雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(4)樹齢3200年の茶樹

皆今年の新茶の出来を気にして、また買付の算段のために、この山深き茶産地まで足を運んでいる。一番長い人で既に半月いるという深圳の女性がいた。『勿論自分の商品を確認するために来ているのだけれど、ここの環境があまりにも良いので長居している』と言い、もう2-3年前から毎年春はここにいるのだとか。そして『今年は例年より寒かったから、なかなか茶葉の芽が出ず、お茶が出来なくてさらに長居になっている』ともいう。確かにここは自然に囲まれた場所で、都会よりはるかに空気もよいし、静かだ。

 

この工場には来客用の宿泊所が作られており、何と3階建てで部屋数は10を超えている。現在も多くの部屋が埋まっており、私が街のホテルになったのも、実は満室だったからかもしれない。そしてお昼の時間になると皆が食堂へ行き、地元料理を頂く。これがまた美味いから、皆も飽きずに泊まっているのだろう。なんと素晴らしい環境だろうか。暇があればお茶を飲み、雨でなければ付近の茶畑を散策する。極楽生活だ。

 

昼ごはんの後は、宿舎の屋上から外を眺める。雄大な景色が広がっている。反対側を見ると斜面に茶畑が見える。案内されてその茶畑にもちょっと足を踏み入れる。結構古い茶樹が植わっている。説明によれば、1950年代に植えられた大葉種だとか。この葉を使って紅茶を作るのがよいという。土壌もしっかりしており、確かの紅茶作りに適した場所のようだ。

 

茶畑の方で激しい爆竹の音がした。今日は清明節、先祖供養のために人々が墓に集まるのだが、この茶畑の中に墓があるのだろうか。それとも茶農家だった故人を偲んで茶畑の中で供養しているのだろうか。いずれにしても、お茶と友の人生を過ごし、そしてこの地で逝った人々がいた、という事実が語られる、そんな清明節だった。

 

3200年前の老茶樹
何人かが車で出かけるというので付いていくことにした。どうやら相当古い茶樹を見に行くらしい。昨年は雲南省易武で1000年茶樹を見た。今回はどんなものが見られるのだろうか。車2台で出発。それにしても思ったよりその場所はずっと遠かった。山道を1時間ぐらい走ると、ダムが見え、そこで休憩した。この道路も十年ほど前、水力発電のためにこのダムができる時に作られたらしい。その前は道路がなく、あの茶工場も含めて、街に出るだけでも大変だったはずだ。だからこそ、いまだにあの自然環境が残っていたのだろう。

 

更に30分以上車に乗り、ようやくその場所に着く。茶畑が広がり、その間を歩いて行く。一応観光地のように整備はされている。小湾鎮茶王村と書かれている。ちょっと上って行くと、かなり背の高い木があった。表示があり、樹高8.3m、1000年以上の古茶樹となっている。但し大理茶とも書かれている。これはカメリアシネンシスではなく、タリエンシスということか。

 

その上の方に城壁のように囲われた場所がある。遠くに大きな木が見えた。『あれが3200年前の古茶樹だ』と言われたが、ちょうど管理人さんが清明節で出かけており、中に入ることは出来なかった。ただどう見ても、あの木もタリエンシスだろう。石に彫られた内容を見ると、中国をはじめ、アメリカや日本の専門家が『3200年前の世界最大の古茶樹』に認定したとある。そんなこと、簡単に認定できるのだろうか。軽い疑問は残ったが、古い木であることには違いない。一人だけ茶摘みしているおばさんがいた。

 

帰りは1時間半ぐらいで工場に戻った。実はこの会社、紅茶作りの他、プーアル茶も作っている。ここからかなり離れた茶葉の産地にもネットワークがあり、仕入れているらしい。ここに集まった茶商の中にも、紅茶よりもプーアル茶を求めてきた人たちもおり、彼らは明後日から茶葉の産地巡りに出掛けるという。私も是非ついていきたかったが、次の予定があるため、今回は断念した。

 

夕暮れ時、茶葉を担いだ近所の農民たちがやって来た。ここに茶工場があることは地元の農民にとって本当に貴重なことであり、また地元の若者に働く場を提供している。夕飯をここで食べ、車で送ってもらい、またホテルに戻った。今晩は外へ出て歩いて見た。10分ぐらい行くと、便利店があり、水などの飲み物も買えた。

 

4月4日(火)
博物館で

今朝も迎えが来てくれ、活動開始。今日は滇紅の歴史を知るべく、元国営企業である滇紅集団の博物館を訪問することになっている。滇紅集団は清明節中休み、と聞いていたが、張さんがアレンジしてくれ、街の顔役を通じて、博物館を開けてもらうことになっていた。何とも申し訳ない話だ。ただ役場に行くと、その人はまだ来ておらず、先に朝食。昨日とはまた別の麺を食べる。この麺線が何と旨い。

 

滇紅集団は元々、この街そのものと言ってもいい大企業だった。企業城下町という言葉がピッタリで、旧市街地の中心部に旧工場とオフィスがデーンと構えていた。新工場は2012年に郊外に作られており、基本的な機能は全てそちらに移っている。ここに残っているものは、今後歴史的な遺産として残されるものなのだろうか、それとも壊されていくものなのだろうか。この辺が大変微妙であり、滇紅の経済的な現状とも大いに関わってくるはずだ。

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(3)滇紅の里 鳳慶へ

4月2日(日)
鳳慶へ

 

今朝は7時には起き、朝食を食べて8時にはチェックアウトした。雨が降り始めていた。急いで昨日のバス停に向かい、ちょうどやって来たバスに乗り込んだ。少し濡れただけで済んだのは幸いだったが、今日もバスは寒かった。10時発なのに9時前には西ターミナルに着いてしまう。

 

