遥かハバロフスクに茶旅する2019(6)ハバロフスクを去る

3月18日(月)
ハバロフスクを離れる

ついにハバロフスク最終日。フライトの変更により、当初の午後4時から夜8時の出発となったため、時間はたっぷりとあった。この時間をどう潰すか。まず午前中は体力を温存するため、部屋でゆっくりと過ごした。特に今日の夜は全く予期していなかったハルピンへ行くので、そのホテルの予約などをしなければならなかった。ハルピンの気温はこことそれほど変わらないのは何とも幸いだ。

 

チェックアウト時間を午後1時まで延ばしてもらうが、5分前には電話が鳴り、部屋を追い出された。このホテル、予想以上に居心地の良い部屋で満足。料金は手頃でフロントの対応もよく、おまけに国際電話タダの恩恵にまで預かった。次回来ることがあれば、またここに泊まろう。

 

腹ごしらえはどうするか。カフェも飽きたので、歴史的建造物にあるレストランに入ってみた。だがそこは、ロシア料理店ではなく、中央アジア、アラブ風の店でちょっと驚く。怪しげなウエーターが英語で応対してくれる。ペルメニと紅茶を注文すると、音もなく去っていく。レストランの内装はかなり凝っており、中東に来てしまったような錯覚に捕らわれる。

 

ペルメニも当然、中央アジア風でロシアとは違う。スープ餃子ではなく、中身も羊肉だった。紅茶は立派なポットに入っており、3杯もお替りできる量だった。ウエーターが、突然『スイーツマジックをどうぞ』というから何かと思ったら、綿菓子がサービスされたのにはかなり驚く。なるほど、スイーツマジックか。久しぶりに食べるよな。

 

それにしても外に出ると何だか暑い。これはご飯を食べたせいではない。気温を見てびっくり。何と+12度ではないか。空は快晴ではあるが、どうして突然こんなに暑いのか。慌て着ていたダウンジャケットを脱ぎ、マフラーもバッグにしまい込む。後で調べると、北京は20度以上もあったようで、時々ある春の馬鹿陽気だった。散歩しやすいともいえるが、むしろ暑すぎて汗が出るし、ダウンを持つのも邪魔だった。

 

メインストリートを歩き、レーニン広場を越えて少し行くとディナモ公園がある。ここは戦前、博覧会が開かれたほど大きな広場だ。今は市民の憩いの場となっており、犬を連れて散歩する人が多い。更に進み、大通りから一本入る。ここには何の痕跡もないが、可徳乾三がいた頃は、日本の女郎屋が並んでいた地域らしい。

 

そこで働いていた多くは、天草あたりから売られてきた女性たちで、経営者も同じ九州の人間だったという。九州、熊本・長崎の貧しさ、可徳がここまで出てきた理由の一端もここにあるかもしれない。先日マレーシアのサンダカンに行っても、からゆきさんは天草などの女性だったことを思うと、その厳しさが分かる。また同時に対ロ工作の一環として娼婦が使われたとの見方もあり、歴史というのは本当に一筋縄ではいかない。

 

最後にこれまで行っていない地域に足を向ける。そこにはかなり立派な、大きな建物が続いて建っており、軍関係の施設だと分かる。往時は日本軍の司令部だったところだろう。ハバロフスクは軍事的には極東司令部などが置かれる重要拠点であることは今も昔も変わらない。

 

ホテルに戻り、少し休息する。それから荷物を引き取り、メインストリートからトロリーバスに乗る。あの初日の暗いバスとは異なり、夕日に煽られたきれいなバスだった。最初は乗客がかなりいたが、いつの間に全員降りており、取り残されるが空港は見えない。間違って乗ったかと焦った頃にようやく空港が見える。車掌が『国内線、国際線?』と聞いているように思えたが、答えるロシア語を持ち合わせない。何とか『キタイ(中国)』というと、国際線で降ろしてくれた。

 

空港到着は早過ぎて、狭いロビーで待つ。2時間前になるとようやく航空会社と税関職員がやってきて、チェックインが始まる。前日突然購入したチケット、また間違いはないかとドキドキしたが、何事もなく発券される。乗客はロシア人と中国人が半々、それ以外の国籍はいないように見えた。中国人はこちらにいる親族などを訪ねてきた人が多く、ロシア人はビジネスマンだろうか。

 

空港には何もなく、手持無沙汰に待つしかない。既に本日の全ての国際線は飛び立っており、我々だけが待っている。ようやくコールされ、暗い空港をバスで目の前の飛行機へ。アエロフロートの子会社だというオーロラ航空に乗り込む。機内に入ると私の席に中国人のおじさんが座っていたので、席が違うと中国語で伝えていると、後ろのロシア人男性が私を突き飛ばして通路を進む。ロシア人の中国人に対する感情の一端を見る思いだった。まさかここに日本人が乗っているとは思ってもいなかっただろう、二国間の小競り合いか。

 

初めてのハバロフスクでは、非常に沢山のことを学んだ。まだウラジオストックも残っているので、何としても行かなければならない。今回の教訓があれば、次の旅はかなり楽になるだろう、そう願うばかりだ。

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