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ある日の埔里日記2018その3(4)お茶合宿2日目

4月30日(月)
2日目

翌朝は快晴だった。6時台には起きてしまい、鹿谷を散歩する。山の方に少し登りたかったが、その時間はなく、あまり遠くには歩けないので、知っている道を上がり下がりしながら、僅かに残る茶畑を見る。そしてどこかで朝ご飯をと考え、探したが、意外と見付からない。何とかありついたのは、やはりサンドイッチ。場所は廟の前。何ともローカル感があってよい。

 

午前8時に宿を出発。今日はどこへ行くのだろう。鹿谷の中と聞いていたが、車に1時間も乗る。鹿谷郷も相当に広い。皆初めて行くところで、何とか探し当てたその場所は、普通の民家、いや花生糖の看板が出ており、お茶屋とは思えない。あまり外国人が来たことがない様子だ。ここではこれまで聞いたことがない茶産地のお茶を味わい、お土産に花生糖をもらう。

 

それからまた車を走らせ、李さんのところへ行く。彼は焙煎師として有名で、いいお茶を沢山持っていた。台東の原住民出身ということで、様々な苦労を乗り越えて、食べるために茶業をやって来た、と率直に明るく語る姿が何とも素晴らしい。焙煎室を見せてもらうなど、参考になった。

 

竹山のインタチェンジ付近でお菓子を買う。これも私にはあまり縁はないが、お茶会などで使う重要なアイテムだと言い、試食してみると意外と美味しいので驚く。そんな店がこの付近には数軒あり、台湾人も多くが買っていくのだろう。そしてそこから車は高速に乗り、梅山を目指していく。梅山には先月も行っており、2か月連続になる。九十九折を登っていく際は、後部座席3人の真ん中に座ったので、揺れが直撃した。

 

太平で標高1000mとなり、天空の橋を見ながら、トイレ休憩を取る。既に時間は12時を回っているが、この休憩所にはあまり食べるものがないということで、トイレだけで素通りする。全てにおいてお茶が優先、食事は二の次というのは、本当にすごい。

 

前回訪ねた瑞里などへは行かず、瑞峰という場所へ行く。この辺M氏は以前バイクで行き来していたという。結構な登りでカーブもきつい。私などはバイクで行くというだけでも尊敬してしまう。今回訪ねた茶荘も、悪天候の際に雨宿りして知り合ったというからご縁としか言いようがない。呉母子が迎えてくれる。M氏は中国語が出来ないということだが、まるでエンジニアのように茶の専門用語は知っており、それだけでも会話が成立してしまうから恐ろしい。

 

更に坂を上って行くと、もう一つ茶農家があった。ここには94歳の老人がいるというので、梅山の茶の歴史を教えてもらおうと張り切って行ったのだが、残念ながら不在で、お嫁さんが対応してくれた。聞けばなんと、茶畑の草取りをしに行っているというから、驚きだ。恐らくは人手がないという大きな理由以外に、草取りをしながら、茶畑、茶樹の状況を把握しているのだろう。お茶を飲ませてもらって早々に退散する。

 

続いて、メイン道路から外れていく。そこは皆が初めて行く場所で周囲には家もまばら。ここに茶荘があるのかというところだった。もう日も西に傾き、疲れがかなり出ていた。取り敢えず席に着き、お茶が出された頃、私は疲れから睡魔に襲われてしまう。M氏が何かを話したが、もう耳には入って来ず、通訳の任を果たせなかった。

 

通訳はI氏に任せて、気分転換に外へ出た。隣には古そうな民家がある。覗きに行くと犬に吠えられた。茶荘の奥さんが案内してくれ、外から民家の様子を見る。100年以上は経過しているらしい。茶作りは最近のことだが、人は昔から住んでいた訳だ。その横には更に古そうな建物がある。

 

その建物は既に壊れており、中を覗くことができたが、家は太い柱で支えられており、かなり立派だ。更には何と畳の部屋があり、襖絵が描かれていた。これは日本時代の設えに違いないが、一体なぜこんな山奥にこんなものが残されているのだろうか。お宝を発見した気分になる。

 

少し回復したところで、また車に揺られていく。段々と苦行のように思えてくる。次に向かったのは、油車寮というところにある茶工場。ここはかなり大きく、立派な車が停まっていた。従業員が一日の作業を終えて寛いでいた。主人の郭さんは、日本の茶道具などに興味があり、今回もわざわざM氏が日本から持ってきたものを渡していた。台湾人で日本の骨董などに興味のある人は実に多い。もうこの辺まで来ると、疲れ果てて、飲んだお茶も全く覚えていなかった。

 

そしてそこから車で1時間強、ついに阿里山の奮起湖に辿り着く。もう辺りは真っ暗だが、車は予約した宿の前には行けないということで、かなりの上り階段を歩く。何とか辿り着いたそこは、如何にも観光地。阿里山鉄道の駅があるところだから、仕方がないか。部屋にはなぜか日本時代のポスターの復刻版が貼られていて、何となくおかしい。

 

夕飯は一応ここの名物の焼肉弁当を食べる。180元だが、他に食べる所もなく、味もまあまあなので良しとしよう。夜の奮起湖、鉄道駅周辺以外は完全な山だ。標高も1700mぐらいあるようで、かなり涼しい。これだけ疲れていて、静しければぐっすり寝られるだろうと思ったが、意外と寝つきが悪かった。

ある日の埔里日記2018その3(3)お茶合宿が始まった

お茶合宿スタート

それからホテルで待っていたM夫人を拾い、埔里からバスで高鐵台中駅に移動した。午後1時過ぎにR氏と台北から来るI氏と合流予定だった。それまでに昼ご飯を食べよう、ということで、まいどおおきに食堂を目指したが、日曜日で大混雑、席もなく、退散。何とか丸亀製麺に潜り込む。この駅は選択肢が多くてよい。うどんを食い終わる頃にはメンバーが揃う。

