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ある日の埔里日記2018その1(6)雨の三峡で

1月28日(日)
三峡へ

ちょっと昨晩の疲れは残っていたが、今日は三峡へ向かう。新店駅で黄さんと待ち合わせて車で連れて行ってもらうが、あいにくの雨模様だ。何故新店から三峡まで車で行ったのかと言えば、その距離感を知りたかったからだ。往時このルートも、茶葉が運ばれていたに違いない。勿論今のような道がある訳もなく、茶葉を担いで山道を越えてきたのだろうと想像する。

 

やはりというか、新店‐三峡間は車であれば近かった。20分程度で抜けてしまう。ただ雨は本降りとなり、視界は悪い。黄さんが紹介された茶農家を何とか見つけて滑り込む。やはり黄さんという苗字の方が対応してくれた。ここで祖父の代から主に緑茶作りをしているという。

 

コンテスト入賞茶がずらりと並ぶ。三峡でも緑茶コンテストは早くから行われていたようで、黄さんは毎年のように受賞し、この付近の有名人らしい。光復後は龍井茶などの緑茶も作っていたが、包種茶など緑茶以外も多く作られていたはずだ。そして徐々に茶農家が無くなる中、彼はどのように生きてきたのだろうか。最近少し人気の出てきた台湾緑茶、請われて手もみの茶なども披露するというが、きっとそこには深い歴史があるに違いない。

 

黄さんのところをお暇して、途中で昼ご飯を食べる。普通の魯肉飯とスープだが、寒いせいか、やけに美味しく感じる。田舎のせいかボリュームもある。午後は大寮の茶文化館に向かう。ここは日本時代の三井の工場だったところ。大渓、三叉河と並ぶ三大工場の一つだ。実は昨年バスに乗って自力でここを訪ねようとしたが、うまくバスに乗れずに断念した経緯があり、今回ようやくの訪問となった。

 

工場はあったが、新しい。これは台湾農林が今も使っているようだが、今は時期的に稼働しておらず、おまけに非公開。その少し上に、昔の工場長の宿舎を改装した記念館があった。そこに簡単な歴史が展示されてはいたが、どうもあまり雰囲気は出ていない。単なる日本家屋の見学と言う感じだ。後は土産物を売るのみ。

 

聞けばここから山道を数キロ登った、海抜700mぐらいの場所に当時からある茶園が残っているというので、そちらへ向かう。小雨で霧がかなり出ており、山道はちょっと危険な雰囲気だった。かなり上ったと思ったところでようやく熊空茶園という門が見えたが、その門は閉ざされていた。熊空とは、あの猫空に対抗したのだろうか。

 

まずは横のショップに入る。天気が良ければ観光客が来るのだろうが、この天気では店員も手持無沙汰。黄さんは知り合いにお土産を買い込み、レジで『商品を買った人は無料で茶園に入れる』と聞いてきた。我々は小雨の中茶園を眺めに出る。そこは茶株がぽつぽつとある、昔風の茶園であり、量産体制にはなかった。まあ一種の公園のような雰囲気だろうか。空気は良いので散歩には適している。園の端に古い工場が残っていたらしいが見つけることはなく、引き揚げた。

 

そこからまた車で新店まで引き返した。今回は天気が悪く、何となく心残りな三峡になってしまったが、これはこれで仕方がない。一歩ずつ進もう。一度宿に帰り休息したが、すぐまた外出する。Kさんとの待ち合わせ場所は、いつもの広方園。この時間湯さんはいないだろうと思いながら店に入ると息子が2階を指す。どうやら茶の講座を開いていたらしい。すぐに湯さんが降りてきて、世間話を少ししていたが、お客さんが多くて、細切れになる。

 

そこへKさんが現れ、食事に向かう。今晩は鶏料理にしようということで、近くのレストランに入る。ここは日本人観光客も多く、おばさんが日本語で対応してくれる。これが美味しいよ、これは半分でいいよ、などとアドバイスをくれ、なんとなく懐かしい。おばさんに従って注文すると、何だか日本的な中華の構成になってしまう。私は鶏スープが確保できればそれで満足だった。

 

Kさんとは厦門で知り合い、台北に移住してきてからも何度か会っていた。その度に『台湾で田舎暮らしがしたい』という彼女だが、埔里の良さを伝えると目を輝かせている。もし仕事があれば、すぐにでも移りたいというが、仕事をすれば、きっとどこでも大変なのだろう。日本の会社で仕事するのと台湾人と仕事するなら、どっちがより大変か、考えたこともなかったが、結構いい勝負のような気がした。

ある日の埔里日記2018その1(5)懐かしい台北

1月26日(金)
台北へ

本日は金曜日。定例の黄先生サロンに伺う。埔里では旧正月前から元宵節の間、ランタンフェスティバルが開かれるという。そしてランタンに黄先生たちが絵を描き込んでいる。ランタンは傘のように折りたたむことができ、ある程度の風雨にも耐えるように設計されているらしい。残念ながらこの時期は埔里にいないので見ることは出来ないが、さぞやきれいなことだろう。

 

午後4時のバスに乗り、台北へ向かう。もう慣れているので、ほとんど寝てしまう。金曜日の夕方だろうが、台湾の高速道路にそれほどの渋滞はなく、7時過ぎには台北駅に着いてしまうから早い。そこからMRTに乗り換えて、最寄り駅まで来る頃には葉さんも仕事を終えて帰宅しており、無事にカギを受け取ることができる。

 

夕飯はすぐ近くに出来ていたすきや、にしてみようと思う。最近店舗を拡大しているようなので、ちょっと見たくなったのだ。店に入り、メニューを眺めていると、店員が怪訝な顔をした。そして店長らしい若者が『今日はもう終わりです』というではないか。あれ、すきやは24時間営業では?表の上には24時間の文字はある。だが店長は『この店は違うんです。24時間に灯りは付いていません』というのだ。確かにそうだが、ちょっとビックリ。腹が減っていたので、向かいの吉野家に飛び込んで牛とカレーが半々のどんぶりを食べた。これなら分けて食べた方がよいなと思う。

 

