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マカオ歴史散歩2004(10)大三巴牌

【ルート1】2004年11月28日

マカオ観光の定番、と言えばセナド広場から聖パウロ天主堂跡を歩くコースであろう。昔行ったことがあったが、最近このコースを歩くことは極めて稀である。この機会にもう一度初心に戻ろう?

1.大砲台(モンテの砦)とマカオ博物館

初心に戻ろうといいながら、聖パウロ天主堂からあの坂を登って大砲台に行くのは躊躇われる。バスも無い。散歩なのにも係わらず、行き成りフェリーターミナルからタクシーに乗る。5分で到着。20ドル掛かったが、何故か運転手は10ドルコインを受け取らない。マカオでは流通していないのか?

 

入り口前。既に多くの観光客が来ている。小さな入り口を潜るとそこは狭い階段。敵の侵入を最小限に止める配慮であろう。多くの大陸からの観光客もここではいっぺんに入れない?階段を登り切ると城壁に大砲のレプリカが並ぶ。モンテの砦、モンテの丘に1626年に築かれた砦。1623年にオランダの上陸を辛うじて阻んだポルトガルは防備を強化し、3門の大砲を備えたという。

確かにこの場所はマカオ半島の四方を一望出来る。砲台はタイパ島の方向(当時は目の前が海)を向いているが、反対側の中国サイドには向いていなかったと言う。1600年代のマカオはポルトガル人の居住が認められていたとはいえ、やはり中国であったのだ。

丘の上の広場の真ん中にはマカオ博物館がある。1998年建造。3階建てでモンテの砦から入るとエスカレーターで下がった所に入り口がある。入場料はHK$15。1階はマカオの歴史が紹介されており、日本語の解説もある。この解説を見るとマカオには明らかに香港より歴史がある。

 蓮峯廟の模型などもある。中2階にはマカオの家並みが再現されている。3階は改装中で入ることが出来なかったが、前回見た時は孫文関連の展示品があった。

 

 

 

2.瘋堂中斜巷

砲兵馬路を下りる。直ぐに古めかしい門構え。由緒正しい家であろうか?現在は取り壊されて門だけが残っている。更に下ると自動車修理工などが立ち並ぶ庶民的な場所となる。

 

そして右へ。右側に古めかしい建物が。社会工作局と書かれている。1925年と門に刻まれている。向こう側にももう1つ、その間に瘋堂中斜巷がある。中世ヨーロッパの趣があり、異彩を放つ。階段を下りると右側に仁慈堂の別邸がある。その先の馬忌士街はきれいに街並みが再現されており、政府が保存していることが分かる。(建物は表だけが残されているものがあり、中は既に壊されていたりする)

更に行くと教会がある。望徳聖母堂という由緒正しい教会だが、本日は聖ポール天主堂で年1回の聖餐会が催されることからミサは中止と張り紙があり、入り口も閉まっている。これは1800年代の建物のようである。

 

その向こう、斜め前はかなり古い建物がある。既に一部取り壊されているところもある。流石に保存にも限界があるのか、それともこれから修理して更に使うのか?兎に角この一帯は完全に100年前を再現しているのである。ガイドブックに載っているのだろうか?少なくとも私は初めてである。

3.聖ミゲル墳墓

馬忌士街を突き当たると西墳馬路に出る。そこに聖ミゲル墳墓の入り口がある。私が中に入ろうとした丁度その時、バスが到着し中から白装束の一団が登場した。もう1つのバンからは何と棺桶が。墓場であるから何も珍しいことではないが、この敷地内には教会があるようで、西洋式が似合っており、白装束には違和感あり。

私の思いなど関係なく、一団は葬儀屋?に先導されて中へ。そして門には墓守か、物乞いかという数人の男女が屯している。通り過ぎようとするとすかさずコップを差し出し金を催促するが、手を振ると何事もなかったように元の位置に戻る。

教会はこじんまりしているが、雰囲気が実に良い。ステンドグラスも鮮やかである。1875年ぐらいの建造か?ここのお墓の古いものが、丁度1870年代である。門に近い手前にはポルトガル人など西洋人の墓が多い。

しかしこの墓場は実に賑やかである。キリストやマリア像、十字架の他、死者自身の胸像が棺桶の上にあったりする。亡くなった方には申し訳ないが、墓石や飾りを見ているのは楽しい。奥の方は中国人の墓が多い。その墓石の多くに写真が埋め込まれている。永遠に死者を忘れない為のものであろうが、日本人には違和感がある。

1つの墓石が私を呼んでいるような気がしたのは、9歳でなくなった少女の墓。写真はそんなに古くない、と思ったが良く見ると彼女が亡くなったのは1942年。何かを語りかけてくるような感じがしたのは気のせいであろうか?

更には最近亡くなった7歳の男の子の墓石には鮮やかに熊のプーさんがプリントされていた。ぬいぐるみも置かれており、お墓とは思われない雰囲気であるが、生前彼が好きだったものなのだろう。あるいは病院で長い間闘病生活を送り殆ど外に出られなかったのでは?両親の心境はいかばかりか?我が家の子供達が全く普通に生活していることに感謝しなければ。

4.鏡湖医院

連勝街。お墓を後にして、緩やかな坂を登り切るとそこは五差路になっている。見ると斜め前に鏡湖医院の文字が見える。立派な建物である。1999年に建て替えられたこの病院はマカオ初の本格的医院として1873年に建造。

マカオの華僑が資金を集めて建設。漢方から始まり後には西洋医学も取り入れられる。現在ではマカオ有数の総合病院に発展している。尚この病院は若き日の孫文が勤務していたことで知られている歴史的な場所である。

5.大三巴牌

病院の前を聖パウロ方面に歩く。石畳が心地よいが、観光バスの群には興ざめする。大陸中国人が多く、北京語が飛び交う。5分ほど行くと到着。

但しこの日は1年に一度の聖餐会が催されており、聖パウロの前壁(ファサード)の前の階段は人で埋め尽くされ、回りも観光客に取り囲まれており、近づくことも難しい状況。こんな時は裏手の公園で静かに過ごそうと思ったが、そこも人で溢れていた。聖餐会は年1回、マカオ中の教徒が集うお祭りのようで、ポルトガル人と思われる司教が言葉を述べたり、賛美歌が歌われたりしていた。2時間ぐらいは行われていたようだ。

 

ところで聖パウロ天主堂であるが、1565年に現在の場所に小さな木造の小屋が作られ、キリスト教の布教が行われたのが始まり。その後1580年に修道院と小さな教会が建てられたが、1595年に火災で焼失。直ぐに再建された建物も1601年に再度焼失。

1602年より再建が始まり、現在のファサードは35年の年月を掛けて1637年に完成。イエズス会とポルトガル商人が中心となり資金が供出されたが、この壁の細工には日本人も大いに係わっていると言う。

1609年に徳川幕府はキリスト教禁令を発表し、1614年には多くの教徒が国外に追放された。その多くはマカオ、フィリピンに逃れ、その地で没している。天正の少年遣欧使節の一人、原マルチノもマカオにやって来てここで布教活動を行い1629年に亡くなっている。

尚少年遣欧使節はヨーロッパへの行き帰り、2度マカオに滞在しておりその滞在期間も合計1年に及んでいる。マルチノにとっても勝手知った土地であったのだ。日本に帰る直前マカオに立ち寄った際、4少年の教育係を勤めていたジョルジュ・ロヨラ(日本名は不明)がこの地で亡くなっていることも興味深い。

ファサードの細工の話に戻るが、日本から来た教徒の中には大工、石工、飾り職人なども含まれており、彼らはこの壁の建造の手助けをした。彼らの無償行為は建設資金の節約にもなったが、何よりも当時世界的に見ても高い水準にあった日本の技術がこの壁の魅力。次回よく目を凝らしてみると良いのでは?18世紀中頃ポルトガル本国でイエズス会が解散させられると、マカオでもイエズス会関係者の逮捕、財産の没収が行われる。聖パウロ天主堂も政府管理下に入り、軍の厨房として使われていた。1835年に出火、フォサードを残して焼失してしまう。

ファサードは大規模な修復工事が行われていたが、最近工事が終了。後ろ側から登ることが出来るようになった。高所恐怖症の私もトライしたが、階段が網の目のようになっており下が見えることから何とか壁の間から下を撮影し早々に退散した。尚ファサードの後ろ側には博物館があり、教会関係の遺品の他、遺骨が納められている。原マルチノの遺骨もあると言うが確認していない。更にこの場所とモンテの砦は地下トンネルで繋がっていたようだが、現在は全て封鎖されていると言う。

6.聖ドミンゴ教会

ファサード前の人ごみを何とか抜けると、今度は狭い路地に土産物屋が立ち並ぶ。『鋸記』で好物のたまごパン(お菓子)を買う。帰りにマカオフェリーに行くと実に何人かに一人は必ず鋸記の袋を持っている。それも大きな袋に目一杯買い込んでいる。香港人は何故鋸記が好きなのだろうか?美味しいからである。

雑踏の中に教会があった。バロック様式のファサードが美しい。聖ドミンゴ教会である。この教会も創建は古く1587年という。中に入ると一瞬にして静寂が訪れる。比較的明るい室内にはステンドグラスが輝く。広い室内の先の方に聖母像や聖人像が見える。

丁度その前で司祭と赤ちゃんを抱いた女性、それにその家族が立っていた。どうやら洗礼を行っているようである。非常に厳かな雰囲気に包まれる。座席は沢山あるが、座っている人は数えるほど。ポルトガル系とフィリピン系の顔立ちである。ここにも多くのアマさんがいるようだ。

 この教会には博物館が付設されている。2-4階まで。教会関係の遺品の他、ザビエルの像があったりする。フランシスコザビエルは日本ではキリスト教を伝えた人として知られているが、他の東南アジア、本国ではどんな評価になっているのであろうか?彼は1542年にインドに着てから、マラッカ、マカオ、日本と渡り、最後は中国入国を果たせず、現在の広東省、珠江デルタに浮かぶ上川島で亡くなった。

4階まで上がると床が軋む。10人以上登ってはいけないとある。マカオで初めて作られた青銅の鐘が午後の光を浴びて神秘的な雰囲気であった。

7.大堂(カテドラル)

広場から少し入った場所に大堂がどっしりと構えている。以前東南アジアの母体であったという。重厚な石造りの外観が周りを圧倒する。

入り口には見張り?のおじさんもおり、中に入りにくい雰囲気であったが、思い切って入ってみた。案に相違して中は和やかな雰囲気である。正面奥には十字架が掲げられ、ステンドグラスも鮮やか。

 

 先程の聖ドミンゴ教会は観光客の出入りなどもあるが、ここには祈りを捧げるためにやって来る地元の人々がいる。

 

 

 

 

8.仁慈堂

 セナド広場の一角に仁慈堂が建っている。当初は1569年に福祉施設として建てられた。現在の建物は18世紀後半のもの。現在1階は公証役場である。2階は博物館として開放されているとのことであったが、当日は生憎日曜日で休みであった。但し狭い入り口から中国人団体が出てきていたので、特別に開放することもあるらしい。残念。

 

仁慈堂は元々ポルトガルが世界各地に設けた慈善機構であり、ポルトガル皇后リナが1491年に創設したという。ここマカオの仁慈堂は初代マカオ司教、ドン・ベルキオール・カネイロによって設立されたという。博物館入り口のある小道を奥に進むと、突き当たりにカネイロの胸像が置かれている。この道もセナド広場の喧騒から一瞬離れたい時にお勧めである。

セナド広場は道の反対側に建つ民政総署の前の広場と言う意味。この広場からレトロな雰囲気の建物、ポルトガルから満持ち込んだ石畳、ヨーロッパ風の街並みが見える。また噴水の中には教皇境界線を示す地球儀がある。

 

 

 

