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ある日の埔里日記2017(10)鹿谷から竹山へ

123日(月)
鹿谷から竹山へ

 

土日はバスなども混むので埔里で大人しく過ごす。そして月曜日の朝、久しぶりに鹿谷を目指す。これまで鹿谷には何度も行ったが、全てUさんが居る時で、彼に案内してもらっていた。今回は初めて一人で行く。と言っても本当の目的は鹿谷の下、竹山を訪ねることにあり、折角なので、旧知の顔を覗いてから行こうと思っただけだった。

 

埔里から鹿谷へバスで行くのは意外と面倒だった。日月潭経由のルートもあったが本数が少ないため、結局無難な台中高鐵駅経由を選んだ。台湾好行バスを2つ乗り継ぐのである。7時半に埔里を出れば、9時半過ぎには鹿谷に着く。昔では考えられない便利さだ。広興のバス停で降りると、なんと前を林光演さんが歩いて行く。

 

挨拶しても私を覚えている訳ではないが、Uさんの友達だというと、そうかとなる。林さんは鹿谷農会の総幹事だった1976年に茶のコンテストを仕掛けた人であり、凍頂茶の歴史においてはレジェンドである。毎日健康のために散歩を欠かさない。『今年は天気が悪いから茶の出来はどうかな』と心配そうだ。

 

そこから数分歩くとセブンイレブンがある。その前に偉信の店がある。いつ行っても誰かお客がいる。何となく冬茶を飲みながら雑談していると、ちょっと行こうか、という。実は雑談の内容は『30年前の鹿谷はどんなところだったのか』というもので、その答えを口で言うより、実際に見せてくれるというのだ。

 

先ほど光演さんたちがコンテストを仕掛け、ブームとなった凍頂茶。偉信が子供の頃は、鹿谷の道路の両脇は殆ど茶畑だったというのだ。彼が連れて行ってくれた場所には、そのほんの微かな痕跡、古い茶樹がいまだに植わっていた。だが周囲は殆ど野菜畑になっており、自分で食べる分を作っている。その奥には檳榔の木が植わっている。

 

昔は皆が総出で茶葉を摘んでいたよ、と懐かしそうに話す。それが20年ぐらい前には茶畑が段々無くなっていき、10年前には全く無くなってしまった。茶葉はもっと高い杉林渓などで摘まれ、この鹿谷は製茶された茶葉の集散地に姿を変えた。30年前はバブル、その時儲けた人々は不動産などに投資し、今や家賃収入で食べている。

 

偉信のお父さんは学校の先生で、バブルとは無縁だった。茶農家は先生の何十倍もの収入を得ていたらしい。公務員というのは現役時代の給料は安いが恩給がもらえるので、老後が安泰だと思われていたが、民進党に政権が変わり、この恩給に手が付けられようとしている。台湾茶業はこの恩給、年金問題で今後大きく変化する可能性もある。

 

竹山へ行くにはバスに乗ればよいのだが、偉信が車で送ってくれた。何と10分で着いてしまった。今回竹山で訪ねる劉さんは、FB上でしか知らない人。だが偉信は良く知っていると言って店まで連れて行ってくれたので、これは大変助かった。バス停から歩くと結構遠いのだ。

 

私は劉さんの名前を知っていたが、FB上では奥さんとお友達になっていた。入っていくとご主人がすぐに対応してくれる。私のようにお茶を買うのではなく、お茶の歴史に興味があるなどという輩は、奥さんではなく、ご主人の担当のようだった。竹山は鹿谷より下にあり、早くから交通の要所として栄えていたのだろう。筍は有名だが、お茶がるわけではなく、劉さんのお店でも、色々なお茶を扱っていた。

 

劉さんにはお茶を飲みながら、凍頂茶の歴史などを教えてもらった。本来はもっとこの竹山の歴史を質問するべきだった、と思ったのは店を後にしてからだった。ここにはMさんやSさんなど、日本人も時々来るという。お茶はしっかりしたものがあるのだろう。帰りは劉さんに竹山工業区のバス停まで送ってもらった。このバスがいつ来るのか不安だったが、15分ぐらい待つと何とかやって来た。後は朝来た道を戻るだけ。夕日がきれいだった。

 

高鐵駅に着くと、埔里行きバスの到着まで30分あったので、上階に上がり、夕飯を食べる。ここには丸亀製麺もあれば、ロイヤルホストもある。その一番外れにはまいどおおきに食堂まである。今回はそこで弁当を買ってみる。100元。見た目はきれいで、味もまあまあだが、何かが欠けている気がした。それが何かは分らず。