1月27日(土)
台北散策

翌朝大稲埕へ向かう。午前の早い時間は暇だったのだが、早過ぎてまだ店が閉まっていたりするので、完全なお散歩となる。実は今回は日本時代に名を馳せた茶荘、辻利茶舗のあった場所を確認し、現在のその場所の写真を撮る、というのを一つの目的にしていたが、なぜかその大事な住所を忘れてきてしまい、むやみに歩き回るも見付けられないという失敗があった。まあそれほど寒くはない街をフラフラするのは悪くない。

 

11時を過ぎて、約束の天津街に歩いて移動する。今日は久しぶりにBさんと会うことになっていたのだが、その場所があのウナギの肥前屋だった。肥前屋と言えば、28年前の台北駐在の折は偶に行った場所だった。その頃ウナギは日本の味だったが、店舗はボロボロで、今にも倒れそうな?傾きだったのを覚えている。ウナギというのは台湾産が多かったので、日本と比べてもかなり安かったはずだ。

 

ところが数年前に懐かしの天津街に宿泊すると、行列が出来ている店があり、それが肥前屋だと気付いて、ひどく驚いた。店舗の場所はいつの間にか移転し、きれいな店になっているではないか。しかも並んでいたのは日本人もなく台湾人でもなく、中国大陸の観光客。どんな情報でここにやって来たのかは分からないが50人も並ぶと狭い路地は一杯になる。

 

昨今は中国人が減ったものの、行列は相変わらず。我々も素直に並ぶと、店員が寄ってきてメニューを渡し、先に注文を取る形式になっていた。うな丼、吸い物に肝、それにだし巻き卵を頼んだが、料金は安く、まあ味は相変わらず。こんなに行列している意味はよく分からないが、なんとなく懐かしいのがよい。食べ終わるとすぐに追い出され、近くでコーヒーを飲んで昔話をする。

 

それからMRTに乗り、台湾大学へ行ってみた。前回は歩いて裏門から入ったが、今日は堂々?正門を通る。ずっと歩いていくと看板が見えた。蓬莱米発祥の地と書かれている。1926年にここに植えられたのが最初らしい。磯永吉が開発し、台湾の米産業に大いに貢献したとある。現在でも食べられている美味しい米だ。磯永吉が何者か、ちょっと気になったが、図書館へ向かって歩いてしまい、その近くに出来ていた、博物館?を見落とした。

 

図書館では前回同様5階の日本時代関連資料に当たろうとしたが、何と土日は休みで入れなかった。前回コピーを頼んだ地下1階はちゃんとやっており、前回のおばさんが『あんたが取りに来ないから心配したよ。何度も電話したんだよ』と言われてしまう。こちらは予約金を支払っていたので、問題ないと思っていたが、悪いことをした。

 

3階に上がり、茶業改良場の場誌を見つけて、そのコピー取りに精を出した。やはり台湾茶業の歴史を学ぶなら、まずは場誌をちゃんと読む必要があると痛感する。ここには意外な事実も含め、様々なことが書かれており、大いに参考になる。徐先生渾身の一冊だ。

 

あっという間に夕方になり、また歩き出す。MRT六張犂駅に行き、Sさんと待ち合わせた。Sさんは今日の昼間、淡水の奥の方へ行き、きれいな花を見てきたという。我々は駅近くの喫茶店に潜り込み、話し込む。いつも話題は多岐に及び、楽しい。時間を潰し、8時に北村家に向かった。ここは昼も会ったBさんが元店長をしていた店で、今も時々出ているというので行ってみた。

 

SさんをBさんに引き合わせ、北村家の洋食を味わってもらうのが目的だったが、それは達成された。更にはそこに大学の後輩であり、その昔の上海でも縁のあったKさんが飛び込んでくる。彼女とお友達は台北で開催されているフィギャ―スケートを見に来ていたのだ。勿論我が奥さんの同士であるという複雑な関係にSさんは目を白黒。

 

因みにBさんと私は上海の留学が一緒、そしてKさんはその時期に親の転勤で中学生生活を上海で送っており、その時に補習校の先生がBさんなのだから、この取り合わせは凄いというしかない。このメンバーが台北で会すとは、どのような因果だろうか。そういえばこの大会には北朝鮮選手が出場して話題を集めたが、その選手を言葉が通じないながら取材したのはSさんだった。この晩は夜更けまで話題が尽きず、終わったら何と宿まで歩いて帰れた。

ある日の埔里日記2018その1(4)林内から田中へ

1月24日(水)
林内へ

翌朝はすっきり起きて、食堂で朝ご飯を食べて、荷物を持ってテクテク駅に向かう。もうこの道も慣れているので、問題はない。豊原駅から電車に乗り、林内駅まで。何だか思ったより遥かに時間がかかる。台中、彰化を過ぎたあたりから、途中駅で停まることが何度かあった。自強号などに抜かれているので、休みが多く、時間がかかるのだ。

 

結局1時間半ほどかかって、ようやく林内駅に到着。今日訪ねる家は線路から見えるほどだから問題ないと思っていたが、張さんがわざわざバイクで迎えに来てくれた。やはり心配だったのだろうか。先日も訪れた張さん宅に滑り込む。高山茶の秋茶で一休みする。有り難い。

 

いきなり『行こう』と言われて車に乗る。後ろには息子も乗ってくる。まだ19歳らしい。どこへ行くのだろうか。着いたところに鳥居が見えた。『日本時代からあるんだ』と言われてみると確かに古い。日本時代に多くの神社や鳥居が作られたが、光復後は取り壊されたはずだが、なぜ残ったのだろうか。

 

非常に多くの階段を上ると、その上に廟があった。日本時代はここが神社だったようだ。何らかの理由で下の鳥居だけが残った訳だ。灯篭なども置かれているがこれは古くない。鳥居には『林内公園』との表示があるが、どう見ても上から書き換えられている。恐らくは神社の文字があったのだろう。この地にも多くの日本人が住んでいたのだろうか。確かに鉄道があり、木材などの集積地だったのかもしれない。茶の集積地としては時代が少し早すぎる気がする。

 

