「トルコ」カテゴリーアーカイブ

トルコの茶畑を訪ねて2012(11)イスタンブール ボスポラスクルーズでオスマン帝国を思う

7. イスタンブール2  チャイナタウンの無い街

イスタンブールの空港は2回目で慣れたので、電車に乗って市内へ出る。初めは地下を走るが直ぐに地上に出る。今日もいい天気だ、イスタンブールは。途中で路面電車に乗り換え。ここも意外とスムーズ。

陽が西に傾く中、昔の城壁跡が見える。かなりの規模だ。電車を降りて見に行きたい衝動に駆られたが、荷物もあり、断念。そして懐かしいスルタンアフメットに戻ってきた。今回はこの前泊まったホテルの2倍の宿泊代を払い、部屋を取った。だが、それでも部屋は広いとは言えず、イスタンブールの物価の高さを実感した。

部屋に居ても仕方がないので、外へ出た。どうしても気になることがあった。この国際都市、イスタンブールで中国料理屋を1つも見たことが無かった。チャイナタウンはない、と初日に言われたが、まさかレストランが1つもないことはあるまい、きっとどこかにあり、少なくとも中国人観光客は食べているはずだ、と思った。

そして観光地区をくまなく歩いたが、発見したのは、たった1軒だけだった。トルコ人店員に聞けば、オーナーは中国人だというが、不在で会えなかった。中国人の存在が薄い街、それもありかもしれない。豚肉の調達も難しく、中国人向きではない。

因みに翌日街の旅行会社で「中国語で来ます」という張り紙を見て飛び込んでみた。香港等に滞在したというトルコ人が普通話を話していたが、二言目には「絨毯、買ったか?」と聞いてきたのを見ても、中国人は単なるいいお客さんなのだな、と感じた。

10月1日(月)  ボスポラズクルーズ

朝、散歩に出た。昨日はかなり疲れが溜まっており、今日は一日休日にしようと思っていたが、起きてみると体調が良いので出掛けた。トプカプ宮殿の横の道を海の方へ下り、海沿いを歩いて見る。何となくスルタンアフメット2世のコンスタンチノープル攻略の地を歩いて見たかった。この付近は最後まで破ることが出来なかった場所。相当高い城壁と迫る海、天然の要塞だ。ここを今は電車が通っている。

20分ほど歩くと、フェリーターミナルへ出た。本当に偶然にボスポラズクルーズに乗らないかと声を掛けられた。ふらふらと乗り込む。そして気が付く。このクルーズは片道1時間以上かけて、アナドルカヴァウまで行き、そこで3時間休息し、戻ってくることを。しかし既に船は出てしまった。

ガラタ橋を横に見る。いい天気だ、本当に。風も爽やか、気持ちが良い。大きな客船が停泊している。流石国際港、イスタンブール。スルタンの居城、ドルマバフチェ宮殿。立派だ。アタチュルクはここで亡くなったようだ。オルタキョイ・ジャミイ、白いモスクは海に映えている。第一ボスポラス大橋も潜った。大きい。

そしてとうとうルメリ・ヒサリを見た。ヨーロッパ側の城、対岸にはアジアの城もある。 アナドル・ヒサリ。1452年3月マホメッド2世自らが指揮して建造。3班に分けお互いを競わせ、4か月で完成させた。全長250m、高さ15mの城壁、70mの塔が3つ。大砲で両岸から威嚇した。この城塞がコンスタンチノープルの運命を決定した。私は何故かこの風景だけが見たくて、この船に乗ったのだ。血が騒いだのは何故だろうか。

12時過ぎにアナドルカヴァウに到着した。折り返しの船は午後3時発。皆真っ直ぐに歩き始める。私は後をついて行く。ひたすら坂を上り、そしてレストラン街を抜けると頂上に到達する。そして遠くは黒海まで見える丘の上の立ち、遥かなる時を思う。僅かな城壁を残すのみだが、それはそれで風情がある。

船の乗客は思い思いのレストランに入り、ランチを取る。眺めの良い上のレストランで一人で食べるのは何故か憚られ、下に降りて、魚やイカを食べる。勿論ここは海鮮が売り物だが、観光客向けの食事というのはどこもそれほど美味しくはない。残りの時間を付近の散策にあて、時間を潰す。帰りは来た道を帰るだけで面白味はあまりない。

イシドロスの城壁

船を降りると午後4時を過ぎていたが、心は昨日路面電車から見た城壁の風景に飛んでいた。とにかく路面電車に乗り込み、あの城跡風景を追う。いくつ駅が過ぎただろうか。城が見えてきた。トプカピという駅で降りる。思ったより更に大きい。そして南北にずーっと続いている城壁。

イシドロスの城壁と呼ばれるこの地区は、コンスタンチノープル攻防戦の際、枢機卿イシドロスが守備した場所という。イシドロスと言えば、スルタンの侵略に対して、カトリックとギリシャ正教の東西教会統一を模索した人物。どのような思いで戦いの臨んだのだろうか。そして捕虜となり、命永らえたと伝えられるが、どのような思いだったのだろうか。

この戦いではモハメッド2世はまるで織田信長のように見える。ハンガリー人ウルバンの大砲を採用し、城壁を破壊する様子は日本でいえば信長の鉄砲。現在私の前に広がる崩れた城壁も大砲で破壊されたのだろうか。

隙間から城壁に上る。周囲が良く見える。夕陽が眩しい。ゴミ拾いのオジサンたちの基地があり、裕福とは思えない子供達の格好の遊び場となっている。ここには時代を超えた空間が存在している。500年以上前の戦闘後、何も変わっていないのかもしれない。例え周囲がきれいな公園になろうとも。

夕方の涼しい風が吹き抜けて行った。帰りの路面電車からモスクが見えた。ブルー・モスクに寄ろうかと思ったが、既にその気力は無かった。




トルコの茶畑を訪ねて2012(10)トラブゾン 魚の美味い街

6. トラブゾン2  夕飯

トラブゾンの街に帰って来た。今日は本当に充実した茶旅が出来た一日であり、満足した。これも全てご縁であり、Kさんのお蔭であった。Kさんはトルコに来てわずか11か月だというが、既に相当のトルコ語を話しており、驚く。「周囲に日本人が一人もいない環境がそうさせた」とのことだが、それにしても凄い。

ホテル近くにKさん行きつけの店がある。地元の人が行く小さな店だが、そういう所が美味い。夕方5時過ぎだというのに客が続々と入ってくる。入り口には生の魚が並べられ、客は魚と野菜を選ぶようになっているが、常連が多いようで、一声かけて席に着く。

Kさんが「ここには美味いスープがあるが、すぐに売り切れる」というので注文すると幸いあった。レモンを絞り、香菜に似た物を入れるせいか、非常にさっぱりした味で、飲み易く、そして何故か後に惹く。魚ベースだったろうか。実は後日もう一度このスープが飲みたくてやって来たが、その時は6時前でも売り切れていた。

魚は豪快に焼かれ、どーんと出てくる。ここトラブゾンが元々漁港であり、魚を食べることに慣れていることが分かる。塩味で新鮮な魚を焼いただけ、と言えるが、その鮮度からしても美味である。玉ねぎとししとうを混ぜて食べると良い。食べ放題のパンを入れると直ぐに腹が一杯になる。

食後は街を散策。夕暮れ時、多くの人々が歩いている。きれいなお店も増えているようだ。一軒のカフェに入り、トルココーヒーを頼んでみた。ドロッとしており、かなり濃い味で、決して飲み易いとは言えない。それでも若者などはコーヒーを飲んでいる者もいる。一つのファッションだろうか。

Kさんと私、年齢も現在の境遇も違うが、お互いに日本から飛び出した人間として、様々な話で盛り上がる。それにしてもKさん、定年退職後、未知の国トルコへやって来ただけでもすごいが、そこでその生活をエンジョイしていることが羨ましい。一つの理想的な形ではないだろうか。

9月29日(土)  スメラ修道院

翌朝はKさんが是非行った方が良いと言って、わざわざツアーを予約してくれたスメラ修道院へ行く。トラブゾンには観光地が殆どなく、皆必ず行く場所と言われたが、一体どんなところだろうか。

10時前に指定された旅行社前に行って見たが、バスは見当たらない。数人外国人がいたので、同様に待っていると、時間ちょうどにミニバスがやって来て、観光客を収容する。半数は欧米系、後は中東系とアジア系、アジア系と言っても何人か分からない。日本人ぽい人は一人乗っているだけ。料金はスメラ往復で20リラ。これはKさんの予約で5リラの割引があったらしい。感謝。

