高知茶旅2020(4)しまんと紅茶、そして鹿児島へ

10月23日(金)四万十川の茶工場へ

翌日はまたいい天気になった。今日は一昨日久しぶりに再会したSさんが車を出してくれ、四万十川上流に向かう。実は今回、ご紹介をもらい、高知紅茶の現在を知るために、四万十紅茶を訪ねようと思ったのだが、そこにはバスも電車も公共交通機関は走っておらず、一度は行くのを諦めていた。そこに突如Sさんを思い出し、連絡したところ快諾を得て、一転して訪問できることとなったのだ。

車は昨日訪ねた道に沿って行く。途中のゴルフ場のところで、茶畑があったのを確認した。だがゴルフ場といえば農薬をふんだんに撒いているはずで、そこに茶畑とはどうなのだろうか。今日はそこから更にかなり遠くまで行く感じとなる。あまり車も走っていない道を約2時間掛けて四万十川を上っていく。

ようやく目的地まで来たが、肝心の建物が見付からない。電話してみると、何と細い道を上ったところに、元々学校だった校舎を活用したオフィスが作られていた。当初はここで働くY夫人の連絡先を紹介してもらい、電話を入れていたが、当日は実際に四万十紅茶を作っているご主人のYさんから説明をしてもらった。この小学校は過疎化で廃校になってしまったが、彼はここの卒業生でもある。

ただYさんが見てきた茶業はずっと緑茶であり、最近になって紅茶を作り始めたとのことで、昔のことは分からないし、森永という名も聞いたことはないとのことだった。それでも小学校の同級生のお父さんが紅茶を作っていたとは聞いたことがあるので、よく調べてみれば、その歴史も分かるかもしれない。四万十川のほとりに建つ茶工場と斜面にある茶畑も見学させてもらった。ここから見る景色は素晴らしい。

昼ごはんにしまんと名物のアユを探しに行く。ちょうどシーズンは終わってしまったようで、道の駅でもひっそりと売られていた。焼き立てなら美味しかったろうが、冷めていて少し残念。ここで定食を食べてかなり満腹だったのに、スイーツまで買い込んで、しまんとほうじ茶と共に頂く。今日は何とも天気が良く、気分は頗る良い。帰り道も香港時代の話などで盛り上がる。Sさんにも茶旅の楽しさが少しは伝わっただろうか。

夕方高知に戻る。出来れば昨日調べてもらっていた平尾喜寿のお墓を探しに行こうかとも思ったが、やはり疲れが出てしまい、お土産を買いに行くに止めた。夕飯も宿の近所の定食屋で済ませる。ここの定食、実にボリュームがあり、小鉢など付いていてお値打ちであった。

10月24日(土)アンパンマンで鹿児島へ

今朝は朝の列車で鹿児島へ向けて出発した。実は佐賀のOさんから、鹿児島の枕崎へ日東紅茶の歴史を探しに行こうとのお誘いがあり、どうしても行きたかった。だが高知から鹿児島へはどうやって行くのが良いかと迷い、検索などしてみた結果、飛行機なら関空か羽田経由になるので無駄が大きく、料金はかかるが、楽なのは電車だと分かった。

午前8時の南風6号岡山行を予約していたのだが、ホームに行って見てびっくりした。何と車両全体にアンパンマンのキャラクターが描かれている、アンパンマン列車だったのだ。そうか、高知はやなせたかしさんの出身地だった。そして今日は土曜日、幼い子供たちとその親が大勢乗り込んできて、さながら幼稚園の遠足のようになってしまった。向こうも『なんでおじさんが一人で乗っているんだよ』と不思議に思っていたかもしれない。

アンパンマン列車はあのテーマソングと共に定刻に出発した。最初はのどかな平地を走っていたが、途中景色の良い渓谷なども走り、気持ちよかった。多くの小さなお友達はこの辺までで降りて行った。本来ならこの辺で降りて一泊したいところだったが、今回は先を急ぐ旅なので仕方がなく、車窓から眺めた。高知から徳島、香川と抜け、列車はいつの間にやら、瀬戸内海を渡っていた。

岡山駅まで2時間半かかった。ここで新幹線に乗り換えだ。20分の間にトイレに行き、駅弁を買い込み、鹿児島中央駅行の新幹線に滑り込む。途中で予約した今日の宿の場所を探してみたが、そこで愕然となる。何と予約日を間違え、1か月先になっているではないか。慌ててキャンセル(無料)して、予約を取り直したら2000円も高くなっていた。これはかなり凹む。これからの旅は老との戦いになる。山陽道から九州に入り、何となく知った地名を眺めている内に寝入ってしまった。気が付けば乗客はほとんどが降りておらず、3時間ちょっとで鹿児島中央駅に到着した。

高知茶旅2020(3)劇的に森永茶工場発見!

それからYさんのご実家に行き、ご両親にもご挨拶した。お母様は持木亨さんの娘で、台湾生まれ、先ほど見た貴重な写真をきちんと保管されていた。しかもコロナ禍でゆっくり話せないからと、わざわざお手紙まで書いてくださっていて恐縮してしまった。短時間の訪問のつもりではあったが、実際にお目に掛かると、色々と思い出で話が出てきて、またまた情報が更新されていき、何とも嬉しい限りだった。

そこから車で30分。佐川町にやってきた。実は半年ほど前、FBでOさんという方が『森永紅茶の最後の提携工場を見付けた』という記事をアップしており、それを知り合いから教えてもらっていた。Yさんも興味津々で車を出してくれたので、小雨の中を見に行ったわけだ。既に住所なども分かっており、簡単に行けると思っていたが、大間違いだった。住所の場所に行っても、ただの山村。周囲を歩き回っても何も発見できない。

ここの紅茶作りを復活させ、商っている明郷園に電話してみるが留守電になっていて繋がらない。仕方なくネットで検索した住所まで行って見るが、そこは一般住宅で、お茶屋さんは見当たらない。ここで完全に途方に暮れた。雨も降り、腹も減る。私はここで一旦諦めようとYさんに提案してみたが、彼は諦めなかった。