 

まあ、台湾でわざわざ日本の弁当や日本食を食べる必要はないかな、と思ってしまう。私がこの6年の旅で得た強み、それは日本食を食べなくても平気なこと、そしてシャワーさえあれば、風呂に浸かることを望まなくなったことかもしれない。この2点は、アジア放浪では必須のような気がしている。

ある日の埔里日記2017(9)霊厳山寺と埔里酒廠

120日(金)
霊厳山寺

 

翌日も天気が良かった。お昼に炒飯を食べたいと思い、出掛ける。台湾のチャーハンは大陸よりうまい、という印象を持っていたが、埔里でうまいチャーハンを見つけることはできていなかった。昨日行った日式料理屋、そこで親子丼を食べたが、その向かいにある店がなかなか良いとの情報があった。因みに親子丼は、悪くはないが、やはり日式である。中華鍋で作る所がよい。味噌汁は甘い。

 

麻油炒飯と書かれているが、何のことだろう。聞いてみたかったが、店員はいない。地元の常連さんが『そこの紙に自分でオーダー書いて、厨房へもってけ』というではないか。持っていくと、『そこに置いといて』と素っ気ない。果たして作ってもらえるのか。ちょっと時間はかかったが、チャーハンが出てきた。見た目は美味しそうだ。だが何か麻油かはわからず仕舞い。スープは無料で付いてくるのでまあいいか。

 

今日はWさんに自転車を借りる。ちょっと行ってみたいところがあったのだが、歩いて行くには遠い。バスは殆ど走っていない。そこで自転車となる。埔里の街を南方面へ走る。川を越えて、更に漕いで行くと、何となく重い。空気がちゃんと入っていない感じだ。更には凄くなだらかだが登りなのだ。

 

何とか漕ぎ切り、着いたところはお寺。霊厳山寺という名前だった。なぜここに来たのか。それは昨年11月末、バンコックでヨーガの合宿に参加していた時、夜のビデオ鑑賞で、NHKスペシャルを見た。台湾の仏教について語られている中、このお寺が登場したので、記憶に残ったという訳だ。そこでは台湾において、女子の出家が認められており、この寺に沢山の出家尼僧が集まるという内容だった。

 

埔里になぜ大きな寺が多いのかという謎は前回の中台禅寺でも考えたが、答えは得られていない。もしやここに来れば何かわかるかも、という期待もあった。入口に自転車を停め、坂を上り始める。かなり急な階段には『開山30周年』と書かれている。やはりここの歴史も30年程度だった。恐らくは台湾政府の政策と何らかの関係があるのだろう。

 

上っていくと、途中に廟がある。そしてその上の大雄寶殿がデカい。近寄っていったが、1階はガランと広い。2階以上は宿舎かな。この寺について知るすべはない。まごまごしていると一人の女性が声を掛けてくれたが、今は殆ど人がいない時期だと告げられる。『20年前の日本のテレビで見たお寺なんですが』と言ってみても、『昔のことは分らない』と言われてしまう。それでも色々と探してみると、1999年の大地震で寺が倒壊したこと、その後いち早く復興したことが分かった。つまり私がNHKで見た寺は、やはり地震で無くなっていたのだ。

 

この小高い場所から眺める埔里の街は爽快だった。その背後には新しい大雄寶殿、そこに立っていると先ほどの女性が現れ、『108回念仏を唱えたら、お水がもらえますよ』と笑顔で言って去っていく。観音様に向かって念仏を唱えようとしたがうまくできずに諦める。信心が大いに足りない。

 

また自転車に乗り、街に戻る。折角自転車に乗っているので、埔里酒廠にも行ってみた。ここは6年前に行ったと思うのだが、記憶がない。酒廠の建物、1階は紹興酒を含めて、土産物屋になっている。私は真っすぐ2階へ。酒廠の歴史を勉強する。1917年、日本時代に作られていた。当時の専売品目には、酒やたばこ、塩や樟脳と並んでアヘンと書かれているが、茶は入っていない。

 

元々埔里は水がよい場所だったという。今でも埔里の水はある意味で台湾のブランドになっている。日本時代は清酒の製造が主流だったとあるが、光復後は接収され、紹興酒の生産が始まる。巷では紹興酒は蒋介石の地元の酒であり、好きだったから作らせた、などと言われるのを聞いたことがあるが、さすがにそんな歴史はどこにも書かれていない。ただ介寿酒という、蒋介石の誕生を祝う酒が作られていたようだ。