 

今回は3日間、タクシーをチャーターしていた。運転手は非常に気の利いた人で、環島ツアーなどを得意としていると言い、かなり楽しい雰囲気のスタートとなる。まずは私の知り合いの張さんのいる林内に向かう。M氏は海外で高山茶などを作る張さんに興味を持ったようで、どんなお茶、どの程度の品質か見てみたいということで出掛ける。

 

1時間ちょっとで張さんの家に着くと同時に試飲が始まる。タイやベトナムのお茶が出てくる。基本的にM氏は無駄口を叩く前に茶葉を見て、試飲を重ね、必要な質問だけをして、必要な茶葉だけを分けてもらい、さっさと次に向かうスタイルだった。これには張さんもびっくり。私はいつも数時間ダラダラしているのに、本日の滞在は僅か30分ちょっとだった。因みにこのツアーの通訳はI氏がするとのことだったが、張さんの関係で私がやってしまい、これ以降ずっと私の担当になってしまった。

 

次に竹山の劉さんのところへ向かう。ここも私は以前訪問したことがあり、FBで繋がっているので、劉さんも覚えてくれていた。前回は茶の歴史の話ばかり聞いていたが、実は劉さんはいいコンテスト茶を作る人で、茶葉のクオリティーは非常に高い。今年作った茶がいくつか出てくる。

 

竹山の包装屋にちょっと寄る。私にはあまり必要のない場所だが、他の皆さんはお茶を小分けにしたりするための包装袋などを調達している。それから上りに入り、鹿谷方面に向かう。鹿谷で鉄観音茶を作っているという家を訪ねた。全員が初めていく場所だった。台湾の鉄観音茶については、その歴史を勉強中で興味があり、私も乗り出す。先方も日本人が来たということで、力が入り、小雨の中、茶畑まで案内してくれた。基本的にここでは鉄観音品種ではなく、小葉種を使い、鉄観音製法で作っていることが判明。台湾の鉄観音とは品種ではなく、製法なのだ。

 

続いて、焙煎名人の阿堯師のところへ行ったが、既に辺りは暗くなり、戸は閉まっていた。仕方なく反対側に大きく回り、何とか入れてもらう。基本的に訪問先にはM氏が事前に連絡を入れているが、これだけスケジュールが立て込んでいては、何時に到着するかなど全く分からない。先方も心得ているのだろう。因みに運転手には訪問する可能性がある先のリストが渡されており、その場その場で次に行き先を判断して運転手に伝えるから、彼も大変なことだろう。

 

 

陳さんは焙煎施業を終えて寛いでいた。過去何度も訪問しているが、こんな遅くに行ったことはなく、こんなに寛いだ彼の顔を見たことはなかった。いつもはU氏と行くため、激しいバトルになっているだけのなかもしれないが、やはり仕事中とは緊張度がまるで違うのだろう。ここのお茶はいつもいい香りがする。この時間だから何度も飯を食って行けと勧められた。私なら間違いなくなんかを頂くところだが、M氏は基本的に接待を受けない。この辺のスタンスはだいぶ違う。

 

さて、さすがに今日はこの辺で終了か、と思っていたがさにあらず。もう一軒行くというので驚く。もう時間は夜の8時近い。鹿谷ならいくらでも行くところはあるだろうが、飯も食わずにこれではねえ、と正直呆れる。運転手も可哀そうだと思ったが、I氏から『彼は仕事だからいいんです』と言われる。I氏は台湾で20年ビジネスをしているそうだ。私の感覚は中国仕様だろうか。最後の一軒、何さんの家では今日は来ないと思っていたのか、ちょうど製茶中ということで忙しいそうだったので、適当なところで切り上げた。

 

そしてついに宿に入った。ここはM氏の定宿らしい。すごく広い部屋に一人で寝ることになった。その前に腹が減ったが、基本的にM氏は食へのこだわりはないとのことで(昨晩もそうだった)、何とか開いている食堂を見つけて、適当に食い、スーパーで必要なものを調達して、今日が終了した。何とも恐ろしい茶葉調達ツアー初日だった。

ある日の埔里日記2018その3(2)媽祖祭り、そしてM氏現る

4月28日(土)
媽祖祭り

台湾緑茶の歴史、その締め切りが段々と迫ってくる。これまで誰もやっていない歴史、何となくは分かって来たものの、それでよいのかという自問自答が続く。図書館で集中して書いている時は、いいペースで行けるのだが、宿泊先に戻ると、また色々と考えてしまう。天候もそれほど良くなく、シャワーが降ったりして、洗濯物も乾きが悪い。

 

今日は土曜日、ボーっとそんなことを考えていると、外から大きな音が聞こえてくる。覗いてみると、お祭りの行列のような一団が向こうから練り歩いて来るではないか。何だあれは。そうか、今日は埔里で媽祖祭りが行われると、街頭にポスターが貼ってあったことを思い出す。

 

媽祖の祭りと言えば、数年前、馬祖島に渡った時に偶然出くわしたことがある。人口の少ないあの島では全島挙げての一大イベントであり、台湾における媽祖信仰の厚さを感じさせてくれた。それ以降も福建省に向かう飛行機に乗る時、偶に媽祖様と出会うこともあった。大陸に里帰りする媽祖様が荷物検査機を通っていく様は、何ともユーモラスだった。

 

埔里の媽祖祭りはどんなものだろうか。興味が出てきたので、歩いて集合場所付近まで行ってみた。大きなテントが張られ、媽祖様が鎮座している。大きな人形があり、山車に載せられた小型のものもあり、1つ1つが意味するものは不明だが、既に多くの人が集まってきている。

 

各団体の練り歩きが終わり、山車が置かれ、皆が休息していた。何となく、日本の祭りの風景を思い出す。よく見ると、ある場所に列が出来ている。何と山車の下を、老若男女が潜っているのだ。これが何を意味するのかは分からないが、一つの信仰の形であろうか。その後再び、街中を練り歩き、最後は天后廟に向かうのだろうが、小雨も降ってきたので、退散した。

