chatabi のすべての投稿

山口歴史旅2022(4)下関歴史散歩

そこには洋館が建っていた。旧リンガー邸と書かれていてようやくここへ引っ張られた訳が分かった。リンガーとは幕末から明治に掛けて、長崎で茶貿易をしていたリンガー家であり、確かに下関にも支店(瓜生商会)があった。ここまで来たのだから中を見学しようと思ったが、開館には少し早かったので、庭から少し林に入ってみた。

そこには意外にも墓が2つあった。一つは白石正一郎、もう一つは真木和泉の息子の墓だった。白石は廻船問屋にして明治維新の影の立役者。長州藩を財政的支えた人物で、自らの家財をつぎ込み、維新後は赤間神社の宮司になったと聞いている。真木和泉は勤王の志士、その息子菊四郎も父に従ったが、この地で暗殺され、葬られたという。しかしこんなところになぜ、とは思うが、それはこの林の道が赤間神社に続いているからだろうか。

10時になると藤原義江記念館を管理する赤間神社宮司夫人がやってきた。何とこの地は40年ほど前に神社所有になっていたのだ。ここの所有者だった藤原義江は世界的なオペラ歌手。そして父はリンガー商会下関の総支配人リード。母は日本人芸者で、大阪で生まれ、リードに認知されなかった(藤原という人が戸籍に入れたため日本国籍を取得)ため、義江がここに住んだことはないらしい。

ここは元々リードと従業員の木造住宅であった。後にリードは門司港に別邸も持ったが、今はその邸宅はないという。目の前の建物は1936年、フレデリック・リンガーの息子が建てた。展示を見ながら、色々と話を聞いたが、目に留まったのは晩年義江が出演したテレビドラマ『オランダお稲』(主演:丘みつ子)のシーボルト役。一昨年長崎でお稲、お滝、シーボルトの足跡を訪ね歩いたのが思い出される。

そこから赤間神宮へ向かう。途中に講和条約地である春帆楼が見える。今は立派な建物で、そこに記念碑、更には伊藤博文、陸奥宗光の胸像があった。赤間神宮は壇ノ浦で沈んだ安徳天皇が祭神だが、その阿弥陀寺陵は閉ざされていた。独特な形の水天門を潜ると、記念撮影をするタイ人団体に遭遇。脇には平家一門の墓があり、知盛や時子の名が見られた。

先に進むと壊れた船がある。これが源平合戦時代に使われたサイズの船だという。こんな小さな船だったのか。その先にはなぜか大連神社がある。この神社は日露戦争後大連に建てられ、第2次大戦後、ご神体をソ連軍に保護されて帰国したとある。この歴史はもう少し調べてみたい領域ではある。しかし気になることを全て調べていては、茶の歴史調査は前に進まないことは経験上良く分かっている。

更に歩くと関門海峡大橋が見えてくる。バス停や漁協に壇ノ浦の文字が見える。橋の下を越えると、『壇ノ浦古戦場址』の記念碑が見られ、安徳天皇御入水之処などの石碑、そして平知盛と義経の像などがあるが、全て新しく、800年の時の流れとは無関係に見える。ただこの地に立つと、確かに狭い海峡、潮の流れが速そうだとは思う。『馬関開港百年記念』の碑の方が古びている。

ここで止まればよかったのだが、昨日の観光案内所の人が『前田台場跡』と繰り返していたので、そこまで歩いてみた。これが意外と遠い。途中に『平家の一杯水』と書かれた看板を見る。合戦に敗れた平家方武将が、最後の水を求めたと伝わる場所。これは門司側にもあったので、いくつも伝承があるに違いない。

前田台場跡は少し小高い場所にあった。160年前はこの前は海だったに違いないが、今は道路が通り、その向こうに建物もある。前田台場は幕末の攘夷戦で長州藩が建造した砲台だった。無謀にも四国連合軍に戦いを挑み、砲台は占拠されてしまう。ここから長州は開国に舵を切り、明治維新に繋がると思えば、極めて歴史的な史跡ではあるが、今やその名を知る人もほぼいない。勿論見学しているのも私一人であり、案内所の歴史好きの人が私を見込んで紹介してくれたことに複雑な思いであった。

関門海峡大橋まで戻ると、そこに関門トンネル人道入口を発見した。エレベーターで地下に降りると、そこには地下道があり、歩いて門司側に渡れる。しかも無料だというので、何となく歩いてしまった。歩いている人は結構いる。観光名所なのだろうか。途中に山口福岡県境の表示もあり、思わず写真を撮る。約3㎞ぐらいだったろうか。楽しかったのですぐ着いてしまった。本州から九州への横断はいとも簡単に達成された。

山口歴史旅2022(3)山口から下関へ

県立図書館で資料を調べ、最後に亀山公園に登る。暑い中、結構坂がきつい小山で堪える。明治期に銅像公園として毛利家の歴代当主の像が建っていたらしいが、今は敬親の像だけが真ん中にぽつんと建っている。この付近は大内を継いだ大友宗麟の弟が毛利元就と戦った場所でもあるらしい。

そしてその下には昨日も見たザビエル教会がある。丘から降りていくと大内義長の裁許状の碑があった。義長は大友宗麟の弟で、大内義隆の死後、大内家を継いだ人物。九州でザビエルにも会っており、ザビエルの後継者であるトルレス神父に布教を認めたのだろう。この辺の流れから、天正少年遣欧使節団派遣までは興味ある所だ。横には国木田独歩の詩碑もある。独歩は山口中学に通っていたらしい。

