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香港歴史散歩2004(21)許願樹

【番外編4―許願樹】2005年2月6日

家族で初めて歴史散歩をする。歴史散歩というよりはHO太の行きたい所へ行っただけであるが、意外と面白かった。

許願樹とは60年ほど前にある水上生活者が長く病気に苦しんでいたが、この樹の前の土地伯公に祈ったところ、病気が治ったことから、この樹に霊験があると信じられている。願い事を書いてみかんにつけてこの樹に投げるのだが、果たしてどうか?

1.許願樹まで

家の前のビクトリアパークでは既に旧正月の花市が始まっていた。その横からバスに乗りホンハムへ。KCRに乗ろうとホームに向かうが、ここが始発駅でなくなっていることを忘れており、1本乗り過ごしてしまう(ホームに電車が停車していたが、直ぐ出て行くとは思っていなかったのだ。)。旧正月前で乗客は少ない。次の電車で座れる。

この車両は新型である。4人掛けであるが我々が座った所には何とシンセンの不動産のコマーシャルが下半分に張られており、景色が見えない。恐るべき商業主義。普段MTRしか乗らないのだから偶には外の景色も見たい。この広告は逆効果ではないか?

太和駅に降りるのは初めて。KCR各駅には乗客が入れるトイレがあるのが目新しい。飲み物を買って出発。駅からバスに乗る。タクシーで行けば簡単だし、4人なら経済的かもしれないが、散歩の原則は公共交通機関。なかなか来ないバスを待つのも又楽しい。元朗行き64Kに乗る。6.9㌦もする。きれいなバスではなるが。

何処で降りるのか、迷ってしまうのか?不安である。最初はマンション群が見え、直ぐに田舎の風景となる。10分ほど行くと『放馬莆(許願樹)』という表示が出る。これなら誰でも分かる。

2.許願樹

バスを降りた瞬間、3人のおばさんに追いかけられる。口々に何かいっているが、広東語で分からない。取り敢えず手を振って断るとHO太に狙いを定めてくる。かなりしつこい。これは一体なんだ。

バス停の道の反対側に『林村』という名が刻まれた門が見える。道を渡るとまた別のおばさんが声を掛けてくる。HO太が聞いてみるとどうやら許願樹に投げるみかんと紙、それにお祈りの線香をセットで売っている。しかも許願樹とはその直ぐ横にある樹のことであるという。

そのおばさんから買うことにする。テントの下に連れて行かれ、そこで願い事を書けと言われる。それも漢字で。子供達はどうするかと見ていると2人ともスラスラと漢字で書いている。特に次男は『世界平和 無病息災』と書いている。自分の息子ながら感心する。自分が子供ならこうは書けないだろう。

そして横の木の下へ。先ずは線香に火を着けてお参り。長く香港に住んでいるとお参りは様になっている。香港の子供達が沢山やってきた。引率者がみかんを投げて見せている。なかなか上手くて直ぐに枝に引っかかる。

簡単だなと思い私も投げてみると何と大きく外れてお参りしている人が差した線香を直撃。かなりひんしゅく。取り敢えず止める。この樹は意外と高い。高く投げれば投げるほどよいと言われているそうだが、子供には難しい。

次男は早々に脇の低い木に投げ一発で成功させる。大喜びである。先程の感じの願い事といい、今年は彼に運がありそうである。一方長男とHO太は苦戦。

 

 

 

 

兎も角何故か意外と盛り上がるお参りである。みかんが宙を舞う姿もなかなか良い。後で家に帰ってみかんについていた紙を見てみると各神様の絵があり、色々と解説がある。またラベルのようなものがあったり、スローガンが書かれた小さな紙が入っていたりと多彩であった。

尚この樹は毎月1日、15日と旧正月にお参りする人が多いようだ。

 

3.天后廟

林村の中に入る。ここは観光地である。道の両側に屋台が出ている。それを過ぎると村の天后廟がある。規模は結構大きい。ここには海は無い。何故ここに天后廟があるのだろうか?これまで行った廟は全て海の近くであった。

入り口は3つあり、手前に龍母殿がある。中に入ると赤ちゃんを連れた一家がベビーカーを押している。また1ヶ月のお祝いであろうか?中華風の服と帽子を被せた赤ちゃんの写真を撮っていたりする。

一番向こう側には12烈士の碑がある。清朝時代に村を守った人々が祭られている。この村の歴史は200年以上と言われている。他の天后廟にないものがここにはある。

廟の横にはトイレがあるが、このトイレが立派である。非常に大きいし、中も清潔。最近出来たばかりであろうか?水洗トイレの便器が真新しい。この村が観光に力を入れている様子が窺える。

その横にはレストランがある。そこではオームが飼われているが、数羽のオームが実にけたたましい。人を威嚇するように騒ぎ立てる。オーム同士で何か争っている。その向こうの家の犬もまた過ぎ勢いで吼える。ここの生き物はどうなっているのだろうか?いたずらでもされることがあるのだろうか?

4.お花畑

トイレの横から山々が見える。ここが香港であると言われないと分からないような風景がそこにある。下を見るときれいな花が咲いている。行って見たくなる。

どうやって降りるのか?道を探す。子供達が探検気分で先導する。途中に小川がある。この川を越えると目の前にお花畑が広がった。正直言って香港でこのような光景を見ようとは夢にも思わなかった。

桃の花を咲かせた木がある。旧正月用であることは一目で分かる。そうか、家の横の花市の花はこういうところから来ているかと合点する。しかしきれいに植えられている。更に行くと菊が黄色い花を咲かせている。これも実に鮮やか。

香港人の中には農家の人と話して花を買っている人もいる。小さな女の子が家の手伝いをして花を抱えて走る姿が微笑ましい。日頃見る香港とは全く違う世界がそこにあった。香港も捨てたものでもない、と家族全員が感じた旅であった。

 

 

香港歴史散歩2004(20)鴨利洲

【香港ルート21鴨利洲】2004年10月31日

本日も香港は快晴。少し汗ばむぐらいの絶好の散歩日和。今まで気になっていたが一度も行ったことが無い、鴨利洲を目指す。鴨利洲は香港仔の対面にある小さな島であるが、島の形が鴨の舌に似ていることから名付けられる。舌という字は縁起が悪いので、利と改める。

15世紀には漁民が住んでいたというが、北部に本格的に人が住み始めたのは19世紀になってから。近年は島の開発が行われ、橋も架けられている。現在では大型住宅の建設が進み、一大住宅地となっている。

(1) 大王宮

自宅から鴨利洲への直通バスは無く、香港仔トンネルの先でバスを乗り換える。丁度来たバスが海怡半島行き。South Horizon、ここはショッピングセンターを中心に、16棟ものマンションが建っている。そして海辺からは南丫島が遥かに眺められる。是非住んでみたい場所である。

 ここに大王像を祭った大王宮があるとのことであったが、残念ながら見つからない。半島の突端には観景台が設けられ、海の風景を眺められる。周りは高層マンションが建ち並び、実に清潔な海の道が続く。恐らくは大王宮は撤去されてしまったのであろう。確かにこの場所には不釣合いかもしれない。

(2) 水月宮

海怡半島から鴨利洲橋道の方に戻る。古いマンション群が見える。この高台のマンション群の丁度真下、香港仔湾に面した場所に水月宮がある。バスの車庫の隣にあり、細い道を歩くと突き当たりに古びた、そしてこじんまりした建物が見える。

 

入り口には大きな木がまるでこの宮を守るかのように幹をくねらせている。この木が実に味がある。建造年代は不明。廟内には光緒17年の文字が見える。真ん中に観音様、思わず頭を下げる。

実にいい雰囲気のこの宮が何故車庫の横に押し込められたのか?残念でならない。しかしかえって信者以外訪れる人も無く、ひっそりとした佇まいを残すかもしれない。

(3) 洪聖古廟

水月宮を海沿いに東に向かう。立派なマンションの前を通ると何となく残念な気分になる。その後きれいな街市がある。周りは古い店が並んでいるだけに不自然に感じられるが仕方が無い。

 その街市の横、海に面してひっそりと洪聖古廟は建っている。気を付けていないと通り過ぎてしまうかもしれない。古廟を横側から覗くと小さな仏像が置かれている祠のような場所がある。更に廟の前には幟を揚げる為の柱が2本、祭りの時には盛大にはためくのであろうか?

