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ある日の台北日記2019その3(12)茶業関係者の末裔と

11月7日(木)
茶業関係者の末裔と会う

2日間、中部に行ったので、今日はゆっくりしようと思っていた。ところが突然微信で連絡が入る。1年以上前に茶商公会の紹介で知り合った呉さんだった。彼は当時上海で働いているということで、会う機会はなく、その後私も上海に行くことが全くなかったので、完全に忘れていたのだ。

 

メッセージでは今台北にいるとのことだったので、急遽会うことになり、30分後には部屋を飛び出した。待ち合わせ場所は大稲埕に近い地下鉄の駅だった。現れたのは、私の息子と同じ歳の青年だったので、ちょっと驚いた。そして茶商公会からは『日本時代初期に有名だった茶商、呉文秀の末裔』とのことだったが、聞いてみると少し違っていて、これまた驚く。

 

彼の案内で迪化街にある同安楽という名の店に入った。店名からして厦門の向こうにある同安である。店は最近はやりのきれいなものだが、奥行きがあり、かなり心地よい空間になっていた。よく見ると以前はお茶屋だったようで、『陳悦記』という文字も見える。店の女性も我々の歴史話に興味を示し、自らの一族の歴史を少し話す。店には日本時代、悦記が大稲埕で包種茶の茶商として活動していたことを示す新聞記事もあった。

 

呉さんの先祖は呉文秀ではなかったが、やはり茶業界の人で、100年ほど前に茶商公会で働いていたらしい。彼もその辺の歴史が知りたくて以前茶商公会を訪ねていたのだ。ちょうど私が持って行った茶商公会の本の中にも、ちゃんと彼のご先祖の名前はあった。1922年の茶業コンテストの際の実行委員会のメンバーだった。

 

そしてその息子は、台湾茶共同販売所に関連しており、日本時代は茶業を中心に発展した一族だと思われた。元は福建の泉州付近から出てきたようで、これまでは安渓中心に調べてきたので、これを機会に泉州茶商の足跡も当たってみたい。何しろ現在調べている林馥泉も泉州出身であり、呉さんの親戚はまだそこに住んでいるようなので、訪ねてみたいと思うようになる。

 

それにしても、若者が自分の一族の歴史に興味を持つことはとても良いことであり、また彼は予想以上に調べていた。そしてこういう話はいくら話も尽きることはない。茶を飲みながら話していたが、昼食もそこで取る。同安の昔の料理が定食で出てくる。なかなかうまい。そしてまた話し続け、結局初対面にも拘らず4時間以上にもなってしまった。

 

それでも別れがたくて、一緒に新芳春の博物館まで行った。ここも大稲埕の大茶商だったが、今は立派な博物館だ。これまで何度か来ていたが、いつの間にか完全リニューアルされており、展示内容は格段に分かりやすく、そして興味深

 

呉さんの一族に歴史に更に興味が沸いてきた。今回はここまでだが、ネタはいくらでもあるだろう。その後も彼からは、様々な資料が送られてきて、それを眺めている。直接的なものではなくても、いずれは役に立つ物だ。再会と新たな発見に期待している。年齢は異なるが、同じ話題で盛り上がれる同士は得難いものだ。

 

一度帰り、疲れをとる。若者と長時間話していたら、やはり疲れてしまった。夜はTさんからのお誘いで、四川の会に行ってみる。これは四川ゆかりの人が集まり、四川料理を食べる会らしい。私も今年、久しぶりに四川に行き、茶旅したばかりだったので、入れてもらった。

 

中山にある四川料理屋、何となく日本的な雰囲気があった。当然ながらそこまで激しい四川料理は出て来ない。なぜか他のお客も日本人ばかりで、店員も日本語で応対する。昔の台北の料理屋の雰囲気がある。参加者も急用などで、4人だけとなっており、和やかな雰囲気で、食事をした。

 

80年代の四川を知る大先輩と、懐かしい話に花が咲く。あの頃は本当に痺れる辛さで、日本人はとても食べられない四川料理が沢山あったことを思い出す。泊まれるホテルは錦江賓館だけ。そして言葉の訛りも強く、何を言っているのか分からないことも多かった。全てが既に歴史の域に入っている。

ある日の台北日記2019その3(11)車埕から鹿嵩へ

11月6日(水)
水里から魚池へ

何だかかなりよく眠れた。急いで宿をチェックアウト。台湾人の団体さんが大勢ロビーにおり、道路にも大型バスが数台停まっている。そこを掻い潜ってトミーの車に乗り込んだ。元々台中に泊まる気はなかったのだが、ちょうど魚池の石さんと連絡を取ったところ、有益な情報があったので、寄っていくことにした。

 

訪問は午後だったので、午前中はトミーの案内で動くことになった。まず高鐵台中駅へ行き、トミーの知り合いを拾う。洪さんは、実は有名人。企業向けのコンサル業をする傍ら、台湾ローカルの良い物を掘り出し、町興しなどに繋げる活動をしているという。その一環で茶も出てくるらしい。突然こういう人物と知り合うのも面白い。

 

以前トミーから聞いていた、水里へ行く。集集線というローカル鉄道の終点、車埕駅に着く。2年ぐらい前に一度、この鉄道に全区間乗ってみたことがあり、その際車埕駅にも10分ほど降りたことがある。何となくテーマパークのような施設があったので気にはなっていた。

 

駅は行き止まり。その先は山に囲まれ、木々が茂り、池があり、見事な自然が広がっていた。平日で人もいないので、ここを散策するだけでも良い。紅葉のシーズンがあれば、是非歩いてみたい光景だ。ここは日本時代、木材の集積所だったらしい。その輸送のために鉄道も敷かれている訳だ。近所にダムもでき、水力発電も行われた。

 

古い駅舎が建っている。日本人でここに来る多くは、鉄道ファンだという。駅前には木業展示館もある。明治神宮の鳥居にも使われた、いわゆる台湾ヒノキはここから運び出されたらしい。日本時代の展示はあまりないが、光復後も日本企業の係わりは大きかったようだ。日本家屋もいくつか保存されているが、これは再建されたものだろうか。

