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ある日の埔里日記2018その2(9)埔里郊外散歩

4月1日(日)
埔里郊外散歩

週末の遠出は避ける、これを埔里生活での原則としている。近くに日月潭や清境農場などの観光地を抱える埔里では、週末にバスに乗るのがちょっと大変になることがある。毎日暇なのだから、人が多い週末に無理して出掛ける必要はないのだ。必然的にゆったり過ごせばよいということになる。

 

昨日は近所の朝食屋に初めて入った。私にはすでに行きつけ、と呼べる場所は2-3あったので、これまで入らなかったのだ。何となく店内がきれいになっていたので、試してみることにしたら、これが大正解だった。女性三人でやっているお店、ここのクラブサンドは、きちんと丁寧に作られていて、味がいい。おまけに45元と、行きつけの店より安いのだから、驚いた。宿泊先から一番近い店、これからはご贔屓にしよう。

 

埔里図書館にも行ってみた。ここの4階には埔里文庫があり、埔里の歴史関連の展示があり、貴重な資料や写真も公開されている。担当の陳さんからの情報を求めて何度か訪ねているが、それ以外の階に行くことは殆どなかった。1階のオープンスペースではおじさんたちが新聞を広げている。フラッとみてみると、Hanakoなど日本語の雑誌も置かれている。日本コーナーもあり、日本旅行用のガイドブックなども充実していた。この辺はやはり台湾だな、と思ってしまう。

 

3階には日本統治時代関連の本、日本語で書かれた本も少し置かれている。そして日本と同様に、学生が一生懸命勉強していた。ここの席には仕切りがあり、電源も備わっているので、使い勝手がよさそうだった。平日ならば、それほど混んでいないだろうか、今度はここで集中して文章を書いてみたいと思う。

 

今日は天気も悪くはないが、それほど暑くもないので、少し遠出の散歩を計画する。埔里郊外を歩くことはこれまでなかったので、まずは愛蘭地区に行ってみる。埔里酒廠の前を通り過ぎ、崎下までやってくる。ここまではバスでいつも通っているところだが、ここから真っすぐ坂を上ってみる。

 

坂の上には教会が見えた。その横には立派な学校も見える。この辺は埔里の街とは雰囲気が少し異なる。そのまま歩いていくと、商店街のような場所があり、特に辺鄙なところではない。ちょっと予想外だ。更に進むと天后廟が出てくる。ここまで来ると家もまばらになり、農村風景が広がってくる。何だかちょっと暑い。

 

その先に広興紙寮と書かれた場所があった。ここは元々製紙工場だったようだが、きれいになっている建物に入ると、天井が高い。紙の原料などの展示があり、勿論完成作品を見ることもできる。横では制作に励んでいる人もいた。冷房が効いており、涼しくて休みがてら、ボーっと見ている。

 

その横に行くと、製紙体験ができるスペースがあり、中では実際に小学生?が何かを作っていた。ここに入るには入場料がいるようだが、料金を徴収する人も制作指導に出てしまっており、入るのはためらわれ、そのまま帰る。この付近の道が曲がりくねっており、どこを歩けばよいか迷う。遠くに台中に行く時に高速に乗るための道が見えた。

 

フラフラ迷いながら埔里の街の方向へ行くと、何となく1周回って、先ほど坂を上った学校の辺りに出てきた。そこには大きな病院があり、その敷地には小さいけれど感じの良い教会が建っている。キリスト教病院と呼ばれている場所だった。1950年代に建てられた病院は既に建て替えられて大きくなっているようだったが、1961年に建てられた教会はそのまま使われているのがよい。光復後、原住民の暮らす山には宣教師が入り、布教に努めたというが、ここはその拠点だったのだろうか。

 

流石に疲れたので、今日はここまでと宿泊先に帰る。その途中、普段は通らない道を通ってみると、何と鳥居が作られているではないか。どうやら和食レストランらしいが、鳥居をここに置くのはどうなのだろうか。雰囲気を盛り上げるなど、商売上の理由かもしれない。台湾の日本ブームにケチをつけるつもりはないが、形だけ真似ても意味はないと思ってしまう。

ある日の埔里日記2018その2(8)台中の誕生会

3月28日(水)
台中の誕生会へ

ようやく埔里に戻ってきたという感覚が強い。今やここ埔里が私のホームグランドだともいえるし、何とも落ち着く。好きなクラブサンドも食べられるし、静かでゆったりとしているところがよい。今日はお隣のおばさんに挨拶して、朝から米糕と肉羹を食べて、すぐにご機嫌になれる。

 

実は先日嬉しいことがあった。台湾では買い物をすると常に受け取る統一発票、その理由はこれが宝くじのようになっており、2か月に一度抽選発表があるのだが、前回ついに200元が当たっていたのだ。これまで一体どれだけのハズレをせっせとチェックしてきたことだろうかとその苦労?を思い出す。

 

しかし当たったのはよいがこれはどこで賞金に換えられるのだろうか?知り合いに聞くと『郵便局』というではないか。外国人も対象なのだろうか。恐る恐る近所の郵便局にこの発票を出してみると『裏にちゃんと記入しろ』と言われ、無造作にパスポートとともに返されてしまった。もう少し優しい対応はできないのだろうか。台湾の郵便局は15年前に株式会社化はしたが、民営化はしていないらしい。

 

そうだな、台湾の嫌なところはこんなところかもしれない。郵便局のサービスは旧泰然としており、『やってあげる』感が半端ない。お客が来れば仕事が増えると言った、昔日本でもあったサービスが今も堂々と健在だ。特に田舎は顕著であり、知り合い同士だとニコニコしているが、それ以外だと愛想はない。まあそれでも200元を手に入れてなんとも嬉しい。

 

