遥かハバロフスクに茶旅する2019(2)親切なハバロフスクの人々に救われる

完全に行き詰っていたところ、バスが来たので聞いてみた。予約したホテルのロシア語を持っていたので示してみると、理解はできたようだが、車掌は更に外を指し、トロリーバスと言っているように聞こえた。確かに外まで走っていくとその瞬間トロリーが来た。車掌は『これで行けるよ』と頷き、25ルーブルを受け取った。乗客はなく、何だか映画の世界を見ているようなレトロ感があった。

 

徐々に人が乗ってきて、徐々に街に近づいていた。30分ぐらいで市内に入った。シムカードがないので、スマホ地図が使えず、どこを走っているのかさえ、全く分からなかった。恐らくここがレーニン広場というところまできて車掌を見ると、後2駅と言っているように見えた。降りる時に『こっちだよね』と大きく指さすと大きく頷いたので、安心してその坂道を降りて行く。

 

だがどうも違うような気になる。地図も持っていたが不確かだし、何より道路標示のロシア語は読めない。そこで目に入ったのが、英語で書かれていたホテルの看板。恐る恐る入っていくとフロントの女性はきれいな英語を話した。そして泊り客でもないのに、親切にも地図を打ち出してくれ、説明を加えてくれた。

 

さあ、これでもう安心と思って歩き出したが、やはり何となく不安になる。暗い夜道の信号でじっと止まっていると、後ろから『道に迷ったのか』と英語で声を掛けてくれる若夫婦がいるではないか。地獄に仏?彼らはすぐに自分のスマホを取り出して、私がバスを降りて反対側の道を来ていることを示し、正確なホテルの位置まで教えてくれた。何とも有り難い、ハバロフスクには何と親切な人が多いのかと実感する。同時にお金がなかったからこそ、この親切に出会えたわけで、旅とは本当は如何にすべきか、もう一度考え直す機会ともなる。

 

そしてついにホテルに辿り着いた。そこに看板もなく(あっても読めないが)、もし若夫婦と出会っていなければ、更に探すのに時間を費やしていただろう。重装備で寒くはないと言っても零下8度の中、暗い街をこれだけ歩けば疲労感は相当に達していた。ホテルの部屋は天国のように暖かく、何とも居心地が良い空間がそこにあった。

 

時間はもう9時を過ぎており、腹は減っていたが、そうなるとまたルーブル問題がぶり返えしてくる。1階にレストランがあると言われたが、夜はバーになっているのか、何だかとても騒がしくて入る気にもなれない。ホテルならカードでも払えるだろうが、外へ出ると金がない。それでも外へ出てみる。さっきは余裕がなかったが、周囲の建物は皆歴史的建造物のように見えた。

 

メイン通りに出てみる。イルミネーションはきれいだ。ちょっと行くと道路脇に小さくてかわいい小屋があった。覗いてみるとパンを売っている。値段も書いてあり、これなら有り金で払えそうだったので、買い込む。パンを温めてもらい、ホテルの部屋でゆっくり味わって食べた。お金の有難味が沁みた。

 

3月15日(金)
ポボロツキーさんとの1日

部屋が本当に暖かいので、北京時代の冬を思い出し、眠りは深かった。起き上がると窓の外が明るいので、いい天気だと分かったが、何と零下10度、そして雪が降って積もっているではないか。昨晩あれから雪が降ったとは。あのまま道に迷い続けていたら、遭難か。ちょっと散歩でもしようかと思っていたが、部屋に閉じこもった。そして午前9時半の、ポボロツキーさんとの待ち合わせをじっと待つ。

 

ロビーには恰幅の良い人が待っていてくれた。彼は1981年にウラジオストック極東大学で日本語を専攻し、卒業後はこの地のインツーリストに配属された。配属システムは当時の中国と同じだった。日本語ガイドとして活動していたが、当時のお客さんは単なる観光という時代ではなく、ペレストロイカやソ連邦崩壊を経て、戦争前にここに住んでいた人、抑留された人やその子孫が訪れることが多く、案内先も自然とそういう場所になっていく。元々歴史好きだったこともあり、いつしかハバロフスクに関連した日本人の歴史を調べ、地図を作り、冊子にまでまとめていた。まさにNさんはライトパーソンを紹介してくれたことになる。このご縁には感謝しかない。

 

ホテルの外へ出ると日が出ており、思ったほどは寒くない。この周辺にも歴史的建造物はいくつもあり、元特務機関の事務所だったところを外から見学後、すぐに銀行に向かった。まずは資金がないと何もできない。そこで聞いてもらったところによると、『空港のATMでは現金が出ないことがある』という衝撃的な話だった。ロシアのATMとは何だろうか。

 

まあ銀行によって、ルーブルが出てくる機械もあるとは思うが、常に安定して出てくれないと、旅行者としては困ってしまう。またこれは余談だが、私の場合、今回主に使おうと思っていた銀聯カードが弾かれてしまったのだが、それはこのATMのせいではないことが、中国に行って分かることになるので、今回は運が悪かったというべきかもしれない。取り敢えず今後ロシアでは大目に現金を持ち歩くことにして、ポボロツキーさんの通訳で両替を済ませる。

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