「ロシア」カテゴリーアーカイブ

遥かハバロフスクに茶旅する2019(6)ハバロフスクを去る

3月18日(月)
ハバロフスクを離れる

ついにハバロフスク最終日。フライトの変更により、当初の午後4時から夜8時の出発となったため、時間はたっぷりとあった。この時間をどう潰すか。まず午前中は体力を温存するため、部屋でゆっくりと過ごした。特に今日の夜は全く予期していなかったハルピンへ行くので、そのホテルの予約などをしなければならなかった。ハルピンの気温はこことそれほど変わらないのは何とも幸いだ。

 

チェックアウト時間を午後1時まで延ばしてもらうが、5分前には電話が鳴り、部屋を追い出された。このホテル、予想以上に居心地の良い部屋で満足。料金は手頃でフロントの対応もよく、おまけに国際電話タダの恩恵にまで預かった。次回来ることがあれば、またここに泊まろう。

 

腹ごしらえはどうするか。カフェも飽きたので、歴史的建造物にあるレストランに入ってみた。だがそこは、ロシア料理店ではなく、中央アジア、アラブ風の店でちょっと驚く。怪しげなウエーターが英語で応対してくれる。ペルメニと紅茶を注文すると、音もなく去っていく。レストランの内装はかなり凝っており、中東に来てしまったような錯覚に捕らわれる。

 

ペルメニも当然、中央アジア風でロシアとは違う。スープ餃子ではなく、中身も羊肉だった。紅茶は立派なポットに入っており、3杯もお替りできる量だった。ウエーターが、突然『スイーツマジックをどうぞ』というから何かと思ったら、綿菓子がサービスされたのにはかなり驚く。なるほど、スイーツマジックか。久しぶりに食べるよな。

 

それにしても外に出ると何だか暑い。これはご飯を食べたせいではない。気温を見てびっくり。何と+12度ではないか。空は快晴ではあるが、どうして突然こんなに暑いのか。慌て着ていたダウンジャケットを脱ぎ、マフラーもバッグにしまい込む。後で調べると、北京は20度以上もあったようで、時々ある春の馬鹿陽気だった。散歩しやすいともいえるが、むしろ暑すぎて汗が出るし、ダウンを持つのも邪魔だった。

 

メインストリートを歩き、レーニン広場を越えて少し行くとディナモ公園がある。ここは戦前、博覧会が開かれたほど大きな広場だ。今は市民の憩いの場となっており、犬を連れて散歩する人が多い。更に進み、大通りから一本入る。ここには何の痕跡もないが、可徳乾三がいた頃は、日本の女郎屋が並んでいた地域らしい。

 

そこで働いていた多くは、天草あたりから売られてきた女性たちで、経営者も同じ九州の人間だったという。九州、熊本・長崎の貧しさ、可徳がここまで出てきた理由の一端もここにあるかもしれない。先日マレーシアのサンダカンに行っても、からゆきさんは天草などの女性だったことを思うと、その厳しさが分かる。また同時に対ロ工作の一環として娼婦が使われたとの見方もあり、歴史というのは本当に一筋縄ではいかない。

 

最後にこれまで行っていない地域に足を向ける。そこにはかなり立派な、大きな建物が続いて建っており、軍関係の施設だと分かる。往時は日本軍の司令部だったところだろう。ハバロフスクは軍事的には極東司令部などが置かれる重要拠点であることは今も昔も変わらない。

 

ホテルに戻り、少し休息する。それから荷物を引き取り、メインストリートからトロリーバスに乗る。あの初日の暗いバスとは異なり、夕日に煽られたきれいなバスだった。最初は乗客がかなりいたが、いつの間に全員降りており、取り残されるが空港は見えない。間違って乗ったかと焦った頃にようやく空港が見える。車掌が『国内線、国際線?』と聞いているように思えたが、答えるロシア語を持ち合わせない。何とか『キタイ(中国)』というと、国際線で降ろしてくれた。

 

空港到着は早過ぎて、狭いロビーで待つ。2時間前になるとようやく航空会社と税関職員がやってきて、チェックインが始まる。前日突然購入したチケット、また間違いはないかとドキドキしたが、何事もなく発券される。乗客はロシア人と中国人が半々、それ以外の国籍はいないように見えた。中国人はこちらにいる親族などを訪ねてきた人が多く、ロシア人はビジネスマンだろうか。

 

空港には何もなく、手持無沙汰に待つしかない。既に本日の全ての国際線は飛び立っており、我々だけが待っている。ようやくコールされ、暗い空港をバスで目の前の飛行機へ。アエロフロートの子会社だというオーロラ航空に乗り込む。機内に入ると私の席に中国人のおじさんが座っていたので、席が違うと中国語で伝えていると、後ろのロシア人男性が私を突き飛ばして通路を進む。ロシア人の中国人に対する感情の一端を見る思いだった。まさかここに日本人が乗っているとは思ってもいなかっただろう、二国間の小競り合いか。

 

初めてのハバロフスクでは、非常に沢山のことを学んだ。まだウラジオストックも残っているので、何としても行かなければならない。今回の教訓があれば、次の旅はかなり楽になるだろう、そう願うばかりだ。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(5)事件発生 飛行機に乗れない?

3月17日(日)
事件発生 飛行機に乗れない?

その事件が発覚したのは昨晩遅くだった。明日のフライトを確認しようと、ネットで検索したが、私の名前を入れても予約が出てこないのだ。そして初めて1か月前に届いていた予約確認書を見て驚いた。私の姓は合っているのだが、名前のスペルが違っていた。いや、スペルではなく、妙に長いのだ。MRなどという文字が混入しており、何だか分からない状態だった。恐らくこれは予約画面で自分の名前を打った時、MRなどが混在したものと思われる。

 

この航空会社には以前も何度か乗っているので、この間違いは私のせいではないと分かってくれるのではと思ったが、すぐに連絡を入れた方がよいというアドバイスもあり、電話番号を探す。ハバロフスク支店に今電話しても夜の10時過ぎで誰も出るはずはない。ソウルのコールセンターを探して電話しようとしたが、今度は私が買ったロシアシムでは何番を押せば国際電話が掛けられるのかが分からず、フロントへ駆け込む。

 

フロントの女性は話しを聞いたうえで『このホテル、国際電話無料サービスだから、部屋から掛ければ』というではないか。何と親切なホテルだろう。ところが部屋からはなぜか繋がらず、もう一度フロントへ行き、そこの電話でかけてもらってようやく繋がる。ハングルは出来ないので、英語サービスを押すと、ちゃんと英語で人が出たのだが『本日のサービスは終了しました』というではないか。そんなこと言っても、今英語で私の話を聞いているのだから、対応して欲しいというと、色々と言い訳を並べて結局対応してもらえず。

