「日記」カテゴリーアーカイブ

ある日の台北日記2023その2(5)坪林で

店の1階では鵝肉の調理の様子が眺められる。店から宿泊先まで歩いて帰る。こうでもしなければ腹が収まらない?途中に懐かしい玉器市場があった。今もテーブルを出して玉を見せているが、買う人はいるのだろうか。観光市場と名が付いていたが、観光客は来るのだろうか。大安森林公園を抜けてゆっくり帰る。

4月28日(金)坪林へ

雨が心配されたが、問題ないようなので、今日は久しぶりに坪林へ行く。まずは腹ごしらえとして永和豆乳で朝ご飯。そこからMRTで新店まで行く。新店駅にはショッピングモールが出来ており無印が出店している。いつものようにバスに乗る。ハイキングの老人が多く乗っている。

景観はほぼ変わっていない。バス代も30元のままだった。40分ほどして坪林に着く。まずは歩いて橋を渡り、博物館へ向かう。この橋から見る風景は20年前と変わらない、私の茶旅の原風景であり、今日も美しい。先日トミーが、ここの博物館は進化している、と言っていたのを思い出し、数年ぶりに訪ねた。確かに展示が斬新になり、内容もかなり細かくなっている。正直言うともっと包種茶の歴史にスポットを当てて欲しいが、科学的な考察やカラクリなど一般参観者にとって、また子供たちにとっては、興味深い展示なのではないだろうか。

馴染みの祥泰茶荘に行くと、お父さんもお母さんも笑顔で向かてくれた。馮兄弟も元気に茶作りに励んでいる。今日は特に天気が良いので、茶作りに忙しいはずだが、わざわざ店に戻ってきてくれた。旧交を温め合い、新茶を頂きながらコロナ禍の苦労話をした。中部は記録的な水不足で、産量がかなり減っていると聞いたが、この付近はその影響はないらしい。品質も期待できるという。

そこへ突然?台中の茶師に連れられて、カナダ人が飛び込んできた。彼はまだ20代で、台湾はおろかアジアに来るのも初めてらしい。カナダで自ら薬草茶を作り、商品化して販売するための修行に来ているようだ。馮兄弟は新しいもの、珍しいものが大好きで、茶作りそっちのけで(茶作りはお父さんが向かう)、いきなり品茶会が始まる。

彼のお茶はかなり独特の香りがして、皆興味津々となり、活発な意見交換が始まる。こんな交流も台湾ならスルっとできてしまう。台湾人はこういう良く分からない人に対しても対応が優しい。彼は日本にも興味があるようで、そのうち行きたいと言っていたが、果たして来るだろうか。

そんなこんなで時間はあっと言う間に過ぎてしまい、新茶購入は次回にして、茶荘を出てバスに乗った。新店まで戻ると急に腹が減る。店を探すと、海鮮粥があったので、それを食す。すると益々食欲が掻き立てられ、近くで今度は牛雑麺を食べてしまった。どう見ても食べ過ぎなのだが、するすると入ってしまうのはなぜか。更にかりんとうのようなお菓子まで買ってしまい、部屋で美味しく食べる。

ある日の台北日記2023その2(4)心魂プロジェクト

到着した場所は辛さんのイベントスペース。元は茶荘で、私も3年半前に一度訪れていたが、コロナ禍で閉鎖。今回連絡すると『イベントがあるので参加したら』と声掛けがあり、やってきた。Tさんと辛さんはロータリークラブの関係で様々なイベントを行っているが、今晩は『心魂プロジェクト』。重病で入院、自宅療養で外部との接触が制限されている子供たちをサポートするものだった。

全く我々には想像がつかない苦労や苦痛がそこにある。感染症を常に警戒しなければならない病で、このコロナ禍はどれほど大変だったろうか。コロナ禍で活動は休止状態となったが、オンラインでも繋がれるとのことで、本日も日本とオンラインで結び、会が開かれた。

主催者は劇団四季などに所属していた俳優さんで、いい声で歌ってくれる。子供たちのパフォーマンスも独創的で感動的。何といっても笑顔が素晴らしい。そして『生きていくという意味』を深く考えさせられる話があり、それをサポートする親御さんの話があり、思わずもらい泣きする人もいた。

台湾でもこの活動を広げようとしていたところにコロナが来たので、今回4年ぶりに、病院など関係施設にプロジェクト再開を働きかけているらしい。特に主催者は台湾日本人学校出身でご縁が深い。このような試みが本当の繋がりを生み出すのだろう。実に意義深い。そして料理まで自ら準備してこの活動を支援している辛さんも素晴らしい。この会では以前も会ったことがある方と何にも再会し、このような活動には多様な意味があることも知る。

