《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(9)深圳茶葉世界をちょっと覗く

いつもなら1周して各店の様子などを伺うのだが、今回は最初から李さんの店を目指していき、店が開いていることを確認してホッとする。もうすぐ25年の付き合いになる李さん、あんまり変わらないので驚く。今回は単叢を購入するという仕事があり、どれがいいか選んでもらう。

李さんの実家も鳳凰鎮にあることは知っていたが、今回訪ねて地理が分かっており、理解が深まった。先日会った林一族はやはりあの鎮の有力者だった。李さんの旦那が戻ってきてまた色々と話す。私は潮州料理が好きだというと、湖南料理もいいぞ、という。彼は湖南出身なのだ。因みに深圳にも潮州料理はあるが、美味しい所はあまりないともいう。

なんだが急に腹が減って、引き留める李さん夫婦に別れを告げて外へ出た。だが何を食べたらいいのか分からない。これまで順徳・広州・潮州では、地元の名物を探していたが、深圳名物には残念ながら、全く思いつかない。目の前に牛肉麺の店があったので、まるで名物の呪縛から解き放たれたように、入ってしまった。シンプルな牛肉刀削麺、とっても美味しく感じられる。これからは自らの赴くままに食べて行こう。部屋に戻ってバスタブに浸かり、疲れを癒す。

3月21日(金)深圳散歩

何だかかなり疲れてしまい、元気が出ない。朝食は付いていないので外へ出て何か食べようと思ったが、どうも食欲がない。やはり中国で10日以上の旅は体に堪えるらしい。宿の近くを歩いていると銀行があった。何となく眺めると「広東語、香港人専用」などの文字が見えた。

25年前にここに通い始めた頃は、香港人と香港ドルは歓迎されていたが、その後中国の勢いが増し、香港がどんどん小さくなっていった。またその関係に変化があるのだろうか。そういえば「最近香港の物価が高いので、香港人が週末深圳に大挙して買い物に来る」との話が出ていた。この地域にはある種のバロメーター機能がある。

ATMで人民元を下ろしてみようかと眺めていると係員が「ATMより窓口の方が早いですよ」という。その昔では考えられない言葉だが、今や銀行に来る中国人は本当に少ないと感じる。言われるままに窓口へ行ったら、何と「この銀聯カード、期限が切れています」というではないか。その対処法はと聞くと「カード無し口座にすればよい」だったので、更に驚く。海外でも使うのでカードがいると食い下がると、何とか新しいカードを発行してもらえ、現金も手元に入った。それにしても銀聯カードに期限があったとは。

気を取り直して近所で朝ご飯を探した。飲茶したいなと思ったが、どうも適当なところが無く、次の駅まで歩いてきてしまい、結局地下鉄に乗って深圳博物館まで行ってしまった。ここも初めて来る場所だったが、実に立派で驚く。展示室もかなり充実しており、見ごたえはあった。ただ深圳の歴史、どこまでの規模だったのだろうか。改革開放前はほんの小さな村だったと香港では何度も聞いていたが、本当のところはどうなんだろうか。

地下鉄駅まで戻ったが、もうどうにも腹が減って動けない。地下鉄駅直結の食堂街に迷い込み、香港在住時大好きだった鹽焗雞を食べることにした。この料理は客家の物と聞いているが、本当はどうなんだろうか、と最近はなんにでも疑いの目を向けてしまうのは良くない。まあとにかく腹が減っているので、何を食べても美味しい。ちょっとしょっぱいのはいつものことだ。

宿まで帰ってきたが、疲労はピークに達しており、午後は完全休息となってしまった。まあ仕方がない、よく頑張ったと言っておこう。夕方羅湖口岸前のビルへ入ってみた。その昔はブランドバッグや時計のコピー商品販売所、といった感じだったが、今やきれいな店が並んでおり、雑多な感じはあまりない。香港人も最後にここに寄って夕飯のおかずを買っているのが面白い。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(8)潮州から深圳へ

3月20日(木)潮州から深圳へ

今日は深圳へ向かうことにしていた。朝は潮州最後のご飯を探しに外へ出た。フラフラしていると、笑顔でこちらを見ているおじさんがいた。何と一昨日鳳凰鎮から潮州まで送ってくれた運転手だった。何と奇遇なことだろう。これも何かの縁、と彼に潮汕駅まで送ってもらうことになった。そして彼が指した方向へ歩いて行く。

その辺にはいくつかの食堂があった。海鮮粥でも食べようかと思ったが、鍋で煮る粥はとても一人で食べ切れないと言われてしまった。更に行くと尖米圓と書かれた看板が見えた。なんだろうと思いながら思いついたのはバンコクで見るクイジャップ。文字からするとそのようであり、実際に来た麺を見てもそのように見えた。だがタイ料理に詳しい人によれば、「これはタイではギアムイー。潮州語の尖丸(チアムインぐらいの音?)の転訛で、クワイジャップ(粿汁)はもっとくるくるしている」とのこと。取り敢えず潮州由来のタイ料理を1つ見付けた。