それからトイレに行き、バスの出発場所を確認する。とにかく今日は人が多い。清明節の連休が始まっていた。皆故郷に墓参りのため帰るのだ。子供連れも多い。私が乗るバスは30分前には着いており、席に座った。当然のように満員になり定刻前に出発した。すぐに高速道路に入る。このターミナルは高速に近いから便利なのだろう。

 

それから約4時間半、バスはひたすら雨の中を走り続けた。大半の乗客は眠っている。途中の休憩もない。外は山間部の風景が続く。ちらっとモスクが見えたりすると、回族がいるのかな、などと思ってしまう。祥雲という場所で高速を降りて、すぐにサービスエリアに入り、ついに休憩があった。私はトイレに駆け込む。トイレは建物の2階にあり、かなり遠くがよく見える。ここで昼食を取る人もいるが、私はバスに乗っている間は食べないことにしている。ただポテトがいい匂いがしていたので、つい買ってしまったが、辛くて食べられなかった。

 

そこからバスは一般道路を走る。今や雲南省でもほとんど高速道路が通っていると思い込んでいたが、それは間違いだった。いくつもの山を越えていく。一体どこを走っているのかも分からなくなる。所々に街があり、集落もあるが、私の目的地にはいつになっても着かない。バスには車掌がいるので聞いてみると到着少し前には声を掛けると言ってくれた。それを合図に隣の若者と会話が始まる。無錫に働きに行っている地元の若者だった。出来れば故郷に帰りたいが仕事がない、と嘆く。

 

3.鳳慶
鳳慶の街に泊まる

結局午後6時半頃、突然現れたきれいに整備された道路、マンション群に遭遇し、ついに鳳慶の街に入った。ずっと山道を走ってきたので、ちょっと驚く。そしてその街を抜けてターミナルに入った。先ほど見たのが新区だろうか。こちらは昔の街の印象だ。9時間近くバスに乗っていたのでさすがに疲れた。

 

張さんの会社の人が迎えに来てくれるとのことだったが、見当たらない。電話をかけてみると、正面にいるという。私は裏口から出てしまったらしい。正面まで歩いて行くと、若い男女がいた。もう一組、お客を待っているという。同じバスで来たらしい。そのお客も載せて車は近くのレストランへ向かう。

 

そのレストランで地元料理をご馳走になった。山菜や地鶏、腹が減っていることもあったが、実にうまい。ここまで来た甲斐があったというものだ。それから私は少し離れたホテルに連れていかれた。もう一組のお客は、若者と一緒に車で去っていった。後で分かったことだが、彼らは山の中の工場に泊まるためにここから30分かけて山へ行ったらしい。私は外国人だから、念のため、街に泊めたようだ。

 

ホテルの部屋はきれいだった。恐らく最近できた新しいホテルなのだが、周囲には何もない。飲み物を買いたくても、もう暗いので出ることができなかった。まあ、そういう場合はただただゆっくり休めばよい。幸いWi-Fiは繋がるので、問題ないと思ったが、PCに設定してあったVPNはなぜか機能しない。これは困った!

 

4月3日(月)
鳳寧茶業の茶工場へ

翌朝は早めに起きたが、このホテルには食堂もなく、朝ご飯は食べられない。フロントで聞くと15分ぐらい歩けば食べる所があるという。まあ、食べなくてもよいか。9時に若者、李さんが車で迎えに来てくれた。そしてもう一人また新たな客が登場した。彼は昨日午後のバスで昆明を出たが、バスが遅れて午前2時に着いたので、このホテルに転がり込んだらしい。

 

車は道路沿いの清真レストランに入る。牛肉麺が朝ご飯となる。これがまたいい味を出している。それから山道を走り始める。約30分道を登る。小雨が降り視界が悪い。急に道路沿いの道から上がると、そこに鳳寧茶業の茶工場があった。車を降りるとすぐに工場の見学が始まる。朝摘んだ茶葉が運び込まれ、室内で萎凋されている。揉捻機も回っていた。お茶の香りがほのかに漂ってくる。

 

入り口付近にお茶を飲むところがあり、早々に試飲が始まる。既に数人がそこにいたのだが、従業員ではなく、皆客だという。一体この工場には何人の客が来ているのだろうか。それも聞けば東北地方から武漢などの中部、北京や上海近郊まで、様々な地域の人が集っている。後で分かったことには、彼らは殆どがその地区でここのお茶を扱っている代理店のオーナーだったのだ。

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(2)昆明の茶葉市場再訪

4月1日(土)
茶葉市場へ

 

昨晩は寝るのが相当遅かったにもかかわらず、6時台に起床し、出掛ける。今回の目的地、雲南紅茶、滇紅の里、鳳慶には昆明からバスで行く。そのバスは西バスターミナルから出るというので、出発時間を確定させるために、切符を買いに行く。西ターミナルと言えば、2013年に下関の茶廠に行く際、マレーシアの大金持ちの陳さんに連れられてバスに乗った記憶はある。ただその時はホテルからタクシーに乗ったので、どこにあるのか全く覚えていない。

 

取り敢えず近所の旅行社でバスチケットが買えないか聞いてみたが、やはりターミナルに行く必要があるという。そして路線バスの乗り場を教えてくれたので、それに乗る。何となく雨が降ってくる。そして今日の昆明は4月だというのに寒い。にも拘らずバスにはエアコンがついており、凍えそうになる。スマホで見たら、気温8度と出ているではないか。そんなバスに1時間近くも揺られていく。座ってはいるが結構辛い。

 

ターミナルで鳳慶行きバスを確認すると1日に数本あるのみだった。やはり確認してよかった。明日10時のチケットを買う。そして明日訪問予定の張さんに電話を入れた。実は今回の雲南行は直前に問題が発生し、大変だった。元々訪問予定の会社が何と急きょ清明節休みのため、工場を休止すると言い、訪問できなくなってしまっていた。一時は雲南以外の他の場所に変更しようかと考えたが、福州の魏さんの方で、もう一つの会社を探してくれ、直前にも拘らず、快く受け入れてもらえることになったのだ。これは何とも有り難いが、茶産地の状況は心配だった。