取り敢えず佐川町の観光協会へ行くという。佐川町は司牡丹など酒で有名。土佐漆喰の美しい酒蔵がいまでも多く建ち並んでいた。その中にあった観光協会の建物に入り、何気なく周囲を見ていると、何とそこに紅茶が売られているではないか。思わずそこにいた人に『この紅茶を作っている人と連絡を取りたい』とお願いすると、快く引き受けて電話をしてくれ、その古い茶工場に案内してもよい、という返事をもらってくれた。私としてはこれは奇跡の遭遇だと思ったが、きっとお爺さんが孫のYさんに見せたくて引っ張ったに違いない。

そこから車で15分ほど行った小学校で待ち合わせた。訳も分からずに来てくれたSさんには感謝しかない。そしてYさんが持木亨さんの孫だと説明すると、『えー、資料しか見たことがない名前だが、その子孫が来るとは』とSさんの方が、そのご縁に大そう驚いていた。そこから山道をどんどん入っていく。これは普通ではとても行けないような場所だ。当初の考えの甘さを痛感する。

そしてかなり立派な石垣のある庄屋さんのような家が見えた。その先についに茶工場が見えてきた。こんな山奥だったのか。建屋に紅茶の文字が見える。私も感動したが、Yさんはしばしボー然とそれを眺め、それから写真を撮り始めた。既に50年以上が経過し、残念ながら老朽化が激しく、中に入ることはできなかった。その周囲にはわずかに茶畑が残っており、元気な茶葉が工場の前に見られた。Sさんが『あれがはつもみじです』という。私にとっては初めて行く品種だったが、60年前は多く植えられたものだという。

小雨の中で長い時間工場をただただ眺めていた。最後は名残惜しいが促されて、その場を立ち去った。Sさんが『紅茶を飲んでいって』と言って、作業場に連れて行ってくれた。今日は雨だったから、たまたまパッキング作業をしていて時間が取れたという。雨が幸いすることもあるんだ。これもやはりお引き合わせなのだろう。

そしてSさん製作のはつもみじとべにふうきのブレンド紅茶を頂いた。何とその紅茶がエンゼルマークの付いた森永カップに入れられていて、これまた大いに感激した。このカップは半年前Oさんと一緒に工場に入った際、見付かったものだという。元々この紅茶は茶葉を手摘みして丁寧に作られていて美味しいのだが、この森永カップで飲めば味もまた格別だ。更には森永紅茶の名が入った袋まで保存されており、本当にさっきの茶工場が森永関連だと認識できた。

Sさんとお別れして、また先ほどの観光協会に戻る。勿論ご紹介のお礼のためだが、お茶を買うのも忘れていたのだ。この紅茶、通販でも買えるらしいが、ここまで来たら、ここで買わないと。帰りの車で急に腹が減る。昼ご飯を食べていなかったことに気が付き、コンビニでサンドイッチを買って食べた。ああ、まさに茶旅。今回のご縁はすごかった。

その後再度Yさんの勤務先に立ち寄り、他の先生にもご挨拶して、また少し資料を拝見し、車で宿まで送ってもらった。今回はYさんなくしては茶工場にも行けなかったし、雨の中、車を出して頂き、感謝の言葉もない。感慨に耽りながら部屋で休息していると、また急に腹が減ったので、近くのラーメン屋に飛び込んだ。しかしそこは何となべ焼きラーメンと書かれており、鍋にラーメンが入っていた。それとご飯を合わせて食べるらしい。ただ中国語で、ご飯をラーメンに入れるな、とも書かれている、何とも不思議なところだった。

高知茶旅2020(2)板垣退助から高知の紅茶へ

川の方へ出たので、板垣退助の屋敷跡などへ足を延ばしてみる。これも自転車のお陰で、行動範囲はグーンと広がる。今屋敷はなく、記念碑だけが建っている。そのまま川沿いを走っていくと、『板垣退助帰朝記念碑』などもある。これは1886年に板垣がヨーロッパ視察から帰国した際の記念に作られたものらしい。確かこの洋行の前に岐阜で襲われ、あの名台詞を吐いた?そしてこの洋行が自由民権運動の転機だったとどこかで読んだ記憶がある。土佐も実に様々な人材を輩出している。それにしても天気が良くて気持ちが良い。StayHomeだけでは、体に良くないとつくづく感じる。

街中に戻り、はりまや橋を過ぎる。その小川に沿って走ると、すぐに立志社の石碑に出くわす。立志社は1874年、板垣らによって作られた自由民権運動の中心的政治団体。ここで多くの若者が自由と人権のために立ち上がった。更に行くと、高野寺という寺の前に板垣退助生誕の地の碑がある。良くも悪くも高知は板垣退助が多い。

それから後藤象二郎生誕の地や武市瑞山殉節の地などを巡る。更に高知城の入り口付近を歩き、板垣退助像を見付ける。だがそれよりも、ひっそりと木の陰に隠れていた野村茂久馬という像が気に掛かる。全く知らない名前だが、吉田茂が文字を書いている。一体誰だろうか。

一まわりまわって疲れたので、案内所に自転車を返した。すると例の係員の女性が『平尾さんのお墓の場所も大体分かりました。ただ山の中で分かり難いです』と言って、ネットからコピーした資料を渡され、もう完全に脱帽だった。平尾喜寿については、『どんな字を書きますか』と全く知らない様子であったものが、『高知県出身者を知らないのは恥だ』といった案内所魂?に火を点けてしまったようで、自由民権運動記念館にも問い合わせてくれ、色々と説明してくれた。コロナで人が少なく、若干時間に余裕があったのかもしれないが、ここまでやってくれる案内所は初めてで、称賛に値する。

ようやく宿にチェックインして休む。何しろ運動不足に慣れない自転車を漕いだのだから、疲労は相当なものだった。前回来た時は無かった新しい宿で居心地は悪くない。それでも夕方また出掛けた。何と20年ぶりに知り合いのSさんと会うためだった。Sさんとは香港の時に一緒の時期に駐在員をしていた知り合い、その後も2-3度は会っていたが、21世紀に入って会うのは初めてだろう。

