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ある日の台北日記2023その5(2)芝山厳事件

帰りに中山駅まで歩いて行くと、途中に横丁があり、そこに路上食堂?があった。なぜか日本のおでんやさしみ、寿司などが並んでいる。如何にも台北ならではの光景だ。駅まで来て新光三越に行く。ここの上に誠品書店がある。ここでドラマ『茶金』の原作本を探す。『茶金歳月』、これはドラマの主人公の実在の夫が書いたものだ。ネットでは300元と書かれていたが、書店では380元した。これが定価だから仕方がないが、日本との違いに戸惑う。

5月20日(土)芝山へ

小雨が降っている朝だった。それでも意外と涼しいからと出掛けることにした。MRTに乗り、降りたのは芝山駅。ここは初めて来る場所だった。歩いて10分ちょっとで芝山厳文化史跡公園に着く。そこには恵済宮がある。その横の長い階段を上っていく。雨で濡れた石段は滑る。

取り敢えず気の向くまま歩いていると、展示館に出くわす。芝山岩の採掘に関する展示のようだが、見学者はいない。そこから何とか頂上?付近まで登ると、芝山厳事件の記念碑が現れる。台湾が日本領になってすぐ、日本人教師が襲われ、6名が命を落としたと言われる事件だ。これを戦後国民党は義民の義挙としたようだが、その後学務官僚遭難之碑が再建され、教師たちの活動は肯定されている。

堂内に展示があるようだったが、閉まっており、見ることは叶わなかった。近くに六氏先生の墓が作られており、お堂も置かれている。実は私がこの事件に興味を持ったのは、犠牲者の中に楫取道明という人物がいたことだ。彼の父親は、幕末長州藩で活躍した小田村伊之助(薩長同盟などにも関与)、維新後楫取素彦と改名し、群馬県令などを務めた。しかも道明の母親はあの吉田松陰の妹寿であり、一時は久坂玄瑞の養子として久坂家を継いでいる。このような人物が台湾で客死した時代背景、もう少し知りたい。

最高点から下が良く見える。暑くないのでとても良い散歩となる。するすると階段を下りて、駅の方へ戻る。すぐそこに朝ごはん屋があったので立ち寄る。もう朝ご飯の人は皆食べ終わっており、サンドイッチだけがあるという。土曜日の午前中とはそんな感じだろう。でもこのサンド美味しかった。

結構疲れたので、部屋に戻り午後は休息する。ちょっとした山登りでも息が上がるし、その後の疲労感が半端ない。先週の水道博物館と言い、高い所へ行くのは今後控えよう。夜はまたお決まりの牛肉湯肉絲麺を食べてご機嫌となる。以前は新しいものを探して食べていたが、今やもう気に入ったものだけ食べ続けている。これもみな歳のせいだろうか。

5月21日(日)牛丼からジャージャー麵へ

昨日の疲れが残っていた。朝も起きられないし、動きも鈍い。天気もイマイチなので部屋でグダグダしている。それでも昼頃になると腹だけは減る。といっても遠くに行く気はない。こんな時は牛丼だな、と思い、吉野家まで歩いて行く。昔ここにある吉野家。1階は狭く、急な階段を牛丼を自ら運んで上がらなければならない。これもまた疲れる。しかも相変わらず店員の愛想は悪い。

日曜日なので、家族連れが大勢食べている。そんな中一人でいるとちょっと孤独になる。やはり牛丼は日本の方がうまい。これは肉の質の問題だろうか。いや米の問題かもしれない。そんなことを考えていると、更にうまくない。食後隣のパン屋が目に入る。3個100元に釣られて、パンを3つ選んだら、何と『下の段だけね』と言われ、100元では収まらなかった。何とも納得がいかない表記だ。

そんなこんなでモヤモヤの午後を送る。こういう時は妙に菓子など食べてしまい危険なので、夕方早めに夕飯を探す。昼がご飯ものだったので、麺でいいやと思い、なんと昨日の店へ行く。そしてジャージャー麺を食す。実は先日この店で注文時の間違いからこの麺が来てしまった。まあいいかと食べてみると存外の旨さに驚き、今日もまた食べることにしたのだ。偶には冒険してみるものだということか。

ある日の台北日記2023その5(1)陳悦記から鉄道博物館へ

《ある日の台北日記2023その5》  2023年5月18日-22日

5月18日(木)陳悦記から鉄道博物館へ

何だかコメダに行きたくなる。確か近所に一軒あったな、と探してみると健在だった。11時前満席で少し待っていたが、案内された席が狭すぎてモーニングを食べるのを辞めた。日本でもこんなに席が狭かっただろうか。それに台湾では当たり前も知れないが、店員の対応はいいとは言えない。

