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ある日の台北日記2023その(6)製茶公会で

ランチはタクシーで別のところに移動する。そして天仁銘茶でご馳走して頂いた。やはりお茶の店だけあって、優しい味わいの料理が多い。理事長は遠くから来ており、折角の機会とばかりに黄さんとの相談事がいくつも出てきた。その内に台湾茶の現状、そして日本茶輸入の関連など話がどんどん広がっていき、内容にもかなり熱が入っていく。

私は公会のミーティングに参加したような格好となり、ただ黙って聞いていた。やはりコロナの影響はそれなりにあり、歴史や文化よりはまずは目先の利益確保、という感じであったので、私の出番は無さそうだった。気が付くと4時間も話していたことになる。黄さんからご著書を頂いて帰る。

台北に来てから数日が過ぎたが、何となく部屋で寝ていると蚊に刺されることが多い。3年前はどうだったのかさっぱり覚えていなかったが、部屋の中で探し物をしていると、電気蚊取り機が出てきて、これが必要だとようやく気が付いた。急いでスーパーに行ってマットを買ってきたが、何と私が持っている機械は液体対応だった。仕方なく、再度スーパーに行き、マット用の機械を買う。これで今夜から安心して寝られそうだ。

4月19日(水)ご近所散策

今朝は腹が急激に減り、近所に新しくできていた朝ご飯屋に駆け込む。セットを注文したが、ハンバーガーにたまごを入れる場合は、結構割高となる。それでも大好きなので、頼んでしまう。日本もそうだったが、台湾でもたまご不足なのだろうか。たまごが高いと物価高を非常に強く感じる。

昼もまた近所で食べてみる。今度は初めて入る店でチャーハンに挑戦する。思ったよりはかなり美味しくて満足。ただ同時に頼んだスープの量が多過ぎて困る。日本の中華料理屋さんのようにスープをちょこっとつけてくれれば良いのだが。それでも代金はそれ度高くないのでついつい注文してしまう。

夕方MRTに乗り中山駅へ。雨が降っていたのでちょっと駅地下で雨宿り。駅の外にはドラッグストアーがあり、何とそこに日東紅茶の粉が売っていた。戦前台湾で紅茶を作って一世を風靡した三井が今度は日本国内で作ったお茶を台湾に売り込んでいる。一体どれだけの台湾人が日東紅茶の歴史を知って、この商品を買うのだろうか。

今晩は雨の降る中、北京に留学経験がある日本人の集まりに飛び入り参加した。ほぼ初めて会う人だったが、色々な繋がりから、知り合いの知り合いは皆知り合い、という感じ。北京や中国という共通の話題があり、話が弾んでとても楽しかった。もうサラリーマン時代の仕事の話は忘れていたが、突然数十年前の記憶が呼びこされもした。良くも悪くも中国とは色々とあったなあ。

会場も台湾には珍しいガチ四川料理の店で美味しかった。といっても、やはり台湾だからそこまで辛いというわけでもなく、食べやすい感じだった。ただ話に夢中で料理のことはほぼ思い出せない。お客は台湾人より、台湾に来ている中国人が多かったのかもしれない。普通話が響いている。今回の台湾、こういう場所もう少し探してみたい。

ある日の台北日記2023その(5)台湾茶歴史談義

4月17日(月)台湾茶歴史談義

今朝は少し歩いてあのカツサンドの店へ行ってみる。店は開いていたので、注文しようと中を覗くと、お姉さんが『あら、珍しい』という顔で迎えてくれた。思わず『コロナで3年半来られなくて』と言ったら、初めて私が日本人であることを認識したらしい。喜ばしいというか、何というか。他の店でも私に気づいた人はいたと思うが、誰もこういう感じで声をける人はなく、やはりうれしい。カツサンドは形が変わり、盛り上がっていなかったので、かなり食べやすくなっていた。勿論料金は10元上がっていたが、食べる価値はあるだろう。

部屋に戻ると羅さんから連絡が入り、昼は東門に向かう。早く着いたので、鼎泰豊をちょっと覗くと、人が沢山待っていたが、何とテイクアウト専門店になっていた。そこへ羅さん親子がやってきて、一緒に餃子屋へ向かう。この餃子屋も何だかきれいになっている。ここで焼き餃子、水餃子などをたらふくご馳走になり、大満足。

そして茶歴史談義が始まる。この3年半の間に蓄積された情報を交換し、疑問をぶつけあう。それはそれは楽しい時間となる。テレビドラマ『茶金』の話など、リアル台湾紅茶の歴史であり、羅家の歴とも大いに重なっていると思われる。この3年の間にお話を聞いた羅家の長老お二人も旅立ってしまったのは、何とも残念だ。

場所を近くのカフェに移す。カフェに行く前に鼎泰豊の新店舗の前を通ったが、やはり人が多い。なぜそこまで人気があるのだろうか。カフェも何だかきれいで恐縮してしまうが、それでもお茶歴史にスイッチが入ると全く止まらない。台湾茶の歴史も随分と奥が深い。息子さんはずっと同席していたが、忍耐強いのだろうか。気が付けば3時間以上お話し込む。