 

池の横にお茶が飲める場所がある。雰囲気の良いここでゆったりとお茶を頂くのもよい。いい風が吹いているので、外で飲めるのも良い。洪さんは過去ここをすでに取材しており、その変化などを計りながら、盛んに写真を撮っている。お土産物屋も地元の物を使って、充実してきているという。ランチもここの食堂で頂く。ファミリーで1日遊べる場所となっていた。

 

水里から日月潭を経由して、魚池の鹿嵩に向かった。先日も伺った和果森林に着いた。入口で石さんと出会った。同席して話をしてくれるのかと思ったら、泳ぎに行くのだという。水泳とジョギング、それによって91歳の石さんは益々若返って、元気になっている。お茶の影響もあるとは思うが、これはすごいことだ。

 

店内には、石さんのお嬢さんと旦那さんが待っていてくれた。彼らとは8年前に知り合ったが、その後はご縁がなく、最近茶の歴史の件で、連絡が復活した。今回も、何と二日前に、日本時代に魚池で紅茶を作った持木家の子孫が訪ねてきたというので、その状況を聞きにやってきたわけだ。石お父さんは、光復後台湾茶業に接収された持木茶廠で工場長を務めたご縁がある。

 

来訪したのは、持木家の次男の娘さんとその子供、孫らしい。台湾から引き上げた後は、茶業にはかかわらなかったという。最近大学生の孫が自分の祖先に関心を持ち、湾生だった祖母と共にやってきたということらしい。私の台湾茶の歴史調査にとっても大変役に立つ話なので、今後繋いでいけると良いな、と思う。

 

和果森林はこの辺りでは先駆的に個人旅行者向けDIY(紅茶作り体験)などを取り入れて、日月潭紅茶を売り出してきたが、ここにきて、少し状況が変わっているようだ。茶の卸しや、新しい茶の飲み方などを指向し、それを他業者にも伝えていく方向性を持っているように見えた。こういう話は洪さんの得意分野であり、かなり突っ込んだ話が行われていた。が、商売の話に関心のない私は、外を眺めていた。

 

現在『日本時代、魚池でアッサム紅茶に投資した日本人』について調べを進めている。その中の一人が、持木壮造であり、これまで知られてこなかった日月潭紅茶のルーツを含めて興味深い歴史が浮かび上がってきている。まずは持木、渡辺、中村三氏について、勉強を深めたい。

 

帰りはトミーの車で高鐵台中駅まで運んでもらい、洪さんと一緒に高鐵で台北に帰った。車中ゆっくり話を聞こうかと考えていたが、何と高鐵は満員で、隣に座ることはできなかった。彼は実は非常に忙しい人であり、講演や企業とのミーティングが詰まっているという。次回いつ会えるのかは分からないまま、台北駅で分かれた。

ある日の台北日記2019その3(10)松柏嶺へ

11月4日(月)
コメダで朝食を

前日の夜、いつもの麵屋が閉まっていたので、ちょっと歩いて、とてもきれいな新しい麵屋に入ってみた。だがこの麵屋も、先日のサンドイッチと一緒で、牛肉麺が240元もした。こんな高い麺を食べるなら、他の物を食べようかとも思ったが、物は試しにと頼んでみた。

 

どんなにすごい麺が出てくるのかと期待していたが、特に特徴もなく、スープも今一つ。そしてなんと、スープをすすったら、中からビニールまで出てきてしまった。さすがに高い料金を取って、これはないよなと思い、店員のおばさんに告げると、『いや、それは大変申し訳ない』と謝った上、お代もいらない、という。

 

そして『日本人に悪い印象を与えてしまったのは、大変残念だ』と頭を下げた。店は新しくても、おばさんは昔気質の人。きっと以前やっていた麵屋は、家賃高騰か再開発で追い出され、子供たちと一緒に新しい店でもやっているのだろう。台北は今、古い店がどんどん無くなり、その人情も薄れていく。

 

今朝はそんなことを考えながら、先日見付けたコメダへ向かう。名古屋に行ってもなかなか行かないコメダだが、折角近所にあるのだから、一度入ってみることにした。ここも店はきれいだ。店員は若者が多く、接客はかなり雑だった。お一人様用席がいくつもあり、よく見るとかなり奥まで席が続いていて、大きな店だった。

 

メニューは、ドリンクを頼むと無料でトーストなどが付いてくる、日本と全く同じだと思われる。コーヒーが110元だからその値段な訳で、日本より若干安いかもしれないが、台湾の朝ご飯より、明らかにボリュームはない。コーヒーの味は特に変わらない。ただ店は若者や主婦層でほぼ満員の盛況。落ち着いてPCなどを使う雰囲気もなく、早々に退散する。やはり残念ながら、私に向いているカフェではないということだろう。

 

11月5日(火)
松柏嶺へ

今日は朝から台中へ向かう。初めて外国人旅行者専用の高鐵割引チケットを購入してみる。700元が560元になるのだから安いのだが、自動改札を通れない。また帰りの時間が読めないので、行きしか買えない。この不便さはJR東海の『ぷらっとこだま』という商品を想起させる。

 

先月と同様、トミーが車で迎えてくれ、松柏嶺へ向かった。今回の目的は花茶の歴史を学ぶことだ。松柏嶺と言えば、低地でどんな茶でも作っていると言われる場所。ここにはどんな歴史があるのだろうか。などと考えているうちに、いつの間にか大地を登り、松柏嶺に入った。

 

まず行ったのは、先月の南投茶博でも会った陳さんの家。お父さんによれば、松柏嶺では1920年代に包種茶を作っていたらしい。陳家では光復後すぐに茶作りを始めたという。武夷や青心烏龍で発酵茶を作っていたが、その後四季春や金萱が中心になり、今日に至っている。花茶は、低級品ということもあり、特に作らなかったという。