荷物を纏めてロビーに降りると運転手がやって来た。駅まで40分、色々な話をして過ごした。潮州の良い所も出てきたが、息子2人は広州の大学生でお金がかること、なども出た。コロナ中は大変だったことだろう。数年後に軌道車が開通すると、またかなり景色も変わり、彼の仕事も変わっていくだろうか。

駅に到着するとかなり暖かかった。来た時とは大違いだ。私は深圳へ行くのだが、予約した列車は何と香港西九龍駅まで行くらしい。本当に便利になったものだ。以前深圳北駅まで行ったことがあるので、今回は敢えて香港との境、福田駅まで行くことにした。途中の景色は田んぼや畑、また山々が見えていたが、深圳に近づくにつれてビルが並び始めた。今回本当は恵州でも泊まろうかと考えていたが、次回に回した。

多くの乗客が深圳北駅で降り、車両はスカスカになった。福田駅で降りた方が羅湖などに近いと思ったのだが、ここで20分以上停車しており、福田駅で降りた後も、地下鉄駅までが遠く、北駅下車が正解だと分かったが後の祭り。まあ初めての福田駅が見られただけでも良かったか。いっそのこと、香港まで行きたかったな。福田で降りる乗客は少なかった。

羅湖行き地下鉄を探して乗り込む。終点で地上に上がると、そこには何となく安心感がある風景が見える。しかも今日予約したのは、その昔の憧れホテル。期待感満載でロビーに行ったのだが、チェックインが面倒くさい。そして何とデポジットとして、宿泊費の2倍を請求される。だが私はTrip.comで予約する時、既に1泊分のデポを払っている。フロントの男性は英語を話すが実に偉そうな態度だ。

一体どうなっているんだ。だがいくら言ってもらちが明かず、結局2泊するのに約5泊分のデポを微信で収めた。掃除のおばさんはとても愛想がよかったが、部屋は何とも古い。しかも機能性が本当にない。コンセントは少なく不便。お湯を沸かす場所もなく、何と床にポットを置いて掃除機用コンセントで凌ぐ。こんな状態だから、中国人ビジネスマンは泊まるはずもなく、泊まっている人を見るとイベント系か、東南アジア華人の団体が多いように見られた。

取り敢えず深圳に立ち寄った目的である、茶葉世界を訪ねる。ここは2001年以降、私のお茶勉強の場であり、中国茶に一番触れた場所である。そして今も尚付き合いのあるお茶屋さんがある。宿からは歩いて3分という近さ。エスカレーターで2階へ上がると懐かしい風景が広がるが、2年前に来た時同様、ほぼお客らしき人はいない。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(7)潮府工夫茶文化博物館で

そこから湖を半周し、更に歩いて行くと、何となく昔の街の雰囲気が出てきた。取り敢えず潮州に来たのだから、三山国王宮へお参りに行く。宮は改修されていてかなり新しい。だが周囲には大きな木があり、古い家もあった。かなりいい雰囲気であったが、観光客などは全くいない。

そこから川へ出て歩いて行く。今日は天気も良く、気温も上昇していて暖かい。川はかなり大きく、その昔はこの川が重要な交通の中心だっただろうと思われる。天気に誘われて地元の老人たちが散歩している。私はまた旧市街地に足を踏み入れた。古い家々、路地をずっと歩いて行くと、潮府工夫茶文化博物館に出会った。

何となく中に入ると入場料がいるという。10元を払うと、年配の女性が色々と展示の説明をしてくれた。「日本の煎茶道との関係を知りたい」と言ってみると、それは館長の書いた本に書かれているというのでその本を購入した。すると女性が「ちょうど館長がいるので会ってもいいと言っている」というので、話を聞いてみた。

館長は如何にも文化人といういでたちで、優雅にお茶を淹れてくれた。その歴史などもかなり調べているようだった。勿論煎茶道もしており、恐らくは明代に中国にあった煎茶道?が日本に伝わったでは、という。この視点は私にはなかったので参考になる。彼は2冊目の本を執筆中で、その中でこの疑問にも触れると言っていたので、期待したい。

腹が減った。博物館から少し歩くと観光客が沢山いるエリアに出た。勿論食べ物屋も沢山あるのだが、私はどうしても鳳凰山の豆腐が食べたかったので探してみる。何とか見つけたその小さな店の店先に揚げた豆腐が置かれていた。食べたいというと、もう一度揚げ直して出してくれる。何となく臭豆腐の匂い無し版かなと思う。