マカオ歴史散歩2004(9)新馬路

【ルート4】2004年11月7日

マカオの中心は新馬路。何度も歩いたこの道であるが、実はあまりよく知らない。きっと新たな発見がある、そう信じて歩いてみる。

(1) サン・フランシスコ砦跡

リスボアホテルの北側、高架道路の上から見ると砲台跡があるのが分かる。下は石垣が続いている。石垣を南湾街に沿って回り切ると斜めに登る道が見える。登ってみる。兵営斜巷、登ってよいのか迷う。

登りきると砦跡の砲台が見えると思っていたが、2階建ての兵舎のような建物が並ぶ。今でもマカオ保安部隊事務局として使われているようだ。右端の建物は中が見える。展示品がある。誰でも入れるので、見てみる。昔の軍、警備用品が多い。

 この場所は元々1580年にスペインの修道士により修道院が建設される。その後1622年オランダのマカオ上陸(最終的には撃退)を経て、1629年に修道院横に砲台が設置される。アヘン戦争後ポルトガルはマカオ防衛力を強化、マカオ総督の指示により1861年に修道院は壊され、砲台が改修される。現在の軍営は1937年に建設。

この砦の南側、即ちリスボアのある辺りは1920-30年代以降埋め立てが行われた場所であり、以前は海岸であった。昔の写真、絵を見るとこの高台の砦から紺碧の海を見渡す風景が多い。

 

尚建物の横には高低2段に分かれるサンフランシスコ公園があり、かなり古い木々に覆われている。低い方には大樹の下にカモンエスの詩が書かれた碑がある。高い方には円形の建物があるが、何に使われているのか分からない。

(2) マカオ陸軍倶楽部

南湾街と兵営斜巷の角に立派な建物がある。マカオ陸軍倶楽部(ミリタリークラブ)である。建物正面にくっきりと1870年建造と記されている。この辺り一帯はポルトガル軍の軍司令部が置かれており、倶楽部も1975年のポルトガル軍撤退までは軍人専用であった。

建物はポルトガル洋式で中国的な装飾があり、いかにもマカオらしい。太い柱に囲まれた正面玄関を入ると丁度改装中。係りの女性が親切に説明してくれる。レストランは一般にも開放されているが、12月まではやはり改修中とのことで食事を味わうことが出来なかった。一度ここで午後の一時を過ごしてみたい気分になる。反対側には会員専用のラウンジがある。見せてもらったが、なかなか豪華。2階は事務所とのことであった。

(3) 八角亭

倶楽部の前の道を歩いて行くとやがて八角形2階建ての建物がある。八角亭という。1920年代に建造され、当初は酒が売られビリヤード場として使われていたが、1948年に中華商会の何賢が買い取り書籍・雑誌などを寄贈。現在マカオ唯一の公開図書室になっている。

図書室は午前中のみの公開となっており、朝訪れると老人が新聞を広げている姿が見られる。

(4) 民政総署

亜美打利庇盧大馬路はマカオの目抜き通り。通称、新馬路。南湾街の大西洋銀行の建物(頑丈そうなアーチ型の柱が特徴)の所で交わる。大西洋銀行マカオ支店は1902年の開設、1905年にはマカオで最初のパタカ紙幣を発行。現在の建物は1925年に完成。

右側を歩くと直ぐに大きな郵便局がある。この建物は1929年建造、ヨーロッパ風。東京中央郵便局を思い出す。当日は改修工事中であった。

郵便局の横がセナド広場、いつも沢山の観光客を見掛ける。広場の道の反対側が民政総署。外壁は完全修理中で覆われており、中も工事中であったが、建物を抜けると気持ちの良さそうな裏庭があり、花壇が整備されている。ベンチに腰掛けて本を読む人の姿が見られた。

建物の中のプレートには1633年という文字も見えることから相当に古くからある建物と思われる。

(5) 同善堂

セナド広場の前を歩いて行くと両側共に商店が立ち並ぶ。貴金属、服、食品を扱う店が多いが、最近は店構えを新しくした所が多い。香港からの買い物客は多いが、昔の風情には乏しい。

庇山耶街を右に曲がると直ぐに緑の3階建ての建物が目を引く。同善堂と書かれている。東洋医学の医院。2階にはアーチ型のバルコニーが見られるが、1階は中国的で天井の高い造りとなっている。

門を入ると中には大勢の患者が広い吹き抜けの待合室で椅子に座って順番を待っている。ここは歴史的な遺物ではなく現役なのである。患者は大半がお年寄り。お互い顔見知りらしく話し込んでいる。

 待合室を抜けると創立者の胸像が飾られている。一人はマカオのカジノ王と呼ばれた高可寧、もう一人は中華系の豪商であろうか?同善堂の前にはかなり古い薬局があり、漢方薬を処方している。歴史が感じられる。

(6) 徳成按

同善堂から更に少し行くと文化会館がある。3階建ての建物で土産物を売っている。その建物がレトロである。3階には中国茶を飲むスペースもあり、畳に掘り炬燵まであるのは行き過ぎか?

1階のレジの横を覗くと昔の質屋のセットがある。HK$5の入場料を支払い中へ。質屋のイメージはどうしても格子越し。ここでは格子の内側から見ることが出来る。更に奥に入ると裏の建物に。薄暗い中に金庫や秤がある。

中2階には質草を預かる箪笥?がある。一体どんなものが入っていたのだろうか?2階には小さな窓が厳重な囲いの中にある。現在は観光用に照明がされているが、昔はどんなだったろうか?

マカオの質屋は清末には存在しており、政府は1903年に質屋規定を制定している。徳成按は1917年に開業。第二次大戦中、大陸などから避難民が押し寄せ、人口は15万人から50万人に激増。食糧確保などを目的として多くの人々が質屋で換金を行い、質屋業の全盛期となる。その後70-80年代に高度成長を迎えると銀行などに押されて衰退し、最近廃業する所が相次いでいる。マカオと言えばカジノ、カジノといえば質屋といったイメージは無くなりつつある。

尚質屋には三種類ある。一番規模が大きく、期間も長く(3年)、金利も低いのが『當』。規模が小さく、期間も6ヶ月までと短いものが『押』(カジノで負けた人々が行くようなところ)。そして徳成按の『按』は當と押の中間。期間は1-2年というが、ここの看板には期間は6ヶ月で満期、と書かれていた。

(7) 福隆新街

徳成按の道の向かいは賑やかな小道である。炉石塘巷である。ここは東京で言えばアメ横の一部のような場所で、路上で客引きをしている店が多い。マカオ名物杏仁餅の他、牛、猪、鳥肉を甘辛く炙った物を客に振舞う。何処の店でも店先で作っている。たまごボーロが私のお気に入りである。

 

福隆新街の角にぶつかる。レトロな旅館が見える。新華大旅店、こじんまりしている。泊まれるようだ。周りには東京酒店や東方酒店などという名のホテルもある。この地区はその昔マカオ一の遊郭だったというが。

又アヘン戦争前、香港がまだ発展していなかった頃、マカオは中国貿易の一大拠点であった。この辺りに大きな茶商があり繁栄を謳歌していたが、その後廃れ、この跡地を福建籍の王禄親子が買い取り、今の街を形成した。1875年にはマカオ最古の劇場、清平劇院も作られた。どうやら政府はこの地区を保存しているようだ。土産物屋とレトロな建物。人が賑わう訳だ。

『福栄里』、福隆新街の長屋のような建物が続く道を少し戻ると門がある。その門を潜るとこれまでの喧騒が嘘のように静けさが訪れる。洗濯物が乾され、老人が静かに籐の椅子に座っていたりする。しかしその昔ここは通称火街と呼ばれ、遊女が多くいた場所である。また恐らくアヘン屈も多くあり、中毒患者が多数屯していたのではなかろうか?今は嘘のように静まり返っているが。

(8) 杏和堂

福栄里の前の道を歩いて行くと、新馬路に戻る。その手前に薬局杏和堂がある。如何にも老舗といった風情で建っている。80年以上の歴史があるといわれており、店の中にも歴史が感じられる。壁に薬箱が上までビッチリ。

店はおじさんとおばさんがやっているようだが、手持ち無沙汰に近所の人と話し込む。店の脇に細い階段がある。恐らく2階に住まいがあるのだろう。

 杏和堂の横には先程の福栄里と同様の門が見える。『福隆新街』と書かれており、門のところではおじさんが野外レストランを営んでいる。これが美味しそう。マカオには繁華街の直ぐ近くにも歴史が息づいている。

マカオ歴史散歩2004(8)教会巡り

【ルート3】2004年12月19日

今回は教会巡り。マカオといえば、荘厳な教会が沢山あることでも有名。一体どんな教会に出会えるのか、非常に楽しみにしてきた。クリスチャンでもない私が教会と言うのも何だが、教会内に入り椅子に腰掛け、静かに目を閉じるとマカオの喧騒は一度に吹き飛び、実に豊かな気分になれる。

(1) 聖オーガスティン教会

マカオ一の繁華街、新馬路でバスを降りる。民政総署の横の道を登る。今まで大勢の人がいたことが嘘のような静けさがそこにある。聖オーガスティン広場。大きなガジュマルの木がどっしりと構える。また石畳(カルサーダス)が見事。

その横にかなり古めかしい教会がある。聖オーガスティン教会、歴史のある教会である。実にこの場所に応しい雰囲気を持つ。中はさほど広くなく、特に目立つものも無い。ただ静寂があるのみ。この辺りにはセナド広場の喧騒は全く無く、僅か数分とは思えない違いを見せている。

 

尚1週間後のクリスマスイブの夜、この広場にやって来るときれいにライトアップされ、大勢の人でごった返していた。教会内もイサに訪れた人々で溢れ返っていた。但し多くの人がマカオに出稼ぎに来たフィリピン人であり、マカオ人の姿は少ない。

(2) ロバート・ホー・トン図書館

聖オーガスティン広場の反対側にはロバート・ホー・トン(中国名 何東)図書館がある。元々何東の別荘だった建物でクリーム色の壁に南欧風の建物が歴史を感じさせる。こんな図書館があれば入ってみたいな、きっと歴史的に素晴らしい本があるに違いないと思わせる雰囲気がある。

しかし残念ながら当日は全館改装中で、中に入ることは出来なかった。庭には無残に木材が積み上げられ、木々が窮屈そうに門の外を覗いている。作業員が歴史的な建物に無造作に手を掛け、修繕に励んでいた。

ロバート・ホー・トン(1862-1956年)はイギリス人の父と中国人の母を持つ中英混血児。香港の中央書院を卒業後、1894年にジャーディンマセソンの総買弁となり、巨万の富を築く。現在マカオのカジノ王と言われているスタンレー・ホーは何東の弟の孫に当たる。

スタンレーは裕福な家庭に育ったが、学生の時に一族が破産。苦心の末に巨万の富を築く物語は香港のサクセスストリーの代表。確かアンディラウ主演で映画化されている。尚当人はマカオから相当の利益を上げているが、昔問題を起こしたとのことでマカオには居住出来ないとの話もある。

(3) ドンペドロ5世劇場

図書館の前から聖オーガスティン教会の前を通ると、直ぐに荘厳な建物がある。ドンペトロ5世劇場である。言われれば如何にも劇場のようであるが、かなり狭い敷地内なのでそれとは分かりにくい。

1860年マカオに住むポルトガル人の『マカオクラブ』として建てられる。東洋一古い男性専用社交クラブであり、マカオのオペラハウスとしてセレモニーやコンサートも行われる。
現在クラブ会員専用で一般には公開されていない。奥にはレストランもあるが、こちらも会員専用であろうか?