指定されたホテルのロビーで再会したSさん。貫禄は付いていたがすぐに分かった。長年勤めた会社を辞め、転職して高知に来たのだという。Sさんに伴われて、高知の美味しい魚介類を堪能し、すっかりご馳走になってしまった。何と二人ともお酒を飲まないので、ひたすら魚や貝を焼き、口に入れた。

昔の仲間の話題などもたくさん出てきて、楽しいひと時を過ごしたが、話の中で驚いたのは、さっき見た野村茂久馬が『土佐の交通王』と呼ばれた地元の名士で、何とSさんは彼が創業した会社で働いていたことだった。岩崎弥太郎は世界に飛び出したが、野村は高知のことだけを考えて、高知のために尽くした人だという。

10月22日(木)奇跡的に残っていた茶工場を発見

翌日起きると外は雨だった。昨日の晴天が嘘のようだ。今日はついに持木壮造の子孫の方に会うことになっていた。既にFBでは1年以上交流を続けてきたYさん。わざわざ雨の中、ホテルまで車で迎えに来てくれた。何とも申し訳ない。そして取り敢えず彼の勤める地元大学の研究室へ向かう。そこでYさんのお母様から預かったという貴重な写真などを見せて頂いた。中にはこんなものが残っていたのかと驚くような写真もあり、目の前がくらくらした。

Yさんの曽祖父、持木壮造さんは台湾中部の魚池でアッサム種紅茶を最初に作り始めた日本人の一人として、これまで調べてきたのだが、持木家については今日で一気に様々なことが氷解した。実際に魚池で茶作りの陣頭指揮を執ったのは壮造さんの長男で、Yさんのおじいさんに当たる持木亨さんだった。Yさん自身もその昔台湾に行き、先祖の偉業(921地震で倒壊する前の持木茶工場)を写真に収めている。

Yさんは台湾との繋がりを大切に思い、自らの学生にも高知と台湾の歴史を伝えたいと考えていた。そして今回、戦前は台湾で紅茶を作っていたおじいさんが戦後の引き揚げで最終的になぜ高知に来たのか、その理由に触れて驚いてしまっていた。何と森永紅茶はここ高知でも作られており、その指揮を執ったのはおじいさんだったという歴史があったのだ。

更に付け加えるならば、日本の国産紅茶発祥の地は、明治初期の高知(多田元吉によるインド風紅茶の製造)だったともいえるので、その辺を地元でもう少し認識してもらえたら、なぜ戦後高知で森永が紅茶を作ったのかが分かるだろう。

高知茶旅2020(1)観光案内所の熱心な案内に導かれて

《高知茶旅2020》  2020年10月21日-24日

台湾紅茶の歴史を調べ始めてから4年が経とうとしていた。最初は簡単に考えて、日本統治時代の南投県魚池付近の紅茶の歴史を当たっていたのだが、そのうちここで最初に紅茶を作った日本人は誰だったのかに興味が湧き、持木壮造という名前に行き当たった。更にはその持木農場で作られた茶葉を森永が買い取り、森永紅茶を作っていたとなると俄然前のめりになっていった。

今回はその森永紅茶が高知県で作られていた戦後の歴史を追い、また持木家の子孫も高知にいることが分かり、そのご縁で高知を訪ねることになったのだが、結果としてはかなり劇的な展開もあり、いくつもの発見もあり、やはり茶旅は止められないとの思いを強めた。

10月21日(水)高知ゆかりの人々を訪ねて

羽田から朝の飛行機に乗り、午前9時過ぎには高知空港に着いた。空港バスで30分行けば高知駅だ。駅前には相変わらず、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の像が並んで建っているが、その駅寄りに前回は立ち寄らなかった大きな観光案内所があった。午前中に到着したので、まだホテルに行くのも早いと思い、当日の行動プランを立てるために地図をもらおうとふらりと入り、情報収集を始めた。

この観光案内所、実に機能的かつ情熱的な対応でびっくりした。高知県が如何に観光業に力を入れているかが、十分に伝わる内容だった。今回は高知出身の二人の人物について知りたいと思っていた。一人は『竹内綱』。そう聞いても知る人は少ないかもしれないが、あの敗戦後に総理大臣を務めた吉田茂の実父である。先日大磯で吉田茂邸を見学した時、竹内の額が掛かっていて興味を持ったのだ。

『竹内綱にゆかりのある場所を訪ねたい』と聞いてみると、担当してくれた女性職員は『高知市内にはないですね』と言いながら、即座に『宿毛歴史館』に電話を入れて、確認を取ってくれた。宿毛は高知市内から特急で2時間かかる場所だが、竹内の生まれ故郷だから何か分かるかもしれないとの配慮であり、『宿毛はいいところですよ、是非一度行って見てください』とのご紹介でもあった。

もう一人は高知の初代茶業組合長で、板垣退助らと共に自由民権運動にも関わった『平尾喜寿』という人物。こちらについても尋ねてみたが、さすがに『どんな字を書きますか』と全く知らない様子であった。だがあとで色々と教えてくれたのでこれまたびっくりとなる。

竜馬パスポートも紹介された。これを持っていると観光地などで色々と特典があるようだが、ホテル代の支払いでもこのパスポートがゲットできるというので、予約した近くのホテルへ行き、チェックイン前にもかかわらず、スタンプを貰い、荷物を置いて案内所へ戻り、パスポートを申請した。

『オーテピア』にも電話してくれた。ここは県立図書館で、『3階に高知茶の歴史関連の資料があると言っていますから行ってみて』と言われ、1日無料貸出自転車の鍵を渡してくれた。これで楽々図書館へ行けた。自転車、天気が良ければ実に快適な乗り物だということを発見して嬉しくなる。

だが、最初に辿り着いたのは高知城の脇の公文書館で誰もいなかった。すぐ横の山内一豊像の写真を撮り、オーテピアを再び探す。やはり立派な図書館で、担当者も実に親切。キーワードを告げるといくつもの関連ありそうな資料を探し出してくれ、思い掛けない資料を目にして、沢山コピーを取り、大いに役立った。平尾喜寿もここではすぐに通じた。

