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ある日の台北日記2025その1(3)頭份から大稲埕

バスターミナルまで歩いて戻る。2時過ぎのバスに乗客はあまりいない。うつらうつらしている間に、高速道路を走り、気が付くと高速を降りていき、予定より10分遅れで頭份のバスターミナルに入った。そこには7年ぶりに会うジャッキーが待っていてくれ、彼の車で店に向かった。その店は3代前からやっている製茶機械の製造販売がメインだった。だが今回聞いてみるとジャッキーはお父さんの機械製造には関わらず、独自の道を歩んでいた。

そして台湾ではなく、イギリス・フランス・日本などのコンテストで入賞し、今では台湾でも有名茶業者となっていた。時々彼のFBは覗いていたが、まさかこんなすごいことになっていると、夢にも思わなかった。まだ自前のお店は持っておらず、実家でお茶を淹れてくれたが、淹れ方にもかなりの工夫が見られ、お客を楽しませている。これから東方美人の生産が始まるということで、ちょうど空いていたタイミングでやってきたが、大正解だった。

あっと言う間に3時間近くが過ぎ、帰りのバスの時間を確認すると、かなり間が開いていた。どこかでご飯でも、と考えているとジャッキーが弁当を手配してくれた。これがまた豪華で美味しい。量が多過ぎて全部食べ切れなかったのは残念だったが、家庭的なご飯がサッと出てくる台湾、やはりすごい。

バスターミナルまで車で送ってもらったが、何と時刻表の時間になってもバスは来ない。おまけにチケットは空席待ちになっており、金曜日の夜だからか、人はどんどん並んでいく。ここ苗栗は客家が多く住んでいるが「客家語を話しましょう」というスローガンが現状を物語っている。30分後、ようやく次のバスと2台一緒にバスが来た。我々は1台目に乗り込み、ホッと一息。1時間ちょっとで台北まで戻った。意外と夜遅くなり、疲れたが、いい旅だった。

6月14日(土)大稲埕で

翌朝は大稲埕でお茶屋に行ってみる。埠頭近くにある王錦珍、コロナ前に息子に高山茶コーヒーを淹れて貰って以来、来ていなかった。入っていくと奥さんが出てきたが、後ろに老板がいるのが見えたので声を掛けると、何となく思い出したようで、色々と話が始まる。老板とは、コロナ前何度かお茶関係の宴席で出会っていたが、ちゃんと話をしたことはあまりなかった。杉林渓茶が香っている。因みに息子は今年からカナダで働いているらしい。

王錦珍のすぐ裏は、錦記ビルになっていて、その横の陳天来故居は改修されている。来年には公開されるらしいが、どんな風になるのか興味津々。それから王瑞珍へ行ってみる。ここは一昨年訪ねている。バンコクの王瑞珍と親せき関係かどうか聞きに来たのだが、何とその後昨年、バンコクの王一家が台北にやってきて、初めて会ったという。私がきっかけで親戚同士が連絡を取り合うようになったのであれば、こんな嬉しいことはない。

ここでは玉山の高山茶が美味しかった。更には焙煎によってかなり味が変わること、お茶を飲みながら学んだ。こういう店が必要なのだが、後継者はおらず(娘たちに継がせるには大変過ぎる)、もう何年かで閉店するかもしれないと言われるとかなり寂しい。老板夫妻は二人ともかなり日本語が出来るので、日本とのビジネスも多かったろうが、日本側の購買力の陰りも影響しているだろうか。

ある日の台北日記2025その1(2)ちょこっと大稲埕へ

6月12日(木)日常の台北

朝5時半には目覚めてしまう。クーラーを掛けて寝て、夜中に一度切ったら暑くてまた起きてしまい、結局よく眠れないまま朝になった。東京だって昨年の7月はこんな状態だったが、台北でいきなりこれが来ると辛い。今は梅雨なのだ。さすがに朝はさわやかなので、窓を開けて風を入れると良い。メールチェックなどをして過ごす。

少し腹が減ったが我慢した。中国旅と怠惰な東京生活での食べ過ぎがたたって体重は激増しており、体が重い、疲れやすい感覚に見舞われていたからだ。洗濯でもするかと思ったら途端に雨が降り出す。まさに梅雨だ。お陰で暑さは少し安らいだが、外に出るのも億劫になる。

午前10時頃雨は止んだので外へ出た。まずはいつもの店でいつものクラブサンドイッチにアイスティーの朝食だ。店のおばさんの愛想が何だかよくなっているような気がする。大腸麺線もついでに食べたかったが、これではダイエットにならないときつく心を戒める。その後全聯に行き、生活用品を買う。散歩するのが快適でよい。