それから教会内に入ってみた。入場料が必要だったが、係員はいない(帰りに入場料を払うと、ちょっと意外な顔をされた?)。時間がないので仕方なく先に見学を始める。2階にはザビエル像、そして礼拝堂がある。1階はザビエルの生涯、日本での布教の様子などがかなり細かく展示されており、参考になる。15年以上前、ザビエルが死んだ島、広東省の上川島(展示ではサンチャン島)へ行った時のことが思い出される。確かあそこに山口ザビエル教会の記念碑があったように記憶している。

さすがに歩いて宿へ帰る気分ではなかったので、何とかバスを探して戻る。日本のバスは遅れても数分なので、バス停などを間違えなければ暑くても安心して待てるのが良い。JRバスだったのでSuicaで乗れるのも有難い。昨日歩いた道をどんどん追い抜いていく。こうなると少し元気が出て来たので、宿を乗り越して次のバス停で降りる。

最後に向かったのは周布政之助の墓。公園内に大きな石碑が建っていた。周布は幕末長州藩の重臣で、高杉、井上らを庇護、藩政に尽くしたが、最後は謹慎、自刃。公園横の墓地にある周布の墓石には、麻田公輔という名前が刻まれている。これは謹慎後も周布が別名で藩政に従事したからだと書かれている。そして42歳でその生涯を終えた。彼のような幾多の人物の上に明治はやってきたのだ。因みにこの辺りには周布が謹慎した吉富家があったという。

時間調整のため、中原中也記念館をさっと見る。それほど期待はしていなかったが、やはり彼の詩には趣があり、引き込まれる何かがある。また幼少期、広島や金沢に住んでいた頃の展示もあり、興味を惹かれた。それから荷物を引き取り、駅へ向かう。新山口駅行に乗り、昨日と逆向きに走る。この時間帯は高校生の下校時。3分ほど遅れて新山口に着いたが、何と下関行列車はちゃんと待っていてくれたので、慌てて乗り込む。それから1時間ちょっとで下関まで来た。

駅の観光案内所に寄る。歴史的な場所を知りたいというと年配の男性が登場して、これでもかというほど資料をくれて、説明もしてくれた。こんなに本格的な歴史スポットの紹介及び資料提供を受けたのは初めてかもしれない。そして下関への期待が非常に高まる。取り敢えず予約した宿まで歩いて行き、荷物を置く。

今日は陸上日本選手権をテレビで見るため、準備に走る。近所のセブンイレブンでドリンクと夕飯を調達する(近くのラーメン屋などは軒並み閉まっている)。後はテレビを見て、大浴場に浸かり、ゆっくりと疲れを癒す。

6月10日(金)下関散歩

朝飯を食べ過ぎてしまい、腹が苦しい。すぐに歩いて唐戸桟橋へ向かった。取り敢えず巌流島行フェリー情報を聞きに行く。平日は巌流島‐門司港‐唐戸ルートの船は無いと知り、予定を変更して下関を歩き始めた。ここは1895年の下関講和条約の締結地。この条約により、台湾が日本領になったのだから、台湾茶業史上も重要な街と言える。全権大使李鴻章の宿泊先である引接寺の階段が何となく印象的。寺自体は新しい。

更に行くと李鴻章道という道があった。李鴻章は下関滞在中に暴漢に襲われているが、それはこのあたりだろうか。李鴻章道と並んで藤原義江記念館という表示も出ていた。特に興味もなかったが、なぜかそちらに引っ張られるように進んでしまう。そこは非常にきつい階段があったにもかかわらず、最後まで登り切る。

山口歴史旅2022(2)山口散策

いよいよ市内中心部に到着。約3㎞歩いた。藩庁門跡の向こうには大きな県庁が聳え立っている。どこの県庁も立派過ぎるとは思うのだが、ここは一段をその感を強める。その横の県政会館も素晴らしい。これぞ山口、長州藩といった雰囲気が漂う。県政会館は自由に見学でき、歴代県長の2代目に関口隆吉(明治初期、静岡牧之原開拓に尽力)の名を発見。山口の特産物コーナーには小野茶があった。

その裏を歩いて行くと洞春寺があった。山門に『菩提樹開花中』と書かれており、花が咲いていた。初めて見たかもしれない。奥の方の墓地へ行くと、井上薫、武子分霊の墓などがある。井上聞太も湯田温泉の出身だった。隣の香山公園には毛利家歴代の墓があり、国宝瑠璃光寺の五重塔がいい雰囲気で午後の光の中に建っている。人が少なくてとても気持ちの良い夕暮れを迎える。

公園内には枕流亭(幕末薩長連合推進のため薩摩藩小松帯刀、西郷隆盛らとの会見場)や露山堂(敬親の茶室で討幕密議の場)など、幕末関連の建物が移築されており、一部展示などでその様子が分かる。釜揚げ蕎麦という珍しい店があったが、何と5時閉店で食えず。トボトボと歩いて宿の方へ向かう。

途中に高い塔が見えたので寄っていくとザビエル教会があった。フランシスコザビエルは1550年に山口経由で京に上り、翌年戦乱の京から山口に戻り、布教を開始。この教会は真新しく、往時をしのぶものはないが、ザビエル像が建っている。もう日暮れが近いので教会には入れずに去る。

帰り道、瓦蕎麦を謳った居酒屋があり入ってみる。『酒は飲まない、瓦蕎麦が食べたいだけ』と言ったのに、何の説明もなく、お通し代500円を請求され、驚いてしまい、そばの味はよく覚えていない。やはり居酒屋は怖いから行かないことにしよう。

まだ陽があったので、宿の裏の井上公園にも寄る。高校生が野球するほど広かった。幕末の七卿落ち石碑や井上像がある。ここが先ほどの井上薫の生誕地で家も復元されていた。ここにも中原中也の石碑が見られる。更になぜか山口にも外郎屋さんがあったので、入ってみる。山口にも外郎渡来説があるらしい。夕方で普通の外郎は売り切れており、ラムレーズン外郎を買って帰る。宿は近代的な建物だが、大浴場は2か所あり、さすがに温泉宿だ。屋上の露天風呂でゆったりする。実に広々としていてよい。 