ところで17-18世紀マカオには世界語があった。パットゥワと呼ばれ、ポルトガル領内、マカオからチモールあたりまで、交易が行われた場所で使われていた。マレー語、広東語、英語などが一文の中に混在する不思議な言語。この劇場でも男性が女装してパットゥワを使った喜劇を上演していたらしい。

(4) 聖ジョゼフ教会

ドンペドロ劇場から道が下る。官印街から風順堂上街に曲がる所に聖ジョゼフのセミナリオの入り口がある。しかし中に入ることは出来なかった。今日は日曜日、学校は休みのようである。このセミナリオは先程の図書館の横に裏門があるからかなりの敷地といえる。

1728年イエズス会の宣教師の教育を目的に建てられたという。セミナリオはカトリックの全寮制学校であるから、その後は学校として使われてきたのであろう。現在の建物はかなり新しく見えた。

その隣に1758年に建てられた聖ジョゼフ教会がある。実に荘厳なバロック式建築。入り口は低い所にあり、門を抜けると階段、その階段を登ると少しずつファザードが見えてくる。この光景は良い。

教会の中はかなりの広さがあり、天井はドーム型でイエズス会のマークがある。柔らかいクリーム色の堂内には午後の日差しが差し込み、何ともいえない和やかな雰囲気を醸し出す。

右手にはフランシスコザビエルの右腕の骨が飾られている。しっかりと石の入れ物に保管されており、中は見えにくいが、これがあのザビエルの骨かと思うと緊張する。ザビエルについては、日本にキリスト教を伝えら人物として歴史で習うのであるが、それは彼が偶然日本にやってきたという誤解を伴う。

彼は彼の強い意思で日本にやって来て、そしてその後の布教活動を切り開いている。最初は受け入れられず、大変な困難に遭うが、その執念というか、信念というか、敬服に値する。その後この骨に触発されてザビエルの死んだ島を旅した。 こちら

(5) 聖ローレンス教会

官印局街の裏門がしっかり閉まっている教会。入ることが出来ないので外から眺めると立派な建物が見える聖ローレンス教会。庭も広い。1558-60年に最初の教会が建てられたというから歴史は相当古い。当時は木造であったが、1618年には土壁に建て替えられた。現在の建物は1803年に再建されたもの。

 教会の敷地は裏門が高い位置にあり、正門は海に向かって低くなっている。横から見ると高い外壁の向こうにクリーム色の建物がきれいに見える。しかし正面のファザートを見ると何とも言えない味のある、歴史を感じさせる佇まいである。左上の時計、右上の小さな鐘。クリーム色の外壁が少し汚れているところが何ともよい。

正門横には大きなガジュマルの木がそそり立っており、よい木陰を作っている。この木は教会の高さに追いつく勢いがある。教会の変遷を全て見てきたという顔をしている。ここから下る道を見ると、海が見える。この木は教会の守り神であったのだろうか??

 この付近は昔のマカオの風景が残っている。19世紀のイギリス人画家、ジョージ・シナリーはこの辺りの風景を愛し描いている。住まいもこの付近にあったようだ。確かに落ち着いた雰囲気とタイパ島まで見通せる景色は魅力的である。

尚クリスマスイブの日、聖ローレンス今日のミサが始まる前に教会内に入ることが出来た。誰もいない夜の教会は実にシックで、全ての人間を包み込む柔らかさがあった。それでいて芯の強い、きりっとした静寂が胸を打つ。マカオのカジノなどの喧騒があるために、教会の持つ静寂が一段と引き立つ。そこが大きな魅力であり、是非とも残していって欲しい東西融合の象徴である。

マカオ歴史散歩2004(7)コロアン島

【ルート10】2005年1月2日

昨年末に広東省上川島を訪れ、ザビエルの棺桶と対面。その余勢を買って新年早々今度はコロアン島のザビエル教会に行ってみることにした。

(1) ロードストーズ・ベーカリー

1月1日を珠海で過ごし、2日にマカオに入った。国境はいつもの倍は込んでいたが、それでも大きな混乱は無く、通過。地下のバスターミナルに行くと、ここからは直接コロアン島に行くバスが出ている。(フェリー乗り場からの場合は、タイパ島で一度乗り換えなければならない)

30分も掛からず、コロアン島へ。媽祖文化村なるテーマパークがあるが、素通りする。この手のテーマパークに入って面白かった試しは無い。バスはコロアン島市街地で停車、観光客が降りる。彼らの最初のお目当てはロードストーズ・ベーカリー。探すまでも無く、既に人だかりが出来ている。

このお店、日本でも数年前に流行ったエッグタルト発祥の地、と言われているが、小さな普通のパン屋さんである。中では注文でサンドイッチなども作られている。西洋人の列の後に付き、エッグタルトを1つ買って食べてみる。これは香港で売っているエッグタルトではなく、ポルトガル風のナタである。大きめで濃厚なたまごの味わいがあり、なかなか美味しい。1つ5.5元。香港でもこれを売り出せば何時でも買えるのに。マカオはパンが美味しい。イギリス植民地の香港と異なり、ポルトガル植民地のマカオはパンにこだわっているのであろうか?

 

 

 

 

(2) ザビエル教会

ベーカリーから少し行くと海に出る。向かいは珠海である。ここから海沿いの道が整備されている。古い街並みも残しているようである。100mも歩くと教会が見える。聖フランシスコザビエル教会である、といっても何処にも書いていないし、看板も無い。

手前の広場には1910年に海賊を退治した記念碑が建っている。そういえば清朝時代、マカオは海賊の拠点であった。張保仔などの大物海賊が常に出入りしていたコロアン島は海賊の巣窟といわれていたが、教会関係者の子弟を誘拐するなどしたため、1910年教会とポルトガル領事館が軍を派遣し、海賊を撲滅した。

クリスマスのイベント用か、記念碑の後ろには大きな動物の風船が置かれているが、場所柄そぐわない印象。

教会はかなり小さい。マカオ半島にある荘厳なイメージの古い教会とはかなり趣が異なり、『天主堂』などと漢字が書かれていたりする。ちょっとイメージが違うな。中も50人も入れない小さな教堂である。確かにこの島の人口は左程多いとは思われず、これで十分なのかもしれない。壁にはザビエルの像があり、これが唯一ザビエル教会といえるものである。隣の建物は教会に付属する施設のようで子供達が何かで遊んでいる声がする。

この教会は1928年にザビエルを記念して建てられた。何故ここに建てられたのか?聖ジョゼフ教会にあるザビエルの骨は1978年まではここに保管されていたそうだから、骨を保管する目的であったかもしれない。(因みにこの骨は当初日本に送られたが、キリシタン禁令でマカオに送られ、聖パウロ教会に保管されたが、1835年の火災で天主堂が焼失した以降は、点々としていたらしい)

 

中の壁には中国語や日本語まで書かれており、不思議な感じ。天后聖母の絵まであり、地元に同化しようと努力しているのか?コンセプトは良く分からない。兎に角期待とは全く違う教会であった。

(3) 観音古廟と天后古廟

教会から南に歩く。ここは古い街並みを残しており、狭い路地になっている。少し行くと老婆が孫に支えられて横から出てくる。そして小さな潜りを入る。『観音古廟』とかかれている。この村にはザビエル教会よりもこの古廟が良く似合う。中はかなり狭いが地元民が数人お参りしている。例の渦巻き線香が外で焚かれており、そこから丸窓の壁を経て、微かに海が見える。

 

この廟の横の家は既に人が住んでいない廃墟であるが、その壁から芸術的な模様ともいえる木が生えていたのは、嬉しい発見。観音古廟を出ると天后古廟の方角を指す表示があった。更に内陸である。少し行くと城壁の残りのような壁があり、その上に古廟がある。以前はここまでが海であったのであろう。

階段を上がると狛犬が見える。元々は康熙16年(1678年)の建造というから古いが、現在までに何度も改修されているようで、中にはその歴史が綴られていた。現在のものは1963年建造。真ん中に天后聖母が静かに座っていた。人は全く居ない。この静寂は嬉しい。外で海を眺めるのも良い。狛犬も海を眺めている。昔は船がこの辺りに停泊していたのだろうか?

(4) 譚公廟

 

古廟の前の道はガジュマルの古い木が何本もある。その並木道を歩くと、木の幹に観音像が置かれているのが目にとまる。木の精と関係あるのだろうか?毎朝祈る老婆の姿が想像される。譚公廟には直ぐに着く。廟の隣に大きな岩があり、その割れ目から大きな木が生えている。これも由緒ありそうだが、謂れは良く分からない。廟はかなり小さいが地元民が多く訪れて祈りを捧げていた。中には海の方に向いて線香を捧げながら祈る女性も居た。ご主人は漁師なのだろうか?

この廟も古く、1862年建造。香港にある譚公廟と同様、海の神様としてその地位は健在。ここで道が行き止まりとなり、先には進めない。山側は墓地のようでこの辺りが古い街であることを物語っていた。

 

 

マカオ歴史散歩2004(6)媽閣廟

【ルート6】2004年11月7日

マカオのルーツ、それは媽閣廟であろうか。『マカオ』という地名は媽閣廟の発音から来ている。喧騒の繁華街を離れて散歩してみよう。

(1) 媽閣廟

日本人観光客にはそれ程人気があるわけではないが、中国人観光客はマカオに来たら必ず行く場所、それが媽閣廟であろう。マカオ半島の南の端、リスボアなどの繁華街と反対側、河辺新街の外れにある。昔は港として栄えたであろうこの地域は現在では廃れてしまい、付近の建物も廃屋、薄汚れたものが多い。

その中で媽閣廟だけが賑やかなのである。媽閣廟には媽祖が祀られている。媽祖は世界各地の華僑社会で厚く信仰されている。海難救助や霊験あらたかな伝説が各地に伝えられている。

媽閣廟はマカオ最古の寺院で既に500年以上の歴史を誇る。記録によれば1488年には既に存在していたという。現在の正式名称は正覚禅林、昔の名は海覚寺、俗称を天后廟と言う。大殿、石殿、弘仁殿、観音閣の4つから成る。中でも弘仁殿が最も古い。背面の山に沿って建てられた特殊な建築様式である。

弘仁殿の伝説は、福建省から船でマカオを目指した時、聖母が老婆に化けて乗船したところ、数千里を走り一夜にしてマカオに到着。老婆の姿はなくなっていたというもの。又石殿は1605年に福建人によって建てられたが、これにも伝説が。福建商人が船に乗りマカオに近づいた際、突如台風に襲われたが、石殿の場所に女神が現れ、波を鎮めたという。媽閣廟内には多くの彫刻、船の像等が残されている。また廟内に鎌倉の銭洗い弁天同様にお金を洗う場所があるのも面白い。

又媽閣廟の向かい側、海の面した所にはマカオ海事博物館がある。16世紀にマカオに来たポルトガル人が上陸ポイントにしていた場所だという。入場料、HK$10。3階建てでマカオの海の歴史を纏めている。帆船の模型などがあり、昔のこの辺りを絵画で確認できる。日本の金屏風に描かれたポルトガル人の姿も複製されている。表にはドラゴンボートが飾られており、そこに海がある。

(2) 港務局大楼

媽閣廟の横から石畳を踏みしめ、媽閣斜巷を登る。緩やかなカーブが心地よい。右側にインドの宮殿のような建物が見える。あれは何だろう?そう思って建物に入る。広い渡り廊下がある。

ここは1874年にイタリア人の建築家が設計したムーア人兵士の宿舎。当時インドのゴアからマカオの警察官として多くのムーア人が送られて来たという。兵士の宿舎としては豪華な感じではあるが。

 その後1905年に海兵隊と税関警察の事務所となり、現在では港務局の事務所と海上警察として使われている。それにしても建物の中を覗くと広々と使われており、きれいに壁も塗られている。実に良い職場環境ではないだろうか?

媽閣斜巷はこの辺りで別名を万里の長城という。何故かは分からないが、道路標示にもちゃんと書き込まれている。昔マカオの中心地であったのだろうか?それとも辺境??

(3) 鄭家屋敷跡

更に進むと道が細くなる。道の名前が媽閣街に変わる頃、左側に大きな建物が見える。改築中のようで中の様子は見えないが上を見上げるとかなり古いようだ。1881年建造、中国の伝統的な古民家。蔵のような建物である。瓦屋根であろうか?

