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北タイ茶旅2024その1(1)チェンダオへ

【北タイ茶旅2024】2024年10月28日‐11月1日 11月12₋14日

いよいよ茶旅本番の季節がやってきた。昨年はミアンを探す旅を行ったが、今回は北タイの茶産地を回り、その歴史を検証することにした。

10月29日(火)ファーンまで

朝ドームがやってきた。参加者3名をホテルでピックアップして、朝ご飯へ向かう。ドームのお勧めはナイトバザール近くで40年以上やっているというジョークの屋台。私は北タイの朝飯はカオトームだと思い、そちらを選択。味は悪くない。観光客も利用するような立地だが、お客は地元の人ばかり。

車は一路北を目指して走り始める。今回は後部座席に3人に座ってもらうので、かなり窮屈ではないかと心配する。元々ドームは午前中、メーテンの茶園に行く、と言っていたのだが、突然『時間がないのでチェンダオへ行く』と言い出し、混乱をきたす。どう考えても時間はあるのに、なぜ行かないのか。彼なりの事情はあるのだろうが、我々には理解しがたい。

そして車にガソリンを入れる。昨年のミアンツアーにも参加したHさん。どこのガスステーションにも併設されているカフェアマゾンを気に入り、今年もいそいそとコーヒーを買っている。トイレ休憩が終了すると車は走り出し、その内に山道に入り込む。この道、1年半前も来ているが、こんなに曲がりくねっていたのだろうか。ところどころに洪水の影響が見られた。

チェンマイから約2時間、標高約900m。ついにチェンダオ山中のラミンエステートに到着した。ここは1940年頃ラミン初代(Prasit)が茶を植えたとされる場所で、タイ全土で初めて茶園が開拓されたという歴史的なスポットになる。現在はラミンカフェが作られており、斜面に映える茶畑を眺めながら、お茶を飲むことが出来る。

ラミンの歴史については、先日ラミン3代目(Jakarin)とチェンマイのオフィスで会った際、説明は聞いていた。ただその歴史は、初代は中国人ではあるが、雲南ではなく北京から来た人と言われて驚いた。しかもフランス留学後、戦火で本国に帰れず、イギリス人とたばこビジネスで訪れたタイに留まったと聞いた。彼はユーカスの『All About Tea』を読んで感化されたともいう。彼がここに来る以前、タイでは茶葉はミアンとして消費されていたが、ドリンクとしては飲まれていなかった、というのが面白い。

カフェの後ろ側にひっそりと茶工場がある。今回特別に見学させてもらった。この工場は2代目で、最初の工場は斜面の向こう側の学校の敷地にあった、と前回聞いた記憶がある。基本的にはラミンは当初からアッサム種を使って紅茶を生産していた。1970年代ラミンの2代目(初代の娘婿Nit)は、スリランカや台湾を視察して、この工場にそこで得た技術を盛り込んでいる。現在かなり古いタイプの茶工場にはなっているが、その独特な設備は興味深い。

すぐ近くにラフ族の村があるというので行ってみる。実はここの茶園の茶摘みなどのワーカーはラフ族であり、それはドームの父親であるジャファーが、ドイプーメンの黒ラフをこの地に送ったという繋がりがあるようだ。黒ラフとは基本的にキリスト教徒。山岳民族には国境はなく、仕事があれば移動する、ということをここから学んだ。

昼前に山を下りた。ランチはどうするのかと思っていたら、チェンダオの街の華人食堂へ入る。ドーム曰く『この店はプミポン国王も食べたという美味い豚足の店』だった。確かにその豚足はあまりにも立派(1₋2人ではとても食べ切れない)、しかもトロトロで美味だった。一塊350バーツも頷ける。

店の若い女性は英語が出来た。外国人も来るのだろう。彼女は『父は華人、母はタイ人』と説明する。確かに車いすに乗った老人は華人だった。元気でにこやかな年配の女性も華人に見えたが、母親なのだろうか。ドームはプロのガイドを自称しているが、このような説明は全くない。チェンダオの街にも華人は多く住んでいるように見えた。

チェンマイ滞在記2024その6(3)ラミンティの3代目と会う

10月25日(金)ラミンティー

午前中散歩していると、比較的大きなお屋敷が売りに出ていた。タイ語と併記で中国語も書かれているのだが、このご時世、中国人でこの家を購入する者はいるのだろうか。まあ、値段も分からないので何とも言えないが、時々不動産の売り物件を目にする。昼ご飯は久しぶりにおかずを選んでご飯とスープで食べる店へ行く。

今日は重要な日だった。10月初めにチェンダオで会う予定だった、ラミンティーの3代目と突然会えることになったのだ。しかも場所はチェンダオではなく、チェンマイ市内のラミンのオフィス。何と40年以上前に建てられた茶工場が併設されていた。またそこは大きなバイパス道路に面しており、現在茶業と並んで家業となっている自動車ディラーの店舗もあった。