今日はYさんのお誘いで、台中に出掛けることになっていた。待ち合わせ場所は郵便局の向こうだったが、既に他の3人のメンバーはそろっており、Yさんの車に乗り込む。音楽会だと聞いてはいたが、私にはどんな会なのかよくわからなかった。まあ折角のお誘いなので、取り敢えず同行した。

 

途中で建設会社勤務だったYさんが作ったというトンネルを潜った。このトンネルのお陰で埔里-台中間は劇的に近くなったのだ。有り難い。約1時間で台中市内に到着。何だかきれいな建物に入った。ここは結婚式場であるらしい。『故郷 春が来た 桜 音楽会』と書かれている。

 

中に入ると広い会場では、テーブルと席がどんどん増やされていた。その真ん中にピアノが置かれており、日本人女性が練習している。バイオリンを弾く男性も日本人。聞けば石川県からやってきて、以前もコンサートを開いている方々だという。合唱団?の女性たちがピアノに合わせて歌の練習。台湾で日本人の演奏を聞くというのも珍しい。

 

席に着くと、埔里や台中に住む台湾人が多く来ている。我々の周りには日本語ができる台湾人が何人か座っていた。さすが台湾、日本に住んだことがある人やYさんの日本語の生徒やらで、日本語が飛び交う。MCの女性は着物を着て、日本語と国語を自由に操っているからすごい。

 

会が始まるとすぐに紹介されたのが、家倉多恵子さん。彼女は話題の映画『湾生回家』に出演した台湾生まれの日本人女性で、今年88歳。今日はその米寿を祝う会だとようやく分かった。参加者からお祝いの言葉が飛び、誕生ケーキも登場した。映画を撮った黄監督もわざわざ台北から来ていた。なぜか彼は私のところに来て名刺交換した。今度ゆっくり話そうと約束して別れる。

 

食事が始まると料理がどんどん出てきて凄いことになっている。昼からこんなに食べられるだろうか。同時に各テーブルでは顔見知りを見つけての挨拶も盛んに行われ、日本語の歌が披露される。まさに結婚披露宴に出ているような感じになる。そうこうするうちにメインの演奏が始まったのだが、音楽を聴くという雰囲気にはなかなかならない。やはり今日は単なる演奏会ではなかったのだ。

 

実に久しぶりにこんな宴会?いや演奏会に参加した。ピアノもバイオリンも頑張って演奏のギア?を上げ、皆も音楽にノッて来た。『ふるさと』のような曲が流れると、何だか異国感があふれ出すのが不思議だ。そんなこんなで3時間近くに及んだ会が終わる。またYさんの車で埔里まで送ってもらう。今日は何だか稀有な体験をした気分だ。

ある日の埔里日記2018その2(7)梅山 龍眼で発見!

3月27日(火)
龍眼林へ

翌朝は晴れてはいなかったが、すっきりとした朝だった。8時過ぎには皆チェックアウトして外で私を待っていた。朝飯もまた同じ食堂で食べる。好物の地瓜粥があるのが有り難い。私以外は皆若いので朝からモリモリ白米を食べている。それから車は瑞里を離れ、龍眼に向かう。この区間はそれほど遠くないとのことだったが、決して近くはなく。アップダウンを繰り返し、家もない山道を行く。どこへ行くのかと不安になる。

 

1時間以上も乗ってついに龍眼に着いた。同じ梅山地区だがこんなにも遠いのだろうか。訪ねたのは1軒の茶農家であり、そこは周囲に家もなかった。古めかしい茶廠があり、中を拝見すると、最近きれいにされた製茶場と体験場が組み合わさったような空間が広がっている。その一番先端の窓からは茶畑がよく見えた。台湾の山中にはこんなところもあるんだな。

 

ここの老板、林さんが『もっといいところへ行こう』と歩き出すと、すぐに実に見事な竹の林の中を通る。これまでいくつもの台湾の山の風景を見てきたが、こんなに素晴らしい竹林を見たことはなく、この中にいるだけで大いに癒される。『京都の嵐山のようだろう』と言われて、ちょっと驚く。ここだけは保存しようと、歴代守られてきた空間だそうだ。その先の斜面には茶畑が広がっている。もうあと何日かで茶摘みが始まる。若い芽が伸びていた。

 

この龍眼での高山茶生産はかなり早い時期に行われていた。やはり6つの茶農家が始めたらしい。瑞里よりこちらの方がほんの少し先のようだ。従来青心烏龍などが植えられていたが、改良場の指導で、金萱なども植えられる。ここが高山茶の始まりだという人もいる。瑞里と同様の歴史を辿り、最近は紅茶やGava茶などの生産も行っている。

 

お昼には何と鍋に入った豪快なカレーが登場して驚いた。これはハウスバーモンドカレーのような味で何とも家庭的でうまい。私はこういうものが食べたかったのかもしれない。思わずお替りしてしまう。お茶ばかり飲んでいるのもよいが、何ともホッとした。林さんと会話していると意外な話が出てきた。彼のお父さんの時代に高山茶は始まったが、お爺さんの時代はこの付近の茶園管理を任されていたというのだ。それは一体どういう話だ、と思いながら次の茶農家へ向かった。

 

林さんが連れて行ってくれた王さんの家。ここも1970年代に高山茶を始めた一人だが、その理由は『日本統治時代の経験があったから2代目の父が踏切った』と3代目の王さんは言う。1920年代、標高1100-1200m前後のこの地に18ヘクタールもの茶園があったというのだ。そこに茶樹を植えた投資家がおり、10数年間茶作りが行われたらしい。ただ1930年代にはその投資家は投資を引き揚げたといい、その後はその茶園を引き継いだ地元民が細々と茶作りをしていたともいうのだ。

 