 

その昔、台湾で働いていた頃は紹興酒をたらふく飲まされたが、台湾人は紹興酒など好きだったのだろうか。それとも日本人は中華料理と言えば紹興酒、なので、飲ませたのだろうか。ここも921大地震で大きな被害が出たがいち早く復興させたらしい。建物の外へ出ると、そこには紹興酒と吟醸の大きな瓶の模型があり、その奥には廟があった。日本時代には神社があったのだろうか。

ある日の埔里日記2017(8)山茶の茶畑へ

119日(木)
山茶の茶畑へ

 

翌日はさすがに疲れが出て、かなり遅く起き上がる。だが今日もまた声がかかる。これは何とも嬉しいことだ。先日夜突然迎えに来てくれた王さんが、彼の茶畑に連れて行ってくれるというのだ。折角なので、行ってみることにした。今回は迎えに来てもらうのも悪いので、こちらからバスに乗ってお店へ行く。

 

午後1時のバスに乗ると、20分ぐらいで魚池農会に着く。約束は2時だったので、少し付近を散策する。魚池には何度も来ているが、一人であることなどなかったのでちょうどよかった。意外と建物が多い街並み。そこで売られているのが、苗だったりするのがよい。昼下がりは人も歩いておらず、静かだった。

 

王さんの店に行くとすぐに車で出発。鹿嵩にあるその茶畑へ行く途中、やはりアッサム種の古い茶樹が所々で見られた。そして辿り着いたところは景色抜群の茶畑。向こうに檳榔の木が生い茂る。斜面にはかなり古いと思われる茶樹が株単位で植わっていた。その歴史は分らないところもあるが、アッサムとも違う種類であり、山茶と言っている。日本統治が始まる前からあるのではないかともいう。確かに南投県には原生種と言われる茶樹が存在するとは聞いているが、どうだろうか。その真偽は私のような者には全く分らないが、この茶畑を眺めていると何だか気持ちがよい。

 

もう一つの茶畑にも行った。そこは最近台茶18号を植えた畑だった。こちらは比較的平らな場所に茶樹がズラッと植わっていた。やはり主力は台茶18号らしい。これは育ちもよく、収量がある。先ほどの山茶は貴重だが、収量がなく、付加価値が認められなければ、商品にはなり難い。ここにはフルーツも色々と植えられており、季節ごとに採って食べることもできるらしい。

 

店に戻ると奥さんが『山のバナナは美味しいよ』と言って一房くれた。ただくれたのではなく、1週間は食べるな、と指示があり、バナナは段ボールに詰められ、リンゴも入れられ、厳重に縛られた。旧正月前に開けて食べるように言われ、ワクワク、ドキドキ。台湾では昨年の台風の影響でバナナの産量が激減、現在価格もこれまでにないほど高くなっている。私は台湾バナナが大好き。

 

更には店の向かいのレストランで夕飯までご馳走になってしまった。ここの料理は豚肉など、地元の新鮮な食材を使い、何ともうまい。またなぜか魚やしじみも味わいがある。調理がうまいのだろうか。王さんの子供たちもやってきて、皆で美味しく頂いた。帰りはまた車で送ってもらう。何とも有り難い半日だった。

 

ある日の埔里日記2017(7)日帰りで台北に行く

118日(水)
日帰りで台北へ

 

今日は日帰りで台北へ行くことにした。これまでなら1泊するのが普通だが、今回は基本的に埔里にいることを前提としているので、この強行軍を敢えて一度トライすることにしたのだ。午前5時過ぎに起床、ゆっくり支度をして、6時前にバスターミナルに行く。まだ外は暗い。切符売り場で当日往復を購入すると割引になる。690元で往復できるのは嬉しい。しかも帰りはオープンなので、時間を気にする必要もない。

 

バスに乗り込む人は多くはなかった。荷物もないので身軽に乗り、座席に着く。バスが動くとすぐに眠りに落ちる。気が付くと、台中郊外朝馬のターミナルにバスが停まったので、トイレに行く。新竹付近で少し渋滞があったが、その後は順調に進む。このバスは充電可能だったので、スマホを気にせず使えたのもよい。三重を経由して、台北駅前に9時半過ぎに着いた。

 

バスターミナルから街に歩き出す。時間があったので朝ご飯を探す。中山の方へ歩いて行くと、蛋餅を売る店があったので、そこで食べた。埔里では意外と蛋餅を食べる機会が少ないので、なんとなく懐かしくなる。それからMRTに乗り、交流協会へ。ちょうど名前が日本台湾交流協会に変わったばかりだった。

