「ロシア」カテゴリーアーカイブ

シベリア鉄道で茶旅する2016(16)イルクーツクを散策する

それにしてもまずは朝飯。S氏は、過去の経験から駅には必ずカフェがあると言って探し出す。そしてついに立派なカフェを発見した。そこでボルシチを頼む。相変わらず安い。ティーも30㍔だが、自分でお湯を注ぐ、ティバッグスタイルだ。レモンはお好みで入れることができた。昔ビタミン不足を補うために飲まれた中国産磚茶だったが、今はケニア産紅茶とレモンで代替されている。レモンが簡単に手に入る時代、既に磚茶を飲む人がいないのも頷ける。

DSCN8723m

DSCN8728m

 

列車ではトイレに行き辛いので、カフェでトイレを探す。立派なドアの向こうにあったのは便座のない便器。こんなのフィリピン以来かな、と思ったが、ロシアではこんな感じで使われているのだろうか。清潔ではあるが、不思議な感覚だ。そして地下にある荷物預け所に荷物を預け、街を散策することにした。駅を正面から眺めるとかなり立派な建物だということが分かった。取り敢えずイルクーツクの博物館へ行こうと思うが、方角も変わらず、ネット検索してもロシア語しか出てこない。本当はバイカル湖が見てみたかったが、遠すぎて行くこともできない。

DSCN8724m

 

キーロフ広場が街の中心だとの情報をもとに、タクシーを拾い、何とかそのことを伝えて進んでみた。タクシーにメーターはなく、全て料金交渉制。行先が不明だと乗れない。車が動くとすぐに橋を渡り、古い町並みが見えた。路面電車が走っているが、どこへ行くのだろうか。キーロフ広場に着いたが、そこはただの公園だった。博物館がありそうにもない。だがS氏は公園内を歩き始めた。雪がかなり残っており、歩くのには難儀した。そして公園の裏側に、立派な教会を発見した。とても形の良い教会でしばし見とれる。実はこの教会内にも郷土博物館があったようだが、門は閉まっており、全く気が付かなかった。

DSCN8740m

 

それから公園を一周してみたが、雪しか見えない。立派な建物があったので、博物館かと思ってみるが、悉く違っていた。仕方なく、タクシーで来た方角に少し戻ってみた。周囲は木造建築の平屋建てのいい感じの家が並んでいた。イルクーツクで思い出すのは、江戸時代の漂流民、大黒屋光太夫だ。伊勢の船頭は難破してカムチャッカに漂着。そこから日本への帰国を求めて、ここイルクーツクまでやってくる。仲間を失い、それでも帰国を諦めない光太夫の姿を映画『おろしや国酔夢譚』では緒方拳が熱演していた。

DSCN8744m

 

光太夫はここで日本に興味を頂く植物学者キリル・ラクスマンと出会い、その息子アダムと共に根室へ行くことになる。イルクーツクで彼らが住んでいた家が、何となく目の前に見える、飾り窓がある小屋に似ているような気がした。光太夫がここに暮らしたのは200年以上前であり、その家はもうないと思われるが、その雰囲気は十分に感じられた。その絶望的な状況で、この地は一体どのように映っただろうか。

 

因みに日本では11月1日が『紅茶の日』と言われている。日本紅茶協会によれば、これは大黒屋光太夫がイルクーツクからエカテリーナ2世に帰国を嘆願するため赴いたサンクトペテルブルクでお茶会に出席して、紅茶を飲んだことにちなんでいるという。本当だろうか?光太夫もまさか自分が後世、こんなところに登場するとは夢にも思わなかっただろう。私は桂川甫周が江戸に戻って幽閉された光太夫を聴取してまとめた『北槎聞略』という本も読んでみたが、そのような事実は出てこなかった。一体彼はどんなお茶を飲んだのだろうか。飲んだとすれば、万路茶路を通じて運ばれた福建省の紅茶だったのではないか。

 