では一体茶作りは誰が行っていたのか。そこに王泰友という名前が出てきて驚く。彼は布巾包揉という布袋を使った揉捻製法を広めた人として台湾茶業界では知られていた。彼は1940年前後にこの製法を広めたようだが、その時茶荘は台北ではなく、斗六に開いていたから、可能性は十分にある。ただこの時代、一体どんなお茶が作られたのか、それはよくわからないのが何とも残念だ。

 

更にはもう1軒、82歳になる林さんを訪ねる。こちらもご自身が高山茶を始めた人だが、『1970年より前から、母親が烏龍茶を作っていたよ』と、軽く言う。その品種は武夷と山茶の雑種だったともいう。そして倉庫から何と42年前にそのお母さんが作ったというお茶を出してきて飲ませてくれた。勿論老茶となっていて黒黒しているの

今日訪ねた3軒を見ると、日本統治時代に茶園があったことは確実で、その茶園は地元民が引き継ぎ、細々と茶作りが行われていたが、高山茶の開始と共にその経験を生かして茶作りが本格的に再開されたということだろうか。だがその後多様な高山茶が生まれ、徐々に生存が難しくなっているという現状がある。

 

龍眼からグルグルと山を下りて高速道路に乗り、車で埔里まで送ってもらった。トミー達は明日も埔里でイベントがあるようで、助かった。それにしても、梅山の茶の歴史、初めて聞く話が多く、消化しきれないが何とも面白い。次回はもう少し深めてみたい。

ある日の埔里日記2018その2(6)梅山 瑞里の茶

3月26日(月)
梅山へ

翌朝は早く起きて荷物を引き摺って台北駅に向かった。珍しく高鐵に乗り、台中へ向かう。これまでは全て埔里からバスで向かっていた台中高鐵駅、そこでトミーと待ち合わせていた。高鐵はやはり便利で速い。1時間で台中に着くのは埔里からバスに乗るのと大差ない。ただ費用は数倍違うが。それでも日本の新幹線に比べれば半分程度か。

 

高鐵駅のいつもの場所で落ち合い、車は嘉義方面に向かう。今日は後ろの席の陳さんと茶スターという2人の若者も同行している。車は高速道路を走り、梅山に登る道に入る。36の九十九折があり、かなりの急カーブを上って行くと、ちょっと車酔い気分になる。ちょうど標高1000mの表記が見える。太平という場所、定義上ではここから上が高山茶エリアだが、茶畑は道路沿いには見られない。

 

あるのは恐怖の遊歩道、下が丸見えの天空橋だけだった。なぜこんな橋を観光目的で作るのか。高所恐怖症の私には全く理解できないが、平日でもかなりの人が歩いているから驚く。ここでトイレ休憩したが、食事場所も観光地料金で、何もせずにまた車に乗り込む。その先には茶畑が見え始め、少し気分が高まる。

 

山道を約1時間で瑞里に着いた。この地名は聞いていたが、来るのは初めてだった。というか、ご縁がなく梅山自体に来るのが初めてなのだ。なぜか藤棚があり、藤の花が見ごろということで、観光客がミニバスを連ねて、多く訪れていた。大型バスは入れない。『日本の藤棚はきれいだろう』と聞かれたが、確か5月頃咲くのではなかったといった程度の認識しかなかった。台湾では日本人以上に日本が知られている。

 

今晩はここに泊まるのだという。取り敢えず昼ご飯を食べるために食堂に入ったが、満員の盛況だ。タケノコなどの地元料理のコースを食べる。その後、すぐ近くにあるトミーの知り合いの茶農家を訪ね、食後のお茶を頂く。かなり立派できれいな茶荘を兄弟でやっている。

 

午後は梅山の茶の歴史を聞きに行く。食堂の横にある今は営業していない宿に行くと、林さんと陳さんが待っていてくれた。林さんは80歳だというが、非常に元気で、自らの茶業体験を熱く語ってくれた。ここはかなり貧しいところで、地瓜などを作るだけで出稼ぎなどに行く者も多かったが、1979年頃、茶業改良場の指導もあり、高山茶向きの茶樹を植え始めたという。

 

当時は凍頂烏龍茶などが盛り上がり始めており、茶を作ればいい値で売れると言われ、生産計画が立てられたらしい。1990年代には最盛期を迎えた瑞里の高山茶、その後は921地震や化学肥料問題などもあり、2000年代に入ると他の高山茶地区の茶に押されて衰退していったという。

 

瑞里を歩いていると、斜面に檳榔樹があり、茶畑が広がっていた。そこをゆっくり散歩すると涼しくて気持ちがよい。その先の廟まで辿り着くと、そこには嘉義県珈琲産業発展協会という文字が見えた。我々が次に訪ねたのは何とそこだった。王さんも1980年頃、瑞里に茶樹を植えたメンバー(6人衆)の一人だった。奥さんが珈琲を持ってきてくれたのが、これまでの訪問と全く異なる、珍しい体験だった。

 

『2000年に入ると茶よりコーヒーだと気付いたんだ』という王さんは珈琲協会の創始者だ。元は高雄で造林業も行っていたと言い、木を扱うのには慣れていた。1980年代には瑞里茶はコンテストで入賞するなど優位性があったが、その後は阿里山、梨山、杉林渓などの高山茶に押されてしまい、コーヒーへの転換を決断した。最近は上島珈琲とも提携するなど、コーヒーブームに乗っている感じだ。

 

夕方宿泊先の部屋に入る。思ったよりきれいな部屋だ。少し休むともう夕飯だ。この辺には食べるところはあまりなく、昼と同じ食堂で食べる。茶壺食堂という名前だが、なぜこの名前を付けたのだろうか。店には特に茶壺は見られない。料理はパイナップルが入ったスープが印象的だった。

 

