ある日の埔里日記2018その2(7)梅山 龍眼で発見!

3月27日(火)
龍眼林へ

翌朝は晴れてはいなかったが、すっきりとした朝だった。8時過ぎには皆チェックアウトして外で私を待っていた。朝飯もまた同じ食堂で食べる。好物の地瓜粥があるのが有り難い。私以外は皆若いので朝からモリモリ白米を食べている。それから車は瑞里を離れ、龍眼に向かう。この区間はそれほど遠くないとのことだったが、決して近くはなく。アップダウンを繰り返し、家もない山道を行く。どこへ行くのかと不安になる。

 

1時間以上も乗ってついに龍眼に着いた。同じ梅山地区だがこんなにも遠いのだろうか。訪ねたのは1軒の茶農家であり、そこは周囲に家もなかった。古めかしい茶廠があり、中を拝見すると、最近きれいにされた製茶場と体験場が組み合わさったような空間が広がっている。その一番先端の窓からは茶畑がよく見えた。台湾の山中にはこんなところもあるんだな。

 

ここの老板、林さんが『もっといいところへ行こう』と歩き出すと、すぐに実に見事な竹の林の中を通る。これまでいくつもの台湾の山の風景を見てきたが、こんなに素晴らしい竹林を見たことはなく、この中にいるだけで大いに癒される。『京都の嵐山のようだろう』と言われて、ちょっと驚く。ここだけは保存しようと、歴代守られてきた空間だそうだ。その先の斜面には茶畑が広がっている。もうあと何日かで茶摘みが始まる。若い芽が伸びていた。

 

この龍眼での高山茶生産はかなり早い時期に行われていた。やはり6つの茶農家が始めたらしい。瑞里よりこちらの方がほんの少し先のようだ。従来青心烏龍などが植えられていたが、改良場の指導で、金萱なども植えられる。ここが高山茶の始まりだという人もいる。瑞里と同様の歴史を辿り、最近は紅茶やGava茶などの生産も行っている。

 

お昼には何と鍋に入った豪快なカレーが登場して驚いた。これはハウスバーモンドカレーのような味で何とも家庭的でうまい。私はこういうものが食べたかったのかもしれない。思わずお替りしてしまう。お茶ばかり飲んでいるのもよいが、何ともホッとした。林さんと会話していると意外な話が出てきた。彼のお父さんの時代に高山茶は始まったが、お爺さんの時代はこの付近の茶園管理を任されていたというのだ。それは一体どういう話だ、と思いながら次の茶農家へ向かった。

 

林さんが連れて行ってくれた王さんの家。ここも1970年代に高山茶を始めた一人だが、その理由は『日本統治時代の経験があったから2代目の父が踏切った』と3代目の王さんは言う。1920年代、標高1100-1200m前後のこの地に18ヘクタールもの茶園があったというのだ。そこに茶樹を植えた投資家がおり、10数年間茶作りが行われたらしい。ただ1930年代にはその投資家は投資を引き揚げたといい、その後はその茶園を引き継いだ地元民が細々と茶作りをしていたともいうのだ。

 

では一体茶作りは誰が行っていたのか。そこに王泰友という名前が出てきて驚く。彼は布巾包揉という布袋を使った揉捻製法を広めた人として台湾茶業界では知られていた。彼は1940年前後にこの製法を広めたようだが、その時茶荘は台北ではなく、斗六に開いていたから、可能性は十分にある。ただこの時代、一体どんなお茶が作られたのか、それはよくわからないのが何とも残念だ。

 

更にはもう1軒、82歳になる林さんを訪ねる。こちらもご自身が高山茶を始めた人だが、『1970年より前から、母親が烏龍茶を作っていたよ』と、軽く言う。その品種は武夷と山茶の雑種だったともいう。そして倉庫から何と42年前にそのお母さんが作ったというお茶を出してきて飲ませてくれた。勿論老茶となっていて黒黒しているの

今日訪ねた3軒を見ると、日本統治時代に茶園があったことは確実で、その茶園は地元民が引き継ぎ、細々と茶作りが行われていたが、高山茶の開始と共にその経験を生かして茶作りが本格的に再開されたということだろうか。だがその後多様な高山茶が生まれ、徐々に生存が難しくなっているという現状がある。

 

龍眼からグルグルと山を下りて高速道路に乗り、車で埔里まで送ってもらった。トミー達は明日も埔里でイベントがあるようで、助かった。それにしても、梅山の茶の歴史、初めて聞く話が多く、消化しきれないが何とも面白い。次回はもう少し深めてみたい。

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