ある日の台北日記2024その5(4)図書館の混乱、そして霧社へ

仕方なくとぼとぼと戻る。途中に懐かしい食堂があったので入ってみた。ここは種類が異常に豊富で、どれを頼んでよいか迷う。元気の良いおばさんに急かされて焦る。蛋餅と豆乳を注文するとこれが美味い。しかも安い。常連も多いが、外国人もやってきて食べている。テイクアウトの人の方が多いので、席は確保できる。

何となく12時頃モスクに戻ってみると、ボチボチ礼拝の人々が集まり始める。といっても、皆が一堂に祈るというより、バラバラに祈って出て来る感じ。そして隣の部屋には弁当などが売られており、それを仲間と食べたり、持ち帰ったりしているようだ。私は回族系の人の話を聞きたかったが、やってくる人々はインドネシア系が一番多く見られ、後はインド系、中東系、トルコ系かなと思われる人々がマジョリティとなっている。既に回族はマイノリティな存在だと気が付き、後日を期して帰る。

5月11日(土)台湾図書館で

何となく土曜日は図書館へ行く日になっていた。近所で大腸麺線を頬張ってから、台湾図書館へ行ってみると、何と来年3月まで閉鎖と言われていた6階が開いていたので、勇んで行ってみた。ところがそこでは以前のように台湾日々新報の検索は出来なくなっていた。どうやら一部研究者のために資料相談するだけのようで、私は追い出された。

係員は1階に行けば新報の検索は出来ると言った。前回は2階で検索した、といっても1階だと主張した。仕方なく1階で聞いてみると、奥の方の別室?に案内された。確かにそこにPCは置かれていたが、何とUSBを差し込めない。これだと資料が取り込めない。そこの係員に聞いてみると『なんであんたはここへ来たんだ』と首を傾げる。そして再度1階のメインカウンターへ連れて行ってくれ、何だか分からないが席の予約をする。

そこに座るとPCもあり、USBを普通に差し込めた。これまでの指示は何だったのだろうか。恐らくは地震で混乱しており、係員も把握が十分できていなかったのだろう。まあ一般資料へのアクセスの道も開け、日本時代の新聞記事の検索も容易となったので、何とも有難い。そこから4時間ほど、検索に勤しみ、新たな発見がいくつもあった。

検索作業というのは単純ではあるが、頭はかなり疲れる。何となくフラフラしながら外へ出る。何かを腹に入れるべしと思い、前回見付けた海南鶏飯屋へ行ってみる。何だかきれいな店だが、最近流行りのマレーシア、シンガポール系を売りにしているようだ。鶏肉は柔らかいが、やはり値段は結構高い。まあ仕方がないことだろう。

5月13日(月)福寿山農場へ

朝台北駅でAさんと待ち合わせ、高鉄で台中駅へ向かった。月曜日の朝のせいか、南行きの高鐵はかなり混んでおり、前日にセブンで予約しようとした便には空席はなかったが、当日少し早めに窓口に行ったら席が確保できたので良かった。1時間とはいえ、立っていくのはシンドイ歳だ。

2週間前同様、高鐵駅には陳さんが迎えに来てくれた。ここから埔里を経て山登りが始まる。1時間ほど登ると懐かしい霧社に着く。折角なのでここで霧社事件の現場を見る。今は電力会社になっているが、その時は学校だった場所だ。今回は中に入ってそこで働いている人に聞いてみたが、大きな木が生えているなどごく一部に当時の面影がある程度。しかもすぐ近くに日本人墓地があったのだが、そこについてはその存在すら知らないという。

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