4月27日(木)弁当とガチョウ

本日は早めのランチを食べる。近所で以前よく行っていた弁当屋。何といっても売りは安さだ。当時70元が現在は80元になっているがそれでも他と比べれば安い。おかずを三品選び、主菜を一品、スープは自分で掬うスタイル。安くて美味しいということで、ご近所の、特に老齢の利用者が目立っている。日本円で400円しない弁当は実に有り難い。

今日は原稿の締め切りなどに挑戦した。だがじっくり座っていると何も思い浮かばず、SNSなどについ見入ってしまい、時が過ぎる。ある画像が目に入る。ガチョウの肉が旨そうに見えた。どうしても食べたくなる。以前吉林街で食べた物が思い起こされる。こうなるとどうしようもない。行くしかない。

バスで20分ほど行くと、そこにきれいな阿城鵝肉があった。昔は古びていたが、今は2号店を出している。午後4時過ぎだというのにお客がかなりいて驚く。5時過ぎたら行列ができるらしい。2階に上がって、鵝肉と鵝腸湯、そして鵝油飯を注文する。周囲を見るとほぼ同じものを注文している。そして昼からビールを飲んでいるグループもいる。

出てきた鵝肉はやはり抜群の旨さだった。基本は二人で食べるのであろう量を一人でペロッといってしまった。鵝油飯はごま塩が掛かりいい感じ。鵝腸のスープは私の好みなので、あっという間に完食する。ああ、大満足だ。これで少しは勢いが出るかなと思ったが、腹が一杯で全く体も頭も動かない。

ある日の台北日記2023その2(3)紀州庵とコーワーキングスペース

公園の庭が意外と広かったので散歩していると、何となくこの近くが昔の川端町だったと気づく。公園の裏手はやはり川だった。そこを歩いて行くと、何やら日本時代の建物が見えた。紀州庵とある。中に入り見学していると、確かに聞き覚えのある名だった。日本時代の料亭、官僚や商人などが毎夜宴会を開いた場所だった。その隣には現代的なビルが建ち、文化基地として、整備されていた。

更に歩いて行く。私の目的地は、あの日月潭で最初に紅茶を作った男、持木壮造の家があった場所だった。当時は川端御殿とも呼ばれ、池のある日本庭園を持ち、鳥居まであった豪邸だった。ここで壮造は晩年を過ごし、終戦の前年亡くなった。現在その場所は完全には確定できない。勿論痕跡などない。それでもこの地の雰囲気を味わうだけでも意味があった。

一度宿泊先へ帰り休息。夜は30年前私が働いていた場所の付近を散策した。勿論大きく変わっているのだが、その建物自体は以前の様子を留めていて何とも懐かしい。そこから少し離れた食堂で、Sさん夫妻と夕飯を食べることになっていた。Sさんとは北京以来実に久しぶりに会いましょうということで約束していたが、先週の会で既に会ってしまって驚いた。相変わらず世界は狭い。

二空眷村小館というその食堂は、名前からして戦後外省人が住んで村を指している。空軍ということで、台南にあったらしい。木須炒餅など、あまり見たことがない料理名がメニューに並んでいる。味付けはかなりあっさりしており、日本人にも好まれているようだ。S夫妻は食通で知られているので、私などよりかなり深く吟味しながら料理を味わっている。同時にこの10数年のお互いの出来事を思い出しながら、会話が進み、何とも楽しい夜となった。

4月26日(水)

チャリティーに参加して

朝はミャンマーのティミックスを飲む。ミャンマーで飲むと甘いのに美味しいと感じるが、台北で飲むと、何となく腹が重くなるのはなぜなのか。11時に開店する近所の餃子チェーン店に行く。開店直後でお客もいないのに、オーダー受付のミスから始まり、何となく店員の態度もよくない。

折角好きな焼き餃子と酸辣湯を食べているのに気分は盛り上がらない。食べ終わった頃思い出した。3年半前もここのサービスは悪かったので、もう少し離れた別の店へ行っていたことを。何年経っても何も改善されていないが淘汰もされない店。ご近所の仲良しでもっているのだろうか、チェーン店の力だろうか?