午後は明日からの準備に取り掛かる。あっと言う間に半日が過ぎてしまうのは、作業効率低下が著しい証拠だ。夕方下のセブンにゴミ袋を買いに行く。台北でゴミを出す場合、専用の袋に入れないと怒られる。数年ぶりにこれを買うのはちょっと緊張するが、すぐに出てきて良かった。

夕方は風が強く、気持ちよい。いつも行っていた餃子屋が牛肉麺屋に変わっていたのは何とも悲しい。それでもお気に入りの牛雑屋は健在でよかった。しかも昨年初めて打ち解けた老板娘が「あんた、帰ってきたの?」とにっこりしたのには本当に驚いた。この7年で初めての事態にドギマギする。牛肉玉米炒飯は抜群に旨かった。牛雑湯は少しぬるかったが、それでも食べられてよかった。

6月13日(金)頭份へ

朝早く目覚める。今日はランチまで何も食べないぞ、と思っていたが、5時に起きて8時前には我慢できなくなり、朝飯を探しに行く。近所の別の店でまたクラブサンドセットを注文。昨年より10元上がっていたが、それでも美味しいから食べてしまう。近所の子たちが学校に行く前に朝食を食べているのが台湾っぽい。

今日はKさんが早朝便で台湾にやってくる日。順調に到着したとの連絡を受け、出掛ける。まずは台北駅付近のダイソーに行き、耳かきを買う。商品の種類が多過ぎて、探すのに手間取る。雨が降り出し、地下を通り、バスターミナルへ向かう。今日は午後苗栗へ行くので、そのチケットを買った。近距離バスでもチケット買えるんだな、と思う。

小雨の中、金春発で待ち合わせ。ここの牛雑湯が飲みたいと思いやって来た。最近の癖でカレー麺も頼んでしまう。このカレー麺、如何にもカレー味だが、1897年創業を謳うこの店で、一体いつからあるのだろうか、とふと思う。店はどんどん混んできて、相変わらずの盛況ぶりだった。

バスまで少し時間があったので、大稲埕付近を歩いてみる。朝陽茶葉公園に達し、有記に入ってみると、薄暗い雰囲気でお客もいない。お茶の試飲も出来ないというので、早々に退散する。その後迪化街に出て歩いていると、ちょうど王福記が目に入り、そこに吸い込まれた。お父さんが元気に相手をしてくれ、高山茶を飲ませてくれて、一息つく。鉄観音茶を広めたのは誰か、など興味深い話になる。

ある日の台北日記2025その1(1)台北に到着すると

《ある日の台北日記2025その1》  2025年6月11₋20日

1年ぶりに台北にやって来た。そろそろ茶旅のネタも尽きてきたが、今回は一体どうなるだろうか。普通は到着してから各所へ連絡するのだが、今回は滞在を少し短くしたので、事前に連絡したところ、取り敢えず最初の一週間はほぼ予定が出来てしまった。

6月11日(水)台北到着

ちょうど梅雨入りした東京。昨日から雨が降っていた。今日は空港へ向かうのだが荷物が多いので、雨に降られると運べない。タクシーを呼ぼうかと調べてみたら、羽田空港まで定額8100円となっていたが、別途高速代を負担しなければならず、一人で乗るには正直高過ぎる。ああ、中国の車を呼べればなあ、恐らく1/4の料金で行ってくれるだろう。

天気予報では午前8時半に一時的に雨が止むと出ていた。私はその時間に家を出たかったので、準備して待っていると、本当に止んだ。すごいな、日本の天気予報。急いで荷物を引いて駅まで行く。新宿からは荷物が多いとバスだが、今回はそのまま電車を乗り継いで羽田に至る。外はかなり雨が降っている。

機体は大型機であったが、満席ではなかった。日本人と台湾人がバランスよく乗っている感じ。日本人CA2名が乗っていたが、彼の日本語は分かりづらく、聞き返してしまった。余程華語で言ってもらった方が分かりやすい。今回の食事はイマイチだったが、コージーコーナーのエクレアが付いていた。映画は長澤まさみを見ている内に2度寝落ち。機内で30分無料のWi-Fiがあったので、初めて空の上で繋いでみた。これがあるともう出張者は休息できないな、と余計なことを考える。

何となく3時間が過ぎて松山空港に降りた。通路で「荷物検査免除」のカードを貰う。どうやら中国や韓国から肉類の持ち込みが横行しており、特定フライトの乗客は全て荷物検査があるらしいのだが、日本便の客は有難いことに免除されていた。入国審査も多少列が出来ていたが、殆ど日本人なのでスムーズ。

外へ出るとまずはラッキードローを引く。2023年からこれを引いているが当たったためしがない。だが今回ある人の投稿を見ていると半数の人が当たっているとあったので、かなり意気込んで引いてみたが、やはりハズレた。これで3年連続5回目のハズレ、5000元貰えればデカいのに、なぜ?

