「台湾」カテゴリーアーカイブ

ある日の台北日記2024その5(3)進化した台湾大学図書館

11時頃だったが、何と2食目に行く。私も前回通り掛かって気になっていた行列が出来るお店。Uさんが是非行きたいというので行列に加わる。何しろメニューもないようで、台湾語中心の会話には自信もなく、こんな機会でもないとは入れない。地元民もいれば、バイクで来る人もいる。恐らくは遠くからわざわざ食べに来た人もいるだろう。

20分ぐらい並んで何とか順番が回ってくる。タイでムーコックと呼んでいる揚げ豚と、腰花を注文してもらう。こりゃ確かに旨い。大満足。今日は腹に余裕がなかったが、次回は絶対鶏肉に挑戦しようと心に決める。実に美味そうな鶏肉が置かれている。2階にも席がありそうだが、開放していない。その後コンビニの2階で食べ物談議に花を咲かせて、午後退散する。

たらたらと帰ってくると、もう午後4時台。近所で気になっている食堂に思い切って寄ってみた。だが、メインはほぼ売り切れ。主食の米粉湯があったので、それに合わせて残っていた内臓系を注文する。何だかよく分からないが、いい塩梅の夕飯となる。午前に食べ過ぎたのでちょうどよい。

5月9日(木)台湾大学図書館で

久しぶりに台湾大学図書館へ行ってみる。台湾図書館、国家図書館が何となく不発に終わっており、ここで何か発見できない物かと期待をかける。フラフラ歩いて行くと、途中にチェーンのとんかつ屋があったので、初めて入ってみた。まだ早い時間でお客はいない。注文の仕方も良く分からず戸惑う。味はまあまあで料金もまあまあ。ようは可もなく不可もなく、という感じだが、あまり食べた気がしない。

図書館に入ると、何とも大きく変わっていた。まず1階は完全に変貌しており、明るくきれいな空間が広がっている。そして何より総合案内所があり、親切なお姐さんが対応してくれる。これまで注音字母が打てなくて検索できなかった資料を検索してくれたのは何とも有難い。大学図書館も市民に開かれていくということだろうか。

検索してもらった資料を探しに4階へ行くと、これまで知らなかったスペースに辿り着く。伊能文庫と書かれており、そこにも沢山の資料があった。7年ほど前からこの図書館に通っていたが、こんな発見があるとは。いつもと同じ行動を取らないことの大切さを知る。最後にコピーを取ろうとしたが、コピーの仕方を忘れてしまい、またもお姐さんに助けられた。また来よう、台湾大学。

午後、外は猛烈な暑さだったが、何となく歩いて帰ることにしてしまった。ただ途中でバテテしまい、ドリンクを買おうかとコンビニを探すと、目の前にマックがあり、チキンバーガーとドリンクで50元と書かれている。正直台湾のマックは高いので敬遠していたが、これならいいかと入ってみた。ただその店は席が無く、立って食べる羽目になる。暑い中足を引きずりながら帰る。

5月10日(金)台北のモスクで

今日は金曜日。Aさんから教えられた台北清真寺の礼拝日。しかし何故か午前10時頃に行ってしまう。当然ながら誰もいない。取り敢えず入ろうとするとヒジャブーを被った女性が丁寧に招き入れてくれた。そして『礼拝は12時頃から人が来ますよ』と教えてくれる。更には『モスクの歴史などが知りたいのであれば』といって、事務室に入っていき、なんとモスクの事務局長を紹介してくれた。彼は『さすがに今日は忙しいので、知りたいことがあれば、月曜日から木曜日に来てくれ』と笑顔で言う。

ある日の台北日記2024その5(2)潮州街で

昼ご飯でも食べようと歩きだす。金峰の魯肉飯も良かったが、行列は嫌いなので脇道に入る。そこには海鮮麺疙瘩と書かれており、興味を持って入ってみる。店は1時過ぎでもほぼ満員で驚く。やはり何となく麵を食べている人が多い。エビなど海鮮が入っており、何となくとろみがついたスープ。疙瘩とは中国語でできもののこと。小麦粉を団子状にして、スープに入れている。中国大陸ではスープを飲んだことはあるが、台湾では麺なのか。

そこから歩いて潮州街を目指す。潮州街、というぐらいだから潮州人がいるのだろうと思っていたが、道を歩いて行って、そんな雰囲気は感じられない。唯一あったのは、台北市潮州同郷会の看板。中に入ってみたが、誰もおらず、閉まっていて何も分からない。一説によれば、ここは戦後外省人としてやってきた潮州人の集まりらしい。

潮州街は意外と長い。ずっと行くと、ちょっと気になる建物が見えた。茶缶が見え、茶荘らしいと分かる。その茶缶には1837年の文字が見える(まるでシンガポールのTWGのようだ?)。どうしても知りたくなり入ってみる。やはり茶荘だったが、ちょうど整理中だったようだ。この茶荘の歴史については実は昨年Yさんから聞いていたことを思い出す。