 

『翌朝8時にまたここにかけてください』という。仕方なく一度寝て、午前9時過ぎ(ソウルとも時差1時間)にまたフロントから掛けると、英語できちんと話を聞いてくれた。だが『話は分かったが、ここはアメリカのLAで電話を受けており、我々には修正する権限はない。後2時間したらソウルに切り替わるから、そこにかけて』というではないか。

 

一体どうなっているのだ、この航空会社は。そしてこちらの時間の11時過ぎにまた電話をすると『話は分かったが、発券したのはハバロフスク支店なので、そちらにコンタクトして欲しい』というので、さすがに怒りが爆発する。『私はおたくのHPでチケットを購入したのだ。しかしHPでは変更できないというから何度も電話しているのだ。ハバロフスク支店などは関係なのだ。しかも今日な日曜日だ。支店は対応してくれるのか』と畳みかけると、『とにかく明日の朝一で支店へ』と小声になる。

 

『では支店に行けば必ず修正してくれるのだな』と聞き返すと『それは各支店にポリシーがあり・・』と要領を得ない。もうこれで諦めた。このチケットはキャンセルしようと思うが、他に代替手段はあるのだろうか。何しろ東京へ戻るのではなく、中国の成都へ行かなければならない。電話を切りネットで検索したところ、明日の夜ハルピン行きに乗り、そこで1泊、翌朝早くに成都行きに乗り継ぐと、ちょうど東京から来る人々と合流できることが分かり、迷わずそのチケット予約する。料金は前のチケットとほぼ同じ。何だ、最初からこちらにすればよかったと思うが、後の祭り。

 

そして4回目の電話をしてキャンセルを告げた。すると『キャンセルの手続きをハバロフスク支店でやって欲しい』と言われ、もう限界を超えた。一体何を考えているのかというと、電話の向こうから『分りました。こちらで処理しますが、返金は4週間後になるかもしれません』という。返金?何とこのチケットのキャンセル料は僅か50ユーロでかなりの金額が返ってくることをここで初めて知り、愕然とする。それならこの1日は何だったのか。無駄な処理にどれだけの時間を費やしたというのか。余談だが返金は4週間どころか、2日後には完了している。もうこの航空会社の言うことなど聞かないぞ。

 

という騒動に巻き込まれ、昼ご飯もその辺でパンを買って食べる羽目になってしまい、ようやく今日の散策に出たのは午後だった。折角なので日曜日で閉まっているとは分っているが、例の航空会社のハバロフスク支店を見てみようと思い出掛けた。だがどうもスマホ地図が示す場所が正確ではない。かなり歩いてきたのに、結局見つけることは出来ず、立派な教会だけを見る。月曜日にここで処理をしなくて本当に良かった。昼ご飯、パンだけでは軽いので、カップ麺を買ってきて部屋で食べる。すごく美味しい訳ではないが、これまた3年前の味がして、懐かしい。

 

夕方、もう一度出掛ける。ハバロフスクには今も日本総領事館があるというので、何となく見に行った。そこは先ほど支店を探して彷徨った通りの1本向こう、港に近い場所にあった。ただ入り口は分かりにくく、階段を登ってやっとたどり着く。その建物は領事館とは思えないほど可愛らしいクラシックスタイル。こんな領事館なら、地元民からも愛されているかもしれない。

 

更には100年前に日本人会や商工会があった建物も残っていた。ここは現在空手道場になっており、往時を偲ばせる。また本願寺があった場所は特定できないが、古い木造建築も残っていて、この辺りかなと思わせるものはある。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(4)ハバロフスクを一人彷徨う

3月16日(土)
一人散策

本日は昨日ポボロツキーさんからもらったハバロフスク案内を参照しながら、一人で街を歩いてみることにした。相変わらず表示される気温は低いのだが、なぜかそれほど寒く感じない。メインストリートに出て、昨日聞いた話を復習しながら、もう一度いくつかの建物を眺めてみる。

 

それから音楽堂の横にあるハバロフスク極東美術館を訪れた。なぜここに来たのかというと、ポボロツキーさんから『ここには土産に良いものが売っているので、一度覗いてみたら』と言われたからではなく、街中で見たポスターがあまりに衝撃だったからだ。実はここでは今『日本の春画展』が開催されていたのだ。

 

確か一昨年東京で初めて春画展が開かれ、大いに話題になったばかりだ。『春画はエロでタブーから、江戸浮世絵の芸術作品へ』と評価が変わったように思う。それがこの極東の街で堂々とポスターが張られ、展示されているというのだから、まさに興味本位で見に行ってみたわけだ。

 

美術館も抑留者が建てたらしい。立派な作りだ。常設展はパスして、春画展だけのチケットを買う。250ルーブルは安いのか高いのか。3階まですごく優雅な階段を上って行く。その一室に春画がズラッと展示されていた。かなり露骨な描写も含まれるので、一応18歳未満は入室禁止だが、参観者は殆どいなかった。江戸だけではなく、明治期の春画もある。生で春画を見たのは初めて、ちょっとビックリだ。

 

中国物と思われるものも2-3点あったが、日本の春画のレベルは高いと感じられた。ロシア人夫婦が興味津々で、絵をじっと見ている。どういう感想か聞きたいところだが、言葉は通じそうにない。1階に戻り、英語の出来る係員の女性に聞いてみたら、『春画は非常に素晴らしい美術品だと皆が言っている』とほめていたが、あれはお世辞だろうか。この春画展のパンフレットはないかと聞くと、『パンフは作っていない。カメラでの撮影は禁止だが、スマホ撮影はOKだから、もう一度3階に上がって撮って来れば』と言われ、何と再度見学する。何故スマホはOKなのか、その理由は分からない。

 

それから昨日は行かなかった先の道に進んでみる。冒険だな。今は少なくなったという木造の家が見えた。可愛らしい教会もあった。スマホ地図が使えるので、取り敢えずハバロフスク駅に行って見ようと歩き出すが、何と道を間違えてとんでもない方へ行ってしまっていた。お陰で、一般市民が住んでいる団地などはよく見え、郊外にはそれなりに木造住宅もあることは分かったが、相当に疲れた。

 

何とか歩いて鉄道駅まで辿り着いた。駅はそれほど大きくはないが、それなりに列車は走っている。私は3年前のシベリア鉄道のトラウマ?でロシアの列車に乗りたいとは思わない。でもなんとなく懐かしいので、駅中のカフェで昼食を取りながら、その頃のことを思い出す。

 