6月9日(木)山口散策

朝入る露天風呂はやはり極楽。地下一階にも大浴場があると聞いてはいたが、やはり明るい日差しの中で入りたい。朝飯はビュッフェだが、かまぼこ、はんぺん、肉じゃがなどが並んでおり、お粥と食べるととても健康的な気分になる。

朝から日差しは厳しかったが、歩いて井上薫遭難の碑を探す。井上は幕末、藩の政策を巡って対立した藩士に襲われ、瀕死の重傷を負っている。その石碑は大きい。井上を救った医師、所郁太郎の像は昨日井上公園にあった。地元のヒーローを救ったヒーローといった感じ。ずっと歩いていくと商店街アーケードへでた。朝方のせいか、とても静か。この付近は江戸時代には人の往来が多く、幕末の志士たちも駆け回っていたらしい。

アーケードを突き抜け、少し北へ向かうと十朋亭維新館という建物が見えた。元々大店の醤油屋さんらしいが、どうもきれい過ぎて歴史感覚がなく、入る気が起こらなかった。むしろその先の龍福禅寺に興味を持ち、入っていく。なぜかこの寺の入り口付近に、西田幾多郎の旧宅があった。西田は山口高校の教員で、教え子に鮎川義介がいたと書かれている。ここで『禅の研究』をしたのだろうか。

この寺は大内氏の菩提寺で境内には資料館もあった。陶晴賢の反乱により大内義隆は死に、事実上大内氏は滅亡した。荒廃したこの寺を再建したのは毛利家だったと書かれており、大内義隆の供養塔もあった。そしてこの地は大内館跡でもある。ボランティアの男性が懸命に除草剤を撒いている姿がなぜか印象に残る。

そこからまた歩いてザビエル記念公園に向かった。この地は1551年大内義隆から布教の許可を得たザビエルが住んだ大道寺跡らしい。明治になってビリヨンという神父がこの地を発見し、ザビエル碑が建てられると共に、ビリヨン胸像も建っている。その横は今、自衛隊駐屯地になっている。

どんどん歩いて行くと、歴史ある八幡宮や神社が出て来る。その先には菜香亭という建物が青空の雲の中に見える。この付近は幕末の混乱時に藩主であった毛利敬親の隠居所だったらしい。そして明治維新もここで論議されたとか。更に行くと雪舟のアトリエ?があった雲谷庵が復元されている。誰もいない室内、外に猫が一匹眠っている。雪舟も色々と興味深いが今日はやめておこう。

山口歴史旅2022(1)湯田温泉まで

《山口歴史旅2022》  2022年6月8₋11日

4月は茶旅したが、5月は東北へ茶旅ではない歴史旅をした。そろそろ海外へ出ても良いのではないか、との声が大きくなり始め、8月には東南アジアへ出掛けようかと考えている。その前にやっておくべき茶旅、それは九州紅茶の歴史を完成させることかもしれない。今回福岡に入るのに、まずは山口を訪れ、その歴史旅を楽しむことにした。

6月8日(水)山口まで

東京は早くも梅雨に入っていた。昨日は嵐のような雨が降っていたが、今朝は曇り、そして涼しい。京急は事故で少し遅れたが、随分早くに家を出たので、何の心配もなかった。羽田空港のフライトは実に半年ぶり。徐々に人が増えている印象で、乗客は6₋7割は埋まっていたかな。

山口宇部空港に定刻に到着。乗客はバスやタクシーに乗って皆去ってしまったが、私は一人、空港内をうろうろした。この空港、海辺にあって実に景色が良い。快晴の空、雲の形が良い。空港からテクテク歩き出す。何と空港を出た、道路の向こうに草江というJRのローカル線の駅がある。

空港から歩いて出て行くのは、タイのメーホーソン以来だろうか。空港と町が近いというのは何となく面白い。だがフライトと電車に何らの接続もなく、1時間以上来ない。駅舎は小さく、勿論無人。周囲を見回しても住宅があるだけなので、ここは諦めてただひたすら空を眺めて過ごす。向こうの方に空港の建物が見える。

単線の電車は定刻にのどかにやってきた。乗車は1両目の後ろから。そこで整理券を取って乗り込む。この整理券が実質的な乗車券なので重要だ。乗客は思ったよりは乗っている。取り敢えず前の方に陣取る。30分後新山口での乗り換え時間は僅か3分しかない。車掌さんに精算の仕方を聞いたが『とにかく降りる駅まで整理券を持って乗って行ってください』と一言だった。

草江から新山口へ。定刻に到着したが、何と乗り換え電車のホームは端と端でかなり遠く焦る。ダッシュして何とか山口行電車に滑り込む。何で1時間に一本もない電車の乗り換え時間がたった3分なんだ、と思わず毒づく。よく見るとGoogleでは乗り換え間に合わないとなっていた。切符をやはり買う暇はなく、整理券を持って湯田温泉まで走る。駅で駅員に引き渡され?駅員が自販機で切符を買ってくれ??無事に到着した。このローカル感はすごい。

この駅、駅前に大きな白狐のモニュメントがある。歩いて数分行くと温泉街へ。鄙びた旅館ではなく、立派な建物が多い。井上公園の向こうの宿に滑り込む。午後2時台でもチェックインOKで有難い。すぐに外へ出て、観光案内所で地図を貰った。『自転車で回るとよい』とアドバイスがあったが、現在体の関係で自転車を止められているので『自転車は乗れない』というと、係のおばさんにバカにしたように笑われた。無意識の差別とはこのような場面から来るのかもしれない。人にはそれぞれ事情があるのだ。

