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シベリア鉄道で茶旅する2016(26)エルミタージュを駆け抜ける

S氏を寒い戸外で待たせているので、殆ど話は聞けなかったが、ここでこの店に出会うとは何たる偶然。最後にこの辺にお茶屋はないかと尋ねたところ、1軒の店を紹介してくれたので、そこへ行ってみることにした。その店もエルミタージュに行く途中にあるというので都合がよかった。それにして町並みはヨーロッパ、それも重厚な印象だった。川の水は半分凍っており、まだ寒さは厳しかった。

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その店は大通りから少し入ったところにあったが、入るなり、漢方薬のにおいがした。中には大益のプーアル茶を中心に、かなりのお茶が並んでいた。S氏は全く興味がないという感じで、すぐに外へ出て、タバコを吸っていた。私は質問したいことが沢山あったが、可愛らしい店員は全く英語も中国語も分らず、ただ微笑むだけだった。ほんの少しだけ湖南省のせん茶もあり、万里茶路の終着点を垣間見ることとなる。だが現代において、誰がこれらの茶を買うのだろうか。基本的には紅茶を飲むのだろうに。この店のオーナーは中国人なのだろうか。様々な疑問が頭を過るが推測の域を出ない。

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S氏はデパートかスーパーにクスミティーが売っていないか確かめたかったようだが、どう見ても今のロシアには売っていそうにない。クスミティーは確か1860年代にこの地で誕生したが、ロシア革命で本店がパリに移り、その後創業家は株も手放してしまっている。ロシア人はどれほどクスミティーについて、知っているのかさえ疑問だ。いわゆる貴族というものがこの国には未だにいるのだろうか。

 

仕方なく店を出て、横の両替所で両替した。入り口を入ると半地下になっており、警備員がいて、両替はその奥で行われており、何となく怖い感じだった。レートは悪くなかったので、100ドルを替えた。これで私のルーブル調達はほぼ終わった。あとは大通りをまっすぐ歩いていくだけ、エルミタージュはすぐそこに迫っていた。

 

エルミタージュへ

ついにここまでやってきた。北京から130時間を掛けて、ここまで来たのはこのためだった。S氏はクスミティーを持って、広場で記念写真を撮っている。エルミタージュ宮殿では、往時エカテリーナ2世が、お茶会を開き、万里茶路を通じて運ばれた高価な紅茶を飲んでいたことだろう。それを少しでも感じられれば、今回はそれで満足だ。S氏も本を書くにあたり、この美術館のティールームで紅茶を飲むのは絵になるだろうと考えていた。

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美術館に入るには、長蛇の列だ、と聞いたことがあったが、今は3月、すぐに中には入れて、切符もすぐに買えた。写真代込みで600㍔。次に地下のクロークへ行き、上着とバッグを預けて、荷物検査を越えてようやく入場となる。何しろ広い。まずはティールームを探すとすぐ近くにあったので、紅茶を注文してみた。何とティバッグに、スチロールのコップ、なんともがっかりだった。ここまで来てこれかよ、やはりロシアの茶文化はその程度か、などと心の中で叫ぶが、何とも仕方がない。開いている席に座り、うな垂れながら味わうこともなく飲み干す。

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ここで一旦解散し、各自見たいものを見ることにした。だが集合時間まであと40分、この広い館内で一体何を見るというのだ。私としては、絵画などを見るよりも、ここでは宮殿としてのエルミタージュを見て、エカテリーナに思いを馳せる方が、万里茶路的には良いであろうと腹をくくった。まず2階に上がる階段が凄い。まるで映画に出てくるようだ。ヨルダン階段と呼ばれ、エルミタージュに来る人ならだれでもここを登り、誰もがここで写真を撮る。それほどに美しく、天国への階段、という雰囲気だった。ここは冬の宮殿で、外交の中心でもあり、各国大使が登ったとも言われている。

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2階に上がると宮殿広間などがある。小玉座の間は、ペテルブルクに都を移したピョートル大帝の間とも呼ばれているが、作られたのは19世紀後半とか。その奥には大広間があり、ここで華やかな外交、パーティーが繰り広げられたことだろう。元々エルミタージュはエカテリーナ2世が集めた美術品を納めていた場所。彼女がここでどんなお茶を飲んだのかは実に興味深いがその資料をまだ目にしてはいない。万里茶路に関する手掛かりは、ここでもほぼ何も得られなかった。大黒屋光太夫がエカテリーナに会ったのも、ここではなく、夏宮だと言われているが、我々にはそこまで行く時間もない。

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あとは道に迷いながら適当に見た。3階には東洋美術も収められており、その収容能力の高さを物語るが、見学者はほぼいない。2階に戻って、ダヴィンチやカラヴァッジオを見ようと思ったが見つからず、代わりに目の前にルーベンスの『大地と水の結合』という絵が現れた。エルグレゴもやってくる。印象派など全く行きつかない。途中で断念して集合場所に戻ってみると、既に2人が待っており、早々に退散となった。そう滞在時間、わずか45分のエルミタージュとなった。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(25)ペテルスブルクの福寿園

 サブサン特急

サブサン特急という名称のこの列車、流線型の車体は新幹線を思わせる。列車に乗り込んだ。何ともきれいでシベリア鉄道の歴史的な趣とはかなり違って近代的。座席もフカフカで、トイレもきれい。Wi-Fiも無料で繋がる。しかもすごく速い。これで3日間、音信不通だった人々に連絡することができた。充電も可能で言うことなし。車内放送に英語があり、車掌が普通に英語を話してくれるのは何とも有り難い。日本の新幹線の車掌は英語が普通に話せるのだろうか?