何となくそのままバスに乗って、出掛ける。先日大稲埕で訪ねた同安楽の元、陳悦記の建物が残っていると聞き、行ってみる。大稲埕よりちょっと北に位置していたその場所まで意外と時間が掛かってしまった。一部改修中だったが、そこへ入ることは出来た。如何にも100年以上前のお屋敷の一部だな、という三合院の造り、先祖を祭る廟などが見られた。この陳家は1930年代初め、ソ連人が茶の買い付けに来た際、気に入られた茶を輸出していたらしい。もっと色々と知りたいが、資料などはあるだろうか。

そんなことをしていると待ち合わせ時間がやってくる。急いでバスに乗り、大稲埕に向かう。何だか雰囲気の良い食堂、ランチ時は満員盛況の混雑だった。そこに先日も会った呉さんと、茶を商っているという郭さんが待っていた。二人とも30代の若者、郭さんは大学在学中に茶に可能性を見出し、茶業に乗り出して10年だという。今でも自らのブランドを立ち上げ、ネット通販を中心に有名になっているという。因みに奥さんは日本人、実にさわやかな青年だった。

茶の歴史などについてかなり話し込んだ。それから呉さんと大稲埕を散歩しながらまた話す。王福記の前を通りかかり、ちょっと寄ってみる。お母さんは私を覚えていなかったが、お父さんと話すとすぐに思い出してくれた。初代王泰友さんの奥様は昨年100歳を超えて亡くなっていた。

ついに北門まで歩いて来て呉さんと別れる。ふと見ると旧鉄道部の建物が博物館になっていた。コロナ前に来た時は準備中だったが、今回は中に入れた。つい先日新元鉄道部長の話を聞いたので、そんな展示を探したがなかった。それでもかなりの展示品があり、結構な時間をかけて見ていると、5時の閉館時間になってしまった。隣には旧三井の倉庫跡もある。台北はどんどん古い建物を保存している。

そこから呉さんに教えてもらい、もう一度華西街方面へ向かう。広州街、その突き当りまで歩くと、目的地が見えた。ただそこは改修中で中を見ることは出来ない。古跡学海書院、この辺りに150年前ジョンドットの宝順茶舗があったというが、今やその痕跡は何も見いだせない。まあこの付近と分かっただけでも収穫だ。

それからMRTを乗り継いで、今晩の食事会へ向かう。いつものTさんアレンジ、今晩はタイ駐在経験のある方々の集まりというので興味を持って出席したが、それほどタイに詳しい方はいなかった。そして料理もタイ料理を謳っているものの、ほぼ中国料理でちょっと残念。

5月19日(金)茶商公会で

台北滞在も1か月が過ぎ、少し行き詰ってきた。そんな時にいつもいいアドバイスをくれる茶商公会の総幹事を訪ねた。何の用事ということもないが、フラフラと訪ねていき、雑談していると、絶妙のヒントをくれるので何とも有難い存在だ。今回も訪ねていくと、早々にいくつもの情報を提供してくれた。最高のアドバイザーということだろうか。これも彼が歴史好きであり、世話好きであることに起因している。

それから先日来、なかなか行けていない金春発に向かった。今日は開いていたので、早々に座って注文する。牛雑と牛雑湯、特製のたれをつけて食べると旨い。1897年創業と書かれている。100年以上前、日本時代初期から牛肉を食べている人がいたのだろうか。これはちょっと興味深い。そしてこの料理はどこから来たのか。

ある日の台北日記2023その4(4)久しぶりに青田街へ

5月16日(火)青田街へ

今日は昼過ぎに青田街へ向かった。ここは以前時々来ていた、日本時代の建物が残る場所。今もその雰囲気は各所に残っており、更には古民家を活用したカフェなども増えており、ちょっとお茶するにはいい所かもしれない。ただ平日の午後ということもあり、歩いている人は殆どいない。

Hさんが待ち合わせで指定したカフェへ行く。ここは最近流行りの書店カフェ。聞けばオーナーは出版社をやっており、その打ち合わせなどにも使われているらしい。Hさんが来るまで本棚を眺めてみたが、何だか読みたくなってしまうような本が並んでおり、ちょっと驚く。

Hさんとはもう10年位のお付き合いになる。最近はどんどんビックになり、多方面で活躍しているので、なかなか話を聞く機会がなかったが、わざわざ時間を空けてくれたのは有難い。しかしここでも私はお茶の歴史話に余念がない。それに付き合ってもらって、しかも色々と示唆に富んだ話をしてくれて、本当に有り難かった。時間はあっと言う間に過ぎてしまったが、今後も時々はこのような時間があるといいな、と思ってしまう。

帰りはバスに乗って行く。ふと窓ガラスを見ると、セクハラ&盗難防止ベル?なるものが設置されている。私は初めて見たが、いつからこんなものがあるのだろうか。そして正直この、非常ベルと同じように囲われたベルは有効に使われているのだろうか。私は満員バスに乗ることもほぼないので、その実用性についてはつい疑ってしまう。