3代目は非常に親切な人で、わざわざパワーポイントを準備してくれ、ラミンの歴史を説明してくれた。ただ初代については少し不明な点があり、今後機会があれば2代目夫人に聞いてみたいと思った。いずれにしてもここ北タイにおいて、最初に茶を植え、茶園を造り出したのは1940年前後のラミンであることは間違いなさそうだ(元々生えていた茶樹の葉を加工したケースはもっと古いと思う)。

現在同社では様々な種類の茶を作っているが、その根本は創業当時から紅茶で変わっておらず、今もアメリカ向け紅茶輸出が主業だと聞くと、確かに北タイは烏龍茶、というイメージは後世の物だと感じられる。そして初代の謎を解くことで、北タイプーアル茶の歴史も紐解けていくかもしれない。茶工場も見学して、紅茶をお土産にもらって帰る。

10月28日(月)茶旅が始まる

いよいよ北タイ茶旅が始まる。昨晩メンバーの一人HHさんがチェンマイにやってきて、気分が高揚する。昨晩はMAYAにサンダルを買いに行き、そのままフードコートで麺を食べ、ニーマン地区をフラフラ散策した。ハローウインが近いこともあり、仮想して写真を撮っている人達がいる。何だかちょっとキラキラしたチェンマイを見た。

今朝は朝8時集合でHHさんとカオソイメーサイに行く。この時間だと行列もなく、この有名店で悠々とカオソイを食べることが出来る。久しぶりのチェンマイだと聞いたので、こういう店も良いかと思う。食べ終わって出てくるころには既に外に観光客が立っていたから、相変わらずの人気だが。

そこから周辺を散策。市場に行ってみようと歩いて行く。そろそろ10月も終わりに近づき、心地よい朝が来ていた。市場でも魚や野菜などを見ていくが、私には名前も分からず、聞くためのタイ語力もない。実はもう一人のメンバーMさんが空港に到着するはずだったので、その連絡を待っていたのだが、何故かスマホの不具合か?うまく連絡がつかず。何とか無事到着を確認したが、Mさんは夜行便の疲れもあり、マッサージ屋へ行っていた。

我々は昼ご飯を食べるため、モンスーンカフェまで車で行った。後からMさんも合流して、3人でお茶を飲みながらミアンが入った料理を頂く。色々なお茶を飲んでまったりしてしまい、時間がどんどん過ぎていく。車を呼んで帰る際、HHさんは途中の市場で降りる行動派だ。夜は明日からのメンバーで夕飯(昨年と同じ場所)を食べる。夜の便でチェンマイ入りしたHSさんも無事合流して、明日からの気分が大いに高まる。

チェンマイ滞在記2024その6(2)急遽ワーウイへ

10月22日(火)急遽ワーウイへ

今月末に北タイ茶旅を計画して、参加者を募っていた。なぜ茶旅に参加者を呼ぶのか、それは車代をシェアしてもらえれば助かる、というのが一番大きい。皆で行きたいところへ行き、インタビューも出来れば、色々な意味で茶旅に広がりも出るし、これまでの盲点、弱点も見いだされるだろう。

ところが今回是非訪ねて話を聞きたいと思っていた人々は当日不在であることが分かり、取り敢えずどうしても話を聞きたいワーウイの李さんを訪ねに、運転手ドームの都合もあり、急遽ワーウイ日帰り旅を決行することになった。これでは何のためにシェア茶旅をやるのか分からなくなったが、まあ仕方がない。

今朝も天気はとても良い。8月末にも一度行っているので、ルートは分かっていた。それでも何故かワーウイまで4時間近くかかってしまう。それはドームが温泉たまごを作って時間を使ったからではあるまい。前回のことを既に忘れてしまっていた私に責任がある。まあとにかく老李リゾートに11時過ぎに到着した。

李氏から、色々な話を聞いた。特に驚いたのが、前回発見した香港・マカオとの繋がりだろう。1960₋70年代北タイでは大量の荒茶を作り、香港へ輸出していた。中にはプーアル茶を作って輸出したケースもあった。具体的な茶業者の名前、茶工場の場所なども出てきて理解がとても深まる。

プーアル茶を飲みながら、あっと言う間に2時間ぐらい話し込んでしまった。日帰りなのでもう帰らねば、と思っていると、お昼ご飯として雲南麺が登場した。この麺がとても美味しく、何とお替りまでしてしまう。10日後の茶旅では、ここに1泊するので、その時食べる夕飯を今から予約してお別れした。食事は結構期待できそうだ。最後にちょっと茶工場を見学した。

