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山形・新潟旅2024(6)高崎経由で東京へ

そこから宿の方へ戻り、午後は図書館で調べ物をしようと思ったが、何と休館日。酒田もそうだが、とにかく休館日が全国余りにバラバラなので、何とかしてもらいたい気持ちになる(酒田の恨みあり?)。事前に検索してから行け、というお言葉ももらったが、研究者でもない私の旅からしてそういうのは似合わない、と思う。

一旦宿に帰って疲れを癒す。今晩は何を食べようかと考えたが、何だかフラフラともう一度バスターミナルへ行ってしまい、今日はイカ天そばの気分で食べる。よく分からないが、何だかこれでスッキリした。もう思い残すことはない。そして夜はダラダラして、いつのまにか寝る。

7月13日(土)高崎経由で東京へ

今日は高崎にでも泊まろうかと考えていたが、東京へ帰ることにした。三連休に入り、何だか宿も高い。取り敢えずチェックアウト時間ギリギリまで部屋でダラダラしていた。それから近所にある会津八一記念館に向かった。お知り合いのI先生がFBでここの特別展示についてアップしており、是非見に行きたいと思っていた。

ビルの5階はひっそりしていた。入場料を払い『(富岡)鉄斎・八一の文人世界』という展示を見た。両者とも名前だけは知っているが、実はよくは知らない。先日早稲田で会津八一記念館を見学したばかりだったので、何となくご縁を感じた部分がある。それにしても富岡鉄斎、もう少しきちんと見ておくべきだった。私は以前煎茶道など文人茶について簡単に調べたことはあるが、頼山陽や田能村竹田など幕末には目が行ったが、明治以降は見ていなかった。いい物を見学した。I先生、有り難い。

それから荷物を引き取り駅へ行く。新潟から新幹線で東京まで帰れば楽だが、それではつまらない。と言って各駅停車だと高崎まで行くにも2回乗り換えて5時間近くかかってしまう。仕方なく高崎まで新幹線で行き、その先は湘南新宿ラインで帰ることにした。新幹線は前日予約しており、新潟駅からスムーズに乗車。1時間ほど窓の外を眺めていると、いつの間にか高崎に着いてしまった。

そこで立ち食いそばを食べようとキョロキョロすると、何と店はホームにはなく(以前はあったと思うが)、新幹線と在来線の改札を跨いで営業していた。どちらからでも入れる。肉そばを頬張ったが、特に特徴はない。駅構内にはぐんまちゃんや高崎ダルマが置かれており、こちらは地域色が出ていた。

そこから湘南新宿ラインに乗るが、何だか始発なのに遅れている。確かこの路線、遅れが目立つ。それでも何とか発車して、無事新宿まで戻ってきた。家に夕飯はないようなので、午後4時台に駅近くのそば屋に入った。ここは先日久しぶりに食べて美味しいと感じたので再訪したのだが、何と中国人観光客とみられるグループが荷物を席に置き、食べ終わっても退かないなど、他人の迷惑を考えない行動をしていた。

店員もあきれ顔。食べるスペースがない私は、既に買ってあった券を思わず『キャンセル』した。そして駅に戻り、駅地下の10割そば屋に入ってみる。こちらも気になっていたのだが、初めて入る。午後4時台でもやはり混んでいるが、なんとか席を確保。ここのそばは美味い。怪我の功名というのだろうか。ここ2₋3日ずっとそばを食べ続けていたそば旅はここで終了した。

山形・新潟旅2024(5)バスターミナルで立ち食いそばとカレー

今日のアパホテルはかなりでっかい。リゾートと名が付けられており、有料ながらプールやジムなどが併設されていた。大浴場は無料で入れてとても気持ちが良い。実は周囲にアポホテルは3軒あるが、ここは他と差別化しており、団体客などを多く入れている。企業研修などでも使われているようで、フロントも大きい。

取り敢えず外へ出た。宿から直ぐ近くにある万代バスターミナルへ向かう。今回新潟に寄ったのは、ここで立ち食いそばとカレーを食べることだけが目的だった。バスターミナルは簡単に見つかると思っていたが、意外と手間取った。そしてようやく中に入っていくと、既にカレーのいいにおいがしてくる。

券売機まで行き、何を食べようか迷っていると(実はカレーとそばのセットはあると思っていたらなかった)、後ろに何人も並んできたので、順番を譲り考えた。しかし考え付かずに、ついにカレーとかき揚げそばを注文する。既に大勢の人が立って食べており、なんとか場所を確保する。

