茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(1)なぜかハルピン

《茶文化の聖地 四川を茶旅する2019》  2019年3月18-25日

1か月ぐらい前だろうか。突然Mさんからメールをもらった。『この度、茶旅の会を立ち上げるので参加してください』という内容だったが、何のことやらさっぱり分からなかった。ただ私が茶旅を長く続けているので声を掛けてくれたことは分かったので、端っこで参加することにした。

 

すると『第1回茶旅は3月に四川です』という。四川といえば、私の茶旅では未踏の地であり、茶文化発祥の地として、是非とも行きたい、確認したい場所であった。しかもナビゲーターは四川出身の王さん。王さんとは昨年大阪で四川について話していたので、益々行きたくなる。だが既にハバロフスク行きが決まっており、ハバロフスクからどうやって行くかが問題だった。

 

日程的には直接行けば何とかご一行と合流できる。検索してみると、何と韓国系エアラインは仁川経由で同日に着けるフライトを飛ばしているではないか。条件はそろった、これは行くしかない。だがハバロフスクで思わぬハプニングがあり、何と降りたのは仁川ではなくハルピンだった??

 

3月18日(月)
なぜかハルピン

オーロラ航空のフライトは順調の夜の空を飛行した。食事はやはりサンドイッチのみ。食べ終わると全員が目をつぶって寝入る。まるで夜行列車のような暗さだが、僅か1時間半でハルピン空港に到着する。またロシア人男性が列を押しのけて前に進もうとする。何か余程中国に対する恨みを感じする。昔たまにいた白人、中国ではこうするんだという無礼を見せつける態度だった。

 

ハルピン空港は恐ろしく小さかった。目の前にターミナルがあるのにバスに乗せられたのは、見栄としか思えない。ターミナルに入ると全員の動きが止まる。何してんだと思ったら、何とイミグレの部屋が小さすぎて満員で入れず、係員に止められていた。15分位足止めを食い、ようやくイミグレに並んだら、『外国人は一番端の1つだけ』という。

 

その列だけなかなか進まない。指紋取りに時間を食っているのだ。その機械、よく聞いてみると、パスポートによってその国の言語で指示している優れもの。ロシア語が多いが、なぜか韓国語も聞こえてくる。そして日本語まで。あれ、あの飛行機に日本人が乗っていたのか、と思ったがそんなはずはない。

 

私は何と最後になってしまった。手を機械にかざしていると、係員が『中国語できるか』というので『うん』と頷くと『お前はどっから来たんだ』と聞くので『ハバロフスクからさ』というと、『なんでそんなところから来たのか』と問われ、言葉に詰まる。私だってハルピンに来るとは思っていなかったからだ。どう説明しようかと悩んでいると上官が『もういいよ』といって、指紋も取らずに通してくれた。何だったのだ??

 

空港を出たが、そこには空港バスもなく、とても疲れていたので目の前のタクシーに乗った。運転手が『ちょうど韓国からのフライトと重なり、人が多かったよ』というのを聞いてようやくガテンした。ハバロフスクから来る日本人など皆無だから、係員が仁川から来たはずだと怪しんで、質問してきたのだ。まあとにかく外国人にとって中国はどんどん不便になっているのは間違いがない。それに物価はもう安くはない。それでも中国に行く理由、普通の人にはないだろうな。

 

運転手は陽気に話し続けていたが、その中国語は訛りが強く聞き取りづらい。ただ今日のハルピンも気温が急上昇して暖かかったことだけは分かった。ハルピン空港から市内は、車も殆ど走っておらず、相当にスピードで飛ばしていたが、それでも意外と遠かった。そして高速道路料金も高く、予約したホテルに着いたら150元近くになっている。今日のホテル、1泊225元だから、明日の早朝もタクシーに乗ると、そちらの方が全然高い。それなら空港で寝てればよかったかもしれないが、あんな小さな空港ではどうにもならない。

 

宿はいつものチェーン店を適当に予約したのだが、老街のすぐ近くだった。何となく腹も減ったので、親切なフロントでお勧めの店を聞いて、夜の街を歩き出す。すると老街のライトアップは見事であり、重厚な100年前の建築物はハバロフスクより輝いて見えた。ここももっと時間をかけて見るべきところだと感じるが、何せ、時間は今しかない。結局お勧めの店は既に閉店しており、その辺の店で食べて、明日は早いのですぐに寝る。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(6)ハバロフスクを去る

3月18日(月)
ハバロフスクを離れる

ついにハバロフスク最終日。フライトの変更により、当初の午後4時から夜8時の出発となったため、時間はたっぷりとあった。この時間をどう潰すか。まず午前中は体力を温存するため、部屋でゆっくりと過ごした。特に今日の夜は全く予期していなかったハルピンへ行くので、そのホテルの予約などをしなければならなかった。ハルピンの気温はこことそれほど変わらないのは何とも幸いだ。

 

チェックアウト時間を午後1時まで延ばしてもらうが、5分前には電話が鳴り、部屋を追い出された。このホテル、予想以上に居心地の良い部屋で満足。料金は手頃でフロントの対応もよく、おまけに国際電話タダの恩恵にまで預かった。次回来ることがあれば、またここに泊まろう。

 

腹ごしらえはどうするか。カフェも飽きたので、歴史的建造物にあるレストランに入ってみた。だがそこは、ロシア料理店ではなく、中央アジア、アラブ風の店でちょっと驚く。怪しげなウエーターが英語で応対してくれる。ペルメニと紅茶を注文すると、音もなく去っていく。レストランの内装はかなり凝っており、中東に来てしまったような錯覚に捕らわれる。

 

ペルメニも当然、中央アジア風でロシアとは違う。スープ餃子ではなく、中身も羊肉だった。紅茶は立派なポットに入っており、3杯もお替りできる量だった。ウエーターが、突然『スイーツマジックをどうぞ』というから何かと思ったら、綿菓子がサービスされたのにはかなり驚く。なるほど、スイーツマジックか。久しぶりに食べるよな。

 

それにしても外に出ると何だか暑い。これはご飯を食べたせいではない。気温を見てびっくり。何と+12度ではないか。空は快晴ではあるが、どうして突然こんなに暑いのか。慌て着ていたダウンジャケットを脱ぎ、マフラーもバッグにしまい込む。後で調べると、北京は20度以上もあったようで、時々ある春の馬鹿陽気だった。散歩しやすいともいえるが、むしろ暑すぎて汗が出るし、ダウンを持つのも邪魔だった。

