ある日の台北日記2019その3(6)花茶の歴史を追って

10月26日(土)
ステーキから試飲へ

週末は外へ出ないで部屋でお勉強、それが一応の決まり事だった。わざわざ人が多い時に出ていくのは、折角平日に時間がたっぷりある人にとってはあまり意味がないと考えている。アドバンテージを生かせない、ということだろうか。今日も朝から昨日聞いた花茶の歴史を追っていた。

 

夕方どうしても腹が減る。いつも行く魯肉飯屋を目指したが、少し先に安いステーキ屋が出来ているのに気が付き、覗いてみると席があった。思わず中に入る。ステーキセット150元と宣伝していたのに、中のメニューは200元。これは騙されたのだろうか。既に席に着いてしまったので、取り敢えず頼んでみた。

 

スープとサラダはビュッフェ形式でいくらとっても良い。店内は出来たばかりできれいだった。家族連れが続々と入ってきたが、隣のおじさんは一人黙々とスープをお替りしている。出てきたステーキは、うーん、まあ食べられるか、というもの。肉は柔らかくもなく、味がよいとも言えないが、何となく昔の屋台ステーキを思い出す。会計すると150元だった。急にコスパは悪くない、と思えてしまう自分を笑う。

 

部屋に帰ると葉さんがやってきた。実は今回お世話になっていながら、殆ど会うことがなかった。彼らは色々なイベントに出店しており、非常に忙しそうに見えたので、敢えて声を掛けなかった。もう一つの大きな理由は、葉さんのお父さんが亡くなってすぐだったこともある。お父さんには何度か茶の歴史の話を聞いており、先日交流協会に書いた『東台湾茶の歴史』の雑誌を渡すと『お父さん、これ見られなかったね』と寂しそうだった。

 

折角だからと、久しぶりにお茶を飲みながら話をした。上の階に住む葉さんの同級生も参加して、賑やかに話す。私は北京でもらってきた花茶などを渡してみる。花茶の歴史、今や台湾では花畑自体が減っているらしい。彰化の花壇も一時の勢いはなく、数軒の花農家があるだけという。

 

10月28日(月)
製茶公会から台湾大学へ

また黄顧問に連絡してしまった。困った時は製茶公会へ行く。これが私の原則になってしまっていた。公会に行くまで時間が少しあったので、付近を散歩した。有記銘茶の横を通ると、その先に福興宮という廟があり、その寄付者の名前を何気なく見ていると、林華泰の林家の先祖の名前が見られた。この辺の歴史も知りたいな、と思う。

 

花茶全体の歴史を把握するには黄顧問に聞くのがよい、と思われたのでやってきたが、今回顧問以上には話をしてくれたのは、総幹事の范さんだった。彼は実際に花茶に関わっていたようで、流れるように整理されたその歴史を話してくれた。基本的には光復前の包種花茶、光復後の外省人向け花茶(緑茶の製造も)、そして現在の化学香料入り花茶の3段階だろうという。

 

花は基本的に茉莉花であり、それ以外に樹蘭、桂花などが加わる。中国の改革開放が始まるまでは、台湾での花茶製造は盛んだった。だが今や台湾での製造コストは高く、輸入花茶もどんどん増えている(現在中国からの花茶の輸入は禁止項目)。政府は危機感を深めているようだが、花畑の減少は著しく、止めようはないという。

 

お昼に近くの鍋屋さんに連れて行ってもらった。一人一人の前に鍋があるタイプ。お店は満員盛況。和牛肉を扱っているが、オーナーは30年以上も店をやっており、『これはオーストラリアの和牛だよ』と教えてくれる。柔らかくて美味しいオーストラリア和牛、もう日本の和牛は要らないな、との声が聞こえてきたようにも思う。ご馳走様でした。

 

そのままU-bikeに乗り、台湾大学まで行く。バスに乗って地下鉄駅まで行くより、こちらの方が遥かに早い。そして快適で安い。ここでもいつものようにたくさんの資料を見つけて、読み込んだり、コピーを取ったりして過ごす。特に花茶に関する日本時代の資料があったのは、有り難い。日本人も相当花茶の研究をしている。午前中の話に加えて、日本時代の緑茶製造に関して更に詰める必要がある。

 

夜、近所の刀削麺屋が復活しているのを発見した。ここの麺が好きだったが、今回戻ってから一度も店は開かれていなかった。ここは家族でやっており、親子喧嘩が原因ではないかと危惧していたが、何とか仲直りして?復活した模様だ。早速牛肉湯肉糸麺を頼み、スープをすする。1か月も店をやっていなかったせいか、スープのコクがあまり感じられなかったが、今後徐々に回復していくだろう。期待しよう。

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