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豊原・台中・鹿谷散歩2016(4)茶業検討会に参加して

114日(金)

翌朝は腹が一杯だと言いながら、朝飯を食べている自分がいた。食事が付いていると食べてしまうのは何ともだが、これも仕方がない。もったいない精神が発揮されてしまう。さすがに腹ごなしに散歩が必要と判断して、フラフラと歩きだす。地図をもらい、取り敢えず駅まで歩いて行ってみた。

 

ホテルから15分ほどかかったが、道はそれほど複雑ではなく、人通りのほとんどない繁華街を通り抜けた。豊原駅の正面は既に使われておらず、台中駅同様、改修工事がされていた。街全体としても、それほど歴史的な建物を見ることはできない。しかしだからと言って、凄く発展しているとも言い難い。この辺が面白いところかもしれない。

 

11時過ぎにジョニーが迎えに来てくれた。今日はこれからジョニーが教鞭をとっている中興大学で茶業の検討会があると聞き、私も特別に参加させてもらうことにしたのだ。その前に腹ごしらえと、また食事に。ホテルのすぐ近くにあるスワトウ牛肉店。ここの牛肉、麺に入れても、炒め物にしても、何ともうまいので、また食べてしまう。実はこのお店、彼の店の従業員の実家なのだが、彼は身分を明かさず、さらっと食べて金を払った。この辺の心配りがジョニーの素晴らしいところだ。

 

 

3. 中興大学
検討会に参加する

 

車は高速道路に乗り、台中市内を少し過ぎて降りた。20分位で、中興大学に到着。何だか広々とした南国のキャンパスに、古めかしい校舎。実はこの検討会、学内の小さな集まりだと勝手に思い込んでいたのだが、会場に入ると違っていることに気が付いた。中興大学の教授陣は勿論だが、農業委員会の幹部や茶業改良場の陳場長をはじめ、そうそうたるメンバーが登壇するというので、驚いた。これは台湾全体の茶業の将来を検討するための会だったのだ。そんなところに外国人が入ってもよいのだろうか。

 

ジョニーの店の人々もやってきて、お茶を並べて宣伝している。昨日の吉時好茶の店長もこの大学の卒業生であり、茶に興味を持っているので、ここにいた。大学内で、茶に興味がある若者が作り出したお茶なども展示されており、興味深い。この大学は本当にお茶に対して熱心なのだった。教授陣も生育から土壌、製茶など様々な専門家がいた。

 

会場のホールには聴衆が沢山詰めかけていた。その中で会は進行し、プレゼンターがPPTなどを使い、発表していく。その命題はずばり、台湾茶の将来、生きる道であった。フランスのワインを持ち出し、きちんとルールを決め、等級や産地などをはっきりさせるべきとの主張もあった。アメリカで何十年も台湾茶を商っている華人からも、もっと売り込みに力を入れる必要性が強調された。

 

我がジョニーも自らの取り組みを紹介しながら、方向性を説くが、時間が10分では語り切れない。もう一人のお知り合い、林和春さんは、『茶業の機械化』を如何に進めるかを説く。高級茶を作るだけでは問題は解決しない。ベトナムなど海外から輸入される茶葉の量を考えれば、低コストで大量に茶を作ることも重要なのだ。きれいごとだけでは政策は打ち出せないし、本当の問題解決にはならない。

 

台湾がこれだけ輸入茶葉を入れているのなら、いっそドイツに倣って、アジアの茶葉集積地を目指すべきとの意見もあった。こんな発想、日本ではできないだろうな。慎重に検討するものよいが、各自が思うところを述べて行くのが面白い。まあ、まとまりがなく、ただ言い合うだけ、との意見もあったが、実に参考になった。会場からも積極的な意見が飛び出し、作り手である茶農家と政策選定を迫られる行政の差も感じられる。最後に私の横に座って聞いていた、ジョニーのお父さんが突然皆に紹介され、大きな拍手を受けていたのは、やはり彼が偉大な存在だからだろう。

 

会が終了すると、別室にご飯が用意されており、自由に食べてよいというので、食べさせてもらった。集まった知り合い同士が、ここでも活発に意見を交換している。日本に比べれば順調にも見える台湾茶業だが、やはり多くの問題を抱えており、簡単に解決できる道はなさそうだった。茶葉が売れないのか、売れる茶葉が無いのか、どの国も同じような問題に直面している。

 

ジョニーの車で台中駅まで送ってもらい、ホテルに入った。彼には本当に忙しい中、最後まで面倒をかけてしまった。駅前のそのホテル、安い部屋でいいというと、窓のない部屋になったが、何となくそこのベッドはカプセルホテルのようで、面白い空間になっていて、楽しめた。なぜかスナックが無料で置かれており、それをぼりぼり食べながらテレビで日本のドラマを見ているうちに寝入る。

 

115日(土)

翌朝はホテルの朝食を食べ、出発した。鹿谷へ向かう。そのバスはどこから乗るのかと聞くと、ここから歩いてちょっと行ったところと言われ、荷物を引きずって向かう。干城駅というから、ちゃんとしたバスターミナルかと思ったら、その辺にいくつかのバス会社が点在しているだけだった。その中で台湾好行のバス停を見付けて、待っているとバスが来て何とか乗り込んだ。以前高鐵駅から乗ったことがあるので、ここまでくれば大丈夫だ。1時間半ほどしてバスはいつものバス停に着いた。

豊原・台中・鹿谷散歩2016(3)新しい茶の形

そして草悟広場という、ビルの間の広場へ行く。地下に入るとMUJIが店を出していた。そこへ入っていくと、何ともきれいなお茶スタンド?があった。ここはジョニーが最近作った『吉時好茶』というお店だった。完全なオープンスペースに、若者が二人、お客の好みを聞き、試飲させている。気に入った客は、それをオーダーして、テイクアウトしていく。

 

茶のラインナップも、梨山をはじめ各地の烏龍茶、紅茶が10種類以上ある。お客はホットかアイスを選ぶこともできる。店で飲みたければカウンターに座ることもできる。料金は130元程度と、普通のテイクアウトスタンドよりはかなり高い。だが私がずっと見ていると、殆どお客にいない平日の午後、MUJIに入ってきた僅かの客、20-40代の女性の多くが、ここに目を止め、足を止め、試飲していた。試飲した客の多くが実際に味を確かめて購入し、テイクアウトして、広場でお茶を楽しんでいた。この気楽さと、お茶の味が分かるところが、台湾の希望だと感じた。この世代、美味しければお金は出てくるのだ。

 