雪が積もる道を歩いていくと、旧市街の中心部らしいところに出た。イルクーツクの中心は既に新市街に移っているようで、ここには歴史的な建造物がいくつも残されていた。博物館を探して更に歩いて見る。重厚な建物は昔の貿易ビルと書かれており、恐らくは万里茶路にも関係する茶葉商人の拠点があったに違いない。その先には軍事博物館があり、戦車などは展示されていたが、これも100年以上前に建てられたビルだった。

DSCN8754m

DSCN8762m

DSCN8772m

 

そしてついにイルクーツク市の郷土博物館に辿り着く。何とも長い道のりだった。非常に雰囲気のあるその建物は1884年に建てられたとある。中へ入ると、クロークがあり、荷物や上着を預ける。セミナー開催中のようで、静かに歩くように指示されるが、我々には時間がないので、バタバタと見学する。残念ながら茶葉貿易に関する展示などは発見できなかったが、イルクーツクがシベリアの中心都市であったことなどはよくわかった。

DSCN8777m

 

すでに列車に乗らなければならない時間が迫っていた。慌ててタクシーを探すがなかなか見つからない。何とか白タクを確保したが、『ステーション』という英語が通じない。予めネット検索で『駅』というロシア語を見付けておいたので、それを見せたが首を振るばかり。最後はS氏がうろ覚えのロシア語で言ってみると、何とか理解され、10分後の無事に駅に着いた。それにしても日ロ語翻訳辞典は一体何だったんだろうか?

 

シベリア鉄道で茶旅する2016(15)イルクーツクまで走ってみたが

それから駅周辺を散策したが、本当に店は一軒も開いてはいなかった。線路沿いにも歩いて見たが、馬の一団が前を歩いていくのが、興をそそられた。線路の上を見ると、何と牛の一団もいた。だが駱駝はいない。牛は牛乳用か、馬は荷物を運ぶのか、どうなんだろうか。もうモンゴル高原を渡る駱駝は不要となったのだろうか。駅舎へ行くと、待合室には若い兵士が沢山座っていた。兵役についている若者なのだろう。その顔は白人ではなく、極東系が多かった。彼らが戦闘をする機会がないことを祈る。

DSCN8632m

DSCN8636m

DSCN8638m

 

売店に行くとカップ麺が食べられるようになっていた。よく見るとピロシキが売られていたので、お茶と合わせて買って食べる。店員はやる気なく座っていたが、ピロシキをレンジでチンしてくれた。トイレはホームにあるというので行ってみる。ロシアも駅の出入りは自由、ホームへも簡単に立ち入れる。ホームの一番端にトイレがあった。お金を払う場所があったが、人はいなかった。線路には雪がかなり積もっていた。

 

イルクーツクまで

列車が入ってきた。この駅はモンゴルから入るシベリア鉄道のロシア最初の駅、どこで入国審査をしたのだろうか。全てが車内で済まされたのだろうか。我々は線路を跨いで向こう側へ行き、車掌に切符を見せる。何と我々が乗る車両を確認することもできないので、聞くしかなかったのだ。パスポートチェックも行われる。車内に上がると、そこはモンゴル内で乗った、慣れ親しんだ三等車だった。私の席は通路横の上下席の下。ロシア人女性が向かいに座ったが、すぐに上に上がってしまった。さあ、ここからはまさにシベリア鉄道、イルクーツクまでの一夜旅だった。

DSCN8656M

DSCN8687m

 

モンゴルの国内列車とは異なり、満員ではなかったが、それでも乗客はそこそこ乗っていた。窓の外を眺めるが、ただただ雪に覆われた草原が見えるだけ。時折森林も通過する。車両もよく知っているし、食堂車は付いていないし、退屈な時間が流れる。充電のためのコンセントは1両に1つしか付いていないので、スマホをずっといじることもできない。途中5822、という駅名が見えた。こんな名前初めてだ。これは恐らくはモスクワから5822㎞、という意味ではないだろうか。昔シベリア送りになった囚人が思いをはせたのだろうか。3時間ぐらい乗ると、ザゴウステイという名の駅で停まったので、降りてみる。駅名が英語、というのがモンゴルとは違っていてよい。この駅では乗り降りがかなりあった。古い監視塔のような建物が見えたが、周囲には何もない。