中は比較的広く、英語で書かれた紹介文もある。華僑等の信者が多いということか?海に向かって打たれる銅鑼もある。奥中央には洪聖像が安置され、周りに小さな仏像が置かれている。

洪聖爺は正式名を『南海洪聖広利大王』と言い、唐代に広東省で天気を予想できる官吏とも中国人に火の使い方を教えた人物とも言われている。生誕記念日は旧暦の2月13日。漁民は当日に供物を備えると1年間厚い庇護を受けると信じている。

(4) 香港仔砲台

洪聖古廟のある旧市街から利東邨へ。旧市街地は島で一番低い所にあり、利東は一番高い所にある。ガイドでもバスで行くように書かれているが、折角なので歩くことにする。後で後悔するが。

古廟から少し行くと階段があり、上の広い道へ。そこから更に結構急な道をバスを尻目に登る。かなりキツイ。そして利東邨に到着。非常に規模が大きい住宅団地である。その住宅街を更に登り、一番高い建物の裏へ。

裏は公園となっており、老人が日向ぼっこしている。なかなか良い雰囲気。そこから登り坂。玉桂山へ、という表示が出ている。私が行くべきところは143山であるが、そこしか道が無いので取り敢えず行く。

急な階段がある。ここは裸山である。木が無い。登り始めて後悔する。本当に急な階段なのである。振り返ると真下に道が見えるよう。更に向こうを見れば、素晴らしい海の景色が見える。しかし怖い。降りることも出来ない。

 仕方なく登り切る。上には東屋があるのみ。砲台後が何処にあるのか?北側には香港仔、更にはピークがきれいに見える。西側は先程行ったSouth Horizonのマンション群、そして南は一面の海。南Y島も見える。

ここはどう見ても143mより高いのではないか?間違った場所に来てしまったのか?地図ではこの場所に砲台跡があるし、香港の地図を見ると玉桂山はもっと南にあることになっている。どうなっているのか?

結局見つけられずに山を降りる。丁度韓国人の親子が登って来たので、彼らについて反対側から降りる。反対側はそれ程急ではなく、何とか降りられた。利南道からさっき歩いた鴨利洲橋へ。何となくこのまま帰る気にはなれず、さりとてもう一度利東邨に引き返す気力も無い。

下に降りて洪聖宮へ。その横からフェリーが出ているのをさっき見たので、それに乗って香港仔へ。このフェリー、結構風情があってよい。しかしオクトパスの機械が船の真ん中にあるのはご愛嬌か?船には犬も乗れるようで、まさに庶民が普通の乗るもの。僅か5分で対岸についてしまうのが、残念。水上には小船が沢山あり、未だに水上生活をしている人々も居るのか、それとも観光用か?

今回は4つの内2つの場所を発見できなかった。鴨利洲の開発が進んでいるのか?それとも探し方が悪いのか?何れもう一度訪れたい。

 

香港歴史散歩2004(19)錦田、天水圍

【番外編3―錦田、天水圍】2004年12月3日

大学時代の先輩Nさんが香港に来るという。昔から人とは違う感性を持っている女性であったが、今回はご主人Wさんの趣味と合わせて、一味違う香港旅行にしたいということでお声が掛かる。Nさんの興味はお茶、Wさんは鉄道。この日はWさんの趣味を入れてMTR、軽便鉄道、KCR西鉄に乗るため新界へ。尚Nさん、Ho太(家内)、私は大学時代同じクラブということで、珍しくHo太が同行。

(1) 三棟屋博物館

シェラトンホテルで待ち合わせ後、MTRで終点の荃湾へ。この街のイメージはベッドタウン。駅の北東には多数の大型団地があり、駅には各団地のシャトルバスが停まっている。その数には正直ビックリ。

MTRを降りる時、既に博物館の文字が見えていた。一番手前の出口を出て左に真っ直ぐ4-5分歩くと三棟屋博物館が見えてくる。ここ荃湾には200年ほど前から新界の5大客家の陳氏が移住してきており、大きな集落をなしていた。

陳氏の祖先は福建省から広東省に移住、1786年に荃湾に移り住み、開墾し農業を行った。3つの棟割長屋風の造りからその家屋は三棟屋と呼ばれている。1970年代の地下鉄開業で再開発が行われ、村は取り壊され、人々は他に移住した。1987年に伝統的な客家の家と祠堂が再現されて博物館となった。白い城壁で囲まれた中には碁盤の目のように配置された家々が整然と並ぶ。

家の1つに入ると三房両庁の間取りがきっちりされている。手前が厨房や農作業場、奥が居間、寝室、物置場といった所。2階もある。正面入り口から真っ直ぐ進めば、奥には祠堂があり、歴代当主の位牌が飾られる場所がある。

両サイドには横屋が連なっている。各横屋にはそれぞれの産業の歴史が展示されている。保険のコーナーには戦前の東京海上のポスターがあるなど、なかなか面白い。

(2) 吉慶圍

荃湾の駅に戻り、錦田行きのバスを探す。意外と分かり難い。駅舎を跨いで反対側に51番のバス停はあった。しかし周りに人は誰もいない。何時来るとも知れないバスを待つには時間が無く、丁度来たタクシーを停める。

運転手は女性であった。赤い車体の九龍タクシー。錦田の場所が分からない。ガイドブックではバスで20分となっていたので、軽く考えていたが、それは山越えの道のりであった。錦田行きのバスの番号51番をバス停ごとに確認しながら進む。W夫妻には香港にも自然があることを認識して貰う良い機会になったかもしれない。

20分ほどして漸く下りに。錦田公路という道に出る。錦田市内へ。市内といっても田舎の街である。それ程大きくはない。少し行くと軍の施設などが見える。石崗軍営である。かなりゆったりとした庭の中に建物が続く。そういえば人民解放軍が1997年に進駐してきた場所がこの辺りではなかったか?更に小さいが飛行場が目に入ってくる。こうなると本格的である。香港にもこのような場所があることを再認識する。

運転手がまだ着かないと心配した時、城壁のような場所を通り過ぎた。ここだ、と車を停める。正に城壁に囲まれた街が目の前にある。しかし意外だったのは、城壁の中の家が近代的に見えたこと。ここは観光地として保存していると思っていたが、全く普通の住宅が中にあったのである。

 

入り口はどこか?おばあさんが3人座っていた。近づくと一人が客家の帽子を被る。どうやらガイドブックに書いてあったおばあさんか?写真を撮ると10ドル取られると言う。小さな入り口を潜ろうとするとおばあさんが1ドルと言うので差し出すと何と城壁に空いている穴に入れろと言う。不思議な感じ。

 

城壁の中は家が所狭しと並んでいる。殆どの家が既に普通の家になっており、生活感が出ている。テレビのアンテナが立てられており、普通に生活している人々が家に出入りしている。門から真っ直ぐ進んだ一番奥に宋祠があるのが唯一歴史を感じさせた。正直言って何だ、という感じ。外から見ている方が良い。しかし逆に言えば昔からここに住んでいる人はどう思っているのだろうか?

(3) 樹屋

吉慶園を後にする。通りに出てさて、バスに乗って元朗に行こうかと思っているとNさんが突然『Tree Houseって面白そう』と言う。何のことかと道路脇の表示を見ると確かに樹屋(Tree House)、二帝書院などの文字が見える。しかしガイドブックにも何も無く、地図を見ても見当たらない。

特に急ぐ旅でもなし、皆で矢印の方向に歩き出す。道を渡り、北に向かい細い道に入る。古びた家屋が並ぶ。直ぐに前に何も遮るものが無くなる。広くてきれいな道が現れる。地下道を通る。何だか不思議な感じ。日本の田舎に時々ある光景ではあるが。

左を見るとKCRの高架が見える。広々としている。道の向こう側には村があった。別荘、と書かれた少し古びた戸建があったりする。その先に小さな川があり、橋があった。そのたもとに立て札が。『午後10時から翌朝7時まで村人以外入るべからず』とある??江戸時代かと思った。理由は分からない。勿論城壁があるわけではない。うーん。特にお金持ちの村と思えないが・・?

村に入るところには日本でいう同祖神が必ずある。香港では小さな囲いの中に七福神の置物だったりする。毎日誰かが線香や花を供えている。伝統的な村の姿である。村は低層の建物が続く、静かな所であった。北圍村、それが名前である。二帝書院は直ぐに見つかった。由緒正しいしっかりした建物であったが、残念ながら本日は休みで中を見ることは出来なかった。

 

周りにも歴史のありそうな建物が幾つかあり、客家の家らしい所も見える。非常に静かで香港らしからぬ所に紛れ込んだと言う印象。更に歩いて行くと家が焼け落ちており、その残った壁に木が生えていたりする。

ミニバスが走り過ぎる。元朗に行くようだ。我々もこれに乗ろうと、村外れに向かう。外れには天后廟があったが、これも閉まっており入れなかった。村の公会所があり、バスを待つことも出来るようだが、横に池がある。なかなか良い眺めと見ていると何と水牛がいるではないか

 

バスに乗ろうかと思っていると、最後の表示が。樹屋、100m。とうとう来た。その木は小さな囲いの中に。大きな安定感のある樹である。きっと香港の樹、ベストテンに入っているだろうと思われる。

近づいて更に驚く。この大きな樹には煉瓦が絡み付いているのである。いや、そうではなく元々レンガ造りの家があったのだ。その家が崩れた所に樹が生え続けている。何ということだ、それで名前が樹屋。1周回ってみると、玄関の跡や窓の跡がくっきり見えている。こんな樹は、いや廃墟は見たことが無い。素晴らしい、実に素晴らしい樹である。

その樹の横のベンチに座っていると、爽やかな風が吹き抜ける。秋の柔らかい日差しが我々を包む。香港にいることを完全に忘れてしまう。実にいい。

(4) 天水圍へ

この村には唯一ミニバスが走っている。5元で元朗へ。Wさんは今回元朗から軽便鉄道に乗るのを楽しみにしていた。バスは村を1周してKCR西鉄の駅へ。その後元朗駅へ向かう。元朗に着くと直ぐに軽便鉄道の始発駅が見える。

昼食はその辺の飲茶へ。ところが元朗には沢山の老婆餅屋があるが、ちょっとしたレストランが見つからない。漸く見つけて入る、安い。香港でもこんなに物価が違うのか、香港島の半分ぐらいか?

