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ウラジオストクを歩く2019(4)ウラジオふらふら

9月20日(金)
ウラジオふらふら

今日は実質ウラジオ最終日だが、もう大体行くべきところには行ってしまっていた。さてどうするか、と考えながら、ホテルの朝食を食べる。これまでは韓国人か中国人が多かったが、このホテルには日本人も泊っていた。食事内容はどこも同じような物だった。この辺はヨーロッパ的?

 

取り敢えず多くの観光客が訪れるという鷹の台展望台を目指す。基本は歩きで、ケーブルカーに乗る気もない。スマホ地図を見ながら、途中までは昨日歩いた旧東洋学院方面を行く。その辺から登り始め、高台の住宅地を抜けていく。だがどうも道がない。住宅の警備員に聞いたが、言葉は通じない。でも行きたい場所は分かったらしく、住宅内を突っ切って行けるよ、と笑顔でジェスチャーをしてくれた。しかし残念ながら、その入り口は閉ざされており、元に戻らざるを得なかった。

 

地図で見ると今来た道を一度下まで降りて、更に道路をぐるっと回って行かなければならなかった。その道路は広い自動車道で、歩くのは大変。何とか入り口に辿り着くと観光客が沢山いるではないか。上に登ると、確かに手前の黄金橋からウラジオストクの港がよく見えた。

 

帰り道をトボトボと行くとまた古い建物に出くわす。特に気になった建物があったのだが、果たしてこれが元々なんであったか、それはロシア語でしか書かれておらず、判然としない。また近所の壁には古い建物の写真が貼られており、ちょっと興味深いものも混ざっていた。この近くに骨董屋があるに違いないが、場所が分からなかった。

 

更に歩いていると、腹が減ってくる。ちょうどカフェが見えたのでメニューを見ると英語があった。しかもペリメニと書かれていたので、迷わず入ってみる。何とこのカフェのメインはペリメニであり、10種類ものペリメニが用意されていて迷う。ゆっくり茹でて出てみたペリメニはかなり美味だったので、じっくり味わった。カフェなので食後にコーヒーを飲むと、何だか新しい感覚になる。

 

 

最後に噴水通りの周辺を丹念に歩いてみた。この通りはとてもきれいなのだが、そこから一歩裏に入ると、昔の雰囲気がいくらか残っている。勿論ここにも観光客目当ての店が出てはいるが、何だかここらあたりを100年前に日本人が歩いていたかな、と思うと複雑な気分になる。

 

一度宿に帰り休む。なぜかまた腹が減り、早めに夕飯を食べてしまう。それから夕陽が落ちてくるのが見えたので、ビーチの方に向かう。先日のホテルと違って、ここからは夕陽がよく眺められたので、しばしそれに見とれる。周囲ではビールを飲みながら騒ぐロシア人たちがいた。

 

宿へ帰り、部屋にあるLG製のブラウン管テレビを点けてみる。普通テレビなど見ないのだが、今日はラグビーワールドカップの開幕戦、日本対ロシアの試合が日本である。もしやと思い探すと、ロシアでもちゃんと注目されており、生放送されているではないか。その実況にはかなりの熱が入っていたが、試合はガチガチの日本が勝利したので、かなりがっかりしているようだった。まあそれにしても、ブラウン管テレビはこんなにも見難かったかと実感する。

 

9月21日(土)
ウラジオストクを離れる

ついに日本へ帰る日が来た。本当は空港まで列車に乗って行きたかったが、昨日駅で確認してみて、私のフライトにちょうど合う列車はなかった。朝7時の列車に乗れば確実なのは分かっていたが、空港に着いても3時間半、何もやることがない。それならばホテルで朝食を食べてから、またバスで行くことにした。

 

バスは特に混んでおらず、時刻表通りに出発した。終点だから寝過ごすこともないので目をつぶる。途中で何人かが乗ってくる。そしてある程度行ったところで渋滞になる。よく見ると斜め前の方で煙が上がっている。何と火事に遭遇した。それもかなり大きな火事だ。後で検索した放送局だったらしい。日本語のニュースにもなるほどの規模だったので、驚いた。

 

1時間ちょっとで空港に到着したが、まだチェックインは開始されていなかった。20分後に開始という表示になっており、皆並び始めたが、いつになっても始まらない。その前に韓国行きの便が終わらないからだろうか。そこへ後から来た子供連れの家族がカウンターに何か言うと、なぜか彼らの処理が始まったので、後ろのロシア人が怒り出す。

 

すると横のカウンターが開き、私の後ろのロシア人がそこへ滑り込み、手続きを始めた。それなら私の方が先だろうと、そのカウンターへ行くと『ここはビジネスクラスだけ』というではないか。何の表示もなく、外国人は勿論、ロシア人にも不可解な処理が行われて困る。

 

まあそんなこともあったが、今回のウラジオストクの旅は順調だったと言ってよい。何より天気が素晴らしく、気持ちがよかった。これからここを訪れる日本人も増えていくだろうが、出来れば歴史にももう少し目を向けてもらいたいと思った。確かに日本から最も近いロシアだから、歴史的繋がりは相当ある。

ウラジオストクを歩く2019(3)モルグン先生と会って

9月19日(木)
モルグン先生と

前日早く寝たので、早めに起きた。気温が相当下がっている。厚手の服を着こんで、食堂に行く。広めのスペースにそれほど人はいない。簡単な食事を取って食べる。まあロシアはどこも同じようなメニューなのだろう。せめて、コーヒーや紅茶がもう少し熱いとよいのだが。

 

今日は今回のメインイベント、極東ロシア交流史に詳しい、ゾーヤ・モルグン先生と会うことになっていた。彼女も前回のハバロフスクでポボロツキーさんから紹介を受けた。モルグンさんには第2次大戦前までのウラジオストク在住日本人達に関する著書があり、その中で可徳については触れられていないが、日本人茶業者についても書かれているので、とても興味を持っていた。先生は日本とロシアの人的交流にも常に尽力している。

 

まずは海辺のホテルをチェックアウトする。やはり手続きになんでも時間を要する。手際よくやる、という感覚はない。ソ連時代の名残だろうか。それから荷物を持って、先日泊まったホテルの近くに歩いて行き、荷物を預かってもらった。こちらの方が良さそうには見えるが、それでも建物は国営時代そのものであり、その雰囲気をかなり残していた。

 