駅前の大きな道を進んでいくと見覚えのあるところへ出た。何と昨日来た市場だった。もう一度歩いてみると、店をやっている人間の中に中国人が何人もおり、店員、お客とも中国人なのか、中国語が時々聞こえてきた。今は港も閉まっているが、夏になれば多くの中国観光客が買い物に来るのだろうか。

 

更に屋内に入ると茶を売っている店があったが、そこではベトナムコーヒーも一緒に売られていた。彼はベトナム人でその昔にロシアへやってきて商売しているという。確かに社会主義繋がりであり、90年代の混乱期にここに留学などしていて残ったのではないだろうか。愛想はとてもいい。パン売り場のおばさんが何度も『このパンは美味しいよ』と言っているようで、中身も分からずつい買ってしまった。これも一つの交流か。

 

またメインストリートに戻り、その両側の建物の写真を撮り続けた。1つ1つに謂れはあるのだが、正直覚えきれない。中にはハバロフスク初の女学校跡もあった。120年の歴史、ここへは日本人女子も通ったのだろうか。100年前はホテルだったという建物も何軒かある。メインストリートは高くなった場所にあり、両側に下る道を歩きたかったが、疲れがピークで明日にした。

 

一度ホテルで休み、夕方外へ出た。すぐ近くのハンバーガー屋に入ってみる。今日は土曜日だから、家族連れ、若者たちが大勢食べていて、盛況だった。料金的には日本のマックと同じようなものだが、例えばポテトにつけるケチャップは有料で、3つの種類から選択するなど、ちょっとした違いがあった。

 

そのまま日が暮れようとしているアムール川へ出てみる。陽はゆっくりと落ちていき、なかなか沈まない。家族連れが凍った川面で走り回り、おじさんは穴をあけて釣りをしている。何とものどかな、絵画に出てくるような風景だった。可徳乾三もこの夕陽をここで見ただろうか。思わずライトアップがきれいな街中に戻り、またカメラを向け続ける。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(3)最高のガイドと街を歩く

そしてメインストリートである、ムラビヨフ・アムールスキー通りを歩き出す。ここが100年以上前、多くの日本人が暮らし、商売した場所だと言われ、実際に彼から『ここは竹内商店、向こうは中村歯医者、最初の日本領事館もここにあったよ』などと言われると、ちょっと驚いてしまう。当初の木造建築は残っていないものの、1900-1920年代に建てられた重厚で立派なレンガ造りの建物は今も現役で使われているのだ。特に竹内商店のあった建物には竹内家の家紋が埋め込まれているなど、日本を偲ばせるに十分な素材があった。

 

今回私が探し求めてきた、可徳商店もこの一角にあったという。ただ日露戦争時に日本人が引き揚げた後、すぐに木造の家は取り壊され、今はレンガ造りに変わっていた。それでもかなり港に近い良い場所を占めていたことが分かり、これは大きな収穫となった。これで当時の写真でもあればと思ったが、それは欲張りだった。

 

広場に出るとそこには教会があり、ちょっと入ってみる。中では厳粛に何かの儀式が行われており、奥に入るのは憚れたので、入り口付近で眺めていた。ソ連時代には宗教も弾圧されていたはずだが、多くの人が教会に来ているのは、その信仰がずっと続いていたからだろうか。この街には多くの教会があることをこの後沢山歩いて知ることとなる。

 

そしてアムール川に出た。広い川面は一面氷で覆われており、その上に朝降った雪が積もっていた。その遥か向こう、60㎞離れたところには中国の撫遠という街があり、数年前に行ったことがある。1年の半分だけ港が開き、ここからフェリーに乗って中国へ行けるのだ。ウラジオストックから入った物資も川つたいに来て、ここに荷揚げされたのではないか。可徳商店の物資もそうだったのだろうか。

 

すぐそこに1894年にオープンしたという郷土史博物館があった。中に入ると暖かい。旧館と新館があり、かなりの展示物があり、1時間以上かけて見学した。先住民族の記録、チョウザメなどの特産品が目新しい。ここには日本人はあまり出てこないが、やはり中国人の歴史は出てくる。お茶に関する展示はほぼないが、何となくハバロフスクの歴史が分かったような気になる。

 

この博物館の近くには2つの意味ある建物が建っていた。1つは音楽堂。ここは(ここ以外にも幾つもある)戦後抑留された日本人が建てたと言われており、その中にはあの歌手、三波春夫さんもいたという。もう一つは士官会館。ここで1949年にいわゆるハバロフスク裁判が開かれ、日本の対ソ攻撃、731部隊などが裁かれた歴史的な場所である。今は建て替え中で、中を見ることは出来なかった。確か昨年放映されたNHKスペシャルで731部隊の新たな資料が示されたが、これがハバロフスク裁判の録音テープだったと記憶しており、誠に興味深い。本当はここで何が行われたのだろうか。

 

お昼はインツーリストホテルで取る。インツーリストと言えば、ソ連時代は勿論、数年前まで、ロシア旅行時には欠かせない存在。このホテルも往時外国人客の宿泊が多かったようだが、今では多くのホテルが出来ており、改修工事で競争力を高めようとしていた。食事はハバロフスク名物のペリメニを食べる。以前も他で食べたことがあるが、ここの物は、食べやすい。

 

午後はタクシーを呼んでもらう。今やロシアでもタクシーはスマホアプリで呼ぶものだそうだ。私が希望したのは日本人墓地。ここは昨夜トロリーバスで市内へ来る途中にあったが、暗くて分からなかった場所。もし墓地が分かっても、広い園内のどこに日本人墓地があるかは分かりにくいため、ポボロツキーさんに連れてきてもらい正解だった。

 

墓地は区画が仕切られ、かなりきれいに整理されている印象。1956年日本人墓地とあるのは、日ソ共同宣言の年に整備されたということだろうか。近年日本政府はシベリア抑留中に死亡した人々の遺骨収集をして、DNA鑑定も行っているというが、本当にその人なのだろうか。それでも名前があり、墓があるというのは救われるのかもしれない。周囲にあるロシア人の墓に目をやると、墓碑に写真や似顔絵などが沢山見られ、何となく楽しい感じになっている。故人を偲ぶその方法は、その国それぞれだろうか。

 

続いて車は市内に少し戻り、プーシキンの像がある教育大学の裏手に着けた。この建物はあのラストエンペラー、溥儀が連行され、収容された場所だという。確かに先日天津に行った際、溥儀が故宮を出て住んだ静園にあった展示室に、ハバロフスク抑留のことが書かれていたのを思い出す。ここの1階に溥儀と満州国の大臣クラスが住み、2階は日本人将校が住んだと説明された。何ともリアルに歴史的な場所に立っている気がした。今は病院になっている。

