chatabi のすべての投稿

九州茶の歴史を訪ねて2018(2)可徳乾三の故郷に行く

6月9日(土)
合志へ

翌朝は恐れていた雨も降らず、天気は良かった。朝7時台、未だ宿は完全に寝静まっており、起きてくる者はいない。結局どんな人々が泊っているのか、顔を合わせることもなく、一人宿を出た。道に少し雨水が残っていて、荷物が転がしにくい。今日は土曜日なので通勤者は多くない。

 

昨日確認したバスターミナルへ行く。今日はここから熊本県合志市へ向かう。正直地理は全く頭に入っておらず、ただ言われた通りのバスに乗ることだけに集中した。何とその熊本行きのバスは20分に一本程度あり、相当に速いらしい。切符を自販機で買い、バスが来たら乗るだけだ。因みに合志は『こうし』と読み、バス停の地名は西合志(にしごうし)と読むらしい。なぜだろうか。

 

9時発のバスに乗った。バスは日本だから快適だ。料金が2060円、というのが、その遠さを示していた。ふと目をつぶってしまった。起きたら、ほぼ下車地点ではないか。僅か1時間、確かに早い。高速道路に設置されたバス停で降りたのは私だけだった。こんなところに一人で放置されたらどうなるのだろうか。

 

今回は合志市市議会議員のUさんが迎えに来てくれていた。Uさんとは、私のブログにコメントを頂き、交流が始まったので、会うのは今回が初めてだ。実は私は2年程前から可徳乾三という茶業者を細々と調べていたが、そのことをブログに書いたところ、可徳の故郷である合志から連絡があったというわけだ。

 

Uさんの車で向かった先は、何とその可徳乾三のお墓がある墓地だった。可徳はここ合志の生まれであり、Uさんも世に知られていない合志の偉人として、可徳の業績をもう少し広めようと活動を始めていたのだ。お墓は以前と変わっていたようだった。これも熊本地震の影響ではないかという。

 

古い墓石に可徳乾三の名前を見て、初めて『この人は生きていたのだ』と実感した。遺骨は誰かが台湾から持ち帰ったのだろうか。更には震災後に整理したと思われる墓にも彼の名前はあった。この新しいお墓群、まさに圧巻だった。『可徳家』と書かれた墓石がズラッと立ち並んでいた。正直これまで可徳、という苗字さえ、目にしたことはなかったのに、この街にはこんなに可徳姓が多いのか、と改めて可徳乾三の故郷に来たことに思いを致す。

 

それから合志義塾の跡に向かった。合志義塾は明治25年、農村で教育機会のない若者のために作られた私塾で、男女共学などユニークな教育方針を掲げ、60年間で約6500人が卒業したという。主催者には可徳の親戚もおり、可徳の活動にも深くかかわったものと思われる。入口に碑があるほか、今は牛小屋になっている建物が、教室として使われていたという。その庭には徳富蘇峰からもらった(同志社の新島襄から徳富がもらった)というカタルパの木が今も育っている。

 

可徳が九州で紅茶作りを行い、その茶葉を売る歩き、更にはシベリアで茶業を行うにあたり、この塾を出た若者たちが大勢関わっただろうと想像するが、その具体的な資料は見付からない。それでもなぜ可徳乾三という男がこの地から世界に飛び出していったのか、そのあたりを垣間見られる農村風景がそこにあった。

 

それから合志漫画ミュージアムに行った。ここは個人から7万冊もの漫画が寄贈され、市がこれをミュージアムにしたという。私が子供の頃に読んでいた数々の漫画の原本がほぼすべて保管されている感じで驚いた。館内では子供たちが自由に漫画を読める空間があり、素晴らしい。

 

お昼を食べながら、Uさんと色々と話をした。市議会議員としての仕事を誠実に行っており、更には地域の文化や歴史を残し、広めたいという気持ちがある方だった。こんな市会議員さんはそんなに多くはないだろう。今後も可徳乾三を介在にして、お付き合いを願いたいと思っている。因みに可徳関連資料はお互いが今日まで集めて来た物を紹介しあったが、Uさんの資料の方に興味深いものが多かった。やはり地元の方が集まる。

 

御代志の熊本電鉄駅まで送ってもらい別れた。今後またここへ来る機会はあるだろうか。それにしてもこの小さな駅、そして二両の電車。何ともいい感じだ。スイカで払えるのだろうか。それほど遠いとは思っていなかったのだが、今から佐賀まで行くと、というと、ちょっと驚かれる。

 

JRに乗るためには途中の北熊本で乗り換え、終点の上熊本まで行かなければならない。まあこの電車にゆっくり揺られていくのは悪くない。乗っているのは老人と高校生が多い。午後の日差しにちょっとまどろむ。北熊本で降りると、なぜか台湾人の団体に出くわした。皆一生懸命写真を撮っている。これがくまもん電車だった。今や台湾でもくまもんは大人気、震災の時もくまもんの連想で募金が多く集まったという。

 

上熊本まで行くと、今度はJRで鳥栖まで行くのだが、何と鹿児島本線の区間快速で1時間半もかかる。座れたのはよいが、尻が痛くなる。そこから佐賀駅までも30分かかるので、結局3時間近い電車旅の末にようやく佐賀に辿り着いた。何とも長い旅、九州の広さを思い知らされた。

 

佐賀駅前に予約してもらったホテルに入ったが、何と禁煙の部屋は満杯で、喫煙しかなかった。なぜだろうか。これだけ禁煙者が多いのであれば、全館禁煙にして欲しい、などと言えば愛煙家から非難の的だろうか。すぐにOさんが来てくれ、明日のセミナーの打ち合わせを軽く行い、今日は疲れたので早めに寝た。