空港内でドリンクを買い、時間調整のためいつものデスクに行く。ここは充電が出来て、ネット環境もあるので、毎回使わせてもらっている。大家から連絡があれば、ここからMRT数駅で着けるので実に便利だ。そして何とか宿泊先に入って荷物を取り出していると、突然アラートがあり、地震が始まった。幸い大した揺れもなかったが、昨年は到着翌朝大地震に遭遇し、今回は何と10分後に洗礼を浴びた。まさか私が地震を運んできたとは思いたくないが。

外へ出るとあの露天商のおばちゃんと目が合った。彼らはちょうど帰ろうとしていたが、私を見るとすぐに最後に残ったバナナを持って来た。即購入。昨年台北を離れる際は1週間ほど姿を見なかったので廃業したかと心配していたのだが、良かった。それから牛肉湯肉絲麺を食べに行ったが、いつもの店は閉まっていた。またトラブルでもあったろうか。

隣が開いていたので、何となく牛肉湯麺と言ってしまったら、本当に肉絲はなく、スープに麺が入っているだけの実に寂しいものが出てきた。まあ、これでも十分美味しいのだが、牛肉麺にすればよかったと、かなり後悔の台北滞在1食目。それにしても台北は暑い。蒸し暑いのだ。東京が雨で涼しかっただけにこれは結構堪える。クーラー全開でも眠れない。

ある日の台北日記2024その7(5)早朝東京へ戻る!

今晩は一大イベントが待っている。ゴミ出しをしなければならない。台湾はいい所も多いが、一般家庭ゴミは、ごみ収集車の到来を待って出すルールだから、これはかなり困る。何しろ帰国直前でゴミも溜まっているが、今晩出せないと、もうチャンスがない。午後9時前のあの音楽を今か今かと待っている訳だ。近所の人々がぞろぞろと集まり、ごみ収集車にゴミを投げ入れ、そして出し終わるとどっと疲れて寝る。

6月2日(日)広東語の世界

朝から大雨で洗濯も出来ない。取り敢えず真下のセブンまで行って、おにぎりとサンドイッチという朝ご飯を確保した。今日は月に一度のオンラインがあり、時間が迫ってくる。時差1時間といえども、なかなか厳しい。まあ何とかこなして話し終えてると、午前中は終わってしまう。

昼ごはんは雨も止んでいたので外へ出る。珍しく日曜なのに、広東系の店が開いていた。その店先で、シェフとお客がたばこを吸っていたのだが、その会話が耳に入る。広東語だった。これまで外省人の存在については何度も認識してきたのだが、今回の台北で、この街に広東語の世界があるのを知ったのは何とも大きい。

店に入って広東料理らしいものを頼もうと思ったが、結局いつもの三宝飯になってしまうのはなぜだろうか。香港に10年も住んで、もうちょっと気の利いた選択肢はないのだろうか、と我ながら思う。店内での従業員の会話は華語であり、広東語はお父さん世代で共有しているのだろうか。来年があれば、奥深い台湾の広東語の世界をもっと覗いてみたい。

6月4日(火)早朝東京へ

結局バタバタ、にバタバタを重ねて何とか荷物を押し込み、帰国の日を迎えた。チケットを取った数か月前は、『何でも新しいことにチャレンジしよう』などと思っており、これまでの午後4時発の帰国便を改め、何と午前7時20分発にしてしまっていた。さすがにそれは早いだろうとは思ったが、宿から松山空港までは、車で15分ほどの距離であり、何とか行ってみることになった。

5時半頃道路に出て、タクシーを待てばよいとは思ったが、重い荷物を抱えていて、万が一車が来ない場合の代替案が無い。MRTの始発も6時過ぎだから、難しい。バス停まで引っ張って行ってくるかどうかわからない。結局配車アプリで車を呼ぶことにした。だが事前練習は出来ず、いきなり午前4時に起きて、5時過ぎには車を頼んだ。

ちょっとしたハプニングはあったものの、車は見付かったが、なんと3分で来てしまった。確かにこんな時間に走っている車はなかったから早い訳だ。そしてあっという間に空港まで行ってしまい、名残を惜しむ余裕もなかった。とても便利だったが、現金払いが出来ないのはちょっと不便かな。