 

メインストリートを歩き、レーニン広場を越えて少し行くとディナモ公園がある。ここは戦前、博覧会が開かれたほど大きな広場だ。今は市民の憩いの場となっており、犬を連れて散歩する人が多い。更に進み、大通りから一本入る。ここには何の痕跡もないが、可徳乾三がいた頃は、日本の女郎屋が並んでいた地域らしい。

 

そこで働いていた多くは、天草あたりから売られてきた女性たちで、経営者も同じ九州の人間だったという。九州、熊本・長崎の貧しさ、可徳がここまで出てきた理由の一端もここにあるかもしれない。先日マレーシアのサンダカンに行っても、からゆきさんは天草などの女性だったことを思うと、その厳しさが分かる。また同時に対ロ工作の一環として娼婦が使われたとの見方もあり、歴史というのは本当に一筋縄ではいかない。

 

最後にこれまで行っていない地域に足を向ける。そこにはかなり立派な、大きな建物が続いて建っており、軍関係の施設だと分かる。往時は日本軍の司令部だったところだろう。ハバロフスクは軍事的には極東司令部などが置かれる重要拠点であることは今も昔も変わらない。

 

ホテルに戻り、少し休息する。それから荷物を引き取り、メインストリートからトロリーバスに乗る。あの初日の暗いバスとは異なり、夕日に煽られたきれいなバスだった。最初は乗客がかなりいたが、いつの間に全員降りており、取り残されるが空港は見えない。間違って乗ったかと焦った頃にようやく空港が見える。車掌が『国内線、国際線?』と聞いているように思えたが、答えるロシア語を持ち合わせない。何とか『キタイ(中国)』というと、国際線で降ろしてくれた。

 

空港到着は早過ぎて、狭いロビーで待つ。2時間前になるとようやく航空会社と税関職員がやってきて、チェックインが始まる。前日突然購入したチケット、また間違いはないかとドキドキしたが、何事もなく発券される。乗客はロシア人と中国人が半々、それ以外の国籍はいないように見えた。中国人はこちらにいる親族などを訪ねてきた人が多く、ロシア人はビジネスマンだろうか。

 

空港には何もなく、手持無沙汰に待つしかない。既に本日の全ての国際線は飛び立っており、我々だけが待っている。ようやくコールされ、暗い空港をバスで目の前の飛行機へ。アエロフロートの子会社だというオーロラ航空に乗り込む。機内に入ると私の席に中国人のおじさんが座っていたので、席が違うと中国語で伝えていると、後ろのロシア人男性が私を突き飛ばして通路を進む。ロシア人の中国人に対する感情の一端を見る思いだった。まさかここに日本人が乗っているとは思ってもいなかっただろう、二国間の小競り合いか。

 

初めてのハバロフスクでは、非常に沢山のことを学んだ。まだウラジオストックも残っているので、何としても行かなければならない。今回の教訓があれば、次の旅はかなり楽になるだろう、そう願うばかりだ。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(5)事件発生 飛行機に乗れない?

3月17日(日)
事件発生 飛行機に乗れない?

その事件が発覚したのは昨晩遅くだった。明日のフライトを確認しようと、ネットで検索したが、私の名前を入れても予約が出てこないのだ。そして初めて1か月前に届いていた予約確認書を見て驚いた。私の姓は合っているのだが、名前のスペルが違っていた。いや、スペルではなく、妙に長いのだ。MRなどという文字が混入しており、何だか分からない状態だった。恐らくこれは予約画面で自分の名前を打った時、MRなどが混在したものと思われる。

 

この航空会社には以前も何度か乗っているので、この間違いは私のせいではないと分かってくれるのではと思ったが、すぐに連絡を入れた方がよいというアドバイスもあり、電話番号を探す。ハバロフスク支店に今電話しても夜の10時過ぎで誰も出るはずはない。ソウルのコールセンターを探して電話しようとしたが、今度は私が買ったロシアシムでは何番を押せば国際電話が掛けられるのかが分からず、フロントへ駆け込む。

 

フロントの女性は話しを聞いたうえで『このホテル、国際電話無料サービスだから、部屋から掛ければ』というではないか。何と親切なホテルだろう。ところが部屋からはなぜか繋がらず、もう一度フロントへ行き、そこの電話でかけてもらってようやく繋がる。ハングルは出来ないので、英語サービスを押すと、ちゃんと英語で人が出たのだが『本日のサービスは終了しました』というではないか。そんなこと言っても、今英語で私の話を聞いているのだから、対応して欲しいというと、色々と言い訳を並べて結局対応してもらえず。

 

『翌朝8時にまたここにかけてください』という。仕方なく一度寝て、午前9時過ぎ(ソウルとも時差1時間)にまたフロントから掛けると、英語できちんと話を聞いてくれた。だが『話は分かったが、ここはアメリカのLAで電話を受けており、我々には修正する権限はない。後2時間したらソウルに切り替わるから、そこにかけて』というではないか。

 

一体どうなっているのだ、この航空会社は。そしてこちらの時間の11時過ぎにまた電話をすると『話は分かったが、発券したのはハバロフスク支店なので、そちらにコンタクトして欲しい』というので、さすがに怒りが爆発する。『私はおたくのHPでチケットを購入したのだ。しかしHPでは変更できないというから何度も電話しているのだ。ハバロフスク支店などは関係なのだ。しかも今日な日曜日だ。支店は対応してくれるのか』と畳みかけると、『とにかく明日の朝一で支店へ』と小声になる。

 

『では支店に行けば必ず修正してくれるのだな』と聞き返すと『それは各支店にポリシーがあり・・』と要領を得ない。もうこれで諦めた。このチケットはキャンセルしようと思うが、他に代替手段はあるのだろうか。何しろ東京へ戻るのではなく、中国の成都へ行かなければならない。電話を切りネットで検索したところ、明日の夜ハルピン行きに乗り、そこで1泊、翌朝早くに成都行きに乗り継ぐと、ちょうど東京から来る人々と合流できることが分かり、迷わずそのチケット予約する。料金は前のチケットとほぼ同じ。何だ、最初からこちらにすればよかったと思うが、後の祭り。

 

