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ある日の埔里日記2018その2(8)台中の誕生会

3月28日(水)
台中の誕生会へ

ようやく埔里に戻ってきたという感覚が強い。今やここ埔里が私のホームグランドだともいえるし、何とも落ち着く。好きなクラブサンドも食べられるし、静かでゆったりとしているところがよい。今日はお隣のおばさんに挨拶して、朝から米糕と肉羹を食べて、すぐにご機嫌になれる。

 

実は先日嬉しいことがあった。台湾では買い物をすると常に受け取る統一発票、その理由はこれが宝くじのようになっており、2か月に一度抽選発表があるのだが、前回ついに200元が当たっていたのだ。これまで一体どれだけのハズレをせっせとチェックしてきたことだろうかとその苦労?を思い出す。

 

しかし当たったのはよいがこれはどこで賞金に換えられるのだろうか?知り合いに聞くと『郵便局』というではないか。外国人も対象なのだろうか。恐る恐る近所の郵便局にこの発票を出してみると『裏にちゃんと記入しろ』と言われ、無造作にパスポートとともに返されてしまった。もう少し優しい対応はできないのだろうか。台湾の郵便局は15年前に株式会社化はしたが、民営化はしていないらしい。

 

そうだな、台湾の嫌なところはこんなところかもしれない。郵便局のサービスは旧泰然としており、『やってあげる』感が半端ない。お客が来れば仕事が増えると言った、昔日本でもあったサービスが今も堂々と健在だ。特に田舎は顕著であり、知り合い同士だとニコニコしているが、それ以外だと愛想はない。まあそれでも200元を手に入れてなんとも嬉しい。

 

今日はYさんのお誘いで、台中に出掛けることになっていた。待ち合わせ場所は郵便局の向こうだったが、既に他の3人のメンバーはそろっており、Yさんの車に乗り込む。音楽会だと聞いてはいたが、私にはどんな会なのかよくわからなかった。まあ折角のお誘いなので、取り敢えず同行した。

 

途中で建設会社勤務だったYさんが作ったというトンネルを潜った。このトンネルのお陰で埔里-台中間は劇的に近くなったのだ。有り難い。約1時間で台中市内に到着。何だかきれいな建物に入った。ここは結婚式場であるらしい。『故郷 春が来た 桜 音楽会』と書かれている。

 

中に入ると広い会場では、テーブルと席がどんどん増やされていた。その真ん中にピアノが置かれており、日本人女性が練習している。バイオリンを弾く男性も日本人。聞けば石川県からやってきて、以前もコンサートを開いている方々だという。合唱団?の女性たちがピアノに合わせて歌の練習。台湾で日本人の演奏を聞くというのも珍しい。

 

席に着くと、埔里や台中に住む台湾人が多く来ている。我々の周りには日本語ができる台湾人が何人か座っていた。さすが台湾、日本に住んだことがある人やYさんの日本語の生徒やらで、日本語が飛び交う。MCの女性は着物を着て、日本語と国語を自由に操っているからすごい。

 

会が始まるとすぐに紹介されたのが、家倉多恵子さん。彼女は話題の映画『湾生回家』に出演した台湾生まれの日本人女性で、今年88歳。今日はその米寿を祝う会だとようやく分かった。参加者からお祝いの言葉が飛び、誕生ケーキも登場した。映画を撮った黄監督もわざわざ台北から来ていた。なぜか彼は私のところに来て名刺交換した。今度ゆっくり話そうと約束して別れる。

 

食事が始まると料理がどんどん出てきて凄いことになっている。昼からこんなに食べられるだろうか。同時に各テーブルでは顔見知りを見つけての挨拶も盛んに行われ、日本語の歌が披露される。まさに結婚披露宴に出ているような感じになる。そうこうするうちにメインの演奏が始まったのだが、音楽を聴くという雰囲気にはなかなかならない。やはり今日は単なる演奏会ではなかったのだ。

 

実に久しぶりにこんな宴会?いや演奏会に参加した。ピアノもバイオリンも頑張って演奏のギア?を上げ、皆も音楽にノッて来た。『ふるさと』のような曲が流れると、何だか異国感があふれ出すのが不思議だ。そんなこんなで3時間近くに及んだ会が終わる。またYさんの車で埔里まで送ってもらう。今日は何だか稀有な体験をした気分だ。

ある日の埔里日記2018その2(7)梅山 龍眼で発見!