ここで働く若者は、ジョニーの大学の教え子だ。彼は忙しい中、大学で茶、特に評茶の講義を行っており、その内容に憧れて茶業を目指す若者を積極的に登用していた。この店を出した意味、それは台湾の茶業の将来を考える上で重要だったと思われる。お茶の知識を備えた人がちゃんと淹れてくれる茶を気楽に飲める場が必要なのだろう。若者も世界の茶については興味津々、お茶の輪が広がっていく。

 

何故ペットボトルの茶飲料が流行るのか。それは便利だからだろう。価格もそれほど高くはないが、もし家で普通のお茶を淹れたら、その方が安い。リプトンのティバッグを見れば歴然だろう。この手軽なお茶を求める層に合うお茶が提供されていないと、と感じることが日本でもある。スターバックスのコーヒーをテイクアウトする層に合わせたお茶があってもよいと思うのだが、どうだろうか。

 

林さんが買ってきたプリンを頂く。このプリンに合うお茶はどれだろうか、などと考えながら食べるのだからすごい。ある意味で遊びながら真剣に考える、現代スタイルでよいと思った。店長は今頃昼飯の弁当を食べている。みんなすごく真面目なんだな、と感心する。チーズケーキまで食べ終わって外へ出る。因みにこの店で外からの持ち込みが可能かどうかは知らない。

 

台中の歴史的建造物、ということで、旧台中刑務所演武場へ行く。この建物は1937年に創建され、柔道や剣道が行われていたという。裏手には完全和式の建物があり、縁側でお茶が飲めるスペースになっていた。庭を見ることも出来、なんか日本に居るような気分にさせられる。戦後は官舎として使われた様だが、90年代に監獄は移転し、一部を除いて撤去された。更には1999年の大地震で損傷を受け、その修理をしようとした矢先に火事にもあったという。それでも我々の前にその姿を見せてくれていることは、何か歴史の因果だろうか。

 

そろそろ豊原へ帰るのかな、と思っていたが、もう1つ行きましょう、と言われ、ついていく。そこは巨大な建造物。『実はこの設計は日本人がしたんですよ』というではないか。伊東豊雄と名前を言われても恥ずかしながら、全く知らなかった。台中国家歌劇院、伊東氏が6年もの歳月をかけて作り出したものだという。その外観がやはりインパクトがある。杯の形だろうか。

 

中に入ると、広い空間、高い天井、全てが曲線に包まれている感じだ。しかもその曲線がすべて違ったものに見えている。実に柔らかく、包み込まれる。5階に上がると、特別の空間があり、15分間、その中でクッションに座り、ただぽっかりしていた。何もしていないのに、癒される感覚を得ている。伊東氏は既に75歳だというが、どこからこんな感性が出てくるのだろうか。既に頭の固くなった私には想像もつかない。屋上も庭園になっており、心地よい。日が暮れるとライトアップが美しい。林さんも『日本の設計は素晴らしい』と喜んでいた。

 

暗くなって豊原の店に戻った。夏休みに一日外で遊んでいた子が家に帰ってきたような心境だった。店では、1970年代の梨山の写真などを見せてもらい、ジョニーのお父さんたちが梨山の高山茶の基礎を作ったことを勉強する。既にあの高山で4日も過した経験があったから、それが如何にすごいことかをひしひしとかみしめた。茶業というのはある意味で本当に恐ろしい産業だ。

 

出張からジョニーが帰って来た。車ではなく高速鉄道で行ってきたようだ。豊原には高鐵は通っていないが、やはりこれが一番早いらしい。疲れているだろうに、ジョニーはまたも夜市に連れて行ってくれた。悪いとは思いながらも、夜市には行きたい。えびのたっぷり入った肉圓を頬張り、懲りずにさらに肉丸へ突撃する。肉丸を食べ終わると、そこにスープを入れて飲むのが美味しい。

 

一気に腹が一杯になり、すぐに降参となってしまった。だがジョニーはそれならデザートを、と更に勧めてくれる。パイナップル氷+杏仁露、これまた何とも言えない味だった。いくらでも出てきそうなので退散したが、他にも大勢が並んでいて食べられないものがいくつもあったから、次回またリベンジするべし。車で宿まで送ってもらい、腹が苦しくてしばし眠れず。

豊原・台中・鹿谷散歩2016(2)無理やり豊原の古跡へ

113日(木)
豊原の古跡

 

翌朝はゆっくりと起きる。ホテルに朝食が付いているので、ビュッフェから粥とスープを選んで、もぐもぐと食べる。今日ジョニーは台北に日帰り出張。彼は本当にとても忙しい人なのだが、そんな顔を見せずに相手をしてくれるので、嬉しい反面、申し訳ない思いだ。今日は彼の部下の女性が豊原を案内してくれるというので、お言葉に甘える。

 

林さんは大学を卒業して、斗六で働いていたが、地元の豊原に戻って来たらしい。英語も出来るので、私の案内を命じられたらしい。それでも私の要請する、豊原にある歴史的な建物、というテーマには完全に首を傾げるばかり。運転手も一緒になってどこへ行くんだ、としきりに相談している。豊原は日本時代も木材の貿易などで栄えた街、と聞いていたので、古くてよい建物が残っているはずだと思い込んでしまっていた。

 

まず連れて行ってもらったのは、街中のお寺。慈済宮という名前のその寺は確かに歴史を感じさせた。ただ案内を見ても『創建年代は非常に古く、史料は存在しない。清の雍正年間にはすでにあった』と書かれている。これには好感が持てる。中国大陸の歴史的建造物などは、本当にそんなに古いかな、と疑いたくなるような説明を時々見かけることがあるが、分からないものは分からないと言った方がすっきりする。但しこれは台湾には文献などがあまり残っていないこともはっきりと示しており、台湾茶の歴史を追っていく困難をも感じさせる。

 

お寺の中は平日の午前中でも誰かがお参りをしており、線香のにおいが立ち込め、煙で周囲が霞む。航海の安全、などという言葉も出てくるので、往時は豊原から大陸に渡る、いや往来する人や物資の安全を祈願したのかもしれない。横に立つのが廟東夜市。ここが昔からの豊原の中心地であることはよくわかる。

 

一度店に顔を出し、再度どこへ行くか相談する。店の周囲は午前中露店市が立ち、車の通行などは出来ない。店の前も露天商に占拠され、看板も見えない。泉芳茶荘の歴史もそれはそれは長いのだろう。創業から約100年経つというが、店の場所は変わったのだろうか。勿論今の店は改装されてきれいになっているが、何とも街に溶け込んで、ひっそりと営業しているように見える。

 