そして4回目の電話をしてキャンセルを告げた。すると『キャンセルの手続きをハバロフスク支店でやって欲しい』と言われ、もう限界を超えた。一体何を考えているのかというと、電話の向こうから『分りました。こちらで処理しますが、返金は4週間後になるかもしれません』という。返金?何とこのチケットのキャンセル料は僅か50ユーロでかなりの金額が返ってくることをここで初めて知り、愕然とする。それならこの1日は何だったのか。無駄な処理にどれだけの時間を費やしたというのか。余談だが返金は4週間どころか、2日後には完了している。もうこの航空会社の言うことなど聞かないぞ。

 

という騒動に巻き込まれ、昼ご飯もその辺でパンを買って食べる羽目になってしまい、ようやく今日の散策に出たのは午後だった。折角なので日曜日で閉まっているとは分っているが、例の航空会社のハバロフスク支店を見てみようと思い出掛けた。だがどうもスマホ地図が示す場所が正確ではない。かなり歩いてきたのに、結局見つけることは出来ず、立派な教会だけを見る。月曜日にここで処理をしなくて本当に良かった。昼ご飯、パンだけでは軽いので、カップ麺を買ってきて部屋で食べる。すごく美味しい訳ではないが、これまた3年前の味がして、懐かしい。

 

夕方、もう一度出掛ける。ハバロフスクには今も日本総領事館があるというので、何となく見に行った。そこは先ほど支店を探して彷徨った通りの1本向こう、港に近い場所にあった。ただ入り口は分かりにくく、階段を登ってやっとたどり着く。その建物は領事館とは思えないほど可愛らしいクラシックスタイル。こんな領事館なら、地元民からも愛されているかもしれない。

 

更には100年前に日本人会や商工会があった建物も残っていた。ここは現在空手道場になっており、往時を偲ばせる。また本願寺があった場所は特定できないが、古い木造建築も残っていて、この辺りかなと思わせるものはある。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(4)ハバロフスクを一人彷徨う

3月16日(土)
一人散策

本日は昨日ポボロツキーさんからもらったハバロフスク案内を参照しながら、一人で街を歩いてみることにした。相変わらず表示される気温は低いのだが、なぜかそれほど寒く感じない。メインストリートに出て、昨日聞いた話を復習しながら、もう一度いくつかの建物を眺めてみる。

 

それから音楽堂の横にあるハバロフスク極東美術館を訪れた。なぜここに来たのかというと、ポボロツキーさんから『ここには土産に良いものが売っているので、一度覗いてみたら』と言われたからではなく、街中で見たポスターがあまりに衝撃だったからだ。実はここでは今『日本の春画展』が開催されていたのだ。

 

確か一昨年東京で初めて春画展が開かれ、大いに話題になったばかりだ。『春画はエロでタブーから、江戸浮世絵の芸術作品へ』と評価が変わったように思う。それがこの極東の街で堂々とポスターが張られ、展示されているというのだから、まさに興味本位で見に行ってみたわけだ。

 

美術館も抑留者が建てたらしい。立派な作りだ。常設展はパスして、春画展だけのチケットを買う。250ルーブルは安いのか高いのか。3階まですごく優雅な階段を上って行く。その一室に春画がズラッと展示されていた。かなり露骨な描写も含まれるので、一応18歳未満は入室禁止だが、参観者は殆どいなかった。江戸だけではなく、明治期の春画もある。生で春画を見たのは初めて、ちょっとビックリだ。

 

中国物と思われるものも2-3点あったが、日本の春画のレベルは高いと感じられた。ロシア人夫婦が興味津々で、絵をじっと見ている。どういう感想か聞きたいところだが、言葉は通じそうにない。1階に戻り、英語の出来る係員の女性に聞いてみたら、『春画は非常に素晴らしい美術品だと皆が言っている』とほめていたが、あれはお世辞だろうか。この春画展のパンフレットはないかと聞くと、『パンフは作っていない。カメラでの撮影は禁止だが、スマホ撮影はOKだから、もう一度3階に上がって撮って来れば』と言われ、何と再度見学する。何故スマホはOKなのか、その理由は分からない。

 

それから昨日は行かなかった先の道に進んでみる。冒険だな。今は少なくなったという木造の家が見えた。可愛らしい教会もあった。スマホ地図が使えるので、取り敢えずハバロフスク駅に行って見ようと歩き出すが、何と道を間違えてとんでもない方へ行ってしまっていた。お陰で、一般市民が住んでいる団地などはよく見え、郊外にはそれなりに木造住宅もあることは分かったが、相当に疲れた。

 

何とか歩いて鉄道駅まで辿り着いた。駅はそれほど大きくはないが、それなりに列車は走っている。私は3年前のシベリア鉄道のトラウマ?でロシアの列車に乗りたいとは思わない。でもなんとなく懐かしいので、駅中のカフェで昼食を取りながら、その頃のことを思い出す。

 

駅前の大きな道を進んでいくと見覚えのあるところへ出た。何と昨日来た市場だった。もう一度歩いてみると、店をやっている人間の中に中国人が何人もおり、店員、お客とも中国人なのか、中国語が時々聞こえてきた。今は港も閉まっているが、夏になれば多くの中国観光客が買い物に来るのだろうか。

 

更に屋内に入ると茶を売っている店があったが、そこではベトナムコーヒーも一緒に売られていた。彼はベトナム人でその昔にロシアへやってきて商売しているという。確かに社会主義繋がりであり、90年代の混乱期にここに留学などしていて残ったのではないだろうか。愛想はとてもいい。パン売り場のおばさんが何度も『このパンは美味しいよ』と言っているようで、中身も分からずつい買ってしまった。これも一つの交流か。

 

またメインストリートに戻り、その両側の建物の写真を撮り続けた。1つ1つに謂れはあるのだが、正直覚えきれない。中にはハバロフスク初の女学校跡もあった。120年の歴史、ここへは日本人女子も通ったのだろうか。100年前はホテルだったという建物も何軒かある。メインストリートは高くなった場所にあり、両側に下る道を歩きたかったが、疲れがピークで明日にした。

 

一度ホテルで休み、夕方外へ出た。すぐ近くのハンバーガー屋に入ってみる。今日は土曜日だから、家族連れ、若者たちが大勢食べていて、盛況だった。料金的には日本のマックと同じようなものだが、例えばポテトにつけるケチャップは有料で、3つの種類から選択するなど、ちょっとした違いがあった。

