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ある日の台北日記2019その2(14)羊毛とおはな

6月3日(月)
永康街で

今日は久しぶりにSさんと会うことになった。彼もこの数か月で色々と変化があったようだが、それでも台湾に留まっている。やはり台湾が好き、ということだろうか。待ち合わせは永康街なので、散歩がてら歩いて向かう。Sさんが選んでくれたお店、初めてだと思って行って見たら、以前にも来たことがあった。今やちょっと前に行った場所はほぼ忘れてしまうらしい。

 

昔の台湾料理を出す店、という感じだったので、あまい味を絡めたレバーを注文してみる。野菜もシャキシャキしていて旨い。先日の潮州料理とは勿論違うのだが、美味いと思えるものを食べているのは幸せなことだ。料理人であるSさんに、潮州に行って食べ物を味わうべきだと強く勧めてしまった。

 

まだ時間があったので、どこかでお茶でも飲もうかと歩いていると小雨が降り出す。ちょうどそこに一軒のカフェがあった。実は以前もこの前を通ったのだが、ここがカフェだとは思わなかったのだ。店名は『羊毛とおはな』というので、毛糸屋さんかと勘違いしていた。だが今日、よく見てみるとポスターも貼られていた。それは私が数年前に見たテレビドラマのエンディングを歌っていた日本のアコースティックデュオではないのか。

 

Sさんによれば、メンバーの一人はここでライブをすることもあるらしい。このユニットを好きな台湾人がこの店を開いているともいう。思わず中に入るとかなり広い空間があり、昼下がりにスマホやPCをいじりながら、時間を過ごす若者たちがいた。こんな世界もあるのかと感心。メンバーの千葉はなさん、2015年36歳の若さで乳がんで亡くなっていた。

 

あれは2年程前か。私は「はだかのピエロ」という曲を初めて聞いた。WOWOWの連続ドラマW、東野圭吾作品『片想い』のエンディングテーマだった。歌っている人間が亡くなっているのに、曲が採用されるのは異例だろう。それほどにマッチした曲だった。私も珍しく、誰が歌っているのかと検索を掛けたほどだ。ドラマ自体はジェンダーを扱っており、かなり厳しい内容だったが、エンディングにこの曲が流れると、何となく癒されると言う毎回だった。

 

まさか台湾でも、このユニットがこれだけ知られているとは思いもしなかった。台湾人の日本好きは何とも奥が深い。むしろ日本人以上に日本の良い部分を知っている台湾人、有難いと言うばかりではなく、ここから学ぶことも多いはずだ。

 

茶商公会へ
カフェでSさんと色々と話し込み、そして別れた。今日は茶商公会に行くことになっていた。これまでも数回訪れて、色々と情報を頂いているが、今日もまた公会絡みの歴史のヒントをもらいに行く。総幹事の游さんはとても親切に相談に乗ってくれるので、何とも有り難い。

 

しかし茶商公会の歴史も光復前後の混乱期については、全く資料がないようだ。私は日本の茶業資産を本当に接収したのは誰なのか、について調べているが、どうにも確証がない。何故だろうか。代わりに游さんは『そういえば、先日郭春秧(最初の公会会長)の子孫がここに来たよ』というではないか。それは是非色々と教えてもらいたいとお願いすると、ご本人に連絡を取ってくれ、よくわかるテレビ番組を教えてもらった。

 

なるほど、と思うことが多い内容だった。やはり偶には公会にも顔を出して、こまめに情報収集することが大切だと分かる。世の中には実は様々な情報や資料が眠っているが、それを掘り起こせるかどうかは、運もあるが、何といっても熱意を持つことかと思う。研究者というのは、大変なことをしている人々だ、と思う所以である。

 

6月4日(火)
ユニークなお茶屋さんへ

天安門事件30周年!今日はいつもセミナーなどでお世話になっているMさんが台北に来ており、会うことになっていた。MRT龍山寺駅で待ち合わせ。ここの駅直結の場所にお茶屋があるというので付いていく。もう一人札幌からAさんが来ており、同行する。そのお茶屋は、これまでの茶荘とはちょっと違い、若者向けの店構えだったが、お茶は試飲させてくれる。

 

しかもその出てくるお茶はそれ相当なものなので、とても初心者向けとか、お土産を買う観光客向けではないのが、実にユニーク。更には一つずつの茶葉について、相当丁寧な解説がつく。試飲して気に入れば、その茶葉を買うこともできる。ただ人気の茶葉は数量がない場合もある。喫茶コーナーもあり、カフェのように座ってお茶を飲むこともできる。

 

お茶のパッケージは今風でおしゃれ。何だか、とてもいいとこ取りなお店だ。夜7時までらしいが、周囲の店はきちっと閉まっていた。正直あまり流行っていない商店街の中に敢えて作られているような印象もある。これからは、お茶が飲みたい人、買いたい人は、ここに連れて来よう。

 

夕飯は中正紀念堂近くの有名な魯肉飯屋さんへ行く。名前を聞いても行ったことはなさそうだったが、実際に店の前に行くと昔来たことがあると思い出す。いつも行列が出来ている店で、正直敬遠していた。でもさすがに皆さんが通うだけのことはあって、魯肉飯もスープもうまい。これからは偶には来よう。

ある日の台北日記2019その2(13)台北高等学校

5月21日(月)
国家図書館で

今回は滞在が長いようで、台北から中国へ行くなどの予定が控えており、ゆったり構えている暇はなく、平日になると動き出す。まず今日は中正紀念堂の前にある国家図書館へ向かう。ここには以前一度だけ、古い新聞の調べで来たことはあったが、本格的に蔵書などを見る機会はなかった。

 

U-bikeに乗ると、さわやかに行き着くことができる。すでに入館証も作られていたので、簡単に入館する。そして館内PCで本を探したいのだが、ここのPC、なぜか日本語打てない?仕方なく、カウンターの人に頼んで探してもらった。多少の材料は見つかったが、核心的な問題に触れる本は少ない。今回私が見たかった新聞もここにはなかった。

 