 

帰りも強い雨の中、何とかバスに乗り込み、元来た道を行く。バスも来た時よりかなり混んでいる。このバスは昆明の街の中心を通っているようだ。ホテルに帰ると、まだ朝ご飯が食べられるようだったので、急いで行く。少し冷めているが、結構色々な種類があり、美味しく頂く。古いホテルはホテル代も安いが、こんなところもよい。

 

部屋で少し休み、昼前にまた外へ出た。さっき食べたばかりだが、これからお茶を飲むので、昼ごはんは軽く麺とした。これが意外とうまい。その横の携帯修理屋でシムカードに入金。スマホを持っているのに、ネット入金できない変な客にも怪訝な顔をせず、手数料1元でやってくれるのは1年前と同じ。それから地下鉄に乗って茶葉市場へ向かう。

 

金星駅で降り、歩いて数分。雄達という新しい茶葉市場がある。その向かいの古い茶葉市場に入る。昨年も同じように鉈先生とここに入り、何となくふらつき、最終的に王さんの店に辿り着いた。ちょうど彼が仕入れてきた野生紅茶が非常に美味しかったので、今年はその産地に同行したいなと思って連絡はしていたのだが、結局天候不順でまだ茶が出来ておらず、次回になってしまった。

 

店に行ってみると、王さんはちょうど昼ご飯を食べていたので、一度店を出て、雄達市場を覗きに行く。きれいな店は沢山並んでいたが、ほぼお客はなく、閑散としていた。一軒の店から声が掛かったので、一応偵察する。今ある新茶は低地の茶葉で作られたものだけで、正直美味しいとも思われない。昨年の物も飲んでみたが、野生茶と言っても随分と味が違うものだ。すごすご退散する。

 

王さんの店では色々と話をして長居する。雲南農業大学の学生も遊びに来て、雲南紅茶の話題などで盛り上がる。但し歴史に興味があるのは私だけ。普通は如何にして美味しいお茶を作るかなどに焦点が当たっているのだ。農業大学だから当たり前か。とにかく今年は涼しくて、茶葉は育っていないという。新茶が入荷するまで、あと数日は市場も閑散としているだろうと残念な話が続く。

 

王さんの息子は1年前奥さんに抱っこされていたが、かなり動き回る上、自分で椀を使ってお茶まで淹れて、飲んでしまうようになっていた。子供の成長は本当に早い。そしていかにもお茶屋の息子らしい。王さんに『涼しいから夕飯は一緒に鍋を食べに行こう』と誘われたが、店にいてお茶を飲んでいるのに、何となく寒気を感じたので、申し訳ないが先に帰ることにした。

 

地下鉄に乗って戻ると、何となく気分がよくなってきた。するとなぜか腹が減るから面白い。昨年食べておいしかった、西紅柿炒蛋炒飯を食べに行く。昨年は雲南とラオスでずっと味の濃い物ばかり食べてきた後だったので、格別に美味しく感じたが、今回はまあ普通かな。それより海苔スープがやけに美味く感じる。やはり寒さのせいだろうか。

 

ホテルに戻って、フロントで『昨晩はスイートルームに泊めてもらったけど、今日は普通の部屋に移るんでしょう?』と聞くと、昨日とは別の子が『いや、面倒だからもう1日そこに泊まったら』というではないか。まあ、広い部屋を与えられては文句も言えないが、やはりこのホテル、何かがおかしい。管理というものが杜撰なようだ。

 

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(1)台湾から昆明へ行ってみる

【雲南から江蘇、湖北の茶旅2017】

 

今年の中国茶旅が始まった。『中国紅茶の旅』という月1連載の関係で、2か月に1度、紅茶の産地を2つ回る必要が出てきた。今回は雲南省の鳳慶と急須の街、江蘇省の宜興に行くことになる。その距離はかなり遠い。更には湖北省恩施の玉露を訪ねる旅まで加わってしまい、中国中を駆け回る、という雰囲気になった。かなり疲れる旅、もうしないはずだったのに。懲りない性格だ。

 

3月31日(金)
1.深圳経由で昆明まで

 

台湾桃園空港を飛び立った飛行機は深圳に向かっていた。今回の旅、台北-昆明の片道フライトで一番安かったのが、南方航空の深圳経由だったので、迷わずそれにした。台北から昆明までのフライトもあったが、高い。台湾と中国、近いようで意外と遠い。むしろ東京でチケットを買った方が余程安い。これは需給の関係か、政策の関係か。

 

機内食で出た角煮が意外とうまかった。南方航空に乗るのは久しぶりだが、国航と比べれば、サービスも機内食もこちらの方がよいと感じる。ほぼ定刻に深圳に着いた。実はここでは2つのポイントがあった。1つ目は、桃園で預けた荷物はどうなるのか、ということ。中国では普通国内線に乗り換える時はバッゲージスルーとはならず、一旦荷物をピックアップして、再度国内線カウンターで預ける必要があるのだが、桃園の南方航空カウンターの女性は『昆明まで荷物は直接行くので、ピックアップの必要はない』と説明していた。もしこれが本当なら画期的だが。

 

もう一つは国際線から国内線への乗り継ぎ専用通路があるかどうか。これまた桃園では、『専用通路を通って入国審査を行い、そのまま国内線ターミナルへ』と言われたが、よく利用する北京空港でも、国際線間の乗り継ぎはそうなるが、国内線への移動は、荷物を取った後、申し訳程度の通路があるだけだ。果たしてどうか。

 

