ある日の台北日記2023その3(3)再び華新街、そして板橋林家へ

5月2日(火)再びミャンマー人街へ

先月も訪ねた華新街。ただ歩いても良く分からないので、ここに詳しいAさんに同行をお願いした。彼女にはツイッターの投稿を見て連絡をした。どう見てもこの地域への愛が感じられる投稿だった。MRT南勢角で降りると少し時間があったので横道に入る。表は商店街、裏は住宅街。何となく朝ご飯を食べる。

待ち合わせ場所へ行くとAさんがいた。実はこの時点までAさんが男性か女性かすら知らなかった。彼女は台湾大学の修士課程に通っているというが、専攻は考古学らしい。全くの趣味で台湾のミャンマー人などを調べているというので驚く。もうとっくに趣味の域は越えているだろう。

まず華新街を一通り歩いてみる。両側にある店のいくつかについてAさんが解説してくれる。雲南系、シャン系、何故かヤンゴンから来た人々、客家など、驚くほど様々な人々がここにはいた。まだ午前中なので開いていない店もあり、取り敢えずお茶を飲むためカフェ?に入った。ミャンマーミルクティーを飲みながら、お菓子を頂く。

Aさんの調査はかなり綿密だった。ここ華新街だけではなく、中壢など他のミャンマー人村も探索している。これは頼もしい助っ人が現れたものだ。この何とも複雑な歴史を紐解くヒントが話に溢れている。周囲には華人系の顔をした人々が様々な言葉を話していて興味深いが、残念ながら語学能力が低く、どこの言葉かも分からない。

昼になり、ご飯でも食べようかと移動する。一軒の店へ入ると、何とそこには日本語を話す人がいた。東京の蒲田に10年いたというが、元々はヤンゴンにいた客家系らしい。驚いたことに彼は下川さんが書いた本を持っていた。なんとそれは私が登場する物で、Aさんから借りたという。『ダニに食われるところが懐かしい。ミャンマーを思い出す』と笑う。

彼はこの辺のことも、そしてミャンマー華人のことも、色々と知っているようだった。取り敢えずモヒンガーとラペソーを注文して、食べ始める。ぼそぼそ話を聞いていると、かなり奥が深く、また出直すことにした。もう少し的を絞る、知識を蓄えないと、情報を整理するのは難しいと感じる。

そこからまた道を歩く。よく見れば様々な店があることが分かるが、一人だとすぐ通り過ぎてしまう。最後に小さな喫茶店に入る。Aさんはそこでもまた聞き込みに余念がない。台湾のいい所はここに居る人がほぼ華語が話せるということだろう。ただ私は既に消化不良となっており、それ以上の情報を入れても無駄と悟り、静かにミルクティーを啜っていた。

5月3日(水)板橋林家

今日は板橋方面へ行く。板橋駅の次は府中。そこで降りるのは初めてだったが、何だか雰囲気のある街並みだった。慈恵宮という立派な廟がある。その横の食堂に目が止まる。魷魚焿で、しかもご飯が選べる。どんなものか注文してみると、とろみのあるスープをご飯にかけたもので、出汁の味が何とも良い。かなり気に入ってしまった。

本日の目的地は板橋林家の邸宅。そこまで辿り着くと、『茶館街』という文字が目に飛び込んでくる。だが今や茶館はおろか、食堂すらほぼない道だ。往時林家が栄えた時代はここに茶館が並んでいたのだろうか。ぐるっと回ってようやく入り口に辿り着く。今は改修中のようで半分ぐらいしか参観できない。

板橋林家と言えば、清朝時代から栄えた家であり、日本時代が始まると台湾五代家族の一つに数えられた名家。その財力を反映させたのが、この板橋の大邸宅だった。中に入ると池のある庭、石の山、先祖の霊を置く堂などが立ち並んでいる。ただ生活空間、という感じはまるでない。最初からここで暮らすつもりはない、という雰囲気を出していた。

林家については、大稲埕の開発など、茶業に関する功績もかなりあるはずだが、家があまりにも大きく、事業が多岐に渡るため、茶業と林家を簡単に結びつけることは難しい。もし時間があって、林家に関する膨大な資料を読む機会があれば、茶についても何か見出せるかもしれない。ただこの邸宅には残念ながら、林家の歴史の展示などはなく、勉強することは出来なかった。

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