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ある日の台北日記2019その3(2)坪林と天母で

10月11日(金)
連休に坪林へ

実は私は極めて間の悪い時に台湾に来てしまっていた。双十節の祝日の認識はあったが、実質的に木曜日から日曜日まで休みだとは思っていなかったのだ。だから台湾の知り合いに声を掛けてもここ数日は忙しい、と言われ、色よい返事はなかった。一昨日会ったTさんも連休を持て余しているというので、今日は一緒に坪林に行ってみることにした。

 

昼の12時のバスに乗るため、新店駅で待ち合わせた。だがTさんは地下鉄に乗る人ではなく交通カードすら所持したことがないという。そしてタクシーで坪林へ行こうと、運転手に声を掛けたが、ひと声『1000元で行く奴いるかな?』と言われて、バスの方に向かうことになる。バスなら一人30元なのだから。

 

連休中ながら、昼のバスは満員にはならず、無事乗車できた。朝ならハイキングに行く年配者などが多いのだが、むしろ連休で家族と過ごしているのかもしれない。連休なので、道が混んでいるのかと思ったが、途中の宜蘭方面の高速以外はそれほどでもなく、1時間かからずに坪林に着く。

 

初めてのTさんを案内して、老街を歩く。連休とは思えぬ人の少なさ。坪林はやはり観光地ではなく、むしろ隠れ家的でよいともいえる。それから改装されてから初めて茶葉博物館へ入る。展示が充実したとの話もあり、期待して行ったのだが、予想と違って一般人向けの基礎的な展示が多くなりがっかり。包種茶の里なのに、その歴史はカットされており、代わりに一般的な世界の茶の歴史の展示がなされており、学ぶ者にとっては誠に物足りない。80元の入場料がむなしい。

 

いつもの祥泰茶荘に行くと、お父さんがお茶を淹れてくれた。長男の馮君は台北から戻ってくる途中らしく、バスに乗っているという。やはり連休なので車は確実に渋滞する。バスは早いということは我々も体験済みだった。ここで台湾花茶の歴史について基礎知識を得る。私の理解では初期の花茶は包種茶に花を燻製したものだったように思う。

 

Tさんと通りをフラフラした。今や坪林に来ても祥泰茶荘にしか行かなくなっており、街歩きなど久しぶりだ。茶荘の数はそれほど変わっていないように見えるが、茶荘の傍ら、レストランや土産物屋などを開いている店が多くなっているのが気になる。やはりお茶だけで食べていくには限界があるのだろうか。しかし連休なのに観光客の姿はまばらだ。最近できたという旅遊センター、新しくてきれいだが、どれだけ活用されているのだろう。

 

Tさんはバスで台北に帰って行き、私は祥泰茶荘に戻る。馮君が台北から戻って来て、ここから本格的なお茶の歴史談義が始まる。花茶については『台北の全祥茶荘に行けば分かるよ』と言われ、紹介してもらった。とにかく何も分からない時には、ひたすら人と話をすることだ。そうすれば自ずと道は開かれる。他のお客が来たのを潮に、バスで台北に戻った。

 

10月13日(日)
天母へ

連休最終日、実に久しぶりに天母に行く。実は多くの知り合いから『一度辛さんの新しい店を訪ねるとよい』とアドバイスされていたので、行ってみることにしたのだ。そこは宿泊先からバス一本でかなり近くまで行けるので、意外と便利な場所にあった。朝早めに出て、バス停近くで朝ごはんを食べる。さすが住宅街、朝ご飯を食べるところは沢山ある。

 

辛さんのお店、東京彩健茶荘は、住宅街にひっそりとした、実にデザイン性があるお店だった。茶荘や茶館という表現よりはサロンというのがふさわしいだろうか。ちょうどお店にはこのデザインをした台中在住日本人も家族で来ており、賑やかだった。子供たちにも心地よい空間なのだろう。

 

辛さんとは初対面ながら、色々と話が弾んだ。台南人だが日本生まれで、ずっと日本で暮らし、最近台北に移住してきたと言う経歴も面白い。お母様は有名な料理研究家。知り合いのTさんが初代を務めたロータリークラブの会長も引き受けている。非常に多彩で広い交友関係を持っている人だった。このお店も、良質な高山茶などを扱っているが、お茶の専門というより、サロンとして使われるのが好ましいと考えているようで、今後人が集う場所になっていくだろう。

 

お店に入ってきた女性を紹介された。何と大学時代、台湾語の授業を3回だけ受けた時の先生、王育徳氏(日本に亡命した台湾民主化運動家)のお嬢さんだと聞いて驚いた。先方も『父の学生さんですか』と言い、ご存命のお母さまに見せると言って、一緒に写真に収まってしまったが、とても王先生の学生と呼ばれる資格がないのが恥ずかしい。それでもこんな出会いがサラッと実現してしまう、まさにサロンだろう。

 

 

一度帰り、夕方また出掛ける。Tさんに広東料理をご馳走になる。さすが連休最後の日、お客で満員だった。最近は香港あたりか移住してくるシェフも増えたのか、台湾における広東料理の質が進化しているように感じられる。それは果たして香港にとって良いことなのかどうかは分からないが、食べる方としては有難い話だ。

ある日の台北日記2019その3(1)台北に戻って

《ある日の台北日記2019その3》  2019年10月8日-11月21日

今年3回目の台湾滞在。今回は花茶の歴史を調べてみたいと思っているが、どうなるだろうか。また懐かしい人々、会いたかった人々とも会うことが出来て、有意義ではあった。来年の方向性も考える時期に来ていた。

 

10月8日(火)
台北へ

今年何度台北に降り立ったことだろうか。台湾茶の歴史を本格的に訪ねて3年、初歩的な調べはある程度終わったかもしれない。ただ学べば学ぶほど疑問は出てくるし、資料は出て来ないし。益々『謎は深まるばかり』という決め台詞もすでに使い古してしまっている。さてどうするか。

 

