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ある日の台北日記2024その6(5)台南の茶郊

今回の調査は、昨年訪ねた武廟の壁にあった寄進者リストの中に茶郊という文字があったことに始まる。そこに温先生と再度行き、その表示を眺めてみる。歴史専門の温先生も真剣に検討している。更に近所の金徳春というお茶屋に入って聞いてみる。残念ながら歴史についてはあまり興味がないらしく、その方面の情報は得られなかったが、創業は1868年となっていた。

台湾の発展から考えると、恐らく最初の茶は福建省から運ばれ、茶を飲む人も福建から来た漢人だったであろうとは想像できる。台南の街の最盛期は1750年頃らしいから、その時点で茶貿易者かつ台南でも商売をしていた茶商がいたはずだ。だが残念ながらそれが誰なのか、武廟の記録でははっきりしない。現存しているとも思えずに、これは迷宮入りだろう。

昼ご飯は台南ご飯に連れて行ってもらう。お粥を注文して、おかずは置かれている中から適当に選ぶ方式。台南ご飯の特徴はその甘さだろう。私はこれが嫌いでないから、いくらでも食べられる。お粥に油条を入れて、ソーセージや魯蛋を食べるとテンションが上がる。周辺は観光地ではなく、地元の店が多い。

今年は鄭成功生誕400年ということで、平戸でもイベントがあるらしい。台南でゆっくりと考えていたが、何と温先生が午後屏東まで連れて行ってくるというので、今回は鄭成功像の写真撮るだけにとどめた。旅はやはり流れに乗ることが大切だ。と思う。でも車は屏東へ向かって走り出したが、すぐには行かない。

温先生が教鞭をとった長栄大学に立ち寄った。その理由は奇美博物館の脇を通り、そこで許文龍氏が作った10の日本人の胸像の話題となった。すると温先生が『その一つは大学構内にあるよ』というではないか。実際に行ってみると、そこには台湾水道の父、とも呼ばれた浜野弥四郎の胸像が置かれていた。

ただ学内でも、ほぼ知られていないようで、脚を止める人はいない。大学の敷地もかなり広い。ここにある理由は、台北の自来水博物館での展示を断られ、こちらで引き取ったらしい。自来水博物館には浜野の恩師であるバルトン博士の胸像が数年前に置かれているのだが、どういう経緯なのだろうか。大学内のカフェに行くと、かなりきれいで今風だった。ここでドリンクを飲んでしばし休む。

そこから屏東へ、と思っていたが、もう一か所見せたいところがあるといい、高雄の山中に分け入っていく。かなり細かい山道、Google Mapなど役に立たない。先生は来たことがあるのだろうが、道は思い出せないようだ。ようやくその場所まで来ると、その風景は異形だった。月世界と呼ばれているある種の観光地だったが、人はいなかった。確かに森林の中に一部剥げた場所があり、そこが月の砂漠、という雰囲気になっている。ただ山の中なので遠目から眺めるだけで、そこを歩けるとか、雰囲気を味わうのはちょっと難しい。

元々屏東へは午後2時頃には着くと思っていたのだが、何と日が西に傾いた午後4時過ぎになってしまっていた。到着した場所は里港。なぜここへ来たのか、実は今回台南訪問後、里港へ行くつもりだったのが、それは畲族の末裔が住んでいると聞いたこと、および泰緬から移住した国民党兵士と家族の村、眷村があると知ったからだった。

この話しを温先生に話すと、かなり興奮気味と『私の大学院の教え子に里港の女性がおり、彼女は藍氏(畲族)の一族なのだ。まさか日本人がそんなことを知っていて、そこを訪ねたいと思っているは思いもよらなかった。是非行こう』と言い出し、教え子に連絡を取り、その日のうちに台南を離れたのだった。

ある日の台北日記2024その6(4)ラジオ番組に出演

まあちょっと焦ったが、指示されたラジオ局に辿り着いた。昨年お呼ばれできたアメリカンクラブの横、敷地は意外と広い。さすが国営。守衛さんも慣れており、すぐに入れてくれた。ビルの1階でBさんと落ち合い、収録室へ。今日はBさんがパーソナリティーを務める番組にゲスト出演する。スタジオはちょうどよい広さで、リラックスして話が出来たように思う。まあBさんとの付き合いは38年にもなるのだから、緊張はない。因みにこのラジオ局、世界中に番組を流しており、非常に多くの言語で番組が作られているのは面白い。

お話しは台湾茶と日本の繋がり、そして泰緬と台湾についての2本だったが、冒頭をちょっと収録すると、2本が3本に変更になった。まあどんどん話してしまい、良かったのか悪かったのかはよく分からないが個人的には楽しい時間を過ごした。思い出の曲を4つ選んでいたが、この選曲には苦労した。台湾で思い出に残る曲は非常に少ないことを知る。

