らず保存する。彼の動きを見ていると、この付近の紅茶の将来性が見えてくるようだ。今回は高山鉄観音茶をじっくり味わう。中国安渓が発祥の鉄観音だが、今や見る影もない。台湾の鉄観音は木柵だけではない。最近時々見かけるが意外とうまい。帰りは劉さんの車で埔里まで送ってもらう。

ある日の埔里日記2017その4(1)坪林 包種茶の歴史調査

《ある日の埔里日記2017その4》

今年4回目の台湾行。もうかなり慣れてきたが、3か月ぶりとなると、ちょっと懐かしい気分になる。今回もまた色々な出会いがあり、様々な情報・知識を習得して有意義だった。日常の中で新たなものに出会い、ワクワクできるのはなんとも好ましい。

 

9月6日(水)
泊まる所がない

今回もエバ航空に乗って、桃園空港に行く。エバ航空、今年はじめぐらいまでは、本当に安いチケットが手に入ったのだが、現在は徐々に値上がりしている。台湾人の日本観光が凄い勢いであり、LCCすらだいぶん高くなっているので、当然のことかもしれない。困ったものだ。

 

いつも着く第2ターミナルではなく、LCCが多い第1ターミナルに到着したとアナウンスがある。そんなことは時々起こるらしい。折角先頭の方を歩いてきたのに、電車に乗ることになる。ホームは狭く人でごった返している。天気はいいようだ。第2ターミナルから出て、新設の地下鉄に乗るかとも思ったが、慣れ親しんだバスの方に進んでしまう。これは仕方がないことかもしれない。

 

台北駅前に着く。今晩はお知り合いのHさんが宿を用意してくれるというので、そちらに向かう。ところがそこへ行ってみると、日本人女性が出てきたが『宿泊の話は聞いていない』と言われてしまう。Hさんに連絡してみても繋がらない。その内この宿のオーナーがやって来た。台湾人女性だ。彼女と話すと『今日はバンコックのKさんが泊っている』と言い、その部屋しか今は使っていないのだという。話が全く分からずに困ってしまう。

 

ようやくHさんたちがやってきたが、結局今晩はKさんと同室で寝ることになった。ここは今後宿屋をやる予定だが、今はただの家だと分かって驚いた。Kさんには何とも申し訳ないし、Hさんには正直違和感を覚えた。それでも皆知り合いなので、3人でご飯を食べに行く。それでも今日のことがなぜ起こったのか判然としない。牛肉麺を食べ、マックでコーヒーを飲みながらKさんと近況について話した。

 

宿に戻るとなぜかHさんも一緒にやってきて、ここに泊まるという。オーナーの台湾人女性もいるし、日本人女性も住んでいる中で、強引にリビングのソファーに寝てしまった。私もかなり疲れていたので、ベッドへ潜り込むと全てを忘れて寝込む。何とも不可解な1日だった。

 

9月7日(木)
坪林へ

翌朝は8時前に目覚めて、荷物を預けたまま、すぐに出掛ける。地下鉄で新店まで行き、そこからバスに乗ろうとしたが、何と時間を間違えてしまい、相当に時間が余る。仕方なく、新店駅付近を散策する。すぐ横には川が流れており、きれいな橋も架かっている。散歩する老人などがおり、実にゆったりした空気が流れていた。

 

朝ご飯も食べていなかったので、サンドイッチセットを注文する。50元で、温かいものが食べられるのだから、安いと言える。ようやくバスが来て乗車。しかしよく見るとこのバス、全体の3分の1は優先席になっている。乗っている人も老人が多い。いっそのこと、全席優先席にした方がよいのではないだろうか。因みにバスは高速道路を走るため、立って乗ることは出来ならしい。運賃30元、乗車時間40分。

 

今日坪林に来たのは他でもない。包種茶の歴史調査だった。まずは馴染みの祥泰茶荘を訪ねる。親しくしている長男は、何とチェコに出張中で不在だったが、歴史のことならお父さんだろう、ということで、相手をしてもらった。沢山の資料を見せてもらい、昔話も聞き、何と紙に包まれた73年前の包種茶まで登場し、調査は上々の成果を上げた。お父さんに感謝!

 

この店には引っ切り無しにお客が入ってくる。家族連れは何と横浜から来た華僑だった。元々ここの出身、横浜でレストランをやっているらしい。里帰りのそのおじさんが『台湾へのみやげはこれが一番だ』と言って煎餅をくれた。確かに台湾人には甘いものより煎餅かもしれない。更にお父さんの知り合いが集まってきたので、昼ご飯に混ぜてもらった。全て台湾語で話しているので内容は分からないが、皆懐かしそうだったので遠くから来たのだろう。

 

午後は坪林博物館へ向かう。ここに行けば包種茶の歴史は簡単に分かるだろうと思ったが、そうではなかった。確かに一通りに展示はあったが、核心は分からない。更には包装の特別展もあり、こちらには色々と参考になるものがあったが、もっと資料が欲しいと欲をかき、ちょうど雨が降ってきたので休憩方々、博物館の人に尋ねる。

 

雨が上がったので坪林の図書館へ向かう。この建物、ちょっと古そうでよい。そこに包種茶関連の本があると聞いたのだが、係員に聞くと『誰かが借りて行ってしまったらしい』と言い、見つけることは出来なかった。また近所の茶荘オーナーも紹介され、訪ねてみた。彼は台湾茶の歴史全般を調べているようで、パワーポイントで説明してくれたが、包種茶の詳細な歴史資料を持っているのかは分からなかった。