バスはマチカという街を通り過ぎ、かなり深い山に入る。急な上り坂をグルグルと上り、トラブゾンから小1時間ほどで修道院が見えた。このスメラ修道院、断崖絶壁にはへばり付く建物、という表現が妥当なほど、切り立った山の斜面に建っている。一体誰が何のためにこんな建物を建てたのだろうか。高所恐怖症の私には信じられない。

1時間の自由行動で、各自思い思い、坂を上り、修道院へのアプローチを開始する。観光客、特に女性が多いので、写真を撮りながらゆるゆると歩いて行く。15分ほど歩くと、修道院の前に到着。だがここからさらに厳しい階段を登らなければならない。4世紀の建てられたとも言われるこの建物、作業には途方もない時間が掛かっただろう。

中はいくつもの洞窟があるが、今は殆ど開放されていない。カッパドキアと同じような宗教壁画が描かれており、その後の破壊の爪痕を見ることができる。修行の場として作られたという修道院だが、こんな山の中に敢えて作る必要があったのか、やはりこれは迫害を逃れた人々がいたということだろうか。どうも歴史はよく分かっていないらしい。非常に興味深いのだが。

建物を一通り見学すると、後は待ち合わせ場所である下の駐車場まで降りていく。この下りの道は本当に林に囲まれ、静寂の中を歩く。目を瞑って木々の声を聴こうとしても何も反応しない。それ程に深い山の道である。まさに思い思いに降りていく。時折写真を撮ってくれと依頼すされるほかは、一人の空間に浸る。

駐車場に降りつくと軽い疲労を覚える。小川のせせらぎの中、木の椅子に腰掛ける。向こうの男性がIpadを触っており、日本人だと分かり声を掛ける。彼は1年半ほど、バックパッカー生活を送っており、アジアのみならず広範囲に旅を続けている。会社を辞め、また社会の戻るための道を探しているのだろうか。彼からスリランカの情報を得たが、これはのちに役に立った。生の情報は非常に貴重であり、また重要だ。

帰りが元来た道を淡々と戻る。午後2時ごろトラブゾンに着いたが、空腹感もなく、そのままホテルに帰って昼寝する。夜はベッドから這い出し、昨日の食堂で別の魚を食べ、満足する。既にトルコに入って10日、疲れが出て来ていた。

9月30日(日)   トラブゾン空港

翌日は午後の便でイスタンブールへ戻ることになっていた。疲れも出ていたので、休息を前提に街をぶらつく。トルコの街の良いところはどんなところでも街頭にテーブルがでており、誰かがチャイを飲んでいること。私もつられて腰を下ろし、チャイを頼む。この雰囲気は実によい。チャイを飲んでいると皆が笑顔で話し掛けてくる。

空港へはタクシーで行けるが、敢えてミニバスに乗ってみる。ホテルからほど近い広場の裏道にバス乗り場があった。特に空港行きのバスは無く、昨日行ったリゼの方面へ向かうバスに乗り込む。トラブゾンも土地が狭いため、黒海沿いに住居が広がっている。

昨日空港までアイファンさんを送っており、空港の風景も分かっているので、安心して乗っていたが、乗客はどんどん降りていき、なかなか辿り着かないので、ちょっと不安になった頃、ようやく海沿いの空港が見えた。バスは道路沿いに停まり、後は歩いて道を渡り、空港へ入る。空港の端から端まで歩くと結構な広さであることが分かる。この地で飛行機に乗る人々は殆どが車で来るのだろう。

ターミナルは新しく、きれいで広々しているが乗客の姿は殆どない。バスの時間が読めない為相当早く出て来たので、時間が余る。ラウンジに入れてもらうが、誰一人おらず、スタッフもまだ営業前といったムード。国内線のラウンジであり、パンやお菓子程度しかないが、それで昼ごはんとする。

何とこのラウンジに人が集まり始めたのは、出発時刻の30分前。普通ならラウンジに寄らず搭乗口へ行く時間だが。出発時刻の20分前になると突然、滑走路に面したドアを開け、乗客が歩き出した。ラウンジから直接飛行機に向かうシステムだった。タラップを上り機内へ。トルコでも最近いくつかのLCCが出来ているようで、色々な飛行機が駐機しているのが面白い。

機内での1時間ちょっとはあっという間だった。何しろこれまでのバスの旅は5-11時間、飛行機が如何に速いかを実感したが、同時に味気なさも残った。私はトルコのバスの旅に何故か強く魅了されていた。




トルコの茶畑を訪ねて2012(9)リゼ トルコ唯一の茶畑

5. リゼ   9月28日(金)  リゼへ

いよいよ今日はトルコ唯一の茶畑の街、リゼへ行く。何だか気持ちが高鳴る。ここまで来るのは本当に長かった。イスタンブールに入ってから既に1週間以上が過ぎていた。ホテルには既にトラブゾンに長期滞在する唯一の日本人?Kさんが迎えに来てくれていた。

Kさんは、昨年日本の地方都市のお役所を定年退職した農業技師で、直ぐに海外での仕事を探し、ここトルコのトラブゾンへ赴任してきた。現在は野菜栽培の技術指導をしているとのこと。昔ヨルダンで一年滞在経験があるとは言うものの、大胆な転身に見えるが、ご本人は淡々としており、トラブゾン生活をエンジョイしているようだ。

Kさんご手配の車に乗り込み、黒海沿岸を一路リゼの街へ。と思ったが、途中で住宅街へ入り、男性をピックアップ。ウスマイルさん、現在は英語の教師だが、中央アジア滞在歴も長く、非常にユニーク人。Kさんとはバスの中で知り合い、それから交友関係が続いているとか。今日は英語の通訳として同行してもらう。やはりここでは英語は通じないらしい。

リゼの街はトラブゾンから車で1時間ちょっと。しかしもし私が単独でリゼを訪問しようとしていたら(実際トルコ入り時点ではそう考えていた)、バスでもっとかかっただろう。そしてリゼに到着しても、どこへ行ってよいやら、迷ったことだろう。全ては茶縁の世界。今日は真っ直ぐに、リゼの国立茶業試験場へ向かう。

トルコは世界5位の茶葉生産国と聞いているが、茶畑はほぼここリゼかその付近にしかない。そして茶業試験場も唯一ここにしかない。トルコでお茶を知ろうとすればここに来るしかないのだ。そして私は導かれるようにその建物に吸い込まれた。

茶業試験場と茶畑   

リゼの茶業試験場は1924年に創設された。その前年に、オスマントルコが倒れ、ケマルアタチュルクにより、トルコ共和国が建国される。これは偶然の一致ではない。その数年前に、ゼリヒ・デリンという人がグルジアへお茶の研究に派遣されている。当時グルジアはお茶の産地、今でも高級な紅茶のイメージがある。既に帝国末期、それまでの国民飲料だったコーヒーは手に入らなくなっていた。何故ならコーヒーの産地はイエメンのモカ。既に帝国内ではなくなっており、コーヒーは高価な輸入品となっていた。

建国直後のトルコにお金はなく、国民飲料として期待されたのがチャイ。試験場は苦難の歴史を歩みながら、茶樹を植え、製茶を行い、1930年代にはそれなりの商品となっていた。ただ最終的に国民に普及したのは50-60年代とも言われている。このような説明をしてくれたのは、この試験場の開発責任者、アイファンさん。彼は日本びいきのトルコ人の中でも日本への親近感が強く、実に丁寧に話をしてくれた。

試験場は研究室などがあり、お茶の研究開発を行っていた。外は公園のようになっていて、一般人も気軽に入って来てチャイを飲んでいる。この山の上からリゼの街と黒海が一望できる。そしてその急な傾斜地に茶が植えられている。何故ここに茶畑を作ったのか、それはこの急こう配では、普通の作物は難しく、この付近の人々は貧しい生活を強いられていたからだという。政府も貧困対策で茶を植えた。だから、他の地域には茶畑が無いということだろう。

そして茶畑を案内していたアイファンさんが突然「これは何だか分かるか」と聞いてきた。茶畑の上に黒い幕が張られていた。まるで日本茶の被せ、のような日差しを遮る物だった。「そう、これはセンチャ畑だ」。え、トルコに煎茶畑。一体なぜなのだろうか。トルコではチャイが国民飲料となったが、皆砂糖を大量に入れる。政府は角砂糖の大きさを半分にして、国民の健康維持を図ったが、それほど効果が無いらしい。

