ある日の埔里日記2018その2(13)大禹嶺経由で

4月10日(火)
大禹嶺経由で

昨晩はかなり涼しかった。いや寒かったと言ってよい。ここは標高2300m前後、4月とは言えかなり冷え込むのだ。ジャグジーに入り、ゆったり、などとはとても考えられず、早々にベッドに潜り込む。ベッドには電気毛布が敷かれており、暖かかったのだ。昼間との寒暖の差、これもよいお茶を作り出す要因だろう。

 

朝食のために食堂に向かうと、昨日は開いていなかった売店が開いていた。朝夕の短時間だけ営業しており、茶葉を買うことができた。と言っても、皆が欲しがる缶入りの高価な茶葉は見本のみ。ティバッグが買えるだけだ。この売店の店員もトミーの知り合いだという。何とも狭い世界だ。

 

高原のさわやかな朝。ご飯は食堂でビュッフェ。場長たちもお客と一緒に食べている。私はお粥を頂く。今や福壽山農場はちょっとした高級リゾート地。60年前の開拓農場ではない。何だか私には場違いかな、とも思ってしまう。場長に挨拶してチェックアウト。早朝の心地よい農場を後にした。

 

トミー達は天池に行ったことがないというので、まずは登って行ってみる。途中昨日も見た茶畑があったので、もう一度写真を撮る。夕方と朝では少し違ってみる。ここには鉄観音種も植わっていると聞いたので、探してみるも、どれだかわからない。他の武夷種もあるらしい。

 

天池は蒋介石が好み、滞在した場所。今も小さな池があり、そこに休息所が建っている。ただ特に面白みはない。4年前は雨に濡れていたが、今日は天気だけは良い。その近くには天池の茶畑が見られた。そう広くはない畑が斜面にある。今は福壽、天池など、その地名で茶葉が売られている。ここは福壽より若干標高が低いらしい。

 

ついでに華崗にも行ってみる。トミーはジョニーと仲がよいが、華崗の工場には行ったことがなかったらしい。私は過去2回訪れており、道案内できると思っていたが、既に記憶はあいまいで道に迷ってしまう。最後はジョニーに電話して、何とか辿り着くも、この時期茶作りは行われておらず、従業員は誰もおらず、中に入ることは出来なかった。ただこの付近、茶畑はどんどんなくなり、高原野菜が中心になっているのは何を意味しているのだろうか。

 

いよいよ山を下ることになった。とは言ってもまだ午前中。どこかに寄ろうかとの話になり、取り敢えず途中にある大禹嶺付近を散策することにした。車で約1時間、90kなどという表示が見え、ここが大禹嶺の入り口だと分かる。正直に言うと、大禹嶺とか梨山とか、それは一体どこからどこまでを指すのか、その定義を知らない。茶業関係者でもはっきり言える人は多くはないらしい。

 

この辺には民家もなく、車も殆ど走っておらず、バスも殆ど来ない。昔訪ねたことがある105kは、既に茶樹が伐採され、茶の生産は行われていない。この辺が大禹嶺、梨山一帯で最も早く茶樹が植えられた場所であり、歴史の観点からは重要なところなのだが、今や見る影もない。

 

他の場所もほぼ同じ状況らしい。これはこの付近の土地がいわゆる国有地であり、茶農家への土地リースを停止したことによるというが、土地を貸さないからといって、茶樹を伐採しなければならない理由はよくわからない。土砂崩れとの関連なのか、それともやはり噂されているような、何らかの利権絡みなのだろうか。そうは言っても、茶のマーケットでは今でも大禹嶺茶が売られているのも又怪現象だ。

 

このまま昨日来た道を埔里に向けて帰っていく。所々で道路工事が行われている。4年前、私も道路陥没を経験している。今日もまたいい天気だ。こんな気候が続くなら、この辺に住みたいぐらいだが、車を運転しない私にとっては全く食べ物が得られない環境でもある。ランチを取りたかった我々だが、食事をする場所も見付けられず、若者は腹を空かせていた。

 

結局清境農場まで戻って、ようやく昼飯にありつく。以前は旅行センターがあった場所に、なぜか紙の博物館が出来ていた。たしかここは日月潭にもあったはずと思っていると、日月潭を閉めてこちらに移転したらしい。紙の汽車などが置かれており、子供が喜んでいる。奥のレストトランも子供向けに出来ており、男4人にはかなり違和感がある。

 

ドリンクのコップは勿論、食器などの他、椅子も紙で出来ていた。ここで紙のプレートランチを食べる。何となくお子様ランチを思い出し、懐かしく食べる。決して安くはないので、週末の家族連れを狙った戦略なのだろう。日月潭よりこちらの方が観光客は多いのだろうか。