3月27日(火)
龍眼林へ

翌朝は晴れてはいなかったが、すっきりとした朝だった。8時過ぎには皆チェックアウトして外で私を待っていた。朝飯もまた同じ食堂で食べる。好物の地瓜粥があるのが有り難い。私以外は皆若いので朝からモリモリ白米を食べている。それから車は瑞里を離れ、龍眼に向かう。この区間はそれほど遠くないとのことだったが、決して近くはなく。アップダウンを繰り返し、家もない山道を行く。どこへ行くのかと不安になる。

 

1時間以上も乗ってついに龍眼に着いた。同じ梅山地区だがこんなにも遠いのだろうか。訪ねたのは1軒の茶農家であり、そこは周囲に家もなかった。古めかしい茶廠があり、中を拝見すると、最近きれいにされた製茶場と体験場が組み合わさったような空間が広がっている。その一番先端の窓からは茶畑がよく見えた。台湾の山中にはこんなところもあるんだな。

 

ここの老板、林さんが『もっといいところへ行こう』と歩き出すと、すぐに実に見事な竹の林の中を通る。これまでいくつもの台湾の山の風景を見てきたが、こんなに素晴らしい竹林を見たことはなく、この中にいるだけで大いに癒される。『京都の嵐山のようだろう』と言われて、ちょっと驚く。ここだけは保存しようと、歴代守られてきた空間だそうだ。その先の斜面には茶畑が広がっている。もうあと何日かで茶摘みが始まる。若い芽が伸びていた。

 

この龍眼での高山茶生産はかなり早い時期に行われていた。やはり6つの茶農家が始めたらしい。瑞里よりこちらの方がほんの少し先のようだ。従来青心烏龍などが植えられていたが、改良場の指導で、金萱なども植えられる。ここが高山茶の始まりだという人もいる。瑞里と同様の歴史を辿り、最近は紅茶やGava茶などの生産も行っている。

 

お昼には何と鍋に入った豪快なカレーが登場して驚いた。これはハウスバーモンドカレーのような味で何とも家庭的でうまい。私はこういうものが食べたかったのかもしれない。思わずお替りしてしまう。お茶ばかり飲んでいるのもよいが、何ともホッとした。林さんと会話していると意外な話が出てきた。彼のお父さんの時代に高山茶は始まったが、お爺さんの時代はこの付近の茶園管理を任されていたというのだ。それは一体どういう話だ、と思いながら次の茶農家へ向かった。

 

林さんが連れて行ってくれた王さんの家。ここも1970年代に高山茶を始めた一人だが、その理由は『日本統治時代の経験があったから2代目の父が踏切った』と3代目の王さんは言う。1920年代、標高1100-1200m前後のこの地に18ヘクタールもの茶園があったというのだ。そこに茶樹を植えた投資家がおり、10数年間茶作りが行われたらしい。ただ1930年代にはその投資家は投資を引き揚げたといい、その後はその茶園を引き継いだ地元民が細々と茶作りをしていたともいうのだ。

 

では一体茶作りは誰が行っていたのか。そこに王泰友という名前が出てきて驚く。彼は布巾包揉という布袋を使った揉捻製法を広めた人として台湾茶業界では知られていた。彼は1940年前後にこの製法を広めたようだが、その時茶荘は台北ではなく、斗六に開いていたから、可能性は十分にある。ただこの時代、一体どんなお茶が作られたのか、それはよくわからないのが何とも残念だ。

 

更にはもう1軒、82歳になる林さんを訪ねる。こちらもご自身が高山茶を始めた人だが、『1970年より前から、母親が烏龍茶を作っていたよ』と、軽く言う。その品種は武夷と山茶の雑種だったともいう。そして倉庫から何と42年前にそのお母さんが作ったというお茶を出してきて飲ませてくれた。勿論老茶となっていて黒黒しているの

今日訪ねた3軒を見ると、日本統治時代に茶園があったことは確実で、その茶園は地元民が引き継ぎ、細々と茶作りが行われていたが、高山茶の開始と共にその経験を生かして茶作りが本格的に再開されたということだろうか。だがその後多様な高山茶が生まれ、徐々に生存が難しくなっているという現状がある。

 

龍眼からグルグルと山を下りて高速道路に乗り、車で埔里まで送ってもらった。トミー達は明日も埔里でイベントがあるようで、助かった。それにしても、梅山の茶の歴史、初めて聞く話が多く、消化しきれないが何とも面白い。次回はもう少し深めてみたい。