車は郊外に進んだ。家々が連なる中に、萬選居と言われる古い建物があった。相当広い四合院作り。空が突き抜けており、北京などとは違って解放感が凄くある。ここは岸里社の家の邸宅。元々は潮州客家の張達京が台中の開拓で成功を収め、地元民にも慕われてこの地に定住、その子孫が1873年に作ったのがここらしい。921地震で一部が壊れ、2004年に修復されたとある。過去にも広東客家の家をいくつか見たことがあるが、これだけの規模の、これだけしっかりした作りのところはなかった。往時張家が如何に繁栄していたかを物語っている。因みに張家は今も台中で、バスや金融などの事業を行い、先代は台中市長も務めたと聞く。

 

帰りがけに、立派な門のあるお屋敷にも立ち寄った。確かにここは普通の家ではないな、と感じさせるものがあったが、立ち入り禁止とのことで、中に入ることはできなかった。隙間からちょっと覗くと、相当広い日本的な?庭があるようだった。そしてこの家の歴史などについても、何の表示もなく、分からなかった。今後保存の対象にするため、現在非公開なのかもしれない。

 

昼ご飯は街中に戻り、赤肉羹麺と魯肉飯を食べた。豊原でもここが有名で美味しい、ということ態々連れてきてもらった。この両方をいっぺんに食べたのだから満腹となる。豊原というところは昨晩の夜市と言い、なぜこんなに食べ物が美味いのだろうか。普通はお金の集まる所に、美食も集まると言われるが、台湾の場合、特にB級グルメ、屋台料理が美味いのには、他に理由があるはずだ。これは十分に研究の対象となる。

 

台中へ

豊原にはそれほど見る物もないということで台中へ向かった。元々彼らが立ててくれた予定は台中行だったようで申し訳ない。豊原と台中は車で15分程度だから、豊原も台中の一部と言えば、そういえるかもしれない。だから日本人で豊原に泊まる人などいないのだ。まずは台中の高級住宅街へ車が入っていく。

 

なぜここに来たのか、と思ったら、林さんは面白い洋菓子屋さんに入った。正面の出入り口から中を覗くことはできずに、まさかそこに入り口があるとは分らなかった。中には美味しそうなケーキやプリンが並んでいる。『ここのプリンが美味しいんです』と買い込む林さん。けげんな表情の私に『ここが私の元の会社なんです』と説明する。実は彼女は斗六の菓子会社で広告の仕事をしており、ここは台中店なのだという。正直斗六という街にはいったこともないが、こんなおしゃれない店を作る若者がいるのであれば、興味が沸いてくる。機会があれば行ってみよう。

豊原・台中・鹿谷散歩2016(1)豊原 廟東の夜市

【豊原・台中・鹿谷散歩2016】 2016112-7

 

9月末に台北に行ったが、完全に消化不良となっていた。私には何となく台湾が必要だと感じられることが増えている。もう一度、しかも少し長期間、台湾へ行き、出来れば一周するぐらいの勢いで、茶産地を回ってみたい衝動にかられた。そして出来うるならば、来年度の足掛かりを見付けたい、そんな思いで、再び台湾へ赴いた。

 

112日(水)
1. 豊原まで

今回は台北ではなく、台中の少し北にある豊原にまず足を向けることになった。一か月前に予約したエバ航空は格安だった。前回LCCを使って、台風の影響もありその遅れに疲れ果てたので、今回のエバは全てにおいて快適に思えた。LCC、チケットは安いが、荷物を預けると急に高くなる。成田桃園は台北へ行くには不便だが、南へ行くには都合がよい。機内サービスもよく、日本の映画を見ていると、なぜか茶畑まで登場した。

 

フライトは定刻の5時には桃園空港にランディングした。入国審査は昔ほど並んではいない。これも大陸団体客減少のお陰だ。税関もスムーズで、両替をして、シムカードを購入する。既に完全にルーティン化された行程を進む。そしてバスのチケット売り場で『豊原へ行く方法』を聞くと、『桃園駅までバスで行き、そこから台鉄かな』と言われたので、ちょっと首は傾げつつも、その路線にしてみた。チケット売り場の女性は親切にも『桃園行きは路線バスだからお釣りが出ない』と言って、わざわざ小銭を両替してくれた。この辺が台湾らしい。

 

何故売り場の女性が桃園駅を勧めたのかは、乗り場に行って分かった。高鐵駅行は長蛇の列ですぐに乗れなかったのだ。桃園駅行きは空いていて、すぐに乗り込めた。しめた、これで余裕だと思ったが、それはそうではなかった。何しろ桃園駅までいくつものバス停に止まり、渋滞にはまり、何と50分以上かかってしまったのだ。

 

実は18:46桃園発の自強号に乗れば、20時過ぎに豊原に着くことが分かっていた。17:50過ぎに乗り込んだバスは、何と18:43に駅に着いたのだ。運転手にも事情は話していたので、彼も荷物を取り出すのを手伝ってくれ、『走れ』と激励してくれた。まるで青春ドラマのように駅の階段を駆け上がった。改札を見ると自強号はなんと3分到着が遅れており、無事に切符を買い、ホームに着くと電車が来るというドンピシャなタイミングになっていた。

 

正直足がつりそうになりながら車内に入り、席に着く。しばらくは息が上がったままの状態で、携帯に見入る。それにしても自強号に乗るのは何年ぶりだろうか。豊原には高鐵が通っていないので、幸運にもこれに乗れたのだ。後で見てみると、もしこの自強号を乗り損なっていたら、次の列車は1時間以上後だったから、あの走りは絶対に必須だったのだ。神は見捨ててはいない。

 

2. 豊原
廟東の夜市

豊原駅は何だかきれいに改装されていた。出口も恐らくは元の裏口にあたるだろう。ここに来た理由はジョニーがいたからであり、電話して迎えに来てもらった。彼とは昨年偶然にも豊原で知り合い、その次は梨山の頂上で再会した仲だった。しかし私は豊原をよく知らないので、一度ちゃんと来てみたかったのだ。

 

前回の滞在時間はわずか2時間程度だったのだが、その前は確か1990年。26年前にゴルフで来たことがあったきりだった。その頃は台北に駐在しており、当時有名だったプロゴルファー、涂阿玉がキャディをしていたゴルフ場として、豊原CCに行ってみたということだったと思う。因みに涂阿玉は日本で58勝、賞金女王4回、永久シード選手になっているが、今はどうしているのだろうか。意外と豊原にいたりして。

 