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荷物の置き場もちゃんと用意されており、私はケースをそこへ置く。すぐに車内販売の女性が2人やってきて、モーニングコーヒーを売り出す。もうこれは日常風景であり、資本主義社会だった。シベリアは現代でも完全に見放された別世界だったということか。皆がスマホをいじり、新聞を読み、中にはPCを取り出して仕事をしている人もいる。日本と全く変わらない風景に大いに和んでしまった。63時間の疲れも吹き飛んだ。そして僅か4時間など、目をつぶっていればすぐに過ぎる時間だと、シベリア鉄道で嫌というほど教えられていた。

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しかし車窓から外を覗くと、相変わらずの雪景色。天気は良いが、風が強い。平地を走っていることが多いのは、救いかもしれない。車内はポカポカ温かいが、外は結構寒いようだ。途中の駅でかなりの人が降りていく。どんな駅なのか、大都市はあるのか、車内からでは見当もつかない。折角なので、席を移動して、スマホの充電を行う。この列車はある意味で長距離列車とは言えないので、充電する人など殆どいない。

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9.サンクトペテルブルク
スリに遭う

4時間などあっと言う間に過ぎて行き、終点のサンクトに着いたのは午前11時半頃だった。モスクワ、サンクト間の時差はない。車両から降りて、ホームを抜けて、駅舎に入るところに荷物検査があった。私の後ろから人が突っ込んできて、私を追い抜いた。やけに乱暴なやつがいるなと思ったが、考えてみるとちょっと怪しい。背負っていた私のリュックを念のため見ると、何と小さなポケットが開いていた。まさかスリだったのか?

 

そしてどんどん先に行ってしまうS氏を追いかけて速度を上げていると、何と横からぶつかってきた若者がいた。すぐに彼は小走りに居なくなる。なんだかおかしい。もう一度リュックを見てみると、今度大きなチェックが完全に開いていた。何ということだ。5分の間に2人ものスリに遭った。こんな経験は初めてだった。だが幸いにして何も取られていないようだった。あとで地球の歩き方を見ると、サンクトではスリに注意と書かれていた。私は全くも幸運だったのか、それともスリが新米だったのか。

 

取り敢えず、ルーティーンの切符売場へ。しかしやはり、明日のムルマンスク行の切符は1枚もなかった。なぜだろうか、1日に2-3本はあるようなのに。明後日か、今日の夜か、この2日の切符はまたなぜかある。何とも究極の選択だった。それにしても体の洗濯がしたい!既に4日間、シャワーを浴びていない。今日は間違いなく浴びられるという思いで、ここまで来たのに、なぜこうなるのだろうか。しかしすでに体勢は決している。残りの二人は今晩発つつもりなのだ。もう仕方がない。

 

取り敢えず切符を買って、昼ご飯を食べる。駅前のカフェ。美味しそうなスープ、上からパンが被せてある。これを注文するとチンして温めてくれた。パンを破ってスープを口に含むと、濃厚で得も言われぬ美味しさ。中身はジャガイモと豚肉が中心だが、シベリアとはやはりちょっと違う。おしゃれだ。そう、ここサンクトペテルブルクもモスクワ同様、おしゃれなヨーロッパなのだ。兎に角今晩にはここを離れるのだから、エルミタージュ美術館だけはどうしても行きたい。

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お茶事情

駅からエルミタージュの方へ歩き出す。が、方向はよくわからない。周囲の人に聞くがやはりよくわからない。駅でもらった地図を見ながら進む。数分歩いたところに、ホテルがあったが、何気なくそのプレートを見ていると、何と福寿園の文字が見えるではないか。ふと京都の福寿園に行った時、『サンクトぺテルブルクにもお店が出たんです』と言われたのを思い出す。もしやこれがその店なのだろうか。S氏とNさんは興味がないようなので、一人で入ってみる。

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店は2階だというので上がっていくと、奥に日本茶が置かれており、急須やお菓子も売られていた。そこにいた男性に英語で声を掛けたが、無言で窓際を指さした。そこには日本人がいた。彼は以前よりロシアで貿易のビジネスをしており、今後ロシアでも日本茶の需要が伸びることを想定して、福寿園とタッグを組み、昨年ロシア市場に参入したという。煎茶だけではなく、抹茶やほうじ茶など、まんべんなく売れているとのことだった。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(24)モスクワ滞在2時間半

 3月18日(金)
8.モスクワ
泊まらない

63時間の列車旅が終わり、午前4時台にモスクワのヤスラフスキー駅に降り立った。思ったほど寒くはない。やはり首都、飾り窓が見える立派な駅舎だった。雰囲気も完全にヨーロッパ。ようやくロシアに来た、という実感が沸いた。やはりシベリアはある種のアジアだった。乗客はそそくさと出口へ向かうが、我々はルーティーンである切符売り場を探した。それは2階にあったが、朝の5時前に切符を買う人などいる訳もなく、夜勤の若い女性が欠伸していた。

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S氏はすぐにそこに切り込み、サンクトぺテルブルク行きの切符の有無を聞き出す。相手は英語がほとんどできず、不慣れでもあったので手間取ったが、何と2時間半後の7時半発の切符があるという。だが、この窓口はクレジットカードが使えなかった。他の窓口には係員はいない。我々はルーブルを如何に調達するかで、色々と策を練っていた。私はキャプタで両替したルーブルがあるので使えるが、それで皆の分も払うと精算が面倒になるので、カードも併用してバランスをとっていた。

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Nさんが近くのATMに走り、キャッシングでルーブルを調達して、切符を購入した。何とこれでモスクワ滞在時間は2時間半となってしまう。63時間も乗ってきて、モスクワに泊まらない。私の旅では全く考えられないシナリオだったが、流れに任せるしかない。それが私のシナリオだった。しかし夜明け前のモスクワ、どこへ動くことも出来なかった。唯一の救いは、サンクト行の列車が出るレニングラード駅は、我々のいるヤスラフスキー駅の目の前にあることぐらいだった。サンクトの昔の名前はレニングラードだから、この駅発なのだろう。立派なドーム型の建物を抜けて外へ出た。

 

流石は首都、夜明け前でも車が走り、タクシーの運転手は盛んに声を掛けてきた。一応ライセンスを持っているようでそれを見せながらやってくるが、それほどしつこくはない。それにしても、向こうに見える駅のライトアップは実に見事だった。思わず写真を撮っていると、車にひかれそうになる。この光景もヨーロッパそのものの印象。これまで100時間も走ってきた、シベリアとは根本的に国が違っていた。