そんな中、学生の修士、博士論文も沢山収蔵されていることを知り、こちらを丹念に当たり始める。同時に書庫に眠る論文も出してもらうように申請を行った。ところが、まるで日本の図書館のように?申請後1時間半も待たないとその論文を手にすることは出来ないと言われ、1時間半後に行ってみると『なぜかその論文、見付からないんですよ?』という始末。さすがにこれはまずいのではないだろうか。恐らくは人手も削減され、予算も限られているのだろうけれど、国家図書館なんだからなあ、と思いながら、お暇した。

 

5月22日(火)
資料探しで台北高校

昨日に引き続いて、朝から資料探しの旅。今日はまず師範大学へ行ってみる。この大学、名前は30年前からよく聞いていたが、一度も来たことがなかった。昔の企業派遣留学生は午前中師範大学で授業を受け、午後はTLIで個人レッスンに通うというのが一つのコースだったと思うが、私は既に上海で留学を終えており、同じ年齢の人たちが楽しそうに勉強している(上海ではあまり授業に行かず、旅ばかりしていた)姿は羨ましくもあったので、あえて来るのを避けていたのかもしれない。

 

門を入るとすぐそこに図書館棟があった。身分証(パスポート)を預ければ簡単に中に入れた。親切にも『日本人ですか?ここの8階には台北高校関連の展示室がありますよ』と教えられ、覗きに行くこととなる。一体どれだけの日本人がここに見学に訪れるのだろうか。8階まで登ると、建物の中央は空洞で、なかなかきれいな景色が見え、そして勉強している学生の姿も見える。

 

台北高等学校(その後身が現在の師範大学)と言えば、日本時代の1922年に設立された、台湾における唯一の高校で、ここを卒業しないと内地の帝国大学には進めない、と言われた学校だったと記憶している。李登輝元総統などの出身校だ。展示室は広くはなく、誰も見学している人もいなかったが、内容はかなり詰まっていた。

 

現在活躍中のタレント、ジョン・カビラ、川平慈英の父である川平朝清氏も台北生まれでここの卒業生。朝清が使用したノートなども展示されており、とても興味深い。他にも日本にゆかりの深い邱永漢や王育徳などの写真が飾られている。どちらもお会いしたことがある名前であり、何とも多彩だ。

 

教授陣も3分の2は東京帝大卒(歴代校長は全て)という、優秀な若手が送り込まれてきていた様子が窺われる。万葉集の研究で名高い犬養孝もおり、また子供の頃読んだ『次郎物語』の作者、下村湖人はここで学生のストライキに遭遇したという。

 

勿論光復後の台湾を支えた、立派な起業家になった卒業生も多くいる。私が今回注目したのは辜振甫氏。私は30年前、彼のグループ企業にお世話になり、2年程台北で過ごしたのだが、その中で1度直接お会いしていることも関係しているかもしれないが、何といっても光復前後に茶業を行っていたという歴史に興味があった。

 

この展示室には彼の一生に関する本が置かれていたが、鍵がかかっていて中味を見ることは出来なかった。彼のような台湾を代表する大物(日本でいう経団連会長を何十年も務め、最後は両岸海峡基金会のトップとして中国と対峙した)に資料がないはずはない。ここの図書館で、この本を見ることは出来なかったが、代わりにこの大学の卒業生の書いた論文は参考になった。本当に様々な研究をしている人がいるものだ、と今更ながら感心する。

 

辜振甫氏についてもう少し知りたいと思い、台湾大学に向かった。彼は台北高校から台湾大学に進んだ。ネット検索したところ、学内に辜振甫記念図書館があるというから、そこに資料があるだろうと思い、出掛けてみたわけだ。ところがそのきれいな図書館、名前は付いているのだが、それは遺族からの寄付で建てられたもので、決して彼に関する資料があるわけではなかった。なるほど、そんなものかもしれないが、ではどこに資料はあるのだろうか。

 

5月23日(水)
王将を覗いて

餃子の王将が台北に出店したらしいと聞いた。統一時代百貨は自転車ですぐなのもあり、また天気も悪くなかったので、ちょっと散歩がてら、覗きに行ってみた。地下2階の飲食街の奥にその店はあった。かなり広い店舗だが、夕方5時代だからか、お客は殆どいなかった。メニューを見ると、本格中華のような料理が並んでおり、簡単な餃子定食などはなかったので、かなり残念だった。

 

店員に聞いてみると『ここは日本とは違うんです』という。餃子の王将は中国大連に進出したが、すぐに撤退。その同じ年に高雄に店を出したらしい。当然中国での失敗を念頭に、きちんとした調査を踏まえて出てきたのだろう。そして満を持しての台北進出だから、私がとやかく言う必要はない。ランチにはセットメニューもあるようだが、一介の日本のおじさんとしては、餃子や回鍋肉定食が欲しい。

 

王将を諦めて、横にあったとんかつ屋に吸い込まれた。ここは5時代なのに、もうお客がかなりいる。とんかつ定食を頼むと、サラダが沢山出てくる、漬物が数種類出てくる、そしてさらっと揚がった美味しいとんかつが出てきた。これで日本円1000円ちょっとなら、これは満足できる料金と言えるのではないだろうか。

 

台北の日本食店は激戦である。ニーズは多いが競争相手も多い。少し油断するとすぐにお客を奪われる。そんな中で王将はどんなお客を描いているのだろうか。日本の中華、という、ある意味の日本料理で勝負できるのだろうか。焼き餃子なら、大手チェーン店が半額ぐらいで提供している。まあ、対象が日本人のおじさんでないことは確かだな。

ある日の台北日記2019その2(12)久しぶりに彭園湘菜館

5月18日(土)
久しぶりに彭園本店へ

週末は原則外出しないのだが、今日は北京からTさんが、台北に正式赴任したというので、夕飯を一緒に食べることになった。ちょうど住まいも決まったということで、まずはそちらを訪ねる。場所は旧市街地にあり、昔は飲み屋などが多かったが、今はきれいなホテルが出来、そしてマンションも建っていて驚いた。台北の変化、というのは、実はこういうところに出ているように思う。

 

周辺をぐるぐると歩き回って食事の場所を物色した。確かにお店は沢山あるのだが、2人でゆっくり話すのに適した場所は意外と見付からない。5分ほど歩いて行くと、Tさんが『ここにしてみましょう』と言って、スタスタと2階に上がっていく。よくわからずに後をついて行く。