すぐ横に意翔村があったのだが、陳先生は最近店にいないと聞き、素通りする。帰りに茗心坊に寄って、林さんに挨拶する。林さんの息子がロンドンから戻り、地道な焙煎作業をしているのが喜ばしい。今はお茶シーズンなので、睡眠時間も短くして、茶作りに励んでいる。一方娘は京都にいるとか。ここのお茶の代理店が京都に出来たような感じらしい。お茶を飲むと腹が減ったので帰りに牛肉麺を食べて帰る。

4月18日(火)製茶公会へ

今朝は圓環に向かう。ここは私の台湾旅の原点である。周囲を歩くと何となく懐かしい雰囲気に包まれる。古い紅茶のポスターを掲げる店もあったが、まだ開いていない時間だ。ドリンクスタンドだろうか。ホルモン系が旨い金春発も当然まだやっていない。この辺の店もちょっと変わっているようだ。コロナの影響はやはり大きかったのだろう。

本日は製茶公会に黄さんを訪ねた。以前も台北に来るたびに訪問し、そのお茶の歴史を教えて頂いていた。まだまだお元気で、今日も色々と話を伺う。ご著書も頂き、黄さんの茶業話を拝聴した。3年半の間に公会自体も理事長、総幹事ともに交代しており、紹介もして頂く。やはり人が変われば、ちょっと以前とは雰囲気が違うようだ。

ある日の台北日記2023その(4)華新街と台湾大学

4月15日(土)ミャンマー人街へ

今朝もサンドイッチで朝を迎える。5月から値上げの表示が見える。最近この表示が目立つように思う。特に卵の値上がりが激しいのは日本と同じか。MRTに乗って中和の図書館へ行く。ここも前から良く通った場所。しかし3年半ぶりなので、PC操作の仕方などは完全に忘れてしまう。それでもここの係員は常に優しく、教えてくれる。

台湾日日新報の検索に励み、気が付くと4時間も座ったままだった。やはりこういう資料を見ているのが一番楽しい。台北の部屋に置いたままだった資料を思い出し、更にここで新たな記事を集め、実に地道な作業が続いて行く。この土台があってこその茶旅だと最近つくづく思う。

またMRTに乗り、終点の南勢角まで行く。ここから更に歩いて10分以上行くと、華新街に辿り着く。ここは台湾のミャンマー人街と呼ばれており、ミャンマー・雲南から台湾にやってきた人々が集まっている。そして人が集まれば食べ物もやってくる。通りは閑散としていたが、店はかなりあり、取り敢えず適当な店で麺を啜る。何となく雲南麺を思い出す味だ。

実はちょうどミャンマーやタイは水掛祭りの最中。ここでも午前中にイベントがあったが、午後は日常を取り戻しているようだった。昼下がり、ミャンマーミルクティーを飲みながら、話し込んでいる老人たちがいる。言語は中国語もあるが、時にビルマ語、シャン語などが耳に入ってくるような気がする。この付近が形成された歴史、人々の歴史を知りたくなる。私も紅茶とミャンマー菓子で寛いだ。

帰りにバスに乗る。ちょっと距離のあるバス。土曜日で道が空いており、かなりのスピードが出ている。突然ブレーキも踏むので、かなり危険な運転だ。といっても30十数年前の台北のバスに比べれば、まだマシだろうか。バス代は安いのだが、その危険度という意味ではMRTの方が乗りやすい。

4月16日(日)台湾大学へ

日曜日は原則外出しない、と以前は決めていた。やはり休みは重要だ。それでも体が外へ出てしまう。かなり天気が良く、暑さが気になる中、今日は台湾大学方面に歩いて行く。途中の団地では、お天気の中、老人たちが日向ぼっこしている。車いすに乗り、インドネシア人メイドに推してもらっている男性、よく聞いてみるとその会話はインドネシア語だった。彼は華僑なのだろうか。それとも仕事で言語を習得したのだろうか。

大きな道路に面して、温州大餛飩があったので入ってみた。ここではいつもワンタンメンを食べていた。午前中の中途半端な時間でお客は一人しかいない。お母さんが一生懸命ワンタンを1つずつ丁寧に包んでいるのが何とも良い。それを見ながら鮮肉餛飩湯と鶏絲飯のセットを注文する。何だかいつもと違う雰囲気。因みにこの温州大餛飩はフランチャイズ方式らしいが、店によってメニューがちょっと違う。

台湾大学まで歩いて行くとかなり暑い。まずは図書館に入る。以前はバッグを地下1階にあるコインロッカーに預けなければならなかったが、何と1階に移動されていて大いに助かる。入室は前と変わらず。だが、以前見ていた資料の場所が思い出せず、かなりまごつく。結局見たい資料の一部には辿り着かないという悲劇。

一応何とか任務をこなして外へ出る。何となく磯小屋の方へ向かう。入口がきれいになっている。建物は以前のままだが、表示なども増えているような気がする。蓬莱米の父とも呼ばれる磯永吉への関心も高まっているのだろうか。残念ながらちょうど昼時間で、中を見学することは出来なかった。暑いので早々に引き揚げる。

