誰が描いたかは分からないが、古い建物の壁に絵が描かれていた。黄さんは今年100歳で亡くなってしまったらしい。狭い建物の間を観光客が行き交っている。団体バスで来ている人々がいる。確かに観光スポットなのだ。暑いので早々に退散しようとバス停に行くと、そこも人がいて、太陽に照らされながら立って待つ。

バスが来てホッとした。そこから台中モスクに行ってみる。30分ほどでバスを降りて歩くと、何となく見覚えのある場所だった。何とトミーの家の地区なのだ。モスクはかなり大きく立派で、台中にも回族が多くいたことは想像できる。ただ昼下がりの暑さの中、誰もいなくて話は聞けなかった。ここもインドネシア系や中東系が増えているのだろうか。

もう一度バス停に戻り、またバスに乗っていく。今度は40年前初めて台中を訪れた際に立ち寄った宝覚寺に行ってみる。ここには大きな布袋像があったが、何となくきれいになっていた。日本人遺骨安置所もあり、日本との関係は深い。40年前と今でも状況はかなり異なるが、その間の変化をここで見ることも出来た。


結構疲れてしまったので、バスで台中駅まで帰り、駅で台鐵弁当を買って部屋で食べた。そろそろ疲れが溜まってピークにきているが、疲れていると意外と眠れない。夜はひたすら旅日記を書いて過ごす。

5月16日(木)台中のお茶専門家と
台中最終日の朝、もう外へ出る気力もなく部屋でぐったり。今日はトミーが迎えに来てくれ、車で台中市内へ。実は先日台北で出会った畲族の藍先生から『台中にも藍氏がいる。しかも彼はお茶の専門家だから、畲族と茶について聞いてみるといい』といって紹介されていたのだ。
だが、いきなり電話番号を渡されても、電話するのはちょっと気が引ける。最近の台湾は日本と同様、知らない番号から掛けられた電話には出ない人も多い。すると藍先生からFBもやっているみたいだよ、と聞いたので探し当てて、いきなりメッセージを送ってみた。だがやはり返事はない。確かに訳の分からない日本人からメッセージが来ても対応に困るだろう。最後に思い付いたのがトミー。同じ台中で茶業関係者なら知っているのではと聞いてみると、仲良しだというので、ここでも茶のご縁を感じる。
藍芳仁さんの家に行く。奥さんと二人で温かく迎えてくれ、さっそく藍さん所蔵の貴重なお茶を飲ませて頂く。彼は以前名間郷の農会で茶業を推進していたが、その後茶について多くの研究をして、今では多くの生徒に教えているという。台湾内はもとより、中国などにも出かけて、茶産地を色々と見ている。

藍さんは南投県樟普寮出身(台湾で藍氏が一番多いと言われる場所)だが、やはり自分が畲族の末裔であることは知らなかった。そして改革開放後、その事実を知り、茶業に関係あるかどうかを知るために、故郷である福建省樟州市樟浦を訪ねてみたが、お茶は見られなかったという。
更に数年前に嘉義大学の大学院で烏龍茶の製造法などの論文を書いており、その中で広東省潮州市鳳凰山の鳳凰単叢、福鼎の白茶などは畲族が最初に作った可能性があると述べている。畲族は福建北部に多いが、発生地は鳳凰山石古坪となっている。ただ樟州市樟浦の藍氏と茶の関連は見いだせないともいう。

藍さんには2人の息子がおり、一人は茶業に関わっているが、従来のやり方ではないようで、SNSなどで新しい形を模索している。もう一人は絵本などを描くデザイナーで、幼稚園児には絶大な人気があるらしい。藍氏には多彩な才能を持つ子孫がいるらしいと分かり、興味を持つ。
結局弁当を頂きながら、4時間近くも雑談してお暇する。トミーの家にちょっと寄ってご両親に挨拶してから、車で高鐵駅まで送ってもらい、そのまま台北まで帰る。さすがに疲れてしまい、牛肉麺を食べて早々に寝る。