宿泊先に荷物を置いて、すぐにまた外出した。今晩は大稲埕で約束がある。MRTに乗り、大稲埕公園を目指した。この公園自体はどうということはないが、一応記念碑が建っており、大稲埕の沿革が紹介されているので、外せない。そこからちょろちょろと周囲を見ながら歩いて行く。

既に暗くなった6時半に、同安楽に着いた。ここは4年ほど前紹介されて一度来たことがある。実はここの先祖は茶商だったこともあり、大変興味を持っていて、現在のオーナーに連絡を取ったのだが、残念ながら不在だった。一応予約はしていたが、行ってみると他に客はなく、本当に静かな場所だった。

お茶を飲みながらゆっくり福建料理の食事をした。料理はセットなので、まとまって出てきた。食後にデザートとお茶を楽しむ。ご一緒したIさんとは北京時代の知り合いで、ちょうど彼女が台北に赴任したと聞き、声を掛けた次第だ。北京駐在時代は実に様々な人々と出会ったのだな、と話しながら思う。

5月17日(水)陳さんが来た

今日は台中の陳さんがわざわざ台北に来てくれた。彼は台湾紅茶の歴史を真剣に調べている人で、日本語も出来、私の書いた文章も読んでくれている。こういう人が現れることが茶旅活動では何より嬉しい。しかも来月は魚池の茶業者と共に来日し、一緒に東京と高知を回る予定になっていた。

私の宿泊先で話をした。まず前半は訪日スケジュールの調整だ。これが簡単なようで意外と大変。それでも台湾の人たちは日本に慣れているので、宿から交通手段まで、自分たちで何でもできて助かる。何だか来月が待ち遠しいが、果たして陳さんにとってどんな成果があるのだろうか。

途中から台湾紅茶の歴史を少しした。といってもテーマは膨大であり、とても1₋2時間で話せるような内容ではない。腹も減り、昼は近所の行きつけの食堂でランチを食べたので、余計時間は少ない。結局今日のところは陳さんの関心がある写真や資料を提供して、それに解説を加える程度で終了となる。それでもわざわざ台北まで来てくれた陳さんの熱意には感服する。歴史調査が如何に地道であるかも再度感じる1日となった。その夜、羽田‐高知便を予約するなど来月の旅が動き出した。

ある日の台北日記2023その4(3)湾生、そして伝統的潮州料理

5月14日(日)湾生の話を聞く

今日は実は誕生日だった。いつもは無関心の子供たちから、早々にLINEが来たのには驚いた。FBでは数年前に誕生日を消しており、今日が私の誕生日だと知る人はほぼいない。私はお誕生日メッセージは好きではなく、こちからも送ることはないので、何だか嬉しくなる。一人でお祝いしようととんかつを食べに行く。

それからKさん主催の講演会に行った。湾生の新元さんという方が91歳で訪台されており、背筋の伸びたお話しされていた。私はこの方が戦後明治製菓にお勤めだったと聞き、明治紅茶について情報を求めに行く。だが何と新元さんのお爺様は、あの新元鹿之助鉄道部長だと知り、かなり驚く。湾生にも色々な方がいる。日本語の講演だったが、会場は満席の盛況。知り合いもかなり来ていた。尚新元さんはあのきのこの山の開発者でもあった。

帰りにいつも食べたいと思いながら食べていなかった豚足麺を食べる。まさにコラーゲンたっぷりの豚足にかぶりつき、麺をするすると啜る。こりゃあ、美味いが、ちょっとくどい。周りのおじさん二人も同じものに食いついている。刀削麺と豚足、これはとてもよいコラボだった。これからも偶には食べることとしよう。

5月15日(月)潮州料理

何となく疲れが出ていた。やはり62歳にもなると、もう無理は出来ない。ゆっくり起きてボーッと茶を飲む。これからはそんな日が続く予感がある。そして腹が減ったら外へ出る。近所に鰻屋という名前の弁当屋があったので、入ってみた。ちょうど値上げの時期で、その弁当は100元を超えている。

店内でも食べられるので、日替わり弁当を注文すると、かなりのボリュームがあり、ビックリ。そして自分でよそえるみそ汁が、何とも昔の日式で、かつおだしが効いていて懐かしい。近所の人がひっきりなしに弁当を数個ずつ買っていく人気店。これからはたまには利用しに来よう。

夕方までジョンドットについて調べる。ドッドが150年前に開設した宝順茶舗は萬華のどのあたりにあったのだろうか。今やそれを知るすべはないのだろうか。先日李さんからもらった資料を読んでいると、どんどんと疑問が湧いてくる。これまではとにかく旅が優先だったが、歳も歳だし、もう少し資料を読み込んでみるスタイルが良いかもしれない。