夕方はかなり涼しく感じられたので、また外へ出る。よく行っていた近所の食堂で夕飯を食べようと歩いてみたら、何と店が見付からない。まさか無くなったのかと不安になったその時、店の位置を間違えていたことに気が付く。なんとまあボケが進んだことか。店は昔のままだったが、オーダーはボードに印をつける、会計も機械化されていた。まあ味が変わらないので良しとしよう。

ある日の台北日記2023その(3)南機場夜市と済南教会

夕方バスに乗り、南機場夜市を目指す。ここは全く初めて行く夜市。お目当ては台湾のおこわご飯、米糕。有名な店があるというので行ってみた。こんなところにも夜市があるのか、と思うほど、今や台湾は夜市だらけだ。夜基本的に出掛けないので、夜市にはあまり縁がない。名前からして元飛行場跡なのだろう。

入り口付近にある米糕屋には行列が出来ていたが、よく見るとテイクアウトの人々と分かり、席を探して適当に座る。何とか注文書を渡して待つ。徐々に日が暮れていく中、人が増えていく。久しぶりの米糕、やはり美味しい。昔拠点とした埔里の味が思い出される。排骨湯と煮卵もいい。その後夜市を散策。元々が行く人が来る場所ではないが、地元民で行列が出来ている店もあり、コロナからの復活が見て取れる。私はバスで早々に退散する。

4月14日(金)大稲埕から済南教会へ

朝はまた近所で蛋餅と大根餅を食べる。やはり台湾の朝食はバリエーションもあり、安価であり、そして旨い。もう言うことはない。そのまま近所を散策する。以前はよく行っていた市場方面を歩くと、お客も店も特に変わっていないように見える。帰りに宿泊先の横で、バナナを買う。これも台北生活のルーティンだ。

MRTに揺られて大橋頭駅へ向かう。ここから大稲埕を歩き出す。駅近くには十連棟という建物があり、この付近日本統治代は米などを扱う六大商家がいた場所であると書かれている。平日なので人は少なめであるが、お茶を売る店なども見られる。懐かしい警察署もあった。

本日は王瑞珍茶荘を訪ねてみた。実はこの名前、タイのバンコクにあり、3年半前に話を聞いていた。その際台北にも親戚がいる、ということだったので聞いてみる。突然の訪問にも拘らず3代目夫婦が招き入れてくれ、お茶を飲みながら色々と説明してくれた。やはりこの茶荘も元は安渓西坪から出てきており、王福記などとも親戚にあたるようだ。3代目になってから現在の店舗で小売りに転じたが、元は茶輸出を行っていたという。

そこから大稲埕の港を少し眺めてから、貴徳街をフラフラ歩く。相変わらず細い道だ。李春生記念教会、ここが目指す場所だったのだが、いつものように門は閉まっていた。あれ、と思い、案内をよく見ると、何とここではなく、済南教会と書かれている。実はここで李春生のひ孫さんと待ち合わせていると思い込んでいたので、大いに慌てる。

途中何とかタクシーを拾い、済南教会まで急行した。初めて見たが実に立派な教会が建っており、その後ろの建物の2階で、李春生生誕185周年の記念展示会が行われていた。ちょうど他のお客さん向けに説明が始まり、その流れについて行く。かなり詳しい展示内容、そして李家の大邸宅の模型などを材料に、その歴史が話されていく。これまで李春生については多少は調べていたので、その内容は非常に興味深い。

その後ジョンドッド関連のご本を頂き、更に李さんより日本語に関する質問を受ける。確かに李春生に関しては日本語の資料がたくさん残っているが、その漢字だけでは判別は難しい。李がなぜ台湾に渡ってきたのか、その辺の事情を解明してみる。いずれにしても李と茶葉貿易は重要な関係があるはずだが、何故かそれに関する資料は殆どない。

教会を後にすると、急に腹が減り、その辺の弁当屋に入ってご飯にありつく。排骨飯とは何とも懐かしい響きだ。台湾では食に困ることはない、というか、選択肢が多過ぎて悩むことは多い。安くてうまい、は台湾料理の代名詞。多少の値上がりはあるが、今だにそれは健在だと言えるだろう。

ある日の台北日記2023その(2)近所散策を開始

何と出てこなかった理由は『悠遊卡』を使ったからだった。3年半使っていなかったカードを恐る恐る使ったところ、ドアが閉まってしまった。パスワードなどが出て来るものと思っていたが、何とカードをかざせば開けられる仕組みだった。そんな勝手な大騒ぎの中、35年来のお知り合いTさんがやってきてくれた。昨晩台北に行くことを告げると『取り敢えず空港に行く』と連絡があった。もう4年近く会っていなかったが、全くこれまでと変わらないの普通の会話となる。何と自然なことか。

それから少しPCなどを触ってみる。空港のWifiはかなり強いので、何でもできるし、充電も可能。座って作業に励む。その内、家主の葉さんから連絡があり、家に向かう。結局タクシーには乗らず、いつものように文湖線で行く。家の前には果物を売るおばさんが全く変わらぬ姿でいたのが印象的。