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レニングラード駅は既に人で混雑していた。サンクト行の列車は6時台から運行があり、かなりの頻度で走っていた。モスクワには駅が沢山あると言っても、この駅がモスクワの玄関口、という印象を受けた。取り敢えず2階に上がり、カフェを探す。きれいなカフェがあったので入ったが、シベリア駅前のカフェとは全く料金も異なり、置いてあるものも欧風だった。皆がコーヒーを飲み、おしゃれなパンやサンドイッチを食べている。私もそんな朝食を食べてみたが、シベリアでボルシチ、ピロシキを食べた時の、2倍の料金だった。このカフェではネットも繋がり、久しぶりにメールチェックなども行った。既に世の中から隔絶されており、孤島から生還したような気分だった。

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このカフェで休んだのち、駅の探検をした。63時間の列車の旅では疲れもあったが、何より運動不足だった。更にここから4時間、また列車に乗るのだから、少しは歩こうと考える。ただ私は荷物が重く、思うようには歩けない。Nさんはまず切符売場へ行き、サンクトから最終目的地、ムルマンスクまでの列車の有無を確認していた。これが一番大事。茶葉の道の終点はサンクトだが、我々の旅のゴールは、そのはるか先、北緯68度50分にあるムルマンスクという港町だったのだ。窓口の係員もさっきの不慣れな女性ではなく、ベテランだったのだが、なぜかムルマンスク行きの切符はない、というのだ。また暗雲が立ち込めるが、こうなればサンクトに行って聞くしかない。

 

駅の地下には、大きなコインロッカーがあった。これまでは荷物預け所で有人対応だったが、ここで無人に変わった。ロシア語しかないので、使い方には不安があったが、今回は使わなかったので、不便かどうかは分らない。ドリンクも自動販売機が設置されており、人件費が高いことを物語っていた。携帯シムの課金もしたかったが、ショップも見当たらず、どうしてよいか分らずに、そのままサンクトへ行き、考えることにした。

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7時前には改札を通り、ホームへ向かった。きちんとした荷物検査もあり、乗客が多いのでかなり混雑していた。ホームへ行くと、既に立派な車体の列車が入線していた。これはまさに新幹線だった。停まっていた列車は我々が乗る1台前のもので、少しして満員の乗客を乗せて出発していった。もう列車に乗るのはこりごりだ、と思っていた私だが、こんな列車なら乗ってみても良いかと思えるものだった。むしろ乗るのが楽しみになってきたと言ったら、怒られそうだったが、そんな気分転換がないと頭がおかしくなりそうだったのだろう。

シベリア鉄道で茶旅する2016(23)モスクワまでの長い道のり

 夜中にエカテリンブルグという大きな駅を通過したが気が付かなかった。昔はここから東はシベリアだったという。午前7時頃、ペルミという駅に停まった頃には、ぼっと起きだして、アップルジュースを飲む。地球の歩き方を買って来たのだが、何と大ボケで、ロシア全般編を買ってしまっていた。これにはイルクーツクもバイカル湖も載っておらず、シベリアでは使えなかった。なぜだろうかと悩んでいると、何ともう一つシベリア編『シベリア&シベリア鉄道とサハリン』があるとわかったが、後の祭り。今回買った物はモスクワ以降で活躍してもらおう。それにしてもなんだかな。中身も見ずに買ってしまうとは。

 

外は雪だった。これぞシベリア鉄道、雪の白樺並木、だった。ぽつぽつと家が見えてくる。恐らくはウラル山脈を越えて、モスクワに近づいている。気持ちが少し高鳴る。だがその家も雪に埋もれていた。ウラルを越えればヨーロッパだというが、その雰囲気はみじんもない。この辺ではモスクワとの時差が2時間に縮小していた。

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シベリア鉄道には3つのルートがあるらしい。モスクワ – ウラジオストクを結ぶ本線の他、先日乗ってきた北京からモンゴル経由のルートをモンゴル鉄道、そして中国東北部を経由する東清鉄道もある。更には第2シベリア鉄道として、バイカル-アムール鉄道(バム鉄道)というのまであり、今回シベリア鉄道に乗ったと自慢しても、その一部に過ぎないことに愕然とする。正直鉄道オタクでもない私にもう次回はない、と思いたい。

 

昼に近い朝ご飯は買っておいたパンを食べる。このパン、中味は甘かった。それに加えてビスケット。ロシアはビスケットが美味しい。これと紅茶で充実した朝食になる。午前11時頃、バレジノ駅に停まり、少しずつ乗客が降りていく。駅でもパンなどを持って売っている売り子が出てきた。段々モスクワが近くなってきているような気がするが、実際にはもう一晩寝なければならい。きつい。

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昼過ぎに、どうしても一度は食堂車でご飯を食べて、その写真を撮ろうということになり、昨日と同様、重い扉を押し開けて、食堂車に向かった。相変わらず、端っこにあるこの車両にお客はいなかった。そしてメニューは高かった。しかもシベリア鉄道らしいメニューを何とか探して注文するも、できないものが多かった。このお客の数では仕方がない。材料の調達も出来ていないのだろう。

 

結局バイカル湖の魚など、一人が一品ずつ注文してみたが、出てきた料理の量の少なさに愕然とした。味は悪くはなかったが、これでは誰も食べない訳だ。皆で適当につつきながら、かなりわびしい食事となってしまった。夏の観光シーズンなら、もう少し何とかなるのだろうが、それでも腹一杯食べたら、いくらかかるのだろうか。まあ食堂車で優雅に食事をするのは金持ちだけなのだろう。我々は退散せざるを得ない存在なのだ。

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午後はもう呆けて暮らすしかなかった。何もする気にはなれないし、寝ることさえ、苦痛だった。兎に角早く前へ進み、モスクワに着いてほしい、と願うだけだった。窓の外を見ると、家が多く見えるところがあり、もう都市が近いかなと思うと、また雪の大草原になる。そんなことの繰り返しだった。午後3時頃、キーロフ駅に停まる。夕方にはコンパートメントのドアを閉めて、S氏とNさんはちびりちびり始める。周囲のロシア人はもう出来上がっている人もいた。既にスマホもチャージ不足で使用できなくなっており、私にはやることが全くなかった。

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暗くなった頃、どこかの駅に着き、久しぶりにホームへ降りる。駅舎内にカフェがあったので、何か温かいものでも食べられるかと思ったが、ピロシキなどパンを売っているだけだった。結局夕飯は車内で、残りものを中心に食べる。何といっても明日の早朝にはモスクワに着く。そうすれば、シャワーも浴びられるし、食事も自由に取れるのだ。