 

最後に市場に行く。ここでようやくシムカードを手に入れた。550ルーブルで簡単に買えて使い勝手は良い。ついでに市場内を歩いてみると、お茶なども売られているが、紅茶のティバッグ。川魚は豊富で、肉売り場の面積も大きい。日本人が当地で作っている有機野菜は人気が高く、売切れていた。日本製調味料なども売られているが総じて高い。

 

ここから歩いてレーニン広場まで行き、ポボロツキーさんとは別れた。何とも有り難い1日ガイドで感謝しかない。彼がいなければ、何日ハバロフスクにいても何も変わらなかっただろう。私はレーニン広場を少し見て、そこからゆっくりと歩いて帰った。夕日が落ちていく時間だった。ちょうどセルフサービスのカフェが目に入ったので、スープと魚などを取り夕飯とした。ここが一番、一人旅にとって食事のしやすい場所だった。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(2)親切なハバロフスクの人々に救われる

完全に行き詰っていたところ、バスが来たので聞いてみた。予約したホテルのロシア語を持っていたので示してみると、理解はできたようだが、車掌は更に外を指し、トロリーバスと言っているように聞こえた。確かに外まで走っていくとその瞬間トロリーが来た。車掌は『これで行けるよ』と頷き、25ルーブルを受け取った。乗客はなく、何だか映画の世界を見ているようなレトロ感があった。

 

徐々に人が乗ってきて、徐々に街に近づいていた。30分ぐらいで市内に入った。シムカードがないので、スマホ地図が使えず、どこを走っているのかさえ、全く分からなかった。恐らくここがレーニン広場というところまできて車掌を見ると、後2駅と言っているように見えた。降りる時に『こっちだよね』と大きく指さすと大きく頷いたので、安心してその坂道を降りて行く。

 

だがどうも違うような気になる。地図も持っていたが不確かだし、何より道路標示のロシア語は読めない。そこで目に入ったのが、英語で書かれていたホテルの看板。恐る恐る入っていくとフロントの女性はきれいな英語を話した。そして泊り客でもないのに、親切にも地図を打ち出してくれ、説明を加えてくれた。

 

さあ、これでもう安心と思って歩き出したが、やはり何となく不安になる。暗い夜道の信号でじっと止まっていると、後ろから『道に迷ったのか』と英語で声を掛けてくれる若夫婦がいるではないか。地獄に仏?彼らはすぐに自分のスマホを取り出して、私がバスを降りて反対側の道を来ていることを示し、正確なホテルの位置まで教えてくれた。何とも有り難い、ハバロフスクには何と親切な人が多いのかと実感する。同時にお金がなかったからこそ、この親切に出会えたわけで、旅とは本当は如何にすべきか、もう一度考え直す機会ともなる。

 

そしてついにホテルに辿り着いた。そこに看板もなく(あっても読めないが)、もし若夫婦と出会っていなければ、更に探すのに時間を費やしていただろう。重装備で寒くはないと言っても零下8度の中、暗い街をこれだけ歩けば疲労感は相当に達していた。ホテルの部屋は天国のように暖かく、何とも居心地が良い空間がそこにあった。

 

時間はもう9時を過ぎており、腹は減っていたが、そうなるとまたルーブル問題がぶり返えしてくる。1階にレストランがあると言われたが、夜はバーになっているのか、何だかとても騒がしくて入る気にもなれない。ホテルならカードでも払えるだろうが、外へ出ると金がない。それでも外へ出てみる。さっきは余裕がなかったが、周囲の建物は皆歴史的建造物のように見えた。

 

メイン通りに出てみる。イルミネーションはきれいだ。ちょっと行くと道路脇に小さくてかわいい小屋があった。覗いてみるとパンを売っている。値段も書いてあり、これなら有り金で払えそうだったので、買い込む。パンを温めてもらい、ホテルの部屋でゆっくり味わって食べた。お金の有難味が沁みた。

 

3月15日(金)
ポボロツキーさんとの1日

部屋が本当に暖かいので、北京時代の冬を思い出し、眠りは深かった。起き上がると窓の外が明るいので、いい天気だと分かったが、何と零下10度、そして雪が降って積もっているではないか。昨晩あれから雪が降ったとは。あのまま道に迷い続けていたら、遭難か。ちょっと散歩でもしようかと思っていたが、部屋に閉じこもった。そして午前9時半の、ポボロツキーさんとの待ち合わせをじっと待つ。

 

ロビーには恰幅の良い人が待っていてくれた。彼は1981年にウラジオストック極東大学で日本語を専攻し、卒業後はこの地のインツーリストに配属された。配属システムは当時の中国と同じだった。日本語ガイドとして活動していたが、当時のお客さんは単なる観光という時代ではなく、ペレストロイカやソ連邦崩壊を経て、戦争前にここに住んでいた人、抑留された人やその子孫が訪れることが多く、案内先も自然とそういう場所になっていく。元々歴史好きだったこともあり、いつしかハバロフスクに関連した日本人の歴史を調べ、地図を作り、冊子にまでまとめていた。まさにNさんはライトパーソンを紹介してくれたことになる。このご縁には感謝しかない。

 

ホテルの外へ出ると日が出ており、思ったほどは寒くない。この周辺にも歴史的建造物はいくつもあり、元特務機関の事務所だったところを外から見学後、すぐに銀行に向かった。まずは資金がないと何もできない。そこで聞いてもらったところによると、『空港のATMでは現金が出ないことがある』という衝撃的な話だった。ロシアのATMとは何だろうか。

 

まあ銀行によって、ルーブルが出てくる機械もあるとは思うが、常に安定して出てくれないと、旅行者としては困ってしまう。またこれは余談だが、私の場合、今回主に使おうと思っていた銀聯カードが弾かれてしまったのだが、それはこのATMのせいではないことが、中国に行って分かることになるので、今回は運が悪かったというべきかもしれない。取り敢えず今後ロシアでは大目に現金を持ち歩くことにして、ポボロツキーさんの通訳で両替を済ませる。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(1)ルーブル調達に失敗

《遥かハバロフスクに茶旅する2019》  2019年3月14-18日

3年前に突き付けられた課題。それは明治時代に九州茶をシベリア、モンゴルに売り込んだ男の足跡を知りたいという、ある意味で途轍もない要求だった。私のところに話しが来た理由は『台湾で亡くなった』というそれだけだった。それでも台湾サイドでの調査は困難を極めたが、少しずつ前進していた。

 

ただ本題であるロシアはいけない。ロシアは言葉も通じず、文字も読めないことを3年前の万里茶路の過酷な旅で存分に味わっていた。しかも120年も前の日本人の足跡など追えるはずもなかったので、残念ながら早々に諦めていた。