3年半ぶりに家に入る。一番気になっていたのは荷物だったが、何とスーツケースには入っておらず(前回帰る際にケースは持ち帰っていた)、しかも親戚の子供が来て、私の荷物で遊んでいたというので、カビなどは生えていなかった。それでも3年半全く使っていなかった衣服なので、一部は捨て、残りは明日全面的に洗濯しよう。ここに残してきた資料もみな無事でよかった。涙が出る。

そうなると腹が減った。もう思い付くのは近所の麺屋だ。刀削麺の店で牛肉湯肉絲麺を頂く。この店、ちゃんと開いていてよかった。夢にまで見たモチモチ麺とコクのあるスープ。これが食べられる幸せ。値段も10元程度の上昇。といっても円換算ではかなりの上昇だろうか。まあ食べられる幸せが値段に勝る。他の店もあまり変わっていない。コロナの影響はどの程度だったのだろうか。

4月13日(木)懐かしの店から南機場夜市へ

爽やかな台北の朝。まずは近所をうろつき、いつもの店で総会三明治と氷紅でスタートする。ここも10元ほどの値上げ。特に卵入りは高くなっている。そのままフラフラ行くと、今度は大腸麺線の店がある。美味しそうだな、と思っている間に、足が勝手にそちらに行き、口は勝手に注文している。これはやはりうまい。何とも懐かしい味だ。

そのまま歩いていたら、以前あった古い市場が完全に解体されていた。スーパーもセブンに代わっている。やはり3年半の間には、それなりの変化があったのだろう。その先には新しいきれいな市場が出来ていた。2階には食堂街もあるので、今度機会があれば食べに来ようと思う。敦化南路の街路樹はそのままだった。

今やなんでもオンラインの時代だ。葉さんからもらったURLを開くと、そこではお茶販売の新しい試みなどについて、台湾人とシンガポール人で議論が交わされている。パティシエである葉さんの息子も堂々と英語で持論を述べている。こういう議論に日本人はなかなか加われない。台湾茶業も重大な変革期のようだ。

午後早々に約束を取り付け、双連までMRTで行く。駅から地上に上がると何となく懐かしい。思わず以前も食べた店で肉羹と魯肉飯を注文する。値段は10元ずつ上がっただろうか。ここの魯肉飯は肉がゴロゴロしており、何となく日本で食べるものを思い出させる。食後裏道を行くと、まだまだ古い店がいくつか残っており、何とも好ましい。

茶荘に湯さんを訪ねる。彼女とはもう20年近い付き合いになる。既に店は息子に任せて悠々自適かと思っていたが、知り合いと一緒に理想の高山茶を作るべく、現在も奮闘中らしい。昔はプーアル茶で一目置かれ、その後烏龍茶、紅茶などに取り組んだ茶商さんの追及はまだ続いている。その熱意には心打たれる。

ある日の台北日記2023その(1)3年半ぶりに台北へ

《ある日の台北日記2023その1》  2023年4月12日-20日

実に3年半ぶりに台湾に舞い戻った。荷物や資料は置きっぱなしでずっと気になっていたが、台湾の門は固かった。仕方なくまずはタイで5か月を過ごし、ついに3月には台湾も基本的にコロナ前に戻ったので、出掛けた。それにしても飛行機代が高くなりすぎて、今後はちょくちょく行くことは出来ないような気がした。

4月12日(水)3年半ぶりに台北へ

羽田から台北へ。3年半前まではそれは日常だったが、今回は久しぶりで緊張する。午前10時台のエバエアを予約していたが、8時前には空港に到着した。何しろ保安検査場が激込みでフライトに乗れない乗客が出ているとFBに書かれていたからだ。因みに余裕を持って家を出たので早過ぎてしまい、珍しく渋谷からバスで羽田へ向かう。だがリムジンバスは何と1時間に一本ほどしかなく、ちょうど乗り場に行った時バスが来て何とか乗り込めたのだ。主要駅から空港行バスも激減している東京。

まずは荷物があるのでチェックインする必要があるが、何と保安検査場がそんな状態なのに、カウンターはまだ開いていない(2時間前開始)。しかも並ぶ場所も不明確で乗客は混乱していた。何とか荷物を預けると今度は長い長い列が待っていた。まるでセールに殺到する買い物客のようで、係員が『最後尾』のプレートを持っている。

そこから40分ほど死の行軍が続く。外国人も多いが、皆諦め顔で文句を言う人はいない。ただひたすら耐えている。子供連れだと大変だ。どうしてもフライトに間に合わない客は航空会社のスタッフが別に誘導しているから、次回はギリギリに行こうか。何とか保安検査場へ辿り着く。

まあここの作業が遅いのは昔からだが、スタッフもストレスが相当かかっていて気の毒だった。最後に自動ゲートを出て出国スタンプを貰おうとしたら、頼んだところと全く別の場所にスタンプを押して返してきた。こちらは必要があるから場所を指定しているのに、何だか権力を振りかざした、勘違い係官で驚いた。