何とか無事に収録を終えると、予定をちょっとオーバーしていた。今晩はBさんと共に台湾大学で開催されるイベントに行くことにしていたので、またバスに乗り、市内を目指した。1時間近くかかって台湾大学付近に到達。タイ料理屋へ入り、お疲れさん会。台湾人が好みそうなタイ料理で、セットメニューが充実していた。店員はタイ人もいたようだが、ミャンマー系が多そうな感じ。

真っ暗になった大学内を歩いて行く。初めて歩く場所に不安が募る中、こっちだよと声を掛けられ、何とか会場へ。今晩は、台南のDさんのお誘いで、何とも不思議なパフォーマンスを見た。文化人類学者の日本人が主催して、独特の世界を音楽や詩で表現していく。正直理解は難しかったが、偶にはこんな体験も面白い。世界中を民族、文化を見てくるとこのようなになるのだろうか。

5月23日(木)台南の奇跡、屏東まで続く

昨晩は遅く帰ったが、朝は早く起きて、また台北駅へ向かう。8時過ぎの高鐵に乗って一路台南へ向かう。ボッーと1時間半乗っていると高鐵台南駅に着く。早くて有り難いが旅情はない。駅を出ると、温先生が待っていてくれた。会うのは初めてだが、ホーチミンの張さんから紹介され、昨年からFBで連絡は取り合っていた。

先生の車で台南市内へ向かう。先生は何と76歳だったが、非常に元気で活発であり、好奇心も旺盛だ。元は師範大学の歴史系の先生で、何と大稲埕開発の歴史などの論文を書かれている。最後は台南の長栄大学で講義され、既に退職されていたが、台南暮らしを好み、今も歴史への関心は高い。

まずは台湾最古の茶行と言われている振發茶行へ行く。旧市内は駐車場が見つけにくく、温先生はかなり遠くまで車を停めに行く。店の前には温先生の部下だったという男性がいた。彼は日本語が出来、現在は何と熊本で働いているが、一時帰国中で同行してくれた。2人で先生の到着を待つ。

店内は6年前と変わった様子はなかった。女性がいたので話しかけると、店長の周さんだった。彼女は5代目オーナーの奥さん。6年前に私がこの店の歴史を尋ねたのはその息子さんだと分かった。更に周さんと温先生は同じ大学の卒業生だと分かり、一気に打ち解け、色々と話が聞けた。この店の歴史は1830年代に始まるが、台南に移って店を開いたのは1860年であるから、創業は1860年と修正したこと。また台湾最古の茶行の定義は『現存していて、途切れることなく継続して経営されていること』だと。

ある日の台北日記2024その6(3)懐かしい人たち

5月21日(火)懐かしい人たち

今朝は雨が降っていたので、洗濯を取りやめた。そして昼になって出掛ける。1年ぶりにHさんに会う。彼女は最近我が宿の近くに引っ越したとのことで、近所に出向く。半畝園、何度も前を通ったが、ちゃんとした食堂なので一人では入り難く敬遠していたので、ちょうどよい。

この店、かなり古いらしく、北京料理とも書かれている。Hさんに注文をお願いすると、緑豆粥に砂糖を入れている。焼餅や刀削麺のスープが美味い。中国北方系の雰囲気が漂う店内は雨でもほぼ満員、常連客も多そうだ。偶にはこんなご飯が有難い。我が宿の近くに刀削麺の店が何軒かあるのは、やはり外省系の人々がここに住んだからだろうか。

Hさんとはいろんな話をした。華新街へ行きたい、山口の重源ゆかりの地などの歴史系の話も出たが、その中心は台湾の華語問題(私が勝手に問題と言っている)。1年に1度ぐらいしか来ない人間に、言葉の変化への対応を要請される辛さを述べてみたが、まあずっと台湾に住んでいれば当たり前、と思われることも多いようだ。これから益々台湾から足が遠のきそうだ。

食後、ちょっとコーヒーでも、とカフェに入って続きを話す。彼女はかなり忙しい人なので、話し足りなかったが、時間が来てしまった。ちょうど立ち上がろうかとしたところ、突然日本語で名前を呼ばれた。何と昨年Hさんの紹介で訪ねた台湾俳句会の幹事の人だった。犬の散歩のついでにコーヒーを買って帰るべく、偶然立ち寄ったという。何という偶然だろうか。昨年は茶金の原作者をご紹介頂いたので感謝していたが、ここで再会できるとは。

夜は台北駅まで出掛けた。今晩は知り合いのTさんのお声掛けで、ロータリークラブで茶旅についてお話しさせて頂いた。5年前にも一度話したのでもういいかなと思ったが、Tさんより『5年も経てば、かなり進化したでしょう』と言われ、何となく引き受けてしまった。ただ一般の人に茶のリアルな歴史を話してもどうかと思い、日本と台湾の茶の繋がりを重点にしてみた。以前から見知っている人も何人かいて、何とか話を終え、ご馳走を頂いてホッとして帰った。雨は何となく止んでいた。