空港に着いて、国内線専用通路を探したが、そんなものはなかった。すぐに入国審査場についてしまい、まずは入国することになる。そこで驚いたのが、指紋を取る機械が設置されており、窓口へ行く前に指紋を取れという。中国で初めて見た、こんなの。係員がいて、指紋のとり方を教えてくれたので、ついでに聞いてみると『この空港で試験的に行われているだけで全土には広がっていない』というので一安心。だが数人しかいない外国人はかなり混乱していた。今後こんなことが行われると益々不便になりそうな予感。

 

入国審査を通ると、やはりバッゲージクレームで荷物を取る。何となく通路があったので、そちらへ歩いて見たが、そこにあったのは特定国際路線から国内線への専用通路で、今は開いてもいなかった。結局ごく普通に出口を出て、国内線のチェックインカウンターを探し、荷物を預けることになる。既に昆明行きのチケットだけは発券されているので、何とも面倒な話だ。

 

カウンターで『フライトは遅れています』と言われる。ボードを見ると、軒並みフライトが遅延している。深圳でも雨が降っているが、このせいだろうか。フライトはいつ出発できるかすごく心配になる。それにしても深圳空港は明るい。華為などの企業ブースもデザインが斬新でよい。

 

2.昆明
昆明の悪評ホテル

 

結局フライトは1時間半遅れて出発し、夜の10時半過ぎに昆明空港に到着した。この空港、規模が大きすぎて、毎回出口まで歩くのに難儀する。10分以上歩いて何とか荷物を取り、ようやく出口を出ると、まだ空港バスがあったのでそれに乗り込む。バスの車内に変なおじさんが乗り込んできて、無料で道案内をすると言っている。このホテルへ行くのはどこで降りるのがよいかなど、丁寧に答えている。ようは旅行会社の人で、ホテルの決まっていない人などお客を探しているだけなのだが、このスマホの時代にこんなサービスが必要なのが中国のギャップだろうか。

 

バスは昆明駅近くまで行く。今晩はその近くのホテルを予約していたので、真っすぐそこへ向かった。ちょっと入り口が分かり難かったが、駅に近く便利で料金も高くない。私がこのホテルに決めたのは、何より予約サイトに日本人のコメントが数件あり、パスポートでも確実に泊まれると思ったからだ。夜中にホテルを捜し歩くのは正直勘弁してほしい。

 

もう一つはその日本人のコメントのほとんどが『フロントの対応が悪い、サービスの概念がない』など、ひどい内容だったことだ。なんでこんなにひどいことを書かれているのか、怖いもの見たさで行ってみたのだ。フロントへ行くと、確かに若い女性に全く愛想はなく、また予約も見つからないという。何しろ要領が悪い。そこで気が付いたのは、こちらが中国語で教えてあげれば対応できるということ。ようは日本語しかできない日本人がここに来ても『怒ってしまうだけ』なのである。

 

最終的に予約はあったが、私の予約した部屋はもう一杯だと言い、このホテルのスイートルームに通してくれた。そんな広い部屋は必要ないのだが、こんな対応があるのも旅としては面白い。勿論このレベルのホテルのサービスがよいとは言えない。だが意思疎通ができないと混乱が生じるのは、当然のことだろう。フロントの子も田舎から出てきてサービスなど知らないだけなのだ。

ある日の埔里日記2017その2(9)桃米坑から鹿篙へ

3月30日(水)
鹿篙へ

 

本日は埔里滞在2回目の最終日。Wさんがバイクでお茶屋さんに連れて行ってくれるというので、お言葉に甘えて、後ろに跨る。私もバイクに乗れれば行動範囲が大いに広がると思うのだが、どうも長年、車にすら乗らないので、バイクも怖くてしり込みする。そのくせ、人の後ろに乗るのは慣れており、問題はない。

 

まず向かったのは、埔里郊外の桃米坑という場所。ここの山間部にも茶畑がある、とWさんが言うので、行ってみた。確かに狭い道路脇に茶樹が植わっている。それも結構古い。但し人の手は入っており、誰かが管理して茶を作っているように見える。それでも産量は殆どないだろう。ここがもし日本時代に植えられた場所なら、さる有名人が茶園を作った場所ではないかと勝手に妄想が膨らむ。Wさんによれば、この付近にはほたるが多く生息し、夜はほたる見物客が訪れる所らしい。

 

進んでいくと、小さな牧場のような場所に出会う。ここでキャンプができるらしい。最近の台湾のトレンドだな。更に行くと山の中にきれいな茶畑が見られた。これは最近植えた台茶18号だろうか。実はこの先まで行くと蓮華寺という、相当古い文献にも名前が出てくる茶畑があった場所に至る。この付近全体が台湾でもかなり古い茶の産地だったのだ。

 

バイクで走ると結構速い。私は茶畑が見えるとすぐに反応するが、Wさんは樹木に反応する。ある木をパッと見て、すぐに『ああ、ここにはカブトムシが来る』と叫ぶ。人間というのは自分の興味により、見ているところが全然違うと悟る。鹿篙へ向かって、バイクは進んでいく。

 

昼ごはんを食べようというのだが、こんなところに食堂があるのか?ところがあるのだ。ここには大学がある。日本人でこの大学で教えている人がいるそうで、その人から教わったとWさんは言う。昼時、若者で満員だった。食堂は1軒ではなく、3軒ぐらいある。結構ビックリだ。そして出てきた食べ物はかなりうまかった。学生街だからボリュームもある。嬉しい。腹一杯食べた。

 

そして鹿篙へ。大きな通りから道を入る。ここは6年前から何度も通っている。見知ったお茶屋さんもあるが通過。そして日據紅茶廠というところに着いた。ちょうど茶摘みを終えた地元のおばさんたちが皆でお茶を飲んでいるところに遭遇。何だか楽しそうだな、と一緒に混ざって紅茶を飲む。

 

