ある日の埔里日記2018その2(6)梅山 瑞里の茶

3月26日(月)
梅山へ

翌朝は早く起きて荷物を引き摺って台北駅に向かった。珍しく高鐵に乗り、台中へ向かう。これまでは全て埔里からバスで向かっていた台中高鐵駅、そこでトミーと待ち合わせていた。高鐵はやはり便利で速い。1時間で台中に着くのは埔里からバスに乗るのと大差ない。ただ費用は数倍違うが。それでも日本の新幹線に比べれば半分程度か。

 

高鐵駅のいつもの場所で落ち合い、車は嘉義方面に向かう。今日は後ろの席の陳さんと茶スターという2人の若者も同行している。車は高速道路を走り、梅山に登る道に入る。36の九十九折があり、かなりの急カーブを上って行くと、ちょっと車酔い気分になる。ちょうど標高1000mの表記が見える。太平という場所、定義上ではここから上が高山茶エリアだが、茶畑は道路沿いには見られない。

 

あるのは恐怖の遊歩道、下が丸見えの天空橋だけだった。なぜこんな橋を観光目的で作るのか。高所恐怖症の私には全く理解できないが、平日でもかなりの人が歩いているから驚く。ここでトイレ休憩したが、食事場所も観光地料金で、何もせずにまた車に乗り込む。その先には茶畑が見え始め、少し気分が高まる。

 

山道を約1時間で瑞里に着いた。この地名は聞いていたが、来るのは初めてだった。というか、ご縁がなく梅山自体に来るのが初めてなのだ。なぜか藤棚があり、藤の花が見ごろということで、観光客がミニバスを連ねて、多く訪れていた。大型バスは入れない。『日本の藤棚はきれいだろう』と聞かれたが、確か5月頃咲くのではなかったといった程度の認識しかなかった。台湾では日本人以上に日本が知られている。

 

今晩はここに泊まるのだという。取り敢えず昼ご飯を食べるために食堂に入ったが、満員の盛況だ。タケノコなどの地元料理のコースを食べる。その後、すぐ近くにあるトミーの知り合いの茶農家を訪ね、食後のお茶を頂く。かなり立派できれいな茶荘を兄弟でやっている。

 

午後は梅山の茶の歴史を聞きに行く。食堂の横にある今は営業していない宿に行くと、林さんと陳さんが待っていてくれた。林さんは80歳だというが、非常に元気で、自らの茶業体験を熱く語ってくれた。ここはかなり貧しいところで、地瓜などを作るだけで出稼ぎなどに行く者も多かったが、1979年頃、茶業改良場の指導もあり、高山茶向きの茶樹を植え始めたという。

 

当時は凍頂烏龍茶などが盛り上がり始めており、茶を作ればいい値で売れると言われ、生産計画が立てられたらしい。1990年代には最盛期を迎えた瑞里の高山茶、その後は921地震や化学肥料問題などもあり、2000年代に入ると他の高山茶地区の茶に押されて衰退していったという。

 

瑞里を歩いていると、斜面に檳榔樹があり、茶畑が広がっていた。そこをゆっくり散歩すると涼しくて気持ちがよい。その先の廟まで辿り着くと、そこには嘉義県珈琲産業発展協会という文字が見えた。我々が次に訪ねたのは何とそこだった。王さんも1980年頃、瑞里に茶樹を植えたメンバー(6人衆)の一人だった。奥さんが珈琲を持ってきてくれたのが、これまでの訪問と全く異なる、珍しい体験だった。

 

『2000年に入ると茶よりコーヒーだと気付いたんだ』という王さんは珈琲協会の創始者だ。元は高雄で造林業も行っていたと言い、木を扱うのには慣れていた。1980年代には瑞里茶はコンテストで入賞するなど優位性があったが、その後は阿里山、梨山、杉林渓などの高山茶に押されてしまい、コーヒーへの転換を決断した。最近は上島珈琲とも提携するなど、コーヒーブームに乗っている感じだ。

 

夕方宿泊先の部屋に入る。思ったよりきれいな部屋だ。少し休むともう夕飯だ。この辺には食べるところはあまりなく、昼と同じ食堂で食べる。茶壺食堂という名前だが、なぜこの名前を付けたのだろうか。店には特に茶壺は見られない。料理はパイナップルが入ったスープが印象的だった。

 

夕飯後、再度昼食後に行った茶荘を訪ねた。王宏誠氏、お父さんがやはり高山茶6人衆の一人だったというが、自分は歴史のことは分からないと、昼間の面談をアレンジしてくれていた。彼らは新しい茶業の形を考えていかなければならない世代。色々と話をしたかったが、お茶を飲んでいるうちに、ものすごく眠たくなってしまい、私一人だけ離脱して、部屋に帰って寝てしまった。まだ午後8時だったから、今日の朝が早かったからか、また最近かなり疲れていたのかもしれない。この静かで涼しい山の中ではよく眠れるのが有り難い。

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