ある日の埔里日記2018その1(4)林内から田中へ

1月24日(水)
林内へ

翌朝はすっきり起きて、食堂で朝ご飯を食べて、荷物を持ってテクテク駅に向かう。もうこの道も慣れているので、問題はない。豊原駅から電車に乗り、林内駅まで。何だか思ったより遥かに時間がかかる。台中、彰化を過ぎたあたりから、途中駅で停まることが何度かあった。自強号などに抜かれているので、休みが多く、時間がかかるのだ。

 

結局1時間半ほどかかって、ようやく林内駅に到着。今日訪ねる家は線路から見えるほどだから問題ないと思っていたが、張さんがわざわざバイクで迎えに来てくれた。やはり心配だったのだろうか。先日も訪れた張さん宅に滑り込む。高山茶の秋茶で一休みする。有り難い。

 

いきなり『行こう』と言われて車に乗る。後ろには息子も乗ってくる。まだ19歳らしい。どこへ行くのだろうか。着いたところに鳥居が見えた。『日本時代からあるんだ』と言われてみると確かに古い。日本時代に多くの神社や鳥居が作られたが、光復後は取り壊されたはずだが、なぜ残ったのだろうか。

 

非常に多くの階段を上ると、その上に廟があった。日本時代はここが神社だったようだ。何らかの理由で下の鳥居だけが残った訳だ。灯篭なども置かれているがこれは古くない。鳥居には『林内公園』との表示があるが、どう見ても上から書き換えられている。恐らくは神社の文字があったのだろう。この地にも多くの日本人が住んでいたのだろうか。確かに鉄道があり、木材などの集積地だったのかもしれない。茶の集積地としては時代が少し早すぎる気がする。

 

昼ごはんは、林内名物だという焼肉飯を食べる。合わせて豚足も出てきたのでパクつく。息子は食べないと言い、車の番をしている。この辺に週に1度しか開かないという名店があるそうだが、今日はその日ではなかったようだ。よく見るとこの店の建物も意外と古い。林内は歴史を感じさせる街だった。

 

そして車は名間に向かった。名間は日本時代に付けられた名前で『なま』と読んでいたらしい。その中に一大茶産地がある。松柏嶺、まずは受天宮にお参りする。2000年に火災で焼失し、再建されたので新しい建物だったが、歴史的には明末、清初頃からあるらしい。この敷地は彰化県と南投県の境だという。門を出ると、茶荘がたくさん並んでいる。門前町の様相だ。今日は殆ど参拝客がいなかったが、週末などは沢山来るのだろう。

 

ここから下を眺めると急な山道が見え、その向こうに二水や林内が見える。往時は茶葉を担いで、屈強な男たちが道を下って行ったのだろう。鉄道の通っている二水、林内、田中が茶の集積地になっていくのは、光復後のことだろうか。それから茶畑の中を車が走り抜ける。遠くに茶工場が見えたが、『あれが林華泰の工場だよ』と教えられ、なるほどと思う。

 

一軒の茶工場を訪ねた。今日は台湾花茶について知りたかったので、頼んで連れてきてもらった訳だ。沖縄で売られているさんぴん茶や清明茶の中に台湾産と言われるものがあるが、どこで作っているのだろうか。松柏嶺ではないかと言われてきたが、『そんな価格の安い茶は今や台湾では作れない。ベトナムか中国産だろう』と一言で片づけられた。

 

ここでは包種茶も作っているし、花茶、白茶など何でも作るらしい。最近は卸ばかりではなく、きれいなパッケージを使い小売りもしている。また老板のお姉さんはお茶好きのカナダ人と結婚しており、彼の発信力で欧米にも売り込み始めたという。台湾の茶業界もなかなか大変だ。

 

車は田中の地内に入った。田中という地名、何度も聞いていたが、踏み込むのは初めてだった。張さんは慣れているようで、狭い道もスイスイ運転している。そして1軒の茶荘の前で車を停めた。定興茗茶と書かれたその店は老舗のようだった。詹さん親子が迎えてくれた。

 

ここには古い茶が倉庫に沢山眠っている。凍頂烏龍茶が最盛期の頃、相当に儲かったに違いない。昔の受賞茶のコレクションもすごい。失礼ながら、こんな田舎の茶荘にこんなに茶が眠っているとは想像できなかった。茶荘そのものは最近立て直したようだが、かなり重厚な造りの4階建て。お茶屋って儲かる商売だったんだな、と改めて思う。老茶も飲ませてもらいかなり満足だ。

 

帰りは山道を通って台中まで送ってもらう。元々は茶畑だったであろう丘陵地帯に、パイナップルなどが植えられている。転作だろうか。低海抜の茶園は無くなっていくのか、色々と考えてしまった。この道も往時は茶葉が運ばれたのだろうか。高鐵台中駅まで約1時間の道のりがやけに遠く感じられた。

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