 

夕方ようやく埔里に戻った。何しろ遠かった。こんな大変な山道を運転して連れて行ってくれたトミーにはただただ感謝しかない。今回は高山茶の歴史について、重要な情報を手に入れることができ、また現状についても少し理解できたのは有り難い。後はどこへ行けばよいのだろうか。

ある日の埔里日記2018その2(12)福壽山農場へ

4月9日(月)
古老を訪ねる

翌日はトミーが福壽山農場へ連れて行ってくれるというので、埔里に迎えに来てもらった。福壽山へは埔里から上って行くので通り道だった。ただ山に入る前に行きたいところがあったので、寄り道してもらった。図書館の陳さんからの情報で、『埔里に95歳の老人がおり、日本時代に日本人経営の茶園で働いていたらしい』というものだった。これは興味深いが、老人は台湾語しか話さない可能性があるので、台湾人に同行してもらった訳だ。

 

陳さんも住所は分からないというので、簡単な地図を描いてもらい、それを頼りに行ってみる。そこと思われる家で聞いてみると『それは隣のお爺さんだろう』と案内してくれた。聞いていた苗字とは違っていたが、その方は家のソファーに座っており、突然訪れた珍客にも『どうぞ』と言って招き入れてくれた。

 

お爺さんは足が悪いようだったが、非常に元気だった。そして流ちょうな日本語を話した。今でも岩波文庫を読んでいるというから驚きだ。お爺さんは日本統治時代に確かに持木茶園で働いていたという。そして九州の宮崎に研修にも行ったというからすごい。だがその研修が生かされることはなく、戦争に突入し、台湾で兵隊に行ったという。そう、紅茶作りが始まるか始まらないかで、魚池地区はこのような状況に見舞われたのだ。お爺さんには次回是非もっと詳しい話を聞きたいと思う。

 

福壽山へ
埔里を離れ、車は昨日も走った霧社への道を進む。あの滝の横を通り、眉渓も通り過ぎ、霧社の上、清境農場で停まる。今日は実にいい天気で気持ちがよい。ちょうど昼時となり、この辺でランチを食べる。この上になると食べる所もなくなるらしい。この辺は台湾のスイスとも言われる場所、ちょっとおしゃれな雰囲気のホテルやレストランが多い。

 

更に登っていくと、本当に素晴らしい景色が広がっていく。とても台湾とは思えない。昆陽という標高3070mの地点には車が沢山停まり、皆がその風景を楽しんでいた。何だかあっという間に3000m越えになっている。高山とは本当に高いところなんだ、今ではいい道があるから簡単に来られるが、昔は大変だったろうな。

 

更にこの付近の最高地点、武陵でもまた停まる。標高3275mとの表示が見える。ここまでは公共バスもあるらしい。自転車でここまで登ってきて、記念写真を撮っている外国人もいる。さすがに風が強い。ここにはなんと日本統治時代の太魯閣戦役に関する看板があった。原住民討伐の司令部がこの近くに作られたらしい。5代総督佐久間左馬太が埔里に2度も来た理由との関連、日本の植民地政策、もっと勉強する必要がありそうだ。

 

今度は少しずつ下っていく。約1時間後、車はようやく梨山に入る。数年前、ここまでバスで登ってきて、梨山賓館を見た。終点にも拘らず、更に先の福壽山までバスに乗せてもらったことを思い出す。このバスが着いたのが福壽山農場だった。あの時は小雨模様で非常に涼しく、携帯の電波が届かなくて焦った。今日はいい天気、そしてここに宿泊するので気持ちはとても楽だ。

 

福壽山農場の敷地は広い。母屋?の建物でチェックインするが、部屋は離れのようになっている建物にあり、何とも優雅。シングルルームなどはないとのことで、何と一人なのにスイートルームに入れてもらった。如何にも高山のリゾートと言った感じで、バスルームにはジャクジーまであった。こんな良い部屋に泊まれるのもお茶のご縁だ。しばしお休み。ゆったりとリゾートライフを満喫。

 

その後車で茶畑に行ってみる。農場の周辺には茶畑は見付からず、リンゴの木がたくさん植えられていた。そこより下にもなさそうだったので、上に登っていくと、農場の製茶工場があり、更に登ってようやく茶畑を発見した。防霜ファンが目立つ。茶畑は山の斜面に作られており、そんなに広いとは思えない。品種は何だろうか。車はほとんど通らない。

 