夕飯後、再度昼食後に行った茶荘を訪ねた。王宏誠氏、お父さんがやはり高山茶6人衆の一人だったというが、自分は歴史のことは分からないと、昼間の面談をアレンジしてくれていた。彼らは新しい茶業の形を考えていかなければならない世代。色々と話をしたかったが、お茶を飲んでいるうちに、ものすごく眠たくなってしまい、私一人だけ離脱して、部屋に帰って寝てしまった。まだ午後8時だったから、今日の朝が早かったからか、また最近かなり疲れていたのかもしれない。この静かで涼しい山の中ではよく眠れるのが有り難い。

ある日の埔里日記2018その2(5)茶の歴史談義

3月25日(日)
茶の歴史談義

埔里ではいつも朝昼兼用で10時半頃クラブサンドを食べる習慣になっているが、この宿泊先付近にはそういうお店はあるのだろうか。駅の方に歩いていくと見付からないが、駅と反対方向にはあったので入ってみた。ちゃんとクラブサンドと書かれていたので注文したが、出てきたのは三角のトーストにハムや卵を挟んだだけ。私はこれを手抜きと呼んでいるが、コストの高い台北ではこれが一般的らしい。あの埔里の丁寧に作られた安くてうまいクラブサンドが恋しい。

 

台北に来てから気になっていたことがある。今の宿泊先のすぐ近く、歩いていける距離にこだわりの茶人、小楊の家があったはずだ。もう2年以上も連絡を取っていないが、まだ健在だろうかと。そして恐る恐る昔の携帯番号を探し出し、電話してみると、『おー、今どこにいるんだ。遊びに来い』という話になり、嬉しい限りの再会となる。

 

宿泊先から歩いて10分もかからない。MRTなら一駅以内の距離に、懐かしい家がある。普通の家なので、看板もなく、一見さんは入ることすら出来ない小楊のお店がそこにある。階段で5階まで上がると、奥さんが迎えてくれた。二人とも特に変わった様子もなく、室内も大きくは変化していないように見えた。

 

小楊はいつものように飄々として湯を沸かし、いい感じの急須を使って、美味しいお茶を淹れてくれる。これもいつものように私には買えないような高価な茶を。この落ち着いた空間、懐かしいというか、斬新というか、まったり過ごせる。取り敢えず長いご無沙汰の時間を埋めるために、近況などを報告する。

 

その報告の中に、『最近台湾茶の歴史を学んでいる』と話すと、いつもはあまり話をしない奥さんが乗り出してきて、包種茶、紅茶、高山茶などについて、色々と説明をしてくれた。彼女は台北近郊の茶農家の娘だそうだが、実は茶の歴史をかなり深く勉強しているようで、一般的に言われている歴史+自らの体験+先祖の話を合わせてしてくれ、とても参考になるので、驚いてしまった。史実はネット上で語られているだけではないのだ。

 

どんどん話が深くなっていく。私は興味津々で来ているが、その内どうしても資料が欲しくなる。『資料に書いているようなこと、資料があるようなものが果たして真実か』とは思うものの、物を書く場合、どうしても何らかの根拠が必要だと感じてしまうのだ。それは仕方がないことだが、また資料がないのも仕方がないと思うのだ。

 

小楊が『そういえば最近知り合いが本を出したよ。彼の本なら何か歴史にも参考になるかもしれない』というので、どこで買えるのかと聞くと、急に電話を掛けて、『今から買いに行こう』というではないか。意外性の小楊というべきだろうか。面白い。3人で急ぎ外へ出て、タクシーを拾う。

 

どこまで行くのかと訝っていると、到着した場所は何と西門町近くの中山堂。昨日久しぶりにこの地区を歩いていて、中山堂は今どうなっているのだろうかと思ったので、ちょうどよい機会となる。古風な建物の中に入り、エレベーターで4階に進むと、予想していなかった茶館?があり、お茶を飲んでいる人がいた。廊下にも茶を飲むスペースがあり、かなり静かなので、ゆったりできそう。

 

小楊とここの老板は知り合いのようで、早速先ほど問い合わせた本を取り出してくれ、ゲットできた。この本は茶の雑学全般が書かれているようだが、著者の体験も多く、参考になりそうだ。小楊と老板は何か商談をしているようだったので、この4階を見て回る。何と茶に関する講演会もここで月1回程度行われており、かなり有名な人々が登壇するらしい。チャンスがあれば一度聞いてみたい。また畳の部屋なども用意され、茶芸を楽しむこともできるようだった。今度は休息のためにここに来よう。

 

中山堂を出ると小楊がご飯を食べていこうという。結構時間は早かったが、私は今日1食しか食べていないのでその提案に従い、西門町の駅の方へ向かう。今日は週末でその付近は人で溢れていたが、まだ早かったせいか、彼が入りたかった鴨肉の店に何とか席を確保した。ここでは麺を頼み、なぜか鴨ではなくガチョウの肉を食べる。料理自体は美味しいのだが、老舗だというのに、何とも不思議な構図だった。

ある日の埔里日記2018その2(4)西本願寺から華西街へ

3月24日(土)
台北散歩

翌日の土曜日はゆっくり起き上がり、昼近くになってフラフラと出掛けた。MRTに乗り中正紀念堂で降り、紀念堂には行かずにその周辺を散歩した。最近は台北に来ても余裕がなく、こんなあてずっぽうな旅は久しぶりだった。紀念堂の反対側には国家図書館があり、何か資料が見つかるかもしれないとは思ったが入る気分になく、そのまま抜けて台北賓館を横目に見ながら、総統府の方へ向かって歩を進める。

 

休日の昼時、この辺の人通りは少なく、天気は良いが暑くもなく、快適な散歩となった。愛国西路、そんな道があったんだ、知らなかった。そこには古めかしい建物が見えたが、なぜか立ち入りが制限されている。日本統治時代の専売局の跡らしい。このあたりは街路樹も生い茂り、雰囲気も良い。