軽便鉄道はユニークな電車である。何しろ改札も無く、車掌もいない。東京の都電と同じだが、正直香港人が皆キチンと料金を払うのかには興味がある。駅の入り口でオクトパスをかざすだけではあるが。線が何本か分かれており、意外と分かりにくい。取り敢えず天水圍へ行きそうな電車に乗る。

この電車は日本のメーカーが車両を提供している。快適に街中を抜ける。香港にはトラムがあるが、トラムよりスピードがあり香港人向きの気がする。しかしKCR西鉄が開通して以来乗客が減っているのではと心配。今後も走り続けて欲しい。

 

天水圍が近づき、ふと見ると我々が目指している廟らしきものが見え、駅より前で下車。先日は10年に一度のお祭りで廈村を訪れたが、実は本当の天水圍は駅近くにあるらしいと聞いていた。

 

駐車場を突っ切って行くと、坑尾村。そこに観廷書室があった。丁度中学生が歴史の授業で訪れており、先に洪聖宮に行くことに。洪聖宮はかなり古く、こじんまりしていた。1767年に建造されたが、現在のものは1866年に再建。屋根との間に香を焚く天井裏があり、日が差し込む。

この辺りは客家の鄧氏の村。12世紀には早くもこの辺りに定住したという。現在は天水圍駅前から約1kmに渡り、屏山文物パスとして1993年に整備された。尚洪聖宮向かいのレストランは建物の間から木が生えており、非常に珍しい光景となっている。

先程通った観廷書室は1870年の建造。当初は一族の子弟の教育を目的として、科挙を受けさせるなど、高等教育を施していた。一族の繁栄の為の施策である。戦後は青年の図書室となっていた。最近は特に使われていないようで、当日も鍵が掛かっていた。

 

鄧氏宋祠は香港最大の祠の1つであり、既に700年の歴史を有する。典型的な三進両院式建築で奥には鄧氏先祖の位牌がある。かなりの規模である。隣には愈喬二公祠もある。これも同様な規模を誇り、鄧氏の11世と16世を特に祭っているようである。

 

 
更に北に向かって歩くと住民の住居があり、その外れに楊候古廟がある。既に100年の歴史を有しているというが、現在の建物は1991年に改修され、非常に新しく感じられる。ここは住民が日常お参りする場所と思われる。元々は宋末の忠臣、楊亮節を祭ったものである。

 

少し戻り左に曲がると古井戸がある。200年以上前から使われていたという。現在は人が落ちないように蓋がされており、言われなければ気が付かないかもしれない。

鄧氏の分家が住む上璋圍に着く。古い城壁に囲まれており、典型的な客家の集落である。中は既に一部取り壊されているが未だに住人が住んでおり、我々は中に入りにくい雰囲気。ここはほぼ駅前であり、こんな一等地を香港人が掘っておくはずがない。果たして保存できるのであろうか?それとも早晩取り壊されるのか?

 

この村の外れに社檀がある。昔は何処の村の入り口にもあったものと思われるが、村の神様を祭り、外部の侵入者から村を守る役目を担っている。ここの社檀は実に見事である。

最後に駅前まで歩いてくると衆星楼が見える。この六角形の3重の建物は落ち着きがあり、非常に好感が持てる。当初は600年前に建てられたそうだ。風水なども十分織り込まれてここに建てられている。まさに守り神的存在。

 因みにこの楼の横には奇妙なものがある。『千葉フリーマーケット』と書かれた大きな看板がある。招き猫が飾られている。一体どんな所であろうか?しかし何故千葉なのか?不可思議である。今度ここが開いている時に一度訪れてみたいもの。

香港歴史散歩2004(18)廈村

【番外編2―廈村】2004年11月20日

これまで黙々と個人で歴史散歩をしてきたが、ガイドブックとして使っている『香港市区文化の旅』という本をメルマガ読者に紹介をしたところ、購入申し込みが10冊以上来て驚いた。香港に歴史はあるのか、これをテーマに参加したい人を集めて『香港歴史散歩』の会を立ち上げて見たいと思った。

講師にはKさんしかいない、ということでお願いした所快諾を得た。そして1回目、無難に上環を選定し、皆さんに案内を出した。ところがその後Kさんより、『新界で10年に一度のお祭りがあります。どうせならそちらに行きませんか?』との誘いが入る。

人間というものは『10年に一度』などという言葉には弱い。それは私だけではなかったようで?何と最終参加者は講師を含めて28名。小学5年生から50代の方まで。男性13名、女性15名。会社員、学生、主婦、実に様々な人々が参加してくれた。感謝、感激。私からすれば空前の歴史散歩である。

(1) 天水圍へ

今回の目的地はKCR西鉄天水圍駅。この線は最近開通したばかりであり、私も乗ったことが無い。どうやって行くのか?主催者自身行き方が分からない、それが私の歴史散歩スタイルであるが、こんなことでよいのであろうか??セントラルから東涌線で南昌駅まで行き、そこで西鉄に乗り換えるのが速いと聞く。それでも1時間は掛かると言われる。

当日はセントラルに1時半集合。20名がここに集まる(残りは天水圍)。しかし時間通りに皆来るのだろうか?1名が遅れたが自力で後から来るという。19名は1時半にきちっと集合している。やはり日本人だな、と思う。幹事としては有難い。

取り敢えず天水圍までの道順を説明。その後は『人が何千人か、何万人いるか分からない為、自己責任で行動』するようお願いする。何しろ先週の新聞でもメイン会場は七千人収容とある。天水圍駅で既に人が溢れている可能性すらある。不測の事態に備えなければならない。全員の携帯番号を確認する。南昌駅で乗り換える。実に便利で直ぐに西鉄ホームへ。但しオクトパスを持っていなかった人は大回りする羽目になったが。

KCR西鉄は新しいだけあって、非常にきれいでゆったりしている。ホームにあまり人影が無い。どの駅も同じで人影が無い。相当な投資をしたはずであるが、採算があっている感じはしない。車両もきれい。車窓からは香港の田舎の景色と、マンション群が交互に出現する不思議な線である。

しかし天水圍に近づいているというのに、乗車している客は極僅か。何万人の祭り客は何処にいるのか?

そして天水圍駅。やはり人影は疎ら。講師すら来ていない。日を間違えたのか?
やがて参加者全員が集まり、記念写真などを撮る。いよいよ出発。駅を出るが人はいない。バス停にも人がパラパラ。一体どうなるのだろうか?こんなに多くの参加者に来てもらって、何にも無い祭りだったら、地元の人しかいなかったら、不安が過ぎる。

(2) 鄧氏宋祠

無料バスもあるようだったが、散歩の名の通り歩いて廈村に向かう。駅前の通りを西に向って歩き出す。歩いているのは我々だけ。通り抜けるバスを見ると満員の客が乗っている。やはり祭りはあるのだと確信。

駅前のマンション群を眺め、少し行くとトラックやコンテナ車が多く行き交うようになる。やがて川を越える。すると右側の向こうの方に巨大な建物が見えてきた。メイン会場だ。大きな看板もある。これは本当に大きなイベントであることが分かってくる。

  

更に行くと『太平清醮』と書かれ、2匹の龍をあしらった大きく派手な看板が道の横に立てられている。のぼりも見えてくる。祭りのムードが高まる。しかしその横には大きなコンテナが沢山積まれていたり、反対側には何故か屋根の上に壊れたヘリコプターの残骸があったりする。かなり分かりにくい土地柄だ。

そして遂に村に到着。ここまで徒歩15分。廈村郷と書かれた祭り会場が見える。しかしここまで来ても人は疎ら。参加者は思い思いに散策。講師に言われて、ここが廈村の鄧氏宋祠であることが分かる。中に入ってみるとかなり歴史がある建物である。

今回講師のKさんはこの散歩の為に、6ページに渡る詳細な資料を用意してくれた。その資料に寄れば、廈村鄧氏は973年に現在の錦田に移住してきた鄧氏の流れを汲み、14世紀に登場。現在も圧倒的に鄧氏姓が多い。鄧氏宋祠は1751年に完成、その後19837年と1883年に改修された。『三進両院式』の構造で、友恭堂と名付けられている。