5月22日(水)

ラジオに出演する

昨晩はちょっと遅く帰ったので朝はゆっくりして、11時過ぎにいつもの弁当屋で弁当を食べる。ここは日替わりメニューが安いので、それを選ぶ。今日は焼サバだった。10元安い。何となくいい気分になって一度部屋に帰り、もう一度出かける。MRTで圓山駅まで行き、そこから大直行きのバスに乗り換える、簡単な行程だった。

大直行きのバスを待っていると、ちょうどやってきたので手を挙げて停めた。ところが下車する人は降ろしたが、運転手が手を出して私の乗車を制止する。そしてバスは去っていく。どういうことだ、と手を広げたら、周囲の人がどこへ行くんだ、と声を掛けてくれ、『圓山飯店』と告げると、それは反対側のバス停だと指さす。そこで反対側へ行くと、先ほどの場所にバスが来て私に教えてくれた人たちは全て乗り込み、何と私の前を通り過ぎて去っていく。これには呆然としてしまった。一体どうすれば乗れるんだ?

結局もう一度元の場所に戻り、やってきたバスに乗った。どうしてこうなったのかを考えたが理解できない。考え得るのは、私の行き先は圓山飯店の下の道だったが、教えてくれた人は坂を上るのが大変なので、圓山飯店へ直行するシャトルバスを指示したということ。更にはこのバス停はロータリーになっており、両方向へ行く分岐点。私が最初に停めたバスは反対行きだったのかもしれない。

ある日の台北日記2024その6(2)台北の清真寺

5月19日(日)日曜日も図書館へ

日曜日は外出しないと決めていたのだが、ランチをどこで食べるか悩んでいると、なぜかまた図書館方面に足が向かう。しかしさすがに2日同じクラブサンドもないかなと思っていると、その近くにカレー屋を発見した。オムライスカレーに惹かれてフラッと入ってしまう。だがお客は若者が多く、味もちょっと思っていた物とは違った。まあ、取り敢えず図書館で昨日の続きの検索を行い、一定の収穫を挙げたから、良しとしよう。

数時間検索を続けてしまい、また疲れる。今日は日曜日だから、近所の食堂も閉まっているところが多い。あまり探す気力が無く、炒飯でも食べようと思って入った新しい店。それほど混んでいるようにも見えないのに、料理が出て来るのがすごく遅い。しかも炒飯は何とか出てきたが、一緒に頼んだスープはとうとう出て来なかった。まあ起こっても始まらないので、炒飯代だけ払うと、スープまだだったわね、と言われて驚く。疲れたので早めに就寝するが眠れない。

5月20日(月)台北のモスクを訪ねて

先日金曜日に訪ねた清真寺。今日はちゃんと話を聞こうと月曜日を選んで訪ねてみる。まずは前回途中で食べた食堂へ向かう。お粥が食べたい気分で注文するとなかなか良かった。大安森林公園を通ると、なんとも緑が濃い。犬の散歩などをしている老人が多くいる。

Aさんと待ち合わせて、モスクの事務所に向かった。王事務局長は居なかったが、呼んでくれた。実は信者に不幸があり、朝から対応していたらしい。海外で人が亡くなった場合の対処は、普通の人には分からない。清真寺ではそのようなサポートもするのだという。最近は王さんのような回族は減り、インドネシア系、トルコ系などが多いから、その対応は大変だろう。

王さんはミャンマー、シャン州生まれで、タイのメーサローンで育った回族だという。あの麻薬王と呼ばれたクンサーなどに近い地域にいたらしい。彼の父親は雲南の生まれだが国民党系でもなく、軍人でもない。1980年代前半、学業のため台北に来て高校入学。当時はそんなミャンマー華人が多かったらしい。卒業後は香港や深圳、タイなどの清真寺に務めた 奥さんは香港人だとか。

80年代、泰緬の華人子弟の多くが台湾にやってきた。それは学業もあるが就業もある。何しろその頃、あの地域には仕事もないし、教育機会も少ない。台湾が受け入れてくれというので、皆が台湾に渡り、今もそのまま住んでいる人が多い。もう一つ重要なのは、台湾で学業を終えても、仕事が無く、当時バブル期に近づいていた日本に出稼ぎに行った人が多いというのだ。『だから今台湾にいる泰緬人で日本語が話されるのはそのためだ』という説明は目からうろこだった。百聞は一見に如かず。

昼前にお暇して、歩き出す。台湾大学方面へ向かう。雲泰料理の店へ行き、麺を食べる。この店のオーナーも泰緬関係者のようで、80年代に台湾に渡ってきたらしい。雲南で麺を食べたのはもう何年前になるだろうか。台北も探せば、このような店がかなりあることが分かってきた。

