ある日の台北日記2024その6(5)台南の茶郊

今回の調査は、昨年訪ねた武廟の壁にあった寄進者リストの中に茶郊という文字があったことに始まる。そこに温先生と再度行き、その表示を眺めてみる。歴史専門の温先生も真剣に検討している。更に近所の金徳春というお茶屋に入って聞いてみる。残念ながら歴史についてはあまり興味がないらしく、その方面の情報は得られなかったが、創業は1868年となっていた。

台湾の発展から考えると、恐らく最初の茶は福建省から運ばれ、茶を飲む人も福建から来た漢人だったであろうとは想像できる。台南の街の最盛期は1750年頃らしいから、その時点で茶貿易者かつ台南でも商売をしていた茶商がいたはずだ。だが残念ながらそれが誰なのか、武廟の記録でははっきりしない。現存しているとも思えずに、これは迷宮入りだろう。

昼ご飯は台南ご飯に連れて行ってもらう。お粥を注文して、おかずは置かれている中から適当に選ぶ方式。台南ご飯の特徴はその甘さだろう。私はこれが嫌いでないから、いくらでも食べられる。お粥に油条を入れて、ソーセージや魯蛋を食べるとテンションが上がる。周辺は観光地ではなく、地元の店が多い。

今年は鄭成功生誕400年ということで、平戸でもイベントがあるらしい。台南でゆっくりと考えていたが、何と温先生が午後屏東まで連れて行ってくるというので、今回は鄭成功像の写真撮るだけにとどめた。旅はやはり流れに乗ることが大切だ。と思う。でも車は屏東へ向かって走り出したが、すぐには行かない。

温先生が教鞭をとった長栄大学に立ち寄った。その理由は奇美博物館の脇を通り、そこで許文龍氏が作った10の日本人の胸像の話題となった。すると温先生が『その一つは大学構内にあるよ』というではないか。実際に行ってみると、そこには台湾水道の父、とも呼ばれた浜野弥四郎の胸像が置かれていた。

ただ学内でも、ほぼ知られていないようで、脚を止める人はいない。大学の敷地もかなり広い。ここにある理由は、台北の自来水博物館での展示を断られ、こちらで引き取ったらしい。自来水博物館には浜野の恩師であるバルトン博士の胸像が数年前に置かれているのだが、どういう経緯なのだろうか。大学内のカフェに行くと、かなりきれいで今風だった。ここでドリンクを飲んでしばし休む。

そこから屏東へ、と思っていたが、もう一か所見せたいところがあるといい、高雄の山中に分け入っていく。かなり細かい山道、Google Mapなど役に立たない。先生は来たことがあるのだろうが、道は思い出せないようだ。ようやくその場所まで来ると、その風景は異形だった。月世界と呼ばれているある種の観光地だったが、人はいなかった。確かに森林の中に一部剥げた場所があり、そこが月の砂漠、という雰囲気になっている。ただ山の中なので遠目から眺めるだけで、そこを歩けるとか、雰囲気を味わうのはちょっと難しい。

元々屏東へは午後2時頃には着くと思っていたのだが、何と日が西に傾いた午後4時過ぎになってしまっていた。到着した場所は里港。なぜここへ来たのか、実は今回台南訪問後、里港へ行くつもりだったのが、それは畲族の末裔が住んでいると聞いたこと、および泰緬から移住した国民党兵士と家族の村、眷村があると知ったからだった。

この話しを温先生に話すと、かなり興奮気味と『私の大学院の教え子に里港の女性がおり、彼女は藍氏(畲族)の一族なのだ。まさか日本人がそんなことを知っていて、そこを訪ねたいと思っているは思いもよらなかった。是非行こう』と言い出し、教え子に連絡を取り、その日のうちに台南を離れたのだった。

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