そこで政府はアイファンさんを日本政府の支援を得て、鹿児島の知覧へ派遣し、日本の煎茶の製法を取得させた。機械も一部持ち帰り、5年前から研究に取り組み、今では飲めるセンチャが出来て来ている。勿論土壌の改良なども行っている。国を挙げての取り組みなのだ。ここにも日本との繋がりがあり、そのご縁で今日の私がある。

山の上のランチに行って

昼時になると当然のようにアイファンさんが先導して、ランチへ出掛ける。トルコに来る前、こんな厚遇は夢にも思っていなかった。Kさんはじめ、日本の様々な人々のアイファンさんへの好意が、いま私に帰ってきている。まさにご縁だ。 

  

試験場よりさらに高い所へ行く。実に見晴らしが良い。観光用のレストランがあるが、見るだけにして去る。きっと食事が良くないのだろう。その横に、茶葉の集積場があった。ちょうど茶摘みを終えて、茶葉を運んできた農民と会った。農民と言っても運び屋さんか。若い男性たちだった。

摘んだ茶葉をここまで運んでくるのは相当の重労働。それでも賃金は決して良くないという。茶の生産だけでは食べていけずに、農閑期には出稼ぎへ出る人もいる。国の政策で茶を作っているのに、そしてこれだけ大量の茶葉を生産しているのに、食べていけない、相当複雑な事情が垣間見えた。

ランチは昔ながらの木の家屋を使ったレストランで食べた。天井が高く、吹き抜けのお店。爽やかな風が吹くととても気持ちが良い。だるまストーブが中央に置かれ、民芸品が並ぶ。食べ物もちょっと独特で、チーズフォンディウのようなドロッとした物を鍋から救い出し、パンにつけて食べた。この辺りの食文化はイスタンブールとはかなり違うのかもしれない。

茶工場と博物館

午後はアイファンさんの案内で、茶工場見学に向かう。トルコの茶業者は、国営のチャイクル1社でほぼ市場を独占している。最近民間企業も出てきたようだが、それでも85%以上のシェア握る。茶業試験場も国営なら、チャイクルも国営。アイファンさんの名刺にもチャイクルの文字が見える。実質的に一体なのだ。リゼの街には当然のようにチャイクルの工場がいくつもある。先ずは海沿いの最新鋭のきれいな工場に行って見た。だが、現在製茶は行われていないということで、何も見ずにあっさりと立ち去る。何だかもったいないが仕方がない。

次の工場は結構年季が入っていたが、工場は稼働していた。最初に工場の責任者を訪ね、挨拶する。するとやはりお茶が出てきた。そのお茶は例のセンチャ。日本人にはセンチャだろうと気を利かしてくれたのだ。だが、このセンチャには砂糖は入っていなかったが、ミントが交ぜられていた。「どうだ、味は」と聞かれたが、正直、うーん、という感じだ。「トルコ人は砂糖を入れない茶は飲まないが、ミントを入れれば飲むのではないかと期待している」とは責任者の弁だが、どうだろうか。

工場の責任者は広い個室に陣取り、如何にも街の名士といった雰囲気で貫録がある。リゼの街でチャイクルの工場長と言えば、相当の地位だろう。いや、全トルコでもかなりのステイタスかもしれない。ただ、その時代がかった対応は、トルコの茶業の前途を少し暗示しているようにも見えた。

工場に案内された。どこにでもある紅茶工場、ほぼ機械化され、人手はそれほどかかっていない。トルコのチャイは、細かく砕いて飲む。それ程厳しい基準で製茶しているようには見えなかった。一方センチャは日本から持って来た蒸機なども使い、力を入れて作っているように見えた。より美味しいお茶が出来、トルコの人がそれを飲むこと期待するばかりである。

一端試験場に戻り、また庭でチャイを飲む。兎に角一日中、チャイを飲んでいる。隣では格好いいお姐さん達がタバコをふかしながら携帯をいじり、チャイを飲む。今のトルコの一般的な風景だ。

街の中心部にある博物館へも行った。ここはチャイクルの博物館であるが、国の博物館と言ってもいい。初期の製茶機械など様々な物が展示されていたが、残念ながらトルコ茶の歴史についてはそれ程展示は無かった。もし一人でやって来て、ここへ来ても何も分からなかったと改めて思う。茶縁に感謝するばかりだ。

アイファンさんが時計を気にした。実は彼はこれからイスタンブールへ出張する。そんな最中に我々と一日付き合ってくれた。感謝してもしきれない。彼をトラブゾンの空港まで送り、我々も帰路に着いた。





トルコの茶畑を訪ねて2012(8)トラブゾン 黒海沿岸の街で

夜のバスターミナルと黒海の朝焼け

ホテルに戻り、ロビーでネットを使う。このホテルも親切で、ゆったりと席に着き、作業に没頭できた。そしてバスターミナルへ向かう。先ずは地下鉄ウルス駅の付近のバス停でターミナル行きのバスを探すが、なかなか見付からない。するとちょうど走り出したバスに乗れ、という声がしたので、慌てて乗り込む。本当にこれでよいのだろうか。

街は暮れなずんでいく。帰宅時間なのか、人がどんどん乗って来て身動きが出来なくなる。バス料金も乗客の手渡しで支払う。昨日行ったバスターミナルだから分かるだろう、と思っていたが、何だか不安になる。そしてとうとう暗くなる。益々どこが何処だか分からない。だが聞くすべもない。ちょうどバスが停まり、少し大きな荷物を持った人が「ここでいいのか」と聞きながら降りていった。ここに違いない、と咄嗟の判断でバスを降りる。向こうの方に大きな建物が見えた。やはりここで降りて正解だった。てっきりバスターミナルに入って停まると思っていたので、危なかった。

ターミナルは広いが、時間を潰すところが無い。レストランでWifiが繋がるか聞くと、どこもないという。階上にネットカフェがあると聞き、上がって行ったが、何故か今は繋がっていないとの答え。諦めてじっと待つ。

8時半発のバスだが、8時を過ぎても現れない。イスタンブールの悪夢が蘇ったが、ここは始発。少し気分が楽だった。直前になりバスが入線。2階建てだ。乗客は定員の半分ぐらい。ゆったりとスタートした。そしてまた規則正しく3時間ごとにサービスエリアで休息。私も慣れて来たので、スープとパンで夕食を取るなど余裕が出てきた。チャイは欠かさずに飲んだ。

バスはアンカラから一路黒海を目指して進んだ。そして3回目の休憩の後、サムソンのバスターミナルだろうか、そこから海岸線に出た。バスの窓から見事な朝焼けが見えた。あー、これを見るために私はこのバスに乗ったんだな、と直感した。

4. トラブゾン1   9月27日(木)   ホテルでトラブル

黒海沿岸の大きな都市、トラブゾンに到着した。実に11時間のバスの旅。気分は爽快だった。バスターミナルから街へは無料のミニバスで運んでくれるが、その出発は非常にゆっくり。慣れた人は公共バスなどで行ってしまう。本日私には全く予定が無いので、ゆっくりと待つ。

ミニバスで10分ぐらい行くと、降りろと言われて降りる。そこは旧市街地、石畳が良い。今回突然お世話になることになったトラブゾン在住日本人Kさんが予約してくれたホテルも直ぐに見つかった。

いつもの私の旅からするとかなり立派なホテル。夜行バスで疲れているので朝8時過ぎだがチェックインを頼むと「部屋は満室。12時にまた来い」とすげなく言われる。一室ぐらい空いていないのか、と聞いてみたが、フォロントの女性の態度は変わらなかった。まあ正規のチェックイン時間ではないので諦める。

そして11時半頃再度ホテルへ行き、チェックインする。ところがKさんが予約してくれたはずのシービューの部屋は満室だと言われる。先程のすげない対応もあり、私もここは譲らずに、「予約を受けたのに部屋が無いとは何だ」、と少し語気を荒げた。夜行バスでかなり疲れていたのだろう。するとフロントの若い女性も突然声を荒げて「私は嘘つきではない。あなたに嘘つき呼ばわりされる覚えはない」と涙目になり言い出す。これにはこちらがビックリ。私も中国に居るような感じでクレームしてしまったようだが、それにしてもホテルでこんな対応は初めて見た。