それから台北のもう一つのモスクがあるというので、訪ねてみた。こちらは道路から少し入ったところにあり、あまり目立たない。昼下がりで礼拝する人はいない。管理人のような人にちょっと話を聞いてきたが、『歴史の話しはそこに書いてあるよ』というだけで実態はよく分からない。まあムスリムが増えていれば、モスクも増えるであろう。

ある日の台北日記2024その6(1)三重の花茶

《ある日の台北日記2024その6》  2024年5月17日₋5月25日

台中から戻って台北周辺をうろうろ動き回った。そして南部へ。台南で奇跡の出会い、そしてそのまま屏東里港まで流れていく。どうなるんだろう、一体。

5月17日(金)三重の花茶

昨年出会った郭さんから、『三重で会いましょう』と言われた。ちょっと三重に興味があったので、言われた場所へ行ってみる。MRT三重国小駅で降りると、ちょっと古い街が見える。何となく誘われるように路地に入り込み、歩いてみる。特に見るべきものがあるわけではないが、そこかしこに昔の台湾が見え隠れする。

まずは腹ごしらえと、待ち合わせ場所は食堂の前。だが郭さんはなかなか現れない。既に結構歩いており、ずっと立っていると疲れてしまう。人気店のようでお客はひっきりなしにやってきて、テイクアウトしていく。ようやく彼は現れ、北港龍門名物の生炒鴨肉焿を注文してくれた。これは甘めのとろみスープに鴨肉がかなり入っていて確かに美味しい。だが郭さんは普段は昼を食べないといい、スープだけを飲んでいた。

近所のカフェに入り、仲間を待って小学校に向かう。まずは校長先生に挨拶する。実はこの学校、三重が昔花の産地だということで、校長が先頭に立ち、学校で花を育てる活動をしているという。地元の歴史を学ぶ、ということは子供たちにとって悪くはないし、何より大人たちがその歴史を既に忘れてしまった、元々知らないというのは悲しい。

同行してくれたのは、三重の秀英花復活活動をして10年以上になる張さん。1960年代頃までこの地域は秀英花や茉莉花などの畑で埋め尽くされ、それが包種茶と混ぜられたという。包種茶は今でこそ花など付けないが、戦前から戦後にかけて包種茶の多くは薫香茶だったのだ。だがその流行期が過ぎ、花畑はどんどん宅地開発され、今や全く見ることが出来なくなった。そこでこの小学校の屋上を使い、再生に取り組んでいる。

そして郭さんもこのプロジェクトに加わり、自らの包種茶とここの花を合わせて花茶を作ろうとしている。本日も自ら花を摘んで、紅茶と混ぜるのだという。だが学校の上の花畑には限界があり、また花自体も使えるものは多くはない。私も少し摘んでみたが、小さな花ですごく大変な作業であり、これを大量に摘んで茶を作るのは無謀のように思えた。子供たちもチラッと覗いている。

学校を離れ、さっきのカフェでまた話を続ける。このカフェも郭さんの茶を扱っているというので、何種類もの茶が出て来る。今日は暑いので、冷たいお茶が良い。花茶の歴史と三重、とても興味深いテーマであり、今まであまり調べている人がいないのではないかと思う。今後張さんなどに話を聞き、この辺を纏めて見たい気分になる。帰りも張さんと一緒MRTに乗り、途中まで話を聞いて行く。

5月18日(土)久しぶりの牛雑

何だか週末は図書館へ行く気分になっている。永安市場駅で降りて、ブランチを探してみると、ちょうどよい店があった。そこでクラブサンドを頬張ると何とも旨い。メニューもやけに豊富なので、毎週土曜日はここで食べてから図書館で作業しようかと思ってしまう。

図書館にも慣れたので、カードで席を予約して、それを30分ごとに延長する仕組みを理解して、検索を続けた。思いの外、知らない歴史が出てきて頭を痛める。いや、以前とは検索手法が異なる、キーワードが異なると、それによって出て来る記事も全く違うものになり、私の理解にもかなり狂いが生じてくる。

フラフラの頭で帰る途中に、大腸麺線が目に入り、思わず大盛りを食べる。ヘトヘトの中、帰りつき、部屋で休息するが、何故か5時にはまた腹が減る。最近の腹の減り方は異常だろう。何を食べようかと悩んだ結果、今年一度も食べていない牛雑の店へ行く。日曜の他、月曜日も休みになって行きにくかったが、今日は土曜日で開いていた。

そこで6年前から全く変わらず、牛雑湯と炒牛雑を注文する。するとこれまた6年変わらず、老板娘が『牛雑、全く一緒だけどいいの?』と聞いてくるのだ。それを振り切って食べる背徳感??しかし何とも旨い。なぜ1か月半もここへ来なかったのか、自分の間の悪さを恨む。

