ある日の埔里日記2018その2(1)深坑へ行く

《ある日の埔里日記2018その2》

今年2回目の台湾入り。今回は悩んだ末に、マイレージの余りを使い、羽田から松山に飛んできた。そうなれば、まずは台北で調べものをして、それから埔里に行くことにした。台湾茶の歴史、なぜは深まるばかりなのだ。

 

3月21日(水)
深坑へ

昨日台北に入った。観光客なら色々と美味しい店などを探すのだろうが、私は今台湾茶の歴史に取りつかれているので、ご飯は食べられれば良いと言う感じになっている。近くに香港式の店があったので、そこで三宝飯を頼む。鶏や叉焼など定番メニューが入っており、お得感がある。

 

翌朝は付近を散策。クラブサンドイッチがある店を探したが、近くには見付からない。隣の駅まで遠征したが、それでも見付からず、ついにトーストに卵などが挟まったパンを食べる羽目になってしまった。私はもうクラブサンドから離れられない。これなしでは生きていけない体になっている。困った。

 

台北市内の中心部と言っても、かなり古い建物が残っている。最近は意図的に保存しているものもあると思うが、大きな木の近くに古い建物、何となく日本時代からあるのかな、などと思ってしまう。教会があり、大学があり、雰囲気は落ち着いている。台北の西側が中心地だったその昔、ここは郊外の静かな場所、田んぼや畑だったのだろうか。

 

今日は先日幕張Foodexで再会したレベッカに会いに深坑へ行くことになっていた。実は深坑には4-5年前に3回ほど行ったことがあるが、それは全て連れて行ってもらったのであり、自ら行く方法すら分からなかった。レベッカの指示通り、バスに乗ってみる。MRT木柵駅で降り、バス停を探す。何本か走っており、すぐに乗ることができた。

 

20分ぐらい乗ると、深坑老街に出たので降りてみる。ここは臭豆腐が有名で、何度か食べた記憶があるが、今日は平日の昼間で、人はあまりいない。道はすっかり観光用になっており、お土産物屋が多いが、店の人も客がいないのであまりやる気は見られない。横に川が流れており、ここから茶葉が大稲埕に運ばれたのかな、と思うのみ。

 

深坑は日本統治時代から、茶葉の一大集積地だった。今日訪ねた儒昌茶行も茶を作り始めたのが6代前、茶商になったのも3代前からという老舗。ただ今やこの地区には殆ど茶商はおらず、往時は忘れ去られつつある。そんな中で頑張っているレベッカ。実はこの店には過去にも来ているが、その時訪ねたのは彼女の弟さんだった。彼は静岡でも修行し、日本茶にも詳しく、日本語も流暢で、将来が嘱望された茶商だったが、不幸にも亡くなってしまった。その一報を聞いて、この店を急きょ訪ね、お母さんを慰めたことを思い出す。

 

その弟の遺志を継ぐかのように、お店の別室には『和』の様相が溢れ出ていた。茶道ばかりではなく、各地の煎茶なども置かれており、その魅力についてかなり力を入れて宣伝している。こういうお店は台湾でも珍しいのではないだろうか。レベッカはよく日本に行くようだが、『東京をゆっくり歩いたことはない。いつも静岡などの茶産地に直行している』という程熱心だ。

 

儒昌茶行の先祖も、福建省の安渓からやって来た。王という姓は、台北の茶商に実に多いが、その多くが同郷人であり、とても興味を惹かれる。家族の歴史の話になると、やはりお母さんが出てきて、色々と説明してくれた。あの4年前の憔悴しきった顔はなく、今は前を向いて元気に茶業をしている。そして茶栽培などにも実に詳しく、多くの収穫を得る。店先には文山包種茶と書かれた昔ながらの大きな缶が置かれているのが最後に目に入る。

 

帰りは市内方面に向かうバスに乗り、そのまま宿の近くで来て、フラフラ歩いて帰る。来た時から気になっていたレストランが見えたので、入ってみることにする。そこは大通りにあるきれいなレストランだが、清粥がある、と書かれて、そのギャップが気になる。今や粥はコストがかかり儲からない商品のはずだが、なぜこんな家賃の高い場所で、それをウリにするのか。

 

店内では料理を自分で選び、粥かご飯を選ぶ仕組みになっている。焼き魚と豚肉を頼み、それに地瓜粥を付けると160元になった。ようは一人で入る店ではなく、2人以上で来ればリーズナブルな店だと分かる。粥を食べたいという人は、比較年齢の高い層に多く、その財布を狙った店という訳だ。なるほど。ひとでは食べ切れない粥をほとんど食べてしまい、動けないほどの腹を抱えて帰る。

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