腹が減ったので、オーテピアの横にあったひろめ市場を訪ねる。ここは3年前、ちょうどクルーズ船が到着して3000人の中国人観光客で街が占拠され、この市場もカツオのたたきを目掛けた全てが中国人観光客だったのを目のあたりにして驚いた記憶がある。だが現在のコロナ禍、外国人の姿はどこにもなく、日本人観光客も数えるほどで、閉まっている店もあり、何とも寂しい。ウツボのから揚げと鯨かつを注文して美味しく頂く。

お礼を言いに案内所へ戻ると、『竹内綱の像が市内にありました』と言ってコピーした地図をくれた。何とも有難く、自転車で自由民権通りまで走っていく。竹内綱と長男の明太郎(吉田茂の兄)の像が並んでおり、無事に記念撮影することもできた。午前中に尋ねたことを午後になっても調べてくれているとは喜ばしいというより、むしろ申し訳ない気持ちになってしまった。自由民権記念館にも寄ろうと思ったが、なぜか違う方にペダルを漕いでしまった。

奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(7)堺 河口慧海と与謝野晶子

10月16日(金)堺を歩く2

翌朝はすっきりと目覚め、朝食を取り、宿を出た。夕方関空から東京へ戻るまでまだだいぶ時間があるので、引き続き堺を歩いてみることにした。先ずは昨日訪ねた利休屋敷跡の横にあった、さかい利晶の杜へ。昨日は通り過ぎてしまったが、利休と与謝野晶子関連を同時に見られるというので、行って見ることにした。ここには利休の茶室が再現されなどしていたものの、興味をそそる展示物は多くはなかった。そして資料館はコロナで閉鎖されていた。

そこから開口神社へ行く。ここに与謝野晶子の歌碑があった。近く歩くと大通り沿いに与謝野晶子生家跡の看板もあった。晶子も堺の生まれで、菓子屋の娘だったという。あの情熱的な歌はここから生まれたのだろうか。そのまま歩くとザビエル公園もある。1550年来日していたザビエルは京に上るため、堺にやってきた。この地は彼を手厚くもてなしたと言われる日比屋了慶の屋敷跡だという。キリシタンと堺、これはとても大きなテーマなので、時間ができた時、もう少し眺めてみたい。

その後、寺が集まる地区を散策し、それから商人の町の跡も歩いてみた。堺らしく鉄砲鍛冶屋敷跡などもある。やはり堺に莫大な富をもたらしたのは鉄砲であったのは間違いがない。古めかしい建物を通り抜けていると、清学院という建物に紛れ込む。ここは江戸後期から明治初期、寺子屋が営まれていたところで、画期的な男女共学だったという。そしてここで学んだ中に、あの河口慧海がいた。

慧海は100年以上前にチベットに単独潜入して仏教を学んだ僧侶で、大冒険家。私も『チベット旅行記』は何度か読んでおり、今も家に本がある。係りの人にその話をすると、いろいろと慧海について説明してくれた。その中に『慧海は東京で亡くなったが、最後は姪の恵美さんが世話をしていた。彼女の旦那はあの宮田輝だよ』という言葉が引っ掛かった。後日青山墓地にその墓を訪ねると、宮田輝の横に慧海が眠っていた。彼が堺出身だと初めて知った。

近所に慧海生誕の地があるというので訪ねてみたが、何と住宅街の家と家の隙間に記念碑が埋め込まれるようにあった。これでは通りすがりの人は全く気が付かないだろう。きっと複雑な事情はあるのだろうが、現在の堺での慧海の位置が分かるような気がして少し寂しくなる。それでも近くにある七道駅の前には、慧海の像が建っている。写真を撮っていると、客待ちのタクシー運転手が『何を撮っているんだ』という顔でこちらを見ていた。

ここから堺の昔の掘割をなぞった小川の横を歩いて宿に帰る。堺駅まで来ると与謝野晶子像が建っており、そこから堺の港の方へも行って見る。意外と小さな港に小舟が停まっている。ルソン助左衛門の像を発見してテンションが上がる。この像は1978年の大河ドラマ『黄金の日々』の放映を記念して作られたという。若き日の市川染五郎(松たか子のパパ)が主演して、昨日見てきた千利休、今井宗久などが出てくる大河。よく覚えている。私の堺のイメージもそこから来ているのかもしれない(2021年4月よりNHKBSで再放送始まる)。

港の周囲を歩いてみた。海に近づくあたりに可愛らしい灯台が見えた。1877年に作られた旧堺灯台。現存する灯台の中でもかなり古い物らしいが、既に50年前にその役目を終え、今は保存建築物として残っている。堺の繁栄は、やはり戦国時代が中心であり、その後は大阪などの陰に隠れてしまっていた。

時間が来たので、関空に向かう。コロナ禍で貯めていたマイレージを使う機会もなかったので、今回はそれで東京行きのフライトを予約してみた。国内線は必要マイレージ数も少なく、また燃油サーチャージも徴収されないので、使い勝手は良い。そして予約も簡単に取れてしまった。

堺駅から30分ちょっと乗れば関空に着いてしまうのだから、今後も堺に寄る機会もあるだろう。そもそも電車に乗客があまりおらず、関空に到着すると、空港内は更に人が見られない。国際線はほぼ止まっているのだろうが、ボードを見ると、国内線もキャンセルの表示が多く、あの忙しかった空港の面影は全くない。空港内のお店も閉まっているところが多く、豚まんを買うこともできなかった。まるでゴーストタウンのようだった。

仕方なく早めに荷物検査を通ったが、本当に人気がなく、怖くなってしまった。ポケットにGoToクーポンが1枚入っているのを思い出したが、使える店はあるのかと思ってしまうほどだ。開いているショップを何とか見つけ、土産を買いながら店員に聞いてみると『ここのところずっとこの調子なんですよ』と諦めたような力ない答え。機内に入っても乗客は少なく、安全ではあるが、とても寂しいフライトとなってしまった。

奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(6)堺 謎の南宗寺から仁徳天皇陵へ

南宗寺の門を潜って入っていくと、三好長慶の像があった。この寺は長慶が、1557年父の菩提を弔うために建立した。昔の堺の町割りでいえば、一番端に南宗寺はあったらしいが、大坂夏の陣で焼けてしまい、あの沢庵和尚が再建、現在のかなり広い敷地に移ったという。三好長慶についても、これまであまり注目されてこなかったが、畿内を、そして幕府を支配した信長の前の天下人との呼び方もあるようなので、調べてみたい人物だ。

その敷地内をずっと歩いて行くと、天慶院があった。その門の前には山上宗二供養塔という文字が見えた。山上は利休の高弟で、秀吉により殺された点も利休と共通点がある。この寺は利休との関係が深く、宗二の供養塔は最近建てられたとある。もし戦国末期の茶の湯を知る必要があれば、山上宗二も重要人物ということになる。

その奥に南宗寺があり、拝観料を払うとボランティアガイドに案内される。堺は主要な観光地にガイドが配置されており、何も言わなくても無料で案内してもらえるのがすごい。境内は撮影禁止なので、ただただ集中して話を聞きながら歩く。ここには千家供養塔が並んでいる。利休だけではなく、表、裏、武者小路の三千家がずらっと並ぶのはすごい。しかしなぜここにあるのだろう。因みに利休の墓は京都大徳寺に三好長慶と並んで建てられているという。

津田宗及の墓がある。ガイドは『彼はキリシタンでしたが、死ぬまで言いませんでした。ただ墓には十字架が、灯篭にはマリアが彫られています』というのは印象的だった。利休や宗久はキリシタンを疑われながらも、恐らくは違うだろうと言われているが、宗及だけは本物だったわけだ。古田織部作と伝わる枯山水庭園や利休ゆかりの茶室、実相庵などを茶関係として興味深く拝見する。

何と歩いて行くと、徳川家康の首塚や墓にも出会ってしまう。言い伝えでは夏の陣で真田勢に追われた家康は、後藤又兵衛の槍で刺され、ここまで落ち延びて絶命し、その後の家康は影武者だったというものだ。江戸時代は歴代堺奉行が赴任後先ずここを参拝したとの話などが信ぴょう性を高めているが、どうだろうか。唐門は旧東照宮の門だった。

そこで一旦宿へ帰ろうかと考えたが、地図をちらっと見て驚いた。何とこの南宗寺から僅か1㎞ちょっとの場所に、あの仁徳天皇陵があると書かれているではないか。私は小学生の時から歴史好きだが、一度は仁徳天皇陵を見てみたいと思って50年になる。これは行かねばなるまいと歩きだす。江戸初期から古代へのタイムスリップはすごい。

だが仁徳天皇陵、という行先表示は見付けることができなかった。方向は間違っていないのでそのまま行くと、堺市の図書館があり、先ずはここで資料を漁る。キリシタン関連の本など興味深いものが多くあったが、とても読み切れないので出てきた。そしてその横には堺市博物館があり、更に歴史見識を高める。ここの古墳群が世界遺産に登録されて、注目が集まっているようだ。外には利休だけでなく、紹鴎の像などもある。

そしてついに博物館の向かいに見える古墳に向かった。ここがいわゆる仁徳天皇陵であったが、その参拝所に行って見ても、あの教科書に載っている写真のような古墳は全く見えない。大き過ぎるのだ。向こうに渡ることもできない。だから博物館で「仁徳天皇陵古墳VRツアー」が行われていたのだが、何とか実物は見られないのか。前には堀があり、その向こうにはこんもりした林が見えるだけだった。ここにもガイドがいたので聞いてみると、『一応お勧めは三か所』と言われたので、そこへ行って見ることにした。もう何となく意地でやっている感がある。

最初に訪ねたのは、JR百舌鳥駅南側の陸橋の上だったが、ここではほぼ何も見えなかった。そこから古墳の端を歩いて1つ向こうの駅へ行く。みくにん広場というショッピングモールの上から見ると確かに古墳の一部は見えるが、木々に深く覆われて全貌を見るまでには至らない。そして最後に堺市役所高層館21階展望ロビーにも上ってみた。ここなら高いところなのでよく見えるだろうと思って勇んで行って見たが、遠すぎて僅かしか見えなかった。結局ヘリコプターに乗って上から見ない限り、あの風景には出会えないことを結論付けて終わった。何とも寂しい。

一体どれだけ歩いたのだろうか。相当疲れた上に、昼ご飯すら食べていないという現実に直面した。だが時刻は午後3時を過ぎたばかり。こんな時間に食事ができるところとなると、チェーン店しかなく、牛丼屋で牛鍋を食べて何とか落ち着く。そして30分ほど歩いて宿に辿り着き、チェックインすると、もう外に出る気力は全くなく、その日は部屋で寝込んでしまった。ここ数日はずっと人と一緒に行動したので、一人で好き寝られる喜びもあったかもしれない。

奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(5)吉野からなぜか堺へ

2時間があっと今に過ぎてしまい、名残惜しかったがお暇した。先ずはご飯を食べようと、道路沿いを走り、みるりいな、というおしゃれなお店に入る。店の名前は二人の娘さんの名前だそうで、店内も如何にも子供が喜びそうな作りになっていて、遊び場まである。ここで熊野牛のランチを頂くべきところ、なぜか唐揚げを食する。十分満足なボリュームで満足。

午後は熊野本宮を参拝する。一度は熊野古道を歩いてみたいと思いながら、全く果たせていなかったので、1つでも行けたことはうれしい。さすがに古びた落ち着きのある神社だと思うが、何しろ階段が多くて非常にきつい。八咫烏があちこちにデザインされているのはやはり熊野だ。脇道を歩いて降りると、如何にも古道という雰囲気が漂い心地よい。

その後また十津川温泉に戻り、朝Uさんが情報収集した店を訪ねた。そこは村のコミュニティスペースのようで、地元の人が食べるパンなども売られ、外には足湯ができるスペースもある。お店の運営も村民が交代でおこなっているらしく、そこで飲み物を頂き、おやつを食べる。自家製?釜炒り茶も販売されているが、近年お茶を作る人も減ってきているようだ。