夕方バスに乗って信義区へ行く。この辺は高級商業地区であり、古き良き台北もないので、あまり行くことはなく、地理が良く分からない。今晩は以前から『台湾に伝統的な潮州料理はあるのか』というお題で探していたレストランがあるというので、そこへ向かったが、何とそこは新光三越の中にあった。食前に濃いお茶は出て来るのか。

しかもこの付近に新光三越の入ったビルはいくつもあって、全く迷子になってしまった。何とか表示板を見てビルを特定したが、なぜ三越は同じ場所にこんなにあるのだろうか。これで集客はどうなっているのだろうか。疑問はどんどん湧いてくる。少し時間があったので、周囲も歩いてみたが、仕事帰りのOLさんたちが闊歩している。高層ビルと青い空はよい。

潮州料理は当然ながら三越にあるのだから高級店だった。料理も高級で、普段屋台暮らしの私には眩しいものだった。そして食前茶などもなく、高級なお茶のリストが出て来るだけだった。料理の質は高く、美味しいのだが、周囲で食べている人もその辺のおっちゃんではない。

どうやらこの店、以前他の場所で先代がやっていた頃は食前茶なども出していたらしいが、今のご時世ではそれもなくなり、潮州料理=高級料理、路線を進んで、三越に出店したのかなと思われる。まあでも誘ってくれたSさん夫妻と楽しくお話したので、良かった。もう伝統的な潮州料理は台北にはないとよくわかった。そんなことを考えながら歩いていたら、帰りのバス乗り場に迷った。

ある日の台北日記2023その4(2)自来水博物館へ

本日は先日偶然会ったUさんのオフィスに伺い、Uさんが現在進行している霧社のプロジェクトの概要を聞きに行った。霧社は私にとっても懐かしい場所であり、知ることも少なくない。コロナ前に完成していたUさんたちのプロジェクトは、コロナ禍を挟み、状況が大きく変わったようで、また一から積み上げているらしい。実に大変な作業を行っており、感服する。本来の交流とは、このような人々の努力により、成しえていくものだろう。

そこを出て懐かしい場所を歩いていく。勿論台北も大きく変わっているが、何だかそのままの古い廟が突然現れたり、懐かしい茶荘に出会ったりする。夜は松江路近くの浙江料理屋で会食があったので、その付近も散策するが、雨になり、中断。その会食は駐在員の偉い方ばかりが集まっており、何だか居場所がなかった。ただ料理自体は美味しかったので、そちらの方に集中する。

5月13日(土)自来水博物館へ

週末は出歩かない、と以前は言っていたが、あまり混んでいない場所なら良いのではと思い、出て行くことにした。まずは刀削麺を食べて精をつける。それからMRTに乗り、公館駅で下車。歩いて数分行くと、自来水博物館に到着する。ここは公園のようになっており、入場料を支払う。そこで『今日のイベントに参加しますか?』と聞かれる。どうやら週末は園内散策があるらしい。

ここは水道博物館なのにこんなに広いのかと思う。子供たちの遊ぶスペースが充実している。門から入ると向こうの方に立派な建物が見える。バロック様式の建物本体は、1908年完成した日本統治時代のポンプ室。総督府は英国人技師ウィリアム・K・バルトンの意見を入れ、台北地区への水供給のため、公館観音山に近い新店渓一帯を水源地として、取水口を設置したとある。1977年にその役目を終えたが、その後修復され、現在水道博物館になっている。

中に入ると大型の抽水機が何台も並んでおり壮観。一室には最近復元されたバルトンの胸像が置かれている。バルトンはお雇い外国人として、日本の上下水道の基本計画を策定、同時に弟子を育成。1896年に台湾に渡り、台湾の上下水道の整備を計画するも病に倒れる。その後は弟子の浜野弥四郎が引き継ぎ、台湾の上下水道は完備されていく。浜野は1919年に台湾を離れる際、バルトン像を製造したが、戦時中に供出されてしまう。初代バルトン像建立から100年、新しい胸像が作られたが、どれだけの人はバルトンを知っているだろうか。

建物を出て、観音山貯水池に向かう。ここは台北とは思えないほど自然が豊かで、ちょっとした山登りになり喘ぐ。小雨も降り始めたが何とか登り切り、貯水池跡を見る。ここからは台北市が良く見える。帰りに建物の裏に回ると、若い女性がモデルとなり、写真愛好家がカメラを向けている。写真が好きだったバルトンはここにも生きているというか。

帰り道、シャッターの閉まった店の張り紙に思わず笑ってしまった。『店主が足を怪我したので一日休み』と。笑い事ではない。日本でも台湾でもこれからこんな張り紙が増えるだろうが、ただ休む事情をこう書くのかと思ってしまう。いや、お客は近所の人なので、心配を掛けない措置かもしれない。

帰りに最近近所に出来た食堂に入ってみた。チェーン店のようだが、お客はおらず、店もやる気のなさを露骨に感じる。こうなると食べ物も美味しくは感じられない。その夜、NHKの番組を見ていると『全てのものは無常』『万物は常に変転する』と言っていたのが、なぜか心に響く。