チェックインカウンターも開いておりスムーズかと思われたが、大きな荷物を2つ出すと『1個の荷物は23㎏以下』と厳しく言われてしまう。一つからもう一つに移すにしても、大きさの関係もあり、結構大変だったが、眠い目をこすりながら、なんとかこなした。後は夢見心地で搭乗して、眠っていると成田に着いてしまった。

成田から重い荷物を持って帰るのが面倒で、10年ぶりに宅配に頼んでみた。随分色々と手続きも変わっていて驚く。初めて日本に来る外国人の心境で指示通り行い預ける。料金を安いと考えるかどうかは人に寄るだろう。まあ今回は資料や本が多かったから、宅配は正解だったろうが、翌日運んで来た人は大変だったのではないだろうか。

ある日の台北日記2024その7(4)突然木柵春茶品評会へ

5月31日(金)突然木柵コンテスト見学

今朝は松山空港へ行く。今日は帰国日ではないが、使っているSimカードが切れてしまうので、購入する。これまで30日有効を使ってきたが、今回は後5日なのでだいぶん安い。いや、コスパから言えば随分と高いということか。円安も響いて、Sim料金は高すぎるので、次回は色々と見なおす必要がありそうだ。

今回の台北滞在の前半で大いにお世話になったMさん。日本に一時帰国していたが、ちょうど戻られたので、最後の食事を食べに行く。場所はずっと行きたかったが、今回イケていなかった金春發。11時半開店ということで待ち合わせたが、その時間にもう食べている客がいた。本当は何時開店?

いつもは一人で来るので注文は限られるが、今日は2人なので思いっきり頼んでみた。牛肉カレー麺やら、ホルモン系が並んでいくのは爽快で、食べまくって腹パンパンという状態に陥る。まあこれも台湾最後の贅沢だろうか。これからどこへ行こうかという話になり、木柵へ向かった。1時間に一本しかないバスにも奇跡的に乗れた。

実は1か月前張協興を訪ねた際、炭焙煎を見るか、と聞かれたので見たいと答えたのだが、昨日聞いてみると今年は少し開始が遅れるとのことで見学は叶わなかった。まあそれでもMさんに紹介しようと思い、店まで行ってみた訳だ。だが、先日もそうだったが、我々は決してウエルカムという雰囲気で迎えられてはいない。何故かはわからない。

何だか話も繋がらないし、お茶も出て来ないので帰ろうかと思っていたら、ちょうど老板が出てきて、俄かに茶を飲み始める。少し話していると『じゃあ行くか』と声が掛かり、車で連れ出される。ついたところは木柵の農会。何でここへ来たんだろうかとエレベータを降りると、何とそこは春茶品評会の会場だった。

木柵鉄観音がずらっと並んでいる。勿論評茶の場には入れないが、かなり近くで見ることが出来、茶業試験場の職員が評茶している。更には老板の影響力なのか、評茶後のお茶がこちらに回ってきて、飲ませてもらえるという破格の待遇。しかも専門家である老板の説明付きだからたまらない。周囲の若手茶農家もよってきて、皆で老板のご高説を賜っていた。こういう形式もまた人を育てるということだろう。我々はいい物を見ることが出来た。

帰りは雨が降っており、急いでバスに乗る。だがこのバスは反対方向へ向かい、またUターンして、木柵駅まで何とか来た。台北のバスも分かりにくのがあって時々迷う。何とか近所まで戻り、最後に餃子を食べて〆る。この焼き餃子とスープももう食べ納めだろうな。次回はあるか。

6月1日(土)ああ、炒飯

いよいよ帰国準備に熱が入る。食べ物も食べたい物を探す。やはり大腸麺線か、ということで、昼ご飯は近所で終わる。部屋に残った食べ物もボチボチ処理しなければならないから大変だ。午後も原稿の処理などに追われてしまい、あまり動けず終了。

そして夕方、勇んで牛雑屋へ行く。土曜日は開いているが、日と月は休みだからラストチャンスだ。本来はここで牛雑を食べるべきなのだが、先日6年ぶりに禁を破って他のメニューを注文して感激されたこともあり、今日も別メニューで行きたい。そう思うとテイクアウトの人のほとんどが炒飯を注文していることに気が付いた。

勇んで注文すると、老板娘が『おや、今日も別のメニュー』という顔でちょっと喜んでいる。出てきた牛肉炒飯、その何とも言えない味わい。これは言葉に表現しにくいが、昔ながらのラードの効いた炒飯だろうか。これなら皆が気軽に食べられてよい。料金も80元かな、安い、の一言。名残は尽きないが、後は来年まで待つしかない。