 

ダラダラ歩いていくと、西門町まで出てきてしまった。ここから台北駅の方に向かうと、何といつの間にか、西本願寺が復元されているではないか。日本統治時代に建てられたが、光復後は跡形もなくなっていると思われたこの寺、本堂はなかったがその台座は残されており、周囲は公園のように整備され、小山の上には鐘撞堂まで復元されていた。1975年の大火で焼失したとされる本堂、5年ほど前に突然現れたらしいが、全く知らなかったので驚いた。今の日本ブームを象徴するような現象であり、そこには週末ということか、大勢の台湾人が家族で訪れていたのが印象的だった。

 

確か台北には西本願寺だけではなく、東本願寺もあったはずだが、こちらはどうなっているのだろうか。検索を頼りにその場所を探してみるが、全く見つからず。どうやらデパートになっており、西のように再建される雰囲気はないようだ。勿論でデパートの周囲のどこにも東本願寺跡、と言った表示すらない。東と西の明暗を分けたものは何だったのだろうか。

 

折角ここまで来たので、懐かしの萬華を歩いてみようと思い立つ。華西街、私が住んでいた1990年頃は仄かに赤線街が残り、夜はちょっと危険な香りがしたものだ。蛇の生き血を飲ませるショーが常に行われており、なぜかそこでは日本のプロレスのビデオが流れている、そんなオールドファッションな場所だった。

 

華西街観光夜市、昼間のせいか、昔とは全く違うのか、萬華付近は静寂を保ち、古い建物は散見されるものの、猥雑な雰囲気は全くなく、ただのきれいな道だった。華西街も家族連れや若いカップルが歩く、健全な雰囲気が漂い、あのけだるい光景は見られなくなっていた。何となくスーッと歩いて抜けてしまった。30年前、ここに来る時は身構えた思い出があるが、今はスーである。

 

そのまま歩き続けるとやはり観光スポットである龍山寺に辿り着いた。さすがにここまで歩いてくると暑い。何となく30年前を思い出し、木瓜牛乳が飲みたくなってしまう。昔はよく飲んだものだが、最近はとんとご無沙汰だった。周囲を見渡すと、何とか一軒のきれいな店を発見。そこで木瓜牛乳を注文したが、甘さをどうするとか、色々と聞かれて面倒。あの圧倒的な甘さがいいのでは?更には料金も随分と高くなっている気がする。ここにも古き良き台湾は無くなってしまったように感じてしまった。

 

龍山寺も34年前、初めて台湾に来て最初に観光した場所だった。あの頃も観光スポットではあったと思うが、もっと熱心な台湾人信者が一心に祈りを捧げており、かなり迫力があったことを覚えている。今は寺自体も何となくスッキリしており、MRTの駅まで目の前に出来ており、参拝者も外国人中心に変わっているようだ。さすがに疲れ果てたので、MRTに乗って帰る。

 

休息後、晩御飯を探して彷徨う。ちょうど海南チキンライスの看板が目に入り、思わず中へ進む。新しい店らしくきれいだが殺風景。蒸したチキンが載っているのは確かだが、どことなく海南チキンとは違うように感じられる。台北は埔里より物価が高い。これで120元、量的には満足だが、質的には厳しい。やはり台湾では、台湾のものを食べるべきかもしれない。

ある日の埔里日記2018その2(3)石門の茶工場へ

3月23日(金)
石門へ

翌朝は葉さん夫妻の案内で石門へ向かった。石門と言えば、石門水庫を思い出してしまうが、台湾には同じ地名がよくあるのだ。今日訪ねたのは、基隆と淡水の間にある石門だ。ここは交通がかなり不便で、自分では行けないと思っていたところ、車を出してくれるというので便乗した。

 

車は台北市内を抜けるといつの間に高速を走り、気が付くと海岸線に出ていた。確か30年近く前、この近く、金山とか野柳とかに来た記憶はあるが、当然ながら当時と比べれば相当に道はきれいになり、海岸線もきれいになったイメージがある。ただ車は殆ど走っておらず、かなり寂しい雰囲気にはなっている。

 

そして車は海岸沿いの道路から、小高い丘を登る、というより、内陸に分け入っていく。そこには古めかしい茶工場が見えた。草里製茶廠との表示が見えるが、人がいる様子はない。電話を掛けると、謝さんが出てきて迎えてくれた。彼はまだ30歳と若い4代目。ここ石門は、日本統治時代には、かなりの茶畑もあり、紅茶や包種茶が作られていたというが、今やその面影はない。

 

おじいさん、80歳代の謝国村さんが話をしてくれた。『日本時代、私のお爺さん(初代)は茶作りの名人だった。総督府より巡回教師に命じられたほどだ』と言い、実物の任命書を見せてくれた。このような現物を見るは初めてだったので、かなり興奮した。よくもこれを保存していたものだ。それにしても、正直茶作りではそれほど名前を残していない石門に、茶作り名人がいたというのはどういうことだろうか。しかも巡回して教えた場所は、あの文山地区、そこは茶作り先進地区ではなかったのか。これはどういうことだろうか、謎は深まるばかりだ。

 

1980年代には茶の輸出も止まり、石門の茶業は危機を迎えた。そこで鉄観音茶作りが始まり、また農会ベースでティバッグ作りを行うなど、新しい取り組みがあり、現在に至っているという。茶作りを続ける農家は多くはない中、この茶廠では若手の4代目がおり、頼もしい限りだ。またこの地では日本時代、アリバン紅茶というブランドの紅茶が作られていたが、こちらも復活されている。この紅茶が当時どのような物であったのか、ちょっと興味ありだ。

 