結局1時間半前には準備完了。とにかく朝から疲れた。ドリンクを飲んでゆっくり休んでから飛行機に乗り込む。先日乗った日系と違い、エバは何とも落ち着く。日本映画を見ながら、美味しい食事を頂き、烏龍茶を飲む。徐々に台湾へ行くというモードになる、何とも言えない気分だ。

気になっていたのは空港の混雑だった。以前は特別ルートから入国できたので問題なかったが、今やその神通力も通用しない。さっさと通路を歩き、入国審査場へ行ってみると、何とほぼ人がいない。むしろ特別ルートの方に何人か並んでおり、それを横目にあっという間に入国完了する。松山空港は便数が限られているからだろう。早過ぎて荷物が出て来るのに少し時間が掛かる。その間、日本からの卵などの持ち込み注意を呼び掛けられる。サンドイッチにたまごが入っていても捕まるらしい。

懐かしの松山空港。まずは夜までここで待機する必要がある。中華電信でいつものシムを買い、作動させる。それから両替。何とタイなど東南アジアで拒否されてきた米ドル旧札の両替が出来たのは嬉しい。一応手数料として1%取られたが、全く両替できないのに比べれば全くマシだった。

次に大きな荷物をコインロッカーに入れた。以前もやったので問題ないと思っていたが、前の人がドアを閉めて処理が完了するとレシートが出てきたのに、私の番になるとなぜかそれが出てこない。なぜか分からず、しかし取り出すことも叶わない。困っていると掃除のおばさんが手伝ってくれ、最後は係員まで呼んできてくれた。これが台湾の親切だ。

ある日の台北日記2019その3(16)チョコイベントへ

11月17日(日)
茶展からチョコイベントへ

今日はゆっくり起きて、また茶展に向かう。まだ挨拶していない茶業者も沢山いるので、この機会に纏めてご無沙汰を詫びる所存だった。日曜日なので人出は多いが、業界人は来ない日なので、余り直接的な商売にはならないらしい。どちらかというと一般人向け宣伝の日という位置付けかもしれない。

 

人だかりができているブースに行ってみると、Aさんたちが手もみの実演をしていた。その横では、以前お世話になったNさんたちが和服でお茶を点て接客に忙しい。こういうブースは非常に分かりやすくて人が集まる。その場で茶葉の販売もしており、日本茶普及への貢献度は高い。

 

少し離れた所に行くと、陽光茶園のブースが見えた。ふと覗くと楊さんもやはり来ていた。既に98歳だが、先日の南投茶博にも姿を見せており、霧社からここまでやってくる体力はすごい。魚池の李さんを見つけ、そこでお茶を飲んで休む。新しい茶工場もできたというので、次回は是非訪ねてみたい。三峡谷芳のブースも久しぶり。なぜかスペイン人の若者がここの緑茶に興味を持ち、あれこれ聞いている。

 

折角なので、横の食べ物コーナーも一通り見学する。食品卸しのブースが多いせいか、その場で食べられる場所は多くはない。私はいくつかサンプル品をつまんで腹が一杯になってきた。台湾には美味い物が一杯ある。更には反対側の酒コーナーもふらつく。酒を飲まない私には無縁の場所だが、お茶コーナーより多くの人が試飲などをしている。コンパニオンが酒を勧めるなど華やかさがある。日本酒のブースも人気だ。

 

確か夕方、知り合いが来るとか言っていたので待とうかと思っていると、葉さんが『今からチョコレートイベントに行かないか』という。茶展にも飽きてきたので、その誘いに乗ると、会場は市政府近くの百貨店であり、地下鉄で移動した。特設会場に着くと大勢の観衆がいた。そして驚いたのは、葉さんの茶葉をチョコレートやドリンクに混ぜて使っていたシェフは日本人だったのだ。

 

お茶とチョコのコラボ。そして台湾特産品とのコラボ、いわゆるペアリングだが、これを日本人シェフがアレンジして、台湾で提供するのは、実に面白い。実際には銀座の店で提供が始まっているらしい。非常に工夫されており、多彩で観客ウケもよい。お茶の扱い方を見直す時期が来ていることを感じさせる。

 

11月18日(月)
南港の茶農家へ

茶展最終日。昨日途中で抜けてしまったので、今日も行こうと地下鉄に乗る。鹿谷からUさんが出てきており、南港で待ち合わせることになっていた。ちょうど2年前Uさんと南港の茶農家に行ったのだが、彼は今日もそこへ行くというのでバスの時間を確認していた。ところが今日は大雨だった。

 

Uさんのお義父さんが車で送ってくれるというので、南港茶展に寄らず、駅で拾ってもらい、そのまま茶農家へ直行した。ここはいつ来ても懐かしさを感じさせる場所だった。そして素朴な農家が、昔ながらの茶作りをしているのが、何とも好ましい。数種類の包種茶を並べて試飲していると、その発酵度も若干高く、心地よい。ほぼ今年の茶は作り終えており、常連さんがどんどん買って行ってしまう。

 