もう夕方なので引き返し、農場内を歩いて回る。池があり、木々が生い茂る。散歩するには悪くない。この農場とタイ北部の交流の碑がある。ここにもタイから戻った国民党兵士が配置されたのだろう。農場の事務所がある建物の横には、世界中のリンゴの木が集められており、1つの木に接ぎ木され、まとめられているのが凄い。半数は日本の品種かな、リンゴ王、40種類以上あった。梨王というのもある。ここは茶農場というよりは、フルーツ農園のようである。

 

夕飯は農場の巫場長に招かれ、他のお客さんと共にテーブルを囲み、美味しい名物料理を堪能した。さすが農場だ。食後は場長の部屋に伺い、場長自ら焙煎した貴重な福壽山農場の茶を淹れてもらい、ゆっくりと味わう。同時にこの農場の60年の歴史も教えてもらい、勉強になった。流通量の少ないここのお茶、本当に希少らしい。かなり遅くまでお茶を飲み、話が弾んだ。

ある日の埔里日記2018その2(11)大同山へ

4月8日(日)
スマホ死亡

清明節連休も最終日、今日はご近所のIさん夫妻に大同山に連れて行ってもらうことになっていた。その前に図書館で調べ物をしようと向かったのだが、そこで思いもしない不幸な出来事に遭遇してしまう。図書館の机に座った瞬間、スマホが全く作動しなくなってしまった。実は先日電池の不具合があり、東京で電池交換を行って、僅か1か月しか経っていなかったので、驚いた。

 

朝の9時台に開いている携帯ショップなど見付からない。待ち合わせの時間は迫ってくる。フラフラ歩きまわっていると、1軒だけ扉が開いている店があったので、飛び込んだ。店主は私のスマホを少しいじって『残念ですが』という。確かに画面が立ち上がる気配はない。回復の見込みがないと分かると同時に、私は連絡手段の全て、および時計機能など、何もかも失くしてしまったことを知り、愕然とする。

 

店主に相談すると、『今ここで中古スマホを買うしかないでしょう』という。そして2台の中古を取り出して、どちらにしますか?と聞く。するとそこにおばさんが入ってきて、やはりスマホの不調を訴える。店主が私にしたいのと同じ宣告を下すと、彼女はすぐに中古スマホを物色し始める。

 

私は現金の持ち合わせが少なかったので、その範囲で買える物をすぐに選び、購入した。そして店主が色々とサポートしてくれ、メール、FB、LINEなどの回復に努めた。万が一のためにパスワードなどを控えており、ある程度はすぐに復旧して、ホッとした。やはりこれからスマホは常時2台持つ必要があると感じた。カメラ機能などを使っていれば猶更だ。

 

待ち合わせの時間が迫っており、急いで宿泊先に向かう。途中狭い道を通って大きな通りに出ると突然名前を呼ばれる。見るとIさんの車がそこに止まっているではないか。携帯ショップに迎えに行こうと思ったが、行き違いになるのを恐れて、ここで待っていたというのだ。私の行動パターンは完全に読まれている。

 

大同山で
大同山に向かう。数日前観音瀑布に行くために歩いた道を車は進む。車は早い。あっという間に滝の横を通り過ぎた。あの歩きは一体何だったのだろうか。修行か。そこからほどなく、眉渓付近に到着する。I夫人の故郷であり、彼女の親戚が待っていてくれた。彼らは大同山で茶畑をやっていたという。やっていた、ということはもうないのだろうか。

 

彼らの車に乗り換えて、山道を入っていく。かなり急な坂道で普通乗用車ではとても上がれない。標高1000mを越えてくると、茶畑がちらっと見えた。その先の家に車は入っていく。何と食事を用意してくれるといい、下で調理したものを持ち込んで温めている。ここは農作業の場なのだという。

 

天気は最高によく、ちょっと強いが何ともいい風が吹いている。既に結構暑くなってきた埔里の街から来ると、何とも心地よく、眠たくなってしまう。山のご馳走を頂き、気分も上々。食後のお茶は『今は自分で作っていないから、誰かが持ち込んだものだ』と言って淹れてくれた。猫がいい感じでそこここを歩き回る。

 

今は茶を辞めて、野菜畑にするため、温室を作っているという。家の横には作りかけの温室があり、もうすぐここに高原野菜を植える準備が進んでいた。『昔はここの茶も高山茶としていい値で売れたが、今はもっと高い場所の茶の原料として安く買いたたかれるので、止めたんだ。高原野菜の方がずっと儲かる』というのだ。

 