 

このレストラン、かなりきれいな中華、いや湖南料理と書かれている。ウエートレスは妙齢の女性で、日本語を話してくれる。相当改装されており、昔の面影はないが、何となく、ここに来た覚えはある。店名を見ると『彭園湘菜館』とある。そうだ、ここは30年前によく来た店で、15年前には家族の台湾旅行でも訪れ、いつもは食べ物に無頓着な長男が炒飯を食べて、美味いと言いながら涙を流したという、我が家では伝説?のレストランだったのだ。まさかこんなところにあったとは、最近の記憶の悪さが顔を覗かせる。

 

だが、いや当然ではあるが、この老舗レストランも様子は変わっていた。勿論内装はきれいになったが、その分料金は高くなっている。更には日本人客にはしきりに日本語で書かれたセットメニューを勧めてきて、その料金は一人1000元もする。これで飲み物を頼んだら、いくらするのだろう。

 

Tさんは北京でもこういうことには慣れており、セットメニューを断り、食べたい物だけを注文した。その竹筒スープ、炒飯の味には昔が感じられ、鶏肉、家常豆腐の濃い目の味付けは何とも好みだ。本来湖南料理は激辛だが、ここではそれを避けて食べるのがよいと思われる。Tさんと二人、香港時代に偶に行った、湖南ガーデンという中環の店を思い出していた。

 

酒を飲まない私は2次会に付き合うことはないのだが、今日はTさんから、お土産を買う手ごろなお茶屋さんを紹介してほしい、と言われ、歩いて行ける新純香を目指した。Tさんも新米駐在員としての情報仕入れにかかっている。このお店、その昔から林森北路付近にあり、先代のお母さんの時に何度も行ったのだが、娘さんが店主となってからは、数えるほどしか行っていない。

 

お店は昨年改装され、とてもきれいな、すっきりした空間となっていた。2代目店主の王さんと私は早々にお茶の歴史の話を始めてしまったが、Tさんは何と『引っ越したばかりでお茶も湯飲みすらない』と言いながら、店内にあった物品を物色して、早々に買い込んでいる。お土産ではなく自分用か。まあ、このお店は日本語が通じるし、試飲が気楽にできるし、値段も手ごろだから、お茶初心者、お土産用にはよいかもしれない。

 

それと、パイナップルケーキだけではなく、舞茸チップスなどのお茶請けが充実しているので、むしろこちらを買いに来る人たちもいるようだ。私の横では、台湾茶についてかなり突っ込んだ質問をしている60代の日本人夫婦がおり、その質問内容には、講座で参考になるものが多かった。つい横から口を挟んでしまい、ヒンシュクもの。王さんが『この人はお茶の歴史を勉強しているので』と取りなしてくれたが。

 

それにしても、日本の台湾茶商さんたち、台湾茶の歴史をどのように伝えているのだろうか、とふと思ってしまった。まあお茶を売るだけなら歴史など語らない方が無難なはずなのだが、どうしてもうんちくが必要なのだろうか。そうであれば、日本の中できちんと茶の歴史を学ぶ場が欲しい、と思うのは、私だけだろうか。なぞと考えながら、トボトボと帰路に就く。

ある日の台北日記2019その2(11)初の茨城空港

《ある日の台北日記2019その2》  2019年5月16日-6月21日

一週間の東京滞在(自らの誕生日を祝う?)を経て、台北に舞い戻る。が、すぐにまた香港、広東、福建の旅が待っており、更にはよもやのもう一度福建、何やら全く尻が定まらない。果たして台湾茶歴史調査はどこまで進んでいくのだろうか。

 

5月16日(木)
初めての茨城空港

今日は台北へ戻る日。今回はタイガー航空で往復予約していたが、なぜかちょっとだけ安い便を見つけた。よくよく見ると出発は成田ではなく、茨城空港となっているではないか。以前より何度も話題には出ていたが、一度も使ったことがなかった茨城空港。荷物もほとんどないので、この機会に一度行って見ることにした。

 

しかしこの空港、どうやって行くのだろうか。ネットで調べると、東京駅からバスが出ており、予約すれば乗客は500円で行けるとある。ただバスの予約は搭乗1か月前からしかできず、ちょっと面倒だが、安い料金のため、きちんと日程管理して予約しておいた。予約時点でフライトから逆算して乗るバスが示されるのは良い。ただもしこのバスが使えないとなると、行くのは大変だろうな。

 

バスは東京駅八重洲側のバスターミナルから出ていたが、チケットは買えず、運転手に直接、しかも降りる時に払う方式だった(当然下車時は混乱する)。乗客は台湾人が多く、案内役の女性も在日台湾系であろうか。バスに乗り込むとほぼ満員になっている。出発するとすぐに寝込んでしまい、気が付くともう茨城県に入っていた。高速道路を使って約1時間40分、成田に行くより、40分ほど余計にかかるが、料金は半額だからお得かもしれない。

 

空港は外観からして小さかった。バスもフライトに合わせてしか運行されず、お客さんは限られていた。チェックインカウンターに既に開いており、行列が出来ている。自家用車などで来た人たち、いや台湾の団体さんだろうか。2階には空港が見渡たせるデッキも用意されており、そこから飛行機を眺めている人もいた。

 

今回はわずか1週間の東京滞在であり、荷物は最小限10㎏しか持ち込まないと決めて、追加料金を払うことは止めていた。だが行きの桃園空港でまさかの重量オーバー。そこでは何とか見逃してもらったものの、帰りもその重量はかかるので、色々と苦心の結果、おかげで何とかパス。更にはLCCで偶に聞かれる『帰りのチケット持っていますか?』も、力強く『6月に戻ります』と宣言すると、それ以上追及されなかった(実際に6月のチケットは手配済み)。何とも優しい空港だ。

 

荷物検査、イミグレも簡単に終了するのは、やはり有り難い。今回はお土産を持つ余裕もなく、免税店でお菓子を探したが、茨城名物はなく、北海道のクッキーになってしまう。しかも店員はやはり私に中国語で語り掛けてきて、クレジットカードはなぜか拒否された。ここはどこの国なのだろうか。でもなんだか緩やかな時間が流れており、感じは悪くない。