鄭観応が住んでいた屋敷だそうだ。鄭氏は19世紀の思想家で孫文にも影響を与えたという。孫文もここへ来たのだろうか?

尚この先を左の曲がると正面の門があるが、ここも固く閉ざされている。中の様子を伺うと2階の窓が古風な感じ。色々と細工がされているようだが、よくは見えない。

 直ぐ近くは小さな門を潜る囲いのある集落。昔の中国系住民の住まいであったのだろう。タイムスリップする感覚がある。

更に下の道を降りて見る。下から見上げると鄭家屋敷が見える。昔はこの辺りのシンボルであったのだろう。誰でも見上げることが出来る。今は大きな鉄骨の枠組みが見えるのだが。

(4) リラオ広場(亜婆井前地)

鄭家屋敷の直ぐ先、石畳を踏みしめて行くと右側が開ける。リラオ広場と呼ばれている。非常にホッとする場所である。大きな木があるせいであろうか?『おばあさんの井戸広場』と名付けられていたが、井戸は無く代わりにこの場所にそぐわないモニュメントから水が出ている。

 木下のベンチに座れば、爽やかな午後の風が吹く。ヨーロッパの片隅にいる感じがする。右側を見れば緩やかな上り坂がある。この坂が良い。スーッと上りたくなる石畳。細いこの坂をマカオは大切にして欲しい。

 

マカオ歴史散歩2004(5)タイパ島

【ルート9】2005年1月29日

これまで全て単独で行ってきたマカオ歴史散歩であるが、今回はHO太(家内)が参加した。初の試みである。HO太はその昔ポルトガル短期留学の経験もあり、その方面の知識は私より数段あるので参考にさせてもらうことにした。

マカオフェリーに乗る時いつもは一人であるが、今回は2人なので座席の配置も心なしか良い席をくれている気がする(僻みか?)。フェリーターミナルからミニバスで真っ直ぐタイパ島の官也街へ。

(1) カルモ教会と図書館

官也街はタイパの観光地で休日は観光客と香港人でごった返すのであるが、本日は霧が立ち込め、少し肌寒い午前であり人影はまばら。ガイドブックにはこの街の海側の道が示されているが、これまで一度も行ったことが無い。

広場の前の道を渡り海側への道を探す。細い路地がある。行き止まりであるが、かなり高い木がひょろっと立っていたりする。更に細い路地を抜けると突然視界が開ける。海が見える、と同時に軍事施設でもあるのか、歩哨が立っていたりする。

HO太が言う。『どうしてポルトガル人はどこにでも石畳(カルサーダス)を作るのだろうか?』確かにタイパ島に石畳を作る理由は不明である。しかしそれがポルトガル人のアイデンティティーではあるまいか?

石畳の坂道を緩やかに登ると左手に古い住居が見える。左右対称の家で2階には洒落た1/4円のバルコニーがある。しかしそこには鳥籠のように鉄柵が嵌められており、風情をそぐ。

 

右側に教会が見えてくる。ガイドブックの写真ではかなり小さくみえたが、実は結構大きい。1885年にタイパ島唯一の教会として建造される。クリーム色の穏やかな色合いに落ち着きがある。結婚式の写真撮影、映画の撮影などに使われることが多いようで、本日も3組の新婚さんがベンツで乗り付け写真に納まっていた。

残念ながら閉まっており中には入れない。やはり教会見学は日曜日である。礼拝があるので大体のところが開いている。HO太はかなり残念そうであったので、後でセナド広場に行って聖ドミンゴ教会と大聖堂を見せた。

教会の対面には図書館がある。こちらも閉まっており、中を窺うことは出来ない。現在も使われているのであろうか?太い柱が内部への侵入を拒んでいるようにも見える。建物の色合いは教会と同じでここでも新婚カップルが写真を撮っている。

(2) タイパハウス

図書館の横を降りて行くとタイパハウスがある。コロニアル風の建物が5つほど並んでいる。その横は蓮の茂る水辺があり、向こうには海が見える。HO太は『ここに来たことがある』という。私は忘れていたが、10年前に日帰り社員家族旅行で来ていたのだ。うーん、最近の記憶力の衰えを痛感。

水辺と建物の間に大きなガジュマルの木が何本も生えている。この風景は良い。落ち着ける。HO太が薄着で寒いと言うので建物の中へ。チケット売り場は何と売店、魚のすり身団子を揚げており、良い匂いがする。チケット(HK$5)を買っているのは中国大陸の人が多い。

建物は4つ公開されている。1つ目は1920年代の家の中を見る。入ると直ぐに食堂と執務室。奥に厨房。2階には寝室、バスルーム、書斎、バルコニーからは海が一望出来る。バスルームは非常に広くて便器が端の方に申し訳無さそうに置かれている。天井に扇風機がある部屋が少ない。ここは海辺で風がよいのであろうか?

2つ目はタイパの歴史。塩魚や蝦醤油の作り方が展示されていたりする。この島がほんの少し前まで静かな漁村であったことが分かる。3つ目はポルトガルの民族衣装を展示している。こんな服をマカオで着ていたとは思えないが、あるいはお祭りなどでは着ていたのであろうか?更に無料開放している建物では清代の陶器などを展示していた。

(3) オ・サントス

既に12時を過ぎている。いつもの散歩では簡単に済ませる昼食も今日はキチンと取ることに。官也街の中ほどにポルトガルレストラン『オ・サントス(山度士葡式餐庁)』がある。小さい店なので気を付けないと通り過ぎてしまう。

1989年開業。狭い入り口を入ると中はヨーロッパの田舎風。テーブルがぎっしり詰められている。我々が座った直ぐ後、どんどんお客がやって来て満席となる。どうやら2階もあるようで上に上がって行く客もいる。非常に客の距離感が狭く、面白い。

隣の2人の老人の顔はどう見ても中国人。しかし話している言葉がバリバリのポルトガル語。オーナーのサントス・ピント氏はポルトガル人であるが、従業員には流暢な広東語で指示を出す。文化のクロスオーバーといえようか?他の客もポルトガル人とマカニーズ(ポルトガル人とアジア系の混血)のカップルがワインを飲んでいたり、大陸から来た若者達が北京語を話していたりする。

壁にはポルトガルサッカーのポスターやお客との写真などが飾られており、親近感が出ている。英語も通じるので是非お勧めしたい。

肝心の料理であるが、HO太は昔ポルトガル語を専攻しており、学生時代にポルトガルに短期留学したことがあるため、任せることにする。ポルトガルの代表的なスープ、カルドヴェルデはジャガイモと菜っ葉が入っているだけであるが、あっさりしており実に美味しい。豚の手と豆の煮込み、フェイジョアーダはご飯を皿に盛りその上にかけて食べる。味が濃厚でご飯に良く合う。幾らでも食べられる。

そしてサルディーニャアサーダは鰯の炭焼き。昔HO太から話を聞いたときにはポルトガルとは貧しい国だなと思ったものであるが、今はこんな美味しいものを食べているのかという感じに変わっている。2人ではとても食べきれない量が出てくる。これで水代を入れてHK$173は安い。

(4) 官也街

食後のデザートは勿論、コーヒーすら飲まずに店を出る。それ程の満腹感。この辺りは観光客相手のお菓子屋などが軒を並べているが、満腹で見る気もしない。横道に入る。そこは普通の人が住んでいる住宅である。

南欧風の建物が路地を埋める。趣はある。しかし何となく中途半端。何故だろうか?恐らくは観光地にもりきれず、さりとて南欧風の暮らしをするわけでもないからだろう。

道端に共同の井戸があった。その横には何処の村にもある道祖神が祭られていた。建物はヨーロッパだが、中身は中国、先程訪ねたカルモ教会の信者は何人いるのだろうか?路地の奥ではマージャンの音が高らかに?響いていた。

(5) 天后宮

そのまま歩いて行くと昔の家を改造したレストランがあった。かなり大きな造りであるが、お客さんが沢山来るのだろうか?そのレストランの正面入り口の隣に天后宮はあった。新しいレストランの入り口と古めかしい宮の入り口。何とも不可思議なコントラストである。

とはいってもこの宮もそんなに古くは無い。きれいな宮内で信者が何やら拝んでいた。ここまで昔は海だったのだろう。今は大分埋め立てられ、その場所にマンションが建っていたりする。北帝廟も地図には載っているものの見つけることは出来なかった。もしかすると既に取り壊されてしまったのだろうか?マカオ、タイパ島も少しずつ変化してきている。

(6) ポルトガル書店

歴史散歩とは直接関係無いが、今回HO太はポルトガル語の書店に行きたかったようだ。地球の歩き方には出ていたのであるが、本を忘れてきた。フェリーターミナルの案内所で聞くとセナド広場の辺りに大きくマルを書き『葡文書局』という。

タイパの帰りにセナド広場に行ってみる。今日はやはり人が少ない。天候もあるだろうし、旧正月の前と言うこともあるかもしれない。それでも歩き回るが書店は見つからない。聖ドミンゴ教会なども見て、更に進むが手掛かりが無い。

仕方なく、インフォメーションセンターへ。愛想の無い女性が直ぐに場所を教えてくれる。先程辿った道の反対側であった。ポルトガル語の書店だけあって、当たり前だがポルトガル語の本が多い中、一部は中国語のマカオ関連本も置いている。

HO太が買った本は何とディズニーの絵本、ポルトガル語バージョン。一体何に使うのか?確かに珍しいとは思うのだが?お客さんにもマカニーズやポルトガル人が多く、言葉も広東語とポルトガル語が飛び交う。最後にまたもや本当のマカオらしいところへ来てしまった。

マカオ歴史散歩2004(4)ザビエルと洋館2

3.台山
(1)台山

あまりにも寂しい上川島に泊まることを諦めて、フェリーに乗り元来た道を戻る。港に着くと、台山行きのバス以外に乗り物は無い。また同じ道を辿る。

台山に程近い場所に台山温泉と書かれた宿があった。確かこの辺に温泉があると聞いていたので、余程降りてみようかと思ったが、恐らくは水着で入るタイプであることから、パスした。水着を持っていないこともあるが、何よりもリラックスできない。大勢の観光客と一緒に風呂に入る気分でもない。

台山のバスターミナルに着く。台山には特に見るべきところも無いと思ったので、そのまま開平へ行こうとする。開平には80年ほど前の洋館が沢山あると聞いていたから。時刻は7時前、開平までは1時間も掛からないのに、何故か開平行きのバスは既に終わっていた。

途方に暮れる、それに上川島で荷物を持って1時間歩いたのが堪える。台山にホテルがあるかも分からない。ふとターミナルの上を見ると『Holiday Hotel』の文字。ここだ、と思い直ぐ飛び込む。まるで80年代中国各地を旅行した時のノリである。当時はホテルを見つけてもチェックインするまでに相当の交渉が必要であったが、今は値段を聞くだけである。

如何にも駅前ホテルといった狭いロビーの奥にフロントがあり、若い女性が二人座っていた。値段を聞くと豪華ツインが220元であるが、今日はクリスマスなので40%オフだという。そうだ、今日はクリスマスなのだ。上川島には全くと言っていいほど、クリスマスムードは無かった。

部屋はきれいとは言えないが、泊まるには十分。バスタブもある。階下のレストランに下りて行くと8時前なのに客はまばら。寂しいホテルだなあと思って注文をした後、客がどっと押し寄せる。今日はクリスマスディナーで8時から色々な物が食べられたらしい。予想に反して味が良く満足して眠りに着く。

(2)台山の朝

疲れた体を早めに休めた為、翌朝の目覚めは早かった。健康的。直ぐに開平に行ってもよいが、荷物を持って歩くのがイヤで、開平のホテルがチェックインできる時間まで台山で散歩することにした。

前日地図だけは買っておいた。眺めると古塔と革命記念公園が目に入る。幸いホテルからも近いので出掛ける。バスターミナルから西へ、直ぐに川がある。橋を渡りながらどこかで見たような風景だなあ、と思っていると潮州のことを思い出す。

