ある日の台北日記2024その5(6)福寿山危機一髪

福寿山農場の歴史は戦後の大規模開拓に始まる。日本時代は原住民の多く住む場所として、駐在所が置かれていただけだったが、1957年に栄民農場として開かれ、すぐに福寿山農場と改名された。そして退除役官兵補導委員会の管理となり、中国から台湾へ移住した国民党兵士の受け皿にはなったが、泰緬方面からの移住者はいないようだ。ただ1980年以降、ここで茶業が始まり、その高山茶生産技術をタイ北部へ伝授しており、そこで関係が生まれている。タイ側ではロイヤルプロジェクトだった。

5月14日(火)福寿山危機一髪

翌朝も雨が降り続いていた。それでも部屋の窓を開けるといい雰囲気の空気が入り込んでくる。しばし外を眺めて過ごす。朝ご飯はお粥、有り難い。おかずはビュッフェなので取りやすいが、午前は8時頃には既に泊り客はほぼおらず、料理はかなり無くなっていた。団体さんは雨でも予定が詰まっているのだろう。

部屋から荷物を持ち出して、チェックアウト。だが二人はいない。探していると、売店があった。茶葉は相変わらずいい値段だが、もし手に入るならそれも良い。私は貧乏なのでスナックを買う。そこから車に乗り、昨日の茶工場へ行く。昨日案内してくれた人たちが待っていてくれ、更に高い場所にある茶畑に連れて行ってくれた。標高2500m、かなり高い。防霜ファンがある。茶畑は整っていてきれいだ。

少し見ていると、雨が降り出し、工場へ帰る。そして雨が本格的になったので、こちらも本格的にお茶を飲み始めた。ここで作られたお茶を口にすることはなかなかできないから、それだけで貴重だ。今年の茶は6月に生産予定のため、昨年のお茶ではあるが。更には試作した白茶なども出てきて楽しい。因みに茶師はやはり鹿谷の人だった。

午前11時にはお開きとなり、帰路に就く。梨山の街中を通ると、蒋介石像が見え、そこにあった梨山賓館に寄り道する。ここには蒋介石の展示室などもあり、色々と見学出来て歴史的な事象を見るには面白かった。車に乗り込むと道端に『採茶弁当』の文字が見え、この先ご飯が食べられるか分からないので買い込む。

さて、台中に戻るかと昨日来た道を進んでいると、前に車が止まっている。よく見るとその車の前、上から水が落ちている。いや水だけでなく土砂かな。あっと思った時には、何と大きな石が目の前を通って落ちていった。土石流、さすがに危険を察知して、車を下げる。安全なところまで避難した後、福寿山農場の担当に電話で状況を聞くが、今のところよく分からない。雨は降り続いて止まない。取り敢えず休憩しながら弁当を食べて情報を待つ。

街中に戻り、コンビニに入る。ここには下から登ってきた人、地元の人などが何人かいて、情報が入ってくる。それによると、埔里方面の道は通行止めになっているが、宜蘭方面の道は止まっていないことが分かり、大変な遠回りにはなるが、宜蘭‐台北‐台中という道にチャレンジすることとなる。今回山で孤立するとはどういうことかよくわかった。

宜蘭方面を下り始めると晴れている。途中に武陵農場という看板も目に入る。武陵、福寿山、清境がこの付近の3大農場だ。武陵農場にも国民党兵士が移住して住んだはずだ。今回は先を急ぐので寄れなかった。晴れて入るが、天候の急変や土砂崩れがないとは限らないから、結構緊張する。そして案の定通行止めの箇所があった。ただ1時間に10分だけ通行可能だったので、何とか潜り抜けた。

そこからは特に問題はなく、いつの間にか太平洋が見えてくる。4時間近くかけて宜蘭を通過。そこから1時間半で台北郊外に至り、Aさんを下ろして、台中まで走った。合計7時間以上かけて台中まで戻った。埔里経由より2時間以上かかったが、それでも戻れただけで有難い。運転していた陳さんは疲れたことだろう。

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