 

そのまま日が暮れようとしているアムール川へ出てみる。陽はゆっくりと落ちていき、なかなか沈まない。家族連れが凍った川面で走り回り、おじさんは穴をあけて釣りをしている。何とものどかな、絵画に出てくるような風景だった。可徳乾三もこの夕陽をここで見ただろうか。思わずライトアップがきれいな街中に戻り、またカメラを向け続ける。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(3)最高のガイドと街を歩く

そしてメインストリートである、ムラビヨフ・アムールスキー通りを歩き出す。ここが100年以上前、多くの日本人が暮らし、商売した場所だと言われ、実際に彼から『ここは竹内商店、向こうは中村歯医者、最初の日本領事館もここにあったよ』などと言われると、ちょっと驚いてしまう。当初の木造建築は残っていないものの、1900-1920年代に建てられた重厚で立派なレンガ造りの建物は今も現役で使われているのだ。特に竹内商店のあった建物には竹内家の家紋が埋め込まれているなど、日本を偲ばせるに十分な素材があった。

 

今回私が探し求めてきた、可徳商店もこの一角にあったという。ただ日露戦争時に日本人が引き揚げた後、すぐに木造の家は取り壊され、今はレンガ造りに変わっていた。それでもかなり港に近い良い場所を占めていたことが分かり、これは大きな収穫となった。これで当時の写真でもあればと思ったが、それは欲張りだった。

 

広場に出るとそこには教会があり、ちょっと入ってみる。中では厳粛に何かの儀式が行われており、奥に入るのは憚れたので、入り口付近で眺めていた。ソ連時代には宗教も弾圧されていたはずだが、多くの人が教会に来ているのは、その信仰がずっと続いていたからだろうか。この街には多くの教会があることをこの後沢山歩いて知ることとなる。

 

そしてアムール川に出た。広い川面は一面氷で覆われており、その上に朝降った雪が積もっていた。その遥か向こう、60㎞離れたところには中国の撫遠という街があり、数年前に行ったことがある。1年の半分だけ港が開き、ここからフェリーに乗って中国へ行けるのだ。ウラジオストックから入った物資も川つたいに来て、ここに荷揚げされたのではないか。可徳商店の物資もそうだったのだろうか。

 

すぐそこに1894年にオープンしたという郷土史博物館があった。中に入ると暖かい。旧館と新館があり、かなりの展示物があり、1時間以上かけて見学した。先住民族の記録、チョウザメなどの特産品が目新しい。ここには日本人はあまり出てこないが、やはり中国人の歴史は出てくる。お茶に関する展示はほぼないが、何となくハバロフスクの歴史が分かったような気になる。

 

この博物館の近くには2つの意味ある建物が建っていた。1つは音楽堂。ここは(ここ以外にも幾つもある)戦後抑留された日本人が建てたと言われており、その中にはあの歌手、三波春夫さんもいたという。もう一つは士官会館。ここで1949年にいわゆるハバロフスク裁判が開かれ、日本の対ソ攻撃、731部隊などが裁かれた歴史的な場所である。今は建て替え中で、中を見ることは出来なかった。確か昨年放映されたNHKスペシャルで731部隊の新たな資料が示されたが、これがハバロフスク裁判の録音テープだったと記憶しており、誠に興味深い。本当はここで何が行われたのだろうか。

 

お昼はインツーリストホテルで取る。インツーリストと言えば、ソ連時代は勿論、数年前まで、ロシア旅行時には欠かせない存在。このホテルも往時外国人客の宿泊が多かったようだが、今では多くのホテルが出来ており、改修工事で競争力を高めようとしていた。食事はハバロフスク名物のペリメニを食べる。以前も他で食べたことがあるが、ここの物は、食べやすい。

 

午後はタクシーを呼んでもらう。今やロシアでもタクシーはスマホアプリで呼ぶものだそうだ。私が希望したのは日本人墓地。ここは昨夜トロリーバスで市内へ来る途中にあったが、暗くて分からなかった場所。もし墓地が分かっても、広い園内のどこに日本人墓地があるかは分かりにくいため、ポボロツキーさんに連れてきてもらい正解だった。

 

墓地は区画が仕切られ、かなりきれいに整理されている印象。1956年日本人墓地とあるのは、日ソ共同宣言の年に整備されたということだろうか。近年日本政府はシベリア抑留中に死亡した人々の遺骨収集をして、DNA鑑定も行っているというが、本当にその人なのだろうか。それでも名前があり、墓があるというのは救われるのかもしれない。周囲にあるロシア人の墓に目をやると、墓碑に写真や似顔絵などが沢山見られ、何となく楽しい感じになっている。故人を偲ぶその方法は、その国それぞれだろうか。

 

続いて車は市内に少し戻り、プーシキンの像がある教育大学の裏手に着けた。この建物はあのラストエンペラー、溥儀が連行され、収容された場所だという。確かに先日天津に行った際、溥儀が故宮を出て住んだ静園にあった展示室に、ハバロフスク抑留のことが書かれていたのを思い出す。ここの1階に溥儀と満州国の大臣クラスが住み、2階は日本人将校が住んだと説明された。何ともリアルに歴史的な場所に立っている気がした。今は病院になっている。

 

最後に市場に行く。ここでようやくシムカードを手に入れた。550ルーブルで簡単に買えて使い勝手は良い。ついでに市場内を歩いてみると、お茶なども売られているが、紅茶のティバッグ。川魚は豊富で、肉売り場の面積も大きい。日本人が当地で作っている有機野菜は人気が高く、売切れていた。日本製調味料なども売られているが総じて高い。

 

ここから歩いてレーニン広場まで行き、ポボロツキーさんとは別れた。何とも有り難い1日ガイドで感謝しかない。彼がいなければ、何日ハバロフスクにいても何も変わらなかっただろう。私はレーニン広場を少し見て、そこからゆっくりと歩いて帰った。夕日が落ちていく時間だった。ちょうどセルフサービスのカフェが目に入ったので、スープと魚などを取り夕飯とした。ここが一番、一人旅にとって食事のしやすい場所だった。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(2)親切なハバロフスクの人々に救われる