彼女と話しても埒が明かないと思い、Kさんから聞いていた旅行会社の社長に電話して事情を説明。彼は分かったとだけ言い、電話を切る。すると奥からマネージャーらしき女性が出て来て、丁寧な態度で「本当に申し訳ないが、今日チェックアウト予定のお客が延泊してしまった。ついては1泊だけ、別の部屋に泊まってもらえまいか」と聞いてきた。このような態度に出られると、対応しない訳にはいかないが、何となく釈然としなので、「部屋が違うのに料金が同じなのは納得できない」と言ってみると、「部屋代は旅行社と相談するが、何らかの割引をする」というので、こちらも収まる。

部屋は隣のビルの壁が見えるだけのビューだったが、非常に疲れていたので、シャワーを浴び、直ぐに寝入る。起きた時には既に夜で、ビューはどうでもよくなっていた。やはり相当に疲れていたようだ。

因みに翌日海がきれいに見えるシービュールームへ移動。景色も雰囲気も全然違った。3日後にチェックアウトする時には約束通り、1泊目を30%オフにしてくれた。これもKさんのお蔭だ。

トラブゾン散策

午前中仕方なく荷物を預けて、街へ出た。先ずは腹ごしらえで、近くのレストランで朝ごはん。店頭に並んだおかずから、鶏の煮込みとさやいんげんをチョイス。パンは食べ放題。店からハミだした路上のテーブルで食べていると、気分はヨーロピアン。味もまずまずで、眠気も吹っ飛ぶ。

そして歩き出す。私がトラブゾンという街の存在を知ったのは、沢木耕太郎の深夜特急。彼はトルコでアンカラ、イスタンブールを訪ねているが、もう一つ、ここトラブゾンにも寄っている。40年前のトラブゾンは、田舎の港町と描かれており、坂が多いとあった。実際に歩いてみると確かに黒海から直ぐに丘が連なり、平地は極めて少ない。その坂道を海と平行に歩いて行く。

40分ほど、歩き続けると、丘の上にアヤソフィアが見えてきた。イスタンブールでもその存在感が抜群のアヤソフィア。ここトラブゾンでは、相当小型であるが、やはり光を放っていた。基本的には教会であったが、今は博物館という名前で公開されている。建物の中には随所に宗教壁画が残されており、往時を偲ばせる。

トラブゾンは紀元前にギリシャ人の南下で作られた街。その後東ローマ帝国時代にキリスト教が入り、このアヤソフィアが教会として作られた。オスマントルコ時代にはモスクとして使われ、20世紀に入り、博物館となる。

外にはカフェがあり、観光客がチャイを飲んでいる。私もチャイを注文し、座る。実にゆったりとした時間が流れている。いや、一瞬時が止まったかのような錯覚を起こす。午前中の暖かな日差しが心地よい。チャイクル、というテーブルクロスに書かれた文字が、いよいよ茶畑が近づいてきていることを告げている。

帰りもまた歩く。相当に疲れていたが、モスクあり、サッカー場あり、公園ありで、楽しく歩く。この街は古い建物が多いが、比較的整備されており、きれいに見える。黒海床山に挟まれた狭い敷地に住む人々、皆が陽気に見えた。




トルコの茶畑を訪ねて2012(7)アンカラ 出会った中国人はウイグル人

ウイグル人留学生

ホテルはウルス地区の安宿を予約していた。ウルスの地下鉄駅でバスを降りたが、方向が分からない。売店のオジサンに住所を見せると親切に方角を示してくれた。これで安心と思ったが、なかなかホテルに辿り着かない。また通行人のオジサンに聞いてみると、英語は出来ないが、親切に対応してくれた。トルコ人は親切だな、と感じる。ようやく辿り着いたホテルは予想以上に駅から離れていた。かなり下町の雰囲気があり、そこかしこでチャイを飲んでいる。

夕方ホテルにウイグル人留学生、K君が訪ねて来てくれた。彼はトルファン出身、北京で学び、中国大手企業に就職したが、昨年からトルコ政府の奨学金を得て、トルコで学んでいる若者である。先週アンカラの大学院へ転学してきたばかり。それにしてもウイグル人とはいえ、中国人がトルコ政府の奨学金を貰っている所が面白い。勿論漢族中国人は貰えるわけではなく、同じトルコ系ということがポイント。

彼はアンカラは不案内ということで、宿舎で同室のトルコ人学生を連れてやって来た。皆で英語で話そうと思ったが、トルコ人学生はシャイで話したがらず、結局アンカラにも拘らず、K君と普通話で会話した。

トルコには漢族学生は殆どいないこと、ウイグル人も多くはないこと、また中国政府はトルコに興味を持っており、接近を図っているが、上手くいっていないことなど、様々な話が出た。そして彼は「留学が終わったら、中国とトルコを行き来するビジネスがしたい」という。その可能性は大きいと感じた。中国がK君たちをうまく使えるのか、興味深い。因みにトルコ語とウイグル語は70%程度共通であり、言語習得の問題は少ない。また緩いイスラム教ということでも同じで、生活習慣も近い。

9月26日(水)   アンカラ ウルス散歩

翌朝ホテルで朝食を食べた。トルコではどこのホテルでも食事の内容は同じで面白味はない。外へ出ると、朝から皆チャイを飲んでいる。近くを散歩するとハトが沢山いる広場に出た。実にのどかな朝だった。

ある横道に入ると、「セイロンティ」の文字が見えた。トルコのチャイは殆どが国産だが、何故ここでセイロンティを売っているのだろうか。興味本位で長屋風の店を覗くと、おじさんも笑顔で迎える。トルコでは英語があまり通じないと感じていたが、そのおじさんは英語が流暢。

何故セイロンティを売っているのか、驚いたことにここはクルド人居住区だった。クルド人と言えば、イラク北部など広く中東に居住し、国家を持たない最大の民族などと呼ばれている。トルコにも相当数が流れ込んでいるらしい。オスマントルコが消滅した時、彼らの国家も無くなったようだ。

「クルド人は商売人さ、トルコのチャイは国内ようだが、俺たちは国際的なセイロンティの貿易をしているのさ」と説明してくれたが、このお茶誰が買うのだろうか。ティバックのセイロンティを頂きながら、親しくお話を聞いた。ここでクルド人と会うとは、世界はまだまだ広い。

そしてアンカラ城へ行こうとしたが、道を間違え、小高い丘の上に有る博物館へ来てしまった。絨毯や食器など、トルコの伝統的な文物が並んでおり、地味ながら面白かった。途中で中学生が大勢やって来て見学していた。

チャンカヤ散歩

午後バンコックのAさんより紹介されたSさんを訪ねた。場所は宿泊先のウルスからは大分南に下った官庁街。地図で見ると近そうに見えたので、先ずは日本大使館を目指すことにした。しかもタクシーで行ったのでは面白くないので、ホテルのフロントにトルコ語で「チャンカヤ 日本大使館」と書いてもらい、その紙切れ一枚を持って出る。何とも無謀な話だ。

ホテル近くのバス停からチャンカヤ地区へ行くバスが出ていると聞き、行って見ると、ちょうどバスが来た。「チャンカヤ」と叫んで乗り込もうとすると運転手さんが何か言っているが分からない。向こうも言葉が通じないと分かると、「乗れ」と合図。取り敢えず乗り込むと、何と100m先のバス停まで送ってくれた。勿論無料。そして「XX番のバスに乗れ」と言って去る。すごい。

次に乗ったバスでは、料金が払えない。全てがカード式のシステム。車掌のおばさんから何とかカードを買って払う。だが、おばさんが「どこへ行くんだ」と聞くので、紙を見せると、大騒ぎに。「誰か日本大使館の場所知ってるか?」と聞いてくれる。すると一人の男性が英語で、「乗り換えた方が良い」と言い、一緒にバスを降りた。そしてバスを乗り換えるとまた料金が払えない。今度の運転手は顔を横に振るばかり。すると前に座っていた男性が私のお金を受け取り、自分のカードで払ってくれた。

そしてこのバスで近くまで行こうとしたが、隣の男性が「このバスは違う」と言い出し、一緒に降りるように言われる。従って降りたのだが、どうやら彼の勘違いだったようで、それから延々と、登り坂を歩いて登る羽目に。それでも皆の親切でどうにか大使館に辿り着いた。

だが私の目的地は大使館の近く。ところが地図では近くても、この目的地は相当に遠かった。歩いていると、私が降りたバスが横を通って行く。あー。でもいい運動になったし、アンカラの山の手の雰囲気を存分に味わった。首都とはいえ、イスタンブールに比べればアンカラは小さな都市だった。帰りはバス一本でホテル近くに帰り着いた。