夕方中山駅まで行く。ホテルオークラの隣にきれいなビルが建っている。その中にコーワーキングスペースが新しくできている。そこの責任者が旧知のTさんということで、見学に行く。セキュリティーが厳しいので入るのに苦労したが、とてもきれいで快適なスペースがそこにあった。

会議スペースや個室なども充実しており、多くの利用者が思い思いのスタイルで仕事をしていた。私のようなノマドとも呼べないフラフラした人には、ご縁はなさそうだが、料金プランなどもきめ細かく、快適な仕事空間を簡単に確保したい人にはお勧めかもしれない。私はオンラインセミナーの時など、Wifi環境が良いので使わせてもらおうかと考えている。

Tさんと出掛けた。天母の方へ行くらしい。車に乗せてくれる人がいるというので有り難く乗る。運転者であるUさんとは初対面だったが、台湾在住40年近いとのことで、僅か5分で多くの共通の知り合いの名が出て来る。その中にS銀行のTさんが登場してとても懐かしい。彼が蝶々を取りによく埔里に行っていたこと、私が数年前埔里を拠点にしていたことを話し、俄然話しは盛り上がる。

ある日の台北日記2023その2(2)有記銘茶の出会いと客家文化

それから茶旅散歩を始める。私は何度も通った貴徳街をフラフラとご案内。徳記ビルが無くなっていたり、錦記茶行のビルの横に案内が張られたりと、ちょっとした変化がある。そして何となくKさんが行きたいというので有記銘茶まで歩いてみる。中に入ると、やはり奥の焙煎室を見学する。

そこになぜか子供が走ってきた。母親が追いかけてきたが、その言葉は日本語だった。観光客かと思ったら、何と有記の親族だという。ご主人がやってきたので華語で聞いてみると、何とバンコク王有記の息子だった。そして『バンコクの店に3回行ったが、オーナーには会えなかった』というと、『親父は今そこにいますよ』というではないか。

何ということだろうか。紹介されたバンコクオーナーは王有記の4代目の弟さんだった。理由は分からないが兄と一緒に台湾に来て、途中でバンコクに戻り、ヤワラーに店を開いたらしい。初めは不審に思っていたようだが、私がバンコクの茶荘のいくつかと接点があることを話すと『あそこのおじさんは元気かな』などと日本人の私に聞いてきて、周囲の人に笑われていた。

店に集まっていた10人ほどの人は実は全て有記の親族だった。彼がバンコクから来たので集まったのであろうか。一緒に写真を撮る。最後に老人が写真に入ってきた。それが有記の4代目だとは最初気が付かなかった。後で分かったことだが、この1か月後に4代目は亡くなった。親族が集まっていた、バンコクから弟が来た、というのは、4代目にお別れをするためだったのかもしれない。非常に劇的な場面にまた遭遇し、Kさんは目を白黒させていた。

そして夕飯を食べるべく、タクシーに乗る。頼さんのお知り合いの女性と和食屋で定食を頂く。何だかよく分からない展開になっている。今晩は彼女のサロンで鉄観音茶を飲む予定になっていて、それに参加する。鉄観音茶を持って現れたのは、木柵の鉄観音茶屋さんで働く人だった。台湾の鉄観音の歴史はもう少しやるべきかもしれない。

4月25日(火)

客家文化公園と紀州庵

午前中はお休みして、昼に銀行へ行く。両替が目的だが、意外と人が並んでおり、待たされる。台湾人は世界中に口座を持っているらしい。色々な話が断片的に聞こえてくるが、その内容は、アメリカやイギリスからアジアまで、かなりワールドワイドで面白い。私の番がようやく来て両替したが、やはり両替目的などを聞かれてうっとうしい。これからは空港ですべて両替しよう。

銀行の近くに客家文化会館という名称の建物があったので寄ってみた。てっきり客家関連の展示でもあるのだろうと思いキョロキョロしていると、受付の女性ににらまれる。聞けばここは事務所だけで、一般人が見学に来るところではないらしい。もう一人の女性が『客家文化公園』の場所を教えてくれたので、突然行ってみることにした。

MRTで台電大楼駅まで行く。歩いてすぐに客家文化主題公園が見えた。実に立派な建物だった。だが中に入っても人はいない。係の人がようやくやってきたので、『客家と茶』について聞いてみたが、2階に簡単な展示があるだけだという。取り敢えず2階に上がり展示を見てみると、客家文化の内容はありきたりで、スペースだけがやたらと広いと感じてしまった。