 

ここの閲覧室で先輩のIさんと待ち合わせ。交流協会に来るのは実に28年ぶりかな。今の建物には初めて入るので勝手が分からない。閲覧室には本が沢山あるようなので次回はちょっと閲覧してみよう。Iさんと一旦外へ出て、近所のコーヒー屋さんでコーヒーを買って、飲みながら話す。その後交流協会の人を紹介してもらい、挨拶する。

 

そこから歩いてMRTを一駅行く。この辺はその昔の職場の近くで懐かしい。兄弟大飯店、30年近く前、何度か泊まったところだ。今は明るくきれいになっている。2階のレストランは健在のようだった。小巨蛋、そこでBさんと待ち合わせた。以前私も執筆したことがある雑誌の編集長を紹介してもらい、ランチを食べる。この編集長と会うのは初めてだったが、彼女が日本で勤めていた雑誌に私がコラムを書いたこともあり、すぐに打ち解けた。

 

それからMRTに乗り松江路で降り、歩いて長安東路へ。意外と遠い。ここでたまたま来ていた香港在住のLさんと待ち合わせ。すぐに林森の喫茶店で話し始める。話はどんどん膨らんでいく。この面談終了後、埔里に戻るつもりでいたが、何と今日はLさんの誕生日だと気が付き、夕飯も付き合うことになる。

 

Lさんが昔よく行ったという台湾料理の老舗レストランへ向かう。私も昔たまに行ったので、何となく場所は覚えているつもりだったが、歩いて行くとなかなか到着しない。何と30分も歩いてしまった。しかも自分が覚えていたのとは違う道にその店はあった。自分の記憶の不確かさに驚く。

 

店はまだ早い時間だというのに、滅茶苦茶混んでいた。日本人も何人もいる。中には若い女性が一人で食べていたりして、これまた驚く。どうしてもここで食べたかったんだろうな。Lさんがオーダーしてくれた料理は全てうまかった。勿論この店がうまいということもあるだろうが、気心の知れた人と楽しく食事をすると美味しいのだ、と改めて気づかされた。結局Lさんの誕生日なのにご馳走になってしまった。申し訳ない。

 

腹が一杯だったので、雨が降りそうな天気だったが、また30分歩いてバスターミナルまで行く。余裕を持って8時のバスに乗ろうとしたが、何と9時までなかった。この辺もち密な計算がまるでできていない。早く帰りたければ高速鉄道+バスという選択肢もあるのだが、何しろすでにバスチケットを購入済みであり、ボーっと9時を待つ。

 

バスには結構乗客が乗っていたが、車内が暗くなると当然ながらすぐに皆眠りに就き、静かになる。そして約3時間、バスは順調に走り、いつの間にか埔里の街に入った。ちょうど深夜零時、バスターミナルに到着。朝6時に出発した、日帰り台北の旅は終わった。やればできることが分かったが、ちょっとしんどいな。

ある日の埔里日記2017(6)尾牙とベトナム人

尾牙会に参加して

 

魚池から戻ると、葉さんよりメッセージが入る。『もうすぐベトナム人が迎えに行くから』と。実は私が借りた部屋のお向かいにはベトナム人の夫婦が住んでいた。その二人が『さあ行こう』と言って、一緒に下に降りる。そして旦那がバイクを運転し、私は後ろに乗る。今日は一体何があるんだろうか。相変わらず何も知らされない。

 

バイクはすぐに近くのレストランに着いた。そこは初めて行くところで、相当広い。こんなところがあったのかと感心する。だが葉さん達は居ないので、どうしてよいか分からない。しばらくすると三々五々人が集まり出した。どうやら我々のグループだけで5テーブルを予約している。ようやく今晩は忘年会、台湾でいう尾牙だと分かる。

 

葉さんが奥さんとやってきたので、私も席に着くことにして、空いているところに座ろうとしたら、『そこはダメだよ』と言われてしまう。なぜかと見てみるとそこには『イスラム教徒』と書かれているではないか。今晩はイスラム教徒も参加するのかと驚く。すぐに彼らはやって来た。女性がスカーフを頭に巻いている。インドネシア人だった。

 

インドネシアのテーブルが1つ、そしてあと3つはベトナム人のためにあった。隣に座ったおじさんが『台湾人は殆どいないんだよ、皆外国人さ』と笑いながら言うので、一応私も外国人だと言い返すと笑いが起こった。結局、ベトナム人は葉さんの親族と取引先、10人にも満たない。