確か日本時代に日本人と関係があったことを思い出して店員に聞いてみると、『西村商店です』というではないか。西村とはあの台湾森永の初代社長にもなった西村武士郎だった。彼が茶荘?もっと知りたくてオーナーと話したいと言ってみると、取り敢えずこれを読んで、と一冊の本を渡される。6代目オーナーが最近纏めたものらしい。まずはここから当たってみることにして、店を後にする。西村武士郎とお茶に関連があるのであれば、是非調べてみたい。

夜は最近近所に出来た健康弁当を食べてみる。確かに野菜が豊富、彩りも豊かでインスタ映えはする。きっと有機野菜などが使われていて健康にも良いのだろう。ただ私のような者には『ガツン』といった味感覚が無いと何となく寂しい。優しい味わい、というのが良いのだろうが、どうしても食べた気にならないというのが正直な感想だ。残念。

5月8日(水)大稲埕グルメ散歩

今朝はUさんとグルメ散歩第3弾。木柵、蘆州から一転、大稲埕へ行くことになる。待ち合わせ場所は前回と同じ大橋頭駅。そこを出ると私にも馴染みの街が広がっているのだが、市場の品物一つ見ても、Uさんの解説があると、何だか違うものに見えてくるから面白い。やはりポイントは、この料理はどこから来たのだろうか、ということだろうが、やはり台湾は複雑怪奇だ。

食堂に入る。Uさんが頼んでくれたのは、まさかの寿司と天ぷら。天ぷらは先日ももらって食べたように、甜不辣。よく味がしみ込んでいて、タレも抜群に旨い。そして食べ終わると店員に椀を差し出すとスープを入れてくれ、椀に付いているタレの味などを混ぜて飲む。これはいい。寿司は稲荷ずしだった。私は台湾で初めて食べるが、これは今の日本の物と大きくは違わない。日本時代の名残ではあろうが、ずっと残っているのは不思議だ。

時間があったので、新芳春の博物館に行ってみる。以前、といっても5年前に展示されていたものがあれば、写真を撮りたいと思っていたのだが、さすがに展示は大きく変わっていた。そして3階には上がれなくなっていて、展示自体もかなり縮小したらしい。日本時代の大稲埕地図を眺めて過ごす。

ある日の台北日記2024その5(1)国家図書館で

《ある日の台北日記2024その5》  2024年5月6日₋5月16日

長期の茶旅を終えて一息つこうかと思っていたが、時世はそれを許さなかった。今度は台中から福寿山まで高山を上り、しかも危機一髪の目にも遭う。今年の台湾はいつになくハードだが、それもまた楽しい。

5月6日(月)甜不辣を貰う

今年の台北滞在も後半戦に入る。これまでは結構ゆったりとお休みをする時間もあったように思うが、今年はなぜか忙しい。取り敢えず今週はゆっくりしたい。食事の方は周辺の食堂はひとあたり食べたので、今日はランチに新規開拓を試み、和平路方面を歩いてみた。先日肉圓などもあったので、師範大学にあたりをつけた。

昔はよく食べたが、最近ご無沙汰の排骨酥湯にトライする。ついでに豆腐と魯肉飯、魯蛋も付けるとかなり豪華なランチとなる。何だか昔風の味が懐かしい。今や台湾の若者もこぎれいな店で食事を取るのか、こういう店舗に入ってくるのは、年配者ばかりだ。偶に来ないと、すぐに無くなってしまいそうで惜しい。

午後もゆったりと過ごし、夕方早めに麺を食べに行く。いつもの麵屋、最近はずっと安定していたのだが、またちょっと騒がしい感じが。当面営業停止にならないことを祈るばかりだ。刀削麺は美味いんだし、お客も沢山いるのだから、何とかお願いしたいところだが、他人の家のことはよく分からない。

部屋に帰るとドアがノックされた。先日来、葉さん夫のアメリカのおばさんが来ている。先日挨拶したが、昨年とは別人のように見えた。今日見ると、以前のおばさんだ。何だかあまり話さないな、と思っていたら、突然『萬華の有名店の甜不辣を買ってきたから、食べなさい』と渡される。

さっき麺を食べたばかりだったが、折角の好意なので、受け取って食べてみる。これが意外と旨い。気が付くと全部食べてしまっていた。甜不辣は日本の天ぷらから来ていることは間違いないが、台湾のそれはむしろおでんの方が近いだろうか。そしてその独特なタレが甘くて美味しい。おやつ感覚とも言うが、確かにすぐに食べてしまう。

5月7日(火)国家図書館で

今日は国家図書館に行ってみる。これまでは台湾図書館で済ませてきたが、先日の地震で一部機能が無くなっており、中正記念堂前の国家図書館を覗いてみることになった。ところが到着してビックリ。ここも改修中、しかも大規模で、何と隣の建物の6階まで行き、そこから通路を伝って、受付まで行き、受付が済んだら、必要な階まで下がるというもの。利便性が大幅に下がっていた。