桃園空港からいつものバスに乗りながら、そんなことを考える。今回は6月に台北を離れる際に鍵を持ったまま出てきたので、すぐにいつもの部屋に入ることができ、なんともスムーズな台北入りとなった。だがどうしても食べたいと思っていたいつも行く牛肉麺の店がまさかの休業中。なかなか世の中上手くは運ばない。台北も夜はちょっと涼しいので、鴨麺を食べて満足する。

 

10月9日(水)
旧知の人々と

今日は旧知のTさんと会うことになった。いつもは夜、彼の家の近くで食事をするのだが、今回はなぜか彼のオフィスのあるビルで待ち合わせ、昼ご飯を食べることになった。いつもと違うパターンは大歓迎だ。そして待ち合わせ場所にはいつも本屋に行く時に乗るバスで行けるので楽だった。

 

早く着いてしまったので本屋に立ち寄ろうとしたところで、メッセージが来たので急いで移動したが、よく見てみると『着いたら連絡してくれ』とのことで、何と30分も早く待ち合わせてしまった。そしてビルの地下の韓国料理屋で、なぜかビビンバを食べた。台湾で韓国料理、最近は流行りのようだが、30年前を思い返すと、焼き肉屋も殆どなかった。韓国に対する台湾人の感情変化と言ってよいのだろうか。世代は確実に変わっている。

 

その後、コーヒーを飲むところもないというので、かき氷などのスイーツを食べる店に移動した。Tさんはかき氷を食べていたが、私はさすがに冷たい物を食べる雰囲気ではなかったので、メニューに唯一あった汁粉のような物を食べた。この汁粉1つが、私が食べる牛肉麺より高い、というのが、今のおしゃれな台北だろうか。

 

帰りに本屋に立ち寄ると、やはり何かしら買いたくなるものだ。1冊持ってレジに行くと、いつものように会員カードはあるかと聞かれたので、『ないけど作りたい。外国人も作れるのか』と聞いてみた。すると店員は『日本パスポートは何年かで番号が変わるでしょう。番号が変わらない身分証はないのか』と聞いてくるので、驚いた。

 

そこまで日本の事情に詳しいなら、日本人には身分証がないことも知っているだろう、というと、黙ってカードを作ってくれた。あれは何だったのだろうか。そして海外では面倒が多いので、日本も統一身分証を早く作って欲しい。パスポート番号を変更しないというのでもよい。

 

一度部屋に戻り、勉強を始めた所で、Rさんから『今晩空いている?』との連絡をもらう。彼とは茶の歴史について色々と話したいこともあったので、指定されたレストランに向かった。何とそこは、昨日空港から乗ったバスの中から見たレストランで懐かしいな、と思ったところだったので驚いた。

 

モンゴル焼肉、行ったことはあったが、その内容は全く覚えていなかった。席に着くと、テーブルでは鍋が暖められ、既にRさんの息子が何か食べていたので、私もそれを取りに行った。生の野菜と肉を取って戻ってくれると、『それは向こうで焼いてもらうの』というではないか。よく見ると一番端に大きな石焼用の機材があり、コックが二人で焼いていた。調味料をどの程度入れるかが、美味しく食べられるかどうかのポイントらしい。

 

それから鍋に羊肉など入れて食べた。焼餅も出てくる。ここは基本的に食べ放題らしいが、代金を支払ってもらったので、その仕組みはよく分からなかった。それから地下鉄でRさんの家に移動して、お茶を飲みながら雑談した。そこではお茶の話から客家のことまで、様々な話題が飛び交い、気が付くと日付が変わりそうな時間になっている。そこからトボトボ部屋まで歩いて帰る時、何となく充実感を味わえるのが嬉しい。

ある日の台北日記2019その2(18)台北国際食品展へ

6月21日(金)
食品展へ

19日の夕方、厦門から戻る。もう明後日には今年前半の台北滞在を終了して、東京へ一旦引き上げる予定となっていた。さすがにこの3か月でため込んだ資料の整理、持ち帰るものの仕分けなど、予想以上に細かい作業が続き、丸1日を費やしても終わらない。何しろ、ここから3か月は台湾に戻らないため、書かなければならない原稿用の資料は確実に持ち帰り、または今日書いてしまわなければならない。

 

しかし資料1つ1つに目を通すと、色々と思い出が頭をよぎり、ついつい読みふけってしまったりして、なかなか進むものではない。それほどに思い入れがある物、ということだろうか。そしてまだ足りていないところも浮き彫りになってくるので、片付けているのか、調べているのか、分からない状態になってしまう。

 

そして何より疲れが溜まっていた。さすがに安渓での濃い滞在を通して、体が消耗していた。自分のペースでできる旅だとそこまで消耗しないが、団体行動に振り回されるとあとが厳しい。特に食事をとり過ぎることが、どれだけ体力を落とし、疲れを増幅させるかは、今後の参考にしなければならない。

 

行けなければならないところもあったのだが、全て取り止めて宿泊先で荷物整理と格闘していた。前日の夜にはきちんとゴミ出しも行った。最終日の朝、葉さん夫妻に挨拶して、今後のことなど話していると、今ちょうど101で国際食品展をやっているから、ちょっと一緒に覗いて見ない、と誘われた。101ならそれほど遠くもないし、お茶屋の出店もあるとのことだったので、その話に乗っかっていく。

 

実は台北食品展は南港で行われていたのだが、規模拡大なのか、今年は101と2会場併用で開催されていた。葉さんたちの会社のブースは南港に出しているのだが、参考にするため101会場も見てみようということで出かけた。午前10時から開始なのだが、9時半には到着。既に会場前には出展者が列をなして入場している。

 

準備中のブースを回り始めると後ろから『久しぶり』と言われる。誰かと思って振り向くと4月に行った高雄の茶農家だった。彼は3月には幕張Foodexにも来ていたし、かなり活発に動いている。日本からも京都や静岡など数軒のお茶屋さんが出店していた。抹茶に興味ある葉さんは1軒ずつ回って、品定めを始めた。簡単な通訳をしながら一緒に話を聞いていると為になることも多い。

 