潮州と台山、何の関係もないようではあるが、実は華僑の2大出身地なのである。地図には誇らしげに『台山出身の華僑は130万人』と書かれているが、実際はもっと多いのかもしれない。知り合いにも先祖が台山出身と言う人は多いし、香港には台山華僑協会などの看板を見かけることもある。マカオには台山という地名さえある。

橋から西に5分ほど行くと小さなバスターミナルがある。その道路の向かい側に、何と客家の村があった。城壁は無いが、例の四角く区切られて整然と家が並ぶあれである。家の中も手前に台所と納屋、奥にダイニング、寝室、作業場という典型的な構造であった。

人が住んでいる家はあまり多くないようである。もしかする近々取り壊されるのではないか、危惧される。昨日通過した市内でも、既に取り壊されて再開発されている場所を見たからだ。こういう場所を残していて欲しいというのはよそ者のエゴであろうか?横には大規模に開発された住居が立ち並んでいた。

少し南に歩くと台山市革命烈士陵園という公園がある。台山には抗日戦争中日本軍が侵攻、戦闘があり婦女子も含めて多くが戦ったようだが、詳しくは記載が無いので分からない。共産党の組織もあったようで、記念碑がある。

 

碑の後ろを更に行くと古塔がある。元々は1613年に建造された塔で、高さ37m、内側が9層、外側が7層の大きなものである。その後何度も改修が行われ、現在はきれいになっている。但し登ることは出来ない。

陵園から更に南に行く。デジカメの電池が切れてくる。充電器は持っているが差込が合わない。商店街があるので、プラグを買う。『香港から来たのか?それならこれ。』この辺りには香港人も多く来ているようだ。こういう小回りが利くのが良い所で楽しい。

その通りを歩いて行くと橋がある。その橋の向こう側に古い建物があり、かなりレトロな雰囲気の街がある。実際足を踏み入れるとそこには昔ながらの市場があり、市場を中心に軒並み歴史的な建物が連なっている。ここは清末から民国初期の趣がある。きっと香港映画やドラマのロケで使われていることだろう。特に何も変えることなく、使うことが出来る。

 

全く何の予備知識も無く、偶然時間が余って歩いた所にこんな風景が出現するから旅は面白い、やめられない。得した気分を味わいたい人は既成のパッケージツアーを早く卒業して欲しい。

(3) 開平

バスは開平に向かう。30分ぐらいの距離かと思ったが、1時間は掛かる。途中の田舎道では木々に覆われている所も多い。又所々に洋館が見え隠れする。

開平のバスターミナルは街中にあった。ここ開平は自らを小武漢と称している。武漢三鎮、武漢は川で隔てられた3つの街から成っている。開平も三埠、長沙、沙岡の3つ街から成っており、譚江と蒼江という2つの川で仕切られている。私が到着したのはその3つの街の間にある島なのである。

 ターミナルを出るとマクドナルドやケンタッキーが見える。午前11時であるが、人通りは少ない。さて、何処へ行こうかと思って、取り敢えず川べりへ。すると近くに華僑大廈がみえる。懐かしい、昔の中国旅行では、広東省や福建省でホテルに泊まると言えば先ずは華僑大廈であった。安いのと必ず泊めてくれるのが有難かった。しかし見るとこのビルはオフィスになっているようで泊まれそうに見えない。(実は泊まれたのであるが)

更に行くと開平大廈というビルがある。何となく入ってみるとフロントがある。愛想が良い女性が出てきて、部屋を見せてくれるという。10階に行くときれいに対岸が見えるフルリバービュー。ここも前日同様すごくきれいとは言えないが、清潔であったので泊まることにする。1泊180元。何しろ造りが80年代バージョンで懐かしい。今日の朝まで日本人数人が泊まっていたという。

フロントの女性はとても親切で、昼ごはんは直ぐ横の船の形をしたレストランで取るのが良いと言ってくれる。また洋館はここからバスで30分ぐらいのところにある立園へ行きなさい,と言う。その通りにする。

船上レストランはお洒落に出来ている。観光客目当てであったが、ウエイトレスが広東語しか使わないのには閉口した。きっと香港人や広東省の客が多いのであろう。

(4) 立園と自力村

バスターミナルに戻り、立園行きバスを探す。これまでバスに何回か乗ったが、何の問題も無かったのは必ず終点まで乗ったからだろう。今回は途中下車。車掌のおばさんが切符を売りに来たので安心していたら発車間際に降りてしまう。ワンマンバスである。

郊外に出ると時々洋館が見える。何処が立園か分からない。20分ぐらい行ったが誰も降りない。不安になって近くの若者に聞くと彼もそこで降りると言うので一安心。途中で大きな通りから道を曲がると洋館の数が増える。近づいていることが分かる。

 

漸く到着し下車。大きな門が見え、立園であることが分かるが、道も立派で観光地化している。その道を歩いて行くと突然前を歩いていた高校生ぐらいの女の子が振り返り『立園に行くのか?』と聞いてくる。同じバスに乗っていた子である。

彼女はこの村の住人であると言う。現在は開平の学校に行っている。どうして私に興味を持ったのかと聞くと『バスの中で北京語を話していたから』とのこと。この辺は勿論広東語圏であるが、開平方言もあり、北京語は珍しいのか?そう言えば周りの人が話している言葉は全く聞き取れなかった。

彼女に頼んで案内して貰おうかと思ったが、切符を買っている間にいなくなってしまった。残念なことをした。住人は通行証で直ぐに入れるのである。

立園はアメリカに渡った華僑の謝氏が1925年頃に造った壮大な庭園と洋館である。何故この地に洋館があるのか?案内によれば1920年代にこの付近は華僑からの送金で比較的裕福な土地柄であったが、盗賊が横行。自衛手段として華僑が海外の建物をここに建てたのだという。既に80年ぐらい経過しているが、この立園内の建物はきれいに修復されており、年代を感じさせない。

 別邸を含めて幾つもの洋館があり、庭園もあり、池もあり、木々も植えられている。素晴らしいところと言いたいが、何故か物足りない。観光地化し過ぎており、観光客がガイドの旗の下に見て回る、そういう光景を全く期待していなかったから?

折角チケットを買ったが、早々に退散する。チケットは25元。ここから4km離れた自力村との共通券45元を購入していたので、その村を目指す。横に出ると向こうに村が見える。そこに古い洋館があったので、刈り取りが終わった田んぼを突っ切って進む。

 

その村は小川で仕切られており、橋の向こうに大きな木がある。農作業をする人々が休んでいた。長閑な田舎である。村に入ると人が住む洋館が幾つもある。更に村の祖先の廟が非常に立派に建っている。写真を撮っていると近くにいたおばあさんが地元の言葉で何か言っている。孫が泣いているので写真を撮って機嫌を取りたいということらしい。

子供が4人いた。一番下の子が泣いていた。カメラを向けると泣き止む。おばあさんがあやす。写真を撮って見せると皆喜ぶ。おばあさんも満足の様子。こんな交流が私の期待した旅である。

 

尚この村の建物は古びてはいるが実に立派なものである。さぞや名のある村なのだろうが、調べるすべを知らない。それでも十分堪能した。

それから3kmをとぼとぼ歩く。道が分からなくなることを恐れてバスの通る広い道を行ったので、長閑な散歩とは行かないが、所々に洋館が見え、それなりに楽しめる。立園の切符売りのお姐さんは『タクシーかバイクタクシーで行きなさい、遠いんだから』と言っていたが、彼女にはこの楽しみは分かるまい。車ではあっという間で何の面白みもない。お金の問題ではないのである。

3km行くと、右に回る。曲がる所に何故か1本の木と牛に乗った少年の像があり、自力村の字が見える。何となく良い。そこから更に1km行くと洋館が見えてくる。案内板には日本語も書かれている。

 

ここも観光地には違いないが、管理は杜撰。普通の村であるから何処からでも入れる。切符を見せるのは3つの洋館に入るときのみ。その度にチケットを見せるのは面倒であった。洋館の中は何処も一緒で面白みも無いが、本当に田舎の田んぼの中に15の洋館が並ぶ光景はなかなか。

 

面白かったのは、ここには人が住んでおり、家畜として鶏が飼われていたが、洋館の写真を撮ろうとすると鶏もしっかり止まってポーズをとることである。またガチョウの養殖が行われており、一斉にお散歩に行く姿もなかなか壮観。

広州辺りから来たのか、高校生ぐらいの生徒が大勢でスケッチをしている姿も何となく様になっていた。その横を抜けて帰途に。さっきの少年と牛の像のところに戻り、道に座り込んでバスを待つ。田舎の何時来るか分からないバスを待つのもまた一興である。バスが来たので、手を上げて乗り込み開平に戻る。

(5) 開平の朝

 

夜はまたもや早く寝る。翌朝6時に起きて散歩へ。辺りはまだ暗い。橋を渡り三埠へ。周りが明るくなった頃、劇的な光景が目の前に。古びているが、しっかりした造りの街並みがそこにある。昨日の台山より又更に映画のセット向きかもしれない。

 

川べりには水上生活者の船も見える。その昔はこの川の交易で栄えたことが分かる。そしてこの川を下って多くの華僑が巣立って行ったはずだ。

橋を渡っていると向こうに立派な建物が見える。古びているが威厳がある。近づくとそこは何と風采中学という学校であった。守衛に写真を撮りたいと申し出ると何と『入るなら入場料3元』といわれる。中学校に入るのにお金を払ったのは初めてである。

 

中に入ると生徒が校庭でバスケットをしている。しかしその前にある建物は荘厳で規模もでかい。成功した華僑が故郷に学校を建てて地元の子弟の教育に当てたことが想像される。建物の中が又すごい。風采堂と名付けられた広い講堂がある。始業前のようで、多くの生徒がバドミントンと卓球に興じている。こんな建物で遊べるなんて。

2階に上ると外に出られる。見ると反対側で弁当を頬張る女の子が見える。朝ご飯を食べている。微笑ましい光景であるが、彼女からすれば変なおじさんがいる、という感じであったろう。但しここの生徒は私のことなど全く気にしていない。慣れている。

日本では学校に知らない人を入れるなど今では考えられない。直ぐにも事件が起こりそうである。しかしここには古きよき時代が残っている。但しチケットを買うが。

 

ここは歴史的な場所であるかもしれない。校庭の外側の川沿いには城壁の跡の様なものが残っている。そこに碑が刻まれており、感豊5年(1855年)の文字が見える。

 

中学を離れる。次の橋の袂にやはり古い一角がある。見てみようとするが何と入り口がない。ここはそうは見えないが、実は城壁に囲まれていたのである。入り口は1つでそこには管理人が立っている。迂闊には入れない場所である。そんな所がまだあるのである。

更にもう1つ橋を渡る。そこはこの街の別世界。1戸建ての高級住宅街である。犬を連れて散歩する女性がいる。大型のベンツで出掛ける人がいる。どうなっているのか?これは華僑の生活なのであろうか?

