ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(1)変化するヤンゴン

《ミャンマーの茶商を訪ねて2018》  2018年10月5-12日

4月に福建省の安渓に行った時、地元の華僑史研究の第一人者、陳先生と出会い、その著書をもらった。その本をパラパラ見ていると、東南アジアに出て行った安渓出身者の中で、茶業に従事した者が何人か取り上げられていた。さすが安渓、茶産地らしい。

ちょうど10月からミャンマーに入るのに、日本人はビザ免除になったこともあり、まずはヤンゴンへ行ってその華人の末裔を探してみようと考えた。果たしてそんなにうまくいくのだろうか。バンコックでの成功体験を胸に勢い込んで向かう。

10月5日(金)
ヤンゴンの変化

エアアジアは無事にヤンゴン空港に着いた。イミグレで日本人向けビザ免除が浸透しているのか、帰りのチケットを持たないでも本当に免除になるのか、ヤンゴンから入って、他の街から出国することは可能なのかなど、いくつかの不安があったが、それは完全に杞憂に終わる。イミグレの女性係官は笑顔で『ノービザね』と言い、あっという間に通過できた。観光目的に限り30日間免除、ということだが、これまでビザ取得にかかっていた時間、そして50ドル程度の費用が一瞬にしてなくなり、夢のようだった。

 

外へ出ると、シムカードも簡単に買える。ほんの数年前は保証金を出してシムカードを借り、帰りに空港で返していたのが何とも懐かしい。しかも料金は5500kと安い。空港内にはKFCも出来ており、どんどん変化していることがよくわかる。今までは空港にTTMなどが迎えに来てくれていたが、今回は初めて一人でダウンタウンに行くことになっていたのが唯一の不安材料。

 

タクシーも考えたが、シャトルバスがあると聞き、乗ってみる。僅か500kでさくらタワーまで行けた。何と便利になったのだろう。勿論沢山のバス停に止まるため時間はそれなりにかかり、車内アナウンスも全くなので、どこで降りてよいか分からないともいえるが、慣れている人なら大いに助かる。このバス、一般ミャンマー人も利用しているが、市内バス200kよりはかなり高いという。

 

今回はさくらタワーのすぐ横のホテルを予約していた。確か数年前は100ドル近くしたホテルのはずだが、予約した料金は僅か30ドルちょっと。行ってみると、かなり古いのだが、部屋には趣がある。Wi-Fiは弱く、繋がり難いが、それでもこの立地、朝食付きで、この料金は以前では考えられない。ヤンゴンのホテルバブルは収まったと言えるのではないか。

 

まだ日も高いので、取り敢えず周囲の散策を始めた。この付近、何度も来たことはあるが、ボージョーマーケットやさくらタワーなど、用事がある時だけ歩いているので、実はあまり馴染みがない。ボージョーの向かい側には大きな新しいビルが建ち、風景も変わってきている。だがその向こうには植民地時代の古い建物が並ぶ。病院だろうか。華人街、インド人街もその南側に広がっていた。路地には市場が立っており、柚子を買った。バナナも買いたかったが、いいものがなかった。

 

夜、一度ヤンゴンで会ったIさんと再会した。彼女はベトナムからヤンゴンに移って数年、精力的にミャンマー事情を紹介している。彼女はチャイナタウンの近くにある、ミャンマー人の若者が最近オープンしたという茶館に連れて行ってくれた。そこは賑やかな繁華街にあり、1階はバーのように見えた。

 

2階に上がるとそこは座敷のようになっており、ゆっくり座って茶を飲むことができる。こういう空間がミャンマーにも出現したのかと、ちょっと驚く。ここには数種類の中国茶が置かれており、簡単な食事もできた。お茶はポットでも3000kと決して高くはないが、ミャンマーの物価からすれば結構な値段なのだろう。

 

帰りがけに1階にいるオーナーからちょっと話を聞くことができた。まだ30歳、元々コーヒー店を経営しており、繁盛しているという。彼も親が雲南からやって来た華僑であり、中国語を普通に話す。コーヒーだけでなく中国的な茶にも目を向けたのだろう。正直酒を出すバーの方が儲かりそうに思うのだが。そんなことを考えていると、四川から来たという中国人が来店して話を始めたので、おいとました。

 

繁華街は夜10時を過ぎ、かなり盛り上がっていた。道の真ん中を占拠している果物の露店商も売り込みに懸命だ。Iさんは帰りのタクシーを探しているが、価格面でなかなか折り合いが付かない。そろそろメーターで普通に行って欲しいのだが、この辺に昔のミャンマーの名残がある。

バンコックの茶商を訪ねて2018(2)バンコックの2大茶商をついに発見

途中にきれいな寺があり、これかなと思って入ってみたが、違っていた。そこのお坊さんに中国語を使ってみても全く反応がなかった。ただここにお参りに来ている華人は結構いるようで、漢字の写真付きのプレートは嵌っていた。我々が思うチャイナタウンからは、だいぶ離れてきたように思われた。

 