 

国際線、国内線合わせて一日数便しかないので、搭乗もゆっくりできる。何とターミナルから歩いてタラップへ向かう。何だか昔のKLのLCCターミナルを思い出す簡素さだ。そう、フライトはシンプルが有り難い。当然滑走路が混みあうこともなく、順調に飛行できる(着陸地側に問題がなければ)。ただやはりもうちょっと茨城空港が近ければもっと有り難い。空港存続のために様々な努力をしていると思われるが、それが報われることを祈るしかない。

 

機内は6-7割の搭乗率だっただろうか。フライトはいつもと変わりなく、LCCだから食事も飲み物も出ずに、寝ている間に到着する。勿論成田と茨城で所要時間が違うわけでもない。桃園空港では、新たに30日のシムカードを購入して、すぐに長栄バスに乗り込む。ただ降りる場所が毎回言えずに切符購入で戸惑うのは自分でも不思議なことだ。

ある日の台北日記2019その2(10)高雄六亀のブヌン族を訪ねて

5月2日(木)
高雄六亀にブヌン族を訪ねる

翌朝は5時に起床、6時前にはホテルをチェックアウトした。今日はまた高雄に向かう。ホテルに朝食が付いていたが、食べる時間がないというと、ランチボックスを用意してくれていた。台湾もこういうサービスがあるのか。でも中味はパンと水だったので、もう少し何とかし欲しいとの欲も出る。

 

トミーの車でまずは高鐵台南駅へ行く。ここでトミーの姉、サニーと落ち合った。今日はサニーの同級生に案内を乞うており、彼女もわざわざ台北から駆け付けてくれた。前回の高雄も嘉義から入っていったが、今回も台南から現地に向かう。高雄はかなり広い地域で山が多いのは意外だった。

 

小雨の中、1時間ほどで六亀の街に着いた。ここでサニーの同級生、ブヌン族のアンドリューと合流して、早々に山の中に入る。アンドリューは大学卒業後アメリカに渡ったが、今はこの地の住民代表をしているという。今ちょうど山で茶の作業をしている親族がおり、午後は大雨かもしれないというので、急いで向かう。その山道はかなり細く、山に慣れているトミーも運転し辛らそうだった。

 

山の中に茶畑が見えた。アンドリューは携帯で親族の所在を確認しようとしたが繋がらず、車から降りて大声で呼び始める。如何にも原始的な風景にビックリ。そして何とか親族夫妻を見つけ出し、老茶樹を見ることができた。この付近には山茶と呼ばれる茶樹もあるが、後から植えられた烏龍などが多い。茶業はいつから始まったのだろうか。

 

 

 

実は日本時代末期、茶業試験所の谷村愛之助技師がこの地に踏み込み、アッサム原生種を発見した、との記事を目にしたことがあった。それは当時の京都帝国大学演習林内にあったようだが、この付近のことなのだろうか。それをどうやって確認すればよいのか、今やその術はないように思われた。

 

アンドリューが村にある一軒の家に入っていく。そこには94歳のブヌン族夫婦が待っていてくれた。アンドリューとは遠い親戚にあたる。何と二人ともほぼ完ぺきな日本語で話す。ここで出てきた話はかなり衝撃的だった。いつものように原住民は製茶にはほぼ関わっておらず、ここの茶作りは最近始まったという。だが日本時代、ここにも公学校が出来て、日本人の先生一家が住み込みで教えていた。当時小学生だった奥さんは、先生の家で子守をしていたそうだが、先生の奥さんが『茶の葉を摘んできて、それを自分であぶって揉んでいたのをよく覚えている』というのだ。当時の日本人は、一般人でも簡単な茶作りが出来た、という証拠かもしれない。それでブヌン族も茶の存在を認識し、飲むようになったというのは面白い。

 

肝心の原生種の話。新聞記事に載っている地名をいうと、『この近くだ』というではないか。更には『そういえば、当時は様々な調査をしに日本人が来ていた』というから、谷村もその一人だったかもしれない。ここで発見された茶樹を使い、紅茶生産が計画されたが、戦争によりとん挫したため、詳細はやはり不明のままだが、興味深い事例だと思う。

 

94歳の夫婦は、話し始めると色々なことを思い出していき、その思い出をどんどん話してくれる。親族は大体内容が分かっているようで、日本語にも拘らず、時々合いの手を入れているが、アンドリューやトミーは全く内容が分からない。通訳してくれと言われても、そのスピードと内容、難しい。最後に奥さんは日本語の歌を歌い始める。戦前の流行歌だと思うが何という曲かはわからない。小学校唱歌などではないから、先生の奥さんか教えられたものだろうか。その歌が何曲も続き、遠くを見ながら子供の頃を思い出し、あふれ出てくる姿に、日本統治の意味を考えた。因みにここの地名は『桃源郷宝山村』である。

 

街に戻り、林業試験場六亀分場に行ってみる。行けば京大関連の資料があるかもしれないとのことだったが、昼時だからかそこは閉まっており、聞くことは出来なかった。日本時代、なぜここに演習林が置かれたのか、その中で茶業については何か研究されたのか、など、興味深いテーマではあるが、調べる術が見つからない。

 

昼ご飯に麺を頂く。付け合わせで出てきた小菜が美味しいとお替りする。その後、先ほどの茶業夫婦の家に行き、お茶をご馳走になる。非常にシンプルな製茶設備があり、原始的な作りとなっている。紅茶と緑茶があるようだ。もう少し原生種の特色が分かるようなお茶だと、注目を集めるのではないだろうか。基本的に歴史的にはかなり意義のある茶産地なのだから、何とか発展してほしいと思う。

 

帰りも行きと全く同じルートを取る。台南高鐵でサニーを下ろし、私は台中高鐵まで乗せてもらう。サニーと一緒に台北に帰ればよいのだが、一つは台中から乗った方が安いこと、もう一つはトミーと車中で今日のまとめ、反省会をすることが目的だった。この短期間に2度も高雄山中に連れて行ってくれたトミーには感謝しかない。