DSCN8674m

DSCN8675m

DSCN8691M

 

列車が走り出すと、また退屈な時間がスタートする。お湯だけは無料なので、夕飯にカップ麺をすすると、もう後はやることはなかった。ロシア人乗客も思い思いの夕飯を持参してきており、黙々と食べ、黙々と寝ている。憧れのシベリア鉄道に乗るということは、特に夜は退屈との闘いなのだ、とこの時はっきりと認識したが、我々の旅はここからまだ100時間近く残っている。何とも絶望的な数字が、夜の闇に消えていく。

 

夜9時半ごろ、相当大きな街に着いた。大規模な工場も見えている。ウランウデ、ここがブリヤート共和国の中心都市であり、万里茶路で荷物を運んだブリヤート人の街だと知ったのは後になってからだった。既に配られたシーツを敷き、掛け布団を被っていたが、あまりの規模なので、急いで靴を履いて降りてみる。売店に行くと魚の燻製なども置かれていたが、もう寝る時間であり、起きればイルクーツクなので、何も買わずに過ぎた。

DSCN8700m

 

ここで出ると全員が眠りに就いた。いびきが凄いロシア人もいたが、総じて安眠できた。ロシア人は大柄の人が多く、上の段で寝るのは大変だろうと思ったが、かなり起用に上によじ登り、体をうまく入れて、体勢を整えていた。結構慣れている人が多いのかもしれない。これだけ満員だとトイレの心配もあったが、特に水分を多くとっていないこともあり、問題にはならなかった。普段は以下のお茶を飲み過ぎているのか、ということを思い知らされた。

 

3月13日(日)
5. イルクーツク
街歩き

翌朝は未だうっすらと明るい段階で皆が起き始めたので、一緒に起きる。私がシーツと掛け布団を丸めて、車掌に返し、下の席を片付けるとおばさんも降りてきて外を眺めながら座る。その内に川が見えてきて、更には橋が見えてきた。ここがシベリアの中央部に位置するイルクーツクであることは、容易にわかった。ついに16時間の旅が終わり、下車する時が来た。まだ眠いが、列車から降りられる喜びの方が勝っていた。

DSCN8708m

 

午前6時過ぎに列車が停まり、ホームに足をつけた。それほど寒さは感じなかった。地下道を通り、駅のメインビルへ向かう。さて、今日はどこに泊まるのかな、と思っていると、いつものルーティーンで駅の切符売り場に着く。そして次の目的地、クラスノヤルスク行きの切符を購入する。何と今日の午後の切符が買えてしまった。順調だ、とほほ笑むS氏を尻目に複雑な気分になる。折角このシベリアの大都市に辿り着いたのに、滞在はわずか半日、そしてまた列車に乗らなければならないなんて。

DSCN8717m

シベリア鉄道で茶旅する2016(14)ナウシキのバザー

 実は教会と反対側の方には集合住宅も存在しており、やはり国境対策は行われていた。先ほど案内してくれた博物館の若者も、このあたりに住んでいるらしい。当然ここに住むからには政府からの補助なども出ているであろう。そのままこの付近で唯一のスーパーに入ってみる。S氏はすぐに酒コーナーに行き、ビールとウオッカを物色。つまみに加えて、明日の列車旅に備えて、パンやビスケット、カップ麺も購入していた。

 

私はお茶コーナーに行ってみたが、インドやスリランカ、ケニア産紅茶のティバッグばかりが目に付く。フレーバーティも多い。この辺も飲料習慣は既にロシアなのだった。その中に埋もれるように、中国産磚茶を発見した。そのパッケージはモンゴルで売られているものと全く同じだったが、あとで比較してみると、形体が若干違っていた。これが何を意味するのかは分からない。博物館で聞いた時も『今やキャプタで磚茶を飲む人などいない』と言われていたので、これは何のために売られており、誰が買うのか、実に興味深かったが、見張っている訳にも行かず、調査は断念した。

DSCN8566m

DSCN8578m

 