カレーは黄色くて甘口かと見えたが、食べた後少し辛さが来るとてもいい感じ。そばは順当に旨い。それにしても、これを両方食べている人などいない。多くはカレーだけを食べている(まだ午後5時だからおやつ替わりか)。私は部活帰りの高校生並みの食べ方をしており、食べ終わる頃には、腹がはち切れそうだった。まあ、かなり満足して去る。

そのまま駅前まで歩くと、途中に居酒屋や食堂が一杯あった。中には9年前に連れてきてもらったヘギそば屋も見付けた。ここでも食べたい衝動にかられたが、私は既に満足しており、コンビニでドリンクを買っていそいそと宿に帰り、テレビを見ながら夢見心地となった。

7月12日(金)新潟散歩

朝はゆっくりと起動する。雨もないようなので、散歩に出ると気持ちが良い。川を渡り、古町を歩く。この辺、古い建物がいくつもあり、また歴史的な場所にもなっていて興味深い。新潟大神宮には坂口安吾生誕碑などもある。この辺から急に日本海が見たくなり、護国神社に向かう。

神社周辺を一回りすると、海が見えてきた。特に海水浴など出来そうな場所でもなく、人影もない。なぜだかこんな海が見たかった。そこから少し入ると記念碑や像などがいくつかあった。興味深いのは、ここ新潟は元々長岡藩領だったが、幕末に幕府直轄領になっていたこと。この辺の真相はどうなのか。初代新潟奉行、川村修就は海防に務めたと書かれており、異国船対策などを担っていたようだ。

ふと思い立ち、新潟歴史博物館まで歩いてみた。かなりの距離があり、途中には古民家が見られた。博物館自体は頑丈な建物で、新潟の港をにらんでいる。『淳足柵』という言葉が妙に心に引っかかる。新潟県令楠本正隆という名前も久しぶりに出てきた。やはりたまには博物館に来ないと思い出せない歴史がある。

何故か9年前に渡った佐渡が恋しくなり、フェリー乗り場まで行ってみたくなる。対岸に見えるのだが、歩くと30分近くかかる。何とか歩きぬくとそこには食堂がある。そして9年前に気になっていたブリかつ丼があるはずだったが、そのメニューは既に無くなっていてガッカリ。仕方なく食べたタレかつ丼とざるそばのセット、意外とおいしい。横はフェリーの乗船場。佐渡へもう一度行きたくなる。

山形・新潟旅2024(4)鶴岡を散歩する

7月11日(木)鶴岡から新潟へ

翌朝起きてみると天気が良かった。昨晩の大盛りのお陰で食欲もなく、ただ歩きだした。鶴ケ岡城を目指す。鶴岡は歩きやすい、穏やかな街だった。商店街には三井家の蔵座敷が残されていた。街中にはきれいな庭を持つ寺社などもあったが、とりわけ目を引いたのが、教会だった。

1903年にフランス人神父により建てられたらしい。このカトリック教会を建てたのは日本人大工だという。完全な和洋折衷で、教会内に入ると、ステンドグラスなど洋風教会のそれに、畳が敷かれていて面白い。入口の門は武家屋敷のそれであり、横には現在幼稚園が併設されている。

更に歩くと、西郷隆盛碑がある。戊辰戦争で最後まで抵抗した庄内藩に寛大な措置を取ったと言われる西郷。庄内の人々はその対応に感激して西郷を師と仰ぎ、鹿児島まで教えを請いに行ったらしい。まあ各地に残る西郷伝説の一つかもしれないが、こういう話が庄内にはよく似合っている。

庄内藩校致道館に行く。ここは資料館のようになっており、庄内藩関連の歴史的展示が多い。徳川四天王の一人、酒井忠次の流れを汲む庄内藩は江戸時代も異彩を放っており、幕府から国替えを命じられても、領民がそれを阻止した。幕末庄内藩の英雄、酒井玄番や先ほどの西郷の話も展示されている。官軍黒田清隆に藩主がここで降伏したという部屋もある。

鶴ケ岡城跡には、庄内神社、藤沢周平記念館、大宝館などが残されている。この大宝館では、鶴岡ゆかりの人物についての展示があり、興味深い。致道博物館も城脇にあり、その偽洋風建物が目立っている。天気が良いので足がどんどん進む。午前中かけて鶴岡の旧市街地を歩き疲れる。

駅まで戻り、昼ご飯を食べようと思ったが、ラーメン屋ぐらいしか見つからない。地方都市は郊外に車で食べに行くので、駅前は本当に寂しい。そんな中、小さな食事処を見付ける。入ってみると狭い店内は地元民で溢れていた。ここが憩いの場という感じだ。刺身定食を頼むと分厚いさしみがやってきて嬉しい。なんだか味噌汁がやけに美味い。