車で彼のお店、いやお母さんのお店である泉芳茶荘へ。いつもM先生から、『お母さんは私の師匠ですから』と聞いていたので、こわごわ入店。お父さんもおられ、にこやかに挨拶を交わす。ジョニーの奥さん、お子さん、近所の常連さんもいて、賑やかだった。ジョニーが夜市へ行こう、と誘ってくれたので、歩いて夜市へ行く。そこは廟東という場所だったが、細い路地を入る、一見小さな場所だった。

 

しかしその熱気、人込みは凄かった。豊原がこんなところだとは夢にも思わなかった、と言ってよい。もっと寂れた街だと勝手に思い込んでいたんだが、それは間違いだった。しかもジョニーが勧めてくれたその食べ物は異常に美味かった。肉粽、雲吞湯などをかき込むとすぐにお腹が膨れてしまったのは、何とも残念。ここで明日も豊原に泊まるという決意を固める。こんなことは稀なのだが。

 

店に戻るとジョニー母が、お茶を並べて、『さあ、どれが好き?』と聞いてくる。この指導方法はM先生から聞いていたもので、生半可な回答は許されない。私にはテースティング能力などないので、自分が感じたままを答えた。それがよかったのかどうかは全く分からないが、今日の授業はそれで終了した。

 

夜も遅いのでジョニーが予約してくれたホテルに連れて行ってもらった。ここは日本人の出張者なども泊まるホテルらしく、随所に日本語があり、日本語のテレビも見ることができた。何だかもったいないぐらいの環境を得て、大満足。長い一日は終わり、早々に寝入る。

苦難の台北散歩2016(5)大渓の老茶廠

5. 大渓

鶯歌から一駅乗って、桃園に着く。ここは桃園空港からはかなり離れている。初めて降りた。ここから台湾好行バスに乗り、大渓の老茶廠へ行ってみることにした。先日は三峡の老茶廠行きを失敗したので、こちらでリベンジを。桃園駅前からバスターミナルまで2-3分歩く。駅前にあるレストランが、ベトナム語、インドネシア語、タイ語などで溢れている。そんなに出稼ぎできている人が多いのだろうか。興味深い。バスは午後1時半発が最終だった。それに乗り遅れれば茶廠へ行くことはできないらしい。

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台湾好行には一日150元乗り放題というチケットがある。私が係員に老茶廠往復というと彼は無言でこのチケットを切った。ということは片道75元以上するのだろう。1時間以上はかかるらしい。バスは少し遅れてやってきた。乗り込む人は多くはない。観光客なら午前中から来るだろう。何しろいい天気なのだ。

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バスは川を渡り大渓の街を通り過ぎ、更に進む。ちょうど1時間でバスを降りた。だが、ここに茶廠があるのだろうか。数人が降りたので、その人々についていくと、バス停からすぐだった。かなり大きな茶工場だが、何ともきれい。如何にも改修して観光用にしましたという作りには、ちょっとがっかりする。前庭では小さな子供がはしゃいでいる。

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とにかくのどが渇いた。中に入るとそこはショップ。紅茶などの茶葉が売られている。一番端に冷蔵庫があり、お客さんがボトルを取り出して買っている。緑茶100元、決して安くはないが、飲んでみる。とにかくのどが渇いている時は有り難い。冷たいお茶をごくごく飲み干す。

 

更に進んでいくと、製茶体験などができる場所があり、喫茶スペースもあった。反対側へ行くと、製茶場があり、機械なども置かれている。そこの前にこの茶廠の歴史が展示されていた。1899年に三井合名がこの地に茶園を開拓。1926年に角板山茶廠を開設した。戦後改名されたが、1955年に大火災があり、茶産業も衰退。つい最近台湾農林が改修して観光地化したらしい。

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ちょうど見学ツアーが出発しており、そこに重なる。台湾人はこの茶廠を見て、何を思うのだろうか。台湾茶の歴史は輸出の歴史であり、輸出はイコール、日本の外貨獲得政策の一環。大企業である三井が乗り出し、日東紅茶を作り出した。この工場はその主力の1つ。2階は天井が高い。インドやスリランカに見られる大規模紅茶工場だが、1960年代にはすでに国際競争力を失い、衰退している。

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1時間もいれば、もう十分。既に帰りのバスが気になり始める。4時前にバスが来るので、早々に茶廠を離れる。バス停は見付かったが、台湾好行の表示は見えない。周囲を散策するが、他にバス停はなかった。この付近、意外と民家があり、廟があり、ちょっとした店もある。最近できたとも思えないので、昔からこの茶廠と共にあったのかもしれない。

 

バス停には台湾人の若い子たちが待っていたので、その横で待つ。バスはなかなか来なかった。そして乗客も少ない。ところがいざバスが来ると、何と我々の前を通り過ぎてしまった。運転手が何か手で合図していた。これには慌てた。もしこのバスを逃すとどうなるのだろうか。皆で走っていくとだいぶ先にバスが停まり、そこには十人以上の乗客が待っていた。

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何だ、こんなところにバス停があったのか。2つに分ける理由がわからないが、今はとにかくバスを捕まえることだ。幸い乗客が多く、乗り込むことができた。席もあったので落ち着く。大渓の街で降りる人もいたが、私は疲れたので、そのまま桃園駅まで戻る。夕日が川に落ちていく。

 

6. 台北3

台北に戻る。宿まで歩いて行くと、何と顔馴染みの茶荘の夫婦と出くわす。これには驚いた。今回は寄らないつもりだった茶荘だが、後で行くよ、ということになる。腹が減ったので、ワンタンメンを食べる。これから中国へ行くので、ここで洗濯しようと思い、コインランドリーへ向かい、洗濯する。乾燥機までかければ、すぐに完了するのが嬉しい。ついでに昔使っていた携帯電話の故障について、その辺の店で見てもらう。電池が古過ぎるということだが、既に生産は停止しており、台湾では買えないようだ。

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それから新純香を再訪して、私も寄稿している雑誌、月刊茶を寄贈する。台湾や中国なら何とか漢字を頼りに読むこともできるだろう。ましてやこの夫婦は日本語堪能なのでちょうどよい。そして先ほど出会った茶荘、広方圓に歩いて向かう。だがオーナーは急ぎの用事で出かけていた。パイナップルケーキを買い、退散。

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102日(日)
福州へ

翌朝は台湾を離れて、福州へ向かう。桃園空港までバスで行き、厦門航空に乗る。今や台湾から中国へ行くのは簡単だ。ボードを見ると私が乗るフライトの上の便は厦門航空と華信航空のコードシェア便だった。華信航空はその設立時に、少し関わった会社だから、何とも懐かしい。今は中華航空の傘下と聞いている。中台のコードシェア便、昔では考えられない。