標高1000m辺りの茶の現状はこのような感じではないだろうか。この山の頂上付近は1500mほどであり、そこではまだ茶が作られているというので連れて行ってもらった。確かにそこにはきれいな茶畑が並んでいる。ここは30年ほど前までは原住民との土地だったが、その頃平地に住む人が買い取ったらしい。茶園は良く管理されていた。高山茶ブームを見越しての投資だったのだろう。

 

この高地から周囲を見ると、遠く霧社の方までよく見える。向かいの山は東眼山と言い、こちらは、大同山よりさらに茶園が広がっているらしい。遠く、山の斜面を見ると、かなり削られている場所があり、開発が行われたことがよくわかる。高山茶の開発は山を削ることであったと気付く。

 

車で山を下り、道路脇のI夫人の親戚の家に寄ると、そこでは以前茶葉を売っていたようで、広いスペースがあり、茶の名前などがガラス戸に書き込まれていた。老人が『昔は茶がよく売れたよ』と懐かしそうに言う。高山茶の変遷ももう少し勉強してみたいと思った。

ある日の埔里日記2018その2(10)観音瀑布で

4月4日(水)
郊外散歩2

清明節の連休に入った。私の活動も完全に止まり、ひたすら部屋で日記などを書いて過ごす。だが今回3階から2階に移った部屋には、なぜかちゃんとした机がなく、低いテーブルに合わせて、低い椅子に長時間座っているのは、ちょっと厳しい。そこで図書館を利用させてもらい、勉強を進める。それに飽きるとまた散歩に出ることになる。

 

今回は先日の愛蘭地区とは反対方向、霧社へ上がる道路沿いを歩いてみる。ここにはバスが通っているのだからバスに乗ればよいのだが、それでは散歩にならないので、歩く。最初は郊外の田舎道を歩き、きれいな花が咲いているところもあり和めた。でも田舎道は長くは続かない。基本的には霧社に登っていく大きな道路の端を歩いていくほかはなく、大型バスの危ない運転に冷や冷やし、暑い埃の中を歩くのは決して気持ちの良いものではなかった。

 

それでも前に進んだのは、前からちょっと気になっていた滝を見ようと思ったからだ。いつもはバスでスーッと通り過ぎてしまうのだが、この機会に意を決して見に行くことにした。ただバスでは近く感じられた滝までの道のり。歩いてみると本当に遠かった。途中にはもう一つの地理中心の碑があり、花がきれいに整備されていた。ここは観光客向けのスポットだった。

 

ようやく眉渓という文字が見えた頃はもう汗だけで疲れもピーク。ただここまで来てバスに乗るのも癪なので、そのまま歩き続けた。10㎞ぐらい歩いた気分だ。そしてついに観音瀑布と書かれた場所にやって来た。道路沿いには川が流れており、そちらを渡す橋も架かっているが、何となく吊り橋のようで敬遠した。ここには数人の若者がハイキングに来ていた。

 

ところが愕然とする事態が目の前にあった。何と瀑布に分け入る小道のところには『工事中、近寄るな』の文字が見えるではないか。そして私の侵入を阻止するように、柵が置かれているではないか。ここまで歩いてきてそれはないよ、と泣きそうになっていると、何とその道から老夫婦が出てくるではないか。思わず駆け寄って『ここは入れるのですか』と聞くと、『たぶん問題ないよ、我々も今見てきたところだから』と言ってくれたので、また意を決して?突入した。

 

山道を深く入っていくのかと思い込んでいたが、何と2-3分上がるとそこには滝が見えた。思いの他、水量もあり、立派な滝だった。ただその前で工事をする機械が作業中で動いている。工事の邪魔にならないように遠くから写真に収めていると、作業員のおじさんが『そこだと上手く撮れないだろう。今機械止めてあげるから、もっと前に来て撮りなよ』と言ってくれるではないか。

 

さすが台湾だ、と思ってしまう瞬間。日本ならきちんと保安員がいて、至極丁寧に頭を下げて、危険なのでお帰り下さい、というはずだが、ここは世界が違う。勿論作業員も休息のタバコが吸いたいわけで、ここではお互い阿吽の呼吸が成立する。ルール至上主義の日本では考えられないが、なんとも嬉しい光景だ。

 

これを臨機応変と言ってよいかは分からないが、この山の中で危険があるかないかは、『見ればわかるでしょう』ということだ。今の日本では見えない力が見えるものを抑え込み、さも自分が正しいかのように振る舞っている。世の中、そんな簡単ではないし、庶民にはルールだけが全てではない、などと勝手に思ってしまうが、どうだろうか。

 