待ち合わせ場所はあの横浜正金が入っていた博物館だ。博物館とはご縁が深いモルグンさんはここに用事があり、まずはそれを済ませてから、カフェに移動する。だがちょうど斜め前に昨日見た可徳のオフィスと思われる建物があったので、まずはそこを見てもらう。にこやかだった先生の顔が厳しくなり、専門家に変身する。この建物については、別の専門家がもし分かれば、聞いてみるとのことだった。心強い。

 

現地の人が普通に飲む紅茶などを注文してもらう。甘いケーキも出てきた。そしてこちらが聞きたかったことをどんどん質問していく。長年研究を続けてきた人だけあって、当然ながら色々と詳しく、非常に勉強になる。ただ中にモルグンさんにとっても初耳だったこともあったようで、こちらの話にも非常に興味を持ってくれ、話が弾んで面白い。70歳を過ぎても現役で日本語を教えている(場所は昨日行った旧東洋学院)という先生は、やはりパワフルだ。

 

カフェを出て、少し散策した。観光客でにぎわう噴水通りを見て先生は『ここは100年前日本経営の女郎屋さんが多かった』というので驚いてしまう。今の我々には全く分からない残酷な歴史がそこには存在しているのだ。そして旧日本総領事館などの周辺を回り、更に色々と教えてもらう。NHKのファミリーヒストリーを見て、さだまさしの祖父がスパイだったことを思い出したが、何と先生はこの番組に出演していた。ゆっくりと先生は広場からバスで帰っていった。また教えを請いたいと思う。

 

戻って博物館を見学した。まずは建物のレトロ感がよい。そして土偶から甲冑まで、実に様々な展示がなされており、実に興味深い。日本との繋がりも十分に感じられる。先住民族の歴史もかなり展示されており、勉強になる。先住民族の地に、ロシア、中国、そして日本人も入って来て、街が形成されていった。

 

遅い昼ご飯は、近くの食堂へ行く。先日行ったところよりかなりきれいで客も多いのだが、店員の対応は更にひどい(店員の方も待遇などに不満があるのかな、とも思う)。観光客など外国人は来なくてよい、ということかもしれないが、観光で売り出す街としては、サービス業に弱点があるのではないか。モルグン先生と行ったきれいなカフェの店員もずっとスマホを触っていて、遊んでいるようにしか見えなかった。そしてスープも今一つだったのでがっかり。

 

今日のホテルに戻り、チェックイン。初日より高い料金を払ったが、設備などは良くない。昔の一流ホテル。だから部屋が空いていたのだと納得する。午後は裏側の海を見に行く。遊園地があり、船着き場がある。実にクリアーな天気で気持ちがよい。恐らくウラジオストクの秋、最高の季節なのだろう。平日だが多くの人々が午後の散歩をしている。ビーチがあり、何とこのひんやりとした中、水着で泳いで人、日光浴にいそしむ人もいた。

 

そのまま1時間ほど市内散歩を続け、宿に帰って休息する。ウラジオストクの歩ける範囲はほぼ歩いた気分になる。ちゃんとした机もない部屋で、PCを開いて今回の旅のまとめを始めるが、腰が痛くなる。夜までそうしていると、やはり腹が減るも、余り歩きたくなかったので、先日の食堂へ行き、まあまあだったスープを飲むことにした。急速に秋から冬になろうとしている雰囲気が嫌いではない。

ウラジオストクを歩く2019(2)歴史の街を歩く

9月18日(水)
ウラジオストク歴史散策

今朝も晴れて気持ちがよい。ただ夜中の気温は急激に低下したようで、起きるとちょっと肌寒く感じた。ホテルに朝食が付いていたので、パンなどを食べてから出掛ける。まずはとにかく可徳が120年前に開いたオフィスの場所を確認したいと思い、歩き出す。住所は3月のハバロフスクでお世話になったポボロツキーさんからもらっていたので、簡単に辿り着いた。

 

但しオフィスは2か所あったという。何故途中で引っ越したのだろうか。スヴェトランスカヤ街の緩やかな登り、そこに立つ古い建物。それが引っ越した後の事務所ではなかったかと思われる。今はカフェと革製品を売る店が1階に入っているが、ここの2階に事務所が置かれていたのでは。斜め向かいにはアルセーニエフ沿海地方州立博物館という立派な建物が角を占めている。ここはその昔、横浜正金銀行の支店が入っていたらしい。

 

そこから少し歩くと、アレウーツカヤ街に大型のショッピングモール、クローバーハウスがある。ここが元々の事務所があった場所らしいが、今やその面影はない。ただ道の向かいには日本の商店がいくつも入っていたという如何にも古い建物が保存されており、往時の雰囲気が少し味わえる。この2つの場所を確認し、写真を撮ったことでかなりホッとする。

 

そのまま北の方に歩いて行くと、日本時代に本願寺のあった場所まで行く。今は碑が建っているだけで寺院はない。その先にはなぜか仏像が置かれているところがあり、その横にはなんと与謝野晶子の歌が刻まれた碑がある。彼女は燃えるような思いを持って、ヨーロッパに旅だったようだ。更には素敵な教会もある。

 

そこから南下すると、いい感じの建物がどんどん出てきて、気分が乗る。最後の方には旧日本総領事館などの建物があり、この周辺が当時の中心だったことがよく分かる。日本人関連の商店などもこの付近に集中しており、ほんの少し行くと、先ほどの可徳のオフィスがあったところに出るから、可徳もこの辺を行き来しているのだろう。ただ彼はハバロフスクにも行き、日本にも帰っているから、どの程度この地にいたのかは疑問ではある。

 

今日はホテルを代わらなければならない。折角なので海の見えるホテル、に行ってみることにした。そこは地図で見ると近かったのだが、かなりのアップダウンがあり、また細い道を行くと木造の古い家があったりする。何とか通り抜けて、今度は海まで下り、ようやくたどり着く。

 

このホテル、何だか映画に出てきそうな海辺の大型ホテル。勿論廃墟ではないが、バルブ崩壊のような、かなり寂しい感じだ。国営ホテルの匂いもぷんぷんしており、とても満室とは思えないが、2時まではチェックインできないというので、荷物を預けて出掛ける。実は海の方からでなくても、上の階に出口があり、こちらの方がかなり近い。

 