フラフラしていると開元寺に出た。この寺の名前はその昔泉州で見た。そこは孫悟空関連場所と書かれていた記憶があるが、ここにも所縁があるのだろうか。とにかくこの付近だけやたらと観光客がいる。かなり広い境内を散策後、土産物屋などがある一角を抜けていく。潮州に来た観光客は誰でもここに来る、という感じだったので脱出を図る。

車を呼んで潮州博物館に向かう。運転手が「あんたはエライな」というので驚いていると「潮州には長い歴史があり、多くの伝統文化があるが、普通の観光客はどこへ行っても買い物に浮かれ、美食に酔うだけ。博物館へ行こうなどという客を乗せることなど滅多にないんだ」と嘆く。

博物館はご多分に漏れずきれいだったが、確かに見学者は少なかった。そして運転手の言う通り、かなり長い歴史が展示されている。私は潮州をどのようにとらえて良いのかかなり迷う。唐代からの歴史的な流れ、そして潮州が移民受け入れ地から移民排出地に変わる流れ、少数民族との融合など、重要事項目白押しながら、その繋がりがやや判然としないのはなぜだろうか。何かが引っかかっている。

かなり疲れを覚えてしまい、全てを見ることなく博物館を離れた。次回以降の課題としたい。また車を呼んで宿へ逃げ帰る。部屋で休んでいたが、早めに宿のレストランへ行ってみた。先日の順徳に習い、一人で地元飯を食べるならここに相談しようと思ったわけだ。だが相手をしてくれたのは若い女性スタッフで、こちらが紹介を頼んでもいまひとつピンとこない。まあ適当に頼んでみたら、案の定ベテランがやってきて、お粥は多過ぎるから野菜にしようね、などと的確な指示をしてくれた。

結局名物の鶏肉、煎蚝烙(牡蠣オムレツ)、炒芥蘭に収まった。これにプーアル茶で120元ほど。鶏肉はさすが名物だけあって、鶏自体が美味い。芥蘭も柔らかく、広東風のXO醤ではなく、あっさりした味付けが美味い。煎蚝烙は台湾でいうところオアジェン。これも潮州からの流れなのだろう。同じ宿に3日も泊まっていると不便も感じなくなり、ぐっすりと休んだ。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(6)ついに石古坪へ

昼ご飯を食べようと林さんが地元の食堂に連れて行ってくれた。いや2人しかいないのに、5皿ぐらい出てきて嬉しい悲鳴。鶏肉、旨いよね。野菜も柔らかいし、細めの米粉は抜群だ。浮豆腐という看板が見えたが、注文されず残念。かなりの量を食べまくったが、勿論完食できず、心残りとなる。

そしてついに車は石古坪に向かって動き出した。細い道をくねくねと15分ほど走ると、ちょっと小高いところに「石古坪」と書かれている。10年以上前から一度は来たいと思っていた場所に、思いもしない形でやってきてしまった。やはり茶旅恐るべし。古い廟の横には、茶葉が干されている。既に春茶の生産は始まっており、茶摘みに行く女性たちの姿も見えた。聞けば地元民はおらず、ほぼ福建省からの出稼ぎ者らしい。

のどかな村には畲族を示すものはいくつもあったが、展示館に入っても人もいないし、展示内容にも茶は入っていない。それでも周辺には茶畑が点在し、茶作りは行われていた。「石古坪烏龍」が話題になってから、製茶は盛り返しているのだろうか。文化館で聞いた通り、ここに住む畲族は数百人、というのも頷ける寒村だった。

また茶荘に戻り、お茶を飲む。林さんが「さっき松下先生の話が出たが、確かうちのおやじも案内していたよ」というので俄然興味が沸いたが、お父さんの姿はなかった。その内林さんの息子がやってきて車で茶畑に案内してくれた。そこは鳳凰山とは少し違っていて、鳳南という地域だというが、人家はほぼ見られず、自然の中にかなり大規模な茶畑があった。

茶工場がある所まで行くと、何とお父さんがお客を連れてきており、再会した。私が松下先生の名前を出したら、「そうか松下先生の弟子か(誤解ですが)」といって、急に親しげになり、何と「日本産電気シェーバーを買って送ってくれないか」と言い出した。そして微信でお金を私に送ろうとしていたので慌てて止めた。こういう話し、20年以上前は時々あったが、最近は聞いたことが無かった。しかもお父さんとは初対面、ほぼ話もしていない私を信じてお金を渡そうとしており、昔中国で日本人は信用されていたな、と思い出す。

また茶荘に戻り、茶を飲む。だが息子も林さんもどこかへ行っており、姿が見えない。そろそろ夕方なので帰ろうかと思ったが挨拶も出来ずにいると、何と車を呼んでくれており、運転手がやって来た。結局挨拶せずにその車に乗り込む。聞けば、潮州から車を呼んで山に来ることは出来ても、鳳凰鎮で普通に車を探すことは難しいらしい。林さんの配慮により、無事に潮州まで帰った。