 

陳さんが知り合いの茶農家に連れて行ってくれた。こちらではその昔は果物を作っていたが、1950年代に茶を作り始めた。そして70年代に花茶作りが始まった。花は彰化の花壇から取り寄せ、発酵茶と合わせて作った。花は茉莉花の他、樹蘭、黄枝などがあり、その用途に合わせて使った。

 

現在でも色々な花茶を作っており、飲ませてもらった。正直花茶を美味しいと思うことはあまりないのだが、こちらで作られた樹蘭四季春などの花茶は、実に味わいがあり、花の香りもしとやかで、私でも楽しめた。こういう花茶が台湾で作られているとは知らなかった。コストが高いので、値段も高いとは思うが、この商品はありだな。

 

我々が現在普通に口にしている花茶はどこで作られているのだろうか。台湾で売られている8-9割は外国産らしい。値段が安いものは先ず間違いなくベトナム産などだという。ヨーロッパではフレーバーティーはむしろ常道であり、何の問題もないと思われるが、台湾では自然な香りがよいだろう。

 

午後、陳さんの茶畑を見学に行く。仏手を植えているというので、興味を持つ。この品種、実はその由来が中国大陸でも30年ほど前に話題になり、専門家が論争を繰り広げたという。その中に日本に渡った品種、という話も出てくるので、出来ることなら、仏手の歴史を少し調べてみたいと思っている。

 

その後、焙煎を専門に行っている若者の工房を訪ねた。プレハブの簡易な建物だが、炭焙煎も行える設備を持ち、本格的だ。焙煎技術を師匠から習い、自分たちで色々と挑戦しているようだ。台湾茶の特色の一つはやはり焙煎だろうから、今後付加価値を付けていく有効手段ではないか。焙煎の歴史ももう一度洗い直したい。

 

トミーに台中駅まで車で送ってもらい、初めての宿に投宿する。何時も泊る所よりも随分と安い(朝食付きでない)が、寝るだけなら特に問題はない。しかも一人なのになぜか3人部屋で無駄に広い。この宿、団体客が多いから、このような作りになっているのだろうか。夜は少しお茶の歴史を整理しながら寝落ちる。

ある日の台北日記2019その3(9)新書発表会へ

11月3日(日)
新書発表会へ

ブランチに、近所にできたきれいなレストランに初めて行く。チェーン店だからとフラッと入り、何気なくサンドイッチセットを頼んだら、何と飲み物は別料金で、いつも食べているサンドイッチ+紅茶の倍の料金を取られた。正直そこまでの価値は見出せないので、もう行かないと思うが、地価の高い台北ではコストを考えた料金設定で、物価を押し上げている。

 

先日映画のお誘いのあったBさんから、今度はトークショーの案内があった。何気なく見ると、その対談相手は一青妙さんだったので、出掛けてみることにした。妙さんは、元々歯医者さんだというが、現在は作家、女優もこなし、更には交流活動のため、頻繁に日台を往復して活躍している。妹は歌手の一青窈さんであり、お父さんは台湾五大財閥の一つ、基隆の顔家出身という、何かと話題の多い人だ。

 

会場は、ニニ八国家紀念館。実は台北には2つのニニ八紀念館があるが、平和公園内にあるのは台北ニニ八紀念館で、例の王添灯関連の人々のサポートもあって作られている。今日行くのは国家の方だ。ここにも以前一度来ており、1931年に建てられた立派な建物だな、と感心した覚えがある。

 

今日のイベントは、一青妙さんの新刊書発表会だった。これまでも多くの作品を送り出しているが、今回はエッセイ集らしい。その対談相手に日本人のBさんが選ばれるというのも何とも不思議な気がするが。入り口を入り、階段を2階に上がる。時間的に早かったので、まずはニニ八関連の展示で、確認したいところを見て回ることにした。

 

それが終わって1階に戻り、受付をしていると、横を妙さんが通りかかったので、思わず声を掛けた。実は初対面だったが、既にFBでお友達になっており、埔里時代に東邦紅茶の件で、お尋ねしていたりしたので、何だか初めてという気はしない。彼女もそのことを覚えてくれており、『おばあさまは元気でしょうか?』などと、気さくに話をしてくれた。

 

おばあさまとは東邦紅茶の創業者、郭氏の奥様で101歳。実は妙さんのお婆様はこの郭さんの妹さんだから、相当にご縁は深い。おばあさまは一時入院していたが、今は元気に埔里で暮らしている。更にはBさんの所に行きましょう、と言って、控室に案内してくれた。妙さん、Bさんと3人、何となく繋がりがあり、面白い。

 

会場の方へ行くと、既に聴衆が集まってきているが、その中には日本人も混ざっていた。旧知Tさんを見つけて横に座る。出版社の社長や紀念館の館長の挨拶があったが、何だか日本人との結婚が話題の林志玲のお父さんもいたようで、『結婚おめでとう』などと言っている人がいる。式は台南で2週間後らしい。

 

妙さんが中国語で話し始めた。彼女は11歳まで台湾で過ごした経験があり、当然ながら中国語は流ちょうだ。話慣れているという部分と、何となく日本人に分りやすい言葉遣いなのがとても聞きやすい。この辺がハーフの強みであろうか。だがニニ八事件で顔家にも相当な被害があったことなどを話し出すと、思わず涙ぐんでしまい、台湾に、そして一族に対するその思いの強さも見られた。

 

いよいよBさんとの対談が始まった。二人とも控室では普通に日本語を話していたのに、ここでは中国語を使っている。Bさんなどは、一緒に留学した上海や北京の言葉を面白おかしく使い、笑いまで取っている。そして話題は日本から見た台湾。まあそれがエッセイにも散りばめられているから、新書の宣伝的要素もあっただろうが、なるほどと思う内容もかなり含まれており、楽しく聞いた。

 