私は山口市に泊まりたかったので、当然山口駅近辺の普通の宿を探したのだが、出て来るのは湯田温泉ばかり。仕方なくここに宿を取ったのだが、それは正解だったようだ。歴史的な物がかなりこの周辺に集まっている。まずは立派な松田旅館。ここは薩長同盟の会談場所だと観光案内所で聞いた。宿の前にはその表示はないが、門構えは非常に由緒を感じる。旅館の裏は長州藩関連の建物の跡や坂本龍馬像など盛りだくさんだった。

またここには山頭火もしばらく逗留したらしく、句碑などもいくつか残っている。また詩人中原中也の生誕地もここであり、記念館が建っているほか、各所に句碑が建っている。中原は大学の大先輩ということで以前より注目していた(勿論その詩と生き方も)が、地元では予想以上の持ち上げようだった。

そこからかなり歩いて木戸神社へ向かった。山口市中心部に近づくが、周囲には何もなく驚く。木戸神社はその名から分かる通り、木戸孝允を祭っているが、説明書きに寄れば、この付近の土地を木戸が分け与えたことに対する地元民の感謝の神社らしい。維新の三傑などとも呼ばれるが、桂小五郎の幕末はとても興味深い。境内の石碑は三条実美が書いたようだ。

少し行くと普門寺という小さな寺があった。ここには大村益次郎が山口で宿泊した観音堂が残されていた。村田蔵六は医者だったが、幕末長州の軍事を作り上げ、維新に大いに貢献した。何となくその昔の大河ドラマ『花神』を思い出す。その先には山口市歴史民俗資料館があり、『獅子頭』の特別展示があるというので入ってみた。獅子頭という文字を見ると今や食べ物(上海料理)を思い出してしまうとは、どうしようもない。

みちのく一人旅2022(7)盛岡の偉人たち

まずは腹が減ったので、盛岡駅でアナゴ天そばを食べたが、あまり美味しくはなかった。なぜだろうか。荷物を引いて駅前の道を渡ろうとしたが、横断歩道は一つもなく、地下道を通らないと渡れない。何という不便さだろう。その後町の方に向かった時も、この不便さは付きまとい、街歩きを楽しむのに大いに困る。時々車社会の地方都市にみられる現象だろうか。

宿はとてもきれいで愛想も良い。観光用地図を貰ったが、岩手全域の観光用であり、慌てて駅の観光案内所へ駆け込んだところ、親切に歴史的な場所を教えてくれ、地図をくれた。何とも有難い。しかも駅前には新渡戸稲造の胸像が置かれており、製作者は何と台湾の許文龍と書かれていて驚いた。あの日本統治時代に台湾に貢献した日本人を顕彰るため作られた像の1つだった。

地図を持って街を歩く。夕顔瀬橋から見る岩手山は雄大できれいだった。そこから旧盛岡農林学校へ向かう。今の岩手大学だ。ここは宮沢賢治ゆかりの地で、ミュージアムもあったが既に薄暗い時間となっており、残念ながら閉まっている。次に金田一京介生誕の地に行ってみると、そこには薬局があり、漢方薬を扱っているらしい。この横に旧藩校作人館があった。

帰りに啄木新婚の家の前を通りかかったが、実に太い木があった。尚啄木の実家は盛岡ではなく、先ほど電車で通った渋民という地だった。賢治も花巻出身。それでも盛岡は啄木と賢治で溢れている。何だか腹が減り、駅の中にあったお店でハンバーグを食べた。久しぶりに食べると、ハンバーグとは美味いものだと感じる。

5月23日(月)盛岡散歩

今日は旅の最終日。午後東京へ戻るので、それまで盛岡の町を歩いてみる。商店街のアーケードを抜けて行くと、盛岡城跡に出る。その先に岩手銀行旧本店の洋風建築が見えた。近くには啄木賢治青春館という不思議な建物があり、中で彼らの足跡を細かく知ることができる。

盛岡城跡は公園になっており、水と自然が美しい。啄木歌碑、新渡戸稲造、宮沢賢治碑も建てられている。近くには賢治の下宿先などもあった。そこから目指すは新渡戸稲造生誕地。思いがけず立派な場所に、立派な像が置かれている。私は台湾と新渡戸の関連について興味があるが、日本ではお札になって少し認知度は上がったものの、依然それほど知られていない。が、さすがに地元では、色々なところに名前が出てきて嬉しい。

南昌荘というお屋敷を外から見学し、米内光政、原敬の墓所へ行ってみる。一昨年菅義偉が総理となり、久々の東北出身と言われたが、それまでの4人は全て岩手出身、原敬(第19代)、斎藤実(第30代)、米内光政(第37代)、鈴木善幸(第70代)というのが面白い。何だか昨今の野球(メジャーリーグも)を彷彿とさせる。その米内と原の墓所、墓自体にはそれほど派手さはないのだが、観光地並みの、思いのほか大きな看板が珍しい。

歩いていると腹も減ったので、ランチをやっている和食店にふらっと入るとお客で満員だった。ランチはカレーしか残っていないと言われ、牛すじカレーを食す。これがなかなかいいお味だったが、一緒に和菓子が出てきたのにはちょっと驚く。

盛岡八幡宮の境内に行くと、何と明治天皇の立像があった。これは意外と珍しいのではと思ったが、調べてみると全国にいくつもあるようだ。境内の別の場所には米内の立像もあるが、こちらの方が立派かもしれない。近くには米内の居住地跡もある。天満宮に行くと大工事中だったが、啄木望郷の碑は避けられて行くことができた。浅田次郎の『壬生義士伝』の主人公も盛岡の人だったと知る。