見たい本が3階にあると分かり、そこで問い合わせて何とか発見する。しかし本が多過ぎて分かり難い。更に国家図書館の特徴である、各大学院の卒論が見られるコーナーも消滅しており、代わりにそこにあるPCで検索してみる仕組みとなっている。しかもその座席は30分しか抑えられず、その度に延長ボタンを押すことになっていた。以前の紙が懐かしいが仕方がない。

コピーも一苦労だったが、何とかこなし帰ろうとしたら、何と図書館カードがない。それが無いと受付ではねられてしまい、退出できない。3階しか行っていないので戻って探すも、見つからず。最後はWeb入館証新たに作り、何とか這い出す。しかし次回ここに来る時はどうなるのだろうか。ああ、面倒だ。だがいいこともあった。6階には特別図書のコーナーがあり、何とそこには多くの日本語書籍が置かれていた。台湾人研究者が必至で集めた本が寄贈されているようだ。以前の台湾人は日本語が読めたのだな、と改めて感じる。

ある日の台北日記2024その4(7)魚池であわや?坪林でMV風景を

車で日月茶廠まで送ってもらう。午後は李さんと会う予定で、ここに迎えに来てもらった。少し時間があったので、大きな荷物を引きずりながら、中に入ってみる。昔はどこでも自由に入れたが、今はかなり制限されていた。観光客がお茶などを買っている。奥に少しだけ製茶機械が見えた。

李さんが来てくれ、家に行く。家にはいつの間にか立派な茶工場が建っていた。その前にお茶を飲むスペースがあり、無造作にお茶が置かれていた。白茶や珍しい品種の紅茶を飲み始める。李さんは製茶作業もあり、時々席を外す。そこへスイス人カップルがやってきたので、一緒に茶を飲む。工場内も見学する。彼らは3週間、台湾各地の茶産地を回っているという。こんな田舎まで言葉も出来ずによく来たな、という感じ。それを受け入れる台湾茶農家も素晴らしい。

名残は惜しかったが、バス停まで送ってもらい、李さんと別れた。午後4時台には台中行バスが2本あるので大丈夫だと思っていたら、何と1本目は『客満』で通り過ぎていく。そして2本目も同じ。だがバスは停まったので覗き込むと2人降りたので2席空いた。よかったと思ったら、ちょうどあのスイス人カップが不安そうにこちらを見ている。彼らに席を譲り、バス停に取り残された。

さて、どうしようかと考えていると、横にいた女性が色々とアドバイスをくれた。これで一安心、台湾の良い所ではあるが、これも言葉が通じれば、の話しだ。ふと見ると、台北行バスがやってきた。思わず手を振ると席があったので乗り込む。ところが悠遊卡は使えず、切符も買えない。次の埔里で切符を買えと言われ、取り敢えず座る。

埔里に着くと何人も乗り込んできて、一方私は切符売場で何とか席を確保した。ただ席の番号が無く、何とか空いている場所に座る。それでも乗れただけで安堵した。台中から高鐵の方が速いとは思うが、これも仕方がない。懐かしい埔里のバスターミナルをよく見る暇もなくバスは台北を目指した。

途中高速道路をひた走り、夕方の渋滞もさほどの混雑はなく、意外と早くバスは台北駅に着いた。これならスピードもそれほど変わらないし、何より安いので結果オーライだった。私はかなり疲れてしまい、バスの車内でもずっと寝ていたが、降りてもまだ眠く、早々に宿泊先に引き揚げた。

5月4日(土)坪林で

昨晩は疲れたので早く寝て今日に備えた。茶旅最終日、坪林へ向かう。Kさん、Mさんと3人で、新店駅に集合してバスに乗る。土曜日だったが、それほど混んではいなかった。取り敢えず祥泰茶荘へ行き、茶を飲む。1年ぶりでも歓迎してくれた。お父さんはちょっと太ったようだ。皆お茶をかなり買っている。

予想外に時間が掛かり、茶業博物館へ行く時間はなかった。近所の食堂で軽く昼でも食べようかと入って注文しようとしたら、ちょうど午後会う予定の白さんから、『早めに迎えに来た』と連絡があり、申し訳なくも注文を取り消して外へ飛び出した。博物館前で合流して車まで30分、途中から結構山を登り、白さんの家に着く。

ちょっと製茶場を見学してから、お茶を飲み始める。5年ぶりだが、何だかお茶の種類が増えている。途中から団体さんが入って来て賑やかになる。我々は目の前の茶畑に向かう。ちょうど茶摘みしている。今は9割機械摘みだというから貴重な風景だった。そこから車でかなり上っていく。途中歩いている人々がいて驚く。最近はトレッキングなども流行っているようだが、ここに宿泊施設は建てられない法令だそうだ。