ある日の台北日記2024その7(3)チベット料理と炒牛雑

夜は今回の滞在で大いに支援してもらったAさん、Uさんとチベット料理屋へ行く。やはり皆さん、こういう地域には関心が高い。私がチベットへ行ったのは37年前、インド側のラダックでももう13年前になるから、チベット関連とはかなり離れてしまっているが、台湾では近年お茶屋などでもチベット仏教信仰者を見掛けるし、これが単なる政治的志向なのか、深い宗教的な考えなのか、などとは思っている。

この店には恐らく10年位前に来たような気がするが、店内はキレイになっており、メニューも洗練されていた。オーナーは亡命チベット人らしい。カレーやサモサなどのインド系料理と、チベット料理の両方が出て来るというのが、ある意味で今のチベットの現状かもしれない。とにかく料理の味は良く、話も盛り上がり、閉店時間までいた。来年もしまた台湾に来られるのなら、また色々と学んでいきたいと思った夜。

5月30日(木)花茶を受け取る

今週一番気になっているのが、宿の下の屋外でいつもバナナを売っている夫妻が現れないことだ。お陰でバナナも買いそびれて食べられない。単なる一週間休みなのだろうか、それとも商売を止めてしまったのだろうか。ここにお世話になってからもう6年にもなるが、何とも親近感が沸くだけに、会えないのは寂しい。

今日もまた大稲埕へ行く。MRT北門から歩いて行くと、これまで歩きてきた茶歴史が浮かび上がる。花茶の全祥の茶工場は売りに出ているのだろうか。陳天来故居の改修工事は順調なのだろうか。そしていつもの廟のところで郭さんが待っていた。彼とは先日三重で花を摘んだのだが、その花を使った紅茶が出来たというので、少し貰った。

ランチに彼が連れて行ってくれたのは、一本裏通りに入った店。台南出身の彼らしく、台南料理の蚵嗲。これは揚げ物だが、私は初めて食べたような気がする。甘いたれ。元々はお婆さんが屋台でやっていたらしいが、そのお婆さんが亡くなり、最近移転したという。牡蠣のスープを飲むと、何となく台南感覚になる。台北では珍しいのでまた来よう。

そこからワトソンズと書かれたビルに移動した。そこの2階におしゃれなカフェ(夜はバーかな)があった。そこへ前回も同行した蔡さんがやってきた。彼は何とお茶のゲームを作った人で、その中に台湾茶業の歴史的人物をかなり入れていて驚いた。更に彼は『今後改定する時、入れるべき人物を紹介して欲しい』というので、私の好みをいくつかお話しした。勿論全然一般的ではないので、取り上げられるとは思えないが、改定は待ち遠しい。因みにこのゲームは日本でも買えるが、かなり難しいらしい。

帰りがけに、あの牛雑屋にどうしても行きたくなり、そしてついに禁断の?他メニューに挑戦することにした。といっても炒牛雑を炒什锦に変えただけだったが、これを告げると老板娘が、一瞬驚いた顔をした後、にこにこになり厨房に伝えた。出てきた料理を食べていると2回も『美味しいか』と聞いてきて、美味しいと答えると、そうだろうという顔で喜んでいる。私はなぜ6年もの間、1つのメニューにこだわっていたのだろうか。そして彼女は6年間、お勧めメニューをいい続けたその本当の理由を知りたい。とにかくうまい。また来たいがもう日がない。

ある日の台北日記2024その7(2)林馥泉の子孫に会う

広大な敷地には、検問所もあり、事前に連絡していないと入れないシステム。そしていくつもある別荘を抜けて何とか辿り着く。小雨が降る中、そこで待っていてくれたのが林仰峰さん。林馥泉の息子だった。立派な家に招き入れられると、奥さんとお孫さん(連絡をくれた女性)にも歓迎された。お孫さんは学校の先生のようだが、わざわざ休みを取って駆け付けていた。何とも有難い。

実は5年前に林馥泉について書いた際、一生懸命資料を集めたものの、分からないことがいくつもあったので、今日の面談で『間違っている』と怒られはしないかとビクビクしてやってきた。それでも、もしや新たな事実を知ることが出来るのでは、との好奇心が勝ってしまい、参上した訳だが、それは正解だった。

林さんは茶業とは関係ない仕事をしていたようだが、80代になり、最近病気をしてから、父親の資料を整理し、その偉業を知ろうとしていた。当然この家には相当の資料が眠っており、私が初めて見るものも多かった。また子供の頃、有名な茶業関係者をまじかに見ていたことなど、貴重な証言も得られた。私が書いた物に多くの補足が必要だったが、その機会はあるだろうか。