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空港のモスバーガーで食事をして、飛行機に乗り込む。CAもきびきびしており、サービスも悪くはない。何より、1時間ちょっとで福州空港に着いてしまった。この距離感、いい感じだ。

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苦難の台北散歩2016(4)快晴の台北散歩

101日(土)
カンボジアから来た人と

翌朝は6時に起きた。今日はカンボジアから知り合いの女性がやってくることになっていた。Yさんとは、沖縄の知り合いを通じて、2年ぐらい前にシェムリアップで会った。会ったと言っても彼女は忙しくて、何と路上で10分話をしただけだった。そんな薄い繋がりの彼女だったが、高雄へ行く用事があり、桃園空港から台北に寄ると言ってきた。

 

午前6時にフライトが到着しても、入国審査、両替、シムカードの購入をして、バスで台北駅へ来るには2時間以上はかかるはずだった。8時前には宿を出て、台北駅へ向かう。実は空港から駅へ来るバスは以前西棟という建物に到着したのだが、数日前に変更されたと聞いたので、それを確認する必要があった。ついでに明日自分が空港へ行く時のバス乗り場も確認する。大型のバスターミナルは駅の北側にあり、そこで聞くと、バスの到着場所は以前と同じ、駅の東だった。

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彼女は大きな荷物を持ってくるだろうかと、地下のコインロッカーの場所を下見して、地上に戻ると電話が鳴る。既に彼女はバスを降りたらしい。劇的な再会となる。彼女は既に高雄(左営駅)行きの高速鉄道を予約していた。知り合いの結婚式に出席するという。まずはそのチケットを窓口で受け取る。パスポートを出すと実にスムーズ。そしてコインロッカーに荷物を預ける。

 

まずは腹ごしらえ。駅前のたまに行く店に入る。土曜日の朝でもお客は結構いて、繁盛している。Yさんがいたので、すぐに日本人として対応してもらえ(笑い)、笑顔で蛋餅と豆乳を勧められた。Yさんも美味しいと喜んでくれた。台湾の朝ご飯はやはり蛋餅だな、と思う。でもサンドイッチもおにぎりも、いい物は色々とある。それは是非高雄で食べて欲しい。

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お腹が一杯になると散歩に出た。それにしても今日はいい天気だ。カンボジアから来ればそれほど暑くはないかもしれないが、東京から来た私には日差しが強い。駅前から歩いて二二八和平公園へ出た。Yさんにとっては初めて聞く事件だろう。昔はこんな公園はなかったのだが、いつの間にか公園になっていたのだ。

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総統府の前へ出た。この付近の建物の多くは、歴史的建造物であり、壮観である。今年亡くなったエバーグリーンの張栄発会長の財団の建物が見えた。彼は5年前の東日本大震災の日、10億円の寄付をしたとして、最近日本で急激に知名度が上がった人物だ。台湾人が日本で叙勲されることはこれまでなかったが、初めて受賞した2人の内の一人にもなった。私が張氏に仕事で会ったのは20年以上前のこと。

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中正記念堂にも久しぶりに行った。広々とした空間、青空が素晴らしく、感動するほどだった。これまで数十回は来ているが、ここまで美しい空を見たのは初めてかもしれない。記念堂には観光客が集まっていた。気が付くと1時間に一度の衛兵交代式の時間だった。背の高いきりっとした衛兵がびしっと歩き、交代する。護衛時間中はピクリともしない。その辺が人気になっている。

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それから少し歩くともう暑くて仕方がない。飲み物を飲もうと思ったが、適当な喫茶店もなく、スタンドでジュースを買って歩きながら飲む。こういう時は糖分が欲しい。そうこうしているうちに電車の時間が来てしまい、Yさんは荷物をロッカーから出して、急いで駅の改札を入って行った。こんな再会は何とも愉快だった。

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4. 鶯歌

私もどこかへ出かけよう。天気も最高だし。台湾鉄道で切符を買い、各停に乗って行く。鶯歌、陶器の街として名高い。私も10年前に一度来たことがあるが、陶器にあまり興味がなく、その後来る機会はなかった。最近はどうなっているのか、ちょっと寄ってみる。台北から約40分。

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駅前から陶器街までどう歩いて行くのかも忘れてしまった。適当に歩いて行くと、結構古い、洋風の建物があった。昔からあったのだろうが、最近の日本ブームでプレートも嵌められたのだろう。1916年に建てられたらしい。そのまま歩いて行き、陶器博物館を訪ねた。新しい建物で80元もの入場料を取られたが、これといって見るものはなかった。

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その博物館の手前に陶作坊の本店があった。ここには10年前に来た。ちょうど訳アリ品の大セールをやっており、急須など一式買った覚えがある。その時日本まで送ってもらったが、その送料に余りがあれば後で取りに来ると言ったのを思い出す。だがさすがに10年は時効だろう。寄らずに、線路の反対側の陶器街へ。そこにも大きな陶作坊の店が出ていた。

 

鶯歌は有名になり、店舗数は10年前より多くなり、きれいにもなっているが、お客さんはそれほど増えているようには見えない。私にとってはやはりあまり面白い場所ではなかった。時間まで駅前の迷路のような古い街を歩いてみた。昔はこの辺にも工房があったのだろう。

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苦難の台北散歩2016(3)昔を懐かしむ

4.台北2
久しぶりの茶荘で

宿で少し休む。夜はTさんと会うことになっていた。Tさんとの出会いは25年前の台北。彼は駐在していた私の家を探してくれた。お互い若かったな。彼は長らく台湾にいて、それから上海へ。そして何とイスタンブール、モスクワを経て、つい最近台北に戻ってきた。何ともダイナミックなキャリアを持つ人材。東京では何度も会っていたが、台北で会うのは何とも久しぶり。

 

彼は私の宿まで来てくれた。その昔はお互い慣れ親しんだ場所だ。それから食事に出掛けた。何だか昔来たことがあるような路地裏の食堂。日本人も利用しているようだ。牡蠣と油条が美味しい。炒め物も何だか生きがいい。二人では食べ切れないほど、頼んで食べた。いいな、こんな食事。

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そして宿に戻りながら、Tさんが、『新純香へ行きましょう』という。このお茶屋さん、10年以上前はたまに行ったお店だったが、最近は完全にご無沙汰だ。Tさんは日本からお客さんが来るとここを紹介していたらしい。お店は何となくきれいに整理された感じとなっている。入っていくと、日本人観光客が何組もお茶を買うための試飲をしていた。本当に今の台湾は日本人観光客が多い。こんなに日本人を見かける海外は台湾ぐらいではないだろうか。