ある日の埔里日記2018その2(6)梅山 瑞里の茶

3月26日(月)
梅山へ

翌朝は早く起きて荷物を引き摺って台北駅に向かった。珍しく高鐵に乗り、台中へ向かう。これまでは全て埔里からバスで向かっていた台中高鐵駅、そこでトミーと待ち合わせていた。高鐵はやはり便利で速い。1時間で台中に着くのは埔里からバスに乗るのと大差ない。ただ費用は数倍違うが。それでも日本の新幹線に比べれば半分程度か。

 

高鐵駅のいつもの場所で落ち合い、車は嘉義方面に向かう。今日は後ろの席の陳さんと茶スターという2人の若者も同行している。車は高速道路を走り、梅山に登る道に入る。36の九十九折があり、かなりの急カーブを上って行くと、ちょっと車酔い気分になる。ちょうど標高1000mの表記が見える。太平という場所、定義上ではここから上が高山茶エリアだが、茶畑は道路沿いには見られない。

 

あるのは恐怖の遊歩道、下が丸見えの天空橋だけだった。なぜこんな橋を観光目的で作るのか。高所恐怖症の私には全く理解できないが、平日でもかなりの人が歩いているから驚く。ここでトイレ休憩したが、食事場所も観光地料金で、何もせずにまた車に乗り込む。その先には茶畑が見え始め、少し気分が高まる。

 

山道を約1時間で瑞里に着いた。この地名は聞いていたが、来るのは初めてだった。というか、ご縁がなく梅山自体に来るのが初めてなのだ。なぜか藤棚があり、藤の花が見ごろということで、観光客がミニバスを連ねて、多く訪れていた。大型バスは入れない。『日本の藤棚はきれいだろう』と聞かれたが、確か5月頃咲くのではなかったといった程度の認識しかなかった。台湾では日本人以上に日本が知られている。

 

今晩はここに泊まるのだという。取り敢えず昼ご飯を食べるために食堂に入ったが、満員の盛況だ。タケノコなどの地元料理のコースを食べる。その後、すぐ近くにあるトミーの知り合いの茶農家を訪ね、食後のお茶を頂く。かなり立派できれいな茶荘を兄弟でやっている。

 

午後は梅山の茶の歴史を聞きに行く。食堂の横にある今は営業していない宿に行くと、林さんと陳さんが待っていてくれた。林さんは80歳だというが、非常に元気で、自らの茶業体験を熱く語ってくれた。ここはかなり貧しいところで、地瓜などを作るだけで出稼ぎなどに行く者も多かったが、1979年頃、茶業改良場の指導もあり、高山茶向きの茶樹を植え始めたという。

 

当時は凍頂烏龍茶などが盛り上がり始めており、茶を作ればいい値で売れると言われ、生産計画が立てられたらしい。1990年代には最盛期を迎えた瑞里の高山茶、その後は921地震や化学肥料問題などもあり、2000年代に入ると他の高山茶地区の茶に押されて衰退していったという。

 

瑞里を歩いていると、斜面に檳榔樹があり、茶畑が広がっていた。そこをゆっくり散歩すると涼しくて気持ちがよい。その先の廟まで辿り着くと、そこには嘉義県珈琲産業発展協会という文字が見えた。我々が次に訪ねたのは何とそこだった。王さんも1980年頃、瑞里に茶樹を植えたメンバー(6人衆)の一人だった。奥さんが珈琲を持ってきてくれたのが、これまでの訪問と全く異なる、珍しい体験だった。

 

『2000年に入ると茶よりコーヒーだと気付いたんだ』という王さんは珈琲協会の創始者だ。元は高雄で造林業も行っていたと言い、木を扱うのには慣れていた。1980年代には瑞里茶はコンテストで入賞するなど優位性があったが、その後は阿里山、梨山、杉林渓などの高山茶に押されてしまい、コーヒーへの転換を決断した。最近は上島珈琲とも提携するなど、コーヒーブームに乗っている感じだ。

 

夕方宿泊先の部屋に入る。思ったよりきれいな部屋だ。少し休むともう夕飯だ。この辺には食べるところはあまりなく、昼と同じ食堂で食べる。茶壺食堂という名前だが、なぜこの名前を付けたのだろうか。店には特に茶壺は見られない。料理はパイナップルが入ったスープが印象的だった。

 