 

青煉瓦の壁は豊かさの象徴、奥には歴代の宗家の位牌が置かれている。香港人でも外から来た人には珍しいと見えて盛んにシャッターを切る。香港人にしてもここは未知の場所であるようだ。決して観光地ではない、隠れた名所であろう。

(3) 太平清醮

太平清醮とは、複数の異性の氏族が共同で行う祭祀で、道士や僧侶が鬼神と交信する大規模な祭り。太平とは平穏無事を保つということ。10年に一度行われ、準備は1年も前から開始される。費用も最近は300万香港㌦程掛かっている。これを村人と海外に移住した華僑が賄うという。

道を進むとど派手な看板が道に並ぶ。そしてメイン会場近く、初めて多くの人々がいるのを見る。この人たちはどうやってきたのだろうか?龍舞を盛んに動かしている一団がいる。獅子舞が踊る。祭りである。

  

メイン会場に入ろうとすると、中には既に多くの人がいた。鉦や太鼓が打ち鳴らされ、龍や獅子が踊っている。漸く中に入ると大きな会場の前には各地の参加者が書かれた巨大な看板が置かれる。祭壇も置かれ、供養の食べ物も出される。饅頭もあるが、長州島の饅頭祭りほどの量ではない。

午後3時半、庭の真ん中には村民の代表として儀式を司る『縁首』と呼ばれる人々が龍に目を入れようとしている。本日のメインイベントの一つである。龍が輪の真ん中に近づく。歓声が上がる。テレビカメラが入る。非常に素朴な感じがする。祭りらしい感じがする。何故であろうか?祭りに関わる人が皆シンプルなTシャツを着ているからか?

(4)イベント会場

メインイベント会場に一足先に入る。中は非常に大きく、天井も高いが、何と竹で組まれている。中国的。この竹組みの会場をギネスブックに登録する動きがあるとか。確かにこれだけ巨大な竹で出来た施設は無いかもしれない。しかしこの会場は10年に一度の祭りの為に造られたもので、12月に粤劇が開かれるそうだが、その後保存する気があるのだろうか?それとも幻のギネス登録遺産となるのだろうか?

入り口から赤いじゅうたんが敷かれており、奥のほうに客席が、更に先にひな壇がある。ひな壇の後方には道教の神様が祭られている。本日はここでオープニングセレモニーが、そして12月にはここで粤劇が開かれる。

左後方には紙で出来た精巧な祭壇がある。各神様の名前が書かれており、中にはその神に纏わる伝承が紙人形などで再現される。先日お葬式に行った際に葬儀場で見た紙の人形、車、家などを思い出す。ここに飾られているものも最終日には全て燃やされるに違いない。

我々は式典が始まるのをじっと待っている。先程龍舞が会場に入り、勇壮な踊りを披露しながら段々と静かに一本の龍になり、その体を横たえた。その長さは数十メートル。よくもこのようなものを作ったものだ。何処に仕舞っておくのだろうか?との声が出たが、恐らくは紙人形同様最終日に燃やされるのだろう。何しろ10年に一度なのだから。

表では引き続き龍舞が行われ、獅子舞も賑やか。村の代表者も外で何かを待つ。神の到来を待つのか?残念ながら本日の主賓である民政長官の到着が遅れているとのこと。散歩メンバーからは『テレビのように早送りできないかなあ、足が痛い。』などの声が聞こえ出す。無理も無い、既に2時間以上立っている。

しかし普段せっかちなはずの私は、何故かこういう場合至極冷静、かつ時間が気にならなくなる。『日本人はいいとこ取りしようとし過ぎです。本物を見ようとする人は時間を気にしないものです。』などと自分らしくない言葉が口から出る。

4時50分、民政長官が到着。就任以来どんどん太っていると噂の人物が巨体を揺らしてくる。式典が始まる。前の方は貴賓席、しかし何故か西洋人が座っていたりする。訳が分かっていない観光客かなと思うが、この村からは大勢のオランダ移民が出ている。当然彼らはこの祭りの為に多大な寄付をしているはずである。それと何関係があるのではないか?

我々は後ろの方で立って見ている。村人が北京語で『何処から来たのか?』と話し掛けて来る。Sさんが日本人と答えると、嬉しそうに祭りのパンフレットをくれる。非常に素朴な人々である。

開会宣言、挨拶などが終わり、皆がメイン会場の反対側に設けられた祭壇に向かう。香を手向けるためだ。いよいよ本日のクライマックスが近づく。

(5)爆竹

香港では1967年の香港暴動以来、爆竹を鳴らすことが禁止されている。今回は実に37年ぶりに民間で爆竹を鳴らすことが許可されたということで注目が集まっていた。しかし爆竹は一体何処にあるのだろうか?

表に出ると左側に大きな紙人形が飾られている。その横に何故か大きな垂れ幕があり、電話番号が書かれている。花火屋さんの宣伝のようだが、どうやらその横に爆竹が仕掛けられているようだ。既に多くの人がその垂れ幕近くに集合していた。カメラマンが位置取りしている。間違いない。

『香港暴動』とは何か?『香港領事、佐々淳行』という本によれば、1967年に起こった中国の文化大革命に呼応した反英武装闘争であった。香港に戒厳令が敷かれ、爆弾騒ぎも相次いだ。その中で紛らわしい爆竹も禁止されたのだろう。

5時半を過ぎて辺りは暗くなり始める。香を手向けていた人の輪が緩む。人の輪が左側に傾く。すると突然爆竹付近の下から煙が。と思うと轟音と共に爆竹が炸裂。シャッターを切る手が震えるほど。そしてどんどん爆竹の線が上に上がり、十数秒後には音が止んだ。あっと言う間の出来事であった。写真が撮れなかったと悔やんだ人もいた。

翌日の新聞を見ると1面に『37年ぶりに爆竹、電子爆竹で』とあった。そうか、あれは危険を避ける為に電子制御された爆竹だったのか。長さ6m、200個の爆竹がセットされていた。1つ3万香港㌦。今後これを売り出し、爆竹を復活させるつもりらしい。尚本日の人出は八千人ということで、何万人ではなかったが多くの人が参加していたことがわかる。

今回の旅は昔の日本の祭りを思い出させる、実に不思議なものであった。参加者も多くが、1人では行けない場所に行けたこと、事前資料で多くのことが学べたこと、などから好評だったと思う。次回も続けられるかな??

 

香港歴史散歩2004(17)黄竹坑

《香港歴史散歩》 【香港ルート22 黄竹坑】 2004年10月22日

本日は重陽節で香港は休日。長男の中学最後の運動会ということで家族で香港仔の運動場(アバディーン スポーツグラウンド)に行く。天気は快晴、風は爽やか。多少暑くはあるが、運動会日和といえる。運動場のある場所は香港仔というよりは黄竹坑というのが相応しい。その昔は大きな河で周辺には黄金色の竹が茂っていたことから名付けられたという。黄竹坑は旧称を香港圍と言い、現在の香港という名称の起源とも言われている。19世紀初めには外国船が黄竹坑の沖に停泊。外国人が最も早く知った名前が香港圍であった為、『香港』と呼ばれるようになったとか。

1.大王爺廟

運動場の南側、香葉道を西に歩くと道の北側は古い工場ビル(フロアー毎に会社が違う香港的な工場)、南側は小さな河が流れている。直ぐに南朗山道との交差点に大王爺廟がある。20世紀初めにこの場所で一木造の神像が発見され、黄竹坑旧村に移したところ多くの人が参拝したという。第2次大戦後廟は別の場所に移されるが、1982年に元の場所に戻り1986年に廟が建てられた。

廟はかなり新しい為重みは無いが、壁には不思議なレリーフが嵌め込まれている。顔は人間のように見え、体は獅子のよう。何故ここにこんなものがあるのか?更にその横にはタイでよく見る四方に小さな仏像が入っている塔のようなものがある。どんな関係があるのか?堂内には大王爺の坐像が置かれている。大王爺とは明の太祖朱元璋の甥で後に奸臣に殺害された人物と言われている。民間信仰で神として拝められている。裏にはきれいな観音像と小さな仏像が幾つも置かれている。

 

2.黄竹坑石刻

南風道。大王爺廟から北に行き、黄竹坑道に出る。左に曲がり、先程の運動場を右に見て通り過ぎると南風道とぶつかる。南風道を登っていくと、右側に南風径が見え、旧村の看板が見える。

 

 

左側には工事中の現場があり、その脇にひっそりと階段がある。上がって行くとそこに『古代石刻』がある。大きな岩に螺旋の模様などが薄っすら描かれているが、言われないと分からない。3,000年ほど前の青銅器時代の文様に似ているそうで、その時代に先人がおり、描いたものと推定されている。香港にもこんな歴史があったのか?香港全体では8箇所ほどこういった石刻は発見されている。下には小川が流れ、小さな渓谷になっている。目の前が開発され、ビルでも建てば、折角の古代へのロマンも台無しである。

3.黄竹坑新圍跡

先程の南風径に戻り、旧村を目指す。10分ほど歩くとそこは香港仔トンネルの真横であった。古い家というよりバラック小屋程度の民家が数軒ある。多くの粗大ゴミが見られるので、どうやらここはごみ収集で生計を立てているらしい。犬が2匹よそ者の侵入に目を光らせている。しかし何で看板まで出してここに誘導しているのだろうか?