駅で乗車券を買って、時間に余裕があったので各停に乗り込む。少し進むと日本海が見えてくる。今日は天気が良いのでのどかな風景だが、冬の海の荒い日などは大変な風景になるのだろう。途中までいた乗客はほぼ降りてしまい、寂しい車内でただただ外を見て過ごす。

1時間半ほどで終点の村上に着く。すでに新潟県に入っている。村上も9年前に来たきりで、降りてみたい衝動にかられたが、何となく新潟を目指して先に進んでしまった。村上茶は商業上は日本北限茶であるし、その歴史も興味深い。今度は高校生の下校時間と重なり、人が増えている。ふと窓の外を見ると、三幸製菓の工場があった。私はここのせんべいが好きでいつも食べているのだが、確か工場では不幸な事故があったはずだ。

1時間20分ほど電車に揺られた。新潟が近づくにつれて乗客が増えていく。そして新潟駅で降りると大都会に来たような気分になる。開業120周年で現在工事中の駅前から今日予約した宿を探したら、大通りの向こうの方に既に見えている。だが歩くとなかなか辿り着かない。おまけに歩道橋を使うなど、荷物が多い人間にはちょっと苦痛。

山形・新潟旅2024(3)酒田から鶴岡へ

雨は止んでいたので街散歩に出た。図書館を探していると、お寺があった。何気なく入るとそこに『徳尼公廟』と書かれており、中に『三十六人衆之碑』があった。何と奥州平泉を頼朝が征服した際、藤原秀衡の妹?がお供と共にここに流れ着いたとある。泉流寺とはそういうことか。

その横に酒田市文化資料館の建物があった。色々な展示物もあるようだったが、折角なので本間家と茶というテーマで資料はないか、聞いてみたが、残念ながら見いだせなかった。本当に本間家を研究している人はいないのだろうか。本間家の資料などを保存している光丘文庫もここにあると書かれているのだが。北前船と茶、というのでも、何も出て来ない。

ランチの時間になった。適当にホルモンと書かれた店に飛び込んだら、まさかの満員御礼。店主がワンオペで手が回らず、多くがセルフサービスの店。でもさすが日本人、皆きれいに片付けて帰っていく。私はご飯を自分でよそおうとしたが、何と蓋が開けられず、後ろのおばさんに笑われる。もつ煮込み、かなり濃厚。皆鉄板焼きを食べているよ。

駅前まで戻ると電車の時間までちょうど1時間。駅前にあるミライニという施設の中に図書館があるので、そこで時間をつぶそうかと思ったら、まさかの休館日。ちょうど観光案内所があったので、近所の穴場を聞いたところ案内されたのが、清亀園という邸宅。ここまで駅から徒歩10分。

何とも優雅な庭園だったが、誰もいない、まさに穴場。古い建物も残っている週末だけ一般公開があるのか、ひっそりしている。この周辺は古い地区らしく、お寺などもちょっと面白い。ちょうど1時間でよい散策が出来て良かった。Google検索では出て来ないよな、こういう場所。

駅には羽越本線100周年と書かれていた。開運で栄えた街に鉄道が通るには随分と時間が掛かったらしい。2両列車に乗り込むと、田んぼが広がっている。車内も何だか広々としていて、乗客は少ない。僅か30分で鶴岡に到着する。駅前は閑散としていて、寂しい。取り敢えず駅前ホテルに投宿する。

それから隣のビルにあった観光案内所で地図を貰い、説明を受ける。羽黒山も有名だが、今回は行かないこととして、今日は近場だけ回ることにした。やはりいつ雨に見舞われるか分からないので仕方がない。ちょっと歩きだすと、昔の商店街が見えるが、残念ながら開いている店は多くない。『おくりびと』という映画はここが舞台だったか。

日枝神社まで来ると芭蕉の句碑があった。奥の細道は、先日大垣を訪ねたばかりだったのでちょっと新鮮。そのまま釣られるように、芭蕉が船に乗った内川の乗り場や逗留した長山重行宅跡へも行ってみる。今や何もない場所に記念碑が建っているだけだが、もう一度奥の細道を読み返そうと思う。藤沢周平ゆかりの地という看板もある。

夕方腹が減ったので、もう一度外出する。検索しておいた近くの定食屋へ行こうとすると、何と道を渡る中で、車と接触してしまう。幸いほぼスピードが出ていなかったので、驚いただけだったが、もっと驚いたのは運転していた若い女性だったかもしれない。お爺ちゃん、危ないよ。