完全に行き詰っていたところ、バスが来たので聞いてみた。予約したホテルのロシア語を持っていたので示してみると、理解はできたようだが、車掌は更に外を指し、トロリーバスと言っているように聞こえた。確かに外まで走っていくとその瞬間トロリーが来た。車掌は『これで行けるよ』と頷き、25ルーブルを受け取った。乗客はなく、何だか映画の世界を見ているようなレトロ感があった。

 

徐々に人が乗ってきて、徐々に街に近づいていた。30分ぐらいで市内に入った。シムカードがないので、スマホ地図が使えず、どこを走っているのかさえ、全く分からなかった。恐らくここがレーニン広場というところまできて車掌を見ると、後2駅と言っているように見えた。降りる時に『こっちだよね』と大きく指さすと大きく頷いたので、安心してその坂道を降りて行く。

 

だがどうも違うような気になる。地図も持っていたが不確かだし、何より道路標示のロシア語は読めない。そこで目に入ったのが、英語で書かれていたホテルの看板。恐る恐る入っていくとフロントの女性はきれいな英語を話した。そして泊り客でもないのに、親切にも地図を打ち出してくれ、説明を加えてくれた。

 

さあ、これでもう安心と思って歩き出したが、やはり何となく不安になる。暗い夜道の信号でじっと止まっていると、後ろから『道に迷ったのか』と英語で声を掛けてくれる若夫婦がいるではないか。地獄に仏?彼らはすぐに自分のスマホを取り出して、私がバスを降りて反対側の道を来ていることを示し、正確なホテルの位置まで教えてくれた。何とも有り難い、ハバロフスクには何と親切な人が多いのかと実感する。同時にお金がなかったからこそ、この親切に出会えたわけで、旅とは本当は如何にすべきか、もう一度考え直す機会ともなる。

 

そしてついにホテルに辿り着いた。そこに看板もなく(あっても読めないが)、もし若夫婦と出会っていなければ、更に探すのに時間を費やしていただろう。重装備で寒くはないと言っても零下8度の中、暗い街をこれだけ歩けば疲労感は相当に達していた。ホテルの部屋は天国のように暖かく、何とも居心地が良い空間がそこにあった。

 

時間はもう9時を過ぎており、腹は減っていたが、そうなるとまたルーブル問題がぶり返えしてくる。1階にレストランがあると言われたが、夜はバーになっているのか、何だかとても騒がしくて入る気にもなれない。ホテルならカードでも払えるだろうが、外へ出ると金がない。それでも外へ出てみる。さっきは余裕がなかったが、周囲の建物は皆歴史的建造物のように見えた。

 

メイン通りに出てみる。イルミネーションはきれいだ。ちょっと行くと道路脇に小さくてかわいい小屋があった。覗いてみるとパンを売っている。値段も書いてあり、これなら有り金で払えそうだったので、買い込む。パンを温めてもらい、ホテルの部屋でゆっくり味わって食べた。お金の有難味が沁みた。

 

3月15日(金)
ポボロツキーさんとの1日

部屋が本当に暖かいので、北京時代の冬を思い出し、眠りは深かった。起き上がると窓の外が明るいので、いい天気だと分かったが、何と零下10度、そして雪が降って積もっているではないか。昨晩あれから雪が降ったとは。あのまま道に迷い続けていたら、遭難か。ちょっと散歩でもしようかと思っていたが、部屋に閉じこもった。そして午前9時半の、ポボロツキーさんとの待ち合わせをじっと待つ。

 

ロビーには恰幅の良い人が待っていてくれた。彼は1981年にウラジオストック極東大学で日本語を専攻し、卒業後はこの地のインツーリストに配属された。配属システムは当時の中国と同じだった。日本語ガイドとして活動していたが、当時のお客さんは単なる観光という時代ではなく、ペレストロイカやソ連邦崩壊を経て、戦争前にここに住んでいた人、抑留された人やその子孫が訪れることが多く、案内先も自然とそういう場所になっていく。元々歴史好きだったこともあり、いつしかハバロフスクに関連した日本人の歴史を調べ、地図を作り、冊子にまでまとめていた。まさにNさんはライトパーソンを紹介してくれたことになる。このご縁には感謝しかない。

 

ホテルの外へ出ると日が出ており、思ったほどは寒くない。この周辺にも歴史的建造物はいくつもあり、元特務機関の事務所だったところを外から見学後、すぐに銀行に向かった。まずは資金がないと何もできない。そこで聞いてもらったところによると、『空港のATMでは現金が出ないことがある』という衝撃的な話だった。ロシアのATMとは何だろうか。

 

まあ銀行によって、ルーブルが出てくる機械もあるとは思うが、常に安定して出てくれないと、旅行者としては困ってしまう。またこれは余談だが、私の場合、今回主に使おうと思っていた銀聯カードが弾かれてしまったのだが、それはこのATMのせいではないことが、中国に行って分かることになるので、今回は運が悪かったというべきかもしれない。取り敢えず今後ロシアでは大目に現金を持ち歩くことにして、ポボロツキーさんの通訳で両替を済ませる。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(1)ルーブル調達に失敗

《遥かハバロフスクに茶旅する2019》  2019年3月14-18日

3年前に突き付けられた課題。それは明治時代に九州茶をシベリア、モンゴルに売り込んだ男の足跡を知りたいという、ある意味で途轍もない要求だった。私のところに話しが来た理由は『台湾で亡くなった』というそれだけだった。それでも台湾サイドでの調査は困難を極めたが、少しずつ前進していた。

 

ただ本題であるロシアはいけない。ロシアは言葉も通じず、文字も読めないことを3年前の万里茶路の過酷な旅で存分に味わっていた。しかも120年も前の日本人の足跡など追えるはずもなかったので、残念ながら早々に諦めていた。

 

最近ロシア極東に行く人が増えているとは聞いていた。ビザも緩和されているらしい。地球の歩き方も最新版が出るという。その取材をしていたNさんとは以前2-3度会ったことがあり、何となく、『ウラジオストックかハバロフスクで歴史に詳しい人を知らないか』と問い合わせた。

 

すると3日ほどして、『ポボロツキーさんから「あなたの探しているハバロフスクの可徳商店のあった場所などは、分かっているので、来るなら案内する」との完璧な日本語のメッセージを受け取った』という何とも驚くようなニュースがもたらされた。しかもポボロツキーさんは、私が月刊茶に書いた『可徳乾三』についての話も既に読んでくれたというではないか。彼は一体どんな人なのだろう、などとは考えず、これは行くしかあるまい、と日程を調整する。