香港仔トンネル前の道を横切り、反対側へ。黄竹坑新圍がある。1890年に周一族によって建てられる。100年に渡って栄えたこの村であるが、旧村同様古い民家が数軒あるのみ。周りにはきれいな公園が作られており、既に歴史的な役割は終了した、といった印象。ガイドブックでは研究目的に2つの旧家が保存されているとのことであったが、探しても見つからない。1つの家が丁度修理中?であり、恐らくこの家が旧家であろう。家の前に門があり、中は天井が高い土間のようになっている。

香港島にもまだこんな場所があるのかと驚く。逆に言えば香港島は近年北側が急速に発展してしまい、南側の一部が取り残されていると言うことだろう。

 

香港歴史散歩2004(16)長沙湾

【九龍ルート12長沙湾】2004年10月24日

長沙湾は深水歩の西側、早くから軍営が置かれ、これを中心に発展してきた。地下鉄の駅の上には『東京街』という名の道がある。何故東京なのか?勿論北京、南京もあるのだから問題ないのだが、道の彼方此方に東京街の表示があるとドキッとする。

兎に角香港の市街地としては、道幅が広く、高い建物も少なく、非常に落ち着いた街並みで歩いていて気分が良い。長沙湾道の北側には、古い工場ビルが何棟もあり、既に2002年に政府が取り壊しを決定した旨の表示がある。但し今ではとても古くなったその工場には、ワンフロアーに何社もの工場が入っており、政府が軽工業を誘致した名残が感じられる。この立ち退きが終了すれば大規模な住宅開発が行われるのであろう。

 

(1) 深水歩警察署

茘枝角道と欽州街の交差点。1898年の新界租借後、1900年代には入り、深水歩の開拓が進み、街が発展。中国大陸から移民が多数流入し、治安維持のため警察署がここに設けられる。

1924年建造。洋風の造り、この辺りの中心といった風情を漂わせている。周辺には高い建物が少なく、道幅も広い。最近直ぐ横に西九龍中心(ドラゴンセンター)が造られている。建造当時の写真を見ると前面は湾、横には軍営の建物が点在するのみ。深水歩の外れ、といった感じが出ている。

(2) 深水歩集中営跡

現在の深水歩公園と麗閣邨。1927年建造。1941年の日本軍侵攻では、イギリス・カナダ軍を含む約7,000人が監禁され、虐待を受けたと言う。戦後は再び軍営として使われ、1977年に閉鎖。その跡地の一角に麗閣邨という名の巨大マンション群が建設される。

1984年には深水歩公園が建設される。89年に香港捕虜連会が記念碑を建て、91年にはカナダ退役軍人会も楓を植樹し、記念としている。尚一部はベトナム難民収容所に改築されるが、1989年には屯門に難民収容所が移転された。

公園内は木々に覆われ、多くの老人がベンチに座り、鳥籠を枝に掛け、太極拳を行い、また中国将棋を指すなどゆっくりとした時間を過ごしている。実に爽やかな午後であった。この場所の意味を知っているはずの老人達が何事も無かったように寛ぐ姿に安心する。

 

 

 麗閣邨は大きな住宅団地。駅からも近く、非常に便利。軍営跡という広大な敷地が無ければこのような場所にこのように大きな住宅は建設できない。古いとはいえ、住んでみたくなるような環境である。

 

 

 

(3) 李鄭屋漢墓

東京街。1955年8月にスラムを取り壊し、団地を建設するべく整地が行われた際、小さな丘の上で墳墓が発見される。香港大学教授の指揮下61個の陶器が掘り出される。墓は約2,000年前の後漢時代のものと考えられている。2,000年前ここは海との境であったようで海水に侵食されている。現在は埋め立てが進み、海まで約1kmある。

誰の墓かは分かっていない。貴金属や骨が発見されていないことから、南宋の楊大后の衣冠塚であるとか、戦死した軍人の墓である等とも言われている。それまで香港で考古学はあまり重視されていなかったが、この墳墓の発見以降研究が進んだと言う点で、香港考古学史上の画期的な発見と言える。

 

 

 1957年に一般公開され、無料で入場できる博物館となっている。出土した陶器や土偶が展示されており、また墓の内部の一部が切り出された形で公開されている。中は正方形のようで四方に穴が続いている。外から見ると古墳、円墳のようである。これは秦の中国統一後多くの漢民族が南下し、彼らの文化を伝えたのではないと考えられる。

香港にこのような古い遺跡があることを初めて知る。香港歴史散歩をやっていなければ訪れる機会も無かったであろう。『香港に歴史はあるのか?』という当初の問い掛けには、自信を持って『ある』と答えたい。

墳墓の周りは囲われているが、その外側は公園。そして閑静な住宅街。尚この墳墓の名称ともなっている李鄭屋邨は、1950年代に香港で最初の低家賃公共住宅として建設され、当時は月収900ドル以下の家庭が入居を許されていた。

 

 

香港歴史散歩2004(15)春坎角

【香港ルート24春坎角】2004年10月16日

次男と2人で留守番になったので、何処かに行こうと言うことになり、洞窟探検を決行することとした。我が家から春坎角までは63番のバスで一本なので気楽に出掛けたが、このバス香港には珍しく30分に一本しかない。香港で乗り物を30分近く待つのは苦痛である。

(1) 春坎角海辺のトーチカ

バスはレパルスベイを過ぎると山沿いとなり、春坎角道に入った途端、寝込んでいる次男を起こして慌てて降りる。ところがここからビーチまでは何と歩いて20分以上あった。但し緩やかな下りと爽やかな風で難なく降りられる。

次男は学校行事で以前このビーチに来た事があり、バーベキューをしたそうだ。シーズンオフとまではいわないが、海水浴客も殆どなく、西洋人が日光浴をしている程度。実に静かでこじんまりした良いビーチだ。

 

次男は前回来た時、変なものを見たという。その場所に行ってみると正に探していたトーチカであった。第2次大戦開始時に日本軍が香港に侵攻。それを阻止する為にここにトーチカが作られ、上陸を阻もうとした。実際には日本軍は北側から上陸した為、このトーチカが使われることは無かったが。

(2) 春坎角砲台

ビーチから道を戻り、春坎角道のバス停の所まで来る。この辺りは別荘風の豪華な家が並んでおり、西洋人が多く住んでいるようだ。そこから右に行くと急に道が狭くなる。道は平坦、左に山、右に海を見ながら進む。風は実に爽やかで、散歩日和。

しかし普段あまり歩いていない次男は足が痛いという。香港というところは歩かなくても良いように便利に出来ている。土日には沢山の香港人が、自然を求めて、また安価なレジャーとして、そして何より健康のためにハイキングをしている。今後次男ももっと散歩に連れ出す必要がある。

15分ほど歩くと左右の壁面に建物が埋め込まれている。異様なのは全て窓、入り口部分は塞がれていること。どうやら昔の兵舎、監視所跡のようである。砲台が近づいていることが分かる。

更に行くと右手にジョッキークラブが建てた慈氏安養院がある。体に障害のある人々が車椅子で日向ぼっこしている。長閑な雰囲気。実はここは以前砲台の上部砲座が置かれていた。

 

その先を少し下り右に曲がると行き止まり。そこが春坎角砲台下部砲座である。今はモニュメントのようになっているが、1930年建造。小高い場所には火薬庫の建物が見える。

この場所で驚くのは寧ろ海が一望出来る場所に設置されたバーベキュー設備ではなかろうか?現在は午後3時半であり、若者グループが1組、遊んでいるだけだが、これ程のロケーションでバーベキューは贅沢である。3つしかない設備は取り合いではなかろうか?(事実我々が帰る時には車で数組が到着し、海の方に殺到していた。)

 

ここから見る夕日はどんなものだろうか?