ある日の台北日記2024その5(8)台中のお茶専門家と

誰が描いたかは分からないが、古い建物の壁に絵が描かれていた。黄さんは今年100歳で亡くなってしまったらしい。狭い建物の間を観光客が行き交っている。団体バスで来ている人々がいる。確かに観光スポットなのだ。暑いので早々に退散しようとバス停に行くと、そこも人がいて、太陽に照らされながら立って待つ。

バスが来てホッとした。そこから台中モスクに行ってみる。30分ほどでバスを降りて歩くと、何となく見覚えのある場所だった。何とトミーの家の地区なのだ。モスクはかなり大きく立派で、台中にも回族が多くいたことは想像できる。ただ昼下がりの暑さの中、誰もいなくて話は聞けなかった。ここもインドネシア系や中東系が増えているのだろうか。

もう一度バス停に戻り、またバスに乗っていく。今度は40年前初めて台中を訪れた際に立ち寄った宝覚寺に行ってみる。ここには大きな布袋像があったが、何となくきれいになっていた。日本人遺骨安置所もあり、日本との関係は深い。40年前と今でも状況はかなり異なるが、その間の変化をここで見ることも出来た。

結構疲れてしまったので、バスで台中駅まで帰り、駅で台鐵弁当を買って部屋で食べた。そろそろ疲れが溜まってピークにきているが、疲れていると意外と眠れない。夜はひたすら旅日記を書いて過ごす。

5月16日(木)台中のお茶専門家と

台中最終日の朝、もう外へ出る気力もなく部屋でぐったり。今日はトミーが迎えに来てくれ、車で台中市内へ。実は先日台北で出会った畲族の藍先生から『台中にも藍氏がいる。しかも彼はお茶の専門家だから、畲族と茶について聞いてみるといい』といって紹介されていたのだ。

だが、いきなり電話番号を渡されても、電話するのはちょっと気が引ける。最近の台湾は日本と同様、知らない番号から掛けられた電話には出ない人も多い。すると藍先生からFBもやっているみたいだよ、と聞いたので探し当てて、いきなりメッセージを送ってみた。だがやはり返事はない。確かに訳の分からない日本人からメッセージが来ても対応に困るだろう。最後に思い付いたのがトミー。同じ台中で茶業関係者なら知っているのではと聞いてみると、仲良しだというので、ここでも茶のご縁を感じる。

藍芳仁さんの家に行く。奥さんと二人で温かく迎えてくれ、さっそく藍さん所蔵の貴重なお茶を飲ませて頂く。彼は以前名間郷の農会で茶業を推進していたが、その後茶について多くの研究をして、今では多くの生徒に教えているという。台湾内はもとより、中国などにも出かけて、茶産地を色々と見ている。

藍さんは南投県樟普寮出身(台湾で藍氏が一番多いと言われる場所)だが、やはり自分が畲族の末裔であることは知らなかった。そして改革開放後、その事実を知り、茶業に関係あるかどうかを知るために、故郷である福建省樟州市樟浦を訪ねてみたが、お茶は見られなかったという。

更に数年前に嘉義大学の大学院で烏龍茶の製造法などの論文を書いており、その中で広東省潮州市鳳凰山の鳳凰単叢、福鼎の白茶などは畲族が最初に作った可能性があると述べている。畲族は福建北部に多いが、発生地は鳳凰山石古坪となっている。ただ樟州市樟浦の藍氏と茶の関連は見いだせないともいう。

藍さんには2人の息子がおり、一人は茶業に関わっているが、従来のやり方ではないようで、SNSなどで新しい形を模索している。もう一人は絵本などを描くデザイナーで、幼稚園児には絶大な人気があるらしい。藍氏には多彩な才能を持つ子孫がいるらしいと分かり、興味を持つ。

結局弁当を頂きながら、4時間近くも雑談してお暇する。トミーの家にちょっと寄ってご両親に挨拶してから、車で高鐵駅まで送ってもらい、そのまま台北まで帰る。さすがに疲れてしまい、牛肉麺を食べて早々に寝る。

ある日の台北日記2024その5(7)台中散策

先日と同じ宿に入ったが、今回の部屋はそれほど良くはなかった。そしてまた食事難民となる。近所に鍋屋が何軒かあるのだが、一人で食べるには無理がある。食堂が目に入ったが、もう店仕舞い寸前。何とか海鮮麺を作ってもらい食べる。部屋に戻ってシャワーを浴びるとどっと疲れて寝込む。実はこの日が誕生日だったことも忘れていた。

5月15日(水)台中散策

朝は当然ゆっくり起きるつもりだったが、昨日の興奮からか、早く目が覚める。折角なので台中の朝ごはんを食べに行く。昨日陳さんが『台中の人は朝食に焼きそばを食べる』と言っていたのを思い出したので、少し離れた市場へ向かった。駅付近は朝も食べる所は多くない。市場に着いたが、どこに食べる所があるのか分からず、グルグル回ってしまう。諦めかけた時、突然目の前に焼きそばが現れる。