最後に金田一京助の墓に詣でて、駅に向かった。盛岡は思ったより歴史的であり、様々な人が登場して面白かった。芸がないと思いつつ、新幹線で大宮へ向かった。ただ折角なので25年前を思い出して、はやぶさではなく、各停のやまびこで各駅を眺めながら帰った。

みちのく一人旅2022(6)鹿野、そして盛岡へ

今回の主目的である鹿野先人顕彰館を訪ねた。常設は湖南と和井内貞行(十和田湖養魚事業開発の先駆者)、そして最近民俗学者瀬川清子が加わった。毛馬内出身で子供を持ってから大学に入り、民俗学を志し、柳田国男に師事し、全国を飛び回ったというから、この時代には稀有な存在だっただろう。今年の特別展は先ほども見た立山家。立山林平は東京帝大を首席で卒業した天才数学者だったが、31歳の若さで亡くなっている。なぜこの地からこのような天才が生まれたのだろうか。

顕彰館は和井内貞行誕生の地に建てられていた。湖南生誕の地はすぐ近くにあり、現在は湖南顕彰会が運営している。ここで2003年度に年間展示されたのが、石川伍一。湖南と同じ年にこの地で生まれた男は、民間人諜報活動家、大陸浪人の先覚者で、日清戦争直前、天津で捕縛され、命を落とした。その資料は石川家からこちらに提供され、すべてそのまま保存されていた。伍一はお茶仲間Yさんのご先祖であり、その稀有な人生に大いに興味を持っており、資料なども沢山頂いている。今後中国などへ行き、伍一の足跡を歩きたい。このような人物はもっと知られるべきと考えている。

だが顕彰館によれば、実は伍一だけでなく、湖南ですら地元ではあまり知られていないと嘆く。湖南と伍一、そしてやはり秋田の木村泰治(台北森林北路や東京上北沢を開発)を接点として 台湾時代の湖南を調べたいとの思いが出て来る。そこで十和田図書館で湖南と伍一の資料を探し、コピーを取ろうとしたが、著作権の範囲外だとして、半分しか取らせてもらえず。

ところが図書館を出てから20分して電話があり、やはり全部コピー可能だった?ので、取りに来いというから驚いた。だが電車は2時間に一本しかなく、戻れないため郵送を依頼したところ、何とコピー代を郵送せよ?と言われ、そのお役所仕事ぶりにちょっと呆れ果てる。まあ著作権について調べてくれたのは良いことではあり、結局東京に郵送されてきたので有難いとは思う。

図書館から十和田南駅までは歩いて30分かかった。すぐ近くに菅江真澄の記念碑がある。江戸時代の旅人はここまで来ている。駅前には和井内の胸像もあった。駅は駅員がいて切符を販売しているが、列車到着のアナウンスなどはなく無人と同じ状態。大湯の環状列石までタクシー10分と書かれているのを見ると、25年ぶりに行ってみたくなったが、既にアイムアップ。

電車はこの駅でスイッチバックする。乗員も交代する。きれいな2両車両、そしていい感じの車窓。40分弱で大館駅まで戻る。夜はなぜか汁なしホルモン麺という強烈なジャンクフードを食べてしまった。あまりにこってり、ニンニクどっさりで体調不良に陥り、疲れてもいたのか、11時間寝込む。自分の歳を切実に感じる。

5月22日(日)盛岡へ

朝ご飯も朝風呂もパスした。昨晩の食事でかなりの重症となり、部屋で大人しくカーリングを見て過ごす。時間になり、大館駅から電車に乗る。盛岡行きっぷを自販機で買おうとしたら、2つのルートが出てきて、しかも1つは料金がバカ高い。駅員に尋ねると、岩手銀河鉄道を経由すれば安いという。2640円。自販機は紛らわしいので困る。同時に自分でちゃんと調べてから来るべきだと知る。

電車は昨日と同じ2両列車。乗客は僅か数人。昨日と同じルートを走っていく。途中鹿野花輪駅で28分停車。運転手さんが何と今日で定年とのアナウンスがあり、ゆかりの人が駅まで来て労っている。いかにもローカル線らしくて良い。この駅は25年前にも来たことがあるが、木製改札もそのままでよい。

そこからダラダラ3時間、電車に乗り続けた。普通の人は特急に乗るか、昨日乗ったバスで盛岡へ行くのだろうが、このローカル線の旅は何とも心地よい時間だった。好摩駅からいわて銀河鉄道に入り、そこから30分で盛岡駅に着いた。盛岡駅はJRの駅もあるのでややこしいのだった。

みちのく一人旅2022(5)大館、そして鹿野へ

5月20日(金)大館へ

朝、昨日の余韻で弘前高校に行って旧校舎を見学した。それから寺町を散歩しようとしたが、道を間違えたのか、寺は見付からなかった。それにしても今日の岩木山もきれいだ。弘南鉄道中央弘前駅へ。駅舎とは思えない非常に昭和な建物。1952年開業らしい。切符は自販機で購入するのだが、ただ大館まで行くきっぷ(含むJR)は売っていない?