お茶についても東方美人のいつもの説明書きがあり、また客家擂茶など、客家と関連の薄いものが客家文化とされており、ちょっとびっくり。1階の係の人は『もし必要があれば専門家に聞いて返事します』というので名刺を置いてきたが、そのご返事はなかった。桃園のあたりには客家茶文化館というのも出来ているらしい。次回はそこを訪ねてみよう。

ある日の台北日記2023その2(1)約束の地で

《ある日の台北日記2023その2》  2023年4月22日-28日

4月23日(日)昔話をダラダラと

台中から戻ると台北は涼しいなと感じる。NHKのブラタモリを見ていたら、何と下北沢特集で斎田博物館と共に荏原茶が紹介されている。この番組は時々予想外の話題を取り上げるのが面白い。荏原は私の本籍地。私と茶はこれまで全く無関係と思っていたが、何か出て来るのかな。

今日は天気が良く、かなり暖かい。台北駅までMRTに乗り、そこから歩いてみる。昨日の台中駅が完全に東南アジア化していたので、もしや台北駅周辺もそうかと思ったのだが、さすがにそうはなっていない。やはり台鐵と高鐵の駅が離れているところでは、台鐵側にその傾向がみられるということらしい。

駅の近くに公園があった。逸仙公園と書かれた向こうには孫文の像が見える。ここは孫文が台湾を訪れた際、宿泊した宿の跡らしい。梅屋敷、大和宗吉という人物が経営していた旅館、高級料亭だったとある。建物が一部保存されており、中に入ると、孫文関連の資料や写真が多く展示されている。庭園も整備されておりきれいだ。こんなところにこんな静寂な空間があるとは全く知らなかった。

そこから長春路まで歩いて行く。本日は長年のお知り合いであるBさんと会う予定になっていた。Bさんは俳優業や音楽業で忙しいなか、時間を取ってくれた。牡蠣の店に入ったのだが、彼は昨晩飲み過ぎて二日酔いらしく、粥などに少し手を出しただけで、ほぼ私が食べてしまった。何だか最近とみに食欲が出ていて怖い。

場所をスタバに移して、話を続けた。コロナ禍の3年の間のお互いの出来事などが話題に上る。彼は本も出版しており、1冊頂戴した。さすがにこの歳になると色々と体もきつくなる。また周囲の人々との付き合いなども徐々に変わっていくので、その辺について率直に話せる相手は何とも有難い。話は何となくダラダラと続いて行き、気が付くと4時間も経っていた。体調が悪いのに付き合ってもらい、何とも恐縮だった。

彼と別れて歩き出すと目の前に鳥居が見えた。これが林森公園にある明石元二郎の鳥居だろうか。先日福岡へ行き、明石の記念碑を眺めたことを思い出す。そもそもここは光復後外省人が住むバラックが立ち並んでいたのではないだろうか。1990年代、奥さんに頼まれて出張の際に、良くここでCDを買ったのも懐かしい。今家族連れなどは楽しそうに遊んでいる。

何となくフラフラ歩きたくなる。私が30年前に住んでいたマンションは既に姿が見えない。更に行くとその頃お世話になった会社の本社が見えたが、老朽化で改築待ちだった。その1階にあったファミレスも既に営業を停止してだいぶん経っている。この辺がコロナの影響だろうか。宿泊先の近くまで来ると、昔よく泊まったホテルが見えた。その先のパン屋であんパンを買う。腹も減ったので、魯肉飯と排骨酥を食べて帰る。

4月24日(月)劇的な出会い

ちょっと疲れたので午前中は休息。昼に大稲埕方面に出掛けたので、先日行き損ねた金春発でご飯を食べることにした。ところが何と月曜日がお休み。ショック。仕方なく近所のチャーハン屋で昼を取る。これが意外と旨い。スープの量はどこも多い。でも店名に炒飯とついているだけあってかなり満足する。

迪化街の廟のところでKさんたちと待ち合わせた。日月潭での劇的な出会いから3日、今度は台北で会う。大稲埕を茶旅散歩するはずだったが、既に買い物で消耗していたようで、取り敢えずお茶屋に入り休息する。雰囲気の良いお茶屋だなと思っていたら、ここは5年前『湾生回家』の黄監督とお話しした場所だったことを思い出す。お茶を飲みながらしばし昔を思う。

ある日の台北日記2023その(6)製茶公会で

ランチはタクシーで別のところに移動する。そして天仁銘茶でご馳走して頂いた。やはりお茶の店だけあって、優しい味わいの料理が多い。理事長は遠くから来ており、折角の機会とばかりに黄さんとの相談事がいくつも出てきた。その内に台湾茶の現状、そして日本茶輸入の関連など話がどんどん広がっていき、内容にもかなり熱が入っていく。