 

最近ロシア極東に行く人が増えているとは聞いていた。ビザも緩和されているらしい。地球の歩き方も最新版が出るという。その取材をしていたNさんとは以前2-3度会ったことがあり、何となく、『ウラジオストックかハバロフスクで歴史に詳しい人を知らないか』と問い合わせた。

 

すると3日ほどして、『ポボロツキーさんから「あなたの探しているハバロフスクの可徳商店のあった場所などは、分かっているので、来るなら案内する」との完璧な日本語のメッセージを受け取った』という何とも驚くようなニュースがもたらされた。しかもポボロツキーさんは、私が月刊茶に書いた『可徳乾三』についての話も既に読んでくれたというではないか。彼は一体どんな人なのだろう、などとは考えず、これは行くしかあるまい、と日程を調整する。

 

3月14日(木)
ハバロフスクへ

ロシア極東、北方領土問題などで緊張しているかと思えば、ロシア側は近年日本人に対してビザを緩和していた。ウラジオストック、ハバロフスク、サハリンの内1か所だけの訪問、8日以内であれば、PCで申請書を打ち込めば、3日ほどでビザがメールされてきて、それを印刷して持ち込めばよいという。3年前はロシアの旅行社から招聘状を取り寄せ、それを持ってロシア大使館に行き、数日待って4000円払ってビザを取得したことから考えれば、とんでもなく楽だ。可徳の足跡はウラジオストックにもあったが、今回は取り敢えずこのビザを使い、ハバロフスクだけに行く。

 

フライトも調べてみたら、成田からハバロフスクへの直行便が飛んでいる。しかもフライト時間は2時間40分と表示されており、そんなに近いのかと驚く。これなら台湾へ行くより近い。私の極東ロシアへの心理的な距離はかなり遠いものがあったが、実際の距離は驚くほど近いのだ。

 

成田まで行き、S7というロシアの航空会社を探してチェックインする。すると係の女性は私が印刷しておいたビザを詳細に確認して、更に上司にも見せに行って何とか発券にこぎつけた。あれ、ビザ緩和から結構経っているのにどうして、と不安が過る。預け荷物の料金は予約の時に払っていたので問題はなかったが、この航空会社はロシアのLCCだとやっとわかった。

 

搭乗時間に行って見ると並んでいるのはほぼロシア人だった。S7は機体の色が独特、企業カラーらしい。機内は完全なアウエー状態。CAは英語が出来るので救われるが、ロシア語の渦に巻き込まれる。機内食はLCCながらサンドイッチとドリンクが出た。ちょっとフラッと寝ていると、もう着陸態勢に入っている。実質搭乗時間は2時間ちょっとだった。因みに時差はハバロフスクの方が1時間早い。

 

ハバロフスク空港のイミグレは混むので早く並べ、とどこかに書いてあった。確かに皆が先を争ってイミグレに突進している。だが意外とそのスピードは速かった。それでも私の番になると緊張する。もしここで入国拒否されたらどうなるのだろうか。これも案に相違してすぐに解放され、むしろ荷物が全然出てこないことにいら立つ。ここで初めて日本人出張者らしい人を2-3人見掛け、ちょっと安堵する。

 

荷物を取り出し、税関を通る。基本的に荷物は何もチェックしないのだが、パスポートを見た女性職員がいきなり『マネー』と言ったのにはびっくりした。所持金はいくらかと聞いているのかとも思ったが、どうもそんな雰囲気ではなかった。『なぜ?』と英語で問い返すとそのままパスポートを返してきたのは何だったのだろうか。20年前ではないのだ、袖の下を要求したとも思えないが。

 

出口を出ると、この空港が如何に小さいかを知る。まずはルーブルを調達しなければならない。両替所はなく、ATMが1台あるだけ。そこに中国の銀聯カード、ビザカードなどを入れてみたが、全て最後のところでスタックして、お金が出てこなかった。シムカードを買うところすらなく、国内線ターミナルへ行けと言われ、何と外へ出される。現在新ターミナルが建設中なのだろうか、その向こうに国内線はあった。予想していたより寒くはないが、すでに日が暮れようとしており、不安が募る。

 

国内線でもATMからお金は出なかった。そしてシムカードを買おうと店に入ったが、こちらもクレジットカードの読み取り機が壊れていると言われ、購入できず途方に暮れる。3年前のロシア旅行で残っていたルーブルを持っていたが、僅か300ルーブル。それではカードは買えず、更にタクシーにも乗れない額だった。

シベリア鉄道で茶旅する(36)モスクワ散策

赤の広場へ

この駅で降りたのには理由がある。19世紀末モスクワを訪問した李鴻章のために建てられたビルがあるというのだ。ヨーロッパ調のビルの中、何となく中華風の建物。これは李鴻章向け迎賓館だったらしいが、建てたのはロシアの茶商人だったというから興味深い。李鴻章とロシアの間には密約説が流れているが、その中に茶もあったのではないか、と勝手な推測をしてしまう。ビルの1階は茶荘になっており、中国茶も少し売られているが、大半は大きな缶に入って並べられていた。蓋を開けると物凄いフレーバー。今のロシアもヨーロッパ調のフレーバーティ全盛であった。お客が買っているのは、インドやスリランカの紅茶ティバッグが多かったかな。なんだかちょっと残念な気分。

DSCN9611m

DSCN9608m

 

日差しもあり、寒くもないのでそこから歩く。完全にヨーロッパの街を歩いている気分。改修中の旧KGB本部を通り、教会を横目に見る。更に歩いていったが、また道を間違えた。モスクワ川の河畔に出る。そこから北に向かうとボクロフスキー聖堂が見えた。ついに赤の広場に出た。これが子供の頃、時々垣間見た共産主義の広場。謎のベールに包まれた場所だった。天安門とはまた違った趣がある。前にはデンとした城塞、クレムリンが建つ。何となく感慨深いものがある。クレムリンに入るには行列ができていたので、止める。もう十分だという思いがある。

DSCN9617m

DSCN9622m

DSCN9626m

 

横にある歴史博物館で歴史だけを確認した。ティカップなどが展示されていたが、ここにも万里茶路に繋がる資料はなかった。モスクワにとっては、茶葉がどこから運ばれてきたかなど重要ではないということか。腹も減ってきたので、地下に潜ろうとしたが、ちょうどフードコートがあったので、寄ってみる。バーガーキングなどが人気だったが、私は料理が並んでいるコーナーへ。大きなグリルサーモンが目に入り、思わず注文したところ、係の女性が勧め上手で、ポテトなど大量に皿の上に載ってしまう。これを食べ切るのにはかなり苦労した。