奥さんは茶摘みのプロ(ご本人は長年やっているだけと言っているが)であり、全国茶摘みコンテストで準優勝するなど、その実力を発揮している。今や茶の摘み手不足が深刻化する中、貴重な存在だ。果たしてこの茶農家、いつまで続くのだろうか。台北市内から車であっという間なのに、この山の中。環境的にも面白い。

 

一度宿泊先に帰り、夜はTさん主催の浙江の会に参加させてもらった。先日は四川の会だったが、Tさんは昔から会を作って人を集めるのが得意なのだ。今晩も6人で杭州料理を食べた。奥さんが浙江人という方が中心だが、近々江蘇との合同会に発展するとか。台湾にも中国関係者が増えているということだろう。

 

今回の台北滞在1か月半も無事に終了した。茶の歴史はいくらでも広がっていくが、調べることの限界も見えてきている。そしてその広がりは台湾に留まらず、中国、そして東南アジアへと繋がっている。来年は少し台湾滞在が減り、東南アジアシフト及び中国への本格調査が始まるのかもしれない。

ある日の台北日記2019その3(15)坪林の絶景茶畑

11月16日(土)
坪林へ

翌朝は早く起きて、新店駅へ向かった。今日は知り合いと共に坪林を散策する予定となっている。坪林行バス、週末なのでハイキング客で混んでいるかと思い、早めに集合したところ、何とか乗車することができてよかった。ここから1時間弱で坪林に到着する。ちょっと朝早かったが、祥泰茶荘は開いており、お父さんがお茶を淹れてくれた。因みにお父さんの趣味の一つが急須を集めることであり、ものすごい数の急須を所蔵していることに初めて気が付く。

 

それから馮君が包種茶について色々と説明をしてくれ、勉強する。その後、天気が良いので茶畑を見に行こうと言って、近くの川沿いの畑を見学する。最近は茶農家と一緒に茶畑を見ながら基本的な話しをする機会は無くなっており、ちょうどよかった。もう街の近くには茶畑は殆どない。

 

馮君は他に予定があったので、そこで分かれて、早めの昼ご飯に向かう。勧められた食堂に行くと、店先に珍しい野菜が置かれており、自分で選んで調理してもらう方式になっていた。この野菜が色味はワイルドだが、新鮮でなかなか良い。それに乾麺やスープ、魯蛋などを注文して腹を満たす。味がとても良く満足。

 

腹がくちると散歩するが、何しろ暑い。通りをフラフラしていると、店先で茶葉のてんぷらを作って売っていたので、興味本位で食べてみることにした。これもサクサクしてなかなか美味しい。日本でも是非茶葉天ぷらを茶産地の名物にして欲しいと思う。このお店、勿論お茶屋でもあり、茶箱には達筆な文字が書かれている。今や茶葉を売るにも個性が必要な時代だろうか。

 

その後もフラフラと歩き、茶葉博物館の前まで来た。前回既に見学していたので、今回は単に待ち合わせ場所に使った。午後は白青長工作坊を訪問する予定となっており、白さんがわざわざ迎えに来てくれたのだ。私は2年前に一度訪ねてことがあったが、昨日偶然茶展で再会し、急遽今日の訪問が実現した。これも茶縁だろう。

 

『坪林で一番高い所にある茶畑を見に行こう』と連れて行ってもらったのは、山道をかなり上った標高800mの茶畑。その風景は絶景で、遠くには太平洋も望めた。だが台風などが来れば、畑は直撃を受け、強い風で葉は育たないともいう。ほんのちょっと離れた場所でも生育状況がかなり異なることを知る。自然環境とは実に恐ろしいものである。

 

白さんの家は高祖父の代から茶を作っているらしい。この付近の茶畑は、福建の安渓から渡ってきた先祖が開拓し、今も親族が所有して、何軒かが茶を作っているという。白さん自身は33歳で、大学を出てから茶業を継ぐため郷里に戻った5代目、青年茶農だ。ちょうど2年前我々が訪ねた時に結婚し、既にお子さんがいた。台湾ではイケメン茶農家としても有名だと聞く。

 

白さんの茶工場に向かった。ここには最新鋭の製茶機械が揃っており、包種茶を中心に、東方美人茶、白茶、鉄観音茶など様々な茶を作っている。ちょうど摘まれた生葉が到着し、お父さんが室内萎凋を行っていた。今や坪林では日光萎凋は行わず、いきなり萎凋槽に茶葉を入れて、熱風萎凋を行うのが普通になっている。これなら天候に関わらず、茶作りができる。

 

数種類のお茶を試飲した。あの800mの茶畑に植えられていた鉄観音で作られた茶もあった。焙煎機も最新の設備を備えている。何度も言うが、台湾茶の歴史の中で、一番重要なのは包種茶だと思っている。現在は坪林の文山包種茶だけが有名であるが、日本時代はどこでも作っていた。坪林の、それもこれほどの山の中であれば、その伝統もかなり残っているかと思ったが、今や技術は進み、若者は最先端の茶を作っていく。

 

茶工場の前にある茶畑、雰囲気がとても良い。何でも台湾茶飲料のCMのために使われたらしい。しかもそこに出演したのが、何と日本の俳優、阿部寛だというから驚いた。先ほど隣でお茶を飲んでいたカップルも、この茶畑でポーズを決めて写真を撮っている。私もイケメン君の写真をパチリ。