そういえば運転手は帰りがけに寄り道した。何と山に上がってきた時、豆腐を買っており、それを知り合いに届けたのだ。彼によると鳳凰山の豆腐は美味いらしい。ついでに彼が言うには、潮州人は外のレストランであまり食事をせず、いい素材を市場で買って来て自分で調理して食べるらしい。

私はそうはいかなので、宿に戻ると夕飯を探した。近所にあった小さな食堂に入ると、そこの鶏も美味しかった。おばさんとちょっと話をすると、「確かにお客が沢山来ることはない」らしい。それで旦那は潮州賓館でバイトしているという。食堂は沢山あり、地元民は市場で買って家で食べるのでは、商売人は大変だろう。

3月19日(水) 潮府工夫茶文化博物館

朝はまた散歩に出た。昨日と同じ西湖付近を歩いて行くと、ちょっと良さそうな麵屋があったので入ってみた。牛雑粿条を注文して席を探したが、意外と混んでいて、長テーブルで相席した。ふと見るとその席の殆どの人が美味そうな粥を食べている。私も粥が食べたいなと思ってみてみると、何と彼らはここの従業員で食べていたのはまかない飯だった。これは中国あるある、だな。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(5)突然の鳳凰山で畲族文化館へ

3月18日(火)突然の鳳凰山で

昨晩は寒くて色々と着込んで何とか寝た。まあ南国あるあるかな。朝も晴れているが、爽やかな天候。朝飯を探しに外へ出た。旧市街地の方へ歩いて行くと潮州西湖という公園に出くわしたので、その中を歩いて行く。そこを抜けていくと6年ぶりの旧市街が出てくる。何とも懐かしい光景だ。前回は茶旅だったはずだが、張さんのお陰でこの辺を中心に1日4₋5食は食べていた気がする。

潮州の朝といえば腸粉かなと思い、一軒の店に入る。あの懐かしい大きな、卵入りの腸粉があっという間に出来上がる。広東の白っぽい腸粉とはまるで違うものだ。ごまだれのような物を掛けて食べる。この周辺には、民国時代に共産党に入党し、犠牲となった人々の家にプレートが嵌められ、今も称えられている。実は革命に参加した人は多いようだ。

一旦宿に戻り、もう1泊する手続きをした。色々と問題はあるのだが、新しいホテルは郊外にあることが多く、立地と料金を考えて延泊となる。そしてこれから鳳凰山に向かうのだ。昨日ご馳走してくれた柯さんが「折角潮州に行くのなら」とお茶屋さんを紹介してくれたので、当初の予定にはなかった山登りとなる。車を呼べばすぐだと言われたが、本当に40分ほどで鳳凰鎮に着いてしまった。なんとも便利になったものだ。

指定された茶荘には林さんが待っていてくれた。ただ彼も私が何の目的で来たのかは分からないから、取り敢えずお茶を淹れて様子を見ていた。私も予定外の行動だったので、どうしようかと思ったが、車が上って来る時、地図に「石古坪」という地名が出てきて気になっていたので、それとなく「石古坪は近いのか」と聞くと「興味があるなら行くか」とすぐに腰を上げたのでびっくりした。

石古坪は畲族発祥の地とも言われており、茶にも大いに関連がある場所。いつかは行ってみたいと思っていたが、こんな簡単に実現するとはなんという幸運。ところが車は僅か3分で停まってしまう。見ると畲族文化館と書かれた建物があった。そして林さんはいう。「俺の奥さんは石古坪の畲族なんだ」と。これには心底驚いた。

館内に入ると若い女性が案内してくれた。畲族の婚礼衣装などが飾られていたので「あなたもこれを着るんだね」というと、彼女は「これは昔の物だから着ない」ときっぱり言うので驚いた。漢族化はかなり進んでいる。同時にこの地域の畲族は今や福建、江西、浙江などに分散していて、僅か数百人しかいないという現実もあった。そして肝心の茶の歴史関連の展示はほぼなかった。

ちょっと拍子抜けしながら入り口でお茶を飲んでいた林さんのところへ戻る。お茶を淹れていたのは、何と林夫人のお兄さん、つまり畲族であり、この館の責任者らしい。藍さんに「畲族と茶の歴史」について知りたいのだが、と聞いてみると、何とその答えが「知りたければ日本の松下先生に聞け」だったので、もう本当にびっくりした。

「40年前に松下先生がここへ来て色々と調べてくれた。その時村に居て案内もした」というではないか。私は数年前松下先生から石古坪の畲族についての話を長時間聞いた記憶が蘇り、何だかとてもワクワクしたが、それから誰も深く研究していないらしいことが、今の中国と少数民族の関係を何となく示しているように思われた。いや、結構微妙なテーマなので、知っていても発表されないだけかもしれない。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(4)広州の絶品汕頭料理