そしてスーパーの横にある、この付近で唯一のカフェに入る。夕方5時台でまだ明るく、お客はいない。カフェのいいところは、食べ物を実際に見て、指さしで注文できることと聞いていたが、棚には食べ物がなく、ここではメニューを見て注文する形式になっていた。ところがメニューはロシア語のみで、全く読めない。いや、何とか想像して、ボルシチやピロシキを解読していく。ただ我々の知っているメニューなどたかが知れており、Nさんが中心となり、取り敢えず注文した。ボルシチは美味しかったので、お替りした。1杯、50㍔、75円は安い。それにパンが付いている。お茶はレモンティを頼む。

DSCN8572m

DSCN8569m

 

夕暮れのキャプタを歩いて帰る。何ともいい雰囲気だった。そして3日ぶりの暑いシャワーをゆっくりと浴びる。寒いので特に汗などかいている訳ではないが、当然ながら気持ちがよい。夜もスペースにゆとりがあるので、各々気に入った場所でゆっくりと過ごす。周囲には全く音がなく、静けさが漂う。他に泊まり客がいるとも思えない。このままずっとここでリラックスしていたい、もう列車には乗りたくない、という衝動に駆られる。だが明日からはまた激しい列車旅になる。

DSCN8574m

 

3月12日(土)
ナウシキへ

朝はゆっくり目覚める。そして散歩に出たが、やはりかなり寒いので、一応足ホカロンを使ってみたが、それでも長くは歩けなかった。家々があるあたりに行ってみたが、国境に近づける道は見付からなかった。各家で買われている犬がけたたましく吠えてくる。やはり最低限の防御態勢は整えられているということだろうか。反対にある茶貿易の跡の方にももう一度足を運んだが、こちらでも犬にほえられて逃げ出す。やはり暖かい室内が良いということで、宿へ帰った。

DSCN8592m

 

宿でタクシーを呼んでくれるというので、午前11時にチェックアウトして車に乗り込んだ。運転手の顔立ちは中国系ではないかと思われたが、言葉は通じなかった。ここから駅のあるナウシキまで約30㎞、1時間あれば行けるらしい。料金は1000㍔。カフェの食事の値段からすればそれなりに高いが、円換算では決して高くはない。車はすぐに街を離れ、森林の中を走っていく。雪は道路脇に避けられているものの、舗装された道路はかなり凍結しており、またアップダウンもあり、その中を結構なスピードを出すので怖かった。車は殆ど走っていない。

DSCN8599M

 

僅か30分ほどで、街が見えてきた。ここがナウシキらしい。本当に小さな街で、建物も多くはない。駅前で車を降りたが、列車が来るまでまだ2時間以上あった。まずは昼飯でも食べようかと思ったが、駅前に食堂などが全く見えない。中国なら必ず何かはあるはずなのだが、ここはロシアだった。荷物を預けて街を散策しようと思ったが、荷物預け所は開いていなかった。S氏は雪の中、荷物を持って歩き始めた。私は大きな荷物を引いて続くが、置いていかれる。雪と氷、そして所々氷が解けており、滑ることこの上ない。危険な逃避行のようだった。

DSCN8612M

 

駅前のバザー

駅前の公園では馬が飼われていた。何となく冬のシベリアらしい雰囲気が出ていてよかったが、やはり寒さは厳しい。零下10度ぐらいだろうか。その公園の向こうでは何かが行われているのが見える。近づいていくと、そこは教会で、バザーが行われていた。家族が自宅で作ってきたクッキーやパン、ケーキなどをテーブルに並べて販売していた。何とも素朴な、パーティーのような会だった。そこに訳の分からない日本人が3人紛れ込んでしまったのだから、さぞや驚いたことだろうが、皆さん、実に温かく迎えてくれた。腹も減っていたので、売っている物を適当に買う。

DSCN8624m

 

値段は15㍔とか20㍔とか極めて安価。私は50㍔札しか持っていなかったが、相手もお釣りがなく、50㍔分のお菓子をもらい、Nさんと分けて食べた。予想以上に美味しい。家庭の味だった。何よりもそこのお母さんと子供たちの笑顔が嬉しい。教会前にできたひな壇では即席合唱団の歌が始まった。寒いナウシキではあるが、何とも暖かいムードが流れていた。子供がチヤイを売っていたので注文した。ティバッグながらちゃんとミルクも淹れてくれた。サモワールのようなものが持ち込まれ、湯が沸かされていた。