更に進んでいくと、狭い路地のようになっていく。その奥にその廟、清水祖祠があった。奥の割には意外と大きい。そこにいた女性に声を掛けると一人は流ちょうな標準語を話した。この付近にはやはり福建系が多いらしい。そしてこの廟はあの福建省安渓にあった清水岩寺の分家だと分かりハッとする。

 

この廟の横はもうチャオプラヤ川なのだ。100年以上前、この辺りでは活発な貿易が行われていたに違いない。そして福建華僑の人々はここにお参りに来たはずだ。ちょっと暑いがいい風が吹いている。そこのおばさんが、『コーヒーを飲むいい場所がある』と案内してくれたのが、近くの見事なお屋敷。

 

昔コメ貿易で財を成した潮州系一族が暮らしていたようで、古い建屋が建っているのだが、今は末裔がダイビングをやるため、庭の真ん中はプールという極めて特徴的な場所だった。2階に一族関連の展示が少しあるが、ここも川にほぼ隣接しており、往時は米の輸出を激しく行っていたと想像できる。2階で冷たいお茶を啜ると心地よい。タイ華人や白人が来ており、穴場の観光地と化している。

 

取り敢えず腹が減ったので、ヤワラーに戻り、飲茶を食べる。ちょっと暑かったこともあり、そこで休息方々、2時間以上もしゃべり続けた。その後Oさんとは別れ、Mさんともう一つの調べに出掛けた。前回ここに来た時、台北の有記茶荘のお茶を売っている、と言っていたところがあったが、今一つ言葉が通じなかったので、Mさんを通訳に確認に行く。

 

そこはやはり、王有記の店だと分かった。有記は2代目がバンコックで開業しており、その末裔かと思ったが、それもちょっと違うらしい。この店のオーナー、4代目は不在だということで詳しいことは分からないが、店の男性は『実は王有記はもう一つあるよ』というではないか。

 

その場所を彼は簡単に説明してくれ、遠くはない、と言ったので、何となくその方向へ歩き出した。ところがタイ語で確認していたMさんは『そんなに近い訳はない』と言い出し、周辺で聞き込みを始める。でも誰も知らない。仕方なく、唯一得た場所のキーワードを頼りに、トゥクトゥクに乗り込み向かう。かなり走った後、政府機関の前で停まる。

 

もうこの辺はヤワラーではないが、漢字の看板は多い。飛び込みでMさんが聞き込みすると、何と近くにあることが分かり、ついには発見に至る。そこにはきちんと漢字で王有記と書かれているではないか。店の女性に聞いたがよく分からない。そこに4代目店主の女性が帰ってきて中国語で話が聞けた。この店の前身は約100年前に開業した、まさに2代目有記だった。もう感激だ。

 

色々と話を聞いたが、取材された英語記事なども見せてもらい、理解を深めた。今は姉弟で経営しているというが、跡取りはいないので、今後がどうなるかはちょっと心配だ。ヤワラーのような観光地ではないので、中国人や台湾人観光客も期待できない。地元民はどんどん茶を飲まなくなっている。さて、どうなるのか。

 

そこでタクシーを拾った。午前中に訪ねて引っ越した人と連絡が着いたのだ。ただそこはヤワラーからは遥かに離れた場所だった。車に揺られて30分以上かかった。一体どこへ行ってしまうのだろう。着いたところは立派な中華レストランだった。そして2階に上がると、そこにリバービューの席がある。夕暮れのチャオプラヤを見ながら、美味しい広東料理を食べた。

 

ここのオーナーはどこにいるのか、ずっと待っていたが来なかったので、もう一度聞いてみると何と隣で食事をしていた女性だった。この人が我々の探していた建峰茶荘の末裔。茶荘を閉めてレストランを興したのかと思っていたが、一応今も茶荘は続けていると言い、1階に看板も置かれていた。ついにここまで辿り着いたか、と感激はひとしお。今回はこれで目的達成と喜んだが、更にここで次の手掛かりを得る。茶のご縁はどんどん繋がっていく。

 

10月5日(金)
ヤンゴンへ

翌朝もコーヒーを飲んでチェックアウト。タクシーでドムアン空港に向かう。今日も又道は極めてスムーズで、30分以内で空港に到着した。朝ご飯を食べていなかったので、周囲を見渡すと、和食の看板があったので入ってみた。だが出てきたのは和食というより、もどき。それでもまあ食べられるのでよい。サボテンがあった時代が懐かしい。

 

今日は珍しくエアアジアに乗る。最近はこれに乗る必要がなく、何となく敬遠していたが、今回は時間の関係で乗る。私が買ったチケットにはなぜかご飯をついており、私だけが食べることになって恥ずかしい。皆ヤンゴンへ行く時荷物は手荷物だけなのだろうか。1時間のフライトでは食べ物は要らない。