おじさんに手を振って滝を後にする。滝の近くがさわやかで涼しかったこともあり、何とも晴れやかな気分になり、これまでの疲れも吹き飛んでしまったから、不思議だ。しかしさすがに今歩きてきた道を、また歩いて戻る気力はなく、ちょうどやって来たバスに飛び乗り、埔里に戻った。今日の散歩は一体何だったのか、よく分からないが、終わり良ければ総て良し、だ。

ある日の埔里日記2018その2(9)埔里郊外散歩

4月1日(日)
埔里郊外散歩

週末の遠出は避ける、これを埔里生活での原則としている。近くに日月潭や清境農場などの観光地を抱える埔里では、週末にバスに乗るのがちょっと大変になることがある。毎日暇なのだから、人が多い週末に無理して出掛ける必要はないのだ。必然的にゆったり過ごせばよいということになる。

 

昨日は近所の朝食屋に初めて入った。私にはすでに行きつけ、と呼べる場所は2-3あったので、これまで入らなかったのだ。何となく店内がきれいになっていたので、試してみることにしたら、これが大正解だった。女性三人でやっているお店、ここのクラブサンドは、きちんと丁寧に作られていて、味がいい。おまけに45元と、行きつけの店より安いのだから、驚いた。宿泊先から一番近い店、これからはご贔屓にしよう。

 

埔里図書館にも行ってみた。ここの4階には埔里文庫があり、埔里の歴史関連の展示があり、貴重な資料や写真も公開されている。担当の陳さんからの情報を求めて何度か訪ねているが、それ以外の階に行くことは殆どなかった。1階のオープンスペースではおじさんたちが新聞を広げている。フラッとみてみると、Hanakoなど日本語の雑誌も置かれている。日本コーナーもあり、日本旅行用のガイドブックなども充実していた。この辺はやはり台湾だな、と思ってしまう。

 

3階には日本統治時代関連の本、日本語で書かれた本も少し置かれている。そして日本と同様に、学生が一生懸命勉強していた。ここの席には仕切りがあり、電源も備わっているので、使い勝手がよさそうだった。平日ならば、それほど混んでいないだろうか、今度はここで集中して文章を書いてみたいと思う。

 

今日は天気も悪くはないが、それほど暑くもないので、少し遠出の散歩を計画する。埔里郊外を歩くことはこれまでなかったので、まずは愛蘭地区に行ってみる。埔里酒廠の前を通り過ぎ、崎下までやってくる。ここまではバスでいつも通っているところだが、ここから真っすぐ坂を上ってみる。

 

坂の上には教会が見えた。その横には立派な学校も見える。この辺は埔里の街とは雰囲気が少し異なる。そのまま歩いていくと、商店街のような場所があり、特に辺鄙なところではない。ちょっと予想外だ。更に進むと天后廟が出てくる。ここまで来ると家もまばらになり、農村風景が広がってくる。何だかちょっと暑い。

 

その先に広興紙寮と書かれた場所があった。ここは元々製紙工場だったようだが、きれいになっている建物に入ると、天井が高い。紙の原料などの展示があり、勿論完成作品を見ることもできる。横では制作に励んでいる人もいた。冷房が効いており、涼しくて休みがてら、ボーっと見ている。

 

その横に行くと、製紙体験ができるスペースがあり、中では実際に小学生?が何かを作っていた。ここに入るには入場料がいるようだが、料金を徴収する人も制作指導に出てしまっており、入るのはためらわれ、そのまま帰る。この付近の道が曲がりくねっており、どこを歩けばよいか迷う。遠くに台中に行く時に高速に乗るための道が見えた。

 

フラフラ迷いながら埔里の街の方向へ行くと、何となく1周回って、先ほど坂を上った学校の辺りに出てきた。そこには大きな病院があり、その敷地には小さいけれど感じの良い教会が建っている。キリスト教病院と呼ばれている場所だった。1950年代に建てられた病院は既に建て替えられて大きくなっているようだったが、1961年に建てられた教会はそのまま使われているのがよい。光復後、原住民の暮らす山には宣教師が入り、布教に努めたというが、ここはその拠点だったのだろうか。

 

流石に疲れたので、今日はここまでと宿泊先に帰る。その途中、普段は通らない道を通ってみると、何と鳥居が作られているではないか。どうやら和食レストランらしいが、鳥居をここに置くのはどうなのだろうか。雰囲気を盛り上げるなど、商売上の理由かもしれない。台湾の日本ブームにケチをつけるつもりはないが、形だけ真似ても意味はないと思ってしまう。