DSCN8622M

DSCN8630m

シベリア鉄道で茶旅する2016(13)キャプタ ソ連時代も使われた国境ゲート

鉄道の切符はキャプタで一番良いホテルの1階で売られていた。これはインツーリスト系ホテルらしい。外国人がキャプタに来たら、普通はここに泊まるのだろう。ロシアに何度も来て、切符の購入にも慣れているはずのS氏が色々と惑っている。言葉が通じない分は彼がサポートしてくれているのだが、『何しろロシアで自分で切符を買うのは初めてなので』というから、驚いた。だがよく考えてみれば、これまでのロシアはビザを取るために日本で全てのアレンジを終える必要があったのだから、これは当然のことだった。どんな車両があるのか、何時に出発なのか、分らないことばかりだった。

DSCN4454m

 

実はロシアには9つのタイムゾーンがあり、ウラジオストックとモスクワでは7時間の時差がある。我々のいるキャプタはどのタイムゾーンにあるのかをまず確認、イルクーツクと同タイム、モスクワとは時差5時間、日本とイルクーツクは同時刻だと理解した。ただ鉄道時間は全てモスクワタイムで表示されるため、それを間違うと5時間の差が生じてしまう。我々の列車は明日の午後2時(モスクワ時間午前9時)にナウシキを出ることが分かった。車両は彼が『一番安いやつ』と言ったに違いない。イルクーツクまでの列車の手配は完了した。

 

車は先ほど来た道を戻り、何と国境へ戻ってきた。宿へ行く前に、1か所見せたいものがあるというので、そこで停まる。その建物は古いが立派そうに見えた。『これは150年前、当時の大富豪、茶葉商人ヤーコフの邸宅だ』と彼は説明した。一体幾つ部屋があるのだろうという壮大なお屋敷だった。今も人が住んでいるようだったので中に入ってみた。そこには幼い子供が一人で遊んでいた。『昔は大豪邸、今は貧民が住む場末の家です』との言葉が歴史だった。ここで実際のロシア商人も茶葉取引をして、大儲けした、という事実は確認できた。

DSCN4457m

DSCN4459m 

 

気分の良い宿

何とロシア正教会の横に車は停まった。教会が見学できるのかと期待したが、彼は反対側にあるアパートに入っていった。その2階に受付があり、何とそこがホテルであることが初めて分かった。看板は出ていたかもしれないが、全く文字が目に入らない。受付の女性は簡単な英語を話した。部屋は3階で、3DKのアパートだった。1部屋にベッドが3つあり、共有のバストイレともう一部屋が付いていた。もし他の宿泊客が来れば、もう一部屋が提供されただろう。これこそ民泊だった。1人750㍔。ドミトリーの料金だった。

DSCN4464m

 

S氏はしきりに『この宿の滞在証明をくれ』と言っている。一体何のことかと思って聞いてみると、以前のロシアでは自分がどこに泊まったかを各ホテルに証明してもらい、それを持ち歩く必要があったというのだ。もしそれをもらえなかったり、失くした場合、最悪出国できなくなる恐れがあるともいう。実際S氏は過去、出国できなくなりそうになったこともあり、殊の外神経を使っていたが、ロシアが初めての私には何のことやら、さっぱりわからなかった。結局この証明を各地でもらったが、それは3人で1枚だったりする。最終的にモスクワから出国した時、その提出を要求されることもなく、私自身はその証明を持つこともなかった。ロシアは確実に変わっているのだ。

 

午後の日差しが差し込み、周囲に遮るものもない。何とも明るい部屋、S氏は『ここに1週間居たら、原稿書けるだろうな』とつぶやく。そんな場所だった。ネットも普通に繋がり、向こうがモンゴルだということも忘れてしまう。Nさんはベッドに横たわり、スマホをいじり、私はお湯も沸かせるので、ゆっくりとお茶を飲むことが出来た。列車の中で北京からすでに36時間、こんな空間が求められていた、とよくわかる。皆大きく伸びをした。