ある日の台北日記2019その2(9)南投で歴史を聞く

5月1日(水)
南投で

日本の元号が令和に変わった。昨日は天皇退位の儀をテレビで見ていたが、何とも淡々とことが過ぎていく。今日は新天皇の即位だが、勿論私の生活には特に変化はない。今日は埔里と魚池へ行くため、またもや早朝の高鐵に乗る。そしていつものようにトミーが車で待っていてくれ、また歴史調査が始まる。

 

今回はまず埔里に行き、昨年突然訪ねた劉さんの所に行ってみる。もし在宅ならば話を聞こうと今回もアポなしで出掛けて行くと、運よく、前回と同じ椅子に座っていた。ただ昨年足を怪我したということで、歩くのが少し大変になっている。それでも95歳にしては、まだまだ元気そのものだ。

 

劉さんは流ちょうな日本語を話してくれる。劉さんも光復後、この付近で茶業に長年携わっていたことから、魚池の分場長だった林復氏とはやはり面識があった。というより、彼は日本時代の持木茶園に勤めており、持木一族が引き上げた後、台湾茶業(後の台湾農林)に接収された持木茶工場の工場長をしていたというので、そちらの方に興味を惹かれた。劉さんは持木工場後、自ら茶の販売を長く行い、今でも一部の贔屓客より注文を受けているらしい。

 

次に魚池に王さんを訪ねた。こちらも89歳になっているが、とても元気で、日本語も話す。王さんは光復後茶業伝習所5期の卒業生であり、林復氏が所長(校長)を辞める頃卒業していた。勿論面識はあり、色々なことを教わったという。卒業後は故郷に戻り、台湾農林の茶工場で働いた(茶業伝習所卒業生の義務)。因みに王さんのお父さんは渡辺茶園の創設と関係が深く、ある意味魚池で最初に紅茶作りをした人々なのではないかと思われる節がある。またお兄さんは新井さんがいた試験場に会計係として勤務していたようだが、早くに亡くなってしまったという。

 

昼ご飯に鶏肉を食べると、まだ時間があったので、王さんの孫が整備中の茶工場へ向かった。ここは魚池農会の真向かい。小高い所に茶畑を配して、露営キャンプ場、横にはホテルも建設中だ。茶工場は最新設備を整えて既に稼働しているが、今月工場の上の階に売店、試飲室などが開業予定で、ついに本格的に動き出す。規模もかなり大きく、日月潭から近いこともあり、大勢の観光客の来場が見込まれている。これからの時代、単なる茶業ではなく、観光も織り交ぜた取り組みが必要かもしれない。

 

午後は8年ぶりに鹿嵩の和果森林へ行く。前回ここの石さんから色々な話を聞いていたのだが、91歳になった石さん、何と以前よりずっと若くみえるのはすごい。水泳、ウオーキングなどを日課としているらしい。記憶力も衰えておらず、こちらの質問にもはっきりと答えてくれるので有難い。

 

石さんは先ほどの王さんより2つ年上で、茶業伝習所の光復後3期卒。ということは、林馥泉所長から、林復所長に交代する時期であり、両者の学校時代、そしてその後の茶業でのかかわりについて、かなり有益な情報を得ることができた。やはり林馥泉氏は光復の時に台湾に渡り、日本の茶業資産を接収したメンバーだったのだ。また午前中に会った埔里の劉さんは石さんの先輩にあたり、何と持木茶工場での劉さんの後任が石さんだということも判明して驚く。

 

石さんは私のことは忘れていたかもしれないが、娘さん夫妻は覚えていてくれたようで、再会を喜んだ。和果森林はこの地域で観光を取り入れた先駆的な茶業者であり、DIYなど、素人に茶を自ら作らせる体験型を導入したところだ。娘さんは最近日本でもセミナーを開くなど、紅茶販売促進に努めている。最後に彼女から『実は持木さんの末裔の方とは交流がある』という有力な情報も得、後日連絡を取り合うようにもなった。やはり現地で聞きこまなければ情報は出てこないものだ。

 

トミーの車で台中駅まで送ってもらった。何と大学の同級生夫妻がGW休みで台中に来るというので、今晩は同じホテルを取り、夕飯を共にすることにしていたのだ。彼らのホテルには私も何度か泊ったことがある、駅前のとても便利な場所だった。台中駅も今や完全に新駅が完成して、様相は一変している。

 

トミーから聞いた鍋の店へ、タクシーに乗って向かった。そこは日本的な入口でちょっと不思議なレストラン。鍋もあったが、なぜか店員は薬膳料理を勧めてくる。まあ折角だから、と薬膳定食を頼んだが、なぜここでこれを食べているのか、よくわからなくなってしまった。翌日トミーにそのことを告げると『なんで鍋を食べなかったの?』と言われてしまう。勧められたものをちゃんと食べるべきであった。ホテルに戻り、そこでお茶を飲みながら、他愛もない話をして過ごす。これも同窓生ならではあり、リラックスできて有り難い。

ある日の台北日記2019その2(8)涼しいので麺ばかり

4月26日(金)
台湾大学で

久しぶりに調べものがあり、台湾大学へ向かう。大学裏門にUバイクを停めて、早餐店にて、ハンバーガーを食べる。さすが大学近くの店だから、他よりもボリュームがあり、安い気がする。と言っても台湾大学の学生はお金持ちも多いようで、こういう店よりスタバの方が人気は高い。

 

大学の図書館には何度も行っているのだが、その度に前回探した資料の場所を忘れてしまい、また一からやり直すことになるのは、本当に困ったことだ。今日は呉振鐸茶業改良場元場長の論文集を見に来たのだが、何とその本はご本人から大学に献本されたもので、直筆の署名がされていて驚いた。そういえば、呉氏は台湾大学教授という肩書も長年持っていたのをうっかり忘れていた。

 

夕方学内で、日本語中心主催のセミナーがあるというので、覗いてみた。講師はよく見たら、以前ロータリークラブであった蔡さんという方だった。そしてご専門がマーケッティングだと初めて知り、かなり細かい動向調査と分析がなされ、ちょっと勉強になる。パワーポイントは日本語だが、お話は中国語で進められる。