その突端にホテルがある。譚江半島酒店、7年前に出来た高級ホテル。ここに入った瞬間、80年代の中国を思い出す。その頃は極一部の高級ホテルだけが資本主義であった。入るだけで嬉しい場所である。パンやケーキを売っているだけで心がウキウキする。
ここは開平におけるそんなホテルである。但し私の心はウキウキはしない。何しろ今の中国は究極の資本主義国になっているのだから。

(6) 珠海へ

いよいよ珠海へ戻る。急いでチェックアウトしてバスターミナルへ。ところが時間を間違えていて、バスは40分後の出発であった。本を読んで待っていると突然大声で男が怒鳴りだす。どうやらバスに乗り遅れたらしい。おばさん相手に毒づいている。しかし中国のおばさんは決して負けない。反対に激しく言い返す。久しぶりに中国の喧嘩を見た。いい所は決して手を出さないこと。その点では安心して見ていられる。

バスは珠海まで3時間かかると言う。しかし珠海―台山が2時間で50元なのに、開平―珠海は3時間で40元。先ずは座席の広さが違う。狭いのである。そして距離はそんなに違わないのに、何故時間が掛かるのか、それは乗ってみて分かる。最初殆ど乗客がなかったが、何と開平郊外の2つのバスターミナルに寄るのである。そこで客を拾い、江門市方面へ出発。新会の街から南に崖門水道沿いに南下、川を渡り珠海へ。

しかしこのバス、冷房が効いている。皆寒いはずなのに?崖門でトイレ休憩したが、皆トイレに駆け込む。そして漸く珠海に着いた時、膝は凍えて動かない。思わず走って脚マッサージ屋に駆け込んだ。

今回もまた予想外の旅になった。それが私の旅である。ザビエルについてはその後フロイスの日本史やザビエルの生涯などの本を読んで勉強してみたが、かなり奥が深いことが分かった。今後の研究課題としたい。

マカオ歴史散歩2004(3)ザビエルと洋館1

【超番外編】2004年12月24-27日

ある日マカオを歩いているといきなりフランシスコザビエル通りに出くわした。そうだ、ザビエルもマカオ縁の人間だった。ザビエル教会もあった。そして先日ザビエルの骨を安置している聖ジョゼフ教会を訪れた。その骨を見ていると本物かどうかは別にして私は何故かザビエルの強い興味を抱いた。そしてクリスマス直前突然思い付いた、ザビエルの死んだ島へ行こうと。

1.マカオ 
(1) クリスマスイブのミサ

24日のイブの晩、仕事を終えると早々に会社を飛び出す。マカオフェリーは何故か空いていた。この旅がスムーズである予感がする。

マカオはイルミネーションがきれいであった。返還5周年が過ぎたばかりであり、また来年は12の建物を世界遺産に申請する予定であるマカオはクリスマスのライトアップに特に力を入れている感じである。セナド広場などは人で溢れかえっている。

夜10時、民政総署脇から教会街へ。聖オーガスティン教会は既に人が溢れ出しており、入り切れない人々は外でじっと立っている。そこに居ることがミサに参加していることなのであろう。よく見るとフィリピン人のアマさんらしい人が目立つ。男性も中国系でない人が多い。ここマカオでも香港同様に外国人労働者の地位が低いということか?教会の中にはマカオ人が居るのであろう?

そして更に歩いて聖ジョゼフ教会へ。ここにはフランシスコザビエルの右腕の骨が安置されている。クリスチャンでもないのにここのイブのミサに出てみたいという思いでやってきたのだ。ところが残念ならが時間が早すぎたのか門は固く閉ざされている。ザビエルに拒絶された気分である。

少し離れた場所に前回入ることが出来なかった聖ローレンス教会の裏門がある。見ると開いている。恐る恐る中へ。誰も居ない。教会の建物も見事に開け放たれているが人が居ない。独り占めである。非常に荘厳な感じのする教会である。

庭もよく整備されている。ライトアップされた建物も古いが実に趣がある。1803年に再建された石造りの建物である。正面から見ると左に時計、右に鐘があり輝いて見える。重みのある教会である。

その後ホテルに戻りテレビを付けると大堂(カテドラル)でのミサを生中継していた。ミサは夜12時からだった。広東語で行われているが、テレビではポルトガル語も流れている。マカオのイブに相応しい。

2.上川島 
(1)台山まで 

翌朝国境を越え珠海へ。バスに乗って行ったところ、バスは地下へ入る。数ヶ月前までは無かった地下バス停が出現した。入り口付近の混雑が緩和されている。マカオはいつも変わっている。

朝9時前の国境は空いており、直ぐに珠海側へ出る。ここからは未知の世界である。珠海は何度も来ているが、長距離バスのターミナルには行ったことが無い。そこは国境の直ぐ目の前にあった。

ターミナルには広東省全域、福建省、海南島など大陸各方面へのバスが出ていた。広州行きなどは1日90便もあるという。かなり大きなターミナルである。インフォメーションセンター??のおばさんに『上川島へはどうやって行くの?』と聞くと『台山で乗り換え』と一言。

台山行きは1日16便、10分後に出ると言う。何とタイミングの良い。しかし台山は何処にあるのだろうか?広東省の地図を見て確認。バスは結構豪華で座席が広い。50元。2時間で到着するという。

バスは10人ほどの客を乗せて珠海の道を走り出す。最初は通ったことのある珠海大橋を渡り、『御温泉』という不思議な名前の温泉地を過ぎる。この一帯は農業を主としているようであるが、観光農園を営んでいる所が多い。見ると『福建省のイチゴ』という看板が多く、中では観光客が子供を中心にイチゴを摘んではしゃいでいる。中国もこういう時代が来たのである。

この辺までは来たことがあるが、斗門あたりは初めてである。方向はあっている、と思うがどの様に行くのであろうか?皆目見当がつかない。するときれいな大きな橋が見える。かなり高い所に掛かっている。全長1,290mの崖門大橋である。渡ると猫山トンネルを潜り、いよいよ台山市へ。

台山市に入ると何となく田舎に来た気分になる。有料道路を降りて都ふ(角に斗)という鎮に入る。ここで数人が下車する。のんびりした雰囲気である。街の外れに出ると古い一角が見える。年代物の建物が見える。これは何であろうか?中国式の建物ではない。これが噂の洋館ではないか?直ぐにもバスから降りたい衝動に駆られる。それは見事な洋館である。刈り取りの終わった田んぼの中にある村の洋館。

バスはそのまま村を通り抜けてしまう。道は極端に悪くなる。揺れが続く。もしここで降りてしまえば、その後どうしてよいか分からない。

(2)台山から

予定通り2時間で台山に到着。郊外では自由に降りていた乗客が市内では下車できない決まりになっている。交通の妨げになるからであろうか?バスは真っ直ぐ北の外れ、バスターミナルへ向かう。

正直台山は田舎町の印象で、特に何かがあるようには思われない。しかしここから先、どうやって上川島に行くかも分からない為、取り敢えず様子を見ようとバスを降りる。すると丁度目の前に『上下川島行き』という表示が目に入る。これだ、とバスに近づくとおじさんが『直ぐ出るから乗れ』というので勢いで乗ってしまう。

15元払う。こちらのバスには車掌が乗っている。今来た道を引き返す。直ぐに郊外に出て一本道を南下。刈り取りが終わった田んぼの中を走る。途中何人もの客が乗ってきて満員になる。彼らの話している言葉を聞いていると、北の人間もいる。広東語を話す人間もいる。全く分からない方言を話す老人もいる。

時々洋館が見えたりする。まとまってはいないし、古いままの建物であるが、ちらっと見せられると良く見てみたくなる。洋館は開平郊外にあると聞いていたが、この辺りにもポツポツと見られるのは何故であろうか。

45分ぐらい乗っていると広海というところに出る。ここで人が結構降りる。地図で見るとここから先は海である。私はこの広海で船に乗れるものと考えていたが、間違いであった。更に15分ほど海岸近くを走り、漸くフェリーターミナル、山咀港に到着する。

(3)上川島へ 

時間は午後1時。腹が減る。フェリーは1時半、見ると港の2階にレストランがある。チャーハンと野菜炒めを食べる。25元、この辺りにしては恐らく観光客料金であろう。しかし腹が減ると食事は美味い。

このフェリーターミナルを寂しくさせているのは、売店に並ぶ浮き輪、海パン、サングラスであろうか?寂しい秋の海岸を思い出す。乗客も少ない。若い中国人カップルが2組、おじさんが数人。

1時半になると制服のお姐さんが先導して船に向かう。何だか時代遅れのバスガイドさんのよう。船は港に数珠繋ぎになっている。50人乗りの小さな船である。空は青く、海は濁っている。船に乗るのに皆前の船を横切って行く。不思議な乗船風景であるが、合理的ではある。1つの船が港に着いていれば後は横付けでよいのだから。

船室は狭いが前は1段高くなっており、特等席3席は全面が見える。その後ろにはビデオが備えられ、最新の香港ポップスを流している。船が動き始めるとお姐さんがバスガイド宜しくお話を始める。が、直ぐに終わる。外は一面の海、話すこともなし。 彼女はその後ずっと携帯電話で誰かと話をしていた。確かにつまらない仕事かもしれないが、困ったものだ。

(4)上川島に上陸 

30分で島が見える。どうやら上川島に到着したようだ。しかしかなりひっそりとした所である。港付近に多少建物はあるが、どう見ても観光地ではない。

上川島、ここは南シナ海にある上、下の川島が中心の川島群島に属する。ということで下川島もある。90年代、この2つの島を第2の海南島にしようと大規模なリゾート開発が行われたが、結果は見れば分かるとおり。勿論夏には近隣の中国人が海水浴に訪れるのでそれなりに賑わうようであるが、香港辺りから観光客を呼ぶことは出来なかったようだ。

フェリーを降りると皆さっさと迎えの車などに乗り込んでしまい取り残される。取り敢えずフェリーの時間を確認して、出てくるとおばさんが一人客引きをしている。ガイドをするという。車もあるという。私は地図も持っていないのだから、このおばさんの話に乗ることも出来るが、こういう旅は私の旅ではない。

おばさんを振り切るが他に客も居ないので、おばさんもしつこい。とうとう道路まで出てしまうと、そこに丁度ミニバスが通りかかり、それに乗ってしまう。何処に行くのか、幾らなのか、全く不明。

バスは近くの市場で客を拾う為停車。その間に車掌のおばさんが『何処に行くの?』と聞いてくる。咄嗟に窓に張っているビーチという単語を見て『ビーチ』と言うと、ちょっと怪訝そうな顔をしたが、『5元』と言って金を受け取る。

5元もするのだから遠いのだろうと思っていると1つ山を越して直ぐに着いてしまった。降りたのは私だけ。しかもビーチといってもそこはどっかの建物の前。入り口を入ろうとすると『チケットを買って』とお姐さんに言われる。

聞くとここはビーチの入り口で入場料25元を取る所。止むを得ず、支払って中へ。一番近いホテルで地図でも買おうとしたが、ロビーに電気は無く、人気も無い。次の建物もその次も同じ。まるでゴーストタウンに紛れ込んだよう。

ようやくビーチの所に出るとお母さんと幼児が遊んでいて初めて人と会う。ビーチはかなり広かった。砂も白かったが、それだけに人が居ない寂しさが出ていた。おばあさんが一人、歩いてきてジュースでも買ってくれという。もうこうなると早く逃げ出したい気分に襲われる。こんな寂しい所はやだア。

(5)ザビエル記念園 

そこへ何故かバイクに乗ったにーちゃんが人の良さそうな顔で登場。『何処に行くんだ?』と聞く。普段はこういう乗り物が嫌いな私は間違いなく避けて通るはずであるが、その時の状況はまさに『藁にも縋る』思い。しかし肝心のザビエルという中国語を知らないと言うことに気付き愕然。中国語の困る所は外来語。どんな漢字を当てているか知らなければ通じないのである。

ザビエルに似た発音をしてみたが通じない。今後は『教会、キリスト教』など連想ゲームのように関連する言葉を並べるとあっさり、『ここから10分で行ける』という。本当に通じたかは疑問だが、もう仕方が無い。10元だそうだ。

バイクタクシーに乗るのは生まれて初めて。大学生の時に友達のバイクの後ろに乗って怖い思いをして以来、一度も乗っていない。因みに私は運転免許書を持っているが、車の運転をしたことも無い。最初ゆっくり走ってくれたが、バランスが悪い。そうれはそうだ。重いリュックを担いでいるのだから。にーちゃんが『リュックを前にしろ』というのでそうすると大分楽になったが、今度はスピードを出す。おまけに山越え。ヘルメットなんて無い。

特に下りは怖い。何とか下るとさっきの市場に出る。そして港と違う北の方に向かう。そこからほぼ平坦な道を5分、にーちゃんが『あれだよ』と言う方を見ると確かに教会らしい建物がある。

助かった、と思ったがそう甘くは無い。その岬の外れのような場所に着くと何と門に鍵が掛かって閉まっている。ここまでの苦労はなんだったんだ?思わず『閉まっている』と口にするとにーちゃんが『大丈夫、上に管理人が居るから』と大声で人を呼ぶ。するとおばさんが降りてくるではないか?