ここの老板、王さんに話を聞くと、日本時代ここは持木さんの畑があり、おじいさんはその茶園管理の仕事もしていたらしい。その持木茶園は今では全く無くなっているという。1980年頃には紅茶作りをする家はほぼ無くなっていたが、お父さんは細々と作っていたともいう。そして紅茶ブームが到来し、皆が一斉に作り始めた。大陸の観光客も来て、一時は飛ぶように売れ、レクサスを買うまでになった。だが、最近は茶葉の価格が下がり、観光客も来なくなり、厳しい状況に陥っているという。

 

工場には若者が茶作りの修行をしていた。ジャカルタから来たというインドネシア籍の女性も手伝っている。紅茶に将来性があると思い、この道を選んだというが、製茶修行も大変なら、その前途にも暗雲が立ち込めている。裏山のかなり急な斜面には、アッサムや台茶18号が植えられている。所々にコーヒーも見られた。パイナップルなどフルーツと共に植えられているのがよい。

 

帰りもバイクで送ってもらう。バイクならいつでも行けるのだが、歩いて行くわけにもいかず、自転車でも坂がきつそうだ。次はいつ行けるだろうか。夜は大腸麺線を食べて満足した。帰りに廟の前でお祭りのように、皆が食事をしている姿が見られた。

 

3月31日(木)
大陸へ

ついにまた埔里を離れる日が来た。今朝は5時に起き、6時半のバスで高鉄駅に向かった。バスで桃園空港に行くことも考えたが、万が一に備えて、電車を使ってみることにした。高鉄駅では、指定席は40分先までなかったが、自由席なら20分後があるというので、自由席にしてみる。まあ座れなくても40分の旅だから問題はない。

 

結局自由席は空いていて、席にも座れたし、荷物も何とか置くことができた。高鉄の問題点は荷物置き場が狭いことなのだ。そして8時過ぎには高鉄桃園駅に着いた。これまではバスで空港に向かうのだが、ついに先月MRTが開通した。初めて乗ってみることになる。正直席はツルツルで座り難いし、やはり荷物置き場は狭い。でも桃園駅から15分位で着くし、何よりバスのように待つ必要がなく、時間が読めるのは有り難い。モノレールなので景色もよい。今月は料金も半額で嬉しい。

 

9時には空港に到着する。フライトは12時過ぎなので、なんとチェックインカウンターすら開いていない。埔里の家から空港までこのルートなら3時間はかからないのが分かり、今後の参考となる。さあ、次はいつ来るのだろうか、台湾。

ある日の埔里日記2017その2(8)清境農場の茶畑

3月28日(月)
清境農場へ

時々タイのメーサローンを思い出すことがある。ここは国民党残党が雲南・四川から逃げ込んだ場所として知られているが、同時に近年は茶業が発展している。その発展には当然国民党繋がりで台湾が大きくかかわっているのは言うまでもない。国民党の残党たちの一部が1960年代に台湾へやって来た時、台湾では受け入れる土地がなく、山中に入ることになる。そこは原住民の土地であったようだが、蒋介石は彼らの功績を尊重して、この地を与え、そして農場とした。

 

昨年松崗の茶工場に行った時、清境農場の歴史を語る写真集を見た記憶がある。そこにこの残党の話が出てきたので、一度はちゃんと農場へ行って、その歴史を確かめてみたいと思っていた。だが今の普通の台湾人にとって清境農場と言えば、一大観光地なのであり、どうしても足が向かなかった。

 

ついに今日、その地に行ってみようと思ったのは、そこにも茶畑がある、と聞いていたからだ。まずは腹ごしらえにと、ハンバーガーを食べた。この付近から農場行きのバスに乗れるはずなのだが、いつ来るかわからないバスを待つ気にはなれず、バスターミナルまで歩いて行く。するとすぐにバスは来た。平日だが、乗客がそこそこいる。老人の観光客だ。

 

バスは霧社を通り過ぎ、農場付近にやって来た。さて、どこで降りるのがよいだろうか。全く調べていないので、よくわからず、取り敢えず観光センターが見えたので皆が降りないのに、降りてしまった。観光センターなら、農場の歴史に関する資料か本があるだろうと思って行ったのだが、あては完全に外れた。そこは土産物売り場だったからだ。農場を見学するにはもう少し上に上がる方がよいと言われたが、次のバスまで時間があった。

 

センターの向かいには清境農場と書かれた門が見えた。そこを潜ると木々に囲まれた雰囲気の良い場所がある。だがそこは農場の事務所であり、観光の場所でもなく、何があるわけでもなかった。いい風景を眺めながら、道なりに下に降りていく。そこにはスイスガーデンと書かれた場所があった。まるでスイスの高地を思わせる造りだ。併設されているセブンイレブンが何とも台湾的ではあるが。清境農場は私のイメージしている昔の農場ではなく、今や台湾のヨーロッパンを売りに集客しているのがよくわかる。

 

その向かいには国民賓館というホテルがあった。この道路沿いには沢山のホテルがある。宿泊客も多いのだろう。その賓館の脇を見ると、ちらっと茶畑が見えた。ここを入って行けば多くの茶があると直感し、歩いて行く。やはり茶畑はあった。1987年に開園した高山茶園とある。海抜1600m、金宣と烏龍が植えられているという。出来上がった茶は宿霧茶という名前で売られているらしいが、見たことはない。

 

ヤギが斜面にある茶畑の中で草を食べている。ちょうど歩きやすい道があったので、どんどん入っていき、更に下ってしまった。もうバスの時間などどうでもよくなっていた。いや、農場そのものへ行く気もなくなりつつある。それでも何とか大きな道へ出てバス停を探したが、バスは全然来なかった。

 

そこはきれいなホテルの横だったが、下りのバスは1台来たが、上りは来ない。こういうホテルには普通は車で来るのだろうか。何とそこで1時間近く立って待っていたが、来たのは埔里に戻る下りだった。もうどうでもよくなり、それに乗って帰ってしまった。結局清境農場を見ることもなく、何だったのか、全く分からないまま訪問が終わる。

 

埔里の街に入るとすぐにバスを降り、腹が減ったので、先日の餃子屋に入り、たらふく焼き餃子を食べた。どうも私は観光地が苦手のようだ。観光地で名物料理を食べる、などというのも得意ではない。その日の夜は、封印していた肉圓も食べて大満足!