何とその定食屋は水曜日定休だった。Googleにはそんなこと書いてなかった、と言ってみ仕方がない。こわごわもう一度検索すると、ここから徒歩10分のところに評判の良さそうな店が見付かり、歩き出す(よく考えてみれば宿から反対側なので帰りが大変だ)。着いた店の名は『定食家』だった。

もつ煮込みが名物らしいが、昼も食べたばかりなので断念して定番かつ丼へ。味噌汁はお替り自由らしい。しかし出てきたかつ丼を見て驚いた。これは通常の1.5倍以上はありそうだ。もう味噌汁のお替りなど考えずに、ひたすら掻き込んだ。味は悪くなかった。そういえば田舎で800円といえば、確かにボリューム満点と考えるべきだった。帰りは歩いて20分だったが、腹が重くて歩行が緩やかで困る。まあこれなら車に轢かれることはない。

山形・新潟旅2024(2)本間美術館

休憩後、夕飯をどうするか悩む。雨は強く降っている。近くのラーメン屋に駆け込もうかと考えたが、一応検索してみると、『とんや』という店名が目に入る。外へ出るとなんと雨は奇跡的に止んでいたので、その店に向かったら、何とそこは平田牧場の本社だった。平田牧場といえば、前回山形市に行った際、駅ビルの店舗で600円のとんかつ定食(タイムセールで半額)を食べ、その品質に感じ入っていた。なぜ私がこんなところに宿を取ったのか、が何となくわかった気がする。

店舗内は広々しており、お客は雨のせいか多くはなかった。メニューを貰うと創業60周年とある。酒田代表する有名企業なのだ。ロースカツとランプカツのセットが400円引きになっているので思わず注文する。さすが創業60年、とろけるようないいお味だった。帰りも雨には降られなかった。よし!

7月10日(水)酒田から鶴岡へ

あれから一晩中、雨が降ったらしい。そして今朝も雨だ。朝食は宿に付いているのでそれを食べて雨が止むのを待ってみたが無理だった。10時にチェックアウトとなり、タクシーを呼んでもらった。女性のドライバーさんだったが、『夏はお客さんが多くて忙しい』などと言っている。

途中で川を渡ったが、雨でかなり増水している。溢れたりしないかと聞いてみると『50年ぐらい住んでいるけど、溢れたことはない』ときっぱり言われた(ところが後日の大雨の時、NHKのニュースでこの川が氾濫している様子が映し出されてビックリ)。駅に着いて料金を払うと、領収書と一緒にティッシュをくれた。地元タクシーのいい所かな。

取り敢えず駅に入り、荷物を預けようとコインロッカーに近寄ると、支払いは交通系ICカードのみ、と書かれている。随分進んでいるなと感心していたが、何と電車に乗るにはICカードは使えず、切符を購入しろというから驚いた。駅員に聞いたら『私もおかしいと思うんですよね』と言いながら、そそくさと立ち去る。まあ、ロッカーが切符より早く進化してしまったということか。

外を見ると何と雨が止んでいる。急いで歩いて本間美術館へ向かう。実は昨日の本間家で『必ず行くべし』と言われ、共通券を購入していたので、行かなければならない。6分ほど歩くと入口があった。ここは美術館というよりは、本間家別邸といった方が分かりやすいのではないか。

美術館へ入って声を掛けると、『雨が降りそうですから、庭から先に見たらどうですか?』と傘を渡された。こういう対応は実に好ましい。その庭というのが、かなりの庭園で、敷地も広いし、手入れも素晴らしい。鶴舞園という200年以上前に作られた庭で、最初は藩主の休息場として作ったというから本間家は凄い。

その向こうの方には、清遠閣という見栄えの良い木造建築が建っている。その横には茶室もある。清遠閣には様々な展示があったが、2階に登ってみると、その大きな座敷から庭が眺められるのがよい。実はここで30分もの間、ただただ庭を眺めていた。こんなに落ち着ける空間があっただろうか。松尾芭蕉関連の展示にも興味を引かれる。

雨が降り出したので美術館の見学に切り替えた。ちょうど『本間家と茶道』の特別展示をやっており、天目茶碗をはじめとして、お宝所蔵品が多く展示されている。ここにも本間家の財力を見る思いだ。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とはよく言ったものだ。

山形・新潟旅2024(1)雨の酒田に突撃する

《山形・新潟旅2024》  2024年7月9‐13日

兎に角7月の東京は暑かった。何とかしてこの暑さから逃れたかった。ふと思い出したのが、山形。2年ほど前の冬に新潟から行こうとして雪で断念した記憶がある。電車、バス、新幹線など、山形、特に酒田、鶴岡方面へ行く方法を探していたら、突然目の前にANAのスペシャルオファーが飛び込んできたので、思わずポチっと。