また駅に行き、その先に泊まっている大型客船に見入る。駅と港がくっついており、実にコンパクトだ。その向こうには大きな広場があり、教会が見える。更に先には市立博物館がある。この場所に二葉亭四迷が住んでいたことがあるらしい。その横は、ニコライ二世の凱旋門だ。

 

海沿いに歩いて行くと、橋が架かっており、そこを越えた所には、なぜか嘉納治五郎の像もある。ロシア柔道発祥の地ということらしい。そこでエネルギー切れを起こし、スタンドでホットドックとコーヒーを買って食べる。かなり風がよい中でも、外で食べるのは気持ちがよい。

 

更に進んでいくと、東洋学院(現極東連邦大学)の赤いレンガの建物が見えてくる。これもかなり古く、入り口には何となく日本を思わせる石が置かれている。1899年に設立されたこの学校は日本研究なども行われており、日本とのゆかりは深い。その建物を抜けていくと、裏の道路の反対側にはプーシキン劇場がある。ここはバレーなどが今も上演されているようだが、戦前は松井須磨子が舞台に立ったこともあるらしい。

 

あまりに歩いてしまい、へとへとになって、宿まで戻った。部屋に入ると確かに海は見えたが、結構遠い。窓も汚い。このホテル、Wi-Fiはほぼ使えない。部屋数はかなり多いのだが、一体どれだけ泊っているのか。やはり一晩でおさらばしよう。夕方、夕日を見ようと海辺に行くも、フェンスで覆われて入れない。

 

仕方なく、ちょうどFBでTさんに教えてもらったピロシキ屋に向かう。駅のすぐ近くの小さな店で、テイクアウト専門。何と日本語メニューが登場したので驚く。おかずパンの定番、チキンレバー入りと煮キャベツ入りを注文、合わせて暖かい紅茶もテイクアウトして、駅が見える場所でゆっくり味わう。これは予想以上のうまさ。しかもとても安いので有難い。

 

帰り道を行くと、日がどんどん落ちて行くので、色々な角度から見てみた。海は風が強く、非常に荒れているので、空はきっくり見える。日が落ちてしまうと真っ暗になり、風の音だけが聞こえて本当に寂しい。如何にも北の海という感じだ。まあ一晩なら耐えられるかと、早めにシャワーを浴びて寝込む。

ウラジオストクを歩く2019(1)日本から一番近いヨーロッパへ

《ウラジオストクを歩く2019》  2019年9月17日-21日

2か月におよぶ東南アジアの旅。久しぶりにカバン一つでフラフラ歩き回り、自分もまだまだできるじゃん、と思ったのだけれど、やはり体へのダメージは相当なもので、おまけに家のごたごたに巻き込まれ、日本の行政システムの後進性をいやという程味わい、疲れ果てていた。

そんな中、3月のハバロフスクに続いて、今回はウラジオストク訪問が実現した。3月同様目的はただ一つ。可徳乾三の足跡を追うことだけだったが、今や『日本から最も近いヨーロッパ』を売りに、日本からの観光客も増えていると聞き、ちょっと興味を持って出掛けてみた。ビザは前回同様電子ビザで簡単に取得する。

 

9月17日(火)
ウラジオストクまで

前回のハバロフスク同様、成田から出る。今回はS7ではなく、アエロフロートの子会社、オーロラ航空で飛ぶ。オーロラと言えば、3月、突然ハルピンに飛ぶ飛行機となったが、特に悪い印象はなかった。チェックインカウンターに2時間40分前に着いたが、日本人は自動チェックインが出来ませんと言われて待つ。今回は預け荷物無し、10㎏以内に荷物を抑えたので、問題ないと思っており、機械で搭乗券を打ち出したのに。

 

結局ビザなどの要件を確認している。最初からちゃんと伝えていればよいのに。後に搭乗ゲートで何人もが呼び出されていたのはこのためだったのだ。中にはビザ要件不十分の外国人がおり、かなり揉めていた。そういえば、出国審査終了後の場所に、セブンイレブンがあったのは新鮮だ。ドリンク1個買うのに搭乗券を要求される。広い共有スペースでPCをいじることもできて快適な待合室。

 

機内はS7とほとんど変わらない雰囲気だったが、3月は日本人が5人しか乗っておらず、完全なアウエー状態だったのに、今回は日本語がかなり聞こえてきて、最後は後ろの女性が日本語で話しかけてきた。これはウラジオとハバロフスクの違いなのか、それとも季節の違いなのか。機内食もパサパサのサンドイッチ。隣の人がジュースとコーヒーをもらったので私も習った。

 

結局2時間もならないうちに、定刻前にウラジオに到着。空港の入国審査は早かった。係員の女性は『幼稚園のお迎えが間に合わない』のかと思うようなイライラした表情で、あっという間にスタンプを押した。預け荷物もないから、そのまますぐに外へ出た。だがやはりATMに銀行カードを差し込んでもルーブルは出なかった。

 

それでも両替所もあり、私の場合は既に手持ちのルーブルがあるので、問題なくシムカードを購入できた。シムカードを売っていた若い女性は英語も堪能で、かなり親切、しかも笑顔だった。この国際空港は当然ながら、ハバロフスクよりかなり環境がよい。

 

この空港には市内行の列車があると聞いているが、1日に5本しかなく、既に今日は終了していた。バスもあるが、ミニバスはいつ出るのか聞いても言葉は通じない。そのうちに乗客が沢山乗り込んできたが、その殆どが日本人で、地球の歩き方などを持っていて驚いた。初老の夫婦は『どこ行くかわかんないけど、何とかなるよね』などと会話している。やはりウラジオ観光はプチブームなのか。

 

結局午後6時にバスは出た。市内まで40㎞以上あり、渋滞もあったので1時間以上かかった。料金は200ルーブルで、大きな荷物は別途1つ100ルーブルらしい。ハバロフスクのトロリーバスが35ルーブルだったことを考えると市内へのアクセスは断然高い。終点はあのシベリア鉄道の起点、ウラジオストク駅だ。

 

未だ周囲は明るかった。取り敢えず今日泊まろうかと思っている宿を目指す。思っていたよりきつい坂を上り、何とかそこに辿り着く。特に予約はしておらず、部屋はあるかと聞くと、間髪を入れずに『1泊だけならね』と言われてしまい、ちょっとびっくり。まあまずは1泊してみることにした。部屋は広くはないが、整っていて、居心地はよさそうだ。

 