バンコックの茶商を訪ねて2018(1)リベンジのヤワラー探索

《バンコックの茶商を訪ねて2018》  2018年10月3-5日、12-15日、21-23日

僅か1か月ちょっと前に行ったばかりのバンコック。今回はビザ免除になったミャンマーに行くついでに、ほんのトランジットのつもりで飛んで行った。だが1か月前のヤワラー攻略戦の不完全燃焼を抱えたままでは終われない。ちょうどバンコック在住のMさんが、タイ語の部分をサポートしてくれることになり、ある資料を手掛かりに、再度ヤワラーに分け入ることとなった。

 

10月3日(水)
バンコックまで

久しぶりに早起きした。午前4時、長男はバイトから帰ってきていた。午前5時過ぎの電車に乗って成田空港を目指す。7時半前に成田空港に到着したが、この空港はまだ完全に起き上がってはいなかった。店は7時半から開くらしい。今回選んだベトナム航空はすぐにチェックイン出来た。

 

3年前に同じベトナム航空でハノイ行きに乗った時は、確か1時間以上並ぶ羽目になった。その悪夢から逃れただけでもよかった。とにかくベトナム航空は安い。ベトナム経由のバンコック往復が3万円台、当然乗る人は多いと思っていたが、嘘のように人がいない。早過ぎただけなのか。

 

なぜかUAのラウンジが使えるというので行ってみたが、何と午前8時開門だった。どういう連携になっているのだろうか。実はベトナム航空はスカイチームの一員でありながら、最近ANAが資本参加しているというねじれ現象を起こし、複雑な状態になっていた。国内ではべトジェットに追い上げられているとも言われ、内部事情は厳しいのかもしれない。

 

やはり満席にはなっておらず、ゆったりと座席に着いた。フライトは順調、安いけれどLCCではないので、立派な機内食も出る。ほぼ寝込んでいると5時間ちょっとでハノイ空港に着いた。ここで2時間トランジットして、そのままバンコックに向かう。空港はきれいだが、特に何もないので退屈。トイレから外がきれいに見えるのはちょっと驚き。外からも見えるのだろうか?

 

バンコック行のフライトは本当にガラガラだった。だが成田で既に発券されたチケットには窓側の座席が指定されていた。CAに『通路側でお願いしたんだけど』というと、ドアが閉まったら、どこへでもどうぞ、と言われる。最近は指定された座席にしか座ってはいけない、と言われることもあったので、有り難く移動した。また機内食が出る。食べる。これは完全な赤字路線だ。夕日がきれいだ。

 

午後6時にはバンコックに到着した。シムカードを購入すると、同じAISなのに、8月のドムアンより100バーツ高い。何故なのだろうか。訳が分からないが購入するしか選択肢はない。電車に乗って定宿に向かう。ベトナム経由で丸1日が暮れ、暗くなって宿に着く。

 

10月4日(木)
ヤワラーリベンジ

翌朝はいつものようにコーヒーを飲む。終わるとすぐにMRTに向かう。今日はヤワラー調査のリベンジを決行する。ファランポーン駅まで行き、そこからは歩いてワット・トライミットへ。バンコック在住のMさんとインド在住で以前バンコックにも住んでいたOさんとの待ち合わせ場所を、有名なお寺にしたつもりだったが、二人とも、『初めて来た』というので、かなりビックリした。在住者は観光地には行かないものか。確かに日本人観光客は多くはないかも。

 

取り敢えずの手掛かりは、手紙のレターヘッドに書かれた茶荘。中国語で住所が書かれていたが、タイ語で何と言うか分からない。そこを解決したMさん、スマホでその場所へ連れて行ってくれた。だがそこの門は固く閉まっている。隣の人にタイ語で聞いてもらうと、数年前に引っ越していた。そこで手掛かりは途切れた、かに見えたが、後で奇跡が起こることになる。やはりMさんとOさんの二人のタイ語力は相当に役立った。中国語にプラス現地語、これが華人調査の基本だと知る。

 

取り敢えず、前回福建会館で教えてもらった廟に行ってみることにした。歩き出してすぐに、正大と書かれたビルに出会った。正大といえば、タイの華人が設立した大企業、あのチャローンポカパーン集団の中国語名なのを思い出すが、なぜこの小さなビルにこの名前が付いているのか。念のため警備員に聞いてもらっていたところ、車から降りてきた男性が英語で話しかけてきた。

 

ここがなんとあの大企業の創業の地だったのだ。そしてその男性は、創業者の孫世代に当たる一族の人であり、非常に驚いた。タイでは有名企業だが、タイに住む日本人はこの漢字の企業名は知らない。私のような者が歩いて初めて発見できるということを知る。タイ語も必要だが、中国語も必要であり、しかも一定の知識があれば、歩きは俄然エキサイティングになる。3人ともノリノリになっていく。

ある日の台北日記2018その2(8)ベトナム華僑と会う

9月23日(日)
アフタヌーンティーをしながら

流石に朝4時に起きて空港まで行ったので、帰ってくると眠気が凄い。昼までは寝ることにした。起き上がって少しするともう出掛ける時間となった。今日はインドから来ている知り合いのOさんと会うことになっていた。Oさんとは数年前、バンコックのお茶会で知り合ったのだが、その後彼はいつの間にかインド、それもラダックに行く途中にあるマナリー付近に引っ越していて驚いた。しかも発酵関連のワークショップなどをやっており、二重に驚く。