九州茶の歴史を訪ねて2018(1)博多でのんびり

《九州茶の歴史を訪ねて2018》

 

台北から戻ってすぐに九州に出掛けた。もうこんな激しい旅はしないはずだったのだが、この後1か月は完全に旅を休む予定なので、その前の最後の追込み、特例として国内旅をすることにした。まあ海外に比べれば大したことはないだろう、と高をくくったのだが、実はかなり大変でとても疲れた。九州も広い。

 

6月8日(金)
福岡で

やはりボーっとしていた。休みが足りないのだろう。今回は強行軍なので、羽田から楽に福岡に入ろうと、ANAを予約してみたが、前日によくよく見てみると、何と成田発だった?!確かにちょっと安いなとは思ったのだが、まさかこんな間違いをするとは。いよいよ来るべきものが来た、と言う感じだろうか。

 

成田で国内線に乗るのはLCCの時ぐらいなので、空港駅には着いたものの、どこへ行けばよいのか一瞬迷う。掲示を頼りに歩いていくと、こんなところがあるのか、という場所だった。勿論混んではおらず、まあ遅刻せずにここまで来れば問題はさほどない。それでも朝起きる時間は1時間以上違っていたが。

 

フライトは2時間弱で福岡空港に着いた。この空港の一番良い所は、何といっても市内に近いところ。スイカも使えるのですぐに博多駅まで移動できる。博多駅では先ずバスターミナルへ行き、明日のバスを確認し、その後、大きなスーツケースをコインロッカーに放り込んだ。実は今晩は明日を考えてこの駅周辺に泊まる予定なのだが、ちょっと変わっており、午後5時からしかチェックインできない。

 

午後1時半に天神の岩田屋本店に行く。東京の人間でいうところの三越本店で、という待ち合わせだと思うが、福岡の地理に暗いので、何度も検索してようやくたどり着く。今日はYさんとランチの予定だが、何とその美貌を大きなマスクですっぽり覆っていた。風邪をひいたという。

 

私のために無理をして頂き、一風堂の本店でラーメンを食べた。今ではアジア各地で見かける一風堂だが、入って食べるのは何年ぶりだろうか。本店はあまり目立たない場所にひっそりとあった。午後2時前ということもあり、お客はそれほどおらず、ゆったりと食事ができた。餃子も食べてしまう。

 

Yさんとはそこで別れてまた後で会うことにした。私はここから博多駅までぶらぶら歩いて見たくなった。天気が良かったのだ。天神の観光案内所で地図をもらい、歩き始めた。すぐ天神中央公園に出る。そこに明治末期に建てられた貴賓館があった。立派な建物だが、3年ぐらい前に夜に通った時は暗くて覚えがない。

 

川にもすぐに出た。30分に遊覧船に乗りませんか、と言われたが、何となく歩きたかった。更に歩いていくと繁華街があり、それも過ぎると櫛田神社があった。何となく寄りたくなるような神社だ。ここが博多の総鎮守。博多祇園山笠が奉納される神社で、飾り山笠が一年中展示されている。門の向こうに牛が寝そべっていた。

 

そこから真っすぐに博多駅まで歩き、先ほどロッカーに入れた荷物を取り出し、駅の反対側を行き、今日の宿泊先を探した。駅から数分とのことだったが、10分以上は歩く。かなり分りにくい場所にその宿はあった。今回敢えて変わり種の予約をした。『男子専用宿』といううたい文句がとても不思議に見えたからだ。

 

午後5時からしかチェックインできないと書かれていたが、4時半過ぎなので覗いてみると、『どうぞ』と言ってくれたので、中に入る。1階はフロント、基本的に2階に部屋がある。そこに行って、初めて男子専用の意味が分かった。部屋は一応仕切られていたが、ドアがなく、カーテンがあるだけだった。これはある意味、病院の相部屋か。勿論シャワーとトイレも共同。それでも最近料金の高い博多において3000円台で寝られるので、外国人などが多く来るらしい。まあ部屋は狭いが寝るだけなら問題なさそうだ。

 

博多駅まで歩いて戻り、地下鉄で姪浜に向かう。今晩はYさんの自宅のある方面で魚を食べる予定だった。姪浜は地下鉄の終点で、かつ福岡空港まで一本で行ける便利な駅として最近人気があるという。Yさんのご主人も出張が多いので、こちらに引っ越したらしい。始発なら座れるし、大きな荷物も持ち込める。

 

駅の周囲は昔ながらの街が残っていて、近所で買い物するのも楽しいという。しかもここには須賀神社があると言われ、一応拝みに行く。どうもあまり機能していなさそうだったが、昔からあるのだろう。それからYさんの家に行き、明後日のセミナーの打ち合わせをしながらお茶を飲む。Yさんには佐賀でお茶入れを頼んでいた。そこへ以前に何度か会ったF夫人が合流する。

 

それから3人で食事に行く。Yご主人は出張中、Fご主人は仕事で遅れるとのこと。取り敢えず漁港付近の店に行くと花金で満員盛況。新鮮な刺身が旨い。私は酒を飲まないのでそちらは女性に任せた。F夫人は近々自らのクリニックを開業するらしい。ご主人は今北九州に出勤しているようで、帰りは遅く、お開き近くにようやく間に合った。

 

帰りはまた地下鉄に揺られ、駅から薄暗い道を歩いていると雨にも降られた。宿へ帰ると、満室になっており、いびきは筒抜け、エアコンは頭を直撃してよく眠れない。これは大変な一日目になった後悔したが、その頃には眠りについていた。