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だがS氏は『モスクワはホテルも高いし、何しろ分り難い街だ』という。駅も主要なものだけで8つもあるらしい。『まあ、モスクワはいいかな』というので、私は初めてのモスクワなので、赤の広場ぐらいは行きたい、と主張してみたが、『ムルマンスクからの帰りをモスクワ経由にして、観光すればよい』という話になり、何だか雲行きが怪しくなる。

 

そして何となくもやもやして気分のまま、だらだらと寝入る。時差も分らなくなっており、目覚ましもかけられない。車掌がいるし、終点なので、降りられないことはないだろう、と荷造りもせずに寝る。すると明け方、ガタットいう音がして列車が停まった。車掌が突然、降りろ、という感じでやってくる。何ともあっけなくモスクワに到着した。

シベリア鉄道で茶旅する2016(22)ピロシキ、カップ麺、夕日、そして鶏の丸焼き

 午前10時頃、突然車掌が入ってきた。昨夜の飲酒でも咎めに来たのかと思ったら、何とピロシキの車内販売だった。S氏が以前乗ったシベリア鉄道でも、車掌は副業として、色々な物を売る、というのがあったそうだ。彼女らの最大の儲けは、ビールなどのアルコール類だったというから、禁酒となった今、彼女らの収入は大きくダウンしたことだろう。私は未だ食欲がなく、この先も心配なので、ピロシキをパスした。

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外は快晴になってきた。吹雪の舞うシベリア、という雰囲気はみじんもなく、太陽の光が雪に反射して眩しい。天気が良いと気分も俄然よくなる。美味しいお茶が飲みたくなる。そこでスーパーで買っておいたミルキーウーロンを取り出した。あんなに沢山売っていたのだから、きっとおいしいに違いない、という私の期待は封を開けた段階で無残に打ち砕かれた。すごいバニラのにおいがするのだ。これは完全にフレーバーティであり、烏龍茶はどこへ行ったの、と思うほど、その影はなかった。一口飲んで止めてしまった。あと20袋以上あるのにどうするんだ?確かに日本円で1泊100円という値段をよく考えるべきだった。

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昼頃、どこかの駅に停まった。快晴なので油断して軽装でホームに降りたところ、強烈な寒さに見舞われた。風がとても強い。駅にあった温度掲示を見てびっくり、何と零下16度だった。そりゃ寒いわ。隣の白人は何と半袖でタバコを吸っている。どうなっているんだ。半ズボンのやつもいる。彼は皮膚の構造が我々とは違うのだ。何か食べ物でもないかと見たが、おばさんたちが売っていたのは毛皮。なるほど、でもここで買う人はいるのだろうか。さっさと列車に戻る。

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ところでシベリア鉄道のトイレは快適でよい。きれいだし、便器もしっかりしている。ただ時々紙が無くなることがある。入る前に気を付けておかなければならない。あと問題は、洗面所がないことだろう。歯をみがくのも、トイレの中になるので、混みあっていると、実際歯磨きは難しい。私もトイレを優先させたい。だから歯磨きは昼下がりにしていた。

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何となく列車内を散歩していると、10両以上離れた向こうの方に食堂車があった。ここまでたどり着くのには、相当の体力がいる。何しろ1両ずつ、重い扉を開けて進まなければならない。かなりのスピードで飛ばしている上、風も強くて、扉はどんどん重くなっている。しかも連結部分は非常に寒い。取っ手は凍り付いている。零下10度以下で走る列車だからこれも仕方ないが、それにしても凄い。

 

食堂車はきれいだったが、料理の値段は高かった。お客さんは一人もいない。それはそうだろうな。折角来たんだから、という感じもなく、一度退散することになる。また重い扉を開けて戻る。行きにも増して重く感じられる。ようやく部屋に辿り着くと、カップ麺を作って食べた。適度な運動をしたせいか、麺を美味しく食べられた。

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それから少し行くとかなり立派な駅に着いた。駅舎は新しそうに見えたが、プレートを見ると1895、という数字が見えた。この駅は1895年にできたのだろうか。シベリア鉄道は突然できたわけではない。一歩一歩地道な作業があって、最後1905年に開通したということだ。しかしここで鉄道建設に携わった人々とは一体どんな人なのだろうか??どんな苦労があったのだろうか、とても想像できない。

 

日がだんだん西に傾いてきた。白樺の間から強い日が差し込んでくる。また大きな川を渡っている。橋の隙間からも日が差している。そしてシベリアに落ちる夕日、見事なものだった。雪に映えて実に鮮やかな風景は絵になる。何とも雄大な景色を見ていると、少し腹が減ってくるのはなんとも不思議だった。

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日も落ちて、暗くなった頃、また大きな駅に着いた。S氏はタバコを吸い、私は体をちょっと動かし、深呼吸しただけだったが、Nさんがなかなか帰ってこない。また酒の調達かと思っていると、本当に列車が動き出す直前に何かを抱えて戻ってきた。紙の包みを開けると、何とそこから鶏の丸焼きが出てくるではないか。なんでもロシア人の後をついていくと、一軒の小屋で煙が上がっており、中で焼いていたのを買ってきたというのだ。これは凄いご馳走だ。気持ちが狩猟民族になる。

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Nさんに分けてもらい、貪るように鶏肉を食べた。本当にうまかった。これだよ、俺が食いたかったのは、という感じだった。今回鉄道の旅の最大のご馳走だった。3人で一羽を簡単に平らげてしまった。恐ろしいほどの満足感だった。これで当面、カップ麺でも食いつなげる、と思ってしまうほどの充実ぶりだった。

 

夜は更けていくが、一日中ベッドの上にいたような私にとってはあまり眠たくはない。ああ、また駅に停まったな、などと思っているうちにウトウトしてきて、寝入る。夜中にまた起き、トイレに行き、また寝るが、また揺れで起きる。そんな夜が続いた。モスクワまではまだまだ遠い。終点まで乗って行く我々には緊張感もない。