ある日の埔里日記2018その2(8)台中の誕生会

3月28日(水)
台中の誕生会へ

ようやく埔里に戻ってきたという感覚が強い。今やここ埔里が私のホームグランドだともいえるし、何とも落ち着く。好きなクラブサンドも食べられるし、静かでゆったりとしているところがよい。今日はお隣のおばさんに挨拶して、朝から米糕と肉羹を食べて、すぐにご機嫌になれる。

 

実は先日嬉しいことがあった。台湾では買い物をすると常に受け取る統一発票、その理由はこれが宝くじのようになっており、2か月に一度抽選発表があるのだが、前回ついに200元が当たっていたのだ。これまで一体どれだけのハズレをせっせとチェックしてきたことだろうかとその苦労?を思い出す。

 

しかし当たったのはよいがこれはどこで賞金に換えられるのだろうか?知り合いに聞くと『郵便局』というではないか。外国人も対象なのだろうか。恐る恐る近所の郵便局にこの発票を出してみると『裏にちゃんと記入しろ』と言われ、無造作にパスポートとともに返されてしまった。もう少し優しい対応はできないのだろうか。台湾の郵便局は15年前に株式会社化はしたが、民営化はしていないらしい。

 

そうだな、台湾の嫌なところはこんなところかもしれない。郵便局のサービスは旧泰然としており、『やってあげる』感が半端ない。お客が来れば仕事が増えると言った、昔日本でもあったサービスが今も堂々と健在だ。特に田舎は顕著であり、知り合い同士だとニコニコしているが、それ以外だと愛想はない。まあそれでも200元を手に入れてなんとも嬉しい。

 

今日はYさんのお誘いで、台中に出掛けることになっていた。待ち合わせ場所は郵便局の向こうだったが、既に他の3人のメンバーはそろっており、Yさんの車に乗り込む。音楽会だと聞いてはいたが、私にはどんな会なのかよくわからなかった。まあ折角のお誘いなので、取り敢えず同行した。

 

途中で建設会社勤務だったYさんが作ったというトンネルを潜った。このトンネルのお陰で埔里-台中間は劇的に近くなったのだ。有り難い。約1時間で台中市内に到着。何だかきれいな建物に入った。ここは結婚式場であるらしい。『故郷 春が来た 桜 音楽会』と書かれている。

 

中に入ると広い会場では、テーブルと席がどんどん増やされていた。その真ん中にピアノが置かれており、日本人女性が練習している。バイオリンを弾く男性も日本人。聞けば石川県からやってきて、以前もコンサートを開いている方々だという。合唱団?の女性たちがピアノに合わせて歌の練習。台湾で日本人の演奏を聞くというのも珍しい。

 

席に着くと、埔里や台中に住む台湾人が多く来ている。我々の周りには日本語ができる台湾人が何人か座っていた。さすが台湾、日本に住んだことがある人やYさんの日本語の生徒やらで、日本語が飛び交う。MCの女性は着物を着て、日本語と国語を自由に操っているからすごい。

 

会が始まるとすぐに紹介されたのが、家倉多恵子さん。彼女は話題の映画『湾生回家』に出演した台湾生まれの日本人女性で、今年88歳。今日はその米寿を祝う会だとようやく分かった。参加者からお祝いの言葉が飛び、誕生ケーキも登場した。映画を撮った黄監督もわざわざ台北から来ていた。なぜか彼は私のところに来て名刺交換した。今度ゆっくり話そうと約束して別れる。

 

食事が始まると料理がどんどん出てきて凄いことになっている。昼からこんなに食べられるだろうか。同時に各テーブルでは顔見知りを見つけての挨拶も盛んに行われ、日本語の歌が披露される。まさに結婚披露宴に出ているような感じになる。そうこうするうちにメインの演奏が始まったのだが、音楽を聴くという雰囲気にはなかなかならない。やはり今日は単なる演奏会ではなかったのだ。

 

実に久しぶりにこんな宴会?いや演奏会に参加した。ピアノもバイオリンも頑張って演奏のギア?を上げ、皆も音楽にノッて来た。『ふるさと』のような曲が流れると、何だか異国感があふれ出すのが不思議だ。そんなこんなで3時間近くに及んだ会が終わる。またYさんの車で埔里まで送ってもらう。今日は何だか稀有な体験をした気分だ。

ある日の埔里日記2018その2(7)梅山 龍眼で発見!