 

夕方、もう一度国境付近を散策した。教会の横の道をモンゴルの方に向かって歩いていくと、古びたゲートがあった。何だろうかと回り込んでみると『CCCP』という文字がうっすら見えた。これはソ連の略称ではなかったか。やはりこのゲートはソ連時代までモンゴルとの国境として使われていたのだ、と確信した。勿論その前には、先ほどキャプタ博物館の写真でも見た、中国側の売買城とロシア側の倉庫・税関を結ぶ国境であったことは想像に難くない。金網の向こう側は雪をかぶった草原が広がるだけだが、あそこに売買城があったことに間違いはない。実に短い距離をロシア商人たちは往復していたことになる。横にはセレンゲ川も見えるので、このロケーションで正しいはずだった。

DSCN8552m

DSCN8558m

 

しかしこの周辺には他に見るべきところもなかった。僅かにソ連時代の監視塔だったであろう塔が見えたが、今や誰も監視などしていない。その横には民家が少しだけ建っている。実効支配、という言葉が思い浮かぶ。陸路の国境は『そこに人が住んでいるかどうかで決まる』と中ロ国境で言われたことを思い出す。そういえば、3年前にここに来た時、モンゴル人が『ソ連時代は夜陰に紛れて、ソ連兵が国境の金網を10m前に出すんです。毎日国境は動いており、人が見はっていないと侵食されるんです』という衝撃的な言葉まで脳裏をよぎる。

DSCN8560m

シベリア鉄道で茶旅する2016(12)キャプタ茶葉博物館で

そしてついに目指す博物館に到着した。何だかとても立派な建物だった。1890年の建てられたこの建物、元々は学校として作られたとか。現在はキャプタ地方史博物館という名前らしい。中も豪華な作りで、往時のキャプタの様子を少し垣間見られる感じだ。我々が連絡したここの研究員、リリアさんは待っていてくれた。メッセージはちゃんと伝わっていたのだ。だが彼女は英語ができない。同僚が通訳をしてくれ、何とか会話が成立していく。なかなか回答が得られなかった理由も何となくわかる。

DSCN4448m

 

まずは展示物を拝見する。当時のキャプタの茶貿易の様子を示す写真、ロシア商人の写真、そして運ばれてきた黒茶、茶葉を入れる缶。後に中国から贈られた茶葉もあった。なんと日本の甲冑もある。これはヨーロッパの貴族趣味の一環で、日本ブームの際に買い入れられたらしい。これらから、150年ほど前のキャプタの繁栄が、見て取れる。一時はロシア全体の税収の3割を稼ぎ出したという話もある茶葉の貿易。これが如何に儲かる商売だったがよくわかる。ロシア側で万里茶路に関する資料が残っているのはこの博物館だけだ、とリリアさんは言う。シベリアの外れ、もうロシア人はキャプタのことなど全く忘れてしまっている。

DSCN4424m

DSCN4426m

DSCN4437m 

DSCN4439m

 

万里茶路に置けるキャプタ。息子の高校の世界史の教科書を確認したところ、1727年のキャプタ条約は1689年のネルチンスク条約と合わせて載っていた。だがこれが何の条約なのか、一体何を意味しているのかを教わった記憶はない。ここで取引されていた主なものが茶葉だった、ということは書かれていただろうか。教科書には注釈に小さく『西部領土の確定と通商事項の取り決め』とだけ書かれている。恐らくは教科書を作っている人々自身が、ほとんど関心を持っていない歴史なのだ。だが今中国では、こういった歴史が掘りこされている。

 

この条約はロシア側が積極的で、清朝政府はあまり関心がなかった。あくまでも領土の確定のための条約で、貿易を促進しようとは思っていなかったはずだ。勿論当初茶葉がこれほどの戦略物資になるなど、想像もしていなかったことだろう。だが結果として、乾隆帝が対外貿易を広東一か所に制限した1757年の30年前に、実は北に抜け道ができており、1757年以降もこの道は大いに使われていた。日本も江戸時代は鎖国で、貿易は長崎に限定されていた、とよく言われているが、実際には琉球ルートをはじめ、「いくつかの穴が開いていたのと似ている。ただその規模は想像以上に大きい。