DSCN9644m

DSCN9652m

 

ようやく地下鉄にも慣れたので来た道を戻る。5号線に乗り換える際、なぜか外へ出てしまったので、蛇行するモスクワ川を渡り、1駅を歩いて戻る。ちょうどよい散歩だった。宿に戻り、荷物を取ろうとしたが、なぜか少し待つように言われ、トイレに行くと携帯の電話が鳴る。FB電話で、バンコックのMさんからだった。彼女もまさか私がモスクワにいるとは思っていなかったようで驚いたが、トイレにいた私も驚いた。

DSCN9658m

 

空港

荷物を取ってホテルともお別れ。地下鉄のチケットは先ほど2回券を買っていたのだが、なぜか昨日のバスのチケットを自動改札に入れてしまい、通れず困惑。もう一度地下鉄に乗り、キエフスカヤ駅を目指す。ここではさすがに困惑なし。更にはキエフスカヤでも、昨日のNさんの指示が非常に有効で、少し離れているアエロエクスプレス駅まで迷わず行けた。少し早かったが、どんどん先に進む。今度はチケットも自販機で買えた。ようやくモスクワに慣れてきた頃にお別れか。

 

チケットは買ったが、出発時刻まではホームに入れない。30分に一本。天気が良いが、外で立っているのはさすがに寒い。列車は先日乗ったものと変わらず、快適に過ぎる。今度の空港はヴヌコボという名前で、かなり大きい。Fというターミナルまで、ひたすら歩かなければならない。もし急いでいたら焦るだろう。そしてエアチャイナのカウンターへ行くとちょうどチェックインが始まったのか、長蛇の列。団体観光客もかなりいた。荷物が多いのか、列はなかなか進まない。

DSCN9669m

 

ようやくチェックインが終了し、イミグレレへ。ここで宿泊証明を求められたらどうしようかと思ったが、全く何もなかった。荷物検査でも、昔はここで色々といちゃもんを付けられた、とS氏は言っていたが、チェック回数は多いものの、今日は難なく通過した。出発ゲートへ行くと、既に人が溢れていた。空港は大きいが、スペースは広くはない。そこに中国人団体が占拠するのでこうなるようだ。

 

北京経由で帰国

フライトは定刻に出発した。中国人の団体観光客は数日間を共にしており、皆かなり仲良くなっていた。まだ興奮冷めやらぬ様子で、はしゃいでいる。自国の飛行機に乗っていることも彼らをリラックスさせていた。私は正直寝たかったが、なかなか眠れない。モスクワから北京までは相当遠いと思っていたが、飛行時間は7時間弱。モスクワを出たのは夕方7時だったが、時差があり、北京着は翌朝の7時なのだ。

DSCN9675m

 

食事はすぐに出た。これを食べてウトウトしていると、パンが各席に押し込まれた。朝は起こさないよ、という合図である。それでも食事を渡さないとうるさいのが中国人だ。なるほど、これはよいかも。何となくボーっとしていると、あっという間に北京に着いてしまった。北京からモスクワまで列車で130時間掛かったが、飛行機で僅か7時間弱。一体あの旅は何だったんだろうか。今考えても不思議な列車旅。今回の旅を振り返る暇もない。

 

3月24日(木)

北京空港の朝は暖かく感じられた。既にホームグランドに戻った感じだ。ロシアでのあの緊張感は、文字が読めないだけではなく、やはり初めてで慣れがなかったということか。これからはもっと慣れない国にも行こう。脱アジア、これが今年の目標だ。そんなことを考えていると、すぐに搭乗となり、成田行きの便は出てしまった。何だかとても疲れてしまい、すぐに寝入ると、もう成田に着陸していた。

 

ちょうど2週間の今回の旅ほど、長く、そして厳しいものはなかった。この旅を乗り越えたことで、得る物も大きかったが、何より『本来の旅とは一体何か』という大命題を考え始める良い機会になったと思う。そして『万里茶路』については深くは情報が得られていない。次回は自分流の旅をして、さらに深く、濃く、茶路を歩いていきたい!

シベリア鉄道で茶旅する(35)レストランと地下鉄で迷走

最後の晩餐

モスクワの大学の通っている張さんの娘さんが、わざわざ家まで帰って、米せん茶を届けてくれた。これを手に入れれば満足だった。帰りは教えられたとおり、バスに乗る。50㍔でホテルの近くまで戻ってきた。ここは地下鉄がないので、バスは一般市民のおじさん、おばさん、子供たちでかなり混んでいた。30分以上乗ってようやく着いた。ホテルの横はロータリーのようになっており、そこの広場には、誰かの像が建っていたが、文字が読めないため、誰だか分らない。

DSCN9589m

DSCN9592m

 

ホテルに帰ると先に戻っていたS氏は懸命に原稿を書いていた。リビングルームはそのまま使えたので、我々は2つの部屋で自らの作業をした。先に空港に向かったNさんから連絡が入った。空港でフリーWi-Fiを使う際には、携帯で暗証番号を受ける必要があるらくし、私の携帯でその番号をゲットして渡した。お礼に明日の空港までの行き方が克明に書かれたメールが来て助かった。モスクワでは単に駅名を知っているだけでは乗り換えすら怪しくなる。

 

暗くなった頃、夕飯を食べに出る。相変わらず行き当たりばったり。何を食べるかも決まっていない。駅の周囲を行くと、ちょっときれいなレストランがある。ロシア最後の夜だから、少し良いものでも食べるようと、そこへ入ってみた。中もおしゃれな雰囲気で、会社帰りのサラリーマンなどが楽しそうにビールを飲んでいた。メニューを渡されたが、全てロシア語。そして何となくわかった物は何とタコスだった。ここはメキシコ料理屋か。これは入るところを間違えたと思ったが、既に座っていたので、ビールとタコスを頼んでみる。

DSCN9594m

 

何もモスクワまで来て、タコスを食べる必要はないのだが、大都市というのはそんなものだろう。ロシア人も東京で、こんなことをしているかもしれない。この店では軽くビールを飲む、というコンセプトにした。それでも代金はシベリアのカフェに比べればはるかに高かった。これがヨーロッパというものか。早々に退散する。そしてもう一つのレストランに入る。こちらは自分で料理を取って、秤で料金を払うという、とても外国人向きの店だった。私はうれしくなって、当初は軽くと思っていたが、鶏肉やジャガイモを沢山取り、腹一杯食べてしまった。ティバッグのお茶も入れて、さっきのビールとタコスの料金と変わらない。この方式が実に気にいってしまった。