昼ごはんは、林内名物だという焼肉飯を食べる。合わせて豚足も出てきたのでパクつく。息子は食べないと言い、車の番をしている。この辺に週に1度しか開かないという名店があるそうだが、今日はその日ではなかったようだ。よく見るとこの店の建物も意外と古い。林内は歴史を感じさせる街だった。

 

そして車は名間に向かった。名間は日本時代に付けられた名前で『なま』と読んでいたらしい。その中に一大茶産地がある。松柏嶺、まずは受天宮にお参りする。2000年に火災で焼失し、再建されたので新しい建物だったが、歴史的には明末、清初頃からあるらしい。この敷地は彰化県と南投県の境だという。門を出ると、茶荘がたくさん並んでいる。門前町の様相だ。今日は殆ど参拝客がいなかったが、週末などは沢山来るのだろう。

 

ここから下を眺めると急な山道が見え、その向こうに二水や林内が見える。往時は茶葉を担いで、屈強な男たちが道を下って行ったのだろう。鉄道の通っている二水、林内、田中が茶の集積地になっていくのは、光復後のことだろうか。それから茶畑の中を車が走り抜ける。遠くに茶工場が見えたが、『あれが林華泰の工場だよ』と教えられ、なるほどと思う。

 

一軒の茶工場を訪ねた。今日は台湾花茶について知りたかったので、頼んで連れてきてもらった訳だ。沖縄で売られているさんぴん茶や清明茶の中に台湾産と言われるものがあるが、どこで作っているのだろうか。松柏嶺ではないかと言われてきたが、『そんな価格の安い茶は今や台湾では作れない。ベトナムか中国産だろう』と一言で片づけられた。

 

ここでは包種茶も作っているし、花茶、白茶など何でも作るらしい。最近は卸ばかりではなく、きれいなパッケージを使い小売りもしている。また老板のお姉さんはお茶好きのカナダ人と結婚しており、彼の発信力で欧米にも売り込み始めたという。台湾の茶業界もなかなか大変だ。

 

車は田中の地内に入った。田中という地名、何度も聞いていたが、踏み込むのは初めてだった。張さんは慣れているようで、狭い道もスイスイ運転している。そして1軒の茶荘の前で車を停めた。定興茗茶と書かれたその店は老舗のようだった。詹さん親子が迎えてくれた。

 

ここには古い茶が倉庫に沢山眠っている。凍頂烏龍茶が最盛期の頃、相当に儲かったに違いない。昔の受賞茶のコレクションもすごい。失礼ながら、こんな田舎の茶荘にこんなに茶が眠っているとは想像できなかった。茶荘そのものは最近立て直したようだが、かなり重厚な造りの4階建て。お茶屋って儲かる商売だったんだな、と改めて思う。老茶も飲ませてもらいかなり満足だ。

 

帰りは山道を通って台中まで送ってもらう。元々は茶畑だったであろう丘陵地帯に、パイナップルなどが植えられている。転作だろうか。低海抜の茶園は無くなっていくのか、色々と考えてしまった。この道も往時は茶葉が運ばれたのだろうか。高鐵台中駅まで約1時間の道のりがやけに遠く感じられた。

ある日の埔里日記2018その1(3)豊原へ行ったが

1月23日(火)
豊原へ行ったが

翌朝、昨晩別れたばかりのトミー一行とまた落ち合う。彼らは昨晩埔里に泊まり、私は彼の車で埔里まで運んでもらっていた。今日は魚池の改良場に向かう。トミーの用事にくっ付いていくことにしたのだ。いつ行っても眺めの良い小高い丘の上にある改良場は、私が好きなスポットである。

 

昨年10月末に鹿谷で再会した黄さんは場長になっているので、彼と懇談した。とにかく色々な引出しを持っている人なので、質問すべきことはいくらでもあり、いくら時間があっても足りない。ただ今回はトミーの用事優先なので、その間に挟む形での質問となり、多くは積み残しとなる。まあ取り敢えず高山茶のヒントを得て、満足。

 

午後から豊原へ出掛けた。台鐵台中駅まで出ると、駅の改修工事が更に進み、駅前はかなり変貌していた。そこから台鐵に乗ると15分ぐらいかかる。まあローカル線の旅だが、意外と乗客は多いのでノンビリも出来ない。豊原と言えばジョニーを訪ねるために毎回来ているのだが、今回は高山茶の歴史を知りたいので、是非お父さんにもお話しを聞きたいと言ってあった。

 

だが泉芳茶荘に到着するとお父さんもジャニーの姿もなく、お母さんと常連客が迎えてくれた。最初はちょっと怖い、と感じたお母さんだったが、今は打ち解けて気楽にお茶が飲めるようになる(私があまりにお茶に疎いので諦めたのだろう)。そこへジョニーが帰ってきて、『ごめん、お父さんは出掛けちゃった』というのだ。

 

ジョニーは常にいい人なので、忙しいのに一生懸命私の要求に応えようとしてくれ、本やら写真やら、沢山持ち出して説明を始めた。だがその当時、1970年代がどうだったのか、残念ながら生まれていなかった彼にはわからない部分も多い。そこへお母さんがビシッと説明を始める。その流ちょうな話しぶり。どのようにして梨山に切り込み、大禹嶺の茶園を開いたのか。

 

彼女がなぜ詳しいのかは、ご主人や義父の仕事を見ていたこともあるが、何とこの案件には自分の親戚も大きく関わっていたからだったのだ。彼女の実家は茶業の名家であり、だからこそ豊原の名家である泉芳に嫁に来たのだと分かった。初めて大禹嶺を切り開いたのは、豊原の杜家と鹿谷の陳家だったようだ。それが1970年代後半だが、まだ本格的な茶樹栽培でなかったらしい。

 

今日は豊原に泊まっていけ、とジョニーに言われていたので、廟東の夜市でうまいものが食えると密かに期待していた私だが、何とジョニーが『これから知り合いの尾牙に行くので一緒に行こう』というではないか。いわゆる忘年会、かなり規模が大きいらしい。ちょっと興味が沸き、夜市を諦める。

 

 