日本企業のブースで台湾人が売込みをしているのは台北開催だから当たり前だろう。勿論日本から来た社員がサポートして、うまく中国語で説明している。だがある一社はインド系社員が来ていた。彼の売り込みは、切り込み方がうまく、如何にもインド商法という感じで面白かった。今や日本でも外国人が普通に働いており、彼らは彼らのやり方で海外市場と対峙しようとしている。こういうアプローチがないと、日本茶はなかなか発展していかないように思う。

 

その後南投県のブースに行くと、日月潭紅茶を紹介していたが、そこの女性2人が突然『あなたのことは見たことがある』と言い出して驚く。聞けば、トミーの講座に参加しており、その中で台湾紅茶の歴史の講義を受けた時、写真に私も写りこんでいたらしい。確かにトミーとは何度も歴史茶旅を繰り返していた。今彼はその成果を講義の中で生かしている。これはとても大事なことだと思う。

 

タピオカミルクティーも大きなブースを構えていた。今や台湾だけではなく、日本でも、アジアでも大人気のドリンクとなったタピオカミルクティー。当然注目が集まっており、内外の多くのバイヤーが試飲をし、商談していた。このブーム、いつまで続くのだろうか。タピオカ、そんなに美味しいのだろうか。

 

宿泊先に帰り、荷物をまとめる。松山空港まではすぐなのでタクシーに乗ろうと思ったが、貧乏癖か、MRTに行ってしまう。大きなケースが2つもあるのに、何をしているんだ、効率を考えるべき。しかも空港でチャックインしようとしたら、1個の荷物の重さは23㎏までです、と言われ、3㎏を段ボール箱に移す羽目になった。合計重量には相当の余裕があるのだが、なぜこんな規則にしているのだろうか。ビジネスクラスは32㎏までOKなのに。(東京に着いてから、ケース2個と中型段ボール1個を持って家に帰るのは大変だった)

 

今回はマイレージでANAを使ったのに、とちょっと思っていたが、実は数日前からエバー航空は従業員のストライキに入っており、私がいつも乗る便も欠航になっていた。何か月も前から予測できるわけなく、何ともラッキーだった。機内では『飛んで埼玉』という映画を見たが、特に笑えなかった。そして私の上半期の台湾は終了した。

ある日の台北日記2019その2(17)中壢へ

6月10日(月)
中壢へ

月曜日になったのでまた鉄道に乗る。今年前半の台湾滞在は秒読み段階となり、やるべきことを1つでも多くやっていく時期になっていた。今日は台湾で亡くなった可徳乾三について調べるつもり。行く場所は、彼が日本台湾茶業を退職後に茶舗を開いたと言われる埔心駅前だ。

 

埔心に行くには、区間車に乗ればよいのだが、1時間もかかり何となくかったるい。自強号に乗ると中壢で乗り換える必要がある。そうだ、それならいっそ中壢も散歩してみよう、と思う。中壢は私にとっては35年ぶりの場所だ。初めて台湾に来た時、東京の下宿で隣だった陳さんの家を訪ねたことがある。そこが中壢だったのだ。今覚えているのはお兄さんが医者で、遠東百貨の横に病院を持っていたことだ。

 

中壢駅で降りてみても、思い出すことは何もない。そうだ、あの時はバスで来たのだ。駅前から遠東百貨を目指して歩く。いくつかの古い建物が残っており、保存対象のようだ。勿論今や遠東百貨もなく、以前の場所は別の店が入っていた。そしてその周囲には病院はなかった。私の思い違いでなければ、病院もどこかへ移転したのだろう。陳さんはニューヨークへお嫁に行ったので、ここには居ないだろう。駅の横のバスターミナルが僅かな記憶に引っかかるが、結局何の手掛かりもなく、中壢を後にする。

 

埔心にはわずか1駅で着く。8年前、埔心に徐英祥先生を訪ねたことがある。あの時は黄顧問が書いてくれた地図を頼りに、駅前から歩いて先生の家に向かった。初めて訪ねて来た者に対して、80歳の、足の悪かった先生が自ら運転して、改良場を案内してくれた。魚池改良場にも自ら電話して、訪問を手助けしてくれた。あの出会いがあって、今日の私の歴史調査がある。その5か月後にまさか先生が亡くなるとは。まさに一期一会。

 

8年前と比べて駅は何となくきれいになっている気がする。徐先生の家のほうに歩いて行き、そのまま改良場まで歩いて行こうか、などと考えていたが、それは甘かった。雲行きが怪しかった空が、ついにうなりを上げた。強烈な雨が降り出し、傘をさして歩くことが難しい。仕方なく、駅前を探索。

 

可徳乾三の茶舗は駅前にあったと言うが、彼が亡くなったのは1926年。その後家族が茶舗を継いだとは聞いていない。取り敢えず古そうな薬局に入ってみる。お婆さんがいたので聞いてみたが、『私が生まれる前のことなんてわからないよ。台湾人がこの辺でお茶を売っていたという話なら聞いたことはあるけど』と一蹴される。それはそうだ、約100年前に無くなった店を探すのはやはり困難だ。

 

腹が減ったので、隣の弁当屋に入る。この店の弁当は50元、やはり地方都市は安いということだろうか。お客がやってきて、自分独自の注文をし、あれはないのか、などと聞いているのは微笑ましい。折角ここまで来たのだが、雨も止みそうにないので、今日の調査は終了して台北に戻る。

 

6月12日(水)
王添灯の孫

今日の夜は厦門に行くというギリギリの日に、昨年からお世話になっている黄さん夫妻と会うことになった。場所は黄家近所のカフェ。台湾プラスチックビルの前でバスを降りると、何やら反対運動が展開されている。大企業にはよくあることだろうが、王永慶という名前も出てくる。台プラ創業者の王の家も日本時代は茶農家だった。そしてこれから会う黄さんのお爺さんである王添灯の家とは茶で繋がりがあったと聞く。双方ともに新店郊外の出身だ。

 

カフェでは黄夫妻が待っていてくれた。今日は昨年、天津と大連に行った時のことを報告をすることになっていた。日本時代にこの両地に作られた文山茶行の支店や家族の住んだ場所など、勿論現在はすっかり変わってしまい、見付からないのだが、そこを歩いてきた話をした。