 

M氏来訪
本日から台湾茶の専門家、M氏が日本からやってくることになっていた。今日は埔里に泊まるというので、ここで合流することにしていたが、なかなかやってこない。聞けば、豊原あたりで留め置かれているようだ。この人の茶旅の仕方に興味があり、今回は4日間ほど、同行することにしていた。

 

午後魚池の彼の知り合いの茶農家に行くことになっていたが、いつ来るのか分らず、埔里まで迎えに来てくれた茶農家の王さんも少しイライラしている。ようやくやって来たM氏夫妻はまず予約した宿にチェックインし、それからおもむろに車に乗り込み、王さんの家に向かった。

 

以前私も一度この家を訪れ、美味しいガチョウ料理をご馳走になった記憶がある。M氏は早々に試飲をはじめ、当然のように私が通訳に回る。紅玉で作った紅茶の他、最近流行りの白茶も出てきた。白茶の値段が思いのほか高いのでビックリ。やはり紅茶の需要はそれほど伸びていないので、作っているのだろうか。茶畑をちょっと眺めて、王さんに送ってもらい、埔里に帰る。

 

夜は葉さんと会う予定だったが、製茶の関係で彼はなかなか山から戻ってこなかった。M夫妻は一度チェックインした宿を出て、我が宿泊先の横のホテルに移動していたので、ゆっくり待つことにした。ただ既に夜8時、埔里ではこの時間になると、食事ができる場所が限られてくる。

 

M夫妻は茶葉買付の時は食へのこだわりはないとのことで、すぐ近く、私も入ったことのないステーキ屋に行ってみることにした。サラダとスープは取り放題で、ステーキはまあ夜市の屋台並、というところか。それからホテル前の椅子に座り、ずっと待っていると10時前になってようやく葉さんが帰ってきて、試飲が始まった。さすがに疲れた。そして明日の朝5時に起きて、武界に行くことになる。初日から激しい茶旅だ。

 

4月29日(日)
武界へ

翌朝は4時半には起きて、5時にM氏と共に葉さんの車で武界に出発した。私は昨年も一度行っているが、その後の変化も見てみたいので同行した。標高1400m程度だが、埔里からは比較的近く、1時間半はかからない。山を登っている間に夜が明け、周囲が明るくなると、景色がよい。今日は快晴だ。

 

葉さんが預かっている茶工場をちょっと覗くと、何か問題が発生しているようだった。昨晩も遅かったから、まだ始末が付いていないのかもしれない。すぐに我々は別の場所に移動した。そこは何とキャンプ場、茶畑が見え、簡易な大型テントがいくつか並んでいる。朝から車が動いており、テントから出てきてチェックアウト?する人がいる。

 

ここのオーナーが管理小屋におり、お茶を淹れてくれた。彼は元々茶農家だが、昨今のキャンプブームに目を付けて、これを始めたらしい。お客さんに泊ってもらい、自然を満喫してもらう。ついでにお茶も買ってもらうという作戦。聞けば料金は1200元、週末は満員の盛況だそうだ。

 

茶工場の方に戻ると、見たことがある人がいた。高雄の長信茶業の黄さんだ。彼はここの茶葉を使って高山茶を作って、販売している人だ。以前M氏の紹介で高雄の店を訪ねたが、娘は日本語ができると言って、すぐにいなくなってしまったのを思い出す。M氏もまさかここで会うとは思っていなかっただろう。結局葉さんは忙しいので高雄に戻る黄さんの車に便乗して、埔里に戻った。

ある日の埔里日記2018その3(1)改良場に勤めた人々

《ある日の埔里日記2018その3》

福建から戻って今年3回目の台湾滞在。2週間ちょっとで一度東京へ戻る予定になっており、滞在は短かったが、意外なことが起こり、混乱する。更にはM先生ツアーに交じって激闘茶旅を繰り広げる。そして最後は台南へ。

 

4月25日(水)
突然魚池へ

埔里に戻ってくると、図書館の陳さんから連絡をもらう。『先日会った老人が昔東邦紅茶で運送の仕事をしていたという。彼によれば、東邦紅茶全盛期に番頭のような役割を果たした人が、今も90歳前後で生きているらしい』との情報だった。早速図書館で詳細を聞いたが、その老人の住所などは分からない。本件は郭さんに聞いてみることにしよう。

 

その図書館4階に一人の老人が来ていた。彼は思い出したように『今は埔里で茶商をしている人で、昔茶業改良場に勤めていた人がいる。彼なら茶の歴史を知っているのではないか』という。ぜひ紹介して欲しい、と依頼すると、その夜、ちゃんと連絡先が送られてきたので、早々に連絡してみた。

 

その林さんという人に電話すると、『ああ、今から来て』と言われ、早口で住所を言われたが、聞き覚えのあるものではなく、まずは電話を切って地図を眺めてみたがさっぱりわからない。漢字が思い浮かばなければ検索すら出来ず、これは意外と困ったことである。仕方なくもう一度電話して、近くの目印などを聞いて、何とか歩き出す。

 

かなり歩いてみたが、なかなか目的地にたどり着かない。気が付いたことは、『車を運転する人が近くだ、すぐだ、と言ってもそんなに近い訳ではない』ということ。先方はまさか私が歩いて来るとは思っていないのだ。何とか探し当てた頃には、林さんも心配して道路まで出てきてくれていた。

 

林さんが改良場魚池分場で働いていたのは20年も前のことだという。それも数年だけで、後は自らお茶関係の商売などをしてきたらしい。現在は自宅の1階で簡単な茶荘をやっている。彼はまだそれほどの年齢ではないので、歴史的なことは分からないという。そして『やはり魚池の改良場に資料があるのではないか』と言い、これから魚池へ行こうと言い出す。