おばさんが門を開けてくれたので、にーちゃんにお別れする。流石に帰りも乗る気になれない。にーちゃんは残念そうであったが、10元貰って引き下がる。きっと10元でもぼっていたのだろう。でもこちらとしてはここまで連れて来て貰い、門を開けてもらったのだから、儲けものである。

おばさんは驚いていた。『どうやって帰るの?一人出来たの?』と聞きながら10元の入場料を取る。私が香港から来た日本人というと『海外から来た人は30元』と言い直す。言わなければ良かったとお互い笑う。嫌な印象は無い。

階段を上がると教会が見える。しかしここにも鍵が掛かっている。おばさんは先に更に上に行けと言う。横に庭があり、管理人室が見える。ここがおばさんの家らしい。子供が遊んでいる。更に上に行けと言う。見ると急な階段があり、上にザビエルの像がある。

階段には第1処という石碑があり、14まである。かなりバテル。すると上から歓声がする。見ると10人以上の子供が居る。何故だろう?小学生ぐらいであるが、気楽に見知らぬ私に声を掛けてくる。『どっから来たの?何処行くの?写真撮るの?撮って?』

この像は1987年に建てられたもの。1639年の文字も見える。ザビエルの記念か?ザビエルが亡くなったのは1552年12月3日である。熱病であったと言う。司馬遼太郎の街道を行くシリーズに『南蛮の道』というのがある。その中でザビエルはバスク人の代表のように扱われているが、その遺体の記述は以下の通りである。

遺骸をポルトガル人は管内に石灰を詰めて納棺し、それを海岸に埋めた。2ヵ月半後掘り返され(生けるが如くであったと言う)、マラッカの聖堂に運ばれ2度目の埋葬。その後遺骸はインドのゴアに運ばれ、奇跡の遺体として1554年3月16-18日に展示された。(貴婦人が右足の第4指と第5指を噛み切って逃げた)1614年にはローマに右腕が送られた。

聖人の骨と言うのは実に数奇な運命を辿るものである。私が聖ジョセフ教会で見た骨は右肩というが、ゴアから運ばれたのだろうか?尚ザビエルの姓はパリ大学入学時に名乗った母方のものである。

ザビエル像はそう大きくは無いが、天に向いて立っている。1987年海外の華僑の寄付で建てられたとある。しかし分からないのは、ザビエルの死亡年を中国語では嘉靖31年と正しく書かれているがポルトガル語では1639年となっていること。

子供達は相変わらず話しかけている。それも全く標準の北京語で。ここに来る人の多くは中国国内のキリスト教徒などであるらしい。華僑も来る。子供達はそんなお客と話すのを楽しみにしている。デジカメを向けると嬉しそうに応じる。何と純朴な。近くの村から来るという。こんな交流が実に楽しい。

下に降りると管理人のおばさんが子供と遊んでいた。自分の子供であろう。教会内に案内してくれると言う。何しろ鍵が掛かっているのである。中に入るとこじんまりしている。壁にはザビエルの旅が書かれた絵が10以上掛かっている。中央奥にザビエル像が置かれ、その前に何と棺桶が置かれている。

棺桶の蓋には1506-1552年(ザビエルの生まれた年と亡くなった年)と書かれている。かなり古いものと見えるが、果たして本物なのか?1周すると側面に康煕38年の文字。康煕38年は1699年、この年は何故書かれているのか?

この教会は普段は使われていないが、先月も日本から人が来てミサを行っていったという。やはり関係者にとっては聖地であろう。横の庭にはモニュメントが建っている。見ると1999年12月3日に山口ザビエル教会がここを訪れ、建てていったもの。その年はザビエルが日本に上陸して450周年、言ってみれば日本キリスト教史の記念日である。

帰りに門を潜ると2人の少年が追いかけてきて手を振る。目が輝いている。

(6)港まで 

バイクタクシーで来た道をとぼとぼ歩いて戻る。リュックを背負っているが、あまり重く感じない。それ程長閑な風景である。小さな漁村がある。小船が日の光に輝いている。大きな木の根元には人が休んでいる。おばあさんとおじいさんが牛を一頭ずつ引いて通る。

小さな畑が点在する。皆昔ながらの手作業である。肥を播く女性がいる。自分達が食べる僅かな野菜を作っている。原点に立ち返る、大切なことである。

村がある。古い家が並ぶ。老人が日向ぼっこしたり、飯を食べている。村の入り口には老婆が数人車座でおしゃべりしている。とても入れる雰囲気ではない。実はこの島にも日本軍が侵攻した事があるらしい。老婆の目は厳しかった。

村外れに小学校がある。さっきの子供達の学校であろうか?入ると古い校舎が目に飛び込む。既に使われていない。中はめちゃくちゃ。しかし歴史を感じさせる。この校舎は何を見てきたのか?

道を歩く。ザビエルもこの道を歩いたのだろう。彼はこの島から中国本土に布教活動に入る許可を貰う途中、亡くなっている。遠藤周作の『王の挽歌』という本に九州の守護大名、大友宗麟の城下にザビエルがやって来る姿が描かれている。

ザビエル神父と3人の日本人信者は大理石の聖像や祭具を入れた布を背負い、45歳の神父は山越えに憔悴し、足を引きずるように府内に向かって歩いた。日本人はみすぼらしい、汗まみれの師を南蛮人の物乞いのように見た。見物人からは嘲笑が起こり、小石を投げる子供もいた。

宗麟の狙いが南蛮貿易にあることも、日本人が外見で人を判断する人種であることも全て承知の上でそれでも布教活動に出向く、ザビエルの姿には素直に感動を覚える。かの大友宗麟が最終的に帰依したのも、このザビエルとのたった1-2度の会見が理由であると言うのだから、本当に凄い。

ザビエルはこの上川島の海べりも同じようにとぼとぼと物乞いのように歩いたのだろうか?現在この島にはキリスト教徒が多く住んでいるようには見られない。歴史に見放された島、それが上川島であるかもしれない。

因みにこの島は辺境にある為、歩いている途中に人民解放軍の施設があり、かなり多くの軍人が駐留しているようだ。島は一面軍で持っているのかもしれない。観光資源としてのビーチを生かし、第2の海南島を目指したリゾート開発も失敗した今、この島の将来は・・・?

港近くに市場がある。覗いてみると何とウサギや鳥と並んで猫の肉を売っている。どうやらこの辺では犬、猫は食用のようである。

マカオ歴史散歩2004(2)大三巴とモリソン教会

【ルート2】2004年11月7日

前回のマカオ散歩で『マカオの方が香港より歴史が感じられる』ことを実感した。何とか時間を作ってマカオを再訪した。

(1) 恋愛巷

マカオフェリーを降り、バス停へ。さて、今日は何処に行こうか?バス停から出ているバスで一番簡単に行ける所はリスボアホテルか新馬路であろう。新馬路のセナド広場へ。新馬路はマカオで最も賑やかな場所であり、セナド広場はその中心。今回はセナド広場の北側、大三巴街を起点に歩くことにする。石畳の道を歩いて行くと気分はヨーロッパ。そして聖パウロ天主堂跡の真横に恋愛巷がある。

その巷は恋愛とか恋人とか言う言葉はあまり似つかわしくない、何の変哲も無い10数メートルの路地である。建物は古いが特に特徴的でもない。普通の家として使われているようだ。

しかし少し上を見上げるとそこには空を覆うように聖パウロ天主堂が迫ってくる。この迫力は何であろうか?あの薄っぺらい、ファザードだけの聖パウロ。ところが横から見るとぜんぜん違って見えるから不思議である。

恋愛巷を登って行くと丁度ビデオ撮影が行われていた。私が下から写真を撮っているのを見てカメラマンは興味を示したようだ。じっとこちらを見つめていた。やはり魅力的なのだろうか?

(2) ナーチャ廟・旧城壁

聖ポール天主堂の横をそのまま抜けると、目の前に低い城壁が見えてくる。城壁というより村を囲む壁のようなものだ。1569年に明朝からの攻撃を防ぐ為にポルトガル人によって作られたもの。その後度々破壊された。実際出入り口になっている小さな潜り門を入ると何軒かの家が見える。そして直ぐに下り坂となり、天主堂の裏に抜けている。

その潜り門の前にナーチャ廟がある。かなり小さい廟である。中には那侘王子の像が安置されている。当日も老婆が2人、中でおしゃべりしていた。孫が中を覗きこんで何か騒いでいる。和やかな風景だ。

ナーチャは母親のお腹の中に3年半いたという伝説の子供。ナーチャ廟とは子供の神を祭る。1901年に建造され、現在世界遺産に申請中と言う。

(3) 聖アントニオ教会

大三巴街に戻り石畳を歩く。両側に古い住宅が並ぶ。5分ほど歩いて少し右に曲がるとそこに厳かな教会が見える。聖アントニオ教会。ポルトガル人が入植を始めた1558年頃この場所に小さな教会が建てられたのが、マカオの教会の始まりという。

現在の建物は1930年に大改修が行われたもの。建物の左端に1875年に再建されたことを示す石刻もある(1874年に台風による落雷で焼失)。石造りの建物は非常に落ち着いた印象を与える。この教会は『花王堂』と呼ばれている。聖アントニオは婚礼を司る聖人として崇められており、花嫁が頭に花王を被ることからこの名称が付いたとも言われている。

教会内はこじんまりしているが、なかなか雰囲気がある。日曜日の礼拝には多くの信者が訪れており、歴史が感じられる。きっと結婚式を挙げるカップルも多いのではないだろうか?(勿論信者のみで、ハワイの教会で式を挙げる日本人のようなわけにはいかないだろう)

(4) カモンエス公園

聖アントニオ教会を出ると前に木々が茂っており、公園の入り口が見える。ルイス・カモンエス、ポルトガルを代表する詩人。彼の名を冠した公園で1885年より政府の管理下に入っている。

カモンエスは1524年頃にリスボンで生まれ、早くから国王の賞賛を得ていたが、宮廷内で恋愛事件が発覚し追放される。その後アフリカ戦線に従軍したが、目を負傷。1552年にリスボンで戻るが殺傷事件を起こし入獄。出獄後1553年から1569年頃までアジアに滞在していたと言われており、叙事詩『ウス・ルジアダス』をアジアで書いたことはほぼ間違いない。公園の石碑にも1556年にマカオに滞在していたとなっている。1580年没。

公園を入り、噴水・モニュメントを越えて階段を上がる。左手を行くと羅漢松という名の見事な松がある。そこを更に登ると大きな岩のぽっかり空いた空間に1866年に建てられたカモンエスの胸像が置かれている。台座には彼の叙事詩が刻まれているようだが、当日は老女が数人、音楽をかけて踊りの練習をしていた為、近づくことが出来なかった。

 胸像のある場所の反対側には大きな岩があり、そこにはカモンエスについて刻まれている。ポルトガル語で書かれているものが多く、HO太(家内)がいればなあ、と思う。

この公園には見晴台のような高台もあり、木々も多く、快適。高台から降りると子供が遊ぶ空間がある。その横の芝生に石像が見える。金大建神父。韓国人初の神父で1837-42年にマカオに滞在。その後韓国に戻り、1846年に殉教した。(聖アントニオ教会内にも像が飾られている)

今ソウルを訪れると高速道路から十字架を掲げた教会を多く見ることが出来る。韓国のキリスト教もこのような殉教の歴史の上に成り立っていたのである。

 (5) カーサ庭園

カモンエス公園の隣に『東方基金会』と門に書かれた由緒正しい建物が見える。門を潜るときれいな庭がある。門番に入ってよいかと尋ねると『勿論』と笑顔で言われる。しかし中には誰もいない。何故だろう?こんなに静かで気持ちの良い場所なのに?