 

ちょうど台北にいることが分かったので、彼の宿泊先に会いに行く。その前に小腹が空いたので、雲吞麺を食べる。偶に食べると美味しい。そして数年ぶりの再会。この宿の付近にはカフェなどもなく、探して歩き出す。今日は日曜なので、人はほとんど歩いていない。曇りで暑くもない。

 

話に夢中になっているといつの間にか南京路に出ていた。そこにちょっとおしゃれなカフェがあったので見てみると、何と紅茶館だったのだ。台北で紅茶専門店は極めて珍しいので入ってみる。このお店、1990年頃からあるようで、かなりの老舗だった。週末の午後ということで、家族連れが豪華なアフタヌーンティーを頼んでいる。男二人はちょっと浮いていたかもしれない。台北も普通にアフタヌーンティーを楽しむ時代が来たようだ。

 

インド紅茶とお菓子のセットを頼んでみたが、お菓子はかなり甘かった。最近の台湾人は甘い物を食べないと思っているが、これは伝統的な部類なのだろうか。Oさんは甘党だと言って食べていたが、私は全部は食べ切れない。紅茶は美味しいので、お菓子もいずれ甘さの調整が入るだろう。

 

Oさんはインドで味噌を作ったりして、発酵の研究をしているのだという。これはとても興味深い。マナリ―という街は是非訪れたいと思っていたので、出来るだけ早く訪問することにした。黒茶など、お茶でも発酵が絡むものもあるので、相互の情報交換は有意義だった。気が付けば4時間近く話し込んでいた。おまけに10日後にバンコックに行く予定だというと、そこでも一緒になることが分かり、ご縁を感じる。

 

9月25日(火)
ベトナム華僑と会う

実は今回台北に来てすぐに茶商公会で総幹事から一人の女性を紹介されていた。その人はベトナム華僑で、一族は茶業をしていたというので、ベトナム茶の歴史が分かるかもしれないと思い、連絡を取ったのだが、ちょうど都合が悪かったのか、その後連絡はなく、そのままになっていた。それが突然『いつ会うの?』というメッセージが飛び込んできて驚く。

 

明日には帰国すると言ったところ、では今日会いましょう、ということになり、急きょセッティングされた。こちらまで来て頂けるというので、取り敢えず大安駅近くの茗心坊で落ち合うことにした。彼女は店に入ってくるなり『いいお店ね』と言ってそのままお茶を飲み始めたので、ここで話を聞くことになってしまう。お店には迷惑な話だっただろう。

 

基本的に彼女、林さんは音楽家で、現在も音楽を教えている。茶業の歴史については殆ど知らないと言い、伯父さんが書いたという1冊の本を見せてくれた。本当はコピーしたかったが、初対面で預かる訳にもいかず、何より明日帰るので、致し方ない。断念した。彼女の家業ビジネスで何となく分かったことは、日本統治時代、福建に本拠があり、台湾から茶葉を東南アジアへ輸出する大手茶行であり、光復後は香港経由でベトナムに茶を輸出、そして解放後はホーチミンに逃れ、そこで彼女が生まれた、ということだった。

 

確かに資料にも名前がある茶行であり、興味深い。そして彼女も幼少期、ダラットの紅茶作りなどを見た記憶もあるということで、南ベトナムでのお茶の様子が少しわかった。ただそれもベトナム戦争終結とともに、また逃げ出すことになり、親族の一部はアメリカへ、彼女らは台湾に移住したのだという。勿論ここで茶業は完全に途絶えた。現在ホーチミンに行っても古いお茶屋が殆ど見られないのは、やはり戦争のせいだろう。

 

茗心坊の店主も姓は林であり、しかも同じ客家の出であることなども分り、この二人も突然繋がっていった。林さんは上海で手に入れたという、古い茶を持ち出し、この包装にあるマークはお宅のでしょう、と言ったので、本当に驚いてしまった。お茶と言うのはどこで繋がっているのか分からない。

 

今回台湾滞在もこうして終わった。毎回そうだが、とても実りが多く、また謎もどんどん深まっていき、嬉しいような、辛いような。ただまた11月には再訪するので、更に学びを深めていこう、そう思いながら、翌日成田行きのフライトに静かに乗り込んだ。

ある日の台北日記2018その2(7)和紅茶テースティング会

和紅茶テースティング会In台中

台中のトミー家の2階は講茶学院のスペースにもなっている。そこへ行くと準備は着々と進み、和紅茶も置かれている。まずは昼ごはんということで、スタッフ皆と弁当を食べる。如何にも台湾的ご飯でよい。ここで今回の通訳、エミリーと会う。彼女は神戸に留学経験があり、しかも台北のお茶屋の娘、ということで、通訳にはぴったりの人材だった。製茶公会のフレッダなども手伝いに来ている。