私は公会のミーティングに参加したような格好となり、ただ黙って聞いていた。やはりコロナの影響はそれなりにあり、歴史や文化よりはまずは目先の利益確保、という感じであったので、私の出番は無さそうだった。気が付くと4時間も話していたことになる。黄さんからご著書を頂いて帰る。

台北に来てから数日が過ぎたが、何となく部屋で寝ていると蚊に刺されることが多い。3年前はどうだったのかさっぱり覚えていなかったが、部屋の中で探し物をしていると、電気蚊取り機が出てきて、これが必要だとようやく気が付いた。急いでスーパーに行ってマットを買ってきたが、何と私が持っている機械は液体対応だった。仕方なく、再度スーパーに行き、マット用の機械を買う。これで今夜から安心して寝られそうだ。

4月19日(水)ご近所散策

今朝は腹が急激に減り、近所に新しくできていた朝ご飯屋に駆け込む。セットを注文したが、ハンバーガーにたまごを入れる場合は、結構割高となる。それでも大好きなので、頼んでしまう。日本もそうだったが、台湾でもたまご不足なのだろうか。たまごが高いと物価高を非常に強く感じる。

昼もまた近所で食べてみる。今度は初めて入る店でチャーハンに挑戦する。思ったよりはかなり美味しくて満足。ただ同時に頼んだスープの量が多過ぎて困る。日本の中華料理屋さんのようにスープをちょこっとつけてくれれば良いのだが。それでも代金はそれ度高くないのでついつい注文してしまう。

夕方MRTに乗り中山駅へ。雨が降っていたのでちょっと駅地下で雨宿り。駅の外にはドラッグストアーがあり、何とそこに日東紅茶の粉が売っていた。戦前台湾で紅茶を作って一世を風靡した三井が今度は日本国内で作ったお茶を台湾に売り込んでいる。一体どれだけの台湾人が日東紅茶の歴史を知って、この商品を買うのだろうか。

今晩は雨の降る中、北京に留学経験がある日本人の集まりに飛び入り参加した。ほぼ初めて会う人だったが、色々な繋がりから、知り合いの知り合いは皆知り合い、という感じ。北京や中国という共通の話題があり、話が弾んでとても楽しかった。もうサラリーマン時代の仕事の話は忘れていたが、突然数十年前の記憶が呼びこされもした。良くも悪くも中国とは色々とあったなあ。

会場も台湾には珍しいガチ四川料理の店で美味しかった。といっても、やはり台湾だからそこまで辛いというわけでもなく、食べやすい感じだった。ただ話に夢中で料理のことはほぼ思い出せない。お客は台湾人より、台湾に来ている中国人が多かったのかもしれない。普通話が響いている。今回の台湾、こういう場所もう少し探してみたい。

ある日の台北日記2023その(5)台湾茶歴史談義

4月17日(月)台湾茶歴史談義

今朝は少し歩いてあのカツサンドの店へ行ってみる。店は開いていたので、注文しようと中を覗くと、お姉さんが『あら、珍しい』という顔で迎えてくれた。思わず『コロナで3年半来られなくて』と言ったら、初めて私が日本人であることを認識したらしい。喜ばしいというか、何というか。他の店でも私に気づいた人はいたと思うが、誰もこういう感じで声をける人はなく、やはりうれしい。カツサンドは形が変わり、盛り上がっていなかったので、かなり食べやすくなっていた。勿論料金は10元上がっていたが、食べる価値はあるだろう。

部屋に戻ると羅さんから連絡が入り、昼は東門に向かう。早く着いたので、鼎泰豊をちょっと覗くと、人が沢山待っていたが、何とテイクアウト専門店になっていた。そこへ羅さん親子がやってきて、一緒に餃子屋へ向かう。この餃子屋も何だかきれいになっている。ここで焼き餃子、水餃子などをたらふくご馳走になり、大満足。

そして茶歴史談義が始まる。この3年半の間に蓄積された情報を交換し、疑問をぶつけあう。それはそれは楽しい時間となる。テレビドラマ『茶金』の話など、リアル台湾紅茶の歴史であり、羅家の歴とも大いに重なっていると思われる。この3年の間にお話を聞いた羅家の長老お二人も旅立ってしまったのは、何とも残念だ。