夕飯後、再度昼食後に行った茶荘を訪ねた。王宏誠氏、お父さんがやはり高山茶6人衆の一人だったというが、自分は歴史のことは分からないと、昼間の面談をアレンジしてくれていた。彼らは新しい茶業の形を考えていかなければならない世代。色々と話をしたかったが、お茶を飲んでいるうちに、ものすごく眠たくなってしまい、私一人だけ離脱して、部屋に帰って寝てしまった。まだ午後8時だったから、今日の朝が早かったからか、また最近かなり疲れていたのかもしれない。この静かで涼しい山の中ではよく眠れるのが有り難い。

ある日の埔里日記2018その2(5)茶の歴史談義

3月25日(日)
茶の歴史談義

埔里ではいつも朝昼兼用で10時半頃クラブサンドを食べる習慣になっているが、この宿泊先付近にはそういうお店はあるのだろうか。駅の方に歩いていくと見付からないが、駅と反対方向にはあったので入ってみた。ちゃんとクラブサンドと書かれていたので注文したが、出てきたのは三角のトーストにハムや卵を挟んだだけ。私はこれを手抜きと呼んでいるが、コストの高い台北ではこれが一般的らしい。あの埔里の丁寧に作られた安くてうまいクラブサンドが恋しい。

 

台北に来てから気になっていたことがある。今の宿泊先のすぐ近く、歩いていける距離にこだわりの茶人、小楊の家があったはずだ。もう2年以上も連絡を取っていないが、まだ健在だろうかと。そして恐る恐る昔の携帯番号を探し出し、電話してみると、『おー、今どこにいるんだ。遊びに来い』という話になり、嬉しい限りの再会となる。

 

宿泊先から歩いて10分もかからない。MRTなら一駅以内の距離に、懐かしい家がある。普通の家なので、看板もなく、一見さんは入ることすら出来ない小楊のお店がそこにある。階段で5階まで上がると、奥さんが迎えてくれた。二人とも特に変わった様子もなく、室内も大きくは変化していないように見えた。

 

小楊はいつものように飄々として湯を沸かし、いい感じの急須を使って、美味しいお茶を淹れてくれる。これもいつものように私には買えないような高価な茶を。この落ち着いた空間、懐かしいというか、斬新というか、まったり過ごせる。取り敢えず長いご無沙汰の時間を埋めるために、近況などを報告する。

 

その報告の中に、『最近台湾茶の歴史を学んでいる』と話すと、いつもはあまり話をしない奥さんが乗り出してきて、包種茶、紅茶、高山茶などについて、色々と説明をしてくれた。彼女は台北近郊の茶農家の娘だそうだが、実は茶の歴史をかなり深く勉強しているようで、一般的に言われている歴史+自らの体験+先祖の話を合わせてしてくれ、とても参考になるので、驚いてしまった。史実はネット上で語られているだけではないのだ。

 

どんどん話が深くなっていく。私は興味津々で来ているが、その内どうしても資料が欲しくなる。『資料に書いているようなこと、資料があるようなものが果たして真実か』とは思うものの、物を書く場合、どうしても何らかの根拠が必要だと感じてしまうのだ。それは仕方がないことだが、また資料がないのも仕方がないと思うのだ。

 

小楊が『そういえば最近知り合いが本を出したよ。彼の本なら何か歴史にも参考になるかもしれない』というので、どこで買えるのかと聞くと、急に電話を掛けて、『今から買いに行こう』というではないか。意外性の小楊というべきだろうか。面白い。3人で急ぎ外へ出て、タクシーを拾う。

 

どこまで行くのかと訝っていると、到着した場所は何と西門町近くの中山堂。昨日久しぶりにこの地区を歩いていて、中山堂は今どうなっているのだろうかと思ったので、ちょうどよい機会となる。古風な建物の中に入り、エレベーターで4階に進むと、予想していなかった茶館?があり、お茶を飲んでいる人がいた。廊下にも茶を飲むスペースがあり、かなり静かなので、ゆったりできそう。

 

小楊とここの老板は知り合いのようで、早速先ほど問い合わせた本を取り出してくれ、ゲットできた。この本は茶の雑学全般が書かれているようだが、著者の体験も多く、参考になりそうだ。小楊と老板は何か商談をしているようだったので、この4階を見て回る。何と茶に関する講演会もここで月1回程度行われており、かなり有名な人々が登壇するらしい。チャンスがあれば一度聞いてみたい。また畳の部屋なども用意され、茶芸を楽しむこともできるようだった。今度は休息のためにここに来よう。

 