アンカラ城

ホテルに戻らず、午前中に行けなかったアンカラ城へ向かう。しかし正面から入ろうとしたら、何と工事中。土煙がもうもうと上がっていた。少し横を登って行くと、博物館があり、見学する。ここには石器時代の土偶や鉄器時代のカップなどが展示されていて、トルコの歴史が面白く見られる。特に土偶は日本でも見られるような形をしており、何らかの繋がりが感じられる。

博物館を出てさらに上ると、城へ入る入り口がある。一つの小さな街へ入る感覚だ。中には今も住民がおり、普通の生活を送っている。子供達は跳ねまわり、城の上ではサッカーに興じていた。

小高い丘の上に築かれた城。今も外壁が残り、アンカラの街を見下ろしている。夕陽がきれいな場所だろう。眼下にはきれいなマンションが出来始めており、ここトルコの発展が見て取れる。歴史が発展へと動き出した感じだ。

上って来た道と反対側を下る。カフェがあったのでチャイを飲む。ここの道が観光客が来る場所だと分かる。チャイはどこで飲んでも美味しい。そして何とおしゃれなカフェでも1リラ(40円)は嬉しい。他の物を飲む気には全く慣れない。歩き疲れた体を休めるには砂糖を入れるとちょうど良い。やはりトルコのチャイには砂糖、なのだろう。





トルコの茶畑を訪ねて2012(6)カッパドキア どこでも誰でもチャイを飲む

ユルギュップ

夕方一日目のツアーを終わり、ホテルへ。私は皆と異なり、ユルギュップという街の外れのホテル泊。カッパドキアは全体として時間の流れが緩く、人々の流れも少なく、実にゆったりとしているが、ユルギュップでは特にそれが感じられる。

ホテルは大型で団体客が泊まる所。広いロビー、部屋もゆったりとしている。何と朝ごはんだけでなく、夕ご飯も付いている。宿泊客はロシアや東欧の人が多いようだ。食事は肉などがふんだんに盛られているが、羊肉はない。残念。

先ずはホテルから歩いて5分ほどのバスターミナルへ行き、アンカラ行の切符を買う。前回でバスは懲りたような気もするが、またバスに乗りたくなったのは何故だろうか。勿論アンカラなら5時間、飛行機に乗ってもそれほど変わらないからか。

街は実に落ち着いており、ふらふら歩くにはちょうど良い。街の中心には岩山が見えるのがカッパドキア風。ホテルの向かいのモスクからコーランが響いてくるが、それすら緩やかに感じられるから不思議だ。

静かな夜、夜行バスの疲れが出たのか、シャワーを浴びて早々に寝る。気持ち良い眠りが待っていた。やはり癒しのカッパドキアだろうか。

9月24日(月)  奇岩ツアー2

今日も奇岩ツアー。ただ昨日と違い、ツアーは私と若者男性2人のみ。昨日とは明らかに雰囲気が違う。今日行った奇岩は非常にはっきりと切り立ち、動物の形に見える岩など、ユニークなものが多かった。一体カッパドキアにはどれほどの奇岩があるのだろうか。

相変わらずどこでもだれでもチャイを飲んでいる。私も仲間に入れてもらい、チャイを啜ると猫まで膝の上に乗ってくる。言葉は通じなくても何だか一体感はある。コーヒーも売っているが、これは観光客用らしい。

トルコ絨毯の店に連れて行かれる。店では直ぐにチャイが出てくる。そして日本語の説明員がちゃんと絨毯やスカーフなど伝統的な織物の説明をしてくれる。聞けば、機械織りに押されて、伝統織りは徐々に少なくなってきている。非常に細かい作業で時間も掛かるため、コストも高い。何とかしてこの伝統を守ろうと、カッパドキアをあげて、売り込みに力を入れている。日本まで輸送しても送料は無料だというが、どれほどの人が買うのだろうか。

ランチは洞窟レストランで食べる。何だかいい雰囲気で、ヒンヤリとした洞窟へ入る。トルコ音楽の演奏が響き、気分は高まる。だが、同時に相当煩い話声が洞窟内に響き渡る。中国人団体観光客の甲高い普通話だ。うーん、もう少し雰囲気を考えて欲しい。無理か??

午後ギョレメの博物館へ。博物館と言ってもここも奇岩の山。5-6世紀にキリスト教の修道士が修行場として使っていた場所。かなりの絶景だが、洞窟内にはキリスト教関連の壁画が残されていた。ただ顔の部分は殆どが潰されており、後からやって来た民族に破壊された様子が生々しい。

洞窟カフェで一休みした。階段を上がると中には絨毯が敷き詰められ、なかなか居心地の良い環境が整っていた。ここでチャイを頂くと、何となく落ち着く。それにしてもここカッパドキアは乾燥地帯なのか、のどが渇く。チャイが美味い。

宝石屋さんにも寄った。トルコ石は世界的に有名で多くの観光客が買いに来ていたが、中国人団体の姿はなかった。店員に聞くと「トルコ石は高い。中国人は宝石を見ると偽物だと思うようで、誰も手を出さない」との説明。うーん、確かに。

更に奇岩ツアーは続いたが、流石に飽きてしまった。日本人女性なら一日中岩を見て癒されるのだろうが、私はカッパドキアに既に十分満足した。

9月25日(火)  3. アンカラ   アンカラまでのバス

今日はカッパドキアを離れ、首都アンカラへ向かう。先ずはホテルからユルギュップのバスターミナルへ。小型バスに荷物を積み込みだが、時間は十分にあるので、ユルギャップの岩山を上る。いい眺めであり、またこの緩さが良い。ところが降りてみると道が分からなくなる。こんな小さな街で迷子か?バスの出発時間ぎりぎりに何とか間に合う。

小型バスでカイセリのターミナルへ行き、そこから大型バスへ。ここは一昨日の朝、夜行バスが到着した場所。アンカラ行のバスは沢山出ているのか、乗客はそれ程いない。昼間にバスに乗っていると、トルコの道路が快適であることが良く分かる。そして車は殆ど走っていない。このインフラはどこから来たのだろうか。EUの支援で出来たのだろうか。

乗車するとイケメン車掌がチャイを配るのは夜行と同じ。今回はリプトンのイエローラベル。食べ物は出ない。途中でトイレ休憩があり、美味しそうなクレープを焼いていたが、朝ごはんの食べ過ぎでパスしてしまう。残念。

約5時間でアンカラに到着。郊外の巨大なバスターミナルだった。ここで先ずトラブゾン行きのチケットを買った。明日の夜行だ。アンカラ滞在は約1日半と決まる。そして市内へ。大型バスで来ると市内まで無料の小型バスで運んでくれる。これで今日のホテルの直ぐ近くまでやってきた。




トルコの茶畑を訪ねて2012(5)カッパドキア 奇岩に癒される日本女性

2. カッパドキア   9月23日(日)  夜行バスで行くカッパドキア

それからバスはほぼ3時間ごとに規則的に停まった。これは運転手の休息とトイレ休憩だろう。トルコの道路は素晴らしく、あまり揺れることもなく、寝るのには十分。そしてサービスエリアもきれいで充実。

降りると1リラの有料トイレに入り、そして1リラのチャイを飲む。何だかマッチポンプ??カフェテリアで食事を取る人も多く、夜中といった感じはない。眠気も徐々に冷め、バスの旅が楽しくなってきた。相変わらずバス内では殆どの人は寝ている。私は何を考えるでもなく、何をするでもなく、ただ薄らとした闇を見つめていた。

このバスには外国人も数人乗っていた。欧米人が4-5人、そして日本語を話す人が3人。一人の若者が私に近づいてきた。一緒にチャイを飲んだ。彼はヨーロッパからアジアを旅するバックパッカー。車掌のニーちゃんともすぐに仲良くなり、楽しそうに旅行していた。私は車掌に『何時に着くのか』と何度か聞いたが、要領を得ず、ちょっと愉快でなかった。ただ明け方、ドライブインで停まっているバスの後ろでタバコを吸う彼と遭遇し、話をするとにっこりしていた。ようは言葉が上手く使えなかっただけなのだ。日本人の若者が眩しく見えた。

明るくなると、道路脇に湖が見えた。朝日も眩しい。午前8時に到着予定のバスは当然のように遅れた。実は私は今日と明日、朝からカッパドキアツアーに参加予定だったが、間に合わない。仕方なく、朝8時の段階で旅行会社の人に電話でその旨を告げた。この人、友人の友人に紹介されたのだが、日本人女性である。