 

金曜日の午後にも拘らず、10数名の参加者を得て、会は始まった。Oさんから和紅茶について、一通りの説明を行い、その後、お茶の説明をしながら、まずは6種類のテースティング。ここに来ている人は、茶農家、茶商、そしてお茶好きばかりだから、質問も非常に細かくなる。テースティング会というのは、単に講師が話すセミナーと違って、皆が立ち上がって自由に動き、実物を飲みながらの話となることから、講師にも質問がしやすいという特徴があり、活発化するのだと知る。

 

前半はべにふうき品種を中心に、後半はそれ以外を6種類、鑑定方式で飲んでみた。途中の休憩時には虎屋の羊羹も出たが、やはり甘いという評価だった(思ったほど甘くなかったという意見もあり)。皆さんの率直な感想は、『日本にこんなに紅茶の種類があるとは思いもよらなかった』という物や『台湾の紅茶に似ているものが美味しかった』など言うことだった。

 

会が終わっても、しばらくは参加者が帰らずに質問したり、記念写真を撮っている。ようやくその波が収まると、近くのレストランに移動して小龍包などを食べる。ここは鼎泰豊にいた人が台中で開いた店ということで、鼎泰豊並みに美味しく、満足できる味。その後、トミーの車で台北へ移動した。何ともハードな日程だが、こればかりは如何ともしがたい。

 

9月22日(土)
和紅茶テースティング会In台北

翌日は朝ゆっくりして、10時にホテルに迎えに行く。そこから大稲埕まで歩いて行けたので、散歩がてら行く。お茶屋や埠頭を覗いていたが、『台北のオーガニック食品事情が知りたい』というので、急遽花博公園までタクシーに乗る。そこに自然食品を扱うお店があり、いくつか購入。

 

また同時に週末マーケットも開かれていたので、台湾各地から来た野菜や果物、お茶やコーヒーなどを見て回る。私もこんなところがあると初めて知る。お昼が近かったので、ついでに、そこのフードコートで麺を食べる。週末で家族連れがかなりたくさん来ており、驚いた。そこからMRTに乗り、今日の会場へ向かう。実はその会場のビルの下にも、Oさんが検索していたオーガニック系食堂があり、ビックリ。台北は急激にオーガニック食品、健康食品市場が拡大しているように見えた。

 

今日は土曜日、そして台北開催ということもあり、参加者は昨日よりさらに増えて30人近くになっていた。こんなに和紅茶に関心がある台湾人が多いとは本当に想像していなかった。これも日頃の講茶学院の活動の賜物だろう。そして昨日よりも、よりマニアックなお茶好きも来られ、また紅茶を輸入している茶業者、台湾紅茶を販売している人などが参加、益々細かい質問が飛び出していた。通訳のエミリーはさぞや大変だったのではないかと思う。

 

またOさんの美味しい和紅茶の淹れ方などにも関心が集まり、使っている茶器にも興味を示す人が多かった。日本の器に対するニーズも高い。食べ物と如何にペアリングするかなどは、台湾紅茶でも考えるべきことであり、単にスイーツと合わせるのではなく、高級和食などとのコラボ、という視点も参加者には刺激を与えたかもしれない。さすがこの道15年以上のOさん、経験豊富だ。

 

昨日同様会が終了しても、質問の輪は解けない。やはり和紅茶への関心は高い。というか、これまであまりにも知られてこなかったから、質問が多くなるということかもしれない。今後は講茶学院などを通じて、もう少し日本茶全般の知識を広めて欲しい。またOさんには来年もまた来て継続的に紹介して行って欲しい。

 

全てが終了して、何もしていない私でも気が抜けた。Oさんは慣れているとはいえ、異国で疲れただろう。今晩は北平料理の店へ行く。台湾では北京を都と認めないので、北平という。メインの北京ダックを久しぶりに食べる!美味しい。昔北京に住んでいた頃は年に何十回も食べていたのに。

 

最後にドリンクスタンドで緑茶飲料を買って飲んでみた。これも重要なマーケッティングだと思う。ただ分量が多くて飲み切れず、しかし台湾のMRTは車内で飲食禁止のため、ずっと持って歩くことになった。Oさんを送り届けて、帰宅の途に就く間に飲み干す。部屋ちょっと寝たが、翌朝はOさんが早朝便で帰国のため、午前5時にホテルに迎えに行き、空港まで送り届けた。トミーはそのまま台中へ、私は台北に戻った。怒涛の3日間は終わった。

ある日の台北日記2018その2(6)Oさんがやって来た

9月18日(火)
国家図書館

今日は以前よりお茶の歴史調べで協力してもらっている黄さんと会う予定になっていた。これまで寄稿した雑誌を渡すためだったが、黄さんから指定された場所が、何ともレトロな喫茶店で、ちょっと面白かった。蜜蜂珈琲という名で、行政院などに近く、記者などが取材の合間に立ち寄る場所だったらしい。そして役人や政治家も人と会うために利用するところで、その話の内容に聞き耳を立てている人もいるとか。今日もXX県の役人が選挙の話をひそひそとしていたとか。私には分からない世界だが、興味深い。