中山堂を出ると小楊がご飯を食べていこうという。結構時間は早かったが、私は今日1食しか食べていないのでその提案に従い、西門町の駅の方へ向かう。今日は週末でその付近は人で溢れていたが、まだ早かったせいか、彼が入りたかった鴨肉の店に何とか席を確保した。ここでは麺を頼み、なぜか鴨ではなくガチョウの肉を食べる。料理自体は美味しいのだが、老舗だというのに、何とも不思議な構図だった。

ある日の埔里日記2018その2(4)西本願寺から華西街へ

3月24日(土)
台北散歩

翌日の土曜日はゆっくり起き上がり、昼近くになってフラフラと出掛けた。MRTに乗り中正紀念堂で降り、紀念堂には行かずにその周辺を散歩した。最近は台北に来ても余裕がなく、こんなあてずっぽうな旅は久しぶりだった。紀念堂の反対側には国家図書館があり、何か資料が見つかるかもしれないとは思ったが入る気分になく、そのまま抜けて台北賓館を横目に見ながら、総統府の方へ向かって歩を進める。

 

休日の昼時、この辺の人通りは少なく、天気は良いが暑くもなく、快適な散歩となった。愛国西路、そんな道があったんだ、知らなかった。そこには古めかしい建物が見えたが、なぜか立ち入りが制限されている。日本統治時代の専売局の跡らしい。このあたりは街路樹も生い茂り、雰囲気も良い。

 

ダラダラ歩いていくと、西門町まで出てきてしまった。ここから台北駅の方に向かうと、何といつの間にか、西本願寺が復元されているではないか。日本統治時代に建てられたが、光復後は跡形もなくなっていると思われたこの寺、本堂はなかったがその台座は残されており、周囲は公園のように整備され、小山の上には鐘撞堂まで復元されていた。1975年の大火で焼失したとされる本堂、5年ほど前に突然現れたらしいが、全く知らなかったので驚いた。今の日本ブームを象徴するような現象であり、そこには週末ということか、大勢の台湾人が家族で訪れていたのが印象的だった。

 

確か台北には西本願寺だけではなく、東本願寺もあったはずだが、こちらはどうなっているのだろうか。検索を頼りにその場所を探してみるが、全く見つからず。どうやらデパートになっており、西のように再建される雰囲気はないようだ。勿論でデパートの周囲のどこにも東本願寺跡、と言った表示すらない。東と西の明暗を分けたものは何だったのだろうか。

 

折角ここまで来たので、懐かしの萬華を歩いてみようと思い立つ。華西街、私が住んでいた1990年頃は仄かに赤線街が残り、夜はちょっと危険な香りがしたものだ。蛇の生き血を飲ませるショーが常に行われており、なぜかそこでは日本のプロレスのビデオが流れている、そんなオールドファッションな場所だった。

 

華西街観光夜市、昼間のせいか、昔とは全く違うのか、萬華付近は静寂を保ち、古い建物は散見されるものの、猥雑な雰囲気は全くなく、ただのきれいな道だった。華西街も家族連れや若いカップルが歩く、健全な雰囲気が漂い、あのけだるい光景は見られなくなっていた。何となくスーッと歩いて抜けてしまった。30年前、ここに来る時は身構えた思い出があるが、今はスーである。

 

そのまま歩き続けるとやはり観光スポットである龍山寺に辿り着いた。さすがにここまで歩いてくると暑い。何となく30年前を思い出し、木瓜牛乳が飲みたくなってしまう。昔はよく飲んだものだが、最近はとんとご無沙汰だった。周囲を見渡すと、何とか一軒のきれいな店を発見。そこで木瓜牛乳を注文したが、甘さをどうするとか、色々と聞かれて面倒。あの圧倒的な甘さがいいのでは?更には料金も随分と高くなっている気がする。ここにも古き良き台湾は無くなってしまったように感じてしまった。

 

龍山寺も34年前、初めて台湾に来て最初に観光した場所だった。あの頃も観光スポットではあったと思うが、もっと熱心な台湾人信者が一心に祈りを捧げており、かなり迫力があったことを覚えている。今は寺自体も何となくスッキリしており、MRTの駅まで目の前に出来ており、参拝者も外国人中心に変わっているようだ。さすがに疲れ果てたので、MRTに乗って帰る。

 

休息後、晩御飯を探して彷徨う。ちょうど海南チキンライスの看板が目に入り、思わず中へ進む。新しい店らしくきれいだが殺風景。蒸したチキンが載っているのは確かだが、どことなく海南チキンとは違うように感じられる。台北は埔里より物価が高い。これで120元、量的には満足だが、質的には厳しい。やはり台湾では、台湾のものを食べるべきかもしれない。