帰り道、ワーウイの近くにあるラフ族村に寄ってみた。ここにはドームの同級生が暮らしているという。だが村へ入る道をタイ語で尋ねても冷たい対応だったらしい。ところがラフ語で尋ね直すと対応が一変したというから、よそ者への警戒感は相当なものだ。質素な家が並ぶ村の中で2人は再会した。40数年ぶりだというから驚きだ。何を話しているかは分からないが、初めはぎこちなく、途中から懐かしげな様子が伝わってきた。

陽が傾き始めたので、急いで山を下った。夕方5時頃、チェンマイ郊外までやってくると、ドームが突然親戚の家へ行こうという。そこはドイサケットという街、先ほど李さんからその昔茶工場が沢山あった場所として紹介されたが、今や茶工場など一軒もない、と言われていた。

ところが実際に行ってみると、とても小さくはあるが、家の裏に製茶機械があり、現在も細々と花茶を作っている女性がいたので、本当に驚いた。そしてこの花茶はチェンマイの中華レストランなどで飲まれているらしい。このドイサケットの茶工場の歴史、本当に誰も知らないだろうか。今回は時間的には短かったが、収穫の多い旅だった。

10月23日(水)エレベーターが止まっている

昨晩宿に戻ると、何とエレベーターが止まっていた。疲れている中で、階段で4階まで上がるのはかなり大変だった。そして修理完了は25日となっており、愕然とする。今朝起きて考えたのは、如何に効率的に部屋から出ないで過ごすかだった。だが私は自炊をしない(そもそも設備はない)ので、ご飯を食べるには外へ出る必要がある。勿論パンやカップ麺を買っておいてやり過ごす方法を検討した。

まずは朝、パン屋へ行って多めにパンを買う。帰りに久しぶりにジョークを食べに行く。その後近所の花をめでながら散歩する。昼間は暑いこともあり外出せずパンで過ごす。夕方もう一度外出して、麺を食べる。夜は卓球を見て過ごす。まあ、こんな感じであと2日耐えようと思っていると、翌日エレベーターは何の前触れもなく復活しており、全てが日常に戻っていた。

チェンマイ滞在記2024その6(1)雨で体調不良に

《チェンマイ滞在記2024(6)》  2024年10月17日‐10月28日 11月2日‐11日

10月17日(木)体調を気遣う

ベトナム、ホーチミンからバンコク経由でチェンマイに帰ってきた。今やホームタウンのチェンマイであり、なんとなくホッとする。ただ既に10月半ばなのに、まだ雨が降っていて驚く。やはり今年は異常気象なのだろうか。ベトナム疲れもあったので、昼まで部屋でゆっくりと写真の整理などをして過ごす。

腹が減ったので、外へ出る。雨はない。いつものパンを買い、すぐ近くの麵屋で牛肉麺を食べる。ベトナムでフォーボーを食べなかったなと思い出す。こういう食べ物を食べると、何となく体に優しい。腹が温まる。夕方もう一度外へ出て食べたのも、ジョーク。やはり体調が優れないので、優しいものを欲していると分かる。

翌日も疲れは取れず、天気も回復しない。そんな時はやはり麺。鶏麺が美味しい店に行き、適当に指差しで注文したら、何だか手羽先が何本も入ってきた。コラーゲンたっぷりで、これはこれでイケル。夜も焼き麺を食べている。こういう時に米は重たい。これで体調回復を図る。

10月19日(土)久しぶりの台湾料理

朝から箱根駅伝予選会を見る。何と1秒差で予選を通過した順天堂。このような周回コースの予選会は良いのだろうか。まあそんなことを言っても仕方がない。日本では秋が始まり、季節が移っているが、チェンマイはまだ雨季のようだ。何とも寂しい朝が過ぎていく。因みに翌朝もプリンセス駅伝を見る。もう駅伝、マラソンシーズンなのにチェンマイは、という思いに駆られる。

いつものパン屋でいつものパンを買う。先日ネットで見ていると、チェンマイで一番美味しいカオマンガイ屋として挙げられていた店は目の前だ。久しぶりに食べてみたが、普通の美味しさという感じ。50バーツでこれが食べられるという点では素晴らしい、ということだろうか。

夕方なぜか急にソンテウに乗り、ターペー門を目指した。ところがソンテウは最短コースではなく、他の乗客の目的地に向かって走り出し、一時はどうなることかと思ったが、その後は順調に進み、最後はむしろ目的地近くで降りられた。夕飯を1年ぶりに台湾料理屋?で食べた。台湾で働いていたタイ華人が出した店、というのが正しいだろう。味は悪くないので、また寄ってみたが、店のおばさんは私のことなど完全に忘れていてちょっとショック。帰りは何となく夕暮れの中をトボトボと歩いて宿まで帰る。寂しい。

10月21日(月)飲茶が食べたくて

週末を過ぎても、体調が思わしくない。というより、所謂テンションが上がらない状態がずっと続いている。そんな時は和食でも食べるかと、いつもの店にランチを食べに行く。ハンバーグにコロッケ、味噌汁にひじきご飯でかなり元気が出て、そのまま長距離散歩をする。何となくもう雨はないかな、という感じだ。