私は李さんの車で芳村市場横の地下鉄駅まで送ってもらった。車に乗っている間に、その昔偶にやってきた場所をいくつ通り、懐かしくなった。宿に帰ると夕日がきれいだった。何となく温かみも感じられた。夕飯は近所まで戻って牛腩麺を食べる。結局広州で広東麺を見付けることは出来なかった。

3月17日(月)広州から潮州へ

今日は広州を離れて潮州へ向かう予定となっていたが、その前に久しぶりに柯さんを訪ねることにした。柯さんの店は広州東駅の方が近いと思い、宿をチェックアウトして荷物を持って車で向かう。言われた住所に行ってみると、8年前とは違い、お店は随分と大きくなっていて驚く。

コロナ期間中に移転したというが、中に入ると相当に広くなり、2階には個室まであった。柯さんはお茶屋さんというより、茶芸師さんという感じの人であり、コロナ中でも彼の周りにはお客さんが沢山いて、今の景気低迷もあまり関係ないのかもしれない。コロナ後はちょくちょく日本にも来ており、特に京都などに関心が高いという。

柯さんを訪ねた目的は、ここで単叢を調達することだった。汕頭出身の柯さんなら手ごろなお茶を持っているだろうと考えたのだ。その目的はすぐに達せられたので、ゆっくり駅へ向かおうかと思っていると「汕頭より美味い汕頭料理をご馳走する」と言われて、思わず柯さんについていってしまう。

車で着いたレストランは、まだ客が来る時間ではなかったが、何と柯さんは2人しかいないのに6品も注文して食べさせてくれた。港町らしいあっさり味の海鮮や潮汕系の滷味、そして鍋粥など、確かに唸ってしまうほど旨い。これならもう潮州へ行かなくてもいいかなと思うほどのご馳走だった。勿論大皿料理は大量に残ったが、これは店のスタッフへのお土産になるという。

車で広州東駅へ向かった。何とか予約した列車の時間に間に合った。この駅はその昔香港との直通列車があったので、偶に来たことがあったが、その時とあまり変わらない。その古びた雰囲気が懐かしくてよい。今回チケットはネットで予約したが、チケット発券の必要もなく、問題はなかった。そしてパスポートでも改札ゲートを通れることも分かり、随分と気が楽になった。中国の進化、便利さを肌で感じる。

列車はほぼ満員で広州を出発。途中特筆するべき風景もないままボーっとしていたら、約3時間で潮汕駅に到着した。既に日はかなり西に傾き、ちょっと涼しい。駅を出て車を呼びたかったが、待ち合わせ場所までかなり遠い。でも中国人もみなそこに歩いて行くので従う。車は広州などに比べて料金が高いと感じた。競争が無いのだろうか。そして何より市内までが遠い。途中軌道車建設工事などもあり、低速でしか走らないので、結局40分もかかって、懐かしの潮州賓館に到着した。

この宿、2001年の第2回茶旅で泊まったので、今回24年ぶりに泊ってみることにした。昨年改修したとのことで、室内はキレイだったが、機能性はやはり古い。トイレの便座が突然自動で上がるのには驚いてしまったが、何より部屋には机が無いので何となく不便。更にはなぜか気温が低い中、部屋にいると寒くて仕方がない。

ウルトラライトダウンで装備して外へ出て、暖かそうな麺を探す。この街には粿条を出す店が山のようにあるが、今晩はちょっときれいなお店で現代の肉入り粿条を試してみる。お客は若者が多く、ちょっとスパイシーなスープ。因みにタイではこの麺をクイッテアオと言い、タイの国民食といっていい存在だが、潮州に起源があるとはタイ人も知らないらしい。タイでは量が少ないが、中国は当然多い。29元なり。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(3)十三行博物館からデジタル茶淹れ機械へ

3月16日(日)十三行博物館

今朝はだいぶ調子が良い。ただ何となく寒い。宿の中はそうでもないが、外は結構風もある。今日は先日東京の銀座で会った陳さんと会うことになっていた。陳さんは温州出身と聞いていたが、なんと家族は広東省におり、ちょうど里帰りしていたので、広州で会うことになった。

待ち合わせ場所は広州十三行博物館。彼女は茶歴史を研究しており、茶貿易についても興味があるという。博物館内では、買弁についての情報を探していたが、よく考えてみれば十三行は洋行ではなく、洋行に売込む中国企業であり、ある意味で彼らは官僚なのだ。そして洋行で実務を仕切るのも、ここから送り込まれているのだろう。マカオや珠海で出会った宝順洋行の買弁はアヘン戦争後に洋行が直接雇うことを認められた人々だった。