 

話しているうちに、王家の重要人物が誰であるかという話になり、実は光復後の茶業界においては、王添灯の長男である王政統氏の名前が挙がる。政統氏については、製茶公会の黄顧問も話していたので、気にはなっていた。すると黄さん、何と電話を掛けている。相手は政統氏の長男で、もうすぐここに来てくれるというではないか。

 

ここからは政統氏の話、そして王家そのものの歴史について、詳しく話を聞いた。彼自身もアメリカ暮らしが長く、茶業そのものについてはそれほど詳しくないが、貴重な話が沢山出てきた。やはり身内に話を聞くことは大切だと思う。これでようやく王添灯とその一族について、何かしら書ける目途がついたような気がした。

 

皆さんと別れてすぐに西門町に向かった。というのは、政統氏が光復後に買って、家族が住んだという西門町の家は、まだ建物が残っている、と聞いたからだ。これも機会を逃すと行けないので、善は急げと進む。行ってみると、確かにそれらしい建物は残っていた。これもまた歴史の一コマか。帰りのMRTで、何と出勤するSさんと乗り合わせた。これもご縁か。

ある日の台北日記2019その2(16)光復前後の歴史は

6月6日(木)
台湾セメントへ

今朝はゆっくりと起きて、お気に入りのサンドイッチを食べに行く。それからU-bikeに乗って国家図書館まで走る。先日見られなかった資料を見るためだ。だが、資料請求しても取り出しまでに2時間もかかるというので、その時間は外出した。今度はMRTに乗って行く。

 

到着したのは中山北路にある台湾セメントビル。ここはその昔、何度も通った場所だったが、今はすっかりきれいに建て替えられている。そこに辜公亮基金会の事務局があると聞いてきたのだ。ビルの1階には京劇の大きなポスターがある。だが人は誰もいない。地下2階に飛び込んでみると、まさに劇団の事務所、といった雰囲気で、役者の卵が出入りしている。

 

そこで声を掛けると、どこかへ電話してくれ、担当が降りてくるという。しばらくして広報担当の女性がやってきた。そう、ここは辜公亮、まさに辜振甫氏の基金会であり、生前京劇が好きで、自らも舞台を踏んでいた氏の遺志を継ぎ、京劇の後継者を育てているのだ。この基金会は20年前に発足しており、辜氏が生前作ったものだった。

 

広報担当女性も20年前からここに勤務しており、かなり詳しい。日本人も多く京劇の公演を見に来てくれていると言いながら、台湾在住日本人にももっと見に来て欲しいという。年に2回、大型の公演があり、その1回が今週末だという忙しい時期にお邪魔してしまった。私はそんなことは全然知らなかった。

 

辜振甫氏と茶業について尋ねると『確かに氏が茶業に携わっていた時期があるが、それを聞かれたのは初めてだ。また正直言うと、これは家業であり、氏が自ら率先して行ったものではなく、グループ企業の1つだった、その責任者として名前が出ているだけではないか』という意見だった。

 

それでも何とか役に立とうとしてくれ、1階にある氏の書斎を再現したスペースで、氏について書かれた本を読み返してみたり、色々と探してくれた。何とも有り難いことだが、この時代については複雑な事情もあったのかもしれない。更には後日辜振甫氏の娘さんにまで聞いたというメールが来たが、答えは特に変わらなかった。どんなお茶が好きだったのか、なども分からず仕舞いだ。光復前後の台湾はやはり謎に包まれている。

 

再度国家図書館に戻って取り寄せた資料を見てみたが、やはりピタッと来るものはなかった。帰りに中正紀念堂の横に回って、写真を撮った。辜振甫氏が舞った舞台がそこにあった。そしてその道の向かいには、数日前にMさんたちと行った魯肉飯屋があり、何となく一人でそこへ入って、また食べてしまった。その後隣の市場に寄ったら、何やら行列ができていた。見ると粽を買う人々。端午節が近づいていた。

 

6月8日(土)
ミャンマー日本食から図書館へ

私には週末も何もないのだが、世の中、週末は何かと忙しい。出掛ける人も多いので、私は大人しくすることにしていた。今日はそんな私をBさんが誘ってくれた。指定された場所は林森付近。日本食とは珍しい、と思ったが、やはりただの和食屋ではなく、実はそこはミャンマー人経営だった。

 

彼らは元々東京にいて、こちらに移ってきたらしい。日本人だと日本語で、台湾人だと国語で対応している。私は彼らにとても興味を持つたが、適度にお客は来るし、第一相手が話したい内容かどうかも分からなかったので、今回は何も聞かなかった。ただ色々と想像してしまったことは事実である。

 

店はちょっと前に東京にもあったような定食屋(洋食屋)のイメージかな。ふらっと一人で入れる。日替わり定食他、一通り何でもあり、値段も200元程度と手ごろなのがよい。私は奮発してたくさん入っている弁当を注文してみたが、満足できる水準だった。これから通って少しずつ謎を解き明かそう。

 

Bさんの方は仕事も順調のようで、最近リリースしたCDをもらった。ただ私にはCDを聞く機器を持ち合わせていなくて困る。若者たちなら、ダウンロードする方法が取られるだろうか。それにしても、台湾温泉音頭、どんどん続いて行くだろうか。ちょっと面白い試みではある。

 

Bさんと別れて、永和の図書館へ行く。週末にここに来るのはどうかと思ったが、時間もないので、来てしまった。週末は5階の日本時代資料の部屋は午後5時で閉まってしまうので、じっくり調べるわけにはいかない。いつものお姐さんにお願いして、探しているものの検索を掛けると、何とあるではないか。急いでコピーを取る。

 

先日の国家図書館にはなかったのに、なぜ別館にあるのだろうか。まあ、理由はともあれ、探し物が一つ片付いた。だが、それにより、さらに追及すべきテーマが浮上する。完全なイタチごっこであり、これは一生終わらないな、とあきらめの境地に入る。それにしても、光復前後の闇は深い。