香港にいる時に某大学の先生から『カッパドキアには日本人女性が100人以上トルコ人と結婚して住んでいる』と聞いたことがある。そんなはずがない、何故、咄嗟の反応はそんなものだったが、実際にそうした人々が現れ、実際にトルコの地を踏むと満更変でもないと思えるから不思議だ。

9時前にようやくバスターミナルへ到着。皆降ろされ、ドルムシュというミニバスに乗った。私はユルギュップという場所へ行くミニバスへ乗ったが、旅行社から電話があり、途中のカッパドキアインというホテルで降りた。周囲は荒涼とした大地だが、空は実に青かった。

カッパドキアツアー1 地下都市

ツアーバスに乗り込むと、空いていた。何故だろうと思っていると、何とこれから各ホテルに迎えに行くのだという。何だ、焦ることもなかった。時間がゆったりと流れている。この日本語ツアー、HISの旅行ツアーで来ている人が殆ど、しかも30-40代の女性ばかりだった。彼女らはギョレメあたりの洞窟ホテルに泊まり、イスタンブールとの組み合わせで来ていた。初めての人は2-3人で、リピーターの中には一人で来ている人も数人いた。

私のカッパドキアでの関心事は1つ。地下都市の存在だった。高橋克彦の小説『竜の柩』。一見奇想天外な小説に思える内容だが、良く読んでみると著者は本当にこれを信じて書いていることが分かる。その中にカッパドキアの地下都市が出て来るが、この都市は実は核シェルターだったと推測する。

カッパドキアは5-6世紀、キリスト教の修道士たちが住む修行場だったと言われているが、それにしては手が込んだ作り出し、第一数十万人が暮らせる能力を有していた、ワインを製造する場所すらあったことを考えると、修行の場というのは後から来た人が利用しただけだと思われる。実際に地下に潜る狭い道、確かに巧妙に出来ており、敵を避けるための石のドアなど仕掛けもある。高橋克彦の推測は正しい、と思ってしまう地下都市だった。表に出ると眩しい日差し。何だか夢のような見学であった。

奇岩ツアー

ハトの谷、という奇岩を見る場所へ行った。カッパドキアの奇岩は世界遺産であり、その風景は壮大で、圧倒的、信じがたいものがある。そしてここは何故かハトが多い場所。ハトと奇岩、関係はよく分からない。

観光地なので土産物を売る店がある。お婆さんが手編みの服やテーブルクロスなどを売っていた。実に細かい作業で感心したが、『誰も買ってくれる人が無い、生活が大変だ』と嘆いていた。ここカッパドキアには産業はあまりないようで、人口も少ない。観光客頼りの生活にならざるを得ない。ヨーロッパの経済危機などもかなりの影響があるのかもしれない。何だか少し寂しい話だった。

もう一つ奇岩のある場所を見学。私には何となく同じようにしか見えない。お昼は川沿いのレストランで取る。土鍋料理が有名だということで鶏鍋を頼む。パンはどこでも美味く、スープもまあまあ。そして土鍋は良く煮込まれており、いい味出していた。満足。

私の参加したツアーは女性ばかり。ランチしながら、彼女達に『カッパドキアには日本人女性が100人以上結婚して住んでいるらしい』と言ってみると、『分かるわー、その気持ち。私もチャンスがあれば自分の人生、劇的に変えてみたいと思うもの』との回答が印象的。日本で働く女性のストレスは並大抵のものではなく、それ故時間がゆっくり流れ、癒される、非日常空間を現出するトルコへの愛着、憧れは強いということだろうか。

午後も奇岩を見ていた。何という所か分からない。ツアーに参加する一人の女性が、ジーッと奇岩を眺めて佇んでいる。その様子がちょっと尋常ではなく、そのまま岩に向かってダイブしてしまいそうに見えた。思わず声を掛けると『この岩、癒されるわー』。日本女性がカッパドキアに憧れる様子が良く分かったが、私には理解できない。

 

トルコの茶畑を訪ねて2012(4)イスタンブール クリスティと最新ショッピングモール

ガラタ

ガラタ橋を歩いて渡る。いい天気だ。釣り人も多い。観光客も多い。歩いている人の顔も様々だ。国際都市、という雰囲気を漂わせる。遠くにガラタ塔が見える。新区の方へ進んで行く。

先程のシルケジ駅でどうしてもオリエント急行が頭から離れない。Tさんから『この近くにアガサクリスティが泊まって小説を書いた』というホテルがあると聞いたのを思い出し、探す。だが、何とホテルの名前を聞いていなかった。勿論住所も通りの名前も。結構歩き回ったが、結局何処だからわからなかった。

しかし歩いていると、下町のような小さな工場街があったり、歴史的な建造物に立派な銀行が入っていたりする。この辺り、特に目玉はないが、見ていて飽きない場所だ。こんないい加減な散歩は楽しい。

観光客が吸い込まれていくビルがあった。入ってみると、そこはトンネル登山鉄道?トゥネル。開通して130年以上経つというから歴史的だ。たった一駅だが、ガラタ塔まで上がれるとのことで乗ってみる。一駅でも3リラ。この料金設定、便利だが何となく・・・。完全な地下鉄で走行時間僅か3分。あっと言う間に上に到着。

ガラタ地区はオスマントルコ来襲まで200年に渡るジェノバの居住区であり、貿易拠点だった。その中心にガラタ塔が置かれている。塔は駅から300mほど下った所にあった。1455という数字が見える。建造年だろう。

この付近は坂がいい。坂の両脇に店が並んでいる。上にはトラムが走っており、それに沿って繁華街が続く。スタバなどもあり、ここは新しい街の雰囲気がある。道沿いでデモをしている一団に出会う。何に抗議しているのか分からないが、色々と問題があるのだろう。

最新ショッピングモール

タクシム広場に辿り着き、地下鉄に乗る。最新ショッピングモールへ行って見た。イスタンブールは本当に広い街なのだと実感するほど、そこは遠かった。地下鉄は結構地下深くに作られており、ホームまでが遠かった。

2007年に開業したイスティニエ・パークはITU駅から歩いて10分ほど。近くには大学のキャンパスが広がり、郊外の巨大モールという印象。シェラトンホテルが見える。アラブの富豪はこういった高級ホテルに泊まって、買い物するのだろうか。現在建設中の高い建物が目を惹く。

イスティニエ・パークに入ると、まず目を見張るのは、高級ブランドが並ぶブティック街。フェラーリやポルシェといった高級車が目立ち、運転席から颯爽と降りてくる30代のトルコ人。これぞイケメン実業家、格好良いタイトな服を巧みに着こなし、ヤングエグゼクティブの風格。平均年齢29歳のトルコではこのような一部の青年実業家が国の経済を引っ張っていると思われる。

モールの中もかなり広い。高級車の展示もあり、4層ほどの各階には、ブランドショップが並ぶ。地下には家電売り場があり、Sonyセンターはあったが閑散としていた。一方サムソンは好調のように見えた。家電量販店で日本製品を探したが、冷蔵庫などは見当たらない。PCでもサムソンが多く、その横に東芝がちらり。ここでも韓国勢の優勢であった。

地下鉄でレバント4駅まで戻ると、駅に直結した高層ビルが。サフィール、トルコ一の236mの高さがあり、下はショッピングモール、上はオフィスと住居。展望台へ上ればイスタンブールが一望できるらしいが、高所恐怖症の私はパス。

レバント駅まで15分ぐらい歩く。途中に日本領事館の入っているビルがあり、駅の直前にはまたまたショッピングモール、ケニオンが。ここは建物のデザインが目を惹く。全てのショッピングモールはテロ対策で荷物検査は厳しい。このモールにも有名店がかなり入っている。お客も沢山歩いており、日本とは違っている。旺盛な消費が感じられた。ここで日本の無印良品のアンテナショップを発見したが、全体的に言えば、日本企業の存在感は全くなかった。これでよいのだろうか。

ペラパレス

タクシムまで地下鉄で戻り、又歩き出す。トラム通りを避け、一本裏道へ。そこには何故か日本食屋さんがあった。値段は結構高いようだ。それにしても文花とは何だ?細い道を歩いて行くと『ピラフ』の文字が見えた。あのピラフだ。

かなり歩いたな、と思った頃、おしゃれな建物が目に着き始める。そしてそのハイライトがペラパレス。先日探したが見付からなかった、アガサクリスティも宿泊したという由緒正しいホテル。だが、意外にきれい。2年ほど前に全面改装したらしい。