 

店のおばさんは私が日本人だと分かると日本語でお勧めランチを紹介してくれる。昔は日本人も沢山来たところなのだろう。私が知らなかっただけで有名なカフェということか。勧められるまま、宮爆鶏丁定食を頼む。何となく懐かしい味だ。食後のインスタントコーヒー、如何にも昔の台湾を思い出す。

 

黄さんと別れてU-bikeを探して、中正紀念堂まで走っていく。午後はここの前にある国家図書館で調べ物をすることにしていた。初めて来たので登録が必要だったが、簡単に終わる。悠游カードで入館できるらしい。当然ながらこの図書館もかなり大きいので、ざっと見てみる、という訳にはいかず、最初から目指すものを探しに行く。

 

それは1980年頃のある新聞の記事だった。ところがこれらは全てマイクロフィルムに収められており、特別の機械にフィルムを入れて1つずつ見なければならないことが分かり愕然となる。取り敢えず1つ借りてみたが、3か月分の新聞を見づらい機械を通してみるのは難行であり、1時間で断念した。この記事、とても重要なのだが、何とか検索できないものだろうか。

 

9月20日(木)
Oさんがやってきて

準備を進めてきた、和紅茶テースティング会のスタートが切られる。まずは和紅茶の第一人者であるOさんが佐賀から台北に到着する日となった。バスに乗って桃園空港まで迎えに出た。そうか、今や佐賀から桃園まで直行便が飛んでいる時代なんだ。タイガーエアは相当広い範囲をカバーしていて驚く。LCC、何とも有り難い。

 

ところがOさん、なかなか出てこない。佐賀の飛行場から連絡があったので、搭乗しているのは間違いないが、どうしてこんなに遅いのか。あのトレードマークの作務衣を怪しまれたのかなど、一緒に迎えに来たトミーとチャスターと話していると、ようやく姿が見えてホッとする。何と荷物超過となってしまったが、佐賀空港では支払いが出来ず、今支払っていたというのだから驚きだ。

 

午後のスケジュールも詰まっているが、取り敢えずランチということで、空港内のフードコートに行くも満員盛況。仕方なく、洋風のレストランに入り、牛肉麺を食べる。ここでもやはり紅茶を頼むOさん、さすが。

 

そこから車を飛ばして、3時半頃に、苗栗頭份に着く。お茶を感じられる場所ということで、製茶機械の張さんにところに寄り、コンテスト受賞茶などを飲んでみる。Oさんはこれまで何度か台湾には来ているようだが、今回は特別の旅にしてもらいたいと思っている。それから以前緑茶の調べで行った茶農家も訪ねる。こちらは数年前から紅茶も作っており、製茶場や機械を見学し、Oさんも興味津々。

 

それから頭份でお気に入りの客家料理を頂き、その後台中に向かう。台中ではトミーの家に寄り、明日の会場の下見や簡単な打ち合わせを行う。それが済むと、遅くなっていたが、チャスターの車で埔里まで走った。折角台中まで来たので、明日午前中は魚池辺りの紅茶作りを見に行こうと思い、敢えて埔里に泊まった。埔里で予約されたのは、蒋介石像がある圓環付近のビジネスホテル。何だか部屋がとても広かった。

 

9月21日(金)
魚池と埔里の紅茶

翌朝は早めに起きて、ホテルのご飯を食べようと思ったが、食堂に人はいなかった。ようやく探して出された飯は何とハンバーガーとフルーツ。てっきりお粥でも出てくると思っていたOさんは面食らっただろうな。私も埔里でこういう所に泊まるのは初めてだが、お客がいないので、どこかで買って来たかのようだった。

 

それから魚池へ向かう。農会のすぐ前にある茶工場。若手の王さんのところにお邪魔した。ここは設備も最新でお金が掛かっており、いい紅茶が作られ始めている。ちょうど茶作りが見られたので、一通り見学する。何種類もの紅茶のテースティングが始まる。朝からかなりハードな展開だ。

 

帰ろうかとした時、向こうから老人がやって来た。王さんのお爺さんだ。実はこの方、以前お会いしているが、林口茶業伝習所の卒業生で、日本語も話せる。日本人が来るととても喜んでくれるので、一緒に写真を撮る。本当はお爺さんに聞きたいことが沢山あったのだが、今回はOさんのアテンドで時間が無く、残念。次回はいつ会えるだろうか。

 

続いて埔里に戻り、先日も訪れたばかりの東邦紅茶に行った。ここでこの会社を紹介しながら、歴史的な茶工場を見学する。Oさんが是非茶畑が見たいというので、埔里郊外のシャン種が植えられている茶畑に向かった。これは全く予定外の行動ではあったが、やはり茶畑に来るだけでOさんも私も何となく元気になってしまうのが、おかしい。Oさんは楽しそうに茶畑を逐一眺めていた。