炒麺と最初の方に書かれており、周囲の人も食べていたので間違いはない。海苔スープと一緒に頼み、ついでに紅焼肉まで追加してしまった。豪勢な朝飯を頬張る。旨い。ここは公設第二市場で古くからやっており、お客さんも年配者が多い。若者はもっとこぎれいなカフェに行くのだろうか。

帰りに台中公園に寄ってみた。ここは40年前に初めて台中に来た時、台湾の人たちが日本語でカラオケを歌っていたのを鮮明に思い出して懐かしい。勿論その頃よりはかなりきれいになっており、池には噴水が上がり、緑豊かな場所になっていた。日本時代に整備されたこの公園内には神社跡もあり、また日本語で寄進者の名前が刻まれた石が残っていて、興味深い。

一度部屋に戻って、さてどこへ行こうかと考えていると電話が鳴る。陳さんが『台中駅前でイベントが始まるので来たら』というのだ。昨日あれだけ運転して疲れているはずの陳さん、今日は仕事で観光局のイベントに来ている。部屋の窓から駅前が良く見えたので、出て行ってみる。外は急激に暑くなっており、昨日の福寿山の涼しさが懐かしい。

観光局のイベントは周辺の街も巻き込んで、観光客誘致の活動だった。来賓も沢山来ており、花蓮地震への支援なども訴えられている。旧台中駅も開放されており、ちょっと見学する。イベントの方は来賓挨拶などが続いているが、暑いだろうなと心配になる。開会式後陳さんが来て『霧峰林家の当主を紹介します』というので、紹介してもらう。霧峰林家は台湾五代家族の一つで大富豪であるが、大変気さくな方で、林家の茶業についても聞いてみた。こういう気楽な出会いが台湾らしくて良い。

台中にもついにMRTが開通したと聞いていたので、一度乗ってみたいと思う。だが高鐵には繋がっているが、台鐵台中駅にはMRTは通っていない。仕方なく台鐵で大慶駅まで行き、そこから乗る。システムや車両などはほぼ台北と同じなのであまり新鮮味はない。それもあり、3駅ほど行ったところで降りてしまう。MRTは現在一路線しかなく、駅は20ほど。市政府を中心にした路線配置のようだ。

水安宮という立派なお寺があった。最近改修されたのだろうか。ちょっと中に入ったが、きれいだったので出てきてしまう。そこから急にバスを探す。5分ほど歩いたバス停で待つ。やってきたバスに乗り、ただただ揺られていく。途中までは乗客がいたが、最後は誰もいなくなった。嶺東科技高校という学校の先で降りる。暑さがすごい。コンビニでドリンクを買う。

その先にあったのは彩虹村。ここも眷村の一つであったが、取り壊しの話があった際、黄さんというおじさんが、壁に絵をかき、それが評判となって若者も絵をかいて有名になったという。2014年に正式に彩虹芸術公園という名称で保存されることになった。ところがコロナ中に業者が壁の一部を塗り潰してしまったようで、黄さんの絵は見られなくなったらしい(現在裁判中)。コロナ禍でもあり、見学も制限されていたが、最近は入れるらしいと聞き、訪ねてみた。

ある日の台北日記2024その5(6)福寿山危機一髪

福寿山農場の歴史は戦後の大規模開拓に始まる。日本時代は原住民の多く住む場所として、駐在所が置かれていただけだったが、1957年に栄民農場として開かれ、すぐに福寿山農場と改名された。そして退除役官兵補導委員会の管理となり、中国から台湾へ移住した国民党兵士の受け皿にはなったが、泰緬方面からの移住者はいないようだ。ただ1980年以降、ここで茶業が始まり、その高山茶生産技術をタイ北部へ伝授しており、そこで関係が生まれている。タイ側ではロイヤルプロジェクトだった。

5月14日(火)福寿山危機一髪

翌朝も雨が降り続いていた。それでも部屋の窓を開けるといい雰囲気の空気が入り込んでくる。しばし外を眺めて過ごす。朝ご飯はお粥、有り難い。おかずはビュッフェなので取りやすいが、午前は8時頃には既に泊り客はほぼおらず、料理はかなり無くなっていた。団体さんは雨でも予定が詰まっているのだろう。

部屋から荷物を持ち出して、チェックアウト。だが二人はいない。探していると、売店があった。茶葉は相変わらずいい値段だが、もし手に入るならそれも良い。私は貧乏なのでスナックを買う。そこから車に乗り、昨日の茶工場へ行く。昨日案内してくれた人たちが待っていてくれ、更に高い場所にある茶畑に連れて行ってくれた。標高2500m、かなり高い。防霜ファンがある。茶畑は整っていてきれいだ。