 

実は葉さんの奥さんもベトナム人だし、そのおじさんの奥さんもベトナム人。そこから生まれた子たちはハーフだ。実質的なマジョリティーはベトナム人なのだ。おじさんが言う。『今や台湾の茶業、いや農業そのものがベトナム人抜きでは考えられないのだ』と。確かにこの50人の宴会でも30人以上がベトナム人なのだから、この埔里には一体どれだけの人がいるのだろうか。一説に台湾全土には数十万人のベトナム人がいるというが、これの光景を見るとあながち間違いとも言いにくい。

 

私のお向かいさん、奥さんは元々台湾人と結婚するために台湾に来たらしい。その後離婚して現在の旦那と再婚。彼女のように合法的に居住権を得ている人もいるし、短期労働のビザで入ってきて、そのまま不法滞在している人もいるらしい。いずれにしても、この田舎では、不法だとしても目をつぶっているようだ。そうしなければ、自らの産業が成り立たないという現実がある。

 

初めは大人しく食事をしていたベトナム、インドネシア軍団だが、今晩は酒も入っており、途中からご機嫌で立ち上がり、乾杯などを始める。ちゃんと老板のところへ来て、日頃の感謝も述べるし、何だか誰が台湾人だかわからないぐらい、台湾に馴染んでいる。勿論台湾のおじさんたちも負けじと酒を飲むが、何しろ向こうは若い上に人数が多い。とても敵わない。

 

この尾牙、台湾の大企業ではラッキードローなどが非常に派手で、現金が飛び交うこともあるほど。年に一度のお祭りなのだ。この場ではラッキードローはなかったが、それでもたらふく食べて、酒も飲んで皆ご機嫌だった。遠く故郷を離れて何年にもなる人もいる。ベトナムではテトと言って旧正月も同じようにあるのだが、帰国も出来ずにいる人もいる。そんな彼らのちょうどよい憂さ晴らしになっている。

 

私は途中から葉さんのおじさんと話し始める。彼も最近茶作りを始めたらしい。以前は日本企業の下請けでトンネル工事などを請負、儲けていたという。おじさんは、『山の中の生活はいいぞ、今度遊びに来てみれば』と誘ってくれる。このおじさんの奥さんもベトナム人だという。『ベトナム人は茶摘みですごく稼いでいる。1日に1万元近く稼ぐ人も出ている』と驚くようなことを言う。月に1000米ドル単位の仕送りをしている人もおり、故郷には家も建っているらしい。今度はベトナム人労働者の実態をぜひ見てみようと思う。

 

三々五々お開きとなり、酒を飲まない私は真っ先にレストランを出て歩いて帰る。場所さえ分かっていれば歩いてもすぐの距離だった。ちょうどその時間、あの音楽が流れてきた。台湾ではゴミ捨ては、収集車の登場に合わせて、捨てる人々が道路脇に出て待機、到着と同時に一斉にごみを投げ入れるという、まるで町内の運動会のような展開になる。何とも面白い。

ある日の埔里日記2017(5)魚池の茶農家へ

116日(月)
魚池の茶畑

 

実は前日紫南宮から戻ると、連絡があった。FB上で知り合っていた魚池のお茶農家さんと会おうということになったのだが、何と彼はすぐさま車を飛ばして、埔里まで来てくれた。距離的にはさほど離れていないとはいえ、初めて会う人間を即座に迎えに来てくれる、これは日本ではあり得ないだろう。こちらも慌てたが、お言葉に甘えてお邪魔した。

 

王さんの店は、魚池の街に入る所にあった。奥さんもにこやかに迎えてくれた。もう夜なので茶畑見学は次回に持ち越す。王さんはやはり数年前に帰郷して紅茶作りを始めたという。それまでは淡水の酒工場に勤めたり、水産関係の仕事もしていたらしい。日月潭紅茶がブームの兆しを見せると、迷わず戻ってきたという。

 

我が家には非常に古い茶樹がある、という。山茶、日本時代より前からあったというが、どうだろうか。その葉で作られた紅茶を味わう。日本人の茶商もここに直接買いに来るとか。そして茶作りを始める前から趣味で飲んでいたという陳年のプーアル茶もご馳走になる。こんなところでプーアルに遭遇するとは、面白い。

 