 

3月14日(木)
ハバロフスクへ

ロシア極東、北方領土問題などで緊張しているかと思えば、ロシア側は近年日本人に対してビザを緩和していた。ウラジオストック、ハバロフスク、サハリンの内1か所だけの訪問、8日以内であれば、PCで申請書を打ち込めば、3日ほどでビザがメールされてきて、それを印刷して持ち込めばよいという。3年前はロシアの旅行社から招聘状を取り寄せ、それを持ってロシア大使館に行き、数日待って4000円払ってビザを取得したことから考えれば、とんでもなく楽だ。可徳の足跡はウラジオストックにもあったが、今回は取り敢えずこのビザを使い、ハバロフスクだけに行く。

 

フライトも調べてみたら、成田からハバロフスクへの直行便が飛んでいる。しかもフライト時間は2時間40分と表示されており、そんなに近いのかと驚く。これなら台湾へ行くより近い。私の極東ロシアへの心理的な距離はかなり遠いものがあったが、実際の距離は驚くほど近いのだ。

 

成田まで行き、S7というロシアの航空会社を探してチェックインする。すると係の女性は私が印刷しておいたビザを詳細に確認して、更に上司にも見せに行って何とか発券にこぎつけた。あれ、ビザ緩和から結構経っているのにどうして、と不安が過る。預け荷物の料金は予約の時に払っていたので問題はなかったが、この航空会社はロシアのLCCだとやっとわかった。

 

搭乗時間に行って見ると並んでいるのはほぼロシア人だった。S7は機体の色が独特、企業カラーらしい。機内は完全なアウエー状態。CAは英語が出来るので救われるが、ロシア語の渦に巻き込まれる。機内食はLCCながらサンドイッチとドリンクが出た。ちょっとフラッと寝ていると、もう着陸態勢に入っている。実質搭乗時間は2時間ちょっとだった。因みに時差はハバロフスクの方が1時間早い。

 

ハバロフスク空港のイミグレは混むので早く並べ、とどこかに書いてあった。確かに皆が先を争ってイミグレに突進している。だが意外とそのスピードは速かった。それでも私の番になると緊張する。もしここで入国拒否されたらどうなるのだろうか。これも案に相違してすぐに解放され、むしろ荷物が全然出てこないことにいら立つ。ここで初めて日本人出張者らしい人を2-3人見掛け、ちょっと安堵する。

 

荷物を取り出し、税関を通る。基本的に荷物は何もチェックしないのだが、パスポートを見た女性職員がいきなり『マネー』と言ったのにはびっくりした。所持金はいくらかと聞いているのかとも思ったが、どうもそんな雰囲気ではなかった。『なぜ?』と英語で問い返すとそのままパスポートを返してきたのは何だったのだろうか。20年前ではないのだ、袖の下を要求したとも思えないが。

 

出口を出ると、この空港が如何に小さいかを知る。まずはルーブルを調達しなければならない。両替所はなく、ATMが1台あるだけ。そこに中国の銀聯カード、ビザカードなどを入れてみたが、全て最後のところでスタックして、お金が出てこなかった。シムカードを買うところすらなく、国内線ターミナルへ行けと言われ、何と外へ出される。現在新ターミナルが建設中なのだろうか、その向こうに国内線はあった。予想していたより寒くはないが、すでに日が暮れようとしており、不安が募る。

 

国内線でもATMからお金は出なかった。そしてシムカードを買おうと店に入ったが、こちらもクレジットカードの読み取り機が壊れていると言われ、購入できず途方に暮れる。3年前のロシア旅行で残っていたルーブルを持っていたが、僅か300ルーブル。それではカードは買えず、更にタクシーにも乗れない額だった。

島根横断茶旅2019(5)吉賀の夢見る茶畑

3月11日(月)
津和野から吉賀町へ

朝早めに起きて散歩しようと思ったが雨模様なので取りやめる。8時頃に食事が用意されており、一人でポツンと食べた。昨日の朝もそうだったが、関東などでは和朝食の定番である、納豆、生卵、海苔の3点セットは一つも出てこなかった。これは何を意味しているのだろうか。納豆はスーパーなどでは普通に売っているというのだが。

 

散歩に出た。古い街並みを歩く。津和野駅に着くと、突然強い雨が降り出し、傘もないので雨宿り。その風情はなかなか良い。雨が止んだのでまた歩き出す。川沿いから教会へ。ここの教会、本堂は畳敷き。如何にも歴史を感じさせる。幕末に潜伏キリシタンが島原から送られてきて(浦上四番崩れ)、ここで弾圧されたという歴史もある。そしてまた雨が降り出し、濡れながら宿へ帰る。

 

Uさんが迎えに来てくれた頃には雨は上がっていた。私が歩かなかったもう一本の道を散歩する。古い薬屋さんがあり、お茶との関連を聞くが特に収穫はない。そのまま一軒のお茶屋に入る。どう見ても老舗だが、最近老夫婦が引退して孫娘が継いだという。しかもご主人はフランス人。何だかとてもユニークだ。

 

香味園 上領茶舗、カワラケツメイを使ったざら茶を売っている。健康茶として認知されつつあるようだ。店舗はいかにも昔からある、という雰囲気が良い。かなり古い茶缶が無造作に置かれている。実は津和野に来る外国人の半数はフランス人らしい。ご主人は大阪で奥さんと出会い、縁があってここにやって来たのだが、これは面白い取り合わせかな、と密かに思う。因みにフランス人が津和野に来る理由は、『有名なガイドブックに載っているから』とか。

 

もう一軒、お茶の秀翠園というところも訪ねた。事前に連絡したが返事がなかったため、突然の訪問となったが、対応してくれた。この地区では一番手広く茶業をしているという。茶工場前の茶畑から見る山の景色は良い。お話しを聞くと、これまでで一番現実的。文化や伝統を守る、ようは茶業を続けていくためには、売れるお茶を作り、宣伝し、包装することだ、という。これはとてもはっきりしていてよい。こちらもお嬢さんがイタリア帰りで、お婿さんはイタリア人とか。これからはクルーズ船に合わせて外国人にも売っていくという。

 