 

オーナーの王さんと話す。何とこのお店をずっとやっていた王さんのお母さんは4年前に亡くなったと。私はそれほど親しいわけではないが、とても残念に思う。この飲み屋街のど真ん中で何十年にも渡って店を切り盛りするのは色々と大変だっただろう。今や娘の王さんが頑張っている。このお店はお茶の種類も豊富だが、パイナップルケーキやお茶請けが美味しいと人気である。日本語で対応してくれるのも有難い。

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王さんのご主人は日本語の翻訳などもやっているということで、様々なお茶にまつわる話を紹介したいという希望を持っている。私も茶旅について 様々な国の事情についてお話した。台湾の人々はどのようなことに興味があるのか、王さん夫妻は流ちょうな日本語で教えてくれた。我々が話している間にも日本人客はどんどん入ってきて、ちょっと試飲してお茶やお菓子を買っていく。スケジュールぎっしりの旅、楽しいのだろうか。

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9月30日(金)
図書館で調べもの

翌朝は起き上がれなかった。やはり前日の疲れが重くのしかかっていた。台湾ではケーブルテレビが発達しており、その中には日本チャンネルがある。日本の最新ドラマが字幕付きで放映されている。朝ドラ『とと姉ちゃん』は日本で放映が終わったばかりだが、既にこちらでは始まっている。またスポーツチャンネルも充実しており、メジャーリーグも日本のプロ野球も見ることができる。午前中はテレビを見て休む。

 

朝ご飯も食べず、部屋からも出なかった。昼は近所に住むBさんが来てくれて、一緒に麺を食べる。昨晩も食べ過ぎでたのに、なぜか大盛を頼んでしまい、腹がパンパンになる。その後、横に移動してカフェラテを飲みながら話す。この路上にテーブルを出すコーヒー屋さん、今の台北の流行りだ。Bさんはこの5年間、様々なことに挑戦しており、更に挑戦していこうとしている。私は同じようなことの繰り返しになってきている。常に新しいことを目指すのか、一つのことをしっかりやっていくのか、迷うところだ。

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午後は珍しく国立台湾図書館へ行く。ここは5年前に一度調査に来たことがあったが、中和にある、という以外、何も覚えていなかった。調べると南勢角線永安市場駅で下車するとある。駅前に出るとおぼろげながら記憶があり、図書館までは簡単に行けた。実はこの図書館、日本時代の資料が大量に保管されている。6階にその蔵書があるというので行ってみる。

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6階には人は殆どいなかった。係りの人に、どのようにすれば閲覧できるのか、と聞くと、彼女は日本人対応に非常に慣れていて、『どのような内容をお探しですか』と聞き、テキパキと検索してくれた。そしてお茶に関する本があるコーナーまで連れて行ってくれ、台車まで出してきて、『ここに本を乗せて彼方で読んでください』と実に親切だった。私が外国人だとうことはあるだろうが、こんな親切な図書館、これまで出会ったことはない。

 

更にどうしても調べたい人物と会社を探していると、『それではこの新聞のサイトから検索しましょう。恐らくこの手のものは新聞が一番です』と言って、自ら検索してくれた。記事が見付かると、『ここを押すとプリントできますよ』と。実際の調べ物の成果は芳しくなかったが、このサービスには感心する。日本にはこんなこと、有るのだろうか。いつもは憂鬱な調べ物が、気分よくできてしまった。

 

夜は昨日のTさんと待ち合わせて、最近台北に赴任したSさんにところへ行く。宿から彼のオフィスまで歩いて20分、昔の我が家の近くを通り、昔の取引先、昔なじみの人のオフィスの脇も通り、ロイヤルホストやモスバーガーの誕生秘話?に話が及ぶ。最近の台湾しか知らない人には言っても分らないことがTさんと話すと、いくらでも広がっていくから面白い。

 

Sさんにご飯をご馳走になる。Sさんは北京時代の知り合いだが、香港にもご縁が深く、共通の話題がいくらでもある。彼が台北に来るとは思っていなかったが、恐らくはここでは彼の力が発揮されるだろう。その時にはTさんが役に立つかもしれない。何となく楽しみだ。

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苦難の台北散歩2016(2)なぜか三峡老街へ

929日(木)
2. 台北
松山空港へ

5時間ぐらいは寝ただろうか。当然周囲は明るくなり、強い日差しが窓の外に見えた。実は今日は夜まで確定した予定がない。疲れているなら、このまま寝ていてもよいと思ったのだが、まずはシムカードを手に入れる必要があるので、外へ出た。だが、宿の近くの中華電信ショップはまだ開店していなかった。

 

そもそも旅行者用の短期シムを街中のショップで売っているのかも分らなかった。どうせならいつものように空港で買おうと思い立ち、MRTで松山空港へ向かう。ところが文湖線に乗り換えたところで、なぜか電車が止まっている。何か故障があったようで、進まない。あとでニュースを見たら、この日は大混乱だったらしい。この線はいわくつきだ。

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何とか空港に辿り着き、いつものシムを買う。よくわからないのだが、102日に台湾を離れると言ったら、4日間の滞在なのに、3日間用の一番安いシムを売ってくれる。初日は無料だから、ということらしい。これは有り難いし、無駄がない。でも空港を出てMRTに戻ると、またノロノロ運転だ。

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今日はどうしようかと思ったが、今回の旅でちょっと調べてみたいことがあった。それを調べる手掛かりになるかどうかはわからないが、その昔日本時代に三井が作った茶工場が今やきれいに修繕されて、資料館として開放されているらしい。折角だからそこへ向かう。但し1つ問題があった。HPで場所を確認しても、車で来る人しか参考にならない。というか、車以外では行けないのだろうか。

 

台湾の友人に調べてもらうと、バスに乗れば近くまで行けるとの回答があった。文湖線から何とか板南線に乗り換え、最近延長された終点の頂埔駅まで行く。ここは昨年、桃園の茶農家を訪問する際、待ち合わせた駅だった。あれからもう1年が経つ。早いものだ。妊婦に運転させてしまったな。その後無事出産したようだ。

 

3. 三峡
違うバスに乗って三峡老街へ

地上に出て、バス停を探す。道の反対側にバス停があり、頻繁にバスが来ているようなので安心した。私が目指す大寮茶文館はバスで三峡区にある皇后鎮農場まで乗ってそこから歩くらしい。それにしても最近の台湾のバス停は凄い。ちゃんとバスの待ち時間が表示されている。私が乗るべきバスを探して唖然。『67分待ち』、どうするんだ?