3月27日(火)
龍眼林へ

翌朝は晴れてはいなかったが、すっきりとした朝だった。8時過ぎには皆チェックアウトして外で私を待っていた。朝飯もまた同じ食堂で食べる。好物の地瓜粥があるのが有り難い。私以外は皆若いので朝からモリモリ白米を食べている。それから車は瑞里を離れ、龍眼に向かう。この区間はそれほど遠くないとのことだったが、決して近くはなく。アップダウンを繰り返し、家もない山道を行く。どこへ行くのかと不安になる。

 

1時間以上も乗ってついに龍眼に着いた。同じ梅山地区だがこんなにも遠いのだろうか。訪ねたのは1軒の茶農家であり、そこは周囲に家もなかった。古めかしい茶廠があり、中を拝見すると、最近きれいにされた製茶場と体験場が組み合わさったような空間が広がっている。その一番先端の窓からは茶畑がよく見えた。台湾の山中にはこんなところもあるんだな。

 

ここの老板、林さんが『もっといいところへ行こう』と歩き出すと、すぐに実に見事な竹の林の中を通る。これまでいくつもの台湾の山の風景を見てきたが、こんなに素晴らしい竹林を見たことはなく、この中にいるだけで大いに癒される。『京都の嵐山のようだろう』と言われて、ちょっと驚く。ここだけは保存しようと、歴代守られてきた空間だそうだ。その先の斜面には茶畑が広がっている。もうあと何日かで茶摘みが始まる。若い芽が伸びていた。

 

この龍眼での高山茶生産はかなり早い時期に行われていた。やはり6つの茶農家が始めたらしい。瑞里よりこちらの方がほんの少し先のようだ。従来青心烏龍などが植えられていたが、改良場の指導で、金萱なども植えられる。ここが高山茶の始まりだという人もいる。瑞里と同様の歴史を辿り、最近は紅茶やGava茶などの生産も行っている。

 

お昼には何と鍋に入った豪快なカレーが登場して驚いた。これはハウスバーモンドカレーのような味で何とも家庭的でうまい。私はこういうものが食べたかったのかもしれない。思わずお替りしてしまう。お茶ばかり飲んでいるのもよいが、何ともホッとした。林さんと会話していると意外な話が出てきた。彼のお父さんの時代に高山茶は始まったが、お爺さんの時代はこの付近の茶園管理を任されていたというのだ。それは一体どういう話だ、と思いながら次の茶農家へ向かった。

 

林さんが連れて行ってくれた王さんの家。ここも1970年代に高山茶を始めた一人だが、その理由は『日本統治時代の経験があったから2代目の父が踏切った』と3代目の王さんは言う。1920年代、標高1100-1200m前後のこの地に18ヘクタールもの茶園があったというのだ。そこに茶樹を植えた投資家がおり、10数年間茶作りが行われたらしい。ただ1930年代にはその投資家は投資を引き揚げたといい、その後はその茶園を引き継いだ地元民が細々と茶作りをしていたともいうのだ。

 

では一体茶作りは誰が行っていたのか。そこに王泰友という名前が出てきて驚く。彼は布巾包揉という布袋を使った揉捻製法を広めた人として台湾茶業界では知られていた。彼は1940年前後にこの製法を広めたようだが、その時茶荘は台北ではなく、斗六に開いていたから、可能性は十分にある。ただこの時代、一体どんなお茶が作られたのか、それはよくわからないのが何とも残念だ。

 

更にはもう1軒、82歳になる林さんを訪ねる。こちらもご自身が高山茶を始めた人だが、『1970年より前から、母親が烏龍茶を作っていたよ』と、軽く言う。その品種は武夷と山茶の雑種だったともいう。そして倉庫から何と42年前にそのお母さんが作ったというお茶を出してきて飲ませてくれた。勿論老茶となっていて黒黒しているの

今日訪ねた3軒を見ると、日本統治時代に茶園があったことは確実で、その茶園は地元民が引き継ぎ、細々と茶作りが行われていたが、高山茶の開始と共にその経験を生かして茶作りが本格的に再開されたということだろうか。だがその後多様な高山茶が生まれ、徐々に生存が難しくなっているという現状がある。

 

龍眼からグルグルと山を下りて高速道路に乗り、車で埔里まで送ってもらった。トミー達は明日も埔里でイベントがあるようで、助かった。それにしても、梅山の茶の歴史、初めて聞く話が多く、消化しきれないが何とも面白い。次回はもう少し深めてみたい。

ある日の埔里日記2018その2(6)梅山 瑞里の茶

3月26日(月)
梅山へ

翌朝は早く起きて荷物を引き摺って台北駅に向かった。珍しく高鐵に乗り、台中へ向かう。これまでは全て埔里からバスで向かっていた台中高鐵駅、そこでトミーと待ち合わせていた。高鐵はやはり便利で速い。1時間で台中に着くのは埔里からバスに乗るのと大差ない。ただ費用は数倍違うが。それでも日本の新幹線に比べれば半分程度か。