ある日の台北日記2018その1(8)湾生回家、黄監督と会う

6月4日(月)
Aさんと

そろそろ日本へ行く準備をする時期になった。そこにちょうど台湾に来ているAさんから連絡があり、宿泊先の近くにある茗心坊で会いましょう、ということになった。午後2時に、と言ってところ、何とこの日は13:30-14:00に国防訓練があり、30分間は全ての通行が遮断されるため、14時半に変更となる。この訓練、もうそろそろ止めてもいいのでは、と思うのは私だけだろうか。

 

茗心坊の林さんとお茶を飲んで待っているとAさんがやって来た。彼はこの店の常連であり、林さんとも親しい。この店の中にある日本語訳の一部はAさん作成だったりもする。勿論お茶には詳しいので、林さんとはお茶談義になっている。私はボーっとお茶を飲んで聞いている。

 

林さんの編み出した独特の焙煎法、高密度焙煎で作られたお茶は、何杯でも飲むことができ、どことなく柔らかみが感じられる。そして急須から茶杯に注ぐ時に、きれいな水滴がしたたり落ちるのが凄い。皆がその鮮やかなお茶の写真を撮ろうとするが上手く撮れない。最近は取材される機会も多いと言い、中国からも来るそうだ。未来の台湾茶を考える林さんの考え方に賛同する人が徐々に増えているのだろう。

 

それから永康街まで歩いていく。MRTで2駅分だから、それほど遠い訳でもなく、二人で話しながら行くとすぐに着いてしまった。永康街は完全な観光地であり、そこにある幾つものお茶屋は、観光客向けにあるので、私のようなものが入っていくことはほぼない。だが今回連れて行ってもらった場所は、そんな喧騒から少し離れた、落ち着いたところだった。

 

店主はお茶の歴史にも詳しい、とのことだったが、ちょうど取材クルーが入っており、直接お話しする機会は得られなかった。ただここで飲ませてもらった鉄観音茶は、何だかいい感じだった。歩いて来られる場所なので、次回は是非店主にお話しを聞いてみたいと思う。

 

また歩いて茗心坊へ戻る。もう日が暮れている。林さんがご飯を食べに行こうと誘ってくれていた。タクシーで出掛ける。MRTで1駅分なので歩くのにはちょっと、ということだったのだろう。そごうのすぐ近く、テントのユニークな店で、海鮮蒸し鍋が名物だという。今台北ではこんなお店が流行っているのか、エビなどをたらふく食べて満足。ご馳走様。

 

6月5日(火)
映画監督と

明日台北を離れると3か月は戻ってこない予定だから、帰国前の最後の1日をどう過ごすか。ちょっと会って話してみたい人がいたので、連絡してみると、忙しい中、時間を作ってくれた。その人が日本でも話題となった『湾生回家』という映画を撮った黄銘正監督だった。

 

黄監督とは、『湾生回家』の出演者の誕生会で、先日台中で出会っていた。なぜか彼は私のところにやってきて、自ら挨拶してくれたので、こちらの活動を少し紹介したところ、興味を持ったようだった。会った場所は大稲埕のきれいなお茶屋さんだった。最近は1階の土産物屋だけではなく、2階にこういった茶館を併設するケースも増えているようだ。

 

黄監督は、極めて気さくな人で、思い描く映画監督とはかなり違っていた。映画を撮ることもあるが、CMや観光案内の撮影など、映像に関わることなら、何でもやっている、と率直に言う、業界人らしい若々しさもある。頭がとても柔らかい人なのだな、それは台湾的な柔らかさかもしれない。

 

私があの映画を見て最も感じてしまったこと、それは『占領者である日本人が、台湾にいい思い出があるのは理解できる(勿論子供たちに罪などないのだ)が、台湾を故郷だというのは、台湾人にとってはどうなんだろうか?』ということだった。これに対して監督は即座に『私は歴史を描くつもりはない。歴史は権力者が作るものだから。私が描きたかったものは、一人一人の人間の感情だった』ときっぱり答えてくれた。

 

そう、私などは、歴史というものに絡め捕られているだけなのかもしれない。もっと自由に考えるべきであり、いくら頭で考えても分らない真実が存在することなら、茶旅で何度も経験済みではないか。人間の望郷の念に、台湾人も日本人もない、ということだろうか。歴史を追求したい私と人間(の感情)を追求したい監督とでは、方向性は必ずしも同じではなかったが、何と結局とりとめのない話を続け、気が付いたら5時間も経っていた。監督には申し訳なく思いつつ、こういう機会が有るのが台湾だな、楽しいなと思ってしまう。

ある日の台北日記2018その1(7)日帰り埔里&歴史談義

6月1日(金)
埔里日帰り

今朝は埔里に残した荷物を引き取りに行くため、朝7時のバス、国光号に乗った。もう慣れたこのバスだが、これが最後かもしれないと思うと、ちょっと切ない。だがバスは私の思いなど気にも留めずに、極めて順調に走っていく。そして何と10時前には埔里のバスターミナルに入ってしまった。

 

今日は恒例の黄先生のサロンの日だが、少し時間が余ってしまったので、いつもの店でクラブサンドイッチを頬張ることにした。店に行くと、『久しぶり』という声すらなく、ごく普通の対応だった。クラブサンドもいつもと同様の美味さ。何ら変わらない日常がそこにあった。結局埔里から転居したことを言えずに立ち去る。

 

取り敢えず元宿泊先に立ち寄り、荷物を取りに来たことを告げたが、こちらも特に反応なし。午後2時頃取りに来ると言い残して立ち去る。横でいつものようにIさん夫妻が車で待っていてくれ、黄先生のサロンに向かう。サロンには我々とYさんが来られただけで、和やかに世間話をする。