シベリア鉄道で茶旅する2016(21)シベリア鉄道63時間の旅へ

 長旅の準備

レザノフ像から遠くないところに、スーパーを発見した。かなり大きなスーパーで品ぞろえが非常に多い。美味しそうなパンを買い、総菜コーナーでサーモンのマリネまで買った。勿論カップ麺は3つほど入れ、更にはカップのマッシュポテトという、初めての商品にも挑戦してみた。正直フルーツが欲しかったが、バナナは乏しく、梨などもとても高い。プチトマトだけをかごに入れた。これなら切らなくても良いから。

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確かにすべてを輸入に頼っているようで、シベリアの冬には野菜や果物は欠乏しているらしい。代わりにS氏に勧められて、アップルジュースを買い込む。ロシアで美味しい飲み物はアップルジュース、という印象があるのだそうだ。だが前回のキャプタでは安物のジュースを買ってしまい、失敗した。今回はちゃんとしたジュースを買ってみた。そしてお茶のティバッグ、悩んだ末に『ミルキーウーロン』という変わり種を購入した。それぐらいしか楽しみはないのだ。

 

駅へ戻る途中、Nさんは酒のつまみとして、道端でサラミやソーセージを買い込んでいた。これが予想以上にうまいらしい。相当の塊で買っている。酒も慎重に選んでいる。それしか楽しみがないというのは、悲劇なのか、それとも喜劇なのか。雪は更に融け、道は一部洪水のように水が流れ始めていた。

 

宿へ戻り、交代でシャワーを浴びる。この宿の最大の利点は、12時間単位で部屋代を精算することかもしれない。我々は2日前の午前8時にチェックインしたので、最後は夜8時までにチェックアウトするように支払っていた。これは本当に助かった。これから3泊、シャワーを浴びられないことを考えると、極めて重要なことだった。もう一つがネットだった。これも4日ほど繋がらないことを前提に、連絡を入れたり、旅行記をブログにアップしたりした。何となく準備が整った頃、S氏は率先して部屋を出て行った。私は名残惜しくて、最後までドアを閉められなかった。

 

部屋から出て下に降りるとそこに駅があるのは楽だった。待合室は乗客で一杯になっている。この時間、列車の発着は何本もあった。電光掲示板はすべてロシア語だったが、よく見てみると、ここ始発も多い。本線ではなく、北の方の街へ行く列車も通勤電車のようにあるらしい。ロカールタイムで午後5時台、ちょうど退勤時間だった。

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63時間の旅へ

地下から通路を通ってホームへ行くのだが、我々の乗る列車はなかなか来なかった。切符を見せると駅員が首を振るのでそれが分る。地下で30分ぐらい立っていただろうか、まあ63時間座っていることを考えれば、これぐらい立っていた方が良い、などと考えてしまう。ようやくホームへ向かうことが許されたが、我々の乗る車両がどこに着くのかはさっぱり分らない。もうこれにも慣れたので真ん中あたりに陣取る。

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列車がゆっくりと入ってきて、人々が降りてくる。入れ替わりに車掌に切符を見せて乗り込むのだが、我々の車両はだいぶん離れていた。ただここは大きな駅でかなりの時間停まっているので、心配はなかった。やはりコンパートメントを我々3人で独占した。これは本当に楽だった。もしこれが一人旅だったら、色々と心配事が多くてシンドイことだろう。今回は3人旅というのが最大のメリットのように思えた。

 

列車が動き出すと、もうやることはなかった。早々にだらだらと横になり、思い思いに過ごす。後でS氏が言っていた。『シベリア鉄道に乗りたい、あこがれだ、という人がいるが、止めた方がよい。あれは人間がどこまで怠惰になれるかを試しているようなものだから』、まさにその通りだった。これだけ時間があれば、本もたくさん読める、原稿だって書ける、写真も一杯撮れる、などと考えがちだが、実際には何もする気力が起こらないものなのだ。これはもうどうしようもない。何もしないで、何とか時間が過ぎるのを待つ。もしやすると、牢屋の囚人もそうなのかもしれない、などと考えてしまう。

 

日が暮れる前にはやることもなく、夕飯を食べ始めた。だがなぜか私は食欲が出なかった。何だか気分も悪くなり、折角買ったサーモンのマリネを2人に食べてもらった。ほんの2口ほど食べたそれは本当にうまかったが、それ以上口は入らなかったので、相当に具合が悪くなる可能性があり、早々に寝ることにした。S氏たちがその後酒盛りしていたかも知らぬほど、熟睡してしまった。これはどうしたことだろうか。

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3月16-17日(水、木)

翌朝は早くから目覚めていた。特に風邪を引いたとか、熱があるとかいうこともない。ただ体に力が入らなかった。腹の具合も特に問題ないのだが、食欲はなかった。これは気持ちの問題かもしれない。この生活があと2日も続くかと思うと、それだけで落ち込んでしまった。窓の外は雪景色、シベリア鉄道に乗ると必ず頭に響く曲、トロイカが流れ出す。『雪の白樺並木 夕日が映える』、今は朝日だが、窓は水滴が付き、写真もうまく撮れない。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(20)クラスノヤルスクでレザノフを想う

 それからスーパーを探しがてら散歩に出た。今日も良い天気で、ということで足元は更に悪かった。途中にある公園にはまだ深く雪が積もっており、日陰はかなり滑る状態だった。暖かいと言っても零度前後だろうか。その内に日が陰り、少し吹雪いてくる。これが本当にシベリアの気候なのだろうか。春が冬に一瞬にして変わった。

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 そして昨日同様川沿いに出て、チェーホフ像の前を通り、博物館へ向かった。今日は開いていた。よかった。重厚な扉を開けると、中は暖かかった。基本的にロシアの博物館にはクロークがあり、上着と荷物を預けるようになっている。恐らくはソ連時代からここで働いているのでは、と言った顔のおばさんが愛想なく受け取る。でも、こっちから見るんだよ、と手で合図してくれる。

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博物館の真ん中には何と復元された大型船が置かれていた。シベリアで船か、いや、やはり船も重要な交通手段であった。特にエニセイ川のような大河を利用した水運でこの街は栄えたのだ、ということがよくわかる。この船を使って茶葉を運んだということはあっただろうか。川は南北に流れており、運ぶためには川と川との間を東西にも行く必要がある。基本的に茶葉は冬を選んで運ばれたと言われているから、船の航行は限定的だったはずだが。何か説明があるのかもしれないが、相変わらず、文字が読めず、ただ展示物を眺めるのみ。