ある日の埔里日記2017その2(7)民雄のベトナム人と

3月25日(土)
嘉義へ

 

正月に台中で会った蔡君から『阿里山へ行かないか?』と誘いがあった。阿里山には久しく行っていないので、是非行きたいと告げたが、なかなか日程が決まらなかった。結局前々日に、土曜日出発と決まる。彼は朝台北からやってくるというので私もそれに合わせて高鐵台中に向かい、そこから台鉄で嘉義を目指す。

 

ところが台中に着いた頃、彼から『電車に乗り遅れたので、到着が大幅に遅れる』と連絡があった。実は今日の待ち合わせ場所は嘉義駅ではなく、その手前の民雄駅になっている。何故その駅に行くのかはよくわからず、そこで2時間近くも待つのは難しいので、私は途中駅で下車することにした。

 

斗六駅、そこで民雄駅行の電車に乗り換えるのを機に、ちょっと寄り道した。斗六はあまり有名ではないが、実は歴史的に見ても結構栄えた街らしい。駅前から少し歩くと、古い街並みが見えてくる。ただ古いとは言っても、光復後の商店街といった感じだ。石造りの2階建てが道の両側にある。そしてかなりきれいに整備されている。

 

更に歩いて行くと、斗六行啓記念館という建物が見える。ここは昭和天皇が皇太子時代の1923年に台湾を訪れた際に建てられたものだ。こういう建物は台湾各地に建てられたが、実際には泊まることがなかった場所もいくつかある。ここ、斗六も皇太子が通過した場所となっている。今やがらんどうの建物を記念館として、わずかな展示品で飾っている。皇太子の台湾訪問とは一体何だったんだろうか。最近は台湾サイドでこの行幸を見直す動きがあるが、これは商業的な感じがしている。

 

街を歩き回ったが、それ以上のものは特になかった。腹が減ったので、その辺で麺を食べた。そしてまた台鉄に乗り、民雄に着いた。だが、蔡君はまだ来ていない。それから30分待ってようやく彼は現れた。台北から出る自強号で民雄に停まる列車は多くなく、大幅遅刻となったらしい。

 

どうしてこの駅で待ち合わせたかは、ここに来て分かった。蔡君がどこかへ電話を掛けると、女の子がやって来た。親し気に彼に話しかけ、我々は駅から降りていった。下には女性が待っていた。彼女はベトナム人で蔡君とは親しい間柄。彼女らはずっと我々を待っていたらしい。

 

駅前には鵝肉と書かれたレストランがあった。後で知ったのだが、民雄はガチョウの肉で有名だったのだ。既に2時頃だったが、中に入り、大量の料理が注文された。確かにガチョウは美味しかったが、先ほど麺を食べてしまい、それほど沢山は食べられずに残念だ。ベトナム姐の娘、10歳は実にきびきびと料理を取り、お茶を注ぐ。そしてはっきりした口調で話す。昔風に言えば、ませた子なのだが、日頃の行動、母親に指導がそこからよく読める。

 

食べ終わってもレストランを離れない。なぜかと思っていると、外に車がやって来た。運転している女性とベトナム姐は知り合いで、彼女の車で嘉義へ行くという。彼女は花道の先生だと言い、日本にもしばしば行っているらしい。阿里山へ行くのかと思っていたが、完全な勘違いだったらしい。嘉義と言っても私が知る駅前ではなく、かなり郊外に到着する。そこには故宮博物院の南院というのがあった。見てみたかったが、今回はパス。

 

蔡君からはメッセージで『蒜頭糖廠で阿里山茶文化の茶業博覧会がある』と聞いていたのだが、その阿里山という文字に引っ張られ、会場である蒜頭糖廠も阿里山にあると思い込んでいた。ところがここは元糖廠、山の中にはない。会場に着くと、広々とした敷地に倉庫が見える。その屋外と倉庫内で茶芸や茶の販売などが行われている。もう流れに任せるしかない。

 

倉庫内に入ると、多くのブースが出ており、思ったより多くの人が買い物をしている。阿里山茶が多いようだが、茶器なども売られており、週末のイベント感が強い。更に行くと、幻想的な空間があり、また日本の陶芸作家の作品なども展示されている。時間によっては各国の茶のパフォーマンスも行われているようだった。

 

外へ出ると、茶席が各所に設けられ、皆がお茶を飲んでいる。その横には線路があり、観光用のさとうきび列車が走っている。蒜頭糖廠は1906年、明治製糖の工場として作られ、日本時代の台湾三大製糖の1つ。光復後は台湾製糖となり、つい10年前まで稼働したという。その歴史的施設を観光用に改修したのが今の状況だ。

 

そよ風に吹かれながら、広々とした屋外でお茶を頂く。何とも幸せな気分になる。何よりも皆が思い思いにお茶を飲み、実に楽しそうなのだ。こんなお茶会が日本にもあるといいな、と思う。招待されたらしい日本人の一団が和服で記念写真に応じている。茶の博覧会には今や日本というテイストは欠かせない台湾だ。

 

帰りに嘉義の街に行く。ベトナム姐のお気に入りの店でご飯を食べるためだ。しかしさっき2時過ぎにたらふく食べたばかりなのに、また食べるのか。出てきた牛雑湯、それはそれは美味しかった。ここの牛肉はとても新鮮で評判が良いというので、わざわざ連れてきてくれたのだが、その甲斐はあった。ベトナム姐は12年前に台湾に嫁いできて今では台湾人以上に台湾を知り、商売もやっているらしい。

 