車で連れていかれたのは、台中郊外。豊原からは遠くない場所。横には野球場があった。そこに大型施設があり、中へ入っていくと、1000人をゆうに超える人々が集っており、正直びっくりした。某保険会社主催だという。この規模の尾牙に出たのは10数年ぶりではなかろうか。ジョニーの知り合いたちと同じテーブルに着いたが、勿論各地で挨拶が繰り返される。豪華な料理がどんどん出てくるが、皆話に夢中で私だけが黙々と食べていた。

 

ただお酒を飲んでいるのは主催者の社長などごく一部でほとんどの人はソフトドリンクを飲んでいる。30年前に出た尾牙では1時間で60杯、紹興酒を一気飲みしたことが忘れられない。あの頃は日本的な飲み会だった。それが今では、皆が車を理由に酒を回避している。正直よい傾向だとは思うが、これで盛り上がるのだろうか。

 

その内、ラッキードローが始まった。これは昔も大いに盛り上がり、特に昔は現金が飛び交っていたのが、印象的だった。だがいまはそれも案外と大人しい。ジョニーも賞品として茶を提供していたが、今やこれも商売の宣伝の一環になっている。面白いのは当選した人を探すのは携帯番号だということだ。最初に番号を書いておき、その番号に電話すれば、聞き漏らすこともない。それでも見付からない人がいるから、もう帰ってしまったのだろうか。

 

盛り上がらないのかと思っていたら、そうでもないのが台湾。歌手が歌を歌って盛り上げ、そして何と、マッチョ軍団が半裸で登場した。女性客の席を回り、色々と仕掛けていく。何だかセクハラ、とか言いそうだが、そこはノリの良い台湾。女性が自ら写真を撮るために男に近づくなど、大はしゃぎ、大盛り上がりには苦笑した。子供には子供向けの芸人が登場するし、何となく、家族でも楽しめる集いだ。因みに社長夫妻は、芸人たちからいじられまくり、歌え、踊れと責められるが、そこを何ともうまくやって見せるのはさすが経営者。頑張っている。

 

9時過ぎに会場を出て、茶荘に戻った。ちょうどお父さんも帰って来たので話しを聞くチャンスだと思ったが、何と既に酔っぱらっており、話はお預けとなる。高山茶の歴史は遠い。ジョニーの車で前回も泊まった宿へ案内される。ここは何となく居心地がよいから好きだ。日本人出張者が泊まるようになっているからだろうか。シャワーを浴びてすぐに寝入る。

ある日の埔里日記2018その1(2)苗栗頭份の旅

1月22日(月)
苗栗頭份へ行く

ようやく腰痛も癒え、今日は苗栗頭份へ行くことになった。いつものようにトミーの車で行くため、台中高鐵駅へ向かう。今日は更に2人の同行者があり、賑やかに進む。頭份までは1時間ぐらいで到着。やはり苗栗は近い。実は私は苗栗に来るのは初めてだった。勿論電車やバスで何度も通ってはいたが、寄る用事がなかったということだ。

 

頭份市内に入ると、デパートが見え、こぎれいな街並みが続き、思っていたよりもずっと都会だった。そんな中にある製茶機械メーカーを訪ねた。ここは光復後の創業で、これまで台湾茶業に必要とされた製茶機械を数々生産し、違った角度から台湾茶業史が見られるというのでやってきたわけだ。

 

張さんは3代目で、トミー達と仲が良く、私も会ったことがあった。お父さんは製茶機械の生き証人のような人で、昔の図面を広げて説明してくれるが、私の方が製茶にそこまで詳しくないので、そのポイントが掴めず、残念な気分になる。光復後、紅茶、包種茶、烏龍茶、煎茶など、様々な茶が作られたわけだが、ここで話を聞くと、その殆どに関わっており、まさにザ歴史と言う感じだった。

 

当然茶農家の多くが顧客だから、様々な茶葉も手に入るので、茶荘も併設している。最近は機械の大型化、自動化などが進み、こちらのメーカーでは対応できないものも増えているらしい。『昔は日本企業とも色々取引したよ』というが、今も日本の茶農家が烏龍茶などを作る場合は、こちらで作られた商品の中古を買ったりしているらしい。

 

お昼は近くのレストランへ行く。まさかフレンチ?と思ったほどおしゃれな店で客家料理を頂く。元はフレンチレストランだったのだろうか。苗栗も客家の多く住む場所だから、それ自体は不思議ではないが、こういう雰囲気で食べると自ずと味も違って感じられるのが面白い。張さんが客家かどうかは聞くのを忘れた。

 

帰りに街を歩いていると、ブランドショップなどもあり、ちょっとビックリ。更には大型ショッピングモールがあり、その向かいには広大な駐車場、そして大型バスが停まっていた。『この中に子供向け遊戯施設があり、週末は家族連れで大いに賑わう。特に雨の人は凄い』と聞き、台湾でも知らないことがまだまだたくさんあると知る。

 

午後は張さんが案内してくれ、歴史調査の一環で茶農家へ向かう。そこは製茶機械があるものの、農家というより茶商さんだった。特に光復後、この付近で包種茶が作られ、その後煎茶に移行した歴史を学ぶ。店主劉さんのお父さんなども、煎茶輸出に絡み、会社を立ち上げた一人だったが、その輸出は長くは続かなかったらしい。今はこのあたりも東方美人一色、売れるものを売っていくのは商売人だから当然だ。

 

それから製茶公会の陳理事長のところも訪ねた。ここは思ったより相当の田舎にあり、公会の仕事で台北に行くことも多い理事長職は大変なのではないかと思った。彼のお父さんは茶業伝習所の卒業生であり、昔からここで茶作りをしていたらしい。苗栗は輸出茶が中心だったから、往時は大いに栄えたようだが、今は雑多にお茶を作り、東方美人で何とかやっていると言う感じだ。

 

日本統治時代の苗栗緑茶の話を聞いていると、「それは頭份ではなく、南部の三義あたりの話だろう」という。三叉河という地名に聞き覚えがあったが、それは三井の紅茶製造工場の場所ではなかったのか。この工場がどこにあるのか不思議に思っていたが、今回の旅で苗栗三義だと判明した。次回は南部へ行かなければならない。