そしてついに、Uさんの住む吉賀町に向かった。ここまで本当に長かったように思う。天気はいつの間にか快晴となる。40分ぐらい山沿いの道を行くと、到着した。まずは道の駅でランチを食べる。ランチを食べられる場所があまりないらしい。食堂には地元のお客さんがいて、Uさんに話しかけてくる人もいる。狭い社会なのだろう。隣では特産品などが売られており、Uさんの作るお茶も置かれていた。

 

Uさんがここに住み始めて2年。色々な困難もあるようだが、サポートしてくれる人々も沢山いるようで、特に農家の人々が何でも自分で作り、治すのには驚くという。確かに他に頼れるものが無ければ自分でやるしかない。そこに創意工夫や技術革新というものが育つのではないだろうか。私などにはとてもできない。

 

Uさんたちの茶畑を見る。ちょっと道路から上がっており、隠里的茶畑がそこにあった。以前は神奈川で『夢見る茶畑』をやっていたUさんらしい、茶のシーズンにはまだ早く、芽は出ていないが、それは趣があり、またきれいに整備されたところだった。環境がよく、空気もよかった。時々クマやイノシシが出るらしい。ここで作られる有機茶、実は昨年もらって飲んでいるのだが、予想を上回る美味しさで重宝している。因みにこの畑の下には、某お笑い芸人の実家があり、そこは非常に立派な建物だが、誰も住んでいないのでもったいない感じがする。

 

もう一つ別の場所にも行く。この地域はかなり以前から茶があり、山の中、林の中にもその痕跡があるという。実際に林には入っていけないが、道路脇にも茶樹がチラホラ見える。島根県の茶をこれまで見てきたが、大体は誰かが植えたものだった。だが、ここにはそれよりもっと古い何かがあるのではないか、と思わせてくれた。当然大陸や朝鮮半島との関連を考えるべきだが、その資料は今のところないようだ。

 

あっという間に時は過ぎてしまい、Uさんの車で、石見・萩空港まで送ってもらう。小1時間で到着。4日間もお世話になってしまい、感謝しかない。空港はとても小さく、空港バスは1日2便しかない。何とフライトはANAの1日2便だけのようだ。後でニュースを見たら、地元では空港存続?の運動もしているようだ。

 

まだ相当に時間があったので、空港の外の丘に登ってみる。これだけ空港が丸見えの丘、というのも珍しい。ゆっくりと夕日が空港の向こうに沈んでいく。空港内で簡単な土産を買い、テレビを見ると相撲をやっている。横綱の取り込みの前にコールが掛かり、乗り込んでみたが、お客はそれほど多くはなく、ゆったりと東京へ戻っていった。

島根横断茶旅2019(4)出雲から津和野へ

3月10日(日)
出雲から津和野へ

翌朝は宿の朝食を頼んでおいた。2階の食事場所は、和食屋さんの座敷で、ビジネスホテル+サウナの朝食とは思えない旅館気分。意外とたくさんの人が泊まって朝飯を食べていたのにはちょっとビックリ。結局サウナにも入らず、車に乗り込み出発した。

 

車で1時間ぐらい行った山間に美郷町はあった。まずはスーパーに行く。後で知ったのだが、ここが街で唯一のスーパーだそうだ。普通の物も売っているが、地元の農家が持ち込んだ野菜なども売られており郷土色がある。中でも驚いたのはイノシシの缶詰。最近この町が発信して流行っているという。お茶も地元の番茶などが並んでいる。この町には鉄道駅もあったが、既に廃線になっているという。

 

茶農家を訪問する。道路脇に家が少なくなると、どこの家へ行けばよいか分からなくなる。何とか探し当てると、そこには農作業をする老夫婦がいた。ここに住んでいる訳ではなく、茶を作るために来ているらしい。父親の代からここで茶作りをしているが、茶だけで食べられない時期は、山仕事の会社に勤めていた。その時はバブル期で社員旅行にタイや韓国に行った話を楽しそうにする。お母さんが被っていた編み笠はその時タイで買ったものだというから物持ちが良い。

 

番茶も作るが煎茶も作る。売れるものを作るのが茶農家だという。向こうの畑は苗を植えて1年、べにふうきでこれから紅茶を作るというから、何とも元気だ。だが息子は松江で働いており、後を継ぐかどうかは分からない。周辺の茶農家もどんどん辞めていき、今は3軒ほどになっているという。何ともきれいな茶畑と風景、残せるといいが、それもまた経済が前提か。

 

帰りにここのお茶を買おうとして、一軒の家を探す。そこでしか売っていないというので行って見たが、昔は雑貨屋だったと思われる店、今商品は殆どなく、お茶だけがぽつんと置かれていた。店主のおじさんと話すと『この村でも出征経験があるのは私一人になってしまった』と言い、人口減少で、小さな店はほぼ無くなり、先ほどのスーパーが残るだけになっているらしい。隣を見ると小さな茶工場があり、往時は沢山の農家がここで茶を作っていたのだろう。

 

ここ美郷町には比較的大きな川が流れているが、少し上流に行くとダムがあった。1950年代に出来たとあるが、先ほどの農家では『ダムのせいで、この付近の気候(霧の出方など)が変わり、茶作りに影響が出た』と言っていたがどうだろうか。開発と環境保全、古くて新しいテーマではないか。

 

それから車は日本海側に出て、大田、江津、浜田を通り抜けて、2時間以上かけて雨の中、益田市までやって来た。もう山口県とは県境だ。益田の街中で、日曜日の今日はイベントが行われているという。だがイベント会場には駐車場の空きがなく、駐車できない。仕方なく、まだ食べていなかった昼ご飯にありつく。街をちょっと抜けたところにあるその飯屋は、古民家を改造した建物で、非常に素晴らしい。食事の内容も豪華で、かなり満足度が高い。

 

満腹になったところで会場に戻り、何とか駐車した。グラントワという芸術センター、非常に立派な、美術館などを併設した複合施設だ。その中庭では大雨にも拘らず、神楽が上演されており、熱心に見入る地元の人々がいた。益田、いや島根では神楽は日常的なもので、小さい頃から見慣れているという。上演が終わると、子供たちがその衣装を着せてもらい、写真を撮るなど、文化の継承が行われていた。ここで今日はUさんたちが作る吉賀町のお茶も売られていたが、あいにくの雨でお客は少なかったらしい。

 