親切なスタッフに聞いてみると、色々と教えてくれた。ローカル線の営業努力はやはりすごい。改札は発車の5分前から。ホームは1線しか車両が入れない。2両列車に乗客は地元のご年配の方ばかり。終点大鰐駅まで440円。前半は意外と家がある。後半は田畑中心。何とも眠気が襲ってくる心地よさを感じる。

約30分で大鰐駅に到着。木造の階段を上るとJR大鰐温泉駅へ行ける。一応弘南鉄道の改札があったが無人。JRホームは出入り自由の緩さ。JRきっぷは窓口で購入するが現金のみ。駅員の対応も良くはない。駅の外には足湯あり。ここで温泉に入るという手もあったか。30分待って奥羽本線2両列車で大館まで向かう。590円。ほぼ田園、森林風景。大館駅に着くと駅舎は改装中。そして駅前にはほぼ何もない感じで、観光案内所も見付からない。

秋田犬の里?という建物があり、その前に忠犬ハチ公像があった。そうか、ここはハチ公の生まれ故郷か。その裏には渋谷との繋がりを示す『青ガエル』と呼ぶ電車が置かれていた。予約した宿に荷物を預けたが、フロントの対応は何とも不慣れ。研修生らしい。後で戻ってきてみると、バッグは開いたままで、フロント脇の外に放置されていた。急激なローカル感を味わう。

東大館方面へ歩く。20分ほど歩いて行くと秋田犬会館?があり、ここにもハチ公がいた。隣は桂城公園(城跡)。市役所の建物が実に立派。その横の桜櫓館を見学したが、『気を付けてみてね』というだけで、対応する気はないようだ。3階の展望に行くには非常に狭い階段を這い上る。それから少し歩いて八幡神社まで行く。駅で言えば、この街は大館ではなく、東大館が中心だった。何となく東室蘭を思い出す。

またとぼとぼ歩いて大館駅で明日のバスを確認。宿にチェックインしたが、腹が減った。中途半端な時間で店を探せず、また駅前に戻り、鶏飯弁当を買う。900円で十分満足。名物比内鶏?かな。夜は何と宿で午後7時半から夜泣きラーメンを無料で食べられた。半ライスも付いていたが、さすがに断る。ホテル経営も大変だ。

5月21日(土)鹿野へ

宿はいかにもビジネスホテルで、朝飯の質も落ちる。まあ鶏だし飯をかっ込んだので、文句はないが、色々なホテルに泊まるとサービスの差が良く分かってしまい面白い。今日は駅前から高速バス(盛岡行)に乗って、高速けまないというバス停まで行く。約40分。因みに料金1000円で、 Suicaは使えた。乗客3人のみで、下車場所のアナウンスが2回あって戸惑うも何とか下車。

完全な田舎の高速道路脇のバス停を想定していたので、飲食店などもあり、意外な感じで始まる。ここ鹿野市毛馬内へ来た理由、それはこの地が偉大な東洋学者、内藤湖南生誕の地だったからだ。先月京都で湖南の墓と晩年に隠棲した恭仁京を訪ねたこともあり、ここまで来たらどうしても訪ねて見たくなる。

歩いて10分ほどで、急坂(柏崎新城搦め手口)を上ると内藤湖南先生の旧宅があった。現在も親族の方が住んでいるので表札も出ている。その上に内藤虎次郎郷宅とも書かれている。胸像が建てられており、その向こうには湖南が使ったと思われる書斎の建物さえ残っていた。これはちょっと感激だ。

隣には毛馬内柏崎館という建物があったが、既に閉館しているようでひっそりしていた。ここが城の本丸?だったらしい。道沿いに内藤十湾先生(湖南の父)の碑もあった。もう少し歩いて行くと、仁叟寺といういい雰囲気の寺があり、戊辰戦没の碑なども建っている。そこから下ると立山文庫跡(現十和田図書館)の表示があり、その横には蔵がある。表札によれば立山氏は今も子孫がここに住んでいる。更には毛馬内学校発祥の地と書かれたものもある。この学校は明治初期に開校されたが、湖南も通学したのだろうか。

みちのく一人旅2022(4)弘前を歩く

5月18日(水)弘前へ

朝飯と朝風呂、このセットが習慣化し、心地よい。他にやることもないのでチェックアウトして駅へ向かう。Suicaは使えないのできっぷを買ったが、この駅列車到着10分前まで改札口を開けない?なんだか中国の駅を急に思い出す?団体さんが深浦へ向けて行くようだが、混雑はない。

やってきたのは1両列車。さすがに車内は混んでいる。次の電車は11時台らしい。弘前まで直通でわずか43分。途中川部でスイッチバックがあり、前後が逆になった。リンゴ畑を見ながら過ごす。

弘前駅の観光案内所はてきぱきしていてよい。駅前から市内巡回バスが100円で乗れる。10分に一本あるというから、非常に便利だ。今日の宿まで10分ほど乗り、荷物を置き、すぐに市役所前へ歩いて向かう。ここには立派な観光館があった。郵便ポストには『りんご色の町 弘前』の文字があり、ポストの上にはりんごのモニュメント、背景にはきれいな岩木山で写真を撮る。

2時間に一本しかないミニバスで岩木山神社へ向かう。30分、660円。田舎道を軽快に走り、途中から登りになる。神社は相応に古い。江戸初期か。敷地も相当に広く、荘厳な感じがある。山頂(標高1600m)の奥の院まで徒歩4時間15分との表示があり、断念して参拝する。ここから岩木山は見えないので、横道から遊歩道を歩いてみる。所々に岩木山が顔を出す。リンゴ畑もある。とても気持ちが良い歩道だが、誰も歩いていない、独り占めだ。天気も最高に良い。

更に歩いて行くと寺がある。と見えたのは、津軽4代藩主の廟。近くには殉死した家来の霊社もあった。ちょうど歩道に木が倒れており遮られた。ゴールの高照神社に到着、由緒正しそうだが、宝物殿は朽ち果てていた。横に歴史資料館があったので入ってみる。300円。津軽藩の歴史が分かる場所であり、絵画や茶器なども展示されている。

帰りのバスに乗ろうとしたが、バス停はなかった。それでもちゃんと大型バスがやってきて、25分で市役所へ戻る。570円。宿まで歩く間にいくつも古い建築物が見られた。吉田松陰滞在場所何というのまであった。宿は部屋も広く、風呂がデカい。露天風呂から岩木山が良く見える。