暗くなり始めたので、急いで外へ出て夕飯を探す。すぐ近くにスーパーがあり、まずはドリンクなどを買い込む。韓国人観光客などが沢山いた。続いて駅へ行き、中を少し見学。これがシベリア鉄道の出発駅かと思うほど小さい。駅の周辺も思ったほど食堂がなく、かなり歩き回る。

 

メインストリートでようやく大衆食堂を発見して、列に並び、好きな物を選ぶ。若者が横入りするし、会計のおばさんの態度は悪いしと、ハバロフスクに比べて、印象は良くなかった。それでもスープが飲めて、サラダが食べられたことはよかった。それから明日の夜泊まるところを何となく探してみたが、どうもしっくりこない。周辺には日本の居酒屋があり、おしゃれなバーもあったが、私には無用の長物だ。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(6)ハバロフスクを去る

3月18日(月)
ハバロフスクを離れる

ついにハバロフスク最終日。フライトの変更により、当初の午後4時から夜8時の出発となったため、時間はたっぷりとあった。この時間をどう潰すか。まず午前中は体力を温存するため、部屋でゆっくりと過ごした。特に今日の夜は全く予期していなかったハルピンへ行くので、そのホテルの予約などをしなければならなかった。ハルピンの気温はこことそれほど変わらないのは何とも幸いだ。

 

チェックアウト時間を午後1時まで延ばしてもらうが、5分前には電話が鳴り、部屋を追い出された。このホテル、予想以上に居心地の良い部屋で満足。料金は手頃でフロントの対応もよく、おまけに国際電話タダの恩恵にまで預かった。次回来ることがあれば、またここに泊まろう。

 

腹ごしらえはどうするか。カフェも飽きたので、歴史的建造物にあるレストランに入ってみた。だがそこは、ロシア料理店ではなく、中央アジア、アラブ風の店でちょっと驚く。怪しげなウエーターが英語で応対してくれる。ペルメニと紅茶を注文すると、音もなく去っていく。レストランの内装はかなり凝っており、中東に来てしまったような錯覚に捕らわれる。

 

ペルメニも当然、中央アジア風でロシアとは違う。スープ餃子ではなく、中身も羊肉だった。紅茶は立派なポットに入っており、3杯もお替りできる量だった。ウエーターが、突然『スイーツマジックをどうぞ』というから何かと思ったら、綿菓子がサービスされたのにはかなり驚く。なるほど、スイーツマジックか。久しぶりに食べるよな。

 

それにしても外に出ると何だか暑い。これはご飯を食べたせいではない。気温を見てびっくり。何と+12度ではないか。空は快晴ではあるが、どうして突然こんなに暑いのか。慌て着ていたダウンジャケットを脱ぎ、マフラーもバッグにしまい込む。後で調べると、北京は20度以上もあったようで、時々ある春の馬鹿陽気だった。散歩しやすいともいえるが、むしろ暑すぎて汗が出るし、ダウンを持つのも邪魔だった。

 

メインストリートを歩き、レーニン広場を越えて少し行くとディナモ公園がある。ここは戦前、博覧会が開かれたほど大きな広場だ。今は市民の憩いの場となっており、犬を連れて散歩する人が多い。更に進み、大通りから一本入る。ここには何の痕跡もないが、可徳乾三がいた頃は、日本の女郎屋が並んでいた地域らしい。

 

そこで働いていた多くは、天草あたりから売られてきた女性たちで、経営者も同じ九州の人間だったという。九州、熊本・長崎の貧しさ、可徳がここまで出てきた理由の一端もここにあるかもしれない。先日マレーシアのサンダカンに行っても、からゆきさんは天草などの女性だったことを思うと、その厳しさが分かる。また同時に対ロ工作の一環として娼婦が使われたとの見方もあり、歴史というのは本当に一筋縄ではいかない。

 

最後にこれまで行っていない地域に足を向ける。そこにはかなり立派な、大きな建物が続いて建っており、軍関係の施設だと分かる。往時は日本軍の司令部だったところだろう。ハバロフスクは軍事的には極東司令部などが置かれる重要拠点であることは今も昔も変わらない。

 

ホテルに戻り、少し休息する。それから荷物を引き取り、メインストリートからトロリーバスに乗る。あの初日の暗いバスとは異なり、夕日に煽られたきれいなバスだった。最初は乗客がかなりいたが、いつの間に全員降りており、取り残されるが空港は見えない。間違って乗ったかと焦った頃にようやく空港が見える。車掌が『国内線、国際線?』と聞いているように思えたが、答えるロシア語を持ち合わせない。何とか『キタイ(中国)』というと、国際線で降ろしてくれた。

 

空港到着は早過ぎて、狭いロビーで待つ。2時間前になるとようやく航空会社と税関職員がやってきて、チェックインが始まる。前日突然購入したチケット、また間違いはないかとドキドキしたが、何事もなく発券される。乗客はロシア人と中国人が半々、それ以外の国籍はいないように見えた。中国人はこちらにいる親族などを訪ねてきた人が多く、ロシア人はビジネスマンだろうか。

 

空港には何もなく、手持無沙汰に待つしかない。既に本日の全ての国際線は飛び立っており、我々だけが待っている。ようやくコールされ、暗い空港をバスで目の前の飛行機へ。アエロフロートの子会社だというオーロラ航空に乗り込む。機内に入ると私の席に中国人のおじさんが座っていたので、席が違うと中国語で伝えていると、後ろのロシア人男性が私を突き飛ばして通路を進む。ロシア人の中国人に対する感情の一端を見る思いだった。まさかここに日本人が乗っているとは思ってもいなかっただろう、二国間の小競り合いか。

 

初めてのハバロフスクでは、非常に沢山のことを学んだ。まだウラジオストックも残っているので、何としても行かなければならない。今回の教訓があれば、次の旅はかなり楽になるだろう、そう願うばかりだ。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(5)事件発生 飛行機に乗れない?

3月17日(日)
事件発生 飛行機に乗れない?