この博物館には8年前に来たと思うのだが、2階にはその時なかったお宝の展示があった。どうやら収蔵家が自らのコレクションをここに置いているらしい。そういえばマカオの鄭家の子孫も自らの先祖について色々と発表し、その功績を広めていると聞いた。「買弁は売国奴」という概念は薄れたのだろうか。

博物館の近くには、川沿いに100年前に建てられた旧税関の立派な建物があった。この川沿いで十三行が貿易をしていたのだろう。宝順洋行の場所の書かれた地図も博物館にあったが、その場所もこの辺だろうか。近くの橋が目印か。でも人民橋って書いてあるな。そんなことを考えていると、陳さんは近所のおばさんに「広東の地元麵屋」を聞いている。

私が「広東には日本の広東麺のような麺はあるのか」と話していたら、彼女はそれが気になっていたらしい。おばさんはわざわざ店まで案内してくれた。おじさんも「これが広州の麺だ」と胸を張ったが、それはワンタン麺だった。そしてついでに広州焼きそばも作ってくれた。これらは美味しかったが、あんかけ麺ではなかった。

そこから車を呼び、またまた芳村方面へ向かい、陳さんが紹介されたという人物を訪ねた。そこは昨日までの芳村茶市場からは少し離れており、ちょっとオフィス街のように見えた。目指すお茶屋さんが見付からず、まごつく。やはりお茶屋さんというより会社のオフィスのような場所に辿り着く。入口に万里茶道の地図が描かれているのがちょっと不思議。

この会社のオーナー李さんは、30年ほど前に茶業に入り、様々な茶葉を扱ってきたが、10数年前からは雲南でプーアル茶を生産しているという。だがいま彼が力を入れているのは、デジタルサーバーで、簡単にお茶を淹れる機械の開発だった。実際彼はいきなり大紅袍のミルクティーを作り始めたので驚いたが、それは機械ではなく、手作りだった。ただ非常に美味しかった。

李さんは茶葉・薬剤などを含めて様々な材料を小さなパックに詰め、それを機械に放り込み、温度などの条件のボタンを押してお茶を淹れている。これなら確かに極めて簡単だ。李さんの主張は「標準化」。誰が淹れても一定の味になるように淹れられる機械ということだ。茶藝のような技術とは異なり、ティスタンドなどで重宝される機械ではないか。これがもし流行れば世界は変わっていくかもしれない。

陳さんはここから直接実家に戻るという。今や中国では100㎞以内なら、長距離バスに乗らず、指定先まで数名を乗せていくシャトルサービスがあると言い、それを予約するとすぐにやってきて驚く。料金はバスとあまり変わらず、便利になったものだ。そういえばベトナムでもこんなサービスがあったのを思い出す。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(2)突然芳村茶市場を再訪

3月15日(土)また茶市場へ

昨日まで少し体調が心配だったが、昨晩の爆食で寧ろその心配が無くなった。今朝も朝から宿の朝食を食べていく。今日は天気が悪い予報なので、近所を散歩した。三元里抗英闘争記念公園に入ると、階段を上った先に大きな記念碑があった。抗日記念碑というのはよく見たが、1841年のアヘン戦争時に抗英活動があったというのは見た記憶がない。ちょっと興味を持ったので、三元里村を歩いてみる。

昨日ご飯を食べた店があった道の名は何と「抗英大街」だった。昨日歩いた細い路地も「抗英七巷」などと書かれている。そういえば30年位前の広州駅の北側って、ちょっとしたスラムのように地方から出てきた人々が重なり合っていた印象があるのだが、ここも関係あるのだろうか。今はとてもきれいになっているが。三元古廟というお寺には「平英団旧址」と書かれており、中を覗くと、抗英がどのように行われたのかの詳細な展示がある。

中国にとってアヘン戦争は近代最大の屈辱であり、またこのために150年以上に渡り、世界に後れを取ってしまった、その原因を作った戦いとの認識があり、この地域の人々にとって、抗日より前の時期に、英国に一矢報いたというのは殊の外重要なのであろう。愛国教育上では全国的には行われていないにしろ、広州ではきっと何かの活動があるのだろう。順徳のお寺で見た大砲が何となく思い出される。

部屋に戻り、洗濯をした。この宿は全店で洗濯・乾燥無料なのが良い。勿論洗剤なども常備されており、しかも機械は新しい。洗濯物を入れて30分後に戻ってみると、なんとスタッフが乾燥機に移し替えて、乾燥が始まっていた。聞くところでは、お願いすれば洗濯して部屋まで運んでくれるそうだ(こういうサービスが日本で好まれるかは人によると思うが、私的にはとても有り難い)。