奈良に戻る途中、玉置神社に寄る。ここは山の上にあり、周囲がよく見えた。参拝客はほぼいないので、表示を頼りに行くが、意外と奥が深く、自然林に囲まれた山道をかなり歩く。ようやく神社を参拝したが、近くには夫婦杉という大木があるなど、さすが吉野、という山奥さがとても神秘的だった。神社というのはすぐ目の前に現れるものではないと実感する。帰りは夕日を浴びてまぶしい。

そこからYさんの家の方に戻るには相当の時間がかかった。夜もかなり遅くなったので、最寄り駅付近の中華レストランで夕飯を食べることになった。何だか中華盛り合わせのような定食、奈良では定番のチェーン店なのだというが、如何にも日本の中華という感じで、これはこれで美味しい。夜はまたYさんの家に泊めて頂き、既に慣れた寝床で、ゆっくりと寝る。

10月15日(木)堺へ

今回の茶旅はここまで。そして今朝は帰路に就くUさんの車に乗せてもらい、Yさん宅を離れ、堺へ向かった。先日水を汲みに行った井戸のあたりから大阪がよく見えたので、堺も近いと思ったのだが、ここには高速道路もなく、また電車路線も全てが大阪方面に向いているため、どこかの駅から電車に乗っても、必ず一度大阪方面へ出なければならないと知る。

1時間以上下道を走って、何とか天下茶屋という駅に着き、ここでUさんとお別れした。今回もUさんには大変お世話になったが、この車の中で、これまでちょっと疑問に思っていた方について、詳細が聞けたのは大きかった。既に亡くなってしまった方でも、やはりお茶のご縁というのは、どこにでも続いているようだ。

天下茶屋から堺までは関空行きに乗ればわずか6分で着いてしまった。堺は歴史上非常に重要な場所であるとは認識していたが、今まで一度も来たことがなかった。今回は関空から東京へ戻るので、ちょっと寄り道気分で降りてみた。宿も駅のすぐ横にあるチェーンホテルにしたので、荷物を預けて出掛ける。

さっきまで車に揺られることが多く、自分の足で都会を歩いてみると、日差しが強く感じられた。さて、どこへ行こうか。宿で堺の地図を貰い、何となく歩き出す。先ずは利休の足跡かと、利休屋敷跡を目指す。途中龍神橋町などという地名に遭遇すると、何とも言えずテンションが上がる。

利休屋敷跡に到着すると、そこは新しく定められた場所のように古さが感じられない。ガイドさんに呼び止められ、中を見学するが小さな庭と記念碑、そして井戸があるだけだった。堺の街というのは江戸初期の大坂の陣でほぼ焼け落ちてしまい、今に残る建物は殆どないのだとここで知る。ガイドさんに『ほかに利休に関する場所は?』と尋ねると、南宗寺に行くようにと言われる。

この界隈には戦国時代に堺の町衆として権勢を誇った大商人たちの屋敷が連なっていたに違いない。今井屋敷跡の看板が目に入る。今井宗久は織田信長との関係を深めて富を築いた商人であり、また茶人としても名が知られていた。その息子宗薫も秀吉、家康に仕えたが、後に内通の罪で家を没収されてしまったという。

武野紹鴎屋敷跡はもっと目立たない。だが彼こそは、今井宗久、津田宗及、千利休、三茶人の師匠に当たり、村田珠光の茶の湯を伝えた。今井宗久はその娘婿として茶道具などを譲り受けたともいう。このあたりの堺の人間関係なども含め、もう少しきちんと勉強してみる必要性を感じる。

奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(4)熊野の釜炒り茶

お昼時になったので、近所の食堂の場所を聞き、そこへ向かった。田舎では平日開いている食堂は少ないのだという。少し行くと、なんだかとても立派な蕎麦屋さんがあったので驚いた。意外なほどお客さんがいて、車の停車にも困るほどだった。中に入ると、大きなお座敷や縁側もある。蕎麦などを注文したのだが『ゆっくりお待ちくださいね』と言われ、外のいい景色を眺めたり、部屋の飾りや庭を見たり、話をしたりして過ごす。

何と注文した物が出てきたのは1時間半後だったので、さすがに驚いた。事情を聞いてみるとご主人が一人でやっており、いつも平日はお客さんも少ないのだが、今日だけなぜか突然客が来てしまい、全く手が回らない状態だったという。お客の方も、他に食べられるところがないので、皆がここに集まり、帰る人もいなかったらしい。確かに商売というものは予測不能で難しいが、ちょっともったいない気もした。

店で出ると既に午後3時になっていた。30分ぐらい走って、お寺に着いた。ここは南朝後醍醐天皇ゆかりの金峯山寺だという。ここ吉野は後醍醐天皇や大塔宮が足利尊氏らと争う際の南朝方の拠点であり、その歴史的な物は沢山あるのだろう。この寺だけでも、色々と説明書きがある。だが何といっても本堂の古びた太い柱に非常な迫力が感じられる。中に入ると研究者のグループが何か調べており、その横をすり抜けて見学する。

本当は吉野の歴史、ものすごく興味があるのだが、もしそれを巡ろうと思えば、自分で車を運転して、かなりの時間を掛けなければならず、それは今の私には無理なのだと現地に来てよくわかる。メインはお茶なのだが、歴史に絞った旅をしたい、という気持ちはこういう場所へ来ると高まるが、如何ともし難い。

ここで大阪へ帰るMさんと別れ、我々3人はYさん運転の車で、本日の宿泊地を目指すことになる。途中恐ろしげなつり橋が見える。私は高所恐怖症で何よりつり橋が苦手だ。十津川村谷瀬の吊り橋、と書かれている。長さ300m、高さは54mもある。二人は写真を撮るため、スタスタと橋を渡っていくが、私は最初の2歩でギブアップし、不格好な写真を撮られる。

午後6時半、十津川温泉に着いた。旅館に宿泊するのは久しぶりだ。GoToトラベルで賑わっているかと思っていたが、今晩この宿に泊まっていたのは、我々以外に一人だけだった。『GoToは大手旅行社を救済するためのもので、小規模の宿には恩恵はあまりない』とご主人はいう。我々は確かにかなりの割引を受けて泊まり、美味しいご飯を頂くことができたのだが、これはどういうことだろう。