7月9日(火)酒田へ

ANAのオファーをポチってすぐにメッセージが入ってくる。火曜日のフライトは大雨のため、着陸できるかどうかわかりません、と。それが何度も来るのでとても心配になったが、特に予定もない旅なので気にもしていなかった。だが前日になり、明日の酒田で予約した宿を確認したら、驚いた。鶴岡と勘違いしており、何と空港からも駅からも、遠く離れた宿を取っていたことが分かる。でももうどうしようもない。なるようにしかならない。

当日朝ゆったりと羽田空港へ向かう。特に雨は降っていなかったが、相変わらず天候不良の文字は見られる。最近の災害情報はほぼオオカミ少年か、と疑ってしまうほど煩い。そしてやはりキャンセルした人もいたようで、非常口席をあてがわれる。普通ならうれしいのだが、この場合、喜ぶべきだろうか。

フライトは10分ほど遅れただけで飛び立った。大きな揺れを懸念して、念のため、温かい飲み物の提供はなかった。そして庄内空港への着陸は2度目で見事成功し、事なきを得た。だが外はかなりの雨が降っており、先が思いやられる。空港バスに乗り、酒田駅まで行けばよかったはずが、途中の市役所付近で降りて、予約した宿まで歩いて30分かかるらしい。この雨ではとても無理だ。

ところが市内中心に入ると雨はピタリと止んだ。バスを降りると傘は不要で、突然自由を得る。まずはランチを食べようと周囲を見回すとビルの1階に食堂があったので、そこでカレーを食べる。山形名物を探す心の余裕は全くなく、この付近のサラリーマンのランチを食べたことになる。

そこから本間家はすぐだった。まずは別館へ行くと、丁寧に説明してくれる人がいて、色々と勉強になった。酒田といえば大富豪の本間家が何といっても有名。その一端を見ることが出来た。そこの人が地図をくれ、観光案内をしてくれた。雨は降っていないので、10分ほど離れた山居倉庫まで歩いて行く。酒田は海上貿易で栄えた街。川沿いにある、その古めかしい建物の名残を見て、おしんを思い出す。

本間本家の屋敷に戻って見学する。こちらは別館と違って写真撮影もダメで、係員の対応もあまり親切とは言えなかった。これだけ大きな本間家について、研究された資料などもないという。広い敷地を持つ本間家の大きさはよく分かったが、何となくモヤモヤして外へ出た。庭が少し見えた。立ち去る。

雨はずっと降っていなかった。予約した宿の近くまで行くバスの時間まであと1時間もある。そうなれば歩くしかない。荷物を引いて行くが、意外と道が良く、スイスイ進んでいく。ちょうどチェックイン時間直前に宿まで辿り着いた。何と急に雨が降だしてホッとする。実はこの宿、次に行く鶴岡の駅前にもあり、そこと勘違いして予約してしまったのだが、車社会の地方都市では、ここの方が便利なのだと分かる。周囲にはチェーン店のラーメン屋などが見える。

静岡・和歌山茶旅2024(7)大垣、名古屋に寄り道

腹が減ったので近くのラーメン屋に入る。日曜日の11時頃、地元のお客が結構いる。店員はベトナム人かな、色々と親切に教えてくれる。和歌山ラーメンを食べてみると旨い。6年ほどまで和歌山に来て食べた時は、ちょっと脂っこいかな、という印象だったが、ここのスープはあっさりしていて美味い。

宿に戻り、荷物を引いて、南海和歌山駅へ行く。ここから特急の無料座席に乗り、新今宮で環状線に乗り換えて、大阪からは新快速で米原、そこから東海道線で大垣までスムーズに進む。正直週末の大阪は人が多過ぎて疲れてしまう。やはり和歌山は良かった、と感じてしまうのはさっき出会った中国人女性と一緒だ。

今回の旅、本当は紀伊田辺から三重方面へ向かい、名古屋まで辿り着く作戦を考えたのだが、やはり残念ながら交通が不便で、思う時間に名古屋に辿り着けないと分かったので、降りたことがない大垣で1泊することに変更して、このようなルートを辿ることとなった。

大垣駅で降りて、駅前の宿に入る。部屋で少し休んでいたが、夕方腹が減り、何故かまたとんかつ屋さんへ向かってしまう。ここでは素直に味噌カツ定食を頂く。名古屋名物、味噌カツ、ここでも美味しい。3日ぐらいならとんかつを食べ続けられる自信は付いた、かな。