今や残念ながら忘れられてしまっている林馥泉について、日本人が何かを書いたというだけで、評価を頂けたのは何とも有難い。そして初めて会ったのに、何とも打ち解けた雰囲気となり、話が尽きなかったのは、やはり茶のご縁であろう。このような機会が一度でもあれば、何かを書いて行く張り合いがあるというものだ、と大いに感じ入った。

名残惜しかったがお暇し、トミーの車で帰る。彼も台中に帰るというので、新店駅で降ろして、とお願いしたら、まさかの小碧潭駅に着いた。全く初めての駅で面白い。この駅はたった一駅で松山線に接続するのだが、なぜここに駅が出来たのだろうか、と首を傾げながらMRTに乗る。次の七張駅では退勤ラッシュに遭い、満員電車に揺られて帰る。

5月29日(水)大稲埕グルメ散歩2

Uさんと行く台北グルメ散歩。ついに今回の最終回を迎えた。場所はやはり大稲埕となり、前回も行った行列食堂へリベンジに行く。朝の大橋は、三重の方へ行く、また市内へ向かいバイクの渦で混沌としていた。午前9時頃に食堂に着くと、なんと行列が見当たらない。奇跡的にすぐに席に着く。

Uさんが台湾語で色々と頼んでくれた。前回は腹が減っていなかったが、今回は準備万端だ。やはり鶏肉は見立て通りプリプリで美味かった。腰花のスープも久しぶりで美味い。Uさんは豚の脳みそを頼んで、一生懸命撮影している。食べている間にだんだん客が入って来てすぐにまた満席になった。なぜかこの店の箸入れはタイティーの缶だった。何かタイとゆかりでもあるのだろうか。それからまたセブンでグルメ話などを続けた。来年もグルメ散歩があることを切に期待する。

午後はいよいよ帰国準備で整理を始めた。今回はいつもより沢山のお茶を購入しているが、既にどこで買ったか分からない、どんな茶が入っているか忘れてしまった物もあり、今後の混乱が予想される。本などの資料も出来る限り持ち帰ろうとスーツケースに詰めてみるが、なかなか入り切るものではない。どうしようか。

ある日の台北日記2024その7(1)回族の墓地を訪ねて

《ある日の台北日記2024その7》  2024年5月26日₋6月4日

今年の台湾滞在も終盤を迎え、やり残したことなどをボチボチ処理していく。台湾茶の歴史に触れ始めてから10数年。色々と刈り取りの時期に来ているのかもしれない。そして名残惜しい台湾の食事、あまり食べられなかったなあ。

5月27日(月)回族の墓を探して

台北も結構雨が降っている。洗濯をどのタイミングですかが重要な季節だ。出かけようと張り切って部屋を出ると雨に見舞われ、引き返すこともある。今回台北のモスクなどを訪ねていたので、どうしても行きたいところがあったのだが、ついに夕方晴れていたので、足を踏み出す。

バスに乗って指定の場所で降りるとそこは下町風情が残っていた。Googleの言う通りに坂を上って行ったが、最後に上る階段が見当たらない。近所の人に聞いてみたが、『ああ、そこは昔通れたようだが、今はぐるっと回った方が良い』と言われてしまう。そのグルっとが車なら大したことはないのだが、歩きだと坂を下り、また上りで、結局3㎞以上余計に歩く羽目になる。

もうクタクタだと足が止まりかけた頃、ついに回族墓地に辿り着く。相当に上ったようで、風景が素晴らしい。そして山側の斜面を見ると、回族のお墓が上までずらっと並んでいる。漢字部分しか読めないが、中国全土から来た回族がここに埋葬されているのは分かる。蒋介石と共にやってきた国民党軍の中に、回族が多くいたということだが、その1つ1つを見ていくには疲れがピークに来ていた。これはあまり知られていない歴史だろう。

蒋介石と一緒に戦った戦略家、回族として一番有名なのは白崇禧だろう。彼の墓は実に立派に回族墓の一番上に建っている。広西回族の彼は蒋介石とも仲たがいがあるなど、その一生は実に興味深い。勿論回族のために、台北の清真寺をはじめ、様々なイスラム関連の支援もしている。墓には奥さんや子供たちも並んで埋葬されている。ここからだと台北の反対側が良く見える。

夕日がかなり傾く中、坂を降りていき、MRT駅の方へ向かおうとしたが、意外と駅が離れており、寧ろ歩いて宿の方へ行ったが早いことを知り、また歩く。何でこんなに歩くんだろうか、今日は。結局ちょっとレトロな道でご飯を食べようとの目論見は砕かれ、近所の麺屋まで戻ってきてしまい、いつもの夕飯となる。だがこれがいつもの夕飯と言えるのもあと1週間かと思うと、ちょっと寂しい。