夕方AISショップに行く。今回のシムカード、いつもと違うので、何となくよく分からない。もしバンコクなら、スクンビットまで行かないと英語は通じないが、チェンマイでは近所のショップでも簡単に英語は通じるのが何とも有難い。何とか理解して、支払いを済ませるとすっきりする。

その足で堀沿いを歩いてみる。ちょっと行くと少し大きめのレストランがあった。ここは団体観光客が来るのかなと覗いてみると、そうでもなく、普通に麺などを提供しているので入ってみた。するとメニューに点心がいくつか載っていたので、これも注文する。ちょうど点心が食べたいな、と思っていたのだ。

席はオープンスペースと思っていたが、店員に誘導されてエアコンの効いた涼しい場所へ。ここにまだ午後4時過ぎだというのに、中国人観光客が数組いた。そしてかなり食べ散らかした状態で、外に出たくないのか、話し込んでいる。それをしり目に私は出てきた麺と点心を簡単に片付け、足早にその場を去る。

ベトナム旅2024(8)ホーチミンからバンコク経由で

何とか車を拾い、宿へ戻るも、途中かなりの渋滞に巻き込まれ、待ち合わせ時間直前に何とか辿り着く。既に雨は止んでいたが、足元にかなり水がある。昼はKさんと会って、近所のすし屋でランチ。鯖の塩焼きセットを注文するとかなり立派な定食が登場した。これとお茶で約15万ドンは安いのか、高いのか。Kさんは昨年会った時も激変していたが、更に大変な状況の中、ホーチミンに止まっていた。

午後はお馴染みの新生茶荘に行ってみたが、いつもは昼寝している老板の姿はなかった。代わりにいたベトナム人は店番で、言葉もうまく通じず、状況はよく分からないが、恐らく老板は自分で店番するのを辞めて人を雇ったのだろう。もし彼に会いたければ事前に連絡しておく必要がある。

夕方宿の部屋でサッカーワールドカップ予選を見た。日本対オーストラリア。日本のホームゲームなのに、何故かぎこちなく失点してしまう。サポーターの期待値が高過ぎたのだろうか。何だか残念な試合を見ている内に、約束の時間となり宿を出た。歩いて15分ぐらいの場所にあるレストランへ向かった。

今晩は北京繋がりのHさん夫妻と会った。実はHさんは体調不良で入院したと連絡があり、今回会うのは諦めていたが、何と本日退院したというので、急遽出向くことになった。雰囲気の良いベジタリアンレストランであったが、何故か私の方が体調不良に陥り、あまり食べられなかったのは残念だった。

10月16日(水)バンコク経由でチェンマイへ

朝7時過ぎ、朝食会場を横目に見ながら、空港へ向かった。今日はバンコクまで飛び、一旦街中で用事を済ませて、夜にはチェンマイに戻る予定となっていた。昨年は運行していたホーチミン‐チェンマイ線が無くなったことで、こんな日程となった。まずはタイ航空にチェックイン。バッゲージはチェンマイまでスルーになるのか心配だったが、なんとなりそうだ。

空港でちょっと食べて、飛行機に乗り込む。乗客はそれほど多くはない。僅か1時間でスワナンプーム空港に着いてしまう。本来はLCCで十分なのだが、最近は荷物があるとLCCもレガシーも価格がそれほど変わらないので、タイ航空を選んだわけだが、その快適さを味わう暇もない。

飛行機を降りると、何となく違和感がある。これまで私が何十回も利用してきた空港と何かが違う。何だか明るくきれいなドムアン空港だ。すると何とシャトル電車が登場し、それに乗ると、すぐに入国審査前まで連れて行ってくれる。これがスワナンプームのサテライトというヤツか。イミグレもすぐに通過して、エアポートリンクで街へ出ていく。

マッカサンからMRTでスクンビット、そこからBTSでプロンポーンへと小刻みに乗り換えるも、荷物が無いから楽ちんだ。銀行で用事を済ませ、本屋で本を探し、パン屋でいつものパンを買う。フラフラ歩いてアソークまで戻り、ターミナル21のフードコートで麺を啜る。これが私のバンコクだ。用事が済めばさっさと空港に戻っていく。

スワナンプームの国内線は簡単だ。既に航空券もあるので、サクッと入ってちょっと食べて待つ。ところがフライトが何となくディレー。まあそれでも1時間でチェンマイに着くのが何とも良い。チェンマイに着くと、何だかややこしいことになっている。海外からバッゲージスルーした乗客は一団にされて、係員に誘導され、入国イミグレの脇を通り、国際線荷物受取場へ進む。ここで言われた場所で待っていたのだが、隣のスイス人と話していると30分経っても荷物は出て来ない。おかしいと思い聞いてみると、なんと違うところから既に出てきて、グルグル回っているのだ。さすがタイランド。まあこれもタイランド。