その事件が発覚したのは昨晩遅くだった。明日のフライトを確認しようと、ネットで検索したが、私の名前を入れても予約が出てこないのだ。そして初めて1か月前に届いていた予約確認書を見て驚いた。私の姓は合っているのだが、名前のスペルが違っていた。いや、スペルではなく、妙に長いのだ。MRなどという文字が混入しており、何だか分からない状態だった。恐らくこれは予約画面で自分の名前を打った時、MRなどが混在したものと思われる。

 

この航空会社には以前も何度か乗っているので、この間違いは私のせいではないと分かってくれるのではと思ったが、すぐに連絡を入れた方がよいというアドバイスもあり、電話番号を探す。ハバロフスク支店に今電話しても夜の10時過ぎで誰も出るはずはない。ソウルのコールセンターを探して電話しようとしたが、今度は私が買ったロシアシムでは何番を押せば国際電話が掛けられるのかが分からず、フロントへ駆け込む。

 

フロントの女性は話しを聞いたうえで『このホテル、国際電話無料サービスだから、部屋から掛ければ』というではないか。何と親切なホテルだろう。ところが部屋からはなぜか繋がらず、もう一度フロントへ行き、そこの電話でかけてもらってようやく繋がる。ハングルは出来ないので、英語サービスを押すと、ちゃんと英語で人が出たのだが『本日のサービスは終了しました』というではないか。そんなこと言っても、今英語で私の話を聞いているのだから、対応して欲しいというと、色々と言い訳を並べて結局対応してもらえず。

 

『翌朝8時にまたここにかけてください』という。仕方なく一度寝て、午前9時過ぎ(ソウルとも時差1時間)にまたフロントから掛けると、英語できちんと話を聞いてくれた。だが『話は分かったが、ここはアメリカのLAで電話を受けており、我々には修正する権限はない。後2時間したらソウルに切り替わるから、そこにかけて』というではないか。

 

一体どうなっているのだ、この航空会社は。そしてこちらの時間の11時過ぎにまた電話をすると『話は分かったが、発券したのはハバロフスク支店なので、そちらにコンタクトして欲しい』というので、さすがに怒りが爆発する。『私はおたくのHPでチケットを購入したのだ。しかしHPでは変更できないというから何度も電話しているのだ。ハバロフスク支店などは関係なのだ。しかも今日な日曜日だ。支店は対応してくれるのか』と畳みかけると、『とにかく明日の朝一で支店へ』と小声になる。

 

『では支店に行けば必ず修正してくれるのだな』と聞き返すと『それは各支店にポリシーがあり・・』と要領を得ない。もうこれで諦めた。このチケットはキャンセルしようと思うが、他に代替手段はあるのだろうか。何しろ東京へ戻るのではなく、中国の成都へ行かなければならない。電話を切りネットで検索したところ、明日の夜ハルピン行きに乗り、そこで1泊、翌朝早くに成都行きに乗り継ぐと、ちょうど東京から来る人々と合流できることが分かり、迷わずそのチケット予約する。料金は前のチケットとほぼ同じ。何だ、最初からこちらにすればよかったと思うが、後の祭り。

 

そして4回目の電話をしてキャンセルを告げた。すると『キャンセルの手続きをハバロフスク支店でやって欲しい』と言われ、もう限界を超えた。一体何を考えているのかというと、電話の向こうから『分りました。こちらで処理しますが、返金は4週間後になるかもしれません』という。返金?何とこのチケットのキャンセル料は僅か50ユーロでかなりの金額が返ってくることをここで初めて知り、愕然とする。それならこの1日は何だったのか。無駄な処理にどれだけの時間を費やしたというのか。余談だが返金は4週間どころか、2日後には完了している。もうこの航空会社の言うことなど聞かないぞ。

 

という騒動に巻き込まれ、昼ご飯もその辺でパンを買って食べる羽目になってしまい、ようやく今日の散策に出たのは午後だった。折角なので日曜日で閉まっているとは分っているが、例の航空会社のハバロフスク支店を見てみようと思い出掛けた。だがどうもスマホ地図が示す場所が正確ではない。かなり歩いてきたのに、結局見つけることは出来ず、立派な教会だけを見る。月曜日にここで処理をしなくて本当に良かった。昼ご飯、パンだけでは軽いので、カップ麺を買ってきて部屋で食べる。すごく美味しい訳ではないが、これまた3年前の味がして、懐かしい。

 

夕方、もう一度出掛ける。ハバロフスクには今も日本総領事館があるというので、何となく見に行った。そこは先ほど支店を探して彷徨った通りの1本向こう、港に近い場所にあった。ただ入り口は分かりにくく、階段を登ってやっとたどり着く。その建物は領事館とは思えないほど可愛らしいクラシックスタイル。こんな領事館なら、地元民からも愛されているかもしれない。

 

更には100年前に日本人会や商工会があった建物も残っていた。ここは現在空手道場になっており、往時を偲ばせる。また本願寺があった場所は特定できないが、古い木造建築も残っていて、この辺りかなと思わせるものはある。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(4)ハバロフスクを一人彷徨う

3月16日(土)
一人散策

本日は昨日ポボロツキーさんからもらったハバロフスク案内を参照しながら、一人で街を歩いてみることにした。相変わらず表示される気温は低いのだが、なぜかそれほど寒く感じない。メインストリートに出て、昨日聞いた話を復習しながら、もう一度いくつかの建物を眺めてみる。

 

それから音楽堂の横にあるハバロフスク極東美術館を訪れた。なぜここに来たのかというと、ポボロツキーさんから『ここには土産に良いものが売っているので、一度覗いてみたら』と言われたからではなく、街中で見たポスターがあまりに衝撃だったからだ。実はここでは今『日本の春画展』が開催されていたのだ。

 

確か一昨年東京で初めて春画展が開かれ、大いに話題になったばかりだ。『春画はエロでタブーから、江戸浮世絵の芸術作品へ』と評価が変わったように思う。それがこの極東の街で堂々とポスターが張られ、展示されているというのだから、まさに興味本位で見に行ってみたわけだ。

 

美術館も抑留者が建てたらしい。立派な作りだ。常設展はパスして、春画展だけのチケットを買う。250ルーブルは安いのか高いのか。3階まですごく優雅な階段を上って行く。その一室に春画がズラッと展示されていた。かなり露骨な描写も含まれるので、一応18歳未満は入室禁止だが、参観者は殆どいなかった。江戸だけではなく、明治期の春画もある。生で春画を見たのは初めて、ちょっとビックリだ。

 