 

11時半になるとこのメンバーで食事に出かける。私の送別会をしてくれるというので、何とも有り難い。とても送別してもらう程、埔里にはいなかったし、埔里の住人と言う感じはなかったはずなので、恐縮だがとても嬉しい。食事はホテルのビュッフェで、どんどん食べてしまい、腹が膨れた。

 

さて、午後はお世話になった図書館にでも挨拶に行こうと思ってデザートを食べていると、急に携帯が鳴る。何と葉さんからで、『急に用事が出来て出掛けるから、荷物をすぐに取りに来てほしい』というのだ。最後までこんなものだな、やはり。こちらが迷惑をかけているので、それを了承し、Iさんに送ってもらう。

 

荷物は持ち切れず、一部不要なものは残してしまった。1年半、その内の何か月かを過ごしただけなのに、十分に荷物が増えている。何とか持ち出し、大きな荷物を抱えてバスターミナルへ向かう。もう寄り道は出来ないが、予約したチケットは午後3時だ。聞いてみるとちょうど1時半のバスが来ており、空きがあるので乗ってよいという。

 

実にあっけなく埔里訪問は終了してしまい、3時間後にはきっちり台北についてしまった。大きな荷物を抱えてきたせいか、少し疲労感を覚え、横になる。夜はTさん、Sさんと西門の方で食事をした。海鮮料理屋だったが、この付近夜遅くまでやっているところがあまりないと聞いてちょっと驚いた。私の埔里からの戻りを心配して、午後8時スタートにしてもらったのだが、ちょっと申し訳なかった。それにしても夜、西門から川の方へ歩いていくのは暗い。

 

6月2日(土)
歴史談義の果てに

そろそろ今回の台湾滞在も終わりに近づいている。週末は動かないことをモットーにしているので、ごく近所の小楊の家を訪ねることにした。本当に徒歩10分以内にこんな人がいるのは望ましい。3月に劇的に再会したばかりだったが、また行ってみたくなる家なのである。

 

ここにはいいお茶が沢山あり、いい雰囲気の中で茶が飲める。それに前回発見したことだが、小楊夫妻は茶の歴史にも造詣が深い。ネットに書いてあるような歴史ではなく、意外な歴史を語ってくれたので、その辺も聞いて見たくなった。ただ今日はどの急須が良いか、という話が先行する。私は急須にはあまり興味はないが、それでもその形に惚れてしまう物もある。

 

私が台湾鉄観音茶の歴史について聞いた時だった。木柵の張家、鉄観音を持ち込んだと言われているが、小楊は『あそこの4代目は友達だから紹介してもいい』と言いながら、『だが台湾鉄観音はあそこで始まった訳ではない』ともいう。思わず、私の口癖である『それ本当か?』が飛び出した時、『俺が嘘を言うはずがないだろう』というので、『それならその歴史が書かれている文献などを教えて欲しい』と言ってしまった。

 

彼は本当に不機嫌になってしまい、会話が途絶えた。確かにその辺に書かれている歴史なら、既に発掘され、語られている可能性がある。彼が話している歴史には証拠はない、というものも多いのだが、その歴史のヒントを聞きたくて来ているのに、とんだ発言をしてしまった。

 

私はもう何年も歴史調査をしているのに、どうもやり方が上手くないな、と感じてしまうことが多い。肝心な歴史は言い伝えなどの中に潜んでいる可能性があるというのに。後悔先に立たず、彼のくれたヒントを、この先自分で探していくことにしよう。何となく気まずい雰囲気の中で帰宅する。次回ここに来る時は何らかの報告ができるようにしよう。

ある日の台北日記2018その1(6)茶商の末裔4と中央研究院

5月29日(火)
茶商の末裔4

本日もMRTで中山駅にやって来た。昨日に続き、李春生の末裔を訪ねることになった。その家は繁華街にあり、しっかりしたセキュリティーが施されていた。今日会ってくれたのは、4代目で春生を研究している人。昨日の6代目からも、『おじさんはかなりの資料を持っていると思う』と言われていた。おじさんとは言っても2代世代が違う。因みに今日は6代目の母親(5代目)も、この家にやってきて色々とサポートしてくれた。彼女と4代目が叔父、姪の関係になる訳だ。

 

その李さんの部屋に通されると、資料が山と積まれており、確かに様々な資料を集めていた。ただやはり清朝時代の茶業については、殆ど資料がないという。それでもジョン・ドッドの子孫が訪ねてきたことや、『烏龍茶』という言葉が春生の発案(台湾語発音)で商品名として使われ、台湾茶の輸出に大いに貢献した話などが出た。

 

 

 

また自らも大稲埕の大邸宅で生まれ、育ったというから、光復後ぐらいまでは、川沿いの邸宅は現存していたことになる。古い写真や地図も保存されており、李家に関する資料はかなり集まっている感じだ。勿論台湾には李春生の研究者は何人もいるだろうから、そういう人々と交流する中で、資料が出てくることもあるようだ。

 

更には春生後の李家についても、いくつか話しが出ていた。中でも日本に渡った人々がおり、保険会社を興したことなど、全く知らない歴史を見ることができた。その子孫は今でも横浜在住だといい、今度訪ねに行くそうだ。歴史をやっていくと自ずと現代に繋がっていくわけだ。

 

取り敢えず、茶商の末裔調査はここまでとして、この日の午後から翌日までは台湾緑茶の歴史の原稿の締めに追われ、それに集中していた。この調査も予想以上に困難なものであり、最後までどうしてよいか迷うことが多かったが、何とか日本統治時代の緑茶について書き上げて、提出した。

 