ベトナム旅2024(7)ホーチミン もう一つの老舗茶荘へ

何とか予約した宿に着くと雨は止んでいた。今回の宿はちょっと古い感じだが、料金も高くなく、特に問題はない。ドリンクを買いに外へ出るとすぐに近所に丸亀製麺があった。ここはコロナ前に興味を持って入った和食チェーン店。当時と比べると、価格は1.5倍ほどになっていたが、久しぶりなので入ってみた。午後3時半でも店内に客は結構いる。肉うどんとおにぎりを1個で、12万ドン。偶に食べると美味しい。

それからコンビニでドリンクとお菓子を買って宿に戻る。1時間後に約束があったので、また外へ出た。歩いて10分ちょっとで到着したのは、レトロなカフェ。エッグ珈琲とも書かれている。ここで台湾人の張さんと会った。会えばもう話は茶歴史ばかり。さっきうどんを食べたので、トーストやフルーツを食べながら、いい雰囲気の中でずっと話し続ける。

実に有益な情報も得られて満足する。ただ途中でパスポートを携帯していないことに気づき、落としたのではないかとかなり心配になる。帰り道も道端をキョロキョロしたが、最終的には宿に置いたまま出てきてしまっていた。最近のボケ度合いが半端ない。これからはこういう心配も旅の中で増えていくのかと思うと、気が滅入る。

10月15日(火)ホーチミンの老舗茶荘

朝ご飯は宿についていたので、遅めの時間に食べた。安い宿の割には色々食べられてよかった。それから車を呼んで出掛ける。昨日張さんから『ホーチミンの古い茶荘をもう一つ見付けたよ』と聞いていたので、行ってみることにしたのだ。その茶荘は11区にあるという。昨日バスターミナルから来た道を戻っていく感じ。途中見慣れた5区を通過しても更に行く。

結局30分ほどかかって目的地に着く。車を降りると目の前が茶荘で、覗き込むと『いらっしゃい』という感じで、まるで友達のように老板が声を掛けてくれたので、ホッとして中に入る。怡發茶荘の郭鉄佛さん(1965年ホーチミン生まれ)に話を聞くと、彼の両親が1948年に中国の潮州から渡ってきて、当初は親戚など同郷人の茶業者の元で働いていたが、潮州でも茶業に携わっていたことから、2年後には独立、店を開いたという。

お母さんは90歳だが、とても元気でにこやか。華語は話さず潮州語だけなので、何を言っているのかは分からないが、一緒にいるだけでとても楽しくなってしまう人だった。これも華人の一つの特徴だろうか。戦後渡って来ての苦労、ベトナム戦争での苦労、その後の苦労(ご主人は20数年前に亡くなったらしい)があったはずだが、全てを幸せに変えてしまうようでこちらまで嬉しくなる。

郭さんは1990年代、台湾人がバオロックに茶園を開く時に、通訳として同行した経験があり、あの当時の茶業史に詳しい。色々な面白い話が聞けてラッキーだった。また潮州人と茶業については、興味深い証言が飛び出し、今後ちょっと調べてみようかと思わせるものがあった。今回の訪問はとても有意義なものだった。

茶荘の近くもやはり以前は華人が多かったようで、近所に2₋3軒お寺があったので、見学しようかと立ち寄る。ところがちょうど雨が降り出し、見学もそこそこに慌てて避難する。だが雨はどんどん強くなり、濡れ方もひどいのでGrabで車を呼ぶも、なぜか私のいる場所にやって来ない。以前もベトナムで起きた不具合だろうか。こういう時が一番寂しい。

ベトナム旅2024(6)バクリュウ、そしてホーチミンへ

ここで石を祭っているのを見た。これはクメール系の影響が強いと聞かされ、なるほどと思う。我々は華人の観点でこの地域を見てきたが、実は元々はクメールのエリアなのだ。少し行くとカンボジアに入るらしい。クメールとベトナムの関係、機会があればもう少し歴史を見てみたい。既に時間は昼を過ぎていた。街中に食堂を見付けて、普通に美味しい鶏飯を食べる。4.5万ドンというから、地方都市も都会もあまり物価は変わらない。

もうそろそろ帰るのかなと思っていると、車は東に進んでいく。バクリュウという新たな省へ入った。ここは更に華人色が強いと言われ、外を眺めると、確かに華人のにおいがする。川の横にある旧市街地には、漢字が良く見られ、狭い道には古廟や同郷会館もいくつもあった。

天后宮が大きい。中には関帝廟も完備されている。その横には華人学校(今は使われていないかな)があり、広肇会館の文字も見られるので、この辺は広東系が多いのだろうか。もうちょっとゆっくり街を歩いてみたかったが、そろそろ帰る時間のようだ。何とも残念だが、次回ゆっくり来よう。