カーサ庭園は18世紀後半にイギリスの東インド会社がイギリスから庭師を呼び寄せ、アジア各地の植物を植えて、イギリス風庭園を造園。同社の船荷監督委員会本部を置いた。船荷監督者が住んだ邸宅が見の前に広がる。

1600年に設立された東インド会社は中国との貿易を希望していたが、1757年乾隆帝の時代に広州に限り年2回交易が認められた。広州交易会の始まりである。カーサ庭園に東インド会社が拠点を構えたのはそういう時代である。当初は中国茶の輸入が中心であったが、その後アヘンの密輸が主となり、やがてアヘン戦争に繋がって行く。

アヘン戦争後、香港が英国領となり、貿易の中心として繁栄して行くのと比例してマカオの地位は低下して行く。東インド会社は1835年にカーサ庭園から転出、同じ年に聖パウロ天主堂が火災で焼失している。

庭園は1885年に政府の管理下に入り、マカオ文化、歴史保存の為の援助金を管理する東方基金会が事務所として使用していた。現在は現代アートなどを展示する部屋がある。

(6) モリソン教会

カーサ庭園の横にマカオ唯一のプロテスタント教会、モリソン教会がある。1814年創立。かなり小さな教会の建物の前には、丁度日曜日の礼拝を終えた信者が紅茶を飲みながら立ち話しをしている。邪魔しないようにお墓の方に行く。

 教会の横の坂を降りると、裏庭のように墓地がある。上の段は花壇が整備され、整然と並んでいる。見ると1850年頃にマカオで亡くなった西洋人たちである。1850年というとポルトガルがマカオの植民地経営色を強めた頃である。関係があるのだろうか?

一番奥にイギリス人画家、ジョージ・シナリーの墓がある。かなり大きい。下の段には芝生が敷かれ、様々な墓石が置かれている。一番右の端にロバートモリソンとその家族の墓がある。モリソンは1782年にイギリスに生まれ、ロンドン伝道会により中国に派遣された。

モリソンと言えば日本史では何といっても『モリソン号事件』に名を留める。モリソンの名を冠したアメリカ商船は1837年日本人漂流民7人を乗せて浦賀沖に現れるが、異国船打ち払い令により砲撃を受けた。このモリソン号はマカオを出帆し、そしてマカオに帰港している。(因みにモリソンは乗船していない)

モリソン号事件はその後日本で蛮社の獄を引き起こすなど歴史に大きな影響を与える。高野長英、渡辺崋山はモリソンの名前を聞き及んでいたと言う。

尚モリソン号に乗船していた日本人漂流民達は何れも船が難破して漂流した者たちで帰国を心待ちにしていただけに祖国の仕打ちに絶望感を味わったと言う。尾張の国の住人、音吉、岩吉、久吉の三吉はモリソンの弟子、ギュラッツの指導で新約聖書の日本語訳をしたといわれている。

吉村昭の『アメリカ彦蔵』という小説では、岩吉は寧波に住み清国女性と結婚したが、清国人に殺されている。音吉は上海でイギリス商館の支配人をしており、インド人の妻を娶って裕福に暮らしている。久吉も上海で清国人と結婚、役所に勤めている。モリソン教会は白を基調とした爽やかな建物。この庭に立ち、歴史を思うのは実に楽しい。

マカオ歴史散歩2004(1)モンハの丘と孫文

【ルート5】2004年10月10日

香港歴史散歩を始めて1年になるが、実際に歴史的な建物が残っているケースが非常に少ないことに不満を持っていた。ある時ネットで『マカオ歴史散歩』なる本が日本で出たことを知る。入手してみるとこちらの方が歴史を感じさせる。元々カジノなど夜のマカオというイメージに違和感を持っていた私は『朝9時集合、マカオ歴史散歩』というテーマで歩いてみることにした。

(1) 観音堂

 

美副将大馬路。マカオ3大寺院の1つ。リスボア付近の喧騒とは無縁、静かな環境。正門の前には物乞いのおばあさんが3人、何故か楽しそうにおしゃべりしている。門を潜ると目の前に3つの堂が広がる。

1672年に建設されたこの観音堂には歴史的を感じさせる大木がある。堂に入ると手前に続いて中、奥と3つの建物がある。手前の2つには仏陀が、奥の部屋には美しい衣装を纏った観音様が祭られている。本堂には中国の十八賢人の像が並んでおり、その中には『東方見聞録』のマルコポーロといわれるものもある。各場所には大きな渦巻き線香が上から吊り下げされ焚かれている。お寺の人が和やかに談笑している。

 

これだけ大きな寺であるが、観光地とは無縁。広々とした中での静寂さが実に素晴らしい。堂の屋根には陶製の人物・動物の飾りが多く置かれており、日本の寺を思い出す。

またこの観音堂の裏庭は歴史的な場所でもある。1844年アヘン戦争に敗れた清は、イギリスとの南京条約に続いてアメリカと望廈条約を結ぶ。その条約締結の場所がこの裏庭。現在も石のテーブルと椅子が残されている。望廈とはこの堂の裏のモンハの丘のことである。高校の世界史の教科書で見た記憶があるが、マカオでの調印とは意外であった。

 

(2) 観音古廟
観音堂の道を北へ向かう。道の対面にはかなり古い建物がある。マカオは香港と異なり建物が残っている。歴史が感じられる。

モンハの丘に登る坂の所に観音古廟がある。小観音廟と呼ばれており、明代中期に起源がある。廟は非常に古く、中は狭い。実に庶民的な廟である。

 

(3) モンハの丘
観音古廟の横の道を登る。少し登ると学校の入り口が見える。間違ったのかなと一瞬思うがそのまま進む。観光学校、そしてホテルを横に見て、モンハ公園へ。更に急な階段を登るとそこに砲台入り口が見える。

 

アヘン戦争後、中国との関係が悪化したポルトガルはマカオが侵略されるのを恐れ、1849年ここに砲台を設置。大砲は中国大陸(珠海)の方を向いている。難攻不落と言われた要塞であったが、その後兵士の宿舎として使われ、1975年のポルトガル軍撤退に伴い、公園となった。現在はおじいちゃんが孫の手を引いて登ってくるほのぼのとした公園である。

(4) 蓮峰廟

公園の北側を降りると蓮峰廟がある。モンハの丘は南の観音古廟と北の蓮峰廟に守られた形になっている。丘が蓮の花の形をしていた。

1592年に創建された蓮峰廟はかなり広い敷地を持つ、マカオ一美しい仏教寺院。現在の建物は1875年のもの。庭には大きな木があり、安らぎを与えてくれる。寺の入り口には精巧な彫り物もある。

清代には商人の揉め事を審議する場所として使われた他、中国の役人の宿泊先として使われており、林則徐なども宿泊している。

敷地内にはそれを記念して1989年に石像が、1997年には林則徐記念館も建設されている。

1839年9月欽差大臣となった林則徐は広州よりマカオに入る。珠海との国境は現在の場所よりやや南に位置していた。直ぐに蓮峰廟に入り、マカオ駐在ポルトガル人よりアヘンの状況について尋ねている。

 

記念館の係りの女性に聞いてみた。『アヘン戦争の時にマカオでは戦争はありましたか?』『いいえ、ありません。マカオはポルトガル領でしたから。』ところが調べてみるとマカオには早くからイギリスの東インド会社が支店を作っており、大規模なアヘン売買を行っていた。林はアヘンを扱うイギリス商人をマカオから追放、1840年6月にはマカオ、中国の国境で戦闘が行われ、アヘン戦争の火蓋が切られている。

尚アヘン戦争後、イギリス他の侵略を恐れたポルトガルは従来の中国依存の統治を改め、海軍将校のアマナルをマカオ総督に送り込む。アマナルは華人を圧迫したため、1849年蓮峰廟にて、農民に刺殺される。現在もその石碑が残されているという。

(5) 紅街市

蓮峰廟の前の道を10分ほど歩いて行くと紅街市がある。風格を備えた赤レンガの建物。例えて言えば『マカオの築地』。市場は2階建て、野菜、果物、肉、魚何でも売っている。香港同様最近は大型スーパーに押されているのか、昼下がりの時間帯のせいか、人影は疎ら。

但し市場の西側の狭い路地には小売の屋台が軒を並べておりこちらは盛況。野菜の値段など香港と比べるとかなり安い。

(6) 龍華茶楼

紅街市の横に古ぼけた3階建ての建物がある。壁に龍華茶楼の文字が見える。ここがマカオで唯一残ったといわれている伝統的な茶楼である。階段を上がると懐かしい空間が広がる。高い天井、大きな扇風機、背もたれのある4人掛けの椅子、テーブルの上には年季の入った茶器。朝は鳥籠を持った老人が大勢い訪れるのであろう。しかし今は午後2時半、席に座ったものの店員は誰もこない。よく見るとお客もいない。

 

帳場にいるおじさんに聞くと『今日はもう終わった』という。『写真撮っていってもいいよ』と顔に似合わず優しい声。きっと写真を撮りに来る人が多いのだろう。最後に日本人だと告げると、笑顔になった。茶を飲まなくても十分堪能した。
尚点心の値段は1つ数元と格安。全てが昔のままなのであろう。

 

(7) 七賢

紅街市の横、高士徳大馬路を渡り横道に入る。群隊街、そこは街市の外マーケット。野菜、肉、魚、小売をしている。街市には人がいなかったが、ここは大勢の人々で賑わっている。昔懐かしい駄菓子のような物も売っており、子供が母親にねだっている姿が非常に懐かしい。道咩卑利士街を左に曲がるところに麺屋がある。腹が減る。鶏蛋麺、いい響き。10元。美味い。店の名前は七賢。何でこんな名前なのか?それは少し歩くとわかる。

 

 

左側に古びた門が見える。壁も古い。門には七賢とある。門を潜ると竹が茂る。そうか、竹林の七賢か。奥に進むと丁度坊さんが経をあげている。かなり賑やかである。祈ってもらっている親族が頭を下げている。ここは庭園としても整備されていて、小さいながら心地よい場所となっている。

(8) 盧廉若花園

盧利老馬路を行く。数分歩くと大きな、高い塀に囲まれた公園に出る。盧廉若花園(ロウ・リム・イオック庭園)である。伝統的な蘇州様式庭園。1870年に中国の豪商盧九がこの土地を購入。長男の盧廉若が庭園を完成させた。

その後一族は衰退し、豪商何賢が購入。1973年に庭園と邸宅は政府に売却された。庭園部分は政府により修復され公園として一般開放されている。邸宅部分は道の反対側で学校として使われている。(この学校の建物がまた趣がある)

庭園は大きな蓮池を中心にして竹山や東屋がある。蘇州で見た幾つかの庭園をかなり小型にした感じ。奥には中洋折衷の建物があり、中では山水画の展示会などが行われていた。

50年まには周りに高い建物が無く、かなりの遠くの松山辺りからもこの庭園が良く見えたというが、今では建物に囲まれている。

 

(9) 国父記念館
盧廉若花園から程なく、国父記念館、または孫文記念館がある。孫文はマカオで医者とした勤務した経験があり、それを記念して後に遺族が建てた物だと言う。1930年代の建築で北アフリカのムーア式。2階のベランダが非常に広く、独特。

1階には資料が展示されており、若き孫文が香港の西医学院で天下を語る4人組を形成していた頃の写真などがあり興味深い。2階は寝室、バスルームなどが残されている。

当日は10月10日。93回目の辛亥革命の記念日(双十節)である。当記念館でも午後1時から庭で記念式典が行われていた。庭には孫文の石像があり、青天白日旗を背後に張り、参加者全員が国民党的な3礼を行っているのには歴史を感じた。