5月31日(木)
中央研究院へ

5月最後の日、トミーに迎えに来てもらい、南港にある中央研究院へ向かった。中央研究院は台湾のシンクタンクであり、各種研究が行われている場所。台湾茶の歴史を調べるにあたっても、一度は訪れてみたい場所だった。何とトミーのお姉さんが昔ここで働いていたというご縁で、彼女もやってきて、サポートしてくれた。誠に有り難い。

 

中央研究院にはいくつもの研究所があり、事前にどこへ行くか決めないと、ビルも分れているので厄介だった。今回は取り敢えず台湾史の関係のところへ行ったが、その広い敷地に入る時も、ビルに入る時も、何のチェックもなかった(車で入る時は免許証の提示はあった)のには、ちょっと驚いた。そして事前に外国人が行ってもよいか確認してもらった時も『むしろ外国人が研究院に関心を持ってくれていることは良いことだから、歓迎する』と言われたそうだから、そのハードルは思ったより低かった。

 

そのフロアーを歩いていると、研究室の名前に何人も見覚えがあった。そう、ここの先生が研究して、その成果を発表した論文を参照することが如何に多いか、ということを感じた瞬間だった。更には廊下に展示された出版物にも即座に反応してしまい、受付に行った時、まずはその本が買えるかと聞いてしまう程、魅力的なものがあった。ここはやはり宝の山かもしれない。

 

スタッフも親切にその機能を教えてくれ、PCで一つ一つ検索していったところ、かなり貴重な写真などを見つけることができた。台湾史における資料は、まずはここに集まってくるのだと分かる。懸命にPC検索を行っていると、あっという間に昼ご飯の時間になってしまった。

 

お昼は研究院内の食堂が工事中とのことで、トミー姉の知り合いの先生に連れられて南港の山の方にあるレストランへ行った。ここはレストランだが、茶農家がやっており、お茶も飲めるようになっている。美味しい料理を厨房で作っていたここのオーナーとトミーは何と知り合いだと分かり、また盛り上がる。本当にお茶の世界は狭い。今度はゆっくりお茶を飲みに来よう。

 

午後も又研究院に戻り、ひたすらPCに向かい、検索を重ねる。三好徳三郎と辻利について、台南の茶荘の話などが見られ、面白い。また出版書籍の中に、蜜香茶で有名になった粘一族の変遷を日本人研究者が日本語で書いたものを発見し、思わず購入。周囲から変わった日本人だと見られてしまう。尚郭春秧と関係した堤林数衛の本も出版されていたが、残念ながら品切れで買えず。インドネシア茶の歴史も面白い。

 

ある日の台北日記2018その1(5)茶商の末裔3

5月28日(月)
茶商の末裔3

土日は基本的にゆっくり休むつもりだった。埔里では観光客にバスを占拠されるとの理由があったが、台北では特に理由はなかった。ただ図書館に行けば勉強できるので、フラフラっと、行ってしまう。行ってしまえば、調べたいことはいくらでもあるので、結局6時間もの間、図書館のPCと睨めっこを続けた。それほど寒いとは思っていなかったが、気が付けば体がかじかんでおり、何となく疲れてしまった。それでも週明けの準備も始める。茶商公会から紹介された茶商の末裔に連絡を取る。ある末裔は上海におり、微信でやり取りをした。

 

そんな中、あの日本統治時代初期には既に台湾一の富豪とも言われた李春生の子孫にも連絡が付いた。今日は彼のいる東呉大学を訪問することになっていた。この大学の名前は何度も聞いていたが、どこにあるのかさえ知らなかった。MRTに乗り士林駅で降りる。そこから指示されたバスに乗ると、大学近くまで行けた。

 

大学はそれほど広くはないが、かなり落ち着いた場所にあった。実は本日会う人とは電話で話してはいたが、彼がどんな人で、ここで何をしているのかは全く確認せずにやってきてしまっていた。迎えに来てくれたその人は若い。何とここの学生、この秋から大学院に進むという若者だった。

 

だが彼は只者ではない。あの台湾烏龍茶の父とも呼ばれる大富豪、李春生の末裔で6代目だった。更には李春生の研究で論文を書いており、研究の道に進んでいる人でもあった。研究室で話を聞くと、李春生にとって茶業はごく一部であり、その事業の幅広さ、そして思想家、哲学者、キリスト教徒としての李にスポットが当たっていることが分かる。

 

正直私が知りたい茶業についての資料は多くない、と李君は言う。1860年代にイギリス商人、ジョン・ドッドと始めた茶の輸出、その後台湾茶のかなりを仕切るようになり、財を成したはずだが、なぜその資料はないのだろうか。大稲埕の開発や鉄道敷設などもっと大きなビジネスが沢山あったからだろうか。この点は今のところ、どこを見てもはっきり書かれたものはない。不思議だ。

 

李君によれば、今年は李春生生誕180周年であり、先般その末裔が一堂に会して、周年行事が教会で執り行われたという。そこに集まった末裔は約180名(欠席者も同数はいるとか)。その多くがキリスト教徒で、世界中に散らばっているらしい。李君はそこで春生の略歴を紹介したというから、既に子孫にとっても春生は歴史上の人物となっている。

 

折角士林に来たので、帰りのバスを途中で降りて、蒋介石と宋美齢が住んだという士林官邸にも行ってみた。南国風の木々が生い茂り、多くの花が咲く広大な庭園(周囲の開発が制限されていたので自然環境が素晴らしい)の中を歩いて行ったが、何と今日は月曜日で、官邸は閉鎖されていた、残念。

 