茶工場を見学した後、帰ることになった。茶畑が見たかったが、この工場の山の上にあり、車が入れない場所だというので断念した。一体なぜこの海辺の丘の上に茶畑が作られ、往時は大量の茶が作られたのか、そしてなぜ廃れていったのか、今回の訪問だけではとても理解するのは難しい。また来る機会が有ることを期待するのみだ。

 

車は海岸沿いを更に進む。そしてまた横道に入っていく。三芝地区だ。すると葉さんが『ここが李登輝元総統の故居です』という。李登輝氏は台北の人だと思い込んでおり、その生まれがどこかなどは考えたこともなかった。車で通り過ぎただけでそこで降りることはなかったが、見学に訪れている人々がおり、今は観光スポットになっているようだ。

 

その先にレストランがあった。なんでこんなところに、と言いたい場所にあるのだが、駐車場には車が沢山あり、店内は満員だった。ここは中国で言えば、農家菜の店、田舎の新鮮な料理を食べさせるところだった。環境もよく、空気もきれいなので、中国でも台湾でも、今はこういうところが人気のようだ。

 

やはり名物の蒸し鶏はうまかった。野菜も新鮮でシャキシャキしており、台北では見られないような鮮度であった。満腹で外へ出るといい天気の中、梅などが咲いており、そののどかな光景は人を癒すに充分であった。かなり高い満足度を持って帰路に就いた。帰りは淡水側を回り、MRTの駅で降ろしてもらった。葉さん達はそのまま会社に出勤していく。

 

実は今回の旅はアメリカに住む葉さんのご主人、林さんのお兄さんも同行していた。帰りのMRTの中では、彼とずっと話していた。彼はスキーが好きで、何度も日本を訪れており、その印象を色々な角度から語ってくれた。アメリカに比べれば何でも安く便利だといい、総じて日本はいい、ということだったが、困ったことも色々とあるようだったし、果たして今後も日本の良い点が保てるのだろうか、ちょっと心配になる会話であった。

ある日の埔里日記2018その2(2)猫空と大稲埕

3月22日(木)
猫空へ

翌日も又文湖線に乗り、萬芳社区という駅で降りる。今日は先日も行った猫空に再度チャレンジするつもりだ。前回は車で連れて行ってもらったが、今回は単独で行く。基本的に猫空へ行く観光客は、ロープウエーに乗っていくのだが、高所恐怖症の私はそれを避け、ミニバスで向かうこととしたため、この駅で猫空行きのバスを探した。

 

幸いバスはすぐに来て、何とか乗り込む。結局ここから木柵の街を通過して上りに入り、ロープウエーの駅まで行くことになる。だが私の目的地は別にあり、ロープウエーを過ぎても降りなかった。ただそれは私が方向を誤っていたことにほどなく気づき、仕方なくバスを降りた。

 

その立派な廟の辺りから駅まで少し歩き、旅行センターで地図をもらい地理を確かめ、先ほどバスで通り過ぎた道を戻る羽目になる。やはり事前の調査は必要だが、私の旅は行き当たりばったり。仕方がない。10分以上下ると、ようやくお目当ての張迺妙茶師紀念館があった。道の下には僅かな茶園が見える。

 

紀念館に踏み込むと、女性が迎えてくれた。『鉄観音茶の歴史を知りたい』と告げると、それなら2階に上がり、ご主人から説明を受けるようにと言われ、200元を徴収された。更に写真撮影は禁止、と念を押される。ご主人は、張迺妙の孫(4男の息子)で、その父が作ったこの紀念館を夫婦で運営しているという。

 

2階には若干の展示物があるが、多くはご主人が語るその内容による。張迺妙の兄弟の話、品評会入賞茶のことなど、これまで勝手に読み込んできたことが違っていたらしいことが分かり、なるほどと思う。そして現在台湾内で、鉄観音が木柵以外にも広がった様子を教えてくれた。有り難い。1階に戻り、お茶を淹れてくれたので、鉄観音茶についても色々と教えてもらう。

 

紀念館の横には、確か3-4年前に訪ねたことがあるお茶屋さんがあった。実はここが張迺妙の長男の店であり、今は孫がその伝統的な鉄観音を作っていると聞いた。確かにあの時もそんな話が出たのかもしれないが、知識がないというのは致命的だ。どんな重要な話をされてもまるで刺さらない。次回はここを訪ね、現代の伝統製法を学んでみたい。

 

天気がとても良い。気持ちがよいし、バスもいつ来るかわからないので、ハイキング気分で下り坂を歩き始めた。途中に樟山寺と書かれた分かれ道がある。何となく気分でそちらの方へ歩く。この寺は新しいようだったが、クリアースカイの中、台北市内がきれいに見えた。

 

その横を見ると、下りの階段が見え、政治大学まで800mと書かれていた。僅か800mなら歩いて降りようと思い、そこへ踏み込む。だが階段をおりるのは意外と大変だ。そして数百メートル行くともう政治大学の敷地内に入る。何度か木柵の街に入ってその正門を見た政治大学だが、その裏側、裏山までも全て大学の土地だったとは何とも驚きだ。

 

更に下ると体育館や運動場などがあったが、その敷地は想像以上に広かった。800mの下りどころではなかった。この大学はいわゆる国民党の党学校だったのだから、その程度の資産があっても当たり前だ、と後で人に教えられたが、かなり驚いたことは事実であり、足が痛くなったこともまた事実だった。

 

国立政治大学は1954年、この地に出来たが、その前身は1927年に南京に設立された中国国民党中央党務学校だというからすごい。党幹部、エリート養成校だったわけで、その伝統は恐らく台湾に来ても引き継がれたであろう。私はこれまで政治大学出身者に出会ったことは一度もないが、それは住む世界が違うということだろうか。何故政治大学という名前なのかも、考えたことすらなかった。

 