5月28日(火)林馥泉の子孫を訪ねて

先日驚いたことがあった。5年ほど前に交流協会の雑誌に書いていた連載記事。『光復後の台湾茶業を支えた福建人たち』という題だったが、そこで取り上げた林馥泉という人の息子さんから連絡があり、ぜひ会いたいと言われたのだ。茶旅に驚きや意外性はつきものだが、このように言われたのは初めての経験であり、書き手冥利に尽きると思い、お邪魔することにした。

その連絡自体は、林さんのお孫さんから、我がパートナーのトミーのところに寄せられていたので、忙しいトミーにお願いして、同行してもらった。新店にお住まいだとは聞いていたが、車は新店の山の中に入っていき、こんなところに家があるの、と思う感じだった。ただ道路は立派なので安心はしていたが、進んでいくと高級な別荘地が出てきてビックリ。

ある日の台北日記2024その6(7)潮州へ行ってみたが

潮州駅に着くと観光案内所があったので『この辺に潮州人はいるか?』と聞いてみたが、今はそれほどいない、との回答。一通り潮州の観光名所を教えてもらい、地図をもらって歩き出す。潮州日式歴史建築文化園区に辿り着く。ここは日本時代の建物が残り、それを起点に観光名所を作っている。ここも戦後は眷村として使われていたようだ。

日本が台湾の領有を始めた1895年以降、南部の抵抗勢力を日本軍が鎮圧した、と聞いているが、この地でも戦いが行われたようだ。後藤松次郎という巡査がここで殉職した、という記念碑が保存されているのはなぜだろうか。この辺の歴史を再度見つめる必要性を強く感じる。

そこから屏東戯曲故事館へ移動した。ここは元々郵便局や役場だったらしい。結構頑強な建物である。今は屏東で有名な戯曲の展示館となっており、予想以上に充実した展示となっている。潮州の街中には日本時代の建物がいくつか残っており、それを活用した町おこしが行われている。

しかし潮州という名の街ではあるが、潮州ゆかりの物にはなかなか出会えない。廟などもいくつかあったが、最後に行った三山国王廟が、いかにも潮州という感じで残されているぐらいだった。食べ物なども潮州を意識できるものは多くはなく、かなり歩き回ったものの、疲れてしまい、屏東へ帰ることにした。

屏東駅へ戻り、荷物を取りだし、近くの宿へ引っ越した。こちらも料金はあまり変わらなかったが、机があったので、ここにした。やはり相当に古い建物で、しかも電気ポットが無く、廊下の一番端に、給湯器が備えられていて、お茶を飲むのも大変だった。まあ疲れたので休息。

昼ご飯を食べていなかったので、夕方外へ出た。昨日食べた食堂の先の道を行くと、かなり大きな夜市を発見した。ここでうなぎ麺を食べる。鰻といえば潮州も有名だったのだが、出てきたのはタウナギでハズレ。おまけに肉圓を食べようと店のおばさんに言うと、全て台湾語で帰ってきて、途中からは身振りで対応された。まだこんなことがあるんだな。まあ最後は笑顔だったので敵意はないとは思うのだが。

5月25日(土)屏東から戻る

翌朝は早めに起きて、屏東朝散歩。ここも潮州同様意外と日本時代の建物が残っており、しかも新しく日本的な建物まで建てて、カフェや雑貨店などを展開、新名所を築いている。その規模はかなり大きく、行政がかかわっている。孔子廟や日本時代からある公園なども整備されており、歩きやすい、気持ちの良い街だと言える。

昨日とは違う市場、地元民が次々に吸い込まれていく肉圓屋。昨晩も食べたばかりだが、何となく入ってしまう。完全にオープンな店で、店員もきびきびしており、華語でも問題はない。肉圓もかなり美味しい。食べ終わったら、スープは自分でよそい、それを飲む。確かにこの店は繁盛するわけだ。

随分グルグルと歩き、いつの間にか昼になっていた。ちょうどあった食堂に入り、米糕と鴨肉湯を食べる。日本式建築の店はちょっと高級感があり、入りにくいが、こちらは庶民的でよい。最後にかなり歩いて屏東原住民文化会館へ行ってみたが、何と既に移転しており、もぬけの殻。屏東の原住民の歴史を知りたかったが、まあ偶にはそんなこともあるさ。ただただ歩き疲れた。

屏東駅へ戻ると、何とエキナカに丸亀製麺があった。腹が一杯で食べずにパンを少し買って自強号に乗り込む。私は自強号の旅が好きで、わざわざ乗り込んだのだが、何となく昔の風情は無くなり、車窓の風景も心なしか寂しい。何より台鐵弁当も売りに来ないし、そもそも座席前にテーブルが無い。乗客も週末でもそれほど多くはない。5時間以上かけて台北まで戻ってきたが、何となく苦痛な旅になってしまった。