それから駅まで歩いていき、更に駅の反対側を線路沿いに歩く。ついでと言っては何だが、郭元益の博物館にも行ってみることにしたのだ。ここはあの埔里の東邦紅茶の郭家と縁戚関係にあるという。確かに創業者、郭少三氏の叔父、郭邦光は士林の茶業公会を立ち上げた人だった。士林の郭家は名家であり、郭少三の妹が台湾の5大財閥、基隆の顔家に嫁ぎ、そこが一青妙・窈姉妹のルーツになっていることは前に書いた。

 

博物館は郭元益ビルの中にあったが、見学者はおらず、鍵を開けてもらって中に入った。別の階ではお菓子の製造体験会などが開かれ、ここはお茶屋ではなく、お菓子屋なのだと改めて意識する。そして展示物の中にもお茶や東邦紅茶に関連するものは見いだせず、残念な思いで去る。

 

その後大稲埕に行く。今日は先日お会いした王添灯氏の末裔、黄さんの紹介で、添灯の兄、水柳氏の娘さんに引き合わせてもらった。添灯は戦前の茶商、そして二二八事件で有名になった(今回はこの事件の生々しい話も聞く)が、戦後の台湾茶業界では兄の水柳と弟の進益の両氏が活躍していたのだ。水柳は茶商工会の理事長、弟は総幹事を長く勤めている。

 

お会いした場所は茶商工会のすぐ近くにある立派なオフィス兼住宅ビル。茶業は1982年の茶業管理条例廃止により輸出に終止符が打たれて辞めてしまったというが、不動産業などで財を為している感じだった。最近は昔の茶を復活させようと、六合香茶と言うブランドで茶作りを再開しているという。

 

そして夜、またMRTに乗り、芝山駅へ向かった。香港時代からの知り合いであるH夫妻と久しぶりに会うことになっていたのだ。場所は数年前に一度訪れたことのあるお茶屋さん。そこでは食事ができ、美味しい夕飯をご馳走になった。生まれたばかりの頃から会っているお嬢ちゃんもどんどん大きくなり、英語など話している姿は頼もしい。Hさんもこれから新たなステージに入るようで、楽しみだ。

ある日の台北日記2018その1(4)茶商の末裔2と炒飯

5月24日(木)
茶商の末裔2

お昼に大学の後輩、Sさんと会うために出掛けた。国父紀念館近くをちょっと歩くと、何と日本の本屋ジュンク堂があるではないか。それにしても目立たない場所にひっそりとあるな、と言う感じだ。中に入ると日本語の本も一杯売っていたが、残念ながらお客は殆どいなかった。それから飲茶屋に行き、Sさんと会い、とりとめのない話をして過ごす。

 

その後、一昨日行ったばかりのニニ八紀念館を再訪した。実は一昨日紀念館にいた人から、王添灯氏の末裔の方を紹介され、連絡を取ったところ、紀念館で会いましょう、ということになり、やってきたわけだ。その女性、黄さんは音楽家で、王氏の孫に当たるという。黄さんは王添灯氏の奥さん、黄氏の系譜らしいが、そこは台湾、複雑に閨閥が絡み合い、私などが一度聞いても理解できるものではない。

 

そしてこの紀念館の立ち上げに尽力され、資料提供など様々な援助をしてきた。というか、この二二八和平公園の敷地内には、黄氏の牌楼があるなど、そもそもこの地にゆかりが深いらしい。よく分からないが、この紀念館自体が、王氏と黄氏の支援によってできたのかもしれない。何しろ館内には、二二八事件の犠牲者の中で唯一、王添灯氏の像があるのだから。

 

黄さんからは、子供の頃に聞いた王添灯氏の話は勿論、その兄水柳氏、弟進益氏など、光復後も台湾茶業会で活躍した一族の話が多く出てきた。そしてその子孫もいるので紹介してくれるという。台湾において添灯氏は、二二八事件の犠牲者、という側面で語られるのみだが、日本時代の満州への茶の輸出などで大いに成功しており、進益氏は長い間大連で商売していたという。実に興味深い話なので、是非一度まとめてみたいと考える。

 

同時に黄さんの実家、黄家の方も、王氏と同じ新店付近の出であり、祖父が丁稚からのたたき上げで有名な日本企業の台湾社長をするなど、なかなかユニークな経歴になっているようだ。こちらは日本企業も含めて、何か繋げられないかと模索を始めることになった。台湾には日本時代の様々な遺品が残っており、これらをどうするのかも、意外と難しい課題だと知る。

 

5月25日(金)
懐かしの炒飯

埔里と違い、台北にいると、実に様々な歴史的な情報が入ってきて、そして実際に関係者、その末裔などに会えるケースもあり、かなり忙しい毎日になっている。資料をもらい、それを読み込むだけでも相当に時間がかかっている。まるで研究者のようだ、と勝手なことを思ってみるが、真似事に過ぎず、その調査の深さは遥かに及ばない。

 

今日はそんな作業を続けていき、夕方に出掛ける。シェフのSさんと夕飯を食べることになっていた。Sさんとは、先日烏山頭ダムに一緒に行ったばかりだが、台湾料理の成り立ちなど、興味深いテーマで話が弾み、また会って話すことになった。こういう繋がりは実に貴重だ。

 

Sさんに何が食べたいかと聞くと、『以前Yさんが食べたという炒飯が食べたい』と言われたが、何のことだか分からなかった。もう一度聞いてみると、何と4年も前に私とYさんが初めて会った時に行った四川料理屋の炒飯のことだと分かった。Yさんから話を聞いていたSさんは、是非一度食べてみたいと思っていたというから、その記憶力は凄い。私はそんなことはすっかり忘れてしまっていた。

 