先ずはゆっくりと温泉に浸かり、疲れを癒す。それから地元で採れた山菜などをふんだんに使ったキノコ鍋、漬物などを堪能した。最近はなかった贅沢を感じる。こちらの若いご主人が山で採ってきたものも多いという。山の幸、ありがたい。だがこういう宿に継続性があるのかどうか、ちょっと心配になってしまう。

10月14日(水)熊野で

朝からお風呂に入り、出てくると朝ご飯。なんともいいね。しかもこの宿が選ばれた理由が『茶粥』が食べられることだった。昔はどこでも食べていたというが、忙しい現代人の生活から茶粥はどんどん遠いものとなり、今ではごく一部のお年寄りが食べているだけだという。川魚やウマい漬物と一緒に食べると実に美味しい。満足な朝のひと時。

出発時間になっても二人はどこかへ行ってしまい、待たされる。私もちょっと散歩してみたが、温泉宿が数軒あり、その向こうに川が流れていた。二人は朝からこの辺の情報収集に余念がなく、その中には茶に関する物もあり、午後ここに戻ることにして、先ずは熊野へ向かう。

30分ぐらいで熊野本宮大社付近に着いた。今日お訪ねするUさんの住所を訪ねてみたが、残念ながら不在だった。電話してみると、茶畑にいるというので、川沿いで待ち合わせて、迎えに来てもらう。Uさんの車に乗せてもらうと、狭い橋も坂道もスイスイ進むからすごい。

Uさんは今年88歳というが何ともお元気だ。ご夫妻はもう50年以上、ここで釜炒り茶を作り続けている。昔は蒸しの緑茶も作っていたが、今は天日干し釜炒り茶の需要があり、多く作っているのだとか。以前は生活していたという家(今は作業場)があり、その横には温室のような建物がある。そこで茶葉を干しているのだろう。その横には随所に自ら手を入れたという揉捻機や釜もある。

少し上にある茶畑にも案内してもらった。Uさんは杖をついてはいたが、歩くスピードは私より速い。熊野の山がよく見える、元気な茶畑を目にして喜んでいるのはYさんとUさん。二人ともお茶作りを実際にしている人なので、話も具体的になり、皆が生き生きと話している。こういう交流は予想外だが楽しい。この二人、来年はここに手伝いに来るかという勢いだ。

奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(3)吉野 天日干し番茶の里へ

お店は不定期開店のようだったが、事前に連絡していたので、快く迎え入れられた。泊めてもらっているN夫妻も誘っていたが、『営業中』に表示がなかったので、中に入って来られなかったようで申し訳ない。このN夫妻もこちらには初めてきたようだが、この業界の人間であり、お互いのことは既に知っており、紹介する必要もなかった。

それからとても心地よい店内で、何種類ものお茶を出して頂き、中国の茶旅など、取り留めなく話し続けた。Y夫妻も中国留学組であり、中国関係の話、そして中国茶のディープな話に際限はなかった。話はポンポン飛んでいき、N夫妻は目を白黒させていたに違いない。今度夫妻でゆっくりお店を再訪して、陶芸の話などをしてもらいたい。

コロナでイベントなども出来ず、お客さんの往来も少ないというが、既に確固たる地盤を築き、良質の茶を提供しているので、被害は少ないかもしれない。私もこの春、心樹庵セレクトのお茶を初めて注文し、配布を受けた。その多彩な、個性的な茶を一体どのようにして探してくるのか興味があり、今日具体的な話を聞いてみた。その一端を理解したが、その努力は他人にはとても難しい領域だと言わざるを得ない。まさにオンリーワン。

あっという間に3時間ほどが過ぎ、話し足りないと思いながらお別れした。Nさんの車でおうちに帰り、今日も泊めて頂いた。夜は京都から戻ったUさんも合流し、近所の温泉でゆっくりお湯に浸かった。そしてそこの夕飯、名物海鮮丼を食べた。奈良の山の中で美味しい海鮮丼、素晴らしい。

一度家に帰ったが今日はまだ終わらない。水を汲みに行くというので、また車で出掛けた。やはりお茶にはよい水が必要。近所の山中に『弘法の霊水』と書かれた水汲み場があった。そこはまた大阪の夜景が見えるスポットにもなっており、思いの外車が停まっていて驚いた。デートスポットらしい。家へ戻ると昨晩の反省を踏まえて早めに就寝する。

10月13日(火)吉野の天日干し番茶へ

朝、Uさんが京都で買ってきてくれたお団子を食べた。デザートはメロン。朝から満腹で出発する。いよいよ今日は吉野に向かう。奈良には何度か来たと言っても、吉野に行くのは初めてで、歴史好きにはちょっとワクワクする。先ずは近くの駅でMさんと待ち合わせ。Mさんとは大阪セミナーのお知り合いでお誘いしたのだが、Yさん、Uさん共にお茶イベントで既に顔見知りとか。やはりこの世界はかなり狭い。

私はMさんの車に乗せてもらい、吉野へ向かった。途中の話題は昨年来の客家についてとなる。昨年12月Mさんの導きで客家専門家に会うことができ、特に台湾客家への関心は高まっていた。またMさんの今後の事業計画、コロナ禍の対応などを聞いていると、とても面白い。初めは高速道路のようなところをスピーディに進み、そこから山道に入っていく。1時間ちょっとで目的地付近に到着した。

吉野郡大淀町、そこは山間の村で、何軒かの家が見えた。Mさんは急な狭い坂を難なく上り、皆に驚かれる。彼は昔配送ドライバーをしており、このような状況には慣れているというのだが、実に器用な人だ。登りきると目の前にかなり立派な家があった。今日は嘉兵衛本舗というお店を訪ねることになっていたが、お店というよりご自宅に行ってしまった。最近建て替えたとのことで、とても豪華な家で天日干し番茶を頂く。