 

台中に戻る頃には辺りは暗くなっていた。トミーが『台中で夕飯を食べよう』という。着いた場所は最近開発されたおしゃれなエリア。そこに春水堂の店があった。ここは1980年代、バブルティーを開発した店として有名であったが、私はあまり興味がなく、一度も来たことはなかった。確か最近日本への進出も果たしたはずだ。

 

店内は非常にきれいで驚く。そしてお客が順番を待っている。お茶を飲むところではなく、食事をする場所、ちょっとこぎれいなファミレスを思い出す。若者が楽しそうにバブルティーを飲み、麺を啜っている。私も麺を食べてみたが、値段の割にはどうだろうか。新感覚の茶館かと思い込んでいたので、全くの勘違いに苦笑するしかなかった。

ある日の埔里日記2018その1(1)腰痛に悩まされる

《ある日の埔里日記2018その1》

今年初の台湾へ。今回は沖縄経由で入ってみた。やはり近い。今後はこのルートもありだな。昨年に引き続き台湾茶の旅は続いていく。今年はこれまで以上にワクワクしそうな予感がある。この旅をしていてよかったという時間を多くしていきたい。

 

1月15日(月)
型が決まって来た

那覇から桃園まではフライト時間は1時間ちょっと。17時前に飛び立って、17時20分には到着(時差1時間)。これは何とも楽だ。次からも沖縄経由を検討していこう。桃園空港の混雑もなく、シムカードも簡単に入手でき、両替の必要もなく、すぐにMRTに駅へ向かった。

 

MRTはすぐにやってきたが、なぜか高鐵桃園駅まで行かないというので乗れなかった。その次を待つ時間が長い。そして高鐵駅に辿り着くと、ちょうどエアポケットのように下り高鐵は30分近く待たないとなかった。それでもやはり高鐵は早い。19時過ぎには台中まで到着。

 

どうにも腹が減った。ちょうど高鐵駅を降りると、何と台鐵弁当を売っているではないか。高鐵で台鐵弁当、いいね。何となく排骨弁当を買ってしまう。まだ暖かいのがよい。埔里行きのバスがすぐ来なければベンチで食べようと思ったが、ちょうどバスが来たので弁当を持ったまま乗り込む。バスに乗ると眠気が来て、寝てしまう。

 

気が付くともう埔里に着く。バスターミナルから荷物を引き摺り、宿泊先へ進む。今回は葉さんの奥さんの親戚がドアを開けてくれて、中に入れた。毎回鍵の受け渡しが面倒なのが難点だ。年末に部屋を出てから、僅か20日も経っていないのに、何とも懐かしい、そして冷え冷えとした空間だ。那覇も寒かったが、埔里もかなり涼しい。まずは腰のケアをしなければならない。幸い今日のフライト、そして荷物を持った移動に支障はなかった。すぐに弁当を食べてシャワーを浴びようとしたが、湯が出なかったので、そのまま寝てしまった。

 

1月16日(火)
腰痛再発

やはりゆっくり目覚める。だが昨晩はかなり寒く感じられ、時々起きてしまい、眠りは浅かった。更には腰痛が再発してきている。これはやばい。この部屋にはエアコンというものがなく、温める手段はなかった。陽が出ているようなのでむしろ外へ出た方が暖かい。もう昼近くなので、少し遠くまで歩いていき、いつものクラブサンドイッチを食べる。これも屋外で爽やかな風に吹かれていると腰の痛みは忘れられた。

 

だが午後も部屋にいると腰が痛みだす。ついには我慢できずに、近所の薬局を探しに外へ出た。ちょっと大きめの薬局に入るとおじさんが『何が欲しい』と聞くので、腰痛のシップと答えると、これがいいよ、と勧めてくれたのは何と日本製のスポーツ用。まあ試してみるかと、買っては見たものの、日本の薬は効き目が弱いものが多いのだ。だからわざわざ台湾まで来て買っているのにこれでは意味がなかった。

 

まあ取り敢えず200元でそれを買い、帰って腰に貼ってみたが、残念ながら効果はあまり見られなかった。その薬局の近くに以前も行ったことがある温州ワンタンの店があるので久しぶりに行ってみる。大きな雲吞が入った熱々スープが50元、寒い日にはなかなかイケる。それに魯肉飯を付ければ、十分満足できる。でもいつの間にか代金は5元上がっている。忍び寄る物価上昇か?

 

その夜も予想以上に涼しかった。スポーツ用シップは効かず、腰の痛みは解消されない。やはり暖かいところへ行かないとダメなのだろうか。翌日腰痛のことをFBに掲載すると、親切な台湾人が『一条根』というのがよく効くから薬局で買って試してみたら、という。どこに売っているのか分らず、取り敢えず外へ出てみると、すぐ近くの小さな薬局にこの名前の張り紙が出ていたので、飛び込んだ。

 

おじさんが出てきたので、『一条根』を頼むと、私の症状を聞いて、別のものの方が効くぞという。もうどれが正しいかは分からないが、とにかく痛みを抑えたかったので、おじさんの言うものを買って帰り貼ってみた。これが意外とよかったので、それから2-3回買い足しに行くうちに、おじさんともすっかり打ち解け、埔里の地図をくれたり、今度飯を食おうと誘われるまでになる。因みの奥さんはベトナム人で、もうすぐテトで帰郷するので暇だということらしい。こういうご近所付き合いも悪くない。

ある日の埔里日記2017その6(15)講茶学院と台大図書館

次に講茶学院の台北店に向かう。ここはトミーのお姉さんがやっているというので、一度行ってみたかったところだ。場所は行天宮の近くのちょっと店が入り組んだ狭いエリア。次回一人で来られる自信はない。そんな中に、おしゃれな空間が存在した。お姉さんには初めて会うのだが、とても初めてとは思えないほど、馴染んでしまった。これも日頃、トミーと一緒に活動しているからだろう。

 