 

彼の車で30分、今年3度目の改良場へ到着した。今日は天気が悪く、日月潭を望む景色ももやっている。林さんはすぐに旧知の女性を見つけて、資料の話をするが『そんなものないね』という顔をされる。私はここで以前一度だけ会った陳さんを思い出し、今居るかどうか聞いてみる。暫くして陳さんが来てくれた。

 

彼は自らまとめた資料を持ってきてくれた。それを見ると、実は前回もらっているものもかなりある。しかし前回は知識がなかったので、その資料を見ても、何が重要なのか、何が貴重なのか、さっぱり分からなかったが、今回はいくつも驚くような話が載っていた。そして魚池でも歴史的な茶業関係者の末裔などがおり、彼らが資料や写真を持っている可能性があると聞いた。だがこの掘り出し作業はそう簡単ではなく、今後徐々に行っていきたいが、彼も忙しいようだった。

 

次に林さんが連れて行ってくれたのは、改良場よりさらに先にある家。と言っても看板もなく、犬がいるだけで、何をしているのかは分からない。入っていくと、何と簡単な製茶設備がある。ここに陳さんという人がいた。20年前、林さんが改良場に勤めていた時、改良場でメインに茶作りをしていた人らしい。昔気質の職人さんの雰囲気がある。

 

お茶を飲ませてもらったが、紅茶には独特の風味が感じられた。最近俄かに作り始めた人とは違う、と言いたいようなお茶だった。これを林さんが売っているのだろう。そういう補完関係にあれば、2人ともお茶のことはよくわかっているのだから、それは結構強力な関係だ。なぜか日本のフィギャアが沢山置かれているのがご愛敬だ。夕方まで改良場の人々ことなど色々と話して、林さんの車で埔里まで送ってもらった。

ある日の埔里日記2018その2(15)台北経由で福州へ

4月14日(土)
台北経由で福州へ

今日は福州へ行くことになっていた。安いフライトを探したら、何と松山から出る夜便だったので、ちょっと気になっていたところへ寄り道してから飛行機に乗ることにした。いつものようにバスに乗り台北へ向かう。土曜日でもほぼ時間通りに台北駅へ着いてしまうから有り難い。荷物をコインロッカーに入れて準備万端。

 

ちょうど知り合いのTさんから、Kさんという日本人女性を紹介されていたので、連絡を入れると、中山駅付近にいるとのことで、歩いて地下道を通り、向かう。お茶好きだというKさんを誘って、そのまま中山から大稲埕方面へ歩き出す。途中で手頃な喫茶店でもあれば入ろうと思ったが、残念ながらなかったので、重慶北路を越えて、228事件にも出てくる天馬茶房の隣、延平北路の交差点にある森高砂珈琲に入る。

 

ここは前から気になっていたので寄った訳だが、台湾産コーヒーの種類がかなりある。今台湾は珈琲店が増えている。店員は簡単な日本語を話し、席に案内してくれた。コーヒーは国姓産を選ぶ。料金は一般的な台湾感覚からするとちょっと高いが、淹れ方も面白い。いれたての珈琲を試験管のようなものに入れて、アイスにして飲んだりする。お店は土曜の午後ということか超満員で台湾のコーヒーブームを感じる。

 

それから目的の茶荘を探して歩く。迪化街も観光客と台湾人で人通りが多い。調べておいた住所を探していくと、かなり北の方にその店はあった。王福記、ここは1930年代に斗六で創業されたお店、そして創業者は布揉法を台湾に広めたと言われている王泰友氏だ。これまでこういうお店が残っていると気が付かなかったのだ。

 

何故知ったかと言えば、先日訪ねた梅山で、王泰友の名前が出て、王福記が存在することを教えられたからだ。ただその店は意外なほどきれいで新しくちょっとイメージとは違っている。数年前に建て替えたばかりだという。店に入り、店の歴史について聞こうとしたが、現在の店主である3代目は『資料はないよ』と最初は素っ気なかった。

 

そこへそのお母さん(2代目の奥さん)が助け舟を出してくれた。わかる範囲でこのお店や義父である王泰友について語ってくれる。何と王泰友は僅か10年数年ほど前、100歳でこの世を去っていたので、晩年の印象はかなり残っている。資料はないが、その息子であるご自分のご主人(2代目)の書いた文章なども見せてくれた。

 

今日は出掛けているとのことで、後日2代目に会うために出直すことにした。尚店の片隅にお婆さんが座っていたが、まさかまさかの王泰友の奥様だった。100歳でご健在、毎日店に来ているらしい。これもお茶の力だろうか。一気に歴史が近づいてきた感じがする。

 

因みに私がなーるほどザ台湾の2月号にお茶の特集記事を書いたが、そこに広告を出していたのが、この店だと分かり、一気に打ち解けた。この雑誌は残念ながら4月号で休刊となってしまったが、頼まれ物を書いておいてよかったと思う。最後は店の人々とも打ち解け、突然茶旅に同行したKさんもこの展開にはびっくり。

 

それから2人で大稲埕のお茶関係の場所を歩いてみた。李春生、陳天来など日本統治時代の茶業関係者ゆかりの建物や徳記など外資系の茶業者が残したビルもある。港の横、この狭い路地には往時の歴史がかなり詰まっているが、今やそれを知るべき表示などはない。更に範囲を広げて、日本時代の病院や鉄道駅の跡へも行ってみるが、やはり痕跡は殆ど見られない。

 

最後は台北駅まで歩いていき、現在修復作業が行われている鉄道部関連の建物を見て、Kさんと別れた。私はそのまま荷物をロッカーから出して、松山空港に向かった。夜の空港にはあまり乗客はおらず、ちょっと寂しい雰囲気だった。何度も行って慣れている福州だが、ちょっと不安になるほどだ。フライトはほぼ定刻に離陸し、一路福州に向かった。