その四川料理屋は台北駅前にあり、行ってみると幸いまだ営業していた。早めに行ったので席はあったが、6時を過ぎるとどんどん客が来て、すぐに席は埋まってしまった。人気店だったのだが、私はその後1度来たきりだった。やはりあまり食に興味がない人間だ、ということだろう。

 

メニューを見ると四川料理だから回鍋肉や麻婆豆腐などはあるのだが、肝心の炒飯はない。おばさんが『白飯食べるか』と聞いてきたのを断り、『炒飯あるか?』と聞いたところで、思い出した。4年前も全く同じ会話をしたのだ。Yさんにはちょっと面白いところがあり、ない、と言っても食べたいという人なのだ。そして聞いてみると『メニューにはないけどあるよ』という答えをもらえるタイプの人なのだ。

 

YさんがSさんに炒飯の話をしたのだから、よほど美味しかったか、何かが印象に残ったか、そして料理人であるSさんがそれを覚えている、Yさんの舌を信じている、ということだろう。ここの裏メニュー炒飯は色がいい。Sさんは一口食べると『これはラードですね』とその秘訣を解き明かす。そうか、ラードは美味しいのか。そんなことは全く知らない私にとってはいい勉強になる。

 

まだ時間も早かったので、場所を移して話すことにした。Sさんが行ってみたい場所があるというので、向かった先は台北駅の地下。そこにあったのはUCCの喫茶室。ちょっと居心地のよさそうな空間、金曜日の夜は、充電なども出来るので若者で満員だった。メニューを不思議なものがあり、和三蜜糖ミルク紅茶、というのを頼んでみる。甘さも適度で意外とイケる感じだ。Sさんとは色々と話が盛り上がるので、いつの間にか10時を過ぎ、閉店までいてしまった。

ある日の台北日記2018その1(3)大稲埕 茶商の末裔

5月23日(水)
大稲埕 茶商の末裔

4月に訪れた大稲埕の福記。前回は王泰友氏の息子が留守だったので、もう一度訪ねることにして、アポを入れた。大稲埕は今は正直不便なところ。MRTの駅からも遠く、バスもすぐ近くまで行ってはくれない。仕方なく、今日も中山駅から歩いて向かう。圓環の先まで行くと、天馬茶房と書かれたビルがあり、この付近で二二八事件の発端が起こったとの碑がある。昨日相当事件について勉強したので、思わず足を止めた。

 

延平北路を北に向かう。この辺りは日本時代に台湾民主化運動などの拠点があったところ。往時の展示がある場所にちょっと寄り道。色々な展示があるのに、私が注目してしまうのはお茶関連ばかり。どう見ても、これはちょっとまずい状況だと言えるが、それだけ集中して一つのことをやろうとしている表れと、いいように解釈しよう。更に歩いていくと、労働部、という比較的新しい建物があった。ここは日本時代初期、郭春秧の錦茂茶行があった場所らしいが、残念ながらその痕跡は全く発見できない。

 

福記に行くと、王泰友氏の息子、平雄氏が待っていてくれた。前回訪問時に色々と教えてくれた彼の奥さんと息子さんは、お客対応に追われていた。王さんから、彼が子供の頃の話、比較的最近の話などを数多く伺った。何しろ泰友氏は100歳まで生きたので、未だ亡くなって10年ぐらいしか経っていない。しかもその奥様は、100歳で元気なのだから、何とも歴史が近い。泰友氏が包布球法を教えた場所、人名などが細かく出てくる。晩年まで、四両の茶葉を紙で包んでいたともいう。

 

福記を辞して、そのまま茶商公会に向かう。ここも7年前に訪問した記憶はあるが、その後完全にご無沙汰していた。中に入ると、やはり色々と資料があり、総幹事から説明を聞く。徐英祥先生が纏められた茶商公会の日本時代の本もある。日本時代の冊子も残っている。古い茶缶も展示されている。当方が台湾茶の歴史を勉強しているというと、何人かの茶商の末裔を紹介してくれた。

 

ここには当然ながら、様々な情報が集まってくるのだが、如何せん日本統治時代の資料には乏しいと、総幹事は言う。それでその末裔を訪ねて、少しでも参考になるのか、トライしてみることになる。因みに昨日急に調べ始めた王添灯氏、弟は90歳過ぎまでここの総幹事をしていたし、兄は光復後も大きな茶商であったと聞き、驚く。また台湾烏龍茶の輸出の初期に大いに関わった買弁、李春生の子孫も沢山いるという話だった。ちょっとワクワクして、連絡先を聞く。

 

それからちょっとフラフラする。大稲埕公園はきれいなところだが、このあたりから大稲埕が開発されたと紀念碑に書かれている。開発したのは先ほども出てきた李春生と板橋の林家。公園の周囲には、まだ古い家が残っており、少しだけ往時を偲ばせるが、その向こうは乾物屋や薬局などが立ち並ぶ観光地になっており、日本人も沢山歩いている。その先に埠頭がある。

 

ゆっくり夕方の散策をしてから、歩いて中山北路まで戻る。それほど暑くないので、歩けてしまう。夜はSさんに誘われて、台北で唯一?の沖縄料理屋に行ってみる。料理は定番が並んでいたが、雰囲気はちょっと沖縄的。働いていた女性も沖縄から来たという。昔香港に住んでいた時、よく行った沖縄料理屋をふと思い出す。私は泡盛のシークワサー割だけをごくごく飲んでいた記憶がある。

 