実は昨晩知り合いのHさんから連絡があり、今度雲南のプーアル茶を見学に行くという。折角なので一緒に行かないか、と言われ、話を続けるうちに、その雲南の茶園主は広州茶葉市場に店を持っていることが分かり、急遽午後行ってみることになる。ところが外は予報通りの雨。取り敢えず車を呼んでみたら、料金表示は出てくるけれど、車は来ない。

そして「15元の保証金を払えば、車が来るよ」というメッセージが表示されたので、OKすると随分遠くから車が回って来た。強い雨の中、道路脇まで走って乗り込む。結構渋滞する中、何とか芳村へ入り、何と昨日と同じ茶城の前に着いた。しかもその後見てみたら、15元の保証金は即座に返却されていて驚いた。こんなサービス、日本には絶対にないな。

その店は茶城の顔ともいうべき、1階の中央にあり、すぐに見つかった。オーナーは雲南に行っていて不在だったが、店長という若い女性が対応してくれた。扱っている茶は氷島を中心にしたプーアル茶だったが、台湾のコンテスト入賞という看板もかかっている。聞けば昔は烏龍茶を作っており、その後プーアルに転じたらしい。オーナーは客家系とか。ちょっと興味が沸く。氷島プーアルは相変わらず甘い。

お茶を飲んでいたら雨が止んだので、歩いて地下鉄駅まで行き、何となく海珠広場まで行こうと思ったが、何と反対の車両に乗ってしまい、随分と遠回りした。それでも2号線に接続しており、1回乗り換えで到着した。この辺で昔よくご飯を食べたことを思い出したのだが、6年ぶりの広州は当然変わっており、よく分からない。

昨日張さんから広州に来たらやはり白切鶏は食べた方が良い、と言われたのだが、探すと意外に見つからない。古い建物が並ぶ道をどんどん歩いていき、最後に行き着いたのが、何と潮州系のお店。でも疲れて腹も減っていたので、そこで白切鶏を頼んで食べた。何となく寂しい夕飯になってしまったことは否めない。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(1)懐かしの芳村茶市場へ

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》  2025年3月14日‐22日

3月14日(金)広州茶市場で

三元里駅で降りる。地上へ上がると、ここがどこだかよく分からない。確か6年前もここに泊まったはずなのに、既視感が無い。百度地図で何とか宿へ辿り着く。フロントの男性が「あなたの部屋は窓が小さい。無料アップグレード券を使いましょう」と言って、とてもいい部屋に案内してくれた。広々として気持ちが良い。何とも有難い配慮。

取り敢えずランチを食べるために外へ出た。さっきの駅とは反対方向に足が向く。何となく既視感がある道。その先の道の向こう側には明らかに見覚えのある門。そうだ、6年前もここを潜ってご飯を食べたのだ。そこへ行くと、検問があり電動バイクのチェックが厳しい。爆発があったのだろうか。

この道に食堂は沢山あった。何を食べようか迷っていると、何と6年前に食べた店が現れる。やはり人間は同じような店に入ってしまうものだ。そこで潮汕雑錦粥を食べてみる。これは美味い。確か香港の長洲島で食べた粥に近い。それからその辺の横道を入っていくと、徐々に薄暗くなり、まるで迷路に迷い込んだようになる。これはハノイでも体験した道だった。この類似性はなんだ。

ようやく路地を抜けだし、入ってきた門を出る。そのまま宿と反対方向に歩いて行くと、新しい駅が出来ていた。地下鉄11号線、これに乗れば芳村茶市場まで数駅で到着するという。世の中便利になったものだ。従来の芳村駅ではなく、一つ前の石囲塘駅で降りれば、メインの茶市場はすぐだ。因みに11号線は広州駅と広州東駅も路線に組み込まれているが、現時点では通過している。これが繋がれば非常に便利な線になるのだろう。

石囲塘駅から地上に上がれば、懐かしい茶市場が目に入る。ただ今日予約している張さんの店はここから少し離れた別の茶城に居るという。歩いて約10分、横断歩道を渡るとその茶城が見えてきた。指定されたところへ行ってみたが、何とその店ではなかった。保安のおじさんが、連れて行ってくれたのは3階。確かに6年前に来たことがあるように思えたが、何とそこにも人はいなかった。

何しろほぼお客が歩いていない茶城。保安のおじさんも暇なのか親切で又近寄ってきた。もう一度電話してみると、ようやく繋がり、張さんの居場所が分かった。ちょうど3階から2階に引っ越したところで混乱したようだ。まあ何とか6年ぶりの再会を果たす。6年前は広州、そして潮州へ連れて行ってくれ、茶産地及び潮州料理食い倒れツアーを主催してくれた人物だ。