ある日の台北日記2019その2(15)台中日帰りで

6月5日(水)
台中日帰り

今日は茶の歴史調査の一環で台中に行くことにしていた。ただ珍しく日帰りだ。私の調査も段々と進んでいき、大詰めが近づいているものもある。台北滞在期間も限られている。効率よく進まねばならない。資金と利便性を考えて、今日も高鐵ではなく、台鉄自強号で向かう。既にチケットは予約済みだ。

 

台北駅ではなぜか懐かしくなり、台鉄弁当を買う。伝統的な排骨弁当だ。35年前、初めて食べて以来、その美味しさ、安さ(コスパ)は変わらない。駅でトイレに行こうと思ったら、これがなかなか見つからない。駅員の言う通り行くと、その階段は通行止めになっている。最後に掃除のおばさんに聞くと、『通行止めだけど、トイレに行く人はいいんだよ』というではないか。こういうところが台湾的だ。

 

列車はいつものように進んでいく。平日の午前中でもそれなりに乗客がいるので、それなりの需要があるということだろう。途中で弁当を食べて、後は眠りこける。なぜか列車に揺られていると短時間でも深い眠りが得られ、目が覚めると爽快な気分になれる。目が疲れ、本が読みづらくなった今、列車の旅は寝るに限る。

 

昼に台中駅に到着する。ちょっと暑いが歩いて台中公園に向かった。台中には何度も来ているが、ここに来るのは初めてだった。公園内を見渡すと、人はほとんどいない。が、木陰に座ってランチを食べているのはインドネシア人の出稼ぎ者らしい。よく見ると、歩いている人々も女性はヒジャブを被っている人が多い。台中駅前も今やベトナム、インドネシアなどのレストランが並び、東南アジア街と化している。

 

公園から歩いて少し行くと張さんの家があった。午後1時の約束で、5分ほど遅刻すると、何と張さんは家の前に立って待っていてくれた。私が迷っていると思ったのだろうか。ここに来るには2回目だが、前回はトミーの車で来たので、スマホ頼りであり、時間が読めなかったのは事実だ。申し訳ない。

 

前回張さんからは、鹿谷の優良茶コンテストなど、貴重な話を沢山聞いた。政府側の証言として、光復後の茶の歴史はどう語られるのか、当然民間とは異なる視点になり、とても興味深く、参考になる。今回は特に台湾東部開発に関する話を重点的に聞いた。東部茶業に初期から関わり、何度も足を運んだ話は面白い。老茶を淹れて頂きながらでも、話には淀みがない。

 

また農林庁で上司であった、林復氏についても色々と聞いてみる。私が林氏に昨年会ったことを告げると『そうか、まだご存命か』と感慨深そうではあったが、やはり生きている人に関する話は、かなり選別され、思い出しても語られることはそう多くないと感じる。そこにはやはり外省人という意識が働いていただろうか。

 

まだまだ聞きたいことは沢山あったが、いくらお元気だとは言え、張さんも87歳のご高齢だから、2時間ほどで退散した。次回も色々と確認事項を持って訪ねて行こう。それから台中駅まで急いで戻った。これから豊原まで行くのだが、ちょうど自強号が2分遅れており、何とかそれに飛び乗った。

 

15分で豊原駅に着く。いつもは泉芳茶荘に向かうのだが、今日は華剛の方のオフィスに来て欲しいと言われていた。そこは私が初めてジョニーと会った場所だったが、それ以降行く機会はないままだった。あの時は何と北埔からタクシーで直接やってきたので、行き方もわからないが、今はスマホがあるので歩いて向かえる。豊原駅の裏側の道を初めて歩く。

 

ジョニーは最近春茶の製茶を終えて山から下りてきたので、とても忙しい。その中で対応してくれるのだから有り難い。オフィスも大きくは変わっていないが、商品はかなり増え、パッケージもおしゃれになり、歴史関連を紹介するものなどもあり、かなり充実してきていた。話を聞いている中でも、スタッフがどんどん仕事の話を持ってくる。作ったばかりの茶のテースティングも随時行われる。かなり臨場感のある現場だった。

 

今回私が聞きたかったのは、花蓮で光復後に茶作りをしようとした人の中に、豊原の杜という苗字が出てきたので、これはジョニーのところで聞けばわかるだろうと思ったのだ。だがジョニーはもちろん、お父さんでも『多分遠い親戚だろう』ぐらいしかわからないという。この狭い台湾で、豊原で、そうなのだろうか。なぜこの杜という人はまだ茶もない時期に瑞穂に向かったのか。なぞだ。

 

ジョニーも時間が無いので、車で駅まで送ってもらう途中、簡単に夕飯を食べた。肉の入った麺、こういうのが美味いのだ。列車時間ギリギリまで食べて駅に駆け込んだら、列車は遅れていた。大汗が出た。台鉄、遅れがひどいな。結局台北には夜の10時過ぎに到着。それでも日帰りでかなりの成果を得た。

ある日の台北日記2019その2(14)羊毛とおはな

6月3日(月)
永康街で

今日は久しぶりにSさんと会うことになった。彼もこの数か月で色々と変化があったようだが、それでも台湾に留まっている。やはり台湾が好き、ということだろうか。待ち合わせは永康街なので、散歩がてら歩いて向かう。Sさんが選んでくれたお店、初めてだと思って行って見たら、以前にも来たことがあった。今やちょっと前に行った場所はほぼ忘れてしまうらしい。

 

昔の台湾料理を出す店、という感じだったので、あまい味を絡めたレバーを注文してみる。野菜もシャキシャキしていて旨い。先日の潮州料理とは勿論違うのだが、美味いと思えるものを食べているのは幸せなことだ。料理人であるSさんに、潮州に行って食べ物を味わうべきだと強く勧めてしまった。

 

まだ時間があったので、どこかでお茶でも飲もうかと歩いていると小雨が降り出す。ちょうどそこに一軒のカフェがあった。実は以前もこの前を通ったのだが、ここがカフェだとは思わなかったのだ。店名は『羊毛とおはな』というので、毛糸屋さんかと勘違いしていた。だが今日、よく見てみるとポスターも貼られていた。それは私が数年前に見たテレビドラマのエンディングを歌っていた日本のアコースティックデュオではないのか。