ここでは希望すればお茶のテースティングが出来るだけでなく、色々な説明が受けられる。ここのお茶の品質は既に朝確認済みであり、安心して飲める。W夫妻は嬉々としてお茶を飲み、質問を繰り返している。かなり香りがあるもの、水色がきれいな物など、6種類ほどを勉強がてら飲んでいる。ここはお店というよりは勉強の場であり、もし勉強したい人がいれば、日本語のできるスタッフもいるので、事前に予約した上で訪ねてみるとよいと思う。

 

トミーは用事があると言って帰っていき、我々は早めの夕飯に向かう。食事の場所はトミー姉が案内してくれたが、そこは先日行ったレストランだった。だが料理の注文まで彼女に任せたところ、やはりかなり違ったメニューとなり、それを更に美味しく頂いた。なんでこんなに美味いんだろうか、と言いながら、1日分以上食べた。その上W夫妻にご馳走になってしまう。今日も1日、充実していたな。

 

12月27日(水)
台湾大学図書館

翌朝は涼しかった。今日は東京へ行く予定となっているが、それは午後だったので、取り敢えず台湾大学に向かうことにした。台湾大学の図書館、ここには沢山の資料が眠っていると聞いていたためだが、何と今宿泊しているところから歩いても20分はかからないと知る。これもご縁だろうか。

 

歩いていくには、やはりスマホのマップが必要であった。台湾大学の裏門まで15分位だったろうか。近づくと、学生街らしい安い食堂があったりしてよい。大学内のキャンパスも広そうだ。どこか東大の本郷を思い出してしまう。図書館はほぼ中央?にあり、何とかたどり着く。古びているが立派な建物だ。

 

図書館に部外者が入るのには、手続きがいる。だがそれも設置されたPCを使い、入力すれば自動的に登録され、パスポートと引き換えにパスが渡される。ただ荷物の持ち込みは出来ないとのことで、地下1階にあるコインロッカーに入れに行くのがちょっと面倒だが仕方がない。やっと入館すると1階正面に伊能嘉矩の足跡を示す展示が行われていた。伊能嘉矩は日本統治時代初期に台湾全島を歩き、原住民を分類し、田畑の実態なども調査したという。その困難は大変な物だったろうが、今でもその時の調査記録が引用されるほどだから、当時の台湾にとっては重要な調べだったはずだ。

 

この図書館の5階には、日本時代の資料もあるというので、エレベーターで行ってみる。確かにそこだけ別枠になっており、中に入ると、受付がある。声を掛けられたので、『日本統治時代の茶の資料を探している』というと、PCで検索してくれた。私は注音が打てないので、台湾に来るとこういう羽目になるのだが、ここのスタッフはとても親切だった。

 

ただ思うような資料にはなかなか巡り合わない。時間もあまりない。何とかいくつか資料をピックアップすると、何とスタッフがそれを取りに行ってくれる。有り難いやら申し訳ないやら。一般開放していないのだろう。そして2つの資料をコピーしようと思ったが、何と地下のコピー室からおばさんがやってきて、『こちらでコピーする』というのには驚いた。しかも『すぐにはできないので、後で取りに来て』というではないか。

 

来月またここに来て同じ資料を出してもらい、同じ問答をするのもどうかと思い、予約金を払って、コピーをお願いした。まあ、今回仕組みが分かったので、次回はゆっくり勉強に来よう。その時、コピーを回収すればよい。急いで宿泊先まで歩いて帰り、荷物を取って台北駅からバスに乗り、桃園空港へ向かう。お決まりのパターンでストレスは何もない。年末の東京、電車も空いていた。

 

今年の茶旅が終わった。これまでと異なり、少し定住型に移行してみた。台湾茶の歴史、中国紅茶の連載のため、目的を持った茶旅に変化している。体を少し楽にして、その分頭を使えれば、それもまた良い。2018年も継続して、茶旅が続けられることを願うのみである。

ある日の埔里日記2017その6(14)激白!台湾茶輸出の歴史

12月26日(火)
朝から晩まで茶

翌朝は早く起きた。そしてお湯を沸かす。トミーから昨日もらった茶葉を取り出して、写真を撮る。それから茶葉を湯に浸し、水色を確認する。7種類もある。緑茶、部分発酵茶(包種茶、高山茶、凍頂烏龍茶、白毫烏龍茶、鉄観音茶)、紅茶、これは意外と大変な作業だったが、お茶そのものが予想以上の品質で、美味しいため、思いのほか、口に含んでごくごく飲んでしまう。

 

なんで朝からこんなことをしているかというと、実は台湾の日本語雑誌、『なーるほど・ザ台湾』の2月号にお茶の特集記事を書くように頼まれ、同時にお茶の写真を求められたからだった。台湾茶の種類、という項目だったが、どうやって説明するのかには苦労し、結局改良場のHPに書かれた通りとした。

 

トミーのところには100種類以上の茶葉があるので、それを拝借したのだが、その質が想定より高かったので驚いたわけだ。ただいくら品質が良くても、その味や香りが写真上で表現できるわけもなく、私一人が楽しんで味わってしまっていた。それでも朝から7種類となると、結構な時間がかかり、また飲むのも大変だったことは間違いない。

 

それが終わると、MRTで一駅先の大安森林に向かって歩く。今日は以前関西でお世話になった羅さんに、出来上がった雑誌を渡すことになっており、モスバーガーが待ち合わせ場所になっている。このモスバーガー、もう30年近く前、電機屋の黄さんが『これからは台湾でも流行るよ』と言って始めたものだが、今では台北を歩くとよく見掛けるまでになっている。一つずつの店舗は小さいが、着実に伸びているのだろう。

 

取り敢えずその店に入り、朝飯代わりの注文をする。この時間帯でも店が狭いせいか、結構お客がいる。席について、また羅さんに連絡するが電話にも出ない。これは何かあったのでは、と心配になるが、連絡手段をそれ以上持ち合わせておらず、どうしようもない。ただただ待つ。食べ物も食べ終わり、飲み物を飲んでも、事態は変わらなかったので、ついに30分後に店を出て、宿へ帰った。

 

宿に辿り着くと羅さんから電話が入る。どうやら奥さんがちょっとしたけがをして夜中に救急病院に運んだらしい。それが一段落したので寝入っていたという。今から来るというので宿の前で待つと、車でやってきてくれた。そして私の次にアポが製茶公会であると知ると、車を円環方面に回し、ホルモン系の美味しい店に連れて行ってくれた。客家系の料理は何でも好きなのだが、ここのスープも美味しかった。