入ったものかと躊躇っていると、ドアマンから『ウエルカム トゥ ペラパレス』と迎え入れられる。中は想像通りの重厚な印象。古いエレベーターに歴史が感じられる。このホテルはオリエント急行を降りた欧米人乗客がシルケジ駅から籠で運ばれてきたとの話がある。

地下へ降りるとアガサという名前のレストランがある。『オリエント急行の殺人』を着想したと言われるアガサルームというのもあるらしいが、アガサに関する出来事をくどくど説明するものはなかった。それが一流ホテルというものだろう。アガサ以外にもピエール・ロティ、グレタ・ガルボ、ヘミングウェイといった、歴代様々な有名人が宿泊、セレブの憧れのホテルとして人気があるようだ。

今度は重厚な階段を渡り、2階へ。白を基調とした落ち着いた廊下。一度は泊まってみたい雰囲気を漂わせる。ガイドブックによれば1泊、200ドル以上はするらしい。いつか泊まってみよう。

結局そのままガラタ橋まで歩いてしまう。結構疲れたので、夕陽を見ながら、橋の袂のレストランで休む。夕陽がかなり強くて、暑さを感じた。そしてやはり、腹ごしらえは今日もサバサンドになってしまう。完全に気に入ってしまった。

夜 恐怖のバスターミナル

そしてシルケジ駅から電車に乗ってみる。たった一駅、トプカプ宮殿の脇を通り、マルマラ海へ出た所で降りる。完全なローカル線だが、この時間は20分に一本走っていたから、通勤線だろうか。海岸を散歩。夕陽が眩しい。

ホテルに戻り、ネットを使う。ホテルのオジサンとは初日に喧嘩したが、その後は色々と親切にしてくれ、最後は『また来いよ』と言われて、抱き合って別れる。何だか結局いい人ばかりだ。

重い荷物を引き摺り、歩き慣れた道を港へ。ハレムカラジュ行きのフェリーは30分に一本だが、9時前に終わるとの話もあり、少し早いが8時半に乗る。夜の海もまた良いものだ。乗客は少ない。

埠頭に着き、バスターミナルへ向かう。Metroという名前のバス会社、相変わらずよく分からないがまだ早いので待つ。9時半集合だったが、9時過ぎにはバスに乗れと言われ、ミニバスで郊外へ。アジア側郊外は初めてだが、マンションが立ち並び、ネオンも見える。

郊外の大型バスターミナルは乗客でごった返していた。電光掲示などは一切なく、ひたすら来るバスの番号と行先を確認しなければならいが、人が多くて、荷物もあるため、大変な作業となる。そして周囲の人は男も女もやたらとタバコを吸う。イライラしているのは分かるけど、健康に悪そう。煙でこちらもイライラ。

10時15分の出発時間になったが、バスは来なかった。これには慌てた。どうしてよいか分からない。ターミナル内にInformationと書かれた場所があったので、チケットを見せて聞いてみるが、英語が出来ない。トルコ語で言われても意味が分からない。ようやく英語が出来る人を探し当てても、待て、の一言。バスはひっきりなしに来るので、番号チェックで心の休まる暇はなく、人はどんどん膨れ上がるので、極度の疲労が襲う。

チャイを飲ませるカフェがあったので、バスを気にしながら飲む。しかしチャイを飲めばトイレが気になる。バスにトイレが無い場合、困ったことになるのは明白。一体どうなるのだろう。このままバスが来なかったら?いろいろ考えたが、11時を過ぎると全てが面倒になり、どうにでもなれ、死にはしないだろう、ぐらいの気分になる。すると急に楽になる。人間は本当に不思議なものだ。

バスがやって来たのは何と12時過ぎだった。2時間遅れ、と言ってもこの深夜。ほとほと疲れた。バスに乗り込むと満員だが、座席は比較的広く、快適。早々に寝ようとすると、イケメンの車掌が何とアイスを配りだす。何というサービス。先ずは頂き、チャイも飲む、幸せな気分で寝る。





トルコの茶畑を訪ねて2012(3)イスタンブール ボスポラス海峡を渡り、サバサンドを食べる

ハレムカラジュ

アヤソフィアから海へ向かって歩いて行く。昨日使ったトラムに沿って歩くと迷わない。途中で携帯のシムカードに料金を追加。携帯屋に入ったが、ネットカフェに連れて行かれ、無事入金。面白いし、皆親切だ。

ヨーロッパ側の港へ到着。ここからアジア側へ渡る。ハレムカラジュが目的地だ。何故ハレムカラジュか、それは「深夜特急」で沢木耕太郎がこのフェリーに乗ったから。そして美味そうにサバサンドを食べていたからだ。フェリー代は3リラ。

結構大きな船。車も運ぶようだ。2階へ上がり、キョロキョロすると、売店があったが、残念ながらサバサンドは売っていない。仕方なくパンとチャイを注文。潮風に吹かれながら気分を出そうとしたが、ちょっと違ったかな。

対岸まで15分程度だが、ボスポラス海峡の雄大な景色、きれいな風景が見られて満足。これでようやくアジアが少しは味わえるかと思ったが、うーん。対岸、アジア側もアジアとは名ばかりで、やはりヨーロッパの雰囲気。ターミナルから高台へ上がってみたが、石畳の街並みはヨーロッパ。そして何故か、アコーディオン弾きが登場し、誰もいない住宅街で悲しい音色を響かせる。

ターミナルへ戻り、バスのチケット売り場を覗く。当然ここからバスに乗ってみたくなる。沢木はアンカラからここへバスで辿り着いたのだ。バス会社は沢山あったが、「カッパドキ」行きを見付けるのに苦労した。チケットは65リラ。明日夜9時にここに来い、ここから別のバスターミナルへ行き10時過ぎに出発、翌朝8時カッパドキア着だ、と乱暴にわれるが、言葉があまり通じないので取り敢えず押されて買う。後にホテルで聞くと、ホテルで買えばホテルまで迎えに来てくれたのに、と残念そうに言うが仕方がない。

そして特にすることも無くなり、ハレムカラジュを離れる。元来たフェリーで戻る。何となく寂しいアジア散歩となる。

サバサンド

ヨーロッパ側に戻ったが、どうしてもサバサンドが食べたくなる。またガラタ橋まで歩いて行く。橋の向こう側にはサバサンド専用の小舟が三艘停まっており、大勢のお客で賑わっていた。

1つ5リラでサバサンドを買う。周囲にも香ばしいサバの焼けるにおいがする。焼サバをパンに挟むだけ、後は玉ねぎとレタスが入るぐらいの簡単な食べ物がどうしてここまで美味しいのか。近くの丸テーブルに腰掛けると、若者がやって来て、あっちへ行け、という。どうやら3軒の店に縄張りがあるらしい。どこが美味いのか比べてみたい。

ようやく買った店の丸テーブルに座り、食べ始めると、向かいで食べていたオジサンが黙ってピクルスを差し出す。有難く頂く。何て親切なんだ。これがトルコ人か。このピクルスの酸っぱさがまたサバに合う。良く出来ている。更にはテーブルの上に2つのボトルが。1つはドレッシングだが、もう1つは塩。トルコ人は塩好きだと聞いたが、確かに盛んに塩を振る人々がいた。我々には十分塩気のあるサバサンドに更に塩を振る、健康に悪そうだ。

それから歩いて、イスラムのマーケットへ行く。ここにお茶屋があると聞いたので行ってみたが、言葉が通じない。リゼのお茶、チャイクルのお茶が置かれていたが、それ以上は分からなかった、残念。


   

トルコ名物延びるアイスクリームにも挑戦したが、味はそれほど良いとは言えない。何だか5リラも取られて、損した感じだ。それならサバサンドをもう一つ食べた方が良かった。

9月22日(土)   気持ちの良い屋上で朝飯

翌朝はいい天気だった。こんないい天気に1階の暗いロビーで朝食というのも何だなと思っていると、このホテルには屋上があることが分かり、パンとサラダを持って狭い階段を上がる。

ビルが小さいので屋上も狭い。だが、ここからもマルマラ海が一望でき、素晴らしい景色が広がっていた。昨日の雨でテーブルとイスは少し濡れていたが、気にならない、それくらいいい気分になってしまった。