この6年の間にはコロナ禍もあり、その環境は激変した。ちょうどお茶屋を始めたばかりでコロナに当たり、張さんは茶の歴史や文化にも興味があったのだが、それを深めていく余裕はなかったらしい。広州のインフラはかなりの改善を見せていたが、人々の生活は改善されているとは限らない。最近調べているプーアル茶の歴史など、実は6年前既に張さんとは随分深く話していたことを忘れていた。今日はこの辺のネタでお茶を飲みながらずっと話し続ける。

夜は張さんが潮州料理屋に連れて行ってくれた。少し雨が降っており、車が来るのに時間がかかる。街のど真ん中、川沿いのショッピングモールまで行く。そこにあるレストラン、オープンスペースに食材が並んでおり、如何にも潮州料理屋だ。張さんはサクサクオーダーしていく。彼女は特級調理師の娘であり、食にはことのほか詳しい。

野菜を煮込んだ上湯スープの野菜が実に柔らかい。滷味はほぼ完ぺきな出来。魚もちょうどよい蛋白さ。身がサラサラ口に入っていく。ニラの入った饅頭が美味い。気が付くとどんどん食べてしまい、腹が一杯になるが、それでも最後の麵までしっかりと食べてしまう。途中からは会話も忘れて、食べる食べる。帰りは張さんに送ってもらったが、金曜日の夜でなかなか車が来なかった。広州は何となく元気だ。

広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025(7)順徳から地下鉄で広州へ

ちょうどそこに地下鉄駅があったので、折角なので練習を兼ねて一駅乗ってみることにした。ようは切符をどのように買うのか、身分証などが必要なのかの確認だったが、全くの杞憂。自販機で5元、10元札を入れるだけで簡単に買え、簡単に乗れた。ここでも現金使用に問題はなかった。一駅で降りて宿に戻る。

夕方ちょっと外へ出て夕飯にありつく。近所で煲仔飯を食べる。きれいなお店で、メニューがすごく多い。具材によってはかなり高いのだが、私はいつもの腊肉飯にする。おこげが香ばしくてそそられる。煲仔飯も広東料理の代表の1つと言われているが、順徳あたりが発祥なのだろうか。先日池袋で食べた時と、代金はほぼ同じ。夜は卓球を見て過ごす。

3月14日(金)広州へ

何だか疲れが出てきた。これまでそれほど大変な旅をしてきたわけでもないのに、老化が激しい。宿に付いている朝ご飯をゆっくり頂く。中国ではとにかくお粥だ。それでも牛腩を見付けて手を出し、思いっきり粥に入れてしまう。まあ食べられるうちは、まだ元気だということだろう。

今日は広州へ向かうのだが、その前に散歩に出た。昨日博物館に行く時、車で通りかかった川沿いの古い町並みが気になっていた。歩いてみると10分ちょっとで到着した。この辺りが100年前の順徳繁栄の源らしい。川の向こう側に古い家がずらっと並んでいたので、橋を渡ってみる。

既に住んでいる人は多くはないようだが、狭い路地に家々はキレイに残っており、一部は改修もされている。この敷地、川向うから見た時より、はるかに広いことが分かる。街の文化財として保存されているのだろうか。武帝廟があり、住人が静かに祈りを捧げているのは印象的だった。

そこから川沿いに進むと、第一埠頭が見えてきた。ここは観光地化しており、その先が我が宿がある観光街に繋がっている。この辺が昔の中心であることはよく分かる。もう少し何か食べてみたかったが、腹がそれを許さず、順徳美食の旅はここで終わりを告げた。後は部屋に戻り、荷物を整理して駅へ向かった。

宿のすぐ近くに大良鐘楼駅があった。広州までどうやって行こうかと検索したら、何と地下鉄を乗り継げば行けるという。何とも便利になったものだ。駅の自販機で切符を買おうと思ったが、広州駅までの料金が分からず案内所で聞くとすぐに教えてくれた。仏山市から広州市へ向かうのだが、通しで切符は買える。しかも僅か9元だった。

仏山地下鉄3号線に乗るときれいでよい。仏山には一体どれだけの地下鉄が走っているのか。4号線まで確認した時、途中の北滘公園で広州地下鉄7号線に乗り換えた。広州の路線がここまで伸びてきている。この駅では電車の両サイドのドアが開く。ここで双方が折り返すということか。次の駅名は「美的」、懐かしい企業名だった。

検索通り、7号線を石壁駅で降りて、2号線を待つ。ところが2号線は広州南駅始発であり、7号線の1つ前の駅でもある。案の定、やって来た2号線は大混雑。こんなことなら、南駅で降りて始発を待てば座れたのに、とだんだん欲が出てくる。そこから広州方面を向かうので乗客はどんどん増えてかなり疲れた。最終的に広州駅の1つ先、三元里まで合計約1時間半かかったが、無事に何とか広州に到着した。