中国物と思われるものも2-3点あったが、日本の春画のレベルは高いと感じられた。ロシア人夫婦が興味津々で、絵をじっと見ている。どういう感想か聞きたいところだが、言葉は通じそうにない。1階に戻り、英語の出来る係員の女性に聞いてみたら、『春画は非常に素晴らしい美術品だと皆が言っている』とほめていたが、あれはお世辞だろうか。この春画展のパンフレットはないかと聞くと、『パンフは作っていない。カメラでの撮影は禁止だが、スマホ撮影はOKだから、もう一度3階に上がって撮って来れば』と言われ、何と再度見学する。何故スマホはOKなのか、その理由は分からない。

 

それから昨日は行かなかった先の道に進んでみる。冒険だな。今は少なくなったという木造の家が見えた。可愛らしい教会もあった。スマホ地図が使えるので、取り敢えずハバロフスク駅に行って見ようと歩き出すが、何と道を間違えてとんでもない方へ行ってしまっていた。お陰で、一般市民が住んでいる団地などはよく見え、郊外にはそれなりに木造住宅もあることは分かったが、相当に疲れた。

 

何とか歩いて鉄道駅まで辿り着いた。駅はそれほど大きくはないが、それなりに列車は走っている。私は3年前のシベリア鉄道のトラウマ?でロシアの列車に乗りたいとは思わない。でもなんとなく懐かしいので、駅中のカフェで昼食を取りながら、その頃のことを思い出す。

 

駅前の大きな道を進んでいくと見覚えのあるところへ出た。何と昨日来た市場だった。もう一度歩いてみると、店をやっている人間の中に中国人が何人もおり、店員、お客とも中国人なのか、中国語が時々聞こえてきた。今は港も閉まっているが、夏になれば多くの中国観光客が買い物に来るのだろうか。

 

更に屋内に入ると茶を売っている店があったが、そこではベトナムコーヒーも一緒に売られていた。彼はベトナム人でその昔にロシアへやってきて商売しているという。確かに社会主義繋がりであり、90年代の混乱期にここに留学などしていて残ったのではないだろうか。愛想はとてもいい。パン売り場のおばさんが何度も『このパンは美味しいよ』と言っているようで、中身も分からずつい買ってしまった。これも一つの交流か。

 

またメインストリートに戻り、その両側の建物の写真を撮り続けた。1つ1つに謂れはあるのだが、正直覚えきれない。中にはハバロフスク初の女学校跡もあった。120年の歴史、ここへは日本人女子も通ったのだろうか。100年前はホテルだったという建物も何軒かある。メインストリートは高くなった場所にあり、両側に下る道を歩きたかったが、疲れがピークで明日にした。

 

一度ホテルで休み、夕方外へ出た。すぐ近くのハンバーガー屋に入ってみる。今日は土曜日だから、家族連れ、若者たちが大勢食べていて、盛況だった。料金的には日本のマックと同じようなものだが、例えばポテトにつけるケチャップは有料で、3つの種類から選択するなど、ちょっとした違いがあった。

 

そのまま日が暮れようとしているアムール川へ出てみる。陽はゆっくりと落ちていき、なかなか沈まない。家族連れが凍った川面で走り回り、おじさんは穴をあけて釣りをしている。何とものどかな、絵画に出てくるような風景だった。可徳乾三もこの夕陽をここで見ただろうか。思わずライトアップがきれいな街中に戻り、またカメラを向け続ける。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(3)最高のガイドと街を歩く

そしてメインストリートである、ムラビヨフ・アムールスキー通りを歩き出す。ここが100年以上前、多くの日本人が暮らし、商売した場所だと言われ、実際に彼から『ここは竹内商店、向こうは中村歯医者、最初の日本領事館もここにあったよ』などと言われると、ちょっと驚いてしまう。当初の木造建築は残っていないものの、1900-1920年代に建てられた重厚で立派なレンガ造りの建物は今も現役で使われているのだ。特に竹内商店のあった建物には竹内家の家紋が埋め込まれているなど、日本を偲ばせるに十分な素材があった。

 

今回私が探し求めてきた、可徳商店もこの一角にあったという。ただ日露戦争時に日本人が引き揚げた後、すぐに木造の家は取り壊され、今はレンガ造りに変わっていた。それでもかなり港に近い良い場所を占めていたことが分かり、これは大きな収穫となった。これで当時の写真でもあればと思ったが、それは欲張りだった。

 

広場に出るとそこには教会があり、ちょっと入ってみる。中では厳粛に何かの儀式が行われており、奥に入るのは憚れたので、入り口付近で眺めていた。ソ連時代には宗教も弾圧されていたはずだが、多くの人が教会に来ているのは、その信仰がずっと続いていたからだろうか。この街には多くの教会があることをこの後沢山歩いて知ることとなる。

 

そしてアムール川に出た。広い川面は一面氷で覆われており、その上に朝降った雪が積もっていた。その遥か向こう、60㎞離れたところには中国の撫遠という街があり、数年前に行ったことがある。1年の半分だけ港が開き、ここからフェリーに乗って中国へ行けるのだ。ウラジオストックから入った物資も川つたいに来て、ここに荷揚げされたのではないか。可徳商店の物資もそうだったのだろうか。

 

すぐそこに1894年にオープンしたという郷土史博物館があった。中に入ると暖かい。旧館と新館があり、かなりの展示物があり、1時間以上かけて見学した。先住民族の記録、チョウザメなどの特産品が目新しい。ここには日本人はあまり出てこないが、やはり中国人の歴史は出てくる。お茶に関する展示はほぼないが、何となくハバロフスクの歴史が分かったような気になる。

 

この博物館の近くには2つの意味ある建物が建っていた。1つは音楽堂。ここは(ここ以外にも幾つもある)戦後抑留された日本人が建てたと言われており、その中にはあの歌手、三波春夫さんもいたという。もう一つは士官会館。ここで1949年にいわゆるハバロフスク裁判が開かれ、日本の対ソ攻撃、731部隊などが裁かれた歴史的な場所である。今は建て替え中で、中を見ることは出来なかった。確か昨年放映されたNHKスペシャルで731部隊の新たな資料が示されたが、これがハバロフスク裁判の録音テープだったと記憶しており、誠に興味深い。本当はここで何が行われたのだろうか。

 

お昼はインツーリストホテルで取る。インツーリストと言えば、ソ連時代は勿論、数年前まで、ロシア旅行時には欠かせない存在。このホテルも往時外国人客の宿泊が多かったようだが、今では多くのホテルが出来ており、改修工事で競争力を高めようとしていた。食事はハバロフスク名物のペリメニを食べる。以前も他で食べたことがあるが、ここの物は、食べやすい。