(3) 張保洞窟

さて、本日のメインイベント。次男も心待ちにしていた洞窟探検である。バーベキュー設備の横から階段で降りる。ここはかなりの絶壁で階段も急。眼下には一面の海。いい眺めである。

本によればこの洞窟20人は入れ、中は真っ暗ということでかなり怖い。懐中電灯を忘れたので、途中で買うなど準備をしてきた。旅行者の名所であったと言う。この洞窟、名前を張保洞窟という。張保とは清の嘉慶年間に活躍した大海賊の首領の名。後には官に下り澎湖諸島の守りに着く。その時のボスがあの林則徐。何という歴史的な巡り合わせ。清廉潔白と大海賊。張保は民間伝説では多くの財宝を洞窟に隠したと言われている。この洞窟もその内の1つ。

降りて行くと途中に建物のようなものがある。そこを潜ると行き止まり。海を見る最前線になっている。後ろを振り返るが洞窟は無い。これ以上は進めない、どうして??建物の跡には漢字の落書きが多数。観光地に良くある『がっかり』した気分。

 

理由は分からないがここにあった洞窟は塞がれてしまったようだ。本を見ても、どう考えても場所はここである。恐らくは何か事件があり、危険または悪ふざけ防止などの理由で閉鎖されたのだろう。次男の落胆は大きい。足が痛いと言いながらもここまで頑張って歩いてきたのに。

次男の強い希望でもう一つの階段に挑戦する。それは春坎角公園(安養院の横)から降りる階段。かなり狭く急であるが、一生懸命降りる。絶景ではあるが、高所恐怖症の私にはキツイ。だんだん木の枝、丈の伸びた草で道が狭まる。恐らくは人が通らない道なのである。次男は懸命だったが、それでも茂みと急な段差で断念。洞窟探検の夢は幻と終わる。

帰りは疲れた足を引きずるように歩く。バス停までは2km以上はある。結構気が重い。ところが幸運なことに安養院の前まで来るとミニバス(16M)が停まっている。神様からの頑張ったご褒美か?このミニバス、柴湾までを約30分で繋ぐ。帰りは行きと全く別ルートを通り、丁度1周して家に到着。

 

香港歴史散歩2004(14)中英街

【番外編―中英街】2004年10月9日

AトラベルのSさんが突然『中英街ってどうやって行くんですか?』と聞く。私は全くノーアイデアであったが、K君が『私は上水から行こうとして途中で摘み出されました』と説明する。えっ、つまみ出される。こいつは国境越えでもしたのだろうか?俄然興味が沸く。

しかもSさんと本件の関わりを聞くと『社長と下川さんがお友達で取材らしいんです??』との答え。えっ、下川さんって誰??取材??何だか分からないが、巻き込まれていく。どうせいつも何も考えずに歩き回っているのである。Sさんも『メルマガのネタになるかもしれません』等と言って、私の心を揺さぶる。結局K隊長、S隊員の後ろからついて行くことになる。かなりおそる、おそるではあるが。

(1) 出発

尖沙咀のハイアットリージェンシーのロビーに朝9時集合。S隊員、K隊長とも若干緊張の面持ちで待つ。下川裕治氏と言えば、昔からアジア貧乏旅行に関する数々の著書があり、熱狂的な崇拝者を持つバックパッカーの草分けと言える存在。一体どんな人物なのか?(私は名前を聞いていたが、実は著作は一冊も読んでいなかった。すみません。)

そこへ実に気さくな感じで下川裕治氏とカメラマンの阿部さんが登場した。早速K隊長が中英街体験を説明し、中国側からも入れるかどうか分からない旨を述べる。おい、おい相手の目的を聞かないのかと思ったが、黙っていると下川さんが一言、『兎に角行って見ましょう。』と。そう、数々の旅行体験を重ねた彼は先ず行動してみるタイプである。ここでは情報は必要だが、議論は必要ないのである。

サッと立ち上がると、バス停に向かう。タクシーで行けば速いが、5人だとちょっとキツイ。特にK隊長を擁している我々には。K隊長は既に計算済みと見えてバス停に我々を導く。表の対面にはあの重慶マンションが見える。カメラマンの阿部さんはすかさずカメラを構えている。

 

バスに乗り込んでも2階の一番前の席に陣取り、阿部さんはシャッターを切り続ける。それは凄い勢いだ。窓ガラスにカメラや頭を打ち付けても撮っている。プロのカメラマンとはこういうものかと参考になる。下川さんが私に『本日は取材です。今回上手く行けば記事になりますが、お名前はどうしましょうか?』と聞く。『名前は出さず、写真は後姿のみでお願いします。Sさんは別ですけど。』と勝手なことを言う。本当は本になるなら載せてと欲しいのだけれども。

(2) シンセンへ

ホンハム駅に到着し、早々KCRに乗り込む。普通車には車両の端に2人掛けの椅子が2つあり、更に1つだけ2人掛けと向き合う形の椅子がある。5人が乗るのに丁度良い形である。阿部さんは相変わらずシャッターを切り、K隊長は下川氏にあれこれと体験談を披露している。私はS隊員と後ろの席でおしゃべり。

 

時々聞き耳を立てると中英街への行き方について、K隊長は自信が無いようだ。下川さんは悠々と『1980年頃広州にいきましてねえ。あの頃は香港経由、それも重慶マンションでしかビザが取れなかったんですよ。旅行社の人が来て、ビザ申請するんですよ。』などという貴重な話をしている。また『最近3年毎ぐらいに重慶マンションに来ますが、毎回滞在者の国籍が大きく変わるんですね。面白いですよ。前回はネパール人が多かったが、今回はアフリカ人ですね。何故でしょうかね?』などという経済で言えば定点観測のような話が出る。もう直ぐ羅湖というところでとうとう阿部さんは席を立ち、カメラを構える。動きが本当にスムーズ。

羅湖駅に到着するとK隊長が突然、『ちょっとすみません』といって今降りた列車に向かって走る。どうしたんだ??少しして戻ってきてすみません、又言う。まさかパスポートを席に忘れた訳ではあるまいが??誰もそれ以上聞かない。K隊長のコミカルな動きが笑いを誘うのみ。

(3) 茶葉世界へ

羅湖から真っ直ぐ中英街のある沙頭角行きのバスに乗る予定であったが、あまりにも情報が無いので1つの提案をした。『茶葉世界に行きませんか?』??何で?実は茶葉世界で前回1人の人物と会っていた。鳳凰単叢を売る李さんのご主人は何と沙頭角の税関職員。何か情報を持っているかもしれない。下川氏も反応が早い。『行きましょう』

茶葉世界に着くと李さんは何時ものように座っていた。事情を話すと『何でそんな所に行きたいの??』とかなり不思議そう。しかも彼女自身中英街に行ったことがあると言う。中英街はどんな所?李さんの説明。『沙頭角のイミグレ近くにある国境線の道。村の前に大きな門があり、住民と許可された人だけが入れる場所。確か毎月許可される人数が決まっている。昔は中国人が買い物に行く場所。買うものは外国製の日用品、例えばアメリカ製のシャンプーとか。観光で行く人がいるとはねえ』

そうか、ここは国境線で真空地帯。免税品がある。以前は大陸から香港に旅行することは大変であった為、ここで香港の物、つまりは外国製品を買うことに価値があったのだ。しかし香港への個人旅行が解禁された現在、その意味合いは薄れている。だから李さんは『観光で行く人がいるとはねえ』となるのである。

李さんはご主人に電話して確認してくれる。ご主人の情報。『外国人には開放されていない。当面開放される予定はないらしい。中国人は旅行社に申し込むとツアーに参加できる。香港人でも中国側から入るのは無理』道は閉ざされる。

 

しかし下川さんは諦めない。『門の前には行けるんですよね?兎に角そこへ行きたい。どうやったら行けますか?』李さんもお手上げで、ご主人が沙頭角から来ることになる。

(4) 昼食

この時点で既に12時になっている。こんなことで良いのだろうか?ご主人が来るまでに先ずは腹ごしらえとなる。時間が無いので隣の泮(はん)渓酒家へ。この店、1947年に開店した広州3大酒家の1つで由緒ある広東レストランの支店。手頃な値段で点心が楽しめる。注文はK隊長に任せて、漸く今回の取材目的を聞く。『現在好評連載中の週末アジア旅行の企画。以前はグアム、サイパンであったが、アジアも金曜日の夜または土曜日の朝日本を発って月曜日の朝までに帰国する旅行が可能な時代。基本は夜行便でシンガポール経由東南アジアだが、香港も外せないところ。』

『韓国は羽田―キンポ間に定期便があり、もっと行くかと思ったがそれ程でもない。実は今の日本の20代、特に男性には頭を痛めている。彼らの旅行は女性化している。これまでの若者は目的地に着くまでの旅の苦労を楽しんだが、彼らは違う。飛行機で目的地のホテルに入り、テレビをつけてからガイドブックを開き、何処か美味しいレストランは無いかと探す。』S隊員も続く。『日本の旅行社で働いていた時、若手のサラリーマン(男女とも)から、休みがあるので何処かへ行きたいが良いところは無いか、と良く聞かれた。特に行きたいところはないのだ。こちらがどこかを勧めると、良いとも悪いとも言わない。じゃあ、意見が無いかと思うと結構煩い。本当に困った』

うーん、これは旅行雑誌に記事を書く人には大変な世の中である。下川さんによれば、最近の若者旅行のヒット商品は何と『四国のお遍路さん』だそうだ。(私の歴史散歩のこの形のような気がするが??)話はミャンマーに飛ぶ。下川さんは何度も行っているという。『政治がもう少し良ければ、もっと良い国なんだけどなあ。』と総括。『チャイトンは綺麗な街だった。タイ側からジープで8時間掛かったけど。インパール付近はなかなか入れない。ヤンゴンでは最近川向こうに行ったよ。』ふーん、そうか。今度タイ側からチャイトンに行こう。チャイトンはシャン州の美しい街と書いてあったし。