6月17日(月)大垣から名古屋へ

今朝は宿で朝食を食べてから出掛ける。何となく大垣城へ。関ケ原の戦いでは、石田三成の本拠地だった場所。その敷地、天守閣をゆっくりと通り過ぎて、反対側の歴史資料館を見学する。ここで大垣の歴史を学ぶ。庭がきれいだった。そこから水路沿いに1㎞以上歩いて行くと『奥の細道 むすびの地』という表示がある。ここは芭蕉の奥の細道旅の終着地だった。至る所に芭蕉の句碑などが建っている。今でも俳句が盛んなのだろうか。

街の中を歩いていると本陣などの文字が沢山出てきた。ここは美濃路の大規模な宿場街だったらしい。今は、何となくゆったり、ひっそりとした佇まいがよい。ちょっと関ヶ原にも行ってみたかったが時間が無く、次回とした。大垣駅から電車に乗ると、30分ほどで名古屋駅に着いてしまう。その近さを実感する。

名古屋駅から乗り換えて千種駅で降りて、目的地まで歩く。茶心居さん、コロナ前まで何度もセミナーなどをさせて頂き、お世話になっていた。コロナ後私はオンラインに切り替えてしまい、こちらに伺う機会も無くなっていた。今回は折角なので連絡を取ると、以前支援して頂いていた方が集まってくれた。

ご飯は店主特製のカオマンガイとサラダ。非常にきれいにできており、本家タイを凌ぐ一品。食後には茶農家Sさんがお茶を淹れてくれ、ベトナム茶の話などで盛り上がる。そして久しぶりのIさんとも色々と話が出来た。世の中、知らない内に色々と変わっているんだな、と分かる。そういえば9年前の龍神村、このIさん、Sさんと一緒に行ったのだ。これもご縁だろうか。

あっという間に4時間以上が過ぎていき、Iさんの車で名古屋駅まで送ってもらった。帰り方を色々と考えていたのだが、ちょっと疲れてしまい、そのまま新幹線に乗ることにした。お昼もたらふく食べたのに、また腹が減りそうで、名古屋満載という名の駅弁を買い込む。天むす、エビフライ、アンスパ、名古屋コーチンの鶏飯という豪華なラインナップ。今回の旅もこの弁当のように盛沢山、色々とあったな、と思いながら噛みしめて食べる。

静岡・和歌山茶旅2024(6)紀伊田辺から和歌山市へ

それからOさんの車で龍神方面に戻る。私はJRに乗って和歌山方面へ行きたいのだが、交通機関はなく、途中の道の駅で降ろしてもらって、紀伊田辺方面に向かうバスを待つことにした。道の駅なのでランチを食べようと入ってみると、牛丼が名物とのことで食べてみると確かに美味しい。隣では韓国人女子が食べている。外は雨だが、雰囲気は良い。道の向こうには熊野古道の文字があり、ヨーロッパ人女性がその道を上がっていく姿が見える。

バスは10分ほど遅れたが、なんとかやってきた。乗車できてホッとする。この車内も外国人が多い。日本人の地元住民はほぼ車移動なのだろう。田舎道を約1時間走って、紀伊田辺駅に到着。QR決済可能と言われていたが、実際には反応せず。こういうのは本当に困る。駅前に武蔵坊弁慶の像がある。南方熊楠の写真もある。この街にとても興味はあったのだが、今回はパスして電車に乗る。

途中一度乗り換えて、16時前に紀伊由良という駅に着く。ここに径山寺味噌、醤油とゆかりのある寺があり、一度訪ねてみたいと思っていた。駅から荷物を引きずり10分ほどで到着。ただ階段が多く難儀する。興国寺という禅寺。法灯国師という名前が見える。なかなか立派なお寺だったが、人気は全くない。径山寺味噌といえば、鎌倉初期の聖一国師を思い出す。近所には醤油を作る工場が見られた。

紀伊由良駅からまたJRに乗り、和歌山駅へ。和歌山は5ね年ぶりだろうか。今日予約した宿はここではなく、南海和歌山駅に近く、バスに乗る。この路線も初めてで分かり難かったが、何とか到着。南海の駅まで歩いて明日の予定を確認し、ついでにそこにあったとんかつ屋で夕飯を食べる。地元で有名なチェーン店らしく、味もサービスも良く、サクサク食べる。帰りに宿の近くで南方熊楠生誕地碑を発見。紀伊田辺の人だと思っていたが、生まれは和歌山市か。