標高700mまで登ってくると、見事な茶畑風景が広がっている。何と向こうの方は宜蘭、そして太平洋だという。ここで藤井風という日本の歌手がMVを撮影して話題になったという。私のその人が分からなかったが、映像を見てみるとなかなか面白い。お茶を抱えて坪林の街に戻り、バスに乗って台北へ帰る。

夕飯を食べようと新店で探すも、良い所がない。行列が出来ている店がったので並んでみると、何と週末は最低消費額が一人250元と書かれている。しかも午後7時には営業終了らしい。そこで魚のスープやら、魯肉飯やら、消費額相当を注文して食べてみる。まあ意外とおいしい。疲れが少し吹き飛んだ感じか。まあ、なんとか5日間連続の茶旅を乗り切ったが、やはり体力の衰えが身に染みる。

ある日の台北日記2024その4(6)鹿谷から魚池へ

5月2日(木)鹿谷で

ゆっくりと目覚める。食べ過ぎなので朝ご飯も食べず、部屋で休息。午後9時過ぎにトミーが車で迎えに来てくれ、鹿谷へ向かう。トミーも忙しいようで、ようやく会うことが出来て良かった。1時間ほどのドライブでお互いの近況を話す。懐かしい鹿谷へ登っていく。

既に春茶の生産は終わっていたので、以前も訪ねたことがある連山に連れて行ってもらう。そのすぐ近くに寺が鳳凰山寺と書かれていて気に掛かる。なぜここに潮州の鳳凰山を思い起こさせる廟があるのか。更にその門牌の横に像が立っていた。呉光亮と書かれているではないか。呉は1874年の牡丹社事件の際に清朝より派遣された軍人で、ここから東海岸への道を建設したとある。そして彼は広東英徳人。お茶と何か関連はあるのだろうか。

連山のお父さんがお茶を淹れてくれ、おしゃべりする。最近は高級な白茶も作っているぞ、と出してくれる。何とも精緻な造りで驚く。そこへUさんが合流して来る。表では茶葉が干されている。知り合いの茶葉が持ち込まれ、場所を提供しているだけだという。今年の春茶は良かったのだろうか。

さっきの寺を参拝する。資料が置かれていたので持ち帰る。やはり潮州と関連はありそうだ。潮州人はこの辺にもいたのだろうか。それとも客家か?昼ご飯は近所の食堂へ行く。何とベトナム人がやっている店でフォーなどを頂く。これから台湾の田舎はこんな店が増えるのだろう。

ここからどこへ行こうかと悩んでいると、Uさんが『陳さんのところへ行こう』という。そこは伝説の製茶師の家で、今は息子と孫がひきついでいる。当然敷居は高いが、私は過去何度かUさんに連れてきてもらっており、知らないことはない。そしてトミーの目が輝く。彼は行ったことがないらしい。

阿蹺本舗に行ってみるともう春茶は終わっているので、何となくのんびりしており、雑談に花が咲く。出来たばかりのお茶を飲みながら、焙煎室なども拝見する。一番驚いたのは88歳の阿蹺氏夫人が元気に枝取りをしていたことだろうか。また阿蹺氏は製茶師になる前は理髪師だったといい、その頃使っていたバリカンが日本製だったことだろうか。

最後に凍頂山に登る。初めてここに来た13年前は、茶畑が広がっていたが、その後来る度に野菜畑が増え、今ではほぼ茶畑は無くなっている。昔の景色とはかなり変わっており、そして以前からあった説明書きの看板が、その中に埋もれている様子が、何となく寂しい。もう凍頂烏龍茶なる名前は返上しても良いのでは、と思ってしまう有様。

そこから1時間ほど車に乗り、トミーに魚池まで送ってもらった。ここはバス路線が1日に何本もないので有難い。本日予約してもらっていた宿は民宿で、誰かの別荘という雰囲気だった。今はこんな宿が増えているのだろう。まだ日は暮れていなかったが、周囲に食べる所もないので、急いで魚池の街まで食べに行く。もう7年も前、埔里に拠点を置き、この辺を徘徊していた時の記憶を頼りに、なんとか広東系の食事にありつく。地方は食堂が早く閉まるので要注意だった。

5月3日(金)魚池で

翌朝は民宿の人が朝飯を置いておいてくれたので、飯団などを食べる。ちょうどデニスが迎えに来てくれる。1週間前にも会ったばかり。すぐに店へ行き、紅茶を飲み始めた。私は先週に続いてジョアンのプレゼン資料を日本語に訳す作業に打ち込む。なんなんだ、この空間は。

それから初めて?持木時代の茶工場跡へ行く。既に工場などはなく、草茫々だが、井戸の跡らしきところがあるという。後ろの方に少しある建物は戦後、外省人受入のために作られたらしい。その向こうの斜面に茶畑があった。一部無くなっているところは台湾農林が回収し、茶樹を切ってしまったところらしい。ちょうど13年前、私が初めて和果森林を訪ねた頃、問題になっていた場所だった。更に少し上ると、古い茶樹が何本もあり、興味深い。この中に谷村と持木が探し当てた原生種?はないのだろうか。ここから見る景色が良い。