 

台北に戻り、荷物を引き取って、定宿に向かう。Kさんとはもっと話したかったが、狭い部屋で一緒に寝るのは申し訳ないので、宿を移った。それから歩いて旧知のS氏のオフォスに向かう。すると突然後輩のSさんからメッセージが入った。元々は彼と会うつもりだったのだが、返事がなかったので、S氏を誘ったのだ。

何とこの二人、同業でオフィスも隣同士という偶然。これは一緒に食事をしようと話し、三人で楽しく夕飯を食べた。あまり意図していなかったのだが、こういう結びつきもあるのだな、と気づく。台湾は狭い、そして面白い。

香港つかの間茶旅2017(3)学生時代に戻った気分で

そのままセントラルへ行き、スターフェリーに乗った。まだ夕方で夕日がまぶしい。何だかんだ言っても、一度は必ず乗るのだ。観光客が大半を占める中、わずか10分にも満たない船旅は波に揺られて、心を揺らす。両岸の風景も時々変わっており、香港の現在を映し出す鏡のようで、その変化が楽しい。

 

今晩はフェリー乗り場のすぐ先のホテルで林さんと会うことになっていた。場所は問題なくわかっていると思い込んでいた私だが、ショッピングモールの中に入り込んでしまい、迷子になってしまう。一度迷うとこれは困る。そのホテルの名が表示されたり消えたり。最後は仕方なく人に聞いてみて、一度道へ出ないとホテルに入れないことがようやく分かった。

 

大汗をかいて遅刻した私を林さんは温かく迎えてくれる。今日は初めて奥さんにも会った。3人で立派な和食の店に座る。そして奥さんに好きなものを頼んでもらい、それを食した。いきなり寿司が出てきたり、うどんが出てきたりする。こういう経験は日本人ではできないので、何とも興味深く、そして美味しく頂いた。お酒を飲まないので食事は早くに終わり、別れた。ご馳走様でした。

 

帰りも又スターフェリーに乗る。今夜も夜景がきれいだ。なんとも贅沢な時間を過ごす。初めてこの光景を見たのは今から30年も前のこと。やはり香港にはこんな夜景が似合う。香港は如何に変化してもやはり香港だ、と思うと同時に、目に見えない大きな変革に晒された香港の将来にちょっと思いを馳せる。

 

8月21日(月)
広州へ

翌朝も早めに起きて、宿をチェックアウトして香港大学へ向かう。昨日のリベンジだ。平日の朝8時の地下鉄はさぞや混んでいるだろうと、荷物を宿に預けて、乗り込んだが、思いのほか混んではいなかった。今や香港島は通勤の主流ではないのかもしれない。やはりあっという間に到着する。

 

8時半には図書館に着いたが、ビジターは9時に受付で登録しないと、入ることは出来ないという。この30分はもどかしい。9時になり、登録にも手間取ったが、無事に館内に入り、時間が無いので、最初からデスクに検索相談に行く。丁寧に検索をしてくれたが、やはり資料はそう多くない。それでもいくつか見つけ出し、備え付けのPCでそれを見て、必要部分はコピーした。決済はオクトパスカード。日本の大学だと、こんなに便利だろうか。

 

用事を済ませると、すぐに宿に取って返し、荷物を引き取り、バス停へ。ホンハムへ行くにはトンネルを越えるバスが一番早い。向こう側へ着くと、今度はMTRに乗り換え、待ち合わせ場所の駅へ急ぐ。初めて降りたその駅でKさんが待っていてくれた。彼と会うのは何年ぶりだろうか。

 

駅近くのショッピングモールに入り、レストランを探す。結構人がいるのでビックリ。何とか席を確保して、料理を頼み、話し始める。実は彼とは31年前、上海留学が一緒で、大学も1年後輩という関係。最近彼が実家からその当時の写真を掘り出してきて、FBに上げたのだが、その中の1枚に私も写っていた。和平飯店の前で4人して写っているのだが、後の二人は誰だろう。一人は大学の先輩で、今は某大学の教授だという。ただもう一人の女性に心当たりがなかったのだが、これもFBの力。やはり後輩だと分かる。そんな昔話をするつもりだった。

 

ところが話が『私は今台湾の埔里に拠点がある』というと、彼が食いついてきた。埔里とはどういう意味か、タイのチョンブリのブリ、マレーシアのジョホールバルのバルと同じ意味では?などと畳みかけられ、更にはタイから中国広西、そして沖縄まで話が飛んでいく。彼は香港で言語学を教えており、まさにそんな研究をしているらしい。私はお茶の歴史を勉強しているのだが、よもやこんなところでお互いの学習がクロスするとは信じられない。

 

二人して夢中で話した。料理のことも覚えてはいない。隣のおばさんがやけに大きな声で話しており、煩いと言ってしまうほど、自分たちの話にワクワクしていた。こんな感覚は最近滅多にない。いや、まるで学生時代のノリなのである。お互いいい歳になったが、こんなふうに盛り上がれるとは、興味のある分野があるというのはよいことだと再確認した。

 

あっという間に3時間近くが経過していた。香港のレストランはランチがそのまま下午茶になるので追い出されないので、気が付かなかった。とても名残惜しかったが、Kさんと再会を約して別れた。そしてまたMTRに乗り、国境へ向かう。何十回も通過した羅湖。以前ほどの人の数ではない。国境を越えると、駅に向かい、切符を買う。ここから広州までは僅かな時間だ。急ぐ旅ではないが、早く着きたい!