カントーへの帰り道、1時間ほど走ると車は止まる。「お土産でも買ったらどうだ」と言われて降りてみると、そこはまるでテーマパークのように大きい。漢字で新華園食品という文字が見える。華人系企業だとは分かるが、聞いてみると潮州人だという。そしてここの名物菓子は潮州月餅を改良したパイ。この付近なら誰でも知っている有名店。確かにお客さんは多かった。

更に1時間ほど走り、既に日が暮れたカントーに何とか戻った。宿まで送ってもらい、皆さんと別れた。これはなかなか経験できない旅だった。Iさんに感謝。そして腹が減り、外を彷徨うが、いい所が見付からず、最後はバインミーのスタンドで買って帰った。スタンドの女性とは言葉が通じなかったが、すぐにスマホを出して翻訳アプリで会話してくれ、有り難い。バインミーも旨かった。

10月14日(月)ホーチミンへ

今朝はゆっくり起き上がる。そして川に近いカントー刑務所跡に散歩がてら行ってみる。ここもフランス時代に抑圧された人々が展示されている。囚人の中に華人はどれほどいたのだろうか、と思ってしまうが、残念ながらベトナム語も読めず、何も分からない。建物は意外ときれいに残っている。

そこから川沿いを歩いてみる。意外と水位が高いのは雨季だからだろうか。ちょっと雨が降れば溢れてしまいそうだ。朝ご飯を探す。昨日南部名物の麺フーティウは潮州の粿條(タイではクイッテアオ)だと聞いて、それが頭から離れない。何とか探し出して写真を撮りながら食べてみる。店のお爺さんがとても優しい。

10時にチェックアウトすると、すぐに迎えのミニバスが来た。今日はホーチミンへ移動だが、何と宿でチケット予約が出来、送迎車が宿まで来る。ベトナムの交通網は旅行者にとても優しい。郊外のバスターミナルへ行くと、バスがたくさん並んでいる。まずはカウンターでチケットを受け取り、料金を払う。

バスはちょっとわかりにくく、11時発のホーチミン行が2台ある。と思ったら、何と私のバスは11時1分発らしい。その意味はよく分からないが、それほど頻繁に出ており、1台が満席なら増発するのでは、と思われる。バスはベトナムでいつも乗る長距離用で、寝転んでいける。ただ何故か上段を選んでしまったので、年寄りには上り下りが大変だ。

バスは順調に出発したが、何と1時間後にランチ休息。これは決められていて仕方がないが、何だかな。その後も順調に走り、合計3時間でホーチミン郊外までやってきた。カントーとホーチミンの近さを感じる。ただこのバスターミナルから街の中心1区まではかなり距離があるので、Grabで車を呼ぶ必要がある。そして雨が降りだしたこともあり、渋滞が発生して、なかなか進まない。

ベトナム旅2024(5)ソクチャンへ

10月13日(日)ソクチャン・バクリュウへ

本日はIさんのご縁で、カントー郊外への日帰りツアーに参加した。朝7時に車が迎えに来てくれた。メンバーはカントー大学の先生たち2人と、助手(運転手)、そしてIさんの5人。座席はちょっときつめ。まずは市内で朝食の麺を食べてから出掛ける。今日の目的は華人廟をいくつか訪ねることだという。

天気はすごくよくて、快適な車旅となった。約1時間南へ走っていくとソクチャン省ソクチャン市という場所に着く。ここの街中は華人人口が3割を超えるといい(省全体ではクメール人が50%を越え、華人は20%弱)、そこに天后廟があった。かなり立派な、しかも新しい建物で驚く。中に入ると潮州会館とも書かれている。この辺の華人の中心が潮州系だと分かる。Iさんはここに以前も来たことがあるといい、管理人のおじさんと話を始める。彼らは既に潮州語は話さず、ベトナム語での会話となっている。

続いて30分ぐらい車に乗り、ビンチャウという街に着く。きれいな街並みで新しい雰囲気。清明古廟(本頭公廟)にやってきた。ここはかなり新しく、立派な廟だった。中も広い。Iさんの知り合いという男性が現れたが、彼は潮州人だと名乗り、この辺の家庭では今も潮州語が話されていると聞き、驚く。一緒にいた女の子は華語を学んでいると言ったが、恥ずかしいので話せないという可愛らしさ。

この廟を改装するに当たっては、この地から海外に飛び出した華僑たちからの寄付が大きい。アメリカやカナダが多いようだが、寄付額の通貨も色々とあって面白い。更にはこの地を離れてホーチミンなどへ出た人々も沢山いることが分かる。華人の強さ、郷土愛など、考えさせられることが多い。

そしてこの廟の中には「三山国王」が祀られている。これは潮州系の信仰するものであり、この付近に潮州系華人が多いことを物語っている。横には天后廟が見られ、その後ろには大きな学校が建っている。如何にも教育に熱心な華人が建てた学校だと思われるが、現在生徒は多いのだろうか。メインは潮州系だろうか。恐らくここでは華語も教えていると思われるが、どうだろう。中学生ぐらいの子たちがバスケをやっている。