 

SNS利用率は、台湾の方が日本より高い。特に高齢者世代も使っている点は時々感じている。スマホ決済も中国のようには進んでいないが、今後どのように活用するのだろうか。世代間格差、経済低迷による若者の不安定さ、など共通の話題も多く出てくる。日本に比べれば、フットワークが軽いと思える台湾だが、どうだろうか。

 

確かに日本と台湾、似ているようにも思えるが、消費者の行動パターンなどはかなり違うようだ。参加者は学校の先生と学生、そして一般人もいた。日本人も数人おり、無料でお話が聞けるのは素晴らしい。お茶の勉強ばかりせずに、偶にはこのような刺激を受けるのも良いかと思う。

 

4月27日(土)
寒いので麺ばかり

4月も終わりだというのに、雨が続き、気温が低い台北。これはちょっと異常なのではないだろうか。原則週末は出掛けずに、資料整理などに使う予定なのだが、ご飯だけは食べるために外へ出る。いつもなら、もう暑くて汗が噴き出すので、スープ麺など食べないのだが、この気候だと麺だな、と思ってしまう。

 

まずは小雨の降る中、久しぶりに焼鍋麺を食べに行く。ここのスープは海鮮出汁が効いていて、結構うまい。そして揚げた麺との相性がかなり良い。もう今シーズンは食べる機会もないかなと諦めていたのだが、ちょうどよかった。これで75元はお値打ちと言えよう。さすがにお客さんが多いのもこの気候のせいだろうか。帰りに近所にできた、ミニ鯛焼き屋にも寄ってしまう。寒からな。

 

夕飯もまた雨。気温も20度ぐらいしかない。これなら矢張り麺か、でも遠くには行きたくない。その場合は、刀削牛肉麺に行くのがよい。近年牛肉麺屋はどんどんでき、そしてなぜか値段もどんどん高くなっている。だがここは120元で、肉がゴロゴロ入っており、麺もしっかりしている。いつも更に安い牛肉湯肉糸麺を食べているのだが、今日は奮発した。豚足麺でも良かったかもしれない。

 

日曜日の昼、雨が降っていなかったので、少し歩いてみる。偶には米を食べようかと思ったのだが、やはり麺に引っ張られた。温州雲吞麺、これはチェーン店でもどこにでもあるのだが、なぜかたまに食べたくなる。あっさりしたスープと大きな雲吞がよい。そして小菜を食べてちょうど100元という価格設定も悪くない。

 

台湾にはかなりの種類の麺があり、麺が好きな私には有り難い。確か以前トルコに行った時、麺が殆どなかった(豚肉もなく中華もなかったか)時は、2週間が本当に長く感じられたものだ。特に今回のように涼しいときに温かい麺を食べると体にも優しく元気が出て有難い。台湾はご飯ものや小龍包だけではないのだ。

 

4月29日(月)
張さんがやってきた

今日は天気が良く、暖かくなってきた。先日ホーチミンの張さんから連絡があり、今台湾に帰省中だが、1日だけ、台北にやってくるという。その理由は師匠に会いに来るというものだった。彼が師と仰ぐのが、意翔村の陳さんだ。張さんは大学時代の卒論が茶貿易というだけあって、色々な知り合いがおり、お茶の歴史だけではなく、茶作りにも真剣に取り組んでいる。その師匠として、陳さんは適任と思える。

 

店までは歩いて10分ちょっとと近い。入っていくと、奥さんと張さんがいた。なぜか奥さんに会うのはこれが初めてだと思う。いつも店にはベテランの男の人しかいない印象だった。張さんは今年旧正月休みで帰省中、故郷豊原で会っていたが、何度会っても面白い人物だ。

 

今回は3月の四川旅行でゲットしたお茶を渡すのが目的だった。彼は探求心が旺盛で、様々なお茶に興味を持っていたので、合わせて日本の茶も少し渡しておいた。相変らず陳さんから少し歴史談義を聞き、いくつか質問をして、収穫を得た。その後は子弟再会の邪魔をしないように退散する。張さんには茶作りに関して聞きたいことが山ほどあるはずだ。

ある日の台北日記2019その2(7)お茶の歴史調査で

4月21日(日)
本屋へ

茶の歴史調査、ここのところヒアリング調査が主になっていたが、やはり資料との睨めっこも必要だと思い、偶には本屋に足を運ぶ。図書館では色々な資料を見てきたが、出来れば手元に置きたい本もある。最近出た雑誌にも興味深いものがある。なぜか南京路の方に出向いていく。

 

この辺に本屋があったな、という辺りに来てみる。よく見ると何とそこはフランス語専門書店?ちょっとおしゃれだなと気になっていたがよく見ずに失敗した。そこには入らず(入っても読めない)、歩き出すとオシャレな出版社?が見える。中に入るとレストランになっており、大勢が食事をしていた。

 

本を読みながら食事する、お茶を飲みながら本を読む、そんな空間のようだ。最近台北にはこんなところが増えている。2階には本の展示があるというので上がってみたが、何と硬派な政治家の本が並び政局が語られている。出版社も不況で、硬軟取り混ぜた様々なアイデアを出している。日本の出版社はどうなんだろう。本が売れないとただ嘆いても何の解決にもならない。

 

結局歩きに歩いて、誠品に行きつく。ここの売り場は広く、探そうとしていた茶関連の雑誌は、何と2冊も置かれている。台湾史コーナーも充実していて驚く。図書館で読んだ本も何冊かは販売されており、思わず購入してしまった。UCCのインタントコーヒーが1つ無料で付いてきた。

 

 

こんな近くに立派な書店があるとは気が付かなかった。これからは偶に顔を出してチェックしよう。そういえば中高生の頃は本屋に行くのが楽しみだったことを急に思い出す。台湾の書店は、若者が通路に座り込んで本を読んでいてもOK。買った本を隣のカフェで読んでいる人もおり、何となく楽しそうだ。そういえば誠品は東京に進出するらしい。本屋もあるのだろうか。

 