 

午後はタクシーを呼んでもらう。今やロシアでもタクシーはスマホアプリで呼ぶものだそうだ。私が希望したのは日本人墓地。ここは昨夜トロリーバスで市内へ来る途中にあったが、暗くて分からなかった場所。もし墓地が分かっても、広い園内のどこに日本人墓地があるかは分かりにくいため、ポボロツキーさんに連れてきてもらい正解だった。

 

墓地は区画が仕切られ、かなりきれいに整理されている印象。1956年日本人墓地とあるのは、日ソ共同宣言の年に整備されたということだろうか。近年日本政府はシベリア抑留中に死亡した人々の遺骨収集をして、DNA鑑定も行っているというが、本当にその人なのだろうか。それでも名前があり、墓があるというのは救われるのかもしれない。周囲にあるロシア人の墓に目をやると、墓碑に写真や似顔絵などが沢山見られ、何となく楽しい感じになっている。故人を偲ぶその方法は、その国それぞれだろうか。

 

続いて車は市内に少し戻り、プーシキンの像がある教育大学の裏手に着けた。この建物はあのラストエンペラー、溥儀が連行され、収容された場所だという。確かに先日天津に行った際、溥儀が故宮を出て住んだ静園にあった展示室に、ハバロフスク抑留のことが書かれていたのを思い出す。ここの1階に溥儀と満州国の大臣クラスが住み、2階は日本人将校が住んだと説明された。何ともリアルに歴史的な場所に立っている気がした。今は病院になっている。

 

最後に市場に行く。ここでようやくシムカードを手に入れた。550ルーブルで簡単に買えて使い勝手は良い。ついでに市場内を歩いてみると、お茶なども売られているが、紅茶のティバッグ。川魚は豊富で、肉売り場の面積も大きい。日本人が当地で作っている有機野菜は人気が高く、売切れていた。日本製調味料なども売られているが総じて高い。

 

ここから歩いてレーニン広場まで行き、ポボロツキーさんとは別れた。何とも有り難い1日ガイドで感謝しかない。彼がいなければ、何日ハバロフスクにいても何も変わらなかっただろう。私はレーニン広場を少し見て、そこからゆっくりと歩いて帰った。夕日が落ちていく時間だった。ちょうどセルフサービスのカフェが目に入ったので、スープと魚などを取り夕飯とした。ここが一番、一人旅にとって食事のしやすい場所だった。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(2)親切なハバロフスクの人々に救われる

完全に行き詰っていたところ、バスが来たので聞いてみた。予約したホテルのロシア語を持っていたので示してみると、理解はできたようだが、車掌は更に外を指し、トロリーバスと言っているように聞こえた。確かに外まで走っていくとその瞬間トロリーが来た。車掌は『これで行けるよ』と頷き、25ルーブルを受け取った。乗客はなく、何だか映画の世界を見ているようなレトロ感があった。

 

徐々に人が乗ってきて、徐々に街に近づいていた。30分ぐらいで市内に入った。シムカードがないので、スマホ地図が使えず、どこを走っているのかさえ、全く分からなかった。恐らくここがレーニン広場というところまできて車掌を見ると、後2駅と言っているように見えた。降りる時に『こっちだよね』と大きく指さすと大きく頷いたので、安心してその坂道を降りて行く。

 

だがどうも違うような気になる。地図も持っていたが不確かだし、何より道路標示のロシア語は読めない。そこで目に入ったのが、英語で書かれていたホテルの看板。恐る恐る入っていくとフロントの女性はきれいな英語を話した。そして泊り客でもないのに、親切にも地図を打ち出してくれ、説明を加えてくれた。

 

さあ、これでもう安心と思って歩き出したが、やはり何となく不安になる。暗い夜道の信号でじっと止まっていると、後ろから『道に迷ったのか』と英語で声を掛けてくれる若夫婦がいるではないか。地獄に仏?彼らはすぐに自分のスマホを取り出して、私がバスを降りて反対側の道を来ていることを示し、正確なホテルの位置まで教えてくれた。何とも有り難い、ハバロフスクには何と親切な人が多いのかと実感する。同時にお金がなかったからこそ、この親切に出会えたわけで、旅とは本当は如何にすべきか、もう一度考え直す機会ともなる。

 

そしてついにホテルに辿り着いた。そこに看板もなく(あっても読めないが)、もし若夫婦と出会っていなければ、更に探すのに時間を費やしていただろう。重装備で寒くはないと言っても零下8度の中、暗い街をこれだけ歩けば疲労感は相当に達していた。ホテルの部屋は天国のように暖かく、何とも居心地が良い空間がそこにあった。

 

時間はもう9時を過ぎており、腹は減っていたが、そうなるとまたルーブル問題がぶり返えしてくる。1階にレストランがあると言われたが、夜はバーになっているのか、何だかとても騒がしくて入る気にもなれない。ホテルならカードでも払えるだろうが、外へ出ると金がない。それでも外へ出てみる。さっきは余裕がなかったが、周囲の建物は皆歴史的建造物のように見えた。

 

メイン通りに出てみる。イルミネーションはきれいだ。ちょっと行くと道路脇に小さくてかわいい小屋があった。覗いてみるとパンを売っている。値段も書いてあり、これなら有り金で払えそうだったので、買い込む。パンを温めてもらい、ホテルの部屋でゆっくり味わって食べた。お金の有難味が沁みた。

 

3月15日(金)
ポボロツキーさんとの1日

部屋が本当に暖かいので、北京時代の冬を思い出し、眠りは深かった。起き上がると窓の外が明るいので、いい天気だと分かったが、何と零下10度、そして雪が降って積もっているではないか。昨晩あれから雪が降ったとは。あのまま道に迷い続けていたら、遭難か。ちょっと散歩でもしようかと思っていたが、部屋に閉じこもった。そして午前9時半の、ポボロツキーさんとの待ち合わせをじっと待つ。

 

ロビーには恰幅の良い人が待っていてくれた。彼は1981年にウラジオストック極東大学で日本語を専攻し、卒業後はこの地のインツーリストに配属された。配属システムは当時の中国と同じだった。日本語ガイドとして活動していたが、当時のお客さんは単なる観光という時代ではなく、ペレストロイカやソ連邦崩壊を経て、戦争前にここに住んでいた人、抑留された人やその子孫が訪れることが多く、案内先も自然とそういう場所になっていく。元々歴史好きだったこともあり、いつしかハバロフスクに関連した日本人の歴史を調べ、地図を作り、冊子にまでまとめていた。まさにNさんはライトパーソンを紹介してくれたことになる。このご縁には感謝しかない。