DSCN9598m

 

帰りは地下道を通ってホテルに戻る。その地下道では、何と向こうから馬を引いた人が歩いてきてビックリした。モスクワ市内は馬の通行が認められているのか。北京市などではかなり昔に馬の通行は禁止になっている。先日のムルマンスクでは馬に乗った人を見かけたし、他の通行人は特に反応していなかったことから見ても、意外と問題ないのかもしれない。もう一つ、地下鉄駅の脇には飲み物の自動販売機が置かれていた。

DSCN9601m

 

よく見ると、なんとそれは日本製、ダイドードリンコの販売機だった。しかも表示されている飲み物は、ゆずレモンとかアイスココアとか、日本語で書かれていた。お金を入れれば本当にこれが出てくるのだろうか。ものすごく興味があったが、この寒い中、冷たい飲み物を飲みたとも思わず、とうとう買わなかった 。今考えてみれば、ネタとして一本買うべきだった!と後悔したが、後の祭り。果たしてあそこからは何が出てきたのか。なぜ日本製の自販機がモスクワにあるのだろうか。何とも不思議だ。

DSCN9596m

 

3月23日(水)
地下鉄で迷走

翌日もまたホテルの朝食を思いっきり食べた。とうとうこの旅が終わる。もう列車に乗る必要もないし、安堵が広がっている。今日は一人でモスクワ散策に出る。勿論午前中には帰ってこないので、ホテルをチェックアウトして、荷物をフロントに預けた。S氏はぎりぎりまで部屋で原稿を書くようなので、私が一足先に外に出た。そして初めてモスクワの地下鉄の駅へ。チケットは自販機でも買えるが、私にはよくわからないので、窓口で目的地を言って買う。50㍔だった。

 

この駅には2つの地下鉄が交差していた。私は5号線に乗り、一駅行って1号線に乗り換えるつもりだったが、まずは5号線の乗り場が分らない。インフォメーションがあったので、地図を指して乗り場を確認。何とかホームに行ったが、どちらの方向に乗るのか分らない。5号線は環状線なので、いつかは着くとは言いながら、反対方向に乗ってはたまらない。何とか勘を働かせて、乗換駅のロシア語を推測した。パールク・クリトゥールイ駅にはたどり着いた。

DSCN9605m

 

1号線のホームにも無事に辿り着いたが、来た電車にすぐに飛び乗ってしまう。幸い座れたので安心したが、次の駅名が分らない。放送もロシア語、駅の表示もロシア語だからどうしようもない。数駅行って、ついに反対方向に乗ってしまったことに気が付き愕然。今度は反対に倍の数だけ戻る。もう駅数を数えるしかない。ようやく目的駅であるチーストィエ・ブルドゥイ駅で降りた。しかしこの駅は3線が交差しており、駅名も異なっていた。東京の地下鉄にもたまにある光景だが、外国人にはたまらない。地上へ上がる方向がまたわからない。警備員に身振り手振りで何とか聞き出し、地上へ出た。

DSCN9606m

 

シベリア鉄道で茶旅する(34)モスクワの中国人茶商

 中国人茶商と会う

窓から外がよく見える。朝は前の道がかなり渋滞していたが、今は車の流れがスムーズだ。昨日までいた雪の世界とは全くの別世界だった。昼前に出掛けた。今日はモスクワにいる中国人茶商と会うことになっていた。ホテルの目の前のレーニン大通りをひたすら行けば、着く所が待ち合わせ場所に指定されていた。だが彼からの連絡方法は微信であり、会話は全て中国語。『旅遊大廈33階で会いましょう』と連絡が来たが、そのビルがどこにあるのか、モスクワの地図を見ても、地球の歩き方を見てもさっぱりわからない。

DSCN9547m

 

番地から判断すると、地下鉄では駅から遠いらしい。バスはよくわからない。仕方なくタクシーを拾う。モスクワのタクシーも多くが白タクだった。手を上げて停まれば、料金交渉をしなければならない。目的地を言うと、800㍔だという。かなり高い気がして値切るが、我々はその距離が分らないため、イマイチ交渉力がない。おまけに、『早く乗らないと駐車違反になる』と言われ、そのまま乗り込んだ。

 

運転手は悪い人間でもなさそうで、実際道は真っすぐだったものの、車はかなりの距離を走った。レーニン通りというぐらいの名前だから、かなり広い通りだが、市内の中心部かというとそうでもない。むしろ郊外に向かって走っていく感じだった。20分ぐらい乗っただろうか、ちょっと高い建物が見え、車はその下で停まった。韓国の起亜モーターのショールームがあった。33階以上の建物などこの周囲になかったから、ここに間違いはない。

DSCN9551m

 

未だ約束の時間には早かったが、取り敢えず指定されたレストランを確認する。このビル、オフィスビルのようで、一応エレベーターに乗るところに警備員がいた。中国料理の店に行くというと、私を中国人と見たのか、すぐに通してくれた。33階かに上がると、両側に中国語が見えた。いずれも中国レストランらしい。入口の女性に中国語で話しかけても通じない。微信で連絡すると、渋滞にはまっているという。彼は一体どこから来るのだろうか。

 

そもそも彼を紹介されたのは昨年12月、この企画旅で湖南省の長沙を訪れた時だった。茶葉市場の沢山ある店の中から、なぜか選んだ一軒、その店主が見せてくれたのが、ロシア人の写真だった。ロシア人が湖南省まで買付に来るのか、彼らに連絡を取る方法はあるのか、と尋ねたところ、『モスクワに中国人がいる』と言われたのが、彼だった。しかし中国茶を商っているとは聞いたものの、その素性すらよくわからない。それでもこのモスクワで、中国茶に関する情報を得る手段は他にはなかった。

 

彼、張さんがやってきたのは、約束の時間を少し過ぎていた。この近くに住んでいるとばかり思っていたのだが、何と40㎞も離れた場所からやってきたのだという。なぜここに来たのか。それはこのレストランが中国人、彼が面倒を見ている若者の開いた店であり、茶道具などもあり、便利だったからだろう。彼は昨日中国から戻ったばかりだという。何とも忙しい、典型的な中国人だった。

 

まずは中国料理を食べながら、彼の話を聞いた。因みにここの料理は中国人シェフが作る完全な中国料理であり、ロシアの料理しか食べていなかった私には、もう故郷の味がして、うれしかった。レストランの天井は非常に高く、開放感があった。飾りつけも中国だった。ロシア人もこのような本格的中華を食べるようになっているのだろうか。ここのオーナーが店を開いたのは昨年のようだ。店の外には、ロシア語と中国語で、今日のお勧めメニューが書かれている。