6月16日(日)和歌山から大垣へ

さすがに疲れが出てきた。そして食べ過ぎでもあったので朝ご飯を抜いてゆっくり起動する。今朝は和歌山城の横からバスに乗り、県立図書館へ向かう。残念ながら探していた資料はあまり見付からず、早々に退散する。そのまま歩いて、郭家住宅を見学。といっても改修中で、外からちょっと覗くだけ。

代々紀州藩の御殿医であったという郭家はどうして和歌山へ来たのだろうか。家鳴り民の滅亡と関連があるのだろう。そして明治になり、この偽洋風建築の建物を建て、今は旧郭百甫医院として保存されている。それにしても和歌山だと中国系の人が根を張り、住み続けている感じがフィットしている。現在もご子孫が横に住んでいるようだ。

和歌山城まで戻ってきたので、ちょっとお城を見学しようとしたが、何と入り口で迷う。車の駐車場用入り口前で、入れるのかとみていると、横にいた女性も同じように迷っていた。話かけると中国人で、大阪の親戚の家に遊びに来たが、京都大阪は人が多過ぎるのでここまで一人で来たいという。

彼女と二人で城に入り、上まで登っていく。『最近大阪も特に中国人が増えている。親戚も中国から移住して、商売を始めた』などと中国人事情を説明してくれた。城に登るという彼女と上で別れて、一人で歴史資料館へ向かう。和歌山、紀州藩の歴史、茶道、そして孫文まで登場。松下幸之助と茶という展示もなかなか興味深い。

静岡・和歌山茶旅2024(5)龍神村のいい温泉からなっちゃんの茶畑へ

そこから喫茶店へ行った。ここも9年前に来た記憶がある。龍神茶の歴史が分かる方にお引き合わせいただき、聞いてみたが、やはり龍神茶については分からないことばかりらしい。我々は中国の晒青緑茶との関連を調べているのだが、どうやらこの茶はその昔から伝統的に作られているようで、渡来の茶かどうかは判別しがたい。和歌山には徐福伝説などもあり、何となく渡来だといいな、と思っていた自分がいた。

Mさんの家を通り掛かると天誅倉という文字が見えた。幕末の天誅組との関連が想起される。ここでMさん作成の龍神茶を頂いた。実は9年前はお金を出せばどこかで買えた龍神茶、今では自家用以外殆どないらしく、道の駅でも売っていないそうだ。そういえば9年前に訪ねた茶農家さんもお父さんが亡くなり、今では高齢の奥さんが細々続けていると聞く。

最後にOさんのお店へ行く。すでに閉鎖されている中、豆腐作りの機械などを見せてもらう。話を聞いていると龍神の豆腐の歴史と茶の歴史、重なることが実に多く、その深い意味が少しずつ解けていく。こちらで作られた豆腐を食べさせてもらったが、何とも言えない深みがある。これはOさんの努力の結晶だろうか。

バスを降りた宿まで送ってもらう。部屋に入ると昨日とは別世界。広い部屋に快適な空間。勿論防音もある。すぐに夕飯会場へ行くと、そこには料理がふんだんに盛られており、ビュッフェ形式でいくらでも食べられる。如何にも修行が足りないな、と思いながらも、鮎やローストビーフなどを美味しく頂く。昨日は外国人だらけの中、今日は外国人が一人もいない中、ご飯を食べる不思議な感覚。

その後ゆったりと休んでから大浴場で湯を浴びる。ずっと居たいような感覚に捕らわれるほどいい湯だった。『日本三大美人の湯』は私には関係ないが、なめらかないい湯は何とも有難い。宿坊は修行の場であり、修行のためにお金を払ったが、今日は自分の楽しみのために払った感じ。9年前は龍神温泉別館に素泊まりしたのだが、こちらの宿の方が良い。今晩は昨日眠れなかった分を取り戻すほど熟睡した。

6月15日(土)熊野本宮へ

翌朝も快適に目覚めた。まずは温泉に入る。誰もいな朝風呂は実に心地よい。朝ご飯もビュッフェ。何と茶粥があったので食べてみたが、これは龍神茶ではなく、ほうじ茶を使っていた。この宿でも以前は地元民が持ち込んだ龍神茶を売っていたが、今は持ち込みが殆どなく、龍神茶で茶粥を焚くことも出来ないという。

Oさんが迎えに来てくれ、龍神村とお別れ。今日は熊野本宮を目指す。Oさんが知り合いの茶農家に連れて行ってくれた。実は彼は引っ越し間際でとても忙しい上に、何と隣人が亡くなり、その葬儀の手配などもしていたようで、大変申し訳なかった。1時間ほどで茶畑に到着。