 

Sさんによれば、メンバーの一人はここでライブをすることもあるらしい。このユニットを好きな台湾人がこの店を開いているともいう。思わず中に入るとかなり広い空間があり、昼下がりにスマホやPCをいじりながら、時間を過ごす若者たちがいた。こんな世界もあるのかと感心。メンバーの千葉はなさん、2015年36歳の若さで乳がんで亡くなっていた。

 

あれは2年程前か。私は「はだかのピエロ」という曲を初めて聞いた。WOWOWの連続ドラマW、東野圭吾作品『片想い』のエンディングテーマだった。歌っている人間が亡くなっているのに、曲が採用されるのは異例だろう。それほどにマッチした曲だった。私も珍しく、誰が歌っているのかと検索を掛けたほどだ。ドラマ自体はジェンダーを扱っており、かなり厳しい内容だったが、エンディングにこの曲が流れると、何となく癒されると言う毎回だった。

 

まさか台湾でも、このユニットがこれだけ知られているとは思いもしなかった。台湾人の日本好きは何とも奥が深い。むしろ日本人以上に日本の良い部分を知っている台湾人、有難いと言うばかりではなく、ここから学ぶことも多いはずだ。

 

茶商公会へ
カフェでSさんと色々と話し込み、そして別れた。今日は茶商公会に行くことになっていた。これまでも数回訪れて、色々と情報を頂いているが、今日もまた公会絡みの歴史のヒントをもらいに行く。総幹事の游さんはとても親切に相談に乗ってくれるので、何とも有り難い。

 

しかし茶商公会の歴史も光復前後の混乱期については、全く資料がないようだ。私は日本の茶業資産を本当に接収したのは誰なのか、について調べているが、どうにも確証がない。何故だろうか。代わりに游さんは『そういえば、先日郭春秧(最初の公会会長)の子孫がここに来たよ』というではないか。それは是非色々と教えてもらいたいとお願いすると、ご本人に連絡を取ってくれ、よくわかるテレビ番組を教えてもらった。

 

なるほど、と思うことが多い内容だった。やはり偶には公会にも顔を出して、こまめに情報収集することが大切だと分かる。世の中には実は様々な情報や資料が眠っているが、それを掘り起こせるかどうかは、運もあるが、何といっても熱意を持つことかと思う。研究者というのは、大変なことをしている人々だ、と思う所以である。

 

6月4日(火)
ユニークなお茶屋さんへ

天安門事件30周年!今日はいつもセミナーなどでお世話になっているMさんが台北に来ており、会うことになっていた。MRT龍山寺駅で待ち合わせ。ここの駅直結の場所にお茶屋があるというので付いていく。もう一人札幌からAさんが来ており、同行する。そのお茶屋は、これまでの茶荘とはちょっと違い、若者向けの店構えだったが、お茶は試飲させてくれる。

 

しかもその出てくるお茶はそれ相当なものなので、とても初心者向けとか、お土産を買う観光客向けではないのが、実にユニーク。更には一つずつの茶葉について、相当丁寧な解説がつく。試飲して気に入れば、その茶葉を買うこともできる。ただ人気の茶葉は数量がない場合もある。喫茶コーナーもあり、カフェのように座ってお茶を飲むこともできる。

 

お茶のパッケージは今風でおしゃれ。何だか、とてもいいとこ取りなお店だ。夜7時までらしいが、周囲の店はきちっと閉まっていた。正直あまり流行っていない商店街の中に敢えて作られているような印象もある。これからは、お茶が飲みたい人、買いたい人は、ここに連れて来よう。

 

夕飯は中正紀念堂近くの有名な魯肉飯屋さんへ行く。名前を聞いても行ったことはなさそうだったが、実際に店の前に行くと昔来たことがあると思い出す。いつも行列が出来ている店で、正直敬遠していた。でもさすがに皆さんが通うだけのことはあって、魯肉飯もスープもうまい。これからは偶には来よう。

ある日の台北日記2019その2(13)台北高等学校

5月21日(月)
国家図書館で

今回は滞在が長いようで、台北から中国へ行くなどの予定が控えており、ゆったり構えている暇はなく、平日になると動き出す。まず今日は中正紀念堂の前にある国家図書館へ向かう。ここには以前一度だけ、古い新聞の調べで来たことはあったが、本格的に蔵書などを見る機会はなかった。

 

U-bikeに乗ると、さわやかに行き着くことができる。すでに入館証も作られていたので、簡単に入館する。そして館内PCで本を探したいのだが、ここのPC、なぜか日本語打てない?仕方なく、カウンターの人に頼んで探してもらった。多少の材料は見つかったが、核心的な問題に触れる本は少ない。今回私が見たかった新聞もここにはなかった。

 

そんな中、学生の修士、博士論文も沢山収蔵されていることを知り、こちらを丹念に当たり始める。同時に書庫に眠る論文も出してもらうように申請を行った。ところが、まるで日本の図書館のように?申請後1時間半も待たないとその論文を手にすることは出来ないと言われ、1時間半後に行ってみると『なぜかその論文、見付からないんですよ?』という始末。さすがにこれはまずいのではないだろうか。恐らくは人手も削減され、予算も限られているのだろうけれど、国家図書館なんだからなあ、と思いながら、お暇した。

 

5月22日(火)
資料探しで台北高校

昨日に引き続いて、朝から資料探しの旅。今日はまず師範大学へ行ってみる。この大学、名前は30年前からよく聞いていたが、一度も来たことがなかった。昔の企業派遣留学生は午前中師範大学で授業を受け、午後はTLIで個人レッスンに通うというのが一つのコースだったと思うが、私は既に上海で留学を終えており、同じ年齢の人たちが楽しそうに勉強している(上海ではあまり授業に行かず、旅ばかりしていた)姿は羨ましくもあったので、あえて来るのを避けていたのかもしれない。

 