更には鹿谷式烏龍茶、これも30年ぐらい前の物だという。30年前と言えば、鹿谷、凍頂茶の全盛期。その頃作られた伝統的な烏龍茶なら価値がある。私は紅茶ではなく、この焙煎が効いた烏龍茶ばかり飲んでしまい、ちょっと失礼なことをしてしまった。夜遅くなり、車で送ってもらう。こんな茶旅も、埔里に定住しているからこそできる技だ。

 

翌日はまた別の茶農家さんを訪ねることになっていた。午後一でバスに乗り魚池に向かう。この日月潭行のバスは良く乗るので、大体のことはわかる。魚池の街を通り過ぎて、老茶廠のバス停で降りる。老茶廠は1950年代にでき、紅茶を作っていたが、現在は観光地となっている。

 

そこへ李さんが迎えに来てくれた。彼ともFB上での知り合いだ。茶廠の裏を5分位車で行くと、李さんの家がある。結構古い伝統的な建物だ。李家堡と書かれた板が掛かっており、この一帯は昔から李一族の拠点だったことを示している。今から200年ぐらい前に大陸から渡ってきて、100年以上前にここに定住した。周囲は殆どが親戚らしい。

 

聞けば、ここははなれであり、本宅にはお父さんのお客さんが来ているという。そこで紅茶を頂いていると、若者が入って来た。彰化の保険のセールスマンだったが、仕事ではなく、李さんのお茶のファンで、近くまで来たので寄ったという。お父さんと李さんは有機農法を早めに取り入れ、この地区のリーダー的な存在らしい。李さんは以前四川料理のシェフだったというから、華麗なる転身か。

 

茶畑を見せてもらいに行く。この近くには檳榔の木が沢山植わっているが、日本時代に植えられたアッサム種の茶樹も所々に残っている。こういう茶樹も使えるものは摘んでいるようだが、その先のなだらかな斜面にはキチンと管理された茶園が広がっていた。海抜700m2007年に台茶18号、紅玉を植えたとある。自然農法という文字も見える。

 

それから李さんのお兄さんの家へ行く。こちらも茶農家で、家の横の斜面に茶樹が植わっている。この茶樹は山茶で、四季それぞれに葉の色が変化するというから驚きだ。ただいまは冬でそれを見ることはできない。非常に貴重な茶葉を使って紅茶を作っているという。ここでも快く歓迎され、お茶を頂く。今度は四季それぞれにここに来て、葉っぱの変化を眺めてみたい。夕暮れ迫る中、李さんに送ってもらい、埔里に戻る。

ある日の埔里日記2017(4)金運高まる紫南宮へ

115日(日)
紫南宮

 

旧正月まであと2週間。今日は大家の葉さんが『出掛けるぞ』というので、一緒に付いていく。どこへ行くのだろうか、相変わらず細かい説明はない。彼の車は日月潭方面へ向かったが、途中で山道に入る。この辺は魚池の茶畑に通じており、過去に通ったこともある。だが今日は、葉さんの身重の奥さんとお子さんも一緒なので、茶畑はないはずだ。

 

車はそのまま山道を通り抜け、水里へ出た。日曜日ということもあり、日月潭の混雑を避けたのかもしれない。水里は日本統治時代に発電所が作られた場所で、当時は栄えていたらしい。現在は川沿いの小さな街、という印象だった。

 

その濁水渓沿いを走っていくと目的地の紫南宮があった。竹山に属するらしい。そういえば昨年鹿谷から南投市へ向かう途中に通り過ぎた気がする。葉さんは駐車スペースを探していたが、なかなか見つからない。なんでこんなに人がいるんだ、とビックリするほど、参拝者が多いのだ。まずはトイレに向かう。既にここが観光名所だと言われる。7つ星トイレ、と書かれている。竹山名物、筍の形をしている。確かにきれいで広く、立派なトイレだとは思うが、7つ星とはどうだろうか。

 

この宮は昔からあるのだろうか。縁起を見てもよくわからない。1800年頃清の乾隆帝の後継者嘉慶帝ゆかりの宮となっているが、それはさすがに伝説だろう。現在の建物は1980年頃建てられたらしい。ではなぜここに人が沢山来るのだろう。それは福徳金と呼ばれる借入ができるかららしい。600元を上限に、身分証を出せば、誰でも無担保で借りることができる資金だという。

 

これは宮のお金を貧しい人々の起業資金に充てようということで始まったらしい。だが現在600元では何もできない。それでも人が来るのは、ここが商売繁盛、事業の成功を祈る場所だからだ。資金を借りた人は、いつ返済してもよい。中には事業がうまくいき、200元借りて、20万元を返しに来た人もいたという。そんな話が人気の秘密だ。