ある日の埔里日記2018その2(14)三義に行ったが

4月12日(木)
三義へ

台湾緑茶の発祥はどこか、何とか調べたかった。ある資料には苗栗という文字が出てきており、先日は頭份という街に行ってみたが、どうやら苗栗内でも、北側ではなく、銅鑼か三義だろう、という話になっていた。三義とは、歴史の資料に出てくる三叉河のことか。行ってみたかったが、ただ行ってもツテがないと、何もわかりそうになかった。

 

三義には台湾農林の茶工場があると分かり、先日出会った陳さんに紹介を依頼したところ、直前になってOKが出たので、急遽三義に向かった。埔里からバスで台中駅へ。そこから台鉄の区間車に乗っていく。豊原を過ぎるとすぐに苗栗に入る。この辺になると電車の本数が減ってくる。

 

苗栗に入ると何となく空気も変わった。そして急に雨が降って来た。この雨が非常に激しくなった頃、三義駅に到着した。紹介されていた魏さんに連絡を取ると、すぐに迎えに来てくれる。車に乗り込む際のほんの一瞬でもかなり濡れたほど、その雨は凄かった。この付近でも数日ぶりの雨に皆驚いていた。

 

車は5分ほど、坂を上り、茶工場に着いた。裏に少しだけ茶畑が見えた。雨だったが、昨晩摘んだ茶葉の処理が行われている。烏龍茶作りが行われているようだった。今この工場では烏龍茶、東方美人、紅茶などは作っているが、緑茶は全く作っていないと言われてしまう。

 

私の訪問趣旨を魏さんに話すと、『うーん』と考え込んでしまった。自分はこの付近の出身だが、昔緑茶が作られていたことなど、誰からも聞いたことがなかったという。工場の上司に聞いてみても『俺が入ったのは1980年頃だからさ』と言って、やはり全く覚えはないという。むしろ、そのちょっと前には日本向けに煎茶を作ろうとしていた歴史には記憶があると言い出した。

机の中をごそごそ探してくれて出てきたのは古い写真。その写真には木造の茶工場が写っていたが、『これは1950年代の台湾農林の工場。駅前にあったが、30年前に取り壊してここに移転した。昔の工場は日本時代に三井の紅茶工場だったのさ』という。そうか、三井の主力工場は、大寮、大渓、そしてここ三叉河にあったのだ。それを戦後農林が引き継いだわけだ。

 

魏さんは電話を掛けているがなかなかその人は捕まらなかった。ようやくバイクで現れたその人物は蘇さん。元ここの副工場長で75歳だというが、今でも毎日工場に現れ、茶葉の出来を見ている。彼のおじさんは日本時代に三井の工場に勤めて紅茶を作り、お父さんも農林でそれを引き継ぎ、更には蘇さんもそれを引き継いだ、3代にわたり茶に人生を捧げてきたというのだ。

 

『ちょうど90歳代の人々は全て亡くなってしまい、その昔のことは分からない。ただ爺さんから茶のことは色々と聞いているが、緑茶の話が出たことは一度もない』と言われてしまう。三義が台湾緑茶発祥の地かもしれないというのに、あまりにも意外な反応だった。どうしてこんなことになっているのだろう。

 

ちょうどそこへ三義郷の郷長だという人もやってきたので、『三義郷誌に緑茶生産の話は載っていないのか?』と聞いてみるも、日本時代の紅茶の話は有名だが、それ以前の緑茶の話は全く記載されていないし、聞いたこともない』と同じ反応をされてしまい、完全に途方に暮れる。

 

何故なんだろうか、と自問自答を繰り返して何もならない。心優しい魏さんは弁当を頼んでくれ、一緒に食べた。そういえば、もう一つ銅鑼という場所にも茶工場があるようだが、と切り出してみても、『あれは後から作った観光用だ』と言われてしまい、ほぼ万事休すとなり、本日の調査は終了した。

 

そして収穫のないまま、この地を後にして、駅までまた車で送ってもらった。雨はすっかり止んでいる。魏さんが『ここからここまでが昔の工場の敷地(日本時代に三井の日東紅茶が作られた場所)だった』と教えてくれたが、そこはマンションや商店になっており、工場の跡を示すものは何一つ見当たらなかった。記念碑の1つぐらいあってもよいのでは、と思うのは日本人だからだろうか。

 

魏さんと別れて駅に入ったが、次の列車が来るまで30分以上あったので、周囲を歩いてみた。駅前付近には本当に何もなかった。鉄道の下を通る道に、鉄路英雄地下道と書かれているのが目を惹く。1903年にここに出来た鉄道駅、その完成までにはどれだけの苦労があったのだろうか。同時にそこまでの苦労をしても、鉄道を通したかった日本、その犠牲になった台湾人、それも今や歴史なのだ。この昔三叉河と呼ばれた地域には、まだまだ知られざる歴史が眠っているようだが、今はひっそりと息をひそめている。

ある日の埔里日記2018その2(13)大禹嶺経由で

4月10日(火)
大禹嶺経由で

昨晩はかなり涼しかった。いや寒かったと言ってよい。ここは標高2300m前後、4月とは言えかなり冷え込むのだ。ジャグジーに入り、ゆったり、などとはとても考えられず、早々にベッドに潜り込む。ベッドには電気毛布が敷かれており、暖かかったのだ。昼間との寒暖の差、これもよいお茶を作り出す要因だろう。

 

朝食のために食堂に向かうと、昨日は開いていなかった売店が開いていた。朝夕の短時間だけ営業しており、茶葉を買うことができた。と言っても、皆が欲しがる缶入りの高価な茶葉は見本のみ。ティバッグが買えるだけだ。この売店の店員もトミーの知り合いだという。何とも狭い世界だ。

 