対談後は記念写真、新書の販売と続いていく。やはり台湾の人々にとって、日本は特別なのかな、と思う。そして常に日本を知りたいと思っており、妙さんのような感性で書かれたものを中国語で読めるというのは貴重なのではないだろうか。妙さんを囲む人の列は絶えず、挨拶もしないままに会場から失礼してしまう。

 

Tさんと地下鉄駅に向かって歩き出す。来た時は違う駅を目指すことになったが、この辺りには歴史的な建物が沢山あるようで、楽しい。そしていつの間にか台北市植物園に迷い込む。こんな都会に、木々が生い茂る。日本時代に作られた植物園で、その当時の建物も残っており、市民が楽しそうに散策している。台北市内でも行ったことがない場所がまだまだたくさんあると知る。

ある日の台北日記2019その3(8)新竹関西、そして総統府へ

11月1日(金)
新竹関西へ

昨日に続いて遠出した。今日は羅さんの車で、彼の故郷、新竹関西へ行く。午前10時に羅さんの家の近くまで待ち合わせ、出発。途中で早めの昼ご飯を頂く。やはり客家料理だ。内臓系がたっぷりで本当にうまい。当然ながら客家の羅さんとは、『客家とは』という命題で話し続ける。

 

関西の羅家は、茶業で財を成した一族。そして新竹には義民廟という客家の廟があり、毎年祭りが開かれるという。新竹各地15の代表が持ち回りで幹事を務めるが、関西の代表は羅家であり、羅さんのお父さんが10年前に祭りを取り仕切り、その時羅さんも手伝いで参加、この祭りに強い関心を持ったらしい。お父さんは高齢であり、5年後の仕切りは彼の仕事だ、と今から頭にあるという程、重要な行事だった。

 

初めて羅さんの実家に行った。関西の街から少し離れた、何とも言えないいい感じの田舎だった。そこに大きな家があり、お父さんの兄弟がワンフロアーごとに使っているらしい。お墓もすぐ近くにあり、最近改修して、新しくなっていた。客家の先祖に対する意識は他より強いと感じる。そして伝統を重んじる姿勢、行事を守っていく意識は高い。

 

先に横山の許さんを訪ねる。許さんと羅さんは仲良しなので連れて行ってもらう。この大きな工場に来るのは何回目だろうか。大体はいつもお客さんが沢山いて、ゆっくり話を聞く時間などないのだが、今日は三人だけだから、工場の外で風に吹かれながら、和紅茶を頂く。最近許さんは日本との交流を一層進めており、今年2月には台湾人茶業者を大勢連れて静岡に研修に行っている。

 

花茶のことを聞くと、ここの庭にも樹蘭の木があるよ、とそれを指す。意外と背の高い木だった。基本的に花茶を作る意味は、烏龍茶としては物足りない品質の物を売り物にするために施す、ともいう。それは恐らく正しいだろう。特に輸出用においては質よりも量だった時代が長く、安い茶に付加価値を付ける必要はあったと推察できる。

 

 

台湾紅茶へ向かう。今日の目的は羅さんのおじさん(台湾紅茶社長)に会うためだった。以前も2度ほど話を聞いているが、その後体調を崩されたとのことで、その回復をお待ちしていたところ、今回の面談に繋がった。確かに羅社長は以前より痩せていたが、元気そうで何よりだった。

 

今回の質問は紅茶や緑茶ではなく、林馥泉や林復について、その思い出を聞くことだった。広い展示室には沢山の写真が飾られていたが、何気なく見たその一枚に、羅社長と林馥泉氏が一緒に写っていたのには驚いた。しかも日本考察団の写真であり、煎茶製造を模索している頃のものだった。歴史がそこにあった。

 

更には台湾に釜炒り緑茶を持ち込んだ唐季珊の写真も目を引いた。何故この写真を大きく飾っているのかと聞くと『彼が光復後の台湾茶業の貢献者だから』と明快に答えられた。今や殆どの人が知らないこれらの人物が、光復後の台湾茶業を復興させ、支えていったことがよく分かる。

 

客家についてもいくつか質問したが、例えば『客家の伝統文化である擂茶』という表現は正しいか、という質問には、即座に『擂茶は伝統文化ではなく、後から取り入れたもの』ときっぱり。客家に対しては、色々と誤解も多いようだが、現代台湾では政治なども絡んでおり、解明するにはなかなか難しい課題のようだ。

 

11月2日(土)
総統府見学

一度行ってみたいと思っていた総統府の公開日。月に一度土曜日と確認して出掛けてみた。混んでいるのではとの不安から、早朝に行くことにした。午前8時開門、地下鉄に乗り、8時10分前に現地に到着した。既に10人以上が並んではいたが、それほどの混雑もなく、いつでも入れそうな感じだった。

 

8時に開門されると、荷物検査などはあったが、入場料無料。正面に行き、写真を撮り中へ入る。今年100周年とは思えない、きれいな内装。殆どの部屋が開放されているのではないかと思われるほど、執務室やら会議室など、どんどん入って行けるのが面白い。更には2階、3階まで登ることもでき、歴代総統や総統府、台湾の歴史なども勉強することができる。

 

廊下の窓から、あの特徴的な塔の部分を見ることもできる。中庭を歩くこともでき、そこには大きな木が植わっている。この木はいつからあるのだろうか。郵便局があり、土産物ショップまである。1階廊下では農産物の即売まで行われているから、台湾産の食べ物のアピールはここでも行われている。

 

1時間ちょっと見学してもまだ午前中だったので、併せて台北賓館の見学に向かう。ここは元々総督官邸、また迎賓館として昭和天皇(皇太子時代)も滞在したという場所。総統府からは歩いて10分もかからない。こちらも総統府と日時を合わせて一般公開しているので、中に入ることができるが、荷物検査などはなく、人も少ない。

 