今晩は泊まって行け、と姐に言われたが、蔡君を残して帰ることにした。途中で姐は修理に出していた車を取り、民雄の駅まで送ってくれる。何とも豪快な人だった。自強号で台中へ行く。来る時は各停で来たので、随分と速い。今日も夜遅く埔里に戻った。

ある日の埔里日記2017その2(6)龍潭、関西、三峡を転戦

3月23日(木)
龍潭、関西、三峡へ

 

今朝は早起き。7時半のバスに乗り、高鉄台中駅へ。駅で湯さんと待ち合わせ。これも先日同様の行動だ。湯さんに相当に迷惑を掛けているが、台湾茶の歴史を勉強するためにはどうしても彼の力が必要だったので、お言葉に甘えた。今回の目的地は関西だったが、そちらの約束時間が12時だったので、その前に龍潭の緑茶工場を訪ねることになった。

 

先日の沙坑茶会でも会った葉さんという若者の工場がそこにあった。新福隆、1866年に創業したとある。そうであれば、非常に古い工場である。川沿いに建つ工場は確かに古めかしかった。外には日本製と思われる中古の製茶機械が放置されていた。工場の中もやはり古めかしく、歴史を感じさせる。

 

昔の写真を見せてもらう。日本統治時代の工場、今とそれほど変わっていないように見える。資料を見ても1925年前後、この辺には沢山の製茶工場があり、葉さんのところもその1つだったことが分かる。烏龍茶と包種茶を製造していたとある。三井農林の工場が近くにあり、そこで働き、紅茶の製造法を学んだともいう。かなり裕福だったようだ。

 

光復後、一族が分かれ、規模は縮小されたらしい。葉さんのお祖母さんが日本語で色々と話をしてくれた。戦争末期、自身は台北に住み、お兄さんや従兄弟は京都に留学していたという。その後茶業は緑茶生産に切り替わり、今も蒸し製緑茶や粉末茶を作って、茶飲料の原料として供給したり、日本に輸出しているという。日本人が知らない、緑茶の歴史である。工場内に設置された機械を見ても、日本製の機械が並んでいた。

 

続いて車で高速に乗り30分ぐらい行くと、新竹県関西鎮に着く。街中に古い建物が見えた。関西茶廠と書かれた看板もあるが、台湾茶業文化館という文字が見える。古い工場を改装して作った博物館のようだ。ここが台湾紅茶株式会社の本拠地である。お店に入っていくと、先日沙坑茶会でも会った羅吉平さんが迎えてくれ、そして彼のお父さん、おじさんを次々に紹介される。

 

まずは昼ご飯を食べようと言われ、店の向かいにある客家料理屋さんへ行く。そう、ここの羅一族は客家である。この付近には客家の人が実に多い。客家と茶の繋がりについては、とても興味深いテーマであり、後日また話を聞きたいと思っている。それにしても出された料理の数々、実にうまい。ホルモン系の料理などが絶品で、思わずご飯をお替りするほどだった。1つのテーブルを囲み、皆で食べたのであるが、年配の皆さん、日本語ができる。この辺もまた、歴史ではないかと思われる。

 

食後、台湾の紅茶の歴史について、レクチャーを受ける。話は羅一族の歴史から始まり、関西の歴史、日本時代の日本との繋がり、茶業の発展から光復、そして紅茶から緑茶への転換と、余りにも目まぐるしい。目を白黒させていると、『文化館で資料を見ながら話そう』と言われ、木の階段を上がって二階へ進む。ここには貴重な写真や資料が多く展示されているが、写真撮影禁止ということで、話だけを聞いていると内容が豊富過ぎて、全てを頭に入れることはできなかった。

 

取り敢えず簡単な歴史を理解して、皆で記念写真を撮って、ここを離れた。もし台湾紅茶の輸出の歴史を書くのであれば、もう一度訪問しなければならないだろうと、その時覚悟を決めた。紅茶は日本が始めた茶であると言われているが、勿論台湾人も様々な形で関与している。そして光復後に紅茶が全盛になるという皮肉、更には紅茶輸出が難しくなった時の転換、興味は尽きない。

 

また高速道路に乗り、台北方面に向かう。三峡という場所は、昨年老街にバスで行ったことがある。そこを通り抜けて更に進むと谷芳の小さな工場があった。実は彼らとは昨年11月、台北の茶業展覧会の会場で出会っていた。FBでかなり目立った投稿をしていたので声を掛けた。『三峡で緑茶を作っている』という話も魅力的だった。台湾で緑茶、と思う人が殆どの中、数年前から緑茶という文字が見られるようになっていた。

 

今回湯さんに行きたいと告げると『ああ、谷芳はうちの受講生だよ』と言って、後は連絡を取ってくれた。台湾の茶業は本当に狭い。そして谷芳は本当に勉強熱心だ。中に入ると、ちょうど茶作りをしていた。生葉が来て、棚に置かれている。これは緑茶になるのだろうかと思うのだが、その後殺青、揉捻していた。

 

湯さんは台北で用事があると言って先に行ってしまった。残った私は谷芳の李さんから話を聞く。緑茶作りは25年ぐらい前から始めたが、年々茶農家は減っていった。李さん自身は10歳からお茶の販売を手伝い、製茶をはじめ、18歳で今の奥さん(当時16歳)と結婚、長女は既に18歳の大学生だという。その間の苦労は相当のものがあったらしい。

 

作業を終えて、車で茶畑に連れて行ってくれた。小山の上にある小さな畑。黄柑種という今では珍しい品種まで植わっていた。丘の上で李夫妻は夕日を背に記念写真を撮っている。何とも仲の良い夫婦だ。年齢も30代半ば、茶業に対しても非常に熱が入っていて、話は尽きない。

 