門を入るとすぐそこに図書館棟があった。身分証(パスポート)を預ければ簡単に中に入れた。親切にも『日本人ですか?ここの8階には台北高校関連の展示室がありますよ』と教えられ、覗きに行くこととなる。一体どれだけの日本人がここに見学に訪れるのだろうか。8階まで登ると、建物の中央は空洞で、なかなかきれいな景色が見え、そして勉強している学生の姿も見える。

 

台北高等学校(その後身が現在の師範大学)と言えば、日本時代の1922年に設立された、台湾における唯一の高校で、ここを卒業しないと内地の帝国大学には進めない、と言われた学校だったと記憶している。李登輝元総統などの出身校だ。展示室は広くはなく、誰も見学している人もいなかったが、内容はかなり詰まっていた。

 

現在活躍中のタレント、ジョン・カビラ、川平慈英の父である川平朝清氏も台北生まれでここの卒業生。朝清が使用したノートなども展示されており、とても興味深い。他にも日本にゆかりの深い邱永漢や王育徳などの写真が飾られている。どちらもお会いしたことがある名前であり、何とも多彩だ。

 

教授陣も3分の2は東京帝大卒(歴代校長は全て)という、優秀な若手が送り込まれてきていた様子が窺われる。万葉集の研究で名高い犬養孝もおり、また子供の頃読んだ『次郎物語』の作者、下村湖人はここで学生のストライキに遭遇したという。

 

勿論光復後の台湾を支えた、立派な起業家になった卒業生も多くいる。私が今回注目したのは辜振甫氏。私は30年前、彼のグループ企業にお世話になり、2年程台北で過ごしたのだが、その中で1度直接お会いしていることも関係しているかもしれないが、何といっても光復前後に茶業を行っていたという歴史に興味があった。

 

この展示室には彼の一生に関する本が置かれていたが、鍵がかかっていて中味を見ることは出来なかった。彼のような台湾を代表する大物(日本でいう経団連会長を何十年も務め、最後は両岸海峡基金会のトップとして中国と対峙した)に資料がないはずはない。ここの図書館で、この本を見ることは出来なかったが、代わりにこの大学の卒業生の書いた論文は参考になった。本当に様々な研究をしている人がいるものだ、と今更ながら感心する。

 

辜振甫氏についてもう少し知りたいと思い、台湾大学に向かった。彼は台北高校から台湾大学に進んだ。ネット検索したところ、学内に辜振甫記念図書館があるというから、そこに資料があるだろうと思い、出掛けてみたわけだ。ところがそのきれいな図書館、名前は付いているのだが、それは遺族からの寄付で建てられたもので、決して彼に関する資料があるわけではなかった。なるほど、そんなものかもしれないが、ではどこに資料はあるのだろうか。

 

5月23日(水)
王将を覗いて

餃子の王将が台北に出店したらしいと聞いた。統一時代百貨は自転車ですぐなのもあり、また天気も悪くなかったので、ちょっと散歩がてら、覗きに行ってみた。地下2階の飲食街の奥にその店はあった。かなり広い店舗だが、夕方5時代だからか、お客は殆どいなかった。メニューを見ると、本格中華のような料理が並んでおり、簡単な餃子定食などはなかったので、かなり残念だった。

 

店員に聞いてみると『ここは日本とは違うんです』という。餃子の王将は中国大連に進出したが、すぐに撤退。その同じ年に高雄に店を出したらしい。当然中国での失敗を念頭に、きちんとした調査を踏まえて出てきたのだろう。そして満を持しての台北進出だから、私がとやかく言う必要はない。ランチにはセットメニューもあるようだが、一介の日本のおじさんとしては、餃子や回鍋肉定食が欲しい。

 

王将を諦めて、横にあったとんかつ屋に吸い込まれた。ここは5時代なのに、もうお客がかなりいる。とんかつ定食を頼むと、サラダが沢山出てくる、漬物が数種類出てくる、そしてさらっと揚がった美味しいとんかつが出てきた。これで日本円1000円ちょっとなら、これは満足できる料金と言えるのではないだろうか。

 

台北の日本食店は激戦である。ニーズは多いが競争相手も多い。少し油断するとすぐにお客を奪われる。そんな中で王将はどんなお客を描いているのだろうか。日本の中華、という、ある意味の日本料理で勝負できるのだろうか。焼き餃子なら、大手チェーン店が半額ぐらいで提供している。まあ、対象が日本人のおじさんでないことは確かだな。

ある日の台北日記2019その2(12)久しぶりに彭園湘菜館

5月18日(土)
久しぶりに彭園本店へ

週末は原則外出しないのだが、今日は北京からTさんが、台北に正式赴任したというので、夕飯を一緒に食べることになった。ちょうど住まいも決まったということで、まずはそちらを訪ねる。場所は旧市街地にあり、昔は飲み屋などが多かったが、今はきれいなホテルが出来、そしてマンションも建っていて驚いた。台北の変化、というのは、実はこういうところに出ているように思う。

 

周辺をぐるぐると歩き回って食事の場所を物色した。確かにお店は沢山あるのだが、2人でゆっくり話すのに適した場所は意外と見付からない。5分ほど歩いて行くと、Tさんが『ここにしてみましょう』と言って、スタスタと2階に上がっていく。よくわからずに後をついて行く。

 

このレストラン、かなりきれいな中華、いや湖南料理と書かれている。ウエートレスは妙齢の女性で、日本語を話してくれる。相当改装されており、昔の面影はないが、何となく、ここに来た覚えはある。店名を見ると『彭園湘菜館』とある。そうだ、ここは30年前によく来た店で、15年前には家族の台湾旅行でも訪れ、いつもは食べ物に無頓着な長男が炒飯を食べて、美味いと言いながら涙を流したという、我が家では伝説?のレストランだったのだ。まさかこんなところにあったとは、最近の記憶の悪さが顔を覗かせる。

 

だが、いや当然ではあるが、この老舗レストランも様子は変わっていた。勿論内装はきれいになったが、その分料金は高くなっている。更には日本人客にはしきりに日本語で書かれたセットメニューを勧めてきて、その料金は一人1000元もする。これで飲み物を頼んだら、いくらするのだろう。

 

