ある日の台北日記2019その3(8)新竹関西、そして総統府へ

11月1日(金)
新竹関西へ

昨日に続いて遠出した。今日は羅さんの車で、彼の故郷、新竹関西へ行く。午前10時に羅さんの家の近くまで待ち合わせ、出発。途中で早めの昼ご飯を頂く。やはり客家料理だ。内臓系がたっぷりで本当にうまい。当然ながら客家の羅さんとは、『客家とは』という命題で話し続ける。

 

関西の羅家は、茶業で財を成した一族。そして新竹には義民廟という客家の廟があり、毎年祭りが開かれるという。新竹各地15の代表が持ち回りで幹事を務めるが、関西の代表は羅家であり、羅さんのお父さんが10年前に祭りを取り仕切り、その時羅さんも手伝いで参加、この祭りに強い関心を持ったらしい。お父さんは高齢であり、5年後の仕切りは彼の仕事だ、と今から頭にあるという程、重要な行事だった。

 

初めて羅さんの実家に行った。関西の街から少し離れた、何とも言えないいい感じの田舎だった。そこに大きな家があり、お父さんの兄弟がワンフロアーごとに使っているらしい。お墓もすぐ近くにあり、最近改修して、新しくなっていた。客家の先祖に対する意識は他より強いと感じる。そして伝統を重んじる姿勢、行事を守っていく意識は高い。

 

先に横山の許さんを訪ねる。許さんと羅さんは仲良しなので連れて行ってもらう。この大きな工場に来るのは何回目だろうか。大体はいつもお客さんが沢山いて、ゆっくり話を聞く時間などないのだが、今日は三人だけだから、工場の外で風に吹かれながら、和紅茶を頂く。最近許さんは日本との交流を一層進めており、今年2月には台湾人茶業者を大勢連れて静岡に研修に行っている。

 

花茶のことを聞くと、ここの庭にも樹蘭の木があるよ、とそれを指す。意外と背の高い木だった。基本的に花茶を作る意味は、烏龍茶としては物足りない品質の物を売り物にするために施す、ともいう。それは恐らく正しいだろう。特に輸出用においては質よりも量だった時代が長く、安い茶に付加価値を付ける必要はあったと推察できる。

 

 

台湾紅茶へ向かう。今日の目的は羅さんのおじさん(台湾紅茶社長)に会うためだった。以前も2度ほど話を聞いているが、その後体調を崩されたとのことで、その回復をお待ちしていたところ、今回の面談に繋がった。確かに羅社長は以前より痩せていたが、元気そうで何よりだった。

 

今回の質問は紅茶や緑茶ではなく、林馥泉や林復について、その思い出を聞くことだった。広い展示室には沢山の写真が飾られていたが、何気なく見たその一枚に、羅社長と林馥泉氏が一緒に写っていたのには驚いた。しかも日本考察団の写真であり、煎茶製造を模索している頃のものだった。歴史がそこにあった。

 

更には台湾に釜炒り緑茶を持ち込んだ唐季珊の写真も目を引いた。何故この写真を大きく飾っているのかと聞くと『彼が光復後の台湾茶業の貢献者だから』と明快に答えられた。今や殆どの人が知らないこれらの人物が、光復後の台湾茶業を復興させ、支えていったことがよく分かる。

 

客家についてもいくつか質問したが、例えば『客家の伝統文化である擂茶』という表現は正しいか、という質問には、即座に『擂茶は伝統文化ではなく、後から取り入れたもの』ときっぱり。客家に対しては、色々と誤解も多いようだが、現代台湾では政治なども絡んでおり、解明するにはなかなか難しい課題のようだ。

 

11月2日(土)
総統府見学

一度行ってみたいと思っていた総統府の公開日。月に一度土曜日と確認して出掛けてみた。混んでいるのではとの不安から、早朝に行くことにした。午前8時開門、地下鉄に乗り、8時10分前に現地に到着した。既に10人以上が並んではいたが、それほどの混雑もなく、いつでも入れそうな感じだった。

 

8時に開門されると、荷物検査などはあったが、入場料無料。正面に行き、写真を撮り中へ入る。今年100周年とは思えない、きれいな内装。殆どの部屋が開放されているのではないかと思われるほど、執務室やら会議室など、どんどん入って行けるのが面白い。更には2階、3階まで登ることもでき、歴代総統や総統府、台湾の歴史なども勉強することができる。

 

廊下の窓から、あの特徴的な塔の部分を見ることもできる。中庭を歩くこともでき、そこには大きな木が植わっている。この木はいつからあるのだろうか。郵便局があり、土産物ショップまである。1階廊下では農産物の即売まで行われているから、台湾産の食べ物のアピールはここでも行われている。

 

1時間ちょっと見学してもまだ午前中だったので、併せて台北賓館の見学に向かう。ここは元々総督官邸、また迎賓館として昭和天皇(皇太子時代)も滞在したという場所。総統府からは歩いて10分もかからない。こちらも総統府と日時を合わせて一般公開しているので、中に入ることができるが、荷物検査などはなく、人も少ない。

 

建物はやはり100年ほどの古さがあるが、展示物は総統府に比べると少なく、見るべきものはあまりない。気にかかったのは、ここが出来るまでの官邸などの変遷が写真で展示されていたことだろうか。裏には思ったより大きな庭があり、ちょっと日本的なところも見られた。建物からして、住居としての使い勝手は良くなく、総督は別邸に住んでいたらしい。昔偶に行った蛋餅屋で朝ごはんを食べて帰る。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です