建物はやはり100年ほどの古さがあるが、展示物は総統府に比べると少なく、見るべきものはあまりない。気にかかったのは、ここが出来るまでの官邸などの変遷が写真で展示されていたことだろうか。裏には思ったより大きな庭があり、ちょっと日本的なところも見られた。建物からして、住居としての使い勝手は良くなく、総督は別邸に住んでいたらしい。昔偶に行った蛋餅屋で朝ごはんを食べて帰る。

ある日の台北日記2019その3(7)三峡の花茶

10月30日(水)
カレー屋へ

今日はいつも会うSさんとカレー屋に行くことになった。私は全く知らなかったが、比較的宿泊先に近く、歩いていくことが出来る場所に人気のカレー店がオープンしていた。12時開店で予約はできないとのことで、少し早めに行ってみたが、既に店の外に行列が出来ており、その中にSさんも混ざっていた。まさかカレー屋がこんなに混んでいるとは思いもよらない。

 

何とか店に入ると、中は至ってシンプルな作りで、カウンター席が8つしかない。だから並ぶわけだ。そして多くの人がテイクアウトしていく。テイクアウトの場合は、料金はちょっと安い。合理的な経営方法だ。我々は豚と鶏のカレールーを半々でオーダーした。味噌汁と漬物が付いてくる。

 

お味は何とも濃厚でかなりうまい。聞けば日本のカレーが好きになり、自分たちで研究して作り出したというのだ。カウンターと店の人との距離が近く、何ともアットホームな雰囲気で面白い。ルーをちょっとだけお替りで乗せてくれるのもよい。セットメニューが230元、というのは、案外安いのかもしれない。また来よう、今度はテイクアウトで。

 

それから近くのカフェに入って話し込む。いつものパターンだ。このカフェの女性店主は日本語が少しできるようだった。コーヒー以外にも烏龍茶や紅茶なども用意されており、ちょっと面白そうだ。最低消費150元とあったが、腹一杯だと告げると、100元のアメリカンで勘弁してくれた。こちらもまた機会があれば来よう。

 

それにしても近所に色々な店があることに気づかされて驚く。一人で簡単に食べるとなると、どうしても決まったいくつかの店しか行かなくなるのが難点だ。やはり偶には人と会って、見識を広げる必要もある。因みに帰りに歩いていると、何とやはり近所に名古屋のコメダ珈琲まで出来ていた。目玉のモーニングもあるようなので、今度朝行ってみることにする。

 

10月31日(木)
三峡へ

何だか小雨が降っている。前回三峡を訪ねた時もそうだったと記憶している。何か行いが悪いのだろうか、それとも三峡は鬼門?取り敢えず地下鉄で新店駅まで向かう。そこで前回同様黄さんの車に乗せてもらい、軽い山越えをして、三峡に入る。本当に車で20分ぐらいの距離にあり、その近さが実感できる。100年以上前、この山道を農民が茶葉を担いで行く風景が何となく見える。

 

前回台湾緑茶の歴史を知るために訪れた場所にまた車を停める。だが今回訪ねたのは隣の家だった。同姓であり、親戚なのだろうが、花茶の歴史を知っているということで、今回は道路に面して店を構えている黄さんと会った。日本統治時代にはこの付近にも日本人が多く来ており、彼らとの交流もあったと語る。

 

光復後、三峡は外省人向けの緑茶、三峡龍井茶を生産していたが、その過程で、夏茶に花をつけたことはあるという。花茶というのは、下級の夏茶に付加価値を付けるために作られた、と考えられる。だが以前は花茶の製造法自体を知らなかったので、緑茶を原料として台北に送るだけだったらしい。1980年代、茶農家が直接茶葉販売をできるようになった際、製法を学んで自分たちでも作ったということだろうか。だがその期間は長くなかった。恐らくは中国などから大量に安価な花茶が流入したからだろう。

 

そして現在、夏茶で作るのは、価格が高い蜜香紅茶や東方美人になっている。そして最近高値で売れる桂花茶も作り出してはいるが、桂花を摘むのに手間がかかり過ぎ、また摘み手の高齢化などもあり、コスト面から言っても、決して安い花茶は出来ないという。この辺りは南港でも聞いた話だ。

 

帰りに裏の黄さんの所に寄ってみたが、寄り合いに出ているというので、会うことは出来なかった。一応『台湾緑茶の歴史』を書いた雑誌を奥さんに手渡して去る。日本語だから読めないだろうが、写真が掲載されているので、何となく分かるだろう。三峡には緑茶はあるが、花茶の歴史はあまりないことを確認して、車で新店駅に戻った。

ある日の台北日記2019その3(6)花茶の歴史を追って

10月26日(土)
ステーキから試飲へ

週末は外へ出ないで部屋でお勉強、それが一応の決まり事だった。わざわざ人が多い時に出ていくのは、折角平日に時間がたっぷりある人にとってはあまり意味がないと考えている。アドバンテージを生かせない、ということだろうか。今日も朝から昨日聞いた花茶の歴史を追っていた。

 

夕方どうしても腹が減る。いつも行く魯肉飯屋を目指したが、少し先に安いステーキ屋が出来ているのに気が付き、覗いてみると席があった。思わず中に入る。ステーキセット150元と宣伝していたのに、中のメニューは200元。これは騙されたのだろうか。既に席に着いてしまったので、取り敢えず頼んでみた。

 

スープとサラダはビュッフェ形式でいくらとっても良い。店内は出来たばかりできれいだった。家族連れが続々と入ってきたが、隣のおじさんは一人黙々とスープをお替りしている。出てきたステーキは、うーん、まあ食べられるか、というもの。肉は柔らかくもなく、味がよいとも言えないが、何となく昔の屋台ステーキを思い出す。会計すると150元だった。急にコスパは悪くない、と思えてしまう自分を笑う。

 