ある日の台北日記2023その4(1)香港から戻って

《ある日の台北日記2023その4》  2023年5月10日-17日

5月10日(水)香港から戻って

香港からのフライトは順調で時間も短かった。予定より早く桃園空港に着陸した。イミグレの混雑も想定したが、全くなくて拍子抜けした。荷物も預けてないので一番に外へ出た。ここでやることが一つあった。台湾観光協会の抽選会、どこにあるのだろうか。事前に登録したQRコードをかざすと、見事に外れた。周囲には誰一人いない寂しいハズレとなる。

行きはバスだったので帰りはMRTに乗ってみる。きれいな電車は空いており、座っていく。途中で何人かが下りていき、向かいに来た電車に乗った。その時まで気が付かなかった。私が乗ったのは普通車で、もう一つ空港と台北駅を結ぶ直達車があることを。まあ急ぐ旅ではないのでよいが、特に表示もなかったような気が。何だか結構疲れたが、何とか宿泊先に帰り着く。

5月11日(木)小楊と会う

香港から戻った翌日、朝はハノイのNさん出演のラジオを聴きながら、ゆっくりと過ごす。今回の香港・深圳の旅は予想よりはるかにハードとなり疲れたので、仕方がない。一応サンドイッチは食べたものの、ちょっと元気が出なかった。もう頑張る歳ではないのかのかもしれないと実感する。

夕方腹が減ったので、羊雑炒めを食べに行く。やっぱりこれを食べる時に一番元気が出ると思う。飯を搔っ込む感じが良い。満足して散歩していると、小楊から連絡が入る。台北に来た時から連絡していたのだが一向に返事が無くて心配していたが、無事のようだ。今晩来いというので、7時過ぎに訪ねた。僅か歩いて10分だ。

エレベーターがない5階。何とも懐かしい古びた階段を上る。息が少し切れた頃、ようやく到着する。特に変わった様子もない部屋の中にはお客さんがいたが、何と皆でマックを食べていて驚く。奥さんと話をしていると、皆が食べ終わり、お茶を飲み始めたので、お相伴に預かる。小楊はお客さんへの説明に夢中で、ほとんど話が出来なかった。お客さんも熱心でずっと質問を続けており、私の出る幕はないと考え、1時間ほどで引き揚げた。まあ、元気だと分かればまた機会もあるだろう。

5月12日(金)SIMカードを買いに

一昨日桃園空港に行ったが、夜遅くでシムカードを買うことが出来なかった。そこで今日は近くの松山空港まで買いに行く。その前に腹が減ったので、近所で広東系の三宝飯を食べる。何だかとても美味しいと感じる。香港より安いから、これから台北で食べることにしようか。

モノレールに乗って松山空港に行く。ちょうど台北に来て1か月が経つ。30日のシムを買った中華電信で、『このシム継続したいんだけど』とダメもとで聞いてみると、『これは30日間のみのカード。ここにも書いてあるでしょう』と実に素っ気ない対応を食らう。仕方なく、また30日のシムを買い直す。まあ電話番号は変わるが、それで困ることはほぼない。まず台湾で電話を掛けることなどないのだから。

空港からバスで中山北路を目指そうとしたが、ちょうどよいバスは無かったので、またモノレールに乗り、途中で乗り換えていく。途中駅においしそうなパン屋があった。今や台北もエキナカが実に発達している。これからの訪問予定が無ければ、いくつかパンを買って帰りたかった。

ある日の台北日記2023その3(4)圓山大飯店

帰りに何か食べようと、さっきとは別の道を駅の方へ歩いて行く。途中に油飯という文字が見え、立ち止まる。菜頭湯と共に食べると何とも旨い。この何気ないご飯にありつけるのが台湾だ。よく見るとこの辺には旨そうな店が並んでいたが、腹が一杯で次回となる。東門旧趾と書かれた看板を目にする。1853年林家主導で作られたらしい。林家は一体いつから栄えていたのだろうか。

まっすぐ帰るのも何なので、コロナ禍に新しくできた路線に乗ってみる。その名も環状線。その一部が開通しているというので、MRTで新埔まで行き、そこから新線に乗り換える。だがその駅はかなり離れており、駅名も新埔民生だった(板橋駅で乗り換えた方がよかっただろうか)。電車は文湖線より少し大きいモノレール。最初に計画されてから30年(ということはこの路線が台北最初のMRTになるはずだった?)かかって開通に漕ぎ着けたらしい。

景安までゆっくり地上の景色を楽しみながら乗って行く。乗客はさほど多くはない。景安駅から中和線に乗り換えたが、ここもまたかなり移動距離がある。昔と違ってさすがに新線を作るのは簡単ではないことは良く分かった。更に全線が開通し、台北市、新北市をグルっと一周できる日が待ち遠しいが、いつになることやら。