 

ある日の台北日記2018その2(5)魚池から霧社へ

9月16日(日)
魚池で

今朝は早く起きた。久しぶりに古巣の魚池付近へ行くためだ。7時発のバスで台北を出発、日曜日で混んでいるかと思っていたが、非常に順調で3時間もかからずに埔里に入ってしまった。元々は日月潭へ行く予定だったのだが、何とこのバスは日月潭に何時に着くのか責任は持てないというので、全員がここで降りた。

 

何故今日はバスがそんなに時間が掛かるのか。それは昨夜李さんからの連絡で分かっていた。1年に一度の『日月潭万人水泳大会』が今朝から開催されており、交通規制が敷かれてしまっていたからだった。日月潭に行く道は一方通行となり、バスの終点までは湖を一周しないといけないのだ。当然大渋滞になっており、何時着くかは分からない、という話になる。

 

相当早く着いたこともあり、すぐに代わりのバスを探さないで、様子を見ることにした。埔里には行き付けの朝ご飯屋さんがあるので、そこでクラブサンドを食べて待った。店の人には私が台北に移ったことは伝えておらず、いつもの笑顔対応だったので、今回も言いそびれた。

 

今日は李さんに魚池を案内してもらおうと思っていた。日月潭には知り合いが泊まっていたのだが、迎えに行くことは出来ず、まず私がどこまで行けるのかを試してみる。結局埔里発のバスは魚池までしか行かないと分かり、それに乗って進む。魚池で降りると、李さんが迎えに来て、老茶廠まで行って、そこで日月潭から脱出する知り合いを待った。何とか落ち合い、まずは昼ご飯を食べに行く。地元の人が沢山食べているレストランがあった。鴨肉も、イカと野菜の炒め物も、そして地元のタケノコも、美味しいのだ。田舎を侮ってはいけない。いいものを食べている人が沢山いる。

 

李さんは知り合いの黄さんがもうすぐオープンするというカフェ?に連れて行ってくれた。これがまた、レトロ感あり、現代感もある不思議な空間だった。そこでまったりとお茶を頂く。紅茶は勿論、李さんが持ってきた高山茶などいくつもの茶を飲んでいると、もう動く気がなくなってしまう。それから茶作りをしている家があるというのでちょっとだけ寄って見学した。

 

夕方、本日宿泊予定の宿まで李さんに送ってもらった。そこは何とも可愛いペンション、という雰囲気だった。建物の中もゆったりしており、気持ちがよい。ただ茶葉は売っているものの、その名前とは違って茶作りは行っていなかった。暗くなる前に周辺を散歩した。小さな村で、付近に茶畑はない。ゆったりと家々があり、宿泊施設やお茶屋さんがあった。特に地図も持たなかったので曲がりくねった道を行くのはどうかと思ったが、無事に一周して宿に戻った。公道からも外れている落ち着きのある集落だった。

 

夜はまた李さんが迎えに来てくれ、先ほどの黄さんのカフェで夕飯をご馳走になった。この辺では行列ができる店でわざわざ買ってきてくれたという、蝦や肉、野菜などが揚げられているものが出され、恐縮しながら食べた。かなりのボリュームがあり、すぐに満腹になる。それからまたお茶を飲み始め、かなり遅くまで飲み続けた。

 

9月17日(月)
霧社へ

気持ちよい朝を迎え、周囲を散歩する。鳥の鳴き声がいいが、天気が良すぎて気温はぐんぐん上昇し、歩いているうちに暑さを感じるほどになる。朝飯は宿が用意してくれる。トーストや卵の洋食だが、お茶はミルクティーが出る。さすが紅茶の産地だけのことはあるが、台湾紅茶はあまりミルクを入れないので、ちょっと意外。

 

トミーが車で迎えに来た。今日はこれから霧社、廬山温泉の高山茶の歴史を訪ねに行く。ここからなら車で1時間半もかからないからちょうどよい。廬山温泉に降りる手前の道路脇で停まり、そこの原住民、セデック族の農家と話す。彼が天仁銘茶と初めて契約して茶栽培を始めたのだ。1980年頃のことだったが、一時は凄い勢いで生産が伸びた高山茶も最近はより高い場所の茶畑に移動して、彼は高原野菜栽培に切り替えていた。

 

廬山温泉で長く、茶を作り、販売している店にも寄った。廬山温泉は最盛期、相当の賑わいを見せており、その時期は茶も飛ぶように売れたらしい。ただ近年の洪水、地震などで、政府から温泉閉鎖が言い渡され、多くが廃業、いくらか残った温泉宿もお客は少ない。それでも息子がここを継いだから、まだ店を開いているという。何となく寂しい。

 

霧社に行き、霧社事件関連の場所をいくつか見学した。日本人はやはりここへきて、考えるべきではなかろうか。帰る前に公道に面している陽光茶園という店に寄る。ここはトミーが小さい頃からの知り合いだという。97歳、武漢出身の陽さんが自らお茶を淹れてくれたのには驚いた。1985年ぐらいから、茶作りを始め、現在も子に引き継がれている。何だかお茶が美味しかった。