高原のさわやかな朝。ご飯は食堂でビュッフェ。場長たちもお客と一緒に食べている。私はお粥を頂く。今や福壽山農場はちょっとした高級リゾート地。60年前の開拓農場ではない。何だか私には場違いかな、とも思ってしまう。場長に挨拶してチェックアウト。早朝の心地よい農場を後にした。

 

トミー達は天池に行ったことがないというので、まずは登って行ってみる。途中昨日も見た茶畑があったので、もう一度写真を撮る。夕方と朝では少し違ってみる。ここには鉄観音種も植わっていると聞いたので、探してみるも、どれだかわからない。他の武夷種もあるらしい。

 

天池は蒋介石が好み、滞在した場所。今も小さな池があり、そこに休息所が建っている。ただ特に面白みはない。4年前は雨に濡れていたが、今日は天気だけは良い。その近くには天池の茶畑が見られた。そう広くはない畑が斜面にある。今は福壽、天池など、その地名で茶葉が売られている。ここは福壽より若干標高が低いらしい。

 

ついでに華崗にも行ってみる。トミーはジョニーと仲がよいが、華崗の工場には行ったことがなかったらしい。私は過去2回訪れており、道案内できると思っていたが、既に記憶はあいまいで道に迷ってしまう。最後はジョニーに電話して、何とか辿り着くも、この時期茶作りは行われておらず、従業員は誰もおらず、中に入ることは出来なかった。ただこの付近、茶畑はどんどんなくなり、高原野菜が中心になっているのは何を意味しているのだろうか。

 

いよいよ山を下ることになった。とは言ってもまだ午前中。どこかに寄ろうかとの話になり、取り敢えず途中にある大禹嶺付近を散策することにした。車で約1時間、90kなどという表示が見え、ここが大禹嶺の入り口だと分かる。正直に言うと、大禹嶺とか梨山とか、それは一体どこからどこまでを指すのか、その定義を知らない。茶業関係者でもはっきり言える人は多くはないらしい。

 

この辺には民家もなく、車も殆ど走っておらず、バスも殆ど来ない。昔訪ねたことがある105kは、既に茶樹が伐採され、茶の生産は行われていない。この辺が大禹嶺、梨山一帯で最も早く茶樹が植えられた場所であり、歴史の観点からは重要なところなのだが、今や見る影もない。

 

他の場所もほぼ同じ状況らしい。これはこの付近の土地がいわゆる国有地であり、茶農家への土地リースを停止したことによるというが、土地を貸さないからといって、茶樹を伐採しなければならない理由はよくわからない。土砂崩れとの関連なのか、それともやはり噂されているような、何らかの利権絡みなのだろうか。そうは言っても、茶のマーケットでは今でも大禹嶺茶が売られているのも又怪現象だ。

 

このまま昨日来た道を埔里に向けて帰っていく。所々で道路工事が行われている。4年前、私も道路陥没を経験している。今日もまたいい天気だ。こんな気候が続くなら、この辺に住みたいぐらいだが、車を運転しない私にとっては全く食べ物が得られない環境でもある。ランチを取りたかった我々だが、食事をする場所も見付けられず、若者は腹を空かせていた。

 

結局清境農場まで戻って、ようやく昼飯にありつく。以前は旅行センターがあった場所に、なぜか紙の博物館が出来ていた。たしかここは日月潭にもあったはずと思っていると、日月潭を閉めてこちらに移転したらしい。紙の汽車などが置かれており、子供が喜んでいる。奥のレストトランも子供向けに出来ており、男4人にはかなり違和感がある。

 

ドリンクのコップは勿論、食器などの他、椅子も紙で出来ていた。ここで紙のプレートランチを食べる。何となくお子様ランチを思い出し、懐かしく食べる。決して安くはないので、週末の家族連れを狙った戦略なのだろう。日月潭よりこちらの方が観光客は多いのだろうか。

 

夕方ようやく埔里に戻った。何しろ遠かった。こんな大変な山道を運転して連れて行ってくれたトミーにはただただ感謝しかない。今回は高山茶の歴史について、重要な情報を手に入れることができ、また現状についても少し理解できたのは有り難い。後はどこへ行けばよいのだろうか。

ある日の埔里日記2018その2(12)福壽山農場へ

4月9日(月)
古老を訪ねる

翌日はトミーが福壽山農場へ連れて行ってくれるというので、埔里に迎えに来てもらった。福壽山へは埔里から上って行くので通り道だった。ただ山に入る前に行きたいところがあったので、寄り道してもらった。図書館の陳さんからの情報で、『埔里に95歳の老人がおり、日本時代に日本人経営の茶園で働いていたらしい』というものだった。これは興味深いが、老人は台湾語しか話さない可能性があるので、台湾人に同行してもらった訳だ。

 

陳さんも住所は分からないというので、簡単な地図を描いてもらい、それを頼りに行ってみる。そこと思われる家で聞いてみると『それは隣のお爺さんだろう』と案内してくれた。聞いていた苗字とは違っていたが、その方は家のソファーに座っており、突然訪れた珍客にも『どうぞ』と言って招き入れてくれた。

 

お爺さんは足が悪いようだったが、非常に元気だった。そして流ちょうな日本語を話した。今でも岩波文庫を読んでいるというから驚きだ。お爺さんは日本統治時代に確かに持木茶園で働いていたという。そして九州の宮崎に研修にも行ったというからすごい。だがその研修が生かされることはなく、戦争に突入し、台湾で兵隊に行ったという。そう、紅茶作りが始まるか始まらないかで、魚池地区はこのような状況に見舞われたのだ。お爺さんには次回是非もっと詳しい話を聞きたいと思う。

 

福壽山へ
埔里を離れ、車は昨日も走った霧社への道を進む。あの滝の横を通り、眉渓も通り過ぎ、霧社の上、清境農場で停まる。今日は実にいい天気で気持ちがよい。ちょうど昼時となり、この辺でランチを食べる。この上になると食べる所もなくなるらしい。この辺は台湾のスイスとも言われる場所、ちょっとおしゃれな雰囲気のホテルやレストランが多い。