Tさんは北京でもこういうことには慣れており、セットメニューを断り、食べたい物だけを注文した。その竹筒スープ、炒飯の味には昔が感じられ、鶏肉、家常豆腐の濃い目の味付けは何とも好みだ。本来湖南料理は激辛だが、ここではそれを避けて食べるのがよいと思われる。Tさんと二人、香港時代に偶に行った、湖南ガーデンという中環の店を思い出していた。

 

酒を飲まない私は2次会に付き合うことはないのだが、今日はTさんから、お土産を買う手ごろなお茶屋さんを紹介してほしい、と言われ、歩いて行ける新純香を目指した。Tさんも新米駐在員としての情報仕入れにかかっている。このお店、その昔から林森北路付近にあり、先代のお母さんの時に何度も行ったのだが、娘さんが店主となってからは、数えるほどしか行っていない。

 

お店は昨年改装され、とてもきれいな、すっきりした空間となっていた。2代目店主の王さんと私は早々にお茶の歴史の話を始めてしまったが、Tさんは何と『引っ越したばかりでお茶も湯飲みすらない』と言いながら、店内にあった物品を物色して、早々に買い込んでいる。お土産ではなく自分用か。まあ、このお店は日本語が通じるし、試飲が気楽にできるし、値段も手ごろだから、お茶初心者、お土産用にはよいかもしれない。

 

それと、パイナップルケーキだけではなく、舞茸チップスなどのお茶請けが充実しているので、むしろこちらを買いに来る人たちもいるようだ。私の横では、台湾茶についてかなり突っ込んだ質問をしている60代の日本人夫婦がおり、その質問内容には、講座で参考になるものが多かった。つい横から口を挟んでしまい、ヒンシュクもの。王さんが『この人はお茶の歴史を勉強しているので』と取りなしてくれたが。

 

それにしても、日本の台湾茶商さんたち、台湾茶の歴史をどのように伝えているのだろうか、とふと思ってしまった。まあお茶を売るだけなら歴史など語らない方が無難なはずなのだが、どうしてもうんちくが必要なのだろうか。そうであれば、日本の中できちんと茶の歴史を学ぶ場が欲しい、と思うのは、私だけだろうか。なぞと考えながら、トボトボと帰路に就く。

ある日の台北日記2019その2(11)初の茨城空港

《ある日の台北日記2019その2》  2019年5月16日-6月21日

一週間の東京滞在(自らの誕生日を祝う?)を経て、台北に舞い戻る。が、すぐにまた香港、広東、福建の旅が待っており、更にはよもやのもう一度福建、何やら全く尻が定まらない。果たして台湾茶歴史調査はどこまで進んでいくのだろうか。

 

5月16日(木)
初めての茨城空港

今日は台北へ戻る日。今回はタイガー航空で往復予約していたが、なぜかちょっとだけ安い便を見つけた。よくよく見ると出発は成田ではなく、茨城空港となっているではないか。以前より何度も話題には出ていたが、一度も使ったことがなかった茨城空港。荷物もほとんどないので、この機会に一度行って見ることにした。

 

しかしこの空港、どうやって行くのだろうか。ネットで調べると、東京駅からバスが出ており、予約すれば乗客は500円で行けるとある。ただバスの予約は搭乗1か月前からしかできず、ちょっと面倒だが、安い料金のため、きちんと日程管理して予約しておいた。予約時点でフライトから逆算して乗るバスが示されるのは良い。ただもしこのバスが使えないとなると、行くのは大変だろうな。

 

バスは東京駅八重洲側のバスターミナルから出ていたが、チケットは買えず、運転手に直接、しかも降りる時に払う方式だった(当然下車時は混乱する)。乗客は台湾人が多く、案内役の女性も在日台湾系であろうか。バスに乗り込むとほぼ満員になっている。出発するとすぐに寝込んでしまい、気が付くともう茨城県に入っていた。高速道路を使って約1時間40分、成田に行くより、40分ほど余計にかかるが、料金は半額だからお得かもしれない。

 

空港は外観からして小さかった。バスもフライトに合わせてしか運行されず、お客さんは限られていた。チェックインカウンターに既に開いており、行列が出来ている。自家用車などで来た人たち、いや台湾の団体さんだろうか。2階には空港が見渡たせるデッキも用意されており、そこから飛行機を眺めている人もいた。

 

今回はわずか1週間の東京滞在であり、荷物は最小限10㎏しか持ち込まないと決めて、追加料金を払うことは止めていた。だが行きの桃園空港でまさかの重量オーバー。そこでは何とか見逃してもらったものの、帰りもその重量はかかるので、色々と苦心の結果、おかげで何とかパス。更にはLCCで偶に聞かれる『帰りのチケット持っていますか?』も、力強く『6月に戻ります』と宣言すると、それ以上追及されなかった(実際に6月のチケットは手配済み)。何とも優しい空港だ。

 

荷物検査、イミグレも簡単に終了するのは、やはり有り難い。今回はお土産を持つ余裕もなく、免税店でお菓子を探したが、茨城名物はなく、北海道のクッキーになってしまう。しかも店員はやはり私に中国語で語り掛けてきて、クレジットカードはなぜか拒否された。ここはどこの国なのだろうか。でもなんだか緩やかな時間が流れており、感じは悪くない。

 

国際線、国内線合わせて一日数便しかないので、搭乗もゆっくりできる。何とターミナルから歩いてタラップへ向かう。何だか昔のKLのLCCターミナルを思い出す簡素さだ。そう、フライトはシンプルが有り難い。当然滑走路が混みあうこともなく、順調に飛行できる(着陸地側に問題がなければ)。ただやはりもうちょっと茨城空港が近ければもっと有り難い。空港存続のために様々な努力をしていると思われるが、それが報われることを祈るしかない。

 

機内は6-7割の搭乗率だっただろうか。フライトはいつもと変わりなく、LCCだから食事も飲み物も出ずに、寝ている間に到着する。勿論成田と茨城で所要時間が違うわけでもない。桃園空港では、新たに30日のシムカードを購入して、すぐに長栄バスに乗り込む。ただ降りる場所が毎回言えずに切符購入で戸惑うのは自分でも不思議なことだ。