部屋に帰ると葉さんがやってきた。実は今回お世話になっていながら、殆ど会うことがなかった。彼らは色々なイベントに出店しており、非常に忙しそうに見えたので、敢えて声を掛けなかった。もう一つの大きな理由は、葉さんのお父さんが亡くなってすぐだったこともある。お父さんには何度か茶の歴史の話を聞いており、先日交流協会に書いた『東台湾茶の歴史』の雑誌を渡すと『お父さん、これ見られなかったね』と寂しそうだった。

 

折角だからと、久しぶりにお茶を飲みながら話をした。上の階に住む葉さんの同級生も参加して、賑やかに話す。私は北京でもらってきた花茶などを渡してみる。花茶の歴史、今や台湾では花畑自体が減っているらしい。彰化の花壇も一時の勢いはなく、数軒の花農家があるだけという。

 

10月28日(月)
製茶公会から台湾大学へ

また黄顧問に連絡してしまった。困った時は製茶公会へ行く。これが私の原則になってしまっていた。公会に行くまで時間が少しあったので、付近を散歩した。有記銘茶の横を通ると、その先に福興宮という廟があり、その寄付者の名前を何気なく見ていると、林華泰の林家の先祖の名前が見られた。この辺の歴史も知りたいな、と思う。

 

花茶全体の歴史を把握するには黄顧問に聞くのがよい、と思われたのでやってきたが、今回顧問以上には話をしてくれたのは、総幹事の范さんだった。彼は実際に花茶に関わっていたようで、流れるように整理されたその歴史を話してくれた。基本的には光復前の包種花茶、光復後の外省人向け花茶(緑茶の製造も)、そして現在の化学香料入り花茶の3段階だろうという。

 

花は基本的に茉莉花であり、それ以外に樹蘭、桂花などが加わる。中国の改革開放が始まるまでは、台湾での花茶製造は盛んだった。だが今や台湾での製造コストは高く、輸入花茶もどんどん増えている(現在中国からの花茶の輸入は禁止項目)。政府は危機感を深めているようだが、花畑の減少は著しく、止めようはないという。

 

お昼に近くの鍋屋さんに連れて行ってもらった。一人一人の前に鍋があるタイプ。お店は満員盛況。和牛肉を扱っているが、オーナーは30年以上も店をやっており、『これはオーストラリアの和牛だよ』と教えてくれる。柔らかくて美味しいオーストラリア和牛、もう日本の和牛は要らないな、との声が聞こえてきたようにも思う。ご馳走様でした。

 

そのままU-bikeに乗り、台湾大学まで行く。バスに乗って地下鉄駅まで行くより、こちらの方が遥かに早い。そして快適で安い。ここでもいつものようにたくさんの資料を見つけて、読み込んだり、コピーを取ったりして過ごす。特に花茶に関する日本時代の資料があったのは、有り難い。日本人も相当花茶の研究をしている。午前中の話に加えて、日本時代の緑茶製造に関して更に詰める必要がある。

 

夜、近所の刀削麺屋が復活しているのを発見した。ここの麺が好きだったが、今回戻ってから一度も店は開かれていなかった。ここは家族でやっており、親子喧嘩が原因ではないかと危惧していたが、何とか仲直りして?復活した模様だ。早速牛肉湯肉糸麺を頼み、スープをすする。1か月も店をやっていなかったせいか、スープのコクがあまり感じられなかったが、今後徐々に回復していくだろう。期待しよう。

ある日の台北日記2019その3(5)全祥茶荘へ

《ある日の台北日記2019その3》  2019年10月24日-11月21日

10月24日(木)
台北へ

3時間ちょっと飛行機に乗ると、北京から台北に戻ってきた。朝早いフライトなので、基本的には目をつぶっていれば着いてしまう。フラフラと空港内を歩いて行くと、入国審査より前に検査台がある。先日東京から来た時は、飛行機を降りる時に『検査不要』のカードをもらい、それを提示して、検査なしで通過したが、今回は中国大陸からなので、機械に荷物を通した。

 

すると、私の荷物に何か反応した。日本人だと分かると、日本語を話す若い女性職員が対応する。バッグの中に果物が2つ入っており、廃棄されてしまう。肉類がダメとは聞いていたが、果物もダメとは知らなかった。ただその時に職員の日本語と対応がとてもお茶目で感心した。

 

宿泊先に戻ると、いつもの果物売りのおばさんが挨拶してくれた。さっき空港でバナナを没収されたことを思い出し、すぐに台湾産バナナを買った。バナナに関しては台湾の方が中国よりはうまい、のは当たり前か。今後の中台関係はどうなっていくのか、そんなことを考えながら、バナナを頬張る。

 

10月25日(金)
全祥茶荘へ

北京から戻り、日常の歴史調査を再開する。今回の目的は台湾花茶の歴史であるが、果たしてどこから手を付けたらよいだろうか。先日訪ねた坪林の馮君が、『全祥茶荘に行けばきっと何か分かるよ』といい、そこの3代目を紹介してくれた。折角なのでネット検索して全祥茶荘本店に行ってみる。

 

そこはニニ八公園から歩いてすぐ、近くの角には日本時代、辻利茶舗が店を構えていた(現在はスタバ)いい場所である。以前フラフラしている時に、このお店を見つけて興味を持っていたが、古めかしいその作りに慄いて、入ることはなかった。今日は紹介があるので、堂々と入っていく。

 

ところが3代目はもう一つの忠孝店に方にいるとのことで、あえなく店を出ることになった。西門町から地下鉄に乗って、忠孝復興駅で降りる。SOGOの目の前に店があった。既に連絡が本店からあったようで、林さんが出迎えてくれ、早々花茶の歴史の話に入る。勿論数種類の花茶が用意され、試飲もしてみる。全祥は光復後、台北で開業した。そして外省人を相手に茶を売る店となった。今でもお客は外省人が多いと聞くと、ちょっと不思議な感じがするが。

 

