ある日の埔里日記2018その1(6)雨の三峡で

1月28日(日)
三峡へ

ちょっと昨晩の疲れは残っていたが、今日は三峡へ向かう。新店駅で黄さんと待ち合わせて車で連れて行ってもらうが、あいにくの雨模様だ。何故新店から三峡まで車で行ったのかと言えば、その距離感を知りたかったからだ。往時このルートも、茶葉が運ばれていたに違いない。勿論今のような道がある訳もなく、茶葉を担いで山道を越えてきたのだろうと想像する。

 

やはりというか、新店‐三峡間は車であれば近かった。20分程度で抜けてしまう。ただ雨は本降りとなり、視界は悪い。黄さんが紹介された茶農家を何とか見つけて滑り込む。やはり黄さんという苗字の方が対応してくれた。ここで祖父の代から主に緑茶作りをしているという。

 

コンテスト入賞茶がずらりと並ぶ。三峡でも緑茶コンテストは早くから行われていたようで、黄さんは毎年のように受賞し、この付近の有名人らしい。光復後は龍井茶などの緑茶も作っていたが、包種茶など緑茶以外も多く作られていたはずだ。そして徐々に茶農家が無くなる中、彼はどのように生きてきたのだろうか。最近少し人気の出てきた台湾緑茶、請われて手もみの茶なども披露するというが、きっとそこには深い歴史があるに違いない。

 

黄さんのところをお暇して、途中で昼ご飯を食べる。普通の魯肉飯とスープだが、寒いせいか、やけに美味しく感じる。田舎のせいかボリュームもある。午後は大寮の茶文化館に向かう。ここは日本時代の三井の工場だったところ。大渓、三叉河と並ぶ三大工場の一つだ。実は昨年バスに乗って自力でここを訪ねようとしたが、うまくバスに乗れずに断念した経緯があり、今回ようやくの訪問となった。

 

工場はあったが、新しい。これは台湾農林が今も使っているようだが、今は時期的に稼働しておらず、おまけに非公開。その少し上に、昔の工場長の宿舎を改装した記念館があった。そこに簡単な歴史が展示されてはいたが、どうもあまり雰囲気は出ていない。単なる日本家屋の見学と言う感じだ。後は土産物を売るのみ。

 

聞けばここから山道を数キロ登った、海抜700mぐらいの場所に当時からある茶園が残っているというので、そちらへ向かう。小雨で霧がかなり出ており、山道はちょっと危険な雰囲気だった。かなり上ったと思ったところでようやく熊空茶園という門が見えたが、その門は閉ざされていた。熊空とは、あの猫空に対抗したのだろうか。

 

まずは横のショップに入る。天気が良ければ観光客が来るのだろうが、この天気では店員も手持無沙汰。黄さんは知り合いにお土産を買い込み、レジで『商品を買った人は無料で茶園に入れる』と聞いてきた。我々は小雨の中茶園を眺めに出る。そこは茶株がぽつぽつとある、昔風の茶園であり、量産体制にはなかった。まあ一種の公園のような雰囲気だろうか。空気は良いので散歩には適している。園の端に古い工場が残っていたらしいが見つけることはなく、引き揚げた。

 

そこからまた車で新店まで引き返した。今回は天気が悪く、何となく心残りな三峡になってしまったが、これはこれで仕方がない。一歩ずつ進もう。一度宿に帰り休息したが、すぐまた外出する。Kさんとの待ち合わせ場所は、いつもの広方園。この時間湯さんはいないだろうと思いながら店に入ると息子が2階を指す。どうやら茶の講座を開いていたらしい。すぐに湯さんが降りてきて、世間話を少ししていたが、お客さんが多くて、細切れになる。

 

そこへKさんが現れ、食事に向かう。今晩は鶏料理にしようということで、近くのレストランに入る。ここは日本人観光客も多く、おばさんが日本語で対応してくれる。これが美味しいよ、これは半分でいいよ、などとアドバイスをくれ、なんとなく懐かしい。おばさんに従って注文すると、何だか日本的な中華の構成になってしまう。私は鶏スープが確保できればそれで満足だった。

 

Kさんとは厦門で知り合い、台北に移住してきてからも何度か会っていた。その度に『台湾で田舎暮らしがしたい』という彼女だが、埔里の良さを伝えると目を輝かせている。もし仕事があれば、すぐにでも移りたいというが、仕事をすれば、きっとどこでも大変なのだろう。日本の会社で仕事するのと台湾人と仕事するなら、どっちがより大変か、考えたこともなかったが、結構いい勝負のような気がした。

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