ランチは、きれいなレストランに連れて行ってもらった。平日でも大賑わい。この辺にはあまり食べる所がないため、団体観光が使うところらしい。何だか美味しい食べ物が一杯出てきて有難い。バクバク食べる。ベジタリアンのスティーブは、自らの食べ物を自らオーダーして食べている。

ある日の台北日記2024その4(5)阿里山観光

5月1日(水)阿里山観光

ぐっすり寝たので寝起きが良い朝。外へ出ようかと部屋を出ると、そこは既に良い感じで風景が見られた。気分が晴れやかになる。朝は夜よりもさらに涼しい。昨晩は大雨が降ったらしい。ボーっとしていると林さんが迎えに来てくれた。また店舗へ行く。朝ご飯はこちらで頂く。細い麺に海苔スープ。これがまた美味い。幸せな朝。

夜半の大雨で今日の茶摘みは無くなったという。茶畑に行くのもちょっと危ないといい、林さん夫妻は我々を阿里山観光に連れ出してくれた。阿里山には何度も来ているが、実は山の上の方の観光地に行ったことはないので、有り難い。30分ぐらい車で上っていくと、そこにゲートがあり、その上は観光客用だった。本日は5月1日の旗日、大勢のお客が来ているのかと思ったが、大雨のせいか、はたまた1か月前の地震の影響か、人は非常に少なかった。曇りということで、涼しくて歩きやすい。

そこからミニバスに乗り、また上へあがっていく。そして阿里山鉄道の線路が見える。そのあたりから森林を下っていく。人もほぼいない我々だけの空間。静かさ、木の香り、ささやかに吹く風、何とも不思議な雰囲気を味わって歩く。途中日本人の年配者とすれ違う。それにしても木々がまっすぐに伸び、しかも高い。一体いつからこの光景は存在しているのだろうか。標高2300m、日本時代の日本人も見たのだろうか。

随分下った気がする。水が流れている。線路が見てくる。阿里山鉄道はここ数年全面開通していないが、観光客用に一区間だけ乗車できるようになっていたので乗ってみる。古い感じの車両、よく見ると昨晩食事をしていた外国人家族と再会した。何とウクライナから来たという。電車の乗り心地を味わう間もなく、終点へ。

そこからまた車に乗り、奮起湖へ行く。何と林さんの知り合いの店で奮起湖弁当を頂く。観光客用に買うと高い(5年前で180元?)が、地元民用だと僅か100元で立派な弁当が出て来る。そこから老老街と呼ばれるさらに古いエリアを歩く。そこには100年以上前に建てられた店舗が残っており、コーヒーを飲みながら、話を聞く。ここは日本時代に開発され、第2次大戦中には米軍に爆撃された跡が残っていた。日本軍にとっても重要拠点だったのだろう。そこで飲むコーヒーは格別だったが、コーヒー価格はかなり高くなっており、台湾はお茶、という従来のイメージはすでに崩れている。

車は林さんの店に戻った。お茶を飲んでいるとお客さんが現れ、かなり大量に茶を買い込んでいる。そして彼らは車で嘉義に降りるというので、そこに便乗させてもらい、石棹を離れた。別れる時はあっと言う間だった。林さんには本当に世話になった。1時間ちょっと車に乗ると嘉義市内に降りてきた。まずは彼らがお茶を包装屋に持ち込んでいく。パッキングして、小売りするのだろうか。それから台鐵嘉義駅で降ろしてもらう。

ここから自強号に乗って今日は台中止まりとなる。昔は混んでいた自強号だが、今はかなり空いている。1時間ちょっとで台中駅に着き、駅前の宿に入る。私はこの付近の宿にいつも泊まっていたが、今回の宿は初めて。かなり安かったのでどうかなと思っていたが、何とかなりきれいでしかも広い。日本のGW中で、日本人も結構泊まっていた。偶には色々と泊まってみないとその変化は分からない。

夜も8時を過ぎたので、近所のベトナム料理へ入り込む。この周辺、夜は本当に食べる所も少ない。仕事が終わった東南アジア人が夕飯を食べる所となっているようにも見える。フォーと炒飯でゆったりとした夕飯となる。昨日はよく寝たので、部屋に戻っても写真の整理などに勤しむ。

ある日の台北日記2024その4(4)阿里山石棹で

バスは台湾好行。車内は広くて座席は少ないが、ちょうどよい感じで出発する。悠遊卡が使えて便利(念のため高鐵駅でお金入れといてよかった)。私は20年以上前に阿里山にバスで上ったのが最初だが、あの頃は高鐵もなく、台鐵嘉義駅からバスでかなり緊張しながら上った。今みたいにスマホもないし、どこで降りるかもよく聞き取れなかった。それがどうだ、今はキレイな車両、はっきりした表示があり、言葉が出来なくても石棹まで簡単に行けるようになっている。進化だ。