それから谷芳のお店がある場所へ行く。そこには古い大きな木があり、廟があり、人が集まる場所らしい。彼はここに来るお客に対して子供の時から茶を売っていたというのだ。貧しい中でも、茶業への思いが強く、斜陽と言われながらも茶作りを継いだ。普通なら台北などへ働きに行ってしまうだろうに。そして今や娘や息子も茶業を継ぐと言っており、この仲良し谷芳親子は業界でも目を惹く存在になっている。これは一つのドラマになりそうだ。

 

日が暮れたので、車で鶯歌の駅まで送ってもらった。そこから桃園へ行き、自強号に乗り換えて、台中へ。そしてバスで埔里に戻った。夕飯は李さんの奥さんが自ら焼いたというレーズンパンを食べた。これがまたとても美味くて、素人とは思えない味だった。埔里に着いたのは11時過ぎていた。

ある日の埔里日記2017その2(5)小埔社の老茶樹

3月22日(水)
小埔社の老茶樹

1日休みがあって、先日約束した東邦紅茶の茶園に連れて行ってもらえることになった。茶摘みはその日の天気次第だが、当日は快晴。朝8時に工場の方に行ってみたが、まだ誰も来ていなかった。少し待つと郭さんがやってくる。同時にピックアップがやってきて、それに乗れという。今日は郭さんではなく、おじさんが茶畑に連れて行くというのだ。

 

喜んで助手席に乗る。おじさんは35年前に東邦紅茶で働き始め、茶作りが無くなった後は、他で働いたが、最近の復活で戻って来た。最盛期の東邦紅茶では埔里の何人かに一人はここで働いていた、と言われるほどの、規模を誇っていた。創業者の郭少三氏の印象を聞くと『すごく厳格な人で、まるで日本人、という感じ』だったと話す。また昔作られていた物と今の茶の違いについては『当然作り方も変わっているし、品種も違うので、味は昔とは同じでない』という。

 

そんな話をしていると、早くも茶畑のある小埔社に着いた。まずは老茶樹のある畑を見に行こうと車を降りる。緩やかな斜面に茶樹が植わっているが、これが80年前、郭少三氏がタイより持ち帰ったというシャン種だった。向こうの方のかなり背の高い木が見える。おじさんが『普通は茶摘みに都合の良いように木を切ってしまうのだが、あれだけは見本として残してある』というのだ。

 

記録によれば、郭少三氏は1933年、タイのチェンマイから山中に入り、苦節1か月、紅茶作りに向いていると思われるシャン種を見付けて台湾に持ち帰った。基本的に日本がアッサム種を持ち込んでいたので、それに対抗する、いや特色を出すためにシャン種が使われたらしい。日本統治下の台湾で、台湾人がビジネスをしていく、というのはどのような困難があったのだろうか。シャン種の持ち込みに関しても、恩師の山本亮教授の支援があった、という話は出てくるが、果たして妨害行為などはなかったのだろうか。

 

その貴重なシャン種の茶樹を目の前にすると、やはり歴史、ということを考えざるを得ない。東邦紅茶は少三氏の努力により、広大な茶園を有するようになり、ここ小埔社一帯はほぼ東邦の土地だったと言われている。しかしその後の困難な時期に土地を切り売りし、茶樹もビンロウ樹などに代わっていった。それでも残った茶樹、何とも愛おしい。

 

もう少し車を進めると、斜面に茶畑が広がり、いい天気の中、茶摘みが行われていた。摘んでいるのはインドネシアからの出稼ぎ者だという。何となく以前見たベトナム人の摘み手に比べて、動作がゆっくりしている。というか、こちらが近づいていくと、にっこり笑ってくれたりして、ベトナム人のような緊張感がない。それがよい所だろうか。おじさんによれば、『ベトナム人はもっと稼げる高山の茶摘みに行くので、使えない』とのこと。茶葉の品質を保つため、収量ではなく、固定給として、ゆっくり摘んでもらっているともいう。

 

斜面をずっと降りていくと、茶樹が途切れる。その下に人がいたので近づいてみると、コーヒーを植えているという。最近始めたそうだが、『これからはコーヒーだ』という声を時々聞いているので、実際の珈琲畑でその実感が沸いてきた。だが果たしてこの試み、うまくいくのだろうか。

 

茶畑の中に、大きな木があったりする。『普通は大きな木は土の養分を吸い取るため、茶樹の近くにあると、その茶樹は育ちにくいのだが、ここではむしろいい茶樹が育っている』と説明される。この茶畑には最近流行りの台茶18号、紅玉が植えられている。『18号は良く育つし、収量が多いから、皆が競って育てるんだ』という。尚このあたりでは春に2回以上茶摘みをするが、18号は18日程、日を開けて摘むが、シャン種なら14日で摘めるという。

 

この茶畑の周囲もコーヒーの他、野菜なども植えられており、茶だけで食べていける状況ではないように思われる。ボーっと茶畑を眺めているとおじさんが『茶摘み人の弁当を取りに行くけど、戻るか』というので車に乗せてもらい、工場まで戻って来た。郭さんと最後の確認をして、東邦紅茶の歴史の一端を取り敢えず文章にすることができた。

 

交流協会雑誌『交流』2017年4月号「埔里の紅茶工場」

https://www.koryu.or.jp/ez3_contents.nsf/15aef977a6d6761f49256de4002084ae/466e98259720a5184925811a0024804b/$FILE/%E4%BA%A4%E6%B5%81_913%E5%8F%B7_2%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E8%8C%B6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E8%A8%AA%E3%81%AD%E3%82%8B.pdf

 

尚この文章の中で、郭春秧を郭少三の祖父と書いてしまったが、これは完全な思い違いであり、郭さんからも『郭春秧は少三の父、郭邦彦の良き雇用主』と説明を受けている。ただ同じ郭姓であり、春秧の墓は邦彦一族の墓に横にあり、現在も一緒に供養している、と聞いていたので、つい錯誤してしまった。申し訳ない。