ある日の埔里日記2018その2(3)石門の茶工場へ

3月23日(金)
石門へ

翌朝は葉さん夫妻の案内で石門へ向かった。石門と言えば、石門水庫を思い出してしまうが、台湾には同じ地名がよくあるのだ。今日訪ねたのは、基隆と淡水の間にある石門だ。ここは交通がかなり不便で、自分では行けないと思っていたところ、車を出してくれるというので便乗した。

 

車は台北市内を抜けるといつの間に高速を走り、気が付くと海岸線に出ていた。確か30年近く前、この近く、金山とか野柳とかに来た記憶はあるが、当然ながら当時と比べれば相当に道はきれいになり、海岸線もきれいになったイメージがある。ただ車は殆ど走っておらず、かなり寂しい雰囲気にはなっている。

 

そして車は海岸沿いの道路から、小高い丘を登る、というより、内陸に分け入っていく。そこには古めかしい茶工場が見えた。草里製茶廠との表示が見えるが、人がいる様子はない。電話を掛けると、謝さんが出てきて迎えてくれた。彼はまだ30歳と若い4代目。ここ石門は、日本統治時代には、かなりの茶畑もあり、紅茶や包種茶が作られていたというが、今やその面影はない。

 

おじいさん、80歳代の謝国村さんが話をしてくれた。『日本時代、私のお爺さん(初代)は茶作りの名人だった。総督府より巡回教師に命じられたほどだ』と言い、実物の任命書を見せてくれた。このような現物を見るは初めてだったので、かなり興奮した。よくもこれを保存していたものだ。それにしても、正直茶作りではそれほど名前を残していない石門に、茶作り名人がいたというのはどういうことだろうか。しかも巡回して教えた場所は、あの文山地区、そこは茶作り先進地区ではなかったのか。これはどういうことだろうか、謎は深まるばかりだ。

 

1980年代には茶の輸出も止まり、石門の茶業は危機を迎えた。そこで鉄観音茶作りが始まり、また農会ベースでティバッグ作りを行うなど、新しい取り組みがあり、現在に至っているという。茶作りを続ける農家は多くはない中、この茶廠では若手の4代目がおり、頼もしい限りだ。またこの地では日本時代、アリバン紅茶というブランドの紅茶が作られていたが、こちらも復活されている。この紅茶が当時どのような物であったのか、ちょっと興味ありだ。

 

茶工場を見学した後、帰ることになった。茶畑が見たかったが、この工場の山の上にあり、車が入れない場所だというので断念した。一体なぜこの海辺の丘の上に茶畑が作られ、往時は大量の茶が作られたのか、そしてなぜ廃れていったのか、今回の訪問だけではとても理解するのは難しい。また来る機会が有ることを期待するのみだ。

 

車は海岸沿いを更に進む。そしてまた横道に入っていく。三芝地区だ。すると葉さんが『ここが李登輝元総統の故居です』という。李登輝氏は台北の人だと思い込んでおり、その生まれがどこかなどは考えたこともなかった。車で通り過ぎただけでそこで降りることはなかったが、見学に訪れている人々がおり、今は観光スポットになっているようだ。

 

その先にレストランがあった。なんでこんなところに、と言いたい場所にあるのだが、駐車場には車が沢山あり、店内は満員だった。ここは中国で言えば、農家菜の店、田舎の新鮮な料理を食べさせるところだった。環境もよく、空気もきれいなので、中国でも台湾でも、今はこういうところが人気のようだ。

 

やはり名物の蒸し鶏はうまかった。野菜も新鮮でシャキシャキしており、台北では見られないような鮮度であった。満腹で外へ出るといい天気の中、梅などが咲いており、そののどかな光景は人を癒すに充分であった。かなり高い満足度を持って帰路に就いた。帰りは淡水側を回り、MRTの駅で降ろしてもらった。葉さん達はそのまま会社に出勤していく。

 

実は今回の旅はアメリカに住む葉さんのご主人、林さんのお兄さんも同行していた。帰りのMRTの中では、彼とずっと話していた。彼はスキーが好きで、何度も日本を訪れており、その印象を色々な角度から語ってくれた。アメリカに比べれば何でも安く便利だといい、総じて日本はいい、ということだったが、困ったことも色々とあるようだったし、果たして今後も日本の良い点が保てるのだろうか、ちょっと心配になる会話であった。