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唯一万里茶路を連想させたのが、茶葉を詰めていたと思われる缶。きれいに装飾が施されており、優雅なティタイムを思わせる造りだった。この中に福建の紅茶が入れられ、貴族の午後の茶として出されたのだろうか。その横にはティカップも置かれている。シベリアでは黒茶も飲まれていたはずだが、どんなカップで飲まれたのだろうか。そのような日用品を展示することはないのだろう。

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レザノフを探して

博物館を出て、街の真ん中付近でS氏、Nさんと別れた。私はここクラスノヤルスクで、取り敢えず見ておきたいものがあったのだ。それはレザノフの像だった。この街はノボテルなどの立派なホテルもあり、日本食レストランなども見える。だがその横には100年前の建物も厳然と建っている。きれいな教会もあちこちにあり、歩いていて楽しい。しかしあると言われた場所を探してもレザノフは見つからない。

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昼ご飯を食べたいと思ったが、簡単に食べられるところはなかった。何だか疲労も重なり、食事はやめて部屋に戻ってクッキーでも食べようかと思いながら、何となく街を歩いていた。すると向こうの方でビルに入って行く人影が見えた。それはS氏だった。彼らはあれからスーパーを探し、そして昼ご飯を求めて歩いていたが、やはり見つからず、ついにはハンバーガーのファーストフードに飛び込むところだった。私も即座に便乗して、店内に入る。この店はチェーン店で、駅に入っていたことを思い出した。

 

店内のメニューはよく読めなかったが、よくよく見ると小さく英語が書かれている。セットの仕組みはよくわからないが、若い店員は何と英語を話したので、コーラをコーヒーに替える等、難なく注文出来た。簡単な英語が通じることがこんなにも有り難いことか。ロシアでも若者は英語を勉強しているのだろうか。今度は若者に声を掛けてみよう。ハンバーガーとコーヒーで200㍔ぐらいしたから、カフェよりは高いが、何となく久しぶりに西側?の雰囲気に触れて楽しかった。後ろでは女性4人がずーっと話し続けている。

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店を出てその辺をふらふら歩いていると、ようやくそれらしきものがあった。文字は読めないが、恐らくはここで客死したレザノフに違いない。レザノフといえば、大黒屋光太夫を送っていき、日本との通商を求めたラスクマンに続いて、1804年に日本にやってきた外交官だった。そのルートはサンクトペテルブルから船でカムチャッカまで来たというから長い。ただ当時の幕府に拒まれ、半年間長崎に留め置かれたのち、退去を命じられている。その時の長崎奉行は遠山の金さんのお父さん、遠山景晋だったということを何となく覚えていた。彼は船中で日本の漂流民から日本語を習ったとも言われている。

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この人は毛皮商人でもあり、茶葉を運んだという記述はどこにも見られない。当時は海を使ったルートは未だ開拓されていない。スエズ運河の開通はその60年後のことだ。ただ彼が当時の戦略物資である茶葉に全く触れなかったとは考えにくい。ぺルブルクに戻る時は陸路を通ったようだが、病のためにクラスノヤルスクで没した。彼の国際感覚、特に極東とアメリカへの関心は貴重だったが、その40代での死は、ロシアにとって痛手であったことは、その後の歴史が物語っている。そんなことを考えながら、雪のレザノフ像を眺めていた。

シベリア鉄道で茶旅する2016(19)エニセイ川の強風を肌で感じる

思い付きで、橋を渡ってみることにした。橋の袂では風はほとんど感じられず、日差しもあり、春の予感だったのだが、橋の上を歩き始めると、これは大きな間違いだったことを知る。ものすごい風が吹き荒れているのだ。Nさんが橋から乗り出して、写真を撮ろうとしていたが、あわや転落しそうに見えるぐらい、体が揺れていた。S氏はまっしぐらに歩いているが、その足元は完全に雪が融けており、水浸しだった。ここを歩いていくのはかなりの難儀。後悔したが、もう遅かった。しかもこの橋、かなり長い。2㎞近くあったのではないか。

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ここで初めて気が付く。茶葉を運んだブリヤート人は当然この風の強さも、春先の雪融けも全て頭に入っていた。彼らがなぜ冬を選んだのか、そしてなぜ川を使って運ぶことが少なかったのか。現場に立てば、何となく理解できることだが、机の上の資料を眺めても思いつくものではない。兎に角風を避け、水を避け、本当につらい思いをして、橋を渡った。橋を渡り終えるとまた橋がある。ここでちょうど2つの川が合流する。バスが沢山通っていく。歩いているのは我々だけ。

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シベリア街道

なんでこんな困難な散策をしたのか。それはS氏がネット検索で探してきた、シベリア街道という名の道を見てみようという気持ちだった。シベリア街道とは何か。しかとは分らないが、シベリア鉄道ができるまでのイルクーツクからモスクワへの道だったと思われ、ということは、それはすなわち茶葉の道、万路茶路だったのではないか、ということだ。基本的には囚人となったものがシベリアに流されるときに歩む道、という方が分りやすいのかもしれない。

 

橋を渡り切ると、道が2つに分かれていた。実に歩きにくいほど、雪が溶けており、水たまりに足を踏み込んでしまい、かなり濡れた。右の方に歩き出すと、小さな市場があり、その中には茶も売られていたが、殆どが紅茶のティバッグ。ほんの少しだけ、中国産の茶葉が売られていたが、漢方の生薬などと一緒に並んでいた。買う人がいるのだろうか。じゃがいもをバケツに詰めて売っている男性もいる。干した魚が並んでいるのは、シベリアらしい風景かもしれない。

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しかしシベリア街道がどこにあるのかは全くつかめなかった。手掛かりはS氏がプリントしてきたブログのコピー。そこにあるシベリア街道を記念するモニュメントを探すが、見付からない。道行く人に写真を示したが、全員が首を振る。中に『あっちかも』などと指を指す人がいたので、橋を渡ってきた道と反対の方まで歩いて見る。こちらは確かに直線で広い道であり、如何にもシベリア街道らしいが、どうみても最近作られた道にしか思えない。ただこの辺は川沿いに道があったから、このあたりを馬ぞりが走った可能性はある。兎に角文字が読めない、言葉が通じないと、本当に何もできない。