 

更に登っていくと、本当に素晴らしい景色が広がっていく。とても台湾とは思えない。昆陽という標高3070mの地点には車が沢山停まり、皆がその風景を楽しんでいた。何だかあっという間に3000m越えになっている。高山とは本当に高いところなんだ、今ではいい道があるから簡単に来られるが、昔は大変だったろうな。

 

更にこの付近の最高地点、武陵でもまた停まる。標高3275mとの表示が見える。ここまでは公共バスもあるらしい。自転車でここまで登ってきて、記念写真を撮っている外国人もいる。さすがに風が強い。ここにはなんと日本統治時代の太魯閣戦役に関する看板があった。原住民討伐の司令部がこの近くに作られたらしい。5代総督佐久間左馬太が埔里に2度も来た理由との関連、日本の植民地政策、もっと勉強する必要がありそうだ。

 

今度は少しずつ下っていく。約1時間後、車はようやく梨山に入る。数年前、ここまでバスで登ってきて、梨山賓館を見た。終点にも拘らず、更に先の福壽山までバスに乗せてもらったことを思い出す。このバスが着いたのが福壽山農場だった。あの時は小雨模様で非常に涼しく、携帯の電波が届かなくて焦った。今日はいい天気、そしてここに宿泊するので気持ちはとても楽だ。

 

福壽山農場の敷地は広い。母屋?の建物でチェックインするが、部屋は離れのようになっている建物にあり、何とも優雅。シングルルームなどはないとのことで、何と一人なのにスイートルームに入れてもらった。如何にも高山のリゾートと言った感じで、バスルームにはジャクジーまであった。こんな良い部屋に泊まれるのもお茶のご縁だ。しばしお休み。ゆったりとリゾートライフを満喫。

 

その後車で茶畑に行ってみる。農場の周辺には茶畑は見付からず、リンゴの木がたくさん植えられていた。そこより下にもなさそうだったので、上に登っていくと、農場の製茶工場があり、更に登ってようやく茶畑を発見した。防霜ファンが目立つ。茶畑は山の斜面に作られており、そんなに広いとは思えない。品種は何だろうか。車はほとんど通らない。

 

もう夕方なので引き返し、農場内を歩いて回る。池があり、木々が生い茂る。散歩するには悪くない。この農場とタイ北部の交流の碑がある。ここにもタイから戻った国民党兵士が配置されたのだろう。農場の事務所がある建物の横には、世界中のリンゴの木が集められており、1つの木に接ぎ木され、まとめられているのが凄い。半数は日本の品種かな、リンゴ王、40種類以上あった。梨王というのもある。ここは茶農場というよりは、フルーツ農園のようである。

 

夕飯は農場の巫場長に招かれ、他のお客さんと共にテーブルを囲み、美味しい名物料理を堪能した。さすが農場だ。食後は場長の部屋に伺い、場長自ら焙煎した貴重な福壽山農場の茶を淹れてもらい、ゆっくりと味わう。同時にこの農場の60年の歴史も教えてもらい、勉強になった。流通量の少ないここのお茶、本当に希少らしい。かなり遅くまでお茶を飲み、話が弾んだ。

ある日の埔里日記2018その2(11)大同山へ

4月8日(日)
スマホ死亡

清明節連休も最終日、今日はご近所のIさん夫妻に大同山に連れて行ってもらうことになっていた。その前に図書館で調べ物をしようと向かったのだが、そこで思いもしない不幸な出来事に遭遇してしまう。図書館の机に座った瞬間、スマホが全く作動しなくなってしまった。実は先日電池の不具合があり、東京で電池交換を行って、僅か1か月しか経っていなかったので、驚いた。

 

朝の9時台に開いている携帯ショップなど見付からない。待ち合わせの時間は迫ってくる。フラフラ歩きまわっていると、1軒だけ扉が開いている店があったので、飛び込んだ。店主は私のスマホを少しいじって『残念ですが』という。確かに画面が立ち上がる気配はない。回復の見込みがないと分かると同時に、私は連絡手段の全て、および時計機能など、何もかも失くしてしまったことを知り、愕然とする。

 

店主に相談すると、『今ここで中古スマホを買うしかないでしょう』という。そして2台の中古を取り出して、どちらにしますか?と聞く。するとそこにおばさんが入ってきて、やはりスマホの不調を訴える。店主が私にしたいのと同じ宣告を下すと、彼女はすぐに中古スマホを物色し始める。

 

私は現金の持ち合わせが少なかったので、その範囲で買える物をすぐに選び、購入した。そして店主が色々とサポートしてくれ、メール、FB、LINEなどの回復に努めた。万が一のためにパスワードなどを控えており、ある程度はすぐに復旧して、ホッとした。やはりこれからスマホは常時2台持つ必要があると感じた。カメラ機能などを使っていれば猶更だ。

 

待ち合わせの時間が迫っており、急いで宿泊先に向かう。途中狭い道を通って大きな通りに出ると突然名前を呼ばれる。見るとIさんの車がそこに止まっているではないか。携帯ショップに迎えに行こうと思ったが、行き違いになるのを恐れて、ここで待っていたというのだ。私の行動パターンは完全に読まれている。

 

大同山で
大同山に向かう。数日前観音瀑布に行くために歩いた道を車は進む。車は早い。あっという間に滝の横を通り過ぎた。あの歩きは一体何だったのだろうか。修行か。そこからほどなく、眉渓付近に到着する。I夫人の故郷であり、彼女の親戚が待っていてくれた。彼らは大同山で茶畑をやっていたという。やっていた、ということはもうないのだろうか。

 

彼らの車に乗り換えて、山道を入っていく。かなり急な坂道で普通乗用車ではとても上がれない。標高1000mを越えてくると、茶畑がちらっと見えた。その先の家に車は入っていく。何と食事を用意してくれるといい、下で調理したものを持ち込んで温めている。ここは農作業の場なのだという。