そして一番驚いたこと、それは全祥の創業者はあの林華泰と兄弟だというのだ。石碇から出てきた林家のメンバーがそれぞれ店を構えたらしい。顧客を分けるため、林華泰は台湾人向け、全祥は外省人相手に商売した。なぜ全祥が外省人を対象にしたのか、それは光復前、日本時代、全祥の創業者(今の林さんの祖父)は何と天津で茶葉を売っていたのだという。だから中国人の好みなどが分かっていたのだろう。そして言葉も通じたに違いない。これはまさに歴史だ。

 

肝心の花茶については、毛峰香片などの商品が並んでおり、中国から来た人々に受けが良い名前を付けたという。品質により5層ぐらいの料金体験になっている。今は、茉莉花、桂花などが多く使われている。花は彰化の花壇などから、緑茶は三峡などから来るらしい。その昔は台北郊外に花畑が沢山あり、ここの創業者の奥さんも、蘆州の花農家から嫁いできたというから、その結びつきも想像できる。

 

林さんには初めて会ったが、実に気さくに何でも話してくれ、また飲ませてくれた。更には昼ご飯まで取り寄せてくれ、お店で作ったお粥と一緒に食べた。これも馮君の紹介のお陰だろう。馮君の世代は、茶の歴史に関心がある人も多く、単なる商売ではなく、とても頼もしい。今度は本店に行き、お父さんに話を聞こうと思う。

 

SOGOは30年前、よく来た場所だったが、最近は寄ったことはない。今や台北にはどれだけの百貨店があるのだろうか。その裏の方に、昔偶に行った和昌という茶荘があったのを思い出す。7-8年前に行った時は、既にお父さんが亡くなり、息子さんの時代になっていて、たくさんの日本人観光客がお茶を買いに来ていた。折角なので最近の様子を見ようかと思い、店の前まで行ったが、なぜか入らずに帰る。

 

少し休んでいたら、無性にとんかつが食べたくなる。そこで百貨店地下のとんかつ屋へ行き、食べる。午後5時代なのにお客が多くビックリ。ある意味で日本のサボテンや和幸で食べるよりは、コスパがよいかもしれないな。それにしても、台湾人女子が一人で来て、とんかつとご飯お替り、そしてもう一品ペロッと食べている姿はすごい。

 

帰りに気になっている本を探しに本屋へ。検索してもらうと残念ながら売切れ。どこかにないか、と聞いてみると、別の本屋ならあるだろうと言い、場所を教えてくれた。そこはバスで30分ぐらい離れた場所だったが、流れで行ってみる。だがそこで『うちも売切れだよ。他の本屋がうちの在庫が分かるわけがない』と言われて思わず納得。しかしなぜ別の本屋を紹介したのだろうか。因みにこの本屋では出版元まで電話で確認してくれたが、無い、の一言であった。後日国家図書館でこの本を見つけて読んでみたが、必要な個所はごく一部で買うほどのことはなかったと分かる。

ある日の台北日記2019その3(4)台湾映画を見る

10月19日(土)
台湾映画を見る

数日前に、盟友のBさんからメッセージが来た。『出演した映画をロータリークラブ社長が映画館を借り切って上演してくれる』というのだ。まさにBさんの人徳であり、Bさんの応援のために人が集まるのだという。『江湖無難事』、主役ではないが、今日のスクリーンでは間違いなく彼が主役だ。

 

ちょうど1週間前の連休中に、彼といつものように食事をした。場所は前回同様、ミャンマー人が経営する和食屋だった。ここのミャンマー人の足跡については、今回も聞くことは出来なかった。いつか聞いてみたい、なぜ東京へ行き、そして台北にやってきたのかと。彼とは異業ながら共通するところが多くて、話がしやすい。今後のお互いの方向性なども、軽い感じで話し合う。二人とも随分歳を取った。そしてフラフラしながらも、何だかかんだでご飯が食べられ、今日を生きている幸せがここにある。

 

実はほとんど映画を見ない私だが、こういうご縁の上でのお誘いであれば、偶には台湾の映画館に行ってみるのも悪くないと思い、出掛けてみることにした。その映画館は西門町にあるという。地下鉄駅から歩き出すと、土曜日の午後で若者を中心に人が多くて歩きにくい。10分ほど行くと、そこには映画館街が出現する。基本的に映画を見ない私にとっては、映画館が競うように並んでいる風景は、何とも新鮮な場所だ。古いビルも建っており、その処理に困っている様子も見て取れる。

 

ロータリークラブ主催のため、入り口付近で受付をしてチケットをもらう。先日ロータリークラブで数年ぶりに再会した林さんが仕切ってくれたので助かる。私以外の日本人は、俳優を目指す若者の男性と、雑誌の編集者で映画好きの女性だった。残りは皆台湾人で、Bさんの大応援団とその友人たち、といった雰囲気が漂う。

 

俳優志望の日本人は、北京で留学し、台湾でのチャンスを求めてきていた。息子が留学した学校にもそういう若者がいて、そのうちの数人をその後テレビドラマなどでみていたが、その世界は思うよりずっと厳しいようだ。編集者さんも上海から台北に移って来た人で、異常に台湾・中国・香港映画に詳しいオタク系。

 

館内は100席以上あったが、ほぼ満員の盛況。無料だからと言って、ここまで人が集まるとも思えず、本日のスポンサー及びBさんの人柄が思われる。映画はブラックコメディーと書かれており、内容的には、コメディー要素が強い構成になっていた。舞台は台湾と日本?Bさんは日本人やくざの親分役で結構出演時間が多かったが、最後は呆気なく??