バスは阿里山公道を上り、きっちり1時間半で石棹に到着した。そこにはKさんの知り合いの林さんが待っていてくれ、車で彼の店まで行く。まあ歩いても行ける範囲で便利だ。林さんがお茶を淹れてくれる。私が22年前に最初に石棹に来たと話すと『その時は誰のところへ行ったのか』と聞くので、店名をいうと、『え、あそこの奥さん、隣にいるぞ』と言われ、すぐに隣へ移動する。

そこでは近所の女性たちが母の日の花飾りなどを作っていた。恐る恐る中へ入っていくと突然『え』と私の名前を呼ぶ女性がいた。ああ、懐かしい郭さんだった。恐らく15年は会っていないが、すぐに名前を思い出してくれて嬉しい。何とも驚きの再会だった。ここは林さんの奥さんが花道などを教えているスペースだという。林夫妻は茶文化協会をリードしていた。

林さんが裏山の方へ歩いて行く。ついて行くと階段があり、両側が茶畑。烏龍と金萱が植えられていた。更に登っていくと、石棹が一望できる高台に。そこには古民家が建っており、それは以前阿里山で見た建物と全く同じだった。50年以上前、阿里山公道が開通する前は、皆このような家に住んでいたらしい。

林さん一族の茶工場にも行ってみる。工場に入るといい香りがしてくる。春茶は終わっていたが、どこからか茶葉が運ばれてきており、最新鋭の機械で揉捻などが行われていた。出来立ての茶を飲んでいると、急に激しい雨が降り出す。元々今日は天気が心配されてはいたが、山の天気だ。小雨になると小走りに戻る。

ふと気が付くと夕方になっており、林さんが夕飯を出してくれた。これは奥さんがやっている食堂の料理だった。所謂定食で美味しい。するとどこからか、外国人の家族連れが入って来て食べ始める。最近は阿里山にも個人旅行で来る外国人が増えており、こういう食べやすい形態が好まれるらしい。言葉は通じないが、皆スマホアプリでやっている。

食事を終わってお茶を飲んでいると、そこに林さんのお父さんがやってきた。石棹で茶業が始まったのはちょうど45年前。その初期に茶を植えたのはこのお父さんを含む林家の人々であったらしい。私が以前台湾高山茶の歴史を調べた際は、もう少し下の隙頂あたりで始まったと聞いていたが、ほぼ同時期に石棹でも始まったようだ。その苦労はかなりのものだったらしい。

夜、林さんが車で夜景がきれいなスポットを案内してくれた。あの郭さんも一緒だった。郭さんとの思い出話が懐かし過ぎて、夜景をよくよく見てはいなかったが、嘉義市内だけでなく、台南の方面や海など、かなり遠くまで見えていて驚く。ここは地元の人しか知らない穴場スポットだった。郭さんの店に寄ったが夜遅かったので、お茶を貰って別れた。次はいつ会えるだろうか。

今晩の宿は何とその郭さんの店舗のほぼ隣だった。アレンジした林さんも苦笑している。昔は民宿が多かったが、今や立派なホテルがいくつも建っている。今日の宿もかなり立派で、部屋も快適。だが疲れていたので、シャワーを浴びるとすぐに寝込んでしまう。

ある日の台北日記2024その4(3)豪華な手抓飯

街中で、天井の高い、きれいなカフェに寄る。60年前は雑貨店だったと書かれており、何と糧票が展示されていた。中国で糧票を見たことはあったが、台湾にもあったのか。まあ日本でも米配給券が存在していたのだから、不思議はない。切符を切るパチンも飾られているのは何となく懐かしい(日本の鉄道を思い出す)。

前回来た時も入った、異域故事館にも連れて行ってもらう。今日はお祭りなので観客が多い。そして泰緬の歴史に詳しい、国旗屋の老板が説明をしている。ここに展示されている資料、見返す度に発見がある。それは私がまだこのエリアの歴史に精通していないということだろう。Aさん、Uさんもそれぞれの観点で、興味深そうに眺めている。すぐにもチェンマイに戻りたくなる。

昼を大分過ぎてから、食事の時間となる。その理由は食堂の人々がモスクのイベントに参加していたため、用意する時間が無かったことによる。そして何と出てきたのは、「手抓飯」だった。それも見たこともないほど豪華で、量も半端ない。ウイグルではポロと呼んでいたピラフのようなものだけでなく、揚げ物、煮物、野菜などがきれいに盛り付けられており、インスタ映えもすごい。

ラープが何とも美味い。これは特別に予約して作ってもらったらしいが、一人400元は安すぎる。腹がくちるまで食べ続けたが、ついに食べ切れず。そこへスープ、フルーツ、デザートまでやってきたのでもう完全に降参だ。こんな豪華な料理、タイ北部にもあるのだろうか?是非探してみたい。