 

キャプタまで駱駝で運ばれてきた茶葉は、ここからどうしたのだろうか。ロシア商人、地元のキャプタ商人やイルクーツク商人がいたらしい。セレンゲ川を使って川で運ばれたものもあるだろうが、実は陸路で山の抜け道を通り、ショットカットしてイルクーツクに向かったとの話もあった。現在のシベリア鉄道のルートは相当遠回りになっているらしい。運んだのはブリヤート人。そんなことも、実際この地を訪れてみて、初めて分かるのである。

DSCN4436m

 

リリアさんはお茶の用意までしてくれた。そのお茶は紅茶であり、淹れ方は完全にヨーロッパスタイル。お菓子などがふんだんに出される。お昼ご飯を食べていなかったので、有り難く頂く。しかしそこには万里茶路を感じさせるものはなかった。兎に角この博物館の応対は実に温かく、嬉しかった。そして『今日はどこに泊まるのか?』など色々と心配してくれ、ついには若い英語のできる男性が、我々を案内してくれることになった。

DSCN4445m

 

買い物

彼は手を怪我していたので、別の人が運転してくれた。『この街に宿は3つしかない』というので、安いところ、というとにっこり。宿へ行く前に『手助けが必要なことはないか』と聞いてくれたので、まずは明日のシベリア鉄道のチケットを買いに行く。勿論キャプタには鉄道駅はなく、30㎞ほど離れたナウシカという街へ行く必要がある。そのバス停を教えてもらったが、バスは一日1本しかなく、その発車時間では鉄道に乗れないことが分かる。

 

切符を買うにしても、まずはルーブルが必要だった。銀行を探して入ると、両替は意外とスムーズにできた。ATMでのキャッシングは出来るものと出来ないものがあるようだった。私は米ドルを出して、現金の両替をした。ちゃんと機械化されており、こんなところに外国人がたくさん来るとも思えなかったが、職員は慣れた手つきで作業していた。昔の貿易の名残なのだろうか、そんなはずはないのだが。

DSCN4451m

 

それから銀行近くの携帯ショップにも寄った。ロシアでも急速にスマホが普及しており、シムカードが買えそうだったから行ってみた。だがこちらは難航した。外国人にシムを売った経験もないようで、登録手続きに手間取り、ロシア人の客を大いに待たせてしまった。300㍔でシムが手に入った。これはロシア語ができる彼の存在がなければ、難しかっただろう。ただこのシムカード、いつまで使えるのかなど、全く分からない状態だったが、現時点ではネットはちゃんと繋がっていた。これは本当にありがたかった。

DSCN4452m

シベリア鉄道で茶旅する2016(11)キャプタ 茶貿易跡に立つ

5.キャプタ
教会前で放り出されて

このロシア正教会は遠目に見ても立派だったが、近くで見るともっと立派だった。門は閉じられており、中を窺うことはできない。現在実際に使っているのかどうかさえも分らない。仕方なく反対側にある茶葉貿易の跡である建物へ向かう。荷物を引きずっており、ゆっくり歩く。快晴の中、国境に比べても暖かい。建物の前まで行くと、なぜかレーニンの像があった。100年前に滅んだ茶葉貿易の道だったが、建物はその後のソ連時代も使われていたことが分かる。

DSCN4384m

 

だが中に入ってみると、そこにはほとんど何もなかった。僅かに小さな建物があるだけで、あの写真で見た駱駝と茶葉に埋まっていた、ロシアの税関の雰囲気は跡形もなくなっていた。当たり前だ、100年も経っているんだぞ、という声が聞こえてきそうだったが、私の耳は駱駝の声や商人の怒号を聞きたがっていた。なぜこの外壁だけが、これほど見事に残されているのだろうか。モンゴル側はあれほど見事に何もなくなっているのに。ソ連時代には紡績工場だったと書かれていたが、1991年、ソ連崩壊とともに閉鎖されたらしい。その後はどうしたのか。遺跡を保存しているようにも見えず、なんとも不思議だが、そこがまた浪漫を掻き立てられる。