 

今日も大勢の人がお金を借りていた。外国人でもパスポートを出せば貸してくれるかも、と言われたが、返せる当てもなく、遠慮しておいた。この時期は1年の感謝を込めて返済に来る人が多いようで、長蛇の列ができていた。やはり御利益はあるのだろう。また本殿は祈りを捧げる人々でごった返し、線香の煙が立ち込めていた。

 

聞いたところによると、この小さな宮に正月には7万人もの人が押し寄せたらしい。今日我々が来たのも、混雑を避けての前倒し参拝だった。こんな宮、日本にはないだろうな。最後に葉さんは金鶏のレプリカを買い込んだ。これを店に飾れば商売繁盛となるらしい。宮の横には大きな金鶏の像があり、皆がここへ来てその像に触っている。やはりここは金運の宮だった。

 

帰りはなぜか別の道を走っている。どこへ行くのかなと思っていると、草屯という街へやって来た。この地名はバスターミナルで見たことはあるが、来たことはなかった。夕暮れ時、大通りの裏に大きな古い木があった。その木の下で、屋台をやっている。そこで夕飯を食べた。

 

店のおばさんはぶっきら棒だったが、地瓜の揚げ物や、野菜・豆腐たっぷりのスープはえらく旨かった。ここが美味しいからとわざわざ寄り道したらしい。この独特の雰囲気の下で食べる、地元の食べ物、なかなか良い。今日一日で何となく運が向いてきた、と思う私だが、特にお祈りすらしていないので、それはあり得ない、と思われる。

ある日の埔里日記2017(3)突然山の小学校へ

113日(金)
小学校と図書館

 

昨日Wさんと話していたら、『毎週金曜日の午前中、埔里在住日本人が集まる会がある』というので、ご挨拶かたがた、行ってみることにして、Wさんに連れて行ってもらった。街中にある画家の方の家が会場だというので、訪ねてみたが、門は固く閉ざされていた。Wさんが電話で確認すると、今日は郊外で写生会を行っているという。さすが画家さんの集まり、何とも面白い。

 

結局その写生会場まで行ってみることになり、またバイクにまたがって郊外へ進む。どこをどう走ったのかは分らないが、自然が豊かな水尾国民小学校に到着した。入口のところで写生している人がおり、Wさんが挨拶していた。後で聞けば、有名な画家先生だという。皆さん、お歳になっても絵を描く情熱は衰えていないようだ。

 

他にも写生している女性たちがいたが、我々が探している日本人グループは居なかった。仕方なく学校内に入っていく。この学校、凄く古いという訳ではないが、なんとなく懐かしい雰囲気がある。周囲が木々で満ちているからだろうか。そして花が飾られていたり、絵が描かれていたり、歩いていても楽しい学校である。学校の外にもバナナがなっていたり、マンゴーの木などがある。一体生徒数はどれほどであろうか。授業中の教室もあり、話は聞けなかったが、何となく山の学校の雰囲気があり、好ましい。

 

Wさんに送ってもらい、埔里の街に戻る。日本人の集まりには次回参加しようと思う。我が宿泊先からはちょっとところにロータリーがあり、蒋介石の像が建っている。台湾の街ではいまだにこの像がある所が多いが、これはどういう心境なのだろうか。大陸の毛沢東像とはだいぶん意味合いが違うように思うのだが、撤去されないのはなぜだろう。

 

媽祖廟もその近くにあった。これがまた意外なほど立派だった。媽祖様と言えば、海の近くにあるのかと思っていたが、こんな内陸部にも立派なものがある。孔子廟もあった。埔里にも一応ワンセットあるのだなと分かる。旅行で来たのでは、一々行かないだろうところへ、散歩で来られるのは嬉しい。

 

それから埔里の図書館へ行く。昨年もちょっと寄ったことがあるのだが、ここの4階に日本時代の展示館があるので、何かしら資料があるかと聞きに行く。入口の近くに写真が飾られている。よく見るとそれは霧社事件に関連していた。特に犠牲になった日本人、日本人と結婚した原住民の写真が目を惹く。霧社は埔里から山を登る。地理的には非常に近いところにある。

 

中に入ると、そこは昭和レトロな展示になっている。日本統治時代に、埔里にあった商店が再現され、お医者さんの診療所などもあった。当時の知識階級の台湾人が写真や書籍などを残しており、それが展示されている。埔里がその昔どのような位置づけの街であったかを知りたいと思ったが、それを見つけることはできなかった。学芸員さん?が居たが、先客があり、話を聞くことはできなかった。ここもまた後日再訪しよう。