夜のイベントも見るために残る人々と別れて、一人バスに乗って中壢へ戻る。ちょうど国光号の台北行きが出る直前だったので走って乗り込む。後はぐっすり休む。昨日からちょっと疲れた上に腹が一杯過ぎて眠い。日がちょうどくれる頃、台北駅に着く。重い体を引きずりながら帰る。翌日は完全休養日となる。

4月30日(火)阿里山石棹へ

今朝は早くに起きて、荷物を纏めて桃園空港に向かう。台北駅まで行ったが、MRT空港線までの道のりが長い。台北駅から乗るのは何と初めてかも。空港第一ターミナルで降りるが、空港までも意外と長い。何とか空港に上がり、まずはシムカード購入へ(もうすぐ30日が切れるが、山中では買えないので)。ところが中華電信のブースだと思ったところは間違いで危うく違う会社のシムを買う羽目に。山の中でNTT、いや中華電信一択だと思い、少し戻って中間電信オフィスで無事購入。

Kさんと待ち合わせていたが、なんと出口では見逃し、既に両替を終えてWi-Fiルーターを借りていた。朝のフライトがかなり遅れたという情報だったので油断してしまったが、無事合流。そしてすぐにMRTに戻り、桃園方面へ。ただ乗った車両は、次の空港第2ターミナル止まり。意外と難しいぞ。

何とか高鐵桃園駅まで来て、走って高鐵駅へ。実はあと5分で南行きの列車は出てしまう。出来ればこれに乗っておきたいと急ぐ。自販機で切符を買って、ホームへ滑り込むと、列車も滑り込んできた。ただ席はバラバラ、しかも真ん中席しか開いていない。隣の女性は駅弁を買っている。何と日本人女性の一人旅だったが、彼女は私が日本人とは気が付かなかっただろう。

1時間ほど乗って嘉義駅までやってきた。ここから阿里山行バスに乗るのだが、まだ時間はある。それでも確認のためバス停に近づくと、タクシーの運ちゃんが声を掛けてくる。外国人も数人いるが、皆バスを待っている。こういう時に、一人旅はつまらないが、話し相手がいると、すぐに時間は過ぎていく。この駅からバスに乗ると故宮南院にもすぐ行けるようだ。

ある日の台北日記2024その4(2)龍岡の米干節

夜は持木家で働いていたという台湾人女性の娘さんと息子さんに会う。場所は台中の真ん中、新光三越のカフェだった。正直台北の持木御殿で働いていたということで、お茶との関連は無さそうだったが、折角の陳さんの誘いなので、同席することとした。私に気を使ってわざわざ台北からお茶関係者まで呼んできてくれ、お茶を頂く。

既に70代になる廖さんの話を聞いていると、彼らのお母さんは日本時代に持木の家に住み、確かにお手伝いをしていたようだが、それは奉公人というより、寧ろ花嫁修業だったのではないかと思われた。事実廖さんの家は土城のそれなりの家だったようだから、日本人の家に住み、行儀見習いをして、日本語にも磨きをかけたのだろう。なぜそう思うかというと、持木の人々との付き合い方が、まるで家族のようであったからだ。そしてその付き合いは戦後も続いていたらしい。日本人と台湾人の交流には色々な形があることを知る。

夕飯は高級台湾料理を頂く。正直私は部外者なのだが、持木家の名代のように歓待して頂き、何とも恐縮だった。こんな立派な台湾料理はほぼ食べたことがない水準。話もどんどん出てきたが、その多くが台湾語でよく分からない。ただ分かるのは、持木家と廖家の深い繋がり、そしてそれがここ40年ほど切れていたこと、更にそれが今回復活して喜んでいることだろうか。

食後陳さんの車で高鐵駅へ。廖さんの弟さんとお茶関係者も台北に帰るので一緒に行く。彼らは65歳以上なので、商務車に半額で乗れるらしい。何と私の分まで購入して頂き、初めて商務車両に乗り込む。疲れていてすぐに寝込んでしまったが、どうやら飲み物サービスなどがあったらしい。夢の中で台北まで到着した。

4月28日(日)龍岡の米干節

翌日はまた電車に乗る。実は昨日台中から中壢に来て泊ろうかと考えていたが、台北まで戻った方が楽だったので出直した。中壢で降りてバスターミナルへ行き、ここでAさん、Uさんと合流してバスで龍岡へ向かった。龍岡は以前一度Aさんの案内で来ているが、ここはミャンマーから移住した人々が住む眷村があった。

本日は年に一度のお祭り、米干節を見学に来た。地元の人が案内してくれる。まずはモスクに入る。ちょうど説教の時間だったようで、アホーンのお話を聞くため信者が集まっていた。米干節に合わせて水掛祭りも行われており、多くの人が来ていた。その後皆さん旧交を温め、用意された昼ご飯を取って食べている。モスクの中を見学したかったが、今日もダメだった。いつの間にはUさんはイスラム教徒に交じった服装をして、記念写真を撮っている。

