ある日の埔里日記2018その2(3)石門の茶工場へ

3月23日(金)
石門へ

翌朝は葉さん夫妻の案内で石門へ向かった。石門と言えば、石門水庫を思い出してしまうが、台湾には同じ地名がよくあるのだ。今日訪ねたのは、基隆と淡水の間にある石門だ。ここは交通がかなり不便で、自分では行けないと思っていたところ、車を出してくれるというので便乗した。

 

車は台北市内を抜けるといつの間に高速を走り、気が付くと海岸線に出ていた。確か30年近く前、この近く、金山とか野柳とかに来た記憶はあるが、当然ながら当時と比べれば相当に道はきれいになり、海岸線もきれいになったイメージがある。ただ車は殆ど走っておらず、かなり寂しい雰囲気にはなっている。

 

そして車は海岸沿いの道路から、小高い丘を登る、というより、内陸に分け入っていく。そこには古めかしい茶工場が見えた。草里製茶廠との表示が見えるが、人がいる様子はない。電話を掛けると、謝さんが出てきて迎えてくれた。彼はまだ30歳と若い4代目。ここ石門は、日本統治時代には、かなりの茶畑もあり、紅茶や包種茶が作られていたというが、今やその面影はない。

 

おじいさん、80歳代の謝国村さんが話をしてくれた。『日本時代、私のお爺さん(初代)は茶作りの名人だった。総督府より巡回教師に命じられたほどだ』と言い、実物の任命書を見せてくれた。このような現物を見るは初めてだったので、かなり興奮した。よくもこれを保存していたものだ。それにしても、正直茶作りではそれほど名前を残していない石門に、茶作り名人がいたというのはどういうことだろうか。しかも巡回して教えた場所は、あの文山地区、そこは茶作り先進地区ではなかったのか。これはどういうことだろうか、謎は深まるばかりだ。

 

1980年代には茶の輸出も止まり、石門の茶業は危機を迎えた。そこで鉄観音茶作りが始まり、また農会ベースでティバッグ作りを行うなど、新しい取り組みがあり、現在に至っているという。茶作りを続ける農家は多くはない中、この茶廠では若手の4代目がおり、頼もしい限りだ。またこの地では日本時代、アリバン紅茶というブランドの紅茶が作られていたが、こちらも復活されている。この紅茶が当時どのような物であったのか、ちょっと興味ありだ。

 

茶工場を見学した後、帰ることになった。茶畑が見たかったが、この工場の山の上にあり、車が入れない場所だというので断念した。一体なぜこの海辺の丘の上に茶畑が作られ、往時は大量の茶が作られたのか、そしてなぜ廃れていったのか、今回の訪問だけではとても理解するのは難しい。また来る機会が有ることを期待するのみだ。

 

車は海岸沿いを更に進む。そしてまた横道に入っていく。三芝地区だ。すると葉さんが『ここが李登輝元総統の故居です』という。李登輝氏は台北の人だと思い込んでおり、その生まれがどこかなどは考えたこともなかった。車で通り過ぎただけでそこで降りることはなかったが、見学に訪れている人々がおり、今は観光スポットになっているようだ。

 

その先にレストランがあった。なんでこんなところに、と言いたい場所にあるのだが、駐車場には車が沢山あり、店内は満員だった。ここは中国で言えば、農家菜の店、田舎の新鮮な料理を食べさせるところだった。環境もよく、空気もきれいなので、中国でも台湾でも、今はこういうところが人気のようだ。

 

やはり名物の蒸し鶏はうまかった。野菜も新鮮でシャキシャキしており、台北では見られないような鮮度であった。満腹で外へ出るといい天気の中、梅などが咲いており、そののどかな光景は人を癒すに充分であった。かなり高い満足度を持って帰路に就いた。帰りは淡水側を回り、MRTの駅で降ろしてもらった。葉さん達はそのまま会社に出勤していく。

 

実は今回の旅はアメリカに住む葉さんのご主人、林さんのお兄さんも同行していた。帰りのMRTの中では、彼とずっと話していた。彼はスキーが好きで、何度も日本を訪れており、その印象を色々な角度から語ってくれた。アメリカに比べれば何でも安く便利だといい、総じて日本はいい、ということだったが、困ったことも色々とあるようだったし、果たして今後も日本の良い点が保てるのだろうか、ちょっと心配になる会話であった。

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