夕飯は先日通り掛かったかつやに入ってみる。6時前ということか、お客は少ない。女性が一人カウンターでとんかつを食べる姿が何人かあったのは、日本とは違う光景だろうか。かつ丼自体はそれほど日本と変わらないように思うが、何となく満足感が薄いのはセットメニューなどが充実していないからだろうか。

5月4日(木)アメリカンクラブへ

今朝はゆっくり始動する。明日から出掛けるのでその準備をしてから、大直駅へ向かう。ここに来るのは何年ぶりだろうか。そこからバスを探して、圓山大飯店まで行く。もう30年以上前、仕事で住んでいた時、偉い人が来て、ここに宿泊したことがある。何と私はお付き部屋に泊まった。

車は一番良い所に停められた。帰ってくるとボーイが常に立っていて、用事を聞いてくる、まさにVIP待遇だった。朝食も部屋に繋がっているダイニングルームで食べていた。バスルームが広すぎて、パターゴルフが出来そうだった。勿論部屋から台北が一望できたのは良い思い出だ。このホテルの歴史は今でも興味を持っている。

バスを降りてGoogleで道を探すと、何と1時間かかると表示された。バスの道路からホテルへ上がれる道はなく、ぐるっと迂回するとそうなるらしい。だがそんなはずはないと、歩き出すと、やはりちゃんと登れる階段を見付けた。5分で到着する。Googleの限界がそこにある。

相変わらず圧倒的な建物だった。中に入ると以前より明るい感じがする。大勢の人がロビーで写真を撮っており、日本人観光客の姿もある。人気のレストランには行列が出来ていた。立派な階段を上り2階も見学できる。裏へ回ると、このホテルの歴史が展示されている。やはり日本との関係は深い。

今日は旧知のHさんのお招きで隣のアメリカンクラブへ行った。ここは初めてだった。カジュアルなダイニングは多くの人で賑わっていた。メンバーは今や台湾人が多いのだろう。Hさんとは香港で知り合ったが、台北に移ってもうずいぶんになる。仕事は順調のようで、台北に根を下ろしている。奥さんも相変わらず元気な様子で、台湾の変化などについて、活発に話してくれる。ちょっと近況を話しているだけで、時間はあっと言う間に過ぎてしまう。

帰りは圓山駅まで歩いてみる。歩けるのかどうかという感じで淡水河を渡る。昔より道が複雑になっており、景観も随分と変わっていて、良く分からない。何とか這い出して来ると花博公園が迎えてくれた。この付近も歴史的には色々とあるが、本日は疲れたので、MRTに乗ってまっすぐ帰った。

ある日の台北日記2023その3(3)再び華新街、そして板橋林家へ

5月2日(火)再びミャンマー人街へ

先月も訪ねた華新街。ただ歩いても良く分からないので、ここに詳しいAさんに同行をお願いした。彼女にはツイッターの投稿を見て連絡をした。どう見てもこの地域への愛が感じられる投稿だった。MRT南勢角で降りると少し時間があったので横道に入る。表は商店街、裏は住宅街。何となく朝ご飯を食べる。

待ち合わせ場所へ行くとAさんがいた。実はこの時点までAさんが男性か女性かすら知らなかった。彼女は台湾大学の修士課程に通っているというが、専攻は考古学らしい。全くの趣味で台湾のミャンマー人などを調べているというので驚く。もうとっくに趣味の域は越えているだろう。

まず華新街を一通り歩いてみる。両側にある店のいくつかについてAさんが解説してくれる。雲南系、シャン系、何故かヤンゴンから来た人々、客家など、驚くほど様々な人々がここにはいた。まだ午前中なので開いていない店もあり、取り敢えずお茶を飲むためカフェ?に入った。ミャンマーミルクティーを飲みながら、お菓子を頂く。

Aさんの調査はかなり綿密だった。ここ華新街だけではなく、中壢など他のミャンマー人村も探索している。これは頼もしい助っ人が現れたものだ。この何とも複雑な歴史を紐解くヒントが話に溢れている。周囲には華人系の顔をした人々が様々な言葉を話していて興味深いが、残念ながら語学能力が低く、どこの言葉かも分からない。

昼になり、ご飯でも食べようかと移動する。一軒の店へ入ると、何とそこには日本語を話す人がいた。東京の蒲田に10年いたというが、元々はヤンゴンにいた客家系らしい。驚いたことに彼は下川さんが書いた本を持っていた。なんとそれは私が登場する物で、Aさんから借りたという。『ダニに食われるところが懐かしい。ミャンマーを思い出す』と笑う。

彼はこの辺のことも、そしてミャンマー華人のことも、色々と知っているようだった。取り敢えずモヒンガーとラペソーを注文して、食べ始める。ぼそぼそ話を聞いていると、かなり奥が深く、また出直すことにした。もう少し的を絞る、知識を蓄えないと、情報を整理するのは難しいと感じる。