この環境で食べる朝飯、美味い。昨日と全く同じメニューなのに、何故か味が全然違う。人間は一体何を食べて味覚を感じるのだろうか。食物だけではなく、空気も一緒に口に運ばれ、更には視覚でも食べていることが良く分かる。

良い空気を吸って気分爽快になったが、旅はそうそう良いことばかりではない。当初はドミトリーを一人で占拠していたが、昨日部屋を替わると、物凄く狭い所となった。ドアを開けるとベッドとぶつかる、シャワーとトイレはほぼ一体。これがイスタンブールの格安ホテル事情だ。

それでも小さな窓の向こう、隣の屋根に泊まる鳥、何だか小さく救われる。早々に部屋をチェックアウトして、街へ出た。

オリエント急行の終着駅

昨日同様歩いて海峡付近へ。駅があった。気になっていたので今日は行って見る。シルケジ駅、1890年に駅舎が完成したあのオリエント急行のトルコの終着点であった。なかなか雰囲気のある建物。

オリエントエキスプレスという食堂がある。こんな所で食事をすると気分が出そうだ。飾り窓のある待合室もある。相当に暗い中、光が窓から差し込む。いい雰囲気がある。最近オープンしたという博物館には鉄道関連の展示物がある。

あのアガサクリスティが『オリエント急行の殺人』を発表したのは1934年。アガサは夫の仕事に同行して何度もオリエント急行に乗ったというが、やはりここに到着したのだろうか。ヨーロッパ人のオリエントへの思い、憧れが詰まっている街、それがコンスタンチノープなのだろう。

周囲には沢山の人が、低い椅子に座り、チャイを飲んでいた。この仲間に入りたかったが、何となく入りかねた。そこには常連だけが許される何かがあるような気がした。駅舎の外壁工事も進んでいる。

駅に新しい電車が入って来た。今はイスタンブール付近を走るだけのローカル列車。今でもブカレストやベオグラードへ行く国際列車も運行しているようだが、とてもそんな感じはしない。静かなローカル駅である。





トルコの茶畑を訪ねて2012(2)イスタンブール 歴史の街に圧倒される

9月21日(金)  地下宮殿

ビールを飲んだせいか、旅の疲れか、夜はぐっすり眠れた。気候がちょうど良かったのかもしれない。朝はすっきりと目覚める。朝食が1階に用意されていたので、食べる。パン山盛り、トマト、キュウリなどのサラダ、そしてチャイ。実にシンプル。この朝食はコンチネンタル。昔スイスで食べたなあ。アジアから来るとちょっと寂しい。

そして出掛ける。昨日は夜でよく見えなかったが、直ぐ近くにブールモスクがあり、この付近が観光の中心であることが分かる。Tさんから「先ず見るべきは地下宮殿」、といわれたので、地下宮殿へ行く。

確かにここは見るべき価値がある場所だった。何とも神秘的なライトが照らされ、地下の水が張られた所に無数の柱が並ぶ。幻想的というか、神秘的というか。しかも静寂が一層周囲を際立たせる。だが、ここにも中国人観光客、団体さんがいた。この人々は写真を撮りまくり大声で話す。声が地下に反射する。うーん。

それでもまた静寂が訪れる。じーっと柱を眺める。流石オスマントルコ。地下から出てきた時には一瞬頭がくらっとした。この威力は凄かった。

雨の誘い

続いてすぐ隣のアヤソフィアを見学しようと思ったが、かなりの人が並んで待っていた。どうしようかと思っていると、「ハロー」と声を掛けられた。そこにはイギリス生まれの女性が立っていた。気さくに話し掛けて来たので、こちらも調子を合わせていると「チャイでも飲みに行かないか」という。何となく変な気はしたが、まあトンデモナイことにはならないだろうと思い、付いて行く。

彼女は自称デザイナー。自分の作品が近くに展示してあると言い、そのお店へ。私にはジュエリーなど興味はないので、立ち去ろうとしたが、チャイを飲もうと言われ、そのままこぎれいなレストランへ入る。するとなぜだろうか、雨が降り出した。

雨のせいか、取り留めのない話をする。欧米人は取り留めのない話が得意だと思う。日本人はすぐに話にオチを付けるなど、意味を持たせようとするが、こちらでは本当に何でもない話をずっとしている。きっと雨のせいだ。チャイは小さなカップに入って出てきた。ミルクは入れない。砂糖はお好みで入れる。私は入れずに飲んだ。ちょっと苦い。

雨が上がり、外へ出る。彼女は旅行会社を紹介するという。彼女の狙いは分かっていたが、それは断った。彼女もしつこくはしない、不思議な女性だった。

グランドバザールへ両替に

アヤソフィアは午後行くことにして、Tさんから聞いたグランドバザールへ行く。歩いてトラム2駅だ。目的は買い物ではなく、両替。空港の両替レートは悪いので、最小限しか両替しなかったのだが、グランドバザールのレートがイスタンブールで一番良い、との情報だった。相変わらず小雨。道では若者が傘を売っている。それも一人や二人ではない。雨が降ると何処からともなく表れて、売っている。何だか中国の観光地を思い出す。安かろう悪かろう傘だが便利な時もある。

ここイスタンブールのグランドバザールは世界でも最大級のバザールだ、と以前新疆ウイグル、ウルムチで聞いたことがある。ウルムチの大バザールもかなり広かったが、ここは確かにそれよりも広い。まるで迷路のようだ。http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4611

絨毯、スカーフなどを売る店が多く並ぶ。巧みな日本語で声を掛けて来る者もいて、日本人沢山来るのだろうと想像した。私がついつい目を奪われたのが、きれいなチャイを飲むカップ。小さくて、色とりどりで、欲しくなる。また茶葉にも目が行く。紅茶以外にも緑茶あり、各種のフレーバーティもあった。

そして何よりも、そこらじゅうで皆がチャイを飲んでいる。欧米人はおしゃれなカフェで、トルコ人は店先で、また立ったままカップを手にしている人さえいる。チャイ屋ではひっきりなしに機械でチャイを作り、ボーイがお盆に乗せて運んでいく。ボーイが通ると声が掛かり、また運んでいく。こうして一日中チャイを飲んでいる。これは凄い、楽しい。トルコ商人の商売は先ず客を捕まえ、座らせ、そしてチャイを振舞う。そして客を釘づけにしてから商談をする。観光客もこの攻撃に遭い、あちこちでチャイを振舞われている。「チャイ飲みますか」「絨毯買いましたか」はトルコの合言葉だ。

両替商のレートは確かに空港よりはかなり良かった。いくつもある店を物色し、一番良いレートの所で替えた。ここでは米ドル、ユーロが主要通貨であり、円はそれほど重要ではない。よって店により相当にバラつきがあるので注意。

少し腹が減ったのでバザール内でケバブサンドを食べる。これはなかなか美味。あのドネルケバブをパンに挟むだけだが、肉がジューシイでよい。ただ値段は7リラ。日本円では280円ぐらいするので、安いという訳ではない。バザールの中庭は実にヨーロピアン。庭を眺め、ケバブを食う。

アヤソフィアに圧倒される

午後は予定通りアヤソフィアへ。午前中程の行列もなく、スムーズに入れる。アヤソフィア、古くはコンスタンチヌス帝の時代、紀元360年に最初に建造されたキリスト教の教会。その後オスマントルコ時代にモスクに改装され、ミナレット(塔)が建てられた。その際にキリスト教時代のモザイク画が漆喰で塗り込められたが、トルコ共和国になり、博物館として開放、漆喰もはがされ、モザイク画も復興。ビザンチン様式とイスラム様式が混在する歴史的な建造物として世界遺産にも登録されている。

巨大な建物内に入ると何と言っても圧倒される鮮やかなドーム。この光景は言葉では表現し難い。ただただ素晴らしいとしか言いようがない。高い天井、教会のような窓飾り、豪華なシャンデリア。もしここでミサが行われれば、信仰心の熱い人は感激するに違いない。2階に上ると、階下の全貌が明らかになり、これもまた見応えがある。

そして2階にはモザイク画がある。画の上だけが見えるなど、修復は完全ではないが、それだけリアリティがある。鮮やかに蘇る、という言葉が相応しいのかもしれないが、敢えて不完全に蘇る、と言いたい。写真のフラッシュを焚かないようにとの注意書きはあるが、守っていないのは中国人か。

十分に広い堂内を巡り、外へ出ると晴れてもいないのに何となく眩しい。周囲にも建物や塔があるが、もう十分と思い、出口へ向かう。やはりこの都市には他にはない何かがあるような気がした。