 

帰りに車で街まで送ってもらう。ちょうど車がバス停に着いた時に、新店行のバスがやってきたので、急いで乗り込むと、何とか席を確保できた。お世話になったのに挨拶もできぬまま、お別れとなってしまったのは残念だ。まあまたどこかで会うこともあるだろう、きっと。

ある日の台北日記2019その3(14)南港茶展始まる

11月15日(金)
南港茶展始まる

翌朝、茶展に出掛ける葉さん夫婦に同行して、南港に向かった。開場は10時だが、9時に到着。皆さんは準備に精を出すが、私はやることもないので、一度会場を後にして、近所を散策する。すると、ロイヤルホストの看板が見え、何やら朝食を提供しているとあったので、思わず入ってみる。

 

朝定食は2種類あり、どちらも190元だった。鮭和風定食はよいが、和牛ハンバーグ定食は、日本の朝に、出て来るものだろうか?取り敢えず鮭を選択してみたが、そこはファミレス。当然ながらチンして作った食事だから、何とも味気ない。海苔が一番良いかな。ハンバーグの方がよかったかと後悔する。因みに午前9時台に食事している人はほとんどいなかった。

 

会場に戻ると既に沢山のお客さんが入場している。葉さんの所では、冷蔵庫が壊れたようで、ジェラートが提供できずに困っていた。私はブースを回り始める。まず目に入ったのが、埔里で高山茶を作っている原住民のところ。以前一度訪問したことがあったが、今は息子が販売に力を入れている。

 

鹿谷の連山とは、先日南投でも会っており、既に顔なじみになった。花蓮の嘉茗茶園も毎年出店している。先日東台湾茶の歴史を書いたので、その冊子を渡す。花茶の歴史関連では、三峡で先日訪ねた天芳が出店している。息子が来ており、お父さんと会ったことを話すと喜んでくれた。そしてこれから是非行くべきと言われた茶業者も出店していたので、奥さんにあいさつした。来年訪ねる時、果たして覚えていてくれるだろうか。

 

あっという間に昼を過ぎてしまった。知り合いが来ていたので、一緒に近くにあった台湾料理の欣葉に行く。欣葉は懐かしい店だが、最近は大発展を遂げ、支店を幾つも出しており、ここもきれいな店舗だった。茶展関係者が沢山食事をしていたが、何とか席を確保して、定番料理を食べた。

 

実はこの知り合い、夜も台湾人の招待で、別の欣葉で食事をすることが分かり、何だか申し訳なかった。その話を聞きつけたこの店のマネージャーが『夜はどこの欣葉に行くのですか?予約のお名前は?』といい、何と我々が昼に食べたメニューを夜の店に伝達しておくので、重ならない食事ができるでしょう、というではないか。この辺のサービス概念は素晴らしい。

 

午後もまた、ブースを回った。ただ1階のお茶コーナーではなく、4階にある珈琲コーナーを見学した。4階の方が規模は遥かに大きく、来場者も遥かに多い。各ブースでは、新しいコーヒーの売り込み、淹れ方や豆の紹介などを競って行っている。やはりお茶よりはコーヒーかとも思ってしまうが、よく見ると4階の隅には空きスペースが結構あった。さすがに台湾のコーヒーブームも一段落かなと思われるスペースだった。

 

午後4時過ぎに南港を出た。葉さんから『中山の店とコラボして、お茶が飲めて、アイスが食べられるスペースがある』と聞いたので、予約してもらったのだ。その店は中山駅からすぐの所にあり、畳があるなど和のテースト満載だった。そこで何と、ジェラート、お茶ポップコーンなどのセットが無料で体験できたのには驚いた。

 

聞けばこの店は、食事も提供する予定だったが、火の取り扱いが禁止されてしまい、やむなく閉店するところで、葉さんたちが1か月だけそのスペースを借りて、プロモーションに使っていたのだ。日本人観光客からは、『こんな店があったら是非行きたい』との要望もあるようだが、ある程度の料金を取っても、家賃との比較では割に合わないのだろうか。

 

既に暗くなりかけていた。中山からトボトボ歩いて、長安東路に向かった。夜は『32年ぶりの再会』が待っていた。32年前に一緒に上海に留学していたBさんから、『あの時院生だったSさんが来るので会いませんか?』と誘われたのだ。正直Sさんとはそれほど親しく話した記憶はないが、言われた瞬間、彼のフルネームを思い出し、急に懐かしくなっていた。

 

会うと、その面影は十分に見て取れた。彼は九州の大学で中国文学を研究しながら、中国語を教えているのだという。留学中、似非文学班だった私とは違い、Sさんは既に明確な目的で留学しており、その後も巴金や余華などの文学作品を研究、紹介していた。今は台湾の日本時代文学にも興味を持ち、台湾に来る機会も増えているらしい。

 

