ある日の埔里日記2018その1(5)懐かしい台北

1月26日(金)
台北へ

本日は金曜日。定例の黄先生サロンに伺う。埔里では旧正月前から元宵節の間、ランタンフェスティバルが開かれるという。そしてランタンに黄先生たちが絵を描き込んでいる。ランタンは傘のように折りたたむことができ、ある程度の風雨にも耐えるように設計されているらしい。残念ながらこの時期は埔里にいないので見ることは出来ないが、さぞやきれいなことだろう。

 

午後4時のバスに乗り、台北へ向かう。もう慣れているので、ほとんど寝てしまう。金曜日の夕方だろうが、台湾の高速道路にそれほどの渋滞はなく、7時過ぎには台北駅に着いてしまうから早い。そこからMRTに乗り換えて、最寄り駅まで来る頃には葉さんも仕事を終えて帰宅しており、無事にカギを受け取ることができる。

 

夕飯はすぐ近くに出来ていたすきや、にしてみようと思う。最近店舗を拡大しているようなので、ちょっと見たくなったのだ。店に入り、メニューを眺めていると、店員が怪訝な顔をした。そして店長らしい若者が『今日はもう終わりです』というではないか。あれ、すきやは24時間営業では?表の上には24時間の文字はある。だが店長は『この店は違うんです。24時間に灯りは付いていません』というのだ。確かにそうだが、ちょっとビックリ。腹が減っていたので、向かいの吉野家に飛び込んで牛とカレーが半々のどんぶりを食べた。これなら分けて食べた方がよいなと思う。

 

1月27日(土)
台北散策

翌朝大稲埕へ向かう。午前の早い時間は暇だったのだが、早過ぎてまだ店が閉まっていたりするので、完全なお散歩となる。実は今回は日本時代に名を馳せた茶荘、辻利茶舗のあった場所を確認し、現在のその場所の写真を撮る、というのを一つの目的にしていたが、なぜかその大事な住所を忘れてきてしまい、むやみに歩き回るも見付けられないという失敗があった。まあそれほど寒くはない街をフラフラするのは悪くない。

 

11時を過ぎて、約束の天津街に歩いて移動する。今日は久しぶりにBさんと会うことになっていたのだが、その場所があのウナギの肥前屋だった。肥前屋と言えば、28年前の台北駐在の折は偶に行った場所だった。その頃ウナギは日本の味だったが、店舗はボロボロで、今にも倒れそうな?傾きだったのを覚えている。ウナギというのは台湾産が多かったので、日本と比べてもかなり安かったはずだ。

 

ところが数年前に懐かしの天津街に宿泊すると、行列が出来ている店があり、それが肥前屋だと気付いて、ひどく驚いた。店舗の場所はいつの間にか移転し、きれいな店になっているではないか。しかも並んでいたのは日本人もなく台湾人でもなく、中国大陸の観光客。どんな情報でここにやって来たのかは分からないが50人も並ぶと狭い路地は一杯になる。

 

昨今は中国人が減ったものの、行列は相変わらず。我々も素直に並ぶと、店員が寄ってきてメニューを渡し、先に注文を取る形式になっていた。うな丼、吸い物に肝、それにだし巻き卵を頼んだが、料金は安く、まあ味は相変わらず。こんなに行列している意味はよく分からないが、なんとなく懐かしいのがよい。食べ終わるとすぐに追い出され、近くでコーヒーを飲んで昔話をする。

 

それからMRTに乗り、台湾大学へ行ってみた。前回は歩いて裏門から入ったが、今日は堂々?正門を通る。ずっと歩いていくと看板が見えた。蓬莱米発祥の地と書かれている。1926年にここに植えられたのが最初らしい。磯永吉が開発し、台湾の米産業に大いに貢献したとある。現在でも食べられている美味しい米だ。磯永吉が何者か、ちょっと気になったが、図書館へ向かって歩いてしまい、その近くに出来ていた、博物館?を見落とした。

 

図書館では前回同様5階の日本時代関連資料に当たろうとしたが、何と土日は休みで入れなかった。前回コピーを頼んだ地下1階はちゃんとやっており、前回のおばさんが『あんたが取りに来ないから心配したよ。何度も電話したんだよ』と言われてしまう。こちらは予約金を支払っていたので、問題ないと思っていたが、悪いことをした。

 

3階に上がり、茶業改良場の場誌を見つけて、そのコピー取りに精を出した。やはり台湾茶業の歴史を学ぶなら、まずは場誌をちゃんと読む必要があると痛感する。ここには意外な事実も含め、様々なことが書かれており、大いに参考になる。徐先生渾身の一冊だ。

 

あっという間に夕方になり、また歩き出す。MRT六張犂駅に行き、Sさんと待ち合わせた。Sさんは今日の昼間、淡水の奥の方へ行き、きれいな花を見てきたという。我々は駅近くの喫茶店に潜り込み、話し込む。いつも話題は多岐に及び、楽しい。時間を潰し、8時に北村家に向かった。ここは昼も会ったBさんが元店長をしていた店で、今も時々出ているというので行ってみた。

 

SさんをBさんに引き合わせ、北村家の洋食を味わってもらうのが目的だったが、それは達成された。更にはそこに大学の後輩であり、その昔の上海でも縁のあったKさんが飛び込んでくる。彼女とお友達は台北で開催されているフィギャ―スケートを見に来ていたのだ。勿論我が奥さんの同士であるという複雑な関係にSさんは目を白黒。

 

因みにBさんと私は上海の留学が一緒、そしてKさんはその時期に親の転勤で中学生生活を上海で送っており、その時に補習校の先生がBさんなのだから、この取り合わせは凄いというしかない。このメンバーが台北で会すとは、どのような因果だろうか。そういえばこの大会には北朝鮮選手が出場して話題を集めたが、その選手を言葉が通じないながら取材したのはSさんだった。この晩は夜更けまで話題が尽きず、終わったら何と宿まで歩いて帰れた。

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