 

普段映画をあまり見ない私にとって意外だったのは、この台湾映画、全編基本的に台湾語が使われており、字幕スーパーはあるものの、台湾人観客が笑っているところで、字幕を追い切れずに笑えない自分がいた。いや字幕で見ても国語では笑いのツボが分からない可能性もある。

 

やはり台湾語は台湾において重要だと痛感するものの、今から勉強するのは難しい。大学時代は授業に3回行っただけで投げてしまった(先日恥ずかしながらその恩師のお嬢さんと出会ったことは既に書いた)。30年前の台北駐在時にも、個人的な家庭教師をお願いしたが、残念ながら一向に上達せずに、いつの間にか、勉強しなくなっていた。どこが難しいのかはよく分からないが、なぜか生理的に?覚えられないのだ。

 

 

映画が終わって、周囲を少し歩いてみた。私が初めて台湾に来た35年前、確か最初の宿は西門町だったと思う。その頃も相当賑やかな場所だったが、その面影は徐々に見られなくなってきている。その時は若かった私も随分と歳をとり、昔を回顧する日々になっている。

 

映画がテーマの公園があり、古い建物の壁にはきれいなペインティングが施されていた。そして若者たちがスケートボードなどを楽しんでいる。日本のアニメ、ワンピースの専門店もあり、また様々なアニメ関連グッズの店があり、そこには若者が列をなしていた。このアニメに向けられるエネルギーが日本向けに良い方向を保ってくれることを期待したい。映画もそうだが、文化というのは、国境を越えていくので、今後更に有効な交流手段となるだろう。

ある日の台北日記2019その3(3)台湾世界遺産登録応援会と南投茶博

10月15日(火)
台湾世界遺産登録応援会

ご縁というのは繋がるものだ。13日に辛さんのお店に行った際、『明後日ロータリークラブの会合に、台湾世界遺産登録応援会のメンバーが10名程度参加されるので来ませんか?』とのお誘いを受けた。台湾世界遺産登録応援会は以前、『日本から台湾の世界遺産候補地を応援する会』という名前で聞いたことがあった。現在会の代表は、あの平野久美子さんだという。平野さんとは前から一度お会いしたと思っていたので、辛さんのお誘いに乗ってみることにしたのだ。

 

旭ロータリークラブでは、今年1月末に一度『台湾茶と日本』について、お話をしたことがあったので、馴染みがあったことも幸いした。会場はかなりの人々が集っており、盛況だった。台湾には世界遺産に成り得る観光地がいくつもあるが、それが登録されることはなく、現在に至っている。我々もそのような目線で観光地を見てみると、ちょっと面白いかも、と今回の話を聞いて思う。そこに茶関連は入ってくるのだろうか。

 

応援会のメンバーとして台湾南部を回って来られた平野さんとも初めて顔を合わせた。既にFBでお友達ではあったので、私の活動も多少見て頂いていたようで、初対面とは思われないお話なども出て嬉しかった。平野さんは20年近く前から台湾茶に関する著書もあり、現在は更に広がって台湾全体の歴史を丹念に調べて書いている。今回は1874年に起きた牡丹社事件について執筆され、ゆかりの地を巡ったという。

 

会のメンバーには、烏山頭ダムを造った八田与一氏(台湾では教科書にも載っている有名人)のお孫さんもおり、お話しする機会を得た。また数日前に茶業者から名前が出ていた徳光さん(前台湾加賀屋支配人)とも面識を得た。一度にこれだけのメンバーと会えたのはラッキーだったと言えよう。更にはロータリーメンバーの台湾人からも貴重な情報を得るなど、時にはこのような場に出る必要もあるな、と感じた。

 

10月17日(木)
南投茶博へ

今日は朝早起きして、高鐵に乗る。目的地は台中だ。午前9時前に高鐵台中駅で降りると、いつもの場所にトミーの車があった。彼も親族にけが人が出て、色々と大変であるらしいが、平日の日中だけなら時間があるというので、今回は中興新村で開催されている南投茶博を見学することにした。

 

40分ほど走ると中興新村に着く。ここはその昔台湾省議会が開かれていた街であり、20年前の議会停止以降は、どんどん寂れていく。今では古めかしい住宅が多く残っているが、住んでいる人は少ない。この古い家を改造してカフェでも始めれば人気が出るかもしれない、との話もあったが、役人の住宅だけにその権利関係と使用制限が邪魔をしているらしい。

 

駐車場所を探すのに苦労した。この南投茶博は何と11日間連続開催で、今日は後半に入った平日。まさかこんなにお客さんが来ているとは正直信じられなかった。だがそれは現実であり、車は相当遠くに停め、会場までかなりの距離を歩いていく。台北の茶博でも4日間なのに、なぜ11日間もあるのだろうか。そしてなぜこんなにお客が来るのだろうか。

 

会場に入ると驚いてしまった。茶荘のブースだけで200以上あるという。主催団体の鹿谷農会の林さんと出会ったが、忙しそうに動き回っていた。茶荘もテーマ別に分かれていくつもの会場に分散していた。そこを一つ一つ覗いて行くと、魚池や鹿谷の旧知の人々に出会い、旧交を温める。

 

国際茶席館などもあり、ペルシャやインド、そして日本の茶席もあった。日本茶席にはIさんがいたようだったが、挨拶せずに通り過ぎてしまった。日月潭紅茶専門の会場もあり、南投茶の特徴がよく出ていた。芝生の広場では千人茶会なども行われたようで、様々な茶イベントが続くのもすごい。

 

聞くところによると、連日お客が多く、茶葉の売れ行きも好調という店が多かった。特に入場料を取らない、というのが、来客数の増加、茶葉の購入に繋がっているという。また南投県の茶農家の出店が多く、宿泊など余計なコストがかからず、収支がよいとの話もあった。このあたりが、11日間も連続で茶博が開かれている主因だろうか。やはり儲けがなければ続かないはずだ。日本でこの規模の茶博が開ける可能性は殆どないだろう。さすが台湾の茶業界にはまだまだ力がある。

 

トミーの車で高鐵台中駅まで送ってもらう。まだちょっと早いので、台中駅まで行き、自強号で台北に帰ることにした。これだと2時間以上かかるが、料金は高鐵の半額で行けるのがよい。更には台鉄が好き、というのもある。台北駅に着くと、すぐに誠品書店に行き、『南投茶業誌』を探すが、中山店にあるというので、そこまで歩いて行き、確保した。これから少しずつ南投の歴史を学んでいこう。