久しぶりの熱炒で、何だかたくさん食べて、たくさん話してしまった。酒を飲まない私は熱炒に来る機会も少ないが、偶にはこういう空間で食事をするのもよいものだ。何となく熱気があると、人はハイになるらしい。急に思い出した懐かしい記憶、ご縁も繋がり、いい一日だった。

ある日の台北日記2019その3(13)花茶から広がる意外な歴史

11月10日(日)
再び全祥茶荘へ

土日は動かないとの原則が崩れていく。土曜日は気になっていた花茶資料探索のために、永和図書館へ行く。ここでひたすら日本時代の新聞記事を検索して時を過ごす。それに疲れたら、日本時代の書籍を斜め読みする。午後一に出掛けても閉館の5時近くまでいることになる。

 

帰りがけに1階奥のスペースを何気なく見ると、写真が数枚飾られていた。近づいてみると、古寧頭戦役70周年記念の写真展だった。古寧頭戦役と言えば、国共内戦で国民党が金門島を死守した戦役だと記憶している。そうか、中国人民共和国が建国70周年なのだから、その裏には70年前に幾多の歴史が起こっているのだ。ただこの展示には、根本中将などについては全く触れられていない。

 

翌日もまた出掛けてしまった。知りたいことが出てくると、どうしてもすぐに動きたくなる性格なのだ。先日一度訪れた、全祥茶荘、その衡陽路の本店にもう一度行ってみる。今回は林さんのお父さんに話を聞く。日本時代、林家は天津で商売していたということで、そのあたりの事情を聴いたのだが、お父さんも台湾生まれであり、伝えられているトピックスを参考までに聞く。

 

その中には、あの民主活動家で、先ごろ亡くなった呂明さんの名前などが出てきて驚く。後日呂明伝記を読んでみた。彼もまた、大陸から引き揚げた一人であり、その引き上げの際に頼った親戚というのが、私が今調べている王添灯の兄、王水柳だと書かれているではないか。ここでも繋がったお茶の歴史、本当にすごい。

 

お父さんの話は引っ切り無しにお客が来るので、途切れ途切れになる。花茶の歴史としては、外省人がキーになると思われるが、この店の裏は台湾銀行本店、その向こうは総統府という位置関係を考えるだけでも、そのレトロな店舗と相俟って、その歴史の一旦は十分に見て取れるのではないだろうか。

 

このすぐ近所には、兄弟である華泰茶荘もある。そして西門町まで歩けば、紅楼のすぐ近くに全泰茶荘もある。ここも先々代は兄弟である。一応歩いて行ってみたが、特に中には入らなかった。お客は観光客がメインなのだろうか。私はあまり各家のファミリーヒストリーを調べるつもりはないのだが、この辺の棲み分けには興味がある。

 

帰りがけに、店先でいい匂いをさせている食堂があったので、フラッと入り、肉粽と魚丸湯を食べてみる。たまに食べるとこういう食事は実にうまく感じられる。しかもサックと食べられるのが何とも私の今のリズムに合っている。宿泊先の近くにこんな店がないのは残念だ。

 

11月14日(木)
茶業者の宴会へ

今日から何となく南港茶展のムードが高まってくるが、なぜか朝部屋の電気が点かなくなる。停電かと思ったが、電球が切れたことが判明。すぐさま近所の雑貨店に行き、替え電球を買い求める。こんな時、台北はすぐ近くに何でも売っている店が何軒もある。コンビニでは間に合わない物を簡単に買えるのは良い。そして電球を交換したので、部屋が急に明るくなり、眩しいほどで、ちょっとやる気が出る。

 

午後は知り合いがやってくるので、松山空港に迎えに出た。ちょっと時間があったので、空港展望台に行ってみる。今やどこの空港にもある展望台だが、ここは飛行機との距離がやけに近い。やはり小さな空港なのだ。そういえば、飛行機に乗っていると、『空港上空からの写真撮影は禁止』とのアナウンスが流れるが、ここからは何の規制もないのか。

 

今回日本から来た人はちょっと変わっており、ホテルではなく、民泊するという。タクシーでその住所へ向かったが、本当に住宅街で、探すのは大変だ。しかも古い住宅で、5階までエレベーターもなく、重い荷物を自分で持ち上げなければならない。宿泊スペースは快適そうだが、私には向かないタイプだ。オーナーは流ちょうな英語を話し、近隣紹介もちゃんと英語で書かれていた。『鼎泰豊まで歩いて行けるぞ』がウリらしい。

 

夜は明日の南港茶展の前夜祭か、茶業者の集まりに顔を出す。日本から手もみのAさんが来ており、彼を囲む夕食会に私も飛び込んだ形になる。行ってみると3卓もあり、非常に盛況な会だった。主催者の許さんの人徳だろうか。明日の茶展に出展する台湾中の茶業者の顔が見られた。

 

Aさんは非常に社交的で、言葉が通じなくても、酒を酌み交わし、誰とでも仲良くなれる人だった。何だか昔の日本の宴会がそこにあって、酒を飲まない私でも、ちょっと懐かしい気分に浸る。海鮮料理の店なので、海の幸がふんだんに出てきたが、途中から何を食べているのかも分からなくなってしまい、笑い声が絶えないまま、夜は更けていった。