実はここの茶畑には3年前も来ている。当時88歳だったUさんを訪ね、釜炒り番茶を見せて頂いていた。その際『最近若者が隣の茶畑を継いだ』という話が出ていたのだが、それが今日紹介されたなっちゃんだった。まだ20歳代、きゃしゃな雰囲気だが、芯は強そうだ。おじいさんとおばあさんの茶業を引き継ぎ、天日干し釜炒り茶や煎茶、紅茶作りにもチャレンジしている。好奇心が旺盛で、勉強に励んでいるともいう。Oさんなど支援したいと思っている人々が多い。外国人のアシスタントもいる。

茶畑の中でお茶を入れて貰い、ゴクンと飲んだ。決して豪華ではないが、何やら風景が絵になり、お茶も美味しい。もう顧みられなくって久しい天日干し釜炒り茶。龍神村では消えていくしかないが、なっちゃんに継承して残して欲しいとは思う。ただ実収が伴うかどうかだろうな。

静岡・和歌山茶旅2024(4)龍神村へ

6月14日(金)龍神村で

朝は5時過ぎには目覚めた。というか、あまりよく眠れなかった。既に明るくなっていたので、外を眺めてお茶を飲む。6時には朝のお務めが始まる。前日同様、住職の英語が響き、我々はまた後から朝食会場へ向かった。朝ご飯は豆腐の他、海苔や漬物など、昔の日本の朝食だった。それから午前9時のチェックアウトまで、庭を眺めていた。殆どの宿泊客はあっという間にチェックアウトして見えなくなったが、ごく1部は連泊するようで、英語ガイドが迎えに来るなど、熱心だった。

9時過ぎに荷物を引きずり、街へ向かった。バスは9時55分発なので、その辺をぶらぶらしていたが、荷物が邪魔なので、早めにバス停に行った。するとすでにそこには数人の外国人がバスを待っており、日本人のおばちゃんに『ここで待っていれば、熊野本宮へ行けるか』などと聞いている。私と同じバスに乗るのはやはり全て外国人だった。横にいたオランダ人の若い女性は2か月日本を旅しており、仏教に興味があるという。

バスは何とかやってきて、高野山駅から乗っていた数人と合わせて13人が乗り込んだ。中国人カップルの2人以外は皆ヨーロッパ人だった。奥の院を抜けると、一路下りに入る。約1時間で護摩壇山に着くと、もう一台のバスが待っており、熊野方面から来た乗客を入れ替えて出発する。若い車掌と話していると『とにかくコロナ前から外国人が多かったが、コロナ後日本人は殆ど来なくなり、今日もあなた一人ですよ』と寂しそうに話す。そしてなんとか英語を使って乗客を捌いて行く。

聖地巡礼バスは、熊野に向けて再び出発した。そこから35分、私の目的地、龍神村に着いた。と言っても、ここには温泉宿だけがあり、周囲は大自然。そして何とここで40分ほどの休憩が入るというので、私はここで下車して、荷物を宿にチェックイン。再度外へ出ると、さっきのオランダ女性が車掌と話している。聞けば彼女、アクセサリーデザイナーのようで、この周辺の木に関心がある。何でもこの辺はチェーンソーアートが有名だとか。

バスが行ってしまう頃、今回お世話になるOさんが迎えに来てくれ、村の中にあるカフェでランチを頂く。何だかほっこりしたご飯で美味しい。Oさんはお客さんと挨拶しているが、その様子がかなり好ましい。彼は18年前この地に来て伝統的な豆腐作りを始めた人だが、既に完全に地元民になっており、好かれている。ただ近々ここを離れて新たな挑戦をする予定だと聞き、私が急遽やってきたわけだ。

そしてここでもう一人のサポーターにバトンが渡された。Mさんはここに移住してきて長い。今はキャンプ場などを運営されているというが、同時に龍神村の歴史、お茶にも関心が深く、10数年前から龍神ハートというグループで活動されていた。私がここを訪ねた9年前も確か龍神ハートの方に案内されたのをふと思い出す。

Mさんが連れて行ってくれたのは、丹生ノ川という場所。丹生と聞くだけでテンションが上がってしまう。四国愛媛にもあった丹生。確か島根にもあった地名だろうか。水銀と関係があるとも聞いたが、茶との関連を是非追求したい。ここに1本だけ大きな葉の茶の木が残っていた。確かに普通とは違う。後で聞くと、コウロ種ではないかという。このような茶樹はどこから来たのか、中国から渡ってきた可能性はないのか、実に気になる所だ。