香港から2泊3日でお勧めの場所は。『ラオスの古都ルアン・パバーン。世界遺産にも登録された美しい街並み。上手く行けばバンコック経由でその日の内に行けるよ。ビザは空港で』是非行って見たい。老後住むなら何処。『本当はバンコックだろうけど、既にしがらみが多過ぎてどうも。現在(奥さんと)相談中』やっぱりバンコックか。

(5) そして沙頭角へ

茶葉世界に戻ると李さんのご主人が来てくれていた。何と税関職員の制服のまま、ご飯を食べていた。我々の為に急いで来てくれたのだ。感謝。

再度ご主人に確認するが、『中英街に入るのは無理。門の前には行けるが何も無い。バスで行けるが、時間が掛かる。中英街は門の外から見ることは出来ない。もしかしたら盤山の山道からなら少しは見えるかもしれない。そこに行くには車をチャーターするのが良い。』と言って、早々車の手配をしてくれる。やあ、茶葉世界人脈が生きた。突然車を頼んだこともあり、なかなか来ない。そういえば、朝シャングリラホテルの横を通った時にホテルの前の道が掘り返されているのにビックリ。しかも特に柵も無く、人々がそこを歩いている。道は閉鎖されているが。そうだ、道の閉鎖により車が入れないのか。

李さんは飽きずにお茶を入れてくれる。皆が潮州の鳳凰山に興味を持ち、質問する。カメラマンの阿部さんはお茶が美味しいと言って、古単叢などを買い込んでいる。漸く車が来たのは2時前。少しボロのバン。タクシーでは5人乗れないので、特別にアレンジしてくれていた。ご主人は車の所まで送ってくれる。値段交渉もしてくれる。1時間、100元。

沙頭角はシンセンの東、車で30分。車は直ぐに国境沿いを走る。阿部さんは何も言わずに助手席に乗っている。国境のフェンスを撮り、香港側の山を撮り、道路の表示に『沙頭角』『中英街』とあるのを何とか撮ろうとする。途中トンネルを通るのであるが、そこの脇に新しい道が出来ている。盤山に登る道である。この盤山公道は正に国境線に沿っている。山の間に歩哨の物見櫓があったりする。全くはじめて見る光景である。向こうの山もこちら側にもフェンスがある。間は中立地帯である。

山を越え下りに入るところで車を停める。ここにも物見櫓があり、立ち入り禁止とある。ここからは沙頭角の街が一望出来る。しかしこの街の何処に中英街があるのか?下川さんと阿部さんは流石に仕事である。懸命に探す。ある程度見た後取り敢えず下に降りることにする。

(6) 中英街

下に降りる所にそこだけ時代が違う建物が並ぶ一角があった。近代的な建物の裏側に取り残された場所。どう見ても客家の家に見えるのだが。沙頭角には歴史的に客家が多く移民したという。時間の関係もあり車を降りてみることは無かったが、今度機会があれば是非行って見たい。

沙頭角のイミグレの前を通過する。何処まで行くのだろうか?と思っていると、何と直ぐ近くに『沙頭角』と大きく書かれた門(というより城壁)が見える。周りには人だかりが出来ている。我々の想像した場所とはちょっと違う。

 

『中英街』は1898年に新界がイギリスに租借された折、建設される。当初は小川であったが後に埋め立てられる。全長250m、幅約4m。石碑には『光緒24年(1898年)、中英地界』と書かれているという。1928年に香港側の粉嶺から沙頭角までの道路が完成。中英街の発展に繋がった。戦後の中国大陸解放により香港政府は保安上の理由から一般市民の侵入を許可制として現在に至っている。尚最近香港の新聞には『中英街の秘密トンネル発見』と言った記事が載っているそうだ。それだけ必要性が失われた証拠か?

車を降りてその門に近づく。するとそこかしこから『入りたいなら、手続きするよ』との声。えっ、出来るの?しかしここは中国。疑ってかかるのが筋。1人のおばさんがさっと通行証なるものを差し出す。すかさず阿部さんが写真を撮ろうとするが、おばさんもサッと引っ込める。どう見ても怪しい。

その後何人かに聞いて分かったことは『外国人は手続きできない。香港IDカードでも無理。外国人旅行証があれば通行証が出ることになっているが、その例は聞いたことが無い。住民は皆通行証を持っている。』ということ。やはり無理なのか?念の為、運転手が門衛に質すが、答えは同じ。しかし下川さん、阿部さんは諦めない。じっと佇み、タバコを吸う。『あの建物の上はどうか?登れるのか?』と考えを巡らしている。うーん、凄い。

門の向こう側から両手にズタ袋を持って小走りに来る人が見える。と、門の所にその荷物だけ置いて立ち去る。すると門の外からやはり小走りに人が走り寄り、その荷物を持つと一目散に外へ走る。どうやら密輸のようであるが、中身は何か?

 

阿部さんはその後を着いて行く。直ぐ隣の古ぼけたビルに入り込む。表面的には土産を売っているが何となく怪しい。荷物持ちは奥の階上に消える。我々も少し登るがそこには怪しい人影が、監視するように下を見ている??もう一つのビルも登ったが、やはり中英街は見えなかった。反対側には高層マンションが建っていたが、ここは警備が厳しそう。門の横にあるイミグレ?を見に行くが、許可書を持った中国人が手続きしているだけで、外国人の姿はない。万事休す。

最終的には中英街をこの目で見ることは諦める。そして空母ミンクスの記念館に行くが、心はいまだ中英街。ミンクスを見ずに去る。塩田港を見に行く途中、『あの山の上の別荘辺りからは中英街が見えないか?』となる。

 

運転手も道が分からないながら、懸命に探してその別荘に登る。しかし別荘入り口で守衛に断られる。当然である。それでも途中の道路から眺めてみる。どうも角度が合わない。見えない。やはり先程の盤山の中腹から見るのが良いという事になり、戻る。再度見てみると地理が分かっているだけに、様子は良く分かる。ただし残念ながら、2つの高いマンションに邪魔されて、中英街の方向は見えない。これだけ努力したのは久しぶりである。下川、阿部両氏は最後の最後までファインダーを覗く。やはりプロである。その後地王大廈に寄り、展望台からシンセンを見つめる。

後で聞いた話では、翌日両氏は香港側からも中英街にトライした。勿論達成されなかったようだが。久しぶりに諦めない姿を見た。最近忘れていたことである。

 

 

香港歴史散歩2004(13)北角 

【香港ルート5北角】2004年10月3日

北角は香港島北東部に突き出た岬で開港前はかなり辺鄙な所であった。土地も痩せており農作物も取れない。開港初期は倉庫として使われていた。戦後国民党が内戦に敗れると多くの上海人がこの地区に移民し、『小上海』とも呼ばれていた。

(1) 油街政府宿舎

油街12号。クォリーベイのMTR駅を出て英皇道を渡り、電気道と油街の角に政府宿舎がある。(対面は麗東酒店)とても政府宿舎には見えないお洒落なレンガ造り。20世紀初頭にヨットクラブのクラブハウスとして使われた。その後1946年にクラブハウスが移転、政府はここに官舎と資材庫を建てた。

 

 

現在はかなり古くなっており、実際に使われているかは窺い知れないが、もしここが資材倉庫だけに使われているとしたら、かなりの無駄というほど立地は良い。この一角だけ時間が止まって見えるのは私だけであろうか?