こちらはお父さんと三姉妹が運営しているとのことで、今回ご連絡を取った広報担当の次女の方が丁寧に対応してくれた。天日干し番茶、今では作られることも少ない伝統的なお茶に惹かれてここまで来た。約170年前、森本嘉兵衛という人が作り始めて6代が経っているという。最盛期は300軒あった茶農家も現在は5軒が残るのみとなったと聞くとやはり寂しい。

お茶の話だけではなく、過疎化による地域の活性化などにも話題が及ぶ。Mさんなどは真剣に過疎地域への転居を考えており、話が弾む。お茶を通じてこのような交流が実際に行われるのを見ると、色々と展望が開けていくような気がした。

例年であればちょうど今頃、茶葉を天日干しする番茶作りの作業が行われているというが、今年は天候の関係で、天気は良かったのにまだ始まっておらず、結局見ることはできなかった。代わりに茶畑に案内してもらい、見学する。周囲を木々に囲まれた狭い土地に茶樹が植わっており、茶葉が元気に伸びていた。また工場の製茶機械なども拝見した。昔の日本の山中はどこでも番茶を作っていたのだろうと思わせる風景だった。

奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(2)奈良を歩く

因みにYさんとは初対面だったが、何と彼女は3日前にNHK西川きよしの番組に出演しており、初めて会った気がしなかった。彼女は抹茶アートをやっており、その活動が認められ、呼ばれたようだ。コーヒーのラテアートはよく見るが、抹茶で行うとは初めて聞く。だがこれは中国の宋代からある伝統的な技法らしい。これについては少し調べてみたいと思った。

その新婚さんの家に私とUさんがまさにお邪魔してしまったわけだ。それにしてもこの古民家、2階の天井が低いなど、往時はどのように使われていたのか、その歴史が知りたくなる逸物でとても魅力的。そしてNさん制作の急須や茶碗なども置かれており、お世話になるには大変興味をそそる家だった。夕飯は2階で美味しく鍋を頂く。それから私が調子に乗って暴走茶旅話を展開してしまい、全員を寝不足に追い込んだ初日となった。

10月12日(月)奈良を歩く

今朝は短時間睡眠なのに寝覚めが良かった。広い縁側には陽の光がまぶしい。今日は京都へ行くUさんと別行動となり、私は和束へ向かうYさんの車で平城京跡まで連れて行ってもらい、そこから一人散歩が始まった。平城京といえば、奈良時代が始まった710年に遷都された都。唐の長安を模して碁盤の目のような道が並んでいたというがどうだろうか。今やその様子は全く分からない。

こういう話は資料館へ行けばすぐに分かると思ったのだが、何と今日は月曜日で休館だった。仕方なく、広々とした跡地を歩き回る。私は裏の方から入ったようで、正面の近い場所では、復元工事が行われており、往時の様子が見られるようになりそうだ。正門である朱雀門は復元されている。そして遣唐使船が復元されておかれている場所があり、当時の遣唐使に関する資料が展示されていた。だが残念ながら平城京を上手くイメージできなかった。

平城京跡からトボトボと歩く。30分ほど行くと、鑑真和上が建立した唐招提寺に到着した。このお寺、修学旅行で来たかもしれないが、名前だけで全く覚えていない。最近は鑑真を日本に呼んだ僧侶などの歴史も勉強しており(最澄、空海より前の遣唐使で茶を持ち帰った者はいないのか)、唐招提寺にも興味が出た。

この寺は戒律を学ぶ人たちのための修行の道場として作られた。そもそも鑑真が日本に呼ばれた理由は、日本には仏教は伝来していたが、戒を与えられる僧がいなかったため、仏教が乱れていたことによるという。現在でも奈良時代建立の金堂、講堂、宝蔵などが残されており、世界遺産となっている。

どんどん奥まで歩いて行くと、木々に囲まれた中に、鑑真和上のお墓、御廟がひっそりとある。元々コロナで参観者は多くないが、ここの静寂、風情はとても良い。鑑真については井上靖の『天平の甍』などに詳しいが、我々の想像を遥かに超えた壮絶な世界を思い描いてしまう。

更に10分ほど歩くと薬師寺があった。この寺は天武天皇によって飛鳥に建てられたが、平城京遷都で奈良に移された。東塔は奈良時代から現存するというが、何だか疲れてしまい、門の前を曲がると鉄道の駅(近鉄橿原線西ノ京駅)が見えたので、電車に乗ってしまった。

一度乗り換えて近鉄奈良まで30分ぐらいで行けた。駅には行基の像が建っている。そこから緩やかに坂を上ると興福寺に出る。興福寺といえば奈良公園の鹿、というイメージはあるが、寺自体をじっくり見たことはなかったように思う。興福寺は710年平城京遷都共にここに移された(建立された)藤原氏の寺。その後歴史の舞台には何度も登場する。遣唐使として渡った僧たちもここに関連しており、茶の将来との何らかの繋がりがあるのかもしれない。

急な階段を上ると、そこに何とも形の良い南円堂があった。観光客は少ないが、ここでは熱心にお参りしている人の姿が見られる。続いて中金堂が見える。今日は天気が良いので、いい雲が流れ、何となく映える。五重塔も健在だ。興福寺はかなり敷地が広く、ゆとりがあるため、公園を歩いているような気分になる。観光客がいないので、鹿も暇そうにしている。

東大寺まで歩こうかと思ったが、疲れてしまい、目の前にあった立派なスターバックスで休む。昨晩車で通りかかり、きれいなライトアップが気にかかっていた。外の席に座り、ただボーっと景色を眺めているのがとても心地よかった。東大寺他の寺へ行くのは諦めて休息に努める。やはりStay Homeで体力が落ちていることを痛感する。

午後は以前より一度は訪ねたかった茶荘、心樹庵へ行く。途中奈良茶飯などの看板に心ひかれたが、店は開いていなかった。奈良駅からほど近くには、昔の街並みがしっかり残っていた。そしてその中にひっそりお店はあった。これまで毎年1度、東京のエコ茶会で短時間顔を合わせるだけだったが、店主のYさん夫妻とはどこか通じるものがあり、是非ゆっくりお話したいと思っていた。