シベリア鉄道で茶旅する2016(20)クラスノヤルスクでレザノフを想う

 それからスーパーを探しがてら散歩に出た。今日も良い天気で、ということで足元は更に悪かった。途中にある公園にはまだ深く雪が積もっており、日陰はかなり滑る状態だった。暖かいと言っても零度前後だろうか。その内に日が陰り、少し吹雪いてくる。これが本当にシベリアの気候なのだろうか。春が冬に一瞬にして変わった。

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 そして昨日同様川沿いに出て、チェーホフ像の前を通り、博物館へ向かった。今日は開いていた。よかった。重厚な扉を開けると、中は暖かかった。基本的にロシアの博物館にはクロークがあり、上着と荷物を預けるようになっている。恐らくはソ連時代からここで働いているのでは、と言った顔のおばさんが愛想なく受け取る。でも、こっちから見るんだよ、と手で合図してくれる。

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博物館の真ん中には何と復元された大型船が置かれていた。シベリアで船か、いや、やはり船も重要な交通手段であった。特にエニセイ川のような大河を利用した水運でこの街は栄えたのだ、ということがよくわかる。この船を使って茶葉を運んだということはあっただろうか。川は南北に流れており、運ぶためには川と川との間を東西にも行く必要がある。基本的に茶葉は冬を選んで運ばれたと言われているから、船の航行は限定的だったはずだが。何か説明があるのかもしれないが、相変わらず、文字が読めず、ただ展示物を眺めるのみ。

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唯一万里茶路を連想させたのが、茶葉を詰めていたと思われる缶。きれいに装飾が施されており、優雅なティタイムを思わせる造りだった。この中に福建の紅茶が入れられ、貴族の午後の茶として出されたのだろうか。その横にはティカップも置かれている。シベリアでは黒茶も飲まれていたはずだが、どんなカップで飲まれたのだろうか。そのような日用品を展示することはないのだろう。

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レザノフを探して

博物館を出て、街の真ん中付近でS氏、Nさんと別れた。私はここクラスノヤルスクで、取り敢えず見ておきたいものがあったのだ。それはレザノフの像だった。この街はノボテルなどの立派なホテルもあり、日本食レストランなども見える。だがその横には100年前の建物も厳然と建っている。きれいな教会もあちこちにあり、歩いていて楽しい。しかしあると言われた場所を探してもレザノフは見つからない。

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昼ご飯を食べたいと思ったが、簡単に食べられるところはなかった。何だか疲労も重なり、食事はやめて部屋に戻ってクッキーでも食べようかと思いながら、何となく街を歩いていた。すると向こうの方でビルに入って行く人影が見えた。それはS氏だった。彼らはあれからスーパーを探し、そして昼ご飯を求めて歩いていたが、やはり見つからず、ついにはハンバーガーのファーストフードに飛び込むところだった。私も即座に便乗して、店内に入る。この店はチェーン店で、駅に入っていたことを思い出した。

 

店内のメニューはよく読めなかったが、よくよく見ると小さく英語が書かれている。セットの仕組みはよくわからないが、若い店員は何と英語を話したので、コーラをコーヒーに替える等、難なく注文出来た。簡単な英語が通じることがこんなにも有り難いことか。ロシアでも若者は英語を勉強しているのだろうか。今度は若者に声を掛けてみよう。ハンバーガーとコーヒーで200㍔ぐらいしたから、カフェよりは高いが、何となく久しぶりに西側?の雰囲気に触れて楽しかった。後ろでは女性4人がずーっと話し続けている。

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店を出てその辺をふらふら歩いていると、ようやくそれらしきものがあった。文字は読めないが、恐らくはここで客死したレザノフに違いない。レザノフといえば、大黒屋光太夫を送っていき、日本との通商を求めたラスクマンに続いて、1804年に日本にやってきた外交官だった。そのルートはサンクトペテルブルから船でカムチャッカまで来たというから長い。ただ当時の幕府に拒まれ、半年間長崎に留め置かれたのち、退去を命じられている。その時の長崎奉行は遠山の金さんのお父さん、遠山景晋だったということを何となく覚えていた。彼は船中で日本の漂流民から日本語を習ったとも言われている。

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この人は毛皮商人でもあり、茶葉を運んだという記述はどこにも見られない。当時は海を使ったルートは未だ開拓されていない。スエズ運河の開通はその60年後のことだ。ただ彼が当時の戦略物資である茶葉に全く触れなかったとは考えにくい。ぺルブルクに戻る時は陸路を通ったようだが、病のためにクラスノヤルスクで没した。彼の国際感覚、特に極東とアメリカへの関心は貴重だったが、その40代での死は、ロシアにとって痛手であったことは、その後の歴史が物語っている。そんなことを考えながら、雪のレザノフ像を眺めていた。

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