 

埔里まで降りてきて時間があったので、東邦紅茶の郭さんを久しぶりに訪ねた。埔里滞在中は何度も来た場所だが、今後は気楽に来られないので、貴重な機会となる。郭さんの紅茶作りの技術は日増しに上がっているようで、好ましい。トミーに台中駅まで送ってもらい、高鐵で桃園まで行き、桃園空港まで深夜便の客人を送る。

ある日の台北日記2018その2(4)台湾茶業のレジェンドに会う

9月13日(木)
レジェンドに会う

本日は製茶公会のご紹介で、台湾茶業のレジェンドに会うことになっていた。偶々東京から知り合いも来たので、まずは松山空港に迎えに行き、宿泊先の大稲埕にあるホテルまでタクシーで行き、この付近の茶の歴史散歩をした。この付近、何度来ても茶の歴史の香りがして、実に好ましい。

 

トミーと待ち合わせて、新店方面へ向かう。紹介は受けていたが、98歳の老人の家に日本人が一人で行くのは何かと不便があると思い、トミーにお願いしたところ、ちょうど台北に来る機会が有り、今回の訪問が実現した。トミーが連絡したら、ご本人は本宅ではなく、お嬢さんの家に泊まっているということで、当初の予定とは違うところへ向かった。こういうこともあるので、やはりトミーの存在は有り難い。

 

その老人は足が悪いということだったが、かなり元気な様子で出迎えてくれた。林復氏は、かつて福建省で福安農学校に通い、中国茶業界のレジェンド、張天福氏の指導を受けた一人。あの長く茶業改良場の場長を務めた台湾茶業の大貢献者、呉振鐸氏とは同級生で、同時期に台湾に渡って来たというからすごい。そして長く農林庁に奉職し、光復後の台湾茶業をけん引した一人であった。

 

最近は人に会うことも減ったという林氏、初めはこちらの質問に考え考え話していたが、30分もすると、様々なことを思い出されたようで、一気に話が加速した。林口伝習所のこと、アフリカのリビアまで行き、砂漠に茶樹を植えた苦労話、東部茶業の開発や70年代の茶葉コンテストの仕掛けなど、どんどん話が出てきて面白い。だがさすがに年代については、おぼろげな様子であったが、これは致し方ない。退職後に製茶公会の総幹事を15年も務めたというのもすごい。

 

福建から来た老人は台湾語を話すこともなく、分かりやすい北京語で応じてくれたのも助かった。アメリカから帰国中のお嬢さんの手助けも大きく、これまで疑問だった点がいくつも解けた。お疲れを考慮して、出来るだけ短い時間で済ませようと思っていたが、林氏の方が話したい、という様子もあり、結局1時間半以上、長居した。林氏が我々の訪問をとても歓迎してくれたことが何とも嬉しい。本を書くのは嫌いだったという林氏、書籍・文章の類はほぼ残っていないので、直接話が聞ける機会はとても貴重だった。

 

ちょっと興奮しながら、講茶学院台北オフィスに戻り、トミー姉にお茶を淹れてもらい、落ち着く。その後近くのお気に入り料理屋で夕飯を食べる。やはり美味い料理は旨い、と思う。普通はこれで帰るのだが、今晩は余勢を買って、久しぶりに双連の広方圓にまで繰り出し、湯さんとも話をした。かなり充実した1日が過ぎた。

 

9月14日(金)
ランチで

翌日はついにS氏がシェフを務めるお店に行く。S氏とは知り合ってもう何年にもなり、一度はお店へ行きます、と何度も行っていたにもかかわらず、常に彼が非番の時に別のレストランで会っていた。このままでは永遠に行けないのでは、と思っていたところ、今回ようやく機会が訪れた。

 

ランチはとても込んでいると聞いていたが、案の定、12時半前に行ったら、何人か待っていた。中山にあるこの店、とても瀟洒でよい雰囲気。ランチを楽しむ付近のOL?などで満員状態だった。15分ぐらい待ってようやく席に着く。こちらは和食の定食がメインの店、盛り付けも工夫されており、美味しく頂いた。料金は300元台と決して安い訳ではないが、これなら人気が出来るのも頷ける。S氏は当然ながらてんてこ舞い状態で、ゆっくり話をする時間はなかった。

 

比較的若い女性が多い客層の中で、私も浮いているかも、とは思っていたが、もっと違和感のある70歳代の人が一人でご飯を食べていた。よく見ると、何と一昨日会ったばかりの李さんではないか。先日は中山の交差点で遭遇し、また今日はここで会ってしまった。余程ご縁があると感じる。彼は日本が好きで先日も日本へ行ってきたばかりだったが、散歩がてら、ここで新聞を読みながら、一人で美味しい和食を楽しんでいたのだろう。何とも面白い出会いで、お互い一瞬唖然となる。このような偶然から、歴史は新たな一面を見せてくれるのかもしれない。