一度宿に戻り牛肉麺を食べて休んでから、夕方大稲埕に出向いた。まずは有記銘茶に行き、先日話しを聞いて書いた雑誌を手渡した。5代目王さんは『ちょうど今、焙煎が終わったところ。いい匂いでしょう』と言って、奥の焙煎室を見てくれた。確かに微かな残り香が何とも言えない。

 

それから昨日訪ねたレベッカの紹介で、大稲埕の入り口のすぐ脇にある王錦珍を訪ねてみた。こちらは店も新しくきれいになっているが、その表示には1952年となっていることから、光復後に開業したことは分かる。こちらも福建省安渓から来た人だったが、元々茶商売ではなく、いわゆる出稼ぎできて、茶業をやるようになったらしい。この店の場所は1964年からだというから、先祖は相当に努力し、また才覚もあったのだろう。

 

その後大稲埕散歩を試みるも、昔の茶荘の跡などは殆どなく、特定も難しい。錦記や徳記のように今もビルとして残っていれば、まだわかりやすいのだが、殆どは兵どもが夢のあと。大稲埕の繁栄が終わると潮が引くように消えてなくなったらしい。それもまた良いということだろうか。

 

夜は知り合いのTさん、Sさんの3人で、懐かしの梅子に行った。Tさんは台湾で30年近く前から知っており、その頃は多くの日本人出張者、駐在者がこの店を利用していた、という昔話に花を咲かせた。そして何よりもここで食べる担仔麺、デザートして出てくる餅、懐かしくて涙が出る。30年前、50回以上は来ただろうか。

ある日の埔里日記2018その2(1)深坑へ行く

《ある日の埔里日記2018その2》

今年2回目の台湾入り。今回は悩んだ末に、マイレージの余りを使い、羽田から松山に飛んできた。そうなれば、まずは台北で調べものをして、それから埔里に行くことにした。台湾茶の歴史、なぜは深まるばかりなのだ。

 

3月21日(水)
深坑へ

昨日台北に入った。観光客なら色々と美味しい店などを探すのだろうが、私は今台湾茶の歴史に取りつかれているので、ご飯は食べられれば良いと言う感じになっている。近くに香港式の店があったので、そこで三宝飯を頼む。鶏や叉焼など定番メニューが入っており、お得感がある。

 

翌朝は付近を散策。クラブサンドイッチがある店を探したが、近くには見付からない。隣の駅まで遠征したが、それでも見付からず、ついにトーストに卵などが挟まったパンを食べる羽目になってしまった。私はもうクラブサンドから離れられない。これなしでは生きていけない体になっている。困った。

 

台北市内の中心部と言っても、かなり古い建物が残っている。最近は意図的に保存しているものもあると思うが、大きな木の近くに古い建物、何となく日本時代からあるのかな、などと思ってしまう。教会があり、大学があり、雰囲気は落ち着いている。台北の西側が中心地だったその昔、ここは郊外の静かな場所、田んぼや畑だったのだろうか。

 

今日は先日幕張Foodexで再会したレベッカに会いに深坑へ行くことになっていた。実は深坑には4-5年前に3回ほど行ったことがあるが、それは全て連れて行ってもらったのであり、自ら行く方法すら分からなかった。レベッカの指示通り、バスに乗ってみる。MRT木柵駅で降り、バス停を探す。何本か走っており、すぐに乗ることができた。

 

20分ぐらい乗ると、深坑老街に出たので降りてみる。ここは臭豆腐が有名で、何度か食べた記憶があるが、今日は平日の昼間で、人はあまりいない。道はすっかり観光用になっており、お土産物屋が多いが、店の人も客がいないのであまりやる気は見られない。横に川が流れており、ここから茶葉が大稲埕に運ばれたのかな、と思うのみ。

 

深坑は日本統治時代から、茶葉の一大集積地だった。今日訪ねた儒昌茶行も茶を作り始めたのが6代前、茶商になったのも3代前からという老舗。ただ今やこの地区には殆ど茶商はおらず、往時は忘れ去られつつある。そんな中で頑張っているレベッカ。実はこの店には過去にも来ているが、その時訪ねたのは彼女の弟さんだった。彼は静岡でも修行し、日本茶にも詳しく、日本語も流暢で、将来が嘱望された茶商だったが、不幸にも亡くなってしまった。その一報を聞いて、この店を急きょ訪ね、お母さんを慰めたことを思い出す。

 

その弟の遺志を継ぐかのように、お店の別室には『和』の様相が溢れ出ていた。茶道ばかりではなく、各地の煎茶なども置かれており、その魅力についてかなり力を入れて宣伝している。こういうお店は台湾でも珍しいのではないだろうか。レベッカはよく日本に行くようだが、『東京をゆっくり歩いたことはない。いつも静岡などの茶産地に直行している』という程熱心だ。

 

儒昌茶行の先祖も、福建省の安渓からやって来た。王という姓は、台北の茶商に実に多いが、その多くが同郷人であり、とても興味を惹かれる。家族の歴史の話になると、やはりお母さんが出てきて、色々と説明してくれた。あの4年前の憔悴しきった顔はなく、今は前を向いて元気に茶業をしている。そして茶栽培などにも実に詳しく、多くの収穫を得る。店先には文山包種茶と書かれた昔ながらの大きな缶が置かれているのが最後に目に入る。

 

帰りは市内方面に向かうバスに乗り、そのまま宿の近くで来て、フラフラ歩いて帰る。来た時から気になっていたレストランが見えたので、入ってみることにする。そこは大通りにあるきれいなレストランだが、清粥がある、と書かれて、そのギャップが気になる。今や粥はコストがかかり儲からない商品のはずだが、なぜこんな家賃の高い場所で、それをウリにするのか。

 