古廟巡りはまだまだ続く。また20分ほど車に乗ると、かなり田舎道に廟があった。ただ中はここも比較的新しい。コロナ後に改修されたようだ。名前は福興古廟だった。私個人としては廟をたくさん見てもはっきり見分けは付かない。ベトナム人の先生は細かい所を見ており、もう一人の先生は天后廟のレポートを出すらしい。

この廟のすぐ近くに、観光用の看板が出ていた。入っていくと大きな建屋、広い庭があった。ラムヤイの木も沢山植わっている。この邸宅は約100年前に作られたらしい。何の説明もないので詳細は分からないが、ホーチミンあたりに出て成功した華人が、故郷に錦を飾ったのではないだろうか。観光資源として活用しようとの意図はあったようだが、うまく活用されていないのは残念だ。

この家は頼という姓で、その祖先は中国河南省から南下した人々と漢字の説明があった。そういえば、この屋敷の構造はどことなく客家の三合院に通じるものがある。客家は中原発祥という説の真偽は別にして、頼氏は客家ではないか、と勝手に想像してしまった。潮州系と客家、どことなく繋がっているように思える。

更に少し走ると、また天后廟があった。かなり小ぶりで特に特徴はない。同行者が報告のためにここの写真を撮るのが目的で来たらしい。場所も分かりにくいが、周囲もほぼ何もない。新しい場所に移転したようにも見える。とにかくカントー郊外には華人が多いことは分かったが、現在目の前にある廟は皆21世紀に改修されたもの、または新しく[作られたものであるようで、これもまた一つの歴史なのだろう。



ベトナム旅2024(4)カントー散歩

銀行は休みだが、ATMでお金を下ろそうとカードを入れてみると、なんと現金は出て来なかった。もう一つのATMでも同じだった。3つ目は空港にあった銀行のATM。こちらはちゃんと出てきた。そうか、ベトナムの銀行ATMは外貨に対応できる銀行が限られている(決められている)ことを知る。

何となくぶらっと歩き出す。20分も歩くとちょっと郊外へ出た感じ。そこには中国寺がいくつかあった。寺巡りは楽しかったが、寺の建物は新しいものが多く、21世紀に入ってから、海外移住者の寄付などによって新しくされたものが多いことに気づく。街は全体に落ち着いており、散歩していても静かでよい。

近所まで戻ってくると、突然の大雨に見舞われ、慌ててお寺に逃げ込んだ。すぐに止むと思っていたら、意外と長く降っており、軒下でじっと待つ。観音様が雨に濡れているが、南国なのでシャワーを浴びているようにも見える。ようやく雨が小降りになったので、急いで脱出を図った。

昼になっていたので、ご飯を探す。昨日来た道に入るとすぐに美味しそうな広東系の鶏飯屋に引き寄せられる。何となく叉焼も追加したが、ドリンクを入れても10万ドン程度で、旨い。やはりベトナムの華人食堂は広東系が中心であることは間違いがない。ついでに味も間違いはない。

食べていると、宿から連絡があった。連絡は全てWhatsAppというアプリを通じてやってくる。今や東南アジアの若者は基本WhatsAppである。『掃除が終わったので、部屋を移動できます』という内容だったので、すぐに宿に戻り、隣の部屋に移動した。こちらは若干広い上、バルコニーが使える、流しがあり簡単調理も可能(私はやらないが)など、なかなか良い。この宿で一番良い部屋、といっても4000円台だったから嬉しい。

午後はGrabで車を呼んで、古い町並みが残るビンドゥイ地区へ向かう。東洋と西洋の文化が入り混じった当時の独特な建築が有名で、ジャン=ジャック・アノー監督のフランス映画「愛人/ラマン」の舞台として撮影に使われたと邸宅に行ってみたが、この日は中国人のお客1名のみでゆっくり見ることが出来た。

入口を入ると男性がやってきて3万ドン請求される。家の中はどう見ても富豪華人の家で、広々としており、奥行きもある。ベトナム語の説明は多少あるが、英語や中国語などはないので、ここがどんな家で、どのような経緯で残っているのかは、我々には全く分からない。広い庭には花が咲き、100年以上保存されている歴史を知りたくなる。隣にも古びた建物があり、こちらも見学できそうだ。

この建物がある道をフラフラ歩いてみると、確かに古びているが、結構建て替えが進んだ感じもある。大きな通りに出ると、そこには古い廟(龍泉古廟)があり、寄り道する。途中で転んでしまい、手をちょっと怪我する。それでもめげずに川沿いにあるもう一つの廟も見学する。確かに100年以上前に、華人は川を遡り、ここから上陸したのだろう。