風呂から上がって大相撲を見る。極楽だ。終了すると腹が減り、検索で見つけたとんかつ屋へ向かった。バイト男子が面白い。『ご飯です。味噌汁です。とんかつ定食です』とサーブする。サラッと揚がった、なかなか満足できる『ろうすかつ』だった。なめこ汁もうまい。帰りは夕暮れの赤レンガ美術館の横を通る。更にはレトロな教会もあり、その向こうは何と中央弘前という駅だった。言われなければ駅舎とは思わなかったかもしれない。

5月19日(木)弘前市内で

また朝風呂。そして豪勢な朝飯。特にせんべい汁うまし。本日は大谷の二刀流を見るため午前中お休みとした。偶にはこういう日が必要だ。昼前にようやく部屋を出る。宿の近くに五重塔が見えた。最勝院、江戸初期に津軽氏によって建てられたらしい。境内には大工の棟梁の記念碑があった。これは珍しいのではないか。横には八坂神社もある。そこからいくつも寺がある新寺町を歩いた。

更に中心街とは反対の方へ向かう。弘前学院大学の校内にある宣教師館。同大学はキリスト教関係者が設立し、アメリカから婦人宣教師を招いたようで、この建物はその宿舎だった。弘前には他に、弘前大学外国館(今はカフェとして使われていた)など、意外と外国人用の建物が残されている。

太宰治まなびの家(旧藤田家住宅)にも行ってみる。ここは弘前ペンクラブが管理しているとのことで、そちらの方から30分説明を受ける。太宰は青森中学から旧制弘前高校に進学、親戚の家に下宿。太宰が青森中学に行ったのは母親が浅虫で療養していたかららしい。弘前に移っても青森に芸者遊びに行っていたというからすごい(金木の実家を見れば資金力に問題なし)。そして2階の太宰部屋を見ていると『ここが初めて自裁未遂した部屋』と言われて驚く。 

昼も過ぎていたので、土手町の銀水食堂でかつ丼570円を食す。まさに昭和の食堂。午後2時でもお客はかなりいる。赤カブの漬物、そして濃い番茶。食後は弘前公園へ行き、天守閣に登る。320円。かなり広い敷地、石垣積み工事をやっている。図書館などレトロ建築がいくつもある。古い建物が残っているのは、弘前が空襲に遭わなかったことが理由であるらしい。

夕方部屋に戻り、コインランドリーで洗濯しながら、風呂に入り、また相撲を見る。チェーンホテルのいい所は『ここには必ずコインランドリーがある』と分かっていること(ここは洗濯機使用は無料、乾燥機は有料)。それにより、何を着るかを計算出来てとても助かる。夕飯は抜いて、夜泣きラーメンを食して寝る。これもまた良い。

みちのく一人旅2022(3)金木を歩く

5月17日(火)金木へ

宿の朝飯を食べに行ったら老人男性4人組がいた。何と4人掛けの席に1人ずつ分かれて座り、食べているのだが、お互いの声が聞き取りにくいらしく、どんどん大声で話しながら食べている。こういう光景は滑稽としか言いようがなく、今の日本を象徴しているようにも見えた。

今日は津軽鉄道に乗ってみる。JR駅の隣に如何にも木造の古めかしい駅舎がポツンとある。中に入ると『乗車ですか』と声を掛けられ、切符を買う。ホームへ行くと鉄オタさんと間違われ?写真スポットを案内された。有名なストーブ列車は冬だけ運行だという。1両列車に乗り込むとテレ東の取材あり、乗客に出演を促しているのは何ともうざい。まあ番組制作スタッフも大変なのだろうと思うのだが、旅情を削がれる。

電車に女性ガイドさんが乗り込んできた。テレビ番組用かと思っていたがそうではなく、津軽鉄道の人らしい。八甲田山や岩木山を紹介しながら、手作りパンフと津軽方言を織り交ぜて、一生懸命ガイドしている。こういう努力は称賛したい。それにしても岩木山はきれいな山だ。田んぼに水を張る季節になっている。

金木まで25分、560円。金木で列車通過儀式があったが、私はここで降りた。駅からぽつぽつと歩き始める。太宰疎開の家というのがあり、その先で道を間違えてしまい、神社から三味線会館へ入った。まずは斜陽館(太宰生家)を見学。思ったより大きな家で驚く。金貸し業の部屋まであり、戦前の津島家の財力が良く分かる。

戦後の農地解放で津島家はこの家を手放し、小説の名を取った斜陽館という名で旅館が経営された。津軽ヒバの大豪邸には洋間もある。一度は泊まってみたい宿だった。今日は高校生の社会科見学か、案内がうるさくて紹介ビデオが聞こえず、ちょっと残念だった。

次に共通券(1000円)で三味線会館へ向かう。中では津軽三味線の生演奏が始まる。弦をたたく?独特の音が会場に鳴り響く。津軽三味線は明治からと意外に新しい。仁太坊という人に始まる。生きていくための芸という言葉が響く。弦楽器はインドから?三味線は500年前のサンシンが起源らしい。もう少し伝来の歴史を調べるべし。吉幾三の父で民謡歌手の鎌田稲一や三橋美智也の名が出て来る。

三味線会館の向かいにある雲祥寺は太宰がタケに連れられて遊んだ寺だと覚えている(小説『津軽』)。山門が格好良く、津軽大観音もある。そのまま太宰ロードを歩いて金木小学校まで行く。天気が晴らしく、更に芦野公園を探してまた道を間違える。ようやく公園へ入ると、三味線発祥の地、太宰像と記念碑を見かける。吊り橋を渡って、駅の方へ回っていく。