(2) 北角発電所

1919年建造。当時湾仔に発電所があったが、電力不足となりここに発電所が建設される1941年12月に日本軍上陸で発電所は破壊され、一時供給はストップ。1968年に北角の人口増加により発電所は移転し、閉鎖された。

その後大規模な住宅開発が行われた。現在の城市花園である。城市花園から見て、発電所がかなりの規模のものであったことが想像される。

 

 

 

 

(3) 月園
月園街。城市花園から電気街を更に東に行き、電気街の東の境界線である北角街の手前を右に入るとそこは狭い路地。また奥は行き止まり。ここが月園街である。元々名大世界遊技場として英皇道に正門があり、中には電動遊技機、劇場、歌座、映画館などの総合娯楽場であったが、1950年に経営者が代わり、名前も月園遊楽場に改められる。しかし何故か僅か1年で閉鎖され、更地となる。

その後政府の住宅建設計画に乗り、この一帯に住居が建てられ、横丁は道も月園街と名付けられた。現在この地には古びたビルが立ち並び、入り口に1952年と書かれた所もある。突き当たりにはビルの入り口があり、入ると電気部品等を売る小さな店が数軒。その先には明るい出口があり、英皇道に繋がっていた。

 

 

(4) 北角砲台

保塁街。1880年に政府により大砲4門が置かれる。当時既に九龍はイギリスの植民地であったが、新界は未だに清朝の領土であったため、香港島の守備にあたった。しかし20世紀に入ると北角は発展していき、保塁は不要となり大砲も廃棄された。

その後住宅建設が行われ、住宅街となっているが、今日歩いてみるとこの道には茶芸館などもあり、意外に小奇麗な場所であった。20世紀初頭まではこの下の英皇道の先は海であったが、埋め立てが行われていき、今では海は全く望めない。

 

 

(5) 北角倉庫区

和富街。地下鉄北角駅で降り、糖水道を海に向かう。この辺りは1920年代に埋め立てられるまで海であった。和富街との交差点、古びた倉庫が見える。North Point Wharf Ltd.とかすれた横文字が壁に見える。

昔はこの一帯に倉庫が立ち並んでいたが、今では住宅街に変貌を遂げており、倉庫は1つしか見えない。70年代に倉庫街は九龍サイドに移転したという。住宅も開発して30年ほど経っているものもあり、かなり古くなっている。

 

 

 

(6) 四十間

春秧街。和富街を歩き、北角道を山側に戻るとトラムとぶつかる。ここはかなり伝統的な香港のにおいがする。春秧街、南洋の砂糖王、郭春秧がこの辺り一帯を買い取り、一列に並んだ建物を建てていた。元々この四十間という名は、さらに山側の琴行街あたりに建てられたのが始まりというが、今でも風情を残しているのは春秧街辺りである。通りの両側には肉や魚、乾物屋などが並ぶが、更に道にはみ出して多くの屋台が軒を連ねている。

 

上を見上げると、両側のビルはかなり古く、小さな窓から物干し竿が突き出ている。国慶節ということで五星紅旗を靡かせていたりする。昔の香港がそこにある。

(7) 賽西湖貯水塘

私は香港勤務が2回目であるが、1回目の時はここ賽西湖に5年ほど住んでいた。住んでいて一番問題になったのは湿気が異常に多いということ。理由は沼地を埋め立てたから、聞いていた。兎に角除湿機は半日以内に一杯なるなど湿気対策が重要であったことを良く覚えている。

ここは沼地ではなく、貯水池。1884年に英系のスワイヤーが付近の工場に水を供給する為、独自に作ったもので、その美しい風景が中国杭州の西湖を連想させ、賽西湖と名付けられたと言う。

1970年代後半に埋め立てられ、初期の大規模住宅開発が行われた。現在25階建ての住宅が25棟建っており、その敷地内が広いことでは香港島内で他に例を見ない。小さな子供を遊ばせる所が少ない香港では実に貴重なマンションであった。環境が良いことから付近には学校が多く、日本人中学校も少し上にある。現在中学生の長男は昔を懐かしんで時折この辺りを散策しているようだ。

 

 

香港歴史散歩2004(12)上環2

【香港ルート13上環】2004年9月29日

(1) 中環消防総局跡と中環街市

中環消防総局跡は1926年建造。当時は水車館と呼ばれていた。1982年に移転し、ビルは取り壊される。現在の恒生銀行本店ビルのある場所である。100年前の香港は火事が多かったのだろうか?今は昔を偲ぶものは何一つ無い。

恒生銀行と言えば、地下鉄の各駅に小さな支店があり、両替のレートも良いことから便利な銀行とのイメージが強い。その銀行本店ビルが予想以上に立派なのに驚く。

一方道の反対側には中環街市跡がある。1938年建造。中環街市自体は1842年(南京条約で香港がイギリスに割譲された年)に早くも華人が集まり、市場を開いていたが、1895年に政府が街市を建設。手狭になり現在の場所に建造。つい最近まで使われていたが、現在は閉鎖され小物を売る店が並んでいる。

建物は3階建て。3階には広い通路があり、今ではそのままミッドレベルのエスカレーターに繋がる便利な場所となっている。但しあまり魅力的とは言えない店が多く、勿体無いという印象。

 

 

 

(2)石板街

皇后大道と荷李活道を結ぶ急な坂道、石板街。日頃の運動不足から息が上がる。この狭い坂、石畳で何となく良い。両側には昔ながらの屋台が並ぶ。特に裁縫道具を売る店が多いのは何故であろうか?

この道の本名はポッティンジャーストリート。1858年に香港初代総督の名前が付けられている。何故であろうか?何か由緒正しい謂れでもあるのだろうか?華人の間では石ころが多いので石板街と呼んでいた。

 

 

 

(3)道済堂跡

荷李活道59号。1888年に華人キリスト教徒により建造。1890年前後に香港で医学を学んでいた孫文はよくこの教会のミサに参加していたという。1922年に教会が手狭になった為、般咸道と西摩道の交差点に中華基督合一堂という名の新しい教会が建造された。(現在合一堂の正門に『道済会堂』と書かれた門の額がはめ込まれていると言うが、未確認)

(4)雅麗氏医院と付属香港西医書院跡

荷李活道81号。1887年建造。何啓はイギリス留学を終えて1885年に帰国、西洋式に医院の設立を思い立ち、ロンドン伝道会と共に雅麗医院を設立。雅麗氏とは彼の亡妻Aliceの名前から取る。

同時に香港西医書院を併設。広州より移って来た孫文は第一期生32人の一人で1892年に優秀な成績で卒業。

 

1913年に西医書院は香港大学医学部に合併され、1915年に閉鎖。雅麗氏医院は1893年に般咸道2号に移転、那打素医院と改名(現在は移転し跡地はマンションになっている)。旧医院は売却され、現在は1階に骨董屋が入居する荷李活道に良く見られるビルとなっている。

(5)輔仁文社跡、楊衛雲烈士殉死の地、楊耀記跡

結志街百子里1号。結志街という如何にも革命に深く関わっている名前の道。その中のほんの小さな入り口に歴史を感じさせる『百子里』の文字が見える。ここの短い階段を登るとパッと前が開ける。今は小さな公園になっており、その前に輔仁文社跡という看板が立っている。

輔仁文社は1892年に楊衛雲と謝鑚泰により創設。革命を目指す2人は民の啓蒙を目的に同社を興し、メンバーを募ってここで集会を開いていた。1895年に孫文が興中会を設立すると社員数人がこれに参加。正に革命への道を進む拠点となった場所である。

尚この百子里は非常に狭い場所であるが、如何にも路地裏といった印象。革命は路地裏から。

 更に結志街と鴨巴旬街の角に楊衛雲烈士殉死の地がある。楊衛雲は輔仁文社を設立後、興中会に参加。結志街52号2階に道場を開き、志を同じくする同志を集めていた。清朝密偵に情報が入り、刺客陳林が1900年11月に楊を道場内で刺殺。楊は福建省漳州の出身。義侠心に富んだ人物と言われている。

 

 

結志街から鴨巴旬街に入り、少し下ると歌賦街がある。ここの8号が元楊記である。楊記とは楊鶴齢の店。こちらの楊氏は孫文の幼馴染。陳少白、尤列を加えた4人がここで清朝打倒の密談をしていた場所が楊記。

革命後楊氏はオーストラリアに移民。店は売却され、ビルとなる。現在1階の店舗は空き家で『租』という文字が空しく掛けられている。

 

 尚この通りには牛肉麺で有名な九記がある。

 

 

 

 

 

(6)中央書院跡と皇仁書院跡
歌賦街44号、楊記の前から九記を過ぎて道の曲がり角。1862年建造の西洋式教育の学校。1884年には孫文が入学。1889年に荷李活道と鴨巴旬街の交差点に移転(歌賦街の跡地は女学校となり、戦後官立小学校となり、現在も小学校がある。)。1941年の日本軍香港侵攻で学校は破壊され、戦後1950年に現在のビクトリアパーク前に再建される(跡地は警察官宿舎として今も使われている。但しかなりボロボロで人が住んでいるのかどうか?)。1984年に皇仁書院と改名。

(7)香港興中会総部跡

中環士丹頓街15号。所謂Sohoの中。エレベーターの直ぐ脇。1895年孫文等はここに興中会を設立し、清朝打倒を目指す革命組織の本部とした。表向きの名前は乾亨行として、世間を欺いたが、同年秋に清朝警察の探りが入り撤退。

現在の跡地は特に使われる様子もなく、2階以上に住人がいると思われるのみ。窓が昔風なので建て替えられていないのでは?

しかし歴史的に有名な孫文の興中会がこんな身近なところで設立されていたとは。そして孫文にとってここ香港は勉学に励み、洗礼を行い、革命に燃えた実に重要な場所であったのである。

 

(8)海事処総部大楼跡
干諾道中と林士街の交差点。1906年建造時にはここから北側は海。ビクトリア港の状況を把握するのに最適としてここに設けられた。しかしその後埋め立てが進み、場所的に内陸になった為、取り壊しとなる。

現在は維徳広場として商業ビルとなっている。上環MTR駅の真上という利点もあり、多くの企業が入居、改修工事も進んでいる。