 

それから製茶公会のビルに向かう。そこで東京から来たWさん夫妻と待ち合わせた。お茶関係の知り合いでたまたま台北に来たので、合流した。公会では、6年ぶりに会う黄正敏さんが待っていてくれた。トミーのアレンジだ。やはり台湾輸出の歴史は黄さんに聞くのが一番良い、という結論に達した訳だ。黄さんは数年前に既に台北のお店も閉め、今は公会顧問の肩書はあるが、悠々自適に見える。

 

黄さんには約7年前、2度ほど流ちょうな日本語で台湾茶の歴史を教えてもらい、大稲埕を一緒に歩いて説明までしてもらっていた。更には当時の第一人者、徐英祥先生まで紹介してもらい、先生が亡くなる直前に一度だけお会いすることができ、そこから魚池の改良場まで繋いでもらい、今の私の立ち位置がある。まさに大恩人なのだ。

 

私は台湾茶輸出の歴史を改めて問うた。そこから2時間半、黄さんの怒涛のような講義が始まった。特に光復後の台湾茶の変遷、10年ごとに変わる流れ。紅茶、包種茶、煎茶、烏龍茶、その生々しい話にはやはり迫力があった。北アフリカから日本や中国、そしてピンクレディーや伊藤園まで登場するから、話の幅が半端ない。

 

我々日本人が知らない日本の歴史も次々に登場する。あー、お茶の歴史は日本史や台湾史、いや世界の歴史に直結しているのだな、と改めて感じる。それにしても80歳の黄さん、どうしてあんなに元気なのだろうか。6年前より確実にアワーアップしている。やはり全てから解放されているのだろうか。

 

それにしても、黄さんの他、理事の羅さん、事務局長の範さんと娘さん、そしてトミー。そうそうたるメンバーがこの会合に出ていたが、黄さん意外にしゃべる人はなく、私が1つ質問すると、滝から流れ落ちる水のように答えが返ってくる。これは録音しておかないととても整理できないな、と思った頃、この会は終わってしまった。刺激は強かったが、私の中に何が残っただろうか。曲がり角にやってきた台湾茶に関しても、参考になる話だったと思う。

ある日の埔里日記2017その6(13)クリスマスの日に

12月25日(月)
老舗上海料理屋

今朝はゆっくりしていた。10時過ぎに朝昼兼用の食事をするためTさんと待ち合わせの場所に向かった。そこは中山堂の裏。中山堂、もう20年以上前に来た記憶があるが、当時の様子は殆ど覚えていない。ここは1936年、台北公会堂として建てられ、日本軍の降伏調印式も行われたところ。光復後は台北中山堂として活用され、今も演劇などが行われているらしい。時間があれば中に入ってみたかったところだ。

 

今日は午後坪林に行くので、Tさんに無理を言って11時からのランチとした。場所は隆記菜館、1953年の開業以来、上海料理の味を守っている老舗だという。私が上海に留学したのは32年前、何となく昔の雰囲気がある。前菜系は店の前で見ることができるが、店に入って選ぶ。

 

出てきた料理は味の濃い、昔上海で食べたような雰囲気のある物で、すぐにご飯が欲しくなる。突然30年も前の味を思い出し、これにはちょっと驚く。紅焼、というのだろうか。豚角煮など、勿論今でもあるのだが、ここのモノは何とも懐かしい。白米ではなく、菜飯という独特のご飯が出てきた。台湾には時々こういう店がある。既に本家では味が変わってしまっているのに、台湾に昔の味が残っているケースだ。

 

数年前に台北の広東料理屋で食べた炒飯などがまさにそれだった。ある意味でブラジル移民の人々に古い日本精神や日本語が残っているようなものではないだろうか。台湾の料理は、実は全中国から来ている。それは国民党とともにやってきたわけで、この店もそういった経緯から出来、そして味を残しているのだと思う。

 

昼前からお客がどんどんやってきて、1階しかない店舗はすぐに満員になってしまった。ある程度年配のお客が多いのは、やはり馴染みの味を求めてくるのだろう。元々上海出身のいわゆる外省人も、もう90代となり、今はその子孫の時代に入っている。こういうお店がこの付近には数軒あるようだが、今後も続いていくだろうか。続いて欲しいものである。

 

坪林へ
Tさんと別れて、新店へ向かった。今日も坪林へ行くのだが、いつも同じルートではつまらないので、今日は大坪林駅で降りて、ここから羅東行のバスに乗ることにした。このバスは新店発に比べて料金がかなり高い?ので、敬遠していたのだ。ただ今日は新店でのバスの時間が分かっていたので、早く着くこちらにしてみた。

 

このバスは待合室もあり、バス自体も豪華で料金が高いのも頷ける。平日の昼間ということもあり、30分ちょっとで坪林に着いてしまった。予定していた時刻よりずいぶん早く着いたものだ。バス停が学校の前だったこともあり、取り敢えず時間潰しに老街を散歩する。数年前に一度歩いたことがあったが、この時期、観光客は皆無だった。あまり歴史も感じられない。

 

祥泰茶荘に行ってみると、馮君がいたので、ラッキーと思ったが、やはり先客があった。若い夫妻、紹介されてみると、何と何と、台北大稲埕のあの新芳春茶行、今は博物館になっている茶商だが、そこの設計を担当しているというのだ。更にはその奥さんは、あの博物館で私に歴史を教えてくれた陳さんの娘だというではないか。やはりお茶の世界は狭い!