少し見ていると、雨が降り出し、工場へ帰る。そして雨が本格的になったので、こちらも本格的にお茶を飲み始めた。ここで作られたお茶を口にすることはなかなかできないから、それだけで貴重だ。今年の茶は6月に生産予定のため、昨年のお茶ではあるが。更には試作した白茶なども出てきて楽しい。因みに茶師はやはり鹿谷の人だった。

午前11時にはお開きとなり、帰路に就く。梨山の街中を通ると、蒋介石像が見え、そこにあった梨山賓館に寄り道する。ここには蒋介石の展示室などもあり、色々と見学出来て歴史的な事象を見るには面白かった。車に乗り込むと道端に『採茶弁当』の文字が見え、この先ご飯が食べられるか分からないので買い込む。

さて、台中に戻るかと昨日来た道を進んでいると、前に車が止まっている。よく見るとその車の前、上から水が落ちている。いや水だけでなく土砂かな。あっと思った時には、何と大きな石が目の前を通って落ちていった。土石流、さすがに危険を察知して、車を下げる。安全なところまで避難した後、福寿山農場の担当に電話で状況を聞くが、今のところよく分からない。雨は降り続いて止まない。取り敢えず休憩しながら弁当を食べて情報を待つ。

街中に戻り、コンビニに入る。ここには下から登ってきた人、地元の人などが何人かいて、情報が入ってくる。それによると、埔里方面の道は通行止めになっているが、宜蘭方面の道は止まっていないことが分かり、大変な遠回りにはなるが、宜蘭‐台北‐台中という道にチャレンジすることとなる。今回山で孤立するとはどういうことかよくわかった。

宜蘭方面を下り始めると晴れている。途中に武陵農場という看板も目に入る。武陵、福寿山、清境がこの付近の3大農場だ。武陵農場にも国民党兵士が移住して住んだはずだ。今回は先を急ぐので寄れなかった。晴れて入るが、天候の急変や土砂崩れがないとは限らないから、結構緊張する。そして案の定通行止めの箇所があった。ただ1時間に10分だけ通行可能だったので、何とか潜り抜けた。

そこからは特に問題はなく、いつの間にか太平洋が見えてくる。4時間近くかけて宜蘭を通過。そこから1時間半で台北郊外に至り、Aさんを下ろして、台中まで走った。合計7時間以上かけて台中まで戻った。埔里経由より2時間以上かかったが、それでも戻れただけで有難い。運転していた陳さんは疲れたことだろう。

ある日の台北日記2024その5(5)福寿山農場まで

その墓地跡へ行ってみると、以前にはなかった説明板が設置されてはいたが、その上の現場は草茫々。聞いた話ではある日本人がここに慰霊碑を建て、慰霊祭を予定していたがコロナで流れ、その後郷長も代わってしまい、イベントは進んでいない。地方行政の難しさを見る思いだ。

更に公道沿いを行くと、霧社事件の記念碑がある。抗日英雄とは一体誰のことなのだろうか、といつも思ってしまう。以前訪ねた茶荘の看板が見えた。折角なので訪ねてみると既に廃業しており、店は無くなっていた。数年前97歳のお爺さんから話を聞いたが、彼はどうしただろうか。高山茶の現状などを鑑みても、辞めていくという選択肢は十分にあり得るのだろう。

そこから20分ほど登っていく。途中には翠峰や紅香といった茶産地があるのだが、今日はカットして清境農場へ。ここは今や観光地なので農場には行かず、少し上の横道を入ると、博望新村がそこにある。ここは眷村だが、特に泰緬から移住してきた雲南系が多い場所。今や穏やかで閑散としており、眷村(孤軍)展示館も閉鎖されていた。

ちょうど昼過ぎで、しかも雨が降ってきたので、そこにあったレストランに入る。きれいな店だったが、名前は美斯樂と書かれていてドキッとする。美斯樂とはタイ北部にあるドイ・メーサロンという地名。今や有名観光地でもあり、茶畑もある場所。この名前が付いているということは孤軍と関連があるのは明白。

店内には孤軍に関する展示が沢山ある。もしやすると展示館の代わりをしているのかもしれない。店の人に聞くと、オーナーはやはり雲南系の2世だといい、彼女はここに嫁いできた台湾人だという。今や眷村も代替わりしており、雲南や泰緬を知る人はあまりいないようだ。料理は予想以上の美味しさで満足。もう少しここで聞き取りなどしたかったが、我々にはまだ先がある。

そこから30分、坂も急になる。霧も出てきて視界がかなり悪くなっていく。そしてついに3275mの武嶺までやってきた。晴れていればかなり遠くの山々が見えるはずだが、この日の視界はほぼゼロ。一応記念写真だけは撮ったが、霧雨もあり、早々に退散する。こんな日でも自転車で上っている人がいるのには驚く。そしてちょっと心配になる。