一度家に帰って、夕方またバスに乗り出掛けた。先日突然30年来のお知り合いであるTさんから連絡があった。ずっと北京にいると思っていたのだが、何と台北に来たらしい。しかもこれからはここに駐在するという。早々宿泊先のホテルを訪ね、久々の再会を果たす。実はこの界隈は、私が30年前に住んだ場所だが、殆ど変わっており、店もよくわからない。

 

Tさんはスタスタと歩きだし、一軒の日本食屋に入った。東京でも有名なうなぎ屋らしい。こういう店が、フラッとあるのが今の台北だろう。店員の案内も待たずに空いた席に着く。店員がちょっと困った顔をする。Tさんはまだ何となく、中国大陸的振る舞いが抜けていないようだ。それは私も十分に分かるのだが、これで北方の普通話を話せば、台湾で嫌がられる可能性もあるので、そのことだけは伝えておいた。今の空気感、北京と台北ではかなりの差があるだろう。あなご丼は美味しかった。これからはTさんが台北にいるので楽しみだ。

 

4月23日(火)
製茶公会へ

今日は製茶公会に黄顧問を訪ねることにしていた。その前にいつもの銀行で両替。順番を待っていると、前のお客が窓口で日本円への両替を申し出た。そして出てきた札を見て、『このお札、まだ使えるの。大丈夫?』と何度も聞いていた。係りの女性は『使えます!』ときっぱり答えていたが、私の番が来ると小声で『日本って、いつからお札新しくなるの?』と聞いてくる。

 

私は思わず、『心配ご無用、確か2024年からだから』と答えると、そこにいた全員が唖然とした表情を浮かべ、『なんでそんなに時間がかかるの?』と聞かれても、『それは日本だからさ』としか答えようがなかった。余りのスピード感のなさに驚く、というか、なぜこのタイミングで5年先のことを発表するのか確かに理解に苦しむ。

 

昼過ぎに公会近くまで行き、久々に客家料理屋に入る。やはりここのホルモン系はいつ食べてもおいしい。肉はささみやヒレではなく、脂身や皮、そして内臓系がうまいと思う。でも我が家では私は完全少数派であり、台湾などで一人楽しむしか仕方がない。本当にうまいものとはなにか、を考える。

 

公会では黄顧問と総幹事がいつものように、色々と教えてくれた。黄さんは理事長として、林復氏と一緒に活動したこともあり、勿論呉振鐸氏とは常に顔を合わせていた。林馥泉氏、林復氏は共に製茶公会の総幹事を長く勤めているが、残念ながらその資料はさほど残ってはいないらしい。

 

理事長は注目されるが、縁の下の力持ちで、実質的に会を取り仕切る総幹事については、書き残されていない(自分で書くわけにもいかない)のが実情だ。ただ両氏には文才があり、公会の雑誌にはかなりの文章を寄せていることが後で分かった。ただこれとて、本人の履歴を知る手掛かりとはなっても、決定打にはなり難い。資料集めは苦労が絶えない。

 

帰りに中山の誠品に寄ってみた。本は先日見たので、地下に降りると、きれいなフードコートがあった。日本食店も見られ、私はなぜか讃岐うどんに引きずられた。急に食べたくなるのだ、うどんは。温泉卵入り豚肉うどん、美味し!丸亀製麺は時々食べるけど、こっちの方が美味しいかな。時間が早かったから席があったけど、夕飯時なら座れないかもしれない。何となく幸せに一日が終わる。

ある日の台北日記2019その2(6)鹿谷にて

4月20日(土)
鹿谷で

翌朝は早く目覚めた。この宿は朝食付きだというので8時に降りていくと、カウンターにハンバーガーと豆乳が置いてあった。宿泊客は私しかいなかったようだ。金曜日の晩だったが、雨のせいだろうか。そうこうしている内にUさんが迎えに来てくれ、一緒に農会へ向かう。

 

農会がちょうど開店した瞬間にオフィスに入っていくと、林さんが待っていてくれた。お茶を飲みながら、茶の歴史、今回は特に林さんの師匠である呉振鐸氏について、突っ込んで聞いてみた。茶業界では最も有名な専門家の一人である呉氏だが、彼が外省人である、云々と言った話に出会ったことは殆どなかった。これから蒋介石と共にやってきた福建人の中で、台湾茶業に貢献した人物にスポットを当てたいと考えている。

 

呉元場長について、林さんは『自分より良く知っている人々』を数人挙げ、連絡先なども分かる範囲で教えてくれた。これは何とも有り難い。もう少し話を聞こうとした時、スタッフが林さんを呼びに来た。何と今日は農会の社員旅行で、林さんはその忙しい中、私に対応してくれていたのだ。何とも申し訳ない。外へ出ると大型バスが停まっており、すでに全員乗り込んでいたので、恐縮してしまった。これからどこへ行くのだろうか。

 

我々もこれからどうするのだろうか。Uさんが『ちょっと茶畑を見にいく』というので、バイクの後ろに乗る。そしてバイクは坂道を上がり、山の中へ向かう。到着したのは、茶工場。そこには林老師がいた。何となく雨を気にしている様子で、早々に皆で茶畑を見に行くことになる。

 

これまで何度も鹿谷には来たが、初めて見る茶園がそこにあった。そこでは今まさに茶摘みが行われている。かなりの急斜面であり、道路から登っていくのはかなり怖かった。地元の女性たちが元気に茶摘みしているのだが、最高齢は84歳とか。平均でもゆうに70歳は越えているだろう。これはかなり厳しい労働だと言わざるを得ない。

 

少し雨が降り出した。摘み取られた茶葉が計量されて(計量はどこの茶産地でも真剣勝負な雰囲気)、次々に茶工場に運ばれていく。ここのところ雨続きだったので、今日に期待していたようだが、残念ながらここまで、という感じになっており、皆さん少し緩んできていた。やはり山の茶摘みは時間との闘い、いつ天候が変わるか分からないのだ。

 

茶工場では、すでに多くの葉が萎凋されていた。これからいくつかの工程を経て、明日には凍頂烏龍茶になるのだろう。果たして出来はどうだろうか。皆さん、心配顔のように見えた。幸い雨は強くはなかったので、バイクで戻り、昼ご飯に麺を食べた。そのまま偉信の所へ寄ろうとしたが、隣に住むお父さん、林老師に招き入れられた。どうも彼は体調が悪いらしい。