近所の市場も今日は大賑わいだった。タイ、ミャンマー方面の食材もかなり売られている。雲南美食の文字が随所にみられる。ここもある意味で観光地化しているということだ。売っている人たちも、雲南系華人で泰緬方面から移住してきた人々やその子孫であるらしい。今日はお祭りなので、特に屋台も多く出ている。

広場に移るとそこにはこの日のために沢山のブースが出ており、雲南や泰緬のグッズの紹介などがされている。向こうからは民族衣装を着た女性たちが躍りながらやってくる。広場の中でも音楽が鳴り、踊りの輪が広がっていく。これは以前プラーオ山中のリス族の村の踊りを彷彿とさせる。ただ衣装はいくつかの民族の物が着られており、ちょっとしたコスプレ感覚の人もいるかもしれない(泰緬の山岳民族がどれほど台湾に渡ってきたのだろうか)。

楽器を奏でていた男性、メーサローンから移住してきたという。最近も北部タイに行っており、その事情にはかなり詳しい。親族もまだあちらに暮らしているという。きっと複雑な事情があるのだろうが、躍っている時の表情は明るい。我々にも楽しそうに話してくれる。こういう人が今どれだけ龍岡に住んでいるのだろうか。既に移住開始から60年以上、多くの移住者が更に他の場所に移住しているらしい。

ある日の台北日記2024その4(1)魚池の渡辺農場跡へ

《ある日の台北日記2024その4》  2024年4月27日₋5月4日

今回は中部茶旅を中心に。結構クルクル茶産地を回った様子を書いてみる。久しぶりに、歴史的なレア体験を満喫する。これぞ茶旅か。

4月27日(土)魚池と台中で 紅茶の歴史に出会う

高速鉄道に乗って台中に向かった。今日は陳さんが探し当ててくれた渡辺農場関係者の子孫に会うため、魚池へ行く。高鉄台中駅で合流して、そこから車で1時間。懐かしい魚池へやってきた。ただどこをどう走ったのかは分からない。初めての道、山の中へ分け入っていく。

立派な建物が見えた。今は休業しているようだが、ここが目的地だった。渡辺農場で紅茶作りをしていた林火爐という台湾人がおり、今回はその息子、林正育氏、林益輝氏兄弟に会うことが出来た。最上階からの見晴らしは良い。林さんが『ここから見える景色、昔は全て渡辺農場の茶畑だった』と懐かしそうに話す。ここは魚池の茶業改良場とも近く、改良場側から見える山を越えたロケーションだった。

林兄弟の父、林火爐は林口茶業伝習所の第6期卒業生。彼は渡辺傳右衛門に見込まれて、伝習所で製茶などを学び、1年後に渡辺農場に戻って製茶の主力として活躍したと思われる。日本時代、紅茶生産は三井の日東紅茶を筆頭に日本人が作っていた、という言い方をよくされるが、実際に手を動かして作業していたのは当然ながら台湾人ではなかったか。

林は戦後も近所に出来た台湾農林の茶工場(日月老茶廠)で茶作りをしていた。紅茶だけでなく、お茶は何でも作っていたのを覚えていると、林さんは語る。そして『給料は安いし、しかも茶産業が衰退していく中で、私たちが茶業を継ぐという選択肢はなかった』ともいう。

林さんは渡辺傳右衛門の写真を持っていた。『戦後も長い間、困窮していた我々に日本から色々な生活物資を送ってくれた。写真もその中に入っていた』という。若い頃はロンドンであの夏目漱石と句会を行っていたという渡辺はダンディーな老紳士だった。もう1枚の写真には、傳右衛門の奥さんの晩年の姿が写っている。この奥さんについては、以前魚池に住む王さんという林口伝習所卒業生から『子供時代、何度も渡辺さんの奥さんからお菓子をもらった。とても優しい人だった』と、聞いたことがある。

林さんたちが、渡辺茶工場があった場所に案内してくれた。宿舎のあった場所には、小さな茶の木がひっそり生えていた。その向こうの茶工場跡にも建物などはなかったが、僅かに煉瓦が残っているところがあり、ここに工場があったということは分かった。尚この地は民間所有となっており、いつまで放置されているかは分からないという。何とも残念な話だが、それも時の流れだろう。

その後車でレストランに連れて行ってもらった。環境の良い場所にある高級レストランだが、週末ということか満席だった。ここは魚の養殖が有名らしい。美味しい魚、今旬なマコモダケなどを頂く。実に美味い。色々と教えてもらった上、ご馳走にもなってしまい、何とも申しわけないが、これもまたお茶のご縁と感謝する。

午後は和果森林に寄る。昨年6月、このメンバーで東京と高知で森永紅茶の歴史を学んだ旅が何とも懐かしい。ちょうど娘のジョアンが東京でプレゼンするとかで、資料整理に余念がなく、その日本語訳のお手伝いをすることになる。何だか話し込んでいると陳さんが『約束に遅れる』と突然店を飛び出し、台中に向かう。