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疲れたのでお茶でも飲もうかと思ったが、カフェすらない。店があっても閉まっている。まだまだこの辺は冬なのだろうか、それとも経済低迷による影響なのだろうか。仕方なく、宿まで戻ろうと思ったが、今度はバスに乗ることができない。どれが駅まで行くのか分らず、その辺の乗客に聞いても要領を得ない。また歩いて橋を渡る悪夢は避けたいと思い、何とか白タクを探して、乗り込む。駅というロシア語はついにマスターしたようだ。

 

駅まで乗せてもらい、スーパーがあれば買い物をしたいと思ったが、これも見付からない。疲れたので、また駅前のカフェに入り、お茶を飲む。それから駅周辺を歩き、結局駅横の別のカフェで夕食をとろうということになる。カフェとバーが併設されており、S氏はバーで軽く飲んで食べたい、私は酒が要らない、など要望が分れていたので、食べ物を買って、部屋に戻って食べることにした。ロシアでは惣菜を買って、家で食べることも多いようだった。何だか久しぶりに豪華な食事をしている気分になる。やはり列車内ではなく、地面が揺れない場所で食べるのがよい。

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3月15日(火)
再び博物館へ

夜は暖かい部屋で緊張感もなく、眠ることができた。これは何よりだった。しかも今日も列車にならなくてよい、というだけで心が晴れてしまうのは、すでに心が病んでいるからだろうか。今朝はまず駅へ行き(すでに駅に泊まっているのだが)、携帯のシムカードの入金をしようと試みる。イルクーツクでは機械で入金でしたのだが、またすぐに停止してしまった。その原因を突き止めたいと思い、駅のショップで聞いてみたのだが、またもや言葉の厚い壁に跳ね返された。

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店員とは言葉は全く通じず、我々が知りたいことはおろか、入金したいという意思すら伝えるのが困難で、英語が片言出来る客がサポートしてくれ、何とか入金は出来た。ただそれもどこかに電話を掛けたり、携帯を何度もいじったりと、簡単なことではなかった。何がどうなっているのか全く分からない。なぜか1回に300㍔ずつ消えていく。

シベリア鉄道で茶旅する2016(18)快適なステーションホテルに泊まる

6. クラスノヤルスク
ステーションホテル

いつものルーティーンはなかった。駅に着いたら、切符売場へ直行して次の切符を買う、ということは今回なかった。実はイルクーツクですでに2日後のモスクワ行の切符を手に入れていた。この担保があって初めて、クラスノヤルスクで2泊するという、この旅始まって以来の長期滞在が可能となった。まずは駅のカフェで腹ごしらえ、と思ったが、イルクーツクのような立派なカフェはなく、小さなカフェがいくつか地下にあった。食べ物も殆どなく、お茶だけ飲んで休んだ。朝からビールを飲んでいる人もいる、というのがちょっと異様だった。その内、店内が混み始め、我々は邪魔な存在となり、出ていく羽目に。

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そして次にホテルを探すわけだが、繋がっていたスマホのネットが切れているので、何とかお金をチャージして復活させていたいと考えた。すると地下のATMのような機械の前で、何人かがさっとお金を入れている。見ると、携帯のチャージも可能のようだったのでチャレンジした。ロシア語が読めない中、何とかチャージに成功した。ネットが復活し、それでホテルを探したのだが、地図を見てもロシア語しか書いておらず、どこへ行けばよいか、駅から近いホテルはどこか、結局よく分らなかった。

 

そんな中、駅にレストルームという表示があったことを思い出し、そこを探すと、駅の一番端にホテルのレセプションのようなところがあった。立派なロビーがある。そこへ行って聞いてみたが、何と英語が一言も通じなかった。その横からホテルを覗こうとすると、係のおばさんが厳しい顔で『ニエット』というではないか。とにかくチェックインしろ、というのだ。しかしこのレストルームの使い方が全く分からない。Nさんが悪戦苦闘の末に得た答えは12時間単位で部屋が借りられること、3人部屋が存在することだった。まずはチェックインしてみる。

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3階のその部屋は、結構広い空間で清潔感があった。駅の簡易宿と思い込んでいたので、ちょっと意外な喜びがあった。まあ、まずはシャワーだろう。熱いシャワーを広いバスルームでゆっくり浴びられる幸せ。これは経験者しか分らない感覚かもしれない。至極の時間だ。窓の外には駅舎や駅前がよく見える。ここは本当に便利で、かつ居心地も悪くない。他の駅にもあったら、是非泊まりたいと思う。皆思い思いに、時間を過ごす。Wi-Fiもあり、ネットも繋がるので、何となくPCを見ている。やはり何十時間もPCを見ない生活は殆どないので、どうしてもPCから離れられない。依存症か。

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エニセイ川を渡る

昼前に出掛けることにする。まずは腹ごしらえ。皆まったりしてしまい、朝ご飯を食べていなかったが、部屋が暖かく、満ち足りていて、外に出たくなかった。いくら列車で寝られるとは言っても、やはり揺れないベッドで寝たいのだ。S氏やNさんはシャワーのついでに洗濯もしていた。この2人は、本当に驚くほど荷物が少なく、まめに洗濯している。因みに私は洗濯が嫌いで、着替えを沢山持っており、3人の中では一番荷物が多い。どこまでも旅人になり切れない。

 

駅前はすっきりしていた。バスが沢山走っているが、どこへ行くのかは皆目わからない。その駅前のカフェに入る。結構きれい。お二人は早速ビールを頼む。私も腹が減っていたので、焼いた鶏肉にピラフ(何となくミャンマーのダンバオを思い出す)、更にはサリャンカという肉のスープを注文した。この3つとも実に美味しい。これだけ食べても日本円で500円ぐらいだから、安いと言わざるを得ない。