 

ホテルの外へ出ると日が出ており、思ったほどは寒くない。この周辺にも歴史的建造物はいくつもあり、元特務機関の事務所だったところを外から見学後、すぐに銀行に向かった。まずは資金がないと何もできない。そこで聞いてもらったところによると、『空港のATMでは現金が出ないことがある』という衝撃的な話だった。ロシアのATMとは何だろうか。

 

まあ銀行によって、ルーブルが出てくる機械もあるとは思うが、常に安定して出てくれないと、旅行者としては困ってしまう。またこれは余談だが、私の場合、今回主に使おうと思っていた銀聯カードが弾かれてしまったのだが、それはこのATMのせいではないことが、中国に行って分かることになるので、今回は運が悪かったというべきかもしれない。取り敢えず今後ロシアでは大目に現金を持ち歩くことにして、ポボロツキーさんの通訳で両替を済ませる。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(1)ルーブル調達に失敗

《遥かハバロフスクに茶旅する2019》  2019年3月14-18日

3年前に突き付けられた課題。それは明治時代に九州茶をシベリア、モンゴルに売り込んだ男の足跡を知りたいという、ある意味で途轍もない要求だった。私のところに話しが来た理由は『台湾で亡くなった』というそれだけだった。それでも台湾サイドでの調査は困難を極めたが、少しずつ前進していた。

 

ただ本題であるロシアはいけない。ロシアは言葉も通じず、文字も読めないことを3年前の万里茶路の過酷な旅で存分に味わっていた。しかも120年も前の日本人の足跡など追えるはずもなかったので、残念ながら早々に諦めていた。

 

最近ロシア極東に行く人が増えているとは聞いていた。ビザも緩和されているらしい。地球の歩き方も最新版が出るという。その取材をしていたNさんとは以前2-3度会ったことがあり、何となく、『ウラジオストックかハバロフスクで歴史に詳しい人を知らないか』と問い合わせた。

 

すると3日ほどして、『ポボロツキーさんから「あなたの探しているハバロフスクの可徳商店のあった場所などは、分かっているので、来るなら案内する」との完璧な日本語のメッセージを受け取った』という何とも驚くようなニュースがもたらされた。しかもポボロツキーさんは、私が月刊茶に書いた『可徳乾三』についての話も既に読んでくれたというではないか。彼は一体どんな人なのだろう、などとは考えず、これは行くしかあるまい、と日程を調整する。

 

3月14日(木)
ハバロフスクへ

ロシア極東、北方領土問題などで緊張しているかと思えば、ロシア側は近年日本人に対してビザを緩和していた。ウラジオストック、ハバロフスク、サハリンの内1か所だけの訪問、8日以内であれば、PCで申請書を打ち込めば、3日ほどでビザがメールされてきて、それを印刷して持ち込めばよいという。3年前はロシアの旅行社から招聘状を取り寄せ、それを持ってロシア大使館に行き、数日待って4000円払ってビザを取得したことから考えれば、とんでもなく楽だ。可徳の足跡はウラジオストックにもあったが、今回は取り敢えずこのビザを使い、ハバロフスクだけに行く。

 

フライトも調べてみたら、成田からハバロフスクへの直行便が飛んでいる。しかもフライト時間は2時間40分と表示されており、そんなに近いのかと驚く。これなら台湾へ行くより近い。私の極東ロシアへの心理的な距離はかなり遠いものがあったが、実際の距離は驚くほど近いのだ。

 

成田まで行き、S7というロシアの航空会社を探してチェックインする。すると係の女性は私が印刷しておいたビザを詳細に確認して、更に上司にも見せに行って何とか発券にこぎつけた。あれ、ビザ緩和から結構経っているのにどうして、と不安が過る。預け荷物の料金は予約の時に払っていたので問題はなかったが、この航空会社はロシアのLCCだとやっとわかった。

 

搭乗時間に行って見ると並んでいるのはほぼロシア人だった。S7は機体の色が独特、企業カラーらしい。機内は完全なアウエー状態。CAは英語が出来るので救われるが、ロシア語の渦に巻き込まれる。機内食はLCCながらサンドイッチとドリンクが出た。ちょっとフラッと寝ていると、もう着陸態勢に入っている。実質搭乗時間は2時間ちょっとだった。因みに時差はハバロフスクの方が1時間早い。

 

ハバロフスク空港のイミグレは混むので早く並べ、とどこかに書いてあった。確かに皆が先を争ってイミグレに突進している。だが意外とそのスピードは速かった。それでも私の番になると緊張する。もしここで入国拒否されたらどうなるのだろうか。これも案に相違してすぐに解放され、むしろ荷物が全然出てこないことにいら立つ。ここで初めて日本人出張者らしい人を2-3人見掛け、ちょっと安堵する。

 

荷物を取り出し、税関を通る。基本的に荷物は何もチェックしないのだが、パスポートを見た女性職員がいきなり『マネー』と言ったのにはびっくりした。所持金はいくらかと聞いているのかとも思ったが、どうもそんな雰囲気ではなかった。『なぜ?』と英語で問い返すとそのままパスポートを返してきたのは何だったのだろうか。20年前ではないのだ、袖の下を要求したとも思えないが。

 

出口を出ると、この空港が如何に小さいかを知る。まずはルーブルを調達しなければならない。両替所はなく、ATMが1台あるだけ。そこに中国の銀聯カード、ビザカードなどを入れてみたが、全て最後のところでスタックして、お金が出てこなかった。シムカードを買うところすらなく、国内線ターミナルへ行けと言われ、何と外へ出される。現在新ターミナルが建設中なのだろうか、その向こうに国内線はあった。予想していたより寒くはないが、すでに日が暮れようとしており、不安が募る。

 

国内線でもATMからお金は出なかった。そしてシムカードを買おうと店に入ったが、こちらもクレジットカードの読み取り機が壊れていると言われ、購入できず途方に暮れる。3年前のロシア旅行で残っていたルーブルを持っていたが、僅か300ルーブル。それではカードは買えず、更にタクシーにも乗れない額だった。