芦野公園駅は無人だが、旧駅舎を利用したカフェは有名だ。駅舎珈琲を注文して周囲を眺める。雰囲気は新しい。ここでドリンクだけでなく、きっぷを買うことができる。ダラダラしていると、さっきの取材が来るというのですごすごと退散した。だが結局取材はなく、カフェのオーナーが大きく手を振って列車を見送ってくれた。ガイドさんがまた登場して、細かい情報をくれる。まさにありがとうという思いだ。そして相変わらず岩木山はきれいだ。

五所川原で降りると、マルコーセンターで『のへ丼』を食べてみる。5年ぐらい前に始めた新サービスだというが、150円でご飯を買い、別に好きな刺身を魚屋で買って、のっけて食べる。テーブルで座って頂く。650円で満腹だった。更にアテンダントさんからの情報で、『あげたい』にも挑戦。タイ焼きを揚げるのだが、ご主人は一言『こっちの方が絶対旨い』と。130円で開運祈願? 

立佞武多会館にも寄ってみる。正直あまり期待していなかったが、実際に見るとその迫力はすごい。立佞武多は1998年失われたと思われていた設計図が見付かり、80年ぶりに復活したという。今は1年に一回、夏祭りに登場する。4階でビデオを見て、そこからスロープを降りながら歴史などを見て1階まで歩く。予想外の立ち姿、その巨大さに十分満足。650円。

疲れたので宿へ戻り、風呂に入って相撲を見る。夜は食べるところが見付からず?腹が減ったところでコンビニへ行き、冷やし中華を買ったつもりが??なぜかごまだれ味のご当地中華だった。正直シンプルな冷やし中華が食べたかった。

みちのく一人旅2022(2)三内丸山遺跡から五所川原へ

5月16日(月)三内丸山遺跡

朝早く目覚め、朝ぶろに入る。今日も湯船が明るい。朝飯も一人ご飯。あの仲居さんに励まされて?美味しく頂く。卵にみそ焼が何ともいい味で旨い。青森だからか、漬物など発酵食品が多いという特徴もあった。食後時間があったのでホタル池まで2㎞ほど散歩した。特に何もなかったが、よい腹ごなしとなった。

9時に宿から車で駅まで送迎してもらった。コロナだけでなく3月の大地震の影響もあって、客足は戻らないという。次回はいつ来られるだろう。25年前ここの仲居さんに『三内丸山遺跡にでも行ってみたら』と言われてJRに乗ったのだが、今やそのJRはない。青森まで25分で到着。青森駅は改修中で、ちょっと道に迷う。駅前のコインロッカーに荷物を押し込み、観光案内所で地図を貰い、遺跡への行き方を教えてもらう。

ちょうどバスがやってきて乗り込む。310円。平日だが意外と乗客が多いと思ったら、殆どが遺跡の一つ前の美術館で降りて行った。終点で降りると、目の前の立派な建物に驚く。25年の進化を感じる。世界遺産に登録され、更に発展している。中を見学すると、土偶や土器など様々な発見が続いていることが良く分かる。25年前は発掘調査が始まって3年程度しか経っていなかったので、取り敢えず基礎調査段階だったが、それでも我々が学校で習った縄文時代とはあまりにかけ離れていて、十分に驚いたのを思い出す。

11時から見学ツアーがあるというので、参加してみた。学芸員の方が案内してくれ、20名ほどが参加していた。建物から外へ出て、広い敷地内を約1時間、説明を聞きながら散歩する感じだった。説明は非常に分かりやすく、しかも縄文ロマンが感じられる。以前より木々も茂り、展示物も増えている。酸性土壌は土が赤茶けるという説明は印象的。あの象徴的な六本柱の建造物はそのままだが、他の住居などはどの程度作られていたのか記憶がない。この25年で縄文時代の概念も変わり、狩猟生活だけではなかったこと、ある程度きちんとした農業が行われていたことが明らかにされているが、そのきっかけはここの発掘だった。

ツアー終了後、バスに乗って引き返した。駅近くでバスを降り、街歩きを始めた。太宰治、棟方志功、沢田教一などこの街にゆかりのある人々に関する場所が表示されているが、建物は何も残っていない。これも空襲のせいだろうか。県立博物館は閉館中で見られず残念。古めかしい善知鳥神社は何となく懐かしい。菅江真澄の碑がある。

青森港付近を散策すると天気も良く海がきれいだった。青函連絡船関連の史跡、八甲田丸が停泊し、その横に津軽海峡冬景色碑がある。近づくと突然石川さゆりの歌が流れるという趣向にビックリ。青森駅から五所川原へ移動する。ここはJR線だが、残念ながらSuicaは使えない。改札口には北海道プロモーションの一団が陣取り、迷惑この上ない。

川部という駅で乗り換えたが、停まっている快速リゾートしらがみには誰も乗らない。何となくそんな気分になり、突然乗り込んで車内で急行券を購入した。25分で追加料金530円なら地元民は乗らないだろう。残念ながらほぼ乗客はいなかった。4人掛けの立派な半個室があり、各シートもかなり広い。窓も大きいので、外が良く見える。りんごの木が目立ってくる。

五所川原駅に着くとまずは観光案内所へ向かった。だが出てきた男性は『金木以外ほぼ観光地はない』と実に素っ気ない。偶にいるんだよな、この手合い。きっとやりたくない部署に回され、郷土にも愛着がない役人体質の人。宿にチェックインして、相撲を見てから夕飯を食べに行く。なぜかカツカレーが食べたくなり、検索した店に行ってみたが、何と既に売り切れていた。普通のポークカレーを勧められたので食べてみたが、甘さと辛さが絶妙で、量も多い。これで550円は幸せだ。宿に帰り浴場へ。狭いが気持ちはよく入る。