そこから宿までなぜか歩いて帰ることにしてしまった。何と6㎞以上もあり、それほど暑くないと言っても、それは結構大変だった。途中には水が溜まった場所もあり、まだ雨季の状況が残っていた。大きな教会も2つほどあった。最後の方は脚を引きずりながら歩いたような気がする。さすがに距離があり過ぎた。疲れた。

夕飯はカントーに住む知り合いIさんと、広東系の店で麺を食べた。女主人とIさんは広東語で話している。麺は撈麺で、汁なし。内臓系など具沢山で有難い。店内は結構広かったが、お客で溢れており、人気のほどが分かる。それからカフェに移動して華人関連の話を続けた。カントー周辺は華人の多い場所、Iさんはその研究のため、こちらに職場をうつしている。明日は郊外の華人ツアーだ。

ベトナム旅2024(3)いざ、カントーへ

10月11日(金)カントーへ

朝は早く起きた。よく眠れたのはなぜだろうか。1階へ降りていくと、既に出張者のおじさんたちは朝食を食べ終わっており、一人で立派な鯖塩焼き定食を頂く。この食事だけでも何千円かしそうだが、宿代は朝食付きで6500円程度。もし事前に予約していたら、もっと安いらしい。これなら次回からハノイに来る時はここに泊まろう。歳を取ると誰しも、こういうサービスが有難いということだ。

朝の散歩を終えて、Grabで車を呼んで空港に向かった。ハノイから国内線に乗るのは久しぶり。国際線の建物とは少し離れていることを思い出す。今回は預け荷物もないので、スマホをかざしてサクサク入場。荷物検査は厳しいが、時間はかからない。結構時間が余っていたが、何とフライトはディレーした。何もすることが無く、ただ待つのみ。

ベトナム航空の機内は悪くない。乗客はかなり乗っている。機内食もちゃんと出る。2時間はあっと言う間に過ぎて、ふと気が付くと着陸した。カントー、初めて来る場所だ。空港はキレイだが、人はあまりいない。ATMでお金を下ろしてみると、ちゃんとベトナムドンが出てきた。Grabで車を呼べば、すぐにやってきた。快適だ。

空港前の道はかなり広い。カントー市内にほど近く、ベトナムの地方都市が現れる。予約した宿まで15分ぐらいで到着した。ここはカントー在住のIさんが勧めてくれたホテルで、雰囲気が良く、スタッフも親切だ。予約は1泊しかしていなかったが、すぐに2泊追加を願い出た。

ところがこのホテル、全ての部屋のデザインが異なり、部屋ごとに予約を受けている。私の部屋は明日から予約が入っており、使えないという。ふと見ると向かいの部屋がとても良さそうだった。今晩は塞がっているが、明日から2泊はOKとのことで、無事に問題は解決した。いや、宿で一番良い部屋をゲットした。バルコニーもあるし、おしゃれな空間は心地よい。

スタッフに地図を貰い、街歩きを始める。川沿いに向かうと、大きなホーチミン像が立っている。カントーにとってこの川が繁栄の源となっていた。ホーチミン像の向かいには、廣肇会館があり、この街の華人度の高さが窺われる。周辺を散策しても、華人の顔を持った人々が沢山おり、漢字表記の店も見られる。やはりここはホーチミンなどと比べても華人に対する寛容度が高い。

夕飯は宿のスタッフに聞いた地元料理、ニエムムオンを頂く。店に入ると言葉は通じないが、おばさんが親切に対応してくれて嬉しい。食べ方も教えてくれたが、ソーセージと野菜などをライスペーパーで巻いて食べるらしい。これはなかなかイケる。揚げ春巻きも旨いよ、というので頼んでみる。何だかほんわかした夕食となる。気が付けば店はお客で溢れていた。

食後散歩していると陽はとっぷりと落ちた。教えられた道を入ると、そこは華人街ともいえる食堂街で、ここに来ればくいっぱぐれないという何とも安心感がある。私は既にこの街が気に入っているという自覚がある。更に行くと池があり、その周辺の建物が何ともきれいに池面に映っている。

10月12日(土)カントー散歩

ゆっくりと目覚めた。朝ご飯はないので、フラフラ外へ出た。すぐに道端に人々が座ってコーヒーを飲んでおしゃべりしている場所に出くわす。覗くとバインミーがあるので注文して待つ。『チャー』と叫ぶとどこからかおばさんがやってきて熱いお茶と氷の入ったビールジョッキを持ってきてくれる。こういう雰囲気がたまらなく好きだ。

そこからカントー博物館を目指した。ベトナムの他の博物館同様、植民地時代の解放運動の戦士などが沢山顕彰されている。カントーには華人が多いと聞いているので、その辺の歴史が学べるかと期待していたが、残念ながらそれほど深くは取り上げられていなかった。華人の歴史は歴史ではなく、現在進行形なのだろうか。