場所を近くのカフェに移す。カフェに行く前に鼎泰豊の新店舗の前を通ったが、やはり人が多い。なぜそこまで人気があるのだろうか。カフェも何だかきれいで恐縮してしまうが、それでもお茶歴史にスイッチが入ると全く止まらない。台湾茶の歴史も随分と奥が深い。息子さんはずっと同席していたが、忍耐強いのだろうか。気が付けば3時間以上お話し込む。

すぐ横に意翔村があったのだが、陳先生は最近店にいないと聞き、素通りする。帰りに茗心坊に寄って、林さんに挨拶する。林さんの息子がロンドンから戻り、地道な焙煎作業をしているのが喜ばしい。今はお茶シーズンなので、睡眠時間も短くして、茶作りに励んでいる。一方娘は京都にいるとか。ここのお茶の代理店が京都に出来たような感じらしい。お茶を飲むと腹が減ったので帰りに牛肉麺を食べて帰る。

4月18日(火)製茶公会へ

今朝は圓環に向かう。ここは私の台湾旅の原点である。周囲を歩くと何となく懐かしい雰囲気に包まれる。古い紅茶のポスターを掲げる店もあったが、まだ開いていない時間だ。ドリンクスタンドだろうか。ホルモン系が旨い金春発も当然まだやっていない。この辺の店もちょっと変わっているようだ。コロナの影響はやはり大きかったのだろう。

本日は製茶公会に黄さんを訪ねた。以前も台北に来るたびに訪問し、そのお茶の歴史を教えて頂いていた。まだまだお元気で、今日も色々と話を伺う。ご著書も頂き、黄さんの茶業話を拝聴した。3年半の間に公会自体も理事長、総幹事ともに交代しており、紹介もして頂く。やはり人が変われば、ちょっと以前とは雰囲気が違うようだ。

ある日の台北日記2023その(4)華新街と台湾大学

4月15日(土)ミャンマー人街へ

今朝もサンドイッチで朝を迎える。5月から値上げの表示が見える。最近この表示が目立つように思う。特に卵の値上がりが激しいのは日本と同じか。MRTに乗って中和の図書館へ行く。ここも前から良く通った場所。しかし3年半ぶりなので、PC操作の仕方などは完全に忘れてしまう。それでもここの係員は常に優しく、教えてくれる。

台湾日日新報の検索に励み、気が付くと4時間も座ったままだった。やはりこういう資料を見ているのが一番楽しい。台北の部屋に置いたままだった資料を思い出し、更にここで新たな記事を集め、実に地道な作業が続いて行く。この土台があってこその茶旅だと最近つくづく思う。

またMRTに乗り、終点の南勢角まで行く。ここから更に歩いて10分以上行くと、華新街に辿り着く。ここは台湾のミャンマー人街と呼ばれており、ミャンマー・雲南から台湾にやってきた人々が集まっている。そして人が集まれば食べ物もやってくる。通りは閑散としていたが、店はかなりあり、取り敢えず適当な店で麺を啜る。何となく雲南麺を思い出す味だ。

実はちょうどミャンマーやタイは水掛祭りの最中。ここでも午前中にイベントがあったが、午後は日常を取り戻しているようだった。昼下がり、ミャンマーミルクティーを飲みながら、話し込んでいる老人たちがいる。言語は中国語もあるが、時にビルマ語、シャン語などが耳に入ってくるような気がする。この付近が形成された歴史、人々の歴史を知りたくなる。私も紅茶とミャンマー菓子で寛いだ。

帰りにバスに乗る。ちょっと距離のあるバス。土曜日で道が空いており、かなりのスピードが出ている。突然ブレーキも踏むので、かなり危険な運転だ。といっても30十数年前の台北のバスに比べれば、まだマシだろうか。バス代は安いのだが、その危険度という意味ではMRTの方が乗りやすい。

4月16日(日)台湾大学へ

日曜日は原則外出しない、と以前は決めていた。やはり休みは重要だ。それでも体が外へ出てしまう。かなり天気が良く、暑さが気になる中、今日は台湾大学方面に歩いて行く。途中の団地では、お天気の中、老人たちが日向ぼっこしている。車いすに乗り、インドネシア人メイドに推してもらっている男性、よく聞いてみるとその会話はインドネシア語だった。彼は華僑なのだろうか。それとも仕事で言語を習得したのだろうか。