そこからまた道を歩く。よく見れば様々な店があることが分かるが、一人だとすぐ通り過ぎてしまう。最後に小さな喫茶店に入る。Aさんはそこでもまた聞き込みに余念がない。台湾のいい所はここに居る人がほぼ華語が話せるということだろう。ただ私は既に消化不良となっており、それ以上の情報を入れても無駄と悟り、静かにミルクティーを啜っていた。

5月3日(水)板橋林家

今日は板橋方面へ行く。板橋駅の次は府中。そこで降りるのは初めてだったが、何だか雰囲気のある街並みだった。慈恵宮という立派な廟がある。その横の食堂に目が止まる。魷魚焿で、しかもご飯が選べる。どんなものか注文してみると、とろみのあるスープをご飯にかけたもので、出汁の味が何とも良い。かなり気に入ってしまった。

本日の目的地は板橋林家の邸宅。そこまで辿り着くと、『茶館街』という文字が目に飛び込んでくる。だが今や茶館はおろか、食堂すらほぼない道だ。往時林家が栄えた時代はここに茶館が並んでいたのだろうか。ぐるっと回ってようやく入り口に辿り着く。今は改修中のようで半分ぐらいしか参観できない。

板橋林家と言えば、清朝時代から栄えた家であり、日本時代が始まると台湾五代家族の一つに数えられた名家。その財力を反映させたのが、この板橋の大邸宅だった。中に入ると池のある庭、石の山、先祖の霊を置く堂などが立ち並んでいる。ただ生活空間、という感じはまるでない。最初からここで暮らすつもりはない、という雰囲気を出していた。

林家については、大稲埕の開発など、茶業に関する功績もかなりあるはずだが、家があまりにも大きく、事業が多岐に渡るため、茶業と林家を簡単に結びつけることは難しい。もし時間があって、林家に関する膨大な資料を読む機会があれば、茶についても何か見出せるかもしれない。ただこの邸宅には残念ながら、林家の歴史の展示などはなく、勉強することは出来なかった。

ある日の台北日記2023その3(2)萬華散策

呉さんが連れて行ってくれたお店、建物は新しいが、中身は古そうだった。お客がいたが、我々が入っていくと帰っていく。オーナーは気さくな人で良くしゃべる。私が歴史の話を持ち出すと、自分の店の話より、台湾茶の歴史について色々と語りだす。釣られて聞いて行くとどんどん話が広がっていく。と同時に、様々なお茶も出て来る。

萬華から大稲埕へ茶商が移っていった経緯など参考になる。現在萬華には殆ど古い茶荘は残っていない。また台湾茶の現代史についても、これまで私が話を聞いてきた多くの茶業関係者を知っており、その頃の話も沢山出た。こういう話をしているとつい盛り上がってしまい、結局2時間以上ここに居た。

そこからもう一軒カフェに寄る。呉さんの知り合いが月に3日だけオープンするというレアなカフェだ。場所も極めてレトロな建物の1階を使っている。店には常連と思われる人たちがいた。カフェというよりむしろおしゃれなバーだった。お客同士は交流をはじめ、仲良くなっている。実に不思議な空間が演出されている。台湾の若者文化は目を見張るものがある。勿論コーヒーも本格的で、マスターは1杯ずつ丁寧に淹れている。こんな空間は好きかも。

それでも腹が減り、カフェを後にした。外は完全に暗くなる。呉さんと華西街を歩く。一体何年ぶりだろう。観光客が行くところだと敬遠していたが、昨日は蔡総統が客人を案内してやってきたらしい。立ち寄った店は大賑わいだ。日本の総理も高級料亭に入り浸らないで、積極的に街を回るべきかもしれない。

呉さん一押しの炒羊肉と牛脳湯を注文する。こりゃ何とも旨い。ご飯と共にあっという間に搔き込む。1939年創業と書かれているが、日本時代にこんな店があったのだろうか。更に広州街の方に抜け出すと、昔ながらの大道商人の声が響き、屋外屋台が並んでいる。呉さんが子供の頃から食べていたオアジェンを頂き、大満足。余韻に浸りながら夜市を後にする。

5月1日(月)西本願寺と江浙料理

朝ゆっくり起きる。最近少し疲れがたまっている。それでも朝ご飯を求めて出掛けるが、その店は閉まっていた。仕方なく隣の店でハンバーガーを食べた。新聞が置かれていたので、何気なく読む。以前は新聞を読んでいたが、今は手に取ることは殆どない。バドミントンのアジア選手権で台湾の戴選手が山口茜を破って優勝という記事が大きく取り上げられている。同時にベスト4の4人(他は中国と韓国選手)が並ぶ微笑ましい写真もあったが、何と戴さんのウエアだけに国旗がないことがまた大きく反響を呼んでいたようだ。