 

馮君は彼らと食事に行ってしまい、私は次男君とお茶を飲んでいた。お父さんもお母さんも『なんだ、また来たのか』という感じで、特にお客扱いされないのが何となく嬉しい。ダラダラしていると馮君が帰ってきて、『2階の倉庫見る?』と聞いてきたので、一緒に2階に上がる。

 

そこには古い布袋が沢山置かれていた。中には米軍が使った小麦袋を流用したものなどもあり、ここにあるお茶の年代は相当古い、しかも量が多い。これが老舗の茶荘だ、ということだろう。ここにどんなお茶が潜んでいるのか、それは当人達でもすべては把握できないという。

 

今回ここに来た目的は、10月下旬にここで作ったお茶を受け取ることだった。あの1泊2日で作られたお茶が一体どんな仕上がりになったのか。飲んでみると、意外や香りがあり、味もまあまあだった。これなら一応人にも飲ませられるなと思い、日本に持ち帰ることになる。

 

帰る前に馮君が連れて行ってくれるというので、車に乗り込んだ。実は先日彼から、『坪林にあった日本時代の茶廠跡』という写真が送られてきたのだ。その現場を訪ねてみる。そこは街からそれほど離れてはいなかった。建物の外壁だけが僅かに残っており、完全な廃墟となっていたが、非常に大きな建物で驚いた。天井も高いので、包種茶というより紅茶でも作ったのかと思ってしまう。現時点で坪林に大規模茶廠があったという歴史には辿り着いていない。機会が有れば、探っていこう。

 

葉さんの家に帰ってみると、トミーがやって来た。ちょうど台北にいるので皆でご飯を食べることになったのだが、今日はクリスマス、外は騒がしいので、食べ物を託送してもらい、家で食べることになったのだ。食後は何と品茶会。先日訪ねた港口茶などを飲み比べた。葉さんのご両親もちょうど来ており、一緒に飲む。さすがに著名茶業家、茶業歴60年以上のお二人からは、結構厳しい評価が飛んできて驚いた。でもこんなお茶会、何とも楽しい。

ある日の埔里日記2017その6(12)原住民の憩いの場

12月24日(日)
原住民の庭へ

今日はクリスマスイブ。台湾でもクリスマスムードが高まっていて驚く。ただケーキを買って食べる習慣はなさそうだ。そんな日に私は地下鉄に乗り、輔仁大学へ向かった。駅を出ると大学キャンパスがある。ここはキリスト教系の大学であり、今晩は盛大なミサが催されるという。偶然ながら、今日ここに来たのには意味があるように思えた。

 

キャンパス内を歩いてみると、教会があり、創設者などの像がある。この大学は中国大陸で設立され、新中国建国後、台湾の地にやって来たらしい。確かに共産中国ではキリスト教系の学校が生き残るすべはなかったかもしれない。そして更に進むと、なぜか台湾原住民の文化が展示されている。

 

そう、本日私は、この大学で民族研究をしているセデック族のパワン先生を訪ねて来たのだ。先生とは先日眉渓でセデック族の結婚儀式の1つを見学した時、出会った。その地域のほとんどの原住民がキリスト教徒だった。それは光復後の政策が関連している。日本が去った後、多くの宣教師が山に入り、布教活動を行った。そして物資欠乏の中で、食べ物を与え、教育の機会を与え、信者を獲得したという。勿論個々の宣教師が困難な中、山の民に尽くしたという功績も大きい。この大学に民族学研究施設があるのは、ある意味で当然のことなのかもしれない。

 

門のところでパワン先生と会い、車で少し離れた場所に行く。そこは台北とは思えない、のどかな田舎の雰囲気が漂っている。先生夫妻が独力で建てたという小屋と、決して広くはないが、周囲の菜園が心地よい。ここは都会の原住民部落ように見える。昼ご飯としてまずは麺が茹でられ、向こうでは火が熾され、肉や魚が焼かれている。その風景が何とも似合う場所だ。

 

そこに知り合いの女性もやってきて、賑やかな食事となる。現在原住民の多くが台北などで仕事をしている。彼らにはホッとできる、自然な場所がなく、ここに集まって来るらしい。憩いの場だ。中には台湾人で興味を覚えて声を掛けてくる人もいるらしい。そこには民族的な対立という雰囲気はまるで見られない。

 

いい風が吹いてくる。そんな中で台湾の原住民はどこから来たのか、など、素朴な疑問をぶつけていく。パワン先生はまじめな人で、分からなければ他人の論文などを紹介してくれる。大陸の少数民族とは繋がっていないことを言語学的に説明してくれたりもする。やはり台湾は南洋系民族か。

 

話に飽きてくると、先生は立ち上がり、弓矢を持って菜園の向こうへ行く。何とそこには弓道場??が作られている。原住民の弓を引き、矢を放つ。その恰好は実に堂に入っており、格好良い。今では全台湾で競技会なども開かれており、そこで他の原住民とも交流が生まれているという。伝統文化の継承と交流、興味深い。

 

今晩はクリスマスのミサがあるのでパワン先生たちは準備のために家に帰り、この楽しいひと時は終わりを告げた。そして私はバスに乗り、台北駅まで引き返した。台北駅の脇には北門が建っている。その横にいつの間にか、古い建物が現れていた。日本統治時代の総督府交通局鉄道部の建物だったと書かれている。後ろには食堂などの建物も残されている。現在ここの改修工事が行われており、将来的には観光資源になるのだろう。

 

夜はクリスマスイブということもあり、友人たちに声を掛けることはしなかった。しかし一人でレストランに行く気にもなれない。そこで夜市を目指した。夜市ならフラッと言って何か食べられるだろう。折角なのでこれまで行ったことのない松山駅近くの饒河街観光夜市を訪ねて見た。ここは駅からすぐなので行きやすい。

 

夕暮れ時でもすでにかなりの人はいた。店はかなり細い道の両側に並んでいたが、何となく同じようなもの、売れ筋が多いのは致し方ないのだろうか。大型夜市なので特徴はないのだろう。最近は松坂豚肉とか卵焼きなど日本風の食べ物が多い。思わず、まるまる焼というお好み焼きのようなものを買ってしまった。鰹節とマヨネーズに惹かれてしまう。これは日本にあるのだろうか。

 

他に刺身なども出ていたが、いくら涼しくても、なかなか手は出ない。韓国のブテチゲなどがあるのも面白い。だが何といっても人込みを歩くのは疲れる。1時間も経たないうちに人はどんどん増えていき、今日の疲れがピークとなり、腹は満ちてはいなかったが、早々に退散した。