大きな道路に面して、温州大餛飩があったので入ってみた。ここではいつもワンタンメンを食べていた。午前中の中途半端な時間でお客は一人しかいない。お母さんが一生懸命ワンタンを1つずつ丁寧に包んでいるのが何とも良い。それを見ながら鮮肉餛飩湯と鶏絲飯のセットを注文する。何だかいつもと違う雰囲気。因みにこの温州大餛飩はフランチャイズ方式らしいが、店によってメニューがちょっと違う。

台湾大学まで歩いて行くとかなり暑い。まずは図書館に入る。以前はバッグを地下1階にあるコインロッカーに預けなければならなかったが、何と1階に移動されていて大いに助かる。入室は前と変わらず。だが、以前見ていた資料の場所が思い出せず、かなりまごつく。結局見たい資料の一部には辿り着かないという悲劇。

一応何とか任務をこなして外へ出る。何となく磯小屋の方へ向かう。入口がきれいになっている。建物は以前のままだが、表示なども増えているような気がする。蓬莱米の父とも呼ばれる磯永吉への関心も高まっているのだろうか。残念ながらちょうど昼時間で、中を見学することは出来なかった。暑いので早々に引き揚げる。

夕方はかなり涼しく感じられたので、また外へ出る。よく行っていた近所の食堂で夕飯を食べようと歩いてみたら、何と店が見付からない。まさか無くなったのかと不安になったその時、店の位置を間違えていたことに気が付く。なんとまあボケが進んだことか。店は昔のままだったが、オーダーはボードに印をつける、会計も機械化されていた。まあ味が変わらないので良しとしよう。

ある日の台北日記2023その(3)南機場夜市と済南教会

夕方バスに乗り、南機場夜市を目指す。ここは全く初めて行く夜市。お目当ては台湾のおこわご飯、米糕。有名な店があるというので行ってみた。こんなところにも夜市があるのか、と思うほど、今や台湾は夜市だらけだ。夜基本的に出掛けないので、夜市にはあまり縁がない。名前からして元飛行場跡なのだろう。

入り口付近にある米糕屋には行列が出来ていたが、よく見るとテイクアウトの人々と分かり、席を探して適当に座る。何とか注文書を渡して待つ。徐々に日が暮れていく中、人が増えていく。久しぶりの米糕、やはり美味しい。昔拠点とした埔里の味が思い出される。排骨湯と煮卵もいい。その後夜市を散策。元々が行く人が来る場所ではないが、地元民で行列が出来ている店もあり、コロナからの復活が見て取れる。私はバスで早々に退散する。

4月14日(金)大稲埕から済南教会へ

朝はまた近所で蛋餅と大根餅を食べる。やはり台湾の朝食はバリエーションもあり、安価であり、そして旨い。もう言うことはない。そのまま近所を散策する。以前はよく行っていた市場方面を歩くと、お客も店も特に変わっていないように見える。帰りに宿泊先の横で、バナナを買う。これも台北生活のルーティンだ。

MRTに揺られて大橋頭駅へ向かう。ここから大稲埕を歩き出す。駅近くには十連棟という建物があり、この付近日本統治代は米などを扱う六大商家がいた場所であると書かれている。平日なので人は少なめであるが、お茶を売る店なども見られる。懐かしい警察署もあった。

本日は王瑞珍茶荘を訪ねてみた。実はこの名前、タイのバンコクにあり、3年半前に話を聞いていた。その際台北にも親戚がいる、ということだったので聞いてみる。突然の訪問にも拘らず3代目夫婦が招き入れてくれ、お茶を飲みながら色々と説明してくれた。やはりこの茶荘も元は安渓西坪から出てきており、王福記などとも親戚にあたるようだ。3代目になってから現在の店舗で小売りに転じたが、元は茶輸出を行っていたという。

そこから大稲埕の港を少し眺めてから、貴徳街をフラフラ歩く。相変わらず細い道だ。李春生記念教会、ここが目指す場所だったのだが、いつものように門は閉まっていた。あれ、と思い、案内をよく見ると、何とここではなく、済南教会と書かれている。実はここで李春生のひ孫さんと待ち合わせていると思い込んでいたので、大いに慌てる。

途中何とかタクシーを拾い、済南教会まで急行した。初めて見たが実に立派な教会が建っており、その後ろの建物の2階で、李春生生誕185周年の記念展示会が行われていた。ちょうど他のお客さん向けに説明が始まり、その流れについて行く。かなり詳しい展示内容、そして李家の大邸宅の模型などを材料に、その歴史が話されていく。これまで李春生については多少は調べていたので、その内容は非常に興味深い。