夕方出かける。バスで西門町へ。何となく西本願寺を見学する。数年前に復興されたこの寺、何だかどんどん立派になっている。見学者も増えているようで関心も高まっているのだろうか。私は大谷光瑞には関心を持っているが、ここより寧ろ高雄に復活した彼の屋敷が見たい。

今晩は黄さんと食事。江浙料理の店に行く。午後5時半でほぼ満員の昔ながら食堂だ。好きな前菜を自分で取り、後は鍋などをつつきながら、皆一杯やっている。華語より台湾語が多く聞こえる、実に懐かしい感じの店だった。料理が旨いのも特徴だろうか。残念ながらこのような店は台北にはそう多く残ってはいない。貴重なので益々客がやってくる。

黄さんには以前茶旅で色々とお世話になった。彼の方はコロナ禍で色々とあったようだが、今も元気で働いているらしい。特に料理などに詳しいので、潮州料理屋はないかと尋ねたが、伝統的な店はもうないだろうという。話しているとどんどん台湾が複雑に思えてくる。この複雑さは容易には理解できず、そこがまた面白い。

ある日の台北日記2023その3(1)モスク、眷村、そして萬華へ

《ある日の台北日記2023その3》  2023年4月29日-5月4日

4月29日(土)清真寺から図書館へ

日本はゴールデンウイークに入ったようで、台湾に旅行に来る人が増えていると聞くが、私の周囲では特に動きはない。今日は歩いて大安森林公園を通り過ぎ、その向こうに建つモスクを見学する。約100年前に建てられた、かなり立派なモスクであり、台湾にもイスラム教徒が多いことが見て取れる。ここに来る教徒は回族なのだろうか。その横にはこれまた立派な教会もある。この地区はどういうところなのだろうか。

そこからバスに乗った。図書館へ行こうと思ったが、そのバスはいつも行くMRT駅ではなく、反対側に行くものだった。如何にも下町といった風情だったので、少し歩いてみる。市場を抜けると、そこに羊肉炒麺があったので手を出してしまう。何だか食べてばっかりで怖くなるが仕方がない。

図書館の裏手は、大きな公園になっていた。週末で家族連れが遊んでいる。そして図書館に吸い込まれ、いつの間にか時は過ぎていく。今日も台湾茶の歴史、そして日本茶の歴史について、大いなる成果(疑問)が湧き出してきて怖い。歴史というのは掘れば掘るほど分からなくなる。先日S夫人に教えてもらった古いお茶屋のルーツなど、実に興味深い人物が浮かび上がってきた。

4月30日(日)

四四南村から萬華へ

日曜日のお散歩。途中で広東式三宝飯に引っかかり、食べる。偶に食べるととてもうまい。もうすぐ香港に行くのだから、ここで食べなくても、などとは決して思わない。そのまま101を見上げながら東の方へ歩いて行く。そこには公園があり、四四南村と書かれていた。所謂外省人が住んだ眷村を保存しているところだという。

敷地は意外と広く、中央にはイベントスペースがある。週末なので、出店者が思い思いに店を出しており、家族連れなどが足を運んでいた。だが建物内にある展示に目を向ける人は少ない。この地にあった眷村とそこに住んだ人々の歴史への関心は薄い。なぜ、どのような過程を経て、彼らはここへやってきたのか、そしてどんな生活を送ったのか、を知ることには意味があると思うのだが。まあとにかくこんな一等地を歴史保全に使うのはさすが台湾ではないか。

信義路をとぼとぼ歩いて行くと、かつやがあった。その向こうにはお馴染みのすき家、そして道路の反対側にははま寿司が出店している。以前から台北には日本の外食チェーンが多く出ていたが、コロナで拍車がかかったのだろうか。代金も日本より少し高い程度なので、台湾人も行きたいと思うのだろうか。

午後は龍山寺へ行く。MRTで降りるのは何年ぶりだろうか。公園にはたくさんに人が憩っている。噴水の水がきれいに上がる。龍山寺にはかなりの観光客が来ており、台湾のインバウンドも回復基調を鮮明にしている。私も数年ぶりに中に入り、お参りする。占いをやっている人々が真剣だ。

そこから指定されたカフェに向かい、久しぶりに呉さんと会った。このカフェ、かなりおしゃれでデート用かな。呉さんはまだ若いので、私の知らない台湾を見せてくれる。コーヒーは厳選されており、名物のプリンは何とひとテーブルに1つしか提供されない。私は呉さんと半分ずつ食べる。なんだかおかしい。

彼の祖先は100年以上前、茶業組合の関係者だった。その縁で知り合ったのだが、彼自身は歴史好きで、生まれた萬華の歴史に精通している。今日は彼に萬華を案内してもらい、その歴史を吸収しようとやってきたわけだ。出来れば萬華に古い茶荘があるかどうかも確認したかった。