 

高鐵駅のいつもの場所で落ち合い、車は嘉義方面に向かう。今日は後ろの席の陳さんと茶スターという2人の若者も同行している。車は高速道路を走り、梅山に登る道に入る。36の九十九折があり、かなりの急カーブを上って行くと、ちょっと車酔い気分になる。ちょうど標高1000mの表記が見える。太平という場所、定義上ではここから上が高山茶エリアだが、茶畑は道路沿いには見られない。

 

あるのは恐怖の遊歩道、下が丸見えの天空橋だけだった。なぜこんな橋を観光目的で作るのか。高所恐怖症の私には全く理解できないが、平日でもかなりの人が歩いているから驚く。ここでトイレ休憩したが、食事場所も観光地料金で、何もせずにまた車に乗り込む。その先には茶畑が見え始め、少し気分が高まる。

 

山道を約1時間で瑞里に着いた。この地名は聞いていたが、来るのは初めてだった。というか、ご縁がなく梅山自体に来るのが初めてなのだ。なぜか藤棚があり、藤の花が見ごろということで、観光客がミニバスを連ねて、多く訪れていた。大型バスは入れない。『日本の藤棚はきれいだろう』と聞かれたが、確か5月頃咲くのではなかったといった程度の認識しかなかった。台湾では日本人以上に日本が知られている。

 

今晩はここに泊まるのだという。取り敢えず昼ご飯を食べるために食堂に入ったが、満員の盛況だ。タケノコなどの地元料理のコースを食べる。その後、すぐ近くにあるトミーの知り合いの茶農家を訪ね、食後のお茶を頂く。かなり立派できれいな茶荘を兄弟でやっている。

 

午後は梅山の茶の歴史を聞きに行く。食堂の横にある今は営業していない宿に行くと、林さんと陳さんが待っていてくれた。林さんは80歳だというが、非常に元気で、自らの茶業体験を熱く語ってくれた。ここはかなり貧しいところで、地瓜などを作るだけで出稼ぎなどに行く者も多かったが、1979年頃、茶業改良場の指導もあり、高山茶向きの茶樹を植え始めたという。

 

当時は凍頂烏龍茶などが盛り上がり始めており、茶を作ればいい値で売れると言われ、生産計画が立てられたらしい。1990年代には最盛期を迎えた瑞里の高山茶、その後は921地震や化学肥料問題などもあり、2000年代に入ると他の高山茶地区の茶に押されて衰退していったという。

 

瑞里を歩いていると、斜面に檳榔樹があり、茶畑が広がっていた。そこをゆっくり散歩すると涼しくて気持ちがよい。その先の廟まで辿り着くと、そこには嘉義県珈琲産業発展協会という文字が見えた。我々が次に訪ねたのは何とそこだった。王さんも1980年頃、瑞里に茶樹を植えたメンバー(6人衆)の一人だった。奥さんが珈琲を持ってきてくれたのが、これまでの訪問と全く異なる、珍しい体験だった。

 

『2000年に入ると茶よりコーヒーだと気付いたんだ』という王さんは珈琲協会の創始者だ。元は高雄で造林業も行っていたと言い、木を扱うのには慣れていた。1980年代には瑞里茶はコンテストで入賞するなど優位性があったが、その後は阿里山、梨山、杉林渓などの高山茶に押されてしまい、コーヒーへの転換を決断した。最近は上島珈琲とも提携するなど、コーヒーブームに乗っている感じだ。

 

夕方宿泊先の部屋に入る。思ったよりきれいな部屋だ。少し休むともう夕飯だ。この辺には食べるところはあまりなく、昼と同じ食堂で食べる。茶壺食堂という名前だが、なぜこの名前を付けたのだろうか。店には特に茶壺は見られない。料理はパイナップルが入ったスープが印象的だった。

 

夕飯後、再度昼食後に行った茶荘を訪ねた。王宏誠氏、お父さんがやはり高山茶6人衆の一人だったというが、自分は歴史のことは分からないと、昼間の面談をアレンジしてくれていた。彼らは新しい茶業の形を考えていかなければならない世代。色々と話をしたかったが、お茶を飲んでいるうちに、ものすごく眠たくなってしまい、私一人だけ離脱して、部屋に帰って寝てしまった。まだ午後8時だったから、今日の朝が早かったからか、また最近かなり疲れていたのかもしれない。この静かで涼しい山の中ではよく眠れるのが有り難い。