ちょっと寄り道、と言って、連れていかれた場所は茶器などを作る工房だった。裏には窯もあるという。そこで作られている物は萩焼とはまた別の益田の焼きも、雪舟焼の窯元だった。あの雪舟に因んだ名が付いており、近年注目されているという。会話は当然のように茶道になっていき、ご主人がサラサラっと、お茶を点ててくれるのが良い。雪舟繋がりで、近所にあるお寺も訪ねてみた。雪舟は益田に滞在していたようだ。

 

Uさんが現在住む吉賀町に向かうことになったが、その前に今晩の私の宿を確保すべく、電話を掛けてくれた。だが何と、いくつかの宿は満員と言われてしまう。この雨の日曜日の夜に満員とはあり得ないだろう。きっとお客がいないので、今日は休業していると想像するが、泊まる所がないのは何とも困る。

 

結局吉賀町に泊まるのを諦めて、津和野に向かうことになった。津和野、何とも懐かしい響きだが、勿論来たことは一度もない。その昔、JRのコマーシャルで見たのだろうか。一時津和野ブームが起こっていたらしい。暗くなる頃、津和野に入り、民宿に投宿した。昔は繁盛した宿なのだろうが、今晩は一人の客もいない。食事が出来る場所も限られており、早々に6畳の部屋に帰り、テレビを見て寝てしまう。

島根横断茶旅2019(3)奥深い出雲へ

ちょっと早いお昼を食べようかと、かんべの里という場所へ行く。そこは20年前に歩いた神魂神社の近く。出雲風土記の世界を味わえるとても良い神社だった記憶がある。その時はかなりの距離を歩き、神社とは何か、などを考えていた。かんべの里は道の駅のようなところだったが、土曜日のせいか、大変混んでおり、昼ご飯を食べ損ねて去る。

 

宍道湖を回り、車は出雲方面に出ていく。30分ぐらい行くと山道を登り始め、かなりの山の中に着く。そこにはコテージなどの表示があり、一瞬ペンションにでも来たかと思ったが、よく見るとお寺だった。一畑薬師。入っていくとすぐに『お茶湯』があり、お茶を掛けてお参りする。番茶もそこで販売していた。薬師というぐらいだから薬と関連があり、お茶との関連も垣間見える。

 

実はかなり大きなこのお寺。本堂からは読経が流れてくる。仏像が並んでいるところを見ていると何と『赤塚富士夫、天才バカボンのレレレのおじさんのモデル』と書かれた像があったので驚いてしまった。注荼半諾迦というひたすら掃除をして、人の心の汚れは落ちにくいと悟ったとある。もう少し行くと水木しげるの漫画に出てくる『のんのんばあ』の像もある。何だか観光地に来てしまった感が強く、少し違和感はあるが面白い。

 

お腹が空いている。少し下ったところにお店があるというので車で向かう。本当は階段で行けばよいのだが、帰りの上りが怖い。お店には番茶の大きな袋が売られており、『この辺の人は800gも入っているものがお得だから買うのよ』と言われて、この周辺の番茶文化を知る。温かいのと冷たい出雲そばを両方頂き、別の店でまんじゅうも食べて、お茶も飲ませてもらい満足。

 

そこから山道を10分ぐらい下ると茶畑が見えてきた。ここが一畑番茶の畑かと思ったが、防霜ファンがあり、寒冷紗が掛かっており、玉露でも作るのかと思うような設備になっている。しかも茶樹は若く、最近開拓されたようにも見える。この辺りにも新しい動きがあるのかもしれない。

 

更に30分ぐらい走ると、寺の入り口が見えてきた。鰐淵寺と言い、弁慶修行の地とある。武蔵坊弁慶は出雲の生まれだった。京都に出る前にこの寺にいたようだ。ここは1つの山全体が寺になっており、かなり広い。ただ入り口で入山料500円を徴収するというのは如何なものだろうか。推古2年(594年)開山、天台宗の古刹とはどういう意味だろうか。我々は茶旅中で時間もないのでパスしていく。

 

山登りを続けていくと、唐川という場所に着く。とてもきれいな茶畑が並んでおり、思わず写真を撮る。Uさんによれば、ここがぼてぼて茶の番茶を供給している地区だという。農家のおじさんの言葉も訛りが強くて少しわかり難いが、そこがまた情緒があってよい。ここにはまだかなりの茶農家が残っており、春にはお茶祭りも開かれるという。『今茶はないよ、春においで!』と言われ、また来たくなるような風景を去る。

 

田舎の路は分かり難い。ナビもあまり役に立たない。同じ場所をぐるぐるしていたが出られない。いつの間にか辿り着いたのは、韓竈神社。出雲風土記にも登場する由緒ある神社。名前からして朝鮮半島から渡来した人が作ったものだろう。いや、この辺は半島と近く、ゆかりの場所は沢山あるはずだ。

 

神社は高いところにあるようだが、石段は滑りやすいので、上るのを諦める。船石があるというので、小川の横の道を上がっていく。船石と言えば、高橋克彦の小説ではUFOということになっているのを思い出す。小さな滝などもあり、自然に満ち溢れていたが、夕方ということもあり、ちょっと神秘的で恐ろしい雰囲気もある。何かに付かれたように歩いてしまい、Uさんに『行き過ぎです』と言われるまで気が付かなかった。大きな石もあり、いわゆるパワースポットなのだろうか。

 

今日はどこに泊まるか決めていなかった。Uさんがネット検索すると、我々がこれから向かう西の方には安くて手頃な宿はないようだった。今日は土曜日なので、既に満員なのだろうか。仕方なく、出雲市に戻り、宿泊先を探す。辿り着いたのは、郊外のホテル。何と地元の人がサウナや岩盤浴に来るところの上がビジネスホテルとして泊れるようになっていた。週末は出張者の宿泊もなく、閑散としている感じだった。

 

夕飯を食べる所もあまりなく、名物を食べるのは早々に諦め、普通の食堂に入った。『かつ柳川』というメニューがあり注文すると、いわゆるカツ煮、かつ卵とじが出てきた。柳川とは、ゴボウが入っていれば柳川なのか、それともこの鍋を使っていれば柳川なのか、地域性も含めてちょっとした考察をした。

 

更にはUさんと人生について語り合っていると、あっという間に閉店の時間なり、宿に帰ってサウナにでも入ろうかと思っていたら、何と既に時間を過ぎていて入れなかった。女性用岩盤浴は遅くまでやっているのになぜ、と思いながらも、少し疲れていたので、すぐに眠りについてしまった。