DSCN4402m

DSCN4388m

 

この建物は茶葉貿易全盛期には、ロシア側の倉庫と税関だったという。茶葉の売買は中国側の売買城で行われたが、ロシア商人は日中しか出入りを許されず、夜はこちら側へ戻っていたらしい。1878年、モスクワで千島樺太交換条約を締結した榎本武揚もここに立ち寄っていることは『西比利亜日記』に記されている。1800年代の半ばにこの建物は木造から現在の姿に建て替えられたというから、榎本もこの建物を見たのだろうか。シベリア鉄道開通までは、この地は真にシベリア貿易の中心地であったことが分かる。

 

それにしても、ここに置き去り?にされて、これからどうするのだろうか。実は今日はキャプタ博物館へ行く予定になっている。普段は段取りをしないS氏が唯一この旅でこだわったのが、キャプタ博物館の訪問だった。ロシアには万里茶路に関する史跡はほとんど残っていなことはなんとなく分っており、その中でキャプタは私が3年前に教会と遺跡を見ていること、そして唯一キャプタ博物館に展示物があることを、12月の呼和浩特訪問の際、万里茶路の研究もしている劉さんから聞いていたのだ。

 

そこで劉さんにお願いして、博物館の研究員を紹介してもらおうとしたのだが、その後なかなか連絡が取れず、ようやく研究員の名前と電話番号が分かったのだが、言葉が通じなかった。S氏の知り合いのロシア語のできるウズベキスタン人を介して話をしてもらったが、どうにも進まなかった。もう仕方がない、諦めようとした頃、S氏のもとにメールが来て、何とか訪問の承諾を取り付けた。しかし本当に意思疎通ができているのだろうか。いやまず、博物館は一体どこにあるのだろうか。

 

博物館で

昼間だからよいが、もし夜だったら途方に暮れるような、何もないところだった。S氏はこういう時は実に強い。『人がいるところ、必ず何とかなる』という信念があるようだ。その信念が通じたのか、我々が教会前に戻ると、なぜかヒョロヒョロと車がやってきた。運転手が『どこ行くんだ』という感じで、聞いてくる。博物館は『ムセ』かな、と思って言ってみると、何と『わかった』という雰囲気で車が出ていく。白タクだった。料金は300㍔だとか。

DSCN4409m

 

車は国境からの舗装道を走っていく。5分も行くと、丘のようなところで車は停まる。街はまだ先だが、どうしたのだろう。運転手が『ここから街を眺めるのがいいんだ』という。確かに街が一望できた。ここは元々キャプタ、という地名ではなかったらしい。低層だが、思ったより家々が立ち並んでいた。そして反対側には凍結された大きな川も見える。これがセレンゲ川だろうか。茶葉はここを遡ったとも思われるのだが、実際はどうだろうか。丘の上には戦士の記念碑が建てられていた。ここで戦闘が行われたのかもしれないが、文字が読めない。

DSCN4416m

 

車は街中の建物の前で停まる。ここは確かに博物館らしい。だが文字は読めないため、取り敢えず扉を押して中へ入ってみる。展示物がきれいに並んでいたが、ここは郷土博物館だろうか。男性が出てきて、用件を聞こうとしているのだが、何と英語は一言も通じない。ここからS氏の本領が発揮される。研究員の名前が書かれた紙を示すと、彼は『ああ、彼女のことは知っているよ、でもここにはいない』というジェスチャーを示した。そして携帯電話を取り出し、どこかへ電話を掛けた。

DSCN4420m

 

『彼女は別のところにいるよ。まずはここの展示物を見てから行こうよ』と彼は言っている。さらっと展示物を拝見して外へ出る。彼は自分の車で我々を送ってくれるという。何と親切な。小さな街なので歩きながら行くこともできるだろうが、何しろ言葉が通じず、文字も読めないので、この申し出は有り難かった。更には、今日はいい天気で、道路は雪や氷が溶け出し、何とも歩きにくかったから、これは大いに助かった。

DSCN4422m