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そこにバスが来て、数人が乗り込んだ。バスのフロントガラスには『三峡老街』という表示があった。そこへ行けば何かわかるかもしれない。やはり67分は待てない、と乗り込んでしまった。それにしてもこのバス、どちらの方向へ向かうのだろうか。普通の路線バスのように次のバス停でも停まる。どこまでいくのか。遊遊カードで15元引き落とされただけだ。

 

それから30分ぐらい乗っていると、突然古い街並みのようなものが見え、何人もが降りて行った。私はその次のバス停で突然降りた。理由はない。そのバス停の前には昭和レトロを思わせる看板を大きく掲げた食堂があった。平日の昼過ぎながら、結構客がいたので、入ってみる。

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これは完全に日本の昭和のようであり、日本統治時代を再現していた。店内には森進一のおふくろさん、が流れている。名物は昔風の排骨飯。そして魚湯。観光客相手の店だろうと思っていたが、予想よりうまい。まあ料金は普通よりは高い。今や台湾人は昔を懐かしむことが好きなようだ。

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そこから散歩してみる。この街には一体どのような歴史があるのだろうか。ちょうど歴史文物館というのがあったので入ってみた。その建物自体が歴史的建造物を利用していた。この街には清代に福建省安渓あたりから移民がかなり流入していた。そして1860年代、台湾茶が海外に輸出される段になると、イギリス商人などがここまでやってきて、茶樹を植えさせたらしい。

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安渓と言えば鉄観音の茶産地だから、ここに移住した人々にも馴染みがあったかもしれない。付近の山林の開拓が進められ、樟脳と茶が主産業になっていく。台湾茶は北部から起こった、と何度も聞いているが、この辺の歴史をもう少しきちんと知りたいなと、という気持ちが起こる。三峡茶の最盛期は清末から日本時代の終わりまでだったようだ。茶葉は川を下って、台北の大稲埕、茶葉の集積地から国外へ運ばれた。

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川沿いへ向かう。そこには立派な廟が建っていた。かなりの広さがあり、地元民も観光客も盛んにお参りしている。往時この地区がかなり栄えたという証拠かもしれない。そしてこの付近から茶葉は台北に向かったと思われる。その横から歩いて行くと、三角湧老街がある。三角湧というのが元々の地名らしい。かなりきれいに改修されており、完全に観光地化しているのはちょっと残念。並んでいるお店も観光用なので、さらさらって見て通り過ぎる。

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古い教会もある。台湾に限らないが、100年以上前に山の中まで宣教師がやってきて布教しているのは本当にすごい。三峡は藍染産業も盛んだったようで、その工場跡もきれいになり、公園になっていた。何だか疲れたので、帰ろうと思ったが、どうやって帰ればよいのだろうか。来た時に乗ったバスを探すと30分以上来ない。

 

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また少しフラフラして時間をつぶそうとすると、他のバス停から台北方面を行けるとおじいさんが教えてくれた。ちょうどバスも来たのでそちらで乗り込む。バスは高速道路を走り、あっという間に板橋に着く。ここまで30元だった。ここからMRTに乗れば、すぐに宿へ着く。

苦難の台北散歩2016(1)遅れに遅れて午前4時

【苦難の台北散歩2016】 2016928-102

 

10月に福建省に行くことになった。厦門集合ということで、今回はどこから入ろうかと悩んだが、やはり台北行が安い。そして福州まで飛び、高速鉄道で厦門へ。こんなルートで厦門へ行く日本人などいないだろう。だが、その前には大きな壁が立ちはだかった。

 

928日(水)
1. 台北まで
遅れに遅れて

先週熊本で台風直撃の中、辛くも脱出したばかりだったが、何と昨日は台風が台湾を直撃した。心底思った。『今日ではなくてよかった』と。だが台風の余波はさすがに今日のフライトにも影響を及ぼしていた。桃園空港が混乱しているらしい。確かに前日全便欠航したのであれば、多少の遅れはやむを得ない。

 

今回は安さでシンガポール系のタイガーエアーを選んだ。前回は同じシンガポール系LCCで大失敗しているので、ちょっと不安もあったが、前日夜遅く、翌日のフライト時間変更の連絡があった。11:40発が17:50発と、実に6時間遅れていたが、それでも連絡があれば空港で待たなくてよい。

 

そして当日15時に成田空港に着いてチェックインカウンターへ行くと、ちゃんとチェックインが開始されていたのでホッとした。かなり長い行列が出てきているのも悪くない。カウンターのスタッフを見ていると、実に多彩な顔が見えた。日本人もいるが、韓国人、シンガポール人などが、日本語、英語などを駆使して対応している。一瞬ここは成田か、と疑いたくなるほど。

 

だが、その説明を聞いて驚いた。17:50発の予定が、20:40に変更になったというのだ。都合6時間近く、空港で待たなければならない。彼女らはかなり上手に乗客に説明し、特に文句を言う人もいなかった。LCCだから、台風だから、多少の不便は仕方がない、と皆割り切っているのだ。私も右に倣って大人しくチェックインしたが、何と17時過ぎまでは出国審査も受けられないというから、ビックリだ。これがLCCというものだろう。

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仕方なく、展望デッキへ向かう。これまで何十回と成田空港には来たが、デッキに行くのは初めてだった。飛行機を見ようとしたが、金網が遮っており、あまりよく見えない。ネットの繋がりもここは今一つ。そして何と雨がぱらつく。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。本当に仕方なく、2階の土産物屋を覗く。本屋でも時間をつぶす。

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そして17時過ぎに出国し、席を探して座る。テレビが設置されており、娯楽番組を放送している。くだらないとは思いながら、こういう時はこのような番組をダラダラ見ているのが一番良い。何と3時間も見ていたと思う。そして20時過ぎに、ボードを見に行くと、何と何と、またディレーしている。出発は21:20。桃園空港の混乱は想像以上のようだ。

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ついにコールがあり、飛行機に乗り込んだのは、21時前。疲れ切り、諦めきって乗る。フライトは満員だ。台湾人の方が多い。中にはシンガポールまで乗り継ぐ人もいるのだろうか。私は席に着くと目をつぶる。起き上がるともう着陸態勢にあった。一体今は何時だろうか。果たして台北市内までどうやって行くのだろうか。

 

市内まで

飛行機を降りたのは午前0時半だった。この時間でも結構人がいるのは空港混乱の余波だろう。入国は簡単に済んだが、荷物が出てくるのに時間が掛かった。これも仕方がないだろう。いつもなら両替して、それからSIMカードを買って。だが、もう開いている時間ではない。