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食後、雪も止んでいたので、街歩きをする。3月のこの季節にしては暖かいのだろうか、道路の雪が解けかけており、歩くのが大変だった。暖かいとは言っても氷点下ではあるはずだが、地元女性はハイヒールにスカート、ちょっと信じられない格好で歩いていく。慣れているのか、我々はハイヒールに抜かれてしまうのだ。信号機を指してS氏が『この信号機、薄いね』という。恐らくは雪が積もらないように設計されているのだろう。その前にある教会は実に立派だったが、やはりかなり尖った感じの建物であるのは、雪への対策であろうか。

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この街も古びた家がいくつも残されていたが、プレートを見る限り、1900年前後のものだった。シベリア鉄道が開通した頃のものだろうか。そしてついに川辺に出た。エニセイ川、世界で5番目に長い河である。この付近、雪が積もり、川は凍結しているように見えたが、近づいてみると、一部川が流れていた。一年中凍結しないのか、既に解け始めたのか。簡単に歩いて川を渡れると思ったが、大いに甘かった。万里茶路においては、なぜ茶葉を馬ぞりなどで冬に運ぶのか、川は使えるのか、などが重要な問題なのだが、どうだろうか。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(17)夜中に時刻が変わる国

また列車でクラスノヤルスクまで

午後1時、列車はほぼ定刻にホームに入ってきた。これがシベリア鉄道本線か。これまでのモンゴルルートはある意味で支線の位置づけであろうから、ここからが本番なのである。今回は4人部屋、コンパートメントだ。クーペと言っていた。もう一人は来ないので3人で使えるから、今朝よりはかなり快適ではある。だが、何しろやることはない。S氏からまた資料を借りて読み始めた。万里茶路、というよりは、帝国主義、資本主義のすさまじさが何となく伝わってくる。お茶は完全な戦略物資であり、金儲けの最大の機会だった。

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清末には陸路だけではなく、ロシアは海路でも茶葉を運ぼうとしている。しかも中国が混乱したこともあり、インドやスリランカの安い茶葉をロシアに持ち込もうとするのだがから、なんとも壮大な海路だった。私もこの旅が終わったら、次は海のルートを、コロンボやカルカッタから黒海のオデッサや極東のニコライエフスクの旅を敢行したい、そんな気持ちになっていた。列車は着実に進んではいるが、まるでそれを感じさせないほど、車窓に変化がない。

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充電は通路でできた。ロシア人もスマホを使うから、常に誰かが充電しているが三等車に比べれば十分に余裕はある。私もスマホでもいじっていないとやっていられないとばかりに充電を始めた。S氏のシムカードはすでに使えなくなったという。これは何を意味するのか、使い過ぎでお金が無くなったのだろうか。メッセージが来ているがすべてロシア語で解読不能だ。いずれにしても列車の中にいる限り、どうすることもできない。

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4時間ぐらい乗っていると、お茶が飲みたくなる。車掌のところへ行き、チャイと叫ぶとティバッグとカップをくれる。35㍔。このカップがロシア鉄道特製で、なかなか格好がよい。お茶自体はかなり安い紅茶だったが、のどを潤すには十分だった。このカップを一度確保すると下車するまで使えるので、それ以降は自分の茶を飲むことができた。タラタラお茶をすすっていると、突然部屋にお掃除がやってくる。ホンのお気持ち程度の掃除だが、確かにこれは重要かもしれない。中国ならモップもったおばさんは常にやっているような気もするが。

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何となく大きな川を渡る。これがロシア三大大河の1つ、レナ川なのだろうか。バイカル湖から流れ出す、世界で10番目に長い河。中学の地理で習っただけだが、何となくそんな気がした。そういえばレーニンという名称は『レナ川の人』という意味だと聞いたことがある。なぜそんな名前を自らに付けたのだろうか。完全に凍結しており、水が流れているようには見えなかった。茶葉を運ぶ馬ぞりはこの凍結した河を越えて行ったのだろうか。

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夕方、どこかの駅に着いた。皆が一斉にホームにおり、ある人はタバコを吸い、ある人はホームを走っていた。運動不足解消だろうか。天気が良いのは良いが、雪が解けてかなり滑りやすい。因みにシベリア鉄道車内では、禁酒禁煙だ。私のようにどちらも嗜まない者にとってはどうでもよいことだが、タバコを吸う人にとっては切実だろう。S氏も車両の連結部分で辛うじて吸っているが、その隙間風の寒さは相当に堪えるようだ。酒もいつの頃からか禁止となったらしい。車内でやることがないとつい飲み過ぎてしまい、色々とトラブルが起こるのだろうとは容易に想像された。

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駅の売店で、ピロシキのようなものを買い込む。これが今日の夕飯なのだ。シベリア鉄道は食事にも困る。カップ麺を食べるか、このような売店の食べ物を食べるか。選択肢は殆どない。1-2食ならそれでも良いが、数日乗っている場合、どうするのだろうか。Nさんは隣のロシア人と仲良くなっている。車内に戻ってきた彼は懐にビールを忍ばせていた。『ロシア人が売店の店員に目配せしたら、ちゃんと酒が出てきた』というのだ。蛇の道は蛇?すでに何人かのロシア人が車内でかなり酔っぱらっている光景が目に入っている。

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それからシベリアの大地を走っているうちに、外も暗くなった。S氏とNさんはコンパートメントのドアを閉め、ちびちびやりながら、時間をつぶす。私はやることもなく、だらだらしている。兎に角何も考えずに前に進むのみ、という感覚は十分に身についてきた。夜8時過ぎに駅に着いたが、ちょっと外へ出ただけですぐに引っ込んだ。一晩寝れば街に着くんだ、と言い聞かせている自分がいる。早々に布団をかぶって寝る。ミャンマーのように揺れる訳ではないので、寝るのにさほど不自由はない。

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3月14日(月)

夜中に何度か起きた。朝早く列車は下車すべきクラスノヤルスクに着くのだから、何となく緊張している。時計を見るが、今が何時なのかはよくわからない。スマホでは自動的に時間帯の設定がされており、タイムゾーンが変われば、時計も動く仕組みではあったが、クラスノヤルスクとイルクーツクの時差は1時間。実際どこで時間が1時間ズレるのか、皆目わからなかった。しかも列車の時刻は全てがモスクワタイム。全くロシアの時間は困ったものだ。朝何時か分らない中、再び16時間の列車旅を終えて、クラスノヤルスク駅に着いたときはまだ暗かった。