 

昼間はそうでもないが、夜はやはり涼しい。ファミリーマートで売っている焼き芋が美味しいと聞き、食べてみる。ちょっと柔らかくて甘い。値段は重さによって違うが、まあ30元程度。

ある日の埔里日記2017(2)中台禅寺と埔里大仏

1月12日
中台禅寺と大仏

工場に戻らず、一休みしようかと思っていると、埔里でゲストハウスを経営する日本人Wさんから電話がある。バイクで迎えに来てくれ、まずは彼の行きつけのカフェへ。何となくオシャレなところで、昼下がりでも満員の客を集めている。Wさんは多い時は12回、ほぼ毎日ここに来てコーヒーを飲んでいるらしい。行き付けのカフェがあるのはいいものだ。Wi-Fiも完備しているし、地元の人たちとの交流もできる。私も5月、11月と来ているので『戻って来たのか』と歓迎された。

 

 

それからバイクで郊外へ出た。埔里の郊外にはなぜか大きな寺が多い。その理由は未だによくわかっていないが、その内の1つ、中台禅寺を目指す。このお寺、Wさんが以前日本語教師を務めていた関係で彼は詳しい。郊外の畑が広がる道から、急な坂を上ると、そこにはお寺というより、何らかの施設を思わせるビルがあった。観光バスが停まる広い駐車場もある。今日人は少ないが、埔里の観光名所となっている。

 

1994年に惟覚和尚によって創建されたこのお寺。臨済宗系。全台湾に80以上の精舎と呼ばれる支部を持ち、信者も非常に多いようだ。埔里の街のど真ん中にも非常に目立つ高い建物を持っており、中台禅寺と言えば誰でも知っている。惟覚和尚は四川省の出身で、蒋介石の国民党と一緒に台湾に渡って来たいわゆる外省人。1963年に剃髪し、その後台北県に寺を創建するも、信者の増加で埔里に移ったとある。和尚は昨年亡くなったようだ。

 

この総院の規模はすこぶる大きくて、見る者は圧倒される。安置されている大仏も立派だ。千年前に大陸で作られた仏像なども安置されているらしい。どうやって台湾に運び込まれたのだろうか。中台禅寺という名前からして、中国と台湾の結びつきが窺われるが、どのようになっているのだろうか。和尚はどのようにして台湾の信者を集めて行ったのだろう。中国からの何らかの支援はあるのだろうか。疑問だらけである。

 

しかし建物自体は、中華式というより、中西融合といった雰囲気があり独特。万仏殿はビルの上にパゴダが乗っているような感じがユニークだ。敷地内には世界各地から集められた珍しい植物が植えられているという。益々この寺は謎めいている。更には最近近所に建てられた博物館へ行ってみると、まるで故宮でもイメージしたかのような四角い建物がデンと構える。もうこうなると、大陸を台湾に持ってきた印象が強く、寺という本来の意味合いは失われている。一体誰のために、そして何のためにこの寺はあるのだろうか。近くには巨大な学校まであり、多くの生徒が学んでいるらしい。

 

バイクにまたがり、夕暮れが迫る田舎道を行く。Wさんがもう一つ見どころがあるというので連れて行ってもらう。そこは正徳埔里大仏、実に立派な大仏が、山の斜面に鎮座していた。彰化に生まれた常律法師が、1986年に開いたとある。金色の大仏はどれくらいの大きさなのだろうか。先日行った彰化の大仏よりは小さいような気がするが、常律法師は故郷の大仏を思って、これを作ったのだろうか。

 

ここから埔里の街が一望できる。夕日がきれいに落ちていく。ここには大仏しかないが、寺はどこにあるのだろうか。むしろ大仏しかないこと、そして誰もいないことが、心を落ち着ける。しばらく、何もせずにただただ風景を眺め、聞くともなく、音に聞き入る。ここにはこの大仏の由来も、この宗派についても、殆ど何も書かれていない。

 

それにしてもなぜ埔里には、このような巨大な寺や大仏があるのだろうか。ここは聖地なのだろうか。それもその昔からあるのではなく、ここ数十年内に建てられているのは不思議でならない。勿論土地も余っており、環境も抜群に良いのは分るが、99年の地震もあり、決して安全とは言い切れない。台湾の宗教政策はどうなっているのか、これまで考えたこともない話題が頭を過る。今後調べられるのなら、調べてみたい。