DSCN9555m

DSCN9562m

 

張さんは食事をしながらお茶を淹れてくれた。彼がお茶屋を始めたのは僅か10年前。ちょうど彼の会社は10周年を迎えるという。彼が初めてロシアに来たのはソ連邦が崩壊し、ロシアが大きな変化を迎えた頃だった。新疆ウイグルで育った彼は、政府の留学生としてモスクワの大学へ行き、その後も外交官としてモスクワの大使館にも勤務したらしい。その後ビジネス界に転じた。その商品がお茶だった。今ではモスクワの茶業界では有名人らしい。

 

食後張さんが本格的にお茶を淹れていると、そのパフォーマンスに人が集まってくる。ウクライナ人女性はここの常連であり、お茶好き同好会を幹部、来月中国にお茶見学に行く打ち合わせに来たという。ウクライナのオデッサもお茶のメッカらしい。ここは海ルートで運ばれた茶が陸揚げされ、モスクワに送られた場所。オデッサにも是非行ってみたい。彼らはその歴史に鑑み、中国茶を知ろうと努力していた。

DSCN9581m

 

万里茶路に繋がる遺跡などモスクワにはない、と彼は言い切った。ただ彼は復刻された湖北省羊楼洞に米せん茶を扱っているというので、それを買いたいと申し出た。茶は家にあるので娘に取りに行かせると言い、私はそれを待った。その間にも、不動産価格、賃金事情などモスクワの諸事情について、色々と聴取した。お茶を飲みながら話をするというのは、こういう時に役立つものだ。途中彼とロシア人がけんかになる場面もあった。お茶の売買をルーブルで行うか、人民元で行うかで揉めたようだ。『ルーブルの下落は凄い。誰でも外貨が欲しい』、これがロシアの現状のように思われた。

DSCN9584m

DSCN9585m

シベリア鉄道で茶旅する(33)ようやくたどり着いたホテルでスイートルームへ

 次に何とかたどり着いた宿は完全なバックパッカー宿だった。ビルの3階、聞かなければ絶対に分らない場所にあった。入っていくと気持ちの良い若者が、きれいな英語で対応してくれた。お客もヨーロッパの若者ばかりだった。リビングで皆が楽しそうにネットをしている。ここならいいな、と思ったが、空いているはずの3人部屋はあまりにも小さく我々おじさん3人が泊まるのは無理だった。

DSCN9529m

 

それからだいぶ歩いた。歩き始めてから2時間も放浪しただろうか。私はもう疲れ果て、どこでもいいから泊まりましょうよ、という気分だったが、2人は慣れているので、何のことはない、という風情で次に向かって行った。暖かいとは言っても零下のモスクワの夜10時に、おじさん3人が荷物を持ってフラフラしている、周囲からどう見られただろうか。

 

もうどこをどう歩いたのか分らない。大きな通りへ出て、ビルの中の宿を探す。そもそもモスクワのアパートは1階に鍵がかかっており、住人以外は入れない仕組みが多い。そこを入っていく人に付いて入っていくのだから怖い。そしてS氏は3階だ、と言ってエレベーターで昇ったが、すぐに降りてきた。『駄目だ、文字が読めないので、どの部屋か分らない』またすごすごと出ていく。私はもうこの作業が限界であることを悟っていた。だがNさんは『バックパッカーは1ドル下げるために3時間歩くのは当たり前です』と言って意に介さない。

DSCN9530m

 

私はそんなことは正直したこともないので、もうご免被りたい。何とか立派そうなホテルを見付けてそこへ入る。だがやはりツインしかない。しかもルームレートは5000㍔。2部屋取って税さを込みにすると10000㍔を越えた。私はもうそれでもいいと言ったが、Nさんはここでネットを接続して、また一人で探しに行った。そして戻ってきて、『あまりに汚いので諦めた』という。S氏が『そろそろ決めようか』というので、それならいっそ明日のアポに都合が良い場所へ移動してそこのホテルにしましょうと言ってみる。

 

流石に夜も11時、タクシーで移動した。ワルシャワホテルはオクチャープリスカヤ駅の角にあった。かなり古いホテルだった。祈るような気持でフロントへ行ったが、残念ながら、先ほどのホテルと状況はあまり変わらなかった。しかしもう動く気はない。他の2人も同意してくれたので、今晩の宿はここに決まった。何とモスクワの空港に着いてから5時間以上が経過していた。

 

今回は明日チェックアウトするNさんを一人部屋、私とS氏が同じ部屋となった。部屋はそれほど広くはない。シャワーを浴びて、さっさと寝たかったが、夕飯すら食べていなので、夜中の12時に外へ出た。閉まっている店も多かったが、1軒のカフェが開いていた。食べたい物はなかったが、なぜかセブンアップが飲みたくなる。疲れはある意味でピークに来ていた。食欲はなく、水分だけを欲しがった。ここで頼んだ紅茶はロシアで初めて、ティバッグではなくリーフがポットに入ってやってきた。やはりモスクワ、シベリアとは違う。

DSCN9540m

 

3月22日(火)
スイートルームに移動

翌朝は朝食が付いていたので、ホテルで取る。天井が高く、なんとも立派な食堂だった。ジュースを飲んで、焼いたパンと目玉焼きを食べ、コーヒーで締める、いわゆるホテルのビュッフェの朝食であるが、何だかそれが嬉しい。パンとサラミだけだと腹はくちるが、どうしても寂しさが残る。人間、気持ちの問題は大きいということだ。

DSCN9543m

DSCN9542m

 

食後、フロントへ行き、今日の部屋の有無を尋ねると、『昨晩より安い部屋はある』とのことで部屋を移動することにしたが、念のためネットで確認するとネット予約の方が更に安かったので、一度部屋に帰って予約してから、またフロントへ行く。フロントの若い男性は親切にも、『朝でもチェックインできますよ』と言ってくれたので、新しい部屋の鍵をもらい、すぐに荷物を移動させた。

 

確かに昨晩の部屋より狭かったが、なぜか入り口以外にドアがあり、そこが開いていた。覗いてみると、それは続きの部屋に繋がっており、かなり大きな居間のようだった。奥に机があり、ソファーもあった。インスタントコーヒーと電気ポットの用意まである。恐らくは客室担当が閉め忘れたのだろう。S氏は『取り敢えず開いているから使ってみよう』と言い、奥の机で原稿を書き始めた。これは完全にスイートルーム状態だった。確かこのホテル、各階にお茶が飲める部屋が1つずつあったが、この部屋は元々それではないのか。何かの都合で外のドアではなく、内側のドアを開けていたために、我々の部屋と繋がったのだろう。

DSCN9545m