 

林老師は茶作り中にもかかわらず、戻ってきて相手をしてくれた。何とも有り難い。私が更新しているFBも欠かさず見ていてくれ、コメントももらっている。せっかくの機会なので、凍頂烏龍茶の歴史を聞き、合わせてそこにかかわった人々についても詳細に聞いた。一体どのようにして凍頂烏龍茶はブランドとして生み出されたのか。当時の台湾の置かれた状況と併せて考えることが重要だ。

 

最後に張さんも訪ねてみた。張さんは今朝がた中国から帰ってきたばかりであったが、快く質問に応じてくれた。彼は改良場に勤めているから、呉元場長について、誰がよく知っているか、なども教えてもらう。勿論もう歴史の域に入っているので関係者も高齢でなかなか捕まらない。

 

張さんの話の中でも、1970年代、なぜ台湾が輸出から内需への切り替えを行ったのか、それは誰の指導で行われたのか、などを教えられる。これまた極めて重要な話であり、これは台湾だけに起こった事象ではなく、興味深い。特にそれを論理的に説明してくれるので非常にありがたい。

 

今日は土曜日なので、夕方になると台中行きのバスが混むだろうと言われ、バス停に向かう。渓頭で大勢が乗るので、途中のバス停では、地元民向けに少なくとも3席は空けておく政策がとられており、無事に乗車できた。今回もUさんには大変お世話になり、思いがけず収穫の多い旅となった。

 

いつもは高鐵台中から高鐵に乗って帰るのだが、何となくいつもと同じはつまらないと思い、バスを終点まで乗る。新しい台中のバスターミナルから台北行きのバスは頻繁に出ており、こちらの方がかなり安いのでそれに乗った。だがこのバスは台中市内を走り抜けてから高速に乗ったので、何と3時間もかかって台北に着く。ちょっとぐったりして1泊2日の旅は終わった。

ある日の台北日記2019その2(5)那瑪夏へ

4月19日(金)
那瑪夏へ

朝早く起きた。今日は高鐵で台中まで行き、そこで拾ってもらって、高雄の山中に分け入る予定だ。前日高鐵の予約を試み、何とかセブンで支払いを済ませて、チケットを手に入れた。午前6時台に家を出て、7時半過ぎの高鐵に乗る。朝が早過ぎて、台北駅のヤマザキパンすら開いておらず、ちょっと腹ペコ。

 

8時半過ぎに台中駅に着くと、トミーとビンセント、そして彼らの講義をわざわざ受けに来ていた香港人女性も加わり、4人で出かける。まずは高速道路で嘉義まで行き、そこから車は山道へ回る。何故高雄に行くのに、嘉義から入るのか、それは到着する時にようやく分かる。それにしても、思っていたより道がかなり良い。それでも、香港女性は山道に慣れておらず、気分が悪くなったようだが、普段から山に入っている我々には、相当楽な道に思えた。

 

勿論、車はほとんど走っておらず、対向車もない。標高300-400mのあたりで、カーブはあるものの、舗装もしっかりした、かなり平坦な道をひらすら走っていく。途中滝があったので、一休み。そして1時間半ほど走って、あとわずかで目的地、というところで、高雄と書かれた表記に出会う。原住民部落があり、観光客目当ての店などもあったが、人は殆どいなかった。

 

那瑪夏、我々が辿り着いたのはここだった。茶農家、詹宗翰さんとは、3月のFoodexで出会い、茶畑を訪ねたいと伝えてあった。実は昨年梅山瑞里に高山茶の勉強に行った際、『梅山から40年前に那瑪夏に移住して、高山茶を作っている人々がいる』と聞いていた。その息子が詹さんだったというわけだ。

 

ちょうど茶摘みが終わり、製茶機械が稼働していた。早々お茶を飲みながら、こちらの歴史を尋ねる。お父さんも加わり、話が具体的になっていく。1980年代、林業のためにこの地に移住してきたが、ちょうど高山茶ブームが始まり、故郷梅山から製法や機械を調達して、茶作りを始めたという。

 

一時は相当の茶農家が茶を作っていたが、高山茶に陰りが出てきた今、中海抜であるこの地も淘汰が始まっていた。そんな中、青年農家として息子がここに戻り、茶作りに精を出し、販売推進のため、台北はもちろん、遠く日本まで出掛けていたのである。この努力は素晴らしい。希少価値として、また比較的伝統的な製法がウケ、徐々に売り上げを伸ばしているらしい。

 

お昼は弁当を用意してくれ、引き続き話し込む。その後茶畑を見学。烏龍や金萱が植わっている斜面の景色は良く、自然環境に優れている。また車で更に上に上がると、山茶を集めて植えた場所もあり、特色ある茶作りを進めている様子が窺えた。茶樹の背丈は高く、葉も大きめだった。因みにこの山茶がいつからあるのかは分からない。

 

台湾ではみなそうだが、山には昔から原住民が住んでいても、お茶作りと無縁であり、また関心もない。茶樹がいつからあるのかもわからない。ここで茶作りが始まった時も、原住民の労働力が必要だったが、残念ながら、根付かなかったという。現在も一番の問題は労働力の確保であり、人材は本当に限られている。

 

畑から戻ると、激しい雨に見舞われ、動けなくなった。山の天気は変わりやすいとは言うが、まるで嵐のように叩きつけていた。それが収まると、朝来た道を引き返す。香港女性は辛かっただろうが、良い経験にはなったようだ。嘉義まで出て一休み。そこからまた雨が降り出す中、今度は私のために鹿谷へ向かった。

 

暗くなった頃、慣れしたしんだ鹿谷に上がってきた。そこで茶の買い付けに来ていたUさんと落ち合い、皆で晩御飯を食べた。やはり話題はお茶の将来についてとなり、活発な議論が展開されて面白い。食後、Uさんが予約してくれた宿に入り、トミー一行は台中に戻っていった。宿の部屋では引き続きUさんと茶についての話をし、気が付いたらかなり遅い時間まで話し込んでいた。茶業界はどうなっていくべきなのか、こういう雑談は非常に重要だと思う。