 

天気は最高によく、ちょっと強いが何ともいい風が吹いている。既に結構暑くなってきた埔里の街から来ると、何とも心地よく、眠たくなってしまう。山のご馳走を頂き、気分も上々。食後のお茶は『今は自分で作っていないから、誰かが持ち込んだものだ』と言って淹れてくれた。猫がいい感じでそこここを歩き回る。

 

今は茶を辞めて、野菜畑にするため、温室を作っているという。家の横には作りかけの温室があり、もうすぐここに高原野菜を植える準備が進んでいた。『昔はここの茶も高山茶としていい値で売れたが、今はもっと高い場所の茶の原料として安く買いたたかれるので、止めたんだ。高原野菜の方がずっと儲かる』というのだ。

 

標高1000m辺りの茶の現状はこのような感じではないだろうか。この山の頂上付近は1500mほどであり、そこではまだ茶が作られているというので連れて行ってもらった。確かにそこにはきれいな茶畑が並んでいる。ここは30年ほど前までは原住民との土地だったが、その頃平地に住む人が買い取ったらしい。茶園は良く管理されていた。高山茶ブームを見越しての投資だったのだろう。

 

この高地から周囲を見ると、遠く霧社の方までよく見える。向かいの山は東眼山と言い、こちらは、大同山よりさらに茶園が広がっているらしい。遠く、山の斜面を見ると、かなり削られている場所があり、開発が行われたことがよくわかる。高山茶の開発は山を削ることであったと気付く。

 

車で山を下り、道路脇のI夫人の親戚の家に寄ると、そこでは以前茶葉を売っていたようで、広いスペースがあり、茶の名前などがガラス戸に書き込まれていた。老人が『昔は茶がよく売れたよ』と懐かしそうに言う。高山茶の変遷ももう少し勉強してみたいと思った。

ある日の埔里日記2018その2(10)観音瀑布で

4月4日(水)
郊外散歩2

清明節の連休に入った。私の活動も完全に止まり、ひたすら部屋で日記などを書いて過ごす。だが今回3階から2階に移った部屋には、なぜかちゃんとした机がなく、低いテーブルに合わせて、低い椅子に長時間座っているのは、ちょっと厳しい。そこで図書館を利用させてもらい、勉強を進める。それに飽きるとまた散歩に出ることになる。

 

今回は先日の愛蘭地区とは反対方向、霧社へ上がる道路沿いを歩いてみる。ここにはバスが通っているのだからバスに乗ればよいのだが、それでは散歩にならないので、歩く。最初は郊外の田舎道を歩き、きれいな花が咲いているところもあり和めた。でも田舎道は長くは続かない。基本的には霧社に登っていく大きな道路の端を歩いていくほかはなく、大型バスの危ない運転に冷や冷やし、暑い埃の中を歩くのは決して気持ちの良いものではなかった。

 

それでも前に進んだのは、前からちょっと気になっていた滝を見ようと思ったからだ。いつもはバスでスーッと通り過ぎてしまうのだが、この機会に意を決して見に行くことにした。ただバスでは近く感じられた滝までの道のり。歩いてみると本当に遠かった。途中にはもう一つの地理中心の碑があり、花がきれいに整備されていた。ここは観光客向けのスポットだった。

 

ようやく眉渓という文字が見えた頃はもう汗だけで疲れもピーク。ただここまで来てバスに乗るのも癪なので、そのまま歩き続けた。10㎞ぐらい歩いた気分だ。そしてついに観音瀑布と書かれた場所にやって来た。道路沿いには川が流れており、そちらを渡す橋も架かっているが、何となく吊り橋のようで敬遠した。ここには数人の若者がハイキングに来ていた。

 

ところが愕然とする事態が目の前にあった。何と瀑布に分け入る小道のところには『工事中、近寄るな』の文字が見えるではないか。そして私の侵入を阻止するように、柵が置かれているではないか。ここまで歩いてきてそれはないよ、と泣きそうになっていると、何とその道から老夫婦が出てくるではないか。思わず駆け寄って『ここは入れるのですか』と聞くと、『たぶん問題ないよ、我々も今見てきたところだから』と言ってくれたので、また意を決して?突入した。

 

山道を深く入っていくのかと思い込んでいたが、何と2-3分上がるとそこには滝が見えた。思いの他、水量もあり、立派な滝だった。ただその前で工事をする機械が作業中で動いている。工事の邪魔にならないように遠くから写真に収めていると、作業員のおじさんが『そこだと上手く撮れないだろう。今機械止めてあげるから、もっと前に来て撮りなよ』と言ってくれるではないか。

 

さすが台湾だ、と思ってしまう瞬間。日本ならきちんと保安員がいて、至極丁寧に頭を下げて、危険なのでお帰り下さい、というはずだが、ここは世界が違う。勿論作業員も休息のタバコが吸いたいわけで、ここではお互い阿吽の呼吸が成立する。ルール至上主義の日本では考えられないが、なんとも嬉しい光景だ。

 

これを臨機応変と言ってよいかは分からないが、この山の中で危険があるかないかは、『見ればわかるでしょう』ということだ。今の日本では見えない力が見えるものを抑え込み、さも自分が正しいかのように振る舞っている。世の中、そんな簡単ではないし、庶民にはルールだけが全てではない、などと勝手に思ってしまうが、どうだろうか。

 

おじさんに手を振って滝を後にする。滝の近くがさわやかで涼しかったこともあり、何とも晴れやかな気分になり、これまでの疲れも吹き飛んでしまったから、不思議だ。しかしさすがに今歩きてきた道を、また歩いて戻る気力はなく、ちょうどやって来たバスに飛び乗り、埔里に戻った。今日の散歩は一体何だったのか、よく分からないが、終わり良ければ総て良し、だ。