ある日の台北日記2024その6(6)里港の藍氏と劇的に出会う

里港の藍氏の家は想像よりはるかに立派だった。実は台北の藍先生から電話番号と住所を貰っていたが、電話を掛けても出なかった(これは台中と同様)。しかも今ここへ来て分かったことは住所も少し違っていた。そして現在の当主はここには住んでいないようで、もしここまでは辿り着いても、会えない可能性の方が高かった。朝温先生と会ったことは全てを解決していて驚くしかなかった。もし明日以降一人でバスに乗ってきてもむなしく帰るだけだったはずだ。

先生の教え子の女性とは会えたが、彼女はちょっと困っていた。実は現当主は今日の午後は高雄に用事があり、出掛けていたのだ。ところが彼女が私に『紹介されたのは誰?』と聞いてきたので、それを伝えていると、彼女の顔が変わった。『あなたが会いたかった人が向こうから歩いて来るよ』というではないか。何と高雄の用事を終わり、当主の藍さんがちょうど到着したのだった。温先生が道に迷ったことで会うことが出来た。これは不思議な力が働いたと皆が驚く。

藍氏夫妻の案内で、藍氏邸を見学する。中央に建つ立派な建物は1923年時の皇太子(のちの昭和天皇)が台湾巡行で立ち寄るとのことで作られたが、実際に来られることはなかったらしい。ただ100年前にこの立派な建物を建て、皇太子を迎えるかもしれない栄誉を得ていた藍氏。この地域での名士としての地位が窺われる。当時の当主藍高川は日本時代貴族院議員にもなっている。

藍氏夫人が『建物の上に建つ避雷針は総督府と同様の作りで、台湾には2つしかない(総統府には現存していない)』と説明してくれた。因みに彼女は何と満州族だという。畲族と満州族が結婚、何とも不思議な世界であり、もっともっと話を聞きたかったが、私にはもう一つ行きたいところがあったので、泣く泣くお別れした。

温先生の教え子に先導されて向かったのは、眷村だった。信国社区と書かれたその場所には文物館があったが、残念ながら平日は閉められているようだった。中が見られれば、この村の歴史が分かるはずだったが、結局何も分からない。1954年に泰緬から移住してきた人々が住む村。その壁には漢人だけでなく山岳少数民族の名前が沢山描かれており、ここに移住したのは多様な人々だったことを窺わせる。

お話しによれば、移住後の人々の生活はかなり過酷だったらしい。小学校は藍氏の住む地域にしかなく、川が氾濫すると家に帰れない子供もいたという。現在は眷村が見直されてきたようだが、若者は村を離れ、寂しい地域になりつつある。比較的近くには客家の街として有名な美濃があり、そこにも寄ってみたかったが、既に夕暮れ。温先生は私を屏東駅まで送ってくれ、台南に帰っていった。今回はお世話になり、かつ奇跡のような出会いを頂き、何とも有り難い。

屏東駅前で宿を探した。疲れていたので一番近くに見えたホテルに飛び込む。何だかとても懐かしい感じのにおいがした。日本人にも何だか慣れている。料金も高くなかったのでそこに決めて部屋に行ってみると、かなり昔風でラブホだったのだろうか。快適ではあるのだが、残念ながら机が無く、床に座ってPCを操作するのは大変だった。

腹が減ったので外へ出た。駅前だが食堂などは見当たらない。大きなゲームセンターはあるのだが。ようやく見つけた食堂は超満員。何とか席を確保して、普通のご飯を食べる。屏東の名物がなにかも理解せず、予定外に早くここに着いてしまった動揺があっただろうか。ただ田舎は台北並みの料金だと量が格段に多いことを忘れており、腹一杯食べた。

5月24日(金)潮州へ

朝屏東駅の反対側へ行ってみる。確か市場があったと記憶していた。バナナなどフルーツが安い。そこを過ぎると、きれいな公園がある。ちょっと戻ってクラブサンドの朝食を食べる。何とも屏東へ来た感覚はない。周辺には台湾系の廟もあるが、一方駅前にはベトナムやタイの言葉が書かれた看板も多く、混沌とした世界が広がっていた。

今日は潮州へ行くことにした。屏東から潮州までは台鐵で僅か20分ほど。取り敢えずチェックアウトはしたが、荷物は宿に預けて電車に乗る。実は明日台北に帰る自強号の切符を買ったら、屏東が始発だったので、潮州は日帰りにして、明日屏東から帰るという選択に至る。ただ潮州に何があるのかはほぼ分かっていない。