そこからおよそ1時間半。ついに茶畑も見えてきて、福寿山農場に着いた。台中を出てから実に6時間かかった。ところが驚いたことに、何とここは台中市だった。台湾の行政区画のことは良く分からないが、どうやら山系、そしてその水の流れによって区分されているらしく、我々は埔里から仁愛郷を通って、また台中に復帰していた。気温は15度しかない。

前回ここに泊まったのはもう6年も前だろうか。それほど変化はないように見えたが、何となく部屋なども変わっている。そして本館の展示も詳細になっている。まずは茶工場を見学に行く。農場本館から少し上ったところにあった。工場の周囲には青心烏龍や鉄観音品種が植わっている。見学していると突如大雨になり、工場に避難する。そこでお茶を飲んでいると午後5時になり、本日は終了となった。

本館に戻り、チェックインする。部屋は別館なので雨に降られながら荷物を運ぶ。快適な部屋なのでよかった。すぐに夕飯となり食堂へ向かう。6年前は丸テーブルで団体がご飯を食べていたが、今や定食を注文する形式に変わっていた。これは明らかにコロナの影響だろう。泰緬関連の食事はないが、泰式檸檬魚を食べる。夜は農場の歴史を学んだ。

ある日の台北日記2024その5(4)図書館の混乱、そして霧社へ

仕方なくとぼとぼと戻る。途中に懐かしい食堂があったので入ってみた。ここは種類が異常に豊富で、どれを頼んでよいか迷う。元気の良いおばさんに急かされて焦る。蛋餅と豆乳を注文するとこれが美味い。しかも安い。常連も多いが、外国人もやってきて食べている。テイクアウトの人の方が多いので、席は確保できる。

何となく12時頃モスクに戻ってみると、ボチボチ礼拝の人々が集まり始める。といっても、皆が一堂に祈るというより、バラバラに祈って出て来る感じ。そして隣の部屋には弁当などが売られており、それを仲間と食べたり、持ち帰ったりしているようだ。私は回族系の人の話を聞きたかったが、やってくる人々はインドネシア系が一番多く見られ、後はインド系、中東系、トルコ系かなと思われる人々がマジョリティとなっている。既に回族はマイノリティな存在だと気が付き、後日を期して帰る。

5月11日(土)台湾図書館で

何となく土曜日は図書館へ行く日になっていた。近所で大腸麺線を頬張ってから、台湾図書館へ行ってみると、何と来年3月まで閉鎖と言われていた6階が開いていたので、勇んで行ってみた。ところがそこでは以前のように台湾日々新報の検索は出来なくなっていた。どうやら一部研究者のために資料相談するだけのようで、私は追い出された。

係員は1階に行けば新報の検索は出来ると言った。前回は2階で検索した、といっても1階だと主張した。仕方なく1階で聞いてみると、奥の方の別室?に案内された。確かにそこにPCは置かれていたが、何とUSBを差し込めない。これだと資料が取り込めない。そこの係員に聞いてみると『なんであんたはここへ来たんだ』と首を傾げる。そして再度1階のメインカウンターへ連れて行ってくれ、何だか分からないが席の予約をする。

そこに座るとPCもあり、USBを普通に差し込めた。これまでの指示は何だったのだろうか。恐らくは地震で混乱しており、係員も把握が十分できていなかったのだろう。まあ一般資料へのアクセスの道も開け、日本時代の新聞記事の検索も容易となったので、何とも有難い。そこから4時間ほど、検索に勤しみ、新たな発見がいくつもあった。

検索作業というのは単純ではあるが、頭はかなり疲れる。何となくフラフラしながら外へ出る。何かを腹に入れるべしと思い、前回見付けた海南鶏飯屋へ行ってみる。何だかきれいな店だが、最近流行りのマレーシア、シンガポール系を売りにしているようだ。鶏肉は柔らかいが、やはり値段は結構高い。まあ仕方がないことだろう。

5月13日(月)福寿山農場へ

朝台北駅でAさんと待ち合わせ、高鉄で台中駅へ向かった。月曜日の朝のせいか、南行きの高鐵はかなり混んでおり、前日にセブンで予約しようとした便には空席はなかったが、当日少し早めに窓口に行ったら席が確保できたので良かった。1時間とはいえ、立っていくのはシンドイ歳だ。

2週間前同様、高鐵駅には陳さんが迎えに来てくれた。ここから埔里を経て山登りが始まる。1時間ほど登ると懐かしい霧社に着く。折角なのでここで霧社事件の現場を見る。今は電力会社になっているが、その時は学校だった場所だ。今回は中に入ってそこで働いている人に聞いてみたが、大きな木が生えているなどごく一部に当時の面影がある程度。しかもすぐ近くに日本人墓地があったのだが、そこについてはその存在すら知らないという。