その後ジョンドッド関連のご本を頂き、更に李さんより日本語に関する質問を受ける。確かに李春生に関しては日本語の資料がたくさん残っているが、その漢字だけでは判別は難しい。李がなぜ台湾に渡ってきたのか、その辺の事情を解明してみる。いずれにしても李と茶葉貿易は重要な関係があるはずだが、何故かそれに関する資料は殆どない。

教会を後にすると、急に腹が減り、その辺の弁当屋に入ってご飯にありつく。排骨飯とは何とも懐かしい響きだ。台湾では食に困ることはない、というか、選択肢が多過ぎて悩むことは多い。安くてうまい、は台湾料理の代名詞。多少の値上がりはあるが、今だにそれは健在だと言えるだろう。

ある日の台北日記2023その(2)近所散策を開始

何と出てこなかった理由は『悠遊卡』を使ったからだった。3年半使っていなかったカードを恐る恐る使ったところ、ドアが閉まってしまった。パスワードなどが出て来るものと思っていたが、何とカードをかざせば開けられる仕組みだった。そんな勝手な大騒ぎの中、35年来のお知り合いTさんがやってきてくれた。昨晩台北に行くことを告げると『取り敢えず空港に行く』と連絡があった。もう4年近く会っていなかったが、全くこれまでと変わらないの普通の会話となる。何と自然なことか。

それから少しPCなどを触ってみる。空港のWifiはかなり強いので、何でもできるし、充電も可能。座って作業に励む。その内、家主の葉さんから連絡があり、家に向かう。結局タクシーには乗らず、いつものように文湖線で行く。家の前には果物を売るおばさんが全く変わらぬ姿でいたのが印象的。

3年半ぶりに家に入る。一番気になっていたのは荷物だったが、何とスーツケースには入っておらず(前回帰る際にケースは持ち帰っていた)、しかも親戚の子供が来て、私の荷物で遊んでいたというので、カビなどは生えていなかった。それでも3年半全く使っていなかった衣服なので、一部は捨て、残りは明日全面的に洗濯しよう。ここに残してきた資料もみな無事でよかった。涙が出る。

そうなると腹が減った。もう思い付くのは近所の麺屋だ。刀削麺の店で牛肉湯肉絲麺を頂く。この店、ちゃんと開いていてよかった。夢にまで見たモチモチ麺とコクのあるスープ。これが食べられる幸せ。値段も10元程度の上昇。といっても円換算ではかなりの上昇だろうか。まあ食べられる幸せが値段に勝る。他の店もあまり変わっていない。コロナの影響はどの程度だったのだろうか。

4月13日(木)懐かしの店から南機場夜市へ

爽やかな台北の朝。まずは近所をうろつき、いつもの店で総会三明治と氷紅でスタートする。ここも10元ほどの値上げ。特に卵入りは高くなっている。そのままフラフラ行くと、今度は大腸麺線の店がある。美味しそうだな、と思っている間に、足が勝手にそちらに行き、口は勝手に注文している。これはやはりうまい。何とも懐かしい味だ。

そのまま歩いていたら、以前あった古い市場が完全に解体されていた。スーパーもセブンに代わっている。やはり3年半の間には、それなりの変化があったのだろう。その先には新しいきれいな市場が出来ていた。2階には食堂街もあるので、今度機会があれば食べに来ようと思う。敦化南路の街路樹はそのままだった。

今やなんでもオンラインの時代だ。葉さんからもらったURLを開くと、そこではお茶販売の新しい試みなどについて、台湾人とシンガポール人で議論が交わされている。パティシエである葉さんの息子も堂々と英語で持論を述べている。こういう議論に日本人はなかなか加われない。台湾茶業も重大な変革期のようだ。

午後早々に約束を取り付け、双連までMRTで行く。駅から地上に上がると何となく懐かしい。思わず以前も食べた店で肉羹と魯肉飯を注文する。値段は10元ずつ上がっただろうか。ここの魯肉飯は肉がゴロゴロしており、何となく日本で食べるものを思い出させる。食後裏道を行くと、まだまだ古い店がいくつか残っており、何とも好ましい。

茶荘に湯さんを訪ねる。彼女とはもう20年近い付き合いになる。既に店は息子に任せて悠々自適かと思っていたが、知り合いと一緒に理想の高山茶を作るべく、現在も奮闘中らしい。昔はプーアル茶で一目置かれ、その後烏龍茶、紅茶などに取り組んだ茶商さんの追及はまだ続いている。その熱意には心打たれる。