台湾と沖縄の関係、それは日本と台湾の関係よりかなり濃密なはずである。距離的な近さだけでなく、文化的、歴史的な部分が格段に近い。沖縄料理を台北で食べながら、どうしても、この2つの地域の悲哀、日本統治時代の競争関係などに思いが至ってしまう。特に戦後の混乱期、同じ日本の領土であった2つの地域が、1つは国民党、1つはアメリカに占領され、その中で茶を含めた物資の貿易が行われていたことなど、なかなか表に浮かび上がってこないのだ。お客さんも少なく、何となく寂しい夜だった。

ある日の台北日記2018その1(2)圓山と二二八事件

5月21日(月)
台湾大学

今度の宿泊先は台湾大学に結構近い。歩いて20分はかからないので、昼時にテクテク歩き出す。ちょうど大きな通りから少し入った場所に麺屋の看板が見えたので、入ってみた。ランチを食べる人で混んでいたが、何とか席を確保する。やはり目に付くのは牛肉麺、初めての店ではどうしてもこれを注文してしまう。麺がしっかりしていて、牛肉もチャンとのっかっており、満足。

 

それから台湾大学の裏門からキャンパスに入る。今日は何となく散歩したい気分で、前回も見た蓬莱米発祥の地が気になってしまい、その推進者であった磯永吉博士を説明する看板を見ているうちに、もっと知りたくなってしまった。ネット検索すると台湾大学内には磯永吉記念館が設置されているというので探してみたが、古い建物はあるものの、なぜか農学部周辺では見付けることが出来なかった。

 

仕方なくいつものように大学図書館に入り、資料を探すことにした。ここも一度登録してしまえば、パスポート持参で簡単に入ることができる。古い資料を見るには更に手続きがいるのだが、ここには寄贈本も沢山あり、探せばきりがないほどだった。時間の限り、本を探すが、一つを読みだすときりがない。一部をコピーして退散する。

 

5月22日(火)
台北歴史散歩 圓山から二二八事件

翌日は圓山へ向かう。実は昨晩資料を漁っていたら、茶商公会に興味を持ってしまった。1915年に改組された公会の理事長は陳朝駿という人だったが、この人がどんな歴史を辿ったのか、なかなか資料が見付からなかった。すると、圓山駅の横には2010年に開かれた花博の跡地があり、その向こうに台北故事館という建物があることが分かった。そしてそこがなんと陳朝駿の別荘だというので、早々に行ってみることにしたわけだ。

 

MRT圓山駅を降りると、日差しはかなり強かった。これは歩くのは大変だと直感したが、周囲に遮るものはない。花博会場を横目に、広場を歩いていく。広場を越えて大きな道路を地下道で渡り、何とか出てきたところに、その建物は忽然と現れた。何とも台湾には似合わない洋風な、小さな館。別荘という程広くはない。

 

入場料を払って中に入ると、1階に陳朝駿に関する簡単な説明があり、ここが往時外国商人などを招いてパーティーや商談をした、いわゆるゲストハウスだったことが分かった。ただ彼が南洋華僑で、財を為した人物だとは分ったが、茶葉貿易についてはほとんど触れられてはなかった。

 

入口の人に聞いてみたが、詳しいことは分からない、むしろ公会の方が知っているだろうという、堂々巡りな話だった。2階はチャイナドレスの展示が行われており、陳氏とは関係なかったが、昨今チーパオも流行りだということで、その歴史的な変遷を見た。それが終わると何か資料が売っていないか見て回り、昔の地図を購入して、見学は終了した。

 

圓山駅に戻る途中、広場の端から登る所が見え、ちょっと寄り道した。そこには昔の石灯篭があり、ちょっとした日本時代の建物が残されていた。そうか、ここは台湾神社の一角だったのだ。台湾神社と言えば、今の圓山大飯店の場所に建てられていたということだが、その敷地は広かったのかもしれない。意外なところに意外なものがあるものだ。

 

更に進むと寺が見えてくる。臨済護国禅寺、この寺もいかにも日本的だな、と眺めていると、説明書きに日本統治時代初期に児玉源太郎が僧侶を招聘して建てたとある。台湾に残る日本時代の木造寺院、この寺はどんな変遷を経て、今日に至ったのだろうか。柱や廊下に日本が見え隠れする。

 

MRTに乗り、台大医院駅で下車。二二八和平公園に入る。ここには台北二二八紀念館がある。1947年に起こったこの事件、実は関係者の一人に茶商がいた、と聞いたので、何か展示されていないか、見に来たのだ。紀念館の建物も古いなと思っていたら、ガイドブックには旧NHK台北支局、と書かれている。

 

中に入ると、かなり充実した展示になっており、二二八事件がまだそう遠くない歴史なのだと分かる。私が探した人物、王添灯氏は、何と事件発生後に、国民党政府と折衝した際のリーダーであり、拘束されて、生死すら分からなくなってしまった人であった。王氏は日本統治時代、満州へ茶葉を売り、商売を大きくしていったが、その一方で民主化活動などもしており、実に興味深い人物だった。

 

紀念館の人に、王添灯氏についてもっと知りたいのだが、というと、紀念館の出した本を勧めてくれ、更には王氏の子孫の方までご紹介頂いてしまった。驚くような展開ではあるが、これもまた茶縁だろうか。王氏一族について、そしてその茶業について、これから勉強してみたい。

 

二二八事件に関する紀念館は実はもう一つあった。折角なので、そこにも行ってみようと思い、またMRTに乗り、中正紀念堂で降りて歩く。今日はよく歩いたなあ。もう日が西に傾いている。総督府の昔の建物が二二八国家紀念館になっていた。非常に立派な建物だったが、展示物は先ほどよりは多くはなく、いやかなり広い範囲をカバーしている、と言う感じだった。ここで出されている関連本を買いたかったが、既に売切れだった。それでも今日一日で事件についてはかなり理解が深まった。