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まずは台北市内までのルートを確保する必要がある。いつものバス乗り場へ行くと、簡単にチケットは買えた。深夜でもバスは動いているのだと安心したが、その列の長さに唖然とした。どこが最後尾か分らない。並んでいた台湾人に聞いたら、彼も分らないながら並んでいるという。ちょっと面白くなってしまった。疲れすぎて頭がボーっとしていたからかもしれない。普通ならタクシーを探すだろうに、なぜか列に並んだ。

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当然これだけの列だから、すぐにバスは来ると思った。確かにバスは来たが、乗車人数が限られている。高速走行なので立っていくことはできない。2台目が来ても列は少ししか動かない。3台目が来るま45分はかかった。だが誰一人列を見限るでもなく、勿論不平もない。空港はWi-Fiが完備しているので、皆スマホに目を落としている。どうやら日本の野球、パリーグは日本ハムが優勝したらしい。ハムには台湾のスター、陽岱鋼が所属しており、台湾でも人気があるチームだったので、皆喜んでいるようだ。

 

私がバスに乗れたのは6台目、何と午前250分だった。ずっと立ったままで約2時間、よくも待っていたものだ。それでも私の後ろにはさらに大勢の人が待っている。バス職員が『昨日から2晩徹夜だよ』という声を聴いて、大変なのは我々だけでないと分かる。このターミナルに降りるお客はLCCで来た人が多いから、タクシーには乗らず、安いバスを待っていたのだろうか。何しろバス代は125元だが、タクシー代はその10倍はする。

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午前340分、台北駅に到着。荷物を受け取り、それを引いて、夜明け前の車も殆ど走っていない通りを歩いて行く。午前4時前、ついに予約していた定宿に着いた。ドアは閉まっていたが、中のソファーにおじさんが寝ており、鍵をくれた。何だか目がさえてなかなか眠れなかった。

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埔里から茶旅する2016(26)大稲埕

大稲埕

結局2時間半もクラブにいた。そして別れを告げ、Iさんとも別れた。今日はこれから人に会う予定であるが、その人はちょうど桃園空港に着いた頃だろうか。まだ時間がある、そう思うと足は自然と大稲埕の川べりへ向かっていた。台湾茶業の歴史を語る上で外すことができない場所である。1865年にイギリス人のジョン・ドッドが安渓から茶ノ木を持ち込んだと言われている港である。台湾茶業の創成期、厦門からやってきた買弁、李春生のサクセスストーリーと共に興味深い。そして茶葉貿易が活発に行われ、19世紀後半にはここに茶葉を扱う洋行が立ち並び、台湾茶が欧米に盛んに運ばれていった。日本時代も引き続き繁栄したが、近年台北の中心が東の方に移動したことで、その機能は失っている。

 

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大稲埕は重慶北路から西、淡水側に達するエリアをいう。最近は観光地となった乾物屋街、迪化街などが有名。現在も古き良き台湾の街並みを僅かに残している場所である。淡水河に達する。大稲埕埠頭はよく整備されており、昼間は観光船が発着、夕暮れ時は市民の憩いの場として機能していた。夕日が落ちていく風景をカメラに、いや今はスマホに収めている人が多い。それはなかなかきれいな景色であり、今日はここでボーっとしていれば満足、という雰囲気を十分に感じされるものだった。だがちょうどその時、メッセージが入ってくる。予定より早く面会者がホテルに到着したらしい。

 

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そのホテルはここから歩いて10分ほどのところにあった。フロントで名前を言うとすぐに電話してくれた。ここでは有名人らしい。日本人のMさん。北海道のお茶関係者から紹介された。何となく名前と存在はしていたが、会うのは初めてだった。彼は明日以降、茶葉の仕入れと、製茶体験ツアーのコーディネートのためにやってきたところを捕まえた。私も明日帰るので、絶妙のタイミングだった。

 

Mさんも元サラリーマンでその後独立。お茶で食べていくのはなかなか大変だ、とのことだったが、もう10年以上やっているようだった。私とは台湾や中国ビジネスの体験で共通点が多く、話が弾んだ。各地のお茶屋さん、茶農家も紹介してもらった。それにしてもお茶を本業として、それなりの収入を得ていくことの難しさを痛感する。結局ホテルの食堂でコーヒー一杯を飲み、2時間以上離し続けた。こういう出会いもあるのかと、茶縁の幅の広さに驚く。

 

帰りも何となく歩いていく。途中で寧夏夜市を通りかかり、一度食べようと思っていた肉飯に挑戦。これはまあ言うなれば豚の角煮ご飯。どんぶりご飯の上に、角煮がドーンと載っている感じ。やっぱり私はこういう飯が好きだ。予想以上にボリュームがあって60元、なんとも幸せな気分になる。夜市の他の食べ物も食べたかったが、腹が一杯になってしまい、散歩がてら宿まで歩いて帰る。これで今回の台湾もうまく収まった。

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61日(水)
東京へ

今日はついに東京へ移動する日となった。短いようで長かった今回の滞在。良久へ行き、魚池の紅茶を見、坪林で製茶体験、収穫はあったということだろうか。いつものように台北駅前からバスに乗り、桃園空港へ。それにしても一体いつになったら、空港鉄道は開通するのだろうか。毎回行く度にもうすぐだ、という話になるが、一向に開通しない。これがあればかなり便利なはずなんだがな。まあ、これも台湾、仕方がない。

 

空港に着くと、チェックインカウンターは長い列だったが、これまたいつものようにテキパキと処理されていく。さすがに行きに乗ったシンガポール系LCCは対応がひどすぎたので避け、日系LCCに乗る。搭乗前の腹ごしらえは、なぜかパン屋でサンドイッチとコーヒーを買うという、これまでにないパターンに。やはり飽きてきているのだろうか。しかしパンは日本の方が美味しいと言わざるを得ない。

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フライト時間3時間ちょっとで成田に着いた。今日は61日、昔は衣替えだったかな。今はクールビズの始まりか。成田第三ターミナルからは東京駅行きのバスが僅か1000円で乗れる。バスは夕日を浴びながら、高速道路を走っていき、ちょうど退勤時間の八重洲に到着した。

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そういえば、今回修理できるということで持って行ったPC。ついに修理は出来なかった、既にパーツが生産停止になっていたとの連絡を後から受けた。これを受け取りにまた台北へ行くのだろうか。茶畑行きも何となく中途半端に終わっている。次はいつ行くのだろうか。取り敢えず中国へ行かなければならい。9月以降、早めに再訪しよう。台湾は小さな島だが、お茶に関していくべきところはまだまだたくさん残っている。