店内では料理を自分で選び、粥かご飯を選ぶ仕組みになっている。焼き魚と豚肉を頼み、それに地瓜粥を付けると160元になった。ようは一人で入る店ではなく、2人以上で来ればリーズナブルな店だと分かる。粥を食べたいという人は、比較年齢の高い層に多く、その財布を狙った店という訳だ。なるほど。ひとでは食べ切れない粥をほとんど食べてしまい、動けないほどの腹を抱えて帰る。

ある日の埔里日記2018その1(7)廬山温泉で

1月30日(月)
台北最終日

今日は夕方埔里に戻るバスを予約していた。ちょうど午後に雑誌社に行く用事があったので、その前をどうしようかと考えていると、料理人のSさんを思い出し、会うことになった。場所は、午後の予定を考えて小巨蛋の近くにしてもらった。レストランはこぎれいな京鼎小館。昔鼎泰豊で働いていた人が開いたらしい。

 

午前11時なので、お客はまばらだったが、12時近くなるとほぼ満席になった。日本人観光客もガイドブックを抱えてやってくる。埔里では日本人に会うことは殆どないので、ちょっとした違和感がある。メニューにはもちろん日本語があり、ウエートレスも日本語を話すようだが、こちらは全て国語で注文する。

 

出てきた鶏スープは何となく懐かしかった。これが鼎泰豊のウリだったよな。チャーハンも満足できるものでよかった。デザートに豆沙小包を食べればもう完璧だった。今や日本人観光客で行列ができるあの店には行きたくないが、こういうこじんまりした店で、似たような味が食べられるのは悪くない。

 

まだ時間があったので、コーヒーショップを探して入る。カフェラテを頼むとラテアートが出てきて驚く。今や台北ではそんなにしゃれた店ではなくても、それなりにおしゃれなのだと実感する。コーヒー1杯が私の夕飯2回分の値段である。やはり台北には住めないな、とも思う。

 

午後訪ねる会社の住所を忘れてきてしまった。仕方なく、この辺と思われるビルを1つずつチェックしていったが、なかなか見つからず焦る。結局MRT駅にかなり近いところでようやく見つける。私に記憶もいよいよ末期症状だ。ここではN編集長と2時間も話し込んでしまった。何だか仕事の邪魔をしてしまったようで申し訳なかった。

 

それが終わると急いで宿へ取って返して荷物を取り、台北駅へ向かう。何とか5時のバスには間に合い、一安心。バスは一路埔里を目指して快調に走り、眠っている間に体を運んでくれるから有り難い。

 

1月31日(火)
霧社へ

翌朝はゆっくり起きる。実は昨日台北で会ったSさんが、休暇があるというので、埔里に遊びにくることになっていた。久しく会っていなかったのに、2日続けて会うのは何となく不思議な気分だ。バスターミナルで待ち合わせて、廬山温泉へ向かった。Sさんの希望で、今日は霧社事件関連を歩くことにする。

 

ちょうどバスが来たので乗り込む。清境農場行きなどは本数があるが、廬山温泉行は一日に数本しかないので、霧社を通り越してまずはこちらを目指す。相変わらずお客はあまりおらず、終点に着いた頃には我々だけになっていた。取り敢えず昼を過ぎていたので、ご飯を食べる。

 

一人だと入りにくい食堂も、二人だと入れるのは嬉しい。特にこのような人がいない場所ではそれは顕著だ。野菜は新鮮で山豚の肉は旨い。スープもイケており、満足できた。これを一人で払うと400元になるが、二人で割れば半分なので、旅の経済性は格段に向上する。

 

目の前に難敵の吊り橋が待っていたが、今日は他に誰もおらず、揺れる心配がないので、何とか渡り切った。ここを越えると少し店が並ぶがその後は閉鎖された温泉宿。その後に蒋介石が好んだという和風の家がある。そこを過ぎると上りになり、マヘボ社の石碑がある。ここが霧社事件のモーナルーダオの本拠地へ続く道だ。

 

実はこのルート、昨年一人で歩いて大雨に遭い、大変難儀した。1㎞ぐらい坂を上がると、モーナルーダオの石碑があり、廟もある。そしてその向こうには故居の表示もあるが、前回は雨で見付からなかった。取り敢えず歩いて探してみたが、やはり見付からず、民宿になっているので入って聞いてみると『昔はあったが、今はもうない』というではないか。しかもよく考えてみると、彼らの部落はもっと山奥にあるはずだと思えてきて、単なる観光客向けの看板にかなり嫌な気分になる。その民宿には温泉もあるが、自分でお湯を入れて入るのだという。まるでプールだな。

 

仕方なく山を下りると、別の道があったので歩いてみた。奥の方に源泉が湧き出ているような湯気が立っている。近づくとそれなりの建物が建っているが、中に入ると誰もいない。個室温泉があるようだが、今や利用者はないようだ。食堂もあるが、実に懐かしい孫燕姿のポスターが貼られており、タイムスリップ状態だった。

 

バス停まで戻りバスを待つ。だが予定時刻を過ぎてもバスは来ない。ちょっと遅れるのかと思っていたが、何とこのバスはついに来ず、次のバスが50分後の始発だったので、それに乗り霧社へ向かう。前のバスは廬山始発なので、この坂を下りて来ないで通過したらしい。何とも酷い対応だが、これも二人だから笑って過ごせた。

 

霧社までは20分もかからない。降りてすぐに、昔の神社跡に登り、景色を眺める。それから記念碑を訪ねる。そこも完全に観光地化しており、何とも言えない。更に下におり、事件の起こった公学校跡(現在の台湾電力)を通り、日本人墓地跡を見て帰路に就く。何だか妙に疲れた。

 

今度は幹線?なのでバスはすぐ来て1時間で埔里に戻る。夜はお客さんが来ると行く古月軒で、地元料